源究224 p224

  

NO  テーマ  月日  NO   テーマ   月日  NO   テーマ   月日  NO  テーマ   月日 
 3991  情報公害 考 7/7  3996  雨のち雨   7/19  4001  経験知   8/6  4006  所詮とは?   8/24 
 3992  ごちゃごちゃ  7/9  3997  福と禍   7/22  4002  累卵  8/11  4007  淡々黙々  8/27
 3993  イタチごっこ  7/12  3998  順⇔逆   7/25  4003  盂蘭盆一考  8/14  4008  因果応報  8/30 
 3994  天秤棒  7/14  3999  一筋縄   7/29  4004  気配り上手 8/17  4009  文明の衝突  9/2
 3995  子守唄アラカルト  7/17  4000  喜怒哀楽  8/2  4005  観音とは? 8/20  4010  曇り時々雨  9/6

3991:情報公害

公害とは、人の活動によって広い範囲にわたり引き起こされている人の健康や生活環境に係る被害が生じること。日本では昭和30年代の高度経済成長期から公害が問題にされるようになった。近年急速にネット社会となり今度は情報公害ということが言われ始めた。ここから逃れることは至難の技。VR(仮想現実)やAI(人工知能)は人と人の関係(横)と時間(縦)を超越し、自由奔放に振る舞い人々が安心できる場所をも容赦なく奪っていく、これを止めることができますか。四六時中スマホと睨めっこする人たちばかり。この異様な光景はどうもそうしていないと不安になるらしい。仏教で説く四苦八苦は時間・空間の関係が基にある。その中で”どのように生きるか”を説いている。
 疑問に対し瞬時に答えが出るという道具(ツール)を人間が創り出した。この影響は測り知れない。何せ見えない相手と関係をきずくということは 今までに誰も経験していなかった未知の世界だからね。 (大衆迎合 紙一重の危険)・・愚問なるか!
 
 ≪心合わざれば肝胆も楚越(そえつ)のごとし≫とは、最も近い間柄の人でも、気が合わないと疎遠な他人と同じということ。≪いかなる人も夢を見ている限り、それが夢であることに気付かない≫(荘子:紀元前369~)
 現代社会の最大の課題は、人の気持ち(こころ)をどう考えるかということだと私は思います。そもそも今に始まったことでは無いがかなり怪しくなっていませんか・・・。、因果の考えからみてどうしても腑に落ちないのは、関係と時間の超越(飛び越し)、今までの経験や価値を飛び越えて結果だけを性急に求める短絡思考の人ばかりとならないか?社会と上手く適応できない人の急増や民を度外視した独裁者の台頭が気になります。公害と言えば自然や環境の変化に関することが多かった。しかし、最近は人為によって起こるものが増え予測と予防の難しさは雲泥の差。(仏)無為自然・・・因果関係に支配される世界を超えて、絶対に生滅変化することのないもの。有為・・・さまざまな因縁によって生じ、常に生滅し永続しないすべての事象。回りくどいですか ごめんなさいね。

3992:ごちゃごちゃ

有uuuu無mmm一緒くた・・・寄る辺無き流浪の民は増え続け、略奪、暴力、不正、誰が加害者で誰が被害者か判らない。人為的な行為を排し、宇宙の在り方に従い自然のままであること、これは老荘思想の基本的立場”無為自然”。今の中国はどうなのか?
新たな思想が生れる背景には社会不安と混乱があることを史実が教えてくれる。難を逃れるために住み慣れた地を捨て安全な場所に逃げる人々、この瞬間にも地球上のどこかで途方に暮れている。一方で権力と経済力によって贅沢三昧している者たちもいる。この相反する状況に対し どんな道すじをつけられるでしょうか・・・?時間望遠鏡で日本を見て 江戸時代(1603~1867)の265年間が最も長く続いた安定した時代だと言われます。私たち大人がそこから何かを学ぶことがあると思いませんか。だって立候補者が56名という過去最多の都知事選は終わった。これを前代未聞の珍事ととるか、民主政治の劇場化で、アングラと野外のごちゃ混ぜ、跡に残ったのは空虚さ。
 繰り返しますが いかなる人も夢を見ている限り、それが夢であることに気付かない・・。
 
 確と集めたものを いざ使おうと思ったら さ~て どこに仕舞いこんだか 判らない・・・・こういう経験ありませんか? 軽トラ(中古)には作業道具を目いっぱい載せてある。大体の用はたりる。難を言えば、エアコンが無い、それに4駆でない、雨に弱く猛暑には地獄、でも大分世話になったから離れ難い。無為自然。
 夢に二つの意あり、希望と妄想。時にこれが逆走、迷走する。偶然と思うか当然と思うか?人生は五蘊盛苦、色・受・想・行・識。後者に分あり。
 国内倒産が増えている(直近情報:帝国データーバンク)。その主な原因は、物価高と人材不足。さらに外因と内因に分けられる。我先にと競いあって海外進出、平時なればプラスなるものが有事にはそれがリスクとなる。平時有事は何も戦争とは限らない。人間のやることだ!我が足元から崩壊が始まることもあるでしょう。・・・心合わざれば肝胆も楚越(そえつ)のごとし・・・・然もありなん!
 あらい熊にスズメバチ 思いもよらず寺に住みつき 世知辛い世 思案に余る

