源究171

  

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 2931 仄々(ほのぼの)  4/29   2936 ガンコ者  5/12  2941 好天の下で   5/22  2946 Sazanka   6/4  
 2932 心象風景  5/1   2937 サービスの妙   5/13  2942 平談俗語   5/24  2947 発想の転換   6/9  
 2933 原風景  5/3   2938 疑義から真実へ   5/16  2943 G7   5/28  2948 判っておりまする   6/12  
 2934 懺悔の文  5/6   2939 逝く人に・・・   5/18  2944 後継者   5/30  2949 見えてきたもの   6/15  
 2935 原体験  5/9   2940 生まれくる人へ・・   5/21  2945 シナリオ   6/1  2950 倚りかからず   6/18  


2931:仄々(ほのぼの)

ほんのりと心温まるような出来事が目立ちにくい時代になっているように感じます。仄々という字は意味深です。漢字の「垂れ」のなかに人があり、仄(ほの)かと読む。「-な残月の光」「-な恋心」。日本語には古から絶妙な響きをもつ言葉があった。源氏物語や万葉集・・・・「仄かに染むる桜には・・」宇津保物語・・・・ 何かに追い立てられるような 今の時代に何が欠けているかと思うと私は”ゆとり(間)”だと思います。ゆとりなんか有るわけないと一蹴されそうですが、 画面が瞬時に変わるスマホでは仄々という人の関係は築けまい。ゆとり=豊かさ、モノとお金の尺度が最優先する社会は 天井知らず。この辺で満足するということが出来にくい。このまま突き進むと何か恐ろしい。
 昨日は東京に出た。用事があって 会議を中座して帰路につく、山手線で目に留まったこと。それはお年寄り用のシルバーシート、座っていた若者が乗車してきたお年寄りに無言で立ち上がり席を譲った。スマホをやりながらである。そして イスに残った紙切れ(ゴミ)を自分の手で拾った。スマホを見ながら、その間数秒、周りは何も変わらない。その若者は 何事も無かったかのように、次の駅で下車していった。
 まだ混雑には早い時間帯、この細やかな出来事、これが今流の”礼の道”?。
 昨日は電車の遅れは無かった。人身事故によるダイヤの変更は良くある話、毎日電車を利用されている人たちは慣れてしまったようだ。 日本人は人の悲しみや苦しみに対し、今はそっとしてあげようとか励ましの声をかけるとか・・・・があったと思う。それは余計な事とは違ったはず、≪気遣い!≫個人情報保護とか差別禁止が自棄に目立つ世の中になっている、本来、当たり前だったことを敢えて法で縛らねばならないことになってしまった。
 地域創生も良いでしょう! でも どうでしょうね。難しいかもしれません。損得で全てを計るような時代においては 正直 どのような仕掛けも根付かないのではないだろうか。これは 自然の道理ですよ。
 若者の福祉離れが問題になって大分時が経つ。それは 今の日本が 膨大な借金を若者に負わせて余り感じないこと、そんな事より自分さえ良ければという世相の反映ではないでしょうか。権利偏重の社会は往々にして義務を軽んじる方向に行き易い。
 最早、目先だけの改革ではこの国が持たない。誰もが危惧を感じながら口を閉ざし、その責任が自らに降り掛かることを恐れている。
 仄々さがし・・・・・・余りにも様々な情報が溢れすぎ 欲の過剰社会となって昇華が大変難しい。だからこそ 仄々 細やかな取るに足りない事に価値の再発見をすべきだと私は考えます。
  
☆ 大型連休を見込み新車発売キャンペーンを行っているが お客さんが集まらないと聞いた。当たり前だと思いますね。1000回を超す余震が今も続く熊本では復旧に手が付けられず地震の治まるのをジッと待っている訳です。
 建物の下敷きになった車、地割れで通行できない道路を毎日見て、消費意欲が出るはずない。そして 日本経済を牽引してきた自動車産業。。。。過去最高の利益をあげ、多額のボーナスを支給したばかりだった。どれだけ多くの人達が羨ましく感じたか? そして、今回明るみになった燃費偽装問題、その表と裏の極端な実態は一企業の問題だけでなく、こんな事をしていれば世界の信用を落とすことになるのが何故理解できない。
 ドイツでも同様の問題があり、国と企業が一体となり信用回復の必死の努力をいま行っている。利便性を売るには安全の担保が条件だ、その生産者側のモラルが欠如、そこまでして何故利益をあげようとするのか? この疑問は”愚なるか?と問いたい。
 足元に目をやれば福祉や介護・医療の現場が今相当混乱しています。乱立するサービス事業者、ルール無き競争の実態、人の幸せを支える仕組みであるはずの社会保障、見えてくる表と裏の顔、・・・・・そのチェックをどこの誰が行うのかハッキリしない。行政の役目、事業所の責務、そして 利用者の負担、次々に示される改正の中味、国は事業者の大規模化を奨めると明言、その結果いま何が起こっているか? その確かな情報を誰も掴めず苛立っている。 豊かさの中のこころの貧しさ・・・・と言われたのは過去の事、今は身も心も貧困という背筋が寒くなる状況が目の前にある。
 競争によって質の向上をはかる・・・・という事を語る前に有るべき姿・為すべき事があるはずだと私は考えますが 皆さんはどう思いますか?????(本日:昭和の日)
 

2932:心象風景

 ≪強気(?)を助け弱き(?)を挫く≫  心象とは 現実とは違い心の中で描くこと、主観的且つ抽象的と言われます。何故か判らないが最近 そんな事をよく考えるようになりました。何が現実か?想定外の事が次々に起こるからかもしれない。勧善懲悪(かんぜんちょうあく)・・・・これ初めて聞いたという方結構多いと思う。もう日本語として死語になっているのかも知れない。簡単に言えば”善事をすすめて悪事をこらしめる”ってことです。な~んだ、そんな事 大層らしく。まっ 付き合って下さいな。何が善で何が悪かよく判らないことって有りませんか?多様な価値観と変化のスピードが速く、思考停止状態の人が増えているんじゃないでしょうか。結局なんでも有りということになってしまったように思えて仕方が有りません。
 意見を言うと”捻くれ者・ねじけ・素直でない”と言われかねないから、日光の三猿(見ざる聞かざる言わざる)に挙ってなってしまった?これはみんな良い子でいたいからでしょうか。”アンタは とてもお利口さんね”と頭を撫でられ”ウンうん”と納得し、お勉強して自分のことをしっかりやっていなさいね それが一番良いんだから・・・・と宥められた。いや そうとも言えない。ネットを通じて 大量の情報が流れ、いとも簡単に手に入れることが可能、その影響が様々な形で出ていると考えるべきでしょうね。現代は心象風景か原風景か判らない時代とも言えます。
 お金を沢山儲けて、美味しいもの食べて 綺麗なベベ着て原宿散歩・・・・・これって昭和40年代の憧れ&夢でした、若者は街に出て、ある者はヘルメットを被りビラを貼り、拡声器を通し大声たてて訴えた。今から半世紀前の話です。
 良い言葉が見当たらないが、熱かったあの時代から50年経過し、明らかに変わったのは”集団と個””表と裏””善と悪””便利と不便”等々・・・・の概念。
 当時の経済界や政界のリーダーに共通していたのは、自らの言動に責任と覚悟を持っていたということ。変に隠れてコソコソなどせず堂々と自らの言葉で考えを述べ、言ったことは実行し、出来なければ身の引き方が良かった。だから人々はそれに真剣に耳を欹てた。
  このところの政治の凋落ぶりは、ハッキリ言ってあの方達に期待が持てないからではないですか・・・・代表制民主主義を掲げながら実態はどうなっています?バッジを外し野に下る時。潔く立派だと思える政治家を暫くお目にかかっていません。言い訳が多く言動に重みを感じなく、それでいて良い恰好をし過ぎます。
 今回の熊本での大地震、そこに住んでいる人の多くが九州では地震が起こらないと思っていたという。茨城のようによく地震が起こる所に住んでいると、普段からその備えはしています。公表された国内の活断層の数、日本全体が活断層と言っても良い位の多さ、今回のM7クラスの地震がどこで起こっても不思議でない。
 あの川内原発(九州電力の加圧水型)は鹿児島県にある。福島原発事故の後で再稼働した第1号、万が一原発周辺で地震が起こったら どうなるんだろう?熊本市から川内原発まで約130㌔の距離。
 変わらなければならぬ事、変えてはならぬ事、この二つの判断がこの国は曖昧である。戦後70年経過し、豊かさ・便利さ・安全を獲得した日本だが、いつまでそれに齧り付いていて良いのだろう!蓄えを毎年おろしながら、それでも足りない分を国債という借金で賄っているのではありませんか。
 寺の住職をしていて 想うのは、過去帳に記された人たちの”遺恨”、昭和18年~23年の間に帖に記録された戦死された人たちの霊である。日本人の多くがその事(原風景)を思い出せなくなっている。あの昭和10年代、戦争に日本が突入して行った。武器を持たされ、日の丸を振られて戦地へ送り出された若者が聞かされた”国への大義”は今と変わらなかったように思える。
 原発も根っ子の部分で繋がっている。平和と豊かさのためという言い分は、勿論、今生きる我々にとってだけではありませんよね。幼児やこれから先、生まれてくる子供達の為にもそうなのでしょう? 負の遺産と言えば言い過ぎ? 福島で起こった事故がいまどうなっていますか?事故後、廃棄処理の目鼻が付かず氷の壁で汚染水の漏れを防ぐ、これって一時的なものでしょう。ここにきてマスコミはそれらの追尾をパタリと止めたと感じる。
 国の借金だってこのまま進めば、借金を返すどころか更に増やすことになりませんか?現在の総額は我々が本当に返せる額なのですか。(御用)学者の皆さん、経済の専門家と言われる皆さん、それと政治家の皆さん、
 勿論、我々庶民の多くの皆さん!これを どうしますか?
 心象風景に微睡(まどろ)んでいる時間は無い。”客観的””具体的”な実行を国全体で取り組むしか方法は無い。(参考:NHK出版『日本人は何を考えてきたのか・明治編』)

