源究80

   

はな便り(イオス)
No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日
1111 山中暦日 3/29 1116 山笑う 4/3 1121 消費意欲 4/8 1126 好意多謝 4/14
1112 政治へ期待 3/30 1117 経済動向 4/4 1122 父母未生以前 4/9 1127 新緑の候 4/15
1113 20年度総括 3/31 1118 お花見 4/5 1123 映画音楽 4/10 1128 地域の支え 4/16
1114 心中開陳 4/1 1119 定年後 4/6 1124 宗教改革 4/11 1129 悪事千里 4/17
1115 8月まで 4/2 1120 男子の本懐 4/7 1125 齟齬解釈 4/12 1130 使命 4/18

1111:山中暦日

司馬遼太郎の”新春漫語”という小文の中に、・・・山中暦日なしという言葉があるが、市井にいながらそれに似ている・・・・という節があった。彼は1996年、73歳で亡くなっている。その2年前に中日新聞に寄稿したもの。”山中暦日”とはのんびりと悠悠自適の生活を送ること。近年において彼ほど多くの著作を残された作家もいない。その晩年は世の中の動きに頓着せず、加島の言うタオリスト的生き方をしていたのだろうか?大いに興味をそそった。
 前項(No:1110)の画家、熊田千佳慕の生き様に魅力を感じたと同じ感慨に耽った。定年後、何を思ったのか自宅に障害者を日中受け入れる作業所を作った人を私は知っている。昨日、某所でお会いし立ち話、「どううですか?」と私が尋ねると、彼は苦笑いしながら「本当に大変ですね・・・・」と言った。
障害者への支援は一言で言い尽せない。個性が際立っている人たちが多く、研ぎ澄まされた感覚を持っているからだ。彼らとの関わりは際限がない。私の場合は特殊かもしれない。現在58歳、その人生の大半を障害を持つ人たちとの関わりの中で育った。24時間の関わりは、これこそ言葉で表すことなどできない。
 こちら側はそのように思ってはいるのだが、彼らはどうだろう? 多分、勝手に思ったら!という感じに違いない。お節介もいい加減にしてよ!というのが本心だろうな。最近、家族の方からお手紙を頂戴することがあります。皆さん、我が子の先行きを本当に心配されている。何かに頼りたい気持ちが文面から十分伺える。”大丈夫だよ、お母さん、任しておいてよ”と言えない自分に妙に腹が立つ。
 それは自分に正直になればなるだけ、寡黙になるのだ。
確かに私の人生で彼らから得た沢山の教え、掛け替えの無い財産だと思っている。勇気を頂き、何が本物かを常に見極めようとしてきたと言えます。これなど個人的なもので、世の中の大勢には全く関係などない。
 昨夜の通夜は、心筋梗塞で亡くなった方であった。前の日まで元気で過ごしていたという。この1か月の間に私と同年の知り合いが、やはり同じ原因で亡くなっている。潔いと言っては御本人に失礼だが、ある意味では逝き方として憧れる。
 司馬は文章を残した。加島は生き方を、熊田は絵を、それぞれの生き方には、光を感じる。メッセージと言えば良いのかもしれない。
 この3人に共通するものが何かと考えてみた。無礼承知で対比しますと、政権争奪に明け暮れる人々、彼らは身丈以上の声を張り上げ、国を良くしたいと訴える対極の人たち。その裏の事情が漏れ始めてくると、ダンマリと俺は知らんと言うばかり、これで後悔しないのだろうか?これまたお節介と叱られるかも。
 先の3人に共通するのは、決して身の丈以上の振る舞いを自分からはしない。しかし、周囲がそれを認め、彼らから何かを学びたいという気持ちを起こす。これが一番の違いだと思う。
 政治の世界の人たちに、もういい加減にして”山中暦日”の日々を送ったら如何でしょう?と言いたい。
そんな輩が周辺に多すぎる思うのであります。今日は今のところクシャミは出ていません。

1112:政治の期待

隣県で森田健作氏が知事に当選、無所属であった。2回目の挑戦で知事のポストを勝ち得た。森田氏へのイメージは昔の青春もの番組の常連さんというものしかない。千葉県民の選択というよりも様々な憶測が飛び交っている。
 複数の立候補者の中で政党推薦を得て立候補した方が40万票という大差で敗れた。その敗戦の弁は、曰く言い難しという歯切れが悪いものとなった。献金疑惑が直接影響したなどとはオクビにも出せない。相手の知名度の高さ、それと自らの出遅れを悔やんだ。
 ただ、確実に地方の選挙が変わっている。宮崎の東国原知事や大阪の橋下知事、既成の政党の支持を得て当選するというよりは、その人への評価&期待感である。誠実さと意欲、それとどれだけ身近に感じられるかということ。中央での実績は未知である。むしろ様々な柵が地方での舵取りに足かせにならないという保証は無し。
 従来の政党推薦という錦の御旗をたて、選挙に望もうとする。ならばその政党に属する会員が実際にどれだけいるというのだろう?お付き合いで会費だけ納めているというのが実態ではないのか。
 知名度というものは、前歴云々というよりも選挙民にとってどれだけその人が身近に感じられ親しみを得ているかで判断されるもの。
 もし、その変化(はっきり言って特定政党の推薦の時代ではない)を掴み切れないのであれば、寧ろ選挙民の責任である。
 先日、東京の会議で東北の某県の代表が執行部に質問をした。そのやり取りの中で、某執行部の方が「地方の考えは地方でまとめて下さいよ。皆さんの意見を組みいれて我々はやっているんだから。」と答えていた。そして、皆さんの後押しがなければ、ボランテアをする者が誰もいなくなるんじゃないですか!と多少感情的な物言いをした。その後、また違う県の代表が「私たちは県内で機関決定をしています。・・・・・そのことで質問状を出させていただきました。今回私どもはこの団体から抜けようと思っている・・・」
 一瞬、会場の雰囲気は殺気立つ。
 今、多様な価値観を持つ人たちが多くなっている。団体として活動することの意義が薄れ、個人の判断に任せる風潮である。この良し悪しは別問題としてもある一部の者が決めるやり方は時代に合わない。
 それが唯一許されるのは、オープンで透明性のある議論があってという条件付きであろう。兎角、感情的にモノを言う人に有りがちな事は、自分はこれだけ皆さんの為に努力しているんだから・・・・という思いがある。
これをその人の熱意と取れる間は、それでも良し。だが、裏の事情が見え隠れすると、何か変な方向に向かうという不安を呼ぶ。
 俺はやめた!と辞める事は簡単だ。が、しかしである。
*今回の一連の民主党での動きで一人私が買っている人がいる。それは小宮山という女性の議員。どこかで見た事があるなーと思っていたらNHKの解説委員をやっていたとか。
 彼女は議員総会で自分の考えをはっきり述べている。新聞の紙面に載った写真は、執行部のシカメツッラしたお歴々。この1コマが今の政治を実によく示していた。
 あまり感心しないのは、後々テレビ討論なんかに出演し、あの時はこうだったとか私の考えは実はこうでしたと言う人、このような人を信じたいとは思わない。

1113:20年度総括

20年度の最終日、1年を振り返る。
 公私別なく、走り通したという実感だ。上手く表現ができないが、木場の丸太乗りみたいだと思っている。水の上に浮かぶ丸太は不安定、水は同じところで止まることをせず、常に変わる。丸太は決して沈む事はないが、上に乗る人間はいつ落ちるか分からない。そんな感じですね。
 世界中が大荒れの1年、直下型地震のような金融危機が様々な影響を及ぼしている。以前として底が見えない不況。職を失った数が膨れ上がる。セーフテイネットで加入していた保険・年金に問題あり。社会保険や失業保険への不信感は一向に払拭されない。茨城でもニュースになった保険金流用事件、たった一人の職員がギャンブル(競艇)に流用、その金額が10億を超えていた。その管理責任もウヤモヤ。誰に怒りをぶっつけて良いのかわからない。
 この辺で日本人は国の在り方を真剣に考えるべきである。このままではあまりにも多くの負の遺産を次世代に残すことになる。そして、日本人として生まれて良かったと誰しもが思える社会。その目指す方向が定まらない。時間を無駄に過ごすことは許されない。
 政治や行政の仕組みに問題有り、その改革の動きは遅々として進まない。なぜか?どうすれば?
 発想の転換もいろいろ試みた。足元を良く見て、先ずできることから自らがやると何度も自分に言い聞かせ余計な周囲情報を遮断。
 でも結局は自分の能力不足を実感、なんど諦めたか分からない。そして夜中に考えるようになった。昔は切り替えができ朝起きると力が蘇っていた。今、それが重層的に積み上がる。最下層のものは重みによって固くなり、2度と柔軟性を取り戻せない。
 ”悩む力”なる本を読み、一時的な気休めとはなった。
私は2重人格である。上記のような自分を冷静に見つめているもう一人の自分がいる。その事を承知しているのだから始末が悪い。自虐性とそれをバネに活力源にする性分が同居、どうしてこうなのか?
 両親から引き継いだDNA、その事を確信する。
自らの健康に不安を感じた時、足元が気になるものだ。そして次世代への責任として永劫回帰への憧れ。分かっているようで何も分からない自分自身の事。
 今年1年は、たわい無い事を分別無く彷徨ったと言えよう。そして、恥を覚悟で有りの儘を書き続けた。これが総括でそれ以外は何もない。

