源究4141

[ NO446-NO459]

六地蔵・・観音寺境内・・
NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
446 お地蔵さん 10/19 453 緊急全国会長会議 11/2
447 県育成大会 10/20 454 永代供養事情 11/4
448 非常勤講師? 10/23 455 こころの動揺 11/7
449 まんだら奮戦記 10/25 456 献 花 事 情 11/10
450 コミュニケーション 10/27 457 怒り心頭 11/11
451 盛りだくさん 10/28 458 死ぬんじゃない! 11/13
452 尚恵学園作品展 10/29 459 タウンミーテング 11/15

446:お地蔵さん

観音寺には二組の六地蔵が境内にあります。上記スナップは真っ赤な帽子と前掛けを新調したお地蔵さん。良く見ると六体全てが表情が異なり、持ち物も違うんです。屋外に置かれているので風雨にさらされ、直ぐに新調された帽子も色あせてしまうでしょう。昔から言い伝えられているのは、お地蔵さんは道ばたに居られて人々に一番身近に接せられる菩薩さま。表情も穏やかで見つめていても飽きない。そんな存在です。
 観音寺の二体の六地蔵は,寄進されたものです。施主の思いはそれぞれ違いますが、真新しかったお姿も今では境内にピッタリ合うようになりました。
 今、私が枕元に置いて、毎日読んでいる本、「仏教と精神分析」(小学館)三枝・岸田両氏の対談を本にしたものです。この本は大分前につくば市の古本屋で購入したもので、今までに何度か読み返してきました。当に今必要とされている精神的支えがこの本から感じられるのです。いじめ問題、汚職、そして増え続ける自殺。
 その自殺も今では低年齢化してきている。周囲の大人は何故?どうして?と頭を抱えるだけ。マスコミは挙って関係者を無慈悲に晒していく。日本の精神風土・文化・・・が過去のものと成りつつある。私はそれらを失ったとは思わない。むしろ皆が忘れていると思いたい。いつかはまた大切さを思い出し気づく時が来ると。精神的風土は人と人の触れあいから生まれるものだ。文化は日本の歴史が長い年月をかけて築いてきたもの。仏教は大乗・小乗と大きく二大別できる。その仏教を体系的・学問的に突き詰め自らの悟りへ向かうものが、所謂エリート集団たる小乗の世界、大乗は大きな舟で多くの人々を一緒に運ぶ。だから自ずと多くの仏さまや菩薩が登場してきた。 これこそ、今の日本社会に必要な思想ではないだろうか。一人一人が異なる。この個性を認め合う社会。教育現場にこの考えがいつの間にか薄れてきたのではないだろうか。集団からちょっとはみ出してしまう生徒への対応など・・・。むしろ、我々が関わる障害福祉の世界にこそ依然として個を大切にする思いが存在する。これなくして人間としての価値や尊厳さを見いだすことはできないし、地域で自立した生活の保障という福祉の原点がここにある。

447:茨城県育成大会

本日、手をつなぐ育成会の県大会が県民文化センターにて開催された。430名定員の座席は7割位埋まった。例年に無く,大勢参加してくれたという。毎回、橋本知事さんが出席してくれる。知事さんは一貫して福祉に対して好意をもって理解してくれている。関係者の一人として感謝している。今回は厚生労働省の大塚専門官の講演だった。自立支援法をOHPを使って分かりやすく説明してくれた。専門官も自らの子供さんの事を話され、出席者の中に共感が生まれていた。措置から契約という変化の中で、今回の具体的な法制化は耳慣れない言葉も多く、本当に中身を理解しているかと問われれば全員がNOであろう。膨大な資料を正直読む気にもならず、この先どうなるのか心配しているというのが参加者の大半であるはずだ。顔見知りの人も何人もいた。市町村の行政の方や施設長など。皆さんそれぞれが必死だ。
 私は県の育成会の副会長という役を引き受けている。あて職ということだ。大会が終わってから 心身協の事務局に立ち寄り、その後県庁に行く。課内の職員はうず高く積み上げられた資料に向かって仕事をしていた。国から示された情報を末端まで周知するのは大変なこと。それが今回の自立支援法は途中での変更が非常に多い。県は事業者からの質問にヘルプデスクというFAXによる質問だけを受けるようにしている。
 一々電話での対応していては仕事にならないからだろう。
 大塚専門官とは何度かメールで遣り取りした。普通は返事が無いのに、彼は丁寧に返事を返してくれる。
人柄が伺える。私はこの仕事は人と人の信頼関係が基本になければならないと思っている。お互いに疑いの気持ちをもっていたら、全てが空しくなっていくからだ。このつながりを太く長くしていくには当然こちら側の誠意が大きく影響するのだ。

448:非常勤講師?

