源究59

 

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
706 勇気をもって 11/10 711 ちょっと 11/16 716 新採用募集 11/22
707 潮目を読む 11/11 712 後先 11/18 717 新芽の囁き 11/23
708 ねんりんピック 11/12 713 和耕会30周年 11/19 718 ネット社会 11/24
709 別れ 11/13 714 人生の親戚 11/20 719 先達の教え 11/26
710 散歩ルール 11/14 715 訴える 11/21 720 調整機能 11/27
積雪11/19・・奥日光

706:勇気をもって!

今日はねんりんピック茨城大会の開会式、県立笠松競技場で常陸宮殿下ご夫妻をお迎えして実施する予定だった。しかし、昨夜から降り出した雨は一向におさまらず、競技場での式典は体育館に移動して今頃実施していることと思う。私は、参加できなかった。3日間で50万人動員を予定する今年一番の茨城県での行事だ。
 同じ笠松で一昔前行った、全国ゆうあいピック大会も開会式は台風の影響をモロにうけてメイン会場での式典を中止せざるを得なかった。なんでもそうである。人を集めるイベントは準備が大変、それが自然の気まぐれによって吉と出るか凶と出るか、本番にならなければ分からない。「夢幻泡影」(むげんほうよう)とは良くいったものだ。人生ははかない、あくせくしてもつまらない。
  今、葬儀ができたという知らせをもらった。40代半ば、中学校の教員をしていた方が病院で亡くなった。県民の日が13日で休み、教師仲間が弔問に来てくれるからという遺族の思いがあって、葬儀を13日までのばすことにした。
 私は小学生の時に担任の先生が若くして亡くなった時のことを思い出した。先生は今でいう白血病であったと思う。小学生である我々も献血を自らの意志で行った。先生は結婚されておらず、郵便局に勤めていた先生のお父さんが私の地域の郵便を配達してくれていた。何度か先生の家に遊びに行き裏山で友達と遊んだことなどはっきり覚えている、授業中に何を教わったのかは忘れてしまったが、人間が死ぬということの悲しさを初めて経験した大切な思い出であった。今では先生のお父さん位の年になった自分だが思い出の中では30歳当時の若い先生と8歳頃の自分がそのままでいる。時間が止まっている。
 先生が若くして亡くなると、T先生の事を必ず思い出す。教え子の悲しみは大きいだろうし、本人も好きで教員の道を選んだのだから残念であったと思うなど次から次へ浮かぶ。病気と闘っている人は大勢います。自覚する症状から医学雑誌を家族に隠れて何度も読んだりして。
 「夢幻」で救われることも多い。現実が余りにも厳しく苦しいものであるから尚更だ。信仰心というものも、実は「夢幻」を追い求めることと同じだと思うのだ。ほんの僅かな可能性を信じ、何かに縋る姿が信仰だと思っている。宗教は信じない人からすれば、迷信である。取るに足らないものであろう。仏教的に言えば、自力か他力かという分け方がある。そのいずれを選び歩んでいくかは個人に任される。根底には煩悩や苦しみが存在し、そこからどうすれば解放(解脱)できるかという問題である。
 人間の死を果たして悲しみとだけ受け止めて良いのだろうか?誰もが避けて通れない死を前向きに受け止める事ができないものか、病気との闘いではなく、病気との共生、病は負の侵入者ではなく、NO:705で紹介した松浦弥生さんの自ら綴った「今まで見えなかった事が見え、聞こえなかった事が聞こえる」という真実の声に我々も真摯に耳を傾けるべきだと思うんだ。
 それには何が必要だろうか? 
 自分に課せられた天命を受け入れる「勇気」だと思う。
*ねんりんピックの開会式は雨の中競技場で実施したということです。
 

707:潮目を読む

「必要が有ればやる。必要が無ければ止める。潮目を読むことが大切だ。」連夜のNHKラジオ「こころの時代」から。
NHKもスタンスを変えていると思った。福祉をテーマに取り上げる。これは以前から行ってはいるが、視聴者に選択させる間を感じる。それはどんな事で?
 2日前に取り上げた「ALSと闘う日々」は発芽の段階での地方の小さな活動を追った。いわば障害者自身の草の根の運動にライトを当てたもの。今日と明日は日本でも有数の大規模福祉法人「旭川荘」の名誉理事長江草先生が登場している。利用者3000人、職員数2000人、オムツの数、1日に12,000枚、VSの年間数2万人、法人全体で76施設を経営している。創設者川崎祐宣氏が昭和32年に岡山県で開いた法人の現在の姿である。
 基本理念は「敬天愛人」、冒頭の潮目を読むは、川崎先生と二人三脚で歩んできた江草先生の話である。
 事の起こりは、小児科医として始めた山間僻地への乳児検診にあったという。大学病院勤務が休みである土、日に行ったという。農村の子供達は栄養状態が悪く何らかの障害を持つ子供が出ていた。初期の施設作りには、口コミで募金が集められ、昭和32年当時で1億2千万円集まったというから凄い。補助金制度などがなく一般の人々の善意が基金、それ故に「県民立」という肩書きを今でも掲げる。
 一体76施設をどのように運営:経営されているのだろうか?気になって旭川荘のHPを覗いてみた。年間収入130億円、決算書も細かにのっており、開かれた経営がなされていた。理事総数も36名、これまた桁違い。各分野の名士が名を連ねる。当初は医療と福祉の相互補完の仕組みをつくることに重点を置かれていた。今、関連法人で専門家を教育する大学まで経営する。
 旭川荘の強みは、法人が某高校の修学旅行先になっている点でも伺える。学生の時に福祉に関わることがこのような形で既に出来上がっている。
旭川荘の荘歌に「ゆずり葉」というものがあるらしい。その1節、親が子に向かって
 「みんなお前たちにゆずっていくために いのちのあるもの よいもの 美しいもの 一生懸命に造っていきます」
 今、全国的な運動を展開している入所施設の保護者会は自立支援法によって入所施設を出なければならなくなるという危機感から起こっている。私自身、茨城県には無かった施設保護者連絡会をつくろうという言い出しっぺ、だが、注意しないと本人不在の運動になる恐れがある。また、あまり触れたくは無いことだが、折角貯めた子供の年金を充てにする親もゼロとは言えない。
 江草先生がいみじくも言った言葉、一人一人が募金したお金で出来上がった施設は、皆さんの感心も強いし、支援したいという気持ちが自然に湧く、だから「県民立」。その考えが基本にあるのだ。
 また、潮目を読むという言葉の真意は、本当に利用される方が必要な事業は続けるべきだが、制度や施設の維持:経営優先の事業は時期をみて止めるべきだということと理解した。
 日本には長年の積み重ねによって、大規模の事業体になった法人がいくつかある。その最高責任者の生活は実に質素である。聖隷事業団の長谷川先生、旭川荘の江草先生など。
 急速に事業拡大をはかった人達も片方には存在する。そのトップの生き様は、全く逆の人もいる、自分の生活は贅沢三昧、いかに利益を得て、事業を拡大するか、妙なものでその人達には長谷川:江草両名のような明確な理念に基づく牽引力は微塵も感じない。寧ろ、いつか尻尾を掴んでやるという輩が周囲に大勢いる。驕れるも久しからず。当に歴史が証明しているし、組織の崩壊は一番身近なものから起こる。
*江草先生には先月、研修会の席でお会いしたばかりであった。寝不足でなければ12日の朝4時6分周波数594ヘルツ。

