源究92

 

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
1351 謹賀新年 1/1 1356 ビジネスモデル 1/6 1361 借金の実態 1/12 1366 塩梅 1/17
1352 年頭所感2 1/2 1357 遠メガネ 1/7 1362 落とし所 1/13 1367 1/18
1353 さーてと 1/3 1358 新年会 1/8 1363 国民の目 1/14 1368 追悼 1/19
1354 衰退国 1/4 1359 世代間伝達 1/9 1364 風流 1/15 1369 魂の平安 1/20
1355 老いの美学 1/5 1360 千思万考 1/11 1365 暗雲 1/16 1370 内緒話 1/21

1351:謹賀新年

2010年、明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
 新しい年を迎えるにあたり、私なりの今年にかける決意を述べることにしましょう。
 還暦を迎えました。1950年生まれが一番多いそうで、今、少子化がどんどん進み、同じ寅年生まれの子供の数が70万人以上少なくなっている。これは私の年代の総人数203万人(現在)の約2/3にまで減少したことになる。
 私の生き方に変化はない。ただ敢えて言えば”大いなるもの”に身を委ね生を全うしたいという思いが強まった。
一人の生命の尊さ、一人の力の限界、一人の願いの偉大さ・・・・それと同じく、多数の多数ゆえの難しさ、その質と重みの多様性。
 内からの視点と外からの視点、このバランスが一方に偏してはいけない。他からの評価に一喜一憂する愚かさ、良い結果を早く求め過ぎてどうなる?阿吽の呼吸など願って適うことではない。時間があって相手がいることだもの。
 昨夜の3回目の除夜の鐘、午後からの冷たい風が予報に反して夕刻にはパタリと止んだ。雲一つなく、見事な満月に照らされ、無事大晦日の恒例行事を終えることができた。
 過去の事は、経験として尊ぶことはできても、いつまでもそれに拘ることは許されない。大海原で繰り返す波は、暴風によって荒れ狂う高波となって浜に打ち寄せる。人生も当にその自然の営みと同じではないか。海が凪の状態では漁にならない。魚にとっても決して快適な環境では無い。台風によって海が大荒れの時は、安全な場所に移動しじっと嵐の去るのを待つ。
 海水がかき混ざることで、酸素がいきわたり、プランクトンの成長に役立っている。これが無ければ死の海となって魚の住む海ではなくなるのだ。
 人間の一生も実は全く同じ原理、人間は智恵を持っている。考えるという行為は、どうも自分の都合の良いように働く。生老病死を挙げるまでもなく、人間は老や病を忌み嫌ってきた。しかし、日本の実状は、高齢化と医療費増、この流れは変わりようが無い。忌み嫌うことが増えれば、自ずと世を儚み、自分さえ良ければ良いと短絡的に考えるものが増える。
 しかし、”死”というものは、いくら避けて通ろうとした所で許されるものではない。
 森の再生のメカニズムは老木が倒れ、その栄養を吸って、若木が育つことで成り立っている。これと同様に人間の一生を考えてみたらどうなるか。
 先人の生きた証を見つめながら、自らの生を全うする。これしか次の世代に引き継ぐ生き方はできないのではないでしょうか。
 日本が直面している経済不況の下で働くという行為が、単に生活の糧を得る目的だけでなくこの世に生まれてきた証として誰もが確信できるものとなるべきなのです。
 福祉の対象がややもすると社会的弱者に偏向しがちであるが、決してそうではない。例外なしに誰もが現世での福祉(幸せ)を渇望することは至極当然である。
 新年にあたり、更に深くその辺の立つ位置を実践を通じ検証してみたいと考えている。「H22.1.1元旦」
 

1352:年頭所感2

前項では、小難しい言い回しになってしまった。一体何を言いたいのだろうか、自分で読み返し考えてしまった。現場から暫く離れてしまったから、理屈ポイ、そんなことじゃーないだろう!!自らを叱咤した。
年頭だから仕方が無い、気持ちを相当入れ込んだから、こうなってしまった。
 そこで追加説明をさせていただこうかな。”福祉”(幸せ)を願う気持ちは例外なしと言った真意は、平和(海で言えば凪状態)時には誰もが気にしないこと、当たり前くらいに捉えていますでしょう。それがホレ、何か困った状況になると一変、早くこの常態から抜けだしたくなる。だから、幸せを身近に感じるかどうかという事かなと思う。
 元旦の新聞は部厚いね。あれは殆どが資源の無駄じゃーないでしょうかね。そのままポイですね。
 でも世界のニュースを見ると依然として不穏な状況が止みません。中東の紛争地域、アフガニスタンやパキスタン、それにイラクやイランなど、テロが頻発しています。それも殆どが自爆テロです。自らの命を投げ出して殺戮行為をする。
 この真意は日本人には分かりかねます。ジハードという言葉が独り歩きしています。昨年だった。アフガニスタンから大勢の見学者を受け入れたことが有りました。その時の皆さんの表情が今思うと、何か深い悲しみを持っているように感じました。彼らは特別支援教育の専門家達でした。でも、自国の状況は、それ以前の問題が大き過ぎるのです。
 人の判断は、何と比較して行うのでしょうか? 否、何処に視点を合わせるかと言うべきですね。
こんな俚諺があります。「花に百日の紅なく、人に千日の好なし」
 つまり、有頂天になったり、落ち込むことを戒めている。良い時が続かないのが普通だからそんなに悲観なさるなというのです。
でも、今の日本の状況は達観はしていられない現実がありますね。自ら痛みを感じて言うのならまだしも、自分の事は安全地帯に置いて、外向けに立派なことを仰る方が目立ちますから。政治家に言いたいこと沢山ありますが、今年は少し控えようかと思いまして、でも注視していきますよ。皆さんも是非そうしましょう。
 前項で触れた「大いなるもの」に委ねるという意味ですが、これは坊さんとしては当然なのであります。それが無ければ無免許運転ですから。でも、忘れちゃうのですよ。日頃、ああだこうだ、誰が滑った転んだが多過ぎるもんでして。
 正月ぐらいは真面目に経本を読まないといけません。
『真言安心章』というものがありまして、それを何気なく読んでいました。短い文章なのですが、今までは流し読みだった所に目が止まっっちゃいました。
・・・思うに、世法・佛法の二諦は、その基づくところ二つなきが故に、われら自ら心身を清浄にして、誠に日常の業務に注がん。・・・・・総べての業務は、悉くみな佛作佛業なり。・・・・という文章。
 フンフンそうだったか、今更可笑しいと言われても正直、今分かったのですよ。
 インフルエンザ・ノロ・・・壁壊し・トイレのつまり・・職場のトラブル・・・それから??? 全て佛作佛業なのだ。
 そうなのだ。 そして今年は実践を通じ自らの立つ位置を探し求めるのであります。以上。
再説明として)
 私のマニフェスト・・今年は永田町や霞が関に文句は言いません・・・
  これ守れませんから、年頭所感パート3.
 

1353:さーてと

さーて ヨッコイショ。今日は冬帰省からメンバー達が帰ってきます。束の間の静けさも終わり、いつもの賑わいを見せるわけでありんす。昨日、ドイツの横井氏から長電話がありました。時間差をスムーズな会話、今の電話は凄いんですね。どうやって通信しているんだか、その辺は良く存知ません。外国生活が長くなると日本が懐かしくなるのでしょう。その思いが良く伝わってきました。 今日本で騒がれている問題がちょっと違うのではないのかという話をしていました。子供手当の問題や義務教育授業料の無料化などドイツは日本に先んじて実施しています。消費税に関しては、物によって税率は違うようですが、平均すると19%、これはユーロー圏では決して高くないというのです。日本は5%でしたね。彼が私に注文したことがありました。もっと日本の”家族”についてレポートしてくれというのです。パートナーとか家族の繋がりを大切にするお国柄なのでしょうか。どうも日本人は家族の事を公にするのは苦手です。4月頃、家族3人で日本に滞在したいという、手ごろな貸家が無いかと聞かれた。
 確かヨーロッパの中でドイツやイタリアは日本人にとって親しみがある国です。先の戦争で同盟を組んだということが大きいかもしれません。ただ、戦後復興の歴史をみると日本とは大分違った歩みをしてきています。特にドイツは戦後すぐに東西ドイツに分断され、その後長い間対立があり、ベルリンの壁の崩壊を期に着実な発展を見せてきました。社会保障の仕組みが隅々に行届いているように思えます。老後の安心が果たして日本にはあるのでしょうか?同じ戦後復興を成し得た日本です。
 これはとても大きな問題です。依然として福祉現場の人手不足は続いています。より深刻なのは福祉養成校への学生が集まらない。軒並み定員割れ、その解決の糸口が見いだせない。
 政権が変わり、本当にコンクリートから人への政策転換が進むのでありましょうか?事業仕分けなど新たな手法を取り入れ華々しくスタートしたわけですが、これにマスコミものった。しかし、私にはどうしても腑に落ちないことがあります。癒着を防ぐということらしいのですが、陳情の窓口を幹事長室に限ったことです。あれでどうやって透明性を示すのでしょうか?事業仕分け作業との整合性は見えにくくなったように思える。
 するとまだ始まったばかりだからという。ウーン??
 政治の仕組みを変えることは大変でしょう。でも、何かモヤモヤ感が残ります。私がもっとも庶民の目線で改革をしようとしている自治体の首長を挙げれば名古屋市の河村市長が一番分かり易い。彼のやろうとしている事は一貫性を感じます。国会に席を置いた時だって彼は豪華な議員宿舎には入らなかった。今回の市長給与の減額、驚きですね。市長自らが痛みを感じなければ動きません。
 そうだ、日本人にとって家族とは?正直に言って私は分からない。どうも引いてみる癖があります。自分自身の事というよりも、ちょと違います。今年の正月もそうでした。毎日、施設に顔を出しました。すると家に帰れないメンバーさんが一斉に私を見るのです。これって先入観だけではないでしょう。透き通った冷めた視線を感じるのです。これは、一体どういうことなのか?理由は分かっているのです。でもどうして良いのか分からない。
 家族と常に一緒にいる関係は難しい、せめて正月位は・・・・・という思いがある。実態は理屈抜きの不条理があります。 国の進める福祉の方向性に異議あり。「ありのままに生きる」とは一体、何をもって有りの儘というのでしょうか?総花的で分かりにくい表現です。
 入所歴30年、家族との交流が殆ど持てない人にとって、有りのままに生きるとはどんな事でしょうか?
 上手く表現できませんが、今の日本は福祉が目立つ国になり過ぎたと思うのです。これがコンクリートの福祉というものでしょうか、建物や設備にお金をかけ過ぎませんか。中身にかけるべきところ、外見をつくろうのにどんどん金をかける。
 地方に行くと直ぐに分かります。のどかな田園風景の中に場違いな立派な施設、その殆どが福祉や公共の建物ではないでしょうか?
 この辺の見直しは、新政権に期待して良いのでしょうか?思い切った舵切りが必要になっているのではないでしょうかね。社会安穏なるを密厳国土というそうですよ。

