源究222g222

  

NO  テーマ  月日  NO  テーマ  月日  NO  テーマ  月日  NO  テーマ  月日 
 3951  漫ろ歩き   3/13  3956  健康寿命   3/29  3961  出入口   4/11  3966  ミイとの一日   4/25
 3952  現代の矛盾   3/17  3957  あべnoこべ   3/31  3962  急ぎ散る桜   4/13  3967  困らない症候群   4/28
 3953  柵物語   3/20  3958  人生劇  4/1  3963  旅は道連れ   4/16  3968  野放図   5/1
 3954  疾風と勁草   3/23  3959  菜種梅雨  4/4  3964  竹のなげき   4/20  3969  儚(はかな)む  ☆
 3955  明と暗  3/26  3960  要望書  4/8  3965  覚醒の星   4/23      

3951:漫ろ歩き

 春満開の桜の下 花鳥風月友として 漫(そぞ)ろ歩きと 乙なもの・・・・。  そんな気分には程遠く 宮沢賢治の『雨にも負けず』を読み返しこころ静める日々。
・・・・日照りのときは涙を流し 寒さの夏はオロオロ歩き 皆にデクノボーと呼ばれ 誉められもせず苦にもされず そういう者に 私はなりたい・・・・・
 仏教でいう3つの根本の煩悩、それが貪瞋痴(とんじんち)三毒と言い、対象をもとめる貪欲、怒りの瞋恚(しんい)、真理を見失った愚痴、苦しみの因とみる、厄介もので、・・・煩悩の犬は追えども去らず・・・人にまつわりついて離れない。それと 因果応報 という教えもあって誡める。大志を抱けと、だが志が誤っていれば どうなのか? 昨今、そこが大分怪しくなっていないか。昏迷の元凶、更にそれを他人の所為にするのだから問答無益 ・・・・・これぞ賢治が最も嫌ったことでしょう。
 ♪ 春を愛する人は 心清き人・・・♪(四季のうだ) もうすぐ春が訪れる。
 
 浜松町から歩いて5分、日本知的協会の本部がある。大通りを避け駅南口から貿易センター第二ビルを通り裏通り、まだ時間があったので小さな喫茶店で一休み。レトロな雰囲気で懐かしく、常連客らしき人たち、10席ほどの細長い店は客回転も早く、満席だった。4年目でやっとホットできる穴場を見つけた。
 暫くホテルに泊まっていない。会議に出るのに飛行機と宿を使う方からホテル代で2万円以下の処を捜すのが大変な話を聴いた。確かに外国の人がやたらと目立つ。これも円安効果ということか 海外からの旅行客には今の日本が穴場になった。
 どっちにしても 私は会議が終われば直ぐ帰る。東京の喧噪は昔から自分に合わず、それが最近、より強まった。もういい加減にしてやめようと”新陳代謝”とメモに書く。

3952:現代の矛盾

 ・・・「大きくなった家 小さくなった家族 高まった利便性 なくなったゆとり  増えた薬 損なわれた健康 伸びた利益 薄まった絆 これが私達の時代だ・・・・」・・・(ダライ・ ラマ14世)
 「現代の矛盾」を機知に富んだコトバで綴った。現実に起こっている全ての事象は 私達1人ひとりに「普遍責任性」があるという。それは人間は1人では生きられない(縁起)、人は自分自身に対して、社会に対して責任があるとする。その気付きを呼び起こすことがいま大事。  参議院政倫審が行われ テレビ中継があった。初めから期待はしていない・・・3人への割り当てられた時間は1人1時間40分、結果は推して知るべし、より不信が増した。コトバに全く誠意を感じない。肝心なことは口ごもる。顔ぶれ変わっても何にも変わらない。時間の無駄だった。なぜ こういう人ばかりが増えたのか? 「普遍責任性」・・政治の責任・・有権者の責任・・。 知行合一・・真の知行は、「好き色を好むが如く、悪臭を悪(にく)むが如し」(為政第二)と、たとえ知っていてもやらなければ知らぬことに同じ・・・・。知らぬ存ぜぬと言ったところで 知っていれば ・・・。
 
 然すれば どうなる? 恐らく判らないんでしょうね。周りにぷmぷn悪臭を撒き散らし、出処進退を自ら決められず、年貢の納め時はとっくに過ぎた。
 *知情意とは人の精神活動の知性・感情・意志をいう。その三つを絡め正邪・善悪を判断するこころが良心(conscience)と。。。,その起源や妥当性に関しては、生得説・経験説・批判説などがある。(大辞林)
  (応病与薬)良薬も使い方を誤ればどうなるか? 嘘も同じですよねエ~。親が子に何を教えたか⇔子が親から何を学んだか! 親が子に何を望んだか⇔子が親に何を望んだか!
 *柳は緑、花は紅(くれない)を帯び諸法実相の姿をあらわす。(仏) 