708:ねんりんピック

霞ヶ浦体育館(土浦市)
剣道会場&福祉の店

11/11
茨城県が開催県でねんりんピック2007が開催されている。60歳以上の方の国体?。県内何カ所かに会場が分かれ、全国から選手が集まる。土浦市は霞ヶ浦体育館での剣道競技だった。福祉の店を屋外テントに出しているので、法事が終わってから覗きにいった。生憎の雨で店の前にはお客さんがまばら、店番している職員に尋ねると売れ行きは芳しくない。私などセルプで前もって購入しておいたロゴ入りテーシャツをこの寒いのにわざわざ着て行ったのに。
 朝早くからまんだら工房のスタッフがこしらえたパンの売れ行きが気になった。天は味方せず!
 体育館の中に入ってみる。会場が4つのブロックに分かれ、既に予選が行われていた。茨城はA:B2チームが出ている。開催県の特権だろう。正式な剣道の試合を始めてみた。審判は3人つく、赤白の旗を持ち、赤を3人上げれば赤の1本、全員が一致した判定でないとノーカウント。暫くみていたらルールが理解できた。
 60歳以上が条件である。先鋒は元気で若い人がどこのチームも出してくる。大将になると70歳を越えた白髪の方が目立つ。5人一組、2本先取したほうが勝ち。
 ちょっと気になったことがあった。負けても勝っても選手は喜怒哀楽を表さない。淡々としている。茨城チームの応援団が会場に詰めかけていた。勝ち負けの歓声は凄かったが、選手はしらんぷり。
 これが古来からの武士道なのだろうか?試合中は微動だにしない。
 また、勝負の判定、どちらが勝ったのか負けたのか旗の色を見ないと私には分からなかった。一瞬の出来事である。
 しかし、もし、真剣で闘った時代ならばどちらも痛手はすごいだろうーな。全く剣道の極意を知らない私には観戦する資格はない。
 暫く観戦していたが、帰ることにした。駐車場の誘導係は土浦市の職員があたっていた。
 日本は平和だなー。

 *今朝のこころの時代を聞かれましたか、私の正直な感想
 江草先生のお人柄は以前から知っていましたから、話に出ない部分での深みを観じながら私は聞いていました。でも、まったく初めての方には、(先生は決してそんな気持ちはないのですが)、自慢話みたいに聞こえた方もおるかも知れません。だってそうでしょう。実に76施設を一つの法人が経営しているんですから雲の上の話。正直、私は大規模故に運営の難しさを聞きたかった。そりゃー無理な注文ですね。江草先生の偉さは医療と福祉を結びつけた点にあると思う。この業界にも糸賀:田村:池田:菅:妹尾先生・・・など錚々たる人物の功績があって今がある。
 若い頃、私はそれら先輩のおこぼれを頂けないだろうかと会いに行った。既に亡くなっていない先生もおられたが、それでもその足跡を見に出かけていった。
 共通する点があることを知った。それは、先生達に薫陶を受けた人が必ず育っていることだった。法人を先生亡き後引き継いでいる所、或いは違った法人を自ら立ち上げている人達だ。教えの継承とでも言うのか!
 しかし、憂いが無いといったら嘘になる。今、なんでも有りの時代、何が大切かが見えなくなっている。多種多様な価値観が謳歌され、経済発展=人間の幸せというルールが大きくなってしまった。対テロ特措法の期限が切れ、日本の判断を世界の人々が見つめている。そこで行われたドタバタ騒ぎ、どうやって辻褄合わせをしたら良いのか。私は国民の判断を仰ぐべきだと思う。しかし、現実は今選挙に突入すれば、どっちに優位に働くだろうか、これが最大関心事。議員定数を減らすなどという論議は化石となってしまった。先生達がおおすぎるんだーよ。全く。半分でいいんじゃーねーの。閑だからだろう、政策調査費など誤魔化して研修旅費に充てたりして、誰が考えてもおかしいよ。
 世界の視線は、実は日本の政治:官僚のその辺の事を国民がどう捉えているかを見てるんだと私は思う。

709:別れ

また悲しい別れがあった。48歳の中学の先生の死。中1、小5、小1の3人の子供さんと奥さんを残して。
 昨夜の通夜は弔問に来られた数がものすごい人数だった。教え子や同僚それに3人の子供達の友達だったと思う。最初に喪主の焼香を行った奥さんの脇に3人の子供達はピッタリと寄り添って、焼香される人達に何度も何度も頭を下げていた。残された奥さんと子供達に、どのような慰めの言葉を掛けて良いのか誰もが言葉を見いだせない。とても重苦しい中での通夜が終わった。
 私は、今まで何度も何度も人の別れに立ち会ってきました。故人にとってこの世での生活はどのような人生だったのだろうか?通夜の前に「小1の末子には父親の死を理解することは難しいかもしれません。今も走り回っていますから・・・・」と奥さんが話していた。
 2月に手術を行い5月には復職したという。体調が万全で無い中での授業を生徒達はどう感じただろうか。病院での生活はつらい。良くなって早く今までの生活に戻りたい一心で過ごしたに違いない。不条理という言葉で言い尽くせない。病名の告知の是非が問題になるのは、受け止める側の問題である。
 そして最愛なる人との別れは最も大きな悲しみとなる。一家にあっての大黒柱が急にいなくなるのだから、自暴自棄になって当然だと思う。子供達をどのように育てて行けば良いのか!生活や進学のことなど考える余裕すらない。 
 遺族にとって別れの事実を受け止め、これから予想される苦難を乗り切っていくには時間が必要だ。それに、挫けそうになった時の周りの支えも。
 どうかお父さんの意志を引き継いで若くして亡くなったお父さんの分まで長生きして欲しい。家族が力を合わせれば必ず良いことが巡ってくるし、いつでもお父さんが見守っている。そう信じることができなければ、余りにも惨い世の中だ。
 時間は家族の悲しみとは関係なく過ぎていく。
 昨夜に続き、葬儀では多くの人々がお別れに来られました。校長先生と生徒代表の弔辞は多くの参列者の涙を誘いました。棺は生徒達が両脇に並んで見送り、先生のご威徳を観じました。心からご冥福を祈ります。
 