2933:原風景

   
5/1   5/3
突然ですが、「南方熊楠」をご存知ですか?どこのクマか?って、いやー参ったな~。一言では言えない程の”人物”、何故唐突にこの方を紹介しようと思ったかと言いますと上記の写真と無関係ではありません。東の田中正造(1841~1913)が“水”ならば西(和歌山県田辺)の南方熊楠(1867~1941)は”森”と称せられ自然との共生の大切さを訴え続けた、明治を代表する人物、その生き様や考え方は現代の日本人が見失いかけた大切なものへの指標となるとされる。
 「南方熊楠」をなんと読む?「みなかたくまぐす」、名前も妙だがそれに負けない凄味を供えている。

 上の写真を”嫌み”と感じる者がいるかもしれません。 5月連休の真っただ中、世間では長期休暇を利用し旅行に出かける方も多いと思うが私には全く縁がない。さて、嫌みと感じるもの、ああ気持ち良いと思うもの、誰がやったんだろう?と考えるもの、イノシシか、それともタヌキか?
 私は除草剤を一切使わない。草刈機を2台使って行います。名は知らないが綺麗な花を咲かせている草に出会うと妙に愛おしくなる。オカシイですか?
 田中正造は足尾銅山の水質汚染との闘いをライフワークにした。・・・・「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし。」・・・・そして「人造の文明」は 本当の利益を人間にはもたらさないと言い切る。「人間は万物の霊長である」という発想を否定し「人間は万物の奴隷でいい」と放って自然との共生の大切さを訴えた。方や南方熊楠は、熊野の森を守り「森羅万象はマンダラである」「究極的には世界全体がマンダラである」との宇宙観を持ち西洋の近代科学一辺倒の明治政府の在り方に抵抗した。二人の共通点は、現代の日本がこれから先どのような国にしていけば良いのか?という問題へ、自然との共生、それと地域の自立が基本になるべきと考えていること。
 5年前3・11で大きな犠牲を払った日本、世界に類を見ない大きな課題を背負ってしまった。もし、今の日本が世界にできることで、上から目線の遣ってあげているという気持ちがどこかに有ったとすれば、それは日本人が自分達で体得してきた掛け替えの無いものを一瞬の内に反故にすると思うのです。

   たかが 草刈 されど 草刈り。(私の原風景)
  「である」ことと「する」こと・・・・・「権利の上に眠る者」は民法の保護に値しない。日本の急激な「近代化」・・・・「である」社会に突然「する」社会の道具が大量に流れ込み、「する」論理に基づく社会を「である」論理が支配する。(丸山真男)  私の理解は浅いことを前置きし、上記の2枚の写真の概説をしたい、誰もが雑草が伸び放題になっていることより、綺麗に刈られた状態を是とする=「である」。 だからと言ってそれをだれが「する」かを、この写真は曖昧にしている。こじ付けで日本の最近の社会保障の動きが まさに その端的な標本と考えてしまう。「である」の論理だけが一人歩きし、担い手である誰がそれを「する」かが脆弱すぎる。更に言えば、”本気度”の違いと言っても良い。
 丸山説によれば、徳川時代が「である」社会と「である」道徳が共存できた時代で そこには儒教をイデオロギーにした人倫の道があったという。
 これは 経済最優先や市場原理の考え(道具)とは次元を異にする根本の問題だと私は思うのです。
  「考えるとは 物と親身に交わる事だ」・・・(小林秀雄:「人生の鍛錬」新潮社)
   ・・・政治の規模が驚くほど大きくなったのは、時の勢いだとしても、これに伴う、政治の対象の非人間化や物質化も止むを得ないとは言えまい。中略・・・・・これほど事実を尊重する人々が寄り合い、これほど抽象的なドグマの相争う世界は、今日、政治世界を措いて他にない。横行しているのは、邪悪な贋(にせ)リアリズムなのである。(P197)
 さてと、アメリカの代表選終盤の熱気をどう感じているのでしょうか? 正式に両党からの大統領候補者が決定し、大統領選本番、この一連の流れを日本の制度と比べると月とスッポン、その一番の違いは住民の参加度、選挙選の盛り上がりが末端に届かず、何をどうしたいのかが不透明。小林秀雄の言葉から私が感じたものは、日本の実状で当事者意識の欠落と親身に交わろうとする意志の弱さではないのか    であります。
 ☆丸山&小林という近代日本を代表する知性の言葉は 難解で重い。 しかし、安易に用いられる「科学的」とか「グローバル化」という言葉よりは、ずっと判り易く、要点がハッキリすると思う。

2934:懺悔の文

 諸宗文言は違えど、懺悔の偈があって僧侶なる者はそれを唱えるのを常としている。新義真言宗の場合は”密厳院発露懺悔文(みつごんいんほんろざんげもん)”中興の祖と謂われる興教大師覚鑁(1095~1144)が3年余の無言行を敢行、その直後一晩で書き上げたと言われる。
 私は朝勤行の際にこの懺悔文を暗誦する。書かれてある内容一つひとつが私自身の実相に突き刺さり唖然とするだけ、それがその日1日のスタートとなる。もう大分長く続けています。今後も生きてる限り唱え続けると考えています。その覚鑁は49歳の人生でした。長く生きたか否かは、人としてどうであったかとは次元を異にします。この偈の中に≪・・・実相に違背して慧を修せず・・・・≫というものがありまして、これこそ、現代の人の進むべき方向を指し示す言葉と受け止めています。四苦八苦は此岸に生きるもの全てに付与された業とみて、それを知ってしまった以上どうするか?知らぬ存ぜぬで貫道仕切れればどうなのか? そのことをとやかく言う資格は誰にも無いわけでしょうし、だからこそ様々の生き様があって悩みが消えることも無い訳です、それに対し智慧を出し生きなさいと・・・・・。
 『あいまいな日本の私』は大江健三郎が1994年12月7日ストックホルムでノーベル賞受賞記念講演のテーマでした。その中で知的障害を持つ息子さん”光”さんのことに触れています。イノセント(純粋な・・無邪気な)は”傷つけない”ということから来ていると述べています。人類は有史以来、争いを繰り返してきました。相手を傷つけ殺めることも戦争という大義の元に許してきたのです。同じノーベル賞を受賞した川端康成は「美しい日本の私」と題し講演した。
 大江は先の大戦について述べています。日本は戦後の再出発のため憲法の核心に不戦の誓いを置く必要があった。痛苦とともに、日本人は新生へのモラルの基本として、不戦の原理を選んだのですと・・・・・。
 憲法9条の改正論議が私には日本国内で盛り上がりに欠けると感じています。この議論で是非を決める必要性が果たして今を生きる国民の総意となり得るかどうか?好んで戦争をする人や国はないと信じます。平和・・・それは人類全体の癒しと和解につながるもの、精々これから生きて10年~20年の我々が拙速に結論を急ぐことに疑問を感じています。
 覚鑁が何故懺悔の思いを発露し訴えたか?
 腐敗した本山の実態とそこに身を置く自分が何ができるかを深く憂うる結果だと言われます。
 今の日本はあらゆる面での格差の拡大、特に政治への関心度の2極化が無視できないと私は思うのです。一部の人達の意見で結論を出すのは危険であり、今の政治そのものに信頼を得るに十分な条件が揃っているとはどうしても思えないのです。
・・・・我皆 相代わってことごとく懺悔し奉る 更に亦 その報いを受けしめたまわざれ!・・・・で懺悔文は閉じられている。
 
   罪を悔い改めることに意味がある。今から約900年前に覚鑁が書き記した偈文は、そのまま現代に通じると思っています。時間の経過では無く別なもの、本性?私は”名を比丘に仮って伽藍を穢(けが)し 形を沙門に比して信施を受く”この一文は語気が強まってしまう。
 障害がある人の全体に占める割合は、約3%という統計があります。少数派な訳です。しかし、どうでしょう?GDP(国内総生産)という経済指標でその数字が高い国がこれら少数派の方々をどう考え、どうしようとしているか?それは様々です。GDPには家事労働やボランテア活動が含まれないと言われています。しかし、これらの事を不要と考える人はいないはずです。実は数字で表われないものの中に大切な価値があると思いませんか? 私は長く今の仕事に関わってきました。既に多くの先輩や友人が亡くなり今はいません。思い出すことは、感動した事や夜を徹し語りあったことだけではなく、その人の笑顔だったりします。
  備えあれば患いは無くなるのでしょうか? 新聞の片隅に載った記事、羽田空港の立ち入り制限区域に女性がベルトコンベアーに載って入り込み、取り押さえられ、多くの飛行機の運航に遅れをきたした。これは、サミットを前に国内の警戒が強まっている中で起こった。テロへの備えは一国ではどうしようもない。その後どうなったかは知らされていない。
 外交機密、予定通りだったのでしょうが、首相が大急ぎで参加国首脳と事前協議(?) そのことが どう言った意味を持っているのか 一部の情報だけが知らされる。
 昨日、入院が7か月に及んだAさんが実家の近くの病院へ転院した。早めに病室に行って会う。点滴が外され、ベッドに横になって盛んに足を動かしていた。声をかけると私を目で追い、その瞬間、自由に動く右足で私は蹴られた(?)。病院の介護の方が来られ、笑いながら「私も いつもそうです、足蹴りされるんだよね、Aさん!」 その言葉を聞いて 少し楽になったように思う。彼女は入所40年が経過し、実家近くの病院への転院が昨日決まった。

