源究67

 

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
851 座標軸 5/15 856 期待感 5/21 861 奮起一番 5/28 866 界隈漫歩 6/2
852 ほのぼのと 5/16 857 限界自治体 5/23 862 虫眼鏡 5/29 867 愚痴愚痴 6/3
853 バランス感覚 5/18 858 平々凡々 5/24 863 国民総幸福 5/30 868 "憤”を持て 6/4
854 親の本心 5/19 859 ゆうあいスポーツ 5/25 864 月日に関守なし 5/31 869 バイバイ 6/5
855 手立て 5/20 860 隠忍自重 5/27 865 言うは易し 6/1 870 法人の名誉 6/6
10回ゆうあい
スポーツ
(5/21)

851:座標軸

日本は以前として官尊民卑の思潮が蔓延る。良く考えて見れば有史以来からそうだった。
 新たなポストに就く人々よ!貴方はどこに貴方の座標軸を置かれますか?
「障害者政策」に関して、徒然思うに何か変だと。執拗に糸賀一雄理論に触れれば、障害をお互いの問題として、あたたかい社会連帯感を基底にしながら、その対策を当然の事として社会の中に位置づけられれば「障害者」というレッテルをはる見方はなくなると言うのだ。
5月末までに纏める決算、全国どこの事業所でも大変苦労されている。それは、端的に言って政策の不備である。年度の途中で何度も繰り返された変更、33有った事業を6つにまとめ、効率化を図るはずだった。実態は細分化された事業毎の収支報告、元来未分化なものを敢えて分ける作業の無意味さよ。これが細切れ予算の実態だ。
 何故現場が混乱するような政策をとるのか! その事を上手く言い当てる松井孝典、彼は宇宙科学のスペシャリスト。宇宙から地球を見つめる視点を持つ。
 個人をどうみるか?という命題。
「他と積極的にかかわり、自分の意見を持ち、それに基づいて行動し、結果には責任を負う。・・・他とは家族であり、社会のあらゆる階層レベルでの組織であり、自然である。人間は他とのかかわりのなかで自己という概念を形成し、成長する。・・・・」
 この短文の中に、近年の政策担当者のあるべき姿が見える。貴方達が企画するのだから、そうあって欲しいとの期待をもっている。昨夜NHKで栃木の『かりいほ』の実践紹介が30分番組であった。『かりいほ』は「仮の庵」からきているということを知った。30名の利用者は、様々な問題を有し、最終受け入れ施設ということでかりいほが存在してきた。ここの素晴らしさは、数年後には利用者を社会復帰させていることだ。
 人間の此岸での生活は「仮の生活」。彼岸での悠久の生活を今より良くありたいという望を仏教は輪廻の考えで導いた。そのシステムが崩壊している。現世での満足が最優先となり、利己的考えが蔓延り、自分の利に成らないと判断すれば関心を示さない。行動の規範がそこにあるから、結果に責任を負わない。虚無的な考えをする若者が増えている、彼等にとって模範となるべき老人が今、この国の将来への不安の真っ直中に置かれている。
 ここまで悲観的になることもないだろうという自分もいる。しかし、知的に障害を持つ人々との生活が長く、先の松井の視点がどうしても取れない自分を感じる。
 今をどうすれば良いのか!という事への明確な道標がない。
この閉塞感への微かな光、それは「知足」という老子の教え。資本主義の終末は富の格差、果たしてマイクロソフトのビルゲイツの言う富の社会への還元は、この地球規模の飢えを救うに足るのでありましょうか?

852:ほのぼのと

毎朝、事務所を訪問する仲間がいます。3人です。目的は同じ。新聞折り込みの広告を見るためです。それが一人一人目的とする広告が違うのです。Kさんは「お肉 おにく おにーく・・」と言いながら捜すのです。うまく見つかればニコニコですが毎日スーパーの広告が入っている訳ではないので無かった場合はパニック。これが厄介です。次ぎに3種類のものを捜すYさん。一つはパチンコ店の開店PR、これは自分にではなくお母さんにあげるとか。2つ目は結婚式場の広告、見つけたときは顔を若干赤らめるのです。それはそれは意中のスタッフのKに渡すとか。お二人の門出。もう一つは忘れてしまいました。ごめんなさい。
 もう一方おりまして、Oさん、彼は実は広告の内容には無頓着、まとめてごそっと持っていく。彼は広告紙で折り紙をするのです。自室のベットに彼が折った音の鳴る鉄砲が沢山置いてある。
これが尚恵学園のお決まりの朝の風景です。
 広告と言えば、最近少々頭に来たことがありました。
 ご承知でしょうが、最近、老人福祉や交通遺児とかをテーマにした機関誌や新聞広告が多くありますよね。すると電話での広告募集があります。3ヶ月ぐらい前に訪問員とか電話で依頼があるんですが、これは雑誌の発行元とは関係が無く、広告だけを請け負っている会社、責任者がわからない。私は何度も嫌な思いをしてきました。
 それにもっと悪質なものが、分厚い本を勝手に送ってきて、その代金を送れというもの。正直、内容が全て悪いとは思いませんが、脅しのような問い合わせがある場合があります。どうにかならないものでしょうか?
 確かにITがすすみ、新聞広告や雑誌が売れない時代になりました。だから手法はどうでも良いというものではないはずです。
 大体、新聞の折り込み広告は読まれることがなく、そのまま破棄されるものが殆どでしょうか。
私どもの学園では、まだ有効に活用しています。
 自然環境破壊が大きな問題になっています。紙の再利用は決して充分ではないでしょう。アマゾンの原生林が急激に減少しているのは、低公害のバイオエネルギーの材料となるトウモロコシを栽培するために密林を伐採した結果。
 これは継続可能な(sustainable)方法とは矛盾し、悪循環です。
 5月になって起こったミャンマーでのサイクロン被害、何故高波が発生したのか?低気圧になると海面が上昇し、強風によって高波が起こるという事だそうです。波の高さが6メートルに達し、(日本で伊勢湾台風時高波被害がありましたが3メートルだったとか)風速は60メートルだったそうです。海岸から70キロ奥に海水が流れたという話です。
 それから中国での大地震、地震の多発地域だそうですが、あれだけの被害が出たということは何が一番原因しているのでしょうか?
 地殻の変動は地球が生きているという証、地球のどこかで繰り返されます。しかし、建物崩壊や山崩れは人為的な災害ではないでしょうか。
 人間は余りにも多くの事を望みすぎます。先の3人の仲間達は世の中の動きを良く見ています。彼等を見ているとほのぼのとした気持ちになります。彼等の視点が見直される時期にきていないでしょうか。

