源究185 *1

  

N o  テーマ   月日  N o  テーマ  月日    N o   テーマ  月日 N o  テーマ  月日 
3211  野に咲く花  10/12  3216 つれづれげ   10/30  3221 取引  11/15  3226  継続は力か?  11/30
3212  街風景  10/15  3217 施無畏   11/1  3222 モニタリング   11/18  3227  欲の感性  12/2
3213  思いつき  10/20  3218 逆撫で   11/5  3223 プレゼント  11/20  3228  節目  12/6
3214  「福祉」の根拠   10/24  3219 一晩寝て   11/8  3224 宝物   11/25  3229  支え合う  12/11
3215 鉄則  10/27  3220 願わくば   11/12  3225 1970年代の懐旧  11/28  3230  変化の兆し  ☆

3211:野に咲く花

 
 夏から秋、季節の移り変わりは秋雨の合間に気温40℃あった酷暑とは打って変り気温が20℃に達しない日になった。この時期ぐらいかも知れない。縦に長い日本列島の北と南の気温差がハッキリするのは。そして原風景、収穫を終えた田畑には それを待っていたかの様にいろんな草木が顔を出す。どこかで秋草を刈るエンジン付き草刈り機の音がする。大きな草に隠れた名の知れる花、真っ赤な曼珠沙華が姿を消したあと 少し控え目な色をした、良く見れば凛とした花に変わった。
 私はスマホに撮った花の名を教えてもらう為 友人に送る。すると 花好きの奥さんに尋ねたりして 名を教えてくれる。
 昔は 季節の挨拶を押し花にしたハガキを使った。それが 事の良し悪しは別として 一瞬のキイ操作により 目的を果たせる。だが、この便利さを悪用する輩は次々に新手を考え 悪事を働く。現代人は便利さに慣れてしまい 今では使わなくなったものを片隅に積み上げ何も感じなくなった。 部厚い辞書も然り、それと公共の図書館だってそうかもしれぬ、本の貸し出しが昔と比べ どれだけあるだろうか? おそらく 利用する目的が違うのだから 想像はつく。
 ちょっと気になった自立と自律の意味、この違いだって 今では電子辞書かネットで調べる。世界中で自律神経の失調で医療の世話になる人が増えている。その病状は自分で自分の行為を規制する機能がおかしくなるのだ、その病因といえば ストレス、ただ そのストレスが何によって起こるかを特定することが難しい。結論は 生きて行くことがストレスと診断され どうすることもできない。これが実相である。
 主に目や耳から入る刺激に上手く対応できない状態だと聞いた。名も知れぬ花に何故 心惹かれるのだろう?もの謂わず 時が来れば花を咲かせる、植物には 自らを誇ったり 他と比較し 勝ち負けに拘ることはない。
 人間は 自然をも思うようにできると考えたかもしれない。結果は全戦全敗 それが果たせぬことという事を知ってか知らずか・・・・・・。狡猾さは それを認めたがらない。自立と自律の共存の難しさ。自分で上手くコントロールするのだから素晴らしい。
 大国の特権か? 大幅な株価の下落のニュースに隠れ 控え目に報道された。それは 核実験実施のニュースだった。 
 ☆ 他律とは 意志が、理性の命令でなく、感性の自然的欲望(傾向性)によって規定される。(カント)  上記の植物名は?
 植物名:オキザリス。
 最初 紫色の葉に目がとまった。紅葉にはまだ早く 一先に緑から紫に衣替え? そうではなく元々が紫の葉で5枚の白い花弁をつける。
  例の好奇心が沸々と。動植物たちは年月を重ね 色形を変えながらも 環境に合わせ上手に生き延びる。一度訪れたタスマニアは船から降りる時に 靴底を厳重にチェックされる。消毒し外から雑菌などを持ちこまないようにしている。それはタスマニア固有の動植物を守るためであり、そうしないと人間が自分達の都合で環境を変えてしまう。これを防ぐには 入口でのチェックを厳重にしないとできません。
  今世紀に入って 地球上彼方此方で天変地異が起こっており それが増したように思います。カテゴリー4というハリケーンがアメリカを襲った 無惨な爪痕を残したその嵐は気圧が915hPa、これは過去三番目の勢力だった、 どんな壁を築いたって防ぎようがない。海水温度の上昇が大きな原因という事は 今では疑う余地は無い。だから防ぐ方法としては唯一 海水温度の上昇を下げるしかない。地震は全く違う。いつ どこで 起こるかという予知が難しい。
人間の勝手で自分達の利益を最優先に考えている。このことが過ぎるとどうなるか?それを判っていながら 同じ過ちをなぜ繰り返す。
 ☆≪他者が欲望するものに欲望する≫(ルネ・ジラール『欲望の現象学』)

3212:街風景

 茨城の県都 水戸の駅周辺は嘗て人通りが多かった場所は建物が壊され 空き地や駐車場が増えた。駅前整備事業の後 北口周辺には全国に名の知れた予備校が林立、南口はホテルが多くなる。御多分に洩れず駅に通じる嘗ての目抜き通りは人影はマバラ、目立つのは急増した駐車場で  駅からの距離で駐車料金が決まる。
 街の中心地から少し離れると一戸建ての住宅がドンドン建っている。市町村合併で水戸の人口も増えたが 県庁所在地としては27万の人口は決して多くは無い。茨城県全体では約287万人で静岡に次ぐ全国11位、5年間で約2万人が減少している。
 但し、関東平野で県土の耕作地も広く これは北海道に次ぐ全国2位、要するにどこにでも住めるだけの土地がある。東北新幹線が県西の古河をかすめて通るが残念ながら停車駅になっていない。東京に向かう常磐道、それと横に伸びる北関東や圏央道や東関東道が交差し さらに大型船が利用可能な鹿嶋とひたちなか市の港湾や茨城空港もあって実に便利、将来の発展可能性を実に多く秘めた県である。
 生まれ育った県を誇れるという幸せは 孫子の代まで続けたいものである。そこで育まれた県民性は コセコセしない 大雑把、大器晩成型と言いたい所だが過去に名だたる大器は存在しない(モノの本によれば?)。
しゃーねんだ しゃーねんだ かまねーんだ かまねーんだ ♪ の歌詞も 今は消えてしまったが 良くも悪くも図星だった。
 昨日水戸で会合があり 少し離れた駐車場に車を停めてしまい 歩いたら 義公誕生の地という処を通った。そうそう 茨城は徳川御三家の一つ水戸黄門・ご老公、ゆかりの地 日本の歴史で 節目節目で活躍した多くの人を輩出したのでした。 
 ”ピンピンコロリン”か”ネンネンコロリン”か? 人生の幕を下ろす時の事を AIロボットに考えさせた結果、多くの人が望む”ピンピンコロリン”(元気な儘で身罷る)には どうすれば なれるかと。するとAIロボットが専門家さえ浮かばなかった答を出した。それは 読書することでした。何でも 健康寿命が高い山梨県が図書館の利用率が全国で第一位という調査の結果から導き出したようです。最近の本離れはより加速している。街の中にあった本屋が激減した。どこもかしこもで わずかに駅周辺とか駅ビルにある位となっている。ネット販売を利用する人も増えたこともあろうが 電車内の様子を思い浮かべれば頷ける。昔は本を読んでいる人が結構いたものです。それが 見事にスマホと睨めっこの客ばかり。私は 電車を使う時には 必ずカバンに本を入れていく。
 ネンネンコロリン ネンコロリン 子守唄の歌詞ではない。寝たきりで死ぬことを言っている。周りに迷惑をかけたくないという思いが裏にある。仕事柄 病と闘いながら必死に生きている人達を大勢知っている。その中には 笑顔を絶やさず 周りに元気を与えてくれる方も沢山いる。ただ  超高齢化社会の真っ只中の日本では 寝たきりで長い間 床に伏して終末を迎える人も沢山いる。このような中で  ピンピンコロリンを選びたいという人の気持ちは良く判ります。
 この辺で 宗教の出番となるはずでした。ハッキリと言えない理由がある。僧侶の私が言うのもどうかと思いますよ。でも実態がどうなっているでしょう? 宗教を取り巻く環境は 天変地異宛らの様相を呈しています。盛んに貿易戦争という問題が話題になっていますが 以前からあった宗教戦争は減るどころか増えているように思います。実際には 宗教の名を借りた一部の特権階級の覇権争いだとは思う。
 傾向として 本離れと同様に宗教離れも進んでいる訳です。これらが果たしてきた役割を AIロボットが代行するとは 考えにくい。
 病は気から・・・・・私もそう思います。体に何の問題もない人でも心が病んでいたら それも同じです。気になるのは 心の問題で苦しんでいる人が増えていること、健康寿命は 病気を持っているかどうかではありませんね。 病気を受け入れ 上手に生きている方が沢山います。なぜ それができるのでしょうか?
  今日 午前中に出席通知を出してあった会議をキャンセルします。葬儀が入ったためです。葬儀の連絡が入ると 最初に日程の調整をして その後 過去帳を調べます。寺の都合というより 斎場・火葬場の空きが優先されるようになってしまった。 前からの予定を ドタキャンすることがどうしても多くなります。無理して用事を終えてから葬儀に行くということを 前は よくやりました。高速のサービスエリアで衣に着替えるなど何度やったか判らない。 それで 失敗を何回も繰り返した。定刻になっても坊さんが来ないと心配をかけたとか 草履を忘れたとか  それは無理になったことをやっと自覚しました。 
 故人は10月10日の誕生日に亡くなった。満91才でした。ご両親は父親が99才、母親は91才で亡くなっていますので 長命の家庭でした。
 家には家の風景がある。縦軸 横軸 まず 自分の置かれた位置を確認し 生かされていることに感謝。 通夜は 亡くなった人の生きた証を確認し 礼をつくすことです。
 2018年9月15日現在 日本の100才以上の人口が6万9785人 48年連続で最多更新されている(厚労省)。
 

3213:思いつき

  ユーチューブで癒しの音楽を聴いています。随分変わったものです。レコードが物置の奥に仕舞われ カセットも出番なし、でも 其れにかわるものが 次々に現われる。
 確かに 心を落ち着かせる効果は音楽にあります。僧侶が唱える声明もそうかもしれない。読経の最初に節付(博士)の讃を唱える。すると ざわついた堂内が静かになります。でも 時間の長さや唱え方によって ガラリと変わりますが・・・・・
 ”面従腹背”という話をラジオで聴いた。表面的には服従し 内心は反抗すること。外国の話かも知れない それとも身近なことかも・・・・。
 暫く 静かになっていたと思ったら またしても免震装置のデーター改ざん問題が出てきました。全て同じですね 何らかの意図が働き 実態と違った結果を公表した。主管庁が社長を呼び出し改善命令、でも勧告をする側だって 同じような問題を持っている、滅茶苦茶ですがね。名だたるトップ企業の不正連鎖。 いま 施設に税務調査が入っています。別に隠す必要もないから 構わない。5年分のデーターを調べるとか じゃ~ 毎年行っている県や市の実地検査はどうなの?おそらく 国は地方分権と言いながら地方を信用していないのかと尋ねたい気分だ。調査の中味は 主に職員の所得調査 職員が園生と一緒に食事を取っている。その食費の自己負担が実費より安くなっている。その差額を5年分調査するとか 一食に付き約200円、130名いる職員別に食数を全部出し 年間の食費補助額を調査するという。税法が変わったそうで 我々の言い分に聴く耳持たず。 じゃ~職員は園生と一緒に食べなくて良いのか! 皆で楽しく食べましょう。
 事業計画から削除しなければならない。限られた人数での工夫だといっても 担当者は判らない。職員の中には週Ⅰ回GHで夕食を共にする人もいるから 個人所得月額の中に実費差額1食200円×4回 800円を個人所得に入れるように という意味に解釈した。1年でプラス1万円。フーム!
 おそらく ウチと同じような事業所を全国一斉に税務調査しているのでしょう。 昨年 全ての社会福祉法人を調査したのですが 予定した還付金(福祉充実残高?)が出なかった。多分 それに代わる動きの一つですよ。現場の税務職員皆さんは実に真面目にやっています
  でも何か 変だよな~。財務省のドタバタ騒ぎで 肝心な疑惑は解明できたのでしたか? マスコミも急に黙ってしまったから知る術はない。そうじゃ~ありませんか 心が無いよな~ 丸ごと 我が事とは よく謂ったものです。
 一般の人は実態を知りません。 説明しますとね。福祉充実残高という名称をどう考えるか? 福祉の充実を考えるのは国としての責任ですね。それを実践する我々も自負はありますよ。事業の継続ができるようどこも苦労し、無駄を省き改築や人件費のためにコツコツ積み立ててきた。これを吐き出させようとしていたわけです。だって 将来への備えを持つのは事業者として当然の経営責任でしょう。私は、そこに目を付けたと思っている。行政の縦割りなんて話じゃ~ない。自分達のことはさて置き 現場で汗を流している所から絞りとる。これが 皆さん GDP世界 第3位のNIPPONですぞ~。
 幸福度ランキング50位前後をウロウロ さもありなんですよ。
 本当に嫌になっちゃうよ。
 以心伝心 ・・・・どうも いつの世にも通じない人は いるようです。・・・・紙一重の危険・・・・・。
  夜中に 子供が熱を出し 病院探し 泣き止まぬ子を 車に乗せて寝かせ やっと眠った子 頑張ってきて 良かったね と共に安堵する。 これが 本来の家の風景では なかったでしょうか!お得意のようですが安心を数値化できますか?
   自分が望んで障害を持った人は誰もいない。 その方達を支える国の仕組みを 紙一枚で簡単に変えてよいものでしょうか! 
 