2935:原体験

 人の思想形成に大きく影響した幼児期の体験を”原体験”と言いますが、どうなんでしょうか?生き方や性分は皆さん違いますし、それとて一定ではなく微妙に変化します。その後の人生で成功された方達の原体験などが紹介されると勿論、運もあり、その方の努力や能力もあってのことでしょうから、一概に言う事はできません。
 65歳という年齢を節目と思うといろんな事を考えるものですね。私の周囲を見廻せば、その後が長ーいと思っている方が殆どです。最近よく見かけるのは庭先の草取りをやっている人で現役の頃は全くそんな姿を見かけたことがなかった。それが半日かけ腰をまげ、一本一本草を取る姿は何と表現したら良いのやら、結果は約1メートルの円内の草を見事に取った。草刈り機を使えば数秒で終わる所を半日かけ、やっとやり遂げた。
 他には、カメラを持って被写体を探し歩き回る人、颯爽と着替えてロードバイクと洒落こむ方も知っている。
 それとパチンコ人気は一向に変わらないと聞いた。ギャンブル性が高く、限度を弁えないと偉いことになるようだ。私はやらなくなって半世紀?が経つ、正直何が面白いのか判らない。原体験として直ぐに浮かぶのは、そうだな~ お寺の縁の下を走り回りドロンコになって遊んだ記憶、何しろ大人が少し屈めば歩けるような高床で其処に住んでいたというのだから・・・・いつも寺には母が教えていた裁縫を習う人がいた。それと尚恵養護学園時代の預かっていた人達、私にとってはお兄ちゃんやお姉ちゃんでよく遊んでもらった。そんなオボロゲな記憶しか浮かばない。
 それがなんとも こんな歳になりまして、先を憂いても仕様がないのに、・・・・・・・・。これから先をやっていく人達に任せるしかないでしょうと判っていても性分なんでしょうね。ああだこうだと頭の中だけで思っている。
 だからなんですよ、性懲りもなくこんな事を書き連ねて迷惑でしょうね、。。。。。キイ操作一つでデーターが全て消えるのは知っているからそうしてもらって私は構わない。ハイ それまでーヨ!で 幕を下ろす。
 そんなフィナーレ・イメージを描いておりますが さーて どうなりますか?(最近 ちょっと重いテーマを書き過ぎた感あり、企図した通りに何事も参りませんよ。疲れました・・・小休止)
   一夜明け考えた。気の向く儘 好きなように生きられたら どんなにか良いだろうと・・・・・そう思うのはご自由に でも そんな風には行きません。だって そうでしょう。「好きなように」というのがどういう事なのか判らない、 色即是空 空即是色。 それを受け入れるかどうか、結果は寝て待て! そこなんですよ。一夜寝て何も変わるもんじゃ~ねえ~よな。 身罷るまで待てよというのが正解だと思いますよ。それだって 誰しも、あまり急いでそうなりたいとは思わない。ですから しき即是くう くう即是しき。(気の所為か ちょっと疲れがとれたよう。)

2936:ガンコ者

 ”あの人は いつも平で ニコニコしていたね~” これは 私の父への評価でした。内心”ホント?” 実態をしらないからだよと良く思った。
 私が福祉の業界に顔を出し始めたのが、丁度45年前だ。頭を殴られたようなショックを受けた体験を披露しよう。今の県社協の事務所内での話、大声を張り上げ取っ組み合いしているお二人、ある団体の代表と県社協の実質常勤トップ・・・・・・その時思い出したのが、”福祉は共闘だよ”と良く言っていた父の話。当に真剣勝負だった。いま そんな光景は 見事に消えた。
 自らの言葉で堂々と言い訳などせず正面から相手に向き合った先人達の気概は 凄味があり、近寄りがたかった。その積み上げが有ったればこそ 今があると思っている。それがどうだろう、目まぐるしく変わる制度や仕組み、現場とそれを考え法制化する人達のギャップがもう修正が効かなくなっているのかと思ってしまう。だが同じような疑問を持つ仲間が少しずつ出てきたように感じているのがせめてもの救い!
 実にパフォーマンスが上手で自慢話の好きな連中の中にいると無性に喉が渇く、そしてトイレが近くなる。これって糖尿?いや違う体がアレルギー反応しているのかもしれない。
 私は結構多くの団体に顔を出してきた。明らかに昔と変わったことがある。それは”ガンコ者”がドンドン減っていること、何故なんだろう? 話は明快、「アイツがいると場がシラケる」という理由のようだ。ホントにそれで良いのですか? 昔から言われましたね。「烏合の衆」って。
 京都大学霊長類研究センターの先生のチンパンジーが2匹、大好きなバナナを使った研究のお話、驚いたのは、バナナを前にしてケンカが始まって勝った方が一匹で食べてしまうかと思ったが、実は違った。道具を用意しておくと、檻の中にいてバナナが取れない片方のチンパンジーにもう一匹の方が道具を渡した。それを上手に使い檻の中のチンパンジーもご馳走に有りつけた。この話を聞いた時直ぐに浮かんだ。
 それって”共生”とか”共助”という話でしょうよ。 それが いま 人間社会はおかしな方向に進んでいる。
 突然ですが「流れに掉さす」という言葉には二つの意味があるの知っていましたか?棹をさすことで更に流れにのるという意味と 何らかの意図が働いて真逆の意味「流れに逆らう」という意味に解される。
 時流にのる事は、それが正しいことなれば大いに結構な話、しかし、万が一 おかしな流れであった時 これはもう 将来に禍根を残すことになりますよ。
 広島に戦後初めてアメリカの現職大統領が行かれるという。米国内は賛否両論・・・・日本国内はどうか? すでに戦争を語れる人が大分減った。平和という流れにそって核のない社会になればと世界中の人々がオバマ大統領の広島訪問を強い関心をもって見つめることになるでしょう。

2937:サービスの妙

 目立ちたくない人が目立ち、目立ちたい人が隠れる・・・・このメカニズムはどんな手法(+理屈)を凝らしても明らかにすることはできないと思います。 「快い」「美しい」「感じが悪い」等々・・・・対象に対する態度や価値づけ・・・・・心の過程は相手があってのことだから。
 マニュアルが介護や福祉の現場にまで侵入し、今では これなくして支援無しと言われかねない。行政監査が入り、書類との睨めっこ、そんな事で評価できますか? 最初から相手を疑ってかかる、お役目とは言え ご苦労様。監査を受ける側は相手がこう来るなら こうやってと待ち構える。マニュアルを否定するのではありません、そこで満足してしまう本人の問題です。前項で触れた動物(チンパンジー)から 私達は何を感じるか
 何なに??今度はある一定規模の法人は監査法人の定期監査を義務化する・・・・・。こうなるとどうなるか これでダメなら次の手は・・・・と考えるに違いなし。解決出来る事と出来ない事。
 そんな割り切れぬ思いでいる時に、我々にとって 素晴らしいニューズが入ってきた。長く一緒に働いてくれているスタッフが今春の叙勲を受けることになった。40年以上障害者の支援一筋、本人の弁は自分よりまだ長く勤めている人が他に沢山いるのに申し訳ない。
 福祉や介護の問題は、今が大切だと思っています。どうでしょうかマニュアルを廃止し、事業所の自主性に任せる、この発想は到底受け入れて貰えず、とうとうアイツも気が狂ったか!と一蹴されオジャン。それじゃー妥協しよう全国区で無理なら特区で試行すれば良い。今の流れを思い切って変えないと この業界はいずれジリ貧で形骸化するのではないのかと思う・・・・皆さんがそれで良いなら構わない。
 なぜそんな意固地な思いに至ったか??? 『介護離職者ゼロ』のバルーンが上がった時を思いだして貰いたい。介護を受ける場所がないから離職せざるを得ない実態を変えたかった。方や介護事業所側は介護にあたる人が長続きしない実態を『介護者離職ゼロ』に期待した。願う所は皆違う。この溝が今の日本の社会保障の仕組みで埋まらない、むしろ時間と共にドンドン拡大しています。
 ????何か大切なことを軽視した仕組みに原因があるんじゃーないでしょうか。さらに言えば ≪見える所≫を重視するばかりになって≪見えない所≫が蔑ろにされてしまった。日本人の得意とする即効性と効率化への狂信とでも言いましょうか。幼児から老人まで一斉にヨーイドンで走りだす、本来即席では無理なことまで一緒くたに煮込んでしまう。それからメデアの責任は大きいと思いますよ。いつ頃からですかねー 公平公正の報道スタンスに陰りが出始めた。今では福祉現場を育てる意志を感じない。
  やれ虐待だ 暴力だ 事業所イジメもいい加減にしてほしい。 あのニュースをみた子供たちが どう感じるか?それよりもなによりも 必死に介護にあたる人達の身がもたない。 一部の出来事をさも業界全ての実態のような書き方? この国は 口では良い事言うけれど自ら手を出さず他人事、そして誰も責任は取りたくない。 福祉や介護の仕事を軽く見ているとしか私には思え無いのです。
 いま どんな事がこの国で起こっていますか。
 日本が世界に誇るトップ企業、そこで暴かれる不正の連鎖、考えられない実態を経営トップも認め 会見席で深々と頭を下げる。ここで止まれば良いのだが 恐らく それを信じている人はいないだろう。
(*聞いたばっかりの話・スペインの小さな片田舎 ボランテアに登録した数が100名を超え、ボランテアが3名づつ順番待ちでサービスを必要とする人へのお手伝い、日本とは真逆の実態でしょう 日本は地域地域と言いながら それが伸びないのか判らない。底なし沼を見る思い。と語った。)
  
