原究 186

  

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 3231  願以此功徳・・ 12/15  3236  山河  12/30  3241  両天秤  1/13  3246  情緒  1/27
3232  三毒 12/18  3237  通奏低音  12/31  3242  捨てたもんじゃ~ねえ~  1/16  3247  生きる  1/30
3233  鈍行列車 12/20   3238  2019年  1/1  3243  回遊魚  1/19  3248  まやかし物  2/2
3234  1日は24時間  12/24  3239  ネコの目  1/6  3244  絶滅危惧種  1/22  3249  信義則  2/5
3235  スピードダウン  12/27  3240  深海探査  1/10  3245  神様はどこにいるの?  1/24  3250  正義とは?  ★


3231:願以此功徳・・

朝勤行の廻向文は 願以此功徳・・願くは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生と、皆共に仏道を成ぜんことを・・・漢字20文字の訓読で 読経をとじる。大乗仏教の教えの基盤であります。
 『今、生きとし生けるものの幸福を願うとき「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言ってもよいかもしれない。そうできない自分たち、痛み傷つかざるをえない』(日本仏教の社会倫理:島薗 進)/『生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生きるものを害するならば、その人は自分の幸せを求めていても、死後に幸せはない。』(『法句経』中村元訳)
 これはいま望まれている”平和”に近づく指標とならないでしょうか!自由や個の尊厳という共通の願いは 自分さえ幸せならば良いというものではない。国の為 家族のため 武器を持って戦場に逝った若者の声が聴こえないか! 私達は繁栄を謳歌している間に大切な事を忘れている。平成からどんな元号に改めるのか判らない。 日本人が痛み傷ついて辿り付いた舞台上で今の私達の生活が成り立っている。暴力は武器を持つことだけではない。寧ろ経済の豊かさや合理性という幻影によって 罪悪感を隠匿した暴力が現代社会を蝕み続けている。どう考えても一部の人達によって 強引且つ拙速に平和の根本法を変えて良いものだろうか? いまこそメデアの責任は大きい。何も知らない赤子をいざない導くことなど 彼等には簡単だから。
 人間の寿命は どんなに長命であっても100歳が精々 それが終戦後73年しか経ていない今 数の論理で決っしてしまうのはどうなのか? この国が一様に低い投票率から抜け出せず 国政選挙ですら半数にあたる人達が投票しない。その多くは 何を信じて良いのかが判らないからで 決して関心が無い訳ではないはずだ。もし 平和を掲げ運良く議席を獲た者が 政権に今あるという理由で自論を封じ見切り発車したら 今まで指示してきた人達の思いとの乖離は修正できまい。 
 流れを止めるには 辞する覚悟(断・捨・離)を持てと釈尊は教えている。
 
 誰もに理解できるような取り決めがドンドン減って 訳の判らない文言と膨大な字数の法律や制度に取って代わった。当然 此れは忌々しき事態、某会合に出席し 用意された資料をみて 言葉を失った。
 福祉の制度は子~老人までを網羅する、縦横様々な仕組みが用意され サービスを必要とする受け手とそれを担う支え手が関わる。それぞれの相談窓口があって 要望に合う制度を教えてくれる。 実態は その流れが上手くいっていない。最大の理由は 仕組みの内容が周知されていないこと。だって その為に相談窓口ができたんだろうよ。・・・・・・。そうかもしれぬ、確かにその通りだ。国~県~市町村~当事者。
 近頃の制度改正のスピードが常軌を逸していると思っている。根詰まりが起こっているのが どこか? 窓口の担当者が変化に追いついていけない今の状況は異常としか思えない。だから末端になればなるほど深刻。そりゃ~そうだろう。1年や2年で移動になれば 今の複雑で膨大な制度を理解できるはずがない。その辺の事情を知ってか知らずか。
 何の為・誰の為のと考えると制度の為の制度を一生懸命考え積み上げているとしか思えない。ここでも また 断・捨・離(だんしゃり)!
 何が必要で 何を捨てるか この判断が出来にくいモヤモヤ感 言葉を変えれば”問題の先送り”
 『煩悩』と『執着』、これは仏教の本質と捉えられている。四諦(苦・集・滅・道)、簡単に言えば 人生を苦とみてその原因を見極め 苦を滅っし悟る方法を説いた。諸行無常 諸法無我 涅槃寂静の三法印に一切皆苦を加え四法印、悟りへの方法を具体的な八つの正しい道 八正道で説く。
 煩悩・執着=豊かさ、残念ながら そうは問屋が卸さない。現実は どうでしょう!、 どこでどうなっているか誰も判らない、自己都合・自己満足それと独り善がり この思想が個→集団→国家という広がり、こうなると地獄絵の如し?偏見でしょうか?
 核問題は 核兵器の破壊力が他の兵器とは比較にならぬからなのだろうか?水面下で日本も核兵器を保有すべきだという考えがあるのも事実、戦争の抑止力・・・云々、
 幸福を感じるのは 欲が満たされた時でしょうか?美味しいもの食べ 満腹感を感じた時でしょうか。これが習慣化すれば 体に不調をきたす。そうなって初めて生活習慣の改善の必要を理解し 食べ物・運動・睡眠の調和をはかる。実は これも そうは問屋が卸さない。
後悔は先にたたず。 先の敗戦で日本人が悔い改めようとしたことは何だったでしょう?  残念だが この体験を語れる人が国を牽引する政財官学のいずれの中にもいなくなっている。
 断・捨・離は仏教の言葉、煩悩を断じ 煩悩を捨て 執着を離れる。さて これが出来ますか?・・○○ミクスも そろそろ方向転換が必要かと・・・・。煩悩が何なのか 三本の矢には何の説明も無く断・捨・離の発想などは想定外。