853;バランス感覚

先ほどのテレビで福田首相が従来の生産者優先の政策から消費者生活者優先にシフトさせたい旨の話をしていた。これって自民党の軌道修正の現れか?
 消費者庁を新たに設けるという狙いがそこにあるようだ。さてさて党内の意見の調整はできるのだろうか?
Kという道路族のドンがどこかで講演していた。「道路特定財源を一般財源化するとなったら各省庁の大臣が予算の奪い合いが始まった。道路整備は利用量や効率化だけで整備するものではない・・・」 俺には正直、Kという議員の考えが分からない。予算の奪い合いと取るか不足分の上乗せと考えるかだわな。なんてこっちゃ。
 党内の足並みを考えるなど彼にはない。奢りとしか思えない。自分が日本の将来を支えているかのごとき言動。末期現象だわな。これが彼の一面であることをせめて望みたい。
 さて、後期医療保険に関してもである、元厚生大臣の先生が地元で講演した、「この法律は改正する必要がある。」これまたどうなっているのですか?貴方達は党内で充分な意見の取りまとめをして法制化したのではなかったのですか?
 この実態が明るみにでると障害者自立支援法も全く同じなんだわなと思ってしまう。出しては引っ込め、文句がでれば一部改正、こうやって今まではできたでしょうよ。しかし、いつもまでも国民を甘くみるといけんよ。心から怒っとります。
 私はね、こう思っています。高齢者には、若い人が負担を多くしても仕方がないと思いますよ。それは自分達を育ててくれた人生の先輩功労者です。お前達が医療費を使いすぎるから自分で負担せい!これってあんまりですよ。安心して老後を送ることが誰しもの願いですよね。冷たいねー。 ムダがあるでしょうがムダが、我が茨城県は自慢じゃーねーが、国保連というお役所でね、たった一人がですぞー。3年間で11億円もギャンブルに使っていて気が付かないでいたんですからね。何しろ年間6000億円の中のほんの一部だからってかよ。それにその男は競艇券売り場ではVIP待遇だっていう噂ですよ。この後始末をどうするか、目を離しちゃーダメでしょう。
 議員の先生も数を少なくして、秘書さんも減らし、道州制でも大統領制でもやってみてですよ。もう一回、この国をどうしたいのか国民に判断させてみなよ。野党も非難ばっかしてないで本当に自分達が政権をとるという覚悟あるんかい?野党の先生も私は同罪だと思いますよ。だってそうでしょう。同じ議員報酬(給与)もらっていてよ。
 今のままだったら、皆さんが政権をもし取ったとしても同じ問題が噴出するんじゃーねだろうかと皆心配してるんだ。
 早く民意を問うべきだわな!そこで決まった事には国民も文句を言うのは禁止だ。選ぶ側の責任だぞ。 そうやってこの国を根底から考え直しませんか。諦め半分!期待半分!
 要するに今の日本はバランス感覚が無くなっているんですよ。坊さん的に言えば「中道」っていうのかなー?うまい表現見つからない。
福祉に関していえば、コムスン事件が端的な例だわな。森ビルだかなんだか知んねーがよ。福祉から金吸い取ってよ。自分は自家用ジェット。バランスもへったくれもない。全く気にくわねー。
 何が市場原理だ? 嘘つくなよ。老子の言う「知足者富」これをどう読むかだわな。富む者は足を知る。足を知るは富なり。後者だわな。富が先に来るとどん欲ということになりがちだから始末が悪い。
 議員の先生にバランス感覚が無くなるのはどうしてだっぺーと考える、意見を言える参謀がいないからだわな。今日、ある人と話をしていたら、彼は上杉謙信が大好きだという。家の玄関に毘沙門天まで飾ってある入れ込みようだ。謙信は私利私欲が無かったからだという。戦には自らが先頭に立ち戦い、勝った相手から領地を奪うことはしなかった。・・・・・
今の政治家には策謀家がいても国を本当に思う謙信的武士はいない。領民を泣かせてはダメだよな。そんな話をしたばかりであります。
 

854:親の本心

週末の生活は十人十色、GHの皆さんはそれぞれが時間を好きなように使っている。中には一人では時間を持て余し、学園に来てしまう人もいる。自転車に釣り竿を乗せて霞ヶ浦に颯爽と出かける人も。
 それから手提げ袋を片手に、街に出かける人、彼は以前はタクシーでご帰還だった。財布の中身が気になり始めたのだろうか、今は電車で神立まで帰ってくる。そこからほろ酔い気分で歩いて帰ってくる。「今日はどこへ行ったー?」「土浦。つ・ち・う・ら・だーよ」もうかなり酒が入っている。彼の労働?の後の楽しみは、酒。
 昨夜、久しぶりに夜ヲーキング、するとGHより3人の女子が出てきた。それぞれ財布らしきものを持っている。「やーどちらへ?」と私が声を掛けるとリーダー格のSさんが「仕事行ってるよ。忙しくて たいへん 大変」彼女は指を怪我し、暫く和菓子屋さんを休職していた。「今からどこへ・・・・?」「仕事行ってるよ。たいへんたいへん」どうも噛み合わない。
 するとサブリーダー格のTさんが「あれ。今安売りしてっぺーな。あそこに行くんだ」やっと3人の目的が了解できた。
新装オープンしたストアーに買い物に行くらしい。もう一人は聴覚障害を合わせ持っているKさん。ニコニコして側にいた。新たなアパートでの一人暮らしを開始したMさん、2,3日前アパートの駐車場で一人ポツリと座っていたのを見かける。(現在37名が地域生活をしている。GH:CH:アパート)
 昨日は家族会の総会があった。コスモスの大ホールが一杯になる程集まってくれた。
本来ならば吉川会長が挨拶をするところ、全員での黙祷で始めた。20年度の事業計画を決める役員会には車イスで出席、会長の思いを述べてくれた。その翌日入院、帰らぬ人となってしまった。
 亡くなる2日前に私は面会した。その時に大変心配していたこと。それが尚恵学園のこと息子さんのことであった。私が病室を辞する時にベットの上で両手をあわせ頭を下げられた。
 この情景が頭から離れない。親の本心は、言葉でいくら表そうとしても正直、うまく通じない。
 この子らを持った親でなければ、私は今までに何度もご父兄からその事を言われてきた。
 それは我々が親の役目を考えて欲しいとお願いするたびにである。親子の間に入る形で我々が思い悩むことである。
 週末を自分なりの計画ですごせる人達はまだ良い。
私どもを利用される大半の仲間は、自分で時間を過ごすことができない人達。
 我々がやるべき事、際限なし。
 ただ、その事に茫然と立っていることは許されない。静中の禅とはいかない現実がそこにある。言うは易しである。だが、親、それに仲間達の本心を聞く耳は常に持ち合わせたい。空手形をきることにならないように。今までに何枚切ったことか!

855:手立て

和英辞典で「手立て」を引くと、例文として「幸福になる手立て」(a passport to happiness)とあった。「パスポート」かー!旅券ということになるな。
 だが福祉に関しては旅券だけではすまされない。制度があって、支援量が決定され、サービスを受ける権利を持っても果たしてサービス自体が存在するか否か。
 障害認定審査会でこんなケースがあった。守秘義務があるから詳細は言えない。母一人子一人、その子が脳性小児マヒで全介助の状態、70歳を過ぎた病弱の母親一人で自宅で看護しているという。行政から何らかのサービスをうけたらどうですかと勧めるが、頑なに拒否。理由はサービスを受ければお金が掛かるからだという。
 こういう実例が全国ではかなり多いと想像する。
 パスポートを所持していても使わない。母親が入院でもすれば自宅介護は不可能になることを心配して取りあえずショートステイの登録だけをすることになった。障害程度区分6の方である。
 昨夜も主任会議があった。私は遅れて参加、熱心に話が進んでいて私が口をはさむ余地がない。明らかに医療ケアーの必要な利用者も出ている。通院で対応するには限界かというケース。我が園での最大の問題である。他の福祉施設(身障療護)への変更を考えていたが、それが難しい。相手の施設には30名を越す待機者がいる。在宅の人で緊急に利用したい人が優先となる。まだ、施設を利用出来ている人は良いという考え方だ。
 それから、集団生活が困難な人(多動:他害)の受け入れ、何故困難なのかという訳は、車イス対応の利用者と同居することは危険であるからだ。正直、このようなケースを受け入れる態勢ができていない。希望は沢山ある。
 だからといって施設の規模を大きくするには抵抗がある。それは人材の確保と資金の裏付けに問題が多いからだ。
 尚恵学園程度(入所定員100名:在宅支援60名)の法人でも、将来への積立金は3億円以上は必要だと思う。3施設を整備するに要する自己負担はこれでは足りない。3億円という膨大な金も1施設を整備して無くなる金額だ。
理想は10億円の自己資金。
 まー夢のような話をいくらしても空しいばかりだ。「手立て」とは実は旅券ではなく「裏付け」だと言いたいのだ。サービスを保障できる裏付け。これは職員に要求する類のものではない。昨日の会議でこんな話をした。
 「触法や車イス対応の利用者の生活を支援することは、個々により違う。少なくともできないと諦める前に、自分達がプロとして何らかの答えを見いだす努力はするべきだろう。」
 利用者家族からの苦情に対して。
「親や地域の人が苦情を言って来てくれたことを有りがたいと思う。だれも嫌なことを言いたくはない。それを敢えて言ってくるのは尚恵を良くしたいという思いからだ」
 正直、苦しい心中である。人間にはベストの選択はない。今よりは少し良くなる選択の積み重ねでしかない。それだからこそ、第3者の目を通して我を見ることが必要である。
 某法人の理事長を偲ぶ会に参列、私より2歳若い彼の遺影を見ていたら、心からゆっくり休んで下さいと思った。
 

