源究207g207

  

NO  テーマ  月日  NO  テーマ   月日  NO  テーマ   月日  NO  テーマ   月日 
 3651  寂静   12/23  3656  初夢?   1/3  3661  苦と楽   1/16  3666  饗応   1/27
 3652  大きくな~れ   12/25  3657  虚栄心   1/6  3662  なるほど  1/18  3667  文化遺産   1/30
 3653  世間知らず   12/28  3658  誤解   1/9  3663  貸借対照表   1/21  3668  教えの中に  2/1
 3654  お裾分け  12/31  3659  ゲーテのことば  1/12  3664  立ち止まって?  1/23  3669  通史   ☆
 3655  新年を迎えて   1/1  3660  オポチュニズム  1/14  3665  古き良き時代  1/25  3670  ま~だだよ   ☆

3651:寂静

神宮寺に今般永代墓地が完成しました。正面に≪寂静≫と彫った。それは仏教の基本である三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静≫から”寂静”の字をとった。寂静とは・・静(しず)やかな安らぎの境地を言い、涅槃とは、いわれなきとらわれや偏見から解放された絶対自由、縁起の法に生かされ生きている自分達が互いに相依相関の関係にあると自覚し生きる指標です。難しい?
 人には それぞれ”機根”があり、その能力は違って当たり前、・・・・今、コロナウイルスに翻弄され世界中の人々が生き辛さを諸に感じている、これは決して寂静といえる状況ではない。いつ そこから抜け出せるかは 誰一人として判らない。もし脱することができたとしても また いつ 同様の禍に見舞われるかもしれない。無常・無我。そして寂静。余計 難しい??
そこで 登場したのが
 ・・『独り歩み、怠ることない聖者、非難と賞賛とに心を動かさず、音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、他人に導かれることなく、他人を導く人、・・・諸々の賢者は、彼を〈聖者〉であると知る。』・・・・中村元訳『ブッダのことば』:スッタニパータ:蛇の章・聖者・213。
 この言葉との出合いに私を導いてくれた多くの方達に心より感謝します。少しづつ 焦らず 参りましょう!
 
 法人監査があり、一日空けた。遣り残した垣根の手入れを始めたら、案の定、Hちゃんが顔を出す。多分、また 何かやってるな!と様子を見に来たのだろうか?≪熊手で 枝を集めてくれる?≫と頼んだら、すぐに始めてくれました。
 お昼になり、中断して寮に戻ろうとすると Hちゃんが私に指さして見せるものがあった。軒下に置かれている何かの芽が出始めたポット、その数30個ほど。≪あっ これ野菜、Hちゃんが作ったの?≫と尋ねると、彼は≪ウン≫と言って苦笑した。
 その時 今年は庭に小さな(1㎡)水田を作った話を思い出す。水をかけ過ぎ、よく失敗することも聴いていた。独り歩み、怠ることない聖者、非難と賞賛とに心を動かさず、音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、他人に導かれることなく・・・・・・・
そこで 上掲本を再び開すると
 聖者・212:・・・智慧の力あり、戒めと誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執着から脱して、荒れたところなく、煩悩の汚れのない人・・・・・と書かれてありました。

3652:大きくな~れ・・

 
軒下に置かれた栽培責任者H ”ふゆ野菜”・・≪大きくな~れ!おおきくな~れ!≫・・雨降っても 風がふいても気にしない。毎日水を欠かさず、ここまで大きくなりました。
・・・これ どうするの?・・・と尋ねたら、彼が指さす先には、植える場所が用意され ヒモで囲ってありました。正直に言います、 噴き出しそうになった自分が 恥ずかしい。 これぞ ブッダの言葉 ≪聖者・213≫、・・他人に導かれることなく、他人を導く人(上掲)。・・・云々
 
近頃の福祉の現場は コロナ禍の影響もあるのでしょうが、何か大切なことを忘れていないでしょうか! 生きるという事と生きている実感がズレていても それに気付かない。価値の転倒が進み過ぎた弊害かもしれませんよ。
Hさんの”米づくり”と”野菜づくり”を間近にみて 感動しましたね。
 
誰かに言われずとも、自慢する気も無く 淡々と・・・そんなHさんの思いを描いてみました。
 今朝のラジオ深夜便(4時5分)から・・・鳥取県境港市で伯州綿(はくしゅうめん)のシャツ作りをしている38歳の若者の講演を聴きました。江戸時代、全国に名を馳せた鳥取の綿を横浜から山梨~鳥取へ居を移し原料の栽培から製品までを全て手づくりしているという 。
 こういう若者が日本にいるんだと思いましたね、地域創生とか創意工夫とか。。。口で言う事は易しい。自分の思い通りにならなければ 他人の所為にする。そこからは 何も生まれないでしょうね。生きる事とその実感はその人なりの的があればこそ。視座を変えれば 不満 with 満足
  『Hさん もうじき畑に苗を植えるんでしょう、収穫できたらお裾分けしてもらいたいな~ どうだんべ~か。』
 ☆ 尚恵の仲間達:「スナップアーカイブ」より。
 
 Sさんは いま病と必死に闘っています。彼女は優しく、いつも穏やかで”赤ちゃん”が大好きです。仲間5人とミュージックベルのメンバーでグループ名は『風(プー)』です。なぜ風という名になったのか?、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように(上掲)、というブッダの言葉のような彼女たちだからでしょう。そのように私は思っています。
 生きるということは、釈迦の時代から何も変わっていない。宇宙を構成するという五大(地水火風空)を抜きに有り得ないし生きている姿はそれぞれが違います。勿論 時代と共に変化するものもあるでしょう。
 
煩悩の汚れのない人(無垢清浄:観音経第25偈文)、糸賀一雄先生が『この子らを 世のに』と語っていた"光"と同じだと思います。  

3653:世間知らず・・

 世間知らずの高枕 とは、これいかに? 知ってしまったからには 枕高くして寝れまい。ま~ リーダーとか博識とか謂れてニヤニヤしている人もいますでしょうが どうでしょう!これは戒を含んだ言い回し。要は 人間には 裏表があって無常・無我、これ真理。最近東京に出ることは全くなくなりました。数年前までは有楽町近辺での泊りがけの研修が結構ありました。帰宅する人が減る時間になるとネオン街が賑やかになる。客待ちするタクシーの多さ、そんな東京の夜の姿をこの目で観た時のカルチャーショックと世間知らずのダブルパンチ、私にはどうも馴染めない。アルコールが飲めないのはこれ天の恵みか・・・などと強がり言って。
 人混みは豊かさの代名詞? それで、夢再現の願望が顔を出す。懲りないというより 活力の必須脂肪酸??ま~いいよ、私にそれを論じる資格はありません。
 活力と充実感、古希を過ぎ、正真正銘の老人族への入会許可を拝受したのとコロナ禍が同じ年、そこで判ったのは、活力と充実感は一体にあらずということ。じゃ~ どうすればよいのだろう!昼ゴロゴロ&夜目パッチリで自問自答を繰り返す。誰しもがいずれ受け取る卒業証書、枕を低くして『スッタニパータ』の第5章に目をとおす。(ナマグサ愚僧の夢枕)
 
