源究213t213

 

NO  テーマ  月日  NO  テーマ  月日   NO  テーマ  月日  NO  テーマ  月日 
 3771  畏敬と謙虚  10/18   3776  分岐点   11/4  3781  小休止   11/20  3786  真のちから   12/5
 3772  辞任の真意  10/22  3777  帯に短し・・  11/7  3782  どっこいしょ   11/22  3787  過信と禍心  12/9
 3773  まね事  10/25  3778  萌しの連鎖 11/10  3783  一喜一憂   11/25  3788  日溜まり   12/13
 3774  師承  10/29  3779  火消し役  11/14  3784  喜怒哀楽   11/28  3789  百千万劫   12/16
 3775  我こう思う  11/1  3780  時が過ぎれば   11/17  3785  相前後   11/30  3790  劫と循環   ☆

3771:畏敬と謙虚

 畏敬・謙虚・沈黙・神聖・・・・前項(3770)のマルセルの言葉から貴方は何を想像できますか?
こう想うのです。いい塩梅⇔「過ぎたるは猶 及ばざるが如し」、知識は道理をくらまし、程度をこえた行き過ぎは不足していることと同じ。これを弁えず科学進歩と繁栄を求め続けてきた結果、手に負えなくなってしまった。その中で”核兵器”、欲界で人間の創造した最大の負の遺産。これは幻想ではなく現実です。今ごろ そんな事を言っても仕方が無い?方や自分の能力・地位におごることなく、ひかえめでつつましい人といると 誰もが心穏やかになるものです。今それさえも どうにかなりそうな緊急事態。 常識と思っていたことが悉く否定され、不信と不安、混迷だけが残るのでしょうか 。じゃ~どうする?
 その答えは単純かもしれません、自分が穏やかな気持ちになれるにはどうしてもらいたいかを良く考え、相手にそれを返していく。勿論 ”見返り”など期待せず。
・・・・≪人間が人間に贈り得る最大の贈り物、それは『良い思い出』だ≫(ガブリエル・マルセル) 
 
 畏敬は”心からおそれ敬う”ことですよ。実に重い言葉です。仏教では”無畏施”を三施の一つとして説く、財施・法施・無畏施。それと無財の七施、お金が無くてもできる7つの施を説いてきた。
謙虚は”ひかえめでつつましい”ことですね。マルセルが来日し伊勢を訪れた時に語ったという「自然に対して畏敬と謙虚さをもって沈黙で表わす姿(伊勢)、これこそが現代の科学時代の最も神聖なものである。・・・・と(小林秀雄と対談)。宗教⇔人間⇔自然の有るべき姿を実に見事に表わしていると思いませんか。じぶんが自分が・・・ゆたかさ豊かさ・・に偏り過ぎた現代社会に謙虚さは馴染まない。自然と共にあることを忘れ科学が万能と考えていないだろうか!という警鐘である。
 昨日の国会中継、午前と午後に分かれ生放送された。午後3時過ぎに質問者が障害者の天畠さんになり委員会の雰囲気が変わった。『あかさたな話法』により行われ、席を立つものやおしゃべり・居眠りする議員が消えた、質疑応答に大半の議員が黙って注目した。私は神聖さを感じた。当事者として語る言葉は実に判り易く、単刀直入で言い訳がましいやり取りを感じなかった。これこそマルセルの言葉を其の儘 政治不信に喘ぐ人達に贈りたい。限られた時間で問題の核心をつく議論は衝撃的でした。代議員制に慣れ政治家個人の言動責任を曖昧にするような今の分かり辛さはなかった。(10/20)

3772:辞任の真意

 英トラス首相が就任6週目で辞任する。外国の事と悠長に構えている場合ではない。自らの言動責任を果たすことができない人とは比較できまい。それは票の中身が違うということか、他党の話は聴かないと豪語(?)した”せんせい”が後日、一言謝罪で済んでしまう。この生ぬるさは今に始まったことじゃ有りませぬ、今の政治不信の元凶であることを心底感じていない。怖いのはそれだけで止まらない・・・・伝染するから深刻なのですよ。
 ユーチューブで配信された国会中継(上掲)、そのコメントを見て愕然とした。匿名ならば何を言っても書いても良いのでしょうか! 評価する方はもっと多いと信じたい。火事場で油を注ぐようなことを面白がって行う者がいるのは確かだ。な~お前 そんなに目くじらたてることはないヨ・・・?ホントにそうなんでしょうか! 敢えて問いたい、予算委員会は一体何を審議する場なの?卵を見て時夜を求むって? 
 ひたち海浜公園に初めて行ってきました。この時期の主役はコキア(ほうき草)、平日にもかかわらず人出は多かった。シルバー料金で入園料460円。天気も良く気分も良かった、正直、少々(?)歩き疲れました。広大な駐車場、帰ろうとして車を探すが見つからない。来た時と車の量が全く違う。慌てた。炎天下の行ったり来たり、汗を一杯かき思ったのは来た時は帰る時を考えないと苦労する引き際 大事
 
 海は大波小波を繰り返す。常に”凪(なぎ)”だったら海が澱(よど)みとなって新陳代謝ができなくなる。逆に”時化(しけ)”があるから海水がかき回され適した環境をつくってきた。凪という漢字は日本製という。風が止まった状態を合わせた。時化という字は当て字、「湿気る」と同源という。自然から私たちは何を学んだか!昔から大切にされてきたことですよね。澱みは浄化を妨げる、新旧交代があってこそ!、42日間で国のトップが変わるのもどうかと思うが、終身というのも頂けない。
 仏教の教え・・・智慧と知識の違いは 何でしょう!欲という字を後につければ、知識欲とは謂うが智慧欲とは言いませんね。後付けか生来持っているものかの違い。軽いか重いか。これって付き合ってくれた”仲間たち”から学ばさせて貰っていることなんですよ。
 彼らは親からもらったものを忘れず持ち続けて大事にしています。これが”智慧”だと思うのです。言い訳しませんもんね。知識は 時化ますが 智慧は変わらない。

