源究93

 

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
1371 がんばっぺー 1/22 1376 奮起一番 1/29 1381 世代交代 2/3 1386 携帯ショップ 2/8
1372 リニューアル 1/23 1377 ワクチン? 1/30 1382 政争の愚 2/4 1387 縁木求魚 2/9
1373 トップの器 1/24 1378 一人相撲 1/31 1383 深謀遠慮 2/5 1388 freedom 2/10
1374 いま敢えて 1/25 1379 賞味期限 2/1 1384 お礼 2/6 1389 免罪符 2/11
1375 ひっそりと 1/26 1380 バランス 2/2 1385 烏兎匆々 2/7 1390 免疫力 2/12

1371:がんばっぺー

昨日は、成人寮の新年会(上記スナップ)がありました。各テーブルに別れ、間にスタッフが入り、先ず食べること。そうしないと落ち着かないという。ホテル側も慣れたもので、待ってましたとばかりに次から次に料理を出してくる。
 円テーブルでの食事はメンバーさん達は慣れていない。でも感心した。リーダー各の方がいて皿へ盛り付けを手伝う方もいる。皆さん、正装だから決まっていますね。格好よかったよ。私のテーブルは多分優秀組のメンバーだったと思う。特にトラブルもなく、各自が食事を楽しんでいました。コーヒーが出て、食事の部はおしまい。次がお待ちかねの余興・カラオケに移るわけだ。
私は例の如く、午後水戸に会議があり中座したから、その後の展開は?。
 今回はゲストは呼ばなかった。インフルエンザ騒ぎがあったから、念の為、身内だけの食事会となった。
正直なところ、「がんばっぺーな」と言う声掛けが出来なかった。既に皆さん、それぞれが頑張っているんだもの。さらにこれ以上頑張れというのは酷な話だ。メンバー一人一人が大分歳をとったものだと思った。
 平均51歳は知的障害の有る人達にとり、健常者のプラス10歳以上の負担を思わせる。負担?上手い言葉が見当たらない。
 障害を「障がい」と言い換える動きもあり、当事者の気持ちが少しでも反映できないかという配慮だ。障害=負担と考えるには???。負担と言うとこの国では直ぐにお金の話に成り易い。そうではなくて、負担を「自分たちが思い通りにいかないこと」と考えてはどうだろう。
 仏教では、そのことを『苦』と言った。四苦八苦は当に「思い通りにならない」ことの代表8つ。健常者と障害者を比べ、不公平だと感ずる事がある。生老病死は前段の4苦、・・・・・・。日本が米国から取り込んだ経済自由主義が果たして良かったのか否か。経済学者の声を聞かずとも結果は出ている。勝ち組と言われる連中はほんの一握り、彼らの生活を想像することなどしても仕方が無い。自らが勝ちえた財で好き勝手にエンジョイしたら、  どうぞご自由に!
 だが、さすがお釈迦様、後段の4苦があることを我々に残している。それは、愛おしい者との別れ、望まぬ人との出会い・・際限なき欲望。これは奢れる者により多くの負担となります。
 卑近な例で言えば、年収1億円ある方が、更に望みを高くすればどうなるか。素人目でも分かる事、地球上の富(財)を一つの笊に例えれば、一部の者が我先に取ってしまえば他に行き渡る財が減ることになるわけだ。小学生にでもわかること。
 政治が万が一、その手法で為されたとするならば危険だ。昨日より国会の予算審議が始まった。私は友部サービスエリアに車を止め、ラジオから聞いた。前評判通り、予算審議とは名ばかりで憶測と誹謗中傷の攻防と化した。テレビで見るのとラジオから聞くのでは全く違う事がわかった。それは人間の5感の働きの凄さ、目と耳から情報を得る時は、目移りして集中できないがラジオだと声に集中できる。
 やたらと外野のヤジが耳に入った。それも、笑い声やふざけたヤジ、全く真剣味に欠如したものに取れた。
ああ・・これが今の日本の実態か!
 障害者問題は一括りにできない。これ常識。何故でしょうか?
 視覚障害や聴覚障害を持つ人達の情報を得る手段を思えば頷けること、今は何をしておられるか知らない。嘗て車イスで議員だった八代栄太さんがいたころはまだ違ったという。少なくとも5感が健常?な議員にとって、彼が議場にいるだけで何かの気付きになった。
 それが、いま無い、・・・・・・
 だから、昨日、・・・・         メンバーさんに「がんばっぺー」とは言えなかった。

1372:リニューアル

リニューアル(一新)の条件を考えてみた。
 従来からの事業や組織を見直し、一新再生するための条件に一つの共通するものがある。時代のニーズ変化に的確な情報を取得し、その分析力と財源的裏付け、そしてスタッフの対応能力が条件となる。言うは易い。
 茨城県心身協は県内の障害者3団体が一緒になり、社団法人となった。事務所を県の総合福祉会館に構え、現在、心身協を主体として関連事業年間22本、その後新たに、いばらきサポート協会と茨城施設保護者連絡協議会の事務局も兼ねた。福祉の店の常設店を併設。会員数128事業所。私はこの団体の代表となって4年目を終えようとしている。
 想定外だったことは各種団体へのあて職や委員就任が多過ぎること。あれよあれよ気がつけば自分の施設にいない日が続く。昨日は3つの会議があった。土浦に戻ったのは午後7時。決して誉められた話ではない。
 率直に言って、従来からの事業を疑問も感ぜず継続しているものが多い。止めるか変えるかは数倍の労力を要するので敬遠される。
リニューアルには存続への危機があるものだが、福祉業界にはその危機感が薄い。
(*)スズキ自動車がフォルクスワーゲンと事業提携をすることになった。CEOの鈴木氏が言っていた。それが正しく企業継続の危機からの決断だ。
 心身協も公益法人見直しの時流に沿い、検討をしている。従来からの事業の見直しを行って分かったことは、会員と世間一般とのズレであった。”公益性”の捉え方一つにしても大きな違いがある。
新政権で評判が良かった事業仕分けの時に説明する側が矢継ぎ早の質問にタジタジになっていたのを思い出します。一番分かり易かった事は何か?それは今まで知らされていなかった実態が表に出たことだと思う。
 社会福祉法人は優遇措置がはかられている代りに様々な規制がある。市場の需給バランスという原理から見れば丁度良い塩梅の均衡が取れているものは少ない。どっちらかに偏っているものだ。福祉は公平性が要求されるもの、現状からすれば供給者側が優位、だからでしょうね供給者(事業所)側の危機感不足が目立ちます。
 それと逆の現象が教育界、少子化は学校の統廃合や学科変更を早めた、その動きは目まぐるしい。地域差はあるが、子供の数は明らかだから、取り合いだ。中には自転車操業でどうにか今年の学級維持ができたという学校もある。
 その中で不思議な現象がある。特別支援学校が定員が一杯で新たに開校しなければならないという。
 建設敷地は廃校になった跡地を利用する。
 何故、子供数の減少にもかかわらず特別支援校が不足するのかということ。
 入校を希望する人達の理由がどこにあるのか。
 送迎があるからか  個別対応できる教員体勢か  家族の意識の変化か  などなど。
 斯様に事業を継続していくには、スクラップとビルトの繰り返しが避けられない。
 自らの足元をみて、方向づけすることが大切だ。
 その中に、従事者が働く喜びを感じられる仕組みも当然入っている。
 

1373:トップの器

1月は宴席が多くなる。私の性分では、そのような場所はあまり好きではない。ただ、遅蒔きながら最近分かってきた事がある。どのような業界にも通じるものだと思うのだが、トップに立つ人々の宴席での身のこなし、会の大小に拘わらず、自席にじっとしているタイプの人は駄目だということ。自分から席を廻り積極的に話しをする。それも御座なりの挨拶ではなく、相手の話に耳を傾ける。聞き上手ということだ。すると面白いもので、周囲の人も話に加わってくる。これって当然の成り行きですよ。だって誰だって自分の考えを聞いて貰いたいんだから、実現できるか否かは次の問題で、先ず言える雰囲気だわな。
 今年になってそのようなタイプの方にあった。お一人は経済界の重鎮、某新年会でハッキリと覚えている事があった。
 酒が入り、彼方此方で話の輪ができ、その中心的存在のその方は、急にテーブルにあったテッシュを一枚とって、メモを書き始めた。脇で見ていて何を書いているのかと思ったが、話しの内容を忘れないようにという事だった。
 そこまでしてくれる人はザラにいない。話し手側は充分満足だ。
 もう一人の方はまた別のトップの方、1月は50回以上の新年会を既に済ませたという。大変多忙な方だ。しかし、それだけ多くの場に出席しながら、記憶力抜群、昔の事や相手の家族の事など、見事に覚えている。これも話し手側にとれば嬉しいものだ。
 何をこのお二人から感じるか、”トップの器”である。つまり、多くの部下や会員にとってトップが自分の事を覚えて貰っているという実感。「なーんだ そんな事か」いや!これが実に難しい事ですよ。会話に誠意を感じるか否か、この”誠意”が肝要でオベンチャラを並べる人は結局話が先に進まない。
 ”トップの器”とは最初から備わっているものではない。その人の努力だと思う。
 披露ついでにもう一話、昨日の結婚式でこんな会話があった。支障があると不味いので大まかに。
「代表を選ぶには他に誰もいないからこの人を押すのでは駄目なんだよ。この人にやって貰いたいから押すんだよ」という会話。
 担ぐ神輿は軽い方が担ぎ手には楽だという話があります。これ大いなる矛盾。神輿に乗る人もいれば担ぐ人もいる。それよりも担ぎ手の履く草鞋を作る人もいるということだ。世の中の大半は草履を作る人だ。その事を肝に命じておかないと神輿を何処にかついで行けば良いのか方向が分からないことになる。
 今の日本の政治の混乱は、当にその辺の事が原因している。2大政党を作るといっても、冷戦終結して、もう何年になるでしょう?今の日本の政治でハッキリした政党の違いが分からない。どっちの親分について行くのがBETTERか?という選択肢ではいかがなものか。滑ってころんでペシャリでは不味いでしょう。
 今日は24日、本尊地蔵菩薩の縁日で新春護摩を焚く。今の蔓延する閉塞感、何か燃えるような熱きものがない。
思い切り護摩木を燃やしたいところだが、火災報知機が作動してしまってもどうだろう???
” 難しい事が多かりし この世の春に 新しき華を咲かせたい ”  という心境であります。
 