3993:イタチごっこ

 同じことを繰り返し、埒が明かない。イタチには失礼かもしれないが”イタチごっこ”。攻撃と防御、コンピューターの世界の話です。悪用×善用、四則演算の加減乗除で乗除は片方が(-)ならば、答えはマイナス。ウイルス×セキュリテイ。答えは全てマイナス。ウイルス先行でセキュリテイソフトは後陣、経済第一主義の避けられない迷走(勘違い)、此処にイタチの登場。最近知った”マルウエア感染”、悪意あるプログラムという意味らしい。それじゃ~善意あるプログラムはどうなんですか?こうなると”5W”が判らない、可笑しくないかい!どうなのよ!
・・・ AI時代に 陽と陰 二極真空管に 新価値発見・・・・ マルウエアはMalware、こ何種類もあるらしい。だとしたら イタチゴッコ も入れて下さいよ。可哀そうだから・・・・・。★私の使っている英和辞書に”Malware"は有りませんでした。3×(-3)=-9。間違ってたかな?余計なことでしょうが。☆コンピューター用語辞典。
 
 発達障害、適応障害・・・現代人の多くが苦しんでいる。その病巣を取り除く妙薬、治療法はあるのでしょうか?障害の対義は健常?(仏)”求不得苦””無常”からすれば”常に健やか”であることは無い。”思い通り”になることもないはずです。
 ・・・もって生まれた性分・・・と折り合いをどうつけるかでしょうか?。【有りの儘で良いんだよ】には含蓄を感じる。そこまでしなくても共に生きようよ。これぞ障害福祉の核心ではないでしょうか!この子ら世の光〈×〉ではなく、この子ら世の光〈〇〉は深い慈愛を感じる。
 有益か無益か 損得勘定に四則演算 正解無し。無理やり正解を出そうと 悪業をおかし 元の木阿弥!。(望遠レンズ)

3994:天秤棒

 世論を結集して今やるべき事があるでしょう。迎合ではなく、詭弁や暴力を使わずに済む方法で・・・・。宇宙の在り方に従う自然をどうにかしようと人間が企ててもそれはできまい(無為自然)。それより人間の便宜主義が、これから先もっと蔓延っていくかもしれない。それが厄介です。やりたい放題、捨てられるゴミの山・・・・結果に誰も責任をとらないという、まさに自然への冒涜ですよ。善悪、偽善は紙一重。都合主義で道理を変えることに何とも感じない。こうならぬ為の策(柵)は果たしてあるのかどうか?・・・正統とは何か?・・・・異端とは何か?一問一答・・・愚問愚答・・・先ずは脚下照顧し持戒すべし   *天秤棒 担いて判る いい塩梅(ナマグサ)
 
 電気コードのショートは器具の破損や出火の原因になります。大都会の地下でいま何が起こっているか想像しただけでおかしくなる。様々なパイプが何層にも張り巡らされ地震が起こればどうなるか? 落雷に対しても安心できるのか?おそらく完璧な対策は無理、そうならぬために祈るだけ。天秤棒とヤジロベー、バランス感覚は大丈夫だろうな、埋立地に高層ビルが林立し、都会の風景は刻一刻変化する・・・これが人為的なミスと重なれば大惨事。これも紙一重のリスク
 ☆弥次郎兵衛と喜多八の二人旅『東海道中膝栗毛』、歩き道中滑稽談。今の世は SFやVR、AI・・・SDGsなど外来語が増え過ぎて、訳わからず、『道中膝栗毛』改訂版も発刊未定!徒歩⇔リニア新幹線。ショートカットも加減せず 十返舎一九 おかんむり。

3995:子守唄アラカルト

 (^^♪)�”ねんねんころりよ おころりよ 坊やは良い子だ ねんねしな” (江戸子守唄:作詞作曲不詳。)
 アクセルを目一杯に踏み込んで、そんなに急いで 何処へ行くの?。自由とか平和とかいった処で どうなんでしょうね。世の中が雁字搦めで身動きできず、そんな風に思っている方って意外と多いんじゃ~ないの? 間が持てず、会話がとぎれて、お互いに気まずい時間ができる。 思い通りにならないと愚痴を言い。やっと手にしたら こんなはずじゃなかったと不満タラタラ。(^^♪)ねんねのお守りは  どこへ行った あの山こえて 里へ行った。里のみやげに 何もろうた でんでん太鼓に 笙の笛・・・・  いいな~。
 江戸から令和へ、生活や思潮もだいぶ変わりました。 (^^♪) 宿題やった? 早く寝な 眠れん 眠れん ねむれんよ。
 
 外観&内観一考。世間体(外聞・見栄)を良く見せようとすれば、どうしたって背伸びする。始める前から言い訳を用意し自慢する(妄執)。方や如実知自心。在るがままに自分の真実の姿を知ること。(仏:大日経)
 自分自身の心のはたらきや状態をかえりみることだという。
 どうでしょうか?内心穏やかでないとすればなんでそうなるの? 誰だって自分の赤ちゃんの頃を覚えている人はいない。そうでしょう。育つ環境は一様ではありません。幼い時に体験したことが大人になっても心の外傷となって長く残るなんて話は随分ありますよ。(トラウマ)その自覚があるかないか?でも遅かれ早かれ、それと向き合っていかなければならない。(仏)
 子守唄のメニューを赤ちゃんは選べませんよね。

