源究188

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 3271  一週間  4/18  3276 工夫に落つ  5/17  3281  今世を生きる 5/31 3286  コトバ  6/17
 3272 令和の時代   5/1  3277 一人相撲  5/19  3282  ホトトギス 6/5 3287  長幼のけじめ  6/19
 3273 朗笑康岳居士   5/7  3278 環境と生き物   5/24  3283  検証の真偽  6/9 3288  条理  6/21
 3274 多元主義への?   5/10  3279 数の正当性   5/27  3284  文明病という病  6/11 3289  されど・・・  ☆
 3275 見極め   5/13  3280 彷徨   5/29  3285  予兆の根拠?  6/14 3290  愚痴 with 心眼  ☆

3271:一週間

諺に≪人は病の器≫というものがあります。それは・・・人はいつなんどきどんな病気にかかるか判らないという意味です。丁度、一週間 入院することとなり 本日 無時帰還しました。時間が経つのが早いというのが最近の口癖でした。それが1週間168時間が長いのなんのって また1時間がこんなに長いものかと痛感しました。
 これだって 誰の所為にすることもできない、自分の不摂生 からで因果応報、私の場合 循環器系の病で 体の核心、心臓の不調、実はこれも 偶然に判ったのでした。それから 検査 治療の為の入退院を繰り返す。そうなってから まだ 1年が経っていない。
 今回もそうだった。過信が災いとなったと思っています。身の程知らずで 調子に乗って、毎日竹林の掃除やら杉丸太の皮むきと連日働きづめと無理をした、体が悲鳴をあげていたのかもしれない 11日の早朝 それが一気に出た。通院、その日の内に手術、狭窄している血管への治療、CCUに2晩、一般病棟に5泊、そして本日昼前に退院の許可が出て病院から解放されました。
 168時間の不自由(?)、その苦しみは 正直 体験して 初めて判った。 人は環境によって諸に影響を受けることを思い知らされた一週間だった。体調には波があり、今日良かったから明日も大丈夫とはいかない。一喜一憂しながら 結局は自分のいたらなさに還る。
 見方を変えれば不自由な生活の中にも 今まで経験しなかったような 新たな発見は幾つもあった、一番は人の本当の優しさがどう言う事かということ。
 もう この年齢になって病を隠し立てしても仕様が無い 一病息災ということもあるからオープンでいこう! ただ 今後は あまり周囲に心配をかけないようにするのが 大事かと。
 未だ 頭の中が覚醒しきれていません。また 独言を懲りもせず 続けようかと思いますが これも 辞めたらと言われれば ちょと 考えねばなるまい。 天の声に 傾聴 敬聴!

3272:令和の時代

 5月1日、新しい元号(令和)になりました。TVでは 天皇御即位に関連する番組が一日中流され 日本中が先(平成)の天皇皇后両陛下への尊敬と感謝の気持ちを共有し 期待を持って新たな天皇を迎えました。
 元号 ”令和”の意味は  戦争の無い 平和な日本を願ってつけられたとの事。 その新しい時代に期待を持って見守り 我々大人たちの避けられない次世代への責任だと強く感じます。
 大変な責任ある御立場で両陛下のご健康を日本国民全てが願う、そして ご活躍をご期待申し上げます。
 
  大分昔の話になりますが つくば市で開催された第16回アジア知的障害者大会で尚恵学園のベル演奏を両陛下の前で行ったことがあり、今回某新聞社よりその時の様子を聴きたいと連絡がありました。つくば国際会議場の大ホールのステージで両陛下の目の前で緊張しながら演奏したメンバー達は現在も元気に過ごされています。そして、皆さんで この度の天皇皇后両陛下のご即位を 心より喜んでいます。
 
 
 ”同病相憐 同憂相救”という言葉がありますが自分が その立場になって 初めて判ることだと思います。考えて見ますと 私は社会人となってから 障害施設で働いた経験しかなく 正直 他と比べることは出来ないのですが それで良かったのかな~と今 つくづく感じています。そして 僧侶との二束の草鞋を履き続けて来ました。振り返ると 周りの状況は随分変わったと思います。父が始めた頃と比べ スタッフの数は10倍、利用される人たちも随分多くなった。当然 次々に起こる出来事への対応で毎日が過ぎて行く、そこで判ったのが 一人では何もできないことです。 それと良かれと思っていたことが 本当にそれで良かったのかという検証の難しさです。ただ世の中は大分変わりました。 この先 この国が どのようになっていくのか誰も判らない。
 だから現実を直視し それに向き合っていくことが 唯一の道だろうと思います。 大切な事は 時代がどのように変わろうが 変わってはいけない事が有るという事です、この核心を見失いたくないとの思いがより強まった気がしています。
 10日間の連休に日本が入り、旅行や趣味の時間を楽しむ人がいれば 仕事があって 連休とは関係のない人もいます。ただ その代休が保障されていることは 私達の仕事が決して世間が言うような3Kやブラックではないと言う証だろうと思うし 持ちつ持たれつの関係の大事でしょう。
 私は 今 静養を兼ね、友人から読む様に奨められた『無私の日本人』(磯田道史著)と献本された『フィロミナの詩がきこえる』(中澤健・中澤和代著)を連休後半に 読もうと思います・・・・・・。
 
 
 早朝の3時半 枕元の携帯が鳴った。入院中のOさんの血圧が下がり厳しい状況だと病院から連絡が入り、今から病院に行ってきますとのスタッフからの電話だった。その1時間後、Oさんが息を引き取った事が知らされた。
 8時、病院から園にOさんは戻った。神宮寺客殿に寝かされ、彼の長い長い闘病生活が終わったのだ。安らかな寝顔、そして走馬灯の如く 彼との思い出が浮かぶ。枕元で経を唱えようとしても声が出なかった。4歳の時にOさんは尚恵学園に来た。持ち前の明るさや剽軽さは今年54歳になるまで決して失うことは無かった。
 命の尊さは 誰にも保障されるべきです。福祉の現場は 日々 その営みの繰り返し、彼は 2日後、仲間達とお別れ会を行い 幼い頃 良く遊んでくれた町田さんの眠る 尚恵学園の墓地に埋葬される。合掌!

3273:朗笑康岳居士

 Oさん。貴方は2週間程前、床屋さんが園に来て散髪してもらうため 病院から一時戻ってきました。その時私は病院の中、後でその時の様子を聞かされました。” 多分 みんなとお別れに来たんだよね”と誰かが話していた。”だって 手振りで自分は戻って来たんじゃない。また病院へ戻るんだと言っていたもの・・・・・” 肝臓の病気が判ったのが今から20年も前だったと思う、それから 彼の病気との闘いが始まった。数年前からお腹が異常に膨らんだ。自分のお腹を見せて大好きな先生の子どもだと 得意そうに言っていた。主治医からは常に病状の説明は受けていた。根本治療は難しいから どうしますか?その返答に迷う。彼は 天涯孤独だと思っていたのが 妹さんがいるのが判った。連絡すると直ぐに妹さんとの面会が実現できた。その時の彼の表情を今も覚えている。
 私は福祉という言葉が今の儘だと この国から消えて行くように感じています。サービスをお金で買うという制度となり、一人の人間を介護度や障害程度でランク付け、報酬は 自ずとその程度によって決められる。更に 他業種と全く同じ仕組みで大規模化して効率化をはかることを良しとした。これは終身の安心とは 程遠く、経営と運営の狭間での矛盾の拡大、それを 最早、修正することはできまい。果たして これが盛んに国がPRする”一億総活躍”ということになるのだろうか?
 行き過ぎた個人主義や経済第一主義に打つ手なし。Oさん 貴方は4歳の誕生日を過ぎて 尚恵学園に入所した。当時の写真を見ると 貴方はいつも職員の傍にいました。養護学校義務設置の前で園内の特殊学級で学び その後 和紙班で作業を続けて今に至る。尚恵学園でGHが出来始めた頃、私たちは貴方の気持ちを尋ねた。貴方はGHに行きたいとは最後まで言わなかった。その代り、忘年会や新年会では いつも 盛り上げ役を引き受けてくれた。壇上に上がり≪いいか!やるぞー!エイエイオー≫はいつもの宴会閉めの言葉でした。・・・・続く・・・・
 
 今こうやって おぼろげな記憶を辿り 貴方と過ごした時間に思いを馳せる。自然と涙が出て 字がぼやけてきます。世間では人生100年時代と どこか誇ったような挙動に私は違和感をもつ。彼等の生き様をずっと見てきた ハンデイをものともせず懸命に生きている姿は 決して大袈裟に誇ったり、嘘で飾ったものではなく有りの儘で 表裏がない。真似ようとしても とてもできないこと、それをごく自然体で、 私達は何度も何度も彼等から見せられてきました。
 自由や尊厳、平和や共生、 こういった言葉が溢れかえる今 逆に人は何を信じて良いのか判らず、彷徨っていると思えて仕様が無い。刹那主義や自虐的考えに自分を追い込み、真の個の尊厳とは何か?平和とは?ということに無関心になっている。 戦後日本人が失ったもの&先延ばししてきた事で最大のものが 実はここにあると私は思います。
 本当にそれで良いのですか? 皆が皆 口を閉ざし、真剣に議論することを避けているようにさえ感じます。
中澤夫妻の書かれた本『フィロミナの詩がきこえる』(ぶどう舎)を読み、何カ所かに赤線を引いた。そこには・・・・障害福祉実践は平和運動だ・・・・(P180~)と書かれてある。

「抜粋」・・世に唯ひとつの平和への道は、障害福祉実践だと私は思っている。つまり、「福祉}だ。福祉とは。困っている人や弱い人を守ることだ。より弱いいのちであれば、よりつよく守らなければならない。そこには損得はなく、基本的にはお金のやりとりもない。困っている事実や消え入りそうという状況に相応しい優しさが必用になる。そのいのちに消えてもらっては困るというひたむきさと言っても良い。ただ生き延びれば良いのではなく、よく生きる、持ち味を発揮して生きることに大きな意味がある。・・・・・。
 
 
 上記で太字にした箇所は 強く共感する言葉だからです。朗笑康岳居士・・・・仏教は授戒名で その人の生き様を表わす。朗らかに笑う。皆で選んだ遺影も そうだった。
 輪廻転生 こんな話が交わされた。≪今度生まれてくる時には もっともっと幸せにね・・・≫ 仏教は 歴史の中で 様々な変遷を繰り返した。また、こんな話が交わされる。≪Oさん 向こうに行ったら 一緒に過ごした仲間達が待っているからね≫。
 花入れが終わって棺の蓋を閉める時、≪ダメ ダメだ。閉めないで≫と叫んだTさん。最近は痴呆が進み歩くのも困難になった彼が正気に戻った。棺を車に乗せる時、大声をあげ 泣いたNさん。園を出る際に、『エイエイオー』と皆で叫んで見送った。
 一人ひとりがその人らしい方法で 仲間の死を悼む。ここにこそ 我々の営みの大きな意味があると思います。
 

3274:多元主義への早鐘

 民族・宗教・・・・外交、一つの原理でそれ以外は受け入れないという考え方は危険、方や 多元主義への価値が見直され、SNSやAI技術の開発進歩と共に、その勢いを増している。良く考えてみると それは人間の能力への過信ではないかとも言える。困ったことに人間の自制力や判断力は 寿命がどんなに延びようが然程変わりはない。幼児が欲しいものを地団駄踏んでせがむように形振り構わず己の意志を通そうとするように。
 日本語の 有言実行という言葉に一言、これは言ったことを実行する意味だが確かに過去には傑出した人物で その名に相応しい人物がいた。今は そうでない人間がそこだけ真似ている。 どうなってしまっているのか ドサクサ紛れに強引に強行突破?を力と誤解、それに トップリーダーで公言した事を簡単に変えても己の正当性を恥じる事もなく 堂々と言ってのける者あり。その辺りを衝かれれば 知らぬ存ぜぬと言い訳並べ 他人の所為。結局 器が小さいというのか己の為に汗をかくだけと思われても仕方あるまい。斯様な人物をメデア(本来、早鐘の役目)が挙って持ち上げたりするから 最早つける薬が無くなった。
 多元主義を穿った見方をすれば 日和見主義に通じる、二股どころか何股もかけ、シャアシャアできるのが理解できない。その類の人間は相手を どう考えるか! だからだろう 心から信じ合えるものが周りにいない事を認めようとしない。
  トップリーダーの責任の一つに いつの世でも自分の在任期間に良き後継者を育てることがある。いつまでも 自らがその地位に止まることではなく、いずれは禅譲( 引き際)する時に その人となりが見えてくる。
 戦争を二度と繰り返さないという誓を守る。これこそが 窮境の日本人の願いであり それが出来て初めて国民に寄り添うということになるのだと私は思う。
 
