源究212n212

 

NO  テーマ  月日  NO   テーマ  月日  NO   テーマ  月日  NO   テーマ  月日 
 3751  看板と実態    8/30  3756  清算法人  9/11  3761  引き分け   9/24  3766  防犯カメラ  10/7
 3752  ふと想う   9/2  3757  挫折から 9/12  3762  流汗同労   9/26  3767  お加減は?  10/9
 3753  韜晦(とうかい)   9/5  3758  忘れ物  9/15  3763  放電   9/29  3768  活路探索   10/12
 3754  カラスの言い分   9/7  3759  何を学んだか?  9/18  3764  屁理屈談義   10/2  3769  応薬与病?   10/16
 3755  静観or無関心   9/9  3760  Time is maney   9/21  3765  明日への言葉   10/4  3770  Probability     10/19

3751:看板と実態

 看板に偽り?実態は・・・様々に・・あの手この手で売り込む算段ばっかし。
 ここは 確と腰を据えて、詩人 茨木のり子、知る人ぞ知る昭和を生きた代表的詩人、今でも彼女の詩集は多くの人に読まれている。昭和元年生まれ、歯に衣(きぬ)着せぬ彼女の詩はどうして生まれたのだろう?現代人が失ったモノを明治~大正~昭和を生きぬいた先人達から学ぶことは必要だ。特に政治、経済、文化各界で日本を引っ張ってきた人達の”健気(けなげ)”さや”気骨”には魅了される。それがどうしたことか最近の人間不信は相当酷いことになっていないか、オブラートに包んだような開き直り、看板に偽り多く 何を信じて良いか分からない状況(御都合主義)は既にこの国全体を覆っている。
 詩集『倚(よ)りかからず』茨木のり子を紹介します。
  ・・・・もはや できあいの思想には倚りかかりたくない  もはや できあいの宗教には倚りかかりたくない もはや できあいの学問には倚りかかりたくない
       もはや いかなる権威にも倚りかかりたくない  ながく生きて 心底学んだのはそれくらい
         じぶんの耳目 じぶんの二本足でのみ立っていて なに不都合のことやある 倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ・・・・
 
 永田町、霞が関に屯して形勢が悪くなるといつだってそうだ。オブラートに包んだような言い訳、目が虚ろで どこをみて話しているか判らない。アンタ達は何を言いたいのか 自分でもわからないんじゃ~ないの。そりゃ~そうなるわな!何かに倚りかかっていないと立っていられないんだもの。言い過ぎでしょうか。
 私の愛車は軽トラ、冷房は無いが 使い勝手は抜群。最近の湿気を充分含んだ天気により雑草はやけに勢いを増している。あっという間に草が生い茂る。私の草刈り道楽は 大繁盛ing。
 不釣り合い?の真っ青の半袖と穴のあいた長袖繋ぎ服を交互に着て まるでカラスの様に 目に止まればどこからでも作業開始。手がつけられないと周りはみているかもしれない。
 ”七郎さん”は、いつも熊手をもって手伝ってくれる。今まで一緒にやっていた二人の相棒は、一人は≪定年だ!≫と謂って手を引いた。もう一人は 絆創膏を取り換える時に爪もとれたと謂って≪草取り ダメ!≫と宣言した・・・・園庭の中央に一坪田んぼをつくって水道から水やり専門、七郎さん!その仕事は一休み?、私の相手を買って出る。二日前、彼がポケットから何やら紙を出し私に見せにきた。”何?”と聞くと黙って私に手渡した。
 ・・・・あんちゃんとねえちゃんにあいたいです。ひちろう・・・・と書かれてあった。スタッフの誰かが代筆したらしい。
 コロナ禍で家族との面会ができない期間が随分長くなった。これが実態です。アンタら冷房きいた部屋で働き方改革か・・・・何 言ってんだよ。まったく。七っちゃん 怒れ!

3752:ふと思う

 不意に思いだすこと・・・・・!お盆が終わり秋分の日が彼岸中日。毎年この時期になると体が少しスリムになる。ジムなどに行かなくても自然にそうなるんだから安上り。座ったり立ったりをどれ程やるか、中でも草刈りは健康維持のストレッチ、これ、私流の働き方改革、今、右手の中指の爪の部分が痛い、小さな蓄冷剤を手に当てながらキイを打つ。なぜこうなったのか 原因不明。
 ふと彼岸に渡った人達を考える。ああ・・・・そうだ。もう あの人はいないんだ~。歳相応に黄昏の時間が増えたように思う。
  蝉の声に気付いた。即、耳鳴りかもしれない。このまばたきに無常の風流韻事??? 濁流に句末の韻はなんとする・・・・????流れが止まれば澱みになる・・・。けれど無常は決して無情ではない。
 
 
 夕方、突然の雷雨となった。停電に何度もなった。凄まじい稲妻と雷音と雨、引っ切り無しにスマホに管理会社から停電を知らせるメッセージ、間もなく尚恵のスタッフから、園内に落雷があり、非常ベルが鳴りっ放しという連絡が入った。報知器に異常がおこれば消防署に自動転送される。今から消防車を向かわせるという。24時間対応の管理会社に連絡、破損した部品を交換し2名の社員は安全を確認して帰った。夜中の10時になっていた。
 日頃の準備と訓練の大切さを実感する。
 勿論。身近に起こる災害に諦めて何もしないことは許されない。920ヘクトパスカルという猛烈な台風11号の動きは気紛れで停滞後、迷走し始めた、備えを充分に行ったとしても果たして無事でいられるか!
 繰り返し繰り返し襲ってくる自然の猛威に私達は何を学び何ができるというのか? ウクライナで起こっていることを考えると人間の愚行・非情さは間断なく続いている。せめて生得、経験、批判により良心の呵責を感じ、邪悪に立ち向かう勇敢な人々のいることを忘れまい。
 

3753:韜晦

 韜晦(とうかい)という字の意味は、自分の本心・才能・地位をつつみ隠すという意。茨木のり子詩集『倚(よ)りかからず』の解説に≪信念を持つ自分を誇るのではなく、羞じるところが茨木さんらしい≫と(山根)。そこに韜晦という言葉があった。
 往々に頼まれもしないのに自画自賛、そして、自分の恥部を必死に隠そうとする。この真逆の態が近年、高位にある者に益々蔓延していないか!日本語の共生・持ちつ持たれつの解釈がオカシイ、それは「私利に目が眩む」から相手に上手く通じないことになる。
 詩は散文とは違い字をいかに削ぎ落とすかである。図星だよ。憲法・・云々より、先ず、日本語を学び直し、羞じることを考えないと偉いことになりますよね。
 諦聴!喝! 
 