1114:心中開陳

心の中の思いは複雑である。日々移り変わるものと決して変わらず終始一貫しているものがある。寧ろ変化しないことは稀で,それ故に確信に至る。

 風の便り。意味深なる秘めた言葉に想像逞しく、その真意を読まんとする。
我が青春の数々の想い出は、いまこの期に及び大切なる宝なり。その重さ噛みしめる度に、自らの歩むべき道標となれり。感謝してもし尽くせぬ心中を伝える術なし。

 約束・・・・前世の約束事。
昨日、実は寺関係の集まりがあった。私が幹事でその準備を行った。”法類会”というもので、宗派にあって法脈で特に深い関係を持つ住職の集まりである。18名がつくば市に集合3時間ちょっとの限られた時間であったが、打ち解けた雰囲気の中、話の尽きない宴席であった。
 そこで出る共通する話題は後継者の事、自信を持って言える人は誰もいない。それだけ寺は特殊な社会ということだ。昔に直ぐタイムスリップ、住職になることへ誰しもが反発をした。いま、年を重ね、次世代にバトンタッチをする段階となって、その当時の自らの心中が蘇る。それは経験したものでなければ分からない。檀家の目、期待と不安、社会的責任の重みは誰しもが一様に感じてきた。中には遠回りして今に至るものもおり、振り返る年齢になって初めて自らを冷静に見つめる事ができる。
 18名それぞれが近況を順番に話した。その内容は先代が亡くなり?年が経ちましたということから始まった。確実に世代交代が行われたということ。そして、次に委ねることへの言い知れぬ不安。
その中に女性で僧侶になっている方がいた。それぞれの事情は推測の域をでない。だが、自分が女性として寺を守ることに私など比べるのも恥ずかしい程の葛藤を経験されている。
 世の中が思うようになっていない事が返って自分自身を見つめることに多いに役立つ。これまたテレビからの情報である、茂木という脳生理学者が話していた。”後悔することが脳を活性化する”という。
後悔先に立たずとは良く言ったもので、もしも後悔が先にあったなら、これ程つまらない人生はないだろう。後悔は決して否定的な意味だけではない。こうもできた、ああもできたと考えることが次なるステップを踏み出すきっかけとなる。
 仏教の無常観は、人の世がはかない事を嘆くだけではない。

・・・うちわたりを見給ふにつけても世の有様あはれにはかなく移り変わる事のみ多かり(源氏物語)・・・

 つまり逆境の時なればこそ、いずれまたここから抜け出すことができるという暗黙の励ましとなりうる。
 こうやって考えていると何か頭の中が堂々めぐりしているように思えてくる。
 でもこれが真実なんだろうと思う余裕も少しできたということかもしれない。
 

1115:8月まで

漱石の「門」を読み始めた。三四郎→それから→門と続く、恋愛小説?。私は夏目漱石の本を若い頃には読んだ事が無かった。著名な作家の本は避けていたという天の邪鬼の性分外に大した理由は無い。漱石44歳の時の作品でその年彼は大喀血し病床に伏している。最近、「こころ」を読んだ、漱石の虜となる。人間関係の綾という微妙なテーマを扱った漱石文学の真髄は読み終わった瞬間では無く暫くたってからジワジワと蘇る。これがここまで彼の作品を生きながらえている理由だろうか。彼は49歳で没している。
 無責任な解説と叱られそうだが、私は藤沢周平の作風に相通じるものを感じる。
 決して派手さなど無く、寧ろ日陰でひっそりと生活するどこにでもいるような夫婦を主人公に登場させ、日常の何気ない遣り取りの中から徐々に深層部分へと筆を進める。テーマがテーマだけに、誰しも思い当たる節が二度三度あるから、期待と緊張感を持って読み進む。だからといって一気に読み終えるという感じでもない。長く親しまれる作家に共通することは、特殊なテーマではなく、日常起こり得ることを扱うことだと理解する。
 それだけに作家の能力がモノを言う。実は普段の何気ないことを取り上げることほど難しいものはない。
昨夜、久しぶりに佐野先輩の「こころの時代」を聞いた。船村徹さんが2日間に渡って出演していて、とても面白かった。彼は栃木県の塩谷の出身、大ヒット曲「王将」を始め4500曲以上の作曲をした業界の重鎮である。彼は栃木弁丸出し、その彼に26歳で結核で亡くなった音楽が共通の友人がいた、その友人は茨城弁。栃木が(・・べー)で茨城が(・・ぺー)。べー&ぺーである。言葉に県境など無い。彼の生きざまの礎に、若死にした友人高野がいつも傍にいる。
 死に分かれという宿命を背負い、今でもその友人との思い出を大切にする。一体何がそうさせているのかは聞きそびれた。
船村が言ったことで「いまの人たちは自分を綺麗なもので飾ってしまう・・・」という所が心に残った。有りの儘に自分を出さず、良いところだけを表に出すような人間が多すぎる。作詞家の思いを曲付けで生かせる仕事は裏方の役回りなのかもしれない。
 有りの儘の自分を曝け出せる関係などちょっとやそっとでできねーやね。一瞬我にかえる。でも待てよ・・・・。
そう思った瞬間{8月まで・・・・}という風の便りが妙に気になった。何故、そのような気持にさせるのか?
 生きているという実感はどのような時に感じるものだろう!自分にとって大切なものを見つけた時、それとも全く逆の状態に気付いた時?
 漱石ならばその辺の感情をどう表現するのだろう。
先ほどの船村と若くして亡くなった友人との関係に通じるのかどうか、彼岸と此岸の境を実感するか否か。
 いま、ギリギリの所で踏みとどまっている親子を知っている。我が子の障害が重く、その子の将来を案じれば案ずるほど、どうすればよいか悩み苦しむ。親としての使命感というのだろうか決意してまた直ぐに元に戻ってしまう。無責任な介入などできない。そこには言い知れぬ不安を感じてしまうから。
 私は心狭き人間だ。何故、その親子に対して一歩踏み出せないでいるのだろう。内心忸怩たるものを感じる。船村に言わせれば綺麗な包装紙に包まれ好い気になっている張本人がこの私かもしれない。
 それから以心伝心とは、温もりを感じない関係では所詮無理だと思う。有りの儘の自分を出せる瞬間は、その者にとって如何程の癒しとなることか!いま、この時を大切に。当に相手を思いやることに喜びを感じ合える関係とでも言うべきか。
 これとは関係がない話になるが、先ほどの船村の余談があった。彼は刑務所慰問に良く行ったという。犯罪や自死を選ぶ人はみんな心が弱く耐えることができない人が多いと言う。彼は26歳で生きたくてもそれができなかった無二の親友を思い起こしながら本当にもったいないと言った。彼は今年で御年77歳、喜寿である。
 何が言いたいのか自分でも良く分からずに、書き連ねてしまいました。少し弾んだ気持ちを抑えながら。

