源究216t216

 

NO  テーマ  月日  NO  テーマ  月日   NO   テーマ   月日  NO  テーマ   月日 
 3831  願行  4/10   3836  毀誉褒貶  4/26   3841  風景点描一考  5/4  3846  あなたらしさ  5/20
 3832  真善美  4/13   3837  言葉のちから  4/28   3842  加減乗除  5/8 3847  あら?ほら!う~   5/23
 3833  まだまだです  4/16  3838  音楽のちから  4/29   3843  ガンジス河の砂   5/11 3848  繰り返し概論   5/28
 3834  背伸び 4/19  3839  意志のちから  4/30  3844  図書館   5/14 3849  アラカルト  5/30
 3835  頃合い  4/23  3840  生き証人  5/2  3845  もっとゆっくり   5/17 3850  風景点描Ⅱ   6/1

3831:願行

平穏無事”を願わぬ者はいない。そう在るためにどうすれば良いのでしょうか! 願行は誓願と修行。自分に在って人に無い物、またその逆、定まらない感情(欲)。余命宣告された時、人は平静を保つことは難しい。遣り残した事、気掛かりなことが次々に浮かんできます。 誕生した時から”死”は不可避なものとして運命づけされてきました。
 AI(人工知能)に感情機能を持たせることのリスクは大き過ぎます。決して踏み込んではならない領域(禁じ手)。それを進歩と疑わず。
 自然との共生・・・自然は人間を育み恵みを与える一方、災害をもたらし、人間の不当な介入に対し常に立ちはだかるもの。罪と罰、罰を逃れようとする輩は絶えたことはない。ただ逃れられない”孤独”の呪縛は 如何ともしがたい。
 理想と不協和音・・・・ひそかに行う善行あれば露わに悪行の仕放題、有為転変の世の実相。わくは 諦めずずること・・・・・。
 ☆peace (平和)harmony(調和) love(愛)⇔★war(戦争) greed(貪欲) hate(憎悪)。意余って、言葉足らず。
 ”知足””共生””一即一切””忘己利他”
 
  息子さんから父の納骨が終わったとの連絡を受け、水戸に行ってきました。墓に刻んだ文字(”知足””共生””一即一切””忘己利他”)は自分が世話になった四人の方の直筆で自分の人生の道標だと語っていた。
 皆さんが一つの道を歩み続け天寿を全うした方々です。ここに故人の人生と願行とが重なると思います。当人は”未だ道なかば”と言いたいかどうかは判らない。何も告げず天に帰っていきました。
 AI偏重(妄信)の社会になればAI暴走(?)の規制ができず、ルールを作っても守らない。いずれ無法社会という最悪の事態を招かないか!・・・「社会に大きな影響を及ぼす技術が一企業の判断だけで進められる現状・・倫理や道徳の観点から、もっと民主的な統制があってしかるべき・・・」という警鐘は届かずに?
 人智の及ばないことに“挑戦”すると言葉巧みなレトリック、その推奨者たちもいずれ世代交代し世間からは忘れられ どうなるか誰も解らない。 まさに核兵器と同じで、後に残された人達にとっては堪ったもんじゃない。より深刻なのは関わった人間たちの責任が問われず、AIそのモノに全責任を負わすという本末転倒に思えて仕様がない。

3832:真善美

 人の価値で理想をどう考えるか!。他の生き物との違い、知性、意志,感性の見極め、その卓越性を真善美という言葉によって示す・・・・云々(哲)。
 未知への挑戦or既知への挑戦とか言っても、知るか知らないかの峻別も儘ならず どうも先走り過ぎていないだろうか? 今の世の中そんな風に思えて仕様がない。私が変だと謂うならば それでも構わない。つい先日のことNHKTVでハエの話がありました。ハエは、どちらかというと”嫌われ者”です。でもハエから我々人間をみたらどう見えるか?こうすると新たな発見があるというのです。最先端の若き研究者が番組の中でハエの恰好をし話されたことがなんとハエは綺麗好きだという。嫌いなものと好きなものを見極める能力が優れているという。手と足がどっちか分からないが すべての指先に臭覚能力があるという。これって人間には無いでしょう!それに羽にもあるというのだ。だから 自分達が好むモノに屯し腹を満たす。決して独り占めはせず分かち合うことを弁えている。
 そのようなハエから見ると人間の評価は変るとか・・・・。
 じゃ~仏教ではどうでしょう? 真善美を考える上で仏教根本の思想の”無我”が鍵になるという。
 閑話休題!
 (真善美の関連語より)。≪衒耀≫(げんよう)という言葉を調べたら、意味は”才能を実際以上にみせかけること”とあり。ハエ~・・・参った~!  推して推して知るべし。  
 
 知性の対象を真、意志の対象が善というのは西欧の古代、中世の哲学的伝統であったとか・・・・・それが今はどうなりましたか? 現代社会は、あまりにも見せかけに踊らされ、真か善かなどに関心が薄れ、デジタルと力づくで思いを果たそうとしている。
 此の儘 突っ走り、どこに向かうのか! これでは駄目だと誰かが気付いて後戻りすると謂えば、挙ってお前は怠け者、脱落者だと毛嫌いする。今生が針の山か?花が咲き小さな虫たちが集まる広い野原か?オシテシルベシ。植物や他の生き物とは違う、人間に特化した様態・・・・。願わくば VRであって欲しい。
 ”宗教”が今日程、その存在意義を問われている時代は無かったと思います。宗教は「経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。」(大辞林)とあります。 もしも 宗教が悪行に加担するようなことになれば論外。使命を失ったことになるでしょう。無我愛というものは、私心を離れた純粋な愛、没我の愛のことです。
・・・だれかさんが だれかさんが だれかさんが ころんだ 小さい秋小さい秋・・・・♪ なんだか 変でしょう。ダルマさんと小さい秋 どこがどうなの~よ。(併置昏迷)