3773:まね事

 人の一生は所詮、まね事! その域を出たと思うは勝手だが そうは問屋が卸さない。今ごろ 判った?。≪ハイ≫。現在ingを前置きし、千思万考。月曜は週の始め、いつ何が起ころうと・・・・覚悟の日。
 ”願一共生” 偉いアドバルーンをあげたもので それを後から下から眺めるばかり、少々 首が疲れたか。願いをどうすれば叶えられるか、忘れぬよう誤らぬよう場所構わず貼り紙し、若気の至りで大きな筑波石にその字を刻み神宮寺本堂の真後ろにたてた。有りの儘分別の無さを隠さずに 自分達の道標と考え、その傍に尚恵学園の墓がある。丁度 今年は 私がこの仕事に就いて50年が経つ、ハッキリ言って後悔はありません。常に仲間たちがいて、一緒に歩んできた遍路路だとやっと思えるようになりました。共生は、感謝と謙虚の代わり番こ、苦あれば楽あり、楽あれば苦あり。仲間たちがいろんな事を急がずゆっくりと教えてくれた。一生は所詮、まね事! それで 良いんじゃないの。自惚れ驕りで 正直に生きられればでしょうけどね・・・・そうは問屋が卸さない。(同行二人懺悔みち))2022/10/24 am3:45
 
 見様見まねのハイハイに ヨチヨチ歩きを覚えたことを皆忘れ、いつの間に自分で天下を取ったと勘違う。これも今に始まったことではありません。 昔の昔からありました。その結末は”方丈記”に記された下り文。
 そして、嘆き憂いることではなく、感謝と謙虚さを持てば”無用の用”と成りうると・・・・・。此れ先人の教えなり。
 ある日、家族の突然の面会に二人並んで座って応えた。有限の時間から・・・その時間をわると軽々には言えない。法即以心伝心、自悟自解できるかどうか! どうも ”かたち”から入ると ”こころ”が見えずらくなります。 これら皆 今の姿と言えないでしょうか!
 無視できることと出来ない事、その見極めが出来なくなった。
 方丈記は1212年鴨長明が著した。それは5つの天災(大火・地震・洪水・疫病・飢餓)の体験を通じて世俗を捨て閑居な生活の喜びを語ったもの。昨今は人災が増えている、その最たるものは戦争と地球環境の破壊、これを有りの儘に見ることが・・どうなのでしょう。

3774:師承

眼・耳・舌・鼻・身・意は五感に意を加え六感、日光陽明門の三猿は小学生の頃行っただけ、今 どうなっているか、お猿さんも白髪が増えたかもな~?直に紅葉シーズン、混雑するだろう。そう思うと自然に足が遠のく。歳の所為と言いたくないが、実際そうなのだから仕様がない。落としどころ!こうやって皆さん老いを感じやってきた(師承Ⅰ)。
 久しぶりに旧知(?)の集まりに参加した。3年に及んだ自粛から、中々 元に戻れない。気持ちの問題と思うが、万が一という不安は消えず。各々が注意するのは 当たり前、新旧交代の慰労会は終始 和やかな雰囲気だった。お疲れ様!おめでとう!そして、ありがとう!皆さんへの言葉が気が付けば自分に向け言っている。
 悲しかったことや嫌だったことは忘れ 良い思い出だけ引き出しにしまっておけば、時々出して楽しめる。さて、つもり違い10か条・・・○○つもりで △△のが □□。
 (例)薄いつもりで 厚いのが 面皮。厚いつもりで 薄いのが 人情。他に 8つある。(師承Ⅱ)
 
 早寝早起き。(師承Ⅲ)  自然に こうなった。寝付けに本を読む。できれば小難しいものが良い。すると、いつの間にか寝てしまう。
 一日一日が早く感じる。此れさえ気にならなければ 構わない。我が家のミイちゃん(雄14才?)、人間なれば私と齢はほぼ同じ(猫年齢の人間換算表)。近ごろは寒さの為か 夜昼構わず眠てしまう、それでいて夜中に時々 家の中を走ってる、 これも 思い当たる節が自分にもある。
 人間社会はどうして こうなるの? 猫社会には  無いことでありんす。(ミイ) ☆教養・気位・知識・欲望・根性・自我・分別・無駄(此れらを併せてつもり違い10ケ条)

3775:我こう思う

 明け方の時間にBGMを聴き、香を焚き,煎れ立てコーヒー・・・凝りもせず続けています。五感への刺激、 感性、悟性、理性など皆目判らず、何を感じ どう動くかを自問する? このバランスを保つ難しさ、所詮その全てが”つもり違い”かもしれません。
 人間誰しもが現実を認め受け入れることが 如何に大変かを痛感し彷徨っている。判る?・・ ちょっと 誰と話してるんだい、お前は?・・・ ミイちゃん お前とだよ。・・・・ヤダヤダ~。  ナマグサ坊、いつまでやってるんだい。(1人芝居のファンタジー)
 ☆ Kさんが1人で一輪車を使い 草刈りの終わった跡の草を運んでいた。 誰に頼まれた訳でもなく土曜日で休みなのに 自分から始めたようだ。午後。見廻った時に その場所は綺麗になっていた。 感性・悟性・理性?  何を感じ何をしたか・・一目瞭然。 
 要は”暗闇で何かをしようとすれば灯りを求める”、この簡潔さを眩ますものは現代社会特有の”つもり違い”症候群。その所見は浅いつもりで深いのが 欲望低いつもりで高いのが 気位(きぐらい) つもり違い10か条全て汝が胸中にあり・・・・と。
 