1374:いま敢えて

お前の理屈は我田引水に過ぎると攻撃されても構わない、言いたいことが山ほど積もった。
 それは何故ここまで裏表を使い分ける人間が多くなったかという怒りだ。例えば仏教界、これも又、某祝宴の席での話。3人で談笑していた時、急に私の方にお二人が向きを変え口を揃えて、「ふにゃらふにゃら 其方さん(合掌して手をすり合わせているから坊さんという事)に大きな原因があるんだよな」・・・「ごもっとも 誠に申し訳ないことで」
 要は宗教人がだらしが無いから世の中が殺伐として思いやりや慈しみの心が無くなった。しっかりしてくださいという話。更に坊さんの生活への不満が次から次に。政治や官僚に対し庶民の不満が際立っているように思えるが、それは今絶好の攻撃材料があるからで、何も急に起こった問題ではない。宗教界が無視されているのでは?
 布教や教化の実態は如何に?立派な事を言う坊さんは沢山いるけれど言行は一致していますかという。ウーム!現政権内でモノが言えない状況は異様だと言われているが、似たような所が宗教界にだってある。
日本は世界でも稀な四季があり自然豊かな恵まれた風土をもつ、黒白ハッキリする砂漠の思想(?)はなかなか理解が得られず、墨絵や俳句に象徴されるように墨の濃淡や暈しの表現が好まれてきた。これら日本の文化への憂いもある、京都奈良のみならず国宝級の文化財や自然遺産保護への感心の薄さにも表れている。
 いま宗教家に何が望まれているか。鎖国の時ならともかく世の中がここまでグローバル化した時代に旧態依然とした形から抜け出られない。その原因を突き詰めていくとある一点に突き当たる。「そんな出来もしないアドバルーンを上げてどうなるの!」という偏向と諦め。伝統を守るという名の下に変化する時流さえ読もうとせず軽視する。
 ちょっと抽象的で分かりづらいでしょうから、もう一例ご紹介します。最近、私が相談を受けた話。
「お墓に両家の名を彫ってはいけないのですか?」と後を取る子供さんがいない夫婦が悩みを訴えた。私は別に問題は無いですよと答える。それを聞いて相談に来られたご夫婦の顔がホッとした表情をする。同じ墓に違った名前の墓石を建てるとは何事か、障りがあると脅かす実態があるのだろうか。何を根拠にそう言われるのか教えてもらいたいものだ。戦国時代のようにどちらの武将(殿様)につくかでお家の断絶となる時代ならば然も有りなんだ。しかし、少子化がドンドン進み夫婦別姓が認められる現代で、根拠無きことで不安を煽るようなことはどうかと思う。
 最初の例は、企業のトップの方、ドルレートが1円変わっただけで自社収益に大きな影響が出る業界。その最前線で生き残りに奔走している人達だ。果たして今の寺社会でその危機感があるかどうか。自らも大いに反省しなければなるまい。2番目の例は、子供が出来ないのは何も自分達の責任ではないのに、親戚や兄弟からの目を気にしながら真面目に先祖への供養に迷っている熟年夫婦。
 どちらも我々坊さんが試されていることである。
いま敢えてもの申す。外圧に屈することなく自らの思いを伝えていこうではありませんか。社会問題化している引きこもりや弱者いじめが一向に減らないのは、どうもその辺の問題ではないだろうか。自利を決して否定はしない、・・・・が利他がなされて調和が取れる。そんな社会がくることを願い、昨日1月24日、神宮寺本尊、地蔵菩薩の前で護摩焚きを行った。オンカカビサンマエイソワカ!
 

1375:ひっそりと

奥日光の光徳小屋からの季節の便り、数枚のスナップが送られてきました。朝靄の中、周囲の山には雪が被り、いかにも寒そうな中禅寺湖、「ひっそりと」という題が付いていた。夏、観光客で賑わった湖畔には人影もなく静寂そのもの。
 日本の自然の豊かさ奥深さを感じます。日本人の誰しもが持つだろう原風景、それは繰り返される自然の営みの恩恵によってなされたものである。地位とか財を自分の力で勝ち得たと思うのは”奢り”でしかない。必ずやしっぺ返しを受けるだろう。
 やっと『親鸞』二巻を読み終える。作家の思い入れは、自らの人生に照らし、一人の力の限界を感じさせる。五木は争いが絶えない源平の時代を現代にダブらせている。しかし、物の豊かさの比較ならば月とスッポン、比にならない。親鸞が叡山に登ったのは9歳、その後、法然との出会いがあって究極の阿弥陀仏信仰に移っていく。妻帯を堂々?と宣言し、恵信という同心の人を得る。
 現代の救世主は果たしてどなたか?もしもだ、某政党の実力者が”世直し”という使命に燃えていたとしよう。親鸞や法然と比較するのもおこがましいのだが、敢えて言わせていただくと、自らの身辺を身綺麗にすることが最低の条件でしょうと言いたい。隠し通せたとしても大いなる者が見ているものだ。
 小欲をいくら求めても大欲は掴めまい。
 私は真言宗の僧侶である。当然、「弘法大師」の教えを学んだ。同行二人を望んでも、存在が大き過ぎる。ただ足元にひれ伏す位しかできない。いま、四国遍路がしたくて仕様が無い。それは、少しでも大師を身近に感じたいからである。
 私にとって弘法大師の存在が大き過ぎる、・・・・真言僧侶の一生の問い掛けだ。
 大師教学を恰も理解したかの如く論じる者、貴方はその教えに忠誠を誓えますか。
・・・・・「末法の世にあえぐ多くの人びとを無視して、仏の道があってよいものであろうか」(『親鸞』第2巻P213)・・・という箇所に赤線を引いた。
 仏教には実践と教理がある。一方に偏しても駄目、実に難しい。膨大な経典を読破することなど望むべくものではなく、我々がせめてできるとすれば、一人一人の僧侶があえぐ多くの人びとを目の前にして、何を自らに課するかということだろう。そこにこそ生きた仏教の活路が見出せると信じる。我々凡夫がいくら精進努力したところで高が知れている。
 末法の世に必要なものは、出世や地位ではなく、いかに大衆に近づくかという実践行だ。残念ながらそこを履き違えた人間がいる。
 さて、例の如く、自らの事を語らずして何を言うか。
出来る事ならば、”ひっそりと”自然の中に身を置き世の煩わしさから離れ生きてみたい。ま!これは人間いずれは草葉の陰になれるのだから焦ることもない。 
 

1376:奮起一番

気力を奮い立たせ、もう一頑張り・・・・。と思った瞬間に空気が洩れた。昨日は恒例の施設長会議が大洗のホテルであった。1泊である。2次会が終わったのは10時過ぎ、その後部屋に連れていかれて4人で激論?私以外は粗泥酔状態、相手の話は聞かないで自論を展開、熱く思いを語る。どうも話がかみ合わない。12時前に自室に戻り寝ようと思うと中々寝付けない。朝、5時に起きだし、土浦に戻った。7時までに帰らないといけなかった。
 昨日は例年になく、大勢参加してくれたように感じた。研修では新型インフルエンザ、県の危機管理室長の話、それに仲間の施設から体験レポート、皆さん熱心に聞いていた。
 この時期、大洗は宿泊客も少ない、ほぼ貸し切り状態で伸び伸び日頃のストレスをおもいおもいに発散。観光開発や街の活性化はどの地域でも苦戦している。茨城は陸海空?と3拍子揃った恵まれた県、人口300万弱、将来の発展の可能性を充分兼ね備えている県だ。今年の秋、完成の映画「桜田門外の変」のオープンセットが水戸千波湖畔に出来上がる。
県内30ヵ所でのロケが始った。
 茨城人への偏見?か多少被害妄想の気も認めるが、黄門さまに始まって水戸納豆、それに幕末期の桜田門外の変、明治以後は5.15事件と話題に事欠かない。薩摩や長州と比較されるが水戸もまた近代日本の歴史に数多く登場する。
 福祉や医療に関する様々な全国統計が出ると常に後ろから数えた方が早い。これだって決して負け惜しみではなく、その状態でも成り立つ底力があるという証明だ。私はそう思っている。どうしても統計は事業所数や医療従事者の数を県人口で割るものが多い。その数値だけで本当の実態をはかることはできない。
 奮起一番!一体何に対して気合いを入れているのか???自分でも良く分からない。
最近、意味不明で独り言、”ヨッシ やるしかあねめー”と気合を入れている。いい加減に政治や官僚への不満も止めないと不味いと思い始めてきた。
 いくら続けても後味が悪く、なんにも変わらない。昨日の宴会でちょっと気になったことが耳に入る。福祉の現場では職員が肥満になる傾向があるんじゃーないのという話。もっか○○部屋との評判で施設が相撲と同じだとも。
 俺なんか 全く太れない、福祉さんもそうだろう?とそこの施設長に言われ、「ウン そのとおり」と反射的に答えてしまった。確かに夜中に目を覚まし、あれこれ頭で考えることが多い。悪循環というのだろう、昼間にうとうと眠くなる。
よく太り過ぎの連中に話を聞くと、ストレス太りだという。ホントかいな。俺はこの意見に対し承服しかねる。
 体調の維持は自己責任だ。これホント。
1月もあっと言う間に終わろうとする。時間が経つのが非常に早く感じる。そこをどうにかせんといつのまにか後期高齢者への仲間入り。奮起一番!