710:散歩ルール

 以前にも増して寺の周辺を散歩する人が目立つ。時間帯は午後が多いようだ。ワンちゃんを連れてのご夫婦や両手を大きく振って早歩きする女性、道端の花に目をとめながらゆっくり歩く初老の男性など。
 何しろ車が殆ど通らない道だから、地域の人々がウヲーキングするには絶好のコース。以前、地域散策コースという本に紹介された事があった。私としては外トイレを新しくしたり。道に落ちているゴミなどを拾うように心がけてきた。
 私も尚恵学園までなるべく歩くようにしている。すれ違う人がいると必ず私から「おはようございます」と声を掛ける。
 中には笑顔一つ見せず聞こえない振り?をされてすれ違う奥さんもいる。確かに公道だから歩くのは自由、でもどうだろう。もし子供連れで散歩されていて挨拶もしないお母さんの態度をみたら。  取るに足らないことかもしれない。でも、私はここが大切だと思うんだな。地域で生活をすることは、大体お互いがどこの人だ位は分かるものだもの。
 こんな人に限って、あそこの家の木が道に出ているとか、たき火をしていたりすると消防署に匿名電話する。これって私の偏見だろうか? 多分そうだろう。
 最近続けてそのような事があったから尚更神経過敏になっている。一つは土手の竹を田圃で燃やしていたら、ダメだということになってしまった。仕様がないと業者に依頼することにした、なんと産廃で竹を処分するとなると50万ほどかかると言う。
 県の土木事務所から写真入りの手紙が届いた。県道沿いの木が道側に出ている写真。私の所の木ではないかという。もしそうであれば早く切るようにという。良く見たらその場所は私の所の木では無かった。事務所まで行き、説明してきた。
 担当者の方は恐縮していたが、最近は市民からの通報が多いという。有れば対応しなければならないという説明だった。
 権利を主張することは良いと思う。しかし、義務もあるんじゃないか、これが私の言いたいところ。
ワンちゃんの散歩だが、袋を持って歩いている人が殆どである。だが、それでワンちゃんの落とした物を拾って行く方はあまりいない。義務も形から入ると始末が悪い。
 話は飛躍する。私が好きなテレビ番組に「所さんのダーツの旅」がある。ご存知の方もいるでしょう。日本地図にダーツを投げ、ささった所をスタッフが訪問するというもの。編集の裏事情は分からないが、実に面白い。ターゲットはお年寄りが多い。
 車の窓から「今 何をやっているんですか?」と尋ねると「おめーさん達 どこからきなすった?」(方言により微妙に異なる)
 「東京です」と答えると「ヒエー  どうして そんな遠いところから」というお決まりのパターン。そのやり取りが実に面白い。
 何故だろうと考えた。
 それは、縁も無い人が突然声を掛けてくることに対して、拒否したり無視するのではなく、喜びと笑顔で答えるからだろう。
 すれ違った時にお互いが「お早うございます」と声を掛け合うことにどれだけの負担(お金や労力)がかかるのだろう。
 これが散歩する人やワンちゃんのルールでありエチケットじゃないかなー。

711:ちょっと

「おはようございます」
 ・・・・NHK番組は、皆様の受信料によって作られています・・・・
 最近、NHKの番組を見たり聞いたりしていると良く出てくるテロップ。大分視聴者を意識しているなーと感じる瞬間。
さすれば、「お寺は、檀家さんのお布施によって維持されています」「尚恵学園は税金によって賄われています」ということになるはずだ。だが、正直に申しますが、その辺がイマイチびしりと決まらない。感謝の前に何かが立ちはだかる。それを突き詰めると自分の至らなさを痛感するのだ。
 この世の中は、騙し合い?そうじゃーないはず。俄知識で恥ずかしいのであるが、パスカルという方は実に面白い発想をされていたようである。白黒をはっきりするようなものではなく、寧ろ東洋的仏教的といった思想の持ち主とか?
 ちょっとニュアンスは違うのだが「中道」というものにより近い。
 勝ち組負け組や格差など最近流行の言葉、突き詰めていくとインスタント民主主義信奉者らの騙しうち。そうかといって社会主義OR共産主義を選択する勇気をも持ち合わせない日本。何か限りなく将来に不透明な感じを持ってしまう。社会主義総本山の中国の急激な経済発展の裏に潜む貧富の格差は日本の比ではない。
 現実を有りの儘に見つめる眼を持たず、誰もが怖がり、無視したり、避けて通る。
 最近、埼玉県の某施設長からFAXが転送されてきた。その内容は衝撃的であった。ショートステイを利用されていた女性が施設で死亡した。その対応に不信を抱いたご両親にある方が紹介してきた弁護士。Fax の記事はその当事者施設(訴訟相手)の機関誌に特別寄稿された原告の父親の文章、事件につけ込み被害者を騙し、事業所側を脅す、信じがたい悪徳弁護士の行状を父親が勇気を出して暴露していた。これを皆さんどうみます?
 これが世の中なのであろうか?
 もし、それが事実とすれば弁護士であろうが何らかの社会的制裁を受けて当然である。 昨日の参考人尋問(参議院)をラジオで聞きながら水戸に行った。 夕方のニュースは元防衛省次官の発言した現職政治家2名の話ばかり、だが冷静な国民は違った見方をしていますよ。「山田洋行とかいう新興商事会社から野党の代表者の後援会に多額の寄付があったではないのでしょうか?その話はどうなったの?既に返金したからもう良いのですか?」 元次官が退職金を受ける資格は無いと自ら述べたという報道もあった。当たり前の話だ。刑事事件ならば、その罪を償うとも。しかし、どうなのよ、そのルールを採用すれば世の中には困る人がワンサといるんじゃーないでしょうか!真実を暴く側の政党が身内に灰色のカードを持ちながら攻めきれるのですか?告発&情報横流しの泥試合。
 これが世の中なのでしょうか?
 確かに政権を受け持つことが可能な二大政党は理想。長い期間実質一党独裁の政治が様々な問題を醸成してきたといえる。良否は別として、ドイツの大連立は戦後処理だと思う。だってそうでしょう。ベルリンの壁が崩され、東西ドイツの融合はそう簡単にはできない。現実への危機意識が日本とは全く違う。真剣味が違い過ぎる。その苦しみの中から議会制度や社会保障制度を練り上げた。
 気になって仕様がないのですが国会を1日延長するといくら経費がかかるのでしょうか?余りにも本論を討議する時間が無さ過ぎませんか、無駄をムダと感じない規範喪失、なんと言っても原則は政治を志す人の問題でしょうよ。この状況は政治への(若者から年寄りまで)無関心層をますます増やすことになりませんか?
 *概説「パスカル」(1623〜1662)
 「人間は考える葦である」は有名、この中で人間は自然の中では矮小な生き物にすぎないが、考えることによって宇宙を超える。人間に無限の可能性を認めると同時に、一方では無限の中の消えゆく小粒子である人間の有限性を受け入れる。・・・wikipediaより・・・