3953:柵(しがらみ)物語

順風時に出番がないが、逆風となれば顔を出す。その舞台裏は疑惑の極み・・・・・、どんな柵(しがらみ)が有るのか知らないが、襷(タスキ)を渡せず 口を出す老精(?)。
 多勢と無勢に関わらず、困った事態になっても誰も進言者が出ない、抵触規定か実質法かの天秤棒、その柵(しがらみ)は どうも損得勘定無くして測れないようだ。ジワリジワリ・・・史実の証、嘗て強固だった土塁(?)にひびが入り、いつ決壊するか判らない。 
 風月を友とするは”自然に親しみ詩歌を作って遊ぶこと”。(風流韻事) 本来なればそうあって欲しい傘寿、米寿のお歴々、もういい加減ほどほどに為されて 周囲に面倒かけない健康寿命といきましょうや!
 
 『忍びの者 霧隠才蔵』(大映:1964年)のキャストは凄かった、主演(才蔵)は昭和のスター”市川雷蔵”が演じ、時は戦国時代末期から江戸初期、豊臣側の真田幸村に従う真田十勇士の中の1人、一説では才蔵は渡りと呼ばれる何処にも属さない忍者だったそうだ。実を言うと、最初霧隠(きりがくれ)才蔵でなくて雲隠(くもがくれ)歳三と勘違いしていました。あああ・・・・。 時は令和6年と頭の中でゴチャ混ぜで5人衆???? なんだいこりゃ~ 揃いも揃って 出てくりゃナイナイナイばっか。そんなこったで霧(きり)じゃ~なくて雲(くも)と間違ってしまいました。万が一 映画タイトルが「忍びの者 雲隠歳三」だとしたら どうなっていたか???軍記物語が実相喜劇となってしまったかも判りません。大丈夫、今とは役者がまったく違うから。
 でも、銀幕のスターに大変失礼なことで 先ずは心よりお詫び申し上げ、この結末をどうつけるかを見届けたいと思います。

3954:疾風と勁草

 『疾風に勁草(けいそう)を知る』(後漢書)(25~220)
 2000年の時の流れ、知らなければ済むこと、知らずして後悔すること、知っていて知らないということ、知らないのに知っているということ・・・あったあった。”勁草”は”風などに負けない強い草”です。≪厳しい試練にあって初めて意志や節操の堅固な人であることがわかる。≫という。その反対は”ぬるま湯”かも知れない。湯水のように使われる”政策活動費”、いったい何に使われたのか、収支の報告義務を外し、まるで「何が悪いんだ!」とばかりに開き直った特権意識、その人間模様が本人の意図とは関係なく、SNSで拡散する。今さらと思うが卒論のテーマは「バルザック・・・人間喜劇」だった。昭和44年、もう半世紀以上昔の話。学ぶ機会を奪われ、門は閉じられ校内に入れなかった。
 いつの時代だって矛盾や柵はあります。思いを果たすため悪智慧に長ける者、また、その逆・・・・・。あまりにも損得や勝敗に偏り過ぎた結果、思ってもいなかった問題が今起こっている。元凶は”正統とは何か?”への揺らぎだと思う。これとどう向き合っていけば良いか!。せめて老害とならぬよう老いの初心をたて 生きたいと思う。
 
 先師曰く・・・≪こころ清ければ即(すなわ)ち 仏をみる、・・・≫と。
 ご都合主義が幅をきかせる世、権利と義務を履き違えた身勝手な振る舞いが止まらない。内憂外患の因は自分にあると認めよう。 アノ目立ちがり屋で見栄っ張りの方はどうなった? パタリと姿をみせず 内心穏やかならず雲隠れ。
 ”欲に転ぶ”と言いますが、隠そうとすればするほど澱みとなってフン詰まる・・・・。近ごろ、散見する集団的無責任体制とか未必の故意、下剤と下痢止めを交互に飲んでいるようで甚だ気分が悪い。まるで・・・金魚の糞、コバンザメ、下駄の雪・・・・・まつわりついて離れない、 いっそのこと何もかも吐出してしまえば良いんだよ。そうすりゃ~即 通じてスッキリするんじゃない?(大欲得清浄)

3955:明と暗

 明と暗、迷と安、メイとアン、聴くだけは判らないことが直に見れば通じる。そこで 一寸先は闇、一寸の虫にも五分の魂等々 語呂合わせてコトバで遊ぶ。小学生低学年で宮沢賢治の”雨にも負けす”の全文を暗記している子がいたという。今もソロバンを学ぶ子もいます。然程 昔の話ではありません、当時は特別なことじゃ無かったことが 今は驚きになっている。知識と智慧、貴方にとってどっちが大事、なんとなく判っているかもしれませんが同じと思いますかね。 さ~ どうでしょう?身口意・・言行・・知行 てんでんばらばら。  言い訳三昧・空理空論・交信断絶  此れぞ現代冥闇(めいあん)喜劇三大演目。 (仏)三昧は瞑想すること、揃いも揃って迷走とは心外と申し候う~ウィ~。 閉幕!
 