昨日は暖かく風もなく、とても良い天気だった。尚恵祭を実施、ここ何年かは天気に恵まれる事もなかったが、今年は別だ。地域の出し物もブラスバンド、ストリートダンス、蕎麦打ちなどなど盛りだくさん。利用者さんも大満足。いや、一番満足していたのは企画した実行委員のスタッフだ。良くやった!
 話は変わる。今日は今から県北の施設長の研修に行く。「住田。何か話せ!」という命令だ。ご丁寧に事前に質問事項をFAXしてくれた。それが膨大な内容、事務的な細かな事が大半、これちょっと約束が違うんじゃないの。しかし、俺にもプライドがある。日本福祉協会の常務と県の担当者にこちらからそのFAXを転送してやった。そしたら皆さん俺と同じだな。住田からの質問だと思ったかどうか調べてくれた様子。結局は「住田さんの仕事じゃーねーよこれ」という慰めともとれる電話をくれた。今、全国で自立支援法への事で問題が起こっている。国は県へ、県は市町村へと上意下達のごとき流れが起こっている。それも複雑且つ繁雑にであるから始末が悪い。その影響を事業所の我々がもろに受けている。そのような中での勉強会という趣旨だ。私のスタンスはいつも一緒に考えましょうということだ。これが一番。一緒に考え、創り上げてていく作業が重要だと思っている。私は4月から大風呂敷、否、大目標を掲げている。”茨城版 障害福祉を創ろう!”である。実は財政的な縛りは無視できないが、担当する行政も実は同じスタンスだということが解ってきた。担当者はオリジナルの事業を形に残したい。そのために現場の生の声が必要、現場はどのようにしてそれを纏め伝えていくか、ここにこそ本来の現場団体の意義と力が試される。前年と同じ内容を続けることは誰にでもできる。いくら小さな不満でもそこに問題の本質があるという考えがなければ新生はありえない。
 実はOHP持参で今から日立まで出発するのだが、上のような思いを一方的に話そうかと腹を決めた。
 あんた達も他人事じゃないですよ。一緒にやっていきましょう。それで勘弁して頂戴ー・

449:まんだら奮戦記?

朝も早からカンテラ下げてーよー   全く我が尚恵学園の誇る「まんだら工房」大忙し。特にこの時期は各地でバザーやらお祭りがあって、そこから注文が殺到!嬉しい悲鳴だ。私は最近夜中にトイレに起きる、酷い日は2回ほど、夜中の3時頃起きたとき工房の明かりが真っ赤に点いている。ァりゃーもう働いている。
 トイレを済ませても目がぱっちりして眠れない。心の中で「悪いな悪い」「申し訳ない」と叫ぶ。
 今、工房も13名の利用者さんの重要な働く場、引っ込み思案だったKさんもとても明るくなって自分から挨拶するようになった。スタッフと利用者さんの関係が良いから変化している。利用者さんが来る前に下準備しておくからスタッフの出勤時間が早まる。平均して朝の6時前には工房に入って作業が始まっている。土浦市の福祉の店に出品している。これが評判が良くて広まる理由の一つになった。全く関係のなかった農林水産課などから電話が入る。
米やレンコンを使ったパンの依頼である。市の産業祭にも頼まれる。近隣の福祉や幼稚園関係の事業所からも定期に注文あって嬉しいかぎり、また地元JA、農協さんの直売所、世界のHITACHI(神立工場)からも。いやー参ったな。それから今度は老人センターの常設店に毎日頼まれた。
「まんだら」は仏教用語(梵語の音訳)である。「宇宙」を示す言葉。解りやすく言えば、この世は有りとあらゆるものがお互いに何らかの関係を保ちながら生存するということ。神様、仏様・・・山川草木・・・水空気などなど。
 一番重要なのは「何らかの関係」を如何に保てるか??である。世界的な問題になっている環境破壊などは良からぬ関係の最たるものだ。一方昨日のニュースが頭から離れないのだが、3歳の子が両親(?)の虐待で体重が同じ年齢の子と比べて半分の7キロしかなく顔に多くのアザがあって亡くなった。この報道だけでも悲惨なのに、近所から虐待の通報を受けていた児童相談所の職員が訪問もしていなかったという事実。
 何してお金もらってんだー!腐っている、ふざけている、この税金ドロボー・・・・
 親父が生きていたらどう言うだろう。私に福祉という名前をつけた親父さんどうだっぺー。「うだなー・おかしかっぺーな!」と言うに違いない。親父は児童福祉法が出来た年に県内で第1号の児童福祉士となった。個室を用意されている事務所にいたことは殆どなくて、担当の新治地区を毎日歩いて訪問していたという。家の中で学校にも通えない障害を持った子供達を見つけてはオンブして連れてきてしまったという話などを親父の友人から後で聞かされた。それが尚恵学園を始める理由の一つだったことも。
 公僕とは如何に市民のニーズに答えるかという大きな使命をもつ。ある意味では我々施設関係者も公僕である。税金ドロボーと言われないように自戒しないとダメだぞー。