856:期待感

期待感で胸膨らます後に忍び寄る焦燥感。寝ても覚めても疑心暗鬼の中を彷徨う。(色めかしう、さまよふ心さへそひて・・・・)この何れの心境においても、認めたくは無いが現代の人間模様を如実にうつす。
 さてさて、如何にこの世となるものを杖を頼りに歩むべきかと!
 その「杖」が見つけ難い状況になっている。
・・・・わたしたちは、仏教の本当の姿を知らない・・・・僧侶の妻帯、寺院の世襲が、日本仏教から宗教性を奪っている
今枝由郎『ブータン仏教から見た日本仏教』より抜粋。
 NHKブックスの単行本を買い求めた。表紙には「時代の半歩先を読む」という添え書きもあった。
私自身が「杖」と思い、捜し求める仏教に対し、遠慮無く痛烈な言葉を浴びせる。ある意味で真実を暴いているから心穏やかならず。
 更に「福祉」に対しての心象が歪みとなって表にでてきた。言ってみれば八方塞がりである。
自分自身の内部では葛藤があり、水面に顔を出そうと必死に藻掻く。
 斯様に先人はイバラ(?)の道を歩んだのか?
 この時だ。電話が鳴った。直ぐに受話器を取ると、成田から。今からドイツに帰るというY先輩からの電話だった。
彼は今回2週間の予定で東北を旅した。私は彼の要望に応じ、アマゾンで捜し当てた、宮沢賢治の本を2冊送っていた。庄内平野や月山、鳥海山・・・自然豊かでそこに住む人々の美しさを体感できたと感謝の電話であった。
 我々の年代になれば、知人友人との別れを経験し、何れ自分もこの世との別れがくると覚悟する。当にその年代にある自分はY先輩の対極の生き方に羨ましさを感じるのだ。区切りなど無く繰り広げられる日々の生活に埋没、幾重にも重ね着した服の重さに喘ぎながら生きている自分。
 次元を事にした視点で自分を見つめることが大切だと言われれば、否定する言葉などない。心底からそうありたいと思うのみ。
 これも昨日の話だった。園の看護師が2名の仲間を病院へ連れていった時の話。
ストレッチャーで運ばれたきた患者さんを見つけたKさんが、本人は小声で話しているつもりだった。
 誰彼構わず周りの人に「死んだのか、死んだのか・・・」と確認する。「Kさん  シーシー」と黙ってくれと手振りで必死に伝える看護師もどこかユーモラス、二人とも真剣そのもの、周りの知らない人にまでも「死んだのか 死んだのか」「シー・・・シ」
多分彼の頭の中には先月亡くなった仲間のK君の記憶があったのかもしれないね。
 実際は検査のためストッレッチャーで運ばれていた患者さんは迷惑千万、誰にでも聞こえるような声で話しかけるKの言葉をどんな気持ちで聞いたことか。、憤死爆発だ。
 これが現実、嘘偽りのない日々の生活である。「期待感」?。どうでしょうね・・・・・????
 

857:限界自治体

長野大の大野教授の研究を待たずとも、日本人誰もが予測していた現実がいま起こっている。65歳以上の住民が50%を超えた集落を『限界集落』、それによって財政困難の状態になる行政区を「限界自治体」という。
 先の平成大合併により、当時144カ所あった限界自治体の数はかなり少なくなったという。しかし、合併後の新たな問題が百出している。地域格差が一体、そこに住む人達にどう影響してくるのか!時間と共に有りとあらゆる領域にその悪影響が忍び込む。
 若者だけではなく、中高年の人達まで現実から逃避し、夢遊病者のごとく日々を送ってる人が増えている。(毎日決まった時間になると近所のパチンコ屋に向かう私と同じ年の男性がいる。彼はもう何十年とこの同じ生活を繰り返す。)
その最悪な帰結が自死の選択である。一時、連鎖的に起こった硫化水素での自殺。もっと酷いのは誰でも良かったと言って起こす殺人事件。
 何故、周囲の人が気付かなかったのか? そうじゃない。気付いていてもどのように対処して良いか分からないというのが真実だ。
 ニートとか非正規労働者といった言葉は、別に珍しくなくなった。私の住む地域にある重機メーカーには、派遣会社が40社も入っているという。これが当に日本の景気支えの立役者、輸出企業トップの実態だ。地元に還元されるものはあるのだろうか?飲食店の店主に聞けば一様に否定する。変わった事と言えば、賃貸アパートの数、空き部屋が目立つわりには新たなアパートが建て続けられている。派遣会社が纏めて確保するからだという。これだって先行きは不透明。
 日本の現状はどこを見ても危ういことばかり。一番危ういのは、国の方向を決める国会議員の方の意識のズレ、
政権を取ることが目的となり、票が取れる政策?を民意だと誰もが口を揃える。実はここには大きなズレがある。
 それは、いくら貴方達が自らの主張の正当性を声高く訴えても、選挙を行えば投票率は低迷、これが何を意味しているか!正直、貴方達の政策に期待をもち信じている国民は半分に満たないということじゃーないの。過去に投票率50%を超えた国選はありましたかね?『50%との線を越えるか超えないか、いわば限界政治の判断根拠だわな』
 これは雇用問題と根は同じ。目先の経営、利益優先が見え見えだから。国全体をどうしたいのか、その肝心な議論が蔑ろにされている。枝葉の事を突っつきあう議会は、例え全国放映されても何の魅力も感じない。継ぎ接ぎだらけの議論をいつまでやるのですかと言いたい。
 若者の学力の低下が問題になった。それは若者が悪いのではなく、大人達の生き様になんら魅力を感じないからだということに気付かない。
「限界自治体」へ辿る道筋は、社会福祉法人も全く同じだという人がいる。私もある意味では同感だ。3Kなどと不名誉なレッテルを貼られ、福祉の業界が意気消沈している。そして打開する特効薬を見いだせない。
 今、私は現場に戻りたい。利用者さんとの生活にこそ、本来の福祉の原点がある。実利のない無意味な会議に時間ばかり取られ、園に戻った時はグッタリと疲れる。この生活は体に良くないし、本来の福祉の面白みが見えなくなる。
 ま、いずれ今の立場は誰か適任者に引き継げば良い。それもなるべく早く。
 だが、今のままでは施設福祉には限界がある。限られた人との関わりでしかない。制度の福祉や箱ものをいくら作ってみても、今の政治と全く同根、どこにメスを入れれば良いのやら。制度に振り回され、ハード面重視の上辺だけの実践と化する、この失敗は二度と繰りかえさない。それを阻止しなければ。
 とにかく60歳までには、私の第2ステージの青写真を作っておきたい。
 

858:平々凡々

朝起きて澄んだ空気を思い切り吸い込み、今日の無事を祈り、1日をスタート。・・・・何も無いこと「平凡」な生活がいかに大切な事か。
 日本人はその事を分かっているにも拘わらず、意識して他に負けないものを生産し技術を磨き、その製品を売ってお金に換え、今の繁栄を築いた。それに異を唱える気持ちは無い。そこには凄まじい企業間の戦いがあり、盗まれてはならぬと機密保持に全身全霊をかけている。法令遵守だかなんだか知らないが仕組みをより複雑にし、垣根を高くしてきたのも事実。
 ここに大きな落とし穴があったことに以前として気付かない。
 生き残り、他企業を買収し、大きくなる。しかし、片時もいつ今度は自分の会社が買収されるかという不安を持っている。
本当に日本人が自国を守るには、この道しかないのだろうか? 教育で教える人の道と実社会の矛盾、その答えは国として示さず各個人の判断に任せる。ここに混乱の元があるのだ。
 私の1週間、嫌らしいと思いながらも敢えて公開する。今週だけで役員会(理事;評議員)は10カ所あった。当然同時刻に重なればどちらかは遠慮した。決算期に当たるから同じ議案内容での役員会である。
 だからかもしれない”平々凡々”の素晴らしさを強く感じている。
 「落ちこぼれ」「負け組」「ひきこもり」・・・・果たしてその実態はいかに。中には自ら望んでそうなった者もいるんじゃないだろうか。”平々凡々・悠々自適”ちょっと生き方を変えてみれば誰もができることかもしれない。
 いや、どうだろう。一般の価値観に無関係で現にそれに近い形で生きている人達がいるだろう。
 彼等には仕事の達成感や生き甲斐・喜びを計る尺度が違うように思える。(無いのではなく違った尺度)知識が変な邪魔をし、周囲の目を気にし自分を殺してまでも融和をとろうとする。その生き方に疲れ、自分の殻に閉じこもる。
これが一般の人達かもしれない。その対極にいる人達、それが知的に障害を持つと言われる人達だ。
 彼等の生き様を見ていると実にその事が分かってくる。そんなにガムシャラになるなよ、もっとのんびり生きようよと言っている。
 彼等一人一人の生活歴を知れば知る程、何故彼等にあの笑い顔ができるのだろうか?と驚く。その底力。
もし、福祉に関わる人、これからこの道を歩もうとする人々がこの文を読んでくれたならば、私は自信を持って言える。
 学校や家庭で教えてもらわなかった大切な事が彼等と付き合うことで生に学ぶことができると。
 ここに本当の価値がある。実際は福祉がサービス提供者の立場で論じられている、これではやればやるほど矛盾が増えるだけ。
制度やマニュアルでカバーしきれないものが実に多い。それは人から人に直に伝えられるべき代物(思い&願い)である。
 