3833:まだまだです

 午後5時からの会合が3年ぶりに対面で開かれた。昔よく此処で集って、会議、宴席というパターン、コロナ禍によりこれら全てが自粛となった。お互いに急に歳をとったものだと声かけばかり。まだ喪があけていない。宴席はいくつもある所だが2室だけ使用中、人数も部屋の広さに不釣り合い、・・・・・・頃を見計らい 早めにお暇させて頂いた。
 ないないない。。。斯様に気持ちが萎えている。 明日(16日)は”かすみがうらマラソン”、2010年までは日本で3番目に多い市民マラソン・・・『日本三大市民マラソン』・・・だがマラソンのコース沿道になびく応援旗も自重気味、天気下り坂、予報では雨となり気温も10度下がるとか。
 これでは沿道に出て応援もできないと 寮内からの応援になるしかない。人々の気持ちもデフレーション、これでもかこれでもかと次々と逆風が吹き荒れる。それに向かって走る選手に”ガンバレー!”と拍手をおくりたい。でも沢山の芝を地元農協より頂いて、丁度園庭に植え終えたばかり。この雨は芝にとっては慈雨となる。萎えるより 捜せば見つかる 好結果! 悪天も一日早く 試走する。 
 
 またもや 政治家を狙った事件が起こった。その殺伐とした様子がライブで流れた。16日から 全国で選挙戦に入った日本、同様の事件が どこで起こってもおかしくない。不特定多数の人々が集まる場で、自分が事件に巻き込まれるのを防ぐことは難しい。
 一部の人間のやった行為だと言っておれない今の状況に 私達はどう向き合っていけば良いのだろうか!人間不信が社会の閉塞感を生み、理想と現実のギャップは縮まるどころか拡大し続ける。こうなることは想定の範囲?それとも 想定外の事だったのだろうか!
 自省・自問・持戒・義務と権利の頃合いは相関している。
 ・・・・先ずは それらに 謙虚に向き合うことが肝要かと。『過ぎたるは猶 及ばざるが如し』  まだまだです。

3834:背伸び

 十二因縁は、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12支分、苦悩の原因でこれを絶つことで苦悩を滅するという仏教の基本的な考え方です。現実に起こっている事、それを知っているか否か、戦争、犯罪、不正、貧困、搾取・・・・いつの世もその犠牲者となるのは決まって”弱き人達”です。恐怖、悲しみ、餓え・・・を絶つことが果たしてできるでしょうか!順観、逆観はどちらにしても難しい時代となりました。
 俺が俺が・・・と1人占め、まだまだ足りないと貪ぼって、思いを果たせず怒り心頭(貪瞋)、気持ちは和むどころかその逆で輪廻は止まる兆しなし。
 軟弱地盤に豪奢な建物、どんな気持ちですか?タワーマンション、売り出して即日完売、平均価格2億円! その事情判らず(痴)。  ♪・・・背伸びしてみる海峡を・・・うしろ姿も他人のそら似。‥♪。 
 
  祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
        おごれる人も久しからず、唯 春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵に同じ      (平家物語)
 
  時代は変わっても 変わらないことがあると思います。それは人間の本性でしょうか。この有名な書き出しは 日本人が自分を誡め、他との頃合いを保つ指針とし長く読まれてきました。前項第一の無明は、己の欲望や執着によって苦しみ迷う根本煩悩のこと。
  その鐘楼の鐘の音が安眠妨害だと言って、匿名電話がかかる世になりました。(現代沙石抄:無常→無情))

3835:頃合い

 3人で掃除をしました。Mさんは道具(鎌、箒、一輪車)を使い実に見事でこだわるタイプ。Kさんは熊手を2本、器用に使う。それと一輪車しか使わない、あまり手を汚したくないタイプ、でも二人に共通するのはコツコツと黙って仕事すること。私は、ニワトリ型でアチコチ動き周り定まらない。二人はそう思っているらしい。晴天で気温25度、風もなく、絶好の日和となりました。
 誰だって叱られるよりほめられたほうが良い、此れ老若に関係ありません。
仏教の基本教義に中道あり(中観)。快楽主義か苦行主義、常見か断見、有か無、空か仮・・・・白か黒・・・昔より諸説あり変遷してきた。だが変わらないのは対立でなく頃合いをはかること!偏り過ぎずいい塩梅。な~んだ そんなことかと。だが そうは問屋が卸さない。
 何故でしょう? 12因縁がそれを説く。信じるかしないか、決め手は汝の胸中に、今風に言えば自己責任。・・・そして、百人いれば百人違う。是れ実相、
 これって洋の東西を問わずでしょう。
 「過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないこと」(アインシュタイン)≪No.3930:明暗≫
 
 
 御守りや御まじないを信じない、持たない。人それぞれ。これからはAI(人工知能)開発が益々重要性を持つと、国策の最重要課題と掲げる、それだって使うのは人間、善悪の判断さえ儘ならず、AIの独り歩きを止められないことになっても後のまつり。智/知/痴????頃合い観!これも自然との共生を履き違えた人間の驕りではないか。開発推進者が・・・嘗て車や機関車を考え出した頃のことをあげ、AIも同様に未来を良くするものと信じ開発を進めていかなければ世界から遅れをとってしまうと力説した。 どっちが時代遅れなのか?守れないルール、守らない法、がどれだけありますか!そんなことに構っておれず”見切り発車”。それをもAIに責任を負わすとなれば、”頃合い”をはかるとは謂わない。
 G7連携の『責任あるAI』の閣僚宣言(原案)・・信頼できるAI・共通基準・悪用の防止・AIの恩恵を最大化しリスクを規制・・・を促すという。その実効性をただす前に 貴方自身は 未来にどんな希望をもっているかの本心が聴きたい。
【仏】人間の意識の根底にあってすべての心の働きの源→阿頼耶識(第8識)。AIの恩恵の反意語は?