 長かった冬も春分の日が過ぎ、いよいよ春、そして夏。1週間の春彼岸中、天気の気紛れに予定を変えねばならないことも多々ありました。当たり前と思っていた事が急に出来なくなって、それに代わる妙案が浮かばない。
 どうしてこの様になってしまうのか?此れは、どこかでリセットし、再スタートといきたい処だが そうは問屋が卸すまい。図書館で借りた本三冊が一度も読まず貸出期限(2w)が切れた、竹藪掃除に精をだし、それも途中で止まってる。境内の草も、綺麗になったと思っていたら、また、草が伸びてきた。自然と向き合うとか言っても、折り合えるのは欲が絡んではできませんよね。一事が万事、マイナスかプラスか?ソロバン勘定しても、自然相手に通じまい。だってアンタの勝手でしょう。結局は、 これなんだわな~!。

3956:健康寿命

 健康は、”医学的見地から病気とか虚弱でないことだけではなく、肉体的、精神的、社会的に調和のとれた良い状態”をいう。寿命は、”生物のいのち、生命の長さ、命数”とする(大辞林)。健康寿命で生きたいと願うのは誰も同じでしょうね。
 肉体的に問題は無くても心が病んでいる、社会的にみて成功したといってもそれがどういうことかの定説はない。
 死生観を考える上で風土や環境背景が重要であると寺田虎彦「日本人の自然観」で述べています、森と砂漠、一神教か多神教、信じる宗教か感じる宗教 という対比の中で日本人の自然観や死生観を読み解く、日本人は自然に対して逆らうのではなく、従順に首をたれる態度と自然を師として学ぶ生き方が育まれたという。(山折哲雄「日本人の死生観を探究するための三つの扉」) 時代を越え 死と向き合い、どう受け入れていくかは私達にとって”普遍の課題(原理)”である。けれど 自分が いつ どこで どんな状況で 命を閉じるか?は よく判らない。できる事なら 調和のとれた状態でと望むのが自然ですよ。(釈迦)・・・・この地上に永遠なものは一つもない。形あるものは必ず滅びる。人はやがて必ず死ぬと・・・
 
 AIや科学の開発が今後 どのように進んでいくか?その恩恵もあるだろうがリスクをあげたら切りが無い。”人間の理性のはかなさ”をあのチェスタトンは文明の危機と現代人の病理の視点から、パラドックスとユーモアの文体を使って近代思想の価値の転換を試みた。(西部邁『正統とは何か』序文)
 ・・高まった利便性 なくなったゆとり  増えた薬 損なわれた健康・・≫(ダライ・ラマ14世)の考えと通じる。要は・・進歩(?)したAIと科学 〇×△□・・・。いつの時代でも笑と涙が無くなったことはありません。笑いにも冷笑や嘲笑・・・があるように。
 リスクの反対語 3つ。安全⇔危険。利益⇔損失。確実⇔不確実。  ちょっとは≪つもり違い10か条≫を覗いてみませんか。

3957:あべnoこべ

 「そんなつもりじゃなかった」と相も変わらず勝手な言い訳、今の国会を≪砂漠と森≫に置き換えてみた。ハッキリいって砂漠で生きる人々に言い訳は許されない、一方、森に囲まれ、水を其の儘飲める国、そこで生きる人間はどうなのか?権利と義務を履き違え勝手で節操のない人間が幅をきかせる土壌(風土)が出来上がり、手に負えないあべこべ現象が今起こっている。生き物が生きていく為に環境に上手く適応していくことは絶対条件、国会の実態を誰もがオカシイと思っている。それは国と自分があべこべとなっているから。もういい加減にしてこういう方には即 どいて貰うしかないよな~。定年制がないって?早く つくれば良いんじゃないですか・・・・・。(働き方改革no 議員改革)
 
 頭 隠して 尻隠さず・・・・。陣取りゲーム。ダルマさん転んだ。  大のオトナ達がやっているとは不甲斐ない。
開いた口が塞がらぬ・・・・・。時が移って人は変わらず。 
日光東照宮の”三猿”は見ざる・聞かざる・言わざると教わった。その三匹のお猿との初対面は小学校のバス遠足だった。去年 60数年ぶりに再会できた。 外人用のパンフには、英語で「Three wise monkeys」と書かれてありました。”wise"という意味?辞書をひいて あれれ・・・・。
 ①思慮分別に富む ②内部事情に明るい ③知ったかぶり ④抜け目がない ⑤えらそうな・・・・とありました。前後のあべnoこべ・・・何故か知らねど頭を過った作家は 安部公房(1924-1993)。その作風は出口なしの現代人の孤独を描いた・・・云々。