 肩書、名聞、虚偽、詐称、詐欺、隠蔽、贈収賄・・・・・・! これ等のコトバが徒党を組み、湿度90%越えの気怠さを後ろ盾にしてなって漫歩する。これって支離滅裂の文章でしょうかね。
≪秋涼のみぎり≫≪白露の候≫・・・普段、余り手紙は書かないが 10人ほどの方々へ配るものがあって気付いた。どうしても添え書きの始めの挨拶が浮かばない。 焦りではない。あきらめか!一糸乱れず整然と行進する軍のパレードも各自が勝手気儘な服を着てプラプラ歩く姿も真逆のようでそうじゃない。どちらも”人間様”の為せること、自然界に ここまでやるものが果たしてあるのでしょうか?擬態・・・他の動植物に似た形や色になること?隠蔽的擬態と標識的擬態があるらしい。おそらく人間ぐらいだ。 限度を弁えず必要以上のものを手にいれようとして奪い合う。
 玄関の外灯のある壁にピタリとへばり付きジッとしている”カエル”。鳥などの外敵から身を守るためなのか?それとも夜、灯りに集まる虫を捕食するためなのか?カエルに尋ねることもできないので 何日か観察する。
 どうも捕食のためらしい。昼間には どこかにいってしまい壁にはいない。その辛抱の強さは想像を絶する。
 普段 気付かない小動物の生態から、”人間”は温和謙譲を学ぶのが先なのかもしれない。自分達の主義、信条をいくら声高に主張しても自然環境を壊してしまえば、どうなるか。結果はあきらか収拾つかないことになる。

3754:カラスの言い分

 ふとカラスの言い分はと考えた。
 カラスは田園や人家近くにすみ、雑食性で何でも食べる。古くは神意を伝える霊鳥とされたが、今は凶兆を告げる鳥と思われている。カラスからすれば偉い迷惑な話かもしれない。彼らは電線や木の上にとまって下界の様子を伺っている。突然、大きな声を出し仲間を集め集団で行動する。孤高というより徒党。寺周りにも常連さんがいる。 お盆や彼岸、墓前にあげられる食べ物を狙っている。普段はゴミ集積場、生ごみを食い散らかしいくら掃除をしても切りが無い。これだって神意を伝える霊鳥と言えないでしょうか。”お告げ”ですよ。”お告げ”、人間が良かれと思っていることに一考。
 カラスによる人間の生態観察。鳥の言葉を理解できる人がいるというが 私にはできない。でも凶兆(悪いことの前兆)を告げていると思うとハッとする。人間の社会は偽りの共存共栄、飽食と飢餓をみれば判るはずといっているように観じるのです。
現に九人に一人世界で約8億の人々が飢餓に苦しんでいる。(WHO・SOFI報告)。人々はそのことを知っていながら何もできない&何もしない。カラスからみたら なんと人間は自己本位で愚かな生き物かと思っているかもしれない。
 
 
 成長と進歩・・・貴方はこの言葉を鵜呑みにしていませんか?
 豊かさ、便利さ、スピード、・・追い求めた結果はSDGS・・・後戻りすると謂えば、アイツは敗者とレッテルを貼る。ブータンに行った時、鉄道の無い国がどうなのか? 同じ仏教国であって日本と真逆の姿に愕然とした。国の幸福度で当時、世界一のブータンと下から数えたほうが早い日本・・・島国の日本が大陸と海底トンネルで繋げるという”話”は今どうなっているのですか?
 ・・・・〈絶望は虚妄だ 希望がそうであるように!〉 というわかりやすいのもある 今この深い言葉が一番必要なときに 誰も口の端(は)にのせないし 思い出しもしない
      私はときどき呟いてみる むかし暗記した古風な訳のほうで  〈絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい〉・・・・茨木のり子詩集『倚りかからず』P98、「ある一行」・・・
 *ハンガリーの詩人 ペテーフィ・シャンドル(1823-49)

3755:静観or無関心

 ≪推移を見守る・・・≫か≪戦々恐々≫か、どちらにしたって、本人が一番良く判っていることです。必死に冷静さをよそおうには、形勢は厳しい、百戦錬磨と言えば聞こえは良いが、咲き乱れたる百花の凋落飛散の運命は如何ともしがたし。斯様な証は数え切れまい・・・。潔く罪の一切を自ら発露懺悔することを願うのみ。
静観or無関心は妙なる心中か。世間の眼に耐えられるか、おおいなるものの慈悲に縋(すが)るには理に合わない。人間は引き際が肝心。
 道を見誤れば その代償は貴方が考えているほど小さくはない。
TOKYO!・・・招致決定の瞬間、関係者の狂喜乱舞→コロナ禍により延期→1年後観客制限開催→終了。そして・・・・・。表と裏の怪現象、そこに課題だけは遺った。
 