 なぜ 私達はつもり違いをしてしまうのでしょうか、諫言・箴言に腹をたて 忖度上手を侍らせ、思いを果たすおつもりですか、いずれ それが障りとなり、出口なしの袋小路(暗闇)に入り込む。自分を照らす灯りと思っていたら 悉く当てが外れ悔しがる。今日の友は明日の敵 見境付かずで自棄起こす 多いつもりが少ないのが 分別 
 世の中どうなるのでしょう・・・・・。昔むかしのインドの神話、悪神阿修羅となるか、それとも教えを聴いて守護神となるかの分れ道。

3776:分岐点

智慧と知識の違い・・・智慧は単なる学問的知識や頭の良さではなく、人生経験や人格の完成を俟って初めて得られる、人生の目的・物事の根本の相にかかわる深い知識。(大辞林)
 ”若し人仏慧を求めて菩提心に通達すれば父母所生の身に速やかに大覚位を証す”。(菩提心論) 人は往々にして勘違う。そう成らぬ為に”法に住じて但だ菩提心を観ぜよ。仏この中に萬行を具して浄白純浄の法を満足す”。(秘蔵寶鑰)  この意は難しいかもしれません。法を国民の為と謂うは易い、実際は自分の為。これが不浄白非純浄との分かれ道、法の詭弁。そんな純浄無垢の人が今時いるのでしょうか?
 Yさんが53才で亡くなりました。10年間の闘病にも弱音をはかず 明るく前向きに生きた。彼女が6歳の時、お母さんが若くして病気で亡くなったのです、38才でした。僧侶になったばかりの私は住職の供で読経させて頂いた。葬儀の間、Yさん兄弟は部屋の片隅に集まり静かに座っていたのを覚えています。その後、親戚が話し合い5人の兄弟は県内の福祉施設に別々に預けられました。いつの間に47年が経ち彼女から多くの事を教わった。Yさんの葬儀はメンバーたちとスタッフだけで神宮寺で行った、出棺前、スタッフに支えられMさんは棺の中に花を捧げた。その時のMさんの表情が一瞬変わった。障害の重かったMさんの面倒を良くYさんがみてくれた・・・・・・。
 
 法を曲解し、それで満足せず、あらゆる方法を使い己の正当性を主張する、無法地帯は自然環境の破壊と同時に地球上で拡大する。この悍(おぞ)ましい状況を一体誰が望んだでしょうか!度を越した御都合主義(オポチュニズム)が社会に蔓延し その勢いは増長の一途。
 この最大の元凶は政治の不信です。謂った言わない。記憶にない。破棄した。今の日本のように政治家自身の責任の取り方がここまで生ぬるい国はないでしょう! ハッキリ言って、それを変えるのは無理難題。当然、内部からはできそうにありません。芋づるのごとく繋がって切り離しても、切った先で再び芽を出してくる。
・・・・・閑話休題・・・・栗の苗は、接ぎ木して育てます。元の根(台木)に望む実をならすための枝(穂木)を接ぐことで環境に適し人々に好まれる栗をつくるのです。これは古くから農業で行われてきた智慧です、同様に国の付加価値を育て高めるにはどのような智慧があれば良いでしょう。実態からみて果たせぬ望み、 台木は有っても穂木がない!

3777:帯に短し・・

 帯に短し襷に長し・・・中途半端で役に立たない意味。 これを理解できる人はドンドン減っているのではないでしょうか。だって、いま帯や襷を使う人がどれだけいますか。デジタル世代と高齢者、両者のギャップは至る所に現れています。今後益々高齢者割合が増えるらしい。その議論は既にお蔵入りしていませんか、危機感を煽るだけで その対策は”帯に短し・・・”、おとぎ話、一寸法師の”打ち出の小槌”のような振れば何でも欲しい物が出てくると今時信じる人はいません。財源をどうするか?選挙のたびに聴かされる公約、それを信じ票を投じる人の数は如何に? 結果は出ている。投票する人しない人の比率をみれば判ります。この問題を真剣に取り上げず、目先のことに現を抜かす。己の原点を見失い、身の置き場所は御都合主義、これって言い過ぎでしょうか。どなたがそうかは謂いません。あえて申し上げれば 全ての胸にバッジを付ける方々です。憲法改正を行う前に貴方たちがやるべき事は議員全員の提案で公職選挙法を変えることじゃ~ないか。一先に有効投票率の最低ラインを法に定め、それに達しない選挙結果は無効とする。できないと諦めていませんか? それともできない理由が他にあるのでしょうか!寝る子は起さずじゃ~ないの・・・。此の儘で良いのかどうかホンネで話しましょうよ。
 一億総活躍?? 10増10減???どこかで聴いたような話。これが現代おとぎ話となって・・・大人が子供に自信をもって語れる”おはなし”となりますか!
 
 気力と体力の衰えを実感します。一言で謂うならば”億劫さ”、記憶力、判断力も同様に、これらを年齢の所為にするのは止めようと・・・柱に貼った色褪せた紙には”人間は努力するかぎり、迷うものだ”(ゲーテ)が最近は≪どうだ!できるか!≫と読めてしまう。
 働き方改革ですか? それをいう前にやることあるんじゃ~ないですか。
 【衆愚政治】を調べると なんと 今の状況に重なる点が実に多いことが判ります。なんと紀元前5cのアテナイの状況と似ているのです。2500年前ですよ。どうぞ皆さんも億劫と思わず 調べてみたら如何でしょう。そして ≪ どうだ!どうする?≫と。
もっともそうなるかどうかは貴方次第。。