 ポピュリズムの解釈には、二通りあると言います。肯定的な意味では人民の意志を最大限に尊重し、大衆主義・人民主義と言われる。逆に否定的な意味では 衆愚政治や大衆迎合主義。何故このような真逆の解釈があるのでしょうか?
 恐らく 歴史から検証し 最悪の事態(戦争)に至った事由により判ぜられたこと、それも絶対ではなく 流れである。それでは 流れを止めるクサビはどうなのか? 核兵器が戦争の抑止力となるか? 核兵器禁止条約に日本が不参加なのは、アメリカの核の傘という日本の安全保障を脅かすことになるとの判断、現実に世界の流れは 新たに核開発する国と既に保有している国との現実をどうするか その実効性が問われている。
 要は 国の安全という重要な問題の議論が秘密裏に行われてきたのがこの国の実態です。時々の政治判断に任せるか否か。ここに至って私達に疑問を抱かせるような言動が政治家に多すぎた。箍が緩み 政治への信頼度は 実際に公表される数字そのものへの不信となっている。日本の政治形体は戦後一貫して民主主義を続けてきました。その間 世界の潮流は大きく変わり、大国と小国の格差や富裕層と貧困層の2極化の拡大がある。科学技術の進歩は一時の停滞も許されず 地球上でのグローバル化を止めることはできなくなった。
 国と国の軋轢は 嘗ての思想や政治形体というより 現実的な経済活動から問題が派生する時代になっている。人間の飽くなき豊かさへの追求は環境破壊という代償を払っても済まない。このままでは この地球がもたないという警鐘が鳴り止まない。
 総じて 均衡あるバランスが崩れ、その原因となる問題を見極める機能が働き難い時代となった。
 

3275:見極め

最近  情報の信憑性を見極めるのは益々難しくなっています。大国の大統領のツイターによって 株価が乱高下、こんな有様を10年前に誰が想像できたでしょうか?溢れかえっている情報は 、SNSというインターネットを使った便利(?)な交流手段で地球上どこにいても交信が可能となった。それに関連する犯罪も急増、 目の前の出来事が現実か仮想かさえ判らない。忌々しき異常事態と嘆いてみても 無視され置いてきぼりにされるのが落ちだ。
 どこまでこの風潮は続くのだろう? 国の形は 今までのようにはいかないだろう! EU統合、これも画期的な出来事だった。共通の貨幣をつくり 人の往来も自由にした。その目的は平和と共存・共栄、経済大国との有利な競争を可能にするためで28ケ国が加盟し統合を行ったわけである。元々の国の存在を認める二重構造は国間の格差を埋めるまでには未だ至っていない。 勿論 伝統文化や自然は簡単に統合することはできない。両立させるため どこで線引きするか その判断が難しい。アフリカ移民の受け入れについても 多民族国家が今に始まったわけではないヨーロッパで 余りにも急激に移民が増えたことの問題が表面化している。
 一方で日本の実状は どうか? 正直 焦点が定まらず 次々に起こる問題に、その場凌ぎの対処を繰り返しているとしか思えない。日本の近代化は 明治から始まった。進んだ西欧の制度を取り入れ 誠実&勤勉という日本人特有の国民性をエネルギーに発展してきたわけで その間、2回の世界大戦に巻き込まれ 壊滅的打撃を経験した。いま 問題にされているのは 教育の在り方、なぜか 義務教育の中で戦争の体験を教え一緒に考える場が他国と比べ少ないと感じる。 制度の見直しや無償化など 外堀を埋めることに熱心だが 核心になる教育の中味については 今もって曖昧さを温存している。
 この責任はハッキリ言って我々大人達にある。特に この国の政治に携わる人たちの責任は大きい。 その政治自体が おかしな状況となっていないでしょうか? 三権分立の原則が崩れ その不安を払拭できないのは 何故か? タテマエを気にした議論が多すぎること、それに 物言わぬ人間が増えすぎたことではないでしょうか。
 
 教育の課題には大分けして 家庭教育~学校教育~社会教育というものがある。その枢軸には 時代がどう変わろうと人間教育、どういった人間に育って欲しいか!にある。 教育現場から現状への是正要望が出始めていると知る。中高一貫教育という試みで 急に学力が向上し 県内トップクラスの進学校になった成功事例、すると どこもかしこも それを真似ようとする。義務教育が予備校化して 闇雲に偏差値を上げることが主なる目的になる。これに現場の危機感が出る。公立校がこうなってしまっては私学は死活問題、少子化の中で生徒募集が更に厳しくなる。ドイツはヨーロッパでも教育に対し 国が明確な方針を持って行われていると言われます。大学の授業料の無料化を初め 現行の日本と比べ 数段先を進んでいるように思う。恐らく ドイツが過去の経験をどう活かすかという捉え方が日本とは違うことの証かもしれません。
 ドイツは税の割合が日本とは違うかもしれぬ。でも 厳密に計算すれば 日本での公的な負担割合は 消費税8%→10%の議論云々以上に負担が重い事が判るだろう。これは 税率だけの問題ではなく 医療費や教育費 保険料など全ての支出の精査が不可欠、安心と安定、無駄の排除、・・・・・一部の成功事例だけを並べここまでやっているという手法は因循姑息と言えまいか
 我々は生活自衛のため 支出を押さえ 将来への蓄えをしなければならないと考えなければならない。これが問題だともっと消費に廻せという。もしかして国の借金を 個人の貯えで代替わりしようとしているのではないでしょうね。おかしい~んじゃないの ? 不信感の病巣はここにあると思わない?
 常識が非常識になっていないだろうか。 さだまさしが唄う 風に立つライオンでの どこかで 道を誤った♪という真意だと思う。
 
 
 いい加減や塩梅をつかむことが難しい。過剰や無駄から モノの価値や大切にあつかうことを忘れる。それが当たり前になると 更にエスカレートして、その上の刺激を求めようとする。神道の中今や仏教の中道の教えは 恐らく 人間の本性を前提条件にしたもの、その視座がないと 何の為 誰の為という根本を見失うという教え(智慧)だと私は思っています。米中両大国の攻防は 妥協点が見いだせない。その状況に世界中が振り回され静観している。覇権争いは当事国だけの問題ではない。ある時期 日本は国策として人件費の安い外国に工場を移した。原発や新交通網技術の輸出を推進したが 結果は思うように進まない 企業は 生き残りの為に 法人税の易い国へ本社を移す準備、それを察知した政府は 法人税の減税策を打ち出した。そうこうしている中に 肝心の働き手がいなくなるという現実に直面。この齟齬は 予測できたことだが 少子化や高齢化ということを理由にあげ 自らの力不足を認めない。
 認められないのかも知れない。誰がやっても変わらないという国民の諦め感が蔓延することを覚悟の上で。この状況判断はどうも間違っているようだ。 
 

3276:工夫に落つ。

 
 上のスナップは 観音寺の境内の新設のベンチ、器用な職員が作った。アイデアは不器用な私、偶然に杉を伐採した地域の方から無料で頂戴した。最初は勿体ない! 出来栄え満足。試作品を何度もつくり、結局 最も単純な形になった。周りの環境が急に変わった。住宅がドンドン建つ。最近まで犬の絶好の散歩コースだった裏道は 朝晩の混雑時の迂回路と化した。境内の鐘楼周辺には 芝(?)庭の絶好の遊び場、地域のボーイスカウトの集会場所に提供、その一角にベンチを備える。
 憩いの場所、秋の紅葉、イチョウ落葉の黄色の絨毯、四季折々に花が咲く 前から描いた場に少しずつ近づいた。
今は 然程 騒がれなくなった”地域貢献” 花火をあげ 派手なことより 目立たず さりげないことを選ぶ。その一つが 環境整備、花を植え、カブトムシやクワガタとり、暑さよけの木陰をつくり 今回ベンチを増やす・・・・・・。
 地域と共に歩む! 現実は そう簡単では無い。失敗を何度も繰り返し 今に至った。でも 判ってくれる人も徐々に増え、一緒になって環境整備、夢はどこにでもある。要は”工夫に落つ。” 自らの頭で考えること。
 ベンチは何も語らぬが 有ると無いの違いは いずれ 判る時も来るかもしれません。(取りあえず 他に10カ所位設置予定)
 
 この国から昆虫や虫が減っている。確かに赤とんぼやミツバチ、メダカやドジョウ、童謡で唄われた生き物がどこに行ってしまったのだろうか。養蜂家の船橋さんが語る地球環境問題は、分かり易く 説得力があった。(ラジオ深夜便放送)地元霞ヶ浦の水質汚染が過去の最悪の状態から大分良くなったとはいえ 私が子供の頃 泳げた水の透明度には戻らない。白魚やワカサギ 土浦の名産品は細々と続けられているが 最盛期の1/10以下(?)となる。外来種のブラックバスやブルーギルが急激に増え、昔からの生態系はあっという間に変わった。自然環境を本気になって守る取り組が薄れ、やれスマホだAIだと最先端の技術を競い合う。どうですか 現在のスマホ機能をどれだけ活用できていますか?これ以上の必要性は感じない。 それなのに 新機種開発で遅れをとっては大変だと騒いでいる。これをミツバチがみたらなんと思うかだ。 世界広しと謂えど ”虫の声”をノイズと聴かず 詩に詠み潤いを感じる民族は日本人ぐらいだと船橋氏が語った。
 小動物が生き辛くなった環境は人間に良い筈がない。連日 想定外のドタバタ騒ぎ、北方領土へのビザなし慰問団で 心無い政治家の発言が問題となった。戦争を知らない世代とはいえ あまりにも非常識な言動に言葉を失う。あれで国会議員が勤まるのか????
 怖いね 恐ろしいね。高学歴? 元高級官僚? 除名されても無所属で議員は辞めないという。
 平和で不自由の無い社会で育った世代、全てとは言わないが 自己本位に成りやすい、仏教でいう身口意の三業が離散して 己を見い出せない人間だ。これと 社会を含めた自然環境の悪化と無関係ではなく 合併症状の一つ。謝罪すれば済む話でないことを学ぶ環境では無かったか!
 