3958:人生劇

 この世に暇乞いする時詠む辞世の句、・・・・裏をみせ 表をみせて 散る紅葉・・・散る桜 残る桜も 散る桜・・・形見とて 何残すらめ 春は花 夏はほととぎす 秋はもみじ葉・・・(良寛)
 多くの人に慕われた良寛は 日本人の心の深層に今も遺る、小さな五合庵を居として質素に暮らした禅僧。現代人があまりにも見栄や外聞に囚われている姿を良寛が観たらどう映るでしょうか?良寛は当時としては長命(1758∼1831)で73才で生涯を閉じた。 隠棲は”世間から離れ、ひっそりと暮らすこと”。遁世者(とんせいしゃ)は、俗世間をのがれ仏門に入った人。引き際アラカルト。
 19世紀前半前のフランス社会とそこに生きる人間たちの全体像を描こうとしたバルザック(1799~1850)は良寛の生きた時代と丁度重なります。リアリズム(写実主義)文学の頂点にあった作家である。(人間喜劇:『La Comédie humaine 』)
 嘗て 今の様に昏迷する時代があったのだろうか? 昏迷は周りの刺激に対する人の反応や意思の表出を欠いてしまった状態だと言う。出口のない現代人の孤独を、生成AIに託す以外に方法は無いとでも・・・・・。(人間悲劇) 
 
 老いてからの初心・・・一期一会・・・一業所感。。。 一生に一度の機会と思えば、人の生き様、モノの見え方はどうなりますか? 一業所感の身なれば 先世の芳縁(ほうえん)も浅からず。(平家物語第3) 悔やみ憂いてばかりでは仕様がない。最後は信じるか?感じるか? 。
 その為に残された時間をどう活かすかでしょうね。仏教社会福祉の歩みは先人等によって根を張り、今に至っている。それは 目に見える形(事業や仕組み)より、一人ひとりの胸の中に良い因縁(芳縁)となって息づいていると説く。変わることのない万人の願いは”安心”だからです。 先ずは教えることより 学ぶこと 順逆顛倒 老いてのちの 初心なり・・・と。 

3959:菜種梅雨

 菜種梅雨(なたねづゆ)の別名に”春霖(しゅんりん)”があります。3月~4月初に降る長雨のこと。梅が先で桜はずらして開花する。気が付けば”菜種”が畑や土手に鮮やかな黄花をつけた。昔から新芽は食用に、種は油になって重宝された。手を加えなくなった田畑は お構いなしに荒れはてる。それを何とも感じなくなった。必要なものはカネを出せば何でも手に入る世になって、何かが変わった。
 インターネットが世相を反映、皆さん!国税庁を偽した迷惑メールが急に増えたと思いませんか?あの手この手で攻めてくる。これに対抗措置はないのでしょうか?相も変わらず、”むやみに開かないこと””騙されないよう注意して下さい!”の警鐘に何も感じない。 荒廃した田畑に種を撒けばどうなるか?どうも、永田ムラ周辺の田畑が特に荒れているようだ。野菜や米は大丈夫?・・・地産地消・・”むやみにタベナイデクダサイ”の注意看板が気のせいか少ない様だ。
 ☆ 春いぶき 何はともあれ 菜種梅雨 (ナマグサ拙句)
 
 やっぱりな~、これで沈静化するどころか その逆、温室で育ったものでは腰のあるウドンはうてまい。逆風に立ち向かうことより、揃いも揃って逃げ腰で、抜き足差し足忍び足・・・・。その算段に明け暮れるとは! アナタたちの望み通りにおいそれとはまいるまい。
 天気図に日本列島を跨ぐ前線が横たわり上下左右に悪さ働く。いつもだったら丁度 桜の花見で賑わう季節、しかし、蕾は固くとじ、一向にその気配をみせない。苦し紛れの客呼びビデオも昔のものでは、その気にならず。
 そのまま、どこかのドタバタ騒ぎに置き換えて、図星。やっぱりな~! クワバラクワバラ。(斉一性の原理)×(逃げ口上)=∞

3960;要望書

 仏経典の中に数の表記が幾つもあります。例えば”恒沙(ごうしゃ)”、恒河にある砂の数です。どれ程の量かは想像できません。極(ごく)の一億倍で、これは10の五六乗という数だという。
 これで一体何を説こうとしているのでしょうか? 生老病死という四苦、老、病、死は判りますが生が苦しみである。さ~どうでしょうか?それを因果で説明する訳です。相手の機根に応じて解かる様にと。(対機説法)あああ・・・そうかもな~と(「観音和讃」33身19説法)
 世界の総人口が約80億4500万人で日本は1億2330万人、世界第12位、国土は37,797haで63位です。だから国の広さに対し、人が多いということになります。戦後の経済復興を経てGDP、GNPの関心が強くなり、 それがあまりにも偏り過ぎた。その結果、目的を果たすために手段を選ばない状況に益々拍車がかかる。その先頭を走るのがあの永田ムラで、もはや無法地帯と化したように思える。先ずは 新旧交代とスリム化これしかなかっぺ~!
 