3996:雨のち雨

 梅雨最中、<今日は そんなに暑くないから・・>と挨拶交わす。これから迎える本格的な猛暑を乗り切ろうと・・・・週間天気予報を見ると、Max35度が連日続く、それから台風への備えをしながら秋をまつ。
 自然は嘘をつかない。人間同士は、どうして毫も争いを止められないのだろう。雨を涙と思えば。梅雨は涙、涙、なみだ・・・・。私は寺に生まれ、正直なところ寺を離れたいと若い頃ずっと考えていました。結局、74才になる、一度も寺から離れたこともなく、尚恵学園での仕事を続けてきた。後期高齢者(75才以上)になるまでと思ってきたが、それもどうなることか? だが、全く後悔の念はありません。涙は悲しい涙ばかりではない。それどころか感謝の思いは年々強くなる。それと新たな発見です!
 昨日、園内の草刈りをしていたら、傍でKさんが如雨露を使って水かけをしてくれた。雨で濡れた草木に水をかけている。Kさんはお父さんが先月亡くなったばかりで、兄弟でお父さんの葬儀をしてきたと聴いた。
 
 <他に向かって悟りを求めず、先ず自分の足元をみよ。>(禅:脚下照顧) 多くの人が感じている。それは これから先 一体どうなるんだろうか・・・・・と、考えれば考える程深みに入り抜け出せない。”脚下照顧”は順逆・離見に通底する道標になる。
 その考えを古いと無視するか立ち止まって自分に問うてみるか、分かれ道、技術革新(イノベーション)をさけぶ割に自分自身はどうだろう?仏教の縁起が答えてくれる。2000年をどう思うか?時間尺は人それぞれ、長いと感じるか短いと感じるか?一定でない。便法として”標準時”を据えた。チベット仏教・ラマ教・ヒンズー教の聖山(カイラス山)巡礼を目の当たりして感じた。五体投地しながらの巡礼が今も行われている。
 気分が雨のち晴れとならない因・・・処方箋・手引書・約款・法など考えてみれば判るかも? 守らねば意味はない・・・!
 
 ”共に生きる”・・は四六時中一緒にいることではない。それをどのように考えるか?他に向かって悟りを求めず、先ず自分の足元をみよ・・・と。私達は他とくらべる事で様々な感情が生れ、自分を見失う。世の中には自己陶酔(うぬぼれ)型の人間もいます、(ナルシシスト) 好き嫌い、得手不得手があって”あたり前”、これが普通で皆同じだったら・・・どうでしょう。
 共生の究極は、自然と共に生きるでしょう、無畏共生。
 ♪ 1⃣≪あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかい うれしいな  ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン≫(『雨ふり』作詞:北原白秋 作曲:中山晋平)1番~5番。

3997:福と禍

 ”福(ふく)過ぎて禍(わざわい)い生ず”は、分を知って言動つつしむべきという意に解せるか。童謡『雨ふり』は5番まである、それを空で唄える人はどれだけいるでしょう。
 次々に起こる出来事に私達は心身共に疲れています。自分は大丈夫だと思っても、いつの間にその影響を受けている。モノが溢れ、その状態に慣らされてしまうとひとは深く考えることをしなくなる。今の状況で何か気になっている事があるとすれば何が大切かを子供たちが考える機会が薄れていくのではないだろうか。個の尊厳は自分だけの事ではなく相手があることを普段の生活を通して徐々に身につけていくんだと思う~。
 ♪ 2⃣  かけましょ かばんを かあさんの あとから ゆこゆこ かねがなる ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン
   3⃣  あらあら あのこは ずぶぬれだ やなぎの ねかたで ないている ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン 
   4⃣  かあさん ぼくのを かしましょか きみきみ このかさ さしたまえ ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン
   5⃣  ぼくなら いいんだ かあさんの おおきな じゃのめに はいってく ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン
 
 4番の下線部に違和感を感じました。白秋(1885~1942)の生きた明治~大正~昭和(戦前)との時代差かもしれません。平成~令和になって生れた子たちだったらどうでしょう。おそらく『雨ふり』も違った風に感じているかもしれません。
 なにせ雨の降り方が違います・・・・・。梅雨が明け、日本列島は連日猛暑(35度)に覆われています。これが避けて通れぬ現実。とてもとても。
 ”身に過ぎた幸福はかえって禍いのもとになる” 図星、疑う余地なし。日本人が大切にしてきたことが次から次と形骸化していく。この流れを食い止めることは難しい。『集中豪雨』・『AGI』 ズブズブ ボタボタ トンチンカン 