 無関心⇔無責任。人間の本性は不意に顔を出す。”無”の解釈は科学と哲学ではどう違う?仏教の無や空の解釈とはどうでしょう?それらに共通点は有るのかないのか! 三法を敬うとは無常や無我とどう向き合えば良いのかの道標。 
 ・・・・永遠なるものを求めて永遠に努力する人を”菩薩”という・・・・永遠なるものを何と考えるか?それを問い続けることが肝心。
 玄奘の伝えた唯識では、全ての実在の根源を阿頼耶識(あらやしき)にあるとする。。
 現代社会を考えた時 誰しもが不安を感じている。10人いれば考えは10人違う。これが本性とすれば不安は今に始まったものではないことになります。
そのことをどう考えるかでしょう。だったら 自分は好き勝手に生きてやると思うかそれとも・・・・・・・。法を破れば裁き(罰)を受ける。この道理をも否定する極端な状況は異常だ。
 竜樹の中観の教えは偏り過ぎた考えの否定です。法を護り、賢く戒める。
 静観は諦観に通じ、無関心は無責任に通じる分岐点。

3756:清算法人

 法人が解散した後、その清算の目的の範囲内でだけ存続する法人。幻想が現実か?幻想であって欲しいと誰もがおもうことなのに、その実体はあまり知られていない。否、それを知らせるものも無い。”また 始まったか アイツはどうしようもない”とレッテルを貼られるのが落ち? 静観か無関心、これは意味深です。想像したことありませんか?国が破算したらどうなるか・・・等々、”縁起でもない” ”俺には関係ない”・・・とでも!取引にはルールがあって当然? 保証人をつけお互い納得のもとに契約書を作成する。イロハの話ですね。 現実はまだまだそこに至らないことって多過ぎませんか。だって国が保証するから安心ということにならんでしょう。今でも互いの信頼で口約束、世間にはこの類(知らぬ存ぜぬ)の話は捨てる程あるんじゃないですか!いざという時の静観・無関心。 仏教はこうなる根本の原因を”煩悩”、その中でも3つをあげています。それが貪瞋痴の三毒。
 懺悔の文にある。・・・・≪善友に随わずして痴人に親しみ 善根を勤めずして悪行を営む 利養を得んと欲して自徳を讃じ 名聞を欲して他遇を誹る(そしる)≫ そうなる道筋を判り易く示した。
借金の先送りは”ツケ回し”と同じですよ、それも惜しげもなくやってきたのは どこの国だったでしょう。昨日 国会閉会中審査のテレビ中継をみていて確信した。静観・無関心⇔貪瞋痴 → 無責任⤵。 
 
 現実を直視せず、どのような絵を描いても理に合うまい。≪裏をみせ表をみせて散る紅葉 形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉≫ 良寛辞世の句です。
 この句からホンネと仄々(ほのぼの)とした雰囲気を感じる どうしてでしょうね。一方どんなに美辞麗句を並べても 人心は離れていくばかり。なぜそうなってしまうのでしょうね。 自ら責任を取らず他人の所為にする。 どうしてこうなってしまったのかな~??? 嘗ての日本人が大事にしたつつましさ・虚飾のない生き様が薄れていくような気がする。私の思い過ごしなら構わない。
 世を憂いるナマグサ坊主で結構だ。
今年8月に90才で亡くなった稲盛和夫さんが≪人生で一番大事なことは何ですか?≫と聞かれ語った
・・・一つは、どんな環境でも真面目に一生懸命生きること。もう一つは、”利他の心”自分だけでなく皆を幸せにしたいと常に心に描いて生きていくこと・・・・でした。 

3757:挫折から

近ごろ 思うことが多い、先をみれば 焦り狼狽える・・・・。無為無策の歯痒さは 私達が負わねばならない宿命なんでしょうか。
 ・・・地獄に行こうが 極楽に行こうが 行ったところが丁度良い・・・散る桜 残る桜も 散る桜・・・(良寛)  この二つの句から自然に身を任せる良寛の生き様を観じます。
 経営の神様と謂われた稲盛さんの言葉からは常に自問自答しながら生きてきた姿を観る。挫折も数え切れぬ程経験したことでしょう。 どんな環境に於いても一生懸命に生きてきた人ですね。我々に、その気持ちはあったとしても挫折し止めてしまう、そこから這い上がる術がない。 できない言い訳ばかりを考え、挙句の果てに他の所為にしてしまう。私も同じかもしれぬ、これは、どこかに自分を良く見せたいという欲があるからです。
 自問自答は懺悔となり、新たな道の発見につながると信じます。己に正直に生きる人と偽って生きる人の差。完璧な人間はいないし、1人じゃ~ 誰だって生きて行けないんだから。その自覚があるかないかでしょうね。
 パキスタンで国土の1/3が埋まる大洪水が起こり 3300万人が避難民となっているという。
 
 利便性の副作用、サギメールに注意! ちょっと変だと思いネットで調べてみると 既に幾つもの警告がありました。警告は一様に決してアクセスしないで下さい! 不特定多数の人に自動転送できる便利さはどこまで進化するのだろうか?もはや芋づるの態となり、それが悪用されればどうなるか!規制は追い付かず。新たな機種を次々に出すメーカー、業績を上げるために他社に無い機能を創造し勝負する。よく考えてみなよ。その機能をどれだけの人が実際に活用しているでしょうか?これも副作用、本来の目的からズレてしまったのは、全てがユーザーの自己責任で片づける。
 速さ、便利さへの偏重は気が付けば”人間らしさ”の喪失という思ってもいなかった病に苦しむことになりますよ。それは愛おしさ・慈しみ・温もりなど昔人が大事にしてきた”こころ”が消えて行くこと・・・・・・。勿論 これが原因だという断定はできませんよ。でもね~ステージ(病期)が上がってしまってから気付いても治療は難しくなる・・・・・。そんな気がしてなりません。
 現代病に共通するのは”丁度良い加減を見失ってしまった症候群”。果たしてその特効薬は開発されるでしょうか!
  