1354:衰退国

今日から仕事始め、前途多難を匂わすニュースばかり、鳩山総理も正念場、指導力を問われ、様々な課題に立ち向かう。寝正月は実現せず、派遣村を急遽訪問、入居者と直に話しを聞いた。
 一方、もう一人の主役の小沢さんは自宅にて新年会、議員を集め過ぎて2部構成、自信漲りやる気満々、これが恩師と仰ぐ田中先生の手法の踏襲なのか出る話は次期参議院選挙での過半数獲得、正直、何か違和感を感じた。
 こんな事ばかり書いているから、正月早々、『評論家になり過ぎるな!』との苦言を受けた、これは正直、心臓にざくりときた。
 やればやる程、言えば言う程、今の世の中では毛嫌いされる。どうしてこんな風になっちゃたのか?
西欧では、日本は衰退国に入ると噂されているとか。デフレスパイラル、見えない内需経済政策、雇用不安・・・少子高齢化、・・・等の課題にどう対処するか。舵取り如何では衰退国に向かう分岐点が今年だという。
 破竹の勢いで経済発展をしてきた日本は、遠い昔の話、私も含め、働き盛りの30歳〜60歳に実は経済下降の経験がない。常に新たな目標を上に突き進んできた連中だ。
 その子供達はどうかと観れば、これが又不安ときた・・・・。
 不安が蔓延する世相は良くない。何か光るものを見出さないと、いつまで待っていても変わらないでしょう。
 今年の年賀状にこんな事が書かれてあった。旅行業を行っている方からのもの。(正月最初の新聞を見ていて驚いた。
なんと4面全てが某旅行会社のものだった。)海外旅行が2万円台から3泊4日、ずらーと並んでいる。航空運賃やホテル代も含まれている。これでどうやってやっていけるのだろう?
 その年賀状には、我々旅行代理店は嘗ての常識が通じない。不況の中で会社の存続もままならず、危機である。
 逆に今がチャンスと敢えて考え、新たなビジネスモデルを作りたい・・・・・・正直、これを読んで、その家族の人達の顔が浮かんだ。
 年間で一括して座席を押さえてしまう大手旅行会社と競う枠はどんどん狭まっている。ユニクロの繁栄は、当に先を見込んだ戦略が功を奏した。低価格時代に乗り遅れないために、同じ手法で真似ても息切れする。
 経済成長時代ならば、真似をしてでもどうにか成り立った。それがここにきて、真似すればするだけリスクが増える。
新たなビジネスモデルを創生することは、大変な事である。
 むしろ福祉業界や教育事業は国の規制で守られてきた。公益法人の在り方検討も随分長く行われてきた。規制を緩めた処から、様々な事業主体が参入し、いま乱立の様相だ。公益法人は既得権の死守に躍起になっている。
 教育事業でいま一番元気があるのは学習塾、我が町土浦で閑散となった駅前通り、人気を感じるのは熟の周辺だけ、
この業界の生き残りの戦いは熾烈である。人気ある講師のヘッドハンテングや受験まじかの個人指導などエスカレートの一途。
 福祉の業界も同じだ、介護事業にビジネスチャンスを求めた多種多様な人達、医療を抱き込んだ熾烈な攻防が続く。
 そこで新たな問題が出ている。力以上の投資をして、資金回収ができず、途中で放り出すものが増えている。また、生保など公的資金をあてにした新たな事業を展開するものも登場する。
 なんでも在りの様相が出ている。
 ぶれない経営、これは私の拘り、様々な誘惑がありますが、聞く耳持たず、只管、知的に障害のある人達との関わりに特化する。その理由は、彼らこそ本来の人間としての尊厳を感じさせてくれるからで、ここで倒れても決して悔いはないということだ。

1355:老いの美学

ウインフィル・ニューイヤー・コンサートはクラッシクファンにとって新年の幕開けには欠かせぬイベント、2010年は指揮をJ・プレードル氏が行った、彼はなんと85歳、それも暗譜で棒を振った。団員によると彼の指揮は非常に演奏しやすいという、何故か専門的なことは分からない。テレビで映されたコンサートの様子から観客と演奏者が一体になっている事は素人目にも分かった。
 『老い』という事を今年のテーマにした。それは尚恵学園のメンバーの実態が足踏み立ち往生を許してくれないからだ。成人寮男子は平均51歳を超えた。なんで50歳位で老い対策?と思う方もいるだろう。しかし、知的障害者の場合は、どうも年齢にあまり関係ない。体力(五感)の衰えが早く、疾病に対する抵抗力も弱くなる。それに多くのメンバーに持病があり、健康管理に細心の注意が必要だ。
 それだけでない、本人が年を取るごとに家族の介護力が弱まる。親も当然高齢になり、自分の事で精一杯ということに。もう既に両親がいない方も多い。
 家族会と職員の合同の研修会を毎年行っている。今年は神奈川県のさがみ野ホームの佐竹園長を講師にお呼びした。
さがみ野ホームは雑誌サポートで紹介された歴史の有る施設、なんと入所者56名の平均年齢が72歳、最高齢者は90歳という。尚恵の比ではない。家庭帰省出来る方が全体で5名という。ウーム。どうやって過ごしているのだろう?健康管理・日課・施設設備などなど質問することが次から次に浮かんでくる。もし、講演を聞いてみたい方がいたらどうぞいらっしゃい。(研修日程
 人間が老いを迎えることに対しどうもマイナスのイメージが強い。果たしてこれでよいのですかね。障害者自立支援法と同じく評判が悪かった、「後期高齢者医療制度」、随分様々な不平不満が言われましたよ。現政権は廃止という。
 でも可笑しな国ですよ。少なくとも国の為に汗水流し働いたお年寄りを姥捨て山に送る使い捨て感覚、もし自分がその立場になった時どうなりますか?それを決めた人達の責任はウヤモヤ、今頃知らん顔してるんじゃないの。
 老いの美学と老後の安心は対のものです。それじゃ何をもってそれが成しうるのでしょうか?
先に紹介したプレードル氏、彼の経歴を調べますと凄い。彼の人生は”音楽”と切り離すことはできない。ライフワークとして積み上げた実績これはご本人の努力と才能あって可能な事、それが年齢と絡み合って演奏家と観衆を魅了する。職業として芸術家や作家などに年齢に関係なく光を放ち続ける人が多いようだ。*ちょっと違いますが、宗教家(坊さん)も仲間に入れてもらえるかな?平家物語に「解脱幢相の法衣をぬぎ捨て・・・」という境地のお立場。
 それに対して政治家、これはいただけませんな。老害だ。先の選挙で落選したら、今度は参議院に鞍替えして党の推薦を得ようと画策する人がいるとかいないとか。これなど問題外でしょう。私はそう思うよ。引き際は潔くせんといけません。若い人がやる気無くなるでしょうが。政治家で老いの美学を感じる方???
 こんな事ばっかり言っているから私は駄目なんでしょうよ。ほなら、お前の美学を言ってみなんしゃれ”
 全国方言ごちゃまぜですんませんな。
 言いましょう。私の目指す老いの美学とは・・・・・。
  ボロ衣を身にまとい、童を友とし、日の暮れるのも忘れ、???
    一汁一菜を食とし、仏の前に坐して 万民の平等利益を念ずる???
       という初夢を見たのでありました。今年も生臭を極めて参る所存でございます。
 

1356:ビジネスモデル(New)