1116:山笑う

「故郷や どちらをみても 山笑う」(正岡子規)
 山が笑う?これは俳句の春の季語、暖かみを増すごとに、山の木々が芽吹き,花をつけたりして賑わいを見せる季節から使われてきた。
 昨日は筑波山が真っ白になった。夜間の冷たい雨が6合目辺りでは雪になった。今日は気温もぐっと上がっていよいよ山が笑う季節に入るのだろう。日本の四季は、様々な顔を見せてくれる。4月8日は釈迦の仏生会(ぶっしょうえ)、一般には”花祭り”として知られている。
 春は、心を和ませる。ちょっとウキウキして、新たな気持ちを起こすのには最適な季節、ただ、世間の様子は楽観できない状況が続く。
 ま!生活の在り方が変わる兆しと思えば、納得もできるのだが、どうしても人間は何かとの比較で自分の位置を確かめるクセから抜け出せない。
 エコ流行り、特に化石燃料頼りの経済の仕組みに赤信号、環境に優しいエネルギーをどうしてもっと早く開発できなかったのだろう。素人目には腑に落ちない。インドのタタが世界1安い自動車を売り出し、話題になっている。一人勝ちの日本の自動車メーカーは穏やかでない。何しろ10分の1の値段の新車価格で動くのだ。
 大分昔だったがインドに行った時、自転車、バイク、リキシャなどが道路を埋め尽くし渋滞がひどかった。インド人の発想である。超小型で低価格。自動車も2極化が進むのだろう。家が建つような値段の車、それとタタ製のミニカー。でも最終的にはミニカーが勝利をおさめるのではないだろうか。
 石油産油国を巡る紛争は経済の発展と隣り合わせ、常に血が流されてきた。オイルマネーという新語がいつのまにか唯一の基軸通貨だった米ドルをも凌ぐ、中東の飛行場に降り立てば、まさに別世界、煌びやかなイルミネーションに高級店、車で然程かからない郊外に行けば砂漠。これが現実に地球に存在する。
 いつまでも石油に頼ることはできない。中東の富裕層の人々、自分たちの世代が働かなくとも十分贅沢な生活ができる金をシコタマ集めた、でも、その後の保障となると?。
 まあ、私たちには関係ないことだが、ここまで環境問題が深刻になれば知らぬふりはできない。
 その意味からも生活の在り方が問われている。CO2の排出規制もイマイチ統一見解が出せない。
 日本人が大切に育んできた文化、俳句や連歌に見られる季節感を読む季語、これらは自然との共存があって為し得ることである。
 折しもイギリスでG20(金融サミット)が開かれた。G7に新興国も含めた経済会議、世界同時不況の真っただ中で開催された。トータルで5兆ドルの追加経済対策をはかるというようだ。でも果たして本当に必要とする人々にその金が回るのだろうか?この不況下にあっても確実に利益を得ている人たちも存在する、水の流れのように低きに流れるという訳にはいかない。
1ドル=100円と換算したとして5兆ドルは
 500000000000000円   ゼロがなんと14個。この金を新たに発行するのだろうか?債権で工面するとすれば、それをどう返済するのだろう?
  ・・・故郷や どちらをみても 金カネかね・・・・字余りでした。

1117:経済動向

持合い株はM&A予防の切り札として広がった。しかし、そう思うようにいかない。株価下落によってお互いが経営を圧迫するという状況に直面。これだって実は”紙”の取引で企業買収などを避けようと考えたものだろう。所詮、汗をかかずして儲けようなどという不遜な振る舞いへの天罰だ。
 それが今回のG20での5兆ドル、日本はまた割り当てを食うんじゃーあるまいか。為替レートによって株価上下と同じリスクを背負う羽目に。だから円ダテの国債を条件にという事が果たして要求できるか。
 我々は原油価格によって好きなように振り回されてきた。1バーレル?ドルとか発表があるが、あれって産油国のお手盛りなのだろうか。地球上にあっという間に広がった金融危機、今は日本だけ鎖国状態にはいられない。そんな事誰だって分かってらー!もし、国策として国民が選択したとすれば、今日にでもミサイル?発射されるかもしれない某国のような選択肢、これしか浮かばないとなれば、将来には悲観的な展望しか無くなるじゃないか。なにせ、自滅の危機を内包していた新自由主義経済への確たる手だてが取れずに暗中模索で先行き不透明。
 いずれも極端に走った結果、いみじくも受けてしまったペナルテイだともとれる。そうか!ほどほどが結局BETTERなんだ。
 言わずもがなであるが、この程々が実に難しい。何を基準として定めるか?世の中がグローバル化した副産物の最たるものは、基準(スケール)の喪失だと思っている。自由を何をしても良いと考えた、これが歯止めを外すきっかけになったのは事実。法律や条例というものが、全て後付けで出来る。
 規制と緩和、融和と反発、交互に繰り返す。日本の政策で大いに疑問があるのは、両方残すのである。一番分かり易く私が自信があることで言えば、福祉についてである。まず、社会保障を公費で賄うのか自己責任で行くのか、中途半端、仕組みや制度だけは良いとこ取りをするから始末が悪い。結局は国民同意を得ることなどできず不満が燻り続ける。
 最近、与野党の政策に違いを感じないのは私だけではないはずだ。専門委員会などはあまり公開されないから、その中での審議内容は知る術がない。だから、いつもテレビ画面から流れてくる国会中継は誹謗中傷の滑った転んだ論議、これをいつまでやってんだよと思うから無関心層が増え続ける。
 結果、有権者の自己責任云々とまで揶揄嘲弄されては、これじゃーたまったもんじゃない。
 これが私の偽らざる心中だ。
 この思いを真っ白にできたなら、どれほど楽になるだろう。私の性分でどうしようもないのだが、そんなに嫌ならやめちゃえばというもう一人の自分に猛反発する。
 この年になって、本当に頭が上がらない人たちがいる。それが”知的障がい”を持った人達。結局、住田はそこに落ち着くわけ????と冷めた目を感じながら。
 なぜか?よーく考えてみると、彼らの怒りは世の中に対してでなく、”今の自分”に対してなのである。
寒いとか腹が減ったとか誰ちゃんがうるさいとか・・・・・・。
 これこそ手練手管にたけた人が多すぎる世の中にあって、変わらない感情そのものだから。
これが私流の経済動向評価である。

1118:お花見

土浦では真鍋の桜が有名、昨夜初めてライトアップされた。小学校の庭に古木となっても尚、見事な花を咲かせている。
 土曜日の午後、法事が2件あって、一段落してからヲーキング、神立公園の野球場の周りには花見客が車座になって、思い思いの楽しみをしていた。若者達は音響設備を用意し、ケタタマシイ音を鳴らしていた。その傍で酒を飲み交わしている別のグループもうるさいなど不満も言わず一緒になって楽しんでいた。この時期、天候が変わり易く、土曜日とあって暖かな日差しを待っていたかのように、集まった人たちだった。午前中、北朝鮮のミサイル発射の誤報騒ぎがあった、数時間後の風景だ。
 テレビでも防衛省の不手際を盛んに責め立てる。都心に配備された迎撃ミサイルは防衛省敷地に置かれたものだろう。ミサイルの置かれている場所の桜は丁度満開のようで、見事。最新鋭のミサイルと満開の桜・・・何かミスマッチのように思えた。
 今回の問題は、先方が何を狙ってのことなのか憶測だけが先行している、このような事件が起こると急に出てくる軍事評論家?のお歴々、今まで何やっていたんだよ?お久しぶり・・・・なんて声をかけたくなる。不謹慎極まりない話は承知のスケ。
 平和ボケという言葉に異議を唱えられても仕様がない状況が日本中に蔓延してしまった。これで有事の時に本当に大丈夫なのだろうか?
 できることなら徴兵制度など復活させたくはないが、目まぐるしく変わる世界の動きに、日本の将来を託す人たちに一抹の不安を持つ。
 文科省は633制の教育制度を見直そうとしている。小中一貫教育もその一つ、少子化への対応という裏の事情も見え隠れ、だが、もっと根本的な問題には手を付けようとしない。それは、昔流に言えば修身つまり、孝行・従順・勤勉などの徳目をおさめる教育が抜け落ちていないか?教科主義教育の弊害が至る所に出てきた。
 7歳で小学に入学し、大卒の22歳まで、エスカレート式に学問をして、一体何が身に付くか。
昔、ちょっと話題になったこと、私は22歳までに半年でも1年でも介護や福祉の実習体験を組み込むべきだと思う。それも徴兵などと国策としてキナ臭いものではなく、敗戦を期に日本が新たに出発した原点とでもいうべきか、平和的な国の在り方を中心にである。(ドイツや韓国の例を出すまでもない)
 長い海外生活を経験した方が一様に話した、富士山と桜 これが日本のある意味では平和のシンボル。いつもこの時期になると思いだすのは西行の辞世の句、花の下で自らの最後を遂げたいという思いは日本人の深層にある。私も全く、こうできれば最高だと思う。
 世界で極寒の町の代表がシベリアの奥地にある、オイミヤックとかなんとかという集落、1000人に満たない人口で、今までで一番寒い気温がなんとマイナス71,6度を記録した。当然、水道なるものは無く、地下に温泉が沸く川の水を各家に配って生活しているところ。
 「水道が無くて不便ではないですか?」と訪問した日本人が尋ねると「いいえ、全くいりません。だっておいしい水ですから」と答えた。
 極寒の地で今も生活を続けている人々、そこを捨ててもっと住みやすい所に移れば良いのにと考えてしまう。でも違うんだわな。自然の恵みに感謝し、その自然を大切に生きる。
 これが日本の教育には一番欠けている。何に感謝して生きれば良いのかそれすら分からなくなっているのではあるまいか?
 だから言うのである。せめて身近にいる支えを求めている人々に何らかの手を差し伸べることから初めてみないと。
 優しさの無い勤勉、規範の無い従順ほど恐ろしいものは無い。
 