859;ゆうあいスポーツ

朝7時、県から予定通りゆうあいスポーツ大会を開催しますと電話。「ありゃーホント!」昨夜から雨がひっきりなしに降り続き雨足も強かった。てっきり延期と思い、朝5時のラジオも聴かなかった。それから大急ぎで支度して笠松に向かった。
 水戸を過ぎても雨は降っている。会場にはまだ人が余りいなかった。昨夜から準備で泊まり込んでいる仲間に挨拶し、ただ雨が小やみになることを祈る。苦情が出るなと覚悟を決めた。
 結果はOK。11時頃から雨がやみ、空も明るくなった。さすが航空自衛隊百里基地、レーダーは24時間雲の動きを監視している。その予想が見事に今回は(否、今回もでした。)当たった。障害者の行事としては県内で最大のもの、全国大会の予選も兼ねる。10種目の競技が同時開催されている。私はメーン会場の笠松運動公園に陣取った。
 20年前は私も前日泊まり込みでテント張りなどをやった。その記憶ははっきり残っている。
私の脇に橋本知事、ずっと話をさせて頂いた。知事は第1回の最初から休まずに参加しているから最大の理解者。参加者が唄のお姉さんの声かけに元気に返事する姿を目を細めて見つめていた。「いいんだよなー。あの表情が」と独り言。
 日曜日という大切な休みに一時の気の休まる時なのかもしれない。
さて、予定通りプログラムを終了、2時頃、皆さんにお疲れ様の挨拶をして返ってきた。グッタリこん。
早めに寝ようと考えていると「ピンポーン」。葬儀ができたという知らせの人が玄関先にヌーと顔を出す。全国施設長会議の日に通夜と葬儀、もう先方で日程を決めてきている。「先ず、住職の予定を聞かないとなや」正直一言言いたかった。「なんで日程表が出来ていて、どこが俺の予定だよ。まーそこは我慢。大分住職も大人になったかなー。」予定は未定の世界。出前法事でもなんでもやってやらー。
東京の会議をキャンセルし、その求めに応じることにした。
さてさて、今時何をやるにしても大変です。
 今日実は帰りがけにゴルフ練習場に立ち寄った。内緒のホントの話。トマトをくれるからという連絡があったからだ。練習場のオーナーが趣味でプチトマトを温室で栽培している。出荷できないもの(?)をいつもくれる。もらってばかりいてはまずいと思い。練習場に立ち寄った次第。そして本当に久しぶりにクラブを振った。正直この1年間ゴルフはご無沙汰。理由はいろいろだが、自慢話に取られる恐れ有り、言わない。
 しかし、俺もまんざら捨てたもんじゃーねーぞ。一発目、7番アイアンで150ヤードの旗にドローボールでピタリとつけた。
体が覚えているのかなー。それともまぐれ?次ぎにドライバーこれまたストレートボールで正面フェンスに直接当てた。キャリーで220ヤード。ナイスショット。
よし、これで準備OK。6月14日本番。頑張りましょうーと。
 私にとって息抜きは、動いていることです。動き始めたら始末が悪い。ゆうあいスポーツ全国大会は今年は大分県で開催する。九州か行ってみたいなー。ムズムズ。
今年は監査も無いということだし、行ってくっかー。宮崎フェニックッスとかなんとか言ったっけ。
皆さん 本日はお疲れ様でしたー。

860:隠忍自重

世の中が先が読めない時、隠忍自重するのが良いと。私が一番苦手なこと。アメリカのジョージア州などが記録的な大干ばつに襲われている。フロリダ州と隣り合わせだから気候温暖な住みやすい地域なはず。これもまた地球温暖化の某かの影響?アメリカの住宅は庭が広く芝生が見事に植えてある。今、芝生に水をまくことを禁じている。芝の気持ちになったらたまったもんじゃない。
 それと四川省での地震もまた余震の恐怖が以前として続いている。地球が怒っている。そうとしか考えられない。
日本人だけがのんびりと暮らしていて良いのか、ミッキー安川という人を知っていますか?50歳を過ぎた年齢の人には分かってもらえるかも。彼のトーク番組が実に面白い。民放ラジオだがどこだか知らない。毒舌という感じもするが、見事に今の日本を捉えている。
 今の政治家には迫力が無いという。特に二世議員と言われる人は出身地元には住まず、東京に居を構え、選挙近くなると地元の為に頑張りますとか言う。この国をどうしたいのかという考えを持たない。否、持てないという。本当の民意が分からないからだ。依然として族議員という人達が暗躍している実状を前カンブリア時代と。
 なにもかも議論を深めるとボロが露出、道路整備に関して、果たして優先順位が決められるのでしょうか?できるはずがない。これに対して野党の追及も心持たない。それは追いつめるだけのデーターが手元に無いからだ。内部情報の一部が漏れ、それを公表する。しかし、根本の解決には至らず、時と共に忘れられる。
 今の日本の最大の弱点は、危機感が持てないということだ。期限付きの特例交付金の執行状況は各県により差があるだろう。茨城県は良心的に配分していると思っている。そして、出来る限りオープンにしている。だが、国の考えている事は取りあえず今の批判をかわす事に主眼があるようだ。
 別に事業者だけの要求を満たせば良いといっているのではない。私は寧ろ本来の対象者は何十倍もの数で存在する現行のサービスを受けていない人達だと考える。立法化したのであれば、当然公平性が確保されて然るべき、それがどうだろう?期限付き、申請主義、これでは救えない人が多すぎないか!それで本当に良いのでしょうか?
 危機感といえば、制度の福祉にドップリ浸かっている施設福祉、尻に火がついた。人材の確保。採用しても直ぐに辞めてしまう。渡り歩く者、彼等はそれで満足する職場を探し出すことができるのだろうか。
 苦肉の策として事業者が取った方法は、派遣会社からのレンタル採用。取りあえず数だけ合わせておこうである。
この事態は深刻ですぞー。少なくとも経営に関わる者にとっては、安心して眠れる状況にない。これがまた、もっと厳しくなるだろうという見通し。それに対し、何らかの有効な対策が出せない。
 魅力有る職場にならなければと誰しもが考える。だが日本の老人や障害者への対策は一向に良い兆しが見えない。
この閉塞感は一体どうしたものかと。「隠忍自重」も余りにも長期になるとそれで終わってしまう。
 
 