3998:順⇔逆

 ”災い転じて福となす”。順逆二縁への確信は、何の為に行うかという目的(方便)が済度利生ならばという点にあると思います。(太平記)
 どのような主義・信条も度を超えたものならばかえって禍いのもとになる。(仏)十善戒⇔三毒⇔三法印   現実に今 起こっている戦争は限度を超えてしまったもの。どうして 同じ過ちを斯くも繰り返すのですか。「三界唯心」は、三界(三千大千世界)のすべての現象は心によってのみ存在し、心のつくり出したものであるということを意味します。
 ”身に過ぎた幸福”(前項)とは、【AGI】(汎用人工知能)に人間の心を凌駕させる能力をもたせて世界や環境を思い通りにできるという危険性を内包する。とすれば人間とAIの関係はコントロールを失い、人間がロボットに自由に使われるようになってしまうのではないでしょうか?そんな恐怖感を持ちます。
 
 政治への無関心が一向に変わらない! 何故ですか? 関心と信頼は相関し、一度崩れたものは小手先の改革では火に油を注ぐごとし。この20年を通観し、政治を託したいと思うような人物が見当たらず、誰に投票したらよいか判らないという状況は全く変わっていません。
 掛け声ばかりの改革に本気度も推して知るべし。国民の半数に満たない限られた中、そのまた何分の一で決まってしまうような今の制度をいつまで続けるつもりか?初めから結果がわかるようなことではどうなのか?順⇔逆⇔四面楚歌。自由を勝手に拡大解釈し、”民主主義の形骸化”を生んだ。言っていること・やっている事・思っている事に齟齬をきたしても何のお咎めも反省もない、ケジメなき集団に成り下がる。順⇔逆⇔因果応報。せめて 国のトップを決める現行法を≪国民直接投票制と有効投票ラインを定めた制度≫に変えるべきだと思います。しゃ~ねんだ!しゃ~ねんだ!じゃなくてよ。 もうやめっぺ~よな。いつまでやってんだ~(遠吠えχ)

3999:一筋縄

介護事業の倒産最多1月~6月!(A新聞一面)。報酬単価引き下げ&人材難。正直、今さらという思いです。巷では大分前からその類の話はありました。騒がれなかっただけのこと。それが一気に噴き出した。これによって違法・不正が減れば良いのだろうが、一度弛めたものを急に強めても思うようにはいかない。 ”同じ穴の貉(むじな)じゃないか・・・”、そんな話も聴こえてくる。 要は、”モラル”の問題だということでしょう。これは一筋縄ではいかない。
 
 正常と異常の境界が歪んでいる。不図 浮かんだのが野口英世博士。半世紀以上も前になるが猪苗代湖畔にある野口英世記念館(1939年開館)を訪れた、そこには英世の生家が復元され、囲炉裏があった。それはリニューアルされた今も変わっていないと思う。アフリカの黄熱病の研究で世界的に有名となった英世が自ら黄熱病に罹って52才の若さで生涯を閉じた。彼の研究した風土病は特定の地域に持続的に多く発生する病で、自然環境や生活習慣が関与するという。今、新たな病が世界中で猛威をふるっています。英世の生きた時代(1876~1928)は丁度日本の産業革命期にあたり様々な変革や発展がなされた。それが日清・日露戦争の間という。このことを私達は決して忘れてはならない。★『戦争と平和』1869年刊。

4000:喜怒哀楽

 喜び、怒り、哀れみ、楽しみ・・・人間の感情は、時と場所を弁えず意志とは関係なく顔に出る。地球上でイモリは3億年の歴史を持つ、そのイモリからの諫め。〈人間は20万年。時間尺でみれば新参者です。〉
 オリンピック放送によりいつもとは違った番組編成になったラジオ深夜便、そのアーカイブ放送で発生生物学の浅島誠さんの話を聴いた。〈自然を知り 生き物に学び・・人を知り・・・〉 夜中の2時を少し回った時間、暑くて寝苦しい夜、寝ぼけていて大事な部分を聞き逃す。こうなると心身ともに平静ではいられない。後述を知りたくて例の虫が騒ぎ出す・・・〈下等生物ほど再生能力が強い・・・〉  う~む!? 一瞬 思考停止となりました。 
 
 再生力や免疫力は一朝一夕に身に付かず。より強く、早く、・・・と、これを進歩と勘違い大手を振って歩いてきました。
 待てよ!ここでカメレオンに登場してもらいます。左右の目を別々に動かし、舌は体長より長く、周りの環境に合わせ体色を変え、主に樹上で生活する。その彼らに幸せかどうか尋ねたら??おそらく 問答無用!〈自然を知り 生き物に学ぶ・・〉は五観に通じる ・・・(仏)『観音経偈文』・・・「種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅 真観清浄観 広大智慧観 悲観及慈観 ・・・無垢清浄光 ・・云々。度が合わないメガネをかけ、解った振りをしているアンタらは どうなの?。(カメレオンのつぶやき) 

4001:経験知

 第一回オリンピックは1896年アテネで開かれた。開催中のパリオリンピック(7/26~8/11)は丁度折り返し点を過ぎた。次回は4年後ロサンゼルスでの開催が決定している。オリンピックの歴史は130年になる。4年前の東京大会、遣り残したことが未だ未解決のままで時間だけが過ぎていく。 フランスとの時間差は7時間だから競技は夜中となり、それをライブで見るほどの情熱はない。近頃の海外ニュースは悲喜交々で何がどうなっているのか全く判らず、疲れるだけ。。
 こういった時代の背景をどう観るか?円安も1ドル100円という時があった。それが現在150円を行ったり来たり。株価は一日で2000円下がるという嘘のようなホントの話。不安は政治ばかりかと思っていたら日本経済を長く牽引してきた名立たるトップ企業も例外ではなかった。連日、紙上を賑わす不正行為、その謝罪会見の多さが今を如実にあらわす。どうしたニッポン・・・借り物にドップリ浸かり過ぎゆえの袋道 (ナマグサ)。300年前・・・落穂拾い 日当る方へ歩み行く (蕪村)・・・ 私達はこれから先どこに向かって歩んでいけば良いのでしょうか?
 