3758:忘れ物

 ≪・・・・・・?≫日本の危うさを感じるのは、常識を忘れてしまった大人達が増えたこと。≪ちょっと まって。あいさつ位してよ≫すると怪訝な顔をし≪使ってダメなの?≫≪他の家のトイレを借りる時ぐらいどうなのよ≫このやり取りはお互いに不満だけ残った。掃除をしていた私を無視して黙って通りすぎようとした、≪まってよ≫住職という事を告げるとタオルをほっかぶりし汗だくの作業着姿の私をジッとみて、≪・・・・・≫再び怪訝な顔をして行ってしまった。モラル欠落は国が崩壊する前ぶれです!大げさ?言い方があるでしょう!と謂われた。 知らんぷりポイ捨ては一向に減らない。常識無い大人の急増、それを子どもたちはどう感じているでしょうか!自分さえ良ければ人間がここまで増えた証ではないか?世直し・・・とんでもない。そうじゃないよ、そんな大それた考えじゃなくて 汚れに気付いたらどうするのよ。記憶にない/知らなかった/・・黙秘権?
 どうしてこうなってしまったか????? 「わからない!」   
 ♪ 悲しむなかれ わが友よ 旅の衣を ととのえよ 別れといえば 昔より この人の世の常なるを
         流るる水を  ながむれば 夢はずかしき 涙かな 
 ♪ (『惜別のうた』島崎藤村)
 
 まだ薄暗い早朝、本堂の前で手を合せている女性に気付いた。昨日の出来事で消化不良状態の気分が一瞬に消えました。毎朝 歩いて来られ、もう何年も続いている。
 いつの間に 日本人は変わってしまったのでしょうか!良いことは直ぐ忘れ、悪いことは長く記憶にのこるものです?
 今から50年前 本山長谷寺に参籠し、一緒に一か月間過ごした方の中に大きな感動を与えてくれた方がいた、名前がどうしても浮かばない。宗務所に勤めている知人に記録に残っていないか尋ねたら数日後≪判りましたので お知らせします≫と連絡が入った。同期の参籠者は7人で全国から集まった。男性4人、女性3人、女性の皆さんは住職が亡くなり護寺するため自分が僧侶資格を取得する方達だった。7人の中で私が一番若く20代前半、一番の年長者だった方は山形県長井市出身、教員を定年まで勤め終わってから参籠した、もう亡くなっていると思う。いまの自分があるのは、その方と本山で出逢ったことが大きかったとおもっている。
 落とす者あれば拾うものあり。忘れたものあれば気付く者ありで丁度良いのかもしれません・・・・・・ ありがとうございました。
 

3759:何を学んだか?

 昨日、某団体の理事会に監事の立場で参加、時節柄、オンライン会議となった。皆さん慣れたもので議論百出、真剣な討議の場となった。今 できることをできるやり方で行う。結果を焦っても仕様が無い、でも、黙って何もしない訳にはいかない。
 終わってから慰労のメールを送った。”少々疲れましたが 多くの意見があり感謝しています。”との返事があった。討議無きオンライン会議程虚しいものはない。
 50年の間に私は何を学んだのだろうか?住職と障害福祉の現場、これ以外の職業経験は無い。どちらも人相手の仕事で終わりが無い、目の前にある現実に向き合っていくしかない。それは自問自答の連続!≪嫌だったら止めれば良いじゃない。≫と、もう一人の自分が茶々いれる。
 福祉現場の虐待事件が一向に無くならないという話題になると、参加者皆さんの語気が強まった。加害者の責任が問われるのは当然だが、何故繰り返し起こってしまうのか?、個人の問題というより構造的な問題があるのではないかと。私も常々同じことを考えている。これは施設だけの問題ではなく社会全体に蔓延した根本的な事由があるからで今に始まった訳じゃない。長年積み上げてきた結果だから簡単に変える方法が見つからない。≪嫌だったら止めれば良いじゃないか!≫。「・・?」≪虐待をだよ≫
 
 無駄と有益・・・微妙ですね。誰にとって?何のために?と掘り下げて考えてみたら どうなるか?道徳と宗教の違い、道徳は超越者との関係ではなく、人と人の関係で規定されるもの、善悪や正邪を自覚的に判断し、正しく行為するための規範。フムフム。解かった様で判らない。
 人間は何を学んだか?最悪は”戦争”だ。戦時国際法があっても 相手が破棄すれば意味が無い。戦争という言葉にも「受験戦争」「交通戦争」「…戦争」と身近に新たな言葉が生まれている。変化は進歩とは限らず、退化もある。連休前の高速道路の大渋滞、それが嫌で外出を控えるか、機会を逸するのが嫌で強行するか! 選択は一様ではない。
 これも仏教の解釈では”欲”となる。無為、無策、無欲、無私、無謀・・・。障害福祉から学んだのは、生きると生き切ることの違いかもしれません(無私)。
 ☆彼岸と此岸の間に流れる三途の川、積み切れない財宝を持って船で渡ろうとする人達へ。愚行の反対語は「英断」「快挙」 (彼岸入りの朝)

3760:Time is money!

 嘗て有限の命を無限にしたいとあらゆる策を弄する者が望みを果たし 今も生き続けているでしょうか。自然の摂理に逆らい自分の思い通りにできた試しはない。九州に上陸した大型台風14号が猛威をふるい日本列島を縦横断、できることは自らの命を守るため安全な場所でジッとして通り過ぎるのを待つのみ。人知によって台風の進路を変えてしまうなど最たる妄挙でやるべきことは他にある。
 ≪時は金なり≫はフランクリンの言葉を日本人は誤解しているという。元々はビジネス向けに語られ、どうすればカネ儲けができるか! それが  ホンネとタテマエが錯綜し、嵩じて、カネ・カネ・カネ、の妄執にとらわれる。
 単刀直入に言うことを憚る日本人気質()は どうして生まれたか!『幣』という字、これは神前に供える幣束が本来の意味、それがいつの間に銀行券⇔貨幣(カネ)が主な意味となる。温和謙譲の美徳など昔の話で平和の祭典の裏表・・・・実に呆れた話で他人のカネで相撲をとってビジネス鉄則と勘違う。
 時は金なり→『機会損失』? → ”粋は身をくう”と弁えず。(如是我聞)
 