 
 ”清濁 併せ飲む”とは 度量が大きいという意味もある。今回の問題発言は この国が経済の豊かさを第一に掲げ 走り続けたことと無関係ではない。豊かさの前に人としてあるべき姿が問われず、優秀だと周りが持ち上げ 本人がその気になってしまった標本だ。そして 今回の事態を招いた事を自ら清算する術を知らない。頭隠して尻隠さず。バランスの悪さを諸に露出、そして自ら語った弁明は 謝罪一言、それと残りの政策を無党派で行います。いったい何を考えているのか 議員一人にどれだけの税金が使われているか その計算など彼には簡単にできるはず、それをしない!何かが 彼を邪魔をしている。プライド それとも 偏差値???
 プライドで世が納まった試なし。
  

3277:一人相撲

 謝罪会見の異様な雰囲気、問題発言を指摘され 謝罪の弁にこころを感じない、党の除名処分を虚心坦懐に受け止めると自らのツイターに書いた。その言葉の使い方に 彼の本心と動揺をみた。”虚心坦懐”とは”心に何のわだかまりもなく、さっぱりして平らなこころ”の意味のはず、この場に及んで血迷ったか?
 一夜明け このニュースが一斉に流れた。こんなことなら謝罪会見などしなかった方が良かった。そこには元島民の人達の気持ちを逆撫でするような言動、言えば言うほどズレてくる。一人芝居や一人相撲という言葉が浮かぶ。議員は辞めず無所属で残った政策実現に邁進すると辞職を否定する、 正直 もう良いよ。
 時間が経つほどに 彼の発した言葉の影響が大きくなっている。言論の自由を振り翳すには 自らの立場認識が狂っていると思える。
 与党の自民党が『失言防止マニュアル』を作り 配った。失言が一向に減らずドミノ現象、顰蹙を買っているから苦肉の策でというのは判るが 外交での問題発言は個人の責任で済む話では無い。無知というより無謀だ!ここに議員バッジの魔境がのぞく、周りが持ち上げ優遇するから その気になって舞い上がる。根本的に現行の政治仕組みの問題だ。
 失言予防マニュアルと聴いて 日本人の多くが今の政治のレベルの低さを痛感しただろう。一人の国会議員に年間7,500万かけているという噂。この額が多いか少ないか これ以外に政党助成金やら なんやら 有るだろう。この国に そんな贅沢をする余裕が有るのでしょうか!数を減らせば 少しは良くなるか?
 隣国の政治をどうのこうの言う前に 自らの襟を正す。政界の倫理&自浄力をランク付けしたら 当然、日本は幸福度の順位より上にはならんでしょう。
 因みに世界幸福度ランキング 2019年版によれば 前年に比べ4つ下がり58位だった。
 
 五月も半ばを過ぎ、水田や蓮田、あっという間に田植えが終わり、種蓮も植えられた。米作りは機械化が進み、昔のような家族総出による田植え作業は消え、精々2人位の人数で終えてしまう。 水の管理は苗が根付くまで朝晩続く。農業法人による大規模農業化は 米作りはまだまだ、おそらく 大型機械を使って行う環境が揃わないからだ。それと 最近目立つのは果樹の栽培農家が減っていること、住宅が建ち消毒散布の規制や人出確保が難しいからと聞いた。国は障害者支援の分野にも農福連携事業を推進、2省(厚労省・農林水産省)連携で社会参加を促進するwin-winの取り組みが行われている。
 しかし、これも利用されている人達の能力によって出来る処とそうでない処にハッキリしている。上手く行っている所は ほんの一部でしかないのが実態ではないでしょうか。
 尚恵学園でも 正直見よう見まねで農作業を行っている。一応必用な機械類は揃えているが、作ったものを市場に出すまでには至らず、法人内で消費するのが実態です。それでも今年は玉ねぎが上手にできた。新たに 竹を利用した作業、まだ試行段階で どうなるか判らないが 荒れ果てた竹林をみて 職員が考えた。材料になる竹は無尽蔵? 利用しないことはない。
 地域貢献とか社会参加、言葉と実態が乖離して 後付けものが多すぎる。そんなことより 日常の生活にどう活かされるか この辺の視点がものをいうのだろうが 。
  その傍らでカメラをもって散歩する人が 増えたように感じます。 
 
 
 ここに来て 衆参同時選挙の話題が出始めている。彼らは一体 自分達の選挙をどう考えているのだろう。 選挙費用の負担は驚くような金がかかる。それも 殆どが税金で賄われる。彼等には 痛くも痒くもない。関心事は ハッキリ言って自分の当落だけ。あからさまに 反省もなく、よくもま~できますよ。この国のメデアにも大いにその責任がある。バラエテイ番組がお盛んで政治を面白オカシク 取り上げるから 核心がボヤケテしまう。言論の自由を翳すならば あのような謝罪などせず 他にやるべき事があるはずだ。
 オーストラリアは 選挙の投票率が常に90%を超えている。常に50%に達しない低投票率の日本とどうしてこんなに差があるのか? 選挙制度に決定的な違いをみる。オーストラリアでは正当な理由なく投票しなかったものに罰金が課せられている。考えれば当然のこと 権利を叫ぶなら義務を果たせこれが国家の明確な意志である。
国土は日本の20倍もあり、人口は2400万人で日本の5分の1、日本は前回の選挙から投票権を18歳に下げた。それで 投票率は上がりましたか?政治への無関心層がここまで増えた原因は どこにある? 衆参同時選挙の動きがちらつく、だったら実施する明確な理由は何ですか?いつだってそうだ。論点がボヤケ霧がかった中で代表を選ぶ、結果は明らか無関心層の増加と諦め感の醸成。衆議院の解散は総理の専権事項、これを変えようとする気は無いようだ
現状の制度が果たして世界の時流とどうなのか?伝家の宝刀を温存する理由さえ 判らない有権者。
 ハッキリ言える事は 有権者の半分も選挙に参加しない現状をどう打開できるかでしょう! これを真剣に考える意志を感じない。それでいて 彼等は自らを讃ずることは厭わない。この辺が おかしな考え(失言)が蔓延る原因と考えます。
失言を謝罪すれば許されるという風潮は 益々酷くなる。誰が付けたか それをブーメランに譬えてしまうお粗末さ。
選挙制度を変えるなら 先ず有権者の8割(?)以上が投票しなかった選挙は無効にするという条項と正当な理由なく投票しなかった者への罰則、これを是非入れるべきだ。そうすれば 当事者の真剣さが変わる、それと出馬を辞退する者が増え議員数は減るんじゃないでしょうか。要は 何をもって日本が先進国(?)の名に相応しい国へと脱皮できるかでしょう。今の儘で 憲法を改正するなど 暴挙と思うのです。
 * 現制度の問題は 意志を反映すると言いながら、誰の為 なんの為かの根拠がはっきりしないこと。

3278:環境と生き物

 気象変動が年々激しくなっています。記録を取り始めてから新しく塗り替えられた雨量や強風、今回の屋久島を襲った低気圧は明らかに従来のパターンとは違い日本列島を南北真っ直ぐになって横断した。屋久島は元々雨の多い場所だが、今回は50年に一度という猛烈な雨が短時間に降った。今は気象衛星により雨雲の動きをリアルタイムで知ることができる。その備えをする時間的余裕はあるかもしれないが 想定以上の暴風雨となれば成す術がない。
 その逆で異常乾燥、年間降水量の数パーセントしか降らず 渇水で死活問題になっている場所も多い。
 国連で地球の温暖化に警鐘を鳴らしているが、足並みは中々揃わす 対応に苦慮している。  何故なのでしょうか? 人間の欲望は果てしない、これが実態です。
昨日は茨城県も 猛烈な雨になり 久しぶりに園の脇を流れる水路が氾濫した。自前の『通行禁止』の看板を道路に出し注意を喚起した。1週間前に田植えが終わったばかりの水田は完全に冠水した。
  地球上生物で我が物顔な人間は 相も変わらず 自分達の利の為に相手を脅したり騙したりを止めようとしない。経済ファーストを掲げる日本、風が味方に付いたか?大方の予想に反し日本の1-3月期のGDPが2.1%上がった。しかし、景気動向指数はマイナス、この数値に経済評論家は判ったようで判らない説明をする。ホンネは 暗雲依然として立ち込めてることを否定できない。ならば最初から不透明と言えば良いだろう
 景気指標に関するものは 様々あるでしょうし、良い数値だけを選びこうだと断定するのも覚悟を要する。これは地球環境と同じ?じゃないか。地球環境は 放置すれば益々悪くなる。ただ 環境は嘘をつかない。人間は己の能力を過信し限度を弁えず自分達の欲望を満たそうとする。此処が根本的に違う。自分を正当化しようとすればするほど欺瞞が満ちる。 六道輪廻で第一の”天”の下に”人”を位置する高位は最早 返上せねばなるまい。
 
 ”山川草木 悉有仏性!” 涅槃経の一節を道元が読み替えたという。早朝ラジオ番組で真珠まりこさん(絵本作家)が出演 とても分かり易く 自然体で話される中にハットして急いでメモを取った。100万部を世に出した『もったいないばあさん』シリーズの作者である。もったいないとケチの違いや本当の宝など ご自身の言葉で語る中に真意を感じた。
 生命を第一にすれば 相手を尊敬できる。 人のものを奪うのではなく 自分の中で大切にするものが本当の宝。いのちの大切さは小さい時に愛されて育つことが重要。・・・・・。日本を覆っている暗雲の源はお互い(隣人)が信頼しあえなくなっていることにある。 おそらく、アカラサマニ 何の反省もなく『経済第一主義』を唱える者たちの責任は大きい・・・これはあくまで 私個人の感想として 共感したことです。そして 山川草木 悉く仏性有りの仏教の教えに通ずる。仏性は人間だけでなく自然を含む山・川・草・木全てに存在するとみる。新刊本は『かわをゆく』という作品で ガンジス川を水源から旅する話だという。川の赤ちゃん(源流)と一緒に旅をするという発想は 自らの生活体験(子育て)から得た作風とおもう。
 今の日本をどうみるかという問いに私達はどのように答えれば良いのでしょうか?不満や愚痴を並べる事だけでは 何も変わらない。ユニセフに毎月献金する人たちもいるでしょう。その人達は 決してそのことを他言しない。自らの意志で 行なうことだから・・・・。私が危惧していることは 経済第一主義の考えの先には 較差を是認し 相手を敬うのではなく相手から奪って腹を満たそうとする思いが働き 最後は 自慢話で終わる。それでいて本当の幸せが何かという確信が持てない。私はそうなることを怖れる。
  この日本を愛するのであれば 現実と向き合い、未来志向もホドホドに自らの足で旅すること その第一歩を踏み出すことは 今すぐにでも出来るのではないでしょうか!!!!!”もったいない”の言葉に耳を傾けるのも その一つかと思っています。
 
 「もったいない」と「ケチ」の違い。相手やモノに対し敬うこころが有るか無いかである。日本の社会保障制度の歪(ひずみ)があるとすればそれはどう言ったことだろうか? 相手に対しリスペクトの思いが薄いと感じることが多々あります。なぜ尊敬という日本語でなくリスペクトを嫌みっぽく使ったか、それは 制度そのものが 日本人が本来持っていたはずのお互い様というこころが 制度に活かされず、他法と同様に仕組みだけを外国から模倣?)し作ったからでしょうね 近現代史を概観すれば 戦後の廃墟から国挙げての復興自立への歩みだった、その事が理解できる世代が去り、制度だけが今に遺っている。社会保障は端的に言って「安心・幸せ」です。これは 万国共通、ただ それを獲るための方法で道を誤ったと思います。財源問題から発し、経済ファーストの考えを基軸とした。それが福祉のこころを180度変えてしまった。人の問題をも制度(金)で解決できるという短絡的な発想による当然の帰結と考えます。次々に起こる様々な問題に対し手を拱いている。福祉の現場だけではありません、地域や家庭で起こっている悲惨な事件、その根っ子は 実は全て通じているのです。最悪の現実は日本の自殺者の数 男性の40代以上がもっとも多いという。本来 経済第一を具現化するために不可欠な年代であるはず、それが安全安心を偽装し上塗りしてきた事が判明、自らの意志というより 他からの圧力で?嘗ての 日本人の真面目で優秀な像が崩壊している。それが 先進国で最も自殺者が多い国と化した大きな原因だと私は思います。
 これは 最早 隠し切れなくなった現実です。
 心無い国の代表者が放った言動が どういった影響を及ぼすか言論の自由と立場に与えられた特権を振り翳す、これが許される社会が果たして正常かいなか??? この国の最高学府たる教育の場で感けてきたツケは個人の問題ではなく 国体への大きな問題に発展している。残念だが 今回もその幕引きを個人の資質の問題で片付けてしまうのでしょうか。これを 制度の歪と言わず何というのですか・・・・・・・
 ★ 『日本人の誇り』藤原正彦著:文春新書・・・・・・はじめに書かれている文章(P4)。著者の奥様の励まし。・・・・「大丈夫、あなたの見識や人格が高いとは 誰一人思っていませんから」を謹呈したい。
 