 経験知か形式知か? 五感+第六感。知情意。働き方改革を掲げた割にその核心に迫るものを感じない。パッチワークのように様々な布の小片をはぎ合せ一枚の布としたように思える。隔世の感。経験によって獲た知はその人にとって掛け替えのないもの、それを”見える化”すればどこうなると本当に言えるのでしょうかね。結局、体裁を整えるだけのものとなるのではないか。知識と智慧の違いを一緒くたにして・・・・”生きる”ことを取扱説明書で解説できますかってんですよ。
 まさに人間という限られた枠の中で考えているんじゃ~ないでしょうか。それで問題解決できた試しなし。ならば生成AIにその権限を委譲するとでも。世も末だ。・・・・焦らず 驕らず 諦めず・・・お後がよろしいようで。
 
(仏)涅槃経にある雪山偈は「経行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」。この意は”すべての現象は一時的なもので永遠に続くものはない。人と物への執着から離れれば、心の安楽をえる”
 仏教の基本の考え方です。そうなるとどうでしょうか?納得できますかね。おそらく 「ハイ」と明言できる方はいないかもしれない。何せ誘惑(欲望)が多く、それに負けてしまう。これがホンネ。四苦八苦 因果応報。「このへんでいい加減(塩梅)にしてやめましょう!」とはそう簡単には参りません。逆に「我利我利亡者の血が騒ぎ自分は大丈夫」・・・と。人生100年、長いか短いか?それに対して「自分は大丈夫」とは言えません。だってそうでしょうよ答えが的外れ≪何が大丈夫?≫。その曖昧さをもAIに託すんですかね。アベコベだっぺよな~。
・・・・・ この坂を ”行”と捉えて 同行二人・・・   ごめんね!戻るかどうか 貴方次第・・・・

4002:累卵(るいらん

 ”累卵(るいらん)”とは、いくつも積み重ねた卵の意。累卵の危うさ・・・・平和の祭典(オリンピック)の最中に今 地球上で何が起こっているか、極めて危うい状況に直面している。社会システムの軸足は祝福ではなく報復、・・・・・。
 難を逃れるために逃げ惑う人々が急増し、その人たちを受け入れてきた国が困難な内政問題に苛んでいる。株価や為替相場は先を見込んで一斉に反応、それが更に社会不安を増長させる。自分達にとって良かれと思って為されたことが手に負えない悪業に変わる。悪因悪果まさに負の渦巻となっている。経済第一の指標は有事の際にはあてにならない。判り切ったことなのに、度を弁えず懲りずに止められず、人為の及ばない破綻を招く。 ”共生”が遠のく、この積み重ね。
  流浪の民。一億総活躍。小欲知足。SDGs。体裁。施無畏。つもり違い。勝者敗者。不二。縁起。正統とは・・・・只管 連ねて問うに 応答なし・・・
 
 仏教の説く”三毒”は貪瞋痴。むさぼり・いかり・おろかさ。人間の苦を生む精神の働き”煩悩”です。厄介なのは・・・煩悩の犬は追えども去らず・・・まとわりついて離れないと謂った話もある。煩悩は無数にあるという(八万四千煩悩)。世界の人口が80億人を超えた今、80億×84,000、記号にすれば∞(無限大)。・・実相に違背して慧を修せず・・・還って流転三途の業をつくる云々(密厳院発露懺悔文)。・・ここでいう”慧”は戒・定・慧の三学の一つ、仏教最古の修行法です。
 日本の障害福祉を育てた先人の1人:田村一二先生の掲げた”流汗同労”が浮かんだ。仲間と共に労働し同じ汗をかくことの喜びを先生から教えられた。是は”共生”と同じです。今の社会がその考えとは大きく乖離しているように思います。遣り甲斐や喜びが影薄く、判り辛い制度の雁字搦めで益々複雑・細分化が進んでいる。私達は一度立ち止まって≪何のため何をどうすべきなのか≫を探究し考え直す時機だと思います。(逆縁の発想)
 
 【累卵の危うさ】、卵は積み重ねる事により自らの重さで割れてしまう。卵を法・制度に置き換えてみたらどうでしょうか?つくることで安心してしまい、誰のため、何のためなのかが暈け、適法か違法かの判断さえつかず、終いには存在そのものに関心(意味)が無くなる。
『働き方改革関連法』(2019・4・1施行)は8本の労働法の改正のための法律。これが今の実態を如実にあらわしている。法の趣旨に義務化、見直し、追加、促進、強化、確保・・・が付く、その内容は複雑多岐、一体これをどのように実行するのか、そのチェックはどうなるかわからない。「勤労感謝の日」(11月23日祝日)は「勤労をたっとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」と祝日法の第2条にあり、その勤労は教育・納税と憲法で国民の三大義務とされている。問題は、なにがどうなっているかを理解している人がどれだけいるかです。【累法の危うさ】? その一つ納税? 国会議員の納税義務の理解の無さをあれだけ曝け出したのですが・・・・その後味の悪さ。法自らの重さで自壊する。いやはや困ったことであります。