 記憶は自分の都合に合わせ思い出す・・・らしい。成りゆきをみて”ヨッコイショ”、やおら立ち上がる”後出しジャンケン”は禁じ手。前置き多く、回りくどい説明が保身のための”処世”なら 堪ったもんじゃ~ありません。粋な計らいとは真逆,タイム イズ マネー?
人情は悪弊か??斯くの如く相手への思いやりや慈しみは消えて行く。人のこころを一から学べと大いなる方が言っていなかったか??? 記憶にない  あああああ!
 何でもありが許されて・・・格差と不透明さにより律儀者が生き辛い世と成りはてる。
 ☆ 他の力によるものではなく、自らのうちに始源をもち生成変化するものを”自然”といい、人為・作為から区別された有りの儘のもの。(ギリシャ哲学)
  現代社会の病巣はこころの拠り所を見失い 彷徨い続ける。さて、その誘因は? GPSが人心の拠り所まで探せるか? (ナマグサの遍路日記)

3761:引き分け

 勝者が全てを失うこともあるし敗者が幸せを得ることもある。負けるが勝ちを道理に合わぬと思うか否か!・・・恩の腹は切らねど情けの腹は切る・・・恩に報いるために身を捨てる者は少ないが、義理人情のために身を捨てる者は多い。考えれば考えるほど奇々怪々、現世がそうなっている。言葉を変えれば”何でもあり”の時代、引き分けが無く勝敗に血眼、戦争の不安は決して無くならず、勝者たらんとするものが尊ばれ(?)権力の座につく。釈迦やキリストの時代も同様のことがあっただろうか。
 それで約2500年の時を経て、人間はどう変わったでしょうか???世界の人口が70億人を越え、更に増え続ける。少子化を問題にする国有れば,人口が増え過ぎ食料危機に直面する国もある。これは当事国だけの問題ではない。現実に起こっている地球上の危うさだ。
・・・・ことさらに殺し誤って殺す有情の命 あらわに取り秘かに盗る他人の財 触れても触れずしても非梵行を犯す 口四意三互いに相続し・・・・行住坐臥知ると知らざると犯す所のかくの如くの無量の罪 今三宝に対して皆発露し奉る・・・・(密厳院懺悔ノ文より)
 慈悲は抜苦与楽の意、施無畏(せむい)は衆生のおそれを除き救うこと(三施)。
 
 勝ち負けには、未来永劫同じ結果をうむ理はない。三法印(諸行無常⇔諸法無我⇔涅槃寂静)は仏教の基本思想です。障害福祉観の核心は≪この子ら世の光≫で≪この子ら世の光≫では無い。「を」と「に」の場所の違いで意味が大きく変わる。それを現実と照らしてみたら、残念だが未だそれに勝った試しはない。
 もし自分の人生が最初から決まっていたら人生はどう変わる?永遠のなるものを求め永遠に努めようとするだろうか。
 現実と理想の乖離は永久に無くならない。先が判っていないからこそ、いくらかでも差を縮めたいと願うんじゃないか。”老いる”ことは 自分と対峙するチャンス、”諦める”とは人生を明らかにすること、大切なことは焦らず驕らず自分を見つめることだと。
映画『ニーゼとのアトリエ』を前に触れた。ブラジルの精神病院で当たり前に行われていたショック療法を新任の女性医師(ニーゼ)が苦悶しながら変えようとする実話を映画化した。 光は生きるために無くてはならないもの。(如是我聞)

3762;流汗同労

 流汗同労(田村一二・茗荷村の村是)は、ルカンドウロウと読む。一緒に汗をかき労働することが理に適っているとする日本の障害福祉の先達・田村一二先生の教えである。いつの間に労働の価値が所得の多少に置き換わった。そこから底無し沼に足を踏み入れ抜け出せない様を呈することになる。生き辛さを感じながらも どうすれば良いかが判らない。
 まさに、・・六度の行を退して 還って流転三途の業を作ると宣した覚鑁(平安末、中興の祖)の予測の通りだ。同じ星に生まれた人間同士が互いに争い、自分達が乗る船を壊し荒海に漕ぎだす如し、これは愚行としか言えまい。見なさい!法の箍(タガ)を抜く者が後を絶たない。
 貧しい学生ラスコーリニコフの非凡人には犯罪も許されるとの間違った考えを気付かせるソーニャは現われないのか!(『罪と罰』)
 ・・・汝 あきらかに聴け 蓮華月輪 本来汝の胸中にあり・・・(風誦文の一節)
 ☆蓮華月輪・・・蓮華は泥中から穢れのない綺麗な花を咲かせ月輪は仏の智徳、衆生の菩提心の象徴という。
 ☆流汗同労・・・知的に障害をもつ人達の生き様からの智慧。
 
 私達は先人から何を学んだのでしょう!蓮華月輪を全ての人間が元々持って生まれたという。衆生の菩提心は、相手を思いやる気持ちと慈しみを基盤として真理を会得しようとする道です。そして、六度の行は布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧(六波羅蜜)、それを退けては流転三途(地獄・餓鬼・畜生)の業(行為)をつくると。これが生きる指標となり先祖を敬うという思いが生まれた。・・・ 過去形なの?・・ingですか?今こそ真摯に自分自身を見つめよということですよ。
。斯様に私は教わった。いずれ老いを迎えた時必ず過去を振り返るでしょう。今の私がそうです。それは 自分の胸の内に収めていれば良いのかもしれない。
でも 決して他人事ではありませんよ。
  流汗同労、糸賀・田村・池田・・この三人の先生は史上最強のタッグ、それぞれの生き様から学んだ人々が全国に散らばり、その教えを実践し頑張ってきた歴史が日本の障害福祉にはある。糸賀先生が説いた”光”は 今どうなったでしょう!社会の風潮に染まらず光輝いているだろうか!我々に対して『自分たちが目立ってどうなる。』・・・との諫言が聴こえませんか!
 全てが汝の胸中に在りですからね。言い訳は”ご法度”でしょう。もし誤っていたとすれば、慈悲の意味も違ってしまうでしょう。慈悲は抜苦与楽が本来の意味。うわべの豪奢や華麗さに隠れ”悲しみ”となりませぬように。推しておして知るべし!