1377:ワクチン?

次年度の県への予算要望の一つで新型インフルエンザの優先接種がある、何度かお願いに足を運び、国の方針も確認して貰った。知的障害は優先接種の基礎疾患には入らず、先送りになっていたが、ここにきてワクチンの手配が進んだことと接種希望者が予測を下回ったことで健常者への接種が可能となったのです。
 一度罹患した方は、更にワクチンを打つ必要もないわけで、今回の接種対象者から外れるわけだ。
 我が園でも、感染しなかった利用者や職員に近日中に接種を行う予定である。勿論、家族の了解と職員は希望するものだけ。(現在、利用者数が160名、職員90名だから全員接種となれば軽く百万円を超える)。ただし、これは微妙な問題を含む。職員が感染すれば最低でも5日間は出勤停止。勤務に出る職員へその分負担がかかることに。今回、利用者の何人か自宅に帰って頂いた。それと冬帰省を伸ばした。これが感染の拡大が防げた一因だと思っている。
 入所施設の問題は深刻だ。職員が罹患すれば自宅待機、されど利用者は園にいる。どのように勤務を調整するか。
部屋の変更や日課の見直し、それと医療機関と通院時間を調整し、他の患者さんに気を使いながら診察してもらった。その苦労は並大抵の事ではない。職員に頭をいくら下げてもしすぎることはない。感謝してますよホントに。
 一方、感染してしまった職員も好きで罹ったわけではない。濃厚接触者だから当然か、夜勤の後に感染する者が多かったので頷ける。彼らだって気兼ねしながら静養してきた。
 これが強毒性の感染症だった場合はどうなるでしょうか?昨日の研修で対策室長に質問した。医者という立場で答えてくれた。
全国で現在可能な受け入れベット数(完全隔離)は数百床(多分200床?)とのことで、初期段階ではそこで対応するという。絶対数が少ない。今回の経験で分かったことは、水際で防ぐことは絶対に不可能ということだ、ならばどうしましょう?ということに。
 冗談や酒が入ったせいではない。昨夜の宴席で何人かと私は話をした。「あんたなら どうする?」「・・・・」「????」「  」
 答えが無い。 しかし、小さな声で「逃げ出す」という話もあったやに記憶する。
 これだって批難はできませんよ。自分がその立場になってみたらどうですか!
 そこで、次なる要望を国にしなければならんでしょう。今回のワクチン接種は前例に無い程、対応が早かったという。ホント?新薬の承認はハードルが高いということだ。薬害訴訟の問題も抱えているから国も慎重だ。
ならば余計、早めに対応して欲しい。強毒性の鳥インフルエンザが人間に感染した実例があるんじゃないだろうか?
 ワクチン開発にWHOが最優先で取り組むべきですよ。よろしく頼みます。
 でも人間はなんと愚かな生き物なのか。人が人を殺し合う紛争が止まない。オバマ大統領が登場し、最初の勢いは急速に萎んでいる。核廃絶という訴えに相反する動きが各地で起こっている。アフガニスタンへの増派が逆効果にならねば良いのだが。
 紛争を抑えるワクチンはないものか!それも同時並行で急がなければならないでしょう。
 高嶺の花は世界中至る所に咲いている。日本が世界に発信できる事は無限大、しかし、現実はもういい加減にしてしてよ!政治とカネ、今の国会審議が如何に次元の低いことか。これって自分達のことでしょうが、あんたら高級取りながら自分達の挙げ足取りやってばかりで良いんですか、。。。。。彼らに政界の自浄作用なんかできっこない。わたしゃ そう思ってる。疑惑があれば即場外退場、疑惑が消滅した時点で再度登場してもらうルールを作ったらどうでしょう。
全党一致で反対か?全く呆れて声が出ませんよ。やってる事が甘いんだよ甘い甘い。 

1378:一人相撲

最近、残念なことですが利用者の人達との交流が減ってしまったのです。いや、自分でそうしないというのが正直な処かもしれませんね。何故って?一言で言うには難しいんですね。そうね?『一人相撲』とでも言っておきますかこれが、一番近い言葉かもしれません。
 自分では良かれと思って必死にやってきたことが、実は的外れだったという事が急に多くなってしまって。
細かい事は触れませんがそんな感じですかね。
 足元の事と先の事が繋がらない、すると人間は焦ったり諦めたりしてしまう。何故そんな思いになったかという原因はあります。
 皆さんご存知でしょうか?最近の葬儀事情が様々ということ、昨日あったお葬式、家族葬というものでした。でも告別式が始まる頃には近所の皆さんなどが弔問に来られたから結構な数になりました。享年95歳のお婆ちゃん、老衰だったということです。田舎では近所の方に六道などを頼む。でも、昨日は本当の身内だけでお墓に埋葬、二日間に渡る葬儀はそれで終わりました。福島の郡山出身のお婆ちゃんは米沢出身の夫と共に開拓で戦後まもなく茨城に移り住んだ。15年前に夫が亡くなっており、またお墓の中で一緒の時間が始まる。・・・・・・
 100歳になったまど・みちおという詩人、1994年に国際アンデルセン賞を受けており、「やぎさんゆうびん」や「ぞうさん」の童謡の作詞をした方、昨日、その方の番組がNHKであった。「ふしぎがり」という番組タイトルだったか?、100歳の今も創作活動を行っており、視点が実に面白い。今の時代、まどさんのような複眼が見直されるべきかな?
 どのような人なのか気になってWikipediaで調べてみた。満90歳になってやっと「老い」に対する詩を作り始めたというから凄い。この方の創作意欲の源は、政治・行政・教育・経済・戦争などに対する不満だという。
 ♪ゾウさんゾウさん お鼻が長いのね そうよ 母さんも長いのよ
  ・・・・・・
 ♪白ヤギさんからお手紙ついた 黒ヤギさんたら読まずに食べた 仕方がないからお手紙かいた さっきの手紙のご用事なあに・・・・黒ヤギさんから  ・・・・・
 このユーモラスな作品からまどさんが何を伝えたかった・・・・????
不満を直接訴える方法は取らず、まどさん独特の表現手段で行うんだな。その証拠に彼の詩を読む側に”間”が生まれます。ヤギさんゆうびんという歌は2番で終わっています。でも一説には3番もあったという。何しろ手紙を読む前に食べてしまうから一向に内容が何なのか分からない。B番はお互いが書かれた内容を確認するという。
 要は手紙に書かれた内容はどうでも良いんじゃないのかな?世の中って多分、こんな感じで動いていると考えると納得できませんか?お互い相手の気持ちを分かったつもり。”一人相撲”と同じですよ。
 彼の複眼的思考の凄さは、ヤギさんを郵便屋さんにしたこと。ご存知の通り紙はヤギにとって大好物、だから食べちゃう。郵便屋さんの仕事は、手紙を無事届けること、これが出来ない。でも憎めないユーモアがある。郵便屋さんを政治家と置き換えると現代のゴタゴタが実に良く分かるんですよ。
 多分、今の政治とカネの論争は全く同じです。お互いが後ろめたい思いを持って相手を批難するから、どっちもどっち。言っておきますがカネの問題じゃーありませんよ。だってそうでしょう!お金は疑惑の金なのかどうなのか分からないはずです。全ておんなじです。福沢諭吉が笑ったり怒ったりしていれば分かるでしょうが、変化しませんよ。
 ですからね、金ではなく、疑惑が有るという事が問題だと言っているんですよ。私はね。
 疑惑解明は司直に任せるべき、当然です。でもね、不動産を所有することが政治資金規正法に抵触せず合法的な処理だと言い訳しても、国民感情は裁けない。それを議員の皆さん一人一人がどう考えるかという”間”ですよ”間”。
 これこそ民主主義の根本です。頭が良い人達なのにどうして分かんないんだっぺ???
面倒なんだけれど仕様がないから説明しますよ。つまりですね、政治は立法府と言いまして、法律を作る場であるのですから、その政治家が疑惑が持たれるということ事態、潔くバッジを外すべきだと私は思うのでありまして、秘書を多く雇っているから経費がかかるなんて話は本末転倒ってことです。そのために年間300億円もの大金を政党助成金で国民が賄っているんです。どうでしょうか  まどみちお様教えて下さい。ヤギさんだってゾウさんだって知っていることでしょう。
 人間として生きる道だ。本当の優しさって何かな?
 *まどみちおさんを知り、何か勇気を頂いたように今思っています。自分自身を棚に置くことをしないよう自戒しながら、
  私は潔く公職を辞める覚悟は今直ぐにでもあります。シツコイヨウデスガ一応言っておきましょう。