450:コミュニーケション

元上野動物園の中川志郎園長さんの講演を聴いた。『動物に学ぶコミュニケーション』と題した話だった。とても解りやすく面白かった。ある鳥の孵化期間が35日で、33日目になると卵の中から生まれ出る子供が動き,鳴き、見詰め合うという。それを親鳥が感知して嘴でつつく、卵の中でも子供が嘴でつつく、「そつたく同時」仏教用語が当にそのこと。子供は生まれる時に最初に出会うものを母親と思う(刷り込み現象)。だから動物園で人工孵化をやると飼育係を親と思って後を追いかけるというから今はどこの動物園でも人工孵化はしないという。今、人間社会で起こっている親が実の子を殺すとか、その逆の悲惨な事件は動物社会ではおこらないとも話された。動物と人間の違いは、蓄積した知識や経験を他に伝えることができるという人間の特性、齋藤茂太氏監修の「私に母親が教えてくれたこと」という本の紹介、一度読んでみよう。講演の最後に話された言葉が妙に頭に残った。それは、A・モンタギューの言葉  『愛は教育によってそれを学ぶのではなく 愛されることによってのみ 愛することを学ぶのである・・・』 コミュニーケションの難しさ。
 県の福祉大会での基調講演だったこともあり、私の隣席の児童養護施設の園長さんと話した。・・・今の虐待やいじめ問題はまさにそこなんですね。愛されたことの経験が無い子供達に人を愛することを教えるのはとても難しい・・云々。
 ターミナルケアーを臨床場面で実践されている医師の話、末期患者に病状を知らせる告知の難しさと何か共通点を感じた。本当の症状を患者に伝えたほうが治療の効果が出るという。それは自分の残された人生を如何に生きるかを患者さん自体が見つけ出せた時という条件つき。それじゃどうすれば良いのだろうか?
過去を振り返るということを薦めるという。自分の生き様にバランスシートを付けてみると良い。自分が受けた恩に対して今までにどれだけお返しをしたかという貸借対照表である。そのことに気づくことなくして旅立っていくより、自分なりに感謝して天寿を全うすることの大切さ、解りやすい例えで、太陽に対して我々は本当に感謝していますか?暖かい日差しをさしのべてくれる太陽に誰が感謝しているのか?悲しむべき幼児体験を余儀なくされた子供達に無理してそのことを教えようとしてもダメだ。そのことが気づく時までじっくりと見守るという周囲環境を整えること。それが本来の教育現場であるはずなのに、高校の進学率を高めるための学校ぐるみの履修偽証問題、これなど論外だ。ある生徒にインタビュー「○大を目指す僕としてはこの時期に受験科目に関係ない授業を70時間受けることは苦痛です・・・・」ああ・・・・これが実態なのか!
 バランスシートのプラマイを限りなくゼロにすることで自分の人生に納得し、旅だって行くことが本当の終わりよければ全て良しということになる。

451:盛りだくさん

昨日は観音寺に県内の坊さんが11名程集まって二箇法要の研修を行った。真言宗の大切な法要で宗祖の御遠忌などの行事に行う法要で一回の法要に二時間ぐらいかかるものである。私は学生の時に本山で何度か実践仏教で習ったぐらいだから全く忘れていた。経本とのにらめっこ、来月8日に本番でまた集まるという。
普段我々が使う経はこの法要で唱えるお経のほんの一部であって、節回しや所作については予習をしていなければついていけない。一生勉強か!
 研修中に東京の檀家さんから電話がかかる。お葬式を頼みたいという。それも町屋斎場で行うという。日程を調べたら丁度空いている。了解した。斎場の場所をインターネットで調べたら、高速道路が普段相当な渋滞をする場所だ、時間に間に合わないと大変なことになると考え、通夜の晩に泊まる場所をお願いした。1泊2日の出張法事?となる。その翌日が全国会長会議、緊急に招集がかかる。2日間の内容、朝の8時半からの自民党の小委員会の傍聴への出欠の確認。先着10名とのこと、私は遠慮した。
 頭の切り替えが年と共に出来にくい。背広に白足袋、衣に靴下という事態になるかもしれないな、最近よくあるからな。
 昨日、某市から電話があった。尚恵学園が無くなっています。どうなったのですか?という内容。電話を受けたスタッフが「なんでーこうなるの?」実はこのような事を今年は4月からやっている。それがこの10月から頂点に達している。新法によって事業所指定が新たになされ新旧新たに事業所番号が決められる。それも県のホームページで調べる始末、入試の合否結果を調べるようなもの。私の法人は全部で11カ所の事業所指定を受けているから大変だ。確かに尚恵厚生園(一応私が施設長)が名簿上無くなっていた。これは一大事。コムスンやニチイ学館という大手事業所がズラーと並んだ中に、従来から行ってきた施設が遠慮しているかのごとくポツリポツリと入っている。何しろ県内での事業所指定が1000カ所になるというから半端じゃない。それらと今後は同じ土俵で勝負するんだ。どうするんだい理事長さん。
 実はは11月15日から8泊でインドに行くはずだった。お寺の坊さん達の企画で、もう大分前から計画していたもので私が行けないというと、「住田さんは一番初めの言い出しっぺなのにずるい」と言われた。本当は行きたいのが山々だ。でも自分の園長をしている施設が名簿に無いという考えられない事態が起こる状況にインド旅行などしていられるはずがないでしょうが。早速県に電話とFAXをすると、「ありゃー本当だ!」ときた。 盛りだくさんの毎日を送らせていただいておりますから。お陰様で。
(追記)
 『紙くれー。紙・かーみーだ』どこからか人の声がする。耳を澄ませていると、どうも外からの声だ。窓を開けてみると昨日完成した外便所の方向だ。「あれーもう誰か入ったのか?」案の定、使用第1号のOさん。入ったは良いがまだ紙までは用意していなかった。本当にいい加減にしてよ、まったく。ドア越しにトイレットペーパーを手渡した。本当に本日は盛りだくさんの一日でございますです。

