源究215g215

  

N O  テーマ  月日  N O   テーマ   月日  N O  テーマ   月日  N O  テーマ  月日 
 3811  穏やかな暮らし  2/14   3816  光と影  3/1  3821  羅針盤   3/14  3826  つなぎ目   3/28
 3812  日本人の忘れ物  2/18   3817  やむなし構図  3/4  3822  蒟蒻問答   3/16  3827  伝統の智慧   3/30
 3813  投錨 2/21  3818  春めいて  3/7  3823  置き土産   3/20  3828  令和5年度   4/1
 3814  歪み  2/23  3819  綻び  3/9  3824  円相   3/23  3829  何心無し   4/5
 3815  言の葉と花  2/25  3820  12年目   3/11  3825  初彼岸   3/25  3830  明暗   4/9

3811:穏やかな暮らし

 軸が狂っていると独楽(コマ)はうまく回りません。最初は回ってもグラグラして直ぐに止まってしまいます。これは 回し方がヘタなんじゃない。もともと無理なんだ~よ。童謡に≪小さな秋≫という曲があります。作詞:サトウハチロー。作曲:中田喜直。なぜ?”大きな秋”じゃ~無いのでしょう。スピードは遅くては駄目なんでしょうか?もっと、ゆっくりでないと私達に見えないものが沢山あります。
 日本語”穏やか”の意味・・・静かで平穏無事。落ち着いていておとなしい。考えが穏当である。「大辞林」 これだって 感じなくなります。
♪「大きな栗の木の下で」♪
  大きな栗の木の下で あなたとわたし  なかよくあそびましょう 大きな栗の木の下で
 この曲はイギリスの伝統曲(童謡)で 第二次世界大戦後 GHQの人達が唄っていたのが日本に伝わったのが最初なそうです。ご存知でしたか?
 
 価値の再生か新たな創造か・・・・・。価値観が多様化する難しい時代になりました。凄いスピード、多過ぎる道標から進むべき方向をさがすのに苦労する。情報が次々と上塗りされ、何がなんだか判らない。その隙をぬい巧妙かつ執拗に侵入する姿を見せない詐欺師たち。彼らは何を目的にしているのかさえ判らない。現代社会の病巣に対し、私達は尻目に懸けるしかできず限度無きジレンマ(板挟み)に苦しんでいる。柳は緑 花は紅(くれない)。情けは人の為ならず。
 地震の被災国に医薬品持参の軍隊を派遣し、同じ国の軍隊が武器を手に他国を攻撃する。問いたい!慈愛の意味まで変えて、貴方たちは何を望むのでしょうか!
 穏やかな暮らしは 世界共通の願いではなかったのですか?再生も創造という言葉がむなしく響く、これも今の社会を反映する。
 自然を略奪・搾取をするのと戦争は同じ、相手が大切に育んできたものを奪ってしまうのだから。独立後(1960年)ずっと内戦に苦しんできたコンゴの人々の叫びに1人の医師デニ・ムクウエブは立ち上がった・・・黙秘は共謀だ・・・。

3812:日本人の忘れ物

 日本のメディア報道に望みたいこと、相も変わらすTV各局が同じ時間に同じ内容を取り上げています。もう随分長く続けていて前から疑問を持っていました。 視聴者の1人として、公共の電波を使った”情報操作”に利用されているのではないか!とさえ感じます。何らかの理由があるのでしょうが、この3年間でその疑問は確信となりました。嫌だったら見なければ良いのですから何も問題はないという囁き・・・・否!世の中に拡がったSNSの中で報道は重要な役割と責任を持っているはずです。
 戦後、日本が歩んできた道のりは厳しくも活気に溢れていました。それはハッキリした目標があったからでしょう。それがいつ頃からかメリハリのある政治家、自らの進退に責任を持つ人物は激減してしまった。経済面での衰退を取り上げる割に足下の自分達の改革に具体策を持てない政治は支持されない。
 己に甘く、他人に厳しい・・、此れが無関心・黙秘になってしまえば問題は深刻です。選挙権を行使しない国民が半分の代表という自覚と箍がないというのがこの国の最大の”弱み”だと思います。ムクウエブ氏の言葉・・黙秘は共謀・・も他人事で素通りしてしまう? その永田町を監視すべきメディアが弱腰ではどうでしょう・・・・。
 日本人が大きな忘れ物をしている。遺失物から自分のものを見つけることができないのです。 
 なんやかんやと一宿一飯の恩返し 梅はウグイス、橘・卯の花 不如帰(ホトトギス)。 
 恩を仇(あだ)で返す⇔仇を恩で報いる。真逆か否かは 全て貴方の胸中。人間より、昔から弁え、忘れず守っている動物たち、進化とは一体何なのか!環境に適応することで形態・機能・行動を変化させてきた。これは必ずしも進化とは限らず退化もあるという。現代人を悩ます生活習慣病・環境病などは明らかに負の変化、常に健康と病の追いかけっこ、それだって予防は完全では在り得ない、死まで続く自分との闘い。だからこそ親から子、またその子どもたちに語り継いできた大切なもの、それがいつの間に相続の多少が物差しになったのだろうか?身内同士の争いへと変化する・・・・。国と国の争いも似て非ではない。
 (仏)の中道の考えは、中途半端という意ではない。両極に偏り過ぎないということです。そのように私は教わった。 