3279:数の正当性

イギリスがEUからの離脱を決めてから 国内を二分する議論が未だ続いている。6月7日にメイ首相が辞任を表明し、先が混沌として予断を許さない。日本はイギリスと同様に島国、イギリスは嘗ては最強の海軍力をもって世界を叉にかけ大英帝国を築いた。 方や 日本は鎖国をもって 海外との交流を閉ざし、独自の国体づくりに専念してきた。その両国の共通点は 政体が似ていること。共に立憲君主制をとり 議会制民主主義、それと地政学的に類似点も多い。なによりも 江戸から明治に変わる時に日本はイギリスから多くのことを学び取り入れた。
 国民性に関してはイギリスは個人主義、日本はどちらかと言えば集団主義という違いがある。それが今、国会の中味の違いは歴然としている、否、そうなってしまったという言うべきかも知れない。日本の国会での審議の中味 特に酷いのは、議員の資質問題、失言や暴言、直接国政に関すること以外の問題が多すぎ揚げ足とりで緊張感が無い。これは 与野党に関係なく国会全体の問題で 成す術なく 常態化していると思っている。
 マスコミ報道の是非もあると言っても 私はモラルの欠落(ズレ)が異常と感じる。ここまで やるのか?という疑心暗鬼、それと狼疾役者の劇場化。
 国賓を迎え いつになく落ち着かない永田町、職務外のプライベートの事だからというのかも知れぬ。正直腑に落ちないのは この時期に ゴルフを一緒に行い 親交を深める発想だ。解決が見えない東アジアの問題、更に中東問題の再燃、課題山積の今、おそらく世界から一挙手一投足が注目されているはずのお二人が蜜月の関係を 今更誇ったかの如く世界に披露するまでもないと思うのだが。
 日本人が昔から大切にしてきた 謙譲の美徳や言行一致、それと 自粛自戒という教え(人倫のみち)を どう考えているのだろうか?周りの者が 諫言立てすることもなく 箴言など 外交には不必要ということなのでしょうか・・・・・・聴く耳持たずなれば ? 数の正当性or傲りが目立つ昨今、我々は どうすれば良いのでしょうか?
 
 相撲界で平幕優勝した浅乃山 三役経験なく優勝したのは58年ぶりの快挙なそうです。入幕11場所目で25歳。順調に出世し 横綱まで登って欲しい。スポーツ界の若手の活躍が目立つ、暗いニュースばかりの今 明るい話題を提供してくれる。
 ただ 勝負の世界は下剋上、怪我によって 途中で断念せざるを得なくなることも起こり得る。相撲界は 今日 昔の伝統を守り続けている実力社会、上に登る程 驕ることなく 切磋琢磨 精進することを範とする。
 弟子入りし 下働きから稽古を重ね、そこから這い上がってくるものの底力は逆境時にものをいう、これと対照的なのは 大分シツコイようだが 政治の世界。別に 政治にだけモノ申したい訳ではないが、余りにも無駄が多すぎるから 腹が立つ。運良く バッジを掴めば 即 偉くなったと勘違う。なんで 辞めないの、忠告する人もいないのか?彼はネット上で盛んに持論を主張していたはず、それが 19日でピタリ止まった。最後の呟きには堂々と公の場で説明するとまで書かれてある。消し忘れたか? 運営理事会からの出席を求められたら 診断書を添えて2か月の療養に入ると断った。 彼の閻魔帳には 謙譲や言行一致の言葉は無いのだろうか。勿論 反省もしているのだろうが 経験が浅いからこそ 身に着けて欲しい倫理である。自業自得という言葉は 成功体験しかない人間には どのように響くのだろうか・・・・。 

3280:彷徨(ほうこう)

 新田次郎の『八甲田山死の彷徨』は冬山での軍事訓練中の事故を書いた。それと昔に『孤高の人』も読んだ。藤原正彦はその新田次郎の息子、数学者で今は出筆や講演など 専門と違う分野で活躍、ちょっと気になることがあり、『日本の誇り』をネットで取り寄せ 読み終えた。文章中に将来への希望が持てないという日本の若者が急増しているとの調査結果、お隣の韓国や中国の若者と比べ 大きく差がついた、その原因を 独特の分析で示す。歴史は繰り返されるのか? 日本への評価は様々ある。 最近は外国の観光客が増えすぎて 主だった観光地だけでなく 地方にも増えている。
 そういった流れをチャンスと捉え 活気が出ている地域もある。昨今”おもてなし”や”忖度”がお盛んで どこまでやるのか天上知らず。不図 浮かんだのが 四国遍路での”お接待”、これは日本語では同じように思われるが中味は全然違う。見返りを望まないという点を異にする。経済や出世への心算があれば 出費に見合うだけの見返りを期待する。その損得勘定を 初めから表に出せば 相手も警戒するので 控え目にということになると思うが とんでもない、アカラサマになっている。
  忘れてならない大事。四国でのお接待は 自分の意志 自分が救われると思うからで 当然 身銭をきる。 その辺が どうなっているのか 我々には知る由がない。それって おもてなしとは謂わんじゃ~ないの!
 斯様に 日本語の解釈には 多様性が含まれる、けれど、ハッキリ言えば≪彷徨≫状態。なんでも有りということになる。
 
 
 令和ワン・・・・・・新元号になり始めて最初の国賓を迎え 連日 繰り広げられるおもてなしの映像がTVで流れる。メデア各社の取り上げ方も微妙に違うが この後が大変だろうと誰もが感じている。あくまで外交は双方に何らかのメリットがあってのことだから お祭り騒ぎが終われば 現実の問題への対応が待っている。
 明治維新(1868年)からで151年が経つ。その間に日本は外国とどう付き合うかに明け暮れた政官財 後の時代に語り継がれる多くの傑物が活躍した、それは目的を共有し 無私の貢献をされたのです。150年間の最大の出来事は 何と言っても第二次世界大戦での敗北(1945年)、維新からは77年が経っている。
 終戦を境に 法律や政体が変えられ、昭和~平成~令和と経過する。順調な復興の影で想定外の問題も出ている。それは 世界の動きと連動したもので 日本だけが独自の考えで進む訳にはいかない。これへのジレンマは 一歩間違えれば取り返しのつかない状況になってしまうという危険性を孕む。
 その任に堪えられる人物が果たしているのだろうか? GDPやGNPの訳の分からない数字に一喜一憂する姿を見せつけられ その都度 小手先での対応を繰り返す。どうせ又直ぐに変わるだろう!という思いを 多くの国民が抱く。
 私は その事が今の日本にとっての最大の病巣になっている思います。最高の外科施術をもってしても 完全に取り除くには あまりにも 拡散しすぎていると思うのです。 
 
 こころ無い一人の国会議員の言動にこの国の危うさの片鱗を観る。  医師の診断書一枚で この国の最高機関(国会)が なす術なく 取り下げた。 彼が言った言葉を其の儘当人につき返したい思いだ。言論の自由を翳し辞任すべきでないという発言、彼はハッキリと悪しき前例になるからだと言った。ならば 国会議員としての自ら発した言葉への説明責任を果たすべし。診断書一枚で拒否することが前例とならないのか? 言語道断とは仏教で,≪言語で説明する道の絶えた意味≫・・・言語道断心行処滅(瓔珞経)。診断書に書かれた「対応困難」どころか言葉に真意を感じない。
 国賓歓迎の最終日の朝 メデアは挙って川崎市で起こった無差別殺人事件のニュースを報道した。それは同じ日本の同じ時刻である。日本の社会がおかしな事になっていないだろうかと訝しい。令和を迎え これからというこの時期に日本に対しての大いなる天の警告と取れてしまう。国賓を迎える側としては 出来る限りのおもてなしで迎えることは許されるだろう。だが腑に落ちないのは 最初に何故ゴルフ接待なのかという疑問である。
 公人と私人のケジメ????? お迎えする客人に 余計な心配をさせなかったのだろうか????? 恐らく 取り巻きの者達がサプライズとして演出したものかもしれぬ。でも それを 止めさせる位の器量を私は望みたい。
 ゴルフ場でのツーショットで満面の笑みを浮かべる写真が流れた直ぐ後に悲惨な事件のLIVEニュース。 このギャップをどう受け止めたら良いのでしょうか? 
 情報は どこから漏れるか判らない。その真偽も判らずに噂は広がり続けるものだ。この時に日本が105機の新鋭爆撃機を注文したかのごとく話が流れたのを知らなかったとでも・・・・。 

3281:今世を生きる!

EU加盟の国が揺らいでいます。ご存知の如く 欧州連合(EU)は1993年を起源として 現在28ケ国が加盟し 合計の人口は5億800万人になっています。イギリスの離脱決定後の動きは 様々な思惑が交錯し 今もってどうなるか不透明、それに加盟している国の状況も直近の選挙結果からみて 難しい事が窺える。統合の目的は いまどうなっているのでしょうか? 日本にいると実態が判らない。移民受け入れや統合による恩恵享受の格差、解体して 元の形にするという動きもある。それと米中経済の覇権争いの影響も 大きく 安全保障での駆け引きも激しさを増している。内政面の課題を抱えながら外交をうまくやっていく、どの国も大変な時代に入っている。
 概観すれば このような流れになるのでしょうか。
 SNSやAI、グローバル化・・・・・・違和感もなくこれらの言葉が地球上に蔓延しています。その弊害への予防策が追いつかない。
 永世中立国スイスの立国の精神は 現代にどう活かされるだろうか?を考えてみたくなる。 国土面積は日本の1割(九州位)ほど、人口は854万人(大阪とほゞ同じ)、公用語はドイツ語・フランス語・イタリア語・ロマンシュ語・ラテン語、人口の4分の1が外国人が占める。
 国連に加盟したのが2002年で190番目と遅いのには理由がある。スイスには正式な軍隊(職業軍人より圧倒的に予備兵)がある。国防の戦略は拒否的抑止力、永世中立を世界に宣言し、そのスイスを攻撃すれば 世界の信用を逸するという戦争抑止力。近現代を通し軍事拡大を競い合う国が大半である今も 独自路線を守っている。
 日本と違うのは 国民皆兵、兵役義務があること、それが予備兵の大半を占めている。
 日本は憲法改正論議を充分に行ってきただろうか?国民の周知の度合いを見れば明らかだ。先ず 国会議員一人ひとりがどれほどの理解を持っているか大いに疑わしい、これからして日本が過去の歴史を次世代に引き継ぐという体制(国の責任)ができていない。寧ろ経済の優位性だけを守ろうとするから 国体の基軸が見えなく中途半端なことになっている。
 自由と平等の理解も定かでは無い。なんでも規制を緩和すれば良いとの風潮が蔓延る。少子化を叫ぶ割に この国には大学が800校ある、それも平成30年の間に急増した。定数を満たせない数がどれほど有るか? それでいて無償化を目指す。
 ここは 戦後復興を同じ目標としたドイツから学ぶ点だと私は思っています。仕組みだけを真似るというスタンスを相も変わらずとっている日本、・・・・・・。競争で質の向上を図り自然淘汰(勝ち負け)によって適正な数に整理できる。 この考えには大きな矛盾有り。それは 補助金制度という公金を使った政官財を繋ぐ不正の温床があるからだ。
 今を生きる私たちの周辺の環境パノラマである。。
 