4003:盂蘭盆一考

8/13~15、盂蘭盆(うらぼん)は苦しんでいる亡者を救うためと祖先霊を供養することが重なって行われる仏事。送り火~迎え火 。盆踊り。この前後に施餓鬼会を行う寺が多い。住職している二ケ寺、以前は施餓鬼会を8月に行っていましたが私の代になり一カ月早め7月30日31日に行うようになりました。変わったのは気温だけでなく生活スタイルも変わってきました。変わらないのは体に余裕がなくなると心も同様になくなること。昨日は墓掃除をしました。暑くならない朝のうちにと思って始まったのでしたが10分もたたないで汗びっしょり、オマケに蜂に足を刺される始末、モ~暑いの痛いの・・・”ホレみろ 今ごろやってるからだ!このナマグサ”と天の声?
 ・・・弱気はホンネ 元気は空(カラ)付き 舌足らずの塩梅加減 青息吐息の同行二人 ・・・と言うことで・・
 
昨年のお盆から鬼籍に入った人を想い浮かべています。 
 喪主をつとめた90才を過ぎた母親が、68才で亡くなった長男のことを話してくれた。通夜の席(8/11)で菩提寺の住職の唱えるお経を聴きながら、故人との出逢いから今日までの約60年間を思い起こした。記憶は点で蘇る。彼の父親は大分前に亡くなり、その後 母親1人で家を守っていた。彼の得意のポーズは仮面ライダーで≪ウ~ヤ~タ~!≫、機嫌が良い時は大きな声で力が籠もっていた。今思うと それは彼の気持ち表していたのかもしれません。
 仲間たちの日常生活で現実と向き合う姿を私は数えきるぬ程見てきました。感情を外に出せる子、それをしない子、・・・それぞれが違います。彼の場合は負けまいとする気持ちを鼓舞するものだった。もしかして、それは寂しさや悲しみだったのかもしれない。何度尋ねても彼は多くを語らず、時にハッキリ発した言葉は≪パパ。ママ≫と≪ウ~ヤ~タ~!≫だった。

4004:気配り上手

 8月も半ば過ぎ、会う人と交わすコトバは”暑いねエ~!”、7月からずっと35度前後の高温続き、猛暑~酷暑、これからもずっとこの状態が続くのでしょうか。ここに来て台風が数珠繋ぎ、3つの台風がまるで順番待ちしている様にみえる。大雨被害で大変な所あれば、全く雨が降らない所あり。地元の梨農家の方が丹精込め育てた梨が落ちてしまうと 祈るような日を送っていると話していた。
 地球環境の破壊に対し、対策は上手くいっていない。足並みがそろわないどころか 人間同士が争い、悲劇は止まず、これは仮想でなく現実である。
 
 朝夕に草花に水をかけてくれる Nさん ・・・・・気配りには 驚く。彼は私達の情報源で近所で何か起こったとか、自転車が田んぼに捨てられているとか 不審な人がいるとか・・報告してくれる、何もそこまでしなくてもいいんじゃないのと・・という周りの声に聴こえない振り(?)をする。
 それは此方の視点で本人は”虚心坦懐”それはもう・・・わだかまりもなく 平静な態度を崩さない。
 酒好きが嵩じて 数々の逸話を持つ昔の彼と比べ 今の姿を信じ難い気になるが、これもNさんが自らの体験から身につけた”処世術”、老後の在り方として見習うべき点は大いにあると思っている。
 ☆ ・・・≪欲尺で 観じた音の 夢まくら 秋待ち遠き 蝉しぐれ≫(沈思黙考:74才盆句)・・・

4005:観音とは

 音を観るとは? 「あらゆる感覚器官をはなれて、道理や、屁理屈を捨て去ったところに聞こえてくる音だ。簡単にいえば心で観ることである・・・」(『観音経講話』p442;鎌田茂雄)
 「隻手音声」の意について白隠の説を紹介している。「両手を相合わせて打った時は丁々(ちょうちょう)にして声あり。只隻手を揚ぐる時は音もなく臭もなし」 つまり、片手の音をどうすれば聴こえるか 有名な禅の問答ですね、それを音を観るといったわけです。判ったようで判らない、そうでしょうよ、ねエ~。貴方はどう思いますか!今風に言えば、政治不信を揚げれば判るかもしれません。公約を信じて皆さんが投票しているでしょうか?綺麗ごとが疑わしく胡散臭いってことですよ。 現職総理が次期総裁選には出ないと公言。すると先の都知事選のごとく・・・。信は人のコトバ。隻手どころか 彼方此方で握手か双手 何が何だか聞き取れない。都知事選との違いは、投票する人の数・・・・。制度の疲労は否めない。
 