3763:放電

 落雷は放電現象、帯電体が電気を失うことです。地表物を一方の電極として雷雲から発した電気が放たれる。+と−は自然界には常に存在し、条件が揃えば雷が発生、手に負えないことになります。 
 人間社会に これに似た例証は数限りなくあり、雷はマイナスの影響を及ぼすと思われ分が悪い。仏教では逆に雷を雷神、風は風神と神格化して祈りの対象としてきた。この両神を一対にして千手観音菩薩の眷属に加わえた。私が住職する観音寺はその千手観音菩薩を本尊として600年の間、鎮座する。
”台風一過”の青空。これも昔とは大分違ってきたように思える。あきらかに 人間にとってのリスクが拡大している。自然環境を破壊しても責任を負わず、自分達の繁栄を望み続ければ 雷神、風神は怒りの対象を人間に向けるかもしれない。大いなるものが自然と人間のどちらを選ぶかの答えは明らか・・・・だ。巷では私利私欲にドップリ浸かった人間どもが策動を繰り返し、欲望の虜、邪推と偏見、終いには仲違いして怒りの矛先は自分に向かう。
諸行無常 是生滅法 生滅滅為 寂滅為楽 (涅槃経ノ無常偈))
 
 いろは歌
  ・・・いろはにほへと ちりぬるを (色は匂えど 散りぬるを) わかよたれそ つねならむ (我が世誰ぞ 常ならむ) うゐのおくやま けふこえて (有為の奥山 今日超えて) あさきゆめみし ゑひもせず (浅き夢見じ 酔いもせず)・・・・ 仮名47文字を重なることなく1回使った歌 その意は 諸行無常 是生滅法 生滅滅為 寂滅為楽。
放電の反対は充電になりますね。電気によって車が動く、 電気がなければ動かない。それには充電が肝心。これは子どもにも判ることです。 むしろ大人が理解していない。例をあげれば切りがありませんよ。強かに始末が悪い!
 観音経に”施無畏(せむい)”があります。おそれ無き施し。 反して、人々に恐怖心を与え、己は安全地帯 こういった人物が必ずいますね。”羅刹(らせつ)”です。(梵)可畏の意。通力により人を魅して人肉を喰う悪鬼。
 見返りを要求するかしないか 正邪の分かれ道。推しておして・・ヲ・シ・テ 知るべし。
 

3764:屁理屈談義

 清濁併せ呑む! あなたはできますか? 正邪善悪の別なくですよ。もしかして度量が大きいという称号欲しさ・・・・・・。清秋、秋涼の挨拶をためらう事象にひたすら無力感
 有為転変・有為無常。。。判ったかのごとく振る舞う罪悪感。。。浅き夢みじ酔いもせず。寂滅為楽、この理を貴方はどう想う??? 当人は説明したと思っているが聴く側は納得するどころかより疑義が深まって不快感。 SNSが 状況を素早く察知し調和へ導くか!それどころか 逃げるが勝ちの先導役。不図、日本昔話を思い出す。それは”猿蟹(サルカニ)合戦”。子どもにとっては 実に判り易いが 大人にとっては???意味不明。五観⇔五感。
 程度を弁えればSNSも良いかもしれない。難を謂えば、瞬時に答えが出る話は便利かもしれぬが人間の智慧会得には逆効果。(ナマグサ坊主の嘆読文)
 
 どこかに忘れ物をしていませんか? 何を?それさえ忘れ、浮かれ烏(からす)に笑われる。
 世の常として、肝煎る者に取りつかれ、我を失い彷徨うは後を絶たず、、、、これを”いたづらに西天に迷路するなり”(正法眼蔵)。
 SNS妄執という現代の病に対する特効薬は未だ承認に至らず。毀誉褒貶(きよほうへん)、誹謗中傷、太鼓持ちを永遠に大量生産し続けるのか。その姿にさすがに浮かれ烏も厭き厭き。あの羅刹が守護神(十二天)となったことを想い、大凶が大吉に変わるかもしれないと微かに願う・・・。それには どうするか!全ての答えは汝の胸中にあると!  ウーム・・・・。カラスの親方が謂う事にゃ~小欲知足 ~いい加減にせんかだそうです。
 ☆≪私の最初にして最後の哲学、私が一点の曇りもなく信じて疑わぬ哲学・・・私はそれを子供部屋で学んだ。≫(『正統とは何か』G・K・チェスタトン)

3765:明日への言葉

 「明日へのことば」(NHK深夜便)が最近、過去の再放送(アーカイブ)が増えたように思う。朝4時は外は真っ暗だが寝ていられす起き出している。聞き逃しサイトで後日聴くようになった。要は再放送の再放送を聴くということになりました。NHKラジオの長寿番組「深夜便」放送内容に時流があり当時を思い出しながら 聴く楽しみもある。吾はSNSをあれこれと言っていながら早朝からパソコンに向かってキイを打つ。胡散さ?自己矛盾?否定はしません。 拙文と判りながら そうしないと気が済まない。見返りなど全く望まない。今はこれが私にとって貴重な時間になっている。(back to the source)
 毎日 園に顔を出さないと落ち着かず仲間たちと会い、一日が始まる、その繰り返しをずっと続けてきた。今はもっぱら繋ぎの作業服、穴があいているなど気にならず雨が降っていなければ外にいる。
 あのよ~彼らの「明日への言葉」、聴いている?・・・・・・にハッとする。 
 
最近新しい眼鏡を作った、 モノが見えなくなったら辞めよう。それまでは 何としても・・・・・。積年のテーマ”共生”の序章は未だ書き終えず。書いては消すを繰り返す。この調子だと本編が無く終章になるかもしれない。世相は 過去から学ぶことより未来志向、そして自分さえ良ければの価値に変わったのだろうか。
 連日、不正や虐待事件が無くならないのは、見て見ぬ振りをするものが増えた証、それに偏り過ぎる個人主義からだと私は思っている。個の尊厳、プライバシー、権利を主張するのは自由だが離れ小島に一人で生きる覚悟があればいざ知らず、義務を果たす気持ちが毛頭ないのは如何なものか。
 記録が無いと謂ったと思ったら突如記憶は蘇るものらしい。記録は一年で破棄するという。どこかにあった話だ。後出しジャンケンはルール違反、変わり身の早さと言葉の軽さは責任ある立場の人間のすることでしょうか!開いた口が塞がらぬ。
 エリートとは・・・「ある社会や集団の中で、そのすぐれた素質・能力および社会的属性を生かして指導的地位についている少数の人」(大辞林)。
 社会的属性とは・・・・【哲】それを否定すれば事物の存在そのものも否定されてしまう性質。(同上)  以上!