 もういい加減にしなさい! との声がした。振りむいても姿なし。夢・・・・か? そうかもしれない。
 飛ぶ鳥跡を汚さず。これは、去る者は後始末をきちんとしなければならず、そして 引き際は潔くという意味である。もしかして、≪もういい加減にしなさい≫は・・私に向かって誰かが発したコトバだったかもしれない。
 嘗てのこの国の戦国時代、大将たるものの理想の姿。一国の主は 飛ぶ鳥跡を汚さず。渡り鳥でなく、そうあるべきと、これが変わってしまった。辞めてから 自棄に口をはさむ方がいらっしゃる。傍に誰か居ないの進言するものが! 「アンタは 自分の後始末をやっていれば良いんだよ」ってね。これだ~ これが実像なんだ~ナ。おそらく いずれ 自分の周りから誰も居なくなっても気付くまい。渡り鳥 世間知らずの高枕
 もういい加減にしなさい! また声が聴こえた。≪ウン わかった。≫ 確かに 幻聴ではない。(痴ほう性ナマグサ愚僧の独り言)
 参照:『正統とは何か』G・Kチェスタトン。春秋社

3654:お裾分け

 
 シコタマ貯め込んで それでも満足しない。世界の富の40%を上位1%の人達がもっている。このまま進んでいったとしたら どうなるのでしょう!
 そこには見返りなしのお裾分けなんて存在しない。今後ますますこの傾向は強まっていくと思わずにいられない。
 『スッタニパータ』(Sutta-nipata)の「スッタ」とは「たていと」「経」の意味であり、「ニパータ」は集成の意味である。釈尊の生き生きとしたすがたに最も近く迫りうる書と言っても過言ではない・・・訳者:中村元。
 いま 何故 スッタニパータなのか?仏教に関心の無い方には どうぞ お構いなく・・・・
 さてと、話を進めよう!私達がそこから何を観じ学ぶことができるだろうか!科学の進歩を手放しでは喜べないことを薄々気付き始めている方もいるでしょう。それは真に生きやすいものとなっていくのだろうか!ということを考えれば自ずと判ること。「たていと」だけで織物はできますか?「よこいと」があって初めて布となりうることを疑う人はいない。これは智慧と知識の違いがわからないことに通底するという。私が仏教から最初(本山参籠で)に学んだことは・・見返りなしのお裾分け・・でした。いつの間にドンドンそれも変わってきたと感じている。資本主義は倫理無くして存在しない。競争は独占に向かう。ドロボーの競争で勝ち残った者は優れたドロボーか。不満 with 満足か不満⇔満足か?  どうでしょう これらの違いをどのように貴方は思いますか ・・・・。
・・・・今年一番の冷え込み、夕方玄関のベルが鳴った。グループホームのKさんだった。≪ これ 食べてください!≫とビニール袋(上スナップ)を手渡された。彼が自分で作った白菜だった。悪天候でも休まず筑波郵便局で働いているKさんはホームから自転車で土浦駅まで行ってそこからバスで筑波まで週5日通っている。休日 畑で近所の人々と大きな声で談笑している姿をよく見かけます。≪ありがとね!≫ホームの周りを綺麗にしてくれたお返しだと大きな声で謂った。あああああ!
 
 「よこいと」を「倫理」と考えれば どうでしょう。そして これは 全てに共通することだということも判ってくると思う。
 正しい評価と過大評価、タダ乗り、倫理の商品化等々の言葉が溢れかえっています・・・・でも これら全てが未解決な訳です。単一の問題でなく複雑なメカニズムが働き、たて糸と横糸が絡み合っている。そこなんですよ肝心な問題は、枝葉末節なことに振り回され要である基軸が安定しない。その証に相変わらずの経済第一、多様性、持続可能性、働き方改革など掲げて止まない。冷静になって考えれば、矛盾だらけ、問題の博覧会みたいなことが判ります。この様態は 一向に変わらず、それに代わるAIやSNSに望みを託す。じゃ~ご自身のイマジネーションはどうなんですか?それをも放棄してしまう積もりでしょうか! 私の場合は”仏教”が道標(処方箋)になっているんですが 病を根治するのではなく 程々感を保つことを教えられる。歳を取れば 誰だって体の機能に支障が出るのは当たり前なこと、それを元に戻そうとすれば 必ず他の部位に影響します。それより、貴方自身はどうなのよ? 生きることを どう捉えていますか!
 ここに至るまでには 紆余曲折 随分 遠回りしてきました。今もって仮免許です。でも 今までに経験しなかったような充実感を感じています。視座をちょっと変えてみれば 思いもよらない展開が体感できるんじゃないかと・・・・・。
 ☆寺掲示板は【一陽来復】・【所願成就】に書き換えました。☆

3655:新年を迎えて

   
 2021年も残りあと6時間となりました。皆さん 如何お過ごしでしょうか? 冬の本格的な寒さの中 私達はコロナ感染という前代未聞の出来事と向き合ってきました。振り返れば 大型客船の集団感染が最初でした。あれからどの位の月日が経ったでしょう。丁度2年前になります。そして、現在はオミクロン株という新たなウイルスが世界的な拡大をみせています。人流を制限すると言っても現実的には難しく、いずれ感染拡大が身近に迫ってくると誰もが思っているのです。この精神的な負担は計り知れない大きさになっています。くる年に何を望みますか?【一陽来復(いちようらいふく)】は、冬が去り春がくること。悪いことが長く続いたあとで、ようやくよい方へ向かうことを謂ったものです。そして【所願成就】は思い思いの願いごとがかなう事です。
 
 after 6 hours,
明けましておめでとうございます!除夜の鐘の途中で0時を待ちます。夜空に1発の花火、恒例となった新年を迎えるこの地域の合図の花火でした。気温は低かったのですが風が殆どなく集まった皆さんが それぞれの思いを込め鐘を撞いていたのが印象的でした。星がとても綺麗で竹で作った灯籠と両々相俟って境内は幻想的な雰囲気となりました。今年も よろしく お願い申し上げます。1/1/2022:
 

3656:初夢?