新年早々、また病気が始まった! どのように思われても屁の河童。腰に温シップ、両肩にインドロメタシンを貼って、朝は前屈姿勢で・・・それでも頭の中は冴え渡る。弱った機能を人間はカバーしあう、相互補完力がありますから大丈夫。午後になると、これが逆になり、頭はボンヤリ、体はシャキット。だから、徘徊を始めるのです。
 ま、良いか。昨日は水戸まで新年挨拶まわり、県庁に行けば、皆さん蟻の行進、あっちこっちでぺこぺこ頭下げ、入ったと思ったら出てきたり、面白い。私もその流れに逆らう事なく行進してきました。
 「経営の未来」ゲイリー・ハメル著なるものを夜、読み始めたものだから、これが睡眠導入剤、コロッと眠ってしまう。
{マネージメントをイノベーションせよ}という副題が付く。ボトム主義経営?グーグルやホールフーズなど勝ち続ける超優良企業は、現場が考え、決断し、責任を取っている。・・・
 ここだけ読んで即買ってしまった。
 新たなビジネス形体って何だろう?果たして福祉にあるかな?
 周りを見回すと、どうも似たりよったりの事をしている。仕方が無いという正直な思いではあるが、これで先行き持つのだろうか?
 計画策定・組織作り・指揮・調整・管理というモデルは、1世紀にわたって蓄積されてきた経営理論。そこをどう変えようとするのだろう?
 私の身近な事例で、葬儀屋さんをみてみよう。彼らの攻めの経営は、先ずどこでお客をゲットするか。ここで8割がた勝負が決まる。病院、それも短時間に決まる。(死亡の知らせから遺体搬送まで)その後の流れは粗同じである。
 仏具販売の例として、製品カタログの送付、これには格差があって、部厚い本形式のも有れば、一枚ぺらの案内もある。経費のかけ具合で商品の値段に影響は当然出てくる。しかし、製造元は、調べて行くと同じ工場で作っていたりする。これホント。
 更に石屋さん、こればっかりは見本を送ることはできない。そこで大体の店は、道路わきに見本展示場を持っている。
これが値段があって無いような世界、どこどこの産ですからと説明されても煮て食してみることもできず、納得するしかありません。しかし、製造元は中国が殆ど。日本の石屋さんの仕事は組み立てだけ。
 日本は、どういうわけか新たな企業を起こすには適していない。むしろ真似する事に関しては一流であります。
 そこで、グーグルという企業、PCをいじった事が有る人ならば誰だって知っているでしょう。様々な検索機能を売りにしています。それも利用する側は無料ときた。この発想は上の経営理論にはない。最初何故グーグルが経営が成り立つのか分からなかった。新たな広告業とでもいいますか。いまその手法を真似た新たな会社も出てきているようですが、グーグルは他の追随を許さない。
 これだって、衰退する宿命を持っているかもしれない。しかし、利害関係者の要求をうまくバランスをとっていけば、ここまで成長した企業は簡単につぶれまい。”利害関係者”=”お客様”ということだ。実はCEOなど経営トップがいくら能力があってもだめだ。現場が考え、決断し、責任を取る。これしか方法はない。
 分かったよ、だがどうだろう?日本の介護や福祉現場の実態は、それだけの能力と責任があるでしょうか? 蟻の行進ではないが、決まった処を一糸乱れず歩き続ける、こんな業務の実態がないだろうか。マニュアル漬けの実態が。
 仕事の魅力と大いに関係するではないか。
 実はなんでもそうだが、言うは易し。現場の声を如何に吸い上げるかがトップにとって最大の難問、ゴマスリや誤魔化しを見破る能力はどのような経営書を読んでも書いてはいない。
 それを身につけるには、常に進化し続けようとする体力と熱意が条件となり、目的によって結ばれた人的環境、実践を通して掴み取る新たな原理、そこに皆がロマンを感じられるかいなか。
 これこそがイノベーションたりうる、我々が理想とする姿ではないだろうかと思いますよ。

1357:遠メガネ

ああ・・やだやだ!まったく またかよ・・・・(独り言)
藤井さん、辞めるんかい? もう少し頑張りなよ。多分、プッツンしたんでしょう。本当の事情は知りませんが、私は藤井さんの肩を持ちます。元大蔵官僚で財務大臣就任、新政権で一番貧乏くじを引いた方でしょう。だって何度も大臣就任を固辞したというじゃありませんか。そこをなんとか頼む。総理に頼まれちゃー一肌脱ぐしかあんめーな。77歳にもなって一生懸命やったんだよね。それが某会合で偉い方が一言、それでコロリと”チェンジ”でしょう。プッツンですよ。もう新年になったんだから、小手先でやっても駄目だ。小沢さんが総理になってですね。やるだけやってみたら、後ろでコチョコチョ動きなさんな。俺はそう思う。いまこそ表舞台でのお手並み拝見だ。国民はそれだけの度量は持っています。これが”多くの国民の総意”であります。
 それで出来なければ潔く引退して欲しい。私は正直、現政権を応援しています。でも、このままいくとどうですか、立党精神にズレが生じませんか?もの言えぬ輩ばっかしの政党なんか魅力ない。
これを遠メガネ的クリテシズムと言います。
 ここにきて株価が上昇してきました。でも生活実態は以前より悪化していませんか?完全失業率だって発表数字以上ですよ。混沌として先が読めない。新たに採用して良いものかどうか、大いに迷っています。株価が上がったのは、政府の行った緊急対策の金がやっと株に廻ってきたという感じ、だって預金だけしていても仕様がないし、銀行だって利ザヤが取れない。そこで様子みながら小出しに株買い・・・。日本の株式市場にどれだけの外資が入っているのか、円は世界通貨の中で健全だし、、、、日本の株価、MAXで3万8千円の時があったんですね。今、やっと1万700円だから7割減ったということ。これじゃー。
 私は株はやりません。ヒザかぶは持っていますが、最近、走ると痛くて困ったもんだ。
 世の中はいつの時代も合格点はいただけない。損する者がいるから得する。得するものがいるから損する。これが常。
 情報や通信手段がここまで進んでしまうと、地球上どこにいても瞬時に情報を得ることができる。科学や技術の進歩速度に人間様の頭が付いていけない。だから目詰まりや消化不良を起こしてしまう。さらに先の事は誰も分からないのに、いかにもこうなると予防線をはる専門家集団。彼らの研究対象は、一方に偏している。その大半が前向きな希望が持てる分野では無くして、我々凡人にとって不安を煽るものがおおい。社会保障というものは、現実を無視していくら将来の事を考えても駄目なのです。
 少子化、それでどうなの?大声で叫ぶと子供が生まれるの?高齢化、ならばどうするの?大声で訴えるとお年寄りが丁度いい塩梅にいなくなります?いても良いじゃない、でもバランス感覚がずれている。お年寄りにお金をかけ過ぎています。私は本心からそう思うのだ。もっとその分を子供や働き手にかけるべき、老人医療の分野で徐々に広がりを見せていることって分かりますか?
 ”地域内完結”、地域を病棟と考えるシステムですよ。何故、介護施設はあんなに立派な建物が必要なの?
 街にはマンションやアパートの空き室ばっかり、それに最近は住人のいない一戸住宅、これこそ無駄ではないでしょうか? 野菜だってそうだわな、収穫せずに破棄される物が一向に減りません。だれの物か分からない放置自転車、人気のない場所での真っ光な街灯、
 私一つ提案があります。無駄を極力省いてモデル地区を作ってみたらいかがでしょうか。もっと具体的に言いますと、ブータン国的地方自治体モデル事業。勿論国庫補助。そのほうが学者を集めて会議(○○審議会等)を開くより、答えは出ます。
 土浦は一先に申し込むべきですよ、市長。だって駅前通り、シャッターが開いていませんもの。やればできませんか?
まず、市長の給与半分、議員数半分、減った分、自ら働いてお金を稼ぐ。議員さん達は時間が有りますから。香典届けは誰かに頼めば良いわけですよ。あの大都市の名古屋がやろうとしているんだから、土浦の人口規模なら、もっとやり易いと思うんですよ。
 これは遠メガネ的楽観主義といいまして、発想の転換には効果があると言いますよ。事業仕分けで一先に削られるかも。
 私坊さんやっています。寺が活気が出る方法が分かりました。それは”お布施いくらでも構いません”という看板1枚でOK.しかし、これはリスクがあります。様々なパッシング、改革には痛みが伴うということであります。
グッドラック。これはお釈迦様への原点回帰。宗教界もイノベーションだ!  ああ 疲れる。