3836:毀誉褒貶

 毀誉褒貶(きよほうへん)、うそかホントか、進化か退化か、急速な社会の変容に真意を確かめることもなく、走りながら考えるという離れ業。諸行で不変なものはないという無常観(仏)は長大な時間の間に次第に変化してきた自然界の実相に通じる。偏り過ぎた競合や容赦ない略奪を厭わず性急に結論を出すことじゃ~ないと思います。
 道理に合っていない事も正しいと思わせてしまう、気が付けば詭弁、虚偽の推論の坩堝。一体全体、正統とは何なのでしょう!無我は空と同じ、万物は全てが因縁によって起こる仮の相で実態がない。『責任あるAI』論議にみる理想と現実、ここに巧妙に仕組まれたレトリックを観るのはおかしいですか!
 目的を達するための便宜的な処置(方便)だとしても目に余る身勝手な行動を規制するどころか正統化しようとする動きはますます勢いづき毀誉褒貶は定まらず。
 
 機械に管理され 生きることが果たして人間らしさとどう繋がるのだろうか?公平性、信頼性と安全性、プライバシーとセキュリテイ、包括性、透明性、説明責任をAI開発と使用の指針として責任あるAIの6つの基本原則とした。けれどもその実行性は未知の域を出ない。おそらく そんな事はお構いなしに開発は進んでいくでしょう。堂々それとも秘かにの差はあるかもしれないが開発を止める決定打にはならない。
 ルール無き社会になった原因を捜せず 言葉でどう訴えても”遠吠え”にしか聴こえない。だったらどうする?

 ♪ 今日がいちばん若い日! そう生きてる限り 今日がいちばん若い日!ほらあなたもわたしも
     遠くは見えないけど 近くの幸せ見つけた  遠くは歩けないけど 足元の春に気づいた
        人の名前が思い出せないけど イヤなことも忘れた
                 ・・・・・・・・     ♪           (ラジオ深夜便のうた「今日がいちばん若い日』 榊原広子:作詞)

3837:言葉のちから

大江健三郎氏が11年前にNHKラジオ深夜便で語ったものが再放送されました。今までの大江氏に対する見方が変わった。インタビュー者が話す間もないぐらいの雄弁をふるった。難解な作家だと謂われてきたことを自ら語り、そこに氏の正直さと謙虚な人柄を感じた。昨年88才で亡くなった日本で二人目のノーベル文学賞を受賞し、数多くの著作と様々な活動を通し”平和”を訴え続けた、番組の中で特に印象に残った話は日本語の「悲しみ」と「憐れみ」の違いを語ったところ、人間らしさは 目に見えない部分に大事なものがあるということでした。障害をもって生れた息子「光」さんが初めて言葉を発したのは、レコードで鳥の声を聴かせた時、顔を真っ赤にして大はしゃぎして「ウグイス」と言った。それから光さんは言葉の数をゆっくりと増やしていったという。
 息子と父、30年以上続けているのは二人で散歩することだと語った。インタビューの中で淡々と語られたことの中に私達がどこかに忘れてしまった大切なことが沢山あるように思いました。 
 
 中野京子さんの”名画に書かれた災厄に抗う人々”(私のアート交遊録)。中野さんとアンカー石澤さんの絶妙なトークに魅了された。近くでは笠間にある日動美術館、最近何度か訪れた。東京に行けば沢山美術館があるのは知っている。コロナ禍の中で行動範囲と時間の使い方が変った。身近にあって知らないことの再発見、視野が狭まったと思うのではなくより深まったと思えば良いことでしょう。
 日常の余裕の無い生活、自然と気持ちが萎えてくるのは仕方がない。気が付けば草刈りとメンバーさん達との触れ合いが助け舟になっている。草刈りは草木の強かさと優しさを、メンバー達からは「人間のもつ本質的な温もり」を教えられる。気どった言い方かもしれないが他に言葉が見つからない。打算的で抜け目がない世の中。それに抗う人々は自分の殻に引き籠もりたくなる、それを病人扱いしてしまう社会に”そうじゃ~無いよね”とさり気無く教えてくれる。言葉が無くてもこころを感じることは出来ると思います。それが自分が道に迷った時に救いの手になるということを気付かせてくれた日 ♪「今日がいちばん若い日」の響きです。大江さんの語った「悲しみ」と「憐れみ」の違いは、相手と同じ目線かどうかということだと思った。

3838:音楽のちから

  音楽は確かに私達の心を程よい状態にしてくれる働きがありますね。疲れや悲しみを癒し、失望からの復活、怒りや憎しみを和らげる・・・・・。
 個人的な話です、私は前から障害福祉という言葉は好きになれませんでした。自分の名とどうしても重なってしまうからかもしれません。その言葉からどうしても偏見や何か不利益なあつかいを想像してしまうのです。大江さん親子の話を聴いた時、闇の中に一条の光明を射す感を覚えました。それから周りに目をやってみると 今までに無かった情景があちこちに見えることに気付いたのです。 そうだ 知らなかっただけなんだ。
 でも 安心してばかりいられません。最近特に障害の程度や種類を細かく別けて判り辛く解かり辛くしているように感じます。1人の人間を何故 そこまで細かにするのでしょう。人は五感を互いに補完し合いながら人間らしさを育んできたのでしょう。だから有るが儘の姿こそが大切だと思うのですが 何もかも計算づくになっていくように思えてなりません。
・・・・  知足と値測を混交し、豊かさこそが幸せとしきりに諭され  高い買い物 ハモったつもりが不協和音 ・・・・(ナマグサ拙句)
 
