源究211n211

  

No  テーマ  月日  No  テーマ  月日  No  テーマ  月日  No  テーマ  月日 
 3731  母のことば  7/5  3736  みなもと   7/18  3741  隗より始めよ?   7/31  3746  浮き沈み   8/17
 3732  面影   7/7  3737  いいわけ   7/20  3742  施餓鬼   8/3  3747  保護色アラカルト   8/20
 3733  沈思黙考   7/10  3738  自己顕示  7/23  3743  広島~長崎   8/6  3748  非常口   8/23
 3734  深層心理   7/13  3739  未知の探求?   7/26  3744  想像力   8/12  3749  免疫 
 3735  本来の姿  7/15  3740  分断か共存   7/29  3745  残暑見舞   8/15  3750  今世拾遺物語  ☆

3731:母のことば

 ・・・後の世を渡す橋とぞ思ひしに  世渡る僧となるぞ 悲しき
         まことの求道者となり給へ
・・・・・。
 この母ありて この子あり。 巷(ちまた)は箴言、諫言数多けれど 源信の母の言葉は重く、人生の道標として 時代に関係なく 親子の”絆”の姿。離れがたく繫ぎとめておく”ほだし”、耳慣れないコトバですが 刑具として用いた手かせや足かせを”ほだし”といいます。逆境⇔順境、”逆境にめげず生きる”とは言いますが順境にめげず生きる”とは謂わない。 母のコトバを幼い源信がどう受け止めたか?後に源信の著した『往生要集』(985年)から心中を推察する。日本の浄土教の思想的基礎となり、多くの民衆に広まった。地獄⇔極楽。世に極楽往生を望まぬものはいない。その為に 何をどうすれば良いのか?。 母の教えは後の世を渡す”橋”になれという、勿論刑具の”ほだし”ではない。獲るものあれば失ったものもある。力ずくで奪い取るのは略奪、分配の偏りは”搾取”・・・不満から始まり、終いは地獄と化す。
 洋の東西を問わず、誰かによって道標が抜かれ、書き換えられ処かまわず立てられる。この様をいちはやく文明の危機と現代人の病理とを予言し、諧謔あふれた文体で近代思想の価値の転倒を試みた『Orthodoxy]』(正統とは何か)を著わしたG.K.チェスタトンもその一人だ。
 何度も読み返し、その予言が今 見事に当っていることに驚く、100年前に書かれたものである。変化が激しく 100年後の世界がどうなっているかを予測できるものがいるかは疑わしい!この様は、当然 現代の”病理”にあたると言われるに違いない。
 
 KDDIの通信障害が起こった。同様のトラブルは過去にも他社で起こっている。今回はその影響が最大規模ということで大騒ぎになった。何故トラブルが起こったか?聴いたことが無い言葉で『輻輳』(ふくそう)が原因という。輻輳はIT業界で利用される用語で≪ものが一か所に集まる≫ことを意味するという。起こる原因は、通常より多くの通信が発生した場合とネットワーク機器のキャパシテイ不足だという。原因と結果は判っていても、その対応が追い付けない実態があるということが証明された!今の時代を象徴する競争激化社会が招いた現象、だから問題は単純ではない。ユーザーは挙って便利さを買うが、そのリスクは人任せ、電力使用制限もまったく同じで自分独り位はという気持ちは無くならない。
 源信の母の真意は、”世渡る僧となるぞ 悲しき”です。”我先”に勝利を獲ようとすることの”分別、診たて”を持てるか否か!
 実相は人間の”ほだて”を評する基準が経済優先のルールには馴染まないこと、ならば宗教界だけでもと思うが、残念だが問題はそう単純ではないという事でしょう。

3732:面影

 面影を伝える街並みを破壊する行為は許してはならない。あなたにとっては意味がないものかもしれないが 人々の心の中に残っている大切なより所。暴風雨の中で親鳥が卵を懸命に暖め孵(かえ)らせた雛が成長し飛びたつ。その空になった巣を違う鳥が子育てに使う。自然界で行われてきたことが何故!人間はできないのでしょうか。言葉で判らなければ面影を消さず立てること。
 with or after KORONA ! それがどういう事(道筋)かはハッキリしない。現代人が忘れかけている”面影”は、あるものを思いおこさせる”縁”(よすが)となる印象やかたちです。それが見栄や恣意によって左右されてしまうことに無関心。そうして勝手気儘を理想と思う人が増え続ける。これは偏った科学万能と経済第一を縁(よすが)とする社会を反映している。
・・・善友に随わずして痴人に親しみ ・・・富饒(ふにょう)の所を聞いて希望(けもう)を起し 貧乏の類を聞いては常に厭離(おんり)す ことさらに殺し誤って殺す有情の命 あらはに取り密かに盗る他人の財・・・≪密厳院発露懺悔文ノ抜粋≫覚鑁(1095ー1143) 
  南無 慚愧慚愧(ざんぎざんげ)  無量 所犯罪(しょぼんざい) 
 
 
 覚悟して宗教の視点から世の中のありさまを見つめてみたい。それぞれ宗教には共通するものがあり、人々の拠り所となってきたと想います。それが何なのか?異なる宗教や宗派間の対立・衝突によって起こる宗教戦争、1618年に起こった三十年戦争は新旧に分かれ国際戦争にまで発展した。無数の支流が集まり一本の大河となって海に注ぐ自然現象とは違います。大河のデルタ地帯に大都市が生まれたのは肥沃な土地で作物がよくできる自然の恵みがあるからで人々はそれに感謝した。しかし、人の気持ちは決して一様では無い。強く物を欲しがるのは生き物の中で人間特有のもの。それが人間同士の争いの元となり、略奪・搾取を繰り返すようになってしまった。
 果たして、政治は国家、宗教は個人の拠り所となれたでしょうか? 人知の及ばぬ、遥か遠くに行ってしまったように思える。人間の本性は、一人ひとりの中に在るもの・・・・これが”仏教”の考えの核心だと学びました。
 唯我独尊の本義。
 ★他に責任を負わし、自らは取らない。人間社会はその方向に向かっている。 自然(nature)の本性とは他の力によるものではなく、自らのうちに始源をもち生成変化する【哲】。
 ☆ 自然は飛躍せず。(生物学者リンネの言葉) 