 今日は 横浜で会合があり そちらに行きます。なぜか 気が重い。 もういい加減にして 辞めたら!という声がいつも聴こえる? 判っていますとも。
 早く 外回りの仕事を辞して  ゆっくり 過ごしたい。ここ数年間 そんな気持ちがずっと続いてきました。それは 自分との考えのズレからだと思います。当事者不在の議論、制度論や経営論が主流となり、 皆が皆 疑心暗鬼になっているように思えて仕様がありません。 おしなべて自分達が乗り遅れては大変だとの不安感をもっているのではないだろうか、・・・・・。
 昨日は 常陸太田市で茨城県の福祉大会が開催されました。主催者側になっているので 出席しました。ちょっと変化を感じた。いつもなら来賓席に座る人たちを司会者が名を呼び紹介するのが定番だったのを それをしなかった。現職の国会議員は2名、それ以外は全て秘書だった。記念講演が良かった。生まれつき聴力障害があり今は ピアニストと講演で活躍されている方だった。小さい頃の辛かった体験を手話と言葉で語る、涙を流した方も多かった。
 今年の福祉功労の受賞者は700名を超えていた。その名簿が渡され 各賞の代表者が登壇し 表彰状を受け取った。
 淡々と今日一日のことを日記に書く。
   
 横浜での星加 良司氏の講演は 想像していた難解な内容ではなくて 実に判り易く 聴く側にとって 頭を整理するには 時機をえた素晴らしい講演になった。その後 行なわれたシンポジュームも我々参加者が一緒に考えるには 丁度良いテーマで 迷想止まない 今の私にとっては清涼剤的な効果は充分にあった。星加氏は東大のバリアフリー教育開発研究センターで障害者の無力化する社会的な諸関係・諸編成に関する研究を行っている。ご自身が全盲で主な研究テーマとして、デスアビリテイの社会モデルに基づく社会理論、障害者のシチイズンシップと社会的位置、障害平等施策としての合理的配慮、社会的包摂の為のバリアフリー教育等。
 90分の講演の中で いくつかの心に残った話があった。現代社会の特徴”ホンネとタテマエの乖離”という話には共感した。ホンネを言うと嫌われる風潮は今に始ったことではなかろうが タテマエ論に偏り過ぎた弊害は 至る処に顔を出している。氏の講演レジュメの最後に書かれていたものは、●「福祉」の固有の倫理(根拠)をいかにして再生できるか?●そのための批判力と、合意形成のレトリック。それは 氏からの我々に贈られたメッセージと受け止める
 今 星加氏の講演メモを読み返し 暗雲が一瞬晴れるような思いになっている。巷には 言葉巧みな理想論(レトリック)が溢れ 実行できたか否かの検証もなく進んで行く、その結果 理想と現実の乖離が修正不可能な状況にまでなっている。中には 好事例も探せばあるかも知れない。しかし、継続性があり プラスの連鎖となるかと言えば皆が疑問に感じている。まさに図星です。
 福祉とは 個人の生活状態の望ましさ、社会状態の望ましさだと説かれた。 此処にもレトリックがある。自由という言葉による福祉の否定である。そこで求められる人間像は 自分で生きて行く力を持った人間であり、 主体的な選択&自助努力&自己責任の重視という考えの台頭、 その流れの一つとして優生思想が起こり本来の障害者問題が排除されてしまう恐れを感じる。盛んに言わている人権問題は勿論 障害の有無にかかわらず 全ての人間に対してであるけれど、障害者が人権を考える上で 最後のマイナリテイ集団であることに私は異論がない。
 この国の素晴らしさは 沢山ある。ただ それが未来に繋がっていくかとなると 多くの人達が不安を感じている。過ちに対し 曖昧にすることのツケは今を生きる我々に跳ね返るというより 確実に次世代に遺される。
 勿論それへの批判は 確たる根拠を持ってなされねばならない。いくらタテマエとしての理想論を積み重ね 自己PRを巧みに行なえても その結果は明らか 。。。。
 星加先生の益々のご活躍を期待すると共に今回の企画・準備をされた 神奈川県福祉協会の皆さんに心から感謝申し上げます。
 

3214:「福祉」の根拠

 


人は五感(視聴嗅味触)を通じ 外界を感知しながら 生きています。そこに何らかの不具合が生じた時 人間の体は 再生しようとしたり 代替えになる機能を新たに作り出すと聞いた。我々の立場は 代替え機能のなかにあって、個人と社会 その両方が望ましい状態にあることがどのような事だろうかと問い続けていくことだと思っています。 宗教・哲学・倫理・・・それぞれに議論され 今に至った。理想(目標)を掲げそこに少しでも近づこうという試みは 実は思いの通りに進まない。 その最大の原因は ”欲”(仏教的解釈)、現実に今起こっていることは 欲を規制するどころか 真逆の状況がより拡散しています。
 法律や制度によって 社会が望ましい状態に近づこうとする目論見には限界があり、人の気持ちが離れてしまえば それを引き戻そうとする より巧妙に複雑な手を考え出す。この渦巻きは速度や力を増し続け、そこから脱出する術を見いだせない。自分さえ良ければという思いと無関心、この二つは 自己防衛のための現代人が考え出した便法だった。唯一 そう結論つけることに異論を唱え続けて来た集団が少数派である障害福祉だと私は思っています。
 ただ それが主流となりえない モドカシサ は この国にはある。 繁栄の裏には何があるか。後手後手のその場凌ぎの対応では 効をなさない。世に知られたほころびだけでも 数限りなく 恐れるのは 社会自体が その事象に無関心になることである。その状況は深刻にも常態化している。モラルハザード【道徳的危機】には 保険に加入し 故意に問題を起こし 保険金をだまし取るというものがある。本末転倒!
 一向に止まない企業の不正は 幹部だけが辞任すれば済む話ではない。社員が何万人いようがいまいが容赦なく 制裁が課せられ 対応できなければ 破産し 全てを失う。
 ここで 問題になるのが 公民の違い。民間は損失を全ての社員と株主が負わなければならない。そうなっていないのが 公側にある政治家や官僚ではないか、当事者が謝罪し 許されてしまう生温さは 依然として健在だ。
  モラルは社会的なものと 組織内で定められたものがあり 守られて初めて価値が出る。
 福祉の核心は その前者で社会の望ましい状態である。 現時点で 何が望ましい状態なのかという絵が描けないジレンマ これが 国民一人ひとりに課せられた権利と義務とすれば 寡黙な人間を演じている場合ではないと思いますがどうでしょう。
 福祉の根拠は 一口で謂って 理想と現実の間にある”課題”への対峙する姿勢だと考えています。
 
 10月に入って 久しぶりの秋晴れとなった。今年法人全体の行事で夏の盆踊りは 台風接近の為中止、今回の尚恵祭と併せての実施となった。その所為か皆が何処となく熱が入っていた感がする。天が味方してくれた。完璧な快晴となった。(上記スナップ)
  帽子をかぶらないと日焼けを心配するのは久しぶり、利用者や家族の皆さんの表情もとても良かった。出演してくれた 地元中学のブラスバンド部、ダンス教室や囃子連の皆さん、。。。職員の出しもの ボランテアで協力してくれた学生達、新採予定者、OB、顔ぶれも多彩だった、2時過ぎに閉会 5時ごろには 片付けも終わった。
 今年は 土浦の全国花火大会も強風のため途中で中止になった。今はグループに分かれ旅行も多彩になった。近くGHの某メンバーは 東北~北海道の2泊の旅 新幹線でいくそうだ。 そのグループの人から何度も旅行の話を聞かされた。みんなが笑顔で弾んでいる。
 尚恵祭の会場になった旧成人寮のグランド、いままで その跡地活用の検討会を行ってきた。いよいよ最終段階 今年から具体的に工事をしていくことになる。解体を待つ 旧成人寮の建物には思い出が沢山ある。私が20代の頃だった、山だった場所を整地し法人として 大きな決断だった。初めて鉄筋コンクリートで整備された。完成は1979年、その建物も40年経過し 3年前に寮全体が新しい寮に移った。新寮は全て木造で建てた。新天地で地域の中に徐々に溶け込み始めてる
 おかげ様で沢山の人達の協力を得て 今がある。その事は 何がさて私達の宝である。福祉の根拠、それは 理想に向かって様々な課題に立ち向かう覚悟と実践、正直 不条理への怒りもある。そして 感謝と喜びもある。振り返ると その全てが懐かしい良き思い出となっている。
 
 軽トラに目一杯道具を載せ 毎日 足替わりに使っています。 ヒョットしたら頭がおかしくなったのかも? 伸びた草や刈り終えた草 気になって仕方がない。 やり終え爽快感で満たされる。綺麗になるばかりではない。 葉枯れ病、毛虫、蜂、モグラなどに気付く、水やりもそうだ。チェーンソウや草刈り機、エンジン付きは便利だが使っていないと 必要な時に動かない。多くの人が使うと故障する 、人 それぞれにクセがあり 機械が悲鳴をあげるのだ。
  掃除をしていない門塀や手摺は 汚れが簡単におちない。水圧洗浄機でやってみるが 逆に汚れが目立つ、スチーム噴射機でゆっくり擦るとやっと取れた。
  よくも こんなに多くの道具をあつめたものかと 自分でも呆れている。 掃除(?)を始めると 皆が気になるようで 申し訳なさそうに脇を通っていく。 これも想定内、皆が環境に気を配ってくれれば それで良い。
 昔 私は環境整備班を作った。何をやっていたと思いますか? 市のゴミ捨て場にメンバー二人と一緒に三人で ゴミ集め。気に入ったゴミを持ち帰る。これが日中活動だった。いまだったら 大変だ。何を言われるか分からない。でも 頻回にあった他害や奇声はなぜかその時には止まった。
  何も無かった時代のB型作業?  半世紀前は 実にノンビリしたものだった。記録だって 数行で充分。 なるべく屋外で日中過ごそうと努力した? 嘗ての環境整備班の両名は 強度のてんかん発作を持ちながらも 今も元気に過ごしている。
 福祉の根拠は その人にとって 何が必要かを考え 一緒になって実践すること。絵に描いた餅ではない。 自然の中で育まれた力 今も足腰が丈夫で 元気に過ごせる。これが結果だ。
 社福に社会貢献という事が言われ始めた時 私は違和感を感じた。組織の施策を練る人が 言っている事とやっている事が一致しないとしたら その組織は乱れる。勿論 組織には 国も入るし 大企業も然りだ。昔の人達は 良く謂ったもの。綺麗なべべ着て 良いもの食って それで貴方は 満足かい?   ああああ・・・迷走 か 迷想か? 
源信の母が戒めた言葉を思い出す。 『 後の世を渡す橋とぞ思ひしに   世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ! 』   
 今は悲しきでなく 嬉しき になったのかも 知れません。
  

3215:鉄則

 鉄則という言葉が 死語になってしまったように感じます。ルールを変えても何のお咎めもない。経済誌に≪前進し続けなければ 消え去るのみ・・・≫。シャープを傘下にした台湾企業のCEOが社員向けに語った決意表明だ。米中両股をかけた企業経営で拡大してきただけに 米中貿易戦争の最中での舵取りは難しいのではないだろうか・・・・・。日本の外交も然り、蚊帳の外に置かれることだって ありうること。
 企業経営の鉄則は 自社の信用を失わず どう売り上げを伸ばすかに尽きる。 その目的達成の為に 熾烈な競争が休み無く続く。 自分達の利益追求と信用失墜は 表裏を成し、ミスが命取りとなりかねない。組織は箍が緩めば どうなるか? 歴史から学ぶという意味は そこにある。勿論 企業経営のみならず 全てに言える。 ”箍(たが)”は 桶がばらけないようにたがねた輪の事である。
 桶は何枚もの木片をたばねて出来ている。その一片だけ腐ったり割れたりすれば 簡単に壊れてしまう。メデアは競って カリスマ経営者を取り上げる。例外なしに彼等は非凡な才能を持ち 努力家には違いなし。
 一時の勢いを失った企業のV字回復を成し得た経営者もいるだろうし その逆もある。
 組織の没落は箍(トップ)の緩みから始る、流行語までなった”忖度(そんたく)”も同じ。ぬるま湯 or お友達・・・これがまた 同根で レイムダック化の初期症状とも。
 沖縄で知事と市長の3つの首長選挙があった。 三つの選挙全てで与党側候補者が敗れる結果となった。定番となった中央からの人海戦術に陰りが出たか! これが本来の 地方創生の鉄則だと私は思っている。地方の事は そこに住む人達に任せるべき。
 今回もまた マスコミは あたらずさわらず 煮え切れぬ報道に終始した。 ここにこの国の民主主義国家としての報道の自由に危うさを感じる。 
 