3778:萌しの連鎖

 どうした萌(きざ)しでしょうか?寺に相談に来られる人が増えているように感じています。気を付けてなるべく寺の周りにいるようにしている。相談されても納得のいく話はできないのですが、正直に話すことにしています。因果応報・・・こんなことをしていて 本当に大丈夫なんだろうか?とか どうしても気になって仕様がないので相談に来ました。世の中、宗教(?)に関する話で一杯、信じていたものがそうでない。喪失感と不安感、この先 どうして良いのか判らないという方が増えているのです。 坊さんだって同じですよ。先日 坊さんの研修に参加して思った。20数名の参加者でしたが 私が一番の年長者だった。若い坊さん達は これからどうお寺を守っていけば良いのか迷っている。正直、宗派内の研修だけでは限界があります。
 90分の講演で一番こころに残ったものは、『クラウドファインデング』を活用するのも良いのではないかという事でした。本堂新築が難しい時代になり、その資金調達に活用できるのではないか・・・その成功事例も紹介された。日本ではクラウド(群衆)ファインデング(資金調達)が2011年の東日本大震災が契機となったそうです。少額から始められ、支援したお金がどう使われるか?が明解なので流行ってきている。寄付型や投資型など形はいろいろあるというが自分で選択できる。
 会場の後ろ席から見ていたら講師の話に頷く人が多かったように思う。私は性分もあるのでしょうが、「ホントかよ?」と疑いました。
 その時頭を過ったのは、尊敬する高田後胤氏の写経勧進、納経する方は300円を収めます。修学旅行の学生が大勢参加した。それは何に使われるかという”プロジェクト(目的)”が明解で朽廃の激しかった薬師寺が見事な伽藍に変わったのです。どうしても上手い話は直ぐに真似をするものです。でも、結果は思い通りになりません。それは何故?倫を間違えれば”悪行”になってしまうからでしょう。(ホンネの話)
 
 皆既月食の翌朝、出勤すると既に庭の半分の落葉は綺麗になっていた。≪残りは 午後やるから、いま洗濯しているから・・・≫「わかったわかった。待ってるよ」 一緒に成人寮へ掃除にいく約束をしていた。9時には、お茶をいれたポットを持ち、準備万端 待っていてくれました。≪昨日、ズル休みしたっぺー≫「ウウ・・」≪なんだ、葬式多いな?≫「ムム・・はい」(軽トラ会話録)
 成人寮に行くと、Hさんが 庭で何かやっていた。「ヨー!Hさん今日はMさんも一緒だよ」と声かけると、ニヤニヤしながら寄って来た それから3人で玄関前の花壇の草取りが始まった。風も無く秋晴れの好天気。
 翌朝、ネットを開いた・・・・”生産性がないから・・”という某議員(総務政務官)の発言記事があった。・・・・。読んで判ったことは何をもって自らの責務を果たそうとするのか全く判らないこと。恐らく、説明されても意味が通じまい。
 これは”兆し”でなく”現実”ですヨ。
 
 3段構え要為さず。出るわ出るわ、失言、中傷、大波小波で間断なく。既に無法地帯の態を為し、逃げ口上に四苦八苦。これら全てが自ら招いた結果なり。
 良きにつけ悪しきにつけ、SNS神話に踊らされ、出口が判らず茫然自失、ここから脱する方法は? 生得説・経験説・批判説といろいろあるが、人の倫として正邪・善悪を判断する知情意なるこころを侮り軽んじた末、良心の呵責をも 何処かに忘れてしまったか!頭が良いの悪いのか理に合わぬことさえも謝罪すれば許される便法を見い出した。先を考えず、今を生きる。美しい日本?をと言うは易いが・・・・・此の儘ゆくとは思えない。

3779:火消し役

 幼子に”火消し”を託すようなことを、大人達がやっている。承知の上なれば、まだ策はあるかもしれぬ。そうじゃないから困るのです。公然(?)と非常識の発言を、・・もはや”万事が休す”! 言い分があるなら堂々と自らの言葉で語ればよい。そうしたんだというのであれば話は別。 最高学府で法律を学んだというなれば違法か合法かの判断は当然判る・・・・はず? 違法ではない。組織内規定には抵触せずと考えているのであれば 教えて下さい。火のある処に煙は立たずは慣習法か国家法か人為法か自然法になるや否や??? 子供にも判る様にお願いします。これが説明責任の本義。証拠を見せられ記憶にないとはさすがに言えず・・・・。  凄い処なんですね。饒舌は禍の元。さて どうしましょう!?。
・・・≪春の月 おぼろに霞み 秋月心光 独歩を照らす≫(ナマグサ独言拙句)・・・・  
 
 昨日、某公民館主催の地元散策で40名近い方が寺に来られました。本堂に上がってもらって説明をさせて頂いた。短い時間でしたが風もなく、歩くには絶好の日和で 引率された方もホッとしていたようです。紅葉にはまだ早いが、地域の文化に触れる機会も余りないだろう思い、境内は常に開放している。でも日頃から気を付けないと不意に来られて、なあんだ!と落胆されては元も子もない。お蔭で外トイレ清掃が習慣になりました。
 火消し役は大事になる前に手立てし禍を減らすこと。それが どうでしょう!国の借金が減るどころか増え続け、いずれ返さなければ成らぬと知りながら、その始末は先送り。一体誰が返すのよ?限度を弁えないと・・・・・大変な事となりませんか。 身の丈にあっているか、レッドラインをその都度引き直し、後は どうなれではね。唐突ですが、永田町、霞が関界隈には軽トラの姿を見かけない。通行禁止なの? 世界的な物価高となり、皆さん節約に四苦八苦している世態、人員を減らすこともなく、今時 領収書も不要な公金を・・・。先ずは、『流汗悟道』の看板をこの特別区に何本か立ててはいかがでしょう。道交法違反ですか法務省? 議員の皆さん戦後世代が大部分、昭和20年8月15日、あの”流涙共悟”の日はドンドン遠くなりました。
☆『流汗同労』田村一二。茗荷村の村是』