1379:賞味期限

有る時 貴方は”評論家”だと指弾されました。何クソと思いました。でも、そう思われても仕様が無い自分があることを自覚しています。どうせ批難されるのであれば”アナリスト”と言って貰いたかった。どこが違うの?ウーん、敢えて言えば「賞味期限」の有無かな?
 これって変ですか?もう少し説明を加えますかね。
物事が起こってからああだこうだと言う奴が”評論家”、方や先行きが不透明なことを確たる論拠をもって分析するのが”アナリスト”ってことかな。
 つまり、話題性の高さ低さは、時と共に変わるもので100%忘れられていくものでしょう。賞味期限があって有限だということ。だから評論は無責任にできるという訳ですね。しかし、今マスコミの集中攻撃を受けている「政治とカネ」に纏わる問題は違います。常に政治家に付きまとってきた事です。その意味では賞味期限切れではない。寧ろ、小沢さんや鳩山さんへの疑惑が区切り無しで続く限り、現政権への有権者の期待度は下降線をたどる。これが私の分析である。だって火の無い処に煙は立ちませんし、関わっている人が多ければ多い程、関係者からのリークは増えますよ。
 それと彼が言ったという「どうして自分だけが虐められるのか?」という話。これが当に裸の王様になっているということです。彼の周りにゴマスリ人間ばかりを集め、箴言する人間を遠ざけてしまった証拠。
 人間って元々自分中心に物事を考える生物でしょう。だから利用できる内は寡黙に徹していた連中が、何らかの切っ掛けで堰を切るようにドーと流れ始める。その意味では数多い政治家の中で一番苦渋をなめてきた人かもしれない。
それだって私に言わせれば自己責任ってことだ。
 政治主導を掲げたものが、実際に政権をとってどうなりましたか?ある人の主導ということなら分かります。結果たった一人への権力の集中でしょう。独裁政治と言ったら言い過ぎですか?
 でも国民が期待をもって送りだした政権がここにきて不安に変わってきたのではないでしょうか?それは内閣支持率や政党支持調査の数値に関係なく、みんなが体感しているのです。野党時代の”政治や金”への攻撃が自党内のことになって、全く知らぬふり、これって異様です。あの時の勢いはどうした?
 正直、民主党に私は期待していました。でも、今の形を続けるのであれば止めますよ。期待は信頼があって成就します。その事を議員の皆さんは充分知っているはず、何故、自らが立ちあがらないのか?○○チルドレンとか言われて急に永田町に議席を持った新人には要求しません。海のものとも山のものとも分かりませんからね。でも少なくとも何期か議員バッジを付けてきた皆さんには立ちあがって欲しい。それで左遷されたって良いでしょうよ、違いますか。
ここまでマスコミが目を光らせて追いかける国は日本以外にはないでしょう。もし、冷や飯を食わされた時は、それを堂々と表に出せばよい。
 いま、柵が無く、正論を堂々と言える政党はどこでしょう?「みんなの党」ですよ。旧態の自民党から飛び出し、独裁者のご機嫌取りに嫌気をさし、民主党を飛び出した連中です。彼らの意見を聴いていると、腹の虫が大人しくなるのです。
 同じ思いだからですよ。たった5人しかいないからどうのこうのってのは古い。
 彼らは政党の力に頼らず、有権者の思いを背負って政界にいる。これが実は一番です。本来の姿です。
 私は今年還暦です。人生の賞味期限が有るとすれば、期限切れですかね。自分ではそう思ってはいないのですが、どうも周囲の反応を察するに強ち否定もできない。
 もう少し、身を軽くしたいと思っています。自分の力以上に多くの事を抱え込んでしまった。その反省はあります。
 不図、思いだしたことがあります。「再生」は無理だが「新生」ならば・・・・・・。
 

1380:バランス

公衆トイレ
上記のスナップを見てどのように感じますか? 公衆トイレ?そうね、男子用トイレ。何か花がさしてあって綺麗だ。
 何故、わざわざ携帯で写真を撮りここに取り上げたかと言いますとね。水戸の某公園内にある外便所で閃いたのです。
「バランス」という事でした。写真ではよく分からない。少し情景を説明させていただきましょう。
 特別綺麗なトイレではありません。ただ駐車場の脇にあるから、良く私はヲーキングの時に利用する。ワンカップの空き瓶に花がさしてあります。どこのどなたか分かりませんが、いつも季節の花が何気なくさしてあるのです。一瞬なごみますね。でも花瓶?の周りに”温シップ”の使い捨てが置いてありました。近くにゴミ箱が有るにも拘わらず。
 私が可笑しいのでしょうか?ここに私は今の日本の実態をダブらせてしまいましたね。
 公共施設には立派なトイレがあります。しかし、汚れている処が多い。決められた日に業者に委託掃除をする。汚れているのが当たり前の世の中になった。みんなで綺麗に使おうという配慮が欠如。それから、非の打ちどころがない立派な話をされます。でも、それが本心なのかどうなのか、実に不透明な社会。
 こんな事を敢えて紹介している自分自身も気が付いた事があります。私は急いで写真を撮ったのでしたが、温シップのゴミはそのままにしてきてしまいました。これも×。
 そうそう昨日は某審議会が有りましてね、早めに水戸に着いたから歩いたのでした。北風が強く、寒い中を多くの人達がヲーキングをしていました。湖畔には映画「桜田門外の変」のオープンセットが粗完成していました。驚いたのはそこだけ雪が積もっているんですね。ここでまた閃いてしまった。今の日本の実態を!
 つまりですね。やっている事がオープンセットなんだわな。表から見れば、良くできていますから現物と変わらない。でも裏側は骨組み丸出し屋根も半分だけ、雪は何かを吹き付けて冬を演出・・・・・・・。
 ついでに言いますかね。あれ審議会というものですが、どうも首を傾げたくなるんですね。だって、膨大な量の資料をドーンと積まれて、事務局から説明を受けるんですね。私にとって苦痛ですよ。委員の皆さんはそれぞれの専門分野があって、そこを中心に意見を言うから、全体が見えなくなってしまう。
 でも、必要だからやっているんでしょう?公金を使う事業ですから、根拠が無いとこれまた問題でしょうから。
 でしょうが、あの膨大な資料や綺麗に製本されたもの、一体誰が読むんでしょうか????
 そのことを聴く勇気と時間が無かった。これも×。だって規模は違いますが市でも同じような事をやるんですよ。
 無駄と言ったら次からは声がかからないかもね。あれってやればやる程複雑になるんですよ。
 だから事務量ばかり増えちゃって面倒で使いづらい長物になるんですね。ここに私は大いなる疑問を持つんですよ。
 なんの為の計画なんだと言いたくなっちゃう。ここだけの話。
  こんな事を言っていられるのも、本当の危機意識がないんだと思います。実態は相当重篤な状況なんですがね。
 さてと、国を代表する人達が保身に血眼になっている。丸くまるめようとしているようですね。でも、これってやればやる程疑問が増えちゃう。辻褄が合わないのは当然でしょう。裏側を知っている人がいるんだもの。どうですかね、もうそろそろ決断されたら、大分国民感情は離れてきましたがね。
 私の信じている或る方より忠告がありました。「あんまり抱え込むなよ。」と。答えようが無いので「親からもらったDNAだよ」と言ったら、「そうだね」で終わり。阿吽の呼吸というものでしょうね。阿吽っていうやつは、なんてことない『バランス』なんだよな。