 県育成会の総会が水戸で行われました。私達の心身協が共催団体になった為 出席しました。育成会と事業者と特別支援学校 この三者の連携ができ 知的障害の人達の福祉に一歩前進、残り1年を切った全国障害者スポーツ茨城大会に向け 周りの環境が徐々に整ってきた。今回の育成大会は56回目 様々な課題が山積する中で 組織名に示す”手をつなぐ育成会”の目的達成の為に 皆で協力していきたいと思っています。
 正直 育成会活動は 中心になる人たちの高齢化が進み どこでも若返りが進まないという悩みがあるようです。
 手をつなぐ母の歌がある。①熱き希(ねが)いに活きる人・・・②深き希いに活きる人・・・・③同じ希いに活きる人・・・3番までの歌の最初の歌詞。ねがいを希望の希を敢えて使った親たちのおもいを感じます 50歳になる我が子の手を取り 大会に一緒に参加した親もいる。話をすると皆さん一様に『親亡き後』を心配している。
 尚恵学園の62年の歩み、そこから判ることは 入所施設に預けた親たちの複雑な想いである。様々な出逢いと別れがあった。本堂に置かれた遺影は30枚を超えている。彼らの声が聴こえるように思っています。
  現実の課題と向き合っていくことの難しさ、これには 終りがない。せめて 同じ願いをもつ仲間達との繋がりは持って希望は失って欲しくはない。
 ♪ ①熱き希いに活きる人   幾とせ重ねて今もなお
         共に語らんまこともて  手と手をつなぐ母われら   ♪    ②  ・・・・・行く手を望みて倖せを  共に拓(ひら)かんまこともて   ③・・・・・光のさしそう母の座を  共に頒(わか)たんまこともて・・・・
 
  桜の蕾で春を知り 猛暑の夏耐えて 早く秋が来ないかと待ち詫びる、秋雨と共に着重ねし 冬到来に身構える。こうやって1年が過ぎ 歳月重ね68年。 移りゆく 時と共に 人の心も変化する。
 出来てあたり前と思っていた事がそうならず 歯痒さを感じる今日この頃 怒りに似た感情と感謝は相反するどころか同居する。これもまた 変わり行くこととは思うけど 願わくは 平和を堅持できる国であって欲しいとの思いは強まるばかり。
  徐々に着すぎた衣服を脱いで身軽になりたいもので これも適わぬとは 思いたがらず。
 望みもホドホドに 少欲知足といきたいもので これだけは 守りたいという見定めを 大事にと 己に言い聞かせて参ります。  

3216:つれづれげ

 秋は物思いに耽るにはもってこいの季節、収穫の時期を少しずつズラす梨~葡萄~柿~柚子 この辺りでは各家の屋敷内に植えられた それらの木々に実をつける。丁度 熟した時を見計らって大体は鳥が食べてしまう。 それを追い散らすこともなく 残った実を取って食べる喜び。
 なんとも 長閑な風情である。50年前になる、東京で暮らした。クラブ活動で知り合った友二人が私の家に来て3日間一緒に過ごす。御多分に洩れず 体の不具合やら医者から貰った薬の話で花が咲く。第一線を退いて 時間を持て余し気味な人もいるが 計画的で前向きに生活をエンジョイしている人もいる。 
 その生き様に少々羨ましい気持ちもあるが 徐々に世代交代をすべくやってきたとは思うので いずれ自由な時間ができると信じている。 その時になって 何をしようか迷うのでは 元も子もないから 今できることを遣りながら その辺の計画も練っていこう。
 ☆ JRの割引制度の”ジパング倶楽部”を教えてもらった。65才を過ぎると年間で¥3,770円で会員になり最高3割引きになる。車の運転が疲れるようになり 電車を利用したくなってきた時だったので 良い話を聴いたと 早速 会員になろうと決めました。行きたい処は沢山ある。・・・・ 何か元気が出てきた気持ちになってきた。
 
 ここ暫くは 秋晴れの天気が続くとのこと 全国的に観光シーズンたけなわで恐らく観光地は大混雑するに違いない。
 ホンネは 何も好き好んで人混みの中に行くことも無かろうにと思っているが 人の気持ちはそんな単純なものではないようだ。片方の寺のエアコン設置は終わって 今日からもう一つの寺にエアコンを付ける。夏場の猛暑対策ということで檀家さんからの要望があって本堂に設置することになった。台風で落ちた瓦の修理は 大分前に業者に頼んだが 忙しいらしく まだ修理されていない。
 陽が短くなり 余計一日が早く過ぎるように思える。10月も残り僅か、日誌を読み返したら 同じ内容が多かった。
気紛れで 計画性は無くなった。日々是好日也。
 
 外国との働き方の違い。Yさんと話をしてドイツとの違いを考えさせられました。乱立する同業種 例えばコンビニや歯科・薬局など、日本は規制緩和をすすめ 自由に出店できるようになった。 一概に断定はできないとしても 24時間営業するコンビニが果たして必要か?ドイツにはないと聞いた。今の日本の状況を 果たして多くの人が望んだことだったのだろうか? 立ち止まって皆が考えてみるべきかもしれない。同様のことが 教育・医療・福祉の分野にまで確実に浸透している。ドイツは教育や医療費が無料、家庭医と基幹総合病院との連携 棲み分けが進んでいる。病院の数も人口に対して基準が決められ 自由には開業できないとか? 教育費が無料というのも日本ではまだまだ先が有る。ドイツの学生は目的をもって懸命に勉強をしていると・・・・・。
 残念だが実態と理想の乖離現象は 日本では進んでいる。医学部入試での合格操作も まさに有ってはならぬ事。自由と規律の自己矛盾
  つれづれと思いを書いている時,大体は ”癒しの音楽”をユーチューブで聴きながらである。妙なもので 耳から入る刺激によって文章の中味が変わる。働き方改革によって何が変わっただろうか? 日本人の勤勉さは 皆が休んでいる間に自分は働いて 競争に負けまいとしてしまう。そうしないと 安心できない。要は 安心より不安が勝る。
 もう一人のYさんと話した。彼とは大学同期でクラブが同じだった。今は定年で仕事を辞め 自由気儘な生活を楽しんでいる。写真や旅行 出来なかった趣味の生活、現役時代に彼は8回の転勤をしたという。大企業の宿命か。今は大阪に住んで そこを起点にあちこち出歩いている、私とは違い気持ちに余裕を感じる。
 最大の違いは どこでも直ぐに寝れる特技、私の場合は 直ぐに忘れる特技 微妙に違う。

3217:施無畏

 施無畏(せむい)とは観音様の異名で仏教の三施の一つ無畏施、「無畏(安心)を施す」というものと同じです。
 今日 遮二無二追い求める”進歩”には 見方を変えると”退化”への道筋になっているのではないだろうか?その最たるものは 終りの無い兵器開発、判っていながら 止めようとしない。処理方法の未解決の儘で作り続ける原発。平和を唱える日本も同様に、何が平和外交か説得力にかける??? いつも浮かんでくるのは永世中立を掲げるスイス、この国は唯一 過去から学んだ国の在るべき形を守り続けている。一年を通じ多くの観光客が訪れ豊かな生活が成り立つ、自然との調和、牧歌的でゆったりとした時間の流れ そこに住む人達の安心に満ちた生活。それが人に対する優しさに結びつくと思う。
 日本人は過去の歴史から何を学んだのだろうか? 私は”空手還郷(くうしゅげんきょう)”の良寛の生き様に強く惹かれる。それは 損得・優劣・多少・美醜などの価値観との真逆の世界観、”無一物 無尽蔵” なにも無い処に尽きないものを感じ取るものである。
 経済の豊かさによって何を得ることができたかを真剣に考えねばなるまい。 もうその答えは出ているのではないでしょうか?確かに一部の人達は使え切れない程の財を獲たかもしれぬ。それによってその人達は畏れが無くなったのでしょうか? 失ったものに気付いて それをもお金で買えるというのでしょうか、権力への妄執と同じだ、 やっとその座を獲たら、いつ失うかが心配で眠れぬ夜を送っているのではありませんか?
 「進歩とは生命共存の可能性への眼差しである」と謂った方がいる。それが そうなっていない事は自明の理、逆に自分さえ良ければ良いという考えが蔓延、外部からの侵入を阻む為に壁を作り、排除する。その片棒を担がされているのを知ってか知らぬか? 相も変わらず自分の功績(?)を自画自賛。
 それに対し異を唱えるものも 水面下では どうも手を組んでいるのではと勘繰ってしまう。
  最近になり共存・共生ということが 盛んに謂われるようになった。 穿った見方かも知れないが 本人達の言動に その事への熱意・覚悟を感じない。先ず自らが範を示すべしと言いたい。
 作家カミュは不条理の哲学によって知られる。1913~1960年不慮の交通事故で47歳で亡くなった。代表作は「異邦人」「ペスト」「反抗的人間」など、彼はあらゆるイデオロギーと闘い、生の意味を追求、時代に妥協しない強さを持った作家であった。私は学生運動の最盛期に東京に住んだ。 学ぶことへの限界を感じ 人生の意義に悩んだあの頃、カミュという作家に興味を持った。何冊か彼の本を読んだが 難解で暗いイメージしか残らず、卒論にはバルザックの「人間喜劇」を選んだ。
 カミュは父親が彼の生まれた翌年に戦死(マルヌ会戦)し 聴覚障害のある母親と子供二人が残された。第一次世界大戦の序曲といわれた時代である。
 人の生き様には 育つ時代や家庭の環境が大きく影響するものである。私が気になっているのが 発達障害という疾患と 幼児期の愛着障害で そこには何か通底するものを感じる。今は自然災害か人災かの検証もなく曖昧になっている、社会が損得勘定で動くようになれば成る程 自分に不利になることを避けようとする。個の尊厳の読み違い、共生という言葉への懐疑、効率化や利便性を言う割には不合理で複雑化する仕組み、・・・・・・。
 挙げれば切が無い。それら全てをエビデンス(豊かさの根拠)で覆い隠し その真偽を見極めることを避け核心になる大切なものを忘れている、
 今朝の新聞一面にあった記事は 太陽光発電に関連したものだった。九州電力は 最近 太陽光発電を買うことを停止した。電力需給のバランスがその理由らしいが、今朝の新聞の内容は それとは違った。「売電権」の売り買いで得た儲けへの追徴課税だという。
 ここにも 太陽光発電導入の本来の目的とのズレ(表と裏)が明らかだ。
 ☆≪ぼくは常識をいっているだけだ。世間が常識外れだから、独創にみえるんだ≫(小林秀雄)
 
 社会保障や環境問題は 切り貼りの施策ではダメだ。国家として 確たる覚悟と財源と時間を要する。日本は 様々な法制度の見直しがほゞ3年毎に行なわれる。その改正の中味は 正直 満足できるものではない。
 その一例がエネルギー政策 いま アメリカは中東からの原油を日本が買うのを停止するよう圧力をかけているという。経済制裁に同一歩調、 さて 日本政府が どう向き合うか 難しい舵取りだ。・・・○○ファーストという行き過ぎた主張は、他国との連携を崩壊させる。それを御構い無しに強要されては 堪ったもんじゃない。
 国内問題で政治への不信は 相当根強い。 こうなった理由の一つは情報の信頼度への疑念だ。参議院は与党内で議員一人当たり歳費(月129万)から7万円(約5%)を減らす検討に入ったそうだ。それは来年に参議院議員定数6増と時期がダブる。今時 定数を減らさず増やすことに対する世論の批判を避ける狙いがあるのかどうか。問題は その前にある。国民の大多数が 改正の理由を知らないということ。勿論 決定されたのがいつ どこでかなど判るはずが無い、これは忌々しき事態だ。
 永田町や霞が関との実態認識のズレは最早 修正不可能となったと謂えよう。彼等は 事有るごとに”景気回復”を常套句に持ち出し どうだ!文句があるかと謂わんばかりの高慢な態度にうつる。
 唯一知る場が 国会中継 正直 限られたもので 迫力を感じない。  公約が実行できたか否かは先ず判らない ???  これを 国民の責任と言うのだろうか? 数の力で強行採決 国民と向き合い 丁寧に説明すると言いましたよね。
 空しさを感じます。民主主義崩壊の前兆か? 本来国の責任で行うことも 地方に判断を委ねる。逆らえば 兵糧攻めの如き仕打ち! この有り様を 水面下ではなく 昼間 堂々と行われるとなれば どうなんですかね~。
  小林秀雄の警告「近代はなぜ暴走したのか?」 この警告は 今も鳴り止まず 。おお・・・寒む~! 気が付けば霜注意報が出る季節になった。
 

3218:逆撫で

2つに1つと言う時に どちらを選ぶか。スーパーで欲しいものを目の前にして≪どちらか 一つにしなさい・・・≫と母親に謂われ 泣きながらも目を皿にし迷う幼子、そこには我が子に対する母の愛情を感じる。両方 買い与えたらどうなるか そのお母さんは その事を自らの体験から判っている。
 そんな経験をしたことが無いものが 是非の判断できず  大盤振る舞い ・・・・・・。長からず冷めた関係になるのを知ってか知らずか、必死に食い止めようとすればするほど 常識外れの言動を招く、都合の悪い事は忘れ 自分を擁護する仲間を大事にする。
 相手がいらだつような言動をわざとすることを”逆撫で”といいます。源信の母の我が子への戒めを思い出す。≪後の世を渡す橋≫になるように育てたはずが ≪世渡る僧となるぞ 悲しき≫と嘆き悲しんだという。その母親の偉さは≪まことの求道者となり給へ≫と諭した事。これぞ母と子の向き合う姿である。
 母親の力は計り知れない。この母がいて 己を省み まことの道を究める子が育つ。そんな母親と真逆の環境で育った子には 自らを省みる力(判断力)が育たない。