3780:時が過ぎれば

 ”痛くも痒(かゆ)くもない他人のサイフ”? 米国の仮想通貨の大手が破算したというニュースが流れた。自分には関係ないと思っている人も恐らく多いのではないか。得体の知れない仮想通貨、インターネット上で簡単に取引されるというもの、破綻による被害額が7兆円とも謂われるがそれで止まる保証はない。果たしてその損害の補償は有るのかどうか? 恐らく 大損することは避けられない。私達は今、リスクの時代を生きている。個人は勿論、自己責任となり、今回も世界中で大騒ぎになるでしょうね。でも国家が絡んでいたら、どうなるか!リーマン型かエンロン型(不正の匂い)か以前の問題?
 それを考えるとニッポン大丈夫か!・・・。責任をとって職を辞すぐらいで済む話ではない。平和と安心から一気に暗黒世界に放り出される。
 リーマンショック(2008年)も時間と共に話題に上がらなくなった。人間の本性で無私無欲ではいられない。誘惑が多い中で良い話に飛びついては何度も痛い目にあっても懲りない。経済制裁×軍事攻撃、誰かが仲介に入り、停戦・休戦を宣じても 守られない。 将来に希望を持てない程 不幸なことはありません。自分達の身近に起こっている家計の負担増に対し、日銀総裁の年明け頃には・・・・・との話を 本当に期待してもよいのでしょうか!
 ないないない・・・トイレの汚れは こころの汚れ・・・・
 
 この国の基軸が見えなくなっている。先人の熱いこころ、潔さ、そして真の優しさ・・・・・・ その方達から教わったことを一つ一つ噛み締めるようにトボトボと歩いています。お前はいつまでやっているんだ?との声に思いは揺らぐ。人任せなら苦情は謂うな!
これはコトバでなく先人たちの生き方から学んだ。時が過ぎれば 私達はそれら一切から開放されることを知っている。それがいつのことかは判らない。それまで藻搔いても仕様がない。
 ナイナイナイの人生行路、仏教の核心の教えです。それが どこかで間違った。そうなった原因は何か それもハッキリ示してくれる。”欲”である。持てない程の多くのモノを何に使うか判らずに遮二無二集め、それでも満足せず、他人の資財人畜を掠(かす)め取る・・・・
 夜明け前の暗い中を本堂の前で男女二人が手を合わせ、また歩いて行った。今日は霧が立ち込め 気温も下がり 一か月先の天候になるという。 

3781:小休止

 落葉を見事に掃き集める、Mさんに替わって今朝はKさんがやってくれた。「どうしたの?」と尋ねるとKさんは怪訝な顔をした。後でわかった。Mさんが腰を痛め休んだ為、そこで、おもむろに我が出番と箒を持った。今まで彼は自分の好きな時にだけ手伝い、しかも熊手しか使わない。・・・・実は違った。やれば できるんだわ。
 そしたら2階のベランダからMさんが顔を出し「腰が痛いの・・・」と独り言。「判った!無理しないでちょうだい」と言うと「ウ~~ン』 やや控え目だった。その時です・・・裏の方からNさんが箒を片手にもち、私の目の前を通り過ぎた。「あれっ!」と思わずNさんに謂ってしまいました。彼は去年、定年を宣し、徹底した高見の見物(?)だったはず。
 ♪世知辛い世の中と嘆いてばかりてもしゃ~ねえな~ほれナイナイナイ・・・きりがねえ」 Nさんの鼻歌がそんな風に聴こえた。
 
 今朝の深夜便・・・フーテンの寅さんの口癖の『きりがない』というコトバが好きだという中村桂子さん(『老いを愛づる』著者)のアーカイブ放送をやっていた。 ”あれっ!” 一瞬Nさんが浮かんだ。
 彼は定年後、意気消沈かと思いきや 淡々と我が道を歩いてる。真似ようとしたって出来ませんよ!
  昨日 大阪の友人が東京に出て来たので会う事になった。上野公園口で待ち合わせ、”さ~て どうするか” 国宝展は全て事前予約で既にキップは売り切れだった。隣の国立西洋美術館で『ピカソとその時代』をやっていたのでそれを観た。良かったな~。人の多さにも驚いた。ピカソやマチスやクレー・・・ホンモノの力に感動、・・・上野駅で夕飯の弁当を買い電車に乗ったら どっと疲れを感じた。久しぶりの東京での余韻に元気をもらったような気がする。
 

3782:どっこいしょ

 横合より口を出すのは憚りたいものです。よっぽど自戒しないと気付かず同じ過ちを犯す。世の中 どうも騒がしい、”善悪の報いは影の形に随うが如し”。
 上手くやったと思ってみても 影は本体の形に従うという。要するに影まで偽ることはできませんよ。格言、金言・・・数限りなく、それらの本義が揺らいで見える。見栄外聞に現を抜かし、自分で自分を偽り諂誑詐欺(てんおうさぎ)して虚しく日を過ぐと。落とし穴に落ちて、はたと気づいた、出口を作らず掘り進むとは! 権力は人智を狂わし墓穴を掘って悔やむがごとしとなり易い。 
 
 ”クレーはそっと私たちの手を取って、「ほら、よく見回してご覧、君の王国なんだよ」と言っているようだ”・・・『最高の顧客は私自身』ベルクグリューン著。田部淑子訳。河出書房新社。2001年  国立西洋美術館 『Picasso and His Time』パンフレットより。
ハインツ・ベルクグリューン(1914~2007)は、稀代のコレクターでベルリン国立ベルクグリューン美術館の創始者です。 
 