1119:定年後

昨日は地域(22軒)の組長改選の集まりがあった。午後からだったので私が出ることになった。特に重要な内容の話はなかったが、この組長(どこの組?)さんの交代は順番性、22年後まで決まっている。俺なんか生きていられるかな?何せ80歳を超える。現在70歳を越した方もいるから大変である。
 7割は現役を退いた人達の集まり、特別話も無いから隣の人とボソボソおしゃべり。
 定年後を迎えた人のその後は様々。中には懐具合が羨ましい方もいて、先月は宮古島にゴルフに行ってきた。。。。聞きたくなくとも聞こえてしまうから、「へーいいなー」と全員の目が同じ方向を向く。
 それから別にここで紹介しなくても良いのだが、明日はゴルフがある。これがまた、定年組の暇人が企画、私は酒の肴にされたように今思う。なんとコンペの名前が「豊山派コンペ」誤解があるとまずいから一応、決まった経緯を話しておく。別に私の寺が主催でもなんでもないんです。ただ、上大津(旧)地区には真言宗豊山派の寺が多く、菩提寺がどこかという話になったようで、おれんとこも豊山(ゆたかやま)だ!「うんじゃー豊山(ぶざん)派コンペにすんべー」ということになったという極めて好い加減なもの。
 これがまた、先輩あり、同級生ありの混ぜこぜ。ま!いいか。賞品に米を出す者、ハスを用意したもの、住職は何を出す?「位牌」と言ってやろうと思った。 20名が良く集まった。坊さんは私だけ、良いスコアーで回ると後がうるせーし、負けたくはねーし。ハタと困った。
 結局これも定年でブラブラしている連中が考えたこと、事前準備と称して何回もゴルフをやったようだ。
家族に気兼ねするよりはと、お寺を全面に出すとは、あの連中の考える事は汚いよ。
 手野&沖宿&神立の連中だ。何か嫌な予感、昔あった部落対抗なんてことに発展するかも。何しろ寺数は結構あるがゴルフなどやる生臭坊主は私だけ。また梯子を外されることになるかもしれぬ。

 そうでした。今回は定年後という事でした。私には定年というイメージがわかない。終身雇用と言えば格好は良い。しかし、坊さん業界は死ぬまで衣を着ていろ!ということ。これが私には耐えられない。
何しろ好きでなったわけじゃーありません。できることなら今直ぐにでも夜逃げしたい。
 定年後は適当に働いてゆっくり好きな事をやれると考えている方も多いと推察いたしますが、そうは参りませんよ。だって私の周りの方で、そんな方は全くおりません。
 これは日頃の行いというものでしょうね。年中、読書などしてられませんて。本を読める時分には目がチョウロクでなく、音楽を聴く頃には耳が遠い。温泉でもと考えたは良いが1日入っていたら逆上せるだけ、
 だから、人間は一生働いているのが良いのです。健康の元です。
 尚恵学園のモットーに「自分の力で生きて働いて・・・・」という事を掲げている。これは別に難しい事を言っているのではない。こうできれば幸せだと私が思っていることをそのまま挙げた。
 お年寄りが確実に増えるニッポン。年寄り天国にでもなれば、これはこれで売りになる。
クインメアリー号でも貸し切って、浄土周遊の旅を企画したら如何でしょう。JTBや近畿日本の皆さん。
 夜はオプションで文化講演会を各宗教の坊さんをゲストに迎え。そしたら私何を差し置いても行きます。テポドンでこれだけ大騒ぎ、次に何をしてくるかわかりません。同じ地球に生まれ、他の世界を知らずに一生を過ごすことが果たして良いことか否か・・・・・これって大問題です。
”諸悪莫作 衆善奉行” (チッベトにて7年前)
 

1120:男子の本懐

「男子の本懐」は城山三郎の経済小説、昭和初期の浜口首相と井上蔵相の名コンビにより、歴代の内閣が先送りしていた金解禁の偉業を成し遂げ、結局は二人とも銃弾に倒れた。この時代、第1次世界大戦の非常事態下、軍事費削減を拒否する軍部、行政改革に反発する官界、不況を嫌う財界という嘗てない舵取りの困難な状況であった。この二人が凶弾に倒れてから、日本は軍部の横暴と圧力によって底の見えない戦争に急速に突入していくのだ。城山は見事にその史実を書き記す。特に、今日の政界に対する批判は、信念無き政治家や場当たり的で保身にばかり気を配る輩にターゲットを向けた。城山自身が特攻志願兵として死を覚悟した経験を持つ。
 いま、ご承知のごとく、与野党トップの為体は嘗ての金権政治を懲りもせずに踏襲し、世間の批判に対して、全く党内での自浄作用が働かない。国のためと言いながら、やっている事は私利私欲、昭和初期の歴史の教訓を彼らはなんと考えるのか!
 だから障害者自立支援法なるものが、やたらと裾野を広げたまでは良いが、内容はとてもじゃないが将来に光を見い出せる代物とは程遠い、こっちを増やしてあっちを減らす、一つの笊の金をタライ回しするだけ。事務手続きを複雑にし、努力した割には見入りが無い。かくの如く全てが全て以前として国の在り方が見いだせない。
 不況への内需の拡大とかで、年度末ぎりぎりで予算を通し、その後、すぐに補正を行う綱渡り。
 著名な評論家までが公言する。兎に角、政権を交代させないことにはと、これは長期に続く自民党と官界との癒着を止めるために残された唯一の選択肢、政治家そのものを選ぶという事はどこかに行ってしまい、ガラガラポン式政治論。挙句の果てには政策論など二の次となってしまった。
 大分、投げやり的で低レベルの話となっているのも周知の事実。
近世だけの日本の歴史を見てみると、その時代時代に”本懐”をもってその足跡を残した人々がいた。彼らは自ら身を引くことを知っている。いま、それが無い。ホトボリが冷めるまでジッと待つ。これは有事の時にはいただけない戦法なり。その日の食事さえ困る人が巷に多くいる状況は、平時ではない。そして、どのような理屈をつけても私有財産を増やし続けてきたモノにこの国のかじ取りは任せられまい。それが私の偽らざる意見だ。
 引き際を見ているという。果たしてそれで良いのだろうか?
 民主党が本当に政権を取る覚悟があるのであれば、今こそ代表辞任を党議にはかるべきだ。
 国体は立派な政治が行われれば築けるのだろうか?逆に政治に期待ができない時にどうすれば良いのだろう。
 スズキ自動車の2代目会長は実に面白いキャラクターである。インドでのスズキ自動車のシェアーはダントツ、彼は初代社長の娘の婿さん、スズキをここまでにした実質的な立役者。浜松では自らの会社を中小企業と言う。ホンダやトヨタを意識してのこと。会長が年に一度は自社の工場を現地視察する。その時に乗ってくる車が自社製の小型車。体が大きな会長にはちょっと気の毒な感じもするが、これが社員の意識に見事に反映するから不思議だ。
 これだよな!とかく役職につくと、自分の力で偉くなったと勘違いする人が多い中で彼は異質の経営者である。彼などが政治のご意見番として政界入りすれば日本の少しは変わるかもしれない。
 