 私達が何をすれば良いのか?あきらめてしまえば何も変わらない。まず 自分に要望書(?)を書いてみませんか。
 ・・・・私は時折 苦しみについて考えます  誰もが楽しく 抱いた悲しみについて 生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと 病への苦しみと 死にゆく悲しみと 現在の自分と   答えてください。  この世にあって あらゆるものの 全ての生命に約束があるなら      春は死にますか 秋は死にますか 夏が去るように 秋が来るように みんな逝くのですか    わずかな生命の きらめきを信じていいですか 言葉で見えない 望みといったものを 去る人があれば 来る人もあって 欠けてゆく月も やがて満ちて来る 
    なりわいの中で    おしえてください ・・・・・・(♪『防人の詩』:さだまさし)

3961:出入口

 No3952のダライ・ラマ14世の言葉は今の社会を如実にあらわしていますね。良かれとおもっていたことがそうじゃないんだ。それに気付いた時、貴方だったらどうしますか? ちょっと立ち止まって考える。それができない、まるで蟻の行進のように・・・鳥や魚たちは群れをつくり外敵から身を護る。人間はどうか?似て非なるかな。それは”我欲”が絡むからと・・・・。
 有事(戦争・災害・病・・)において、人はどのように変わるものでしょうか。諸事万端、方法は別とし自分が体験しなかったことも知り学ぶことはできると思う。それが外聞を気にしキズ・汚れを隠すような通り一遍の振る舞いでは 人心は離反する。田の水路の出入口、実際に開閉できなかったら どうなるか?水は流れず澱みとなって悪臭を放つ。こんなことを平気(?)でやっているとしか思えない。    ・・・ 朝暮の口実 謝罪の行脚・・・ 。   
 
 いま日本(?)を覆っているモヤモヤ感(現実と理想の乖離)は 簡単になくなるまい。人心の一新をはかるどころかやればやるほど逆効果、投票率は信頼度のバロメーター、一向に上昇の兆しは見えない。
 『インフォデミック』という言葉をご存知でしょうか?「情報爆発」と訳され世界中に情報があふれすぎる中で、人々がどの情報を信頼したら良いのか判らない状況をいう。不安が多ければ多い人ほど情報を得たくなり、情報を得るほど不安が高まるという悪循環が起こっているという訳だ。拒食か中毒か、何が因で何が果なのか、その見極めができない。 大海の孤島に独り住むなど夢物語、結局は身の置き場所が見つけられず”スマホ”に頼る人が拡大した。 高まった利便性 なくなったゆとり  増えた薬 損なわれた健康 伸びた利益 薄まった絆 これが私達の時代だ (ダライ・ラマ14世)
 モヤモヤ感は生き辛さに繋がり易い、そうならない為にはどうするか?そのヒントは、気付かないだけで身近にあるのかもしれません。その賜物を一緒に探しましょうよ・・・・・・!

3962:急ぎ散る桜

 春の嵐に 折角咲いた桜が散ってしまいました。纏まった雨は自然からの賜物(恩恵)、田起しが終わった今の時期に降る雨は絶好の潤いとなります。満開の桜が一夜にして散るのを視座を変えれば 私達が忘れていたものを教えてくれます。それは自分が知っている懐かしさ。 我先にと競い合うことに何の疑問も持たず、只管、走り続ける。どうですか思いは叶えられたでしょうか?現代社会、あらゆるものが想定外の早さでデジタル化。継続性を唱えながらその良さを見失い、危機感を煽る媒体の思うツボとなっているという。 友人から花の写真が送られてきました。今回は<十二単(ジュウニヒトエ)>だった。その花名から貴方は何を想像できるでしょうか。
 自然との共生は今に始まったことではありません。先人達が歩んできた道すがら実感し大切に守ってきたことです・・・。それがどうでしょう、「デジタル監視」がどんどん進み、プライバシーという考え方が無くなってしまうのではないかと言われます。(ポストプライバシー) 共生どころの話ではありません。
 デジタルVSリアル、真の情報VSフェイクニュース・・・・、人間性(人智)を度外視した昨今の動きとどう折り合いをつけていくか。うまく表現できませんがそれは”急ぎ散る桜”の態、止めるのは実に難しくなった。辞世の句を≪裏をみせ 表をみせて 散る紅葉≫(良寛)と詠んだ時代が懐かしい・・・・次々に出てくる新造語、辞書を調べても出ていない、ネット検索でやっと見つけたデジタルツイン、それをコンピューターで作るのに必要な材料(データ)は”あなたの人生はわずか2・74GB”とは?(『やばいデジタル』p109)
  