 オプションサービスの疑義・・・・・基本料金に+アルファー、競争がエスカレートすると、勝敗の決着までに様々な事が起こりますね。この手法を福祉にも取り入れた。実態を知らない人はこれでサービスが良くなると・・・・・
 例えば旅行代金にオプションを付ければ余計お金がかかる。当然 それを分かっていて選ぶのは個人の自由です。しかし、公共のサービスにだって挙げれば切が無いほどオプションが付きます。医療・教育・・・もうとっくの昔からそうなっているよ。いろんな影の声が聞こえます。≪あそこは 金もうけに走っている≫福祉を金儲けと思っている人が果たしてどの位いるでしょうね。嗚呼  世知辛い!先人がみたらどう思うかね? ああよかった 何もなかった俺たちの時代と違って ・・・・・・・・・と??。これって世代の違い?? いやーそうでは無いと思う。自分自身がその立場にならなければ感じないことが多すぎる。
 福祉のことだけを見てもサービス提供側と受け手側に疑義を感じる。ご承知の如く、事業を行うには建物やソフトへの多額の投資が不可欠、借金で建てた超豪華な建物、入居者募集広告を送迎車両に張り付け 道路を走る。本当に待機者がいるのでしょうか???それこそ一部の大都市だけじゃーありませんか? サービス利用料で成り立つ事業の経営、その単価が下がれば借金の返済計画に大きく影響、数年先が読めない状況は 制度の改正スピードが常軌を逸しているからか?順調に行けば 収入額の中で返済へ回すお金が充分でるはずだ、そう言われて素人(?)が始めた事業所がこの国は多かった。それが 実は雲行きが怪しくなり、肩代わりいたしましょうかと救援の手が忍び寄る。 サービスの妙とは 諸々の昨今の事情を鑑がみて 自然と浮かんだ事でした。

2938:疑義から真実へ

 疑義を正すことによって真実が見えてくるのであれば 順当。 そう上手くは行かないのが此岸、手練手管が巧妙でその能力長じたる人間が幅をきかせば 世の中乱れます。しかし、人間様は有史以来このかた その柵から解放されず生命を繋ぎ今に至った。今を繁栄の時代と観ずる人間は恐らく 僅か いやいや そんな人はどこかが狂っているとみるべきだ。そこに頂いた徳としての”謙虚さ”がどうもオカシナことになりにけりだ。
 なぜ ある地位を得た方が道を誤ることになり易いか 古典を紐解くまでもなく、広義の教育に責任が大きいと私は見ている。その中で義務教育はほんの一部、家庭や社会のほうが責任が格段に大きい。一言でいうと国の在り方が我利我利亡者の様相に見えてしまう。その辺が脆弱&疲弊してしまうと最早修正が難しい。何せ寿命は長いようで実は短い。だから、タスキが必要でバトン替わりに次に手渡し、守り繋げるわけでしょう。何を????守るかが肝心だ。現世と来世を想うと切なくなる方って多いよね。どうせ・・・・だからと諦観してしまうと厭世的でマイナス思考、これが長じれば精神的な病を患い苦しむことになりかねない。
 昨日、帰りが夜中の2時を過ぎた。緊急入院した利用者さんが、思った以上に手術に時間がかかり、待合室で7時間まつことになった。長椅子に座り、只管待つ時間の長さ、横になりたいと思いながら、家族と一緒に今まで話せなかった話ができ、良かった。手術が終わって面会が許され、ベットで軽いイビキをかいて寝ているYさん。私は言葉をかけることが出来なかった。まだ正式の結果が知らされてはいないが、最悪の事態ではないようで、今回もまた救われる。
 Yさんは 家族に疑義を抱いたことが今までに有っただろうか? 本人は言葉を発しないから 愚痴や悩みを言葉で伝えることはしなかった。ICUで久しぶりに3人兄弟が集まって、それぞれの心中を想うとそう簡単に言葉は挟めない。彼女の人生の8割を学園で過ごしたことになり、兄弟がそれをどう感じているのか こればかりは当事者でなければ判らない。
 翌日、定例の家族会、成年後見の研修を行った。いつになく参加者が多かったように感じたが、それだけ親亡きあとを心配している家族が多いからだと思った。
 疑義が有った時に貴方ならどうしますか?貴方は どうすれば 良い方向にすすむと思いますか? 上に立つ人は その声を聞くべきで 言い訳に終始するするような状況は 誰が見ても感心できませんね。
  疑義から真実が見え、そこに喜びや夢が見い出せないとしたら、潔く その方には退場していただく これが自明のコトワリだと 教わらなかったの??? 世紀のイベントの招聘を誇らしげに自慢するなど もっての外
 そのように私は思いますが 皆さんどうでしょう。
 昨夜、突然の揺れ、21:23分、携帯で地震警報が鳴った。茨城が震源で最高震度5弱、小美玉市、土浦は震度4だった。直ぐ施設に電話、夜勤者から異常なしの報告を受けた。今も地震が止まない熊本の人達、1500回を超える揺れによくも耐えていらっしゃると思います。茨城には東海原発があり、現在運転停止中、これを今後どうするのか?  現在、つくば市でG7の科学担当大臣会議を開催中、地震の無い国からきた大臣が震度4の揺れを実際に体験した。
 彼らが この国で原発を再稼働することをどう思うか? 生の声を聞かせて貰いたいが、それは開催国に遠慮して 触れないかもしれない。(5/17)
 

2939:逝く人に・・・

 ≪福祉さ~ん いま四国に来ているんだよ。今回はバスで来た・・・・・≫ もう何年前だったのか思い出せないが、Sさんが一念発起(?)し四国の歩き遍路を始めた時だった。徳島からメールで送られてくる報告は、柵もなく、退職後少しは荷を軽くし、思い立ったことなのだろう。仕事の重さに比べて、リュックの重さは 最低限必要なものだけ、錫杖を持って立つ写真を後日見せて頂いた。そのSさんが 突然亡くなった。通夜は偶然にも70歳の誕生日の翌日行われ今日が葬儀、・・・・・・。茨城県が全国で8番目に障害者の権利条例を議員提案全員一致という形で成立、それがスタートして1年が経つ、条例作りを陰から支えた彼は私の高校の4年先輩、教師を目指したようだったがなぜか40年以上も障害福祉に携わった。Sさんから言葉で言い尽くせない様々なご教示を頂いた。決して自らは前面に出ることがなく、気が付くといつも席の後ろに座っているタイプ、自分では語らないが専門の教育を受け 現実の課題に真正面から向き合った 私が知る数少ないスペシャリストであった。
 学生時代の恩師を大切にし 気心の合う仲間 労を惜しまずどこにでも出向くフットワークの良さ、いつも自然体で絶やさない笑顔・・・・・多くは語らず じっと聞くタイプ、そんなSさんに私は真逆の自分自身を写し 何度教えを請うたことだろう。
 常総市での水害の時に一先に現地に入り、我々に支援への協力を訴えてきたのが彼だった。それから何度も一緒に現地に伺い、彼を通じ多くの方々と知り合った。
  本当は今の日本で一番必要なことは、制度や仕組みの請負の研修などではなく、実際に現場にたって 何が必要なのかを熟知し自ら汗をかいている人達の話ではないのか? そんな憂慮する実態に良く二人で時間構わず話し合った。 残念だが その話をもうする事はできない。Sさんとの約束で私が未だ果たせない事がある。それは私が僧侶なのに四国の歩き遍路は満願しておらず、清水さんに先を越されていること これを 成し遂げなければ 私が彼岸に渡った時に合わす顔がない。こころより ご冥福をお祈りし 自らを見つめて参ります。
  『まち・ひと・しごと創生サポートプラン』厚労省がこれから先の日本に焦点を合わせ より具体的な計画を公表するとS氏より聞いた。2060年に想定される日本の総人口は8,674万人、2013年で高齢化率が25.1%であるものが2060年には39.9%になると予測した。4割の人が65歳以上ということになる。また都市への人口流入がこれ以上進めば若い人が地方にいなくなり、街が窮乏し働く人がいない中でそこに住む人たちがどのように生活するか、それへの対策として現行の子供・老人・障害者等の別建てのサポートの仕組みを変え一体的に支援をしようとする計画である。日本が世界に類をみない超高齢化社会に確実に向かっている中で私には机上のプランとしか考えられないのです。この計画が果たして日本人に認知され国の隅々まで広がって いくかどうか?今後、当然紆余曲折はあるだろうし、それよりも何よりもこの国の財政が持つのか否かが気になる。日本の人口は、現在の1億2千万人が適当なのかどうか?ただ現在の底辺が狭く頭デッカチの年齢構成を急に変えることは不可能だし、恐らくは 想定した通りに進むには相当の年数が必要になるはずだ。
 日本の人口がもし8,000万人台になるとすれば、その人口だった1950年代まで時代を戻すことになる。 経営破綻した企業を再生させるには、スリム化が条件、それは強みとして残し、他は止めることの見極めと決断・・・・しかし、国はそんな単純ことではないから。 
  この世に生を受け 子供から大人へ その営みの中で 人は様々な人と出逢い、時に感情の高鳴りを自ら制御することを忘れる。執着と集中は違う。仏教の教えと実践は そこを肝要とみる。武士は喰わねど高楊枝、今風に言うなら どんな風になるのか? 妬みや怒りそして貪りから生ずる様々な出来事 これは多分 現世の一面で 全てではない。対象のどこを見るかによって 全く違った評価が起こり得るからで ”絶対”とか”相対”の枠づけも 曖昧で 何を信じて生きていけば良いのか ・・・・・・・。この世は、頭の良さや地位に振り回されてしまうと 執着となり、妄執へ そして自らを見失う結果となる。
 上記で紹介した国が示す新プラン、”まち・ひと・しごと”・・・・・これを見た時 ハハーンと瞬時に思ったこと、それは言葉の順番の違い。”ひと”が真っ先に置かれるべきだと私は思う。それは言う迄もないでしょう。”まち””しごと”はあくまでも”ひと”を中軸に添えたものでなければズレる。ですからね、最初から私は 疑ってしまう 変な性分なんでしょうね。