3733:沈思黙考

蛮行、愚行、暴力・・・・という言葉が繰り返された1日でした。私は昼過ぎに葬儀を終え寺に戻ってTVで安倍元総理襲撃の事件を知りました。 何が起こっているのか判らず、NHKの画面に釘付けとなりました。日本中に大きな衝撃を与え、時間と共に世界の反応も入ってきました。午後5時過ぎ搬送先の病院で亡くなったという報道がありました。
 ”沈思黙考”・・・冷静に現実と向き合うことが本当に難しい時代になっています。様々な要因が考えられますが既に元の姿に戻ることは不可能とさえ感じます。
 ”元の姿”がどういうものかが判らない状況が現実です。人間が次から次に犯す蛮行、愚行を どうすれば減らすことができるのでしょうか! できないと諦めるのではなく、永遠に努力すること、これこそが 我々一人ひとりにできる唯一の方法だと考えなければいけないのではないでしょうか。
 
  言葉による表現の限界はあります。日本語は他の言語と違い日本語へ訳される道筋で複雑に分かれています。例えば≪しんぎ≫という字、辞書をひけば心木・心枝・信義・神枝・真偽・真義・新義・審議・・・など沢山の≪しんぎ≫に当る漢字が出てきます(大辞林)。自ずと辞典の種類も多くなります。
 ですからモノゴトの理解には、単なる言葉だけではなく 五感や五観を使うことの大事を仏教では説いています(観音経偈文)。
 溢れる情報に生き辛さと戸惑いを感じます。只管打坐や脚下照顧を修すとは 今すぐにでもできること。 それをやるか否かの判断は、貴方自身にある。、難しく考えるのではなく、より単純に考えることを説いています。素が見えなくなる付加価値、それを求め過ぎる現代社会の当然の帰結だと気付くこと。沈思黙考・・・・・・。
 ☆五感(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚) 五観(真観・清浄観・広大智慧観・悲観・慈観)

3734:深層心理

無意識による心の動き、仏教の唯識思想で第八識にあたる阿頼耶識(アラヤシキ)があります。人は自覚していることはほんの一部でしかなく、多くはアラヤ(蔵)の中に収まっているという考え方です。
 勿論 自分自身の蔵の中にです。この教えが日本に伝わったのは653年道昭によって、そして法相宗という形で奈良の興福寺と薬師寺が本山で現在に至っています。 
 今回の参院選投票率は推定で52%ということです。前回(3年前)が49%弱でしたから上がったとしても数ポイント、それをどう受け止めれば良いのでしょうか?私はいち早く期日前投票を行いました。投票する気持ちがあれば、その間にいくらでも投票できるはずです。全体の半分が投票をしなかったのは歴とした事実、民主主義を守るということが何を意味するか? 国民一人ひとりが考えねばならないことではないのでしょうか!これは日本の国内事情ということで いつまでもこの儘にしておいて良いはずはありません。
 その為には当然、報道の在り方も変わらなければならない。選挙結果に選挙区での総有権者の数で何%の獲得票であったかを明示しなければならないと思いませんか?事実を判り易く国民に知らしめる責任があるということです。
 コロナ感染で毎日報告される内容とあまりにも違っている。そこから学んだことを どう実行するか、  凶弾によって斃れた元安倍総理の意志を継ぐというのであれば 貴方たちが何をするべきかは分かるはずだと思います。
 憲法改正をするというのであれば、先ず選挙制度そのものを変え、国会に席を獲る条件を見直されなければならない。国民の義務か権利か それを明らかにする責任を是非とも果たしてもらいたい。
 
  憲法を改正しても良いか否か、今回の選挙の重要な争点という割に 国民にどれだけその意味が伝わっていたでしょうか?”国家の基本的事項を定め、他の法律や命令で変更することのできない国家最高の法規範”が憲法です。 今回の選挙で、憲法改正に必要な3分の2以上を確保したというが、それが有権者総数の一体何割になるでしょう。憲法にはそれだけの重さがあるということです。
 今回も年代別でみると若い人たちの投票率が伸びていない。これには どんな理由が考えられるのでしょうか?勿論 教育の在り方に問題が無いとは言えないでしょう。何を教え、何を学ぶかがおかしなものになっていないでしょうか!
 それと日本のメデイアは何かを畏れ避けているように思える、世代を超え日本全体がもっと自由に議論できる場になっていかないと この低迷(?)から活気を取り戻すには至難なことだと思います。先人たちの共通の思いは、敗戦から如何にこの国が自立するかだった。最優先に国民の生活(衣食住)を守るには何をすれば良いか・・・・・!だった。77年が経過し、その基本は変っていない。だが周りの環境は大きく変っている。
  今回の選挙もそれに国としてどう対応するかが問われている。 それには教育の場で憲法について自由に語り合える環境をつくらなければならない。過去のトラウマを引きずっているのか否か、現実には3ポイントの変化(52%)ということで終わった。
 

3735:本来の姿

 一度、”負のスパイラル”に入り込んでしまったら、そこから抜け出すことは極めて難しい。無関心を関心に変えるには小手先では無理。その根底に政治への不信があれば尚更です。この国の低投票率がその事を如実に示す。獲たモノと失ったモノを確かめ清算せず、自分達の都合よいことだけを取り上げる。時機を同じくして政党の違いがハッキリしなくなり政党を鞍替えする者が後を絶たず・・・投票の棄権は、そういった政治の在り方に対し、国民が”NO”の意思を表した結果だ!それが全体の半数になるという危機的状況を長い間放任してきた。
 これが当に”負のスパイラル”、それを内部から本気で変えようとする覚悟を感じない。そう思いませんか。
 教育によって それが改善できるかどうか! 諦めず やるべきだと思う。ぬるま湯に長く浸かり過ぎたことによって自らに甘く世界の変化に疎くなった。 年寄りはいずれいなくなる、あとは若者に託される。負の遺産を残し その解決の道筋を示さず後は宜しく・・・・で よいものか!先ずは立法府の本来の姿に戻ること。それを 貴方たちで出来ないというならば直ぐにでもバッジを外すべきと思う・・・・・
☆ 参政権は基本的人権の一。国民が国政に参加する権利。その権利を行使しないことに何らのお咎めが無い国はどうなのか、日本人が義務と権利を一から学ぶのは今一番必要なこと、それを憂慮ではなくチャンスと考えるべきと思う。
 
