源究226 t226

  

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 4031  「知る」と「わかる」  11/11  4036  歴史の教訓  11/25
 4032  未来への未練  11/13      
 4033  みらい  11/16      
 4034  至福の時間  11/18      
 4035  自己矛盾  11/21      

4031: 「知る」と「わかる」

某高校の10周年記念の催しに・・・「 知る」ことより「わかる」ことへの手がかりになる話を聞きたい。・・・という生徒と校長先生からの講演依頼の手紙を貰った大江健三郎はどうしたか?
 そういう場合、大江は先ず和英や和仏辞典を参考にするという。準備は柳田國男の全集を調べることから始め、柳田が「まなぶ」から「おぼえる」へと深め、次に「さとる」ことを知ったという。大江は脈絡のない知識の蓄積よりは「知る」「わかる」「さとる」へとつないでいくことにこそ本来の教育はあるだろうと・・・述べている(『伝える言葉プラス』大江健三郎。p86)。
 近頃は、辞書を調べることが減り、スマホに話かけ、瞬時に答えを教えてもらえる様になった。だが便利さは自分で「考える」という力を弱めるんじゃないか?依頼を受けた講演のテーマから伺える・・・学ぶ側、教える側・・共通の課題は、”{知る」ことより「わかる」ことへの手がかり”、然もありなん。
 
大江は 「知る」「わかる」「さとる」に対し、柳田は「まなぶ」「おぼえる」「さとる」、共通するのは”さとる”。それとAIとは、どこがどう違うでしょうか?ハッキリしているのは、間がないこと。間を省き、一瞬にして答えを出す。生老病死の四苦で間がなければ生死、なんとま~味も素っ気ない人生だわな~。前代の賢人達は斯様な動きをどう思っているだろうか・・・日があたる処には屹度(きっと)影がさすと覚った…漱石の『草枕』。こういった巧智な言い回しは生れまい。 
 人は人生の困難な折々に出会った奥深い言葉により感銘と励ましをもらい、歩み続けるものではないでしょうか!知る・学ぶ・わかる・おぼえる・・・そして”さとる” 未来への未練信じること

4032:未来への未練

≪渡辺一夫さんは、人間らしくあることの思想化といっていいユマニズムを、日本の文化に根付かせようとした温厚な大学者ですが、怒りとも悲しみともつかぬものの激発する声で・・・・また始まった!と嘆かれることがありました。≫・・・・「後戻りできない道」の方へ、政治指導者が立ち戻る気配を感じてのこと。(上掲:p49)
 上文は”未来への未練”について書かれた大江の文章である。「後戻りできない道」とは、言うまでも無く先の世界大戦に突き進んだ道のことです。今は戦争を知らない人が大多数となり、また始まった!という言葉を発するにも実感がない。それは何を学び・おぼえ そして どのように覚(さと)るかに通じます。 人間が人間らしくあることをもし諦めたとしたら ”取り返しのつかない”ことになります。今回の首相指名の衆議院の投票で84名の無効票があったという。まさに此れが今の日本の政治の実態を表していると思いませんか。 ルールを創って 守らない、これが政治家らしくあるということなのでしょうか!無為無策!言い訳はもう結構、行動で示して欲しい。
 
 人間以外のありとあらゆる地球上に生きる生物の視線を観じてみたらどうでしょう?
 某日、刈った跡の草地を雉の親子が列をなして横切っていくのを偶然みた。親の後ろを小走りで懸命についていく子の姿を見た時、頭をよぎった、卵を親鳥が代わり番こに暖めていた家族に違いない、微笑ましくも子が巣立ちする前の準備をしている。
何とも悲しいことだけれど、決して全てではないけれど、私達人間と比べたら大分違っている。いつもの癖が出た。このままでは どういう事になってしまうか、老婆心ながら申し上げたい。根拠を示せ!と仰るならいくらでも。近頃の電車の中の風景、9割ほどの乗客がスマホと睨めっこ、初めて見た時は違和感を持った。それが今ではあたり前となっている。 何を見ているのか何を聴いているのか判らない。ただ、何することもないから そうしている?私だけかもしれないが、メール受信の99%は迷惑メール、開かず削除する。穿った見方をすれば、これぞ新集団心理療法、自分の居場所を探す方便か? 便利を得る為に創られた利器が迷惑になる。嘘も方便という言葉、そういえばあった、ありましたね。もう一度「未来への未練」が書かれた本を読み返す。題名は『伝える言葉プラス』でマイナスではない。 