2940:生まれくる人へ・・

 これから生まれてくる人へ 前期高齢者になった私からのメッセージ!無視して構いませんよ。 貴方が生まれて来た時、貴方が大人になった時 この国がどんな風になっているでしょうね。老婆心というのか期待と不安が入り混じって 幸せになって欲しいという願いが上手く言えません・・・・・・。せめて そうあって欲しいという事だけでも残したいけれど、それはズルいですか?無責任ですか?
 実は 昨日 私は3つの理事会に出席することになってしまいました。水戸~土浦~利根町、いつも「引き受けるからよ」と周りの人にいわれ、実際に自分もそう感じています。帰宅したのが夜9時を過ぎ、一体何を話したのか全く思い出せない。でもね ハッキリ覚えていることがあります。そこでの共通した話題、それは今の儘では先行き不安だということだった、これって何なんだろうね、結局は継続審議!
 日本は 今 自国のことだけ考えていれば済むような状況にないと言われます。それは判りますよ。・・・・・・でもね~。そう言う人に限って いま直ぐには自分に関係ないと思っているとしか思えない そこが何かしっくりしない。
 だって そうじゃないの! なんて言ったっけ?そうそう ”政務活動費”とやら  ドンドン庶民感情からは 離れていきますね。特権? それでも足りないと思うのかな~
 綺麗ごとを言い過ぎるんじゃない? 見栄の張り過ぎ? それって 必ず自分に返ってきますよね。 もういい加減にして、潔く 辞職したら如何でしょう。あそこまでTVに醜態を見せ居座るとしたら ・・・・・。国立競技場の設計変更、エンブレムの盗用疑惑、オリンピック誘致疑惑、ダメ押し的に、今回の開催地トップの政治資金絡みのニュース・・・・・どこの開催でも同様の問題はあったのかもしれない。だから世紀のイベントなんだわ。 
 「礼をつくす」とか「責任の取り方」という学習の時間は 今 ないのでしょうか? 大人になれば 親の責任じゃーなくて お前自身の問題だからと言われ育ったのは 過去のこと?
 家族の絆とか 言っちゃって 自分が壊しているのに気付かない。
 豊かさ=幸せという構図は 眉唾もの  それを証明する国挙げての壮大な実験は終わりを知らず その後始末を これから生まれてくる人達に任せる・・・・・・これではな~
 『 裏をみせ 表をみせて 散る紅葉 』 良寛さんがいたら どう仰るか 。
 
  IMFラガルド専務理事のコメント・・・・NHK取材(5/21)・・・『巨額の公的債務を抱える日本、信頼できる財政健全化の計画が不可欠。世界経済が非常にぜい弱の中、構造改革、金融緩和、財政出動が重要、それは『財政規律を維持するため』・・・・・・
 仙台で開催したG7財政担当大臣会議終了後のインタビュー、この中で敢えて加えたと思われる”信頼できる”と”財政規律” 本当はそのことが大切なんだと思う。どんなに立派なことを言っても その人自身が信頼に値する人間であるかどうか?
 この辺の曖昧さは、今に始まったことでは無いかもしれませんが 現実は 非常に深刻な状況ではないでしょうか? 上から目線というか 自分の能力への過信というか?
 『 実るほど 頭を垂れる 稲穂かな 』  

2941:好天の下

 第18回茨城県ゆうあいスポーツ大会が県立笠松運動公園を中心会場に実施されました。好天の下で県内各地から参加された方々が4組に分かれレクレーション競技を行いました。橋本知事も毎回参加され、競技に参加された後、各テントを廻り 親しく声を掛けて下さいました。
 誰もが微笑んでしまう光景は 相手のウケを狙ったものではなく、無心の一生懸命さ故に 沸々と湧きあがってくるものなんですね。6歳になるという男の子、歌のお姉さんの登場と同時に走り出てきて、見事なパフォーマンス、本部テントの知事さんの座席に自分が腰かけ、両脇に座った来賓に手拍子しなさいと促す。それで満足しなかったようで、今度はボランテアのお姉さんの前にいって、踊り始めたから一同大爆笑・・・・・・
 最後の各組対抗リレーでは 張り切り過ぎてクツが抜け 靴を持ちバトンを持って走った選手。。。。。五月晴れの下で 大いに楽しませていただきました。 
 茨城県には「障害者スポーツ・文化協会」という組織があり、毎年、スボーツ大会を行っている。全国障害者スポーツ大会への選手選考も兼ねるわけです。それと県立文化センター全館を使った絵画書道・歌などの文化活動にも力を入れています。
 平成31年には 茨城国体と全国障害者スポーツ大会の開催が決まり、その準備を進めています。『いきいき茨城ゆめ国体2019』のテーマソングとダンスもできました。徐々に国体に向けてのムードを盛り上げていきたいと
私達も考えています。

2942:平談俗語(へいだんぞくご)

 日常使われる普通の言葉、方や型どおりで格式ばった挨拶と日本語ほど多種多様な言語は無いかもしれません。どちらかと言えば平談俗語で話される方のほうが人気がある。美辞麗句の安売りほど相手に想いが通じないことをご存知か!お馴染みの愁訴節、やればやるほど複雑化、難解で使い辛いという今のモノや仕組み。買ってまだ1年経っていない我が家の炊飯器が壊れた。犯人はミイちゃん、彼は暇さえあれば炊飯器の上に乗っている。寒い時は暖かい蓋の上が絶好の昼寝場所、コンピューターのスイッチの真上、アチコチ推すから誤作動を繰り返し、とうとう壊れた。しかし、今は保証が凄い、買った店に修理を頼むとお客データーをPCで調べ、まだ1年以内で保証期間だから無料、さらに修理が終わるまで代わりの炊飯器を貸してくれた。
 ミイはこれには乗らない。座り心地が悪いのだ。それに操作も単純でスイッチ部分が乗れない場所に付いていた。
 量販店の過当な競争は、薬・電気・衣料がトップ3、そこにネット販売が参入したから、さあーたいへん、食料販売も同居し、何の店かわからない。そして、売上前年比?割アップで新製品への買い替え戦略、我々には電化製品の自動化が進み、かえって使い辛くなってしまった。部厚い説明書を見ながら洗濯したり、メガネを探し、スマホで電話なんてことが今では常識となりました。ここ数年の間にあっという間に姿を消した公衆電話、だからと言っても電池切れでは携帯も使えない。
 だから旅行には充電器が必需品、しかし、忘れる方を想定し24時間営業のコンビニにはちゃんと売っている。
 メーカーは新たなる商品開発に投資し、市場ニーズを喚起する。際限無き競争、生き残りに必死・・・・・その流れの中で不正や過大広告という有ってはならぬ事に手を染める。消費者が果たしてそれを望んでいたならば仕方がない。家庭の団欒や絆が公衆電話と同じ運命を辿るとしたら、どこかで踏みとどまり 良く考えたほうが良いのでは?
 更に突っ込んで言わせてもらうと・・・・・制度や仕組みをやたらと変えるのは如何なものか。事務量ばかり増え判り難く使い難い。またもやマニュアルや解説書と睨めっこ。ここまではどうにか我慢はできましょう。しかし、問題は真逆の実態、規制の緩和という触れ込みで嘗てのゴールドラッシュのごとき一攫千金 ドドーンと増えて なんでも有り。
 要するに何を規制し何を自由にするか この判断ができない時代を迎えた。いずれ 自然淘汰され 落ち着くのであれば良いのだが、今の儘では国が持たないのではと心配だ。
”無””空”という漢字一語、仏教で良く使われるのはご存知と思うのだが、・・・平談俗語・・・・、無責任、無届、無礼、無節操となれば、同じ”無”であれ 話は別となる。
  最近 新築移転しオープンしたばっかりの病院、我々にとっては大助かりで現在も一人入院させて頂いています。県内きっての大規模病院でヘリポートもあり、昨日も救急患者がドクターヘリで運ばれていた。医薬分業という制度がいつ頃始まったのか知らないが、院内処方は規制があって病院周辺には必ず薬局がある。看板が違う薬屋さんの数、薬局銀座さながらにあるわあるわ、外国も同じかどうか? 特に医薬分業の歴史が古いドイツの例、聞くところによると 一つの薬局が出店できる数に制限を設け、3店までとか。。。。。
 国によって 違うのは頷けるが 何のために分離を法律で決めたのか その目的にそった形になっていなければ そうですね~ 原点に立ち返る これも必要かと思います。
 記憶はオボロゲだが、私の子供の頃、富山の薬屋さんが大きな風呂敷を担いで一軒一軒廻っていた。薬の補充をするためだ・・・・・。新薬の研究開発は 人間の健康願望を拠とするから いつの世でも 絶えることはない。
 それへの規制の是非は 簡単に論ずることはできません。
 雪の多い冬場、出稼ぎに出なければならない時代は いま大きく変わった。執着駅の上野は通過駅となり、国内を縦横に走る新幹線、大都市に出るのに遠くて3時間、夜行列車は不定期にマニアの為に走る時代となりました。
 

2943:G7

 『ベートウベン作曲:交響曲第3番変ホ長調 作品55”Eroica”(英雄)』 ウインフィル演奏;カール・ベーム指揮
 早朝よりCDをかけ、PCに向かって飽きもせず 斯様な拙文を書いています。 第42回≪G7 伊勢志摩サミット2016≫が閉会した。中部国際空港にズラリと並ぶ各国代表の専用機をみて異様な感じを持ったのは私だけでは無いと思います。前回日本で開催されたのが第34回洞爺湖サミットで2008年ですから8年前になります。4月に外務大臣会議が広島市で開催されたのを皮切り、全国の10都市で各大臣会議が行われ、茨城のつくば市では科学技術大臣会議が5月15日~17日に開催されました。G7開催期間中 裏方の皆さんは大変なご苦労があったものと想像します。公表7万人という警察官が全国から集められ、日本警察の威信をかけて警備を行い、無事終わって関係者の皆さんはホットしていることでしょう。
 サミットとは主要国首脳会議を言います。でも、7つの国に入っていない国は どのようにその集まりを感じているのでしょうか? 昨日 安倍総理から首脳宣言について発表がありました。・・・・世界経済の成長の鈍化、テロ、難民など様々な課題に対し、7か国が連携し平和で豊かな暮らしを目指す・・・・・という内容でした。
 今回のG7で感動的な出来事は何と言ってもオバマ大統領が現職で初めて広島を訪れたことでした。71年前、アメリカと日本はお互いに多くの犠牲を払った戦争の幕を下ろした。原爆を広島と長崎に落としたことには両国に様々な意見があるのは知っています。テレビで流される被爆者の方とオバマ大統領が抱き合った姿が実に感動的でした。平和の大切さを日本人の誰もが確信したことと思います。
 平和=豊かさ この構図はそんな単純なものではありません。世界中で貧富の格差が拡大し その不満が限界をこえ様々な問題が起こっています。不満→紛争、これは人種や国の違いにかかわらず共通の真理です、だとすれば テロや難民への対応がどのようにすれば良いのか  今回 その議論がなされた筈です。
 人間は有史以来 現実と理想の間を 平和とは真逆のことと知りながら繰り返してきたわけです。
 足元を見れば、山積する課題、その解決には 相応の負担と覚悟が必要なのは誰もが分かっています。果たしてその課題に対し我々は真正面から向き合っているでしょうか?
 おそらく、将来、日本でまた同様の集まりが開催されると思いますが その時に今回の首脳宣言がどうなっているか? 今回来日した7人の首脳が全員現職として残っている確率は 限りなく小さい訳ですから この度の宣言に対する検証をどうしていくのか これが最も重要だと私は思う。
 