 
 ≪ヤスヒロくん 死んじゃったの・・・・・?≫ 園庭で緑のカーテン作りをやっている傍に来てNさんが話しかけてきた。彼女は めったに自分から話し出すことはない。 固い表情をしながら 私に問いかけて来たのです。
ヤスヒロさんのお別れ会を本堂で行い 棺の蓋を閉める時 大声で≪ダメ・・・ダメ・・・・≫と涙声で訴えた。間も無く 一カ月が過ぎようとしている。彼女は ずっとヤスヒロさんの死と向き合ってきたのかもしれない。6月15日に 尚恵学園の法人墓地に埋葬する。
 創設時にいみじくも基軸に置いた【共生】が果たして 仲間達には どう映っているだろうか? 今までに多くの仲間が 黄泉路へ旅立った。暮らしを共にした仲間との別れを皆で送ることを続けてきた。そして また 新たな写真が本堂の脇間祭壇に加わる。二段になった祭壇は もう飾るスペースが無くなるほどになっている。一人ひとりの遺影から 一緒に暮らした日々の記憶が甦る。
 日本人が忘れたもの、いや、忘れさせられたものかも知れません。客人への最大限のおもてなしを誇らしげに・・・・。これだって 昔なれば”お互い様”という気持ちがどこかにあった。華やかな宴を真から喜んでいる人ばかりではないことを  こころに留めて置いて欲しい。
 私が幼い時の記憶に 今はオボロゲになったことだが ≪あんちゃん≫と呼んで遊んでもらった方は 今でいう触法少年で寺にどの位の年数いただろうか? それを確かめる術はない。運転免許を取り 自立したと後で母より聞いたことがある。
 もう60年以上の年月が過ぎた。遠い昔の話。
 日本に起こった 福祉事業は制度も何もない時代、古材を集め 雨露を凌ぐ 簡単な建物で始まった。その時代の【共生】と 今の時代の【共生】は雲泥の差、その事業は 行く場の無い戦争孤児を預かるものが多かった。
 経済第一主義を疑いも無く貫く、ならば問いたい!・・・・・・貴方たちは それで幸せですか?安心ですか?・・・・・・・と。
  ★較差社会の歪は 外見でははかれない。心の奥深く 刻まれ それに気づいた時には もう遅い。
 
 
 世界の仕組み(ルール)が急激に変わっている。人類の歴史は 道具の進歩によって築かれたと言われ、石器から始まり、より硬く丈夫な道具へ、・・・・・・。生活に使われるだけでなく 戦いの道具(武器)になった。石やこん棒が槍や刀となりそれが鉄砲になって、勢力図が一気に変わった。日本は 明治を境に近代化・都市化が進み、生活のスタイルが一変。それに併せ今までに無かった争いも増えた。原理原則、一定のルールを考え 近代国家への仲間入りと変貌をはかる。
 思想信条は不変ではない。様々な価値観があり  市場自由主義を掲げ 自由と豊かさへの幻影(?)を求め続けた結果 何が起こっているだろうか? 世界の動きが大きく揺らぎ始めている。 原則とする社会のルールが”保守主義”の名の下に自分達の利益のみを正当と考えるようになっている。それに反発すれば 武力をもって制裁を課す。
 これは 恐らく元に戻ることはなく、より先鋭化し巧妙になると思える。 青銅器の発見はBC3500年メソポタミア・エジプトに遡る。石器~青銅器~鉄器から今の世、優に5,000年の時間が流れているのだ。いま この瞬間にも能力の優れた兵器の開発に血眼になっている。
 時代がどう変わろうと 人間そのものは大して変わらない。BC5~6cを知の時代とするのは 今日の宗教や哲学(四大文明)の基礎が築かれたからであって、今を生きる人間への評価ではないのである。 

3282:ホトトギス

 ”古恋ふる鳥”とはホトトギスの異称。 南都7大寺の一つに薬師寺があります。創建は680年、法相宗の本山、その境内地に仏足跡歌碑があって、21首の歌があります。その一番歌・・・みあとつくる いしのひびきは あめにいたり つちさへゆすれ ちちははがために もろひとのために(原文万葉仮名置き換え)・・・・これを 漢字交じり文にすると・・・御足跡作る 石の響きは 天に至り 土さへ揺すれ 父母の為に 諸人の為に・・・・
 日本の歴史を辿れば 古への人達の祈りが浮かんでくる。京都や奈良ばかりでなく 全国に散らばる 名所旧跡、今こそ 我々が歩みを遅らせ立ち止まり 今を観じ 行く末を案ずる大事に目覚める時と私は思いますね。
 膨大な情報量に息苦しさを感じ その逃げ場所として無関心になる。前向きに生きると言うけれど 何が前向きか後ろ向きか 判らない。
  横浜磯子区にある新交通システム、運転の無人化による 未来型交通で事故が起こった。 逆走し乗客が負傷したのである。人智を超えるとは 人間の知識や智慧では判り得ないこと。そこに 挑戦し 雌雄を決することに夢中なものの一つがAI技術。だったら超えてはならぬ一線の線引き変更を誰が決める? 現在の世界の人口は約74億人と推定されてはいるが 既に先進国と言われる国々は殆どが人口減少に向かい、いずれトップの座は中国からインドにうつるとの調査、それにしても 一人ひとり顔形が違うように 考えも異なることはいつの世も変わらない。
 それを一様に これぞとばかりに 突き進むのは ”慢心・無謀”と謂えまいか!
 1340年前、都を平城京に移す時に建立された7つの大寺がある、その多くが勅願寺や官寺 それぞれに祈りや願いがあった。父母の為に 諸人の為に・・・・・
 その時間の長さに対し 思いがどれだけ変わったかをみれば良い。何一つ変わらず むしろ 状況は悪くなっている。
 ホトトギスの鳴き声は 甲高く迫力があるという。昔の人は「テッペンカケタカ」とよみ、最近は「特許許可局」となっている。
 
 
 障害福祉の問題は 長い歴史の中で我々に多くの教えを残してきました。≪寝たきりの方だって 寝ることができるじゃないか!≫と言う恩師の言葉によって障害福祉を一生の仕事とした人の話を聴いた。 病や高齢により、思ったことが出来なくなると できなくなった事ばかり考えてしまい 自分は勿論 周りの人と上手く付き合うことができなくなりやすい。
 己の価値観は 相手にとっては 別物だ、それを 此方の考えで強引に推し進めれば どこかに必ず歪が生じ 後々 思ってもいなかった事態になって唖然とする。
 風流というのか ホトトギスの鳴き声を「テッペンカケタカ」と詠んだ昔人の想いの深さを 我々は どこかに忘れてきたのかもしれません。
 
 
 地球の生態系が変わっている。それも 予想もできないスピードで。人間社会はもっとひどい事になっているんじゃないの。 それを 誰も止めることができないのでしょうか?浮足立ち 瞬間湯沸し機のようだ。コツコツと積み上げたことを 瞬時にやってしまう文明の利器、それでも 満足しないで 次々に欲求を満たそうとする。これが 私達が生きている現実社会だとしたら 誰だって 生き辛さを感じると思う。それは 人間の生来持っている能力や限界を超えたもので、どんなに改革を推し進めようとしても 本質の部分は 何も変わらない。巧妙かつ狡猾に 法の隙間を立ち回る、それに対し 何の罪悪感も良識も持ち得なくなっていないだろうか!
 枝葉末節な事に振り回され 本来 身に付けるべき 人としての在るべき姿を蔑ろにした。 今の風潮は残念だが人間が作り考え出した価値感の虜となっている。モノづくり~サービス業、職業の種別も増えすぎた。そこに ベンチャー企業云々と 持て囃す、 その様相は 無間地獄さながら、どこまでいっても カネカネカネ・・・・・。
 そんな夢をみた。
 改正議論に盛り上がりが出ない。これはハッキリ言って庶民感覚からズレている証。理由は明らか 貴方達は変えるだけ変えて いつだって後まで面倒はみない。その責任を 恣意的ともいえる程の膨大な制度・法律に 転嫁する。これは 国民一人ひとりの自己責任ですぞ!と。これを ずっとやり続けてきたのである。
 そう考えると 最近のホトトギスの異称を『特許許可局』というのも 何か然もありなんな気がする。・・・・ナマグサ坊主のつぶやき・・・・・

3283:検証の真偽

最近の事故の多さ、特に高齢者による運転のミスが原因と思われるものが多いと思います。私もいつの間に その高齢者の仲間入り、 文明の利器は使えば便利だとは思うけれど 言われている機能の1割も使えないもどかしさ。こんな同じ思いをされている方も多いと思います。事故原因の検証が行われ 明らかになった事例がどれほどあるでしょうか?技術革新は日進月歩、だが実際は 操作が単純なようで複雑、そして 自動運転になれば 安全か? 横浜の新交通システムで起こった無人運転電車の逆走事故、原因がわかって改良できたとしても 不安は消えまい。台湾で起こった日本企業が受注した新幹線の脱線事故の原因の究明と保障も未解決だったと思う。残念だが 人間が考えたことで完璧なことは有りえないという一語に尽きる。
 そう謂う私も ガラケイをスマホに数年前に替えた。最初ガラケイという言葉の意味さえ分からず、メールと写真、それと電話ぐらい出来れば十分だと思った。そのうち周りからスマホを奨められとうとう買ってしまった。先ず ポケットに入れるには大き過ぎて持ち歩きに不便、それより どこに置いたか直ぐに忘れるから結局首から紐つきでかけてある。そのスマホだって アッと言う間に旧式となってしまうではないか。電子決済??? もう問題外です。
 結局 利便性や新製品にばかり目を奪われていると 真偽の判断が出来なくなる。 事故は相手がいる。 現在の保険で充分な保証が大丈夫?突然の事故に巻き込まれ 尊い命を失った償いは ・・・・・・。
 気になることは、リコールの多さ。 それと電話や電気の 新規契約の勧誘(代理店)攻勢 もう常軌を逸している。こっちが居留守を使えば”ご主人は何時ごろ お帰りですか?”   ウ^^^^大きなお世話だ。
  規制緩和もホドホドにしないとね。世の中乱れます。いま現実起こっていることは 迷惑無視、やりたい放題でなんでも有りです。ハッキリ言ってこのチェックが出来ない国と化した。これで安心・安全と言っても無理だと思いませんか。
 
 内憂外患こもごも・・・・・・。マスコミ報道が偏り過ぎているのかもしれません。昔だったら 茶の間で家族そろってTVを楽しんだ。ドリフターズの長寿番組の名は何て言ったか?あれから 随分 放送内容が変わったし民放は番組編成が酷似してしまった。
 人間は気紛れ贅沢にできている。今を満足せず、より刺激的な内容を求めようとする。活字離れが話題になったのは大分前の話でした。あっという間に電車の中で本を読む人を探すのに苦労する。
小中の義務教育では 生徒一人ひとりにPCやタブレットを持たせるICT(情報通信技術)教育が進むという。中国や韓国での受験戦争は日本の比ではない。両国の類似点は高学歴=高収入という構図が出来上がったこと。これが 果たしてどうなのか?
 文科省は日本の教育が外国と比べ 遅れてしまったと思っているのだろうか? この辺の真偽は?。
 それより 老後生活で年金以外にどれだけの貯蓄が必要かという話、担当大臣のコメントは2000万が最低必要だと語った・・・それに対して物議を醸した。名だたる専門家達の話より、ある若い方が話した事が本質をついていると思いました。
 日本は 今までの支出を変えず それを続けるためにはどれだけ足らないかとの発想を続けている。収入に応じた生活スタイルを各自が考え その中で生き甲斐を捜すこと。本来の 働き方改革の目的はそこだったはず。消費経済では無駄や環境破壊も根っ子は同じ。ゴミを処分する為に金をかける。負の循環経済を遅らせるには生き方を変えるしかないはずだ。
 そこを どうも フロントランナーを自負する人たちは 自らが範を示せず、GDPなる数字の上下に気を揉んでいる。だからでしょうね不足を補うために 国の借金を増やし続けた。政治は 立法を司る最高機関と言いながら 核心の議論を避けている。少子化に歯止めが効かず、高齢化は団塊世代がいなくなるまで待つしかない・・・・・・。結果は 統計の偽装まで手を汚し、美談の放言はばからず。 
 真剣に国民と膝を突き合わせる誠実な姿勢が失われれば 国民も一緒になって 話し合いに参加する気持ちは萎える。この末路は私利私欲の社会、今さら地域貢献・共生社会など言わず、メデアも挙って解散がいつかなんてことばかり騒がずに 本来の姿に戻るのが先だわな!
 