3232:三毒

 私は メールを良く利用する。偽メールの横行は目に余るね。相手を騙し 何か良からぬ事を考える輩 一体どのような人物なのだろうか? 間違いなく世の中がオカシナ方向に進んでいる。最大手の某IT企業、各種のオンライン事業で急成長、その会社名を使って注文確認の自動配信メールが送られてきた。身に覚え無し。さては??? 某検索サイトで偽メールを引くと 図星だ 注意喚起するものがズラリと並ぶ。実に巧妙でそっくりにできた注文確認、見るとクレジット決済となっている。ヤバイ 一瞬思った。これでは簡単に騙される人も多いかもしれません。個人情報の漏洩など 数えきれない中で 誰しもが そのリスクを抱えている。★ 送付先に書かれた住所を調べたら番地がでたらめだった。少なくとも 騙す側に僅かに良心(?)があったのか?
 騙す者と騙される者 この辺を仏教では どう見ているでしょう。前項からの続きになるが『煩悩』から入るとしよう。できるだけ判り易く 納得頂ける方法で。
 『三毒』だが これは克服すべきものとされる最も根本的な煩悩を毒に例えています。貧・瞋・痴(とんじんち)の三つ。貧は貪欲、むさぼり求める心。なぜか象徴する動物が鶏。フーム。次に瞋は瞋恚(しんに)、怒りの心。動物では蛇。三つ目が 痴だが こちらは愚痴(ぐち)、愚痴を言うと誤解されやすいが そうではなく 真理に対する無知の心。動物は可哀そうだが豚。
 これら三つの毒が 悪の根源という。更に我々衆生の苦が生じる原因を十二項に別け説明する。聴いたことが有るかもしれません。十二因縁・・・無明から始まり老死までの十二項で説くのです。・・・・小休止・・・・
 世間には使え切れない程の給与を貰い それでも満足せず貯め込む人もいらっしゃる。それをマスコミが英雄に持ち上げるから その気になって 更に欲張ることになってしまうんじゃ~ないの?「おだて」は「誘惑」と私は教わった。
 外国語には清貧なんて言葉は無いのかも。・・・・小休止・・・・
 何と言いましょうか。。。案の定 空(むな)しくなってきました。≪色即是空 空即是色・・・・ムニャムニャ≫  本日はここまで。ゴ~ン・・・・・・。
 
 人間はどの位の数の煩悩をもっているでしょうか?なんと98もあると。九十八随眠。三毒に慢・疑・悪見を加えて六種類を根本の煩悩とし、さらに三界ごとにより細かに整理し合計で98。 この数をどう思いますか?
 慢という6つの中に入る煩悩、判り易いのは 慢心でしょうか おごりたかぶること。自慢も入る。真言宗の場合は 密厳院発露懺悔ノ文という覚鑁(興教大師)が書き残したものの中に大師の苦悩と僧侶としての本来の姿、こうあるべきだという教えがハッキリと書き残されています。(12c前期) この中に書かれている一字一句が 850年の時の流れに関係なく 現代にそのまま通じるものです。
 師と弟子の関係は ”従って教えを受けること”で成り立つ、誰を師とするか それを見定める眼の有無 こればかりは自分です。
 師はそうですね 大体が年上の方が多いでしょうが、もう亡くなっていない方もいるでしょう。そういった時は師が書き残したものか 自分が観たその方の生き様になると思います。
 偏狭な考えだと誹りを受けるかもしれないが 究極の視点ということで言えば、糸賀一雄氏が遺された≪この子らを 世の光に≫だと私は思っています。実際は 糸賀先生達を知る人達が確実に減った。先生達と敢えて言う意味は 福祉の仕事は一人ではできないからで そこに同志が必要だからです。それは障害のある子達から学ぶという思いを共有し それぞれが実践を通じて世に訴え実証しようとした歴史である。 逆に、できもしない事を公言し 成し得なかった事は知らぬ顔、ですから疑と悪見が次にくる。穿った見方をすれば 算盤勘定抜きで考えられない制度論の横行、これではどのような仕組みを作っても そこにあげた思いと実態の乖離は狭まらない。ハッキリ言って思いの脆弱さであろう。慚愧に堪えない。
 諦めない 諦めてはならない。思うようにならないこと(苦)が多ければ そこから離れようとしたくなります。他に 安住の地を求める人もいるでしょう。(四諦)それは 今の社会が 将来への展望を描けない状況になっているからだと思います。
 
 「欲に目が眩む」とは、得をしたいと思うばかりで冷静な判断ができなくなることですね。欲を少欲と大欲に分けて考える、理趣経の百字の偈の最後に・・・大欲得清浄 大安楽富鐃・・・