452:尚恵学園作品展

朝4時にはパン工房の明かりがついている。土浦市の産業祭にパンを出すために、作業に入っているスタッフ。今月は出品の依頼を受けたイベントが多くて、スタッフも疲労の極限に達している。昨日の産業祭には筑波大学の学生が4人も売り子として協力してくれた。社会福祉研究会のメンバーだ。本当に彼らには頭が下がる。学生に混じり、利用者さんも売り子に精をだす。これも大きな意味での作品展だ。
 同時開催であるが、水戸のギャラリーリーフにて27日から11月2日まで尚恵学園作品展を行っている。
毎週実施している絵画教室のメンバーが描いた作品の展示である。展示会場が離れているのでちょっと覗いてくるというわけにはいかないが、そのギャラリーは精神科の先生が「地域と世界に開かれたギャラリー」を目指して9月にオープンされたばかりだ。地域に出て行く活動は仲間づくりと街づくりだと思っている。先ず彼らの真の姿を知ってもらい、そして理解をしてくれる人々の住む街づくりなのだ。
 地域で障害を持っている人達が生活するにはあまりにも多くの障害がある。表面的な理解はちょっとした事で脆くも崩れてしまう。先週私と会った方がつくづく話をしていたこと。「折角グループホームを立ち上げたのに、精神障害者?の方が刃物で傷つけた事件がありましたよね。その事があってから地域で反対運動が起こりましてね。引っ越しを余儀なくされたんですよ。知的障害の方は違うんだといくら説明してもダメだったんです・・・・・」これが現実です。
最近マスコミで取り上げられた様々な事件、報道には様々な興味本位の尾ひれがつく。犯人は精神的異常が有るかどうか警察で調査中・・・・とか
このことでどれだけ多くの自立を目指している仲間達が辛い思いをしているか!本当は誰しも精神的異常をきたすことは有りうるものだが、世の風潮として障害者への風当たりは厳しくなる。
 確かに被害者の立場になれば加害者への憎しみは我々が考える以上のものがある。世の中のシステムとして、この辺の解決策はないのだろうか?確実に言えることは、隠してしまおうとする隠蔽体質の中では何の解決もされないということで、ギャラリーリーフの目指している方向は当にそこにあるし我々の目指しているものと相通じる。