 ・・・我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い。・・・・
 ・・・学問するならば活きた学問 目の前の学問から片付けていかねばならぬ・・・・『柳田國男のことば』
 政治家に物言える官僚、柳田(貴族院書記官長)のような人物が今の日本から何故消えてしまったのか、立法・行政・司法の相互牽制により権力の乱用を防ぐことを原理とする日本が本来の姿に戻ることを今やらねばならない。柳田の言葉を空想→公約、学問→政治に置き換えてみたら如何でしょう。
  憲法改正の絶対条件 国民を納得させるだけの思想的裏付けと信憑性?それと子どもや女性の意志を反映できる環境が揃っているかどうか?。
 いつの間に慣用語となった有識者会議、そこで検討された結果を両院にはかる従来の方法をとる心算なのだろうか?誰をメンバーとして招聘するか?その透明性の有無?憲法改正は二番煎じではいけない。当然判っていると謂うかもしれぬ。そうじゃない、我々が我が事と思うためにも 国民投票で行うことが必要になるのです。
 ☆ 「男女平等ランキング2022」(世界経済フォーラム)146国中で116位、直近の参議院選挙投票率52.05%。此れ現実。
 ★ 「坊主の慣用する手段を試みるがよい」≪吾輩は猫である(漱石)≫

3736:みなもと

 利根町布川の徳満寺客殿にある「間引き絵馬」は柳田國男が12歳の時に故郷を出て布川の長兄の家に移り住んだ時に見て民俗学を志す切っ掛けになったというものです。私は何度もその絵を見せてもらった。水害や飢饉に苦しみ、貧しさのために子どもを間引きする母親の姿は”鬼”になっています。『我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い』という彼の言葉の”みなもと”です。
 憎まれっ子 世に憚(はばか)る・・・・という意味が柳田の生きた時代とは随分変わった。憚るのではなく陰湿なイジメや誹謗中傷になっている。その証拠に堂々と自らの名を明らかに諫言・箴言するものは減り、最初からケジメをつけ、責任をとる気持ちはない。これを処世術とする人が多くなった気がする。その背景には”ぬるま湯”に長いこと浸かり過ぎたことがあるのではないでしょうか!
 ”みんなで渡れば怖くない!””あっしには関わりねえことでござんす”・・・・ある時期に流行した言葉を不図思い出しました。
 
 
 『源(みなもと)清ければ流れ清し』「荀子」・・・君が正しければ民も正しくなることのたとえです。
 地球環境の破壊からはじまり、いつの間に人心もそれに染まった。これは自然の成り行きでしょう!それに気付いた時に どうしたか、私たち一人ひとりが胸に手をあてよく考えてみなければならない。今更 そんなことでは手遅れかもしれない。気付いても 為す術が見つからない?これが隠れた現実の方が遥かに物深いということだと思う。
 ”みんなで渡れば怖くない”??? 本当にそうだろうか! 一網打尽となり大惨事。”あっしには関わりねえ”??? 本当にそう思っているのでしょうか!
・・・利養を得んと欲して自徳を讃じ、名聞を欲して他愚を誹る(そしる)・・・このような世渡りの手引きを範としていませんか!源汚れれば流れも汚れる。
 

3737:いいわけ

 『循環端(はし)無きがごとし』「孫子」…モノゴトは常に循環してその始まりがわからないことが多いこと。
 謝罪が言い訳に聴こえることってあります。自分を正当化しようとする気持ちがあれば 誰しもそうなりやすい。それを避けたいならば寡黙に徹すること以外にないと。そうかな~?じゃ~ 言葉を発しない人はどうなりますか!現実に言葉をもたず自らの思いを伝える方法がうまく出来ない人達、重い障がいを抱えた人達、それを支える人達、毎日の生活で彼等とどのように接していけば良いのだろう。現実の方が遥かに遥かに物深い。
 この自問は常に循環しています。今の仕事に就く始まりは1年間の秩父学園でした。そこで出逢った人達にどのように関わっていけば良いか判らず立ちつくすだけ、気付かないような僅かな表情の変化にそのヒントがあります・・・と教えてくれたN氏。
 朧げになった50年前の記憶は 時々鮮明に蘇る。そう教えてくれた先輩が亡くなった。
・・・・今のGH制度を巡る、経営優先。運営優先を嘆いておられた。生き延びている者として、忸怩たる思いでいます。・・これはN氏のご逝去を知らせてくれた長野のY氏がメールに添えた言葉。
・・・・そうか~!俺たちの処は法人を4つに分けたんだ。それで良かったと思ってる。・・・・私が亡くなった知らせを知らせた札幌のK氏、
 この先輩たちから現実とどう向き合えばよいかを学んだ。
 
 信念をまげない人はいるものです。幾つもの修羅場をくぐってきて身につけたものか、それとも生来のものか?共通するのは”いいわけ・弁解”をしないこと、時に相手と激しくぶつかることもあったに違いない。論駁し或いは賛する中にホンネを観る。
 世の中に完璧な人間などいない、最後は相手を許し受け入れること・・・・そんな話ができた人たちが周りから徐々にへっている。
 現実と向き合うことは、結局 その人の生きた証となる。突き詰めると糸賀一雄先生の≪この子らを 世の光に≫に通じる。そこには慢心や驕りがなく只管の”願い”がのこる。
 この国が直面する最大の課題は、リーダーたる人達がその願いをどう感じているかが伝わってこないこと! 格差が益々拡がる中 勝ち組に偏ったいいわけが罷り通る社会が果たしてどうなのか!経済対策として国民に満遍なく一時給付を行った。それに対し自分達がどれ程の支給をうけているのか・・・・。いつの間にそのズレは修正が効かない当たり前となったのか!・・・・若し善根を作せば有相に住し、還って輪廻生死の因と成る・・・
こりゃ~ブクシ!いい加減にしろ!いいわけ無用 自戒せい!・・・、
 ・・・名を比丘に仮って伽藍を穢し 形を沙門に比して信施を受く   ”伏してむべなるかな~”(愚僧”ブクシ”の独言)

3738:自己顕示

 自己実現&自己顕示、似ているようで然もあらず。
 この言葉に”欲”を加えれば よりハッキリするでしょうよ。自己顕示は・・・自分の存在を目立たせ、他人の注意をひくこと、それは自分を実際以上に見せかけようとすること「・・欲」。良かれとおもったことが、還って輪廻生死の因となるとは実に物深いこと。生死は苦、迷いの世界と観る→繰り返しくりかえし迷い苦しむ(輪廻生死)。仏教はこの苦から救われるために説き続けてきた。
 現代社会は 此のまま進めば 危うい事になるように感じている人は多いのではないでしょうか。平和とは、他に誇るような煌びやかなものではない。当たり前のこと”良かったね”と共に感じ安心でき、それぞれの生を全うすること・・・それがいつの間に怪しくなる。さざ波か荒れ狂う大波か!勝徳(しょうどく)→嫉妬、卑賤(ひせん)→驕慢(きょうまん)、富饒(ふにょう)→希望(けもう)、貧乏→厭離(おんり)という浮き世の柵から様々な非梵行を犯すことになる。
でも これって全て 自分の中にあることだと謂うのです。
 
   よ~く耳をすまして・・・!