1121:消費意欲

総務省が行う小売物価統計調査は物価の変動を時系列的に測るもの、不況下にあって物価が底値で推移している。これは消費意欲と関連が多いにある。そこで経済に全くの素人である私の感想を述べたい。
 土浦には6月にオープン予定の郊外型大型ショッピングセンターが急ピッチで建設中、ほぼ外観は出来上がり、田んぼの中に浮かぶ大型船という様相だ。それに、半径500メートル位に1か所存在するショッピングセンター。消費圏として人口をどの程度想定しているのか分からない。でも乱立状態は否めない。
 まだオープンしていないのに野次馬でこういう言い方は失礼だと思うのだが、半年前につくば市にオープンした北関東一の大型店、たった一回興味本位で行ったきりでもう行きたくない。それは、買いたいものが無いという事がその理由。天井までオープンになって周囲に各テナント(250店)が連なる。これが今風の構造で、確かにウインドウショッピングには都合がいいが店の中にまで入る勇気が沸かない。
 開店時の一過性の人出が終わると週末以外は広い駐車場に空きが目立つ。これが実態だ。
 しかし、それとは逆にいつもお客が一杯の店がある。それも24時間営業。私は中に入ったことはないが、聞くところ品物が安いという。これが一番、それに生鮮モノから衣料、文具など生活に必要なものはすべて揃えてある。この格差がどんどん顕著になっている。
 最近、名のある老舗デパートも大量に仕入れして、店のイメージとは全く違った安価な品物を用意して客を集めるようになった。なにしろお客が来なければ商売にならないからだ。でも、これが命取りにならなければ良い。
 今、不況が諸に影響してしまったからさー大変。つい最近まであった旧市街の活性化などは話題に上がらない。どうも諦めてしまった感が強い。
 商売はリピーターをどう掴んでおくかという事が重要だ。それも他の店とどこに売れる特徴をもたせるか。
 私は良く隣のつくば市に行く。それは休日にサウナとマッサージを受けるため、茨城県の中で話題性の高い地域、新しい店やマンションが今でも建設されている。
 しかし、どうだろう?まだオープンして間もない店が次に通ると閉まっている。人口が充分張り付いていないのに先行投資で様々な店が建った。借金を月々の収入から返済する計画が、どうも予定通りにいかない。それが一番の理由のようだ。
 それに居酒屋などチェーン店で店舗数を増やしている。これがまた増やした割には売り上げが伸びない。負債が増え続け、その埋め合わせがグループで好調であった店の経営までも悪化させる。
 ユニクロなどの戦略を地方で真似ても所詮無理、ユニクロがここまで伸びた理由に価格が安いことと品数は決して多くないのに様々な色やサイズを用意することが有名だ。面倒な裾直しなど無くとも直ぐに着れる。
 それともう一つ特徴ある戦略に、店にお金をかけない事がある。しかしセンスある内装。
もう一つ敢えて言えば、遊んでいる店員がいないということ。試着を自由にしているからカウンターで立っているだけの店員はいない。この実質的な経営の効率化が過当競争に勝ち抜く最低条件だと思う。
 私の性分で、それを尚恵学園や寺の経営に何か活かせないか?
 そんな事を考えてしまうクセがどうにも止まらない。身の程知らずということです。
 

1122:父母未生以前・・

”自分が好きでこの世に生を受けたわけじゃない”と誰に鬱憤をぶっつけて良いかと悶々として日々を送った経験を持つ人は結構いる。年と共に、様々な経験や出会いを通じその気持ちが緩む。
 『終始一貫父母未生以前から只今に至るまで・・・・』(吾輩は猫である)の一節である。「父母未生以前」の本来の面目は如何?夏目漱石の『門』にも登場する。
 仏教の禅公案で父母の生まれる以前からの自らの存在は何だと問う。これは難しく言えば、相対的存在にすぎない自己という立場から離れ、絶対・普遍的な存在を確信することである。
 当然、生死観にも通じることで私の立場からすれば、「おくりびと」チームの一員であるからして、その辺の理解は揺るぎないはず。でも、正直に言います。「分からない」のです。死んだことも無いから。況してや両親の生まれる以前のお前は何だと言われても「知りません」というより仕方がない。
 私の恩師に熱心なクリスチャンの方がいます。その方と話した事がありました。「先生はすごいですね。」と入信に至る私の知っている範囲の情報を含めて話した。その時の返事、「そうじゃないよ。みんな弱いから何かにスガリたいだけなんだよ」とさり気無く言われた。
 信心と不信心は表裏一体、寧ろ、「信じたい」という思いが大切なのだと思った。先の漱石であるが、私の好きな作家である城山などとは取り扱うテーマが違う。経済小説を得意とする作家の宿命であるが、父母未生以前の事では無く、今この時が題材となる。人間の持つ永遠のテーマからは少し離れてしまう。これは仕方がない。城山の事で言えば、彼が愛妻を亡くしてから書き始めた自叙伝的文章に彼の本来の姿が垣間見れる。
 昔は亀井勝一郎の本など貪るようにして読んだ。悩める子羊であった証拠。今、その私が還暦まで僅か、この年齢になって、やっと夏目漱石の本を真正面から読めるようになったのである。
 それに今、御本人から話を聞く事はできないのだが、糸賀先生や妹尾先生から教えを受けた中に共通するものを感じる。知的に障害を持っている人たちへの限りない愛情・・・・・そしてお二人とも今の社会の矛盾に心を痛め、そんな中でも不変のこころを持ち続ける人たちを掴んでいた。今でも思い出す場面がある。秩父学園の園長室で初めてお会いした時に、先生が言われた言葉、「崩壊・現状維持・新生」「この3つの道のどれを住田さんは選びますか?」その時は若かった、「新生」ですと即答した。それから37年、その時の事を一時も忘れていない。果たしてお前はその時に答えた通りのことをやっているか!
 全く恥ずかしい。新法の不備を声高に訴える裏で密かにお金の計算をしている。そしてその連中と徒党を組んでいい気になっている。両先生が今も生きていたら、会ってなどくれなかったに違いない。
 いま、真剣に私が考えていること、それはより戻しである。理念無き実践に価値を見いだせず、いま介護事業で全国に急増した有料老人ホーム、毎年400か所以上のホームの閉鎖や解散があるという。
 採算に合わないと有無も言わさず利用者へ退去を強制する今の有り方に異議申す。
 むしろ恐ろしいのは、それを利用して甘い汁を吸おうとする同業者が増えたこと。阿鼻叫喚の巷と化した。
 私は生きている限り、そのマンモスに抵抗し続けていきたい。孤軍奮闘であれば、短期に白旗を上げることになるだろう。少なくとも我と思いを共有する仲間がいれば、持ちこたえる期間がそれだけ延ばせることになる。
 「父母未生以前・・」は遠図しずぎている。まあ今となっては、親父やお袋がやろうとしていた事を思い出しながらゆっくり歩むことでしかないと自らに言い聞かせている。
 