 ”こころの声を聴く” 自ら責任をとることが出来ない手合いが増え過ぎた。裏で画策、表で麗句、”政治は結果”と言うならば その証をみせて欲しい。毎度毎度、通り一遍の釈明を聴かされる身になってみてはどうですか。  鈴鹿市の白子不断ザクラをご存知か? 10月から4月頃まで咲き続けるという。天然記念物。周りをみて どうのこうのじゃ~なく、自ら決断するものが全くいないという。国民の不信の因はこの情けなさにウンザリの果、いま貴方たちに必要なのは”いさぎよさ”、年々積みあげてきたことが”自分は悪くない” ・・・とは よく言うよ ハチャメチャだわな。 
 枝を垂れ 見事に咲いた 梅、桜、桃。 地元に帰って見て来なよ。いずれ散る桜なら 何を どうして どうなるか 自分で良く考えてみなよ。

3963:旅は道連れ

 旅は道連れ 世は情け・・・今日の情けは明日の仇(あだ)打ち・・・地獄極楽はこの世にあり・・・・諺(ことわざ)累々
 地獄めぐりで有名な雲仙温泉は日本初の雲仙天草国立公園の中にある。マグマに熱せられた地下水が一定の間隔で凄い勢いで地表に噴き出す。 ずっと我慢してきて、限界を越えた時、一気に噴き出す人の心情に擬(なぞら)える。仇討ちは命懸け恩義を受けた人が殺されたかたきうち。それは1873年(明治6年)太政官布告で禁止された。 布告とは国家の意思を内外に知らせること。 外国で何を約束してきたのか 国民は知らず 批判されれば、知らない、記憶にない、破棄した・・・とでも言うのだろうか。
 これでは、信義、品格共に欠け、相手にされず取り付く島もない。世も末だ 道連れを 探しあぐねて 独り旅
 
 ある出来事の生々しい記憶や印象が時間とともに次第に薄れていくことを風化と言いますね。その姿は昔とは随分変わった。印象操作か情報操作、ごちゃ混ぜにして自分の都合が悪いことを隠したり、だましたり・・・手段を選ばない。
 それで満足せず生成AIという新手のエキスパート・システム(?)によって更に転化しようと目論む。何故に そこまでして という思いは、相手にされず、それすらも忘れ去られる。性善説や性悪説の議論も人を介しない中で決められる時代が来るのでしょうか? 無人機によって あらかじめ組み込まれたデータにより、相手を攻撃することが当たり前になるのだろう。因果の思想は過程を大事とした、真理は常に変わらないものと時と場合によって変化するのも含まれることになるかもしれない。人為か天為かにかかわらず、廃墟となった姿がライブで世界中に流される。これから先、人の感性(理性・悟性)もどうなるのか分かるまい、旅は道連れ 世は情け????無夢 夢・・・ム

3964:竹のなげき

 日本の竹林が嘆いています。竹がほとんど利用されなくなりました。せめて周りだけでもとの思いが通じたのか10年前とは見違える竹林に変わってきました。人の手が入ればこんな風になるんだと感慨にひたる。
 風通しが良くなり太陽の光が入り自ずと変わる。そして竹細工、洗濯竿、が再生し・・・竹馬の友がいずれ里帰りするかも、未だ道なかば、でも諦めない。用を終えたものがどうなるかの一考に値すると、 筍(たけのこ)の出始めは珍重され、その後は頭を折られ、間引きされる運命を知らない人達が増えた。薄利多売、地産地消、自給自足等々、嘗ての経済の立て直し策が時流にそぐわず、判っていながら代替え戦術が見出せない。優秀な技術を生む条件で一番大事な人の育成をあとまわしにしてきたツケは根が張り簡単にはいかなくなった。名立たるトップ企業がノルマを果たす(?)為に不正を犯した。政治家は自らつくった法を破って他人事。国を牽引する者としての範を示せず、私利私欲に道を誤る。この実相を累々たる石塔の下 深く眠って居る祖先達は どう観るか・・・・?(『良人の自白』木下尚江)
 