453緊急 全国会長会議

11月1日2日と緊急の全国会長事務局会議が開催された。自立支援法絡みの検討ということで当然出席率も高く2県の欠席があっただけでムンムンとした熱気が感じられた。会場も貿易センター39F東京會舘ということでこれまた執行部の熱の入れようが解る。厚生労働省より3名が出席、矢田企画官より今回の自立支援法施行による問題点や国の考え方の説明があった。話題の中心は障害認定区分のことであった。実際に各地で行われている認定審査により、知的障害の特性が上手く区分判定に生かされていないという問題。国も学識経験者などで2年ほど前から検討会が開催されていたという。3障害を同じスケールで測定するという曲芸を敢えて実施している中で、担当者としても疑問を感じていたようだ。10月より日本福祉協会からも2名の委員が新たに加わって様々な論議がなされているという報告だった。3年後の見直しに向けての検討である。協会から新たに加わったメンバーは三谷先生(名古屋女子大)と高木先生(国立秩父学園施設長)で協会としても政策委員会の中に小委員会という形で障害認定研究会を柴田委員長を頭に設置検討を重ねている。茨城からも長谷川施設長(しろがね苑)が委員として参加している。同時並行で先日、茨城県の障害認定研究会を立ち上げたばかりである。
 2日間の会議は各県の代表者だけに種々な意見が出された。国から示される様々な情報が何の前触れも無しに変わるために現場では大混乱している。これはどこの県も同様だ。報酬支払いの2ヶ月遅れに関しても各県様々、茨城県は全国に先駆けて介護保険と同じく国保連に支払い機関に一本化し一カ所請求で済む仕組みを取り入れている。全国で同様の方法をとっている県は10カ所しかない。後の37都道府県は市町村毎に請求をしているという。来年度の10月には全国統一されるということだが、茨城のシステムでは従来通りの1ヶ月遅れ支払いが出来ないということが解った。前倒しや建て替え払いという事業所への迷惑がかからない便法が取れないということになってしまった。最新のシステムを導入したまでは良かったが逆に臨機応変な対応ができないという。県に他県の状況を知らせた結果、上記の回答が私に入った。
 ボーナスが払えないという事業所も出るかもしれない。借り入れの申込方法まで県は用意してくれた。
 また、協会として頭を痛めている事態がある。機関誌「サポート」の購読者が年々減少しているという。
 購読料が協会運営の重要な財源になっているから問題は大きい。茨城県の加入率も全国平均からすると低い。あれやこれやと 2日間正直肩身の狭い会議だった。疲れましたーね。

454:永代供養事情

大体のお寺には永代供養墓地が用意されている。最近その需要が急に増加しているようだ。これは現代の日本の事情を表しているとも言えよう。核家族化:少子化の裏事情ということになる。つまり、墓地を守る人がいないので永代供養を希望する人が増えたのである。地域によっては一つの墓地に姓が異なるものを埋葬するのを嫌うところがある。実の兄弟や親子であってもである。私は最近良くそのような相談を受ける。私の説明は決して無理押しはしない。ご本人達は一緒に埋葬しても良いと考えているのに親戚や周囲の人がいろいろ言うから迷っている場合が多い。「良く考えて気持ちが決まったらまた来てください。それまで本堂の納骨堂で預かりますよ」と答えることにしている。そのため今13体のお骨を預かる始末だ。中には いずれ墓地をつくり埋葬したいという方もいる。
 更に困った事には、埋めるべく墓地が有るのにそこには埋葬したくないという人達だ。何故かその理由は様々、しかし、正直亡くなった方も落ち着かないだろうにと考えてしまう。駅のコインロッカーに入れっぱなしのお骨など話題になった。お寺としてもいつまでも納骨堂に預かっておくことも出来ないから永代供養墓地をつくることになるのだ。尚恵学園には私の父の時代に学園墓地がつくってあった。決して贅沢な墓地ではないのだが場所は一番良い所に作られている。父はそのような状況が起こるであろうことを予想していたのだろうな。何人かのお骨が既に埋葬してある。以前インドを旅行したときにガンジス川に於いて荼毘にしている場面をみたことがある。そのお骨はガンジス川に流してしまうのである。所謂、散骨である。チベットでは鳥葬をみた。様々な埋葬があるものである。日本ではどうか?様々な宗教を信じる人がいるのも日本の特徴だろうが、一般的に埋葬方法は似ている。土に返すということで土に埋めるのが大半である。3ヶ月前になるが尚恵学園を利用されてもう30年になるデカちゃん(通称)の弟さんが亡くなり、学園墓地に埋葬した。それ以来、デカちゃんは私が朝、神宮寺の本堂にお経を唱えに行くと、後から付いてくるようになった。私とデカちゃんの間では何も言わなくても通じている。彼は弟の遺影の前で手を合わすのだ。亡くなったドンちゃんはお互いに行き来があった唯一の兄弟だった。その弟が先に逝った。彼は決して涙を見せない。悲しみの感情は人一倍わかっているデカちゃんなのにである。
これも私のあくまで憶測だが、笑っている弟の遺影に涙を見せまいという兄としての彼なりの考えだろうと。
 本来の供養の原点が実はここにあると思うんだ。お葬式に弔問客が大勢きたからどうのこうの!戒名が何字だからどうだ!・・・
そうじゃないよなーデカちゃん。心の底から本当に故人の成仏(私は僧侶だから)を願うことこそ大切なんだよなー。合掌。