3813:投錨

 風雲の情は、大自然の中へ漂泊の旅に出たいという思い。漂泊、船を投錨(とうびょう)せず、自然に任せてただよう態。日本のコロナ禍は、3年前の大型豪華客船の乗客の感染からでした。
 風雲急を告げたのは それだけではなかった。ロシアのウクライナ侵攻が平和の祭典である北京オリンピックの開催中に起こったのです。一年が経ち、抜いた刀を鞘におさめる術を失う、戦争の終息が見えないどころか益々混迷の様。人間は懲りもせず再び世界を二分する戦争に向かうのでしょうか!戦争を終わらせるには、双方が譲り合うことが唯一の道。しかし、国と国の関係は一様ではない、併せて国内事情もある。むしろ国内のほうが厄介である。
国連の予測で世界の人口が2060年に100億人に達するという。格差は拡大の一途、此の儘ではどうなってしまうのでしょう。☆「権力への妄執と迎合」
 
 ”権力への妄執と迎合”は今に始まったことではないかもしれません。此の世に誕生した時から何故か人間が身につけてしまったのが欲(仏)。今まで絶滅危惧種とはならず、今もって人口は増え続けています。自然界には私達が理解できない出来事が常に起こっています。 最近、日本海沿岸に大量の死んだイワシが浮き上った。その原因は海水気温の変化?地震の予兆?生物の異変は生存に必要な条件が壊れた時に起こる。他と違って人間特有の本性に欲への妄執と迎合があります。手段を選ばず際限なく追い求める。
 ≪民主主義の制度を持っていても、システムは「寡頭制」に変質している。リベラルな寡頭制。・・・・≫とトッドは民主主義が今後も破壊され続けると警鐘している。でも それに替わるシステムが見つけられない。当に 今の日本がそのジレンマの真っ只中にあるのかもしれません。視野を狭め、ニンジンをぶら下げ馬の力を利用した人間が不図、気付いたことがある。なんと自分が”馬”の姿になっている。そこで やっと馬の気持ちに近づいた。譲り合うとは 相手の立場に身を置くこと・・・・投錨(いかりを下ろす)から始まる。
 馬の耳に念仏・・犬に論語・・兎に祭文!(現代版:鳥獣戯画)

3814:歪み

 迎合と譲り合いの歪みは、似て非なり。
 (仏)自未得度先度他・・大般涅槃経第三十八。自利利他と我利我利。言葉は他人のものだと謂った方がいます。それは真理ですよ。自分の都合で使い分けられ便利かもしれない。でも それでは収まらない、因果の理法がその歪みを諭す。言葉には、その人の行いと思いが一緒に付いてくる。身口意の三業、「お先にどうぞ」か「我先に」かの分岐点。内憂外患を他人に気付かれないよう上手に笑みを浮かべる。これだって そうでしょう。本人は知らないかもしれないが、小さな割れの隙間から漏れてくる。
 萩本欣一さんが好きだったという仏教の心は≪自未得度先度他≫(自分より先に他人を渡すこころ)。八十才を越え大学に入り仏教を学んだ欣ちゃんが自主退学していたことを最近知りました。
 言論の統制と自由・・・憲法で保障されていても一様ではなく一朝有事の際その意を忘る。
 
 自宅の庭に芽を出した”福寿草”の写真を昨日送ってくれた友人はいつも季節の花をカメラに収め 送ってくれる。その多くは大輪をつけた華ではなく、芽が出たばかりのよく見ないと気付かない小さなものが多い。その写真に私はいつも和まされています。
 殺伐とした世相で気分が滅入ることばかり、そんな中で掴んだ生きる智慧、私も見習いたい。
 福寿、尊寿、喜寿・・・・これらの言葉の響きは変ったと思いませんか?いつものクセで≪介護≫を辞書で調べたら、案の定、・・・高齢者・病人などを辛抱して世話をすること。この国が目指す”平和で安心”の国造り、それを信じ懸命に働いてきたお年寄り達を敬わず辛抱して世話をするとは??? この国の最大の歪みだと思いますね。こうなった原因は道案内人が悪いのかそれとも目的地を指す地図の誤りか?そんなことにお構いなく、美辞麗句やスローガンを探すのに無我夢中!これが今起こっている歪みです。
 ・・・壽と寿の 肩身の狭さ 優る現身(うつしみ)・・拙僧拙句

3815:言の葉と花

 ・・・葉を欠いて根を断つ・・・は植物の葉に光を受け呼吸する働きがあり、それを切り過ぎてしまえば大切な根をダメにするとの意です。葉より花に注目が集まるのは世の常。人倫の道は自然の営みから学ぶこと多し。子どもさえ知っている。(共生)
 我欲を満たすため掟を捨て、それが高じれば人類破滅へまっしぐら!人間の犯す最大な誤謬と混乱、それは自らの言の葉を好き勝手に変え花をも変えられるという勘違いが発端!種変えはできても 変えられないことがある。それはあらゆる生き物には寿命が有るという摂理。長いか短いではなく、身の程を知っているかどうか? 人間以外で愚行・蛮行・の言の葉なく、木をみて森をみない。
 