 『英雄』という曲は1804年にベートウベン最盛期に作られたフランス革命(貧富の格差への抵抗)の最後の勝利者ナポレオンに共感し、その彼に捧げた作品だと言われています 現代の英雄に誰がなりうるか??? 
  昨日は 法人の理事会があり、午後4時半から始まり、終わったのは8時を過ぎた。年に一回は場所を変え、会食を共にする。その中で出る話は実に示唆に富んだもの、遠回しの言い方であっても 核心をつく、それを感じるか否かは此方側の問題です。
 昨日はいろんな事がありました。≪ 老人の笑顔は その国の文化のバロメーター・・・・≫という話をされたYさん、普段は然程ご自身の意見は言わない方だと思っていたが、豈図らんやアルコールが入り、饒舌となって 実に興味深いお話となった。自らの言動に言い訳せず責任を持てる人は 相手の話も良く聞く。だから 会話が弾むのだ。兎角 自説を曲げず一方的に主張する人もいるのだが、そんな方は結局 話の輪の中に入れない。
 4月から地域の班長を命じられ、その最初の仕事(?)地域の公民館の草刈りを皆さんで行う。雨もあがり、絶好の作業日となりました。

2944:後継者

 世代交代には突然やってくる場合と準備万端後継者を指名し その準備を事前から行う場合があると思います。しかし、それはあくまでも此方側の思い、組織の大小を問わず、後を任される者には 重圧と責任が付いてくる。どうなんでしょうね。本当に自分がその場に立って初めて判ることが大半ではないでしょうか?  モノづくりか人へのサービスかとどのように分類されても、基本は同じ、自分ひとりで成り立つ事業は皆無、人への気遣いや先行きの不安、それは間断なしにやってくる。
 自らの足元を固めねばという思いと受けてしまった諸々の役目を、それへの力の配分は 一定である筈は無く 此方が願ったような結果が付いてくることは先ず望めない。万が一つでも 満足する出来栄えであったとしても 次の瞬間 新たに気持ちを切り替え 全力を傾注しなければならぬことが現れる。そして立ち止まったり先送りすれば、これを怠慢だと言う人間も決まって出てくるものなのだ。
 私の周りだけでも、悶え苦しみ、焦りいら立っている方が沢山います。恐らくは 私自身がそうで、そういう眼をもって周りを見るからなのでしょう。残り少なくなった燃料で 目いっぱい走り続ければ そのダメージは体にきつい。障害福祉という概念はこの日本には将来無くなると言ってきた友がいる。彼は それを否定的に言っている訳ではないのだが、正直 しっくりしない自分をいつも感じている。
 そんな時、 実に不思議なのだが傍に寄ってきて 何かのサイン(?)を置いていってくれる人がいる。昨日こんな事があった。部屋で横になっていると そーと入ってきたKさんが、持っているお菓子の袋から何個かのクッキーを取り出し私の脇に黙って置いて行った。
 あああ・・・・あ・り・が・と・う、 そう言おうとしたが彼が出て行った後になる。
 
。。。今時ね~。福祉の原点をああだこうだ いくら言っても判ってくれる人がいますか?古いんですよ。それじゃ~今の時代は通じない。。。。。 だって昔のことを知っている人が 殆どいなくなっているでしょう ショウガナイ 仕方ないよ。。。。。
 いつも 私と話をすると 独り事のように言っていた Nさんが 2日前 余りにも突然に 私たちの前から消えた。
 
  何が切っ掛けか? 正直思い出せない。いろんな事が浮かんでは消えて行く。振り返っても仕様がないけれど、今はただ ありごとう という言葉しか送れない。

 人は 自らの生き様で語ることが許される。どんな美辞麗句を連ねても 相手の心を動かし奮い立つような元気を与えることは出来まい。人間の世ある限り、この言葉は決して死語にならぬという、それは≪阿諛追従(あゆついしょう)≫、人におもねって、こびへつらう事。
  相手の顔を見ないでも情報伝達ができる現代は、相手の気持ちを読み感じる能力を急激に劣化させた。人との触れ合いを煩わしいと避け、殻にこもることを良しとする。Nさん! 貴方はその生き辛さを受け入れ、変に小利口になってポツリンとしている人達の中に分け入って旗振り役を演じてくれた。

2945:シナリオ

 誰しも 自分の人生のシナリオを描こうとします。こうあれば良いな~とか、こうはなりたくない・・・・と。でも、その通りになることってないよな~。自分自身を振り返ってもそうだ。自我の目覚めっていつ頃だった?それは人により異なるでしょうね。私の場合はそれは突然訪れた、中学時代、エネルギーが有り余るほど多感な時代だった。
 いま思い返すと 断片的で時間差や前後が怪しくなり、随分遠回りしたもんだと思ったり、逆に駆け足で走り抜けたかの感懐です。人生の幕引きは台本通りには難しい。これから どれだけ生きられるかと思うと不安や諦めが噴出し、どこで妥協するかとあぐねる
 私の場合、僧侶という職業柄、どうしてもその辺の微妙な状況に向き合うことが多い。ご遺族が話される故人との懐旧談、殆どが良き思い出で 私に話しているというよりも残された家族に向かって語っている。
 「お父さんは こうだったのよ」とか「あんた達はしらないだろうけど こんな事をいつも言っていた」というように。
 現在の世界の総人口は約73億人、2100年には100億人を超すだろうと言われます。現在、約8億人の人々がその日の食事さえ得られず飢餓状態にあるという。その方達を考えれば シナリオがどうのこうの言っている私が罪深い、日本人があまり考えずに受け入れてきた”豊かさ”は、国土が戦争によって壊滅的打撃を被り、極貧の苦しみを経験した人々が次世代に語り継いできたことでした。それと、二度と同じ過ちを繰り返さないという事を忘れてはいけまい。それがどうでしょう、気が付けば”豊かさ”の下でモノが溢れ、毎日出される膨大な量の廃棄物、その処理に大きな経費をかけている。日本のODA(政府開発援助)は、嘗てアメリカを抜いて世界1の時代が10年間続いた。現在は5位というが、単純にその純額だけで比較はできず、GNPの何%に当たるかとなれば、その順位はもっと下がる。実際にはその援助も無償か有償かによって意味は異なります。
 昨日、内閣不信任決議案が提出され、自公の圧倒的多数で否決された。消費税の先送り、与野党の説明を聞いたが、一体どっちがどっちなのか判り辛い。公約は常に変化する。願わくば 選挙絡みのシナリオではなく、この国の在り方に根を置いた明確な説明をして欲しい。それすら 避けるようでは 役者ばかりで観客のいない初演当日から 立派なホールは閑古鳥となりましょう。どうも一握りの支援者が絶対だと勘違い、そのズレは相当酷い。
 この国の危うさは、物価上昇(インフレ政策)に目くじら立てるより、投票率の低迷を心配すべきなんじゃ~ありませんか、ここが どうして あの方達には判らないのか???? 日本が成熟国家と成り得ないという証はここにある。大義は そう簡単に変えてもらっては困るわけだしね。
 な~んでか?チグハグなんだよな~。建物作って人を作らず。。。。。管理された温室で育った人間をいくら作っても 使えない その事さえ この国のエリートと自認する(?)方々は 理解できないのであります。
 全てをガラガラポ~ンで 一から出直すしかねーぞ!
 
 消費税が先送りと決まったとのこと。日本の一人ひとりが生きていくのに重要な
社会保障の充実が 果たしてできるのだろうか。政治家は税をどのように配分す
るかを真剣に討論するのが役目。消費税を延期して 社会保障の財源をどうする
のか。国債にたよるのか。日本を離れている私にはよくわからないが 今の日本
をわずかしかない情報でみていると 国が危ういように思える。
ドイツでは昨年度の国の借金は たしかゼロと言う数字を財政大臣は誇ったよう
に発言したのを聞いたことがあった。
昨日のニュースでは 再自然エネルギーも今は全体の30%となっていて
廃炉に着実に進んでいると。ただ火力をどのように減らしてCO2を削減していく
かが過大だと。この国は希望を市民に持たせている。マスメディアは この国では
かなり信用できるだろう。
現在 メルケル首相は難民問題でトルコのエデガアン大統領と難渋している。危ない
橋渡りをしているように 私には思えるところもある。その橋渡しに人道的な愛を
もってきているが 危なっかしい。20%の移民を背景にしたドイツ。この数字を
保ちながらの国運営。難題は多くある。それでも敢えて福祉という言葉を使わずに 
どんな人でも一人ひとりが暮らし易いような社会を目指して国策が進んでいるように 
私には思えるのです。
日本では選挙が近いと聞いています。これからどのようなテーマで政治家が討論しながら
市民一人ひとりをまき込むのか。遠い地にいても ふるさと日本は気になるものだ。     From  チュービンゲン Yokoi