1358:新年会

各地で賀詞交歓会が行われています。私もいくつかの会合に出ることにしていますが、実際は名刺交換などは形式で出席した顔ぶれの様子伺いという感じでしょうか。例年、同じ会場において連続で行われるものがあります。ああ、こういうものかという思いです。政権が変わった。新年会に出席する政治家の顔ぶれも変わります。挨拶の順序も変わる。
 いずれにしたって、挨拶で特別変わった話は聞けませんから、お決まりのオープニングセレモニーです。
 細やかですが、私のところでも4回程部署ごとに新年会を行うのですが、こっちのほうが楽しい。皆さん、正装してホテルで実施、今のところ健康で落ち着いていますから出来そうですね。
 また、冬帰省から帰ってこないメンバーもいます。ずーと帰ってこないかも?それもまた良いでしょう。
 今朝の新聞に障害者自立支援法絡みの訴訟で原告と被告の国が合意したという記事がありました。国が「障害者の尊厳を深く傷つけた」との反省を表明したという。何か虚しさを感じます。一体、ここ数年に起こった事はなんだったのか!
 新政権は平成13年8月までに遅くとも新たな制度を立ち上げると言っています。その策定推進本部長に鳩山総理を据え、障害者本人の委員の数を増やし検討を始めるようです。正直、どうなることやら関心はあります。なにせ尚恵学園も平成22年度に新体系に移行を考え、その準備を進めています。考えようでは線路が途中で切れているのが分かっていて、一生懸命石炭をくべ、機関車を走らせている思いです。
 マスコミ報道も国会審議を目前に控え、政党領袖の政治資金の解明を急き立てる。どうのこうの、また、総理の首を据え変えれば事が済むのでしょうか?世界から笑いモノになります。
 いま、政治や行政に関わる人達、それにもっとも目を覚まさなければならない国民一人一人が、何を優先に手を打つべきなのか、真剣に考える時でしょう。一人勝ちした民主党が美酒に酔っているとは思いませんが、世界の流れは確実に変わっています。日本の立つ位置を原点に戻すべきです。内政、外交、防衛、・・・経済の有り方、それと国の豊かさとはどんな姿かを真剣に討論すべきチャンスです。それで政党再編があっても良いでしょう。そうあるべきです。
 誰かが言っていました。今の政権に何を期待するかと言えば、唯一、政権交代できる国の政治仕組みを作ってもらいたいと。国民同意というものは、果たして何によって測ることなのでしょう。選挙に圧倒的大差で勝ったという事は、正常な形ではありません。片方がだらしがないから投票する処が無かったというのが正直な国民感情です。唯一、すがったのは担保無き”期待感”でした。そこを取り違えていませんかと?
 理想とする政治の形や官僚の有り方を論ずるに、先ずやるべきことは実態を白日の下にさらすこと。そして国民の判断をあおぐ。次にどんな形が良いか?議員の数や公務員制度の改革など、そこから始まるべきなのです。確かに55年体制の垢を落とすには時間が必要だと思います、ただ、全てが駄目だったわけではない。それに対する是非論は別にしても、戦後の復興を成し遂げ、今の日本の姿にした功績は認めます。でも、自分達がやったという”奢り”がなかったか?そうじゃーないでしょう。勤勉な国民の努力があって為し得た結果なのです。そこに錯覚が生まれた。歴史を紐解くまでもない。権力の座に付いたものが脆くも潰れる最大の原因は、苦言を呈する者を排することから始まる。物事には表と裏があります。これは本来、優越を付けるようなものではありません。どちらにも真意があるということだったはずだ。それが政治の世界に関わると、清濁併せのむとかいう言い回しで、裏を得体知れずの良からぬ工作というイメージが強まってしまった。そうじゃない。裏も堂々と白日の下にさらすべきものなのだ。そのように私は思う。豊かさ強さが表に出過ぎると、その陰の部分が見えなくなる。本来、陰の部分にこそ大切なものがあり、力の源泉なのだから。
*(例)
 どのような制度を作っても、本人達の心底からの『笑顔』に勝るものは無し。

1359:世代間伝達

”世代間伝達”という言葉を聞いたことがありますか?
 幼児期に親から虐待を受けた子供は、やがて自分が親になった時に我が子に暴力を振るうようになっているケースが多いということを言います。今の日本にこの傾向が増えているという。教育の問題以前の事で、親子関係が何かおかしな方向に進んでいることへの警鐘、現実は相当悲惨な状況があるようです。
 福祉の仕事を長くやっていると逆にその感覚が麻痺してしまいます。一体何が正常で何が異常か?あまり新年から憂鬱な話題は出したくないのですが、目を瞑ることではないと考えます。柳田邦男さんが書いています。
「当世の日本人の自己主張の異常さには、驚かされる。」と言って幾つかの例を挙げている。小学校で石を投げて窓ガラスを割った子供を教師が叱ったら、親が校庭に石ころを置くのが悪いと怒った。怪我した子供を近くの外科に連れていった教師が「なんでヤブ医者に連れて行った」と怒られた。新築をするときに隣の住人が「私の家では来客があると窓を開けて気持ち良く過ごすので、此方側に窓をつけないでくれ」と求められた・・・・・云々。
 これが全てとは思わない。しかし、これに類した経験を私もしている。日本人の権利の主張が歯止めが効かない状態になっていないか?
 一体どうしてこうなってしまったのでしょうか?
 一言で言い表すことはできません。でも何となく誰しもが気付いてきています。日本だけの問題ならそれでも良いのかも?しかし、どうですか?対外的な関係では? 私は度が過ぎた販売戦略にも原因があると思うな!
最近そのシッペ返しを受けているんじゃーないでしょうかね。今の日本が本当にできる国際貢献ってなんだ?昔から「損して元とれ」というビジネスの教え?がありました。いつの間にか自分達の利益が最優先してしまったんです。そしてそのバランス感覚だけが残った、・・・。次の世代を引き継ぐ若者が、もしも柳田が指摘するような実態があるとすれば由々しき事態でしょう。
 視野狭窄の私の考えでありますが、お隣の韓国には徴兵制度があります。これは日本では無理な話、取り入れては絶対にいけません。そこまで馬鹿な政治家はいないと思う。
 だけど、今のままではどうしようもないと思うのです。ならば何があるか?
 教育制度改革で社会人になる前に最低1年間、医療や介護、福祉の現場実習を義務付けるということはどうでしょうか。多分今のままでいくと、小学生頃から子供達は塾通いで忙しい、自由時間は携帯かゲームでしょう。確かに知識を学ぶ道筋はできていますが、”智恵”を学ぶ場がない。このアンバランスが問題だと思うのです。
 国として無理ならば茨城県が県の条例?で決めてはどうでしょう。多分そこまで一歩踏み出すには抵抗が強くあるでしょう。でも考えようです。知事さんには申し訳ないのですが、我が茨城は決して医療・教育・福祉の分野で誇れる県ではないのです。
 ならば一つのアイデアとしていかがでしょう。県内の事業所は喜んで協力すると思います。
 現状では、似たような試みはありますが、1日ぐらい施設に来てもらってもどうってことない。最低1年が必要。
 そうすれば、福祉離れの若者が何か見つけ出すと思うのです。
世代間伝達という事象は、昔からあったことです。でも優しさがありました。それは”躾”という言葉。ですから、最終的に子供は親に感謝の気持ちを持つことができたのです。いま、それが怨念という恐ろしい感情が強過ぎます。
 国のリーダーが範を示すことは当然であります。高い学歴や家庭が裕福ということではない”こころ”をもう一度取り戻す取り組みが必要な時です。
 野菜を作るのに今まで荒廃していた畑に即効性のある化学肥料だけで農業をやるような事をいくらやっても駄目です。腐葉土から時間をかけて土壌を先ず作物の生育に適したものに変える努力。これだっぺー。

1360:千思万考

・・・”千思万考 審念熟慮して 屈托してみたが、詮ずる所は旧の木阿弥”「二葉亭四迷『浮雲』」
いろいろと考えた結果、実はこうだったという事は良く起こりうることである。「千」とか「万」という字は量の多さを示す。
しかし、唖然としたことがあった。国の借金総額840000000000000円(840兆円)なんと0が13個もある。これが一体どれくらいの量なのか、1万円札を縦に並べると実にこの地球を340周以上廻ることになる。
 皆さん自分の財布を見て下さい。何枚入っていますか?土浦から大阪位まで並べることができる人はザラにいません。
いたらお目にかかりたい。五体投地し、拝んじゃうから。
 実はこれだけでは無いのです。県や市町村も借金が膨大になっています。自称経済のご意見番とかいう先生が日本は外国からの借金はしていないから健全だと。
 これ何いってるの?借金に色があるのでしょうか、借金は借金だ。
 この実態を国民一人一人がどう捉えるか?ここを問われているのです。
 そこで与野党の先生方はお互いを貶し合ってばかり、責任を感じているとは思えないのです。これが実態です。この借金を子供たちに残そうと私達はしているのです。ここを良く考えないと。
 私は思いますよ。或る方が言っていましたね。「俺は憎まれ役」を演じている・・・云々と。それ本心?思うようにいかないからそう言っているのではないでしょうか。
 歴史上の人物で私は自らそう言って本当に憎まれ役に徹した人を知らない。
 むしろ、表舞台に出ず、ひっそりと自らの信念で生きた人のほうが、その辺は一貫している。政治とカネは透明にしなければと言いながら自らの事は不透明。自由な討議ができることが理想だと言った本人が目くじらたてて部下の言論統制。
 ああ、当に阿鼻地獄の様相だ、
 もしも2大政党を望むのであれば貴方達は自らの意思で理屈なしで自らの立つ位置を選択できますかと言いたい。
また例の病気が始まったと言われても構わない。
千思万考、妙案は浮かばない。
 我々は借金を返す責任もあるが、それと同時にメザシ1品で空腹を満たす覚悟も必要だ。これだけ格差が生じた世の中は一人勝ちは許されない。企業だってそうだ。社会貢献とかなんとかいっても実態はどうだ。
 環境破壊で自然が人間に懲罰を課す前にこの日本が内部から崩壊するのではないでしょうか!
 私達一人一人ができること、それは何でしょう?
 もうすぐ始まる国会審議、私はここである視座をもって見てみようと思う。多分、野党は領袖のカネ絡みの追求をするだろう。与党は不況対策が最優先だから予算を早く通すべきだという論陣を張るだろう。
 ここで有権者の我々は冷静な目でみるべきだ。審議中の生中継、さすが今回は居眠り議員はいないと思うのだが、ヘラヘラ談笑している議員がいたら、もう駄目だ。彼らに危機意識がない。バッジを付けてしまうと殆どの議員はそれを守ることに必死になる、そして、それ以外に関しては気が緩む。笑いを得ようとするようなヤジ合戦の出所は、その辺の低レベルな感覚から起こる。
 そこを見ておくべきだ。いつだってそうだ、彼らは、もし駄目だった時の理由をちゃんと用意している。政権をとってまだ3カ月という理屈は全くの愚陋だ。貴方は一体何年バッジを付けてきたのか、1年生議員でもあるまいし、・・・・・
 それと、もしそれが駄目な時は、私は特別ルールを提案する。
 有権者の何割の票を得たものでなければ議員になれないルールだ。投票率が低い地域は、これこそ自己責任のルールで議席はなくなる。そうすれば自ずと議員の数は減る。その中で、議論をして今の危機にあたるべき。数の論理では絶対に解決しない。そして曖昧な地方分権のイメージがはっきりするではないか。
 一つの具体的な例をあげてみます。
 現与党は障害者問題を「医療モデル」から「社会モデル」という国連基準に合わせるというシフトチェンジを考えているようだ。これは一歩前進、だが果たしてそれで済みますか!
 障害者の人権を守るということで、重度の知的障害を有する人達の選挙権をどう考えるのですか?
 尚恵学園は今まで選挙を棄権したことはない。結果は白票が殆どでした。その行為をどう考えるか、多分明確な回答は貰えないと思いますよ。
 