観音寺”四阿”
完成しました。
 個の尊厳は、それぞれが心の奥に育んできたもの、他人が憶測でどうのこうの言っても真実はわからない。 だって当人自身が判らないことでしょうよ。こんな事は在り得ない!絶対に!と思っていたことが 自分の身に起こった時・・・・・。
 水琴窟の音・・・地中に埋めた瓶(かめ)に水滴が落ちる音・・・よーく 耳を清ませないと聴こえない・・・。仏教では人間の感覚と認識を6つの境(色・声・香・味・触・法)で説く。無我の境(無心)、空は全てが因縁により起こる仮の相。
 ☆草刈りを始めると鳥たちが集まってきて何かを啄み始める。エサになる虫を獲っているのです。野良猫たちには定まった住み家がない。でも争ったり独り占めせず互いに上手に生きている。だが 唸り声をあげ威嚇しあっている時もある。それは片方が飼い猫の場合が多いように感じます。人間以上に彼らは弁えている!免疫力、自己実現・・・・自立だって 同様に!  その先はわかった様でわ・か・ら・な・い。

3739:未知の探求?

 免疫と自立する力が劣えている。自己中心になりすぎ、相手を受け入れることが減っていく。世の中が荒んだことを他の所為にして一向に自らを省みない。(現代社会の重層病理)
 嘘か本当か? 同意条約を交わしたその日に相手を攻撃したとしたら、皆さんは それをどう感じますか? 科学の進歩や便利さに浮かれすぎている間に人間は何が大切かを見失いかけています。同時に自分を正当化することに巧妙・狡猾になった。それがほんの一部だとしたらまだ間に合うかもしれないが、悠長に構えている余裕などない。慈しみや愛おしさが消え、不信や憎悪に覆われ、殺伐とした世への弾みとなるからだ。100年という年数は 世代交代がほゞ完結する境界領域、そして文明や思想の価値さえも変えてしまうものをどう受け入れるかはいつの時代も人間にとって大きな課題となっていく。
  朝晩寺を訪れ手を合せる人が増えていると感じます。
 
 恵みの雨かどうか それは分かりません!暫くぶりに纏まった雨、今も降っている。 その雨をどんなに待ったことか、丹精込め野菜・果実を栽培する農家の思いは尚更・・・・・・自然の恵みに感謝し、収穫した品を神仏に真っ先に捧げる、こういった文化は私たちに多くのことを教えてくれる。それ自体には高低・優劣の差はないということも。
 未知なるものに 人間は自分達の都合だけで土足で踏み込んでいないだろうか!自由は 何をしても許されるということではなく、尊厳は自分だけでなく 相手もいることを!一定のルール(しばり)があり、それを互いに守り合っていくことでバランスがどうにか保たれる。
 言っていることとやっていることが真逆の実態が益々蔓延る・・・ 世界平和の祭典オリンピック(北京)が閉幕し、続いて行われる障害のある人々のパラリンピック開催の前に ウクライナへの軍事進行が始まった・・・その衝撃も いつの間に語られることも無く一向に攻防は止まず5カ月を経過した。
 人間は”自然の摂理”をもっと大事にしなければならない・・・前触れを察知、その誤りに気付き、 止まるための道筋をも自ら破壊している。
★畏敬の念・・・心からおそれ敬うこと。☆施無畏(せむい)の功徳・・・

3740:分断か共存

 快楽主義×苦行主義。常見×断見。有×空。空×仮、・・・という対立する見解や態度を克服した立場→中道は”両極端”に偏らないこと。これは仏教の基本教義です。釈迦死後数百年後に二十の部派に分かれ、それぞれが自らの正当性を究め、釈尊の継承者になろうとした。原始仏教以来の三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)の解釈の違いは、現在も諸派の立場で研鑽が続く。2000年以上という長い間続けられていることになる。見方を変えれば人間社会では”分断と対立”が常に存在してきた証ともいえます。施無畏の印は手の形でそれを表わす。(右手を開き、手のひらを外に向け、肩の辺にあげる).無畏(畏れ無し)を施す。四無畏。
 人々が望む”パラダイス”は、外に見つけようとしても無理、自分自身の中にこそ見つけ育むことができると説く。また人間はたった一人では生きられない。この二つをどうすればバランスを崩さず生きられるか” 三法印の”無常””無我”涅槃”の3本柱が支えになるという・・・・・。
 私たちは軟弱な地盤に巨大な建物を建てようとしていないだろうか!自然の摂理と”小欲知足”は根底で通じる。見栄や外聞を偏重しすぎて満足できますか?その逆で流転三途の業を作すという。精々長生きできて100年、それだって 極々僅かな人に限られる。
 ”涅槃寂静”。分断か共存! 戦争を避けようとするはずが戦争を起こす因。例えば核兵器!空即是色 色即是空。堂々巡り。
 
 何かを懸命に究めようとすれば、偏りが起こる。それに どう気付くか! 詭弁や虚偽は、それを知ってか知らずか然様な人間の落とし穴。
 落ちて懸命に這い上がろうと’四苦八苦”、なんと 仏教の祖、釈尊はそこから悟りをえた。今の様に SNSや核の脅威は無かった時代に、いや、だからこそできたことなのかもしれない。
 真理に基づく いかなる教えであっても 後の世に姿かたちを変えても変わらないものはある。経文の頭に如是我聞(このように私は聞いた)という言葉がある、それを信じるか否かは自分の側にある。托鉢は生きる為に最低限必要な施し(食)をえるための僧の行、決して煌びやかな豪華なものを獲るためではない。此処に分れ目が生まれる。
 何かにすがって助けを求めようとする人に対し無畏を施すのが本来の使命だとすれば どうあるべきかは想像できるはず。。。そこに”中道”の本意があると。。。。
 法相宗本山薬師寺の高田後胤管長の言葉を思い出す。≪永遠なるものを求めて 永遠に努力する人を菩薩という≫≪仏法の種をまくことが私の役割≫
  それと自著『愛に始まる”人間らしさ”の回復を求めて』(徳間書店、1971)。半世紀経て さて”人間らしさ”が回復できたでしょうか!