   『男と女』
1969年 ピカソ88才

国立西洋美術館
 今まさに秋たけなわ、紅葉、イチョウ、欅・・・が紅葉しています。腰をかけ のんびりするのも至福な時、疲れたらどうぞ休んでください。お互い様ですから
 さすがに綺麗になった場所にゴミを捨てる人はいません。お蔭で 自然の素晴らしさを直に感じる。木々は葉を落とし、自らへの負担を軽くし、冬を迎える準備。その落葉を積み重ねた所には 虫が卵を産み、春に蛹(さなぎ)となり、やがては成虫になって飛び立っていく。このような姿(共生)を現代人は忘れているように思えてしようがない。 人間同士が殺し合い何もかもを破壊してしまう戦争は、どんな理屈を並べても許せない。永久にです。 生き物の中で唯一人間だけが繰り返し行ってきた悍(おぞま)しい実像です。・・・現実と理想との乖離、論理の矛盾、崩壊・・・・自己犠牲とは何か・・・ドストエフスキーの『罪と罰』から想う。

3783:一喜一憂

ワールドカップの初戦で日本がドイツと戦い、逆転勝利をおさめた。夢が現実となった騒ぎは一日だけでは収まらず、録画が繰り返し流され、久しぶりに味合う歓喜は痞えていたものを一掃してくれたように感じます。不思議なもので 試合前には様々なことがあれだけ言われたのが嘘のように賞賛の声に変り、勝利の雄叫びは私達に心地よく響いた。凄いのは、この勝利に一喜一憂せず次の試合に準備することを試合後のスクラムでチーム全体が共有していたこと、それを世界のメデイアが感じ取ったか、前日の日本人サポーター達の競技場のゴミ拾い、これも 思い付きではなく普段から行われていたからこそでしょう。
 節度を弁えない蛮行が繰り返される世になって、真の有言実行の爽やかな風となったと思います。驕りか謙虚か 賞賛か酷評か それぞれが我が胸に手をあて熟考しては如何でしょうかというメッセージとなったと思います。
 
 蛮行の対義語には愛、親切、厚意などがあります。それも初めから見返りを期待した行為には疑心が生じ、仏教はその辺の規範を説いています。施無畏(せむい)は、衆生の怖畏を除き憂患を消して無畏を施す大悲抜苦の徳という。。対機説法とは、機根の器量に対応して適宜の法を説く義、更に顕教と密教の違いを説く。事教二相とは、教は教理、事はその教理に従い実修実行すること、事教双修を以て行者の要心とする。(密教大辞典)
 疲れたらどうぞ休んでください。お互い様ですから
 私達には理解の深浅は当然ありますが その教えは皆 何処かで繋がっているというのですから救われます。慈悲深きものです。 よって行住坐臥 知ると知らざると犯す多くの罪を三宝に対して皆発露し奉る・・・・・・云々、これをも枉(ま)げては無節操か。

3784:喜怒哀楽

 人間の感情は喜怒哀楽、目まぐるしく変ります。貧富苦楽を喜憂し、遊戯笑語し諂(へつ)い誑(たぶら)かし、虚しく日を過ぎる。先師の自戒懺悔のコトバ。そして≪我皆 相代わって 悉く懺悔する≫で終わる。
  ここには他に責任を負わすという思いは感じません。それがどうでしょう。巷は真逆の状況に溢れ、不安、不満を煽る行為が目立ちませんか? 綺麗ごとばかり言い、自分に不都合なことは固く口を噤む。ホンネとタテマエを上手に使い分ける人が重宝され、頑なに拒む人を蔑(さげす)む。仏教の中道の教えをコトバで理解することは難しい。調和をとるには、日和見で傍観者的態度では逆に火に油を注ぐことになりかねません。コロナ感染で私達が学ぶべきことは どうもこの辺りにあるような気がしてなりません。
 (煩悩か真如か・・阿頼耶識)
 
 3つの基本的煩悩を三毒(貪・瞋・痴、むさぼり・いかり・おろかさ)。肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着の意で苦しみの根源と説く、方や真如は実性、本性と同じ意、ありのままの姿。さてと・・・これをどうすれば良いのでしょうか。自問自答。一生続けるとなれば・・・”嫌だ耐えられない”と離脱するか。これも実相。そして堂々巡り。一か所にグルグルまわるだけで先に進めない。”嫌だな~耐えられない”・・じゃ~どうする?
 これぞ『宗教学』の基底で狭義には比較宗教学・宗教現象学・宗教人類学・宗教社会学・宗教心理学があり、日本ではいずれもが1870年代に始まったと謂われる。何故この時期に?丁度、明治国家の誕生期にあたる。
 当時をあらわす訓戒として≪恥を知れ!≫というものがあると。・・・恥を恥とも知らず この恥知らず・・・という趣旨に使われたようである。ならば 現代の訓戒は!

3785:相前後

 相前後(あいぜんご)して起こったことに、自分が予測した通りになったと自慢をし、逆にならなかったと悔しがる。そんな解説者はどうなんだろうね! 絶賛が酷評に変るなんて事は別に珍しいことではありません。ワールドカップサッカー、予選リーグがグループ別に4チームが凌ぎを削る。次の決勝トーナメントに進むのは2チーム。負けると酷評、チャンスにミスした選手は針の筵(むしろ)、敗戦チーム監督への容赦ない攻撃・・・・・。勝負事で前もって結果が判っていたら、解説は不要。番狂わせが有ればこそ。
 しょぎょうむじょう・しょうほうむが・ねはんじゃくじょう・・・の道理にかなう。こだわりで道理の英訳を調べたらmake sense か reasonable、ちょっと待ってよ。なにも目くじら立てることもない。コトバは意思伝達のツールとすれば、日本語だって誤訳なく完璧な日本語を使える日本人もいないだろう。補うは”第六感”、sixth sense となる。 それよりもなによりも 忘れてはならないのは兵器や情報を使った≪戦い≫がこの地球上で同時に起こっていること 。 
 