 『社会百面相』(1902年:内田魯庵著)・・日清戦争後,小ブルジョア社会に巣食う、勘定高く、自堕落で享楽的な人間の生態を描いた戯作。
 明治後期から大正時代を生きた魯庵は100年以上経過した今の時代をどう予測したか?電車の乗客の大半がスマホと睨めっこ、眠っているのかと思いきや イヤホンを耳に挟んで何かを聴いている。SNS社会を切望し、挙句の果てにSNSの暴走逆襲に手を拱いている現代人を魯庵にどう映っただろうか、聞いてみたい。恐らくは、≪ロマンが無い≫と一蹴されるに違いない。
 程々感、交々感に欠け、徒党を組んで執拗に相手を責め立てる首謀者は表に顔を出さず、裏に隠れて指示をする。おそらく当人は戦々恐々、自室に飾る造花に虫は近寄らず、その不満を周囲に向ける・・・・・どなたか『現代社会百面相』を書いてみたら如何でしょう!
 何故、いま、内田魯庵か? 調べてみたら、彼はドストエフスキーの『罪と罰』の英訳本を読み、えらく感動し作家の道に入ったとか。その後、自ら『罪と罰』の和訳本を出している。
  言葉は他人のもの、花は造花、この裏と表を弁えないとというのが彼の言いたかったことなのかもしれません。

3816;光と影

 他人を出し抜いて名誉を手にするような事が有り得るのでしょうか? 宇宙衛星、防犯カメラ、盗聴器、・・・監視の目が溢れる現代社会!他に知られない陰徳とは似て非なるもの。 それが善行か悪行かが肝要、もしかしたら当人はそれさえも判らないかもしれません。こういった事は今後益々増え続けるでしょう。オモシロ&可笑しく、より強いインパクトが求められ、競うメデア存在の形相。世の中は確実に二極化に進んでいる。二極とは光と影である。自業自得だから仕様がない?こういったことは人間社会だけでしょう。何らかの意図をもち着々と外堀は埋められてきた。誰にも真実は判らない、皆が良いと言っているから・・それを巧妙に使う。じゃ~VRはどうなのでしょうか?宗教も当然変るのだろうか?永遠の真理は幻か?
 残念だが、この疑問符を無くすことは人間にはできない。釈迦はその事を説いた(涅槃経)。【百千万億劫】と人間寿命の時空を越えた真理。生命の尊厳。
 影の拡大は自分の思い通りに望みを叶えるという欲が因で、結果は人格が耐えられないということになる。
 ☆人格は・・道徳的行為において、権利・義務・責任を担う主体。≪倫≫。
・・・・「私の最初にして最後の哲学、私が一点の曇りもなく信じて疑わぬ哲学・・私はそれを子供部屋で学んだ」(『正統とは何か』:チェスタトン)
 
 善因善果or悪因悪果?諸行(宇宙の万物)は無常(生滅流転)、諸法は無我(あらゆる事物に永遠・不変な本性である我がない)・涅槃寂静(悟りが絶対の静けさ)は 仏教の基本的教義の三法印。
 人間は誰しも最初は清浄無垢のこころであったという、それが歳を重ねるごとに何故か変ってしまう。因果の教えを信じるか否か。AI(人工知能)やVR(仮想現実)に人類滅亡の危機を訴える人々もいる。方やそれら一切を認めず、只管、自分の思いを果たそうとする者もいる。気にいらぬあらゆるものを破壊、排除し、それでも満足しない。100年前にこの姿を予測し警鐘を鳴らしていた人もいる。≪私の最初にして最後の哲学、私が一点の曇りもなく信じて疑わぬ哲学・・私はそれを子供部屋で学んだ ≫ というチェスタトンもその1人。
 光と影、そのどちらか一方に長く留まっていると人格まで変ってしまう。そんな例はごまんとあるさ・・・呟きと溜息。
 ☆ 春を感じる穏やかな日・・”〇ちゃんのお墓に 花あげてきたんだよ・・・と、Mさんが走り寄って教えてくれた。

3817:やむなし構図

 国家的プロジェクトに絡む談合事件、日本のトップ企業が司法の裁きを受ける。これら今に始まったことではない。 担当責任者が辞めれば済む話ですか、どうもスッキリしない。それで肝心のプロジェクトはどうなりましたか?。既に終わってしまったか、残っていても一部というのでは、腑に落ちない。尻切れトンボの話。
 やむなし!が既定路線となって法治国家・・国民の基本的人権の保障を原則・・と実態の乖離はいか様に? 立法府、当選してから一度も登院しない議員が外からSNSによって参戦とは想定外?重い障がいを持つ方が車椅子で通訳者を通しての国会質疑をTV中継で見た時の感動は忘れない。権利と義務と責任、誰にも判るように説明することが 今日、国会に欠けてしまった。出来ないのかしたくないのかハッキリすべきなのに事もあろうに”やむなし構図”が常態化している。。
 法を語るに攀縁(はんねん)をおこし、自ら泥をかぶる覚悟無き人達が並べる美辞麗句に 初春の花粉症のごとき不快感は一向に治まらない。 
 