861:奮起一番

前コーナーの「隠忍自重」は、難しい。それに私の性に合わない。「有頂天外」を対極に据え、最近の出来事でそんな気分になったことがあっただろうか?この上なく大喜びして夢中になった経験・・・・・ああーもう何年も経験していない。
 精神的に変調を感じている人が非常に多いという。医療や介護現場でのバーンアウト、鬱状態になった人が周りを見回しても何人もいる。
 これは異常事態だ。何が原因してのことだろうか?
それを考える一つのヒントがある。医療機関で診療科目が様変わりしているのに気づきませんか。昔なら「精神科」という看板があった。今は「心療内科」。名前が変わっても対象とする患者は同じ。一昔前ならば田舎の医院には先生1人で複数の診療科を掲げていた。今は専門医療の時代、医療分業がすすみ領域毎に認定医制度をとっている。
 医療が高度化するにつれて細分化している。これによって患者側に現実に何が起こってるか。一体自分は何科にかかれば良いのだろうか?選択の悩みが起こる。だから1日の通院で複数科の受診となり、膨大な量の薬を持ち帰る。
 そのことが病気を更に悪くする。これってどこか変ではないですか! このように良かれと思っていた事が逆に自分を苦しめる原因になっている社会。ここに異常を感じるのであります。
 ついでに我が業界の内部事情も披露しましょう。
昨夜、東京の会議はキャンセルでした。通夜が入ったからであります。斎場が真新しい所で私は初めてでした。司会の方との打ち合わせ。
 *司会を行います、○○です。打ち合わせをさせていただきます。ご住職の迎えは立って合掌でお迎えしますか?
 ○いいよ。座っていて。
 *いつ頃焼香を行えば宜しいでしょうか?
 ○私が通夜追悼の文を読み終えてからお願いします。
 *通夜の時間はどのくらいかかりますか?
 ○30分ぐらいかな。
 *その後,法話はございますか?
 ○やりません。
私は通夜と葬儀では法話はしません。決して手を抜いているわけではありません。
この一連の流れは、どこの斎場でも殆ど同じなんです。これって疑問感じませんか?人間の別れの儀式が実は時間いくらのパートタイムのスタッフで執り行われているからです。自宅葬は殆どなくなりました。時計を逆戻ししてみましょう。
 病院で亡くなる方が大半です。緩和ケアー病棟やホスピスがある病院ならば家族との最後の時間がもてますが、全てがそうではない。周りの患者さんを気兼ねして臨終に立ち会う、医師の診断書を受け取り、葬儀屋さんにバトンタッチ。場合によっては自宅に戻らず、斎場霊安室に直行、それから葬儀の段取り、値段表と睨めっこしながら葬儀費用の見積もり、通夜当日になってお寺さんがやってくる。
 これが日本の葬儀事情。坊さんがいくら仏教の教えを説こうと思っても耳に入りませんよ。だから当日は法話はしません。私の話は法話ではない。そんな立派な話はできない。ただ49日にお喋りはすることにしています。
 そんな私が布教師会の会長を引き受けた。これって異常じゃないですか?”奮起一番&疑問山積”

862:虫眼鏡

埼玉の某法人の理事長より、「総括と課題」と題した文章が送られてきた。開設8年目での総括ということだが、彼の人柄を感じさせる内容だった。福祉という言葉の持つ背景を私は大切にしたい。事業者であれば、何のために貴方はやっているのですか?という問いかけ。家族であれば、貴方にとって介護の対象になる方はどうなんです?どうしたいのです?という事を正直に話せる?
 実は、福祉の中に長くいるとそれが見えなくなるのです。それはこちら側の怠慢と油断です。人間は四六時中、緊張を保つことはできない。寧ろ弛みの中にこそ、真実が見え隠れするものかもしれない。そんな事を思いながら文章を読んだ。
 北欧への視察研修に誘われたが、お盆中で参加できないと回答した後に直ぐに送られてきた。
今朝の地元紙の4面を「介護保険特集」で占めていた。人材確保と報酬単価引き下げへの対策がその内容。何か障害者団体とは別次元のような印象を持った。「・・軍団」といったイメージを。これは茨城県だけの事ではなく、日本全体がいま介護問題で揺れ動く、こうなると絶対数で対抗できない障害者問題は隅っこに押しやられる。障害者自立支援法に関しても、トーンダウン傾向は否めない。
 私のホンネの言い分とすれば、福祉をこれだけ食いつぶしたのは一体誰なのか!
若者が福祉職に魅力を感じなくなり、潮が引くように去っていった責任。サービスをお金で計算し、その報酬の中から貴方達は本当に正当な賃金を払ったのでしょうか? 介護施設の実態は良く知らない。だが、障害者施設や児童:保育施設と比較すれば雲泥の差であろう財務状況。
 戦争で多くの血を流した後に日本が選んだ自由と民主の制度、今、数による横暴が目立つ。常に少数派に日が当たらない状況が目立ち始めた。福祉に若者を呼び戻すならば、何が必要でしょうか?
 答えは簡単、先ず経営者自らが反省すること。そして、働く人を、もっと優遇させるべきだ。批判ならいつでも受けます。
日本一の福祉事業団体を築いた、浜松聖隷の長谷川理事長は自らの生活は清貧そのものだった。その教えを受けた人達が今その法人を守っている。
 誰しもが醜いと感じたであろう大阪の老舗割烹の実態。ついに廃業せざるを得なくなった。その記者会見で創業者の娘である現社長、頭を深々と下げて会見に臨む。私はそれを見て今度は神妙になったなーと思った。それが実は紙に書かれた文章を下において読んでいることが分かった。どこまでこの人は世の中を愚弄するのか怒りを覚えた。自分の言葉で顔を上げて謝罪するのが筋でしょうが。
 最高責任者であり、会社更生法により、再生を誓った後も客の食べ残しを使い回ししていた事実が判明(内部告発)、従業員は80名だという。吉兆という暖簾に憧れて働いていた人達への思いを彼女はどう感じていたのだろうか?
 ある意味では私にも言えること。彼女は創業者の娘、2代目である。創業と守成の難しさは、江戸の時代からずっと変わらない。・・・・・虫眼鏡・・・・・・

863:国民総幸福(GNH)Gross National Happiness

世界の趨勢としてGNPとかGDPを経済発展の基準にする。実はこの数字の影に隠れている様々な問題が先進国と言われる国々に内包する。それとは別次元での宗教や政治絡みの紛争も奥が深く、一向におさまる気配はない。
 ブータンという小国。経済発展は国の究極目的ではない。世界に先駆けてGNHを唱えた。GNHあまり聞き慣れない言葉である。和訳すれば「国民総幸福」となる。基本となる考え方が仏教である。健全な社会を「四無量心」によって築こうとする。
 経済至上主義は、富の格差を生んだ。それと同時進行で多くの国民に不満・不安・ストレスが蔓延った。結果として世を儚んでの自殺や痛ましい事件。
 自由主義社会を履き違えている。自分の物は自分のもの、それに満足せず他人の物までも自分の物にしようとする。
 競争社会を意図的に正当化する。市場原理という枠に無理やり填め込み、競争によってより良いものを創出するという。果たしてその考えに確かなルールがあるのだろうか?いくら自社開発で特許を取得しても、担当した社員の引っこ抜きに合い、より価値の高い商品が開発されることは良くある話だ。この延長線上にあって技術進歩の裏に潜む人間不信、そして、不安・ストレス・不満という疲弊社会がある。避けて通れないことなのでしょうか。
 【知的に障害を持った人が、自分の分を食べずに仲間にあげている場面を何度も見ました。】
 ブータンには行ったことがない。インドと中国の大国に挟まる小国が何故属国になることなく存在できるのか!
それは国民が国の進むべき方向に納得し指示しているから。政治の責任として明確な国の姿勢を国内外に示しているからだ。
 一方、例の如く日本の実態に目を向けてみよう。政治を批判するには余りにも空しい。あれだけの数の国会議員を雇える日本もこの辺で考えないとね。政治家の先生は自分達が選ばれているということを履き違えていませんか。自分が偉いと錯覚、なんで忙しいのか分かりませんが地元周りは秘書に任せっぱなし。
 先日のゆうあいスポーツ大会、本人出席の国会議員たったの二名、それ以外はずらーと秘書。確とチェックしました。私は単純だ。出席した先生に投票したいと考えてしまう。正直事務局が秘書さんを紹介する意味がどこにあるのか多いに疑問を感じた。それだけオーナーが重視していないということでしょうよ。それで日本の福祉・・・良く言うよなー。
 彼等の関心事は全く別のところにある。障害者から票は取れないという事でしょう。そうでしょう?違いますか?これが世界トップクラスの経済大国日本の実態。俺あーなんと言われようが構うこっちゃーね。生臭を自他共にとっくに認めてらー。今更、偉い坊様になるつもりなんかーねーだ。
 72歳の女性のラリードライバーの方が今朝NHKに出演していた。彼女は満身創痍、それでも1日100キロを毎日運転している。今度、陸路でパリからニューヨークまで走るという。なんと北極を車で。その方の生き様は刺激的だ。
「今を生きる。今がスタートライン。生きている喜びを素直に感じ。多くの夢と希望を一つ一つ実現していく幸せです・・・・」
 私は、人間の価値観には大差がないと思っている。様々な経験を通して、自分の人生ノートを厚くしていく道程である。
今日は今から草刈り機で頑張ります。ゴルフは腰の回転が大切なんだなー。ブータン!GNHねー!いいね。