 気が付けば 愚痴三昧・・・・愚痴には2つの意味があり。一つは 言っても仕方のないことを言って嘆くこと。もう一つは、理非の区別のつかないおろかさという。二つ目の意味が大事。
 思い出した。上記のドリフターズの長寿番組!・・・・全員集合・・・・でした。一時間程の番組で 茶の間に笑いを届けてくれた。今の日本の家庭で失われつつあるのは 茶の間の団欒かもわからない。核家族がすすみ、いつの間に親子や兄弟の関係が怪しくなってきた。大自然は一日を24時間という公平な時間を人間に与えている。それをどう活かすかは 個人に任せ、自由や平等、豊かさや喜びを望む・・・・・
  有らん限りの努力をし 快適で便利な生活を目指すことを良しとした。けれど どうでしょう? 人間の寿命が延び それだけ”幸せ”は増えただろうか?多分 幸福度を測るに完璧な基準はないと思う。 ただ、 国として捉えた時、自然と共存しうる国づくりが基本、先人達は うまく調和を保ってやてきたではないか!それが あからさまに経済の反映が第一とは。世界の4大宗教に共通していることで、経済第一を全面に掲げているものはありません。勿論 時代が違うと言えばそうだろう。だが 調和が崩れ 一方に偏した流れに加速するのを黙認はできない。 仏教は 宗教同志の争いを否定する。
 命の尊さ・・・・・自分の力では直ぐに立ち上がり歩くことができない人間は 地球上の生物の中でも特異な存在だ、何らかの支えがあればこそ成長できる。そのことを わすれてしまうのも人間かも知れぬ! 成人に達し 自立できる者いれば 何らかの理由で それが難しい方もいる。でも 誰だって 必死に生きようとするじゃないか。その姿を知って 命の尊さが判るのです。
 仏教では自分が人と違った才能をもっていると考えるのは ”慢心”と戒めた。この考えは昔も今も変わってはいない。文明は 地球上の生物で唯一人間だけが自らの優位性を誇示するために考えられたとことと言えるかもしれません。
 改革を進歩との勘違いや 物質文明の極度に発達した結果、変わるべきことと変わってはならないこと、この理非の判断が出来なくなっている(文明病)。老いれば 誰しもが昔を懐かしむ。今が どんなに豊かになって便利な世の中になっても 満足はしない。未来志向もいい加減にしないと 仮想か現実かその判断力が萎えるのですね。

3284:文明病という病

 大型の総合病院が地域の基幹医療の役割を担っている。外来患者が一日千人を超える大病院がどれ位日本にあるのか知らないけれども診療科目が専門毎に別れ 一回の通院で複数の診療科にかかる人も多い。
 医学に文明病という病症があるとしたら その専門医は大変だろう! 個人の病気というより社会の病だから 病院ではなく 別の場所に行けとなる、ここだけの話 日本は此処に問題が多いと私は思いますよ。
 確かに 戦後70年 戦争に加担せず 復興・繁栄の旗印の下、遮二無二励んできたことは 評価されて当然だと思います。でも  慣れが正常な判断を狂わせる。その病の進行は 信頼の欠如という症状からおこる。 それを認めず 病巣への上塗りを繰り返す。応病予薬ならまだよいのだけれど。誰の為。何の為に?を曖昧にし 自分達の利益の為となったら大変なことだ。その超えてはならぬ一線を何度も書き換えてきたのでは無かったでしょうか。 問答無用とばかりに。そして極度に物質文明を発達してきた その反動(合併症)が予想もしない形(病症)で表れてきて さぁ~大変となる。生活習慣病と同根で気付くのが遅れるから文明病に付ける薬はないのです。無駄を無駄と考えず 何とご褒美と考える民族は嘗て存在しただろうか? モノの大切さや 人と人の信頼を取り戻すことを長年蔑ろにしてきたツケは誰が払うのでしょう。これに対し確たる診断を聴いたことがない。
 商売の神様と言われた松下幸之助さんが丁稚奉公から小さな工場を世界的な企業に築きあげた話を 今の若者にしても通じるだろうか? 現在、関連企業含め今年度採用の8割以上が外国人だと聞いた。
 時流に乗り遅れないということは 行く先を間違えれば取り返しのつかないことになります。一緒くたに 皆が渡るから怖くない・・・・式の 手法は いただけない。
 もう 手遅れかもしれないが 考え方をかえ挑戦することは 後の世代の為にも私達の責任ではないだろうか?じゃ~ 何をどうするかを ・・・・・次回に。
 
 症候群とは 原因や発生機序(しくみ)が多岐にわたる病態だから その治療も一様ではない。文明病は 原因の究明と治療が難しい。今を良いと思っている群とダメだと思っている群に別れ、その格差が拡大続けるのが特徴。
  その治療にあたるべき人達は病院ではなく 国の 主に 立法と行政府だ、 それ自体がその病に感染しているとしたら 救急処置が必要だ。≪二度と同じ不祥事を起こさないように厳正に対処します。≫お決まりの謝罪文句に全く心を感じないばかりか、余りにも多過ぎませんか? 諦めが習慣化し同様の病態が至る処で噴出してしまった。 先ず 立法府へ、現状は望むと望まらずと”一強独裁”これを変えねば何も変わらない。さらに行政府、政治の劣化を補う役割は ”忖度”&”ゴマすり”の世渡り処世術の坩堝 現状は内輪争いが激化の一途、・・・・・
 一方 日本の屋台骨を支える経済界、経営と労働の箍が緩んでいる。 対峙するのではなく連携に舵が切られたことが原因か。 経済や人の動きがグルーバル化し、金の価値が変わる。タックスヘイブンなる聞き慣れぬ言葉の登場、日本語ではヘイブンは「天国」の意味ではなく「避難所」の意味、大金もちは税金免除の国に自分の金を批難させ 利鞘を獲ている?そこには あるルールがあり、最低で10億円以上の金額から許される。 勿論 その条件を満たすものは 一部の富裕層。
 年金基金の 投資で15兆円の損失を被ったことを 忘れまい。当時の経済専門家の判断ミス だが その中で誰一人 その責任をとったものはいない。それを今になってコツコツ貯めたお金を老後の生活の為に投資せよと私には聞こえた。その政府説明も到底理解できる内容では無かった。
 100年安心できる日本の公的年金、公約の破綻どころのレベルでなく 立派な詐欺罪。
 文明病への対策 その1。組織機能は慣れが原因で硬直化する。任侠映画の一コマを思い出した。親分が右を向けというから右を向く。子分は セッセセッセと周りの掃き掃除 親分が石に躓き転ばぬよう!
 親分に箴言するものなど 誰一人いないような組織は 早く 親分の世代交代をしていただくことが 貴方達の今できることでしょう。善悪の判断が出来なくなるまで 伸ばすのか!
 文明病への対策 その2。 犬が紐を付けなければ歩けない日本、猫はその点自由だが 店に溢れかえる餌しか 食べず、自ら餌を獲る力が萎えた。こうやって生き物は 確実にぬるま湯に長く浸かれば本来持って生れた能力を弱める。
  先人達の教えに耳を傾けず 只管 自徳を自画自賛、この弊害は誤りを誤りだと気付かない愚行を繰り返す。
  ★「福島原発事故における被害の包括的把握と保障問題」というレポート、国の責任割合と企業の責任、これは 福島だけの問題ではありません。その検証をどこの誰がするのかまでは 明言せず。
  ★日銀と政府には、現在の国の借金の返済計画とその実効性を 全国民を対象にした説明責任を果たして頂こう。
 最後に 私達国民一人ひとりが 自らの頭で考え それを子供や孫たちに話し伝えることを普段から していきませんか? このSNSのある便利な時代に!代表者を選ぶのであれば その投票義務を皆が果たすことより 始めましょう。
  

3285:予兆の根拠?

 この国の危うさは 前触れもなく突然起こるとでも考えているのでしょうか? 予兆の根拠を挙げれば切が無い、国民の不安を煽るから控えようという訳ではないだろう。 
 今のこの国のワースト3で即浮かんでくるもの。一番目:民主主義の国でありながら 世界の国政選挙投票率で追撃を許さない最低を連続記録。二番目:国の借金の多さダントツ。これまた減るどころか 増え続ける。3番目:国会の機能マヒ。数による強権横暴は 天上を知らず。それに併合し情報の信頼度の急落や秩序の乱れ。はっきり言ってこれは今の政治家の責任が大きい。
  政府見解と国民実感のズレの拡大は、私の身近な例で示すと障害者雇用の実態を見れば、範を示すべき官公庁の杜撰(ずさん)な対応、彼等には何らペナルテイがないという。民間への締め付けとは雲泥の差。 
 ここで素人の素朴な疑問。どこのどなたか知らないが 政府の経済政策担当アドバイザーにお伺いたいことが有る。 日本の借金1100兆円は問題ないと言う楽観論をあちらこちらで。数百兆円という預金があるからと・・・・それって国の持ち物なんですか?更に タンス預金が43兆円あるから それを投資に廻せとか? それは 誰の持ち物なんですか? どう考えても変です。 いやはや 恐ろしい時代です。昭和10年代を知る人が減り あの暗黒へ通じる路を ぬるま湯に浸かりすぎた我々は よもや 同じ過ちは起こさないだろうと安心し蚊帳の外で他人事。
 今朝の新聞・・・・金融相「老後2000万円」の審議会報告書の受理拒否。その理由が「政府の政策と全然違うから」・・・・・・。再び素人の素朴な独り言。「審議会って 何の為&誰の為にあるの? 政府と同じ考えの委員を選んで どんな意味があるの?それより 委員の選任は 誰がするの?」
 これに 何かの前触れを感じない。ホンネとタテマエを器用に使えない人が後付け説明すれば するほど 不信感。予兆の対義語は突然。リーマンショック級の再来をか?
 
 
 ≪住職に渡そうと思って待っていたんだよ、お賽銭にして下さい・・・≫ それは地域で行われていた今は無き10人講で使った道具と一緒に入っていたお金でした。その中には今は見かけない10銭札が3枚あった。
昭和19年11月11日発行開始日で通用停止日が昭和28年(1953年)12月31日で失効した日本銀行券。戦争の末期で銅など貨幣をつくる材料が無かった時代に政府は紙幣を増刷した。
 歴史は証明する、権力は使い方を誤れば取り返しのつかない事態になる。昔の話ではありません。現実に今 南米のベネズエラはハイパーインフレという大混乱の中で食べるものもない人達が大量に出ている。この国は なんと石油の埋蔵量が世界一という国です。
 日本には 昔より資源がなく 海外に依存せざるをえない宿命を背負っている。将来に何があるか? それを明言できる専門家はいない。天国か地獄か? 世界の動きは 弱肉強食の様相を加速し 保護主義 自国第一主義の政党が伸びている。この国は どちらを選ぼうとしているのか? 実は ハッキリしない、言葉悪くいえば御都合主義。あからさまに 恥じる事も無く その路線を歩んでいる?? ・・・・。もともと日本人の基底には 中道を良しとする考えがあると思う。
 もしそうであっても 時と場合による。どっちつかずでアアイエバコウイウことになりかねない。
 内政問題が持ちあがると 気のせいか外交問題が頭を持ち上げる。 そんな事は 大した問題ではないと言わんばかりの・・・・・。
 それは貴方達の言い分だ。我々庶民にとっては 一大事、100年安心できる年金、これもキャッチコピーだったのか?実態が露見すれば またしても責任の擦り合いが始まる。日本の年金に対し囁かれる”公的振り込め詐欺”という揶揄嘲弄は 笑い事では済まされない。外交と内政 総理お一人で走り回るつもりではないでしょう。勿論内政にはそれぞれの担当大臣を据えているんだがその大臣の言動が 国民の神経を逆撫でするようでは困ったものだ。年金制度を軽くはみていないとは思うが 金に何不自由感じない人は そもそもその任にあらず。庶民に寄り添うより離散する。自分の立場を棚に上げ 報告書を半分しか読んでいない発言は如何なものか、今は下野した嘗て話題になった偉い方が 現政権の劣化の表れだと語ったとか、もし、そうだとしたら 今の日本は外交どころの話ではないと思います わたしは思います。
 