 急いで支度して、持ち物も良く確認せず出発したが、途中で気付いた。”どこに行くんだっけ?”・・・準備して置いた お年玉、いざ渡す段になって見当たらず、間違って渡したかと 周りを見回しても見つからず、立ち上がったら自分の尻の下に敷いていた。夢か現か段違い  大笑いして終わったのは目付け物。・・・
 陰が極まって陽が生ずる=一陽来復。
☆≪伝統を保守せんとするものは、チェスタトンもそうであったように、利権、秩序、規則といった類のものに従順であろうと努める。しかしそれは、自己のうちに溢れ返ってくる相反する感情、欲望、行動を制御せんがためにそうするのである。チェスタトンは、秩序なしの自由が人を無気力に沈ませることをよく見抜いていた。・・・・≫(『正統とは何か』G.Kチェスタトン。西部邁「新装版のための序」より)☆
 
 
 物忘れとか勘違い、数えたら切りが無い。能々考え、それは”秩序なしの自由が人を無気力に沈ませること”に対し自己免疫と思ったらどうだろう。藪から棒に何をいう?残念だが今のコロナ禍が我々に提示する問題への模範解答は無い、だって出題側も回答側も判らないじゃ~ありませんか。
 これは是、無常&無我、今年は西暦で2022年、その遥か昔の2500年前には既にその真相は明らかにされていたと考えると 途切れなくずっと続いてきた『正統とは何か』という設問に辿り着く。
 ”宗教と自分”は、≪宗教を信じられるか否かではなく、自分が何故に信じるようになったか≫にあると思う。
 時代や己の生きた環境により 人は迷いを生じ、そこから脱しようともがくのです、チェスタトンは英国の産業革命の絶頂期に生まれ(1874年)、「後期ヴィクトリア朝時代の物質主義・機械万能主義からくる自己満足(虚栄心)に対し鋭い批判を加えた」。彼の指弾する秩序なしの自由という社会が今の日本とどう重なるか、経済の低迷期という割にどこか腑に落ちない事象が多過ぎるように思えてしまう。
 夢を見ることは個々の自由でしょうが、できれば うめき声でなく 笑い声でみたいものです・・・・・。

3657:虚栄心

 なぜに見栄を張りたがるのでしょうね。決して負け惜しみじゃなく、寧ろ恐れるのは、その事を当たり前と受け取ってしまう今の社会の有り方だと思うのです・・・・。尊厳には感謝がなければなるまい。そうでなければ 単なる自惚れと大差ない。”寄り添う”という耳慣れた言葉もそうだ。言葉のみで 現実に何を行ったかが問われない。それを何気ない振る舞いで私達に教えてくれる人達の存在は大きい。彼等から”虚栄心”を微塵も感じないのは どうしてなのだろうか?(裏表なく単刀直入ムダがない)、
 経済第一も自由も手放しで受け入れられない理由を挙げることは然して難しくはない。むしろ”虚栄心”(虚飾)の本質を明らかにさえすれば 自ずと見えてくると思うのです。当人がそれを認めるか否か?国の有り方だって例外ではない。それを分かりづらくするものが目障りなだけ、

☆≪ヒューマニズムの名において伝統にたいして破壊を仕掛ける革新主義(進歩主義)、それは近代における正統な立場であっても、断じて正統なものではありえない。正統とは、歴史の流れの連続性にかかわるもの、とりわけその連続性を確保するためのものとしての伝統の保守にかかわるものだからである。≫(上掲本・西部邁)☆
★ 日本は核兵器禁止条約Treaty on Prohibition of Nuclear Weapons(TPNW)を未だ批准していない。この件に関し戦後ずっと国民との議論を避けてきた。次世代に判断を委ねるつもりか否かさえ 明言できずに。★
 
 JHU(ジョンズ・ポプキンズ大学)は世界のコロナ感染情報を世界中にリアルタイムで発信続ける。誰でもアクセスできるので 私はコロナ禍が起こってから毎日みてきた。ほゞ2年間にわたるデーターは膨大な量。7日間、28日間毎の国ごとの感染者・死亡者・ワクチン接種の数を見ることができる。知りたい情報を獲てそれをどう利用するか?そこに正確な情報が条件になる。 どこかの国のように 数字を改ざんし、破棄したり、黒塗りしたり、その説明もなく、途中で切ってしまうのとは比べようがない・・・・・。正統とは ”連続性を確保するためのもの” 言うまでもないが そのものが正統な立場であっても、断じて正統ではないという西部氏の真意である。
 どうして こんな事になってしまったのか! 、 ”虚栄心”のいたずらか 他に何らかの理由で 自分でも何が正統かが 判断出来なくしてしまったのか。では法治国家とは何なのか?
 閑話休題・・・
 ☆≪チェスタトンが唾棄(たき)すべき異端としたのは近代を彩るものとしての進歩主義そのものであった≫(上掲文の前段)。

3658:誤解

 世相を諷刺するにも程がある。誹謗中傷、嘲笑、それで満足できた試しなし。方や 散々好き勝手なことをして、一向に満足しないものもいる。 どっちもどっち
 その結末は、人から相手にされず、周りから一人去りまた一人と気が付けば増し続ける孤独感。有頂天からの転落は早い。有頂天は無色界の最上天で非想非非想天。(仏)三界(欲界・色界・無色界)、物質や物質的な思いから解き放たれ、受・想・行・識の四蘊のみから成るという。ウーム?
 【 こころの遍路 尊き教えに導かれ 共に 歩まん 命の限り。】(ナマグサの初夢抄1)
 
     
 初雪の朝、寺の前庭の童子石仏を写真に撮った。いつもなら膨よかな顔が白髪になっていかにも寒そう。口元を堅く閉じ 箒を持ってジッと前を見て立っている。その傍で寝転ぶ幼ごよ。
 時照見五蘊皆空度一切空厄舎利子色不異空空不異色色即是空・・・・・五蘊は上記四蘊に”色”を加えたもの、般若心経の前段にある・・・。普段何気なく 唱える経文は一気に読み終える。
 世界のコロナの感染者総数が3億人を越えた。1世紀前のスペイン風邪(1918~1920)の世界の感染総数が5億人(日本2380万人、死者38万人)だった、コロナ感染は更に拡大するのだろうか?国によって状況は随分違うし その情報の信憑性も疑えば切りが無い。一陽来復、冬が去れば春が来るのを信じ、草木の新芽、鳥の囀(さえず)りを待ちたい。
 ・・・囀りを こぼさじと抱く大樹かな・・・は、星野立子、(高浜虚子の次女)代表句に・・・しんしんと寒さが楽し歩みゆく・・がある。私達は有りの儘の自然を受け入れ楽しみ、感謝するこころが萎えてしまったとは思いたくはない。利用するだけ利用し 後はどうなろうと関知せず。この差はあまりにも大きい。これもまた 一人ひとりの中にあると如是我聞。