 たぶん粛々(?)と制度にそって今回も行われることでしょうが内海の”凪(なぎ)”で育った魚と外海の”荒波”で育つ魚はどこがどう違う? 
 制度が時代にあわないと謂うなら、どうするの?保身や私欲にドップリ浸かっていると どのような言葉も同じように聞こえてしまう。・・・井蛙(せいあ)大海を知らず・・・・。カエルだけでなく貉(タヌキ)さん お気の毒に アンタらは人間の勝手の犠牲者です。カエルやタヌキの言い分もあるでしょう。先人が遺してくれた財や思いを食いつぶし、のうのうと暮らす輩と一緒くたにされては可哀そうです。ホレ みなさい 始まったでしょう!。有相の三業 三昧の態。
 そう言うお前も“同じ穴の○○”、・・・・・ ソロソロハラソロハラソロソワカ。(甘露陀羅尼)

4006:所詮(しょせん)とは?

 所詮(しょせん)とは? あれこれ考えて最後に行きつくところ、after all 、結局の意。詮ずる所の詮は、言+全で言葉のすべて。偏違いの栓(せん)という字は、木+全で”くさび”の意。有相無相は現象と真理で、有相は仮の存在、無相は本性。20代の後半、何かに魘(うな)されるように、無性にエベレストを観たくなり、小さなツアーに参加、はるか遠くから見たんですよ。早朝に宿を出て日の出を見に行きました。東から太陽が顔を出す瞬間、チョモランマ(8,846m)の頂が最初にピンクに輝いたのです。その時の感動を決して忘れません。旅の最後はベナレスでガンジス河岸で火葬場面を観るもの、なんとも言い難い体験でした。
 
 現代社会がほどほど感を失った結果、寄る辺なき人々が急増した。以前だったら、人知れず騒ぎ立てられることもなく、生きることが出来たじゃないか・・・・・。SNSという言葉が出てきた頃を思い出してみませんか。便利なものができたと一気に広まった。ソーシャル・ネットワーク・サービス・・人と人との社会的な繋がりを維持・促進するサービス・・・それが今どうでしょう?有効か無効か、維持か打破か、真実か嘘か・・・・最早、その区別もできず、為すがまま、止めることもできない。。。このような状況を誰が予想したでしょう。
 新手の商品開発に血眼になり、競い合う、・・・その結果、何か大切なものを失う”負の連鎖”をどうすることもできない。〈仏)三業は人間の身口意(行為・ことば・思い)、三毒は貪瞋痴(むさぼり・いかり・おろかさ)。三悪は地獄・餓鬼・畜生。を説く。
 今から2500年前の釈迦の時代と人間の本性は何も変わっていない。自省、自戒を忘れ一向に懲りないのです。
 暗闇を照らす光、命を危める爆弾の光とを一緒くたにしてしまうのは、地球上の生き物の中で人間だけということに・・・・・。☆ 多くを求めず 雨が降れば友や草木と共に喜び 笑い 悲しい時は共に泣く そういう者に 自分はなりたい。☆ナマグサ74才の誕生日

4007:淡々黙々

 西の空が黒い雲に覆われ、雷鳴がきこえる。風が吹き、体感温度が下がったと思ったら、大粒の雨が降ってきた。次の瞬間、滝のような凄い雨とけたたましい雷鳴となった。バリバリという凄い音、停電、・・・・・・。
 連日、同じような状況が日本のどこかで起きている。先ほど尚恵学園のどこかに落雷、火災報知器の警鐘灯が点きっ放しという連絡があった。、直ぐに保守会社に連絡するよう指示、3人の方が来て対応してくれた。結局、落雷で報知器の基盤が壊れ、消防署へのホットラインが使えなくなった。 これで2回目。 復旧が終わらないうちに、同じ場所で再び災害に苦しむ・・・・別に珍しいことではなくなった。台風10号が勢力を強めながら、近づいている。自然は容赦なく猛威をふるい、それに対し我々は為す術を持たない。今は気象衛星を使って、地球上で起こっていることをリアルタイムで知ることができる。その精度は確実に高まってはいるが、台風そのものをどうにかすることはできません。人災と天災の波状攻撃で現代人の心と体は蝕まれ、適応障害となる人が増えている。 応病与薬・・・この病の特効薬は”休む”こと、 是は特定の人だけでなく 世界中の全ての人々がですね。
 
 環境破壊に”高を括って”いないだろうか? 無関心、他人事は真実を知らないが故の果、社会に信頼できない情報が蔓延れば、そこに軋轢が生まれ、終に兵端を開くことになりかねない。すでに実態は 出処不明の”ああでもない~こうでもない”情報の坩堝と化している。それはブレーキの効かない自動運転車が公道を走ることを許されたようなものだ。人の手が届かない処に入ってしまった。よく考えないと先端技術は言葉のトリック、誰のため何のためにという目的を曖昧の儘にして開発(愚行)に夢中、それに乗り遅れない様にという心理を擽(くすぐ)る。
  もはや高見の見物とはいかんでしょう。そんなに急いで アンタは一体どこに行くんですか? 人生100年・・淡々・・黙々。 ★ 海水温度上昇が、台風の成長を増長、被害の連鎖★ 