3741:隗より始めよ?

 誹謗(ひぼう)か諫言(かんげん)か?”。≪名聞を欲して他愚を誹る≫ ことを戒めた覚鑁、師の一字一句には渾身の力をもって戦う覚悟を感じる。あるべき姿を忘れ堕落した本山の僧侶に自ら座主となり改革に立ち上がった中興の祖・興教大師は900年経った今も法灯をつぐ真言僧侶にとって確かなる諫めとなっている。
 政教分離・・・日本国憲法は、信教の自由を保障し、国、地方公共団体が特定の宗教団体に特権を与えたり、宗教的活動を行ったりすることを禁止している。(20条)
 今それがオカシナ事になっているとすれば、もし覚鑁だったら”名聞を欲する”からそうなると諫めたに違いない。この国の政治が名誉(名聞)職になった証か、与えられた特権を翳(かざ)し”後ろめたい”という言葉は禁句の世界。それでいて貴方たちは憲法改正だと勇み立つ。ここは 先ず隗より始めよ!と言いたい。 揃いもそろって失われた30年を取り戻す”覚悟と責任”を何処ぞに置き忘れたか!30年ですよ。30年。4年任期で7期つとめるベテランばかりですよ。
 今さら『戦国策』の郭隗(かくかい)の故事を出すまでもないだろうが 庶民感覚とここまで乖離すれば他に言葉は見つからない。  ああ・・・・熱い。アッ!! たった今強い揺れ。ナマズだわな。愚僧独言。
  
 
 ・・・・≪宗教が何故必要か、どうして大切かということは、宗教によって人間が悪いことができなくなるからだというのが、一番簡単じゃないでしょうか。・・・・それのもとになるものは、目に見えない判断があるということを信じたからではありませんか。つまり物質的でない力があると信じていたからだと思います。≫・・・柳田国男「村の信仰」
 ・・・人を押しのけてでも前に進んでいなければ、当然受けるべき恩恵もうけられないという焦燥にかられて「人々は」生きている・・・。めいめいが勝手な生活をさえしておれば、人のことはかまっておれないということが、今日ではごく普通の常識になって、そして今はもう人の前をはばかることもなく言っても、少しも恥ずかしくない状態になっている。 柳田国男「日本人とは」
 柳田の悲観的な状況認識は、100年後の国の姿を見事に言い当て、各自の欲求充足をこえる価値判断の基準を失っていくと断言する。
それは失なわれた30年ではなく、失われた100年というべきかもしれない・・・政治の功罪で罪の部分を隠蔽してきたツケは「ただ利と競争のみにさとく思いやりが少ない」「人の弱みにのみ明るくて助けることを知らぬ」「ただ善悪の批判を超越して、欺いて活き得べくんば活きよう」となった。参照。川田稔著:『柳田国男・・・知と社会構想の全貌』。

3742:施餓鬼

 恒例の施餓鬼会は3年連続の縮小した形で行いました。コロナ騒ぎが始まってから、密になることを避ける為、全国のほとんどの寺院は規模を縮小し行っている。コロナ騒ぎが終息すれば元に戻るのだろうか?正直、判らない!
 100年前のスペイン風邪は終息に3年がかかった。今回の感染でスペイン風邪の経験が随分参考になったというが 既にその体験を語れる人はいない。物の本によれば丁度第一次世界大戦(1914年)の最中で感染拡大が戦争終結に大きく働いたという。今次は それも判らない!。その後 第二次世界大戦(1939年)が起こったからです。20年の間に同じ過ちを繰り返す人間が 簡単に変われるものでしょうか?戦争はウイルス感染とは比較になりません、深く心に刻みこまれた恨みつらみはずっと後まで残る。
 表に出なかった事が一気に噴き出している、自分には関係ないとは言っておれない人もいるはずです。名聞~慢心は人間が三つの悪道(地獄・餓鬼・畜生)に落ちる元凶、施餓鬼は その餓鬼に施す仏教の行事なのです。持ちつ持たれつも場合によっては取り返しがつかなくなる。
民俗学の父と言われる柳田国男が宗教が何故必要か?と尋ねられ・・・宗教によって人間が悪いことができなくなるからだ・・・と答えている。宗教は信じるか否かで、信じなければどうなるか?
 信じたらどうなるか?
   お盆前に読もうと注文した本が届いた。 「長期腐敗体制・・・なぜ、いつも頭(トップ)から腐るのか?』白石 聡著。角川新書。
 
 
 猛暑のなか二日連続で施餓鬼会を行い、無事終わった。翌日 予報で38度の最高気温、塔婆を取りに来られる方の対応で 寺に居ることにした。時間があったので 届いたばかりの本を一気に読めた。
 私はあとがきから読むことがあり、今次もそういうことになった。
 悪徳の三拍子がそろった時代。不正=間違った政治理念を追求。ないしは、その理念に動機づけられている。無能=統治能力が不足している。腐敗=権力を私物化し、乱用している。本の裏カバーに書かれてあった・・・・。
 この本の初版発行日が今年の6月10日、一カ月後の7月15日には4版が発行された。それは、あの事件が起こった1週間後になる。
 ネットで本を注文した時、配達日未定となっていたので不思議に思ったが一カ月の間に4度再版された。
 併読中の『柳田国男・・知と社会構想の全貌』川田稔。とカバーに書かれた文言の違いが歴然としている。何故日本人は参政権を行使しない人が他の先進国(?)と比べ断トツに多いのか? それが私の長い間の疑問とイライラ感? だが一向に改善の兆しがみえない。
・・・ 衰退途上国から抜け出すために。・・・本の表カバーに朱の大字で書かれてある文言に目がとまった。要は私の無知が元凶ということなのでしょうが。(シニシズム)