3659:ゲーテのことば

 【 人間は努力するかぎり 迷うものだ 】ゲーテ。
 これを どのように理解すればよいのだろう?? 努力しない者が果たして いるだろうか? ・・・等々。 私の10代の頃は 寺と自分をどう折り合い(?)をつけるかという難題にぶつかっていた。誰に相談すれば良いか判らず、只管 それを表に出さないようにしていた。  なんでそうなったのか 良く判らない。だが それが私の原点だと この歳になって確信する。
 恐らく 私が6歳の頃からだったと思う。尚恵養護学園を父が寺で始まった時期と丁度重なる。 そこで出逢った仲間達は 現実に自分に起こっている事をどう思っているのだろうか!子供ごころに気になった。 様々な理由で家族と離れ此方での寄宿生活を始めた。今の人々に当時の状況を語っても通じないかもしれない。開設の昭和31年(1956年)は日本が焼け野原となった戦争が終わり11年目にあたる。彼等と一緒に遊んだ記憶が僅かに残る。屈託のない泣き笑いに接していると、いつの間に一緒にいることに喜びを感じるようになった。
 尚恵学園を今まで支えてくれた人達は数知れない。その思いを形にしたいという提案があって、碑をたてた。神宮寺本堂の真裏の高台に大きな石で【 願一共生 】と彫った。

  記憶は掛け替えのない宝である。意図せず蘇る白黒のスナップ写真、その一枚一枚によって断片的な時間が繋がり 今を観じる土壌となる。
 出来得れば”かまえなく”その時を楽しみたいものです。
  ☆『詩と真実』ゲーテの自叙伝、晩年になって著したもの。
 
  身構えるということは、何かに備え、ある態度をとること。”かまえなし”は作りごとをしない、たくらまないということ。 剣豪塚原卜伝は「戦わずして勝つのが無手勝流だ」と言った。令和の時代を迎え、先行きの不安がより現実味を帯びてきたように思えて仕方が無い。 軍拡は一向に止まず、キナ臭い話はごまんとある。そして 環境問題への取り組み、表裏を使い分けする危うさ・・・・
 世界中がコロナと戦っている最中というのに 白昼堂々と 威嚇、報復、侵略が行われている。何かが狂っているとしか思えない。
 次元は異なるが、時間は同じくして
 今朝、ラジオ深夜便で「明日への言葉」を聴きながら 急いでメモをとった。・・自己憐憫 難病 いじめ もののけ姫 ヨイトマケ 両親・・・・
 今朝の話は米良美一さんだった。先天性骨形成不全症という難病と闘いながら 世界的なカウンターテナー歌手になった彼の話は逆境に負けず前向きに生きてきた実際の話で、随所に人として何が大事かという核心に誘う、聴き手の心に強く響くものだった。
 

3660:オポチュニズム

 定見なく,形勢を見ながら自分に都合の良い方に味方しようとする。言葉にすれば便宜主義、御都合主義、日和見主義,機会主義、そしてオポチュニズム。じゃ~臨機応変や応病与薬とどう違うの?判りますよね、自分の都合を優先するか否か、そのことが果たして適切なことなのか、、”機”や”病”をどう捉えるか、そこがキーポイントじゃないですか。そう思いますが。
 でなければ ”なんでもあり”となってしまいます。前項の米良さんの話ですが、彼の歩んできた人生を想像できる方がどれ程いるでしょうか?世間には聖書や経典から言葉を借りて同じ言葉を使って奸智にたける人・・・宗教も例外ではなく、本来の姿から外れた史実は山ほどあります。でもねエ~そうじゃない方達のほうが多かった。だから今も続いているのだと信じます。 自分の思いを果たせた時が三叉路、有頂天になり 周りが見えなくなってしまう。方や今まで以上に身を低くして歩み続ける人との分岐点。
 
他人は知らなければ それまでのこと、殊更ぶことではない。「自徳を讃じるべからず」の訓戒は私達が障がい福祉から学んだこと。決して甘言ではなく 実相です。
 
 ”矛盾撞着(むじゅんどうちゃく)”、外面にばかり気を配っていると、つじつまが合わず、それを正そうとすればするほど深みに入る。そうならない為にどうすれば良いのだろう?
 相手からすれば絶好のターゲット、組み易しとなれば次から次と山海の美味を提示する。外と内のズレは、自らへの過信が最大の原因・・・、そう判っていながら、周りから持て囃されれば仮想を現実と思ってしまう。この様を昔人は”浮世の性(さが)”と言い遺す。
 ああ言えばこう言う・・・この類は自らを御都合主義と認めず、諫言を遠ざけてしまう。
 ・・・ 己に諫言してくれる者を多くさがすこと。。。。これを醍醐味とすれば 恐れることは徐々に消えて行く。(慈眼視衆生 福聚海無量) 
 

3661:苦と楽

 ・・・他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であるという。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている。(『スッタニパータ』762)・・・
 情報の氾濫によってインパクト(衝撃)の強弱が関心事となり、何が真実かを見極めるのは至難の技となる、釈迦の時代から21世紀の今に至るまで変わらないもの、それは”真理”で、迷うのは”無知”ではなく”無智”であるという。この種の錯綜は随所に見受ける。
 不要なものを捨てられず、身動きできない程貯め込んで、捨てるにも保管するにも金がかかる、そう考えると 少しは解し易くなるでしょうか? 無理かもしれない。我利我利になって亡者の形相になっても気付かないのだから。
”求愛給餌(きゅうあいきゅうじ)”カワセミがみせるツガイの絆と我々人間との違いは? 解し難き真理で自重し自粛せよ。 再びの登場でGDPやGNP、人間が考えた経済の物差し(指標)は さて どうでしょう。都合悪い数字は黒塗りにして辻褄合わせに苦しんだりしていませんか? 
  倒れてもタダでは起きない強かさ。まだ そんな事を言ってる (ナマグサの苦楽一如矛盾撞着一考)
 