864:月日に関守なし

年老いた為だろうか、時がたつのが早く感じる。1週間などあっという間に過ぎていく。悲しい事は、7日前に何があったかということが思い起こせない。なんてこったー。その時々のことに悲しみ嘆き憤る、この感情の起伏が自分の理性をはねのけ闊歩する。いやはや困ったもんだ。
 最近、大阪に住む矢木君より文章添付のメールが送られてきた。昨年訪れた東北の旅で自らがつくった俳句が7編書かれていた。芭蕉の句で有名な象潟(ひさかた)を訪れ作ったものを本人の承諾無しで紹介する。
 *象潟や かすみ朦朧 山隠る
 *廃校や 昔をしのんで さくら咲く
私は象潟に行ったことはない。金浦温泉というところがあるそうだ。廃校になった小学校が旅館になっているという。職員室がフロント、体育館が大広間、ダルマストーブがあり、60前後の女性の従業員の方はこの小学校の卒業生・・・・・・
何か大正か昭和の初めにタイムスリップしたようだ。芭蕉の時代、そして賢治の時代には故郷を大切にする者たちが、そこを旅し、思いを書き残している。その地に守られ生きている文化や風習を日本人の誰しもが懐かしむはずである。心の深層には自然との共生と恵に対する感謝の気持ちがあった。
 その地を今月、ドイツからの訪問者が旅している。そこには東北地方の純朴な人々の生活、厳しい自然に育まれた人の温もりを感じたという。
 旅の最終コースとして選んだのは20代前半共に山を登った友人の墓参であったそうだ。
私はこの両名から暗黙の示唆を受ける。住田は何をそんなに粋がって生きるんだ・・・・。
 政治や官僚への一方的な批判など空しさが残るだけだろう!と言われているように感じた。
自分で心中平静に保つことは至難の業、昨日だった。千葉の保護者会の代表の方からメールが入った。そこには障害者政策への怒りが書き込んであった。早速、返事を書いた。その時の自分は、相手を慰めようとしている自分だった。
 我々はいくら声高く叫んでも、当事者ではない。障害を持っている我が子への熱い思いと比べれば、闘争という言葉にはほど遠い、何か恣意的な運動としてしか思えない。
 日本の仕組みが何かチグハグなのは、連携する運動体が作りにくいという事だ。特に障害者に関わる問題は、枝葉に分かれた数多くの団体が個々に運動を展開する。これが実態である。
  ちょっと目線を変える。歴史を見れば直ぐに納得できる。群雄割拠の戦国時代、地方に点在する豪族がその地域をまとめていた。一向一揆に伺える民衆の叫びは、時の政治を動かす勢いがあった。江戸の長期統治の時代を過ぎ、日本独自の島国文化を築く。そして外国からの開港圧力、司馬遼太郎の書籍に頼らずとも日本人なら誰でもその当時の混乱を知っている。
 その後、未だ戦後処理が終わっていない大戦に突入していくのだ。今、子育てや人間関係で悩む人が増えている。
 良い悪いは別として、戦後生まれの世代は、極貧の生活を体感していない。義務と権利に関しても、本来両者は対に存在するものなのに、義務を果たさず権利を主張する人間が増えた。その理屈に合わない事にすら、誰もが勇気をもって声を挙げることをしない。
 もし、声を挙げたとしても、今の我々狭い世界での運動と同じ、利害優先の私利的なアクションとしか見られない。
”月日に関守なし”ではなく、”関守”そのものが存在しない世の中になりさがってはいけない。

865:言うは易し

ある方に手紙を書いた。すると直ぐに葉書で返事があった。その中には「言うは易し」と書かれていた。
 実行に移すには簡単にはいかないという事らしい。言わずもがなだから、余計カチンときた。世の成り行きに任せるということか。私はひねくれ者なのだろう。そう解することでひとまずその葉書は置いた。
 最近読み終えた今枝由郎という方の本に共感をもった。外国生活が長く、現在はフランスに住んでいるという。端的に言って現在の日本仏教を批判している本。また、その中で上田氏が書いた「がんばれ仏教」にも触れている。売れ筋が良い上田氏の本を内野席から贔屓するチームの応援団と評している。
 外から日本を見るとどう写るのか?その視点を持つべきだと言いたいようだ。
 国が最近、ちらつかせる隠し球がある。法人立ち上げのマニュアルは過去の常識、そこになんら新鮮味は感じない。そうではなく、法人の廃止や合併の指南書(?)である。
 引き金になったのは例のコムスン問題、国の有識者会議等で検討がなされ、法令遵守の重要性から事業者規制:事業所指定取消、そして事業移行(譲渡:合併)の計画書の作成から承継事業者の公募という一連の流れを示している。
 これに敏感に事業者団体が反応、なんてことだ!という怒り、金がないから縮小するのか、小規模事業所は大規模法人の傘下に入れと言うことだ。と反発。しかし、この業界は表裏がある世界だ。むしろチャンス到来と喜んでいる事業者も確実にいるのだ。これが公益法人の在り方検討の真意だ。
 居酒屋のチェーン化は今はどうなのだろう?飲食産業だけではない。葬祭業の世界も同じ。規制が緩和されてから一段と加速した。この攻防に聖域はない。
 さて、昨日経営協の理事会があった。そこでの話。青年経営者協議会という別組織が全社協の中にある。年齢制限が50歳だという。私はもうとうの昔に資格剥奪。しかし、50歳が定年????これって福祉業界の特殊性?
 一般企業では50歳は決して青年ではない。社会福祉法人という傘が何らかの影響をしている。
 もっと微妙なのは、宗教界、終身ですよ。そして60歳になって一人前の世界。これまた宗教法人という大傘の下。
これだって「言うは易し」という一言で片づけられるのか?それであんた良いのか。後悔せんの?悠久の昔より他を寄せ付けず堂々と流れる大河、長江。今、その流域に大きな変化が出ている。
 それは人為的な何らかの影響によって。
 確実に、日本人の心の中に宗教への信頼度が薄れている。今は差ほど表には出ていないが、最近の事件の有り様が如実に示している。「誰でも良かったが殺してみたかった・・・・」加害者の心理は到底理解できない。そして、犯人の逮捕で事件が決着し、世の中からその記憶が徐々に薄れていく。だが、被害者にとっては、この突然の悲劇から生活が始まるのだ。ドイツのヒットラーの時代、障害者やユダヤ人が無差別に殺戮された。この悲劇を二度と繰り返してはいけないと今でもその悪夢と対峙する活動がある。
 一方、この日本では、経済の発展を最優先とするリーダー(?)達によって、実現不可能な夢を追い続けている。
その結果、多くの悲惨な実態に目を背ける。
 私は、手紙で言いたかった事、「言うは易しではなく、先ず言うことから始めなければ」至極残念なことだが、、また住田が始まったという受け止めで終わったようだ。
 5月で理事会、総会が全て終わりました。約20ほどあった会合で事務局が提示した議案に全く意見が出なかった会議が半分、議案に関係ない意見が出されたものが3/1、そして、結構前向きな意見交換があったのが、実に数%。これが現実。