 デジタル社会の影響を諸に受けている。今の国会中継を見ていつも感じるのは質疑の内容が点になっていること。 瞬時に変る場面に不完全燃焼と消化不良、これも”やむなし”か!
 現在の政党の多さに併せ政党を渡り歩くことに長けた議員の増加、長い間、永田町が平和(?)だった”弊害”ではないのか!原点を見失い、保身が目立つ政治家は、有事にあってどう振舞うか???  報道のタブー??。報道の自由度 日本は世界第71位??
この情報の真偽と因果は読み辛い。
 私が政治の原点で思い出すのはハッキリしています。自社の二大政党時代に連続7期、野党から国会に席を与えられた人物、その方は地元で誰しもが認める人柄と信念があった。国会に登院するのに風呂敷包を持って1人で常磐線で通う姿を何度も私は見た。一貫して日本の農政の大事を訴えた。当時 日本は未曾有の高度成長で活気のあった時代、浮かれていた良き時代である。その中で食料自給を忘れてはならないと訴え続けたのです。いま そのような先見性を持つ政治家がいるのだろうか?
 日本の政治で”やむなし構図”を本気で変えたいと思う人間が出ない限り どんなに高尚な図を描いたって真の価値は生まれまい。模造品かどうか、その鑑定も人任せというのでは問題の先送りと同根  そんな環境・慣習に長居し過ぎた結果かもしれない。 

3818:春めいて

 日ましに春めいてきました。梅の香り、桜の開花、もうじきやってくる春に鬱々とした気持ちが少しづつ緩んでくる。今の時期が一番好きです。
 2023年・尚恵学園の事業計画書の挨拶文がどうしても書けない。寺の庭にある梅の老木、子供の頃、友だちと良く登って遊んだ。その木は今も同じ場所にある・・・幹は大分枯れて細くなり、それでも水を吸い上げ、蕾を付け、華を咲かせている。寺一番の大木・イチョウの傍でその梅は目立たず倒れず、凛として今年も立っている。香に愛おしさを含み、訪れる人達の足が止まる。
 そんな梅の木を見ていたら 自然と 挨拶文が書けました。『 2023年 今 想うこと‼ 』
 
 願いごとが一つでも叶えられれば それで満足!これができないのが人間の本性、この拙文を画く脇の本棚には『大正新修 大蔵経』全巻が収まっている。この膨大な仏教経典に圧倒され見開くに至らず”積読(つんどく)”を旨とする。僧籍を得て半世紀、やっと自分の中に聴聞の思いが生れている。木をみて森をみず。人の一生は そんなものか!
 アメリカ・中国・日本の名立たる大学の学生,各8名づつがオンラインで討論する。(NHKBS番組)・・・テーマ:「民主主義対専制主義?」・・・。彼らは今の社会を冷静にみていると思った。格差の拡大は どの国でも起こっている。これは国内問題、行き過ぎた結果で 対立でなく連携を大切にすることだというのが参加した学生たちの共通する意見だった。
 民主主義と専制主義の両方に言えること いずれも未だ未完成のプロジェクトで相手を攻撃するのではなく理解しようとすることが先ず必要だと考えている。
 ☆ 苔(こけ)は 庭芝の上を時間をかけ、拡がっていく。”蔓(つる)”とは違うのは身の程を知っている。(観察ノート)

3819:綻(ほころ)び

 縫い合わせから糸が切れ、隙間ができる。そのままに放っておけば、どんどん拡がってしまいます。人の価値観は様々、身勝手と感じながらも止めようとせず、何か言い訳を作って正当化しようとする。ジユウ・・・自由と事由の履き違い?公僕か私人か、その境目が判らず独り歩き。
「不随善友親痴人 不勤善根営悪行 欲得利養讃自徳・・・」(密厳院発露懺悔ノ文)
 梅のつぼみも綻んで、春めいて参りました・・・、この挨拶季語は、桜が先でなく、梅が先、見た目で梅は桜に比べ華やかさはないが”淑(しと)やかさ”がある。 SNSは万能ではない。人の情感に訴えるというより、その人の謂うがまま、それだけのこと。
 世知辛い世の中、≪立つ鳥 跡を濁さず≫ そうありたい。
 
 綻びを繕う指先に 思う・・・。どこかに置き忘れてきた・・・淑やかさ!SNSを使った、受けを狙った動画が接続回数を稼ぐため、エスカレートの一途、誤れば済むという考えがいつ頃からか生れて身勝手な言動に歯止めが効かなくなった。
 100年前に21世紀は無道徳時代になることを予測したチェスタトン! 自著『正統とは何か』で謂われたことは人間中心の考えは、いずれ破綻するということだった。”エゴイズム”、己の利だけを大事にする考えが長続きした試し無し。欲は永久に無くならず、抑えれば反発をうむ。その繰り返しを懲りもせずやっているのが人間の宿業(性)。(仏)
 何をするにも 先立つモノは金・・・金句? 禁句?? 勤苦??? 

3820:12年目

 浜松町駅から増上寺までの道は昼休みということもあって大混雑していました。東京はコロナ前に戻っていると実感、それと皆さんマスクを付けているのはさすがと思いました。
 コロナ禍で3年間はオンラインでの会議参加でしたが、今回は都合がつかない方以外は対面で行われました。長い自粛のあと、その鬱憤を晴らすような活発な議論となりました。心身共に疲れ帰りの電車では危うく乗り越してしまうところでした。これが毎日だったらと考えると・・・本当にお疲れ様です! 浜松駅から増上寺までの間の三か所で托鉢姿の浄土宗仏青の人達が東日本大震災の募金を行っていました。早いもので3月11日で12年が経ちます。観音寺では地震発生時刻午後2時46分に犠牲者追悼の鐘撞を行います。
 