 繕うという妙。私は近頃手足が冷えて(傾向)、靴下用のカイロと手袋の世話になっている(対策)。藪から棒にといわれてしまうかも、誰に迷惑を掛けることもなく、いつの間に なんと手袋が急増 それも指先に穴が開いたものばかり、実はスマホやパソコンを使うのに便利、それ用のものがあるのも知らないわけでないが一長一短・・・みっともないといわれてしまうのには勿体ないと応戦し、それならばと 自分で針箱出して繕った。
 相変わらず 軽トラ通勤、荷台に道具を満載し、ゴミ袋をくくり付け、暇あれば昼の巷を徘徊ing。不織布マスクを洗って何度も使った、それは 遠い昔の話ですか?コロナ禍の初期、マスクが売り切れで捜すのに苦労した。今 それを騒がなくなった代りにマスクが処かまわず捨ててある。それを拾っている。なんで~エ そんなことせんでも良いよかよ(突然 どこからか幻聴か(笑)。
   自分の足下は良く見えない、ホコロビもゴミも一緒くた  宇宙開発に夢中になるのも良し悪しですぞ。宇宙からこの地球を見たら、昔なれば”青かった”、いま ”地球は夜煌々と光ってた”。
 カネに浸かってしまった今日、本末転倒、誤謬を探す旅、これを人生行路とするならば  『現代版:暗夜行路』となりませぬか?ねえ 志賀先生。

3662:なるほど

≪ 生物学者の私から見ると、生物の仕組み、ひいては自然界の仕組みは、偶然が必然となって存在している・・・つまり「たまたま」だと思っていたのが、「なるほどね」と思えることばかりなのです≫(『生物はなぜ死ぬのか』小林武彦著より)。
生物ならば 絶滅危惧種、生物以外ならばどうだろう??地球の恩恵を無尽蔵と勘違う、ある時期を境にして資源の消費量が急拡大し、枯渇寸前になって気が付いても後の祭りing? 再生不可能。
 深夜、スマホに非常を知らせるけたたましい音がなった.。日本時間の午後1時ごろ起こったトンガの海底火山大噴火(日本から8000キロ)による津波警報だった。日本に影響がないと発表されていたが、一転して避難指示が出された。日本でも火山噴火による噴石(軽石)被害があったばかりだ。
  現代社会で危惧されるのは「なるほど」と言えるようなことが ドンドン消え「たまたま」というには限度超えての事象が増えている。これは生物学からみて どうなのか?昔人は未知のものに対する”畏敬の念”があった。それが心の働きさえもAIに委ねてしまうような動きは、ややもすれば規範に従う”けじめ”がなくなり、終いにはAIに責任を負わせ,挙ってほっかぶりとなりかねまい。耳障りの良い話に目が無い人達による巧妙且つ狡猾な図りごとは益々蔓延る。・・・・「たまたま」。ウチの猫が「たま」じゃ~なく「吾輩はミイ」だと  厳つい顔して睨んでる。 
 
 一寸先は闇!、一寸の光陰軽んずべからず? 誰も判らないコロナ禍の今後、今まで同様に出来ることと変わらねばならぬことに分かれる。このことは コロナ禍が起こる前から判っていたことです。
 ≪過去、地球には5回の生物の大量絶滅がありました。・・・・これらはいずれも、隕石の落下や火山の噴火などの天変地異が原因と考えられています。現在進行中の大絶滅は、申し訳ないことに人類の活動が原因で引き起こされています。隕石の落下級以上のダメージを人間が地球に与えているのです。≫(前著:p69) 今のままでは地球に存在する動植物で推定800万種のうち少なくとも100万種が数十年以内に絶滅の可能性があるというのです。(『IPBES』報告書)
 謎が解明されると 次に 新たな動きが必ず起こる。でも義務や権利を履き違えてしまっては 何にもなりません。あくまでも 私たちは この地球の居候だと弁えてどうすることができるのか? 「なるほど」と言えるような人生設計図があるか無しか此処が肝心。
 ・・・貸し借り評価で 何が無駄か判らずに 只管目指す 高嶺花・・・(ナマグサ備忘録≪貸借対照表≫)

3663:貸借対照表

 誰だって走り続けたら疲れてしまいます。コロナに≪少し休んだら いいよ・・・≫と 謂われているような感じがします。
 いまほど 先が読めない時代があったでしょうか?情報過多、スピード、グローバル、便利、豊かさ・・・・などの溢れる言葉に多くの人々が”不安”の念に駆り立てられ、安住の場がなかなか見出せない。人間の能力を遥かに越えた変化に人々がアレルギー反応を起こし、それを異常・過剰と思わない・・・・。
 その一つ例証、新聞の片隅にある、首相1日、分刻みの日程を連日続けている。トップの言葉の一言一行に過剰反応するマスコミの責任も大きい。これでは後手後手になってしまうのは避けられない。
貸借対照表は財務のバランスシート、負債と資本に対し資産がどうなのか!これを見ることにより、そこの財務状況を知ることができる。いまワムネットを開けば、国内の社会福祉法人の全ての財務状態がわかるようになった。
 社福収入の大半は 税金と利用者の負担金で事業運営されている。これは国が破綻したら全てが止まってしまうことを裏付ける。社会福祉も50年前と比べれば制度が沢山でき、サービスの中身も大きく変化した。
 良くなったことも有ろうが確実にリスクも増えている。
 世界一の石油埋蔵量を誇るベネズエラの破綻、ハイパーインフレに関して 何故か日本では余り騒がない。恐らく日本においても同様の事が過去に起こったからかもしれません。第二次世界大戦の直後がそうだった。ドイツも同様に・・
 その経験をどう活かしているか ドイツとの違いを良く判っている人は多くはないのではないでしょうか?
 国の形態が違うこともあるでしょう、だが、そう言っておれない状況になっていませんか?ドイツのメルケル元首相は首相をやめた後、政治から完全に身を引いたという。
 
 
 貸借を金銭のみで考えることは、有事の際には機能せず。その根拠は何でしょう。前項のドイツとの比較で 今の日本が立ち止まって良く考えねばならないことの核心がそこです。
 スリランカの故ジャヤワルダナ元大統領の名前を知る人は 今の日本にどれだけいるでしょうか? 恐らく 戦後生まれの人達では少くなったと思います。今の日本の教育の場で 先の大戦について学ぶ機会が ドイツと比べると大きく違ってしまったからだと私は思う。此の儘では 次の世代に戦争の悲惨さを語り継ぐことが誰もできなくなると思います。それでいて”二度と戦争しない”と言った処で果たして若者に通じるか?おそらく 永田町での憲法改正論議が国民に理解されない最大の理由がそこに有ると思います。大切な事を共に考えるということをせず 高度成長を果たした、戦後復興という共通の目標を旗印にして。そしてサンフランシスコ条約(1951/9)も遠い昔のことと記憶も薄れていないでしょうか。
 ジャヤワルダナ氏はスリランカの政府代表としてその講和会議で演説した。(鎌倉大仏殿高徳院に建つ氏の顕彰碑にその時の演説の全文和訳があります)
 氏は演説の中でブッダの言葉”憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む”の教えをあげ、我々はその機会を日本人に与えなければならないと訴え日本を分割占領から救ったといわれています。
 ここに真の”平和への願い”を感じます。我々はその恩に感謝しなければならない。その感謝の思いは 時間と共に薄れます。貸借対照で見えない部分にこそ 人として守らなければならない使命と価値があると思うのです。

3664:立ち止まって?