【頑迷固陋(がんめいころう)】という言葉がある。頑なに自説に拘り 周りの意見に耳をかさず正しい判断ができないことである。
 我が家のミイは生まれて10年になる。彼の受診券に記された生年月日は 寺の玄関先に箱に入れられ置かれていた日。3日前 ミイの目に異変、片目が開かない、また ケンカで怪我したか? いつも世話になるK動物病院へ夕方に通院しようと思っていたが その日は帰って来なかった。猫は身罷る時 姿を隠すと言う。もしかして・・・・・。夜中に何度か様子見に下に降りた。
 翌朝 すまなそうに元気なく帰ってきた。少し目が開く ネコは自分の唾で治す。ミイは目が開く前に捨てられたのだから親から教わったハズは無い。彼は見事に自分で回復し 部屋中を走り回っている。。
  猫でさえというのは 猫権問題になる。 自ら修正する術は 周りに謂われずとも成人する間に身に付けるもの。
 ★ 逆撫でされ イラだちても 己を正すか 他を責め 我が関するにあらずと 白を切るか まさに人倫大道への愚問なり。 
 政治屋と政治家の分岐点、これは福祉にも言える。福祉の事業屋か事業家か??? なんでも有りの状況を 元に戻す気があるのかないのか???
 ドイツには日本語で謂う”福祉”という言葉が無いとY氏から聴いたばかりだった。何故と尋ねると ”当たり前の事だからね”との返事だった。 ドイツは日本と同じく敗戦から70数年経過し、復興を見事に成し遂げ、ユーロ発足の核となった国である。日本との違いで際立つのは 社会保障の仕組み なぜ ここまで差ができたのかに関心が有る。
 政治家には欠かせない原像があるという。(保坂正康:『近代日本人の精神史』NHK出版)
  氏の謂う原像とは、①思想、理念、歴史観をもっている。②政治家として金銭、私生活に乱れがない。③議会政治を妨害する勢力と妥協しない。の三か条である。その条件にあう歴史上の日本の政治家を3名あげた。犬養毅、尾崎行雄、斉藤隆夫である。
 このタイプの政治家は 今 見事に姿を消した。その原因は幾つもあるだろうが 政治家当人の責任が一番大である。①思想、理念、歴史観を持っていないという人は政治を志す人間にはいないはずだ。ただ、前提の条件として”正しい”という枠を付けると さて どうなるか?頑迷固陋な人間は確かにいることはいるが 比較できない。②を飛ばして③に関して言えば 妨害する勢力とは 今日 どんな勢力が考えられるでしょうか? ハッキリ言って今は議員達で議会の進行を妨害している(内輪もめ)?
 ”屋”と”家”の違い、屋に対して公金(税金)を使うことは 許されないんじゃ~ありませんか?
 そのチェックはそっちのけで 時間の浪費、 核心など生まれるはずはない。次々に繰り出す意味不明な法制度は、騒がれし文言を無理やり詰め込むから 蜘蛛の巣状になっている。読めば読むほど理解から遠のく。 福祉という言葉を”幸せ”と置き換えれば 敢えて使う必要はない。それが当たり前だから。しかし 現状で万人周知は望めない。枝葉末節の内容と低調な選挙が物語る。
 メルケル首相が選挙での敗戦を期に党首を辞任する。この責任の取り方は 今の日本とは大きく異なる。”屋”と”家”の差は原像の3つの条件に照らせば自明の理だ。 敗戦国のトップとして 日本側が謙虚に学ぶべき国・人物は 大国の属国から見事に脱皮自立を果たしたユーロ圏の雄 ドイツだと思いますが 如何でしょうか?
 ナチスドイツの過ちを二度と繰り返さぬよう その反省に基づく教育をドイツでは国策として今も行っている。 今の日本は難しい課題を棚上げ先送りの態度、これは向き合っているのではなく 及び腰、これでは外国から足元みられるはずですね。
 斉藤隆夫の昭和15年2月の演説。
 ・・・・・『唯いたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閉脚し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくの如き如き雲を摑むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない』(松本健一『評伝斉藤隆夫』)・・・・・

 ・・・・『(参政権を獲得すればいいというわけではなく、)立憲政治の究極の目的は、国民の共同意識を以て政治の原動力と為すに在りて、憲法及び国会は此目的を達成するの器械たるに過ぎず』・・・・・・
 ☆ 国民投票によって国民に信を問うと言うが 貴方達の数の計算に有権者の半分以上が参政権を行使していない現実をどう見るか 私はその事を問いたい。信を問うとは それが肝心であって 単なる数合わせによって事を決することでは無いと思う。

3219:一晩寝て

 一晩寝て考え・・それから・・・また・・・・
 現代人が無意識に罹ってしまう目に見えぬウイルスは 恐らく 一晩寝ての心の切り替えが上手く出来ないことではないだろうか? イヤホンを耳にし、液晶画面に釘付け、それを 一日の中で相当の時間を割いている。安寧秩序紊乱症候群(?) こんな診断名が思いつく。もちろん幻影である。 安寧とは 世の中が穏やかで平和なことを意味する。紊乱は乱すこと。一億総活躍(×)病態にまっしぐら!
 世界のどこかで起こっていることが 片手に収まる小さな道具により耳と目に入る。際限無く 休むことも無く・・・・情報の氾濫は 今後 さらに激しさを増すだろう。最早 この動きを誰も止めることはできない。何が真実か?を見極める事も無く 新たな刺激を求め 彷徨っている。
 この病的傾向への唯一の処方箋は 自分で情報を遮断することしかないだろう。それが出来るかどうかは 判らない。それでも 何もしないより 病の進行を遅らせることはできるのでは・・・・・。
 以前 健康寿命の事に触れたことがありました。国内で一番長生きする県は 山梨県、その理由をAIに調べさせた結果、山梨県は図書館の利用率が一番で 読書が健康に良いことを証明した。その答えを同席していた専門家達は誰一人浮かばなかったという。
 どこの駅前にもあった書店がすっかり姿を消した。今は本の購入はネットが主流、自宅にいながら注文できる。 問題はそんな事では無い。日本人が本を読まなくなったこと。すると 電子本?なんでもかんでも 利便性が第一、介護ロボットの開発にも力が入る。 
 パスカルが『人間は考える葦(あし)である』と説いたのは 約400年前。宇宙と比べ人間は葦の如く弱いが「知らない宇宙」よりも偉大、全てを知っている事より 一つの小さな愛の業の方がなお偉大であると説いた。
  一晩寝て 考える。・・・・・・薬漬けでなく 自己免疫力の活性を信じて・・・・・。
 
 朝になれば 東から太陽が昇り西に太陽が沈んで 夜を迎える。繰り返される昼夜の隔てが昔と比べ薄れた感がする。今日一日に句読点を打って 明日を迎える。日々是好日。これが何故か出来難くくなったと思います。動と静、車に例えれば アクセルいっぱいにして走り続けることはできない。 私達にも休息が必要だ、その時間を持つことが できない人が増えているように感じます。私自身もそうかもしれない。意識して 切り替えようとすればするほど目がさえて眠れない。もう50年以上日記を書いている。
 今日あった出来事を書きとめることで 安心するからかも知れない。
 休息は大事 でも寝てばかりいても不味い。 適度の疲れがなければ 深い眠りはとれない。このことは 誰しもが自らの体験で判っているはずだ。 
  自分が老いを感じるようになってから 一日一日を大切にという思いがより強くなっている。心身のバランスが崩れると人間の体は それを元に戻そうと動き出す。汗した労働の後の爽快感、柔らかな日差しを受けての転寝(うたたね)。一日の時間にすれば 決して長くはない。  マニュアル通りではなく自分なりのやり方で見つけたいものだ。
 草取りや片付け 仏教でいう”作務”、これを義務と感じたら 負担になる。 そうではなく、達成感や爽快感を得るとなれば 最も身近でお金をかけずにできること。
  ☆ 落ち葉掃き やった後から ” 裏を見せ表を見せて散る紅葉”(字余り雑句))       表ばかり見せようとすれば 疲れがたまる。
 霜月11月に入り 何かと忙しない日を送っている。黙って 雲隠れしたい気持ちがあるが 携帯をOFFにはできない。法事や塔婆書きを忘れて 豪く叱られることが最近増えている。私の予定管理は 一冊のノート これを 無くしたら お手上げ、メモ書きだが スマホのスケジュール管理は使わない。なにせ スマホを置き忘れることなど 茶飯事 ま~ こうやってやってきたのだから これを変えようとはしない方が無難かもしれぬ。
 さて 夕べはゲストを3名迎え 20名弱で法人の在り方検討会を行った。時間オーバーし終わったのは丁度PM9時だった。感想は ウ~ム!!! 時間は流れている。誰しも 自分の持ち時間は限られている。その知り得ない割り当ての中での試行錯誤、どう喚(わめ)いたってで根っ子の部分は 大差なし。
 思いを どう形にするか! それを誰が どのように! 評価を気にしては進めない。思い通りにならぬことは 誰も承知しているから 厄介だ。逆に 思い通りになったとしたら この方が恐ろしい。
 昨日はペンキ塗りに半日要した。Kさんが 珍しく 私の傍に来て、突然『 死んだら 拝んでくれるのか~?』と尋ねられた。一瞬ギクリとした、「なんだよ どうしたんだ?」と問い質したら、腕が上がらないので もう死ぬかも知れぬと思ったようだ。
 あれ~ ま~ こんな事考えているんだとビックリ。『大丈夫 お経読むから 心配しないで・・・』 そう答えたが それで良かったのかどうなのか?
 入所施設で長い間生活し GHに移ったKさんは 自ら「元いた成人寮が良い」と謂って 今 その寮で生活している。家族は 弟さんだけとなり 帰省できることも無くなった。寮が良いと謂ったホンネは 密かに好意を寄せる彼女がいるからとの噂あり。
 根っ子のところは 大差無いんだ。 ・・・人は努力する限り 迷うものだ(ゲーテ)・・・・。然もありなん ありなん。

3220:願わくば

 誰しも後ろめたさはあるもので 本当にこれで良いのだろうか?と迷想し 自問自答。最近、目に付く言葉で「エビデンス」や「カオス」の意味を知ってか知らずか? 前者は根拠とか証拠で後者は混沌をいうらしい。これも迷想と同じ類でどこかでつながっている。 スマホの辞書機能を最近良く使う。”めいそう”で検索すると 迷走・瞑想・名僧なる漢字が出てきて、この場面での正しい字が何かと考える。機能の進化は日進月歩、それに遅れをとってはという一種の強迫観念が生れ、カオスの実態に目がくらむ。
 願わくば もっと違った環境ですごしたい、そう思う人も増えています。落伍者の烙印を押されても 自分の意志を貫く生き方、そこにたった一度の人生を悔いなく過ごしたいとの願いを観た。わかるね~ 本当だよな。
 通夜に行って 最初に遺影と向き合い ああ~この方だったのかと初めて判ることもあり、普段のお付き合いの薄さに、先ず後ろめたさを感じる。遺影は故人の元気だった頃のものが全て、遺族の願いの表れだ。
 葬儀事情も混沌としている。 ここまでやるの?という疑念を感じる時も多々あるが、インパクトがあるのは 生前の故人の言葉を録音しておき 流すもの。昨今は個人情報の取り扱いが難しく 本人の了解無しで表に出すことは禁じられている。
 亡くなった方に後から了解をとるのも出来ない、ならば 準備段階で行なうしかない。模擬葬儀、葬儀体験・・・・なんでも商売にするたくましさ?
   それでも宗教の役割は 形を変えながら これから先も有り続けると思っているが、もちろん我々僧侶の在り方も問われている訳ですよ。『さまよう死生観』宗教の力。机に置かれている単行本。
 難しい言い回しが多い昨今、自分も同じことをやってしまう。 そんな時 必ずといって良い。学園を利用する仲間達が助っ人になって 現れる。”あえて学園を利用する”という言葉をつけさせて貰うのは 正直 私の後ろめたさだ。 ・・・仲間???勝手に言いやがって 俺はそう思っていない・・・のかも知れません。その後ろめたさの呪縛は解けた試しがない。
 ”共生”は尚恵学園の創設時に掲げた願いである。判り辛いという指摘もあって・・・・共に寄り添い助け合い 共に良かったと感じたい・・・・という言葉を後付けした。これだって 周知されているとは思わない。無理に強いることではない。
 この業界にも 得意になって自己PRする輩がいる。そう思うのは勝手だが それは誤解だ。寧ろ”願い”である。
 恩師 糸賀一雄氏の語る『この子らを世の光に』はたったの9文字しかない。それは糸賀先生の願いである。社会が どう受け止めてきたか まだ 確たる答えが見えない。
 我々の住む社会が 迷想の条件にピタリ合致する。多岐亡羊(たきぼうよう)・・・・逃げた羊を追っているうちに、道が幾筋にも別れ 羊を見失う故事。(列子) 情報化社会は 受け手側の許容能力など無関係に成り立つ。フェークニュースという言葉が流行、何によって真実を知れば良いか まさにカオスだ。
 迷想への起承転結? 企業や行政・政治横並びのデーター改ざん&隠蔽と何でも有り、株価の上下に一喜一憂、その実態すら判らずに 瞬時の数字に釘付けとなり 損した儲けたと感情表出。願わくば 少数派であって欲しい。絶句は漢詩形の一を言ったのが始まり 今では驚いて言葉が出ない”絶句”の意味が主流となったようだ。
 これで 安寧を求めてもどうなのか? 最後は 大いなるものに頼るしかあるまい・・・・・。
 願わくば この功徳を以て 普く一切に及ぼし 我らと衆生と皆 共に仏道を成ぜんことを・・・・・(仏教の”安寧”をみる願文)
 良く耳にする言葉で”商業ベース” がある。コマーシャル ベースと言うと語感が違うような気もするが 日本語と外国語の合わせ技。所詮 造成語なるものは 意図して曖昧さが含まれる。結果次第で どのような言い訳もOKとする狡猾さ。本意は 金儲けをどうするか!でしょうね。困ったことに その証拠、信頼度がどうなのよ? 力ある者が 自らに利になるものしか表にせず 反対するものを排除する。その結果、政権交代も起こり得るから 選挙が近づくと 情報攪乱がより激しくなる。
 またしても 銃乱射による事件が起こった。メデイアが逃げ惑う客をライブで流し、物々しい警戒。これを外国の出来事だと謂っていられるでしょうか?
  孫が祖父を殺害、親が幼子を・・・・等々、連日 この種の事件が起こっているのは この国の現実。これが どうのように写るか?
 成す術 見つからず 目を逸らすことしかできない?
  糸賀氏がいう「この子」らは 現代社会が失いかけている 本来の優しさやけんめいに努めるけな気さを大切に今も持っていることを訴えた。彼等から学ぶ姿勢を取り戻す事がこの国の リーダー達に望めるかどうか!
  