 万が一の際の備えは充分ではない。
 2012年『原子力災害対策指針』(原子力規制委員会)が制定された。PAZ,UPZとも30Km圏外に全住民が避難するという取り決めは非現実的で3年後に早くも修正され「できるだけ住民を動かさない」方針に転換された。24時間要支援者が利用する高齢者施設や障害者施設にとって大変難しい。天災だけでなく、原発が外国からの攻撃を受けた時も想定しなければならない。既にウクライナで現実に起っています。戦争は当事国だけの問題ではなく、世界中がその影響を受けます。
 そんな重要な時期に、国会開催中、原発再稼働や防衛費拡大の審議はどうなったのでしょうか?いつも感じるのは盛り沢山の議案で焦点が定まらず、コントロール不能でしり切れトンボ???。
 「行政文書」の内容について質疑時間の多くが割かれ、捏造・議員辞職・・・と大きくズレて現状の修正不能!一体誰の不測の事態なのか判りゃ~しない。肝心の国民は蚊帳の外といった態はこれからも続くのであろうか ・・・・・・それをどう説明する。

3821:羅針盤

 大江健三郎氏が88才で亡くなった。「心ある日本人にとって羅針盤を失ったような気持ちでは・・・」。各方面から氏を追悼する言葉が寄せられ、その中にありました。
 航海の安全を守るためには乗組員の力量がものを謂う、その中で船長は乗客の命を守る最高責任者、当然、優秀な船長であっても万能ではない。”羅針盤”は正しい進路を示すためにある。今はGPS(Global  Positioning  System)が人工衛星をつかって正確に自分の位置を示す。・・・が、その利用目的によっては悪業にも善業にも・・。 ニッポン丸の乗組員同士が仲間割れし責任の擦り合いをやっているとしたらどうですか。世界一周の豪華客船、誰もが憧れる旅、一度は体験したいものでも悪夢となる。途中でそれに気付いて下船しようとも港がないことと大差ない。
 法の解釈・・・万法一如(まんぼういちにょ)・・・あらゆる存在は様々な現われ方をしていても、空であるがゆえに一体である。(仏)
・・・『・・・時代をいま生きる人たちに、周縁にあろうとする立場を手放さなかった大江さんの人生と作品が教えてくれる・・』(3/15:天声人語) 
 
 ”遣らせ”、前もってしめしあわせて 行わせることをいう。それと、自らが招いた不利の状況をなんとか凌ごうと、便宜的且つ形振り構わず・・・・。う~ん・・結局は~保身か!この際とばかりに妙に淑女的、紳士的(?)な態度。
 周縁にあろうとする立場をどう捉えたらよいのだろうか?・・・巨大国や政治権力、多数派、都市部といった「中心」の理屈が幅を利かせる今の時代、自分が中心の近くにいても権力をもつ人達とは距離を置く姿勢だという。大江健三郎、その人となりを知るに息子さん≪光≫さんの存在を抜きには考えにくい。彼の作品の最初の印象は難解で最後まで読めず途中で挫折した人も多いかもしれません。大江さんを周縁者と考えると、・・・・彼の作品と向き合う自分にだんだんと薄明りが射して来るような気になります。権力者に阿(おもね)ることなく、自らを冷静に見つめ言動を一致させる生きる姿、それを”羅針盤”と評したのは映画監督の山田洋次(91)さんだった。 

3822:蒟蒻問答

 あたかも「蒟蒻問答」(こんにゃくもんどう)のごとし。旅の僧・托善とにわか坊主・蒟蒻屋六兵衛、処は廃寺寸前のとある山寺。古典落語の一で身振り手振りを交えた仕方噺。和尚二人のとんちんかんな問答で客は大笑い。時代の大看板が得意とした演目である。
 カメラを手前にグ~と引けば、時は 令和の五年弥生、処(席亭)はなんと大都会のど真ん中、問い手と答え手のやり取りを観ていて不図浮かんだ。
 お前は不謹慎か!良いでしょう!だったら 貴方たちは子供や年寄りにも判り易く話をしたらどうなのか!高い席代払って観にきた客に無言行では 噺になりません。(ナマグサ独り言)
 
 落語に落ちは付き物。限られた時間内 上手く纏めて”お後が宜しいようで”。コロナ禍で無観客での噺に 名人ならばどうケリをつけるか・・・?噂では法事をオンラインで行っている寺があるという。私の知る範囲では未だ聴かないがレンズを望遠に替え、未来を観れば それに似た形態になっているのかもしれない。チラホラと耳にすることは、子どもに負担をかけないようにと葬儀一式前払いという話もある。
 変って良いもの&変ってならないもの!この境目がハッキリしなくなった。名著『正統とは何か?』の原題は”Orthodoxy"である。
働き方改革の中味は一様では無い。現役の時と職を辞した後、働くという意味をどう考えるかは その人自身にある。楽=楽しみか? 人間終いを想うようになれば どうだろうね。
”永遠なるものを求めて永遠に努力する人を菩薩といふ”。おそらく 菩薩は自らを菩薩とは思っていないのではないか!と ・・・お後がよろしいようで・・・≪閉幕≫
 ☆≪一切衆生悉有仏性≫(涅槃経)