 ・・・一身の利害を以て天下の事を是非す可らず。(『文明論之概略』福沢諭吉)・・・・。・・・大欲得清浄。(『理趣経』百字ノ偈)。・・・
 後世に遺すべきことと変わるべきことの見極めができない時代、人生100年などと浮かれている場合じゃない。自利利他が自利自利(ジリジリ)と化し触れても触れずしても非梵行をおかしてしまう。身口意の三業が常に顛倒、ますます懈怠(けたい)を生じ判断力の低下、衝動的・無責任的な言動が蔓延る。(群集心理)
 法を定めるものが自ら法を破り.その自覚なし、戒め諭す者 泡沫のごとく現われては消え、本末転倒に時間を弄し、虚しく日を過ぐ。これらは ほぼ同時に相前後して起こるという。
不自由の中から新たな発見が生まれ、その是非は結果として顕れる。
 ・・・・ 菅笠を さらこそに替え 遍路路・・・・    

3786:真のちから

 ”失敗の経験がない成功は危ない!”と謂ったのは誰だったか? 
 自利ばかりになると世の中がオカシクなる。失敗を他の所為にし、成功は独り占め、往々にして起こりうること。諦(あきら)めるというコトバの意に注目、仏教用語で”諦観”を調べれば判ります。諦は”つまびらかに 明らかにすること”が本来の意。それがgive upという意味に変ってしまった。”力”もそうですね。(相対的)力が評価され、個々を諦めれば 曖昧なことが明らか。アジアのサッカーのレベルが上がったことがワールドカップの前半戦で証明された。日本チームの代表26名は その多くが海外チームで経験をしている。”失敗の経験がない成功は危ない!” 。言うまでも無いことで神輿にかつがれると天狗になりやすい。昔の人は担ぎ手の草鞋をつくる人の大事を説いた。
 ♪ いまBGM(世界名曲集)がナポリ民謡「オー・ソレ・ミオ」フランシスコ・ラサロ(テノール)になった・・・・瞬間!O sole mio→お~それ見よ♪・・と想った???? 諦聴せよ諦聴せよ・・・
 
 強風に大木が倒れ、柳や蔓(つる)は残る。厳冬の山、木々が雪の重さ、強風に耐え、背丈を低く横に伸ばし生き延びる。外見からは知り得ない真の強さです。
 自己本位から抜け出せず外聞にこだわる人間との違い。
 またしても保育園で起こった保育士による虐待・暴力事件、関係した3人が逮捕されました。このような事件が最近増えていると思います。 待機児ゼロをめざし各地に保育所、託児所をつくったが、肝心の担い手を育てることが間に合わず様々な問題が起こっています。何が持続可能なのかと思ってしまう。事業所は利用者は勿論、働く人たちの待遇改善も同時に考えなければなりません。現況はその場凌ぎの政策としか思えない。一方では、5年間で最大43兆円の軍事費計画が発表された。
 イタリア語 ”O sole mio”は我が太陽という意味なそうですね。子供は宝というコトバが薄れ、この国の将来に不安を感じるのは一体誰なんですかね。子供たちに負担を負わせるだけではあまりにも可哀そうだと思いませんか。
 「生産性の無い人は生きる価値がない・・・」と語った人に質問、≪だったら 貴方は価値があるのですか?≫ 苟も国会に席を置くものが 過去の差別発言を指摘され、渋々 撤回したというが 前例に従い謝罪すれば済む国となってしまったのだろうか! 

3787:過信と禍心

 過信は実際以上に評価すること、禍心は人を陥れようとする心,、害心と同意です。どちらも あまり歓迎されない。有言実行という言葉に解釈はいろいろありますよ。日本語は凄いと思います。でも どうでしょうね。SNSの時代に?○○の逆襲! この○○に貴方ならどんな言葉を入れますか?
 過信と禍心、どちらも”かしん”と読みます。日本語以外のコトバにこれと同じような”綾”が有るのか無いのか?ワールドカップ、惜しくも日本は決勝トーナメント(ベスト8)に進むことはできませんでした。森保監督が試合後、サポーターに向かって深々と頭をさげた。その姿を海外メデアが賞賛していました。日本人の多くが同じ気持ちであったと思います。”ごくろうさま””おつかれさま”そして”ありがとう”のその気持ちに過信と禍心はありません。
 成功した人が賞賛される競争社会に於いても忘れて欲しくないことがあるのではないでしょうか! それは謙虚さ・・・自分の能力・地位などにおごることなく、素直な態度で接することだと思います。
 
 
 勝徳(しょうどく)→嫉妬、卑賎→驕慢、富饒(ふにょう)→希望(けもう)、貧乏→厭離(おんり)(密厳院発露懺悔)、人のこころの綾、入り組んだ筋道です。自己と外界の葛藤・温厚篤実⇔傲慢不遜。
 胸に手をあて良く考えてみれば あるある自分に思い当たる節ばっかりだ~。これが本性と説く(仏)。
 人生終活の誰しもが共有する願いは涅槃寂静、不安や心配がなく、こころが安らかに落ち着いていること。唐突な話だが志賀直哉著の『暗夜行路』を思い出す、この小説が発表された大正~昭和と令和の時代の外界の差は大きいが人間の心理は何ら変わらない。然して遠くはない終幕を待って悔いるより、徐々に心の準備はしておくべきでしょうか。イチョウ・紅葉の落ち葉を集めながら、こうやって感慨に耽るのも、なかなか乙なものです・・・・。

3788:日溜まり

 悠久の時の流れを感じ、日溜まりでのんびりとすごす平穏な時間が一体どれ程あるでしょうか? 
 そんなに無理しなくていいんだよ、あせらずゆっくり・・・・と そんな言葉をかけあえる時代になって欲しいものです。温度管理された部屋でリモートワーク、これはコロナ感染によって急速に拡がった?でも、それは一部の人達、80億人に達したという世界の人口の中でどれ位の人達になるでしょうか? 「人間の寿命は無限ではない」。 これは不変の真理です。自然からの恵みを感じながら 愛おしむ時間を奪ってしまう蛮行を止めるどころか頻発する真逆の事態。
 ”安心できる地域の仕組みを流汗同労(田村一二・茗荷村の村是)しつつ懸命に届けた・・・・・多くの皆さんの汗が浸み込んだ大地からの恵を、共に感謝し、共に味わってくださいませ。”と今年送られてきたぶどうの中に添え書き(A4判:山田農場信州ぶどう工房)は入っていました。 
 