1381:世代交代

関東地方にも久しぶりに積雪があった。1センチ程度の雪、案の定、朝方道路が凍結、車の事故が多発した。私はスノータイヤには換えていない。昼までには溶けてしまい支障なく運転できた。
 日本は地域によって気候が大きく異なる。沖縄から北海道と縦に長く、大陸を背にしているから冬の気象の変化は特に激しい。今時、日本海側は横殴りの暴風雪、寒いというよりも痛いという感じだろう。
 『日本辺境論』内田樹著:新潮新書を途中まで読んだ。「樹」という名前をなんと読むのだろう?「たつる」と読むらしい。
 養老孟司さんがこの本を絶賛していたが読み始めて感じたのは、数多い日本人論の中で実に奥深く、しかも巧みに持論を展開しているなーと思った。
例えば、・・・「日本人は後発者の立場から効率よく先行の成功例を模倣するときには卓越した能力を発揮するけれども、先行者の立場から他国を領導することが問題になると思考停止に陥る。ほとんど脊髄反射的に思考が停止する。」P89。
「脊髄反射的」という言葉に目が止まった。現代の行き先知れずの状態を豊富な言語を駆使し分析する、GDP世界第2位の地位が中国に追い越される云々と大騒ぎすること自体が可笑しく、日本独自の文化は決して今の状況にしがみ付くことではなく、過去の歴史が示すように、大陸を背にした辺境人の「民族誌的奇習」に対しどう正面から対峙するかという問題だ。
 それを彼は朝起きたら顔を洗い歯を磨くようなもので、これでお終いというのではなしにずっと繰り返される確認作業だともいう。
なるほどね、そうすると私が「源究」という恐れ多いロゴを掲げ、ライフワークと決意したことも的外れでは無かったか??
 否、それこそ奢りと大いなる錯誤だ。ただこうやって取り留めも無く書き連ねていると、正直、自己嫌悪に陥ることは屡で、当に大海を彷徨う小船といった思いだ。仏教において先人の教えに学ぶことは至極当然なこと、それを自らが起てたなどと少しでも思ったとしたならばその時点で仏教では無くなる。
 自ら学ぶことを生涯を掛けてみても、ほんの一端を垣間見るだけ、さすれば教えを説くなど、どのような理由を付けたとしても恐れ多いことではないだろうか?謙虚な態度に徹し只管、学ぶ姿勢、この不断の姿が尊いと思うのだ。
 将来への不安を挙げれば切りがない。次なる者に託す勇気は世代交代という言葉で括れない。
何を託せば良いのだろうという答えすら持ち得ないからだ。
 自らの事はさて置き、世上乱れたる時節なればこそ、不満を封印するのではなく、自らの言葉で発信し続けることが必要だと私は思う。最たる不満は、一連の政治の混乱、目下、この点に関しては注視し続けていきたい。ささやかなる抵抗とでも言えば笑われるかも、しかし、私の受け継いだDNAがどうしても許さない。
 この国の将来を危ぶむ人達が、言葉だけで自ら腰を挙げない。人の弱みを感じる社会とは良く言ったものだ。内田が言う処の「民族誌的奇習」とは一体どういうことなのか?私は僧侶という「奇習」に甘んじている。一般論でいうところの信仰を度外視した実態が、果たしてプロ集団の中に存在しないのか否か。
 いつもの如くバイアスのかかり過ぎた見方だと思われても仕方が無い。このまま進むことは有り得ないだろうけれど、既に多くの人びとが既成の宗教に疑問を感じ離れていることは事実だ。いつもそうだ。政治への不満が自らに跳ね返る。宗教界の自浄能力が試されて長い時が過ぎている。朝起きたら顔を洗うことすらしない人が増えた世の中に、どうすれば自らの立つ位置を築けるかという問題でしょう。
 

1382:政争の愚

田舎坊主の政治評論とどうぞお笑い下され。
 いつの時代にもあったこととは言え、”悲憤慷慨”の様をただ傍観することは耐えがたい。達観したものならいざ知らず、。。。
 リーダーの器がここまで落ちた時代が嘗てあっただろうか?自らの部下の責任と知らぬ存ぜぬと口を頑なに閉ざす。果たしてこのような実態を時が忘れさせてくれるのでありましょうか?今回の政治とカネの騒動を傍目で見ていると、何故?何故?という疑問が湯水の如く湧き上がる。敢えて乱世と言うのであればこそ、リーダーとしての自覚と責任の取り方が有るはずだ。少なくとも部下の罪は自らの責任と感じて欲しい。嘗て自らが著した書籍を開かずとも自らの政治信念があるはずでしょう。この齟齬はいかに?言い訳に終始せざるを得ないから寡黙に徹すると思われても仕方が無い。
 今回の検察の狙いは、私なりには予測できました。それは”公表の圧力”を狙ったということにつきると思います。本丸を攻め落とす前に撤収?、これも想定内の戦略だったと思う。彼が力説している本来の民主主義に立ち返るべきという持論、これを今回は見事に逆手に取られた。3権分立など今更言われなくとも小学生でも分かること、立法府だけが国民の意思(投票)が直接反映できる仕組みだ、司法は行政と立法のご意見番、その三権バランスをどうとるか、誰かが今回の騒動をプロヂュースしたのであれば大した人だ。皆さん、その人は誰だと思いますか?
 ”国民”ですよ。国民に最終の裁定を託したという形ですね。今までの日本人全てにこのままで良いのかという天なる声が下る。政治に無関心な層がこれだけ多い先進国を知らない。政治に関心があれば、逆に現の夢を追う変人扱いをされた。そして門外漢を良い事にして不満だけは一丁前にタラタラ述べる。誰かがやってくれるだろう式の世渡り上手に警鐘だ。
 今回、政権与党の2人のトップがもしも、更に今のポストに居続けられるとしたら、この最大の陰の功労者は前政権の議員達だ。短期に何人の総理が変わったか忘れてしまった。我々国民は酷い実態の辛酸を嘗めさせられた。しかし、実態はどうか?彼らとて国会議場の後席に今だ居続けている。この辺の有様に嫌気をさしたということ。それがノーテンキなのは、自らが大いなる期待を受け、悲願の政権奪取を果たしたと皆が皆思いこんでしまった。何度も言うように”期待”には”信頼”が不可欠の条件だ。このバランスが崩れた時、有権者はあっというまにソッポを向く。強権を労して必死に結束の箍を締めようとしても後の祭り。
 検察の狙いで第1ステップはクリアーしたということ。不起訴になったという事を国民がどう判断するか。
今回の捜査段階で様々な情報が漏れ聞こえてきた事が何を示しているか。それは世論反応の確認だ。
何せ政治家が一番怖いのは検察ではない。世論だ。その肝腎な処は抑えている。さすが捜査のプロ集団、彼らは職務として疑惑に正面から対峙することが仕事だから。最終的にこの国をどうしたいのか誰を選ぶかは国民自らの手に委ねるべきだという立場を堅持した。
 さて不安があるといえば、今回の一連の騒動で主人公達の身の振り方次第では、この国が無法地帯になる恐れを感じる。
 自分の知らなかった事と言えば許されるという前例が罷り通り、規範や道徳がこの世から無くなる事態だ。納税という法律で決められたルールに堂々と従わない人が出ないとも限らない。その時、どのような理屈が立ちますか?
 以前として減らない自殺者の数、児童虐待・・・・悲惨な現実を国のトップリーダーがどう考えているのでしょうか?
トップリーダーとのギャップ、鳩山さんが代表質問に先だって演説した中にガンジーの例が出されました。その時、この人は宰相の器ではないと直ぐに分かった。少なくともインドの国民はガンジーに信頼があった。だからこそ、大きなうねりとなって独立を果たし、活力ある国の礎になれた。ガンジーの姿を思いだして欲しい。粗末な服(サリー)をまとい、裸足で人びとの中に入っていった姿。いま、SPに周囲を囲まれ、ご婦人との高額な食事を楽しむ彼の姿。
 お母様から一日50万もの金を頂いていて知らなかった彼が誰の書いたシナリオかしらないが、ガンジー翁の例をあげるなど大変失礼なことではないのか!
 穿った見方をすれば、現政権と前政権の唯一の違い。自民党の議員は少なくとも自らの非であろうが秘書の非であろうが責任を取りポストを譲った。今回のお二人の身の振り方如何によっては、政治への不信が更に増えることになる。
 国の形を変えるとか、政治主導とかコンクリートから人へとか”いのち”とか・・・・・もう充分だよ。これ以上御託を並べてどうするのですか。誠に残念なのは、二人がいなければ何もできないという呪縛に雁字搦めになってしまった人達、そんな政党に国の舵取りを任せた。政争の愚に効く薬はないのか。
 信頼を勝ち取るのであれば、その他大勢の議員の皆さまの奮起を期待する。時をみて判断しますってか。
シツコイヨウデスガ 貴方達は国民の税によって マカナワレテイルノデス。
 ちくしょう!まだ言い足りない。