1361:借金の実態

借金時計というものを聞いたことがありますか?
 国や都道府県の借金を時間の経過と共に利息の増減をリアルタイムで表すのです。一度覗かれると驚きです。お宅のPCで「借金時計」で検索すれば直ぐに出てきます。
 なんとなんと財務省が報道発表した平成21年9月末現在で国の借金合計が864兆円、国民一人当たりの借金額が
677万円に増えた。この金額を聞いてもポケーンですよね。
 1万円札ってどのくらいの大きさか分かります?76×160ミリなんです。縦に並べると私も暇なんですね、地球を1周すると赤道周辺との誤差は多少ありますが、約4万キロです。これを割るんですよ。するとこれも大まかですが1周するには約2兆4千億円の1万円札が並ぶわけ、すると借金合計をまた割ると約360周お札が並ぶんです。へーお・ど・ろ・い・た。
 それだけじゃないんですね。暇なついでに茨城県の借金、1兆7258億円(県発表)県民一人当たり約59万円、さらになんと土浦市の平成20年度での借金残高が多少減りましたが815億円、市民一人当たり約58万円
 えーと足し算???一人の借金がトータルで794万円。想像できますか。
これをどうすれば良いか?ここが肝心でしょう。それと誰の責任か?もうここまできては分かりません。結局、借金だけが残った。
 ここからは真面目にとらないで下さい。住田流経済原論であります。
借金には貸し手があるわけ、これが日本の場合は幸か不幸か、外国からの借金は少ない、大半が国内から調達しているというのです。借り手が最終的には国民が背負うという原則と、貸し手が国内の誰かということになりますとね、借金棒引きでシャンシャンシャーンと手打ちとなりませんか。
 これじゃたまらん!裁判で決着だと粋がってもですよ、何しろこの天文学的なお金のことですから、判決が下りるまで何十年かかるか? そのうち大半の人があの世に逝ってしまいますって。
 だが、これがそう簡単でない。今の国の財政は収入だけでは足らないのだから、30兆円を上限に考えた政府、誰が総理だったか忘れましたが、あれだって借金ですよ。
 要するにこの国は力以上の生活に慣れてしまったということでしょう。そこで税金をどれだけ上げれば、この流れを変えれるか??? ホレ、ここが先生達が二の足を踏む所なわけですよ。選挙の行方が気になるのでしょうね。
 でもね、選挙は1回きりですかってーんだーよ。いつだか知りませんが夏ごろ参議院選があるのでしょう。でもその後また有りますよ。だって4年毎に選挙をやるわけですから。だから問題の先送りが止まらない。気が付くとこの借金の山。
 デフレスパイラルとかなんとか目先の議論をいくらやっても駄目ですよ。
 それと無駄を省くと言う問題、庶民感情からすれば、当然やってもらいたいわけ、皆さんそれに異議はありません。
 でもね、どうも合点がいかないのは、そう言って旗振りしている人が?マークなんですよね。その裁定が非常に甘い。
 私は毎年税金申告、あっつそうだ、1月12日今日が締め切りだ。また延滞税を払うところだった。くわばらくわばら。
 それから確定申告だってやってるんだから、あれでちょっとでもミスがあれば国賊みたいに思われて、税務署の人って目つきがするどいから嫌なんです、これって矛盾していませんか。
 だからなんなのよ!ってか。 だからさっきから言っているでしょう。借金の実態を皆さん、どう考えますかって。
 このノーテンキが。

1362:落とし所

商売の取引や計画策定において予め”落とし所”を決めて置く事は良くあることだ。国の障がい者制度改革推進会議の構成員がわかった。それをみると25名の委員の中でなんと障害当事者が半数入っている。福祉事業所団体は全く入っていない。事業所は別建てで集まりを持つのかどうかは不透明、何らかの意見を述べる機会は求めて当然である。黙って傍観している場合ではない。
 新制度の立ち上げは遅くとも2013年という。その間、様々な議論がなされるはずだ。
 我々協会としての活動も微妙となった。種別毎の事業所各々が一枚岩ではないからで、その要望をどうやって推進会議に吸い上げてもらうかという新たな課題が出てきた。前政権当時の厚労省社会福祉審議会障害者部会の議事録をダウンロードしてみてみると、委員の数が多過ぎて、一人の意見を述べる時間はほんの僅かしかないことが記録から読み取れる。審議会は粗、似たりよったり事務局の用意した資料に基づき話し合いが進む。そこには落とし所がなんとなく読み取れるものが多いように思う。
 しかし、今回の構成員の顔ぶれを見ると正直読めない。障害者観が「医療モデル」から「社会モデル」に流れが変わったというのは世界的な傾向、先ずその点は間違いなくその方向で進むだろう。
 当事者の心情とすれば、社会であれ施設であれ、生活する上で不便を感じていることへの改善が最優先、次に、そのために要するお金の負担軽減、これは応能負担原則は変わらないだろう。線引きをどの辺で行うのか、細かい議論が有るはずだ。
 地域と施設が隔絶されているイメージは、昔ほど少なくなったと思っている。施設内ケアーも地域生活の中という所まではまだまだ理解が無い。この点に関して施設側の変革が望まれて久しい。だが実際に現場を預かってきた私の立場から言わせてもらうと、制度によって様々な規制が働き、思い切った活動が出来にくい点があった。
 そのような現場の意見を反映させる場が無くなったのは残念だ。
従来から言われ続けてきた障害者問題の難しさ、そこには障害者同士の差別視が歴然と存在していた。国の仕組みの中で障害を一元化するという試みは手付かずの部分でもある。それを誰がコーヂネートするのか?
 市町村レベルでの実践モデルとして考えられた自立支援協議会も活動実績は不十分、正直、限られた人的物的資源で細々動いているのが実態だ。
 世の中が安定して不安がない時ならまだしも、いま、優先順位として障害者問題は格付けが下げられた印象を持っている。とりあえず今のままでやっていて欲しいということなのか?
 我々現場は正直、話し合いを持つ時間さえ難しい。足元の事を日々、繰り返し行っていくことで精一杯。これでまた制度が大きく変わり、ガラガラポンとなった時には正直逃げ出したくなる。障害区分認定の仕組みがどうなるのか?日払い計算の有り方、昼と夜の分離の問題、多くの制度上の不備が果たして改善されるのだろうか?
 何を残して何を変えるのか。せめて我々に審議の内容を透明に伝えて欲しい。果たしてコペルニクス的変革が障害問題において起こりうるのかどうか、期待と不安が同居している。