455:こころの動揺 

坊さんがゴルフなんかやってーまったくどうしようもねーな!これは立派な人権侵害&パワハラです。坊さんだって人間だ。ゴルフぐらいやってもよかっぺー。実は昨日から私自身のもう一人の化身がそうやって私を攻めるのです。これは村上文学の世界か、20代の頃だった、カフカという作家の本に妙に心引かれることがあったのを思い出す。さすが仏文科。この欄は支離滅裂になります。前もって言っておきましょう。
 ゴルフの話です。笠間東洋GCという県下では名門コースでの出来事。アウトの5番。距離155Y。握ったクラブが6I。風は右からの微風。無心で振り抜く。じゃじゃじゃじゃーん!ピン側30p逆スピンがかかり、ボールがはいちゃった。
『こころの動揺』がこれより始まるのです。初めての経験ホールインワン、あれーどうしよう。何がなんだかわからない。入る確立は限りなくゼロに近いのに、それもよりによって一緒に廻る人がこれまたまずかった。
 本来なら私が盛り上げ役でこの組に入ったのに、自分だけ舞い上がっちゃって、他の3人はしらけムード。
 4番まで今日は調子が良いと喜んでいた方が6番から急に肩に力が入り始め、ボールがあっちこっち。
 まずいなー。しかし、もう既に遅い。
この日のゴルフは実に1日が長かった。皆さんに帰りの車 気を付けろ とか言われて、喜ぶべきか慎むべきか。前日は久しぶりのゴルフだったものだから熟睡できず、今晩は眠れると、寝床に早めについて目が覚めたのが朝の5時。スゲーや、良く眠れたわ。なかなか根性あるわなー。
 しかしだ。妙に頭がふらつく、お決まりの血圧を測ったら、予想以上に高くなっていた。・・・こころの動揺は不意にやってくる・・・・・
 少し横になっていましら夕方には元通りになっていましたので心配なく。またまた私の化身が・・・ほらー見ろ。ろくに修行もしないから、その様だ!もう一度出直して来い・・・・・だとよ。(茨城弁は本心が出るものです)

456:献花事情

日常生活での配慮しなければならないことは、実は至る所にあるものだ。今日は利用者○子さんのお父さんが亡くなり、そのお葬式に参列する。長年、学園を利用され、いつもご夫婦で来られた。最近はお父さんの顔が見えず、気になっていた。病気で入院していたということが後でわかる。父兄の葬儀には必ず、学園からも出席するようにしている。正直家族の事情で献花を断られる場合もある。今日の葬儀には葬祭場の関係で花の数の制限があったが、わざわざ私どもの学園名が入った花を他の花と差し替えて飾ってくれることになった。「長い間○子がお世話になったし、お花ありがとうございます」という電話での丁寧な母親の挨拶だったという。今、この文を書きながら、ご夫婦で良く迎えに来られた時に○子さんの手をお二人で両脇から握り笑顔いっぱいにして弾むようにして家に帰る3人の姿が浮かんでくる。多分、病床でお父さんは娘の事が気になって仕様がなかったに違いない。「○子がいるから、私が頑張ります・・・・」これも電話でのお母さんの声。
 後を継がれる兄弟がしっかりと家を守り、○子さんを受け止めてくれているから私は心配していない。お父さんもその事が一番嬉しかったに違いない。私は僧侶であるから、今までに様々な葬儀の裏事情を見てきた。特に障害を持って生まれてきた子がいる親の葬儀は手に取るようにわかる。私どもの施設を利用されてからの付き合いだから、長い方もいれば短い方もいる。献花を断られる場合は尚恵学園という名札に対してであることはなんとなく解る。私は無理しないように指示してある。知られたくない存在なのだ。だから葬儀に出席しない子も正直いる。前もって顔を合わせ、葬儀当日は学園で過ごす子もいる。様々なんだなー。
 親子の縁というものが一定ではないということは最後のお別れの場で実に良く解る。この辺の事情は外国ではどうなんだろう?今度調べてみようかな。今、障害福祉は激震にみまわれている。「地域で自立した生活」・・実態が解っていない人達の改革のお題目。そして妙なのはどうすれば実現できるかという具体性には触れない。私は今日本で問題になっている全てが実態との遊離から生まれていると思っている。教育現場のいじめだって当にそうだ。学校ぐるみで履修ごまかしの実態、教師がそのザマ(怒り絶頂)で子供達に良い教育ができるはずないでしょうよ。教師の関心事は良い上級学校にどれだけ入学させられるか!教育委員会もその尺度で学校をみている。政府は教育改革をヤンキー先生を招集し検討しているようだ。ダメだよ、少数派でしょうが、実はこんな話がある。障害認定検討委員会が厚労省の内部にあるが、委員の殆どが現場の実態を知らないというのだ。委員には施設に1年ぐらい泊まりこむ条件を付ければいいんだ。多分大半の委員が依頼があった時点で自ら断るか条件に合わず失格になるだろう。 多分、検討している内容は国がアンケートで市町村に提出させたものを膨大な枚数に印刷した資料を基に話し合いをしているんだろう。いくら事前に配布されても読む気にならない量だ。今、我々がやらねばならないことは直接関係する人達の声を集結し、運動体として世の中に訴え浸透させていくことでしかない。道程は限りなく遠い、しかし、ここで諦めたら何も変わらない。
[ 追記]○子さんは1時間あまりの葬儀の間,後方の椅子に職員と一緒に大人しく座っていることができました。そして、最後にお父さんの眠る棺の中に菊の花を献ずることができました。(献花事情)