 14~16世紀の西ヨーロッパに起こったルネサンスは、都市の発達と商業資本の興隆を背景にした新たな価値創造の時代と謂われました。文学、美術、建築、自然科学など多方面での文化的革新が見られます。それを近代化と謂うならば、六百年を経た今(21世紀)をどう捉えたら良いのでしょう? どんな理想の社会を描くのが良いのでしょう!多様な価値観は人間の欲求が因となり、偏れば節操無き豊かさへの渇望をまねき、自然の摂理をも軽視することになってしまいます。見せかけの繁栄が益々増え、悪行(十悪)が横行し、何を信じたら良いのかが判らなくなる。社会の分断は、先進国、グローバルサウスという枠を嵌めることに象徴されます。それでいて 国連に多くの責任を持たせるのは 如何なものでしょう。
 世の常と 堂々巡り  飽きず 苦にせず 是々非々 努力する ソンナヒトニワタシハナリタイ

3839:意志のちから

 早まったかな~と思ったら勇気をもって立ち止まる。そうできるのは”意志”の働きです。
意志(will)とは・・・ある目的を実現するために自主的で意識的な行動を生起させる内的意欲道徳的価値評価の原因となる。〔哲・倫]
 身口意の三密のひとつ。こころのこと。〔仏]
 五月の連休、丸3年の自粛からの解放は外国旅行に行く人の数の多さ?それを羨ましいと思うのも”こころ”、指を銜え見ているだけ、否 違いますと言えるのも”こころ”です。普段できなかったことを休みにやろうとするとそれが何なのか?やるべきことは無限大。ポットにお茶いれ 外作業、・・・・。ごらんなさいよ!お金はかからず至福の時間、出来なかったのではなく気付かなかっただけでしょう。じゃ~ 連休が無い人はどうなのよ。
(will power→the abillty to control your thoughts and actions in order to achieve what you want to do) 何をしたいか と 何ができるかは別次元。分別か無分別? これに智を加え”無分別智”は”世界の究極の真理を把握する智慧”と説く。(仏)
 AIの恩恵をWillではかろうとすれば 究極の真理と成りえるか????。日本語ではかるは図る・測る・量る・・諮る・謀る。 アナタのはかる・・・はどれですか。 
 
 今の便利さやスピードへの飽くなき欲望は想わぬ結果を招く、ルール(規律)が追い付かず制御できず。生れて間もなく立ち上がる動物と比べ私達は歩行や言葉を覚え、他の助けを借りずに自立するまでにはどれだけの時間を要するか忘れたの?
 まるで、その遅れを取り戻すかの如き限りある時間を浪費する。これも自分達の意志で? 1人では生きて行けないことを判っていながら変えることができない性(さが)。(人為)か(天為)かを混同し いまこの瞬間に起こっている災厄を我が身に起らずば 他人事。先人の忘己利他の教えなど時代遅れと意に留めず 何もかもAIに負わしてしまう魂胆か!何事も行き過ぎはよろしくない、本来備わっているはず道徳感覚を狂わせ、有るべき価値を損なうこととなる・・・云々。
 ”ホントウにモウ!年寄りには電話以外に通じないんだから” と いう妹に ”お蔭で いつの間に大きくなりました!” とお姉さん 此れケンカにならず いい塩梅。(ナマグサ沙石抄)

3840:生き証人

 ヤングケアラー、労労介護,認認介護・・・今の日本で現実に起こっている。まだ先のことと思っていた人が多い、それが我が事となって 慌ててしまったという話は良く耳にします。昔と比べ国の社会保障制度が整い、その恩恵を受ける人も増えています。でも 完璧な制度は在り得ない。関係者の負担は無くならない、それぞれのちからをフル稼働し現実と向き合うしか無いのです。be+動詞+ing・・・現在進行形、これも使い方でいろいろなニュアンスになる、今の状態が長く続くか一時的なものか・・・の差があります。仏教の基本的な考え”無常観”がそれです。
 ≪持ちつ持たれつ≫は言葉の違いがあっても万国の共通語として存在します。give-and-take.。相互依存で生きてきた過去、現在、未来。そこで確かなことは真実は語り継がれるべきということ、同じ過ちを繰り返さない為に!
 世間は連休に入った。寺は連休とは無縁。戦争体験を語れる人が亡くなり、その家族が来られて・・・父は最後の特攻隊員(17才の時終戦)でした。もし戦争が続いていたら”お前たちは生れなかった”と良く話していたという。高校教師として同じ高校に40年間勤めた。”真面目で物静かな人でした”と奥さんが話された。ご主人は80才まで小型飛行機を操縦していたそうです。危ないから止めて欲しいと子供達に謂われ諦めたと、でも趣味の空手だけは続け、95才で静かに息を引き取ったということを伺った。
 
 
本棚の上にあった古い写真を見て、一体誰だろうと思ったことがある。あの日 昭和20年の記憶 「先生の背広姿に終戦を実感」。これは戦後60年(2005年10月22日)に放送されたNHKBS2番組のタイトルです。ゲートルを巻き軍服を着た教師、今の子供たちがこの写真を見て何を感じるでしょうか?
 今まで戦争の真実を知らせずに封印して来なかったでしょうか?同じ敗戦国のドイツとの違いが此処に在る。未だ戦後は終わっていないのかもしれない。国会において高齢化社会に”超”まで付けて語られることはあっても、何か大事な議論を避けているように思えてしまう。今 古希以上の人たちは実際に経験したことや聞かされたものに戦争に関するものがあったはずです。臆すことなく”超高齢化”という現代社会、それを当事者がどう感じるかです、今年73才になる者には肩身が狭く恩を忘れ仇をなすが如し!