 同様に相続放棄の家屋、田畑が増え、その残骸を横目に嘗ての栄光を知らずに育った世代には郷土を愛することより我が事が大事との考えに自然と成り行く。偏った未来主義が政治運動と重なり戦争賛美に変わった過去の経験を棚上げし、再び同じ道に迷い込むという過ち、その兆候をあげるに事欠かず、その起原は「忖度」が巷で騒がれ始めた頃と重なる。
 嘆き→憂い→あきらめという思いが国民に嵩じると、社会が因循姑息(いんじゅんこそく)と孤絶感でますます昏迷する世(無道徳)になるという。
 因循姑息・・・旧習を改めようとしないで、その場しのぎに物事をする・こと(さま) 孤絶・・「大海に孤絶した小島」 さ~て・・・・・

3965:警醒の星

警醒(けいせい)とは、注意を喚起し、迷いを醒ますという意。 近ごろは醒ますどころか外見つくろい保身の術、何か問題が出れば取り合えず謝って、ホトボリ冷めるまで姿を暗ます、百面相七変化の忍びの術。名言・格言は迷言と化し、チグハグさに臆することなく、当人はいい気になっているが周りは気が滅入る。
 仏教の言葉に実相、法性、真如というものがあります。これらは同義語で、あるがままにある、存在の本来の真実なる在り方をいう。いよいよ、これさえもAIに託してしまおうとする流れに思えてきた。実相か仮相か メッチャクチャ 、人間は努力する限り 迷うものだ。と言ったゲーテさんも呆れていることでしょう、 百聞は一見にしかず!(その1)昨日の私の総受信メールで迷惑メールがなんと99.99パーセントだった。
 
 (その2)・・・≪短期的な成果を追い求めず、遅れてもいいから「寛容で豊かな研究」を≫・・・と説いた多田富雄氏(1934~2010)は国際的な免疫学者で茨城県(結城市)出身。河合隼雄対話集「こころの声を聴く」で 氏が同郷人ということを知り、急に親しみを感じてしまった。多田氏の言葉は今日の社会において重要性がどんどん増しています。氏は67歳の時に脳梗塞で倒れた。しかし、懸命に病と闘いながら、リハビリは、人間の尊厳を取り戻すべく行う「創造的な」行為だと身をもって体現した人。多くの著作や能の創作活動を続け76歳の天寿を全うした。1人の科学者の生きた言葉は道を誤らぬように後の世に長く語り継がれていってもらいたい。
・・・≪人間というものは99.99パーセント以上、同じ物質でできているわけです。0.01パーセント以下のものが違うだけなんですけれど、それっぱかりの違いに対してあれほど不寛容であるという。≫・・・(『免疫の意味論』)

3966:ミイとの一日

 ミイちゃんに近ごろ老いを感じる。日向ぼっこしながら毛繕い、そうかと思うと4本足を目いっぱい伸ばし寝ています。毛繕いには意味があるという。寄生虫やゴミを嘗めて綺麗にするほかに群れにあって仲間としての確認や優劣や親和をはかる重要な役割を果たすという。猿の「ノミとり」も同じらしい。グルーミング。その辺のことはミイに聴いてみないと良く判らない。ひょっとしたら・・・ヒトの振り見て我が振り直せ?・・・寝返りしてニャオの一声、無視された。
 そう言えば、人間どもが俺たちの専売特許”猫っかぶり”を器用に使うので仲間から顰蹙(ひんしゅく)を買っていると聴いた。思い当たる節はあります。そこで、「どうすりゃ良いんだろうな~?」と聴いてみた。無視された。
 ”猫騙(だま)し”、この技を得意にする者が増えたと嘆かれた。「どうすりゃ良いんだか~?」と呟いてみた。案の定、無視された。
 ダメもとで、”猫いらず”これはどう・・・・?執拗に聴いたら 噛まれました。
 
 ”懲りない症候群”という言葉を偶然見つけた。その中味は判らない。多田富雄氏の本を昨日図書館で3冊借りてきた。「寛容のメッセージ」「寡黙なる巨人」「免疫の意味論」・・・もって生まれた性分は如何せん!これも懲りない症候群? 歳相応に五感の衰えを覚えながら懲りずに愚行を重ね、妄執とならぬよう自分のこころの動きと焦らず驕らず諦めず付き合って、身近な仲間と草木を大切に・・・・そういう者に 私はなりたい。ミイ~よ な~!わかった?
 ☆ 多田富雄著『免疫の意味論』青土社のはしがきの前ページに書かれてあったのは二文字だけ≪母に≫、それも良く見ないと気付かない様な小さな字でした。 