3823:置き土産

 ” 長居をしてすみませんでした。また来ます!”コロナ一家のお暇か、そこに、残された”置き土産”、・・・・・・。after  or  before → with?
”帯に短し 襷(たすき)に長し!” という諺が 何故か浮かんだ。中道⇔中途半端? 言葉による伝達の難しさ。謂った or 謂わない・・・・記憶にないと・・・。文字にすれば その穴埋めできる・・・・と考えた。すると”捏造””フェイク”だと 怒りだす。だがホントの心中は無関心 さ~どうします?
 有相に住し、便利 豊かと 人間どもが競いあう 鳥が見たら 如何様に?
 山のテッペン仰ぎ見て我先にと 登った後は 下るだけ。高嶺の寒さに堪らんと休む暇なく下山する。鳥が見たら どうだろう?〈鳥観図) その鳥の名は”信天翁”・・・さて どう読むか? 
 コロナ禍は 実に多くのことを私達に教えてくれました。正解は”アホウドリ”。
 
 そう謂うお前も”阿房鳥”、否定はしないが他に適語は見当たらず。”DX” 時代の潮流に乗り遅れないため  ・・云々、やたら目立つアドバルーン。でも ”DX”の意味を知っているかどうかは疑わしい。DXは何の訳語か問われて?
”D”はデジタル、(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)ウンウン♪。じゃ~”X”はどう?transformation・・・trans(横切る)と同じ意のcrossをXと表わすのをtransに置き換えデジタル トランスフォーメーション→DXと表示した。それを知り・・・あああああああ!DXをデラックス(豪華)と勘違った方はいなかったですか。正直 私はそうでした。
 いやはや困った。これじゃ~乗らずに歩くほうがずっと良い。。
  便利が不便に 置き換わるは此岸。欲を刺激し、焦りを起こす相乗効果 高速迷路の入口か。 懺悔懺悔 無量 所犯罪!” 急がず 焦らず あきらめず ”(彼岸ノ中日:阿房庵主ノ独り言)
 

フォトギャラリー

       ”無茶処”   

  完成しました! 

      観音寺    
 

3824:円相

 四阿(あずまや)”無茶処”は、お茶のもてなしは無いが座するは自由。額に”円”、その意は欠けることもなく余すところも無い完全な円満で始まりもなければ終わりもない無限の宇宙。
 観音寺境内の真ん中に現在もある”山桜”、樹齢は不明だが、現在の生木は、その枝が大きくなったもの。本木は朽ちて土に変わった。先住が倒れた老木の芯だけをブラシで綺麗にしたその一部を額にした。円相はそれを観る人に託される。仏教の禅に通じると謂われています。
 ますます世相は混沌、畏れ苦しみの無い世界と言いながら自然の恵みを独り占め、相手を慈しむ心を失っていないでしょうか。
 
 共生は”愛”&”慈しみ”から生れる。それは相手を理解しようとするおもいでしょう。WBCの決勝戦は素晴らしいものだった。勝ち負けに拘らないと謂えば嘘だ!勝者が敗者に対して”ねぎらい”、敗者は相手に対し”敬う”気持ち。誠実と謙虚さ!が全てに通じる。貴方にとって変らないこと、変って欲しくないこと、変えたいこと・・・・で思い浮かぶのは何でしょうか?円相を観る人に託すとは、諸法の実相に対し、己の生きる姿勢が問われることです
 春には桜、秋には紅葉、小鳥のさえずり、足下に小さな虫・・・・・私達は走り続けることはできませんね。疲れた時は休んで下さい。すると 何かが変るような気がしませんか!貴方自身のなかで・・・・。
   循環 端(はし)無きが如し。(宇宙観) 

3825:初彼岸

 初彼岸、Kさんがスタッフと二人でお墓参りに出かけた。彼はお母さんが亡くなった知らせを受けた時、私の前で決して涙を見せなかった。コロナ禍の間は交流できなかった”まんだらパン”での仕事に一先に戻った彼はそのパンをお姉さんに持っていったと知りました。
 ・・・・「森に還る、街から山へ参勤交代」 をテーマに、子どもも大人も自然を五感で感じることの喜びを見つけ出すこと、自然への適度な「手入れ」を実行していくことで新たな暮らしを提案します。山村の自然は最高の教師であり、自然環境の教育から心の教育、また山村と都市との関係等社会性まで幅広く学び、答えのない様々な課題を自ら解決できるフィールドです。・・・・これは「養老の森」(山梨県道志村)の理念で養老孟司(顧問)さんの挨拶です。
  今 必要とされていることは、度を越したものでなく「適度な手入れ」ではないでしょうか! 一方に偏した社会は 格差や自然破壊を生み、 共生への道を遠ざける。その事に私達が気付いているのかいないのか。
源信の母の我が子への言葉で≪後の世を渡す橋≫になり給へ!と・・・・・丁度1000年前のことです。
 
 彼の岸に渡ろうとするのに、どんなに豪華で大きな船でも 泥で出来た船では沈んでしまいます。あらん限りの財宝を積み込んだ重さに耐えられず、船底が壊れ対岸に着くまでに沈んでしまう。♪・・木の船すいすい 泥船どぶどぶ・・・♪  『かちかち山』(日本むかし話)を彷彿させてくれるようなことが増えた。現代版タヌキと兎  さ~て アナタはどっち?
 幼き時の思い出は、人生の後半に再び蘇る。深層心理、そして、すべての心の働きの源となる阿頼耶識(あらやしき)、【仏】唯識思想の八識は、煩悩か真如かに分かれ、永遠のテーマで論じられてきたのです。
 笹船に願いや夢を載せ川に浮かべる風習も時と共に忘れ消えて行く。あの風景を再びと地方再生に奮闘するが 願いと夢は そう簡単に元には戻らず。ここは 急がず焦らず 熟考を重ねては どうだろう!