1383:深謀遠慮

”深謀遠慮”・・・・遠い将来のことまで深く考え計画すること。
 朝青竜が相撲界から去った。歴代3位、25回の幕内優勝を果たした。モンゴルから彼が日本に来たのは高校生の時、決して体力に恵まれたわけでは無かったという。それから彼の頂点に登るまでの活躍は周知の通り、厳重注意も5回受け、横審で常に話題に上った。あれっ大人しくなったかな?と思わせはするが、そこからの回復も早く、彼の笑顔と仕草にはどことなく愛嬌が感じられ人気もあった。平山郁夫の世界ではないが、彼に大陸的人間の大きさを感じた。
 一方、言うまでも無い。某業界のトップにまでのぼった人間(二人)が自らの責任を秘書に負わせ、上手く法律の隙間を掻い潜る。そして言う事が素晴らしい。インド独立の父を俄かに祭り上げ、その思いに共感するとまで述べた。ガンジーの生きた時代と現代をどう結び付け、彼はその教えのどこに耳を傾けようとするのか?更に、もう一人の方は自らを支えてきた秘書3人を司直の手に渡し、自らは信念をやり通すと粋がっている。
 お二人の心中は如何に、本当に”深謀遠慮”で二人の間に信頼関係があるのでしょうか?もしもだ、目先の参議院選挙の為にだけ、密なる関係を保つということならば、国民は黙っていまい。
 政治の世界を見ていると、やはりそうかと思う事があります。昨日の参議院予算委員会で某政党の質問者が”介護現場の窮状”を取り上げ、鳩山さんと長妻さんを捲し立てた。今までの質問者で迫力を一番感じた。彼の声が段々エスカレートし、涙声で実状を訴えた。早速彼のHPを開きプロフィールを見た。九州出身で決して恵まれた環境に育った人ではない。当然2世議員ではなかった。京大法学部出身で弁護士、彼の活動の原点は当に弱き人びとの生の声を聞き手を差し伸べること。
 3日間私は国会中継をテレビでみた。品の無いヤジの応酬(劇場化現象)、そうかと思うと居眠り始めアクビをする議員をバッチリカメラが捉えた。しかし、昨日の彼の質問には、他党のみならず閣僚も真剣に耳を傾けていた。
 何故でしょうか?受けを狙った誹謗中傷ではなく、実態を単刀直入に訴えたからでしょうね。
 小沢さんに言いたい。(多分とどかない。否、絶対に届かない)。でも恐れずに言いたい。貴方が政治生命を掛けてまでやろうとすることは一体何ですか?2大政党制ですか?それとも権力の一元化?
 ただ、これは何も国民がそう願ったことではありません。そこの解釈にズレが起きていませんか。深刻なのは、その事を言えず様子伺いしている政党に国の舵取りを任す。これは危険だと大部分の国民は感じ始めています。嘗て小泉さんが自民党をぶっ潰すと粋がって国民の喝采を受けました。この時と大きな違いはなんだか貴方は分かりますか?
 政策の是非を言っているのではありませんよ。だって誰にも喜ばれる政策なんかありっこないでしょう。小泉さんの場合は分かり易かった。だから賛成反対の判断が我々はできたのです。今回の一連の動きをみているとそれが全く無い。言ってきた事とやっている事の齟齬、これで何を判断の基準として国民が選択すれば良いのですか? 力の強さ?実績?
 でも、民主党が政権を取り、5カ月の間に一番国民に評判が良かったものを思い出せば判ります。
「事業仕分け」これは闇の部分を表に出した事への評価でした。その事を一番分かっているはずの貴方が今、どのような身の振り方をするかを誰もが注視しています。
 素人評論の域をでませんが、私なりに思う事。それは朝青竜の決断とトップ二人の有り方の違い。前者は大陸的スポーツ型人間、後者は島国的弁士だと。相撲協会のゴタゴタと政界のゴタゴタに共通性を感じます。
 いま、現実の日本をみれば、参議院で過半数取る取らないの次元の話ではありませんよ。貴方達執行部は一年生議員の意見を封じた。長く永田町という雲の上にいすぎた人間の感覚でしょうね。昨日まで市井で汗水流して働いていた人間の生の声を封じて何を狙うというのですか?この政治手法に私は納得がどうしてもいかない。
 自民党だってそうだ。貴方達が長年行って来た政権運営の総括はしたのでしょうか?選挙に惨敗したということで禊を終えたとは考えていないでしょうね。落選した長老が参議院に鞍替えし、党推薦を願った。それを蹴った執行部に拍手を送りましょう。だが、これは社会的常識です。このズレを修正しようという動きは内部からおこらなければ意味が無い。
 国政と地方の政治が全く同じ手法で行われてきた時代は過去のこと、その事が今、日本全体に問われていると私は思う。保身を考えた時に改革の芽は枯れる。これ先人が教えた”道”です。

1384:お礼

本日、観音寺総代高野久義氏の本葬儀にあたり、報恩感謝の意を表したいと思います。高野家は過去何代にも亘り菩提寺の総代として住職を補佐し寺の維持に多大な貢献をなされております。高野家は地域で誰しもが認める資産家であります。氏はその長男として生まれ、篤農家として先祖伝来の土地を守り、地域の信望も厚く人との融和をもっとも大切に考え、自らの主張を表に出す前に周りの意見を聞くという慎重な一面がありました。享年78歳はご尊父の久氏84歳には至らず、さぞ無念であったことと推察いたします。
 ここに氏の生前における観音寺および尚恵学園に対しましての様々なご支援に対し衷心より感謝申し上げる次第であります。
 思い起こしますと、私が先代の後を継いで35代目の住職になりましたのは昭和54年でありました。その間、氏には総代として寺の運営に積極的に協力していただきました。3回にわたる境内墓地の拡張、更には完成まで7年を有し、合計25回の本堂建設委員会の委員長として檀家を纏めていただきました。その後、客殿の新築や鐘楼堂の建設と立て続けの事業に全面的なご支援を頂きました。私自身は住職として早足で過ぎてきた30年という思いがあります。29歳で住職になった私を上手に指導して頂きました。
 更には、尚恵学園の理事としても多大なご尽力を頂きました。神立には神宮寺と観音寺の二ケ寺しかありません。両方の寺の住職として住田として私は3代目であります、長くこの地に住んでこられた檀家の皆さまには、尚恵学園を始める際には住職が何を始めるのかという不安も多かったと聞いております。今、知的に障害を持っておられる方が約160名利用されています。職員も90名の大所帯となり、地域の皆さまには多くのご迷惑をお掛けしているものと自戒しています。
 排水管が途中でつまり、地主の皆さまにご迷惑をおかけしたり、無断で外出してしまった利用者の方を引きとめて連絡をしていただいたりと記憶を辿れば様々な事が浮かんでまいります。
 そのような時に両寺院の役員代表として尚恵学園を補佐して頂いたことは、心強いものがありました。
 尚恵学園は昭和31年に先代が様々な困難を乗り越えて開設しました。既に、当時を偲ぶことができる人は数少なくなり、これからの運営には新たな課題が山積しています。
 住職はどっちが本業かと良く言われて参りました。若い時分には「学園です」と答えて顰蹙を買った覚えがあります。
 いま、私自身も還暦を迎え、次の世代に交代する時を思いながら、”持ちつ持たれつですよ”と答えるようになりました。
 多分私は宗派にあっては異端者かもしれません。伝統のしきたりに無知で暴走することも屡あります。ただ、どうしようもないのです。歳をいくら重ねてきても子供の頃の思いが抜けないのです。
 このような事を口にすべきことでは無いのかもしれません。
 本日、11時より執り行う葬儀の前に長年お世話になった総代高野久義氏への感謝の意を込め、氏と語り合った夢実現
 に向け更なる精進をお約束し氏の菩提を祈ります。合掌。
*故人 高野久義氏 享年78歳 観音寺総代 尚恵学園元理事。

1385:烏兎匆々

烏兎匆々(うとそうそう)とは歳月が過ぎ去ることが慌ただしく早い事。中国の伝説にある太陽に3本足の烏(からす)がいて月には兎(うさぎ)がいることより月日が慌しい(匆々)という意となった。
 昨日、小学校の同級生3人と会った。ミニ同窓会と言うには、場所が火葬場であるから、どうしても陰気な話になった。我々は団塊世代に入るか入らないかの年代、今年還暦ということに。地元の悔みだから、顔なじみの先輩後輩が集まった。一人は教員を定年前に止め、趣味の世界で悠々の生活、カメラで野山の花や昆虫を撮り、自分のHPで紹介している。私の理想とする生活を実践、もう一人は農家の長男で、手広く農業を行い、どこで間違ったか”蕎麦屋”の店主となった。3人は腐れ縁ということ。それぞれが違った道を歩んでいる。その中でも私は烏兎匆々の生き方をやっていると自認、どんな話からこうなったのか判らないが、「四国遍路」の話がでた。蕎麦屋のオーナーは神立から歩いて四国に行くんだという。一年間でもかけるつもりなのか?もう一人は、全く関心が無い。しかし、カメラをもって行くのならと少しは関心が出たようだ。私は、88か所は4年かけて一度廻ったが、満足しない。歩いた訳ではなかったというのがその理由。
 この話を以前、坊さんの会合で話をしたら、「○○の住職は歩いて遍路終えたんだけど、何も変わっていないね・・・」でお終い。別に自分を変えようと思って行くわけじゃーない。一つの区切りだと思っている。贅沢な話だろうか?
 どうも追いまくられるような生活(?)をしていると人間がおかしくなる。ツマラヌことに腹を立てたり、プッツンと切れたりする。これは周囲の人に決して良い訳がない。自分ではその事を判っている。
 以前はフルマラソン完走にロマンを感じ、夜走った。いま、まったくその気力は無い。1日1万歩を自分に課し、ヲーキングはやっている。実はこれ四国を歩くため。
 昨日の忌中の席で、久しぶりに懐かしい人と話した。生涯現役というわけではないが、何か仕事を持っている人は話題が尽きない。趣味でもなんでも良い。自分が打ち込めるものを持つべきだ。
 ただ、自戒を込めておもうことは、年甲斐もなく、打ち込み過ぎてもまずいようだ。体は年とともに衰える、自然の理と言うものだろう。
 最近、目の衰えが進んだように思ってはいたが、耳の具合もイマイチよろしくない。腰の具合は、無理できず、記憶力はマダラボケ、・・・・あとなんか無いか?
 そうだ大事な事、髪の毛は風前の灯、関節はギシギシ、鼻水は出る、喉が渇くしトイレは近い。

 一体誰の事を言っているのですか?自分のことだった。なにせ若いと粋がってみたところで誰ひとりそうは思ってはいただけませんから。   唯、気持ちだけは若さを保ちたい。烏兎匆々、私の元気の源は馬耳東風、我が道を歩む。これしか無い。
 人生悔いなし、・・・???????。 ウーワン。