 ☆ 参議院選挙が7月10日と決まる。争点はどこにある? 選挙の度に マイクを握り 声高に 有権者の前で 貴方たちは何を約束したのですか? 公約の不履行と言ったら 腹が立ちますか? 自らの業績を得意げに話すことを許すとしても じゃー出来なかった事は何?
 今ほど 貴方たちの言動に不信感を持ったことは 過去に無かった。 言っておきますが特定の政党をボヤいている訳では無い。全ての政党です。オール or ナッシング、 一切か皆無か! 投票率の低迷と公約の反故 という致命的な問題と真剣に向き合わず、実現できない公約を相変わらず掲げてる。魚釣りで”疑似餌”というものがありますね。 それに食いついて ハリにかかる魚、もしかして我々を 魚と考えていないでしょうね。こう言えばああ言う、国内の事ではなく、都合の良い世界情勢を取りあげ、論点を暈す。暈(ぼか)しは 墨絵・日本画で充分、そして繰り返される離合集散をどう説明しますか? そもそも政党の体裁を成していませんね。 使い道は自由、規制が無いという助成金・・・・ この原資は 国民からの”血税”ですよ 、 政治家の特権意識も程々にして欲しいものだ、 これから 育つ 子供達に 貴方達は 判り易く 丁寧に 何を説明できますか・・・・・・・
 古い書を繙くまでもなく政治を弄ぶ国の末路は 決まっている。世界からの信用を無くし、国民からも見放される。先人から学ぶとは 決して自らの徳を誇ることでは ありません。 罪悪感が欠如し 酸欠状態&思考停止に陥っていませんか!! 選挙モードに浮ついている中、有権者は誰に票を投ずるか その判断する材料すら与えられず ・・・・・ただ 【新しい判断】という言葉だけが妙に残っっている。
     From かんだつ Sumita 
 

2946:Sazanka

 ♪・・・春に咲く花よりも 北風に咲く花が好き・・・・♪
 森進一の歌『さざんか』の歌詞はこの楽句ではじまる。私はさだまさしの『風に立つライオン』も好きだが、どちらかと言えば山茶花を唄ったこの歌詞に魅かれます。歌手を介し詩と曲が相まって聴く者に絶妙な響きと余韻を運んでくる。ああああ・・・・予定通りならば、今頃 沖縄にいるはずだった。2足の草鞋を履くから 仕方がないと諦める、正直、いつまで これを続けるのか?と思うと心中穏やかではない。弔辞を頼まれ、故人を思い出しながら文案を考えていたら、さざんかの歌詞が浮かんで どうにも先に進めなくなってしまった。人は人間の力を超えた作用を受け入れ、様々な経験をし、友をつくり、家族を得て、生業に精をだすことを天命とした。そして いつしか また自然に帰っていく。人の一生と悠久なる時の流れと比べようがないがその長短ではなく、その人の生きた証は、遺されたものに 何を余韻(思い出)として置いていけるかということではないだろうか? 最近、ハッと気付かされたことがありました。それは 尚恵学園を利用されている方が緊急入院し、手術後の入院の期間が判らないので付き添い婦さんをお願いした。その方は 78歳になると知って驚く、矍鑠として 見事な対応であった。4日目に無事退院でき、その後は会っていないが、恐らく また依頼者があって 病院勤務をお元気でされているものと思う。
 初めてお会いしたのに、その方から元気を頂いた、見舞いに行った尚恵のスタッフ全員が それを感じたという。 そうそう この国に介護ビジネスという言葉が出てきた頃より 私はある種の危機感を抱いた。上手く表現できないが、介護を受ける側と提供する側に壁を作ったと感じた。壁は”マネー”と”イメージ”である。残念だが その危惧は見事に当たったと言わざるを得ない。全世界のGDPの総額より、現在、この地球上に出回るお金の総額はその何倍になっているのか! 金がダブつき、当然のこととして高利を得ようと投機的なマネーゲームが起こり その歯止めがない。格差の是正は最早 不可能と言われる程に拡大し、そのことへの疑問が消えている。
 個の尊厳を叫びながら 一方では 金の計算を良しとした。その制度を作ったのは 聞こえの良い”規制緩和策” そのように私は思っている。 その実態は官民癒着、贈収賄、M&A・・・ 今後 益々 拡大しルール無き競合の激化、それによって泣く人の増加・・・・
 北風に咲く花 山茶花(さざんか)は、決して大輪ではない。野生種は淡い桃色をそえた白色の花である。
 ☆ 約1万年前にマンモスが絶滅し、その最後は現在の東シベリアの北にあるウランゲリ島の永久凍土の中で骨が発見され、北に向かって生き延びようとしたことが判っている。研究が進み巨大隕石の落下や気候の変動が絶滅の原因という説が有力で、これらは人間の力が及ばないことなのです。それを弁えず際限無き 欲望を満たそうとする地球上の生き物は 精々長生きして100歳という人間以外にない。共存や共生を掲げても、その反省無き暴走を止めようとしないでより加速している。複雑に絡んだ仕組みを更に組み換え、目先の快楽の為に浪費する。
 これを”自由”と考えた。その解釈は色々で、・・・・≪人は存在構造上自由であり、常に未来の選択へと強いられている。それ故に自由は重荷となる≫・・・・≪人間は自由という刑に処せられている≫と語ったのは誰でしたか? あのサ・ル・ト・ルであった。
 ☆ サルトルが謂う”未来の選択”とは 今を生きる我々全てが負う未来に対しての責任と受け止めるべきです。マンモスの棲息期間は約400万年だったと謂われます。野生の動植物が長い年月をかけ、掛け替えのないこの地球の自然環境を守り続けてきた。その事をもっと人間は謙虚に受け止め感謝しなければ。さざんかは何故 大輪を付けないのか? そうすることで厳しい環境で生き延びることを選んだ。私は”豊かさ”を否定するつもりはない。・・・・が、一握りの人達が富の大半を獲てしまう 今の仕組みは問題です。それと 国が積み上げた借金の山、現行の一党独裁政治では その修正を自らの力ではできない。心有る人々よ、目を覚まそうではありませんか!
 今回の政権が消費税の引き上げを2年半先延ばしをしたということに弱腰の反論しか出来ない原因は自らが招いたもの、党利党略、他党を非難し結果を追わない、政治家自身の凋落と将来への責任放棄の”鬼ごっこ”、世界の趨勢を語る前に自らの足元を見なければ ・・・・・

2947:発想の転換

 「おれおれ詐欺」という高齢者を狙った詐欺が社会問題となって もう暫く時間が経つ。今は そうでは無く、新手の方法で強引な詐欺商法が罷り通る。一例として 高額な羽毛布団が独り暮らしの老人宅に積まれてあったという、それも15セット、一体誰が使うのか?個人情報保護法・労働基準法・消費者保護法・・・・・など 日本には どれだけの数の法律が現在あるのだろう。法治国家や福祉国家の確たる根拠はあるのだろうか。素人の耳学問の域内でどうかと思うが、法には実定法と自然法がある位は判ります。人間や事物の本性に基づき永遠不変の法は後者、方や実定法は実証法と謂われるように、人為的に作られた法律だから可変性がある、絶対ではないから、解釈に幅があり、「新たな判断」という説明も許容の範囲。 
それにしても合法的な詐欺行為という 実に可笑しな事が目立ち過ぎませんか。
それと同じ類で「不適切だが 違法では無い」という話、それだったら 違法でなければ 何をやっても許されるのか!となりましょう。
 
 常識→ 『コモンセンス』という本があります。1776年にトマス・ペインによって書かれた。人々の「常識」に訴え、平易な文章でアメリカの独立を訴えたもの、民衆の独立機運がそれによって盛り上がりを見せたという。最近 その邦訳本を手に入れ 読み始めたのです。
  幼子と 手毬ついて 戯れる 出雲崎生まれの大愚:良寛は1758年生まれ、全国に米騒動が頻発し、世が乱れた時代。その二人は国は違えど同じ時代を生きたのです。良寛は師である国仙和尚の「1日作らざる者は、1日食わず」の教えを守り、この世にある限り、父母の言葉を身に包み生きることを守り通した。時代がどんなに変わろうが 変わってならないものは必ずある。その見定めと伝え続けるということは 実はその人自身の問題だ。ラジオ深夜便で「ダイアローグ・イン・ザ・ダーク」の再放送を聴いた。”暗闇での対話”って何?最初は半信半疑 いい加減に聴いていたのでしたが、だんだん話す内容に引き込まれてしまった。その代表の方の話し方がとても柔らかでゆっくりとしていたからかもしれない。真っ暗な闇の中に入ると五感の働きに変化が生まれるという。例えば全盲の方と一緒に入ると全盲の方は部屋が真っ暗でも普段と変わらない、一方、視力に障害が無い人は明かりが全く無い場所ではどうしてよいのか判らない。ヨーロッパでは既に義務教育の場にその実践が組み込まれているとのことだ。11歳の体験者は語る。≪さいしょ 暗やみは不安でした。最後には不安はほどけました。≫
 目から人間は様々な刺激を受けている。それに頼ったり、見えることを当たり前と思う。生き方の大転換、今まで減点法だった人生が、出来ることを見つけるという加点法へ。なーんだ 私は目が見えるんだという気付き。個の尊厳は 一人ひとりの違いを認めることから始まる。
 介護や福祉の現場で最近、耳にするのは、マニュアルの重視、しかし、これも行き過ぎは支援する側される側の両方に害になる。支援は相手により違って当然という原則が薄れて”対話”が減る。
なるほどねー! 
 ☆ 何事にも ”過ぎたるは猶及ばざる如し”と謂われるように正しい中庸の道は そのバランスが難しい。その絶妙な感覚は決して知識からは生まれない。仏教の教えでは智慧をあげ、物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力とする。”ありのまま”をどう把握するかという問題だ、どうしても損得や好き嫌い、はたまた外見だけから観てしまう事が多くなる。人間には5感という能力(視覚・聴覚・触覚・味覚・臭覚)がありますね、それ以外の感覚を第6感と言い、今こそ第6感を働かせと使います。教育には、本来、その5感の働きを伸ばし育むという役目があったはずである、それがいつの間に知識偏重となり、当然差別化が進んだ。人間の5感にはお互いに補完し合う機能がある。目は見えないが相手を見分ける能力、聞こえないが相手の表情から意志をつかむ能力、言葉が無くても素晴らしい関係作りなどなど、・・・・それらは環境にうまく適応するために培った能力で今に至った。
 今 世界中で 発想の転換が問われている。それは このまま進めば地球が持たないという危機感、勿論これは5感の”感”ではない。その一例として今の日本は経済の動きに振り回され過ぎていないでしょうか?株価の上下に一喜一憂、なぜなのか?ここ10年で、どれだけのお金を各国が刷りましたか?日本の最優良バンクが国債入札の特別資格返上の検討に入ったとか、これが真実ならば大変な事ではないですか?今までの日銀の説明は日本の国債発行総額は国内預金総額の範囲以内に止まっているから、まだ安心という説明をしてきました。マイナス金利政策に対する金融機関からの造反? そうなれば一気に日本の国債価値が下がりますよ。小手先の遣り繰りでという手法はもう使えない。何しろ銀行は安全なる融資先が見つからないんだから。結局 お馴染みの公共事業への投資拡大に向かわざるを得ないでしょう。インフラ整備に金をかける??それも政府の保証付き、その政府が危うくなれば 負のスパイラルが起こります。現状での社会保障策に赤信号、だって そう思いませんか。  貴方たちが今何が起こっているのか?その”ありのまま”を見る眼力と対峙する勇気が無いからではないの そう私は思いますよ。  