3826:つなぎ目

 飽きもせず、懲りもせず、・・・のコトバ、有為転変の世では”新鮮味”を感じる。
 享年86才、集団就職で15才になって直ぐに東京の畳職人の弟子となり、それから畳職一道の人生を貫いた。跡を継ぐ長男が葬儀の後≪オヤジは孫が一緒に畳屋をやるようになって自分が退くことを決めたようです。丁度彼岸中に亡くなったオヤジには感謝の想いしかありません≫と嗚咽しながらお礼の挨拶を述べた。 コロナ禍になって参列者を減らした別れの席、それでも 多くの弔問者が来てくれた。
 鉄・木・泥・わら・・それぞれの使い道はある。それに適さない使い方をすれどうなるか!
 働き方改革も良いでしょう・・・・だが、肝心の働く魂を曲げてまで、居座るのは頂けない。相も変わらずの言い訳を ・・・・況して公私のケジメを履き違え白をきるなど以ての外。
 今一番改革を望まれている人達は 永田町の方々ではないでしょうか。   立法のこころ 見失い 浮き草稼業にリクルート。
 
 侍ジャパンの活躍に日本中が湧いた。未だ、その余韻は残る。≪感動を頂き ありがとう!≫の声が溢れ、有言実行と謙虚さに触れて貰った元気と爽快さ。
 コロナ禍~ウクライナ戦争とガタガタになった人々の気持ちがスポーツによって変わる。敵味方に別れても試合が終われば双方に光は射す。
報復×報恩、同じ報いるも実相は真逆。憎しみか感謝か、不信か信頼か、この見極めを通らねば先に進めない。よく 考えてみませんか! 周りをよく観るとその芽は出ている。それに気付かないだけかもしれない。
 なたね梅雨 いまかいまかと 出番待つ・・・・・・タケノコ! ☆ 浮き草とタケノコ違いは?  つなぎ目。

3827:伝統の智慧

 競い合って目新しいものを追いかけ、飽きるとソッポ向く風潮を浮き草とタケノコと比べ、どこが違うか考えた。自分のバランスが取れるかどうか、水に浮かんで風任せの浮き草と確と根を張るタケノコ!タケノコの勝ち。
 けれど、人間は自然界の物差しは使えない。カネ尺(?)を使いますから。何もかもカネ⇔マネーで考えますから。その指南役がやたらと増え過ぎて何を信じてよいものか判らない。 これで頭を痛める現代社会、残念だが、未だ特効薬はみつからず。永久にできないかもしれない。薬価の基準が変れば”おじゃん”ですから。昔の人は考えた。五感を働かせ良く考えて・・・・と。智慧と知識、現代人は考えた。どっちでも同じだ~と。そして、五感をAI(Autificial Intelligence)人工知能に任せようという結論に達す。
 人生100年?ユートピアそれともデストピア?個人的な昔の話、怖いもの知らずで卒論『人間喜劇』バルザック、 勇んで図書館に通った。今年73才・・・進歩無く寸止めで破顔一笑!
 
 バルザックは今から200年前、チェスタトンは100年前、諷刺、逆説と二人の文体は異なりますが いちはやく文明の危機とその時代を生きる人間の病理を予言し、価値の転倒を試みた根っ子の部分は同じ。現代人は今、人生100年と向き合っている。 日本は高齢化、少子化を想定した。だが、その結果はどう変わっただろう。コロナ禍が落ち着いてホッとした頃、今度は”多死化社会”という言葉が出てきました。目新しさを追いかける姿は斯様に変るのか。浮き草は 自力で留まることも場所を変えることもできない。
 浮き草を”根無し草”ともいう、しっかりしたよりどころを持たない物や事をいう。 突然現れて大騒ぎ、形勢が不利になり突然姿を眩ます。一国の根幹にあたる国会でこういった様が許されるならば、果たしてどうなのか? 。
 ・・・・制定法・判例法・慣習法を人為法。人間の本性そのものに基づいて普遍的に存立する法を自然法。☆「義務と権利」・・法は裁くことも守ることもあると考えた。和顔愛語!ing

3828:令和5年度

 4月1日、令和5年度がスタートする。明鏡止水の心境とはかけ離れ愚痴顛倒の日々、此処から抜けだそうとすればするほど深みに嵌まる。こうなる原因は貪瞋痴(三毒)にあると説く(仏)。 むさぼり・いかり・愚かさ・・・は我が胸中に在り。自分を変えねば解決はしない。時間はお構えなしに過ぎてゆく、記憶は定かではない。。。。。。
 内憂外患、価値の顛倒、ここで視座を変えたらどうでしょう!不立文字 教外別伝(禅) 真理(悟り)は言葉や文字で示せるものじゃ~なく、直接心から心へと伝えられるものだと。20代前半の頃、袋小路の迷いから”仏教社会事業”の講演を聴き感動した。それを不図思い出しました。・・・≪井の中の蛙 大海を知らず≫・・・あれから50年以上が経っている、単刀直入、大局的な判断の難しさ。机の真正面に飾った額は”円相”かまえなし(飛田保一氏墨筆)、自分の居場所を探すGPS。
 令和5年度!です。現実と心して向き合うこと。
 