1386:携帯ショップ

一瞬の出来事。トイレで携帯を落とした。急いで取りだすも既に遅し。うんともすんともしなくなる。電池を取り出し拭いたり、暖房の前で乾かしたり、一応の事はやってみる。時々電源が入った。しかし、画面はボンヤリ、文字の判読不可能。
 そのうち電源も入らなくなった。
 機種交換をと思い、携帯ショップへ、日曜なのに、いや、日曜だからか、ひっきりなしに客がくる。10か所ある窓口は常に順番待ち。こんなにも多くの皆さん、トイレに落としたのだろうか?
 調べて判ったこと。SDメモリーは助かった。データーは無事、残っていた。別に大したデータではないが600件にもなった電話帳だけはと思った。今回は防水機能の機種に変更し、「らくらくホン」捜査は殆ど変わらないものにかえた。
 窓口でいろいろ説明を受ける。オプションサービスの類、正直何がなんだかわからない。相手の言うがままにした。
 日本全体で今どのくらいの携帯電話が普及しているのだろうか?土浦の一か所の店がこの有様だから、それに、全国のデーターが受付のコンピューターで分かるという。何か恐ろしくなった。
 最近の機種は様々な機能があるという。どうせ使いこなせないから、一番シンプルなものにお願いした。
 利便性と裏腹に不安がある。これが現代人の特徴で、携帯依存症とかいう新たな病名ができたとか。触っていないと不安になる。昨日判ったことだが、定額でメール使い放題というのがあるそうだ。ああ これだわな。多分今頃わかっても自慢はできまい。ついでに恥をかきます。頼みもしないのに今度の携帯はテロップでニュースが流れる。これじゃー新聞は読まなくなるわな。
 こう考えると今時のトラブルの因が解けてくる。広告量の減少や電車中吊りの内容のエスカレート、、なるほどなるほど。
「労働無き富」という話ね!あれは大金持ちが言うと嫌味に聞こえませんか。なんだか物騒なのは、ロシア革命時代の貴族と労働者との争いの例をまことしやかに言う学者も出てきたりしてね。異様というか別世界というか。
 そうそう、総理や幹事長も携帯持っているのでしょうかね?
 データ保存の為にバックアップを取っておくように言われますが、時と場合によっては、それが動かぬ証拠になりますよね。今日は水戸で会議がありまして、その後取手の斎場で通夜がありまして、タクシーをお願いするのも気の毒でして、またどっかで衣に着替えてでして自分の車でいきますよと言っておいた。ああ、しんど。
 こんな芸当?も携帯を持っているからできること、便利になったものですね。
 話を最初に戻しますが、新しい機種のオプションサービスの説明を次から次にあるものだからウンザリしましてね、私から尋ねたんですよ。
「あのー。携帯をトイレに落とさないサービスはありませんか」とね。そしたら、肩から紐(ストラップ)でもかけるより方法はございませんと言うから、「私ね。そのストラップとか言う奴を付けておいたんですよ」「・・・・・・・」
 ここで状況説明。
 実は私のストラップは真っカッカ。ですから法事の時に白衣の上から首に巻きつけておくと目立つ、それにマナーモードにしておきますと臍の周りでブルブル始めてたまったもんじゃーない。そこで懐に入れて置くわけです。そして、トイレにいく。この時期、重ね着が凄い私には、○○が顔を出すまでに四苦八苦、必死で頑張るわけ、その結果、携帯をポチャーン、今回が2回目。
以上が私の説明責任です。納得されたでしょうか?今日は国会中継があります。皆さん 政治に関心を、国民の責任でーす。
 多分、法事の時には携帯を置いておけよと言う方もおいでと思いますので、シツコイようですが追加説明をします。
置いておくとなくすんですよ。

1387:縁木求魚(えんぼくきゅうぎょ)

縁木求魚とは「木に縁りて魚を求む」と読み、方法が誤って成功しないことを言う。
 民主党への期待は、以前として他党を上回る。この理由は、過去の政権に対する不満が一番の理由だろう。内田がいう日本人論は辺境の民、良否は別にしてどうも世界でも奇特な民族だと言う。
 永田町や霞が関は、物見遊山で行く処ではない。だが百鬼夜行と言えば言い過ぎだと叱られるかな?
 どうも、訳が判らない世界だ。それは、一般常識が通じないという意味で。治外法権とは外国の領域内でその国の法律の支配を受けないことを言う。領事裁判権の俗称。日本の中心、東京のど真中で治外法権が罷り通るとしたら、我々はどう受け止めればよいのだろう。
 郵便で確定申告の知らせが届いた。私は住職になってから毎年、申告に税務署に出向く。最近は電子申告とか言って自宅でもできると言う。しかし、なんとなく不安があって順番待ちしながらワザワザ税務署へ。大半の人が同じだと思う。
 今年はどうも気が進まない。だってそうでしょう、「縁木求魚」ならまだしも「木に縁りても魚を求められる」事象がありましたよね。秘書に任せていたから、関知しない、知らなかった。
 正直、それで抵触しないのであれば、そうしたいと思う。残念だが、私には秘書はいない。自分の事は自分でやるしかない。だから、知らぬ存ぜぬという手法は使えない。ならば「ボケ」ちゃったので忘れたという手法はどうか?
 一度窓口でやってみようかな。
 確かにセレブと言われる人達は、優秀な弁護士や会計事務所が付いている。こうやればああなる位のことは初歩段階、でもどうも理解ができないのは、こういう事ではないか?
 22年度の予算審議で深刻な税収不足、だから国債で賄う。経済復興が最優先だ。でも、一方では税金を払わなかったり、法人名義の資産管理で節税を現にやっているでしょう。
 政治家が自分の信念にそって活動することを旨とするのであれば、持っている人は国に還元すれば良い。政党助成金は余ったのだったら同じく国に戻せば良い。これがルールでしょう。
 しかし、そこはそれ、配下にプロ集団が控えているから、法の隙間を上手くついてくる。自分たちが作った法律を、都合良く利用するというのでは、どうもいただけない。
 お二人で昨日、話し合ったという。もしや、辞任宣言かなと思ったのは私だけか。ここで自ら辞任判断したのならば私は彼を歴代の稀なる政治家の上位に入れても良い。それが、報道によれば、「続けて良いのかな?」「ハイ」
 仮定の話で真意は?でも、結果として続投でしょう。ならば、これからは国民の期待に堂々と答えて下さいよ。その第1が説明責任、どうしても次なる選挙がチラつくのですね。
 国民目線というのであれば、辞任要求の声にどう答えるか!
 何故、自党内からその声が出ない。出ていけと言われれば出て行けばいいのですよ。それよりもですよ。ここが正念場、切り抜けれればどうにかなるとお考えのようです。それじゃ、切り抜けるとは?
 信頼回復というものは、時間が解決するもんじゃなくて、その人の言行でしかできない。そこを権力を持つと判らなくなるようだ。
 本日、取手の斎場で葬儀があります。以前学園を利用されていたMさんのお父さん。63歳だった。今から8年前にMさんは体調を崩し、入院して1週間ほどで亡くなった。あっけない最後だった。でも、あの時お父さんが私に言った言葉を思い出した。
 「Mは長女に生まれたのに可哀そうな子です。多分、親にあまり迷惑をかけたくなかったのでしょうね。こんなに早く逝ってしまった。」と。私は本当に政治が国民の目線で行われるのであれば、33歳で逝ったMさんの生き様を知って欲しい。
 彼女はミュージックベルのメンバー、皇太子ご夫妻の前で演奏した時の写真が今も尚恵学園の壁に飾ってある。

1388:Freedom

”自由は一定の前提条件の上で成立する。だから無条件的な絶対の自由は人間にありえない。そして、自由は障害となる条件の除去・緩和により拡大する・・・・”その目的達成のために自然・社会の変革をはかることが自由の増大となる。
 さて、朝から例の病気が始まったようです。自分で何を言っているのか判らない。
 『日本辺境論』P175:[かくあるべき状態からの逸脱」ととらえず、「まあ『こんなもの』でしょう」と涼しく受け入れる。・・・生老病死を「苦」と思わず、「私」の一部ととらえ、ともに生きるものと考えることを薦める。
 いま、私の内部で起こっているマグマ?は、「かくあるべき」という思いが強過ぎるようだ。おもうように物事がいかない事を判っているのにだ。
 モラルとか常識というものが果たして確たる根拠があってのことか?これが全く曖昧模糊となった時代に我々は生きている。それも「自由」という旗印の下に。法律の解釈が、ここまで多様になってしまうと、我々凡人には手が出ない、権利放棄せざるをえない。裁判で決着をつけるという仕組みだって、正直結審までに何年かかるか分からない。
 昨日、遠方での葬儀があった。ずっと同じタクシー運ちゃんが私を乗せてくれた。例のごとく話が盛り上がる。彼はパチンコが大好きで仕事の合間に昔は良くパチンコ屋に入ったという。「今はできません。GPSが付いていて、停めた車の前後まで判ってしまう」から。あのジャラジャラという音を聴かないと寂しいという。・・・・それに当然今の政治のゴタゴタ話、「日本人はお人好しなんですよ。暴動も起こらないし、誰だってやっているんでしょうからと思ってしまう」と。
 何だか内容が段々辛辣になってきた。その理由は、いまタクシー業界は大変だという。収入が激減、歩合も厳しく、生活できないという不満。遅番勤務は10時出勤で夜中の2時まで、ストレスで体重が20キロ増えたという。高速料金一律1000円が良かった。2カ月に1回、那須の温泉に行くのが楽しみだった。それができなくなったと嘆く。彼はそこの温泉の水を20リットル1000円で買ってくる。その為に温泉に行っていたという。血糖値を下げるのに効果があるそうだ。100リットルを一度に買い求め、家で飲む。・・・・・それが!!!高速料金をタダにすると言ってたじゃないですか民主党は、それがなんだよ、全く。
 更についでの話。最近、女の人でタクシーを使ってパチンコ通いをする人が多いという。開店と同時に入店し、夕方までやっている。旦那はどうしているのか?嘗てのパチンコ三昧の自分を笑いながら、どこかおかしいですよと言った。
 おかしい事の第1位はなんたって鳩山さんのお小遣いの話だとも。
 このギャップを障害と捉えれば、彼ら(政治家)は目的達成のためにルール(法律)の改変をはかるだろう。これが彼らにとっては”自由”(freedom)の増大になる。正しく、政治資金規正法は、本来の趣旨とは全く違った便法に使われているではないか。自分たちに良いルールを作っておいて、何もやましい事はしていないと公言する。これが今の正直な政治実態である。内田が言うように「まあ、こんなものでしょう」と思うには限度を超えていませんか?
 そして、返す返す残念なのは、ダンマリを決め込む同士たち。坂本竜馬も嘆いている。彼らに気骨を感じない。頭でっかち保身集団だ。ここまで日本が精神的支柱が衰退した時代はあっただろうか?国の最大の権力者が。野党もしっかりせい、あんた達がダラシが無いからだ。
 それと経済政策最優先も表向きは仕様がない。それよりも議員定数を半減する議員立法を作りなさいよ。諸悪の根源は、暇な政治家が多過ぎるということです。肝腎な事はダンマリで、ただ騒がしいヤジを飛ばす人間しか見当たらない。国をどうしたいのかという論議は中途半端、選対ゲームにばかり長けた人間が重宝される時代は、これこそ末法の世と言うのです。
 この末法の現代で、法律に抵触した行為は全く無いという人も可笑しなものです。そもそもマシな法律がないのにだ。
つづく。 
かくあるべきことが ああなり こうなり 彷徨う時に船頭小唄。(一句)
 