1123:映画音楽

ニニ・ロッソの吹く永遠の映画音楽。「ゴッドファーザー・愛のテーマ」「ブーベの恋人」「太陽がいっぱい」・・・・もう堪りません。あれは私が中学生だった頃、ニニロッソの音を聴いて、どうしてもトランペットが欲しくなり土浦の古道具屋で中古のトランペットを買ってしまった。吹き方など教えてくれる人もいないから、教本片手に庭に出てケタタマシイ音を鳴らした。近所迷惑であったにちがいない。どうしても吹きたかったのは「夜空のトランペット」、結果は散々たるものに、今振り返っても私には音楽の才能は限りなくゼロに近い、「禁じられた遊び」がどうしても弾きたくて、これまた中古のギターを買った。それに、R・クレーダーマンに憧れ、ピアノもかじった。それら全てがものにはならなかった。
 その後暫くは自嘲していたが、横笛の鯉沼さんに感化され、篠笛を始めた。今度は唇が漆にかぶれた。結局、音が出ずに断念。私の性分でしょうね好奇心旺盛で何でもやってみたくなる。しかし、全てが長続きしないのだ。
 いま、夜、トレッキング・ステッキを使って歩いている。アマゾン通販で1本1000円のを2本買った。すれ違う人がまた妙な視線を私に向けてくる。「住職!今度は何やってんだ?」イチイチ説明するのも面倒だから無視することにした。これなど、夢の中から浮かんだもの。スイスのインターラーケン辺りからトレッキングしている夢だった。もう直、お花畑の中を残雪を避けながら歩くにはベストシーズンだわ。
 霞ヶ浦マラソンが迫った。夜、歩いていると暗い中を走っている人とすれ違う。多分今度のマラソンに参加するんだろうな無理しなさんな。私はとっくの昔に諦めた。
 映画音楽の話に戻ります。私は実は殆ど映画を観ない。理由は面倒なのと、眠ってしまうからだ。でも、正直に言えば、今の映画館の音響に合わないのだ。迫力を出すために映像と音楽を凝らし過ぎる、これが受け入れを拒否するようだ。それに、記憶に残るようなBGMが無い。だから興味がわかない。
 サウンドミュージックなどのような映像と音楽が私にとっての分岐点、今でもアルプスを背景にエプロン?姿の女性うーん誰だっけ?
 ま!これだって相当無理している。何しろ出演者の名前が覚えられない。残像だけが頼りの映画論ほど馬鹿げている。認知症状が出てきたか、そうかもしれない。
 そんな事を夢うつつに考えていたら、携帯に電話。
「迷惑をかけて申し訳なかったです。やっと一段落したものですから・・・・」何だ?そうか、流行風邪で新聞に載った事を詫びてきたのだ。別に迷惑なんて思っていないのだが、そこの園の施設長は実に真面目(?)、「わかったよ、またね!」と電話を切るとまた直ぐに電話。「住田さん。病院へ行く時は、マスクをしますか?」「???」と確認の電話が彼から入った。それと「いま一人入院中で付添が24時間付けないと、○○がやってくれますよ。知ってましたか?」「知らないよ」「フン、それが1日5万円」
 何か無理やり現実に戻されてしまった。
*○○は著名な清掃会社、実名はひかえました。これが日本のセーフテイネットです。
 

1124:宗教改革

宗教の変遷は、人類の歴史と言えます。こと日本の宗教史をみると仏教の伝来には諸説あり、一般に552年(欽明天皇13年)説が取られています。それ以前は神道があって、当然日本古来の宗教といえば神道になるわけだ。百済から仏像が渡ってきたという史実、平山郁夫さんの仏教伝来などの絵画を見るとタイムスリップしてしまう。奈良・平安の仏教文化最盛時代は、時の天皇と密接に結びつく、その後ご存じのように鎌倉時代になって、著名な祖師の登場し枝分かれした。長く続いた江戸の泰平の世、仏教の諸派それぞれが各藩の庇護を受け発展充実する。各地に大寺院が建てられ威容を誇った。概説するとこのような歴史を歩んできた仏教、それが、近年有り様が大きく変わろうとしている。特に大戦での敗北を経験した日本人にとって何を頼りとして生きていけばよいのかという模索の時代に入った。戦後60年を経て仏教界にも様々な課題が出ている。
 そのような中で私は、現在住職をしている寺の35代目ということになる。
最近話題になった映画「おくりびと」が今の時代を象徴している。葬儀という儀式が明らかに変わった。やたらと増えた斎場、特に私の住む街は非常に多いので有名。それぞれの斎場により、葬儀次第が微妙に異なる。最後の別れに十分な時間をかけるところもあれば、あっという間に花入れまで終えて霊柩車に乗せてしまう所など。料金も基本料金+オプションと明朗会計のようで然に非ず。
 それから遺族の意識も変わってきた。何故なのでしょうか?大体、夜中でも関係なく、葬儀屋から私のところに電話が入る。その後、家族から、そして、お布施の交渉へというマニュアル通り。
 私はこのパターンが嫌で仕様がない。だからお布施はいくらでも構いませんと言うことにしている。
 すると「ホント?」といった反応をする方が殆ど。「そうさせていただいていますから」と念押しすることに。
 本来、そう有るべきという拘りが私にはある。(これを痩せ我慢というらしい)
 その辺は檀家さんも心得ていて、「住職は言ってくれないから、本当にいくらでもいいんですね?」と先手を打たれる。これもまた、・・・・正直申しますと、ハッツ ハーイ・・・・・です。
 いずれにしても、檀家さんが自分で決めた布施で葬儀や法事を行った時の後味は違う。お互い妙な勘繰りは無しと。これ実感しています。
 いつの頃からなのでしょうね?お寺に対する見方が、金銭が優先されてきたのだ、だから「お寺に取られた」という考えを持つ人が多くなった。本来は「お寺にあげる」もの。取られた or あげたでは大きな隔たりです。
 さて、このような状況で果たしてこれから先お寺は成り立っていくのでしょうか。心配性なのかもしれません。でも強い危機感をもっています。
 寺の住職が「おくりびと」チームの一員で良いのか!益々、この傾向が強まると感じています。なぜでしょうか?その方が楽なのです。(ここだけの話)
 大体、坊さんの仲間でこんな話をすると一斉に冷たい視線を浴びる。「なに、格好付けてよ。ホンネはどうなのよ。。。。エッツ」って事になります。
 なら本音を言いましょう! そりゃー多いことに越した事はありません。
 4月に入り、お葬式が続く。いま、白衣を着てパソコンに向かって自分に問いながらこれを書いています。

1125:齟齬解釈

食い違い&勘違いって良くある事です。早とちりなんていつもの事。せっかちな性分は自分でどうしようもないんだから。
 これは個人情報j保護法に抵触するから、いつ、どこで、誰のは伏せますね。
あるお方のお葬式、これがですね、大分昔のこと、多分電話だったと思うのですが、私はこの方に頭ごなしに叱られましてね。その理由がどうしても思い出せない。でも、確かにこの方なんですよ。通夜の時に遺影を見てそれは確信できました。その事が頭から離れない。さーて、困った。でもプロとしては職務を全うすべきですね。
 そして、葬儀になって、始まり始まり。三礼し、鐘を徐に鳴らしましてね、遺影を見たんです。
 そしたらどうでしょう?何か通夜の時と違う感じ、微笑んでいる感じ。一瞬目が釘付け。何か緊張がスーと無くなっていくのを感じました。
 実は、こんな経験良くあるんですよ。どうも決め付けが多いんですね私は。第一印象がずっと残ってしまうクセ。
 この件に関しては、これだけにしましょう。あまり深入りするといけません。
それから齟齬(そご)という言葉ですが、難しい字です。新種の歯磨き粉みたいな感じがします。
 障害者問題を取り巻く、様々な活動の中で、この齟齬ということが結構多いように思います。例えば二日前の実際にあった事です。施設を利用されている家族会の役員会がありました。私は事業所側の代表という立場で参加しています。
 全国的な運動で、国会請願を行うことになったのです。署名を集めるのですが、その一番の目的が入所施設の存続をお願いするというもの。果たして国は知的障害者の入所施設を全廃する方針なのでしょうか?その点に関しては私の情報不足ですね。だが、定員の5%を減らすという方向は承知しているのですが、某団体の情報通によれば、そうじゃーないよという。そこで署名運動、さーてこれが大変問題でしてね。短期間に一体どうやって集めるかという話、役員会でも様々な意見が出ましたよ。
 全国の温度差はかなりありますから、執行部の方針を上手く説明するのは大変です。あれやこれや意見が出切った時に、ある方がこんな事を言い出しした。
 「私はどうしても腑に落ちないんですが・・・・。いま私の施設に入所している方で自分から希望して入所している方は全くおりませんよ。これって全国どこでも同じだと思うんですね。この嘆願署名運動は、何か利用者は蚊帳の外で、周囲の人たち(註:家族や施設)の願いで行うことなんですね」
 全く、同感、ドンピシャリ。良くぞ言った。
そうなんですよ。この辺の理解度が微妙でしてね。三障害一元化論議の中で、本人の意思をどこまで組み入れられるかという最大の課題が取り残されているんです。これはあくまでも私見です。身体障害者の方達は自らの意思を伝える事ができる。知的障害の方で特に重度の方達は意思伝達に問題が多い。そこで成年後見などの仕組みができた。そこまでは良いのです。でも、どうでしょう?
 新法そのものを複雑にしているそもそもの原因は、関わる人々の想い(要望)の多様性?じゃーないのかな。
 となると、私みたいに決め付けるタイプの人間は支援者として失格になるということに。
 