3841:風景点描一考

 便利な世の中になったという割に不自由を感じる。OA機器、あっと言う間に機種が古くなり、今までできたことができないということが増えた。末路は粗大ごみとなり捨てられる!進化とは?SDGsとは?今の社会がのっぴきならない羽目に陥っていないだろうか。
 私の住んでいる地域は、昔から水田と畑が多く、5月は作付けに忙しい季節、そこには笑顔と活気があった。これは昔の風景、いま 明らかに変った。休耕農地が増え、売買可能な農地には住宅が建ち、調整区域の山、田、畑は人の丈まで伸びた雑草で覆われた。自然は正直です。本来、トラクターは土を耕すためのもの。それが草刈り機の代用と化している。見た目は、同じだが、聞けばそう言うことが進んでいるという。
 私達は細やかな挑戦をしています。それは”草刈り”環境を良くする代名詞。綺麗になれば、気持ちに変化が生れます。最初は少人数で行っていたことが、徐々に仲間が増えてきたと実感。荒れていた竹林や山に少しづつ人の手が入るようになってきました。共働は打算と慣れあいを防ぐ漢方薬になりうる。師と仰ぐ田村一二氏の”流汗同労”の教えは、今こそよみがえる時だと思う。今できることは何かを考え、それをひたすら繰り返していくことの大事を繋いでいく。
 ジム通いと外で作業する流汗の おなじこと ちがうこと。愚問でしょうか?
 
 おそらく 己の責任はそっちのけで、他の所為にするという傾向はこれから先益々強まるような気がします。多くの人々が 感じている生き辛さや不安、それと良心の呵責を感じない事象の氾濫、この因果の関係に果たしてAIが救世主となり得るでしょうか!
 私は敗者と言われようが捻くれ者と言われようが構わない。逆に 教えてもらいたい。敗者とは? 捻くれ者とは?「アンタだけだよ、そんな事いっているのは!」と言われれば其のまんま相手に返します。
 線を使わず異なる色を並置することで視覚の混合を生じさせる画法(印象派)や墨の濃淡による水墨画、もし、時代遅れという貴方が今の風景を描くとしたら どうでしょう。宜しければ絵の具や墨、筆を使わずAIで『当世千夜一夜物語』、『馬耳東風 今昔絵巻』なる風景を・・・一考してみたら如何でしょう!★『信頼できるAI』×『忘己利他』=∞

3842:加減乗除

 +-×÷の数式を四則演算といいますね。 ∞は無限大、それに対し無限小(限りなくゼロに近づく)、この考えはbc4~2cのインドのジャイナ教経典の中に見られるという。無・空という概念も起源を辿ればどこか重なるように思われます。
 無限か有限か?自然科学・社会科学・人文科学と人間は何が真理かという事に飽くなき探求を続ける。自由とは何をしても良いということでは無いはずです。それならば『信頼できるAI』-『信頼できないAI』の減法は成り立つのでしょうか?日本が誇るスパコン≪富岳≫によって正解が瞬時に出せるのか。未知への探求が何を目指しているのか、登山道の入口に集まり。さ~てこれから頂上を目指すというが、肝心の頂上がどこなのか定まっていない様に思えて仕様がない。
  自然の摂理を軽んじ、望みを満たそうとする行為から何が獲られたか!それは仮想現実という人間が考えた倉庫に詰め込まれた未来の姿!ロッコンショウジョウ 六根清浄 ろっこん しょうじょう・・・・。 
 
 四則演算で≪六根清浄≫と≪六根罪障≫を計算できるとよもや話に花が咲く。
 宗教史によれば、ジャイナ教は厳しい戒律と苦行の実践によって輪廻からの解脱を目指すとあります。推定信者数はインド国内に限定され約200万人。方や人類史は未だ解明されていないことばかり、他の生物と分けるホモサピエンス(人間)の本質は理性的な思考を行うことにあるとする人間観。だとすれば いずれ六根(眼耳鼻舌身意)は清浄になり、往生を妨げる障りが消えることになります。維摩経(初期大乗仏教)で説く「不二の法門」は、互いに相反する事象は、別々なものではなく一緒に存在しているという。
 じゃ~知識と智慧?。ゴロゴロ!・・・維摩の一黙、雷のごとし・・・    丁度 時間となりました! 御後がよろしいようで・・・。 

3843:ガンジス河の砂

真の・偉大・冷たい・残虐→指導者。某日、ある人への種々の評価である。まさに今日の情報実態(実体)をあらわしている。
 不二の法門を説く『維摩経』は別名『不可思議解脱経』 漢訳の一つに玄奘訳『説無垢称経』が在り、旧来の固定化した仏教の空思想を在家仏教者(維摩)が判り易く説いた経として今も読まれているのです。相反する事象は不二ではない・・・等々。
 私達は、流れに身を任せることも儘ならず、拠り所を常に探し求めているのではないでしょうか。情報は、時間が線でなく点になり、何を信じれば良いのか判らない泥沼化。情報入・出のバランスが崩れ、処理不能という有り様、その殆どが人為によって起こっている。真偽、善悪の判断もできず手を拱き。、一体どこに向かっているのだろうか?それでも どうにか立っている。
≪心に煩悩なく、思慮惑乱せず、善悪を棄捨し、覚醒せる人には恐怖あることなし。≫(法句経)。是に対し是非善悪をあげつらい、エゴを貫き、権力・財宝・名誉を求め狂奔する者は、たえず自分をおびやかす敵を意識しなければならず、見えざる影に怯えなければならぬ。初期仏教経典にある。
経の中で量の多さを・・河沙(ガンジス川の砂の数)・・、時間の長さを・・百千万億劫・・であらわす。(観音経) さも判ったかのごとく振舞う如しと誡め無垢・無為・無我・・・無謀を説く。
 