712:後先・・MOON

月周回衛星「かぐや」が2007/9/14に打ち上げられ、月の高度100qをまわっている。かぐやからのハイビジョン映像が先日NHKより放送される。地球の出(Earth-rise)と地球の入り(Earth-set)、38万q離れた月からの鮮明な画像である。上が南で下が北、雲の隙間から大陸が見える。私は高校生の頃、望遠鏡を買って、お寺の庭に夜出てよく眺めていた。こちら側から見る月は、でこぼこで表面の色も単色、どうみても生物が住んでいるようには思えない。しかし、夢を感じた。それがアポロ計画で月面着陸という新たな時代に突入、子供の宇宙への夢は更に広がった。JAXA「宇宙航空研究開発機構」の関連施設でつくば市に宇宙センターがあり、この50年で目まぐるしい宇宙開発の進歩を見学できる。当に今回の驚きはリアルタイムで月側から地球を映し出したことにあった。錯覚に似た妙な感じになった。今テレビを見ている自分が、画面に映る地球の中にある。後先なし。
 宇宙開発は商業ベースでも様々な分野で利用されている。googleの地図検索を行えば、誰しもあっと驚く。
 何しろ拡大すれば庭に停まっている車まで映し出される。(言っておくがこれは録画である)
今、アメリカが恐れているのは中国が有人衛生打ち上げに成功し、その技術が軍需産業に利用されることだという。
 だがこれだって「後先」というものだ。いずれ技術というものは追い付き追い越されるものだろう。何しろ世界中の技術者がアメリカに集まり研究している。情報筒抜けである。いくら法律で規制したところで流出を防御する術はない。逆に、この技術競争が進歩を促してきたという妙な関係は否めない。
 この一連の動きを進歩と取るか荒廃(破滅)と取るか? 選択する者が人間だからいつの時代になってもリスクは伴う。
その同じ地球の日本で繰り広げられる・・・高齢化・少子化・環境破壊・・・・年金問題・防衛疑惑etc・・・・現実の課題をどう整理し位置づけたらよいのでしょうか。 簡単に言い切るとすれば、前項に紹介したパスカルの「無限の中の消えゆく小粒子である人間の有限性」を人間一人一人がどう受け止めるかということに落ち着くのでは。
 今の日本で大きな問題になっている自殺について、ここ10年、年間3万人を超えてしまっている。毎日90人ぐらいの人が日本のどこかで自死しているのだ。世界的に見て、発展途上国に於ける自殺者の数は決して多くはない。その日を生きる事に精一杯だからであろう。その点、今の暖衣飽食の日本では一向に自殺する人が減らない。何故なのでしょうか?
 私は僧侶という役回り上、今までに何度もそのような現実に立ち会わざるを得なかった。原因は一概に言えないことである、しかし、何もそこまで考え過ぎなくても良かったのに、もっと違う見方をすれば・・・何か先を読みすぎてしまっているのではという思いは常にあった。
「後先」は実に難しい。我々は何の為にこの地球に生まれてきたのか? 生命の尊厳はいつの世にも大きな大きなテーマである。
 医療や福祉それに教育は、人間の尊厳を保障する社会の仕組みであって国民が自らの意志で築き上げるものであろう。その事が宇宙開発と同じコマーシャルベースで考えようとしたことに様々な不都合が生じてきたと私は思う。未だ未解決な防衛省疑惑に関してだけ見てもそうだ、全て金と権力が絡む問題である。元の防衛庁長官2名の今後の身の振り方に私自身あまり関心はない。どの辺で手を打ちますか!という感覚鈍麻の世界に期待できないもの。
 それよりもなによりもこの地球上で生きて生かされている事実を真剣に誰もが考え行動することが大切でしょう。そう思いませんか!
 

713:和耕会30周年

常総市(旧水海道市)にある社会福祉法人:和耕会が昭和52年の創立来30年の記念行事を行いました。そこで感じたことを書かせて頂きます。
 常磐道の谷和原・守谷インターで下りて15分で小貝川沿いの集落 坂手町に着く。守谷や小絹地域の開発は久しぶりに来た私には道に迷うほど進んでいた。和耕学園はかしわ学園の直ぐ隣りにある通所授産施設定員30名である。山田理事長や斉藤施設長には大変お世話になっている。当日は尚恵学園でも親の会(総会)があったが、和耕会を優先した。
 正直な感想を述べる。何か私が忘れかけてしまったものがそこには歴然としてあった。施設は集落の中にあり、正直近くまで行ってもどこにあるのか迷う。一般住宅との垣根など全く無く、違和感も感じない。屋外マイクから放送される案内は近所迷惑?を心配してしまうほどボリュームが上がっている。記念式典に準備されたテントはこぢんまりしたものでマイクが1本置かれていた。前日、斉藤園長より出欠確認の電話をもらっていた。「県は来ませんから」という。来賓席には常総市を初め近隣の市町村の福祉関係者が座る。式典が始まる時刻10時には大分気温も上がり、テントの内側に貯まった滴が時々私の毛の無い頭に落ちる。中央テーブルには金色の布袋様?が置かれていた。誰もが不思議に感じたに違いない。この理由は後で挨拶された台湾のお客さんが持ってきてくれたものと分かった。
 式典と同時開催の和耕祭には近所の方だろうか、オープン前から施設の玄関に並んでいた。目的はバザーに出される陶器や花を買い求めるためかもしれない。
 「こだわり」&「かまえなし
 この2語は矛盾する。しかし、和耕会の基本理念は山田理事長の挨拶から充分理解できた。30年の歩みの中でこだわり続けてきた「子は宝・・・」という親たちの思いが創立から30名定員で増員もなく通所施設を続けているのだ。それにかまえなしだが式典の持ち方にそれを感じた。けばけばした派手さなど微塵も感じない。手作りの式典だった。これで良い。これで良いんだよ。
 私は式典が終わって直ぐに土浦に戻った。
 尚恵学園は昭和31年に創立、昨年が50周年だった。忘れてしまった。親父に申し訳ないという気持ちもあったが既に遅かった。職員に「障害者の経済学」中島隆信著を贈り、それでおしまい。バチがあたるかなー。その気持ちが心のどこかにのこっていたのだ。それから何度か式典に招待される。地元選出の金バッジの方や訳の分からない人達の挨拶にうんざりした。だってそうだろう。事前にもらった資料から話す内容は全て同じだ。そして今回の和耕会、正直ホットしたのである。
 私は基本的には本当に喜んでくれる人達だけで祝えば良いという考えだ。砂上の楼閣というではないか、いくら見栄を張ってみても駄目なものはダメ。
 私自身、自分に自信が持てないからだということは分かっている。上辺をいくらペンキで塗り立ててみても所詮メッキは剥がれ落ちる。ありのままに見てもらう事に苦痛を感じなくなるにはまだまだやるべき事が山ほどあるわけだ。
 そう自分に言い聞かせている。尚恵学園に戻った頃は全体での話し合いが既に終わり、8つのブロック会毎に輪を作って熱心に話し合いが持たれていた。私など出る幕がない。これで良い、これで良いのですよ。