 気付いたら すぐやる。先ず、気付かないことには 話にならず。やれる術を持つかどうか。そのうちに 忘れてしまい。是 世の常と・・・視てきたような弁解しても始まらず。
 遠くから眺めているだけで ああだ こうだ これでは話にならぬ。社会福祉の礎はもちつもたれつ、且つ、流汗同労 これもまた先人の教えなり。
 ☆ 古希を迎えた誕生日のNさん・・・・お世話(?)になった方々に自らケーキを買って”ハイ おめでとう!”。
 ☆ お彼岸にMさん・・・・・Yちゃんお墓に花あげた~オレ ともだち~!。
 ☆ ????
  日々(ほび)是(これ)好日、新(あらた)なり。・・・・”円相”かまえなし
 ★ 愚僧が凄む・・  さあ~ どこからでも かかってコイ!、  ”腰引けて無理するな~”N&Mご両人の覚めた顔。  

3829:何心無し

 何心無し(なにごころな・し)は一切の妄念から解放された心。無心・かまえなしに通じる(仏)。 有りの儘に生きることは容易ではない。この時点でもう”かまえている”からだ。
 地球の歴史で 人類が出現したのは?? その地球も無限ではない。いずれ消滅するという。その有限の時間、人間に与えられた時間は高々100年。欲望を無限大に脹らませて皆が皆生きようとしたらどうなるだろう? 答えは既に出ている。若い頃、『コスモス』(カール・セーガン著)上下2巻を夢中で読んだ覚えがある。コスモスの意味は、秩序のある世界(哲)、対極は混沌、宇宙カレンダーは判り易く、宇宙の歴史を1年間に凝縮した。”目には目を、歯には歯を”(ハムラビ法典)、丁度100年前に楔形文字で刻まれた碑が出土、シュメール法、紀元前3000年の昔の文明、これも 宇宙カレンダーで照合したら顕微鏡で見るような話。人生100年は12月31日の翌年までの0.15秒間。1秒=約437年、1日=3780年
 人間の性は如何ともし難し、邪悪で誤った考えを相も変わらず持ち続けてきたということでしょうか。欲に塗れた繁栄は宇宙から見たらどう映るだろうか!有限の資源を枯渇させても反省せず、昼夜問わず浪費する”目には目を”と略奪と報復を止められない。法の下の平等、とは 秩序とは一体何だと謂うのでしょうか。
 
 宇宙の歴史は約138億年と謂われます。誕生から現在までを1年365日のカレンダーで現した(宇宙カレンダー)。それを世に広めたセ-ガンは1996年62才で亡くなった。
 キリスト・モハメッド・釈迦 世界三大宗教の開祖は約2500年前の昔、カレンダーにすれば、新年を迎える6秒前となります。現代人は進化と豊かさへの妄執によって大切な事を忘れてしまい生き辛さを感じていないでしょうか! 嘗ての朋友にさえ銃口を向け自分達の思いを果たそうとする。
 貴方たちにとって0.15秒の間にですよ。
 SNSに覆われ 人は身動きできない。仮想の現実に望みを託すは窮地の策か。もし 地球外生物がその姿をどこかで見ていたらどうでしょう! 我が身を写す鏡を持たず、百面相。どの顔が真相かさえ判らない・・・。この迷想も0.15秒間の辛抱と思うか?だからと考えるか? 
☆観音経にある”33身17説法”、施無畏者は観世音菩薩の別称、施無畏(せむい)は三施の一。 

3830:明暗

 時差を感じなくなった、一分一秒を競い、ますます複雑になった世の中の仕組みに戸惑う。その隙をねらい相手を欺(あざむ)きはかりごとが蔓延る。これも時代の趨勢でやむ無しと諦めるしかないのでしょうか? ブーメラン効果で想いとは反対の結果になり悔やんでも手遅れ。
 苦肉の策で一切の情報を遮断することが果たして出来るでしょうか? それは不可能です。では どうすれば良いのでしょうか?
観音経の中に、そのヒントがあるというのです。現実に起こっていることを表と裏の双方から観る。判り易く謂えば、自然と人間がどう関わるかです!自然は人間にとって”客観的世界”だと謂う。欺いたり悪口を謂ったりしません、損得尽くで独り占めすることもない。世界宗教の中でも仏教の自然観、自然を征服しようとせず上手く付き合っていくことを大事とする、それは生かされているという考え方の基です、そこから不浄を浄に、不信を信に観えてくるというのです。信という字はまかせるという意がある。人に言、何を誰に任せたら良いのか!(『観音経講話』鎌田茂雄)
 実態は如何でしょう? 
 
 ・・・・おのれを以て、人を見るものなり、愚人の見るは、おそろし。おのれに利欲あれば、人をもその心を以て見るなり。色ふかきは、色を以て見るなり。聖賢の人にあらざれば、見る事あやふし。(同上p288)・・・・
 ・・・自然と人間との一体感を喪失した現代人の精神は索漠として無感動となり、魂や情緒は荒れはててゆくしかない。(同上p275)・・・
 この診立ては間違ってはいない。だが肝心な処方箋が書けず、その間にも病巣はより深く拡がり重篤化している。木をみて森を見ず。此 コロナ禍と重なります。応病与薬。とは言っても特効薬や万能薬は未だ存在せず。善因善果⇔悪因悪果。人間だけかもしれないこの種のジレンマ。
 ・・・・≪過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。≫・・・・・アインシュタイン。