 その外交問題、内容は機密事項だろうから 国民に知らされることはあるまい。その責任の重さは はかりしれない。 
 見方を変えれば 本当に大丈夫? イギリスやドイツのトップはいずれも女性、信念の強さと潔さはG20での顔触れではズバ抜けた存在感だと思う。 メイ首相はEU離脱交渉の責任をとり、辞任を表明、そして新たな首相候補が10名になるとか?
 日本の姿と比べ その較差に言葉を失う。それは 誰の為の代表者選びかという視点でみればです。 今の日本の制度で 国民に直接関係する年金制度の問題にしたって 政治が対応できていない。責任の取り方ひとつとってみても
 自ら責任を取らず 行政の責任に転嫁する。この動きは 日本の弱点 島国鎖国の時代からのDNA? 国の存続に繋がるような大事の決定が どれだけの国民の理解を得ているかも定かでない。それを測る術が見つからない有様
  そう 思いませんか?
 少子化の原因はと言えば それぞれが自由気儘に自論を語る。でもこれは判り切ったことではないのでしょうか? この国が 一体どこに向かっていくのか 不安があるからだと思いますよ。代表制民主主義は間接民主主義とも言われ 自己の権力の行使を代表者に信託し間接的に政治に参加することです。端的に言えば 子供の問題や金の問題は 選ばれる人間自身が自らの育つ環境で実際に経験し学んだ実学が基になるのです。政治家が知らない&記憶にないという言葉を使うことは自らその任に無い事を公言しているようなものなのです。

3286:コトバ

  少々気になっているコトバがありまして、それは「印象操作」と「同調圧力」という耳慣れない日本語です。印象操作がどういった時に使われているか、なんと国会中継で気付いた。 情報の取捨選択や恣意的な伝え方をして相手の受け取る印象を制御するような意味で議員同士で誹謗し合っている。もう一つの「同調圧力」は、あまり一般的ではない言葉だが・・・少数意見を暗黙のうちに多数意見に強引に合わせさす意味に使っているようで例の忖度と同根。これもまた”国会”中継だった。
 どうして 公共電波を通じそのような言葉が使われるようになったんだろう。 考えられることは数字の誤魔化しやら 記録の廃棄など有ってはならぬ事があまりにも多く続いたし 一向に止まる兆しがないからか。疑心暗鬼がここまでくれば もう非常事態としか言えまい。海の向こうでは「フェークニュース」。世論誘導を意図した虚偽報道だとやりあう。それもSNSを使って世界中に情報が流される。
 私達はそれらとどう向き合えば良いのだろうか???? 凄い世の中になったものである。
 ≪永遠なるものを求めて永遠に努力する人を菩薩という≫この菩薩とはボデイサットバという梵語を音訳したものです。藪から棒に どうしました?仏教の核心がここにあるからですよ。 自利のために努力するものを 声聞・縁覚として小乗仏教とし、もう一方を自利と利他を同時に目指そうとする大乗仏教に分けたのです。今の世界は 自分の国の利益を前面に出し過ぎることによる軋轢や不安定さを孕んでいます。仏教の 「仏の境地」を求めて永遠に努力するという揺るぎ無き道標とは真逆の現実です。
 一己の人としてどのように生きたら良いか?は 国を問わず宗教や民族にとって共通するテーマ。 それが 急に 多様な価値観で混乱し始めた 、過去に自制の役割を果たしてきたものが影を潜め、 気が付いたら寄港地を求め彷徨う人ばかりとなってしまうかも知れぬ。
 溢れる情報は その真偽を確かめる術はなく、 真相の隠蔽や偽装は益々巧妙に巨大化する。 この先どうなるのか判らない? せめて この国だけでもと考えるのは誤りだろうか?日本は 今の仕組みを見直す時期が来ていると 思います。でも まだまだ 今の日本には 膿を出し切ろうとせず どうにか なるだろうと思う人が多すぎるのも事実。
 
 
 コトバの軽さが目に余る。謝罪すれば それで済むのか! 国の将来を左右するような施策でさえ、決めたことを安易に反故して責任を問われれば ”今後二度と繰り返さないように厳正に対処します”と頭を下げる。こういった現象は 世の隅々に伝搬することを その人達は認めない。連日起きている悲惨な事件も この国のリーダーたる人達の言行不一致(信義の欠如)が・・・・”あの人たちが ああだから・・・・・”と連鎖してしまう。彼等にこれを否定する確たる根拠は持ち得ないでしょう。
 嘗てのリーダーで自分の利をむさぼるような人物がどんな末路を歩んだか? 清貧というコトバは、はっきり言って”経済第一”なるコトバでこの国から消えた。それと知足というコトバも同様に それに代わって自由と豊かさを靡(なび)かせる。何故 先人達が「清貧」や「知足」というコトバを大切にしたか?を解せなくなってしまった。 リーダーの全てでは無いとしても 二世三世 代々引き継ぎ 産まれた時から その環境で育った人には それを理解するのは難しいようだ。そんな人たちの発するコトバの軽さは 決して良い結果をうまない 勿論、子供達だけではない。
 昨日は悪天候で予定した大内さんの納骨は今日に先伸ばしになった。彼の54年の人生は 世の中に存在する喜怒哀楽を凝縮したものだった。彼は4歳の時に母親に連れられ尚恵学園に来た。当時ハッキリ発したコトバは≪かあちゃん≫だったと記憶する。
 振り返ると ≪・・・・だった。≫というコトバになってしまう。彼もまた精一杯、一日一日を生き、逝った。彼のお兄さん、お父さんの役をしたMさん兄弟の眠る墓地に。
 闘病生活の中でも決して明るさを絶やさず 仲間を大切にしていました。苦しかったこと 悲しかったことも 沢山あったと思う。彼の部屋には 今も自分で折った千羽鶴の束がいくつも掛けてある。
 ・・・・・・・・・・・・    ・・・・・・・・・。

3287:長幼のけじめ

 長幼のけじめ・・・・・・。大人と子供それと公私のけじめ(区別)が どうも訳わからなくなっている様に思えて仕方がない。その大きな原因は 範を示すべき大人たちの零落(?)と公の規範の乱れだと決め付けしまうのは間違いでしょうか? 自分も含め 大いに反省しなければなりません。このようになった最大の要因を、感謝と感動の二語の言葉で証明しよう。感謝はありがたく感じて謝意を表すこと。周囲を見回せば 瞬く間に感謝という相手を思いやる気もちが萎えている。感動も然り、深く物に感じて心動かすことが減っている。おもてなしを当然と考え、その対価を金銭で払えば良しとする。そこに不満や差別の感情が働き 人と人の関係にギクシャクした感情が生れる。良く考えれば そうなることは 最初から判っていたはずなのに、知識偏重教育で生きた智慧を学ぶことを軽視したツケがここにきてジワリジワリと効いてきた。 当に、その本性を露わにしたのは 例の年金の諮問会議の報告書受け取り拒否では無かったか!
 だから見なさい! 増え続ける負のスパイラル(渦巻き)をどこから変えて良いか全くわからない。一見 この国が平和で秩序正しいと思われているかの如き様は 表面的ではないのか?そのメッキが剥がれても気が付かず 誤魔化しや責任回避に長けてしまった。
 先人達が築いた財産を その子や孫たちが食い潰すようで 見ていられない。自ら招いた負のイメージをあたかも自分が犠牲者であるかのごとく言動を止めようとしない。
先程、強い揺れがあり、一端書くのを中止し、また書き始めている。そうです!東日本大地震の記憶が遠ざかっている。我々はあの時の気持ちを忘れてしまったのだろうか?その後も日本国内で起こった自然災害の数は数えきれない。
  これで”共生型社会”なるキャッチコピーを掲げるとは 言語道断だ。やるべき順序が逆だろう。
 政治家は 自らの責任を感じた時は 潔く身を引くべし。これが本来の国民の代表者たる資質条件であったはずなのに 皆が皆 偉く成りすぎた。
 
 何故 人は長じるにつれ その容姿を自分の都合で変幻自在に変えるのか? 良寛さんが” 裏を見せ おもてを見せて 散る紅葉”と辞世の句を詠んだ その良寛さんの生き様から沸々と湧き出る様は 現代人が見失った条理に通じるような気がしている。分け隔てなく 相手の中に飛び込み 戯れる姿には損得勘定はない。”散る紅葉 残る紅葉も 散る紅葉”この偈頌の真意だ。 これを 今、自らトップランナーを演じている人達に そのまま贈りたい。
  自分は 別だと勘違う人達よ!己の地位を特権化し 出来るなら後世に名を残すことに励みなさい。それで 貴方は 満足ですか?心から信じられる人が貴方の周囲からいなくなるまで 励めばよい。歴史は 思うようにはならない。一瞬に忘れ去られ、葬られることだろう。キャッチコピーという意味は その中味の是非ではない、寧ろ 受けをより強く意識したアドバルーン、貴方達が 共生型社会を目指そうとするならば 先ず 自分自身が共生の意味を学び履行してほしい。 どうしても理解できない人達、否、理解しようとしない人達に見えてしまうから そう言わざるを得ないのです。

3288:条理
・・・諮問を託され 揚揚と 纏めた結果は 棚の上・・・・

 三浦梅園(江戸中期の儒医)が首唱した条理学、自然界を支配する法則、その中で今に通じる”公序良俗”(民法)は、公の秩序と一般的な社会の道徳観念(道理)を唱えたものでした。
 その条理を現代人が見失っているという警鐘。多くの人が ・・・・おかしい、間違っている・・・・と感じていることをも 無視をする。制限なしの寛容さ(?)が認められる社会は果たしてどうなのか 寛容→無秩序? 政治家に付与された特権が 本来の在るべき姿とズレが生じた時 どんなに良い事を決めても 大衆には響かない。その繰り返しを反省も無く続けている、 そんな風に感じてしまうのは 私だけなのでしょうか?
  
 いや 違います。2003年 つくば国際会議場において 現在の陛下ご夫妻をお迎えし 第16回知的障害者のアジア大会が開催されました。あれから丁度16年が経ちました。今年の5月になって毎日新聞の記者の方から その時の話を聴きたいと突然の電話があり、そのことが 新聞紙上に掲載されました。あの時の様子はハッキリ憶えています。両陛下ご臨席の開会式でミュージックベルの演奏を我々の仲間が担当しました。現在の陛下が皇太子時代の事です。両陛下がお帰りになる時に会場の玄関でお見送りしました。ベルを演奏した仲間の前でお二人が立ち止まり 腰を屈め 優しく話かけていた姿に私は感動を覚えました。
 4人の仲間と2人のスタッフ、その時演奏した曲をCDにして 今も大切にしています。その時の大会テーマは ≪本人の声を聴き いっしょに話し合う≫という障害者自身が自らの思いを語るというものでした。
 この国が 二度の大戦に巻き込まれ 国土が焼野原と化したことは いま 超高齢化社会と謂われ ある意味では肩身の狭い思いをしている70代以上の人達が自ら体験した史実、今こそ その声に耳を傾けることが必要だと思います。
  お年寄りを社会の負担と考え 心から祝福できない国としたら 悲しくなりませんか! 世の中が乱れるのは 先人を敬う心を蔑ろにすることから起こる。感謝も感動も同じです、この基本をもう一度 良く考え この国の在るべき姿を国民と一緒になって考えることが必用なのです。
   