866:界隈漫歩

あてもなく漫ろ歩くには、昨日の日曜日は絶好の日和だった。2件の法事を済ませた後、約1時間程歩いた。知り合いとのすれ違い時には「今日は良い天気になりました。」と声をかけ合う。いつものことだが、日曜日にはGH生活の仲間がそれぞれが楽しみを見つけ時間をすごしている。今日は後ろから自転車でパチンコをやってきたというSさんが声をかけてきた。「どうした?儲けた?」
「今日は良かったよ」自転車の前籠には景品だろうか何か食べ物が入っていた。
 彼等の生き様は多いに学ぶところあり。彼は会社の都合で辞めざるを得なかった。毎日夜の7時頃まで働き、頑張った。親会社の工場移転に伴い、仕事を失った。そして求職中。
 彼等に学ぶこと多し。それは年度途中であろうが関係なく、仕事を辞めるものがいる。自己都合最優先の選択である。業務に支障が残ることなどお構いなし。退職を許可しないという選択は使用者側にはない。逆に解雇した時は不当解雇などと大騒ぎ。これって公平でないでしょう。しかし、この現象は福祉や医療現場で目立っている。
 間に人材派遣会社が入っていることが多い。今より良い条件を示して集める。これはよーく考えてみな、使用者側からすれば2〜3割高い賃金を支払って取りあえず急場を凌ぐ。一方派遣される人間はどうか?会社に何割かの紹介料を引かれた賃金、手っ取り早いというメリットはあるのだが、果たして一生をかける仕事となりうるか?大いなる疑問が残る。
 それに対抗する我々の対応も当然考える。法人全体で固定した部署しかできない人員を減らすこと。どこでもできるオールマイテイなスタッフを増やすことだ。
 それから年中、スタッフ募集をかける。これは考えようではイメージが悪い。人材不足が常態化している印象を与える。実際は違う。余計配置した上での募集だ。今、日本のいかなる事業所も4月を年度の切り替えとして明確になっている所は少なくなっている。役所や学校ぐらいが特例だろうか。我が園もそうだ。以前のように児童の施設があった時は、年度の切り替えは否応無しであった。今、それがない。何しろ利用が長期になっている方が大半である。
 漫ろ歩きの中で、実に多くの事を考えている。私の基本的な見立ては、相手の良いところを見つけ出し認めようとすること。これだけはずっと続けてきたという自負がある。給与に満足していないが、付いてきてくれる多くのスタッフに恵まれている。これが私の法人の強みだと多いに感謝している。
 それに思っていることを相手にはっきり伝えること。時に誤解を生む。しかし、噂が回り回って自分の所に来てどうのこうのという騒ぎは性分に合わないのだ。覚悟の上だが、いずれ分かって貰えれば、それで良いと思ってのこと。
 この二つぐらいだろうな。私がずっと続けて来たこと、それにこれからも同じスタンスでいくことは。
 誰かが言っていた事を思いだした。
「続けるべきことを続ける勇気と止めるべきことを止める勇気」これが実に難しい。
 

867:愚痴愚痴

長電話、相手は某県の理事長兼施設長。此方からかけた電話だが一方的に相手が話す。「ウンそれで要件は?」「あのね・・・」また休む閑も無い程に一方的に話す。これはいつものパターン。想定内。
 要約すると軸になる職員が少しづつ育ってきた。いずれバトンタッチするつもり。これからも求人は年間通して出す。良い職員が見つかれば入れ替える・・・・など。
 電話を切り会議に出るために水戸に向かった。これまた全く意見の出ない会議、議長も気の毒、「賛同されるかたは拍手」パチパチと心なしか自棄気味の拍手。一括上程の2議案はこれで終わり。その他も別に用意されたものは無く実質30分ほどでお開き。これでお終い?
 折角、常磐道850円の料金払って土浦からやってきてこれだー。役員の皆さん暗黙の同意見。「喫茶室でお茶」と私から手真似で合図、すると6人がそのままコーヒー店についてきた。いつものお店のおばさん「あーら、もう終わったの。ご苦労さん」ガックリと疲れを感じた瞬間。
 ここでのダベリングが良かった。施設種別によって大分違う。児童養護施設は職員の異動が少ないという。何故だ?
一方、障害関係、新体系に4月に移行したが職員の確保ができず、障害区分を一つ下げてスタートした。ケアーホームを新設した法人は、世話人の確保に苦労した。施設長も泊まり勤務、夜中に2人無外されてしまったと頭かく。
 当然、深夜に起こった神奈川でのGH火災事故、3人の利用者が焼死したニュースが話題に出る。これは他人事ではない。国はこの対応をどうするか! 以前長崎で起こった老人GHでの6人死亡の火災事故、その後GHにもスプリンラーの設置が義務化された。建築面積285u以上の建物という条件はあるが、今回の事故でまた、厳しい設備条件が付されるだろう。
 しかし、肝心な問題には触れようとしない。要はGH&CHの基準が障害者と老人とでは比較にならないのだ。夜間体制を組めるところですら実態は悲惨。国の方針は2200億円、毎年社会保障費を削減するという。障害者施策はいつも後回し、カット率は潤沢な予算のある事業と同じ。これでは同種の事故が決して無くならない。国の骨太の方針にあるように、不適切なサービス事業所という裁定を下し、退出させるのか!
 今回の火災事故があった法人は神奈川でも歴史があって、本体の事業は素晴らしい取組をおこなっている。施設も立派で法人の理念もしっかりしている。そこでの今回の事故である。
 マスコミ報道によれば放火という疑惑もあるようだ。その原因究明は是非ともやってもらわなくてはならない。
どうも良かれと思ってスタートした改正法が、問題ばかり目立ってきた。
 「規制」と「助成」の従来の仕組みが「自立・自律」と「責任」に変えようとしている。このまま進んでいけば、福祉で働く職員がいなくなり、事業の継続ができない事態になるだろう。同族経営への批判をモロに受けながらも、守るしかない実状をどうすれば分かってもらえるか?
 私の本心を愚痴も合わせて言わせて貰えればだ。日本の景気が悪くなり、福祉職場で多くの人が働く時代に早くなれば良いと思うのだ。そこで自立や共生社会を真剣に誰しもが考えることが今必要ではないのか。戦後の復興は誰しもが認めている。ただ物の豊かさを得たかわりに、大切なものを忘れた。これも誰もが感じていることではないか。目先の改革ではなく抜本的な改革ってそんなものだと私は思う。遊休田畑を有効に活用して自給自足、土に触れ大陽の元で汗を流す。メタボの心配はなくなり、国民総幸福への近道ではないのかなー。
 これには相当の批判は伴うことは分かっている。当然、甘い汁を吸っていながらまだ満腹感になれない輩には、苦汁をなめてもらうのである。高級官僚や政治家の皆さんには過疎地へ出向いていただき、自分の食べるものを先ず自分でつくる。厚生労働大臣はGHで毎週夜勤。財務省官僚は自転車で戸別訪問して税金を徴収すること。国土交通大臣はツルハシ持って道路工事、環境大臣は週末には霞ヶ浦のゴミ拾いとドブ掃除。エーと後は・・・・・もしもだ政権が変わったとしても小沢さん、この意見採用してくれますかねー?
 約束してくれるなら、考えても良いかな。
 スプリンクラーの義務設置などよりも結果としてどれだけお国の為になることか。愚痴が湯水の如しであった。源泉垂れ流し。

868:”憤”を持て

最近、興味が落ちてきたNHKの番組(こころの時代)に久しぶりに夢中でノートした内容だった。致知出版の藤尾社長が出演し、アンカーの上野氏との絶妙な会話、良かった。そして、直ぐに起き出し、知人にメールを打つ。致知出版より本を出した方だったから。以前から致知出版の存在は知っていた。競争激しく活字離れの中で生き残るには、それなりの経営理念(入れ込み)が不可欠、その軸が社長であったことが今回良く分かった。
 ”憤”を持て・・・・・・人生の中で人との出会いを活かす条件として話された。”憤”は生きていくエネルギーの元、憤りをもち且つ感動&感激が大切であるという。
 *他人の短所は誰にでも見える、しかし、人の長所はなかなか見えない。
 *裏切られた恨みは他人に語るな。その悔しさを噛みしめて生きることで人間は生きる智恵を学ぶ。
”一流の人間の条件”
 *目標と一体であること
 *学び続けること
いやー人生訓というか現代の覚者が次から次に出てきて大変面白かった。それからなるほどなーとメモした言葉があった。それは、人間は生まれてくる時、誰でもが天から封書をもらってくるという。しかし、折角もらった手紙(封書)の封を開くことなく死んでしまう人が多い。人生はその封書を開いていく生き方をしなければならない・・・・云々。
 *人生はニコニコ顔の命がけ
 *教育は心に火をつけること。教師自らが燃えていなければならない。・・・などなど。頭がパンク寸前だ。
私なりに整理する時間が欲しい。そこで、早速アマゾンで4冊の致知出版の本を注文してしまった。性急というか死ななきゃー直らない性分だ。実はこのセルフコントロールが厄介なんです。
 どの世界でも言えることだが、名を残す人は、「変わり者」呼ばわれされるものだ。良く言えば妥協のない生き方(底力)だとも言える。民主主義を履き違えて、腰砕け人間を沢山生み、みんなで渡れば恐くないという標語まで登場した始末。
 人間には現状維持はなく、進歩か退歩である。80になっても90になっても人生はこれからだという生き方に憧れる。
 何に一生をかけるのか!創造するには常に危機の中に身を置かなければできない。
ウーム!
 今後の展開は注意して見守りたいことがある。それは神奈川で起こったGHでの火災事故。放火という疑いもあるようだ。しかし、放火であろうが失火であろうが3人の利用者の方が亡くなっている。マスコミは一斉にスプリンクラーが無かったことを強調する。今更何を言うかである。今回の事後処理如何によっては、国の障害者施策そのものの根幹を揺るがす問題に発展するだろう。付け焼き刃的な政策の自己矛盾が表面化した。日本人の中に、以前として燻っている障害者観、それは働く事もできない可哀相な人達、少しだけれども恵んでやろうという思い。彼等がこの世に生まれてきた時に両親の大きな期待を一身に受けて生まれてきたはずだ。そして”障がい”を受け止めるまでに要した家族とご本人の苦悶。少なくとも全日本育成会は同じ思いをした親たちが手を繋いで生きていくことを誓って発足したはず。苦悶の中に必ずや人間としての価値観の共有と信頼があったはず。それが今、微妙な状況にある。関係者の利害と国を動かす人達の思惑、今こそ”憤”を持って事にあたるべき時なのだ。
 