457:怒り心頭

厚労省への怒り心頭!何が監査だ、自立支援法だって笑わせるんじゃねーよ。全く。今朝の新聞見たかい。17年度の会計検査院の調査報告、税の無駄遣い全体で452億、厚労省の労働局78億円の不正。1432名処分。16年17年と2年間合わせると2800名が処分されたというのだ。しかし、実情はクビになったものがなんと4人だけだという。 今でも処分された者達は我々福祉事業者の上にふんぞり返っているんだろう。お金の出処は我々事業所や労働者が汗水流して働いて得た中から集めた雇用保険や労災保険だというからもうどうしようもない。捻出方法は様々で空出張から幽霊社員まで、偽造カードを作っての管理など、詐欺以上の刑事犯罪だ。しかし、それらの処分は訓告や厳重注意で済んでいる。また、驚くことに今回の会計検査院の調査対象は全体の8.2%だというのだ。残りの90%以上はどうなっているのか?452億どころの話ではない。天文学的金額になっているのは確実だ。それがだよ。自立支援法なんて法律作ってだよ、余計面倒で分かりづらくして、介護保険とのドッキングだかなんだか知らないが利用者の自己負担を1割徴収を義務づけちゃって。そのお金が払えないために各地でサービスの利用離れが進んでいることを解っているのかねー。日本は腐りきっている。そして公正さに欠如、無法地帯、だってそうでしょうが、警察官が郵便局強盗をやって全国指名手配中だとか・・・・・管理者がテレビで頭を下げて謝罪する場面を見るのはもういい加減にして欲しい。
公共事業費を一律削減する方針が出た。確かに業者との癒着や政治の絡みがあって過去に様々な問題が繰り返されてきたのも事実、しかし、今回の会計検査院の報告は現行仕組みそのものの根底から覆されたように感じた。厚労省がここまで腐敗が進行していたのか。国の元締めがこうでは、福祉に携わる人間も狂ってしまうのではないのか。
 考えると益々怒り心頭に発する、「住田さん!もっともっと怒れ」とマレーシアのN氏に檄を飛ばされたのは何年前か?彼も専門官として厚労省に籍を置いた。私は彼を尊敬する。今、彼は最前線に自ら立って異国の地において根っこの実践をされているからだ。国の役人(否:公務員は全てだ)は徴兵制ではないが、福祉現場で1年働くことを義務づけないとこの腐敗体質を止めることは不可能だ。先ず実体験しなければダメなんだよ。そうなればいつでも受け入れてやるから。まだまだ怒りが納まらない。慰労会の金の捻出を考える暇があったら働けっていうんだよ。便コネの始末でも夜勤でも施設現場にはいくらでもやることはあるんだーよ。
公務員の方へ』・・・常識ある公務員の方も私は何人も知っています。でも、どうですか?皆さんが同様に思われる口惜しさ感じませんか?内部から変革改善していくことを期待しています。 

458:死ぬんじゃない!