 拘りは さらに磨きがかかる????
 目線が下から上に 芝刈りに飽き 寮2階の手摺のペンキ塗り こればっかりは上を見ながらだから 首が疲れる。外階段で二階に行くには 最短だから 突然≪通行禁止≫のバリケードが置かれては、迷惑千万な話。園で一番古くなった建物は鉄骨造りだから錆が出る。腐り始めている。気になった。作業は二日目に入った。サビ止めをしてから 本塗り、水性ペンキを使った。油性ペンキとの耐久性の違いは判っているが 作業の手間暇が違う。養生せず 足場はハシゴだから 結果は推して知るべし。
 二日間ずっと窓越しに見つめるYさんを見つけた。彼女は いつも≪えんちょう 何 やってんの?≫と声をかける。私が寝ていても≪勉強か う・・・ん≫と言う 思い遣り? 毎日 同じ声掛けだから、1度グーグー 寝たマネで鼻をならしたら ≪あっ ブタさんだ≫と笑って行ってしまった。
 彼女にはペンキ塗りを手伝うなど 全く関心が無い。だが 長いこと 窓越しから見つめている。秋晴れの のどかな昼下がり  法事の後 手がペンキで白かったのに 気が付く
 ♪ 赤い鳥 小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実を食べた。   白い鳥 小鳥 なぜなぜ白い 白い実を食べた。・・・・・ ♪(北原白秋 作詞)

3221:取引

 世界の流れば、国際協調or自国第一主義かの二極化が進んでいる。第一次世界大戦(1914年~1918年)後100年、 第二次世界大戦(1939年~1945年)後73年が経った。
 戦争の悲惨さを語れる人が少なくなり、不安は年々 増すばかり。まさか 日本が同じ過ちを犯すとは思いたくはないが 歴史は我々に様々な教訓を残している。グローバル化の下で自由をどう 考えるか?民主・人権・法制度など時間をかけ築いてきたものが ”取引”の如何によっては崩壊へのスピードが加速する。世界を二分するような戦争がイデオロギーや宗教の違いによって起こる可能性よりも 経済的軋轢から起こる可能性が大きいと言われる。経済は当に”取引”であり、その舵取り如何では・・・・・・。取り寄せた尾崎行雄と斉藤隆夫の二人の政治家の自伝を読んでいる。拙文No:3218で保坂氏が『近代日本人の精神史』であげた3名の政治家の内の二人だ。政治家に欠かせない三つの条件を現代に照らした時 心中穏やかではいられない。国を動かしているリーダーに必要な条件は自らの言行に責任を持ち 疑いがあれば 徹底してそれを晴らす努力と覚悟である。
 それ無くして 曖昧さを重ね続けると どうなるか 。
 前出の白秋作詞の「赤い鳥小鳥」 読みようによっては 自粛自戒に通じる。小鳥を人間に置き換えれば どうでしょう? 
  
  園内はこの時期一番外出行事が多くなる。様々な催しへの参加や旅行、誰にも行き渡るようにするには 毎日何がしかの外出がある。昨日は 大型ショッピングセンターで食事をしたグループの一人が待ちきれなかった(?)ことが原因で レストランの皿を放り投げ割ってしまった。引率したスタッフから電話があり 責任者が謝罪に今からいくと 私に連絡があった。
 帰園してから その子が今 どうしているか?尋ねると いつもと変わらず 過ごしていますとの事だった。
  想定外のことは いつでも起こります。それを理由に止めてしまうのではなしに その時 その場にいたものが どのように対処したか? これは 昔からの常識で 自由や権利、更には共生社会なる言葉を敢えて出すまでも無く 大切にされてきた教えです。 社会福祉構造改革がどこを基点にして検討されてきたかを不図 浮かんだものですから 論点定まらず悪しからず。
 納得できることと出来ない事、周りの変化にどう向き合うか?。
 出入国管理法改正の審議が始まる。労働人口の減少に伴って 外国人労働者を受け入れる制度づくり。実際には 今始った訳では無い。私の住む神立地域は だいぶ昔から沢山の外国人が住んでいる。技能実習生なる仕組(?)みで一定期間日本で働くビザを取って働いている人達だと思う。中国・ベトナム・インド・マレーシア・・・ それぞれの出身国の飲食店が建ち並び 夜になると賑わっている。
 EUでは 積極的に難民を受け入れてきた。その核になって進めてきたメルケル首相が選挙で議席を減らし、その責任をとり党首を辞任。アメリカは元来が多民族国家 トランプ大統領になってから入国制限を強める。
 これら激動する世界の動き 一方日本はどうか? 雲行きがどうもおかしくなっている。仲介役を期待されても 果たして出来るかどうか?国際法では居中調停というらしい。紛争当事国の間に入って平和的解決するようにとりもつこと。
  日本の企業は生産拠点を外国に移してきた。勿論  企業にメリット有りと決断したからで、当然 そのリスクは企業がとる。国家は どう責任を取るか? その辺りは正直不透明。
 有事になると金の価値が高まるというが日本の金の輸出量に対し輸入量が自棄に少ない。財務省が調査に入り、 どうも課税逃れの密輸品が多いとみている節がある。これも 新聞記事からの情報で 金の値段など 私には無関係だから考えた事も無い。 でも それは ねえだろうよ。エ~イついでだ  茨城県が全国で魅力度47位という某民間調査、その根拠は何か?正直 目障りだ! バカ言うんじゃ~ね~よ。何か茨城に恨みでもあるんかい!明らかに フェークニュースだ。
 ♪ 空には 筑波 白い雲 野には緑をうつす水 この美しい大地に生まれ 明るく生きるよろこびは 明日の希望をまねくのだ いばらきいばらき われらの茨城 ♪(茨城県民の唄1番です。 2番、3番は自分で調べて頂戴な)
 郷土を愛さない人はいないと思います。自分を育て沢山の思い出を貰った。県の魅力度調査は何を意図しているのかサッパリわからない、メデアの劣化だと思っている。
 伝票を右から左に移すような事を良くやりますね。そこに実際に住んでみた事がない人間がどうのこうの言うべきじゃない。 もちろん袖の下は貰っていないだろうが、毎年 同じ事をやっていて飽きませんね。それより 世界に向けて日本の魅力度調査はできないの?何故?”付加価値&忖度”ですか?揚げ足をとるような事をして 空しくありません?
 もう そんなランク付け止めた方が良いよ。同じ日本人でしょう。ここにも”商業ベース”にドップリ浸かり 手段選ばず、もがき苦しむメデア(?)の限界をみてしまう。
 日本は右肩上がりの成長をめざし 歩み続けてきたでしょう。その結果 どういうことになっていますかね。
  横浜市で起こった事件・・・・深夜三時、71才の男性が帰宅途中の女性を襲った。方々に設置された防犯カメラに写されていた事件のあらまし、全く人通りの無い商店街、足が悪く杖をつき護身用(?)の刃物を持って彷徨う犯人・・・・・。 障害施設で起こった大量殺戮事件。介護施設で職員が入所者を3階から突き落とした事件・・・・・
 国が豊かになったのであれば 斯様な無慈悲な事件は無くなれば良いはずです。でも実態はどうでしょうか?  老人や障害者をお荷物と捉える社会の歪。モノの多さを豊かさだと勘違う。明らかに人災でしょうね。
 もう 後戻りできない状況に至ってしまったのだろうか? 
 今朝のNHKラジオ深夜便の明日へのことば・・・・ゲストハウス主人 臼井健二さんの話を聴いて とても新鮮に感じました。 

3222:モニタリング

 monitoring(観察)の大切さをぬきに意志決定支援はない。ご本人が望んでいることは何か? それを掴んだ上でその望みをどう具現するか支援(サービス)の要諦。我々が今年年頭に耳にした ”我が事 丸ごと”地域共生社会実現 ビジョン。情報が異常に膨らむ中で、どうも目立つ標語を掲げる風潮に対し、私は懐疑的にみてしまう。深読みすれば現実と理想の乖離が尋常でない。お決まりPDCAサイクルで言えば 全体的にC(チェック)がお粗末。様々な計画が作られ目標の数値化。全国一斉に自治体ごとに作成が義務付けられる。その量たるや膨大なもので、果たしてそれぞれの計画の進行管理ができているのか、数字の一人歩きになっていませんか。
少々小難しいことと思いながら、PDCAサイクルの提唱者デミングは後にC(check)をS(study)に置き換えPDSAサイクルとしたようですね。check(評価)をstudy(研究)にした意味は、studyの原義「努力する」にあり、つまり 評価だけでは何も変わらない。寧ろ研究・努力することの重要性を言っている。外来語の日本語訳の落とし穴?
 その辺が どうも理解・周知されていないのではなかろうか? その中また変わるからとの話も良く耳にする。なるほどなるほど。
 ・・・・人間は努力する限り迷うものだ(ゲーテ)・・・・永遠なるものを求めて 永遠に努力する人を菩薩といふ(菩薩行)・・・・・
  核心を見えなくしている誘因として 合理化や利便性への偏った価値観があると思う。働き方改革も然り 読み方次第では 努力しないで結果を出す働きかたとも受け取れる。
四天王に踏まれながら 懲りずに叫ぶ 天邪鬼。
 
 平日の大型ショッピングセンター水戸に行ったついでに立ち寄った。県内で最大級のこの店は 平日とは言え 駐車場に沢山の車があった。4階建てになった店内は やはり階が上になる程 客数は少なくなっていた。全国に急増した大型店 どこも広大な駐車場を備え 品数多くなんでも揃うから 買い物客にとっては便利だ。正直 衣類一つとってもモノが多すぎるので 選ぶのに苦労する。テナントの入れ替わりが多いのも頷ける。品物の陳列方法も工夫されている。3足で800円の靴下を買い物カゴに入れた。その傍に派手な下着が飾ってあり値段も確かめず同じ感覚で3着まとめ買い。レジで値段を見て驚いた。なんと1着で靴下が9足買える。小さな値札をメガネをかけてみると 確かにその値段。
 帰り道 横の座席からは 靴下27足買ったと同じだという愚痴を聴く羽目になった。
 これも 買う側のモニタリングでしょう。よく値段を見て納得して買うのは自己責任。売る側は 餌で釣って より高価なものを売る。これもモニタリングなんですね。
 両者に共通しているのは、”欲得!” で この程度ならば まだ良いのだけれど そういかないのが 世の常。
 仏教の歴史を考えると”欲”に対する捉え方は変化しています。欲が起こるのは六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)からとし、唯識仏教では はたらきから善(仏道を求める心)・悪(むさぼり)・無記(どちらでもない)の三性に分ける。そして日本に広まった大乗仏教では 大欲(たいよく)を重視し、煩悩即菩提  煩悩や欲があるからこそ菩提も生まれると考える。
 大分 判り辛くなって参りましたが この辺の整理がなされないと 不味い。それが 上記の菩薩行、つまり 永遠に努力しましょうねとなる。
 無理だ! 俺にはできない。と決め付けてしまう方もいます。そして 自分を責めてしまう人と他を責めてしまう人に分かれる。これで変われば良いでしょうが そう上手くはいかない。
 マズローと言う方が『欲求階層論』を唱えた。五つの階層に欲求を分類したのですが、五番目にあげたのが「自己実現欲求」で高次元なもの、 確かに社会の一員として生きて行く私達は 世間の評価を気にし 他人と比べ 際限の無い欲望を持ってしまいますが 自己実現→他人はどうあれ 貴方自身の有りの儘で良いのですから。
 ここに現代の抱える問題(病巣)があると謂われます。確かにそうです。望むと望まずに関わらず情報はドンドン入ってきてしまう。上記の靴下騒動も然り、27足の靴下を買った訳ではなく、3足でした。冬に向け 必要だから買ったんですよ。
 間違って 27足買ってしまったとしても 暮の歳暮に付け あげたら喜ばれますよ 多分。

3223:プレゼント?