 ”唖然として言葉が出ない!”というより、錯雑たるネタ(種)ばなしの態。改革も道 誤れば、元も子もなくなり、出口を見失う。後悔×懺悔は回り続けるレコード・・・・・・・いずれ針が摺り切れ止まるだけ
 人間らしさとは、一体どういうことを言うのでしょうか?ここに来てチェスタトンや西部邁や大江健三郎の本を手元に置き垣間んでいる。壁には無垢な幼子と仲間たちの写真が見つめる中、河沙or川砂か?遊or游か?どうでも良い話だろうが私にはそうではない。
 こだわりですよコダワリ。何もかもを人工的な頭脳に託してしまうという行為は、最早 止めることはできまい。何がそうさせるのだろう!それは湧き上がる湯煙のようで直ぐに消えてしまい訝しさだけが残る・・・・晴れ時々雨。雨時々晴れ。それが明らかに変わって、頭に”暴”がつく。
 ガンジス河の畔(バラナシ)で木を組み、死者の荼毘が行わていた40年前に見た光景、その時、私は直視できなかったことをハッキリ覚えている。おそらく 今も変わらずに行われていると想います。

3844:図書館

 SNSが過剰なことになっています。誹謗中傷の炎上、メールの大半は詐欺メールという実態です。最早これを止める手立ては無いのでしょうか! 摘発されるのは極一部、法的規制が間に合わない。四方八方からの執拗な攻撃は続く。サービスって一体何なんだよ?
 これは現代人が怠慢になったということの証でしょう。情報漏洩、入力ミス、・・・等々、今後も増え続けるだろう!マイナンバーカード? 銀行の窓口業務? 年配者は お邪魔虫ですか?肩身狭く生き辛い世の中になったものです。
 自己防衛でネット通販の利用は止めた。不便?いや違う。無駄? そう、正解です。
 地元の市立図書館、新しく立派になってから利用したことが無かった。午後から行ってみたら次々に来館する人がいるのには正直驚いた。年齢的には私と同じ位の人達が多かった、おそらく時間帯によって年齢層が違うのだろう。駅から直接入館できる便利さと2時間無料の駐車場。 今ごろ判った? そうなんです。受付で≪初めてなので≫と謂ったら丁寧に教えてくれました。利用カードを作ってくれて、館内を一緒に歩いて説明してくれた。感激です!試しに2冊を借りてみた。目的の本は分館にあると判り、その場で予約してくれて本が入ったら電話をしますという。こう言う事が利用者優先だと思いました。じゃ~ネット通販とどこが違うの?後々余計な心配がないこと。書棚から自由にとって、読む場所も至る処に用意されている使い良さ、更にそれらが全て無料!これ以上のサービスはありますか。
  そして帰る時、読みたい本をリクエストできますよと教えてくれました。・・・定期的に図書館で購入し揃えてくれると言う。
 
流行のスマホや車、おそらく備わっている機能の半分も使わないのに、買い替える人が多いのは何故?初めての車検を受ける前に新車を売り込んでくる。それがSDGsの17目標のどれに当るのでしょう。過剰さは一向におさまらず、”ほんにマ~御方便なことでございます ”
 打算と都合が絡み合う社会は ルールは後付け、その結果、相互不信感をうんでいる。 ま~その時になって考えれば・・・と先延ばす。真か偽、善か悪、公か民、・・・自分の都合で思いを果たす世の中は昂じて自分に跳ね返ってくる。
 ・・・世俗や世俗に関わることを肯定し、執着や分別心から逃れ、そして私達を縛りつづける二項対立の罠からも逃れ、他者性を重んじ、生き抜くための思想・・・「維摩経」解説本の表紙うら。煩悩即菩提これ如何に!老兵は死なず、ただ消え去るのみか。図書館で借りた維摩経に関する三冊の本、一冊目『空と慈悲の物語』を読み終えました。

3845:もっとゆっくり

 現在の図書館は三代目(?)の建物、一つ目は高校生の頃、良く立ち寄った。学校から駅までの丁度中間にあって木造だった。薄暗く、正直、長居したい気持ちにはなれなかった。二つ目は、斬新な建物で数倍の広さがあったが、ちょっと不便な場所にあり、結局利用しなくなった。三つ目は駅前再開発(土浦駅)の目玉の一つで、1代目2代目とは比較にならないほど近代的な設備、便利な場所、それとサービスの良さ、素晴らしいものばかりとなった。それなのに今まで利用しなかったのは、図書館を利用する気持ちの余裕が無かったのがその理由?本当は面倒くさがりとせっかちだから。今年は73才、堂々たる高齢者、もっとゆっくりしなよと言われると余計反発したくなる、時間は容赦なく過ぎ、そして案の定、待ったがかかった。ホラ 謂っただろうが!体調を崩し一年間に4度入院、何することもなく病院の窓から外を眺めて過ごすなかで考えた。もっとゆっくり。 あああああ!丁度3年が経ちました。
 