2948:判ってはおりまする

 昨日は朝早いご葬儀がありました。その後急いで東京の市ヶ谷での会合に向かった。秋葉原で総武線に乗り換え4つ目の駅市ヶ谷、駅そばの外堀、昔 ボートが浮かび桜の時期は老若男女 大勢の人達で賑わった。そのお堀の水が極限を超えた汚れ、それには驚いた。一瞬大都市東京の表と裏を見た思い。4年後開催のオリンピックに間に合うのか、それとも何かの蓋いをかぶせ見えない様にしてしまうのか???
 これを見た時 東京一極集中の限界を感じました。総武線はご承知のように山手線のど真中を東西に走る。世界中どこの大都市を見ても表と裏の顔があり、目抜き通りから一歩中に入れば、そこには生活の匂いと喧騒が同居する。・・・・・が 忘れてはならぬこと それは日本は地震国ということだ。判ってはおりますか? あのね~ トップの使命で一番大切な事は何でしょう? そこに住む人達への危機管理能力でしょう。
それができていますか? 何かヘンテコリンな事が多すぎません? 誰が漏らしたんだと犯人捜しをして・・・・・・もしや、これを危機管理力とは謂わんでしょう。
保身亡者(・・・・亡者の御ため菩提のたよりともならぬ・・・栄華物語 )
  気のせいか いつもなら土曜日の夕刻 秋葉原駅で見かける アニメに登場するような身なりの若者の数が減ったように感じた。
 
 ☆ 関東地方も梅雨に入ってから初めての本格的な雨となる。田植えが済んだ稲苗えが待ちに待った雨である。4日間に我々の仲間の葬儀が2件偶然にも同じ市で行われ、片道1時間半、同じ道を往復した。お二人とも良く知っていた方でこれからという時に旅立った 私は脱力感を感じながら眠気と闘いながらの運転だったが無事帰宅できた。毎年この時期は休む暇も無く 予定が重なり、今日は今から電車で横浜へ、昨夜は 地域の集まりで酒が入り、例の如く眠れぬ夜を過ごしてしまった。
 最近 気のせいか誰かと声をかけるのは「体に気を付けて・・・・・」という事が多くなる。判っているけど どうなんだろうね?今朝は大阪の友達が定年後楽しみにしていた旅に出発、朝の便だと言っていた。 今頃関空に向かっているかもしれぬ。スイス周辺の山をトレッキングし、その後イタリアを列車で旅すると聞いていた。定年後、これからの生活を考えるには絶好の機会になるはずだ。ご褒美だよな。
 アメリカで起こったテロのニュース、犯行声明が出たという。大統領選をこの11月に控え、予備選最終段階になり、両党の候補者が確定(?)、そこに起こった銃乱射で50人の犠牲者という最悪事態、今後どうその事が影響するのか? 日本とて他国の出来事と眺めている訳にはいかない。先月開催された伊勢志摩サミットが単なるイベントとは思いたくはないが、あの場で宣言されたことが、今後 新たな大統領の下で どうなるのか?強い関心を持って見守りたい。判っております
 
 ☆ 当事者を主体とした実践を視察、横浜の法人,縁があって交流が生まれた。久しぶりのホテル泊、どうも落ち着かず、横になってはまた起きて、この空間は4畳半余計なものは何もない。居住環境は本人の気持ちにならねば本当の安らぎの場にはならぬ。判っているのですよスヌーズレン室が完成し、ひと時の安らぎの場となりましょうか?

2949:見えてきたもの

 あそこまでして 自ら辞職せず 猶予を下さいと懇願するのでしょうね? 栄枯浮沈! それだって実態は良く判りません。 公人としての自らの立場を踏み誤る例は 世の中にいくらでもあります。昨日は 横浜で少々酒の力も手伝ってそのような議論をしたようなしないような・・・・・・。結局 我が身を省みれば 誰しもが思い当たる事はありますね。 公私の立場で異なるのは 当然ですね。 あの人ほどの知識と経験があるならば自らの身の処し方はご存知のはず、そうしない・・ そうできない?・・・・・。
 人倫の道は 理屈では無く法律や仕組み以前の問題、縄文の世に法律や掟が有ったか否か?この国は奈良~平安の時代になってやっと外国から学ぶ 特に中国からの影響が大きかった訳ですね。我が真言宗は1,200年の時を経て 常用する経典の大半は漢文調、一語一句に目が止まれば 正直先に進まない。それが 何とスマホなどSNSが急成長 新たなる問題が起こっている? 日本の家庭にどの位固定電話が有るのか 恐らく相当減っている筈である。それで不便になったかどうか? それよりも歩きながら食べながらというながら使用に規制無く、どこに行っても異常な光景に出くわす。電車の遅延原因の25%がスマホを線路に落としたり、スマホの使用での客同士の小競り合いが原因だと伺った。
 人間の体は利用頻度が減ったモノの機能から劣えが進む。便利さ豊かさを際限なく求め続けることが 果たして どうなのか? もう答えは出ているのです。残念なのは 我先にという思いばかりが強まって、何の為にという肝心要の事が判らない。あの方は政治の信義とか人情の機微と謂われるが、貴方が行ったことの責任を御破算にするには 少々無理がある。
 これが見えてきたもの スマホ依存症ぐらいならばまだ止められる。しかし、問題は その自制機能までもが劣化して その発想すら浮かばないという事にあるのでは。
 三綱五常・・・・・・三綱(君臣・父子・夫婦間の道)と五常、これぞ儒教でいう人としての徳目。五常とは仁・義・礼・智・信であり、①の仁は内なる修養として、思いやりの心で万人を愛し、利己的な欲望を抑えよという事。⑤の信は、友情に厚く、言明たがわず真実を告げ約束を守り誠実に生きる事。
 これを 其の儘 貴方にかえします。堅固な城の主になれば 箴言をするモノが一人減り二人減り、気が付けば太鼓持ちだけとなりにけり。これぞ究極の危機管理。・・・・・だとしても 大いなるものは 確と見ていよう。
・・・・・(ex)雪の降る朝 貴方は どう感じますか? ああ・・綺麗だ。or  寒くていやだ~。・・・・・そう思う事さえできない人がいるということを 常に自らに問い続けていなければ 雪を解することは できないと。この意味判りますか? 上ばかり見ていれば 小石や穴を見落とすは 至極 当たり前のことだった。雪は一瞬にして消え 水になる・・・・が 己が雪とは思い難し。

2950:倚りかからず

    もはや できあいの思想には倚りかかりたくない
       もはや できあいの宗教には倚りかかりたくない
        もはや できあいの学問には倚りかかりたくない
         もはや いかなる権威にも倚りかかりたくない
          ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい 
            じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて
               なに不都合のことやある  倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ

                                             ≪ 茨木のり子詩集 岩波文庫 P244 ≫  

 ある方からのメールの中に紹介されていた 茨木のり子さん73歳の詩・・・・・
  早速 アマゾンで茨木のり子の詩集を注文、翌日 夕刻 送られてきました。彼女は1926年生まれだという。終戦は19歳で迎えている。薬学を志したが学徒出陣で殆ど学ぶことが出来なかった。薬剤師としての職に就くことはなく、78歳で世を去るまで詩作を続け、山形県鶴岡市の夫三浦家の菩提寺の墓に眠る。
 彼女は決して”遁世者”ではない。戦争という体験を通し、”できあい”の価値に疑問を感じ、只管 人としての生きる道を探し求め続けた。彼女の詩に触れる機会を得たことは、教えてくれた友人に感謝せねばならない。世間でいう日本の最高学府で学び教える立場の人だったはずの方の一連の報道から、多くの人々が茨木の詩の冒頭にある『もはや』という三文字に共感したはず。戦後の日本が辿った70年の歴史は、更に100年200年先に振り返った時に 国の礎と成り得たか? 18歳に選挙権の年齢を下げた最初の選挙が7月にある、 これから長く生きるであろう若者が 果たして 誰に一票を投じるか。
 日本人、特に大人たち(?)が道を誤った点を自ら認めず、その責任を次の世代に負わせるとしたら ・・・・・・。政治家にその責任を全て負わせる心算は全くないが、何か知らない暗雲がこの国に立ち込め息苦しさを感じる人が増えていないでしょうか?名誉やカネ 名声 地位 私は それらできあいの価値に対し 見事に無頓着という人達に囲まれ 65年生きてこれた。この喜びは 言葉で言い尽くせず 少なくとも 道に迷った時の道標になってくれた事は間違いない。
 


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