3967:困らない症候群

 通勤通学時以外の土浦駅前は人通りはまばら、図書館の2階から直接、市役所、駅に行けるぺテストリアンデッキ。私の知っている60年前の図書館は土浦警察署の真向かいにあった木造図書館、駐車場は数台分しかなく、いつ入っても暗かった思い出しかない。それが現在の3代目の図書館は大きく変わった、館員のサービスも素晴らしいが公共スペースとして最高の環境と言ってよい。駅ビルが某リゾート会社によって全面的に改装され、気楽に利用でき、軽食、飲み物も自由席で楽しめる。更に図書館利用者には2時間無料駐車の恩典がつく。”困らない症候群”というコトバを図書館の検索サービスで偶然知った。困ったことが溢れ返る世に”懲りない症候群”は頂けないが”困らない症候群”ならば、もっと流行したほうが良いかもしれない。
 知ってか知らずか? 自分たちで決めた特権は決して離さず、一般庶民からのカネを吸い上げる技を磨いた不調法者たちへの診断は”困らない症候群””懲りない症候群”の合併症、現在それに効く薬は無い。 
 
 (続) 病がここまで重症化する前に何故気付けなかったのか? その病巣はどんなに科学が進歩しても判らない風土病。唯一残された治療の方法、その方が長く住み慣れた土地(環境・地位)から完全に離れる転地療法かもしれない、当人は勿論、その関係者も含まれる。転地先には迷惑かもしれない。・・・が名誉、権限、カネ、の病因(妄執)と縁を切らずして此の病からの回復は望めない。
 そうしないとこの国が持たない。その自覚症状が無い人に無い人が説得しても 無理なこと・・・・? 利権(りけん)でなく離見(りけん)の見、大義名分を通すには、時に余命宣告も必要悪! 寧ろ”遅きに失した”感が強い。 ニャ~!(ミイ)

3968:野放図

 慣習や規則に縛られず勝手きままにふるまう姿態を称して”野放図”という。際限なしに極まって大手を振って堂々と、・・迷惑千万の話である。いつの間に 堂々でなく陰に隠れコソコソと 少しは良心の呵責を感じたか? 違う!その証拠に”引き際”を観てください。在職1日で辞職・・・・繰り上げ当選で思いもよらず自分が永田町住人(?)となり、その気なしとは・・・「よろづ自由にして、大方、人に従ふという事なし」徒然60・・ 。今の政治がサロン化している証。政治とカネの問題(パーテイ券)も同根、急いで規制法を検討したところで今回も抜け穴を作って、いざとなれば法廷に立つと意気込むとは、とんだ茶番劇だ。モモモモ・・・ ここまで 国民をバカにした話に黙っていて良い筈はないでしょう。【幟杭(のぼりぐい)】   ・・・ 連休初日 世間騒ガセ 笑顔ノ謝罪 ・・・
 
 笊法?笊(ざる)を知らない者がいる時代に守るも守らないもない。有名無実の法、その類は、あるある 掃いて捨てるほど、いわんや、その捨てる場所がないという怪奇な現象に疑義を持たず慣れてしまった。 徒然草。兼好法師が感興の趣くまま著したという700年前の随筆集、その基は”無常観”。現代人に三宝印が通じるかどうか判らない。読む前に”時代遅れ”と謂われ一笑を買うのが落ち。徒然草60段にある”芋頭(いもがしら)”が何なのか?辞書にサトイモの親芋とあり。混迷万事が此処に在り、”お前だって いすれ歳をとるんだ。バカモノ”と記者を怒鳴りつけた方がおりました。その方は親子の絆をどう思っているのでしょうか?”子供だっていずれ歳はとるんだ 〇〇オヤジ” 徒然なるを 日暮し硯に向かうことなく 大方、人に従うことも無・・・・・。ならば 洗い浚い真実を暴露し”一代回顧録”に残されたらどうか・・・・。
・・・・ 明日あると おもうは勝手 早苗月(さなえづき) (野坊主儚むノ抄) ・・・

3969:儚(はかな)む

 ”儚む”の原義は”捗(は)か無し”モノゴトが思ったようにはいかないこと。(仏)四苦八苦の「求不得苦」と同義。「人」+「夢」、漢字の会意兼形成。
 多田富雄著三冊で『寛容のメッセージ』を読み終え、『免疫の意味論』にうつる。科学万能の考えが此の儘進んでいくとすれば、途中で道を誤り取り返しがつかない事態になってしまうのではないだろうか?この不安と危うさは常に我々から離れず付いてくる。≪人間というものは99.99パーセント以上、同じ物質でできているわけです。0.01パーセント以下のものが違うだけなんですけれど、それっぱかりの違いに対してあれほど不寛容であるという。≫此の多田氏の言葉を噛み締める。生き物の中で、人間だけだ!自ら考え創り出した”武器”によって互いに殺し合う愚行を繰り返して得意になっているのは。暴君、独裁者を崇め、私利私欲に目が眩んだ者で周りを囲み・・・・”儚む”には、そういった者にどう足掻いても無駄という意を暗示する。
 ・・・≪科学が急速に進展するときは、次々に出現する現象の面白さに目を奪われて、生命という大きなコンテキストの中での意味を問うことを忘れてしまう。≫・・・(『免疫の意味論』多田富雄、p234)