 人が大切に持ち続けている事って どんなもの? 親からもらった形見、手紙かもしれない。形に見えないもの、そうだな~ 教えかもしれない。他人には判らない、あるいは どうでも良い事かもしれません。毎朝 本堂で 手を合わせる時  念ずることは ずっと変わらない。思ってもいなかった事が起こったりするけれど ・・・・ こうやって 毎日が過ぎて行く ここに今 自分がいるという実感こそ、何にも替え難い 尊いことだと思います。
 本当の悲しみは 自分が それを経験しなければ 判らないと謂われます。じゃ~自分はどうなの?  悲しみが癒され あれほど涙を流し 苦しんだことは 思い出の中に納まっている 。
 人は忘れる力(?)をもつ。ものの本に書かれてあったこと。
 ・・・死んでしまった子は いま どこにいるんでしょうか?・・・・・父と母二人だけの娘の3回忌、あの時から苦しみ悩み続けてきた2年が経った、帰り際に、父親が私に尋ねてきた。遺されたものにとって 先に逝った我が子と現世での語らいができないことをずっと悔やんできた。その無念さは 有らん限りの記憶を辿っても 答えを見つけることができないと自らの胸中を吐露した。明らかに躊躇して 小さな声で・・・・。
 さまよう死生観 判っていながら 何かに救いを求めたくなる。逝ったものが 唯一遺してくれたものは 此岸に生きる私達が その無念さと向き合い続けて行くというプレゼント、大切にしながらその”願い”をかなえてあげようと・・・・。 
 「功徳を積んでいると意識した瞬間」、いままでの積み上げが台無しになる。無功徳 これは有名な禅の言葉で菩提達磨(AD5c)が説いた。(碧巌録)
ご利益や見返りを条件に成り立っている現代社会からみれば真逆の生き方、損得勘定が行き過ぎて 超えてはならぬ事が多すぎる。残念だが この流れを食い止める術はない。無為無策に流れに逆らわず生きよというのでしょうか?
 支えを見いだせず どこに向かうか判らず仕舞い。
 102才になった方の葬儀の知らせがありました。私が住職になって最高齢の天寿を全うされたおばあちゃんです。お元気な頃 ご主人に用事があってお邪魔するといつも変わらず お茶をいれて 黙って傍にいてくれた。
 支えって 何だろう? 夢?希望?生き甲斐?・・・・・・。それとも ”保険”?・・・・・。
 どちらにしても 悪用されれば 本も子もない。保険に保険をかけるような社会は 明らかにおかしい。
 アパートがドンドン建っている。宅地開発の許可を取る条件に雨水処理や公園緑地敷地の提供があるそうだ。ただ 法律はその管理までは関わらず、草ぼうぼうの公園で子供が滑り台で遊べるのだろうか?誰一人 皆で掃除をしようと言いださず、背丈が腰ぐらい伸びてしまった。 区長さんからの話で 掃除を園で引き受けることにした。苦情は出ないと思うが 念の為 区長さんも掃除に参加する。
 日本の制度は 後のことはあまり考えない。制度の独立独歩?は一向に改善なし。昔は自分の意志で 関係者が地域環境を守ることに参加した。
 義務と権利 その隙間をうめるツール(道具)が育たない。個の尊厳の解釈すら十人十色、言った謂わない常套句、お金を介在させ 何もかも解決をはかることの限界
  捜せば上手くいっている地域もあるかもしれぬが 新旧住民の触れ合う場が無いのは 致命的。  プレゼント⇔無功徳 アイデア募集中!sumita@sjk.or.jpまで お気軽に さり気なく。
   
 いつの間に最高気温が10度台になった。今年は初雪や紅葉が遅れている。法人で恒例の健康診断があった。受診者が大勢になった為に2回に分けて行う。同時にインフルエンザの予防接種も行なった。昔と比べ、健康管理は格段の進歩、医療ケアーの必要な人達が多くなり 体調に異変があれば 直ぐに協力医療機関に通院、場合によっては手術や入院となる、年間には 相当の数にのぼる。 家族とは 何だろう? 頭から離れず 決め付けもできない。
 昨夜は友人の奥様の通夜があり出席した。行年54才という若さで 突然逝った。知らせを聞いた人達は 皆 驚いたに違いない。それよりも 遺族の方々のお気持ちは 如何許りか 声を掛け辛かった。普段から元気で山登りやいろんな活動を積極的に行ってきたと伺った。通夜には故人の冥福を祈る沢山の人達が来られていた。
 悠久の時間の流れの中 生きた証を探し求めながら誰しもが精一杯いきている。心の中は他人には判らない。 葛藤と向き合い 縺れ絡んだ糸を解すことに多くの時間を費やすものも有れば 焦らず運を天に任せるタイプの人もいる。
 後に遺された者達は 逝く者が担いできた荷を引き受け 生きて行かねばならぬ。プレゼント=贈り物。共に歩んだ歳月 育くんできた大切な思い出を支えに生きていくことだろう。
   

3224:宝物

 処狭しと自室にモノを置いているSさんとMさん。日曜日は家族会(奉仕日)があった。お兄さんは都合が悪く来れなかったSさん、一人で後片付け、8つのゴミ袋にして出したとか。それでどうにか足の踏み場が出来たとスタッフから聞いた。彼の部屋を見た時私は唖然とした。その程度では おそらく何も変わらない。 近くの蓮田で網で何かをとっているSさんに出逢ったことがあった。『何してるんだい?』と尋ねると『タニシ』、『それをどうするの?』 すると 『部屋の中で育てるんだよ』と言った。前はメダカ?を飼っていた。”宝物” 他人には 判らないものである。
 環境の変化や乱獲により絶滅危惧種の数が増えている。霞ヶ浦の生態系は確かに変わった。最大の原因は 水質の汚染だろう、ワカサギやタナゴの激減、外来魚の異常繁殖である。霞ヶ浦の水は重要な飲料水であり 工業用水でもある。
 水質管理には 相当の経費をかけているが これから先 水がめとして使い続けるには どうなのだろう? 今年 世界湖沼会議がつくば市で開催された。正直 住民の関心は高くは無かった。
 生活の3つの基本は衣・食・住、健康の三要素は運動・栄養・休養だ。恐らく それを否定する人はいないが 不安は確実に増している。このままでは地球が持たないのではないか!との基底
 施策優先順位への疑問、 世界の流れを見ていると光・空気・水への関心は低い。まだまだ先の問題だからとの先送り。 便利さとスピード、それと豊かさという決まり文句で覆い隠す。表と裏。目に見えることと見えぬこと。物とこころ。照準設定は最初が肝心、初めは僅かなズレだったものが 後々 修正不能なズレに拡大する。未来は予想、過去は結果、現在は生きる人間の智慧により変化する。
 現代の象徴的な落とし穴・・・・・V字回復の功労者、競争激しい自動車産業、M&Aでグループ化を進め販売台数で世界NO2の地位に押し上げカリスマ経営者とメデアは持ち上げてきた人物。司法取引により 表に出なかった実態が暴露され、一夜の内に”容疑者”。その汚名返上の闘争で、一企業の問題と知らぬ顔はできない、国と国の問題に発展必至、見廻すと そんな状況ばかり目立つ。ここでまた 国内での同じ手法の二番煎じは使えまい。
  ・・・後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ!・・・・・源信の母なるような人がいなかったのだろうか。
 生態系の変化の原因は 住む環境が大きい。人間が考え出した組織も同じ。周りをイエスマンばかりで固めれば 堅固な牙城は脆くなる。それを肝に銘じ ことに当たるべし。この鉄則は 不変だと思います。
 禅譲の難しさは 歴史が証明している。明治20年台から、日本が歩んできた道程は 今日とは比較にならない。 外国との利害に絡む戦火を幾度となく交えた。軍統制の世に 民衆の声は届かず、政治は短命の内閣を重ね続け、不安定極まりなかった。
 これが 昭和20年まで 約60年間続いたのです。
 不戦の誓いは 決して平和的にもたされたものでは無い。多くの人の尊い血を流した犠牲の結果だったことを忘れてはならない。寺の過去帳を見ると この事が一目瞭然である 、第二次世界大戦終戦後73年が経つ、 世相は明らかに変わってきた。我々は天災の恐ろしさを何度も体験し、地球の異変に強い危機感をもつ。方や人災に関しては 人間が考え出来ることの限界の暴露だとみるべきだろう。力を得たモノが 己の価値観を正当化すればするほど おかしな方向に進む。これは歴史が我々に遺した教えであった?
 自らの為した功(いさお)を自らが誇る。これは 数ある宗教の中で 私の知る仏教が最も忌み嫌う教えである。惜しげなく恥じらいなく・・・・ こういう時代になったのかと身に沁み感じている。  
 庭先で筵(ムシロ)に脱穀したコメを広げ 残った殻を身を屈め丁寧に取り分ける老婆 もう50年以上前になる。歳の所為だろう 昔を振り返ることが増えた。
 最近になって 歩いていける場所にスーパーが開店した。連日 駐車場は満杯 落ち着くまでは もう暫く時間がかかるだろう。世の中の変化は 目で確認できることばかりではない、便利さに慣れ 変化に疎くなる。競争が激化し 生き残りに必死なのは どの業界にも共通する。街に老舗が消えた。残った処も中味は大きく変わった。今 話題のグローバル企業は 世界各地にグループの拠点を置き 事業拡大。激しさを増す大国同志の覇権争い、私企業と国営企業、自由貿易と保護貿易、競争するには条件が全く違うから 軋轢が生れる。これは宿命だ。
 日本は労働力不足を補う為に外国人を受け入れる法の整備が喫緊の課題。その中味をどうするか 残念ながら 複雑過ぎて庶民には判らない。
 ここ10年を振り返るだけでも 新規や改正の法に対する説明を何度聞く事になったか判らない。福祉の分野だけでも相当の数。また その変化のスピードについていけない。諦めるか無視するか? 二者択一? 時代と共に変化しても良いものもあるだろうが ”福祉” その目的はどのような時代になっても変わらない。福祉を”平和””安心”と考えれば より判り易くなるのに 何故か 面倒な文言が多すぎる。
 だからだろうか 目的が後付けで方法を本義と勘違う危うさがある。 ムシロの上で天日干した新米を おにぎりにして 皆で分け合って食べた。”共生” って こんな事だろう!現代は実に”我が儘”の時代だ。
  それを良とし当然の権利だと学ぶ。だから判っていて分の悪い方を選ぶ人間がいなくなる。 宝物は得ることが難しいから価値がある、そんな自論を吐けば 自業自得だと失笑を買い無視される。
 ♪   ・・・・白い雲は 流れ流れて 今日も夢はもつれ わびしく揺れる 悲しくて悲しくて とても やりきれない この限りない虚しさの救いはないだろうか?(『悲しくてやりきれない』2番:サトウハチロー 作詞)  ・・・・ ♪

3225:1970年代の懐旧

 時代流行した唄をメドレーで聴いている。毎朝 パソコンに向き合い 独言 初めの頃は 癒しの音楽を良く聴いた。いつの間に1970年代のフォークソングメドレーに変わった。 歌詞が良い。難解な言葉は使わず 思いを有りの儘に言葉にしたものが多かった。耳からは 唄が聴こえ頭はそれとは別に今の心境を取り止めなく探りながら 文字を綴る。時々 ハットする。50年という時間差を飛び越え 心に突き刺さるような衝撃、懐旧の情と言うが 懐かしい時代の背景は 今を観るのに丁度良い教示本となっている。
 例の如く 私の関心は どうしてもある方向に向かう。
我が儘(前記)を英語では self-willとの言い方がある。self-willならば”自分の意志”、何も問題は感じない。???? ・・・が 使われる場面により その意味は変わる。”自分の意志→思い通り”と頑なになれば どうなるか?
 仏教で説明するのは”我”(が)、これを因果の法則性で観ると   因果応報・・善業と悪業⇔果報(幸か不幸)。原因と結果。 (三法印参照)
ちょっと立ち止まって、自分の意志によって為したことが 評価に値するかどうかはあまり考えないと説く。さ~て どうかな?  自分に不利な事は 我関せずと白を切るが 有利な事ならば 独り占め。これが 通れば 何でもアリになりませんか?
 さだまさしの唄『案山子』(かかし)の歌が流れる。・・・・さびしくないか お金はあるか こんど いつ帰る♪・・・・
 親子の情は 今も昔も変わらない? 一向に減らない電話を使う振り込め詐欺は その情を上手く利用した? でもな~心地良い ハーモニーは生まれまい
  