 日溜まりで筵(むしろ)を敷き、お年寄りが収穫した豆を乾す姿は昭和30年代にはありました。どこかで行われているかもしれないが私の周辺からは消えた。筵の材料になる藁(わら)がない。大型コンバインで一気に刈られ刻んでしまう農業に変って暫くになる。核家族、過疎化等々そうなった原因をさがすのは然程労しない。生産性・効率性・利便性・・・・他にもあるのだろうがあげれば切りが無い。こういった環境に適応力に優れたものだけが歓迎され、適応できない人達を時代遅れ敗者と誹り退ける。世界は二分化され、両者の格差は拡がるばかり、それと同時に何が大切かが判らない時代に突入した。
 森羅万象は人間にとってどうなのかという物差しでは計れない。生物の中で人間だけがもっているものが何かを考えたらどうでしょうね。

3789:百千万劫

 ≪未来永劫≫の「劫」という字の意味は梵天の一日の長さ、人間の四億3千二百万年を一劫(イチゴウ)という、それが百千万劫という途方もない時間の長さが観音経の中にあります。我々は長生き出来て100年。この時間の中で理解することができますか????。天空に煌めく星の数が一体どれ程あるのか????と通底する。義務教育で学ぶ日本の歴史は推古天皇の即位(592年)後の飛鳥の時代以前のことはほとんど触れられず1600年前の話からです。過去~現在~未来といってもそれが実態としか言えないでしょうね。自己と外界との葛藤、禅宗では解き難い公案・問答という意になっています。葛藤はもつれ合う葛(カズラ)と藤(フジ)、心の中で相反する欲求が同時に起こって迷うこと、互いに譲ることなく対立し争うことを例え、矛盾・撞着を百千万劫繰り返す。
 (問)矛盾・撞着・・・道理に合わないことを どう考えたら良いか!・・・・・(答)「汝 諦に聴け蓮華月輪本来 汝の胸中にあり」・・・・と。・・・(訳)”良く聴きなさい。大切なことは もともとお前の中にあるんだよ”・・・。
 
 
 未知への挑戦で最大のものは、自分の死、例外なく誰もが通る道だから、考えないと謂っても 所詮無理なこと。「なむあみだぶつばかり所詮たるべしと思ひさだめて」(一遍上人:時宗の開祖)
  ここでの”所詮”が最後に行きつくところの意、一遍は各地を遊行して歩いた僧で遊行上人と謂われる。遊行=行脚、遊行寺=清浄光寺。 仏教を学ぶとは、教典の一部を取り上げ、ああだこうだと他宗を攻撃することではない。どうかすると その過ちに陥り、「所詮」を見失うと教わる。
 無垢清浄光(むくしょうじょうこう)は一瞬の輝く光か否か? こころ清ければ”光”をみる・・・・・と。(俗)いまingでその光源とする(原油・天然ガス)が、争いの因となっている。これを正統化しようとする如何なる行為も所詮 永劫不当たるべし・・・・。

3790:劫と循環

 今世紀最大の関心事となっているSDGS、それは資源枯渇、環境破壊、がこのまま進むと”地球が危ない”ということがその発端、その解決に向けた17の目標(道筋)を示した。従来の大量生産→大量消費→大量破棄という一方通行の形から3R(Reduce・Reuse・Recycle)によって循環型経済(Circular Economy)にしようということ。現実にそれが上手く進んでいるのでしょうか?周囲を見ても”NO”です遅々として進まず。寧ろ自分ぐらい守らなくても大勢に影響なしと考える人が沢山いるのが実態でしょう。
 一劫を人間の四億3千二百万年という時間をどう考えるか?その視座はない。そんなことを謂えば一笑に付され相手にされない。そうでしょうとも横暴なやり方を諫め止めさせる事もできず、自分達の信じる繁栄(?)を求め続ける輩は一向に減らない、世の中は”何でもあり弱肉強食”は当たり前の態と化し大量破壊、大量殺戮が公然と行われ、自らは堅牢な城砦によって守られ安全と信じている? ・・・Because there is no planet B・・・という”合言葉”を破棄し嘲笑う。 あたかも地球に替わる惑星があると思っているかのようだ・・・・。
SDGSの政敵は∞「無限大」かつ変幻自在。
 
 某テレビ番組、見慣れたコメンテーターの二人がウクライナ戦争の現状とこれからについて語った、公共の電波を通じハッキリと判るような薄笑いを浮かべながらのやり取りを見て”憤り”を感じた。メデイアの社会的役割と責任が問われている。モラル欠如には歯止めがきかないようだ。腹が立ち スイッチを切った。報道の自由は結構、だが”何でも有り”と同義ではあるまい?・・聴く人、語る人、観る人、所詮は他人事。内容が内容だけに微笑しながら煽るような解説では いかがなものか!。
 こころの安定を保つには益々難しい状況になっている。適当なコトバが浮かばない!善と思っていたことが悪の逆襲にあっているように思えてくる。偏向的で自分さえ良ければの考えが子供たちに負の遺産にならぬように願いたい。
 ♪ だれかさんが だれかさんが だれかさんが みつけた 
      小さい 秋 小さい 秋 小さい秋 見つけた
                めかくし鬼さん 手のなるほうへ すました お耳に かすかにしみた
                         よんでる 口笛 もずの 声  小さい 秋 小さい 秋 小さい 秋 見つけた♪ (作詞:サトウハチロウー。作曲:中田喜直)・・・・・・ 「拙僧愚痴話」