1363:国民の目

言わずもがなな事を言わせて戴こう。
 「全国民の願い」と言った言葉を容易に使って欲しくない。この言葉の裏には、”奢り”&”勘違い”が潜んでいる。何故?そのような発想が浮かぶのか理解できない。
 帰宅してテレビをかけると小沢さん関連のニュースで一色、東京地検が関係事務所への強制捜査を実行、地検と小沢さんとの全面対決という触れ込み。報道各社はここぞとばかりにヒートアップ、今までのVTRを再編集し、実況の間に入れるから臨場感が倍加する。
 どうも一人イジメしているような印象もあるが、事が重大なだけに止むをえまい。政治資金の実態は正直国民には良く分からない。カネの出し入れが不自然だというのだって説明すればするだけ分からない。自分にとっては想像もできないことだから。むしろ政党の有り方について今問われているのではないだろうか?
 正直、近年は一党支配という状況では無かった。連立をしてどうにか政権を担当、それぞれの政党の譲れない公約があるから方針を決定する段になってギクシャクしてしまう。
 だが、これが連立のメリットであったはず、もしも一党独裁に政権がなった場合に、内部に自浄機能が働かないと危険だ。当に今の民主党はその選択を各議員が勇気をもって実行に移すタイムリミットではないだろうか。
 離党するという最後の札を切る前にやるべきこと。いつまでも先の参議院選挙の一人勝ちに酔っている時ではない。時流でたまたま勝たせてもらったわけである。それを”全国民の支持”と思うのは甚だ滑稽だ。それでは民主党に何を望むか。
 党内に直ぐにでも実質的な「政治倫理委員会」なるものを立ちあげるべきだ。司法の判断に任せる。弁護士に一任したから、コメントは控える。繰り返されるこの言葉を聞くたびに、透明性を掲げた貴政党のメッキが剥がれ落ちている。これを他人事のように沈黙を守る大多数の議員に不満あり。選挙をするには金がかかるんでしょう。だからお金の出所が重要だった。そこまでは素人でも理解できます。
 でもね、昔の政治家は自らの財産をすり減らして選挙に出たものですよ。政治家になって財産を増やすから可笑しな噂が流れるんでしょう。
 貴方達は我々の1票の重みを感じていない。上の人の動きに雁字搦めになっている。少なくとも私は閉塞感蔓延の世の中に一抹の”期待”を持って投票した。私は政治評論家にあらず。しかし、性分とは如何ともし難し。黙っていられない。
 仏教の歴史に、大乗と小乗の区分けがある。実際にはこの分類自体には意味が無い。寧ろ大乗からの蔑称という批判があって、今では上座部仏教(テーラワーダ仏教)という呼び方が一般的、戒律を守ることで解脱する教えである。
 その仏教が今も残っている国はスリランカ、ミャンマー、タイである。日本の仏教は流れが別である。
 このキーポイントは”戒律”の捉え方、言うまでも無く戒律そのものに大きな違いはない。修行と称して、それを自ら行い、自らが悟ると考えるか、あるいは教えを信じる事で仏果を得るかの違いが有る。日本の政治は後者の考えに通じる。
 政治の世界の戒律は何だろう?今、若者が政治に関心を示さない。この一番の責任は政治を志す人達への信頼度の問題だと断言する。
何をもって貴方達は牽引者としての地位を得たいのか。その原点が曖昧だ。某出版会社100周年の記念として五木寛之が『親鸞』上下2巻を著した。彼の話を聞いた。親鸞の生きた時代と現代がとても似ているという。当時は源平の政争の渦中で庶民は悲惨な生活を絶えるしかなかった。そこで登場してきた”親鸞”には必然性があると彼は言う。世の人々が願ったということだろうとも。
 今の時代、何が救世主となりうるかと考えた時に、少なくとも一政党の実力者と言われる人は身綺麗にしておくべきなのだ。敢えて譲歩するとすれば、野党時代であれば多少の表に出ない手練手管も大目に見よう。しかし、一国の政権を取った者に、同じ譲歩は有り得ない。今ならば出直す事も可能だ。当選回数など関係なく、貴方達が勇気をもって立ち上がる事を切に期待する。
*自省を込めて、現代の僧籍を持つもの、あるいは福祉を実践する人々も世間の声に疎くなり過ぎていませんか。
今年も一人going my way!

1364:風流

芭蕉の句が急に読まれている。・・・・・・物言えば唇寒し秋の風・・・・
 言わんとする肝要は、余計な事をあまり言い過ぎると思いも寄らなかった災いを招くことになるので、口は慎めという意味である。フンフン、成程、そうね。英語にすると…Few words are best・・・・口は災いのもと・寡言が最高となる。
 非常に微妙な情勢に立ち入ってしまった。新年早々話題性の高いニュースが多い。グーグルが中国での検索を中止するという噂、これはネット社会と体制維持の攻防と考えられる。つまり情報操作や事前検閲が常態化した国ではITネットの情報スピードに追い付くことは困難だ。破竹の経済成長を続ける中国は、内政に対するガードが緩くなる。果たして中国という国がこの先どのようになっていくのか、世界中で影響が出ない国は無いと言われる。
 現代社会で過去に経験の無かった特徴をあげれば、通信手法の変化が挙げられよう、手紙や電話でお互いが情報を交換した時代は、送り手側も受け手側にも”間”があった。その間が今はない。情報の公開⇔個人情報の保護、この矛盾を解決する術が見当たらない。通信には国境が無い。
 一方、政治とカネの問題は今に始まった事ではない。その受け留め方もマチマチだ、芭蕉が生きた江戸前期は、長期徳川政権の基礎を築く時代が背景にあった、一般庶民は長い戦国の世に疲れ、殺戮の無い安定を誰しもが求めていた。芭蕉はご承知のように「奥の細道」や「更科紀行」を著し、各地を旅してその辺の庶民感情を句に残した。
 今回の騒動の中で、またもや政治社会の魑魅魍魎の実態を垣間見る、発端になった議員の元秘書が会話を録音していたという。実名で顔も隠さず事の真相(?)を言いふらす。確かな情報ではないが、選挙に出るための公認が貰えなかった腹癒せだとか。しかし、会話をテープに撮っておいたという事が事実としてあったならば、政治家なんてやってられんでしょう。議員一人一人に{貴方は誰を一番信じますか}というアンケートを取れば面白い。秘書と回答する人が果たしてどれだけいるか?
 対立する政党でなく、身内からの反乱が怖くて2重スパイを送ることになりやしないか。お気の毒としか言えない。
 多分、疑惑を持たれている方は私は知らないと言うしかないはずだ、このような人間は、自分を否定する相手にはよりエスカレートし牙をむき出しにするから手がつけられない。捜査段階で検察からのリーク問題、報道側のモラル、法律の抜け道など我々庶民には手の届かぬ世界での出来事、その断片情報だけが独り歩きしている。
 今朝は今年2番目の寒さだという。北陸や北海道の寒さは関東に長く住んでいる私には想像すらできない。
 日本の政治スキャンダルの歴史の多くは自然の厳しい地方選出の議員が関係している。そこに住む人達の強い願いがあったはず。その思いに応えようと遮二無二頑張った。その政界入りの動機に誰も異を唱えることはしないだろう。建設省絡みのスキャンダルが多かったのは、道路や公共建物との関係があったから当然の成り行きだ。
今回の民主党内部でのネジレ現象は、実は連立政権という表向きの理由ではなく、仕分け作業が有権者に好評を博したように、無駄を省き、人(生活重視)に投資する政権だということで期待された事にある。それが蓋を開けたら一連の献金疑惑や贈与問題のダブルパンチ、ダム工事受注に絡む複雑且つ不透明な金の流れと政権公約とのギャップ、そこに説明不足という足枷が付いたから余計ネジレが重篤化。
 沈黙を通す与党議員に対するマスコミ&野党の攻勢は芭蕉の句を敢えて出す事もなく、国民感情とダブる。これだって良く考えてみればどうだろう。攻める側の野党議員自身が自らの墓穴を掘る結果にならないか。
 そんな状況が見えてしまう所に”秋の風”を肌身に感じてしまう昨今である。
 

1365:暗雲

暗雲が垂れこめ始めている。日本にとって決してプラスにはならない。政治とカネの問題と言っても多様だ、世論というものを軽視してはいけない。ちょっとした切っ掛けで流れが急に変わる、よもや高支持率でスタートした新政権がこのような問題でグラつくとは残念だ。最近、深刻だと思うのは、当人が責任を取らず、周囲の人が悪者になって一見落着といった事案が増えていることである。
 昔の領袖ならば、部下を守る術を心得ていた。それがどこでこうなってしまったのだろう。今回の問題の背景で特徴的なことは無理な議員獲得があると思う。事前の十分なヒアリングをせずに公認を決める。今回のドタバタも公認を得られなかった者からの不満の火種が影響しているようだ。過去に起こった離党や反乱の大半がそうだった。自分の座が無いと思った瞬間、昨日までの仲間が敵になる。内部告発、決定的な証拠を持つ者が、敵側に回った時は、本丸を死守しようとしても既に遅い。
 最近の小沢さんの動きを見ていると、外向けのパフォーマンス(?)が目立った。何も知らない者にとっては、自らの権力の誇示と映る。彼は総理まで登ろうとはしなかったのかもしれない。だが、鳩山さんの3カ月の言行を傍でみていて、周囲の小沢さんへの期待が徐々に高まった。どうも引っかかるのは菅さんの動きを見ていると本来箴言を呈すべき人であるべきなのに急速に大人しくなったように思えるのは偏見か?ここぞと言わんばかりに強引な小沢さんの動きが絶好のマスメデイアの攻撃の的になった。
 彼は決して器用な人間では無い。強面で話し方も朴訥、ただでさえ近寄りがたいタイプだ。そして昨夜、陸山会関係の3名が逮捕され外堀を固められた形、彼はいまどのような心境か。自民党を皮切りに幾つもの政党を立ち上げ、常にその中心にいた事は誰しもが知っている。彼の一貫している思いは”おやじ”と呼ぶことを独り許されたという田中元総理への忠心だ。
 逆に彼の弱点は、本当に信じられる人が周囲にいないということだと思う。就任早々辞表を出した財務大臣もそうだ。いつかの時点で仲違いし、彼から離れて行った多くの人々。
 その有り様を知っているから、彼に進言する者が周りにいなくなる。現代の裸の王様と化した。 ここまで断言するのはどうかと思うが、この国をどうにかしたいという思いは全く同じ、ただ、今の彼がこのような(彼に言わせれば何も分からないものが何を言うか)意見に耳を貸してくれるか、甚だ疑問だ。
 実は、国民の願いは、都合の良い話ばかりではない。何かを引き出そうとすれば、当然擦り寄ってくるものが増える。
 その読みが狂った。それも足元から。
それと二大政党を目指しても、今の日本には育たない。いずれの選挙でも投票率の低さが一向に改善されず。冗談話ではなく,二大政党の一方は無関心党という分類ならば頷ける。少なくとも毎回7割の投票率はキープできないと、全国民の指示を得たということにはならない。これだって国民一人一人の責任という結論に帰結するわけだが、国の将来不安が増せば増す程、今本当に必要なことは、国の舵取りを任せられる人物の登場だ。
 ああ・・・。どうなるのであろうかこの国の将来は。堅牢な組織を作ることが如何に難しいか。
 思い切った人心の一新???あれ?55年体制をやっと変えたばっかりじゃーなかったの?
 政権担当能力というものは、信頼が条件だ。これは舵取りが難しい時代であればある程強まる。
 新政権への期待は従来の政治が積み残した残務整理ではない。より具体的な政策の実行だ。常に国会攻防の中で、誰の責任かというような擦り合いが行われるが、いくらやっても重層化した暗雲は晴れない。国民総懺悔、何らかの手立てを打たないと取り返しがつかない事態になる。
 今こそ新政権担当の議員の皆さんの勇気ある行動と自立を期待します。がんばれニッポン!