 河島英吾の『時代おくれ』という唄に、・・・・人のこころを見つめ続ける 時代おくれの男になりたい・・・という処がある。河島は破天荒(?)な生き方をし、40代の若さで逝った。 この曲は阿久 悠の作詞、昭和40年代の背景が浮かぶ。東京新宿 私が一時住んだ場所、学生運動の絶頂期 場所構わず あちこちで熱く語る若者が屯していた。正直 私は田舎から出て間もない、右左判らず 立ち止まらず 通り過ぎたことを思い出す。
 そんな時代を送った団塊の世代は 挙って高齢社会を築く功労者(?)との汚名を甘んじて受ける。なぜ そうなるか! 社会のお荷物? 私は一般企業に勤めた経験が無いから 企業戦士がどういったものか実感が無い。卒業後すぐに 今の仕事に就いた。そして 寺の住職との2足の草鞋、履き潰した草履は数えたこともない。
 人のこころを見つめ続けることの難しさは昔と変わらない。でも 中味が違う。自らの言葉にどう責任を持つか? こんな風に考えること自体が 時代おくれなのだろうか? 
 なぜ 現代人はそんなに急ぐのか・・・・・・。経済第一主義を掲げれば そのマイナス要因は排斥されるに決まっている。世の中に蔓延る問題の多くが 効率化や利便性への偏重に起因していると誰もが気付き始めている。だが その流れを変える為にどうすれば良いのか判らない。。。。。  昔 仲間に入らず 傍観者だった記憶は、言うのは易いとの自責の念を再燃させる。
  
 誰かが語った。「今は皆がスーパーコンピューターを持って歩いているようなもの」と 場所構わずにスマホを見つめる人の多さを嘲弄した。もし 充電が切れたら 無用の長物となる。友人が大阪に住み高層マンション生活 眺めは良いし 駅に近い。車は使わずとも充分生活できると話していた。今年 大型台風が直撃し マンション全部が停電になった。エレベーターは勿論 水道も止まった。 2020年東京オリンピック そして2025年大阪万博と大イベント続けての日本開催が決まった。話題に出るのが 実施することでの経済効果、確かに外国から訪れる人は増えるだろう。日本を知ってもらう良い機会かもしれぬ。オリンピックでは暑さ対策でマラソン競技の早朝開催を検討しているとか 。。。。。大阪万博のメーンテーマは【いのち輝く未来社会のデザイン】でAIやVRなど≪最先端技術の実験場≫にするコンセプトらしい。 つくば市で開催されたEXPO 85科学博からは35年が経過する。
 人のこころを見つめ続けることが 時代遅れなのだとすれば 命が輝く 社会は どんなものか 。確かに こころ見つめても経済効果は測れない。もしかして 相手が何を考えているかを量り 商売に活かすという計算づくへの遠慮があるのかもしれない。
 昨日は秋晴れの快晴に恵まれた。某法人の30周年記念に伺った。住宅街の真ん中で農業を主に障害者の支援を30年続けてきた。記念式典は行わず 例年行っている学園祭の中で来賓挨拶 共感した。屋外で太鼓の演奏が大きな音をならし行われた。これで 周りから不満が出ないのだろうか? 施設長さんに尋ねてみたが まったく 心配をしていない感じだった。
 地域に溶け込んだ実践は 見栄や外聞では根付かない。その思いを噛みしめながら土浦に戻った。
 

3226:継続は力か?

昔は出来た事が出来ないもどかしさを年齢と共に誰しもが感じるのではないでしょうか、 何かを継続していくことの大切さ、思いの半分もできないことになっても 出来ない理由を他の所為にだけはしたくない。世の中の不条理に 言いたい事は沢山あるが 今 思えば こうやって生きていること自体が奇跡だと感謝しなければいけまい。 昨日 遠路弔問に来られた方を交え 4人で話をした。50才前半の奥様を亡くされた友人は 気丈夫に その時の状況を話してくれた。 遺骨のある部屋で4人(僧侶ばかり)で話をした。この4人は一緒にブータンに行った時の縁で知り合った。
 友人のお子さんは インド8大仏跡の旅行先でお母さんの急死を知らされ急遽帰国した。自らの意志で僧侶になると 修行中の身と知った。
 親子の関係は 生まれてから死をむかえるまでの現世と 亡くなってからの来世もある。私達は 此岸・彼岸に分かれても どこかにいると感じている? それは願いかもしれぬ。 迷った時に こんな時 親父だったらどうしただろう?と考えることが増えた。
 世界的に著名な心臓外科医のお話を偶然 深夜便 で聴いた。8000例以上の心臓手術の実績があって成功率98%という。”医師道”を熱く語った。その原点は 心臓病で亡くなった父親の存在だという。
 どんな道を歩んでも良いとおもうが職業は生業、できることなら 自分の納得するようななりわいで道を究めたいものだ。 
 昨日 関係する団体の役員会が午前中あった。今までの役目を来春で辞任する旨を伝える。正直 ”もう いい ” 葛藤の中で 学ばせて頂いたことも沢山あった。感謝しているし悔いはない。
 次に 何をしたいか? 仏教の教えを一から学びたい。自分と相手の苦別を前提とした識別・分別では どのような制度や仕組みを揃えようとしても限界がある。仏教は分別智といっている。主客の対立に囚われた考えでは本来の福祉は構築できない。その対立を超えた絶対智を無分別智(平等性智)という。その考えに立った実践をまず 己から  この思いはずっと持ち続けてきたが 近づけない現実とその言い訳に正直疲れた。
 ホンネとタテマエ  中味でなく規模の大小を前提とした評価、やればやるほど矛盾が広がる。諦め止めてしまうのではなく 残された時間で出来る事を模索したい。
 ” 本当は ・・・・・・・・・なんだから・・・・・・”という囁きを聞いた。・・・・・・・は敢えて明かさない。それは 現実をどうみているか 各自の判断で読み解くものだから。
 友人がメールで送ってくれた。それは 亡くなった樹木希林さんの名言『時が来たら 誇りを持って脇にどけ』だった。
≪ 一人ひとりの笑顔 弾けるような顔 悲しそうな顔 悩んでいる顔 ・・・・・十人十色 。全てが 縮図、縮小した図では 虫眼鏡でも見えないような人達がいる。≫
 
 なんとま~ 三日続けての葬儀になった。斎場は皆違う 若い頃であれば ・・・ 今はグッタり疲労困憊となる。 寺に住まわせてもらっている以上 勤める責任がある。
 自分を回遊族青魚科の人間だと語るメールの送り手は 70歳を超えても じっとしていることはなく 必要とされれば どこにでも参上するフットワークの良さ。Yさんとはヒョンな事で知り合いになった。彼が教えてくれた希林さんの名言『時が来たら 誇りを持って脇にどけ』は 引き際を弁えよと謂っているのだろうか。満身創痍の体で見事に引き際を演じた希林さんは今年75才だった。
 継続が力ならば忘却はどうなんだ? 一日目の通夜の迎えのタクシーに自宅と車の鍵を置き忘れた。天の恵みか 私の次に乗った人が鍵を見つけ運転手に渡して置いた。迎えも同じ運転手さんだった。『住職 鍵忘れなかったか~?』謂われるまで気付かなかった。2日目の通夜のタクシー、今度は降りてから『 ホレ これ忘れているよ!』と手渡してくれたのは引金、ダメ押しは葬儀の時間が1時間違っていた。水戸での会合の後 お茶のみを誘わず帰ったから10分遅れで 間に合った。
 これだもの とてもじゃないが 誇りをもってなど 言えません。もう一度 忘却は力か? ウーム そう 思いたい。

3227:欲の感性

 感性とは 善や美などの評価判断に関する印象的な意味を知覚する能力といわれる。それは非言語的、無意識的、直感的なもの。仏教では 知識より生きる智慧を重んじる。
 この国がどこを目指し進んでいこうとしているのだろうか? 自分の足で歩むのではなく 走り 飛び越え息切れしているようにさえ思えて仕様が無い。何が真実か確信が持てない儘 都合のよい数値をあげ 強引に『これが 今できる最善策だ』とばかりに 外堀を埋める。同調圧力? 懐かしい言葉だ。
 民主主義の崩壊、戦後復興から 私達が得たものは 形骸化した手続きと 庶民の感性を軽視する複雑怪奇な仕組み、仏教が戒め説いた道は  流行のSNSやAIへの盲信の道標と地図によって 自らに課した反省と引き返す勇気をも台無しにしている。 更に この筋道を唯一正当化せんとしてきたものは『豊かさへの妄執』と思う! 人はお金で幸せを掴むことはできない。どれだけ高額な給与を得たとしても 人は それに満足できない。目的達成の為に 相手を蹴落とし 勝ち組になる競争を排除できまい。それでいながら 共生 なる言葉を添えている。否、だからこそと言いたいのだろうが一貫性の無さを 覆い隠すことは もはや無理ではなかろうか?
 感性の定義は哲学的、心理学的に様々に行われている。溢れるモノに 一向に満足しない人間が その手段として職業を転々と変え まだ見ぬユートピアを探し求める。今の状況は 当に 台風の”目”の中に無防備で漕ぎ出す小舟、楽園を求め安住の地を幸運に恵まれ探し当てたとしても 楽園と思っていた場所が 真逆の園だったという事も起こり得る。
 混沌とした世界情勢の中で ニッポンの果たすべく役割がある・・・・・と見栄をはる。
 今を生きる自分達がよければ それで 本当に良いのでしょうか?その覚悟を感じない。
 再生可能エネルギーへの転換策への疑義・・・・現に九州で起こった。太陽光による電力を需給バランスの理由で買わない。夜の地球を衛星から眺めた映像でアジアの中で特に日本は煌々と光っている。歴史上 人類が経験した最大の福島原発事故、その後、原発再稼働の動きは弱まるどころか より加速しているように感じます。
 高度成長時代に夥しい数のマンションが全国に建てられた。それが築40年以上を経過し どうするか 大きな問題になっている。 不要になったキュービクル、この処理場が日本では北海道に一つだけあるだけ 捨てるに捨てられず放置されている。
  こういった問題になると なぜか 日本のマスコミは 寡黙になる。これが 精密にひかれた設計図・・・・欲の感性の序章・・・・
 
 皮肉な運命とは どんなことよ? それはね、予想や期待通りにいかなかったこと。でも 良く考えて見なよ。自信満々に成功談を話す人って 胡散臭いでしょう。皮肉という字にはウワベだけという意味もあるんだから。

 映画監督の宮崎駿さんと 『グリとグラ』を書いた絵本作家:中川季枝子さんの対談を聴いた。お二人とも子供の話をする時は声が弾んでいる。二人の子供時代は 戦争をまたいで、何もない貧しい生活、そんな状況でも子供は自然を相手にして ドロンコになって遊んだ。中川さんは 戦後 無認可保育所で保母として働いた経験がある。勤める時に園長から言われたこと『子供達が喜んで通って来れるような保育園。それと 皆さんが楽しく働けるような園にして頂戴』だった。
 宮崎さんは アトリエの脇に保育園を作った。子ども達との触れ合いの中から自分達が忘れてしまったことを教えてもらっていると語る。『保育園で喜んで木登りしたり ドロンコ遊びしたことが 小学校に入ると叱られる。。。。』 『この国は 変なことになっている。どうすれば良いのでしょうね?』 ・・・・・短い時間だったが子育てに悩むお母さんたちにとっては勿論 我々大人たちにとっても心に響く話であった。
 少欲知足や大欲の意味を 現代人は どう考えているだろうか? まったく関心がない? 子育てで悩む若いお母さんに『他の子と比べないで お母さん自身の子供の時と比べたら良いのよ』 との中川さんの言葉がどう映ったか? 子供と向き合うという事は 無理強いはせず 一緒に育つという気持ち。その大切さを 中川さんの何気ない言葉から感じた。
 もし人生を設計図通りに生きられるとしたら 逆につまらないと思いませんか。これって判り切ったことなのに 何度も書き直しするたびに自分を責める人がいます。そんな時 自分の思い出帖を覗いてみてはどうでしょうか!
 欲は 生涯にわたって持ち続ける。これが仏教の教えの基底にある。だったら その欲とどう付き合うかってことなんだと思いますよ。 ・・・欲の感性の第2章・・・ 
 〈仏〉無常とは 一切のものは生滅・変化して常住でないこと。方丈記や徒然草にある無常観は 今でも何も変わらない。 戦後一貫して科学的合理主義を進めてきた日本の行きつく先が どんなものになるか? 国によって違いはあるだろうが 個々の人間にとっては 然程の差はない? 日本が選んだ三権分立を旨とする民主主義は その何れかが強まり過ぎると誤った方向になり易い。法治か暴治か??
 国内と国外の取り決めを共に 政権交代ごとに解釈を変えたらどうなるか? 法律に不法領得の意思というものがあるらしい。他人のものは 俺のもの 俺のものは 俺のモノ・・・・・
 シェアハウスへの過剰融資で金融庁の改善命令を受けた銀行が 再建策をはかる為 第三者委員会を設置し検討した。その結果はいかに?第三者委員会というものが やたらと目立つ世の中になっている。然もありなんでしょうね。役人が公僕と謂われたのは昔のこと? 不正や改ざん・隠蔽と負の連鎖が止むこと無し。公益法人と営利法人の違いの 曖昧さを払拭する手立ての有無と良し悪し? その辺の整理がなされず 必要に迫られ見切り発車。
 そして無常と無情を勘違う 無常は万物の本来の姿だが 無情は非情と似て 人間様のこころ無いこと    
  ★ 視座を変えて 純真無垢な幼児のあどけなさ、それを失わずに守る社会⇔★ 相手を蹴落とし 勝利の勝どき・祝杯挙げる皮肉な社会  我々がどちらを選ぶか 当然!ということにならない 現実。・・・・欲の感性 第?章・・・