3743:広島~長崎

 広島(8月6日、8時15分)、長崎(8月9日、11時2分)原爆投下、毎年迎えるこの日を私達はどのような思いで迎えているでしょうか?NHKラジオ深夜便で被爆体験者の方々の特集が行われています。今朝は佐野博俊さん(元都立大総長)が89才の時(2017年)に深夜便で話されたアーカイブ版、≪原爆投下 川を泳ぐ焼き魚≫。氏が入市被爆者となったのは17才の時でした。被爆者の方々が自らの体験を人前で話すことを躊躇する理由を語ってくれた。
 佐野さんは母ひとり子ひとり、広島市内の爆心地から1.5キロにある実家にお母さんだけを残し自分は学徒動員で30キロ離れた軍需工場で働いていた。原爆が投下された翌日広島市に入り、母親を一人で捜し歩いた6日間の話に私は大きな衝撃を受けました。
 ご承知のように平和を迎えることができた日本は今、高齢者社会の真っ只中にある。介護制度は色々な仕組みができています。これで助かっている方も多いと思います。けれど それを諸手をあげ喜ぶことができない現実があります。
 これから生きる若者達に何か伝えたいことが有りますか?と尋ねられた佐野さんが最後に語った言葉が心に残ります。≪私は誇張でもなく 縮小でもなく 公平な実感として真実を伝えたい。そして、これからは皆さんの想像力と思いやりに期待するしかないでしょう≫というものでした。
現に想像を絶する数の核爆弾が地球に存在するのに、新たに核兵器を持とうとする国が跡を絶たない!被爆者であり生涯を放射能研究に捧げた佐野さんが私達に伝えたかった言葉は重い。佐野さんは昨年6月に亡くなったそうです(93才)。
 
 投下された時間に寺の鐘を撞きます。
 現代社会の”病理”、その殆どが人為によるものではないだろうか? 誇張し、真偽のほどがわからない儘、膨大な情報が世界を席捲し続ける。私達はそれを止める術を知らず、ただ晒し続けられる。こんな環境が果たして人間の輝ける未来の最終到達点??? 未来志向が還って未来の崩壊に通じているかもしれない??
 今できることは一体何なんだろう!必要なことは何でしょう!祈り?・・カネ?・・権力ですか??
 突然、身に降りかかった災難をどうすれば良いか判らなくなった経験はある・・・・・逃げることもできず それと向き合っていくしかない。そんなギリギリの状況の中で私達が学んだことがあるはずです。
 時が経てば 記憶が薄れ いずれ忘れてしまう・・・・そして、同じ過ちを再び犯してしまうのだ。だから神や仏の存在する意義がある。ただ、幼い子にそれを望むことはできません。これは生物の中で人間が負っている”さが”の本質です、私達は誰かの世話にならねば生きられらないのです。それを想像することができるか! その想像力に敢えて”思いやり”を加えたのは 佐野さんご自身の極限状態から獲た生き様なのでしょう、

3744:想像力

  未来の見えないところを想像する力が大事になる。(小泉八雲) 
 今日(8/9)は長崎に原爆が投下された日です。・・世界は全体幸福がなければ個人的幸福はない・・。いつも どこかで争いが起こり、犠牲者が跡を絶たない。実に悍(おぞ)ましい話だ。果たしてこれから先も同じ過ちを繰り返し続けるのだろうか?
  現代日本人は、一般にただ利と競争のみにさとく思いやりが少なく、人の弱みにのみ明るくて助けることを知らぬ者、手前勝手な孤立人種のごとき印象を与えんとしているのである。その悪弊の集積層は、本来は田舎にあらずして都邑(とゆう)であった。・・・「しかし」田舎も少しづつこれにかぶれてきた(柳田国男「国史と民俗学」:1948)
この本が書かれた頃(70年前)、柳田が想像した姿に世の中が加速して進んでいるのではないでしょうか?勿論 日本だけの問題ではなく、世界がそうなっている。兆しや因果関係で探ろうとしても 難しい。そのドサクサに紛れ、倫理や道徳も虚ろいて昔の面影は消えて行くのか。
 狭い土地、小さな家が、まるで私の実験場のようです。田んぼ、野菜畑, 薪割り場、くつろぎ場・・・・、癌に本気になられたら私など打つ手がありません。唯々、前を向いて頑張ってみます。
 (友人から戴いたラストメール。心からご冥福を祈って。)
 
 誰しも大切にしていたものを失った時、”自暴自棄”に陥るのは仕方がないことかもしれません。この世に完璧な人はいないんだから・・・・・・。見えないところを想像しようとしない人は往々に自分を勘違う、己の悪弊に気付かず不完全燃焼で必死にアクセルを踏むようなもの。
 省みて、我利我利亡者=我利我利坊主!”何が大事か?” ”くわばらくわばら”のおまじない。自ら選んだことなれば 一切に自身の責任で処するのみ!
 ・・・・・『 名を比丘に仮って伽藍を穢し、形を沙門に比して信施を受く  受くる所の戒品は忘れて持せず  学すべき律義は廃して好むことなし・・・・・』の諫めを道標に・・『苦は楽の種』となりうるか・・・。 あと5日で72才、感謝し 前を向き歩き続ける遍路路 これ我が人生の大事。諦聴(たいちょう)せよ!(想像力)

3745:残暑見舞

 立秋(8月7日)を境に”残暑見舞”の慣習は四季がある日本特有なものかもしれない。近頃は随分様変わりし過去の記録を悉く塗り替える酷暑と大雨は日本のどこでも起こります。 これでは歌に詠む季語もいずれ姿を消してしまうかもしれません。風流韻事は遠い昔の風雅な遊び? 現実と仮想、理性と悟性・・・・今その境はなくなり、ゴチャ混ぜとなった、webによるサービス(SNS)が急拡大する中で情報は独り歩き、最早、それを制止できない。時と所を構わず不法に他のコンピューター・システムへ侵入し、データー改変、コピーなどが日常茶飯化している。それも社会全体に拡がって、攻撃する側もされる側も共に被害者 宗教だって例外でなく、相手の弱みに乗じた行為は目に余る。当にこれは”人間界の災禍”であり、それに自然界の異常事態にも苛まれ 我々は何を信じて良いのか判らない時代に突入したようです。 ミサイルがどこから何時飛んできてもおかしくない、誰が何の為にやったのかも判らない。一夜にして一変、阿鼻叫喚の巷の態をなす。こうなった原因は 本当に解かっていないのでしょうか、あまりにも偏り過ぎた”欲”とそれを正当化しようとの目論みが益々エスカレートし、略奪、隠蔽、騙し合いが”万古不易・天壌無窮”となりました。
 さあ~どうしたら良いものか!
  ・・・ 早朝と夕暮れ時 墓参りする人がいつもより増えたように思います。・・・ (観音寺
 