1126:好意多謝

お恥ずかしい限り、今、起きだした所である。午後4時を回った時間。
 何故今頃ということを白状すれば、例の厄病神が腰にきた。トレッキング用に求めたステッキが杖代わり、無様な恰好を昨日から、何も好きや酔狂でやっているわけじゃーありません。これが実に厄介でして、今回はギックリ腰、寸前でどうにか食い止めた。だが、油断はいけません。そんなわけで思い切って朝から蒲団に包まった次第。案の定、私にはじっとして何もしないことなど出来やしない。只今恐る恐る起きだしたわけである。ポシテイブに生きようと密かに決意したこともあって、途中で放り出しておいた文庫本を読破、城山三郎の『男子の本懐』である。長編ものだから暇を見て読もうとカバンに入れておいたものを読み終えた。
 そこで見つけた”4字句”「好意多謝」、知らなかったわけでもないのだが、小説のP354に、浜口に夢の中で言わせている。「好意多謝・・・・・敢えて弩鈍に鞭ちて自ら信ずる所を行はんのみ・・・」
 彼の作品を一気に読み終えるには体力を要した。でもこれは一時の静養が齎してくれた授かりもの。
 いま自宅でも仕事ができる時代、私の場合はそうは参りませぬが、大分国際的になったものだと改めて自分を見直した。マレーシアの中澤先輩よりメールが届いた。私が送った季刊誌への感想への返事、ワークキャンプに是非とのお誘い、これまた無性に行きたくなった。
 それから筑波大の中田先生から、今度アフガンからの客を連れていきたいという電話が入る。先生はJICAつくばの研修責任者、二つ返事で了解した。一献どうですか?という前からの約束を、現在ギックリ腰ということで先延ばし。
 昭和初期の政治や経済史に足跡を残した人たちの気魂、一身を捨てて国の為に政治信条を貫く人を現在の日本において見出すことができるだろうか?答えは否イナイナ。
 浜口・井上は共に名も知れぬ逆徒の銃弾を受け亡くなった。その墓は青山墓地に二人並んで俗名だけが刻まれた墓碑に眠る。その周辺の墓地は位階勲等など麗々しく記されたものが目立つという。
 敢えてその点を付け加える城山の一貫した姿勢を感じる終末であった。
 100年に一度という世界同時不況・・・なんど耳にしたか分からない。政府は景気対策として大盤振る舞い?、このツケはいずれ払わなければならない。しかし、どうだろう?成熟した国、日本では、物不足とは言い難く、多少の税の緩和政策を行っても果たして消費意欲は高まるだろうか?
 むしろ、今の日本人は将来への不安が払拭されない限り、預金を選択する人達が多いのではと私は思う。今回の何十兆円とかいう出費は、後々の負担として余計不安をあおるという悪循環。
 1ドル360円時代の経済刺激政策と今や100円前後で推移する時代では、自ずと対応策も異なるだろう。
 昭和初期と明らかに違うのは、緊縮財政を進める上で、大きな壁となっていた軍事費問題。結局は政治が軍閥に押し切られた格好で戦争という深みにはまっていった過去とは違う。
 ならばどうするか?どうもこの辺が実に頼りない。好意多謝云々でした。

1127:新緑の候

新緑の候となりました。昨日は久しぶりのまとまった雨が降ったためでしょう、境内の山桜は見事に衣替え、満開となった花が例年になく、長く楽しめた。好天が続き、風の弱い日が多かった事が幸いした。いまその古木は薄緑の葉を徐々に開げている。繰り返される自然の営みに私のこころも切り替えを急ぐ。
 ここ数年、なんと社会の矛盾や否定面を批判的に見つめてきたことか、19世紀のヨーロッパ文学で起こったバルザックやトルストイを代表とする批判的リアリズムからの流れ?(またまた無理してる)
 昔とった杵柄、卒論にバルザックを選んだ、「従妹ベット」という代表的な長編小説から、市民的視点からの社会矛盾を探ったわけだ。結果は謂うほどの成果なし。
 フランスはヨーロッパで独自の歴史を持っている。あまり民族主義に固まろうとせず、開放的で多くの移住者を迎えてきた。日本人にとっては、パリの街並みやワイン、料理などが有名であろう。日本人旅行者も多い。
 南フランスを列車で旅すると、肥沃な平原がどこまでも続く、農業国というイメージに日本人が抱く負のイメージでは無く明るさを感じるのだ。シャンソンは日本で言う歌謡曲とは違う。どう言ったらよいだろう?詞で歌いあげる中身が違うのだ。人生の悲しみや喜び、それから愛の情景などに政治批判なども折り込む。
 どうして素人がこんな事を考え始めたのか。それは今の世上に取り沙汰されることが、献金問題だ政権交代だと無味乾燥な話題に終始するからだ。どっちもどっち。”今の日本をどうみるか?”という路上インタビューでテンプル大学の教授が言った。「どうして日本はこんなに議員が多いんでしょうね。そんなに必要ないでしょう・・・・・・・・ね」まさにこの一言に尽きると私は思った。
 某国会議員でその事を取り上げていた異質?の先生は、国会議員を辞め市長選に鞍替えしてしまった。所詮、議員定数を減らそうと本気で取り組む先生はおりません。だからですよ、政治と官僚の癒着構造が改まらない。お互いが暗黙の了解事項ですから。
 これは単に国体を変えれば良いという簡単なものではありません。なぜか全ての政党の議員が自らの席を危うくするような定数減を望んでいないからだ。
 お隣の韓国が政権交代を行った。前大統領への訴訟問題が起こっている。これもまた首を傾げる話だ。タイで勃発したデモ、。。。チベットでの騒動は影を潜めたのだろうか?
 世界に目をやれば、政情が安定している国は少ない。だが、これだけは言えそうだ。北欧などが大戦後、大きな政治的不安も起こらず今に至っているのは、国民が納得しているからだ。よく取り上げられる行き届いた社会保障の仕組み、これだけでは無いと思う。北欧の人々ほど戦争の被害者になった記憶を大切にし、次世代に語り継いでいる。
 それと富の格差が起こす様々な問題だ。将来への安心は共通の望み、その事が語られない社会は異常だ。弱き者は、権利さえ蔑ろにされ、黙って耐えなさい。これでは何を支えとして生きていけばよいのか、それから孫や子供たちに何を伝え残していけばよいのか。
 この辺の”チェンジ”が新緑の季節と同様に図られる事を望みますよね。
 