714:人生の親戚

『人生の親戚』大江健三郎:新潮文庫
 最近の世の中の流れは、淀みすら押し流す勢いで一気に海まで達する。(河川の改修によってストレートに流れがなったことにより、自然体系が見事に変化してしまった。)子供の頃、家の近くの小川で魚釣りをした事をふと思い出した。川幅1メートルに足らない小川で少し水深が深いところ、そこが淀みになっていて、ウキの動きが止まり、魚が餌に食いつく瞬間が掴みやすい。淀みは川に住む魚たちにとって絶好の住処になる。
 最近、本屋を何度か覗いたが、目に止まる本がなかった。家の本棚を何気なく見ていたら『人生の親戚』という文庫本が気になった。大分前に買った本で読んだ記憶はない。
 大江健三郎さんは自分の子供に光さんという自閉症の方がいる。特に音楽に才があって、なんどかマスコミで取り上げられている。この本の中の主人公倉木まり恵には2人のお子さんがいる。長男ムーサンは智恵遅れ、弟の道夫は健常児。ムーサンを自分が引き取り、次男は夫にゆだねて離婚した。・・・・・中学生の道夫はその後交通事故で下半身マヒ、そのために、まり恵は再び夫と道夫と共に暮らすようになった。
 車イスに乗った道夫、それを押したムーサンは、断崖から身を投げて自殺する。。。。。どうして私だけがこんなめに会うのか!不幸や苦しみを嘆き不条理を呪う。しかし、まり恵の生き様は決して淀みに留まるものではなく、正面から体当たりでぶつかっていく。その生き様から「文化の病」や「時代の闇」を引き受けているという思いに至る。そして現代を生きようとする我々に深い示唆を与えるのだ。
 解説を書いている河合隼雄氏の論評にそのことが書かれていた。
 障害がある人やその家族、それに我々福祉に関係する者が余りにも障害者を美化し情に訴えすぎていないか!障害者の持つ素晴らしさを認めることに吝かでない。だが障害者であっても醜さ(?)を持つことも事実。その彼らの人間としての有りの儘の姿を認め受け入れることが一番大切だという。障害が有ることで誰もが望むであろう恋愛や夢&冒険を棚上げしてしまっていないだろうか?
 その事を大江は主人公まり恵を通じて我が子「光さん」との人生とダブらせ模索する。
 「人生の親戚」と題したこの本の真意を理解するには、余りにも表面的で薄っぺらな部分で右往左往している自分がある。
 精神論に身を置きすぎたのではないかという反省とちゃんと地に足をつけて彼らとの関係を再構築(回復)すること。この事を避けてはいけない。そしてこれらとどう付き合うかによって我々の人生の在り方が決まると思う。
 今回はちょっと難しかったでしょうか? だって相手はノーベル賞作家だものしゃーないな。同じ仏文科でも偉い違いだ。
  うい ボン ソワールーだ!

715:訴える

やけに張り切っているなーと感じて読んでくれている方がおるかもしれませんね。今、朝の4時半をまわった所です。次から次ぎに浮かんできてしまうのです。だから以前と比べ性懲りもなく毎日の様に書いています。病気かもしれませんね。まー良いか!飽きたらいつでもサイナラで結構です。
 夕べは前記の「人生の親戚」の後半を読みながら寝たんです。そしたら、様々な事が頭に浮かんできて、眼がパッチリ。
 障害者の醜さ(?)という所「P30」がネックになって眠れない。一体何をもって倉木まり恵はそこまで言いきったのだろうか????悶々とした中でもうどうしようもなくなりPCに向かってしまった。いつもそうだが下書きなどせずに思うことを書き連ねていくんです。
 昨日のことだった。家族会の場で、遅れて途中から参加した私にNさんのお母さんが申し訳なさそうに話しかけてきた。「すみませんねー。Nが我が儘なことばかり言って!」最初何を言っているのか分からなかった。
 Nさんは,私と会う度に成人寮に行きたいと訴えてきた。手真似で頭に載せた手を上に上げて、成人寮の方角を指さす。
大きくなっら成人寮に俺は行きたいという直訴だった。そして、今回自立棟なる建物を成人寮に建て、彼が厚生園から一番に移ることになっていた。それがどうだろう!一日行ったところでもう嫌だという。その理由を彼はしかめっ面をすることで拒否した。
 何か不満なことがあるのだろう。いつものことだからと思う気持ちがあってそれ以上は詮索しなかった。そして今日、私が寺の庭掃除をしている所にまんだらでパン作りを終えたNさんが私の所にやってきた。
 「どうしたのー。成人寮はダメか?」と私が言うと、急に表情が険しくなって「やだー」。それから次ぎがあった。この場所に家を建てろと手真似で訴える。観音寺の境内に自分の住む家を作れというのだ。「ここに作るのか(笑)」・・「うだー(真剣)」
その事をお母さんが私に気兼ねして謝ってきたのである。 全く私は気にとめていないことだから正直、恐縮した。
 メンバーさんの中には様々な訴えを私に向かって言ってくる。不満や希望や夢など、中には不自由な視力でいながら、わざわざ私の部屋まで来て私の手をきつく握り1階の部屋まで連れて行く。彼女はビーズ通しのセットをしまってある棚からビーズを出してくれと要求する。
 この忙しいのに・・・・・なんで自分が望んだことなのに・・・・・という気持ちは正直私の中にある。
ちゃんと地に足をつけて彼らとの関係を回復するという自責の想いは、いつものことながら後付け。
 大江はまき恵の言葉を通し、今の世の中を「最良な人達は確信を失って、最悪の連中が、激しい情熱にかられている・・・・」と断言する。「前本:P131」
 現実社会ではそうは言っても人間は 誰もが安住の地を求め彷徨うものだ。万が一「解決」の方法を見つけ出したとしても、常に悲しみや苦しみと共に生きながらでしかないことを承知した上で。そこで今回の障害者の醜さという意味に拘る、私なりに考えつく事は「醜さ」を「我」という概念に近いと思うのだがどうでしょうか?我欲の我ではなく、仏教で言う「入我我入」の我である。前者は四諦で説明される苦の原因になる我、後者は英語で言えば「identitiy」独自性&主体性に近い。
 ちょっと私の悪い癖がでてしまったようだ。
追記:
 人生の途上で耐えがたい悲しみに直面したとき、人はその事実をいかに受けとめ、その後の人生をどう生きうるのか。
知恵遅れの長男と事故による障害で車イスに乗る次男・・・二人の息子を同時に自殺で失った女性が、その悲惨を真正面から引き受け、苦しみの果てにたどりついた生の地平は? 魂の癒しを探り、生きることへの励ましに満ちた感動的な長編小説。・・・・裏表紙より・・・・ 