4033:みらい

 未来を英語では・・future・・tomorrow・・と言いますね。(G3英和辞典) 何か感じませんか? 未来は今より先のこと、明日もそう、遠い先もそうなる。時間の縦軸。日本語は、その程度を知らないと字面だけでは真意は判りません。(仏)三世という言葉、前世・現世・来世をいう。それぞれに仏、菩薩を配して真意を示す。明日のことは誰も判らない、だから前に進むんだ。この進むの意が、生きるということだろう。未練には①あきらめきれないこと。②まだ熟練していないこと。二つの意味があるという。でも、あきらめる・・・の意味も深読みすれば、断念すること、それともう一つあきらかにするという意味があります、さ~て どうしましょう!そこで『未来への未練』の解釈は原点回帰? 是ぞ「維摩経の世界」、不二の法門の落し処なのかもしれない。判らないからこそ、進む(生きる)んだ・・・と思う。
 現に、今地球のどこかで起こっている事象がその証でしょう。知ったことない。自分は大丈夫だ。と言っておれますか?
 参照:「ひとりの子供が流す 一滴の涙の代償として」上掲:p173~
 
 ・・・人間がこんなことを続けていけるはずはないし、いつかは変わるはずだから・・・・(エドワード・W・サイード)
大江はパレスチナ人のサイードとは同年生まれで 互いに親交を深め、サイードが白血病で亡くなった後、大江はサイードから多くのことを学んだと述べている。パレスチナとイスラエルの戦争は一向に解決の方途が見い出せず、繰り返し起こっている。平和と共生を生涯のテーマとして活動を続けてきた二人が人々に伝えたかったことは何なのか?難解な文章として大江の作品を避ける人はいるかもしれないが、ノーベル文学賞作家は日本で2人しかいない。その大江も2023年3月3日88年の生涯を閉じた。
 長男 光さんの存在は大きいと大江自ら語っていた。障がいを持って生まれた我が子(長男)に対し抱く思いは様ざまでしょうが、自分達が亡くなった後1人で生きていく我が子を心配する思いは 普段接っしている尚恵の親たちと全く同じなのです。(上掲:p177) 

4034:至福の時間

 古希を迎えたと思ったら、あっと言う間に4年が経った。なんという時間の早さだろう?気が付けば生活のパターンができていました。早寝早起き、夏冬に関係なく朝の4時前には起き出し、あれこれと思い浮かぶことを書き連ねています。特別の事が無ければ、毎日尚恵学園に出て、神宮寺の本堂で朝の勤めをし、それから一回りして・・・・を繰り返す。
 生老病死・・・釈迦は、いつ、どうやって、悟りを獲たのだろう? 私は寺に生れ、今、二ケ寺の住職をしながら思うのは 暗中模索!と背伸びしては駄目だということですかね。これだっていつ どう変わってしまうかは判りません。だってそうでしょう。いつの間に背伸びしているんだから・・・・。この種の思いは我が影の様にずっと付いて回り、四苦八苦というより具体性を伴って、自分に忍び寄るんですよ。至福の時間というのは、何も特別なことじゃ~無くて、背伸びをせずいられるという時間のように思います。だって 影は日が当るからできるんでしょう。 
 
 今週は最高気温が10度以上下がる予報、いよいよ冬の到来が間近になったように感じます。暑い時には、酷暑と言い、寒くなれば、極寒、度を超えた気象の変動に勝手なことを言う、いくら御託を並べても、それと向き合っていかねばなりません。自分の思い通りに成らぬのが真理、言葉を変えればあたり前だと釈迦は説く。それを弁えず、どうにかして自分の思いを果たそうとする輩は後を絶たない。
 昨日は曇りのはずだったのに、雲一つない秋晴れとなった。納骨を行った家族の胸中はどうだったろう?・・・・ 寂しさ・喜びは裏表、送られるものと送るもの、双方に”感謝”の気持ちがにじみ出す。・・・・
 遍路道 発心・修行・菩提・涅槃の4つの門 順逆も 門を通らねば さて 如何様に。 