1366:塩梅

急ぐ改革は無理。”良い塩梅”とか”いい加減”という言葉が実は自らを律するのに重要だ。
 長年続いてきた風習や文化が、いまの日本各地から消え去ろうとしています。改革や革新ということが持て囃され、様々な過去の歴史が忘れさられていませんか?
 何故に”否”とするか?この根拠はいたって曖昧、結局、全てに言えることは、度を超えたやり過ぎは遺憾ということだ。理由がなんであろうとだ。
 アメリカの資本主義経済を厳しく批判しつづけている社会派監督のマイケル・ムーア氏が初来日され、その番組をNHKが放送した。精力的に日本各地を周り、広島では原爆記録映画を最後まで観て行かれた。京都の寺を訪れた時に、習字に挑戦、漢字一字で何を書くかと思ったら、「中」という字を書いた。
 アカデミー賞授賞式の会場で、ブッシュ大統領のイラク政策に猛然と反対意見を述べた彼の姿に圧倒される。
 様々な理由から、外国に派兵までして干渉する当時の米国政府の姿勢に反対した。そしてオバマ大統領が就任、核廃絶を宣言、実績が出ない前にノーベル平和賞が決定、そこでの演説が全世界に流された。しかし、その彼がアフガニスタンに軍隊の増派を決定、以前として中東の紛争解決のメドがたっていない。
 自らは安全な場所を確保し、多くの兵士が危険にさらされる。そこには生活の糧を得るためというだけで愛国心など望めないギリギリの選択が見える。そして、多くの戦争犠牲者の陰で泣く人達。
 この矛盾多い社会構造にムーア氏は大胆に挑戦しつづける。
 仏教の起こった2000年以上も前の時代にあっても、同様の矛盾が存在していた。その間、ずーと止むことなく続いている。
 昨日の朝、一人の利用者が体調を崩し、救急車で病院へ運んだ。彼は67歳、私にとって幼友達、否、お兄さん的存在だった。だから、彼は機嫌が良い時は私を「ブクシ」と呼んだり「福ちゃん」とも呼ぶ。そんな彼が今、ICUで一人入院している。両親の死にも立ちあうことなく、親代わりの実姉の死すら知らずにきた。
 彼もまた様々な病気を抱え、医療との関わりを切れない。67歳まで生きてこれたのが奇跡だと言われ、彼はそんな周りの声には全く無頓着、1日で想像できない位の水を飲み、体重の変化は1日の中で5キロにもなる。当然、血液が薄くなり、塩分補給のために水の制限と梅干を食べるよう医師から指示された。その彼が最近血圧が高くなり、梅干を制限して、体調管理をしてきた。そして、脳の血管が切れた。幸い早めの処置で後遺症は残るだろうが、今のところ生命に異常なし。
 ”良い塩梅”といっても斯様に人間が自ら行うことは至難の業。そこをどうやって保つのか。社会的弱者と言われる所以がここにある。自らの意思で方法が見いだせない人達こそ、社会的に支えてやらねばならない。
 民主党の掲げたコンクリートから人へという政策が、何か本筋を歩む前から躓いている。これは由々しき事態、
政治家は嫌いだと言って相手にしないわけにもいかず、重箱の隅をつっつくような自分自身に幻滅を感じながら、日々出来ることを行動に移していくことしか、今の私に選択する道は存在しない。

1367:游

ある宴席である方が私に書いた紙を広げて見せた。何が書いてあるのかと思ったがその方は「自分で考えた俺の戒名、見てくんねーか」と言った。
 その方は多少の仏教の心得があるから、見ると立派な戒名で院号。呆れるというよりも本人が真剣なので真面目に見させて頂く。そこにあった2字が気になった「風遊」、この「遊」を「游」の字にしたほうが良いとアドバイス、簡単にその理由を説明してやる。游は「悠」(とらわれない)と「揺」(ゆらゆら)と同系、赤ちゃんがお母さんの羊水の中で安心して浮かんでいる意味だと話すと、「よし、決めた」と言ってその紙をポケットにしまい込んだ。
 人生いろいろ游於芸なりだ。
大阪の某ホスピス病棟の名誉院長の話。末期の患者さんには4つの痛みがあるという。一つ目は、体の痛み。2つ目は、心の痛み。3つ目は社会的な痛み。これには名誉や地位を失うことが含まれる。そして3つ目は、魂(たましい)の痛みだという。人間の一生で、死をまじかに迎えようとする末期、その時に大体の人間は魂がむき出しになるという。安楽な死とは、魂の納得だと。2500名に及ぶ末期の患者さんを看取ってきた現場の医師の話だから説得力がある。
 そんな事を考えていると、不思議な事が起こった。頭の中に次から次に言葉が浮かび重なる。それを急いでメモをした。
「自誓自戒」「不安同居」「後の祭り」「和解」「横からの安心」「縦からの平安」「ありがとう」「御苦労さま」「最後の跳躍」
「人は生きてきたように死んでいく」「煎じ詰める」・・・・・・など。もうどうにも止まらない。ノートを閉じた。
 今の日本を覆っている閉塞感や不安は、元を辿れば一人一人が自らの生への有り様への問い掛けだ。ドイツの哲学者の言葉を出すまでも無い。「人間は努力するかぎり、迷う」これ真理です。
 他人の挙げ足を取ってどうなる?いつ訪れるかもしれない自分の最後、その覚悟をもって生きれば、つまらんことに腹を立てる事もない。
 ホスピスのスタッフは、人間の最後の時を一緒に向き合う。そこで一番大切な事は「耳を傾ける」ということだという。
 自省を込めて、自らを戒める。今日も実は11時より葬儀がある。僧侶は大体、亡くなった後から家族と関わる。葬斎場の打ち合わせでいつも確認されることで「法話は有りますか?」というもの。私はしない。いや、正直に言うと「できない」のだ。何故か。亡くなった人との生前の付き合いが薄いことが一番の理由。
 家族と最後の別れの席で、僧侶がお決まりの宗教論を話して何になる!その思いがどうしても強い。
 せめて49日、満中陰を過ぎるまで私はそっとしてあげたい。数々の思い出が遺族にとって自分たちがこれから生きて行く為の力になって欲しい。その気持ちが伝わればそれで良いと思っている。
 戒名の話題から、いつものような自らの独り言になったことをお許し下され。
 

1368:追悼

ミッキー安川さんが亡くなった。今朝の新聞のお悔やみ欄で知った。76歳だった。かれのラジオ番組で「ミッキー安川のずばり勝負」という28年続いてきた代表番組、神奈川にあるラジオ局で土浦では受信状況が悪く、深夜、寝床で何度もラジオの向きを変えながら聴いた。最近番組に、彼が出演していなかったので体調が悪いことは知っていた。
 視聴者から直接電話で意見を聴き、それに辛口のコメントを出す。実に的確で聴いているとスッキリした。彼の経歴は波乱万丈。数々のエピソードを知る度に一種の憧れと羨望が入り混じった。
 今の日本の姿を間髪容れず自らの言葉で言える数少ない人だった。こんな事を言ったら睨まれるとか番組の出演依頼が減るなどには全く関心がない。そんなトーク番組がまた一つ聴けなくなった。こころより冥福を祈ります。
 さて、いよいよ国会が始まった。日銀発表の景気見通しも改善の方向を匂わす。ただ、地域によって以前不況の状況から脱しきれていないという。果たして景気の上向き実態を我々庶民が体感できるのでしょうか?私には全くその実感がない。
 久しぶりにつくば市にある湯ワールドに行った。いつもなら駐車場が一杯なのに、空きスペースが目立った。マッサージを受けたがそこで聞こえてくる話は、お客さんが減ったという話ばかり。飲食店やスーパーも低価格商品でどうにか客足を保っている。2番底が来るという懸念はより強まった感じだ。私の身近でもその事は証明できる。最近の葬儀は、弔問客が激減、家族だけで葬儀を行う数が増えている。故人の交友の広さを示す、花輪の数もメッキリ減った。
亡くなる人の数は、高齢化が進んだから増えているのは確か、でもどちらのお寺さんも収入はかなり落ち込んでいるだろう。
 しかし、お寺に対する世間の目は厳しい。
五木寛之の『親鸞』第1巻を読み終えた。昨夜、第2巻を買って来た。
彼が言っていた言葉で、親鸞の生きた時代と現代が良く似ているということ、第1巻を読み終えてなんとなく頷けた。彼流の考えが親鸞の生き様に投影されている。彼はNHKラジオのこころの時代で時代と歌謡曲を語ったシリーズがあり、再放送を行った。彼もまたミッキー安川さんと同年代、戦争を青春時代に経験し、悲惨な光景を自らの目で見てきた。その後の日本の驚異的な変化を二人とも斜め視線で見つめている。大切な物を置き忘れ、有頂天になっている日本人への警鐘を小説やトークを通して鳴らしてきた。
 お二人に共通することと言えば”一貫性”、思想は時流と共に変化する。しかし、彼らは常に自らに問いかけ、飾ることなく自らの考えを世に問うた。
 小沢さんに対して言いたいことは山ほどあります。彼の政治家としての一貫性は別次元である。一連の疑惑に対し、彼が言い続けてきたことは「自らの正当性」、検察の聴取に応じない姿勢が国会の開会と共に微妙に変化した。今度は「公正な捜査には協力」するという。
 国民感情とのズレがある。念願であった座を射止めた彼が、その地位を死守しようとすればするほで民意が離れて行く。いま、大半の国民は彼の言行の異様性に危惧を感じている。衆参過半数を民主党が占めたら、何か恐ろしい方向にこの日本が進んでいくような恐れだ。聞く耳を持たないトップが、いかなる自らの信念を押しとおすというのかという心配。確かに長年続いた自民党の有り方にも問題が多かった。是非論は別として”一糸乱れぬ”政党政治への憧れは無かった。
 心のケアーで”内観療法”というものがある。これは自分の過去と向き合うことである。それも二つの視点から。一つは自らが他にしてあげた事、もう一つは、自分がしてもらった事。この両方の記憶を探る訳だ。他人や世の中を批判し、自らの行いへの反省は二の次にする。大体、この傾向が強いものである。
 親鸞が何故に”悪人正機説”を唱えたか、それは当時の官界や宗教における堕落と裸身で対峙したのだ。南都北嶺の大寺の僧侶が貴族や有力者の供養にばかり熱心で、僧侶自らも煌びやかな衣を身にまとい、贅沢な生活に浸っていることへの幻滅、そして、市井の乞食聖という生き方を選んだ。ここに一般民衆の心が動いた。この人についていこう、この人なら信じられるという断末魔の救い。
 もし、平安末の時代が今の日本と似ているとするならば、小沢流の世直し論が果たして、本当に救いを求めている人達に光となりうるか?
 これには自らの足元を綺麗にしておかなければ決して実現できることではない。私はそう思っている。
 