1128:地域の支え

これといった特別なる意図も無しに、日頃の地域の協力に対し我々は心より感謝しなければなるまい。そのことを強く感じる時がある。
 今の国の唱える地域移行というものに、その地域とどう上手くやっていくかという事がスッポリと抜け落ちている。多分、それは事業所皆さんの責任でしょうと言わんばかりの対応。
 私は思う事がある。良いとこ取りをして歩の悪い所を民間に渡すという在り方、これは如何なものであろうか?
 今、コンビニ業界は不況下にあっても売り上げを伸ばし、値下げ合戦を展開、そもそもコンビニは態々遠くまで行かなくても身近で物が買える利便性を売りにして広がった。私は何人もコンビニのオーナーを知っている。店を開いている時間が長い上に、品物の入れ替え作業が多く、きつい仕事。その努力があってこそ生き残れると皆さんが言う。
 高額な買い物をする客はいないから、その分、数でこなす。不思議なもので一つコンビニができると必ず近くに他社のコンビニができる。食うか食われるか、そして結局勝負が決まって、負けたほうが店じまい。幹線道路に面した所なら、通りすがりの一見客も多いかもしれないが、主なターゲットは近くの人である。
 小売業が軒並み売り上げ低迷している中で、ここまで伸びた理由は何だろう?
 我々が日頃の雑務に追われ忘れてしまう事に、”地域の支え”というものがある。地域こそが末永いお付き合いとなるし、地元から反対の烽火でも上がれば元も子も無い。
 いま、私は10年先20年先を見越した計画を持っている。業界の関心事が新法の不備や人材確保に血眼になっている。しかし、我々の仕事が本当に必要不可欠なものであるのなら、いずれ解決され、我々に良い風向きになるはずだ。勿論やるべき事をやってという条件付き。
 だが、地域との関係はそうではない。事業を継続するためにその点があまり重要視されていない事に疑問を持つ。私の法人は特殊かもしれない。お寺との一蓮托生で成り立っている。何しろ、大半の施設敷地がお寺からの借地、それで約50年続けてきた。だが、これは決して安定的な経営地盤ではない。できることなら社会福祉法人自らのプレイグランドを持つべきだ。将来何が起こるか分からないという前提に立てばである。そこで、徐々に法人所有の土地の確保を進めている。それも現在利用している土地の2倍、これはどうしても建て替え時期に必要になるからだ。現在利用されている方達をどこかに一時避難という事ができないから仕様がない。
 これは慎重に行わないとまずい結果となる。好きな言葉では無いのだが、我々のような事業は地域にとれば”迷惑施設”である。異議がありましょうとも、でも現実でしょう。本当に国が政策として地域に根差させる気があるのであれば、土地の確保は国が行うべきだ。それが無理でも斡旋位はしないといけません。
 最近こんな事があった。それは通用門が壊れ早速業者を呼び、見積もり。その時、「これって何の為にあるんですか?」と業者の方から聞かれ一瞬考えてしまう。確かに外からの不審者の侵入を防ぐためならば、もっと強固にしなければなるまい。でも、我々の考えは、どうも逆のような気がした。それは中に利用されている方が無断で外出しないようにという役目。
 これが実態です。ですから地域との関わりで一方的な価値観で進んでしまうとズレが生じますね。
それを含めた中長期計画、いやー参った参ったでござんす。
 両腰に 温シップ 自ずとすすむ メガネの度数。

1129:悪事千里

”悪い行いは直ぐに世間に知れ渡る”そうです。今回、またもや卑劣な事件が明るみに出てきました。大手電気販売店がDM(ダイレクトメール)の手数料をゴマかした。これが、なんと障害者団体の名義を借りて、210万通ものDMを障害者特別割引制度を悪用し、分かっているだけでも2億4千万円にものぼる差益をちょろまかしていた。そして、某国会議員が口利きをしたとか云々・・・・。出るわ出るわ。しかし、非常識な事を考える人は智慧が働かないと思う。そんな事をやれば直ぐに判ってしまうだろうが、それが解んない。困ったものだ。漢検事件がまだ未解決なのに、新たな悪事が表面化。
 障害者団体も団体だわな、責任者を出せ! 我々はですね。同様の事件が表立たになるたびに迷惑を被っているのですよ。偉い迷惑です。障害者自身それから我々関係者も怒らないといけないでしょう。
 それに同業者との競争がいくら激しいとか言ってもですよ、広告代をこのような形でね、セコイ!それも日本のトップ企業ですよね。執行部は勿論、社会的な制裁は受けて当然でしょう。一役員の独断では出来ません。連帯責任、営業停止処分だ。
 それから、”産官学”連携が流行しているのは、結構な話だと思います。でもね、これが日本では難しい。特許などの問題が先々起こる可能性が大きいと思うな。
 それと、またアヤフヤな処理で幕引きされるのかどうか、障害者団体と議員の関係も明らかにしないとダメだわな。何しろ本音と建前を使い分ける輩がウジャウジャしているんだから困ったもんだ。
 新自由主義経済の綻びですね。企業倫理=企業が社会的に守るべき道。のチェック機能が無い。なんでも自由、それから”我先に”。金融機関破綻の責任をどうとりましたか、べらぼうなボーナスを貰って公的資金導入???これだって経営モラル欠如です。
 それにこの日本もそうだ。先日、海外で活動している人からのメール、そこでは日本の若者をVSで受け入れています。その若者の中に「身銭を切ってまでボランテアにここまで来ようとは思わない」と言ったという。
 これが合理主義?それとも日本の教育が目指す世界に通じる若者養成ですか?
モラルが問われて久しい。自分の生き方と密着した所での倫理感が脆弱化している。
 日本がGDP世界第二位を占めるようになって大分時がたっている。しかし、その豊かさを獲得したわりには国民一人ひとりが満足感を持っているでしょうか?自殺者が毎年3万人を超えている国は異常です。その問題について個人の責任だと言わんばかりの対応、後に残された遺族の悲惨な生活、長年住み慣れた地を離れるのを余儀なく選んだ家族もいます。
 だが、国を導いていく政治家や官僚の関心事と言えば、新興国、中国やインドに追い抜かれるという焦りばっか。私は思います。人口規模や国土の広さ、それに歴史の厚みからして、今の日本が占める位置は背延びしていると思うな。その無理が本当に大切なものを見失う一番の原因だ。
 悪事千里を走るとは、良く言ったものである。善悪の報は影の形に随うが如しという言葉もある。
つまり行いの善悪に応じて、その報いが必ずやってくるということでしょうね。
 たった今、思いついたこと。
福祉現場で働く人の確保が問題です。給与が安く、労働が厳しいという理由が目立っています。果たしてそうでしょうか?神立のトップ企業の現在を見れば分かります、一週間で三日しか働かない。給与は半減。
寧ろ、福祉事業所が考えることは、夫婦共働きを推奨することです。子育てしながらも働き続けることが可能な仕組みづくり。 何か急に言いたくなってしまったもんですから追記しました。

1130:使命

”mission in life"  使命というものは、他人に言われて為すことでは無い。
 いま私の頭の中を駆け巡っていることで、迷っていることがある。それは、貫く勇気or断る勇気のどちらかを選ばなければならないということ。在宅サービスへの手がかりとして、様々な相談事業を実施、誰がみても現状を変えなければ家族が崩壊すると思われるケースとぶち当たる。
そんな時、正直、判断に迷う。受け入れる側の能力の限界も見極めないと受け入れた事により、かえって取り返しのつかないことにならない保証はない。それと家族の意向は微妙だ。
 私は今まで知らなかったのだが、現代アートの世界で有名な「嶋本昭三」いう方の話で、彼は自らの頭を綺麗に剃って、そこに様々な人に絵を描いてもらうという。81歳になる今も創作意欲は旺盛で、世界を股に懸けて活動をしているという。面白いのは瓶に絵の具を入れ、上から落として描く画法、これが世界では評価され、世界の4大アートの一人に選任されている。
 そして頭に絵を描くことを、彼流の言い方では”ネットワーキング”だという。芸術の価値は、良しとしない者からみればたわい無い無価値なものになる。
 彼の話を良く耳を澄まして聴いてみた。絵の原点はと聞かれ、「子供の絵・障害者の絵」と断言した。自分が思いもつかない発想と感性を彼らから学んだという。その点に関しては、全くの同感である。
 その道で大成するという事は最近よく使われるアイデンテテイ、固有性や主体性、独創性・・・・が条件になるんでしょう。今の世の中の流れはマニュアル化し過ぎています。それこそ同一の価値を強制するようなもの。その対極に価値観を見出す活動が現代アート。
価値観や使命と言えば、何か斜に構えた感じに取れる。人の評価を優先するような活動では無しに真っ向から立ち向かう。
”道”が付くものには、価値の集約がある。茶・生け花・剣・柔から書・香に至る古来からの道に共通するものだ。
 これら現代の道で誤解される理由の一つに、貨幣的価値をダブらせるからで、その事だけでも拒否できれば、人間の生き方に通じる教えを素直に享受できる。
 一方、使命は難しい。私は”ing”だと思う。時と共に移り変わるもの、現在進行形で且つ柔軟性が求められるもの。
 施設の使命はと問われれば私はそのように答える。これはある意味では宗教にも通底する。他の宗教を信仰をする者をどうだこうだと言う輩がいる。これは余計なお世話と言いたい。
 信仰というものは、兎角排他的で白黒をはっきりすることを良しとする傾向が強い。私はその事には否定的にならざるを得ない。信仰こそ自己選択であるべきだ。
 福祉の業界には、自らの足元は見ずに相手を批判して言う人がいる。権利の主張を大声で叫ぶ割には義務は果たさない。
 少なくとも無駄を叫ぶのであれば、自らを省みる。これが”使命”と”道”への始点とならねば・・・・。
mission in your lifeなのである。