715:新採用募集

先月の就職説明会をつくば市で開催してから、来年採用の募集を本格的に始めた。いつものことだが今頃始めているのだから遅い。それは承知の上である。来年は2名の採用を考えている。10月になってから6名の方から見学の申し入れがあり、随時職場案内を行う。
 今、福祉の現場はどうも敬遠されている。求人側からすれば冬の時代。その中で6名の申込があったのは感心して良いのかどうか?様々な方が履歴書を持ってくる。事業所としての本心は新卒者を優先したい。中には出身地が土浦近辺なので実家の近くの施設ということで希望される人もいる。既に結婚されていて家族もあり、経験年数も結構ある方、実は採用する側ではそのことが正直ネックとなる。現在働いてくれている職員とのバランスや採用後の条件が気になる所。特に子供さんの教育に経費が嵩む年齢の方は再就職は難しくなる。本人にはっきりその事は伝える。
 私の法人では求人案内は県の人材センターと県内には2校だけに送った。聞くところによれば全国に募集を掛ける法人も多いという。私の所は贅沢なのか否か!もう一つの方法としてHPに職員募集をのせている。結構、それを見て問い合わせする方が最近は増えている。
 新採用者との面接と平行して職員との面接を行う。時間的に空いた時をねらって行うから遅々として進まない。
 昨夜、市内の障害者関係事業所と土浦市との協議が夜行われた。私が提案したもので、課長さんが賛同してくれて実施している。約50名が集まり、昨日は新たに設置する障害者自立支援協議会の説明をメインに会合が持たれた。三障害すべての事業所が集まると二時間という設定時間があっというまに過ぎてしまう。
 障害がある人は、単一の障害だけではなく、複数の障害を合わせもつ。その意味では他の障害事業所の話も大変参考になるわけだ。市の直営の事業所の職員も参加するから官民の役割を確認する意味で大変意義深い。
 土浦市の中川市長は「日本一すみやすい街つくり」を公約に掲げ現在二期目。私の高校時代の先輩にあたるので親しくさせて頂いている。土浦市内には社会福祉法人だけの事業所が27箇所ある。先月、その連絡協議会を発足した。土浦社協が事務局となっている。それに昨夜の障害者自立支援法に対応すべき勉強会?。
 国で行うことは今の時代少なくなっている。県は広域的なバランスを考えての事業を主に行う。そして住民により身近な市町村の事業が増えた。末端での格差は相当大きい。しかし、いつまで不平不満を言っていても仕方がない。当事者としての責任を果たすべきである。先ずアクションを起こすこと、そこから問題を見つけ出し、何が必要とされているのかというニーズを掘り起こす。結局はこの方法が一番早いし、一般の人々の関心を得る。
 今、様々な事業主体が参画している。NPO法人格をとって行う事業所も多くなった。尚恵学園は土浦市では障害者へのサービス事業所としては一番古く、50年以上たっている。そこでの我々の役割も当然果たさなければならない。その責任は痛いほど感じている。
 今年、相談支援事業の委託を受けた。市内に4箇所ある。その中で尚恵学園が相談時間帯が一番短いのに気づいた。午前9時〜午後3時。他の事業所から休日や夜の時間帯までサービスを拡げられないのかという要望があった。確かに親方日の丸の営業時間帯である。直ぐに担当者に変更を指示。しかし、実態は365日24時間対応している。入所型施設の宿命だし、生き残る一番の強みがそこに有るのだ。レスパイトの市内登録者が既に100名を超えている。