 盆休みコロナ自粛の3年目。世界の動きに遅れ気味、石橋叩いて渡るのは日本人の得意ワザ? でも、その是非は結果次第。今年は人の動きが戻ったか!高速道路の渋滞が各地で起こっているらしい。中には海外に出かけ、ショッピング、青海原で甲羅干し・・・・どちらにしたって羨望境(?)
 ちょうど棚経の帰り道、虫取り網を担いだ親子に出くわし、≪なに とってるの?≫と尋ねたら「ムシ ・・・・」と2歳くらいの男の子。炎天避けた夕暮れに 近くの田んぼで 至福の親子。贅沢しないでアイデア次第。

 ♪  なぜかパラソルにつかまり あなたの街まで飛べそうです 
          今年の夏は 胸まで熱い  不思議な不思議な夏です。 暑中お見舞い申し上げます。♪(キャンデーズ)
 

3746:浮き沈み

 今夏は農作物に必要な水が乾き思い通りの作物ができなかった話を多くの人達から聞いた。一方では大雨被害で大変な所もあるのでそれも控え目に、天気は気紛れなものである。日本は流通網がしっかりしている。生鮮ものをその日のうちに送り届けることができる国などあまりない。これを当たり前と思っている人が多いが陰では昼夜休まず働いている人達がいるからだ。これも平時なればこそ。ドイツに空輸便(EMS)で送ろうとしたら停止中で使えない。理由はウクライナとロシアの戦争だった。遠い外国の出来事?と思っている日本人も多いのではなかろうか。これだって いつどうなるか判らない。
 一事が万事!自分には関係ないなど言ってはおれないことを肝に銘じないとならない。巷にはその類の話ばかり。浮かれすぎても沈みすぎてもダメ。背に腹はかえられぬと己の苦痛を逃れる為 他を犠牲にすることになれば争いになる。
 適応力 想像力 忍耐力 ・・・・・。態々 ”力”を付けずともよいのにねエ~! 要は語感だ!表面的で冷たさを感じない、相手に対する”思いやり”が抜けている。(色即是空 空即是色)
 
 
 ”相””観””道””心””悪””毒”・・・・思い付くまま並べてみた。これって仏教の教えを示すもの。それぞれ関連性、整合性があり私達が命題と向き合う指標となっています。私はお釈迦さんの相手に対しての思いやりだと思っている。応病与薬・・相手に応じ、生き方を説く・・・。
 情報戦争は現代社会を象徴しています。メデアの使命、政治の責任もそうでしょう、事実をもとにしたものでなければならないのは自明の理、この道理を忘れた姿は悪弊以外の何物でもない。我が意を得たりと惹句を惜しみも無く使い、見映えに偏り過ぎた。
 豊かさ(?)平和(?)に長く浸かり過ぎた後遺症は、真贋(しんがん)見分ける眼力にあらわれる。(五観の一)
・・・・・ いい加減 目を覚ませ冷ませの 送り盆・・・・・「先祖からの残暑見舞」  

3747:保護色アラカルト

 食うか食われるか・・・被食者が捕食者から逃れる為、目立たないように色を変える。その逆もある。餌食になるものに目立たず近寄り捕食する。保護色に隠蔽・威嚇・警戒の3つの色あり、そのどれを選ぶか?自然界の悠久な”掟”、人間社会もそれと同じうようなことが行われてきたのではないか?盆明けで後始末しながら不図浮かんだ。
 手腕という字の頭に外交・経済を付けたらどうでしょう。、国の浮き沈みは歴史から学ぶこと多し、何せ未だ見ぬ世界(未来)を描くことはできるが学ぶことはできない。仏教教義の一つ”因果”をどう解釈するか、その基なる考えは、今は以前の何らかの事物の結果であり、将来の何らかの事物の原因というもの。どう観じるか? 隠蔽か威嚇か警戒か????邪教か正教かの分岐点。
 平時に目立たないが有事になると一変する。諸行無常・諸法無我・涅槃寂静、これぞ仏教教義の三法印、さ~て あなたならどうする!何を好んで注文するか 食前 食後 保護色アラカルト。
 『無茶処』寺子屋カフェは オープン未定。
 
 振りかえれば、課題は少しづつ観えてきたが、それとどう向き合っていけば良いのか?自問自答の終わりは無い。懐旧の情に駆られるのを避けるのでなく受け入れる。生きてきた証なのだから・・・・と自らに言い聞かせる。
『闘病記』  10ページになるご主人の終末を共にすごした奥様が記したもの。召天され丁度一か月が経った日に届いた。
 大学病院での治療を断念、在宅での緩和ケアーを選択したというメールには まだ遣り残したことがあるので希望をもって生きたいと記されていた。後段には死を不思議とワクワク感をもって受け入れる気持ちですとも。
 命の大切さ、弱い命を守りたいと常に語っていたN氏、公職を定年前に辞し、第二の人生を懸けたボルネオで取り組みは 多くの人に感動を与えた。何度も誘われ、思い切って訪れた時、飛行場に出迎えてくれた。ご自身の運転する車で最初に訪れた場所は 広大なジャングルを見渡せる高台だった・・・・・≪父が働いていた場所です、ヤシ油をつくっていた・・・・≫ お父さんの戦死の知らせがあった時、一歳になったばかりだった。
 命の大切さとは、与えれたいのちを生き切ることで酬いるという話を何度も伺った。 そこには 私達が忘れかけている平和と安心とにどう向き合うかという挑戦者の生き様があった。
 

3748:非常口

危急事態になった時の非常口はありますか?
 年々増加している自然災害への対策として、日本では「避難情報に関するガイドライン・内閣府」、警戒レベルを5段階に分けた指標がある。最終的には「自分の命は自分で守る」しかないわけですが、テロや戦争に対するガイドラインはどうなっているのでしょうか? 「自分の国は自分達で守る」という割に、戦後77年が経過して今どうなっているか 国民の多くはよく判っていない 。このような状況が今後も続いていくのでしょうか?何がそうさせているのか?それをどうしたいのか?国民を含めた議論が タブー視のなかで先送りされてきたのです。自由と平和を当たり前と感じている国が、今時 どこにあるだろうか?
日本人が自国の政治に関心を持たなくなった最大の原因はこの辺りにあると思います。核心に触れる議論を避け?、小会派の離合集散が繰り返されてきた。一向に何をしようとしているのか判らない。さらに政党を”わたり 歩く政治家”は跡を絶たず、その度に塗り替えられる公約をずっと見せられ続けてきたのです。これでは国の為ではなく自分の為でしょう。
 これを危急と感じるかどうか!最早 警戒レベル5になっても非常口どころか出口がないでしょう。水槽の水を取り換えずにいれば魚はどうなるかです
 