 この時期、天候が周期的に変る。植物にとっては慈雨、成長には欠かせない自然の恵み、人間だけは自分の都合でどうのこうのと言いたがる。維摩居士と諸菩薩の問答(維摩経)から、雁字搦めで身動きできない中で私達に生き抜く力を与えてくれるという。戦争と平和、罪と罰、この二項対立不二の法門(維摩経の核心)によってどう解釈できるのか 関心が有る方はお近くの図書館へどうぞ!その気になれば 調べる方法はいくらでもあるでしょう。関心がなければ仕方なし。
 自分には関係ないことだと言っておれない時代に私達は生きているのです。維摩居士の問い、それは図星、現代にも通じ私達に向けられているのではないでしょうか。相手の立場に身を置くことをせず、やった×やられたの対立からは怨念・報復をうむだけ。 人、木石にあらざれば、皆情けあり・・・源氏(蜻蛉)・・・・・兎に角・・・です。

3846:あなたらしさ

 自分らしさ・・・聴かれて直ぐに答えは出ない。日々是好日? 昨日は34℃、うだる様な暑さに我が家の猫のミイちゃん、朝から食欲なく、ゴロゴロ、体をもてあます。今日は気温が10℃下がる。仕舞いこんだ服を取り出し、着替えるか。猫は一着だけ”毛”だけだもんな。
 人それぞれ、猫それぞれ・・・同じ人・猫はいない。自分の都合×相手の都合???。イソップ童話の『ウサギとカメ』、国により多少の違いがあるという。じゃ~日本はどうなの?負けたくないから急ぐんだ!勝てば褒美が貰え、負ければ何も貰えない?違うよな!
 そういうお前はどうなの? そうだな~ ! 今日は着替えて東京に行く、浜松町、 何しに? 良いじゃね~の。苦と思えば苦となって 楽と思えば楽となる。維摩さんの本を持って、どうにかなるべ~。
 
 過去・現在・未来、不確実で危うい時代、もし宇宙人が観たら、この地球で今起こっている有様をどう云うか。浜松町、改札を出て一瞬!駅を間違ったかと思った。いつもなら 用が無くても立ち寄る本屋、それが無い。危うい記憶に暫し茫然。駅から出て判った。浜松町のシンボル”貿易センタービル”がスッカリ消えていた。コロナ禍で2年以上来ていなかったと慰める
 それから、雨の中、増上寺に向かった。いつもなら本堂の中に自由に入れるのが工事中の為入室禁止、仕方なく境内の小さな茶処で休む。丁度、昼休みで芝大門周辺は人ヒト人で歩けない。そのすぐ傍に静寂の場があったとは。近頃、人間の山に高度順応しないと登れない。
≪ らしさが出せる 是ぞ 幸い 今ごろ判った 修行の身。≫ (ナマグサ)

3847:あら?ほら!う~

 三解脱門は空・無相・無願、迷いから解放されようとする者が必ず通らなければならない門。一切を空と観じ、一切には差別相が無いと観じ、さらにその願求の念を捨てること、それができて”現世のあらゆる執着を離れ、如何なる束縛をも受けない境地”に至る。
 むずかしい!
「執着」ってどんな意味ですか? (答)何かを失うことを恐れ、しがみつきたい気持ち。u~mu。「じゃ~何を」ですか? (答) 大切なもの、愛する人を失い孤独になることが怖いから。・・・・・ ? それって 他人ごとでなく自分のこと だからでしょう!
 その人らしさと言うがおそらく本人は判っていない。だもんで他人のことは 尚更だ。知っているようで実は知らない。”如実知自心”・・あるがままの自分を知る・・・。 誰かが話していましたが、ほゞ100年周期で繰り返される世界を巻き込んだ戦争、これは人間同士の争い。それ以外は自然災害に大別される。でも 違うでしょう! 自然災害だって人間が深く関わっているんだから、皆さん実は判ってる。・・・煩悩の犬は追えども去らず・・・。あきらめてどこかに行ってくれないかと思ってもまとわりついて離れない。
 人間の立場でのみ考える”過剰さ”が原因との診立て。だが残念ながら治療法が見つからない。周期は確実に短くなった。2023/5/22/6:08
 
 ”過剰”の対義語は”不足”、ここに小(少)欲知足を介し,それで無事収まるか・・・・大欲は無欲に似たり、ホンネとタテマエ、堂々めぐり。数独みたいに正解は見つからない、 人間らしさ。
 誰しも思い当たるふしはあります。けれども、なるほどと気づくかどうかはそれぞれ違う。
 昨日、3年ぶりに対面での家族会の役員会を行いました。そこで感じたことがありました、それは皆さんお年を召されたということ。齢 80を越えた方が半数近く、お互い久しぶりと挨拶交わし情報交換、そんな中で私は72才9カ月、まだまだ青二才?、齢に過剰か不足かの物差し不要、 若いと思うか老いたと思うか その人 次第。肝心なことはその人らしく生きていること。
 参加者の皆さんから ”楽しかった”という話を聴いて、ホッとしました。あら?ほら?う~! 