自殺・・・・何故自ら命を絶とうとするのでしょうか?誰にとっても死は不安且つ未知の世界、でも必ずや経験するものだ。死を怖くないと思える人はいない。私は声を大きくして「死ぬんじゃない」と叫びたい。日本では毎年3万人以上の方が自ら命を絶つ。当人にすれば、誰にも言えない大きな苦しみや悩みがあったんだとは思う。いじめを苦にした子供達の死が報道されるたびに周りでどうにかできなかったんだろうかと考えてしまう。そして関連する校長の死。一人で責任を負ってしまう真面目なタイプの先生だったという。でも自殺ということでは問題の根本的な解決には決してならない。その事も十分理解されての決断だったと思うのだが。私は坊主だ。「お前達坊さんが何かできないのか?亡くなった人の葬儀ばかりやっていてそれで満足しているのか!」「坊さんの出る幕は隅っこに追いやられてしまったんじゃないか。何も出来ないクセに知ったか振りするんじゃねーよ」「高級車を乗り回し上手いもの食って・・・・」これらの批判の声に素直に納得する。自分の生を短絡的に考えるようになったのはいつ頃からなのだろう。結果をあまりにも早く悟ってしまい、諦めてしまう。いじめは昔からあった。私の子供時代50年ぐらい昔だってあった。実は私もその被害者の一人だ。何しろ全校生の中で私だけ寺の子だったんだから、絶好のいじめの対象になったんだろうな。「こりゃー坊主の子。クソもうけ・・・」「お前は坊さんの子だから運動会の仮装行列に衣を着て歩け」これなど40年前の中学生、多感な年齢だ。そしてこれを言ったのは担任の教師だった。今でも正直その教員には憎しみが残っている。相当執念深い性格だから。 住田の将来を考え、叩き直してやろうなどと言う教育的配慮?は全く無く、興味本位の冷やかしそのものだ。「俺は絶対に坊主にはならねー。誰がなんと言おうとならねー」下校時、自転車のペダルをこぎながら涙した。でもなー死のうとなんか全く考えなかったなー。今にみてろー。見返してやるからな!と心に誓った。これが私のベースになっている。本当にいろいろあった。今では自分への約束を見事に破って坊さんやっている。契約不履行だ。いろいろ有るのが人生、自ら精算することなんかないよ。最後は仏さんが賽の河原で判断してくれるってー。教師にお願いがある。自分の生き様を教えられる先生になって欲しい。だってそうでしょう。今の時代、単なる知識を得る場ならば他にいくらでもあるでしょう。多感な年齢の子に何が一番必要か、そこを学校の中で大いに話し合ってほしい。校長さんに言いたい。昨日2年前に小学校の校長を定年で辞めた檀家さんが母親の法事に来られた。「先生、退職してから顔の表情が変わりましたね!」と私が言うと「そんな風にとられていたんですかねー」脇にいた奥さんが「それだけプレッシャーが有ったのかしら?」「先生ご飯炊けますか?」と私が元校長に尋ねれば、奥さんが「ぜんぜん」この辺の教育事情が実は今の日本で方向を見失う原因になっているのかもしれない。最後にもう一度「自分から死んじゃだめだー」

459:タウンミーテング

タウンミーテングが全国で開催され、その実態が問題になっている。やらせ質問しかり、主催者の意に適い話が進むようにと事前に様々な手管が準備されていた。予め質問者を決めておき、その回答も作られ事前に配られていたり、質問と回答を同一人物が作成するという”茶番劇”だ。「国会の与野党の質問回答は官僚が作っているという話もまんざら嘘でもないのかな?」地域集会という形で中央のお偉いさんが地方に出向き、地域での意見を伺って政策に生かす。方法としては実に良い。しかし、十分な討議がなされるべき肝心な所での手抜きと趣旨のぼやけが出てしまった。そりゃーそうだろう。ミーテングの企画はイベント会社に相当な費用をかけて丸投げし、立派な会場を用意し、マスコミを動員して誰も読まないような見事な報告書まで作成する。あるお方が言っていた、本来の地域集会は様々な意見が出て収拾がつかない状況になることが実は成功だと。その辺のズレは実は大きい。本来、そこに参加した者は討議内容を自分なりに解釈整理し良否を判断するもの、最初から回答が決まっている会合に出ても時間の浪費。逆に烏合の衆みたいな会合でも困る。これもまた空しさだけが残るものだ。
 何故このような話題を取り上げる気になったかと言えば、今、私は県内の某団体の責任者を引き受けている。これがまた大変な時期に受けたもので、自立支援法の実施時期に丁度ぶつかった。(岡田先生の談)「大混乱しているのは、次々に発表される政省令の複雑さと相互の関連性の難しさであり、加えて朝令暮改的に発せられる訂正や変更によって翻弄されている」当にその真っ直中。私の予定表には様々な会議が書かれている。自分たちが企画するものが、詰まったスケジュールの合間をぬって入り込む状況。今月26日に私が企画した第1弾がある。『自立支援法の勉強会』だ。それも日曜日に開催するというルールを無視した企画、私が趣旨を説明すると県も市も担当者を2名づつ派遣してくれた。参加者は1事業所2名以内と限定した。それも家族会の代表と施設長ということにした。(ここで分かった事がある。通所と入所では家族の出席できる曜日が違うということ。これを知らない関係者が実は多い)。甘いと言われるかも知れないが、この勉強会の主旨が分かる人には分かってもらえるはず。今の時代、従来のなんでもやってもらう式の行政への陳情要望ではダメ、関係者が連携して何が今必要なことなのかを良く吟味してそれぞれの責任と役割の元で多面的に運動を展開しなければならない。福祉の世界は長らくサービス提供者と利用者との受給バランスが崩れていた。特に障害者福祉の分野でそれが顕著だった。提供事業所の絶対数不足のため事業所側にぬるま湯付け危機感不足と利用者側には一種の諦めに似た思いがあった。この時期になって格差の拡大が心配されている。事業所はもちろん市町村の格差である。私の個人的なスタンスはこの格差を受け入れるべきだと思っている。しかし、基本には財源問題があるのも確かで、限られた財源を有効に活用する仕組みを創世することはできるはず。創意工夫を生み出す情報やノウハウ取得の場にこそ本来のタウンミーテング開催の意義があるわけだ。ちょっと固い話になってしまいましたね。