 何かがオカシイという兆候はあった。いつ頃からかは定かでない 道を見失い彷徨い始めた!自然の摂理・人の道にもとる行為は自分を偽り欺くことを悪と感じなくする(シンドローム)。 症状が重くなってから気付いても時すでに遅し。
  ”アイツがやっているから俺もやっただけ。何が悪い!”開きなおって反問”するか”謝れば それですむ”と勘違う。至れり尽くせりの温室育ち いざ非常事態となって、自らどうして良いか判らない。挙句の果てはホトボリが冷めるまで姿を隠す!せめてもの処方箋(?)。つける薬がなくなった。
 人間も”国”もそうなるリスクはありますよ。
ここ数日で夜間気温が下がったと思ったらまた上がった。 いつも起きる時間に眠くなる。夢から覚め時計をみたら4時だった。自律神経に異常?それとも 正常?判らない症候群。

3749:免疫

 免疫とは、体が自分にとって健全な成分以外のものを識別して排除する防衛機構のことです。体液性免疫と細胞性免疫があるという。
 感染してしまうのは、ウイルスに免疫力が負けてしまった結果です。抗体ができ 次の感染を防ぐ場合もあるでしょうが ウイルス自身が変異を繰り返すので難しい。その仕組みは判っているようで 実は厄介ものです。失敗を活かし、同じ過ちを繰り返さない。果たして それができた試しがあるでしょうか! 欲得、名誉、利権、・・・様々なウイルスが世の中には充満しています。ガードを固めると言っても じゃ~どうするんですか? 
 此処は熟考&沈思黙考!自分にとって健全な成分なのか?それとも大義にとって健全なものか?先ずはそれを考えるのに指標が必要でしょうね。
 *「十善法語」慈雲尊者飲光:参照 ・・・≪この十善に反するを十悪という・・理に順じる心を起こすを善という。乖背(かいはい)するを悪と名つく。≫ 善と悪は表裏の関係にあると説いた。
 平和を掲げても乖背すれば悪になるという意味ですね。
 因みに慈雲の号は百不知童子です。意味は何も知らない子どもでしょうか?『百不知百不会』(ひゃくふちひゃくふえ)無文禅師の公案にあります。奢るもの久しからず・・・・ウーム! 有識者会議? そんなの早く止めた方がいい。百不知会議にすれば こころが開く。
 
 雨戸を開けたら 外は真っ暗、夜が長くなったことに気付く。同じ時間に家の中が28度以上あったのは一週間前だった。
相も変わらず、勝手気儘に拙文を止めない。まさに身口意顛倒し、不善な業を犯している。百不知童子を号す慈雲飲光(1718~1804)、江戸時代中期の真言宗の僧侶。飲光(おんこう)という名が物言う。光を飲むというのはどういうことなのか?愚問かもしれないが当人はどう観じていたのだろう?
 十善⇔十悪。殺生・偸盗・邪婬・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見。
 変化の激しい世にあって 生まれた時から持っている名は、親子の縁を観じる。・・・・生得観念。( innate ideas )・・奇々怪々。齢を重ねつくづく想い返す。

3750:今世拾遺物語

 ”落穂拾い”はミレーの代表作品、”晩鐘””種まく人”などがある。200年前、農民の働く姿や生活を敬愛をこめ描いた。産業革命を経て世界は大きく変わっていく。良く変わったのか悪くなったのかも判らず近代化を唯一の目標として追い求め競争を激化させてきた。今 ウクライナで起こっている事は農民が丹精こめて栽培した小麦を輸出できす、世界が食料危機に陥っている、その影響は常に弱き人々が受け、さらに原発を狙った攻撃が起こっている。互いに相手国がミサイルを放ったと非難する・・・・。真偽は分からない、しかし、現実に起こっているのだ。斯様に答え無き”綾取りゲーム”を人間は止めることができない、そして相手を敬愛し平和を願っている人々の手の届く処からドンドン離れていくのです。当に混迷の時代を生きている。豊かさ×平和、イコールではないことを顕現した。
 今 外はドシャ降りの雨が急に降ってきた。愚行を止めようとしない人間は自然から反撃を喰らっているということをどうしたら気付くのでしょう?しかも人間だけが特権を与えられた生き物だという自惚れによって地球という大画面に勝手放題にSF、VRを映し出し、着飾った人間を集め、満足そうに観賞している様に見える。それは”落穂拾い”とは真逆の構図で全ての蛮行を地獄絵に上書きしたものだ・・・・現実を最高規範として、芸術は之を模写する外は無い。(島村抱月)、云々。
 
 
 50年前、日本は高度成長の真っ只中、東京は華やかで昼夜問わず人々で溢れていた。田舎者の私は現在の都庁から然程遠くない場所に初めて間借り生活を始めた。その時、此の儘日本は進んでいくのだろうか?
 もしそうだとしたら 大変なことになると思った。 街の風景が変わると時間差で人間そのものを変えてしまう。 真偽、善悪、等々・・・ハッキリせず、思いやりや助け合う気持ちが薄れていく。
 私(S25年生)の年代は東京オリンピックを2回とも経験している。朧げになった記憶を辿ると、今回のリンピックは本来の姿と明らかに変わってしまったことが判る。商業主義という”ビジネスモデル”の限界を露呈した事象は後味の悪いもので負の遺産となる。それも一塊の人間によって創りだされる。そうだ!SDGSの17の目標(1⃣NO Poverty 2⃣ZERO Hunger・・・)はどうなったでしょうか? 食料を争いの武器に変えてしまうこと、ルールをつくるものがいれば壊すものがいる。anti-SDGSの実体は益々人間の本性を曝け出す。
 ミレーの描いた”落穂拾い”には”敬愛”の想いが含まれる。これを見極める眼も萎えたのか!速報・・某県知事選 投票率29.09%。これに対しマスコミは殆ど触れない。費用対効果で7割は無駄?これが現実 オカシクないの???。
 雑多の物を創造する力(一緒くた)+何を捨て何を残すかを想像する力(拾遺)=今世拾遺物語。