717:新芽の囁き

自立支援法のゴタゴタ騒ぎの中で、確実に新しい芽が出始めている。茨城県心身協の支援者部会主催の研修で宮城県の仙台ローズガーデンを視察に行った。詳細な報告は未だ聞いていないが、通所授産施設という従来のイメージを根本的に変えざるを得ないものを感じた。法人設立の発起人会のメンバーの顔ぶれや事業の内容が全く違う。
 歴史を見ても新しい福祉の発芽は地方からであった。地域資源を活用した制度に乗らない仕組みが出来やすいのが一番である。それに都会にない自由な発想と機動力、これが条件だ。東京や大阪、名古屋大都市圏にのみ今の豊かさ?が集中している。しかし、私は都会が好きになれない。それは人間らしさや自然を失う環境があまりにも揃い過ぎているからだ。利便性と裏腹なものの中に本当は大切なものがある。東京にいて一人になれる場所って、さてどこだろう? 銀座の高級なカフェテリア、いやーそんなはずないなー。ホット一杯800円で何時間粘れますか。そこに気づかせてくれるのが障害がある仲間達だ、私も彼らから本当に多くのヒントをもらった。そして今も尚、慰めていただいている。そういう事なんだよなー。急いで坂を登ろうとすれば息が切れる。無理するから階段を踏みはずす。現在、GHに若干2名ほど骨折して休んでいる方もいるのはいるんですが、それをいっちゃーお終いよ。
 そんな風に感じさせるにピッタリの絵が私の手元にある。(上記)
 彼はまんだら工房に毎日GHより自転車で通勤するKさん。彼が描いた絵を今まで見たことがなかった。工房スタッフのIさんが見せてくれるまでは。
 絵の中に書かれている文字を紹介しよう!
「なんとかなるさ!!」「元気が一番」 「まあがんばれ・宇宙一」 「夢は」 「おつかれさま」 「ありがとう」 「ファイト!一発」
「今日もがんばれ!」
 これらの言葉から貴方は何を感じますか? 真ん中に描かれたお日様はニコニコしている。そして背景の青は空を表現している。 彼らが作業場でいつも言われていることなのかどうか知らない。でもKさんが自由に書いた絵。
 ほのぼのとした笑顔と背景に書かれた言葉のコントラストが実に清々しい。
 新芽はこれから冬に向かう時期に土の中でゆっくり休み、栄養を蓄えて春を待っている。Kさん達にとってまんだらが土では無いかもしれない。仕事に対する厳しさも感じていることだろう。仲間とどうすれば上手く付き合っていけるか!これも実は考えようだ。現実を受け入れてそこからスタートすることだ。 先週、実はねんりんピックの剣道会場でまんだら工房のパンを販売した。その朝だった、急に保健所から偉い方が来られてパンに貼ってあるラベルについて注文つけてきた。賞味期限がどうのこうの消費期限はああだこうだ?
 お立場上、ご苦労様! 私得意の嫌らしい味方をすれば、前日 市内の中学校で集団食中毒?があり新聞にのった。ハハーンこれで納得。
 賞味期限をどこかの老舗みたいに誤魔化そうとか材料を書き変えるなんて、このような純粋無垢な絵を描くメンバーさん達が考えます・・・か?解っていただきたいものであります。
折角店を覗きにきたのだったら 売り子にでもなってパンを一個でも売ってくれてはどうなのでしょうかねー。この辺のセンスの問題だよな。所長さんに言いたい。菌は宇宙に一杯あるんでしょう。違いますか?{問題発言ですが敢えて削除しません。よろしく}

718:ネット社会

「以心報恩」・・・・言葉に寄らず相手の恩に報いる。
今、日本におけるインターネット利用者の数は8000万人を超えたという。「ネット社会」はまだ15年程の歴史しかない。凄まじい勢いで広まり、今は当たり前の社会的なインフラとなっている。
 そして、ネットの進化は日進月歩、そこで新たな問題も起こっている。
 例えばお歳暮の時期になったが、頂いた方への礼状一つにしてもメールで行うようになっている。ちょっと前までは電話や手紙にて行っていたことである。以心伝心という言葉があるが、実はネット社会がこれ以上進むと死語になるのではと私は思う。確かに外国の人との連絡にはいたって便利で格安である。また、JR利用などカードで行うから切符を購入する手間が掛からない。電子マネーが小銭で重くなった財布で上着のポケットを傷めることを防いでくれる。
 だが、そこは危険と隣り合わせ、カードの紛失や暗証番号の盗み取りによって、本人が気づかない中に預金が減っていたり情報が一人歩きという悲劇が起きている。
 私も見様見真似でHPを開設し、失敗を繰り返しながらその都度、師匠に指導を仰ぎ今に至っている。4年経ちました。
 自分のブログやHPを持っている方は誰しもそうだと思うのだがアクセス回数やどなたが訪問してくれたのか気になるものである。読む人を意識して発信しているのが本心だから仕様がないこと。
 今までは誰が いつ どのくらい という事が解らずにいた。 それがですね、契約しているサーバーの情報サービスによって毎日のアクセス数や時間それにどこからという事がわかるんですよ。これって実は凄いことなんです。そりゃーそうでしょうよ。ああーあの人が毎日読んでくれているんだーとかですよ、どこの国からアクセスがあったかという情報も毎日調べることができるんですね。私もどうしてなのかわからないのですが、ドイツやカナダ、マレーシア、メキシコなどの外国からもあるんです。これって今流の以心伝心かもしれないなー。
 ただ注意しないといけない。最初、HP上でメールアドレスを公開していた、それが悪かったのかどうか、今迷惑メールで四苦八苦。迷惑メール削除のサービスもあるのでしょうが、これが結構、面倒なんですよ。まーイタチごっこと思うほかないのかもしれません。半分諦めています。
 昨夜は知り合いの通夜に参列、明日は職員の結婚式とネクタイを交互に替えている始末。セレモニーの在り方にも問題ありだ。必要以上に凝ったサービスを行いすぎません?(通夜の始まる前にテープで布教を流していたんですが、皆さんどう思いますか)
 サービスというものは良い塩梅というものが一番のサービスなんだよ。これが基本でしょう。私のお経はちょと短すぎるかなー。
 ネット社会に馴染み難い分野があるとすれば福祉の世界だと思う。ロボット産業花盛りの今、介護服が脚光をあびている。
それを着れば片手で30キロのものを簡単に持ち上げることができるという触れ込み。
 介護現場の腰痛対策にと考え出されたようだが、いまいち戴けない。ロボットもそうだが「こころと暖かみ」も大切。
これからも拙いHPで私のこころをどれだけ伝えることができるか??? これが一番の問題だわな。

719:先達の教え

昨日は尚恵学園の職員同士の結婚式に招かれた。全館貸し切るタイプの式場で行う。目の前が霞ヶ浦、周囲は関東平野の地平線。心配りの行き届いた式場で、人気があるのが頷けた。
トップバッターでの挨拶、始まる前に頂いたシャンペン?が徐々に効いてきたのかちょっとふらつく、話そうと考えていたことが見事に頭から消えている。しゃーないな。思いつくことを話してしまった。式は3時間半ぐらいだったろうか、時間が過ぎるのを感じなかった。新しいカップルに心からお祝いを述べたかった事は事実。許して下さい。
 その後、直ぐに坊さんの役員会の会場へ途中下車。そこも大手の結婚式場、既に時間が遅く、本日あった結婚式は全て終わっていた。少し遅れたので既に会は始まっている。今日の結婚式の話をしたら、仏式による結婚式の話になる。教会での式とどっちが良いかという話になった。坊さん5人だけの集まりだったが、私だけが賛美歌が良かったと言うと白い眼で見られた。
 さて、いま毎日がハプニングの連続、そんな中で今日の結婚式には当人も含め25名の職員が招待を受けていた。学園は大丈夫なのか?と心配になる。でも正装で着飾ったスタッフを見て”馬子にも衣装”何か嬉しくなった。
 私はこの道に入り35年が経つ。思い返すと本当に様々な事があったなー。喜びと苦しみと悲しみと足して割るとゼロに近い。若いときは現場の中に入り、必死でやった。暴走したときも何度もあった。そんな時にいつも側で私を冷静にみていてくれた先輩達がいた。本当に恵まれていた。先達(せんだつ)はいずれの世界でも大切。迷った時に言われた言葉を今でもはっきりと覚えている。それは「福祉の仕事はベストな事はできない。親にはなれないし医者にもなれない。じゃーどうすればいいか!それは今よりはすこしでも良くなれば良いと思ってかかわることだよ。ベターでいいんだ」という教え。いつの間にか若い者達にそう言っている自分に気づく。
 2日前、52歳の若さで亡くなった父親の通夜に参列、障害がある息子さんはショートステイで一晩寮で預かった。何が起こるか誰にもわからない。
 そんな時、またまた先達の教えが聞こえる。「人はいつ迎えが来るのかわかりませんよ。でも死を避けることは絶対にできないんだなー。だから自分の死から人生を見つめ直すことが・・・・」 なんでーそんな縁起が悪いとその時は思った。でも死んだつもりで頑張ればなんでもできるということも有るかも知れない。
 さすがに祝いの席での挨拶では禁句であるが、私は結婚というものが確かに新たな人生のスタートであることに間違いはない、それに自分達の死をどう考えそれをお互いが認めあい確認する道程だろうと思う。
 本日、中川市長さん(土浦社協)に先日実施した民間施設協議会でのバザー収益金(224,000円)を届けてきました。
 福祉に携わる者と行政が智恵を出し合い、何かやりませんかと言う話に市の三役も興味を示してくれました。(報告)
 