 今 日本が解決しなければならない問題は、”議論の実を伴わせる”ことではないでしょうか!間口を広げ通り一遍の議論ではなく、国民を含めた議論の場を可能な限り多く早急に考えることだと思います。そして 日本人がいま何を不安に感じ、何を望んでいるかをもっとオープンに話し合うべきなのです。”そんなこと判っている。やっているじゃないか!これ以上は無理だよ”という人達もいることは判っています、じゃ~”何をどのように成したか?それがどれだけ国民に知られているか?”とその人達に問いたいのです。
 民主主義の本来有るべき姿と乖離している実態を その人達は認めたくないのかあるいは判っていないのか。”一億総活躍”というキャンペーンが今どうなっているか説明できる人はいない。 一向に上がらない投票率(世界第145位)もこの儘のほうが良いと思っているのではないかとさえ疑ってしまいます。悪口と褒めごとが相半ばする中で、気が付けば 時代の潮流に彷徨っている。今こそ 日本独自の方向を探り 今後の道筋を世代を超え一緒になって探るべき時だと思います。
 日本が世界有数の地震国であることを日本人誰も分かっています、身近に経験し 自分自身に何時降りかかるか判らないという脅威です。それに対し 国としてどうするか 警鐘をならすだけで 将来を見据えた具体的策が見えてこない。民主主義国家を掲げるのであれば そこが核心でなければなりません。毀誉褒貶に慣れっこになり、何でもありが自由と勘違う。
 ☆ インドネシアが首都ジャカルタを1200キロ離れたマサンタラ(ボルネオ島)に移転することを国会で決定しました。移転総費用は日本円で3兆8千億円、党派を越えインドネシアの将来を考えた国家事業なそうです。日本も 同じ金をかけるならば今何が優先されるべきかを国民に諮るべきです。
 
 立ち止まり 振り返ってみませんか? 投票年齢を20歳から18歳に下げた日本の選挙制度、果たして 何を狙ったものだったのでしょうか?彼らが自らの意志で投票するだけの充分な環境が揃っているのでしょうか?
 器を広げ、中身が見えない。と言ったら偏見でしょうか! 新しい制度にして、このように変わった・・・という話があまり聴こえてこないのは 何故だと思いますか? 今後も今の制度を続けるのであれば、次の世代に何を託せば良いか その辺から議論を初めてはどうなんでしょう。その為の参考になれば(ユニセフ・SDGs CLUBホームぺージ)を御覧になってみたらどうでしょうか?直面する問題が判り易く説明されています。
 インドネシアの首都移転決定は誰が 何の為に 何を考え どう実行するか  ということを私達に啓示してくれていると思いませんか? 一方 日本の状況は その辺りに難があるように思えて仕様がない。
 議論の実を上げましょうよ。

3665:古き良き時代

 ”温故知新”・・・先が読めない今日だからこそ、昔の事を調べ、新たな道を拓く、その価値があると思います。それには身近なことから始めるべきと思う。寺の周辺は、昔と随分様変わり松・杉・雑木が伐採され、住宅が建っている。ある方に謂われた「随分家が増えて 檀家が増えて良いでしょう・・・・」、瞬時に思った、寺をそのように思っているんだ。ヒトの気持ちは単純ではない。私の中で”古き良き時代”は、精々50~70年前の記憶、それは”高度成長”右肩上がりで日本全体が浮かれていた時代だった。その影響が今になって出ていると私は感じる、親と子の関係や先祖を敬う気持ちに変化あり。決まって「じゃ~ どうするんだ?」という思いに浸る。実はこの繰り返し。
 生物学からみると”死”の捉え方が変わるという。”生物はなぜ死ぬのか?”という問いに、”次の世代のために死ななければならない””多様性のために死ぬ”と衝撃的な文言に揺れた。例をあげ、親から子に命を託すこと・・・サケは産卵すれば自らの一生を終え、体は他の生き物のエサとなる・・・これが生物学でいう「変化と選択」で、これにより種の保存を続けてきたとする。サケが死をどう考えているかは 恐らく永遠に判るまい。その代わり”死”がヒトにとって最大の関心事となっている。何億年か前に哺乳類からヒトに変異し今がある。近年、ゲノム解析が随分進んでいるようだが入口でそれ以上まだまだ踏み込めない。
 これは、仏教の輪廻転生の考えに通底する。 ”古き良き時代”というのも変化して当たり前、せめて 人の思いやりや優しさが妙な媒体を入れずとも、直に感じられる時代をできれば選択したい。。
 
直視!・・・「建設工事受注動態統計」不正疑惑!におもう。 他と比べても仕様がない、ただ、今の霞が関や永田町はどこかが狂ってしまった。誰が 何の為に 何を考え どう実行したのかという疑問をそのままぶつけたい。今回も前と同じく 関係する省庁の一部職員の責任で終わらすつもりか! 貴方たちは 嘗ては選ばれたエリート達だったはず、そのプライドは一体どこにいってしまった?世界中がコロナ対策で必死になっている時に水をさすような事をしてどう考えているのでしょう。日本円で4兆円と言えば、インドネシア政府が世紀の国家一大事業(首都移転)にかける金額よりも多い。行ったことの影響は計り知れない!
 この病巣は重篤です。こんなことが昔から行われていたとは思わないが何らかの力が働いているとしか考え難い。
 一生懸命頑張っている方達の足を引っ張るような行為を 誰が 何の為に 何を考え どう実行したか。やるせない。
 

3666:饗応(きょうおう)