4008:因果応報

 台風10号の動きは、今までとは明らかに違って、まるで私達を嘲(あざけ)るかのように・・≪どうだ!これでも懲りないか・・≫と言っているように思ってしまいます。土下座し、<参りました。もう二度としませんから・・許してください!> 口先だけの謝罪、約束を守らず、身勝手すぎる。この代償は計り知れない。これが自然の摂理(法)、今までの背信行為に対する”天罰”でしょうか。自然には執行猶予はない。一度壊れてしまったものは、簡単に復元できません。
 ここぞとばかりに、かくかく然然と勝手に自説をのべるお歴々、今さら警鐘を鳴らしたって、ダメですよ。現世における行為の結果として来世における幸・不幸が生じる。因果応報。自然界には司法取引は通じない。当然です。
 今 世界中で起こっていることは繋がっている。此処だけは大丈夫ということは在り得ない。いつどうなるか?誰もわからない。繁栄が長く続いた試し無し。だから・・・???。
 
 先哲が自然から学んだ因果の関係を現代人は勘違いしていないでしょうか。生成AIがその例証、欲の損得で周りが騒ぎ立て、本人は蚊帳の外。高気圧は渦が時計回り噴き出す、低気圧はその逆反時計回りで吹き込む、自然の理法ですね・そんなことは 知ったこっちゃない。いつの間に人間は我流の法を優先し我が物顔。挙句の果てに道徳もなく、ヒューマニズムの名において伝統にたいして破壊を繰り返す、これが現代の実相ではないでしょうか?
 ・・・徒囚は いずれも我が室内に安息す・・・/『良人の自白』木下尚江。 だったら???。

4009:文明の衝突

 文明の衝突は繰り返されてきました。物質文明の発達にともなって生ずる病気を文明病というようです。中でも精神上の疾患が多い。行き過ぎた進歩主義、便利さ故の弊害は随所にあらわれ適応障害という病名で括られる。これは偶然か必然か?本来、生き辛さを解消するために考え出したものが反対の結果を生んでしまう、それに気付いた時に止めるどころか更に前に進もうとする。黒白の二極化、主客の転倒も同じ 巧みな(?)レトリックにごまかされ、自分の安らぐ場所を見失う。 これも先どうなるか判りませんがね。 迎合か反抗? ・・・・・  あああああああ! 老いの繰り言 悪しからずご了承下さい。
 
 パリパラリンピックのライブ放送、私は平和の祭典オリンピックを手放しでは喜べません。戦争の無い”平和”を望んでも叶わず、悲劇は繰り返し起こっているのです。
 今 世界は混沌として、どこで何が起こってもおかしくはない。火種は際限なくあり、やられたらやり返す 戦火はエスカレートする一方です。瓦礫と化した建物の傍で泣き叫ぶ 子供たちや老人たちの姿を茶の間で観ているのです。これをどう思いますか? 無力感に苛(さいな)まれるだけ・・・ 苦しんでいる人にどう手を差し伸べて良いのか判らないのです。
  ”有為の奥山”をいつになったら越えることに”浅き夢見じ 酔いもせず”・・・。敗戦から79年、不戦の誓いを守ってきた日本が 今 何ができるのでしょうか?
 ・・・・色はにほへど 散りぬるを 我が世たれぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔いもせず・・・・≪いろは歌の漢字表記≫

4010:曇り時々雨

 自分の思い通りにしたいと思っても容易にできるものではありませんね。それを無理やりしようとすれば”苦”になる。これが仏教の基本的な考え方です。頭で解っていても実際にはできないものです。欲が絡むからだと。共生は願いです。そうなれば良いな~という望みです!無常は仏教の説く大切な真理、平和だった時代を懐かしく思うのは、平和が長続きせず変ってしまうことを裏付けている。”いろは歌”は日本語の47文字を全て一度使い歌にしたものです。天候不順。雨と晴と曇、このバランスが崩れれば禍の原因となる。今更と言う事を知っていて判り辛くしているのは実は人間自身ということも、その背景を探れば解るはずなんですね。パッチワークみたい?
 ・・・こころ清ければ仏をみる・・・この一節は”諷誦文”によく使われます。今日は曇り時々雨、外出には傘が必要!・・・。(ナマグサ一考)
 
 相手に分かり易く教えを伝えることが布教の原点だとその方は仰った。実態は一歩進んで二歩下がるという感じです。・・こころ清ければ仏をみる・・・と、いつになっても”曇り時々雨”で”晴”にならない。・・・永遠なるものを求めて永遠に努力する人を”菩薩”といふ・・と、この言葉に救われた。ああ・・そうなんだ!・・・”身の丈で良いんだ”と言われたようで気持ちが大分楽になりました。”維摩経”にあります。 釈迦の名立たる仏弟子が釈迦の使いで維摩居士の見舞いにいきます、次から次と維摩居士の前で惨憺たる姿を曝け出すというもの。何故? 急に激しい雨になって、雨宿りしている人に・・どうぞと傘をさしかける・・・それだけで良いのだろうか?天気は変わりますから一本の傘だけではとても用をなさない・・・・・。 是は”観音経”の33身19説法に通底するように思います。(不二・空)
 ※  ろっこんしょうじょう 有為転変 うゐのおくやま  六根清浄 ういてんぺん 有為の奥山 ⁂