1369:魂の平安

最終的に人間が目指すものは”魂の平安”だと、これは永遠に続く営みである。何故でしょう?例えば”不安”という感情がどうして起こるかと言えば、それこそ客観的なものに向かって不安を感じるというのではなしに、自分の周りの世界に対してです。そして自分までもが自分の思い通りにはいかない。これは生の根源に元々あるもので、三枝によればこれを{自己矛盾}と言うそうだ。(仏教と精神分析:三枝充悳・岸田秀著)仏教ではその自己矛盾を”苦”と捉え、人間は”自我”をもったことが不幸の始まりだと断言する。
 ”苦”の存在を認め、それにどう対応すべきかというのが仏教の教えなのである。
 いま私のメールに頻繁に送られてくるものは、新政権の障がい者総合福祉法周辺の動きである、検討会議の初会合が12日に内閣府で開かれその関連のニュースだ。ご承知のように25名の委員の中で障害者当人が12名選ばれている。 そして我々事業者団体は全くのゼロ、この真意は分からない。従来の審議会などには無かった発想だ。
御本人が自らの障害をどう捉えているか、何が問題で、どうすれば解決できるか、生の声を聴取するという目論見だ。
事業所や行政は、それを支援する立場、基本となる法律ができてから多分出番があるのだろう。決して我々と利用者は反目しているわけではないのだが、疑われるような事件が無いわけでもない。
 そこで、障害を「苦」と見るか否かという問題だ。正直、日本では障害者の人達の権利は充分保証されてきたとは言い難い。人間の尊厳が世の中全体で崩れてしまった感じもする。
 長年論議がなされてきたものは、福祉の財源問題である、誰が負担し、その支出に国民的同意が得られるか。議論を重ねてきても、結局、そのエネルギーがどこかで障われてきた。
 障害者の問題をお年寄りの問題と同じに考えて貰えないだろうか!だがその確たるウネリを感じられない。
障害を「社会モデル」と捉える動きは評価できる。福祉の先進国は既に昔からその理念が根付いていた。日本人の感性は昔はそうでもなかった。花鳥風月、風流を愛し、自然の中で自らの生きざまを見つめようとする人が多かった。(西行や芭蕉)。少なくとも自分だけが良ければという思いは今ほどではなかった。
 ここにこそ戦後日本が失った最大の失敗がある。物の豊かさ、利便性にばかり関心が向き、他人を追い落としても自分の優位性を得ようとしなかったか。本来人間が共通に持っている”苦”に対し、知らんふりの態度で遠ざけてこなかったか。
自ずとそこに「生命」の大切さを見失った。政治家の関心事は当に自らの事は棚に上げた議論、そこにはどうしても真実性が見えてこない。政治家という業界だけの虚しい議論にしか私には写らない。そもそも生命の尊厳とは、生来”苦”を背負った人々が自ら授かった生命を生き抜く道筋にある。
それがどうだろう???その端的な現象が「自殺」、仏教が一番嫌う、自死の選択(せんじゃく)だ。
 聖徳太子に始まり、最澄や空海が命をかけ教えの真髄を探り、法然や親鸞が悩み苦しみ、追い求めた本願は、全ての人間の魂の平安であった。
 さりとて、現代の宗教界の一番の関心事は、どうもセクト主義に陥っていると思えて仕様が無い。
宗教そのものがパターン化され、信徒拡充に凌ぎを削っている様は見苦しい。いまこそ宗教界そのものが、原点回帰すべき時ではないのか。国民総懺悔は時を待たず、各々が今すぐ実践すべきものではないのか。

1370:内緒話

長く人間をやっていますと、腹を立てるのも馬鹿馬鹿しくなることってありますよね。ここだけの話ですが、私の最近の心中は荒れに荒れ狂ったと言えますよ。なんでこんなに腹の虫の居所が悪いのか?
 内緒話というのは、実は話がドンドン大きくなって広がっていくということと同義語、だってそうですよ。「あんたにだけ言うけどね。実はこうこうしかじか・・・云々」。これを聴いた方も「アンタには言ってもいいか、でも”絶対”誰にも言わんでくれ・・・・しかじかなんだ。」この伝搬のカラクリは人間の不確実性に元がある。人間社会で絶対という言葉は禁句だ。
 マイナス情報というものは、伝搬速度が速い。しかし、その逆はどうか、プラスになる情報は独り占めしたくなるから遅くなる。これって偏見でしょうかね。
 そこで今、ちょっと気になる話をしてみようと考えた。政治?JAL?  違いますよ。もっと身近な事。
 寺の役割とでも言いましょうかね。
 住職の活動領域といっても構いません。この根底には、私の幼児期からの深層心理があるんですよ。ですからこれは私自身の琴線ということでご理解頂ければ。
 自ら好きで僧侶になった方には関係ありません。ただ、私の身近の住職達を見ますと、皆さん同様の悩みを持っていたようです。それを分かり易く言えば、「坊主クソ儲け」という世間の目です。これって誰に悩みを相談することもできず、陰に隠れて泣いた。でもね、私が育った昭和30年代と比べれば、当時の坊さんの方が頑張っていたんじゃーないでしょうか。少なくとも真剣勝負だった。こんな事を言うから駄目なんでしょうが、これを超えないと先に一歩も進めない。ものが言えないような組織ではどうかと思いますよ。
  宗教が世間から認められる存在になるために、どうすれば良いのか?またまた大風呂敷?私は僧侶だけが業界の中だけで活動する限界を感じるべきだと思うんだよな。その考えと実行が坊さんに有るかないか、そこが肝心なわけでしょう。世間の目は確実に変化していますよ。
 平和な時代は宗教の出番も少ない。これは歴史が証明しています。現代はどうかと言えば、意見は様々あるでしょうが、危機そのもの生き残るか否かの岐路にあると思っています。
 「お寺らしい活動?」と問われた時、それぞれの住職の思いは当然ありますよね。でも世間様がそれを認めてくれますか?そのように問い掛け続けることが大切ではないでしょうか。そんな事を独りで考えています。
 今日は、成人寮の新年会が土浦のホテルであります。尚恵学園としては4度目なんです。なかなか会場が見つからない苦労があります。それでも協力してくれるホテルってあるものですよ。皆さん一張羅を着て参加する。不思議と行儀よく食事ができる。多分、園の雰囲気とは違うことを理解しているんだ。残念な事がある、いつもの年ならば楽しみに参加しただろうHさんは、現在、入院中だから出られない。彼は67歳、本当に彼との付き合いは長くなった、かれこれ40年になるだろうか。
 それと参加が危うい方がもう一人、彼は現在、自宅に帰っている。インフルエンザ騒ぎで一時帰宅してそのまま園に戻らない。本人の弁、「イヤダ」という一言。家が良い、学園は嫌い。ということのようだ。そりゃーそうだわな。ご両親と一緒に家で自由に過ごせたら戻れなくなるわな。 でも、違うんだよな、外のメンバーさん達は皆さん戻ってきているよ。
 これをどう考えれば良いのかと又しても考える。この仕事には際限が無い。綺麗ごとでは出来ない。
 「大切な子供さんをあつかっておられるんでしょう」とか心にもない事を言ってくる輩はいますが、こんな奴は信じない。
 将来の保険と思って、入所施設を利用している方も多勢います。私は全員がそうだと思っています。家庭帰省で家から学園に戻る時、多分一悶着あると思っています。
それがどうですか皆さん。「学園に早く帰る」と家族に言うメンバーさん。仏さんのような心を持っています。お前ならここまでできるか!我々の施設が彼らの楽園になれるでしょうか?無理だ。でもそれに一歩でも近づこうとする思いはスタッフ全員にあると信じる。そう思わないと気が狂いますよ。少しはお腹の虫が大人しくなってくれたようであります。以上。本日はここまで”