3228:節目

 
 高野山


 人生の流れが変わる出来事を”節目”、 振り返れば誰も節目の幾つかはあると思います。私の場合は 20代前半の一ケ月間の長谷寺での参籠(さんろう)が大きかった。もう45年前になります。何も判らず入山した。修行者の中で一番の長老で丁度今の私ぐらいの年齢の方との出逢いが大きい、思えば 観音様のような人だった。あの頃は新幹線で京都までいってその後近鉄に2回乗り換えて長谷寺に登嶺するのが一般的な交通手段だった。それが 茨城空港から飛行機で行ける世の中になった。久しぶりに 檀家さんとの団参で茨城空港から神戸に飛んで 一泊二日で長谷寺・高野山詣でに行きます。
 長谷寺の登廊は山門から観音堂までジグザグに399段の石段で繋がっている。一気に登れば息切れする。最後の階段が急になる。 そこは参籠時に 毎朝 箒で掃除をした場所である。長谷寺は御多分に洩れず浮き沈みはあったけれど1300年絶えることなく続いている。
 石段を一段一段のぼるように 自分の人生を例えれば 皆さんが感慨無量、そこは同行二人 一人じゃないんだと自らに言い聞かせ歩んだ道なのです。総本山長谷寺は西国33カ所観音霊場第8番である。
  宗教の本来の姿は人それぞれが安寧を求める支えです。 信じる宗教の違いによって相手を排斥するなど もっての外と言えまいか!私は信仰を 目的に繋がる石段と思っています。 目的は”願いの実現”、出来れば万人に共通する願いであって欲しい。 
 ★似非 民主主義が蔓延れれば 何を信じて良いか迷うもの、どんなに優れた仕組みを作っても 結果はたかが知れている。竹のように節目を作り、しなやかで真っ直ぐに伸びる生き様は 今の社会には不要なのか? 竹は 地中に根を張り 確たる土台を築く。見せ掛けのメッキをいくら施しても 直ぐに化けの皮が剥がれます。ナイシホッカイ ビョウドウリヤク カイグジョウブツドウ。
 
総勢23名の本山参り一行 皆さん挙って 口数少なく 表情固く どうなることやら? 神戸空港に到着予定時刻前の午前10時に着いた。現地バスの出迎えを受け出発した。心配した天候も曇時々雨、大きく崩れる予報では無く気温は高め ガイドさんの案内を聞きながら・・・・兵庫~大阪~奈良の三県を跨ぐ 高速道を順調に進み昼食を長谷寺門前でとった。私が長谷寺に初めて登ったのが45年前、その記憶が蘇る。今回はつくば市出身の研修生Hさんが山内の案内役で待っていてくれた。観音堂の舞台下は思いでの有る場所、30年以上経つだろうか 土浦から友人Sちゃんと交互にトラックを運転しシャクナゲを運び植えた場所 花の時期ではなく どれがそうなのか判らなかったが 一応写真に納めた。
 長谷寺では丁寧な案内と接待を受け 午後3時半に下山し 高野山に向かう。用意されていたのは大変快適な宿坊で一同満足したようである。翌朝6時の朝のお勤め その後壇場伽藍や奥ノ院をお参りし 1300年の悠久の時の流れに全員が心清まる思いをされた様子であった。
 出発時 早朝に集合場所に着いたのが夜9時半で 二日間での駆け足の本山詣は 事故も無く無事成満することができました。
 最初は どうなるかと心配した皆さんの表情は 最初と打って変わりお互い打ち解け微笑んでいたのが印象的だった。和顔愛語・・・・
 ★ 樹齢700年の杉大木の中に三十万~四十万基という膨大な墓がある奥ノ院までの参道は ”現世での 絡み合う悩み事 ひとつひとつが 解ぐされて 感謝の念で満ち足りる”  人生半ばの一大事 皆それぞれが 抱えることなれど 決して一人で無いことを 努め信じて生きること・・・・ ナ^ム ダイシヘンジョウコンゴウ・・・・・ さてと 次回はいつになることやら。

3229:支え合う

すれ違いざまに≪こんにちわー!≫と大声で挨拶していく中学生。仲間数人で自転車通学、彼らはいつも楽しそうにお喋りをしながら寺の脇道を通って行く。こちらも 急いで「や~ こんにちわ」と答えるが その時はもう通り過ぎて振り向く事もなかった。今時 珍しい若者と いつも感心するのです。
 言葉の持つ力は無限大、時と場合によって 相手に不快感を与えてしまうこともあるだろう。日本ではいつの頃だったか?『知らぬ人には声を掛けないこと」という標語?がうまれた。支え合う運動の一環として 町内掃除を考えてみてください。 地域ではグループ別に年間の作業日を設け行っている。隣近所で一緒に行う事が減った今 貴重なものとなっている。
 それと犬の散歩が増えている。良く見ていると 犬の糞を持ち帰る人 そのまま行ってしまう人がいる。常識&非常識 それを注意したら『わかりました』のこころ無き返事。判ったなら やれよ! 犬は散歩でき満足かも 飼い主は我が子以上に愛くるしい? ならば迷惑は誤解に始まるか!公道は誰もが使える。道にフンをする犬は少なく大体は道端の私有地に片足あげやっている。 犬からすれば そっちのほうが 気分が良いのかもしれない?
 人間様は どうだろう。決められた場所での喫煙、それ以外の場所で吸えばペナルテイ。道端に捨てられるゴミ ・・・・・ 誰も見ていないと素知らぬ顔でポイ。疑えば切が無い。シンガポールだったか ルールを無視した行為には厳しい罰が課せられる。そうして 街の景観を守っている。
 彷徨うモラル 患いと諦めでは 何も変わるまい。
 先日の旅先での一コマ! 関空近くの昼食会場となった53階建のホテルのロビーに人だかり、何しているかと覗いたら 身の丈 1メートル程のAIロボット、驚くほど上手に来客対応 関心と笑いが人を呼ぶ。いやはや大変な時代となりました。
 
 某メーカーのスマホが通信障害になり4時間使えない事態になった。何が起こったのか? その時 私も知人の携帯に連絡しようとしたが 相手が出ない。電源OFFにしてあるのかと思ったが そのメッセージも流れない。
 同時刻に 同じトラブルが世界の各地で起こった。同時多発テロ?かと一瞬思った。スマホ機能は多種多様 その競争も激化の一途。一端 トラブルを起こしてしまうと 様々な問題を引き起こすことが証明された。今回の通信障害によって損害があれば 天文学的な賠償請求が起こるかもしれない。スマホは手の平サイズのスーパーコンピューター、その部品は多国籍で 何処に問題があったのかで また 大いにもめる。
 日本に居ると 溢れかえるモノの中で人が部品化し皆が皆生き残りに必死?その結果凄まじい勢いで進化したことは事実だ。だが その事に誰しもが危うさを感じている。 それをどうすることもできない現実と自分の無力感。
 通信障害時 数少ない公衆電話に人が並んだ。あれほど上手にスマホを使う若者が 単純な公衆電話の使い方が判らない。合理主義一辺倒に成り過ぎた社会は逆に不合理になる。これは”何の為”という原点が判らなくなる合併症の併発だ。
 タイ上座仏教寺院の副住職になった日本人(プラユキ・ナラテボーさん)の話を聴いた。人は物の多さで幸せは得られない、電気・水道を当たり前に使っている今の日本では考え付かないことが沢山ある、電気の無いタイ農村部でのワークショップに参加し、そこの子供達の笑顔や隣同士が仲良く助け合う姿をみて考えた。重要なのは自然を人間の思い通りに変えてしまうのではなく 有りの儘の自然と上手に共存すること。それとタイで感じたのは国民の95%が信じる仏教の存在だという。
  

3230:変化の兆し


 急に気温が下がった。恒例のナイスハートフェステバル2018が水戸の県立文化センターで開催されました。県内の障害者が参加するイベントとしては 大きなものの一つ 私は 最初からこれに関わってきました。今回で退くことに決めました。初めて 観客席から舞台を見せて頂き 感無量!初めは  手作り我々施設が丸抱えだった。それが大分変ってきたことを感じました。途中から教育と福祉の共催とした。交流することで お互いの課題が見えてきた。そして 全国障害者スポーツ茨城大会の開催まで1年を切り、本格的な準備に入った。
 これを チャンスにできればよい。 まだまだ障害者への理解は進んでいない。もし障害のある人たちが今も肩身の狭い思いをしているとしたら、いつまでそれを続ければ良いのか!忸怩たる思いである。高齢化や少子化対策が喫緊の課題なのは判る。 制度・仕組みを作った。それを活かすために必要なことは 先ずは担い手の確保と養成である。当然、一朝一夕にできる事ではなく長い時間を要する。それへの対策は充分とは言えまい。
 壁に貼ったH24/6/9の新聞記事(指導者考)・・・・・
 指導者のカリスマ性は 「人々の熱狂と忠誠心を鼓舞する特殊な力」をもち、「強い信念や活力、熱情を備え、力と成功のシンボルを操り、人々の感情に訴えて魅了」すること。
 そのタイプには正と負があり、前者はインド独立の父、マハトマ・ガンジーで後者はナチスのヒットラーだという。ジョセフ・ナイ著『リーダー・パワー』の紹介があった。
 変化の兆しは 見守り続けることが重要、特に障害者問題は”大衆迎合”と紙一重の危険を常に持っているからである。
  
 映画【ガンジスに還る】(Hotel Salvation:英語題)
シュバンシュ・ブティアニ監督: 『帰る』ではなく『還る』の字を使った 関東では岩波ホールだけでの上映、ある方から是非観て欲しいと奨められた。雄大なガンジス河の畔ベナレスを訪れた事がある人にとっては そこで受けた衝撃を 判って頂けるとおもう、今は観光客が船から眺めることができる火葬の現場、あちらこちらで薪を井桁に組み 荼毘にふしている。誰もが迎える死、出来れば安らかなる終末を迎えたい。川岸にある建物は『解脱の家』といって自分の死期を悟った時に そこに宿泊し 死を迎える。究極のホスピス&ターミナルケアー&救済の家である。
 現代社会が抱える、「従来からある伝統と、現代的な生活は共存できるのか?」(監督へのインタビューP19)という問いを描いた。この言葉は劇中 携帯電話を効果的に使った 意図を尋ねられた時の答えでした。
詭弁を弄する必要も無く 無一物で現世とオサラバ、隠蔽・忖度・改ざん・・・・巧妙な嘘で塗りつぶされた世に生きて 安寧が果たして得ることができましょうか? こんな事を言うと ”できもしないクセに お前は何をいう”というもう一人の自分がいつも口を挟む。
 自省や自制は そういうことなんだろう。岩波ホールは 他の劇場とは趣を異にする。神保町駅から歩いて1分、書籍街と学生の街のど真中にあった。
 観客は私と同じ年頃で 独りで観に来た方が目に付いた。三田線と千代田線経由で土浦に戻る電車の中で例のスマホでニュースをみた。
入管法改正のドタバタ騒ぎを国民の目にはどう映っただろう?今の政治に保守・革新があるのだろうか?勿論 右か左か そんなものないに等しい。それを演じているだけのこと 観客の疎らな劇場でロングランの出し物を演じている。各々の役者が与えられた役を演じているが、それも台本が完成していないのに初日が迫ってきたからという。【ガンジスに還る】は今週で終わり、次は【葡萄畑に帰ろう】となる。
 これは 最近問題になったネット販売で空きの無い宿を斡旋する業者となんら変わらない。基本的に ベナレスの「解脱の家」を利用する条件には抵触する。
 
 月命日に必ず供えものを置いて行かれる方がいる。ご主人を亡くされてからずっと続けている。いつもメモが同封され・・・お世話になります。宜しくお願いします。・・・・と書いて6本の缶コーヒーが置かれてある。
 ご主人はコーヒーが好きだったのかもしれない。
 こうしていても頭の中には 昨日観た映画のことが鮮明に残っている。翌朝パンフレットを読み返し 新たに気付く事も多い。インド生まれの監督は27歳 「インドを再発見したい」「見た事のない土地を訪れたい」「自分を見つめ直したい」との好奇心が企画の始まりだったという。入念な調査を自らの足で行いキャストを選ぶにも納得いくまで話し合った。
 思いを形にするのは 全てに通じるように思っている。企画側の努力不足かそれとも能力の無さ?トコトン話し合って作品を作り上げたものと 運が味方して出来たものの違いはある。それは 自己満足か 相手も満足しているかの違いかもしれない。
 相手が満足していれば 敢えて自らが誇ることはない。寧ろ その逆だ。仏教やヒンズー教の教えの根底にある共通にあるのは”安寧”、自らの徳を自ら誇って真の安寧・満足が得られるか!
 これは 福祉(安寧)の原点、ここを見誤っては 相手の心を掴むことは 難しい。
  映画の中で 息子が父に尋ねる場面がある。「生まれ変わったらまた同じ家族になりたい?」これは 父親がなんと答えるかが重要ではなく、息子が「僕は良い息子でしたか?」と父に問いかけているのです。