1389:免罪符

『密厳院発露懺悔文』というものが真言宗にはあります。中興の祖と言われる興教大師が作ったというものです。これは僧侶としていかにあるべきかを問うているものです。
 ローマ・カトリック教会おいては、「贖宥状」(しょくゆうじょう)というものがあり、「免罪符」と通称した。罪の償いを免除するというもの。今朝の某紙の社説に、「刷新」するべきは何かと題したものがあった。・・・・”不起訴は嫌疑が不十分だったからに過ぎず、潔白の証明ではない。説明責任を逃れる免罪符にはならない。・・・・・・
 そもそも、今回の騒動で当人は自らの「罪」を認めていない。だから償う必要もないという一点張り、周りが政治的・道義的責任はある、だから国民に説明しなければなるまいと騒ぐが、どこ吹く風。内心は判りませんよ。
 石川議員の釈明で、なにかしっくりしない処があった。保釈後の挨拶で離党も議員辞職もしないと言った。それが地元後援者の総意だからと、それに、検察調書を否定するような発言も。後日、弁護士を通じてその点は訂正をしたようだ。チグハグというか余計疑惑が深まった。一体裏で何が起こっているのか?
 今般、国民は圧倒的な数で政権交代を選択したのです。これは不安があっても、一度やらせてみようというのが真意、期待と不安でスタートしたものだった、そして5カ月が経つ。個人的にみれば、一生懸命仕事をやっている議員もいる。汚れがなく、下向きに、新入社員のような新風を感じる。閣僚経験がない割には、大丈夫かなと周囲が気兼ねしてしまう程、疲れた様子で委員会に出席する大臣達。正直応援したくなります。さすが審議中に居眠りする議員はメッキリ減った。
 斯様に新政権で評価できるものもある。・・・が、今回の一連の騒動で負った傷は限りなく深いと思う。
 それは、何十年にもわたり、苦渋をなめさせられてきた国民が、またかという思いになったからである。
 民間に目を移してみれば、最近のニュース、キリンとサントリーの合併が不調に終わった。真相は定かでないが、キリンは社長交代を即行った。かたやサントリーは株式上場していないオーナー企業だから全く違う。
 国もある意味では株式会社的公共性があるべきだと私は思う。日本の飲料メーカーの2大トップ企業が合併を模索する。これは会社の将来を見越しての企業判断、それだけ民間企業の生き残りは熾烈だということである。明日は我が身である。
 比較するには、多少問題も残るが、いま、民主党の内状をみると、キリン的な仕組みではなく、独裁的なオーナー企業になっているのではないかと思えてしようがない。
 いくら政治的経験が豊富で力量が頭抜けていても、たかが1選挙区から選出された代表でしかない。もし、その事を度外視して日本国の代表という思い上がりが仮にあったとすればそれは大きな間違いである。
 そう思いたくはないが、どうしてもそう思えてしまう。作られたイメージを変えるには、相当な本人の努力が必要でしょう。
 サントリーは1899年、鳥井信治郎が興した葡萄酒の製造販売を目的とした鳥井商店が最初、非上場企業として現在まで続いている。だからといって会社を私物化などできやしない。お客様がいて、成り立つことを一番知っている。
 口で言うは易しである。政権支持率の下げ止まりが一向に見えてこない。いずれ首相は勇断を自ら決意しなければなるまい。その時、今の体勢を壊してまで判断できるか否か。その「刷新」が望まれていることを気付くべきだ。
 外交や防衛に関しては、政権が交代したからといって簡単に方向転換はできない。まず、できることから始めるべきだ。
 それは何か? 鳩山首相が小沢さんの進退にたいする世論にどう行動できるかということである。その時はもしかしたら一蓮托生、潔く総理の座も降りることになるやも知れませんね。

1390:免疫力

生体が疾病に対して抵抗力を持つことは、不思議な現象である。抗原や抗体のメカニズムはミクロの世界だ。気付かない内に免疫力がついていたということになる。 
 生体には様々な疾病がつきもの、医学の進歩が追い付くことは不可能だ。常に後追いで研究が進められる。
最近知った言葉で”治験医療”というものがある。新薬開発に欠かせない臨床実験?で従来は大学病院などがボランテアを募って行っていたという。最近は民間でも治験医療専門病院ができてきたという。ジェネリック薬など安価な薬を優先して処方している病院もその一つ。
 医薬の世界は権利関係が複雑で我々素人には理解できない。60前後の年齢になれば、誰しもが多少の薬は飲んでいるだろう。副作用は気になるが、その製造元までは関心がない。
 さて、この免疫力という言葉で比喩的に使われるものがある。物事が度重なり、その状態に慣れてしまったことを言う。
 ”共存”&”惰眠”
これが実に厄介で、どの辺で境界線を引くかということがいつも問題になる、豊かさや利便性を考えてもお分かりになるでしょう。”小欲知足”&”私利私欲”
 私が高校生の頃、(昭和40年代初め)高校生の通学手段はバスか自転車だった。それ事態は今でも変わらないのだが、肝腎なバスが通っていない。車社会になって公共交通を利用する人が激減、廃止路線が増えてしまった、私の住む地域も今は路線バスが無くなってしまった。利便性と裏腹に不便が共存する社会。
一方開港まで1カ月に迫った茨城空港、スカイマークが神戸便を就航させるということになりそうで、アシアナ航空に続きやっと1日2便となった。関係者の努力も然ることながら地元も宣伝に躍起になっている。関東地方に3番目の空港はいかに?百里基地との共用だから、飛行機が飛ばないという事態にはならない。
 需要と供給の関係も免疫メカニズムにどこか似ているように思える。どちらか一方が強過ぎても不味い。良いバランスを長く保つ事が理想だが思惑通りにすすまない。
 何故、免疫力などを取り上げたか?今日、新型インフルエンザワクチンの接種がある。県は全国に先駆け、1月16日より成人の健康者にも接種を開始した。今日まで伸びてしまった理由もあるのだが、合計で174名のワクチン接種を行う。
 まだ罹患していない職員と利用者でそれだけの人数になった、問診書の作成や家族の同意を得ることが結構手間取った。
なにせ今回のワクチンには様々な情報が飛び交った。県の医療審議会で話題にあがったことだが、今回のウイルスが弱毒性だったことが幸いした。しかし、細胞変化などが起こって何時、強毒性のウイルスになるかもしれない。過去のスペイン風邪のような事もありうるから不安は消えない。未知の事だから誰しもが確たることはいえない。
 今回、茨城県心身協では、いち早く動いた。県内の全施設に罹患状況の調査を実施、その結果をまとめ、県に報告、当初、障害者施設は職員や基礎疾患を有しない利用者はワクチン優先接種の対象外だった。日本知的からも国に要望、県は国の判断を待って対応するという。県ではタミフルの備蓄は充分あるとの説明を受け、少しは安心した。
 先月の施設長会議で、インフルエンザ対策の研修会を実施、多くの出席者が熱心に耳を傾けていた。これも実は後手の対応でもう一歩先に踏み出せない。
 今回の感染は終息宣言が出せない。なにせ、誰しもが免疫が無いという状況での対策だから、尚恵学園も結構な数の感染があった。その対応は今後、何らかの参考になると思っている。
 今回、学んだことは、関係機関との連携であった。保健所を始め、医療機関と家族、事業所などが情報を共有することが大切ということ。
 喉元過ぎればなんとやら・・ではなく、今回の経験を次に活かすことが望まれる。
 免疫力は、感染を予防する手立てからではなく、感染後いかに対応するかという視点から。これもまたバランスの問題とも言えるでしょうね。