3766:防犯カメラ

 防犯カメラが多過ぎる社会は生き辛さを示すバロメーター。安心・信頼の欠落から、止むを得ず 自己防衛の苦肉策? だが、世界の情勢は数段先をいっている。
 昨日の国会ライブ中継・・・野党代表が質問中、議員席の様子が流れた。横並びに座った”お歴々”、今 騒がれている人達も含め どうみたって”居眠り”している。これが偽らざる実態。これも記憶にないと謂うのだろうか! 貴方たちは国民と向き合っていない。状況判断力の劣えは重篤だ。私にはそうとしか思えない。誤れば済まされるイコール”何でもあり”となる。
 何かが狂っている! 国民を守ると言いながら、自己保身を優先する国!世界はそう観ているのではなかろうか。 モットシッカリセント。
 ・・・・ある社会や集団の中で、そのすぐれた素質・能力および社会的属性を生かして指導的地位についている少数(?)の人・・・ 社会的属性とは  。
 
 
 日本の永田町界隈の実相!政治家の進退は自ら決めるか選任責任者が決めるかのどちらかという。それって閣僚とそうでない議員では違うという意味ですか?。明らかに”NO”です。不信の元凶は負のブーメラン効果を避けるため、見て見ぬ振りが慣習となり、その波は震源地・永田町から全国津々浦々へ伝搬した・・・・。この連鎖を断ち切る神風が吹くだろうか!
 Jアラートは弾道ミサイル、津波、地震などを住民に自動的に知らせる日本が誇る全国瞬時警報システム・・・・・東北一帯にその警報がなった翌日の国会中継の映像は実態を如実に表した、早々に議事堂内にJアラートと防犯カメラを設置するべきでしょう!
慣れ程 こわいものはなく、 貴方の師(せんせい)はと問われ ”自分”と答えるが如し!(不如実知自心)
 ・・・・小学生の時、授業中に居眠りして 廊下に立たされた・・・60年経ったいま・・・その先生のことを今も懐かしく思い出す・・・・。
 ♪ 仰げば 尊し わが師の恩 教への庭にも はやいくとせ・・・・ ♪ せんせい お蔭さまで72才になりました。  

3767:お加減は?いかがですか。

 裏と表をはき違い。見えなければ良いと気にならないものあれば、その違いを暴くものあり。
  最近 道端にゴミが少なくなってきたと感じています。 自分一人ぐらいなら平気だろうと思うものがいるのは確か。仲間達とスタッフがゴミ袋をもって歩いている脇を速度オーバーで通りぬける車や自転車が以前にはありました。何度注意したか分からない。それが少しでも減ったとしたらその方達に何らかの心境の変化があったのか?
 今は”良心の呵責に堪えない”ことが多過ぎます。 地球上で人間は自立(歩行)するのが最も遅い生きものです。その自覚があるのかどうか!権力と豊かさのシンボル”不夜城”をつくり、夜も明るくし自分達の欲を満たそうとする。若田さん!国際宇宙ステーションから地球をみたらどう見えるでしょう!
  秋冷の候 加減はいかがと 自問する
 
 ”為せばなる”と勘違い、”やればやるほど”真逆の態。善悪を判断し、善を命じ悪を退ける知(知性)情(感情)意(意志)の心を失い迷宮入り。それは 人間誰もが持って生まれた”本来の心”を見失ってしまった証拠。なぜ そうなってしまうのでしょう? 仏教では三毒、つまり 貪(むさぼり)瞋(いかり)痴(おろかさ)によると説く。三毒は根本的な煩悩である。煩悩あれば菩提あり。あれっ・・・煩悩と菩提(さとり)は対立するのではないか?・・と思ってしまうのも仕方が無い。
 煩悩と菩提は両方とも本体は真如(実相)であり真理の立場からみれば煩悩こそがそのまま菩提に他ならないと観る。ウーム・・・ハハ~ン・・解かったようで判らない。正直そう思いますよね。じゃ~ 煩悩があるからこそ菩提(さとり)が開けると考える(因縁)とどうなりますか!
 裏をみせ表をみせて散る紅葉・・・・・この良寛さんの辞世の句。どうでしょう・・・私は救われるような気持ちになります。
 目いっぱいに張った糸は切れ易く、少し緩みがあって丁度よい。・・いい加減・・・いい塩梅。
  

3768:活路探索

 目・耳・舌・鼻・皮膚の5つの感覚を”五感”という。現代人は目(視覚)に偏り過ぎていると謂われます。華やかさ、珍しさ、美しさ・・・外見に囚われ、それをつくろうことに夢中になる。ホドホド感が無く、嫉妬心や驕慢(あなどり)さを昂ずることで争いがおこる。
 ブレーキがない乗り物を我が物顔で疾走させ、本人は満足だろうが他人への迷惑を考えない。そして輪廻転生を繰り返す≪兵(ツワモノ)の道は日本の人にはあたるべくもあらず≫(宇治拾遺物語)  今から800年昔の説話集をどう解すれば良いのだろう。進化を公然と唱える割に人間自身は成長していないということを認めようとしない。
 真観・清浄観・広大智慧観・悲観・慈観の5つを”五観”という。五感⇔五観!この視点こそが肝心と”三界万霊”の安心(無畏)を願い祈ることが仏教の教えだと私は学びました。
 三界=①三千大千世界。②欲界、色界、無色界。
 