 「憎しとは思はれけれど、その座にては饗応し申して・・・」(大鏡)  忖度・迎合を調べていたら”饗応”という字に出合った。供応に同じ義、大鏡は四鏡の一つ平安後期の歴史物語である。鏡物の鏡は歴史の意味、当時の煌びやかな栄華や世継ぎ問題を物語る。 平成~令和の時代を鏡物として表すと さて どうなるか? 不図 そんな事を思い描く。100年に一度と言われるパンデミックは当然一つの章を成すだろうが、それ以外はどうも浮かばない。生物学や歴史学はデーターをもとにした学問、そのデーターに信頼が持てなければ、もはや”バーチャル”、仮想物語にしかなり得まい。平安時代の初期、空海や最澄が仏教界に登場し仏教の真髄を学ぶため遣唐使で決死の覚悟で大陸に渡った。
残念だが、そういった人物は昨今なかなか見当たらない。出家や還俗は その人となりをあらわす。方や自らの引き際も決められず、頼まれもしないのに己の徳を讃ずるとは。隣国の間近に迫る大統領選挙、候補者が会見場で土下座して謝罪する。その様は異様にうつった。それよりいい加減にして日本もトップを選ぶのに直接国民が選ぶようにしないと駄目だ!国民のためと言いながら 視線は同僚議員の方を向いている、此の儘では無関心層ばかりとなってしまう。退任後収監される隣国とは、責任の重さが大きく違う。トップ自ら範をしめさなければ 失った信頼を再び得ることは難しい。・・・・ 居た堪れず・・・ 。
 
 嘆いてばかりはいられません。勿論 そうだ!2年以上耐えたコロナ禍、それでも予期せぬ事態に対峙せざるを得ない。しかも誰もが同じリスクを負っている。
 ヒトは一人として同じではない。感性・理性・悟性・・・それら纏めて無、敢えて言うまでなく”無”ではない。言葉は、そのヒトと場と時によって響きが変わります。そう思えば 今 私達が置かれている状況も、いつかは変わる。
 横川の恵心院に住し、『往生要集』を著した源信が道に迷った、その時、母の箴言・・・・≪後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ≫・・で一変する。

  一緒に落葉集めをしてくれるKさん、今日は一人で空き缶の水洗いをしている。≪ 寒いのに よくやるね~≫と声をかけると手を挙げて応じてくれた。彼は 年老いたお母さんのことをいつも気にかけている。正月や盆休みの帰省が楽しみで ある時 新聞の広告を私に見せ これをお母さんに買ってやりたいと訴えてきた。彼は言葉を発することができません。夏にエアコンもなく生活している母へ身振りで示す彼の優しさ。直ぐにお母さんにその話をすると≪良いんだよ そんなことしないで 大丈夫!≫といって実現はしなかった。
 ”饗応”の”饗”は ”郷”に”食”!・・・・少し頭を冷やして・・・。

日向ぼっこ

   生きているということは 誰かに借りをつくること
       生きていくということは その借りを返してゆくこと
            誰かに借りたら誰かに返そう
                   誰かにそうして 貰ったように
                       誰かに そうしてあげよう

                     ・・・・・永六輔さん『生きているということ』・・・・・

3667:文化遺産

 文化は人が生きていく上でのバックボーン。時間をかけて人々が習得・共有・伝達されてきたものを文化と考えれば その価値は高低・優劣の差はなく、それぞれに個別の価値があると言えまいか。
 現実には複雑な利害が絡み退っ引きならない状態に置かれてしまったものも多い 。連続して起こった 医師殺害事件は この現代社会がもつ病巣とその異常性をあらわしている。人として守らなければならないことまでも自分の都合で簡単に破ってしまう。好意がかえって仇になり、報恩が報復に掏り替わるとは世も末だ。この兆候は やまゆり園で起こった大量殺人事件の犯人の言い分にみられた。
 文化は学問・芸術・宗教・道徳など、人間の精神的な活動から生み出されたものだとすれば、文化を考えることで、人間の行き過ぎた行為をどう修正できるかという解決の糸口がみいだせないだろうか 世界文化遺産への申請について、日本と相手国の主張の隔たりは大きく、矛先はあらゆる方向に向けられる。政治利用するなと相手を謗るが、よく考えれば 自らも政治判断せざるを得ないという自己矛盾。
 仏教で『有無の見』という教えがあります。有見と無見、いずれにも偏らない中道が真理とされる。(『大智度論』)※
 
 犯罪は いつの時代にも起こり得ること、他人を危める行為で最悪なものは戦争。急速に情報社会になって屈折した心理が勢いを増していると感じる、 人を道ズレにして自死するという言い分は 一方的で到底受け入れることなど出来ない。
 「自分が生きた証」として社会に跡を残したいというのであれば 他に方法はいくらでもあるはずなのに 何故こういう考えをするようになったか理解できない。損得計算が社会の中に蔓延すれば、常軌を逸した事象は減ることはない、人は必然の死をも損か得かで判断する生き物なのでしょうか。”経済第一”というアドバルーンに私は 言い知れぬ危うさを感じている。それは第一という言葉の響きに”ルールを越えた価値”があると思ってしまう恐れ。
 トップリーダーが国民の様々な疑問に対し 丁寧に説明責任を果たしてきただろうか!もし 斯様な流れが固定化するような事になったら  ・・・・・。コロナ禍が我々に与えた課題は「経済か自粛か」、その議論に国民がどう加わってきたか、(with 国民)そのことへの評価はまだ出せない。
仏教で説く六大煩悩とは、貪欲、瞋恚、愚痴、驕慢、疑,悪見である。六つの中で六番目の悪見だけが知性的な煩悩で他は感情的なもの。悪見の根底に常に我我所の見を考えていると説く。人間は人間らしく生きてこそ人間であるとの教えをどう解すれば良いか そのことがいま問われてるのだと思います。

如月にそっと・・

     この混乱した日々のなかで 小鳥たちはいつも 澄んだ目をして 迎えてくれる
         野の花たちは 昔と変わらない微笑をおくってくれる
           
   早く目を覚まそう   早く挨拶をかわそう

                         
・・・・坂村真民・・・(円覚寺:参道掲示板)


3668:教えの中に

 寺の周りの環境が移り変わっていくのを感じます。墓地のある西側を除き三方は急に変わっている。コンビ二の灯りが身近に見える。こんな風になるとは想像したことも無かった。市の広報車が≪イノシシの出没≫を知らせまわる、注意を促す立て看板がいくつも立てられた。
 散歩する人の多さ、道脇と参道に六地蔵がある、前で立ち止まって手を合せる人も増えた。”いのり” 昔から好日でありたいと神や仏に願った。忘れかけていた事を不図思い出すのは何かが働いていると思う。その何かがなにか?上掲した真民さんの詩から 浮かんでくるのは 小鳥や野の花と自分たち、永さんの言葉からは生きているということを想わせる、そこに我意はない。
 仏教の基本である”無我”を詠んだものだろう。万物に不変的な本質はないということ(空)。そして煩悩や妄執が苦の原因とした教えである。(我我所の見
 懺悔と感謝は表裏の関係、そこを履き違えれば 支障をきたす。いつの間に澄んだ目や微笑は消えて、ゴマすりビトに囲まれ苦笑する。貴方は それで良いんですか・・・・・色即是空 空即是色 ・・・・