720:調整機能

Fixer(フィクサー)・・・(公正でないやり方で)陰で仲介・調停することで報酬を受ける黒幕的人物。逆に公正に表で仲裁するならば正当な報酬を受けても問題にならない。当たり前のような気がしないでもない。
 但し、確信が持てずに躊躇してしまうのは、公正か否かという判断基準にある。外交や防衛の問題が急に出てきて永田町も急に騒がしくなっている。昨日の参議院の審議をじっと聞いていた。時間制限の全体質問であるからか、野党側の追求に迫力を感じなかった。それは何故だろう。一言で言えば情報不足、マスコミ等での報道を根拠に質問しているからだ。つまり、国家の一大事を決定する内容に関してはいつの世も秘密裏に行われてきた。それはある意味では仕様がない。むしろ、筒抜けで情報が他国に漏れてしまうようでは危機管理能力で失格という烙印が押される。同じ地球に住む人間が、これだけ多くの国に別れ、他国が何を考えているのかわからない。情報網を張り巡らし自国の利になる道を探る。民主主義を選んだ日本人の責務は国民一人一人が自らの責任で国政に参加する。自分達が選んだ議員に不平があれば次の選挙で投票しなければ良い。それが公正なルールだ。
 業界と官僚&政治の問題は尽きることがなく、新たな火種を常に持ち続ける。
 いま疑惑が起こっている人はどこまで身を守ることができるだろうか?多分関係する人達はヒヤヒヤものだろう。
 政治家の資金パーテイは当然のこととして今でも行われている。法に抵触するからと言えば名を変えて研修会勉強会励ます会????など目白押しでしょうが。私は出ない。
 そもそも法律は人間が作った。自分達の不利益になることはしない。一番明快なことは、これだけ財政赤字を問題にしながら議員の定数や報酬を減額するという提案がされ審議が真剣になされたことがありましたっけ?地方はそれでも平成の大合併がすすみ、多くの議員が議席を失った。少なくなった数で充分議会がなりたっているでしょう。国会だってそうだ。
 消費税を上げることに私は条件付きで賛成である。それは今の日本の力からして余りにもお粗末な状況があるからだ。医療福祉教育全てにおいて。そこに重点的にお金を注ぐべきだと考える。その条件はこうだ。消費税をもしもだ5%更に上げるのであれば、全ての議員数と官僚(国:地方)の数を5%〜20%減らすという条件だ。職員の為に仕事を残しているというムダが余りにも多い。少ない人数で本当に必要なものだけをやってくれればそれ以外は民間に任せれば良いだけの話。
 そうでないと子供や孫達に借金を残し続ける。政府の試算では消費税の増額分で国債の発行がなくても、単年度の収支バランスがとれるという説明だ。それでは累積債務は一向に減らないのではないのでしょうか?私は日本の現状を悲観的に見ている。ガソリン値上げに対する世界的な動きに何ら方策をたてられない状況一つにしても資源の無い日本の行く末は厳しい。産油国の言い値で買うことしかないでしょう。それではいつまでも続かない。
 昭和10年代の軍政による隣国への侵略を選択するまで今の日本人は愚かではない。それにそれだけの勇気を持ち合わせない。「念のため、これは揶揄朝弄しているのではなく、私は先の大戦に従軍し、戦死された方へ心より哀悼の気持ちを持っているし二度と同じ過ちを犯してほしくない。何故、戦争に踏み込んだか、それぞれの言い分の正否は未だ結論を見ていないことも承知の上であります。」
 先ず隗より始めよ!  みんな通勤は歩きにしませんか。それがむりだったら公共の交通手段を。メタ・・?なんとかの心配も無くなるし。それから家計の貸借対照表を作り、使っていないものタンスにしまい込んだ衣類など、負債と考え、有効に使えば資産に科目変更、これが調整機能だ。何がなんだかわからなくなってしまいました。大変失礼しました。
番外)
 経済には全く疎いなどと言ってはおれない時代になりました。今騒いでいるサブプライム問題は他国の事と高を括っておりましたが、いやー奥が深いし、世界は繋がっているんですね。知人の方が一部上場の副社長をされていましてね、彼と話した事があったんですが、世界でもトップシェアーを占めているその会社が一番恐れているのはM&A(企業合併:買収)だと言うんですね。ソニーの株式を中東の政府系ファンドが買ったというニュースも最近ありました。
 オイルマネーというのは恐いですよね。ガソリン価格が末端小売りでリッター当たりで5円上がれば、天文学的な金が増えるんですから、その金の使い道で投資先を狙っているんですよ。恐いもんだ。そんなこと関係ない・・・なんていうのが流行しているようですがね。今日本の会社の実態は良く解らない。小売業なども名前は従前のを使っていても経営は全く違う。
 多分、今のSPEEDで行くことへの警鐘ですね。地球のキャパシテイを超えてしまったんですよ。資源が枯渇されればどうしますか? 排出ガス規制の京都議定書というものがありましたでしょう?言い出しっぺの日本がクリアーできないのでハンガリーから買うんだとかいう話。何がどうなってるんだかチンプンカンプン。 よーくそこを考えて見ませんか?