 
 驕るな○○党! 一応遠慮して実名は伏せた。・・・・が 皆知っているよ。情報公開や個人情報保護、そして 今回の改正児童虐待防止法。貴方達は次から次と問題が起これば改正法や新法をつくる。立法府の使命だから・・・・・そうじゃないでしょう。自分達のことを棚に上げていませんか!期間を決め 見直し修正するのはお決まりで、今回の年金諮問会議もその一つ、別名 有識者会議というものです。その会議メンバーを選ぶのは いったいどこで誰の承認を得て行うのでしたか????
 ま~いいや! それより衆議院本会議で全会一致で成立した改正児童虐待防止法に言いたい。今回の問題は 児童相談所の体制強化と「しつけ」名目の体罰禁止が柱だそうです。私は以前から問題だと感じていたことがある。
 どこの県でも児童相談所は圏域ごとに配置し 県庁所在地にそれらを統括する中央児童相談所が設置されている。これは40年前と何も変わらない?各相談所には一時保護所が必ず併設され24時間緊急事態の対応をしていたのです。それが何故か 一時保護は中央児童相談所一か所だけとなり 他の相談所は挙って閉じられた。結果どうなったか 直接それも突然に我々施設に受け入れ要請がまわってくることになったのです。・・・・・・。これが どういう結果を産んだか? 本来 現場主義であるべき相談所が事務処理機関となってしまった。だからです 休日なので対応が遅れたという言い訳を なんの疑問も持たず謝罪会見で出るのです。
 これも 国の業務省力化のため? 実態は我々が無理して受け入れ 何か問題が起これば 社会的な批判・制裁を受ける。この綱渡り対応の繰り返しを行ってきたのです。これは 今の日本の社会の制度の実態です。政策はどこが責任を持ってその業務を遂行するか・・・・・これが曖昧になった今、どうするか?私は いま悲観的にしか思えない。 現場と向き合わない行政、責任を取ら無い政治家が増えすぎ 自縄自縛となっている。そして 運悪く責任を問われれば この法律は誰がつくったと犯人捜しが横行するのです。
  全て 初めから判っていたことで 継ぎ接ぎだらけの制度と無責任体制と言われる所以ですね。

3289:されど・・・

 昨今、なんとも 腑に落ちないのは 漏れ聞こえてくるのでは無くて 堂々と躊躇(ためら)いも無く 自分達の選挙第一を唱える者たちが増えたこと。一体 この人たちはこの国をどう思っているのか 尋ねる気も萎えて どうせ 自分が当選できれば・・・・という目的錯誤が強まるばかり。実にこまったものだ!政治家の公私けじめの劣化は我々有権者の責任か?それもあるが それだけでは無い。 先ず信念が薄弱で 所属政党の鞍替え自由!借金漬けのこの時代に 惜しみもなく膨大な国費を使い 与野党揃って相も変わらずに同じ事を続けている。国費を使わず出来る選挙へ本気になって改革する者が誰一人出ない不思議さ。貴方達も見ただろう 香港での熱気を。昭和40年代前半の日本を思い出した。 私はその輪の中に入る勇気もなく 遠回しに眺めていた一人だから 現状を批判する資格はないかもしれぬ。そんな事を言っている場合じゃねえだろう。今のニッポン。
 もう一人の私が 怒り出す。
 そうそう 明らかに当時と違うのは 今 この国の大人から若者まで”夢”や”希望”に自分さえという限定語がついてしまっている危うさだ・・・・・。どうして こうなってしまったのだろうか?  50年前は 夢や希望があったし 少なくとも自分さえ良ければという気持ちは抑え 相手と向き合う議論があった。
 国としての核心や基軸が今 どうなっているか?本当は それを議論し 学ぶ場が教育のはずだが日本から瞬く間に消えたと私は感じている。その代わりに 偏差値教育を優先させ知識偏重になった。この辺が戦後の大きな分かれ目で これが間違いだった。もう 後戻りはできまい。 大量生産&促成栽培による浮いて漂う”根無し草”とダブる。
 されど・・・・・
 これは 子ども達の責任ではない。赤子を見れば昔も今も変わらない、人間は動物と違い成長が遅いから支えが必用なのですよ。社会がそれに上手く対応できているか・・・・。家族もまた 小さな社会(コミュニテイ)だから、その責任は大きいはずだろう。
 幻の繁栄や平和にいつまでも浸かっている間に、判り切ったことをも 蔑ろにしてきたツケだ! どんなに 便利な世の中になっても モノが豊富になっても 失ったモノの代替えにはならない。そのことを今の私達大人が正直に認め変えようと努力するか否か、これが全ての原点だと思いますよ。
 
 己を偽り続けていると 誰だって自分を見失ってしまう。何が本当の自分なのか 判らない。良心の自由は日本国憲法の第19条で保障されている。自分と違った主義信条を何ものかに強制されることを禁じたもので 民主主義の前提だ。
 良心の呵責ということは 簡単に言って、悪い事をしてしまった自分を責めることですね。これだって前提があり 本人に自分が悪い事をしたという気持ちが有るかどうか? その証拠にその気持ちが無い人は いつだってああ言えばこう言う、考えを簡単に変えても平気でいられる。 なんと呆れた事に柔軟性とか許容力と評価する。ここまでくればもう重症です。いつの世も組織が乱れる大きな原因は この種のリーダーが居続けること。だから それをチェックし辞めさせる方法をつくったはずだった??? それが根本から崩れた。
 昔人はこんな風に考えていた。美辞麗句を連ね 自らを誇りケジメが無くなったリーダーには任を全うする資格がないと、即 退場を断ずるべし。人間は飽くなき欲望を持つ、自分の立場を守る為、土塁を築き、法や仕組みを考えた。それが 特権である。
 されど・・・・・
 組織にはいろんな力学が働くもので 擦り寄り 寄生して 上手い汁を吸う輩が増えるのもその一例。諫言・箴言 罷りならぬと只管 イエスマンを演じたがる。
 社会主義と民主主義の綱引きは 後者に分があり、世界地図も変わった。それが歴史だ。だが 未来はどうなるか 判らない!政治の世界も宗教の世界も同じ、一人では成り立たないし 長い間には劣化する。
 私は 先輩に恵まれたと今感謝で一杯である。それは 今の仕事で 相手(利用者の皆さん)を師とせよとの教えをトコトン受けたから。
  
 
 信義無き政治家には 自ら身を早くひいて頂きたい。マスコミは大きく取り上げなかったが ある議員が嘗て敵対した政党に入党するらしい。 少なくとも今から10年前にやっとの思いで政権を奪い取り 野党から与党になった政党の若手で期待されていた人物だ。 オカシイよな! どこかが狂っている。言い分はあるのだろう!が 聞きたいとも思わない。こういった事例が あまりにも多すぎる。
 巨大化した政党は自らを顧みず戒めることをしなくなる。国会が温床となり本来の使命そのものが形骸化、 議論する前に結果が見えてしまうできレースだ。
 されど・・・・・
 この状態が いつまでも続くでしょうか? 貴方達には日本国民の多くが我慢の限界にあるという認識が薄いようだ。その証拠を示せというのであれば いくらでも有る。それは順番が違うだろう、貴方達が自ら先に知って当然だ。全員が政治の基本を再度学び直すべきだ。 入党を認め 公認するのであれば 誰の責任だ?・・・・・。悍(おぞ)ましいのは、もし 議員の問題が起こると 個の責任として 政党そのものは責任はとらず。これが罷り通る時代になっただろう。
”器量”というコトバの意味・・・・その地位・役目にふさわしい才能・人柄ですね。徳と言ってもよいと思いますが その物差しそのものがおかしくなっているのでは 元も子もない。

3290:愚痴 with 心眼

 愚痴の闇とならぬように with 心眼としたいものだ。ついでに 永田町に向かって。絶望名言集なる単行本を注文したばかりだ。ironically//
 先週だったかNHKTVで党首討論が流された。それも45分(?)という短い時間で3人~4人の野党党首に対し首相が独り、内容は 言うに及ばず、 正直、無駄と思った。物事の真相や要点をはっきり見分ける鋭い眼力を心眼という、全く 観る側への配慮を感ぜず、散散たる内容だった。これで責任を果たしたとは思うまい。だが 余計 不信感と空しさが増した。
 日本の政治が国民からどんどん遠ざかっていくように 投票率の低迷から抜け出せない現実、これが 明確な国民の意志だ。判り切ったことで政治に期待が持てなければ 誰に一票を投じるか判らないのも当然だ。庶民感覚とズレた永田町のルールで決まる事が多くなった。昔は 今ほど酷くは無かった。我々国民に分かり易いものがあったし ホンネが出たと思う。政治家がサラリーマン化し例の忖度が日本中に蔓延してしまったようだ、 この状況が国を覆っている最大の問題かもしれない。
 ついでだから 愚痴と愚智へ私見、いずれもグチ。愚智は愚者と知者を併せた字。仏教で釈迦十大弟子の一人、掃除を通して悟った周利槃徳(パンタカ)の徳を 今こそ日本で生かされる時かもしれない。誰しも愚と智を持っていると観るのが仏教で どちらかが強すぎる状況が悪さを働く。
 もっと 単純に判り易くならないものか それでは 困る人達がいるのかもしれない。  そうそう パンタカは忠実・只管に 釈迦の指示に従った。彼はできない言い訳はしなかった。 他人の履物を綺麗にすることに励んだ。 
 無私のパンタカも凄いが それを認める釈迦 あればこそ。
 
 今年の梅雨は 雨が降らないのかと思った程 この辺は雨が少なかった。昨日は 天気予報的中 纏まった雨が降った。気温も急に下がって しまった上着を出した。通夜があったので  体調を気にしながら過ごした。正直 まだ長い時間 読経する自信がない。 まだ退院して2か月経っていない。無理して 周りに迷惑かけてはと思うから 。でも 僧侶という身で 法要に出仕するしないは檀家さんへの 影響が大きい。
 そんな風に思った事は 今までに殆ど無くやってこれた。これは 感謝してもしきれない。だからと言う訳でないが 正直 今 自分の身の置き場に戸惑いはある。。
  最近、気のせいか 闘病中の人との遣り取りが増えたと感じている。違うな、誰だって 何らかの病(?)を持ちながら 生きているということなんだ。その実態は 千差万別。
 今年になって 外仕事を減らした代りに 読書の時間が増えた。これでプラスとマイナスが ゼロ?  これも乙なものと思う。
 大雨は 時に災をもたらす ・・・・が 少雨では 困ることもある。これは自然の摂理で。愚痴と愚智の差も 気にしなければ 無関係  否  無関心!!!!!
 ★ 無や空という一字を加えてみると 違った世界が見えてくる。(般若心経etc)
 
 100年~150年の周期で起こっている首都直下型大地震、最後の地震から70年が経過しているそうだ。地下から地上、何層にも構築物が作られ、10年単位で観る東京の姿は 超スピードで変わっていることが判る。
最近、日本海山形県沖で起こった震度6強地震の余震が今も続いています。東日本大地震の記憶がドンドン薄れている中で 日本は地震が起こらない場所がないことを再認識した。今の民主主義代議員制もそろそろ考えないと不味いのではなかろうか!制度に ドップリ浸かってしまったのは 立法・司法・行政の三権も例外ではない、自ら変えようとする力が働かない。世間はオリンピックやら万博で騒いでいるが 正直 私は危うさしか感じない。後のことまで考えず イケイケドンドン、勿論 経済界も同じだ。一般庶民はと言えば 私も含め 黙して語らずとなっている。首都直下の大規模地震が起これば 試算で被害額が90兆円を超えるという。どこが計算した数字なのか? こんな額で治まる筈はないと誰もが感じているのに、単に 数字をあげているだけとしか思えない。それは 福島原発事故で実証済み、 国は曖昧なことしか語らなくなっただろう。
 そして 再稼働の動きを加速しようと目論む。
 最近 Yさんとの遣り取りメールで 前向き発想もいい加減にしないと 無駄を無駄と感じない国になる。ホドホド感が誰も判らない社会、それへの対策が日本は最も遅れてしまったのではないか!このまま進めばこの国の未来は決して安穏とはしてはいられまい! いみじくも語ったことは、それには自制力想像力だという二つのコトバでした。
 ★約30年の歳月を費やし ボルネオのジャングルの中で障害福祉の実践活動をゼロから始めたYさんが自著本(ぶどう舎)を送ってくれた。