 

3669:通史

一枚ずつ色紙に名を記した。その数も毎年増えて、今年は古希3,還暦2,喜寿1の計6名分。拙筆だが それで良いというものだから 続けている。皆さん一人ひとりの通史を辿って・・・・
 私は今年72歳になる、懺悔と感謝、この言葉に全てが内包される生の通過点、親からもらったものだから それを返そうと自問自答をくりかえす。 彼等を仲間達と呼ぶ資格が私にあるのだろうか? 自信を失い、無性に叫びたくなったことも、今では懐かしく、一つとして捨て去ることができない大事な思い出となった。
 未来を予測したとて、自分の目で確かめることもできない。・・・・。恐らくこれも”妄執”こだわりだということだろう。それを教えてくれた”仲間達”、この世に生を受けた誰しもが何らかの役割をもって生まれてきたという仏教の教え、20代の頃、仏教社会事業などと大それたことを担いだ割に 未だ入口にも立てていない自分を”懺悔”、そして”我意”のない無垢な生き様を見せてくれる彼等に”感謝”。
 ☆≪古希≫・・・・「人生七十古来稀」(杜甫) 70歳まで長生きできることは 昔から稀ということ それだけ貴重だと。そして≪喜寿≫77歳へ向かって生きる。
 
 裏方のサポーターになろうと思った。でも 適わぬ夢ならば、裏でも表でも構わない、前を向き歩こうと天なる声(?)に従うべきでしょう。老後 悠々と暮らせるような人は一部だけ多くの高齢者が不安を持っているのが実態ですよ。真の定年は、誰もが望むと望まぬにかかわらず必ずやってくる。今のこの国で定年制など意味がないと謂ったら言い過ぎでしょうか?
 ≪・・それを繰り返しながら大きくなっていくと、何となく肥大化している自分と、全体的な社会性が欠如した人間とか、あるいは、根拠のない万能感と言いますか、自分は何でもできるというような人たちが生まれてくる。他人に無関心で、お互いに交渉をほとんどしたくない、そんな大人がどんどん増えてきたら、いったいどうなるだろうか・・・≫(『日本の宿題』半藤一利。NHK出版)。これは ネット社会が若者に及ぼす危うさ、自分のこと以外は全部無関心になってしまって この国はどうなるのだろう?・・と。丁度一年前、90歳で逝去した「昭和史の語り部」半藤のラジオ深夜便(2005年)でのアーカイブ。新書本の裏表紙には・・・「戦争というものは、本当に人間がやってはならない一番最大の悪だよ」ということを繰り返して言いたいと思いますね・・・とある。
 この音源は17年前のものを再現している。どうでしょうか! いま世の中はコロナに翻弄され、本来の日本の望まれる姿を若者も含め議論する環境が育っているでしょうか?
社会性は共生への願いと実践が条件だと思います。経済やコロナを第一とするスローガンに私にはどうしても二番煎じと感じてしまう。この国が世界で果たすべきことは『平和』を基軸にした社会の実現だという事を今こそ昭和を知る大人達は覚悟し、それぞれの立場で実行することが大切だと思いませんか。


3670:ま~だだよ

 ”もう いいかい。ま~だだよ””福はウチ 鬼はソト”立春は過ぎた。近所から豆まきの声は聴こえない。自粛生活も長くなり、世の中どうも元気がないのは今の状況を物語る。自分だけ 日本だけということが通じないことを判っていても 他国と比べてしまう。節分は季節の変わり目、イワシの頭、柊(ヒイラギ)は玄関先の魔除けの飾り物、豆まきで悪疫退散、招福を願う。父親が鬼になり、≪泣く子はいねか!悪い子はいねか!≫。子供たちは≪もうしない やんない≫と泣きじゃくる。、このような昔からの行事が段々消えて行くとしたら寂しいよね。春の訪れをジッと待っている今の気持ちを大切にしよう。
 感染者が依然として減らないヨーロッパ、自粛を解除する動きが出てきている。それが無謀でなく 科学的な根拠があるという。①医療が逼迫していない②ワクチン接種と検査の体制が整っている。一様にこの2点をあげている。 そうすると日本はどうなのか? 皆で懸命に様々な試みをしてきたが そのどれもが中途半端になっていないだろうか、ウイルスの変異についていけないことを理由にしているが問題は実態を どこの誰が検証するのか、ワクチンや検査キットの手配が国全体に充分用意され且つ徹底されているとは言い難い。
  個人的には自粛の2年間で格段に読書量が増えた。数冊の本を併読、今は『日本人の宿題』半藤一利。『挑戦・・常識のブレーキをはずせ・・』山中伸弥・藤井聡太を読んでいる。
 望まれるリーダーは、あらゆる状況に於いてケジメを付けられる人でなければならない。これは古今東西揺るぎなき鉄則。コロナ禍で確信した方も多いだろう。
  ☆・・・・・「うちつぎて、世の中のまつりごとなど、殊にかはるけじめもなかりけり」(源氏物語「若菜下」)・・・・。☆   
 
 10代の藤井聡太さんが 将棋界で大活躍している。その彼とノーベル賞を受賞した山中伸弥さんの対談が本になり、直ぐ申し込んだらその日に届いたのには驚いた。早速 本に目を通す。副題に”常識のブレーキをはずせ”とあった。読む前から何かの予感、これは読み解くには時間がかかると思った。
 IPS細胞研究とAI将棋のお二人が相手の事をどのよう思っているのか興味があった。・・・・常識にいくらかでも近づくようにと考えている私には、常識のブレーキをはずせというのはインパクトが強すぎる。もう一冊の”日本の宿題”は昭和史の半藤といわれNHK深夜便に何回も出演してきた。その対談記録、”戦争”は人間がやってはいけない一番最大の悪”と自らの実体験と識見をもって私達に語りかける。コロナ、ウクライナ、オリンピック等々、・・・・今 世界中が大騒ぎしている、疫病の拡大、キナ臭い軍事衝突、そんな中で開催されるスポーツの祭典 唯でさえ心落ち着かない状況にあって、この先の指標になればと期待する。