4035:自己矛盾

生きるということは自己矛盾と向き合って行くことだと聴いたことがある。その方法は様ざまなんですね。
Aと私は中学時代の同級生、もう60年前のことになります。地元に残った者同士、時々会うことがあってたわい無い話を交わした。こんな話をした。それは 互いの体の具合のこと、この齢になれば一つや二つの病を持つのは珍しい事じゃない。Aは今日通院してきたそうでその話で口火を切った。次から次に口挟む間もない位、珍しく一方的に。それに気付いたのか、今度は私の体調に話を向けた。私もやっと自分に廻ってきたなとばかり、背筋を伸ばし話す。案の定、同病相憐れむで、さながら病院の待合室のようだ。頼まれもしないのに自らの病歴自慢を吐露,すでに逝った同級生の情報交換が一通り済んでお開きとなった。。
 午後、私は市立図書館に行き、『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一著)『動的平衡:生命はなぜそこに宿るか』(同著者)の2冊を借りた。今年は短い秋になりそうな。昨日と今日の温度差が10度。
・・・行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。・・・(『方丈記』鴨長明)  ああああ~あ!   
 
 ・・生命体は、日々流れ、周囲の環境と共存しながら生きている。・・・この流れ自体が「生きている」ということ。生命とは動的平衡にある流れである。(『生物と無生物のあいだ』p167)
 日本の古典文学「方丈記」を著した鴨長明(鎌倉時代)の無常観に通じる。生きるということをどのように考えるか? 現代人はもしかしてそれを他人事と考えていないでしょうか? だってそうでしょう、他人の命をこんなに軽くあつかう筈はないと思いませんか。
 良かれと思っていたことが 実は違った。そういう例は山ほどあります。権力とは どういう意味ですか?豊かさとは生物にとって一番大切な事でしょうか?そして生きる事は?  それを自ら考えず、ロボットに託してしまうようなことでは 人間は人間らしくあることを自ら放棄してしまったのですか。 
・・・あるいは、露落ちて、花残れり。残るといえども、明日に枯れぬ。 あるいは、花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つことなし。・・・・ 三世(前世・現世・後世)。現世は後世のための仮の世にすぎない・・・と。

4036:歴史の教訓

都会と森、喧騒と静寂、煩悩と涅槃・・・相対立するかのように見えて、実はそうではない。煩悩即菩提は現実肯定的な大乗仏教の立場で”両者ともその本体は真如なのであり、真理の立場からすれば煩悩こそがそのまま菩提にほかならない”・・とする。 分かったようで判らないような気分?正直です。分かっていると思っていることが実は判っていなかった。変わらないと思っていたことが一夜のうちに変わった。 例えば、生命とは何か?と問われた時に貴方ならどう答えますか?それは自己複製するシステムである。秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。・・・生命とは動的平衡にある流れである・・・ 分子生物学の視点に立てばと。どうでしょう?
 ならば具体的に平事と有事、健康と病・・・・宇宙と自分・・・等々、ナゾ(因果)がどれだけ解明されているか正直判んない!『方丈記』は1212年の成立、その背景に頻発する災害(火災・飢饉・地震など)や争乱がありました。800年以上経った今日、科学万能の時代とか言ってはいますが 社会の実相は、何も変わらず、今まさに乱世じゃないでしょうか。もし、何方かが現代版「方丈記」を書くとしたら、住居はわび住い「草庵」が豪奢な「タワーマンション」に変わっているくらいかもしれません。 
 
 父親が願っていてできなかった本堂新築の夢を見事に実現した落慶式に昨日参加させていただきました。22年前若くして亡くなった父親の後を継ぎ住職となり、15年前に檀家さんの前で本堂建設の思いを語った。それからずっとその準備してきた事を27世現住職が謝辞の中で明かした。それは寺族、檀家の共通の願いだったそうです。派手さの無い手造りの落慶式に集まった人たち、その一言一行に慎みを感じました。ややもすれば真逆の態に慣れてしまった感もする、街から離れた田園の中にある小さな集落で300年以上経つ寺は見事に再建された。日本中に無住となっっている寺が多い昨今、その逆風に負けず、夢を成しとげた。
 私達が今、直面している過疎化や少子化、高齢化に対し良い手立てが見い出せず、先の見通しが立たない中、関西某県の知事選に絡むゴタゴタ騒ぎはネット上で情報が錯綜している、一体何を信じて良いのか判らない。本来の有るべき姿は歪み切った闇の中、それをいいことに、魑魅魍魎が益々勢いを増している。天災でなく人災である。
 さりとて決して特殊な例ではない。瞬く間に全国に伝搬するだろう、歴史の教訓を忘れた国の末路なのかもしれませんね。 (四弘誓願)