3848:繰り返し概論

 草刈りと読書、積ん読から乱読にスイッチON。『空と慈悲の物語「維摩経」』、『仏教は宇宙をどう見たか。アビダルマ仏教の科学的世界観』、『「維摩経」を読む』、『維摩経の世界』、前の2冊は読み終え図書館に返却、後の2冊の交互読み。
 何故 今「維摩経」か?
 コロナ禍と戦争、21世紀前半は世界中を震撼させる二つ出来事に翻弄され、その果は未だ見えない、人と人、国と国を断絶し 一体 どうしたいのか! 無相×有相、真×偽、人災×天災、豊かさ×貧しさ・・・二項対立で溢れる社会!過剰な自利、我欲が世界を席巻する。
”不二”を説く「維摩経」は紀元1~2世紀に成立した仏典、『三経義疏』の中の一つ聖徳太子の撰。今を生きる私達は現実に起こっている事にどう向き合っていけば良いのでしょう!、理想と現実の乖離に忸怩たらざるを得ない。
 人間誰しもどうしようもない状況に追い込まれると自分でも何をするか判らない。GPSは 自分がどこにいるかを正確に示してくれるが、こころまでは示せまい。
   煩悩即菩提の真意は?   世尊に対し仏国土の清浄とはいかなることですか?・・・ 問い続けることでしょうか。繰り返しくりかえし。 
 
 「天下の議論を画一ならしめんと欲するなかれ」(文明論之概略:福沢諭吉)
「文明とは、人間の知性と特性の進歩の過程」「外交とは、天下の公道に則ってなされるべき」「国際政治は狭隘すぎ、卑劣すぎ、浅すぎ、偏り過ぎである」(同掲)
 今日の日本で諭吉の一言一句に耳を傾けるべきだと思っている人はどれ位いるだろう?幕末~明治と令和を比べることはできないとしても現実を直視し、それをどうすれば良いかについて遠回しではなくズバリと言ってくれる。本書はモヤモヤを払拭しスッキリ感は突出している。昨今は働き方、少子化対策、いろいろと検討されているが、判り易さが欠落していないだろうか!核心に触れずうわべだけという批判は今後も避けられまい。 先立つモノは金、結局は此の定石の繰り返し。

3849:アラカルト

人間は 雑草の強かさから学ぶことがあるはずです。外来種(ブラックバス等)によって生態系が変ってしまった霞ヶ浦、それを元に戻すのは至難なこと。丹精込め育てた芝庭が苔に負けた、芝に入り込んだ草を除草剤をかける、この方法が苔には効かない。苔は菌だからと庭師さんから教わった。苔にも種類が多く、環境に適さない苔は育たない。それならば そこに生えている苔を移植すれば良い。芝だって同じ、環境に合わせることが大事。だが人間があれこれ手を加えて変えようとするから、わけ判らず結局は根負けし諦めることになる。
見方を変え 職人魂とDIY・・・・、家庭菜園と日曜大工・・・と国の食料自給と環境保全、次元は異なるが根は同じ。衣食住は縄文、弥生の時代からずっと続けられてきたことではないか。これも不二法門へ入るためのアラカルト(献立表)一品。
 
 薄利多売、大量生産大量消費、嘗て日本が戦後の復興を為し得たスタイルは 今 どうなってしまったでしょうか? 頂に登りつめた後は下るだけ、それで良いのだろうか? 表と裏を巧みに使い分け、規範は有っても守らず、肝心要のことを隠すことが当たり前、だがその本性は変えることはできません。自由には自らを統御する自律性、内なる必然から行為する自発性が問われ、他からの強制や支配を受けず自らの意志・本性に従うこと、それには当然、当人の能力・権利・責任が問題となるはずだが 豈に図らんや そこに大きな歪みが生れた。
 因果応報、応病与薬・・・斯様な先哲の教えが今の社会に馴染めない。・・・≪身口意の業 常に顛倒して 誤って無量不善の業を犯す≫(密厳院懺悔) 

3850:風景点描Ⅱ

 5月に入ってから対面での会合が増えました。東京駅は人ヒトでごった返す、電車を乗り換え浜松町、昼時の舗道は食事にありつく人々で溢れている。例えは良くないが アリの行進の様。一時間ほど前、土浦から電車に乗った時の風景とは全く違う、今更驚かないが益々その差が拡がったことを実感。水墨画で線でなく点で描く手法があり”米点(べいてん)”というらしい。人間関係が線でなく点になっていくように感じます。東京はその頂点、コーヒー店に入って時間を潰すのも遠慮するような状況で水槽の中のメダカの様。
 こうなることを予測できたはずなのに先延ばししてきたツケが今になって現われ、まるでところてん式、!問題を提起するだけで・・・結果は問われない社会。点と線の違いは、原因を辿っていく時に諸に感じる。
 介護や保育の現場は、点でなく線を大事にすることで成り立つ。ロボットやAIに最も馴染まない業種。何故でしょうか?逆に結び付けようとすれば変ってはならないことも変えないと成り立たない。益々、社会の分断が進む中でそれを守るのはとても難しいことです。
 
 人の一生を四苦(生老病死)と説く仏教の教えの核心は”因縁”(縁起)である。事物・現象を生滅させる原因と結果の関係、そこに人間同士て競い合っている、”ここまでするのか~!”という過剰さに為す術がない。忍土・・・ジレンマ・・・求不得苦・・・一切皆苦・・・夜空に瞬く星の様。
 AI偏重の最大の懸念は、悪因悪果・善因善果・悪因善果・善因悪果、その見極めを人間自身が放棄してしまうことにある。
 世界貿易センタービル(1970年竣工)が解体された。当時東洋一の高層ビルと騒がれ、東京のシンボル的存在だった。その頃、私は東京にいて、段々高くなるビルを眺めていた。50年後、役目を終え解体、跡地には新たなビルが建設される。
 同じような超高層ビルは現在日本に1000棟建っているという。(NHK・・・:解体キングダム)
 記憶が薄れてきたが、マンハッタンのワールドトレードセンタービルへのテロ事件(2001)、それは22年前の出来事だから未だ多くの人の記憶にあるはず。第二次世界大戦(1945年終戦)からは78年が経過した。(2023・5・31am4:36)