 偏った身勝手な情報に混乱している。一体何が報復の事由なのか、300年前の国の繁栄を再現できれば、真の活路となりうるのでしょうか?日本ならば1720年代は8代将軍徳川吉宗の享保時代になるが次元は全く違う。
 日本の企業が生産拠点を世界に移した戦略は平時であればという条件つき、1000億の投資損の見返りは売り値が1ユーロ(142円)と報道された。ハイパーインフレ以上の代償が現実となった。日本企業の99%は中小企業という中で資本力のある大企業であればこそなのか、一緒についていかざるを得なかった下請け企業は果たしてどうなるのでしょう。昔であれば海外勤務は憧れの的、巷では自慢話で華が咲いた。それを何度も聴かされたものは嫉妬から悪口に変わった。これは せいぜい50年前の話でハッキリ記憶に残る。
 日本は世界の混迷する事態に為す術も無く、右往左往、≪総合経済対策にしっかり取り組む・・・≫という大臣が国会で話す中身は自分が担当する経済再生の話がほとんど無い。この異常さと現実の間で、担当者を頻繁に更迭する国も全くしない国も共に問題だという共通認識が生まれた。(矛盾の一致?

3769:応薬与病?

 応病与薬か応薬与病か・・・・?(維摩経)
 秩序無き現象が世相を育む、本末転倒、自暴自棄、仮想現実、出るわ出るわ次から次に間断なく。私が『この子らに世の光を』×『この子らを世の光に』という糸賀一雄先生の言葉を知ってから半世紀がたった。今も正直藻搔いている。さながら禅問答の如し。応薬与病・・・薬に応じて病を与える、もしそうだったら大変なミスを犯していることになります。有ってはならぬ事です。そうならない為に”法”をつくり、皆で守ることを旨としたはず。でも、その検証はなされてきたでしょうか!
 自分に都合よく解釈し、正統性を訴える。これが嵩じて何の為に誰の為にかが判らない。
 計画通りに上手くいっていないと知るやその責任を他に押し付ける。これに周囲から何ら異を唱えない。これが許されることになったら どうでしょう! 両刃の剣。仮想がいつ現実になるか・・・・・。相手への打撃も大きいが自陣にもそれと同様の打撃をうける。
 剣を落として舟を刻む・・・裏切りは遠く離れた処からでなく極々身近な足元から! 
 
 嫉妬・羨望を戒めた先人の言葉に心動かされる人とそうなら無い人、無関心と妄執への両極の差は拡がる一途、何時しか縮小に変わるのだろうか!(不二法門) 水は上に流れないが、その理に合わぬことに流汗す。
 それは”悠久の大義”に堰を築き、わざわざ深く濁った澱みをつくり、魚を活かすようなもの。そもそも己を絶対と信じた誤り、後戻りも先に進むこともできない迷路(澱み)に入る。 
 
  空き地の枝切り草刈りが終わった。4日目の孤軍奮闘、木々が枝を伸ばし、どこから始めるか躊躇し先延ばしにしていた。脚立の上り下り、トゲ枝による痛い目、スズメバチ、・・と 挫折を煽られた。
  これも虫や草木からみれば人間の身勝手、妄執・・・・・かもしれない。・・・・が、切った枝からは 来年 新芽が出る。早く新しい芽が出ないか待ち遠しい。 頭デッカチに栄養足らず、オマケに天気が不順で 草枝枯れず
  ≪すべてのことについて 言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす≫(碧厳録・第84) 

3770:Probability

 a thing that is likely to happen ⇔ probability.
 何を血迷ったか!・・・。べつに否定はしませんよ。負の情報ばかりの中で正常な判断などできません。それだけあってはならない異常な状況になっているということでしょう。そりゃ~アンタが知らないだけでしょう! 勿論、否定しません。その通りです。じゃ~プラスの情報って何があります?自粛から緩和で人流が変わった? 観光地や街に人が戻ってきた。???。大都市はそうかもしれない、でも 日本全体からみたら シャッター通りが寧ろ増えている。それもウクライナの惨劇ニュースがあった後 それをどう思いますかってことですよ。
悲観的⇔楽観的。観音経にある悲観は意味が違う。慈悲の悲で抜苦与楽(五観の一つ)の意になります。
 probabilityを辞書でひけば、「可能性」ですが英英辞書ではlikelyが付く、”もっともらしい””本当らしい”の意。その反対はunlikely=difficult to believe.つまり自分の眼で確かめたことでない不確かなことに振り回されている。
 泥中の蓮(はちす)は真理は煩悩に汚染されないことのたとえ(維摩経)です。  周りを蓮田で囲まれている中にいると蓮の一年の変化が良く判ります。見事な蓮の華です。だが咲いている期間は実に短いのをご存知でしょうか?
 
 悲には”あわれみ”という意味がある(仏)。此処から苦しみを取り除くという同情や慈悲が生まれた。その悲の解字は”非”が羽が左右に反対に開く様、下に”心”がつくとあります。
 真意を解せず、安易に使えば、そうそう鳥を思い浮かべれば判ります。羽が反対に向いていて上手く飛べますか?仏教伝来(隋時代~)を考えれば梵語→漢字→日本語と教典が訳され今に至った。正直、その膨大な量の教典(大正新修大蔵経)の前で茫然自失、ぐうの音も出ない。そんな時、せめて所依なる教典を学ぶことだと師から教わった。(不二一元) それからです、おぼつか無い足取りでトボトボと歩いてきましたが何度足を踏みはずし挫折するかと思ってきました。
 ガブルエル・マルセル(フランス哲学者)がお伊勢参りした時に≪ここには人間の自然に対する畏敬の念と謙虚さが、沈黙を以て表現されている。これこそ現代という科学時代の最も神聖なるものである。≫と語ったということを自著:『観音経』法話の中で高田後胤師が紹介しています。