869:バイバイ

思いつきの鶏行動がまた始まった。外灯を5カ所に設置したが、どうもイマイチしっくりしない。二晩ほど、暗くなってから見回った。原因は折角つけた外灯の周りに木の枝が覆い被さり、灯りが上手く照らされないことが分かった。翌日、軽トラックを持ち出し、枝払いをやる。丁度、コスモスの送迎時間に当たり、賑やかだった。
 トラックにのり、切った枝を運ぼうとしていると、一人の小さな子がトラックに近寄ってくる。その後をお母さんが心配そうな顔でついてきた。「こんにちわ」と挨拶すると、その子は運転席に乗ろうとする。「すみません。おじいちゃんがいつも畑で乗せてくれるもんですから」「・・・・・」じゃー乗るかと運転席に乗せると、彼は直ぐにキーを回そうとした。手慣れた感じだ。体を上下に私の膝の上で動かし始め、ハンドルを回そうとする。早く動かせという催促。仕方がないので一周してくる。
 そしてお母さんの所に止まると、まだ下りるのは嫌がった、無理にお母さんが抱え下ろした、すると彼氏は手でバイバイする。そこにスタッフが迎えにきた。「園長です。」と言うと、お母さんは「アラ!マーどうしよう」と申し訳なさそうに頭を下げた。きっと田圃に来たおじいちゃんだと思ったのだろう。私の格好がタオルでほおかぶりしていたからね。チビちゃん、また乗ろうとするが、お母さんにダメダメ。いい顔していたなー。
 障害者の自立支援法がすべった転んだと何度話しても空しさだけ。それがこの一瞬の出来事でなんと爽快な気分にしてくれることか!
 俺は確信したのだった。霞ヶ関や永田町で夜遅くまで何を議論しているのかは知りませんが、皆さんで一度我々の現場ですごしてみて下さい。電卓片手に書類と睨めっこをいくらしてもですね、ダメダメ。仏を作って魂入れずですわな。
 審議会の皆さん、全員でモンペ姿で施設で汗流してみてよ。少しは本気になると思うな!
 それと首相への問責決議を出すとか出さないとか、勝手にやれば。ご本人はヨーロッパで演説してたよ。
 それよりもだな、バッジを付けていらっしゃる方、全員が問責裁判だよ。そこまでもう来ているんだから、その事がわかんねーのかなー。
 多分、先生方は自分の周りにゴマすり人間ばかり集めるからだわな。現実を見ようとしない。だから見なさいよ。七五歳で区切ったなんとか保険を取りやめるるか、それとも減額するとかまた始まった。
 変更に要する費用考えたことありまっか。なんとシステムの変更費用の膨大なこと、茨城の県庁が何個も建つとか建たないとか。それに職員の手当が無限大。ヒャー!!!!
 バッジを全員返還してですよ、無給でやりなさいよ。そうしましょうよ。それが嫌ならどうです。福祉の現場が人手不足でこまってんだから相当額ボランテイアで返しなさいよ。
 問責決議でもなんでもやって下さい。その代わり、民意はどんどん離れていくから。
 中川なんとかという元幹事長の政界と官僚の癒着暴露本をアマゾンで買いました。見出しが良かったね、「自分の政治生命をかけて」ときたー!勧めてくれた方がいたもんで。こんなこといつまで書いている閑がねーんだよ。
 今日も草刈りやんだっぺーとNさんが迎えに来た。

870:法人の名誉

敢えてこんな事で悩むなど遠慮したいと思うこと、有りますよね。組織にあっては個人の名誉と組織の名誉が一体ではない。最終判断をしなければならなくなった時にどちらを選択するか?
 その判断の根拠に残されたものにとってどうなのかという事が大きくなるのは当然のこと。それが途切れなく持続的に起こっているのが組織現場である。
 何か抽象的で何を言いたいのか分からないと思います。それで良いと思います。悪しからず。
 因果応報とは良く言ったものである。原因があって結果がある。
ところで最近の日本人の心の有り様をどう捉えたらよいだろうか?そう思うのは、朝の6時前後ラジオからテレビ番組を聞いてみると解ります。本来テレビは目から情報を得るもの、それをラジオから音声だけで聞くのです。どういった現象が起こるか。
 間があるのです。そして時々のコメント、それはラジオの台本とは異なり、予め纏めたものではなくて話し手の瞬時の感情がそのまま出てくる。
 これが際だつのは事件報道の場面である。聞く側にとって、微妙な間が様々な想像をかきたてる。
 マスメデイアは発信側と受信側の暗黙の了解があって存在する。新聞は活字を通し、ラジオは音、そしてテレビはより進んだ媒体として目と耳に訴える。その取り決め(?)がずれた時に起こる障害。その被害者は送り手側ではなく受け手側に起こる。
 この理屈が実は様々な現象に共通していると私は思うのです。その一番顕著な例が政治の世界です。
最近、急に明らかになってきた官僚の隠れた実態。国の財布を一手に握る財務省の居酒屋タクシー問題。予算時期など徹夜が続くことは容易に想像はできる。しかし、タクシーにのると様々な接待があるという。以前東京に泊まった時に霞ヶ関周辺を夜中に通った時がある。確かにタクシーが官庁の玄関周囲にズラーと停まっているのを変に思った。
 霞ヶ関の言い訳がずれている。公務員法の禁止事項にタクシー会社は入っていないから接待にあたらないという弁明。
 金が無い無いといって予算の削減を毎年行う。それでいて自分達は夜遅くまで残業しているのだから当然だという。
民間だって同じ事をタクシー券もなく行っている。仕事が間に合わないのは自分達の能力が無いからだとは思わない人種だ。制度をより複雑にするのは、自分達の残業を多くするためだという皮肉もあるのですよ。
 このミスマッチが巷に溢れている。
米沢藩の財政危機を救った上杉鷹山が読まれるのは、私欲まみれの国家中枢の人間への国民の警鐘である。鷹山は山形の上杉神社に藩祖謙信と共に眠る。
 平成の時代に地方格差是正を声高く訴える政治家にとって果たして地方が身近な存在になっているだろうか?東京という江戸屋敷に居を置き、地方にはさして優秀でない秘書を置く。全く鷹山とは反対な事を行って平然としている。
 一方、福祉に目を移せば、コムスン折口社長が現代を代表する寵児!とまで一時マスコミは彼を誉めあげた。実態が明らかになれば今度は急転直下、街を歩けなくなるまで追いかけ廻る。
 マスコミには威信に掛けても守る名誉はないのですか?福祉は現場があってものが言える。私が誰も読んでくれずとも構わず凝りもせずに書き連ねる真意は、深山に咲く櫻に価値を感ずるからである。
 その中にあって時に”憤”を露わにする。悟ったように平然と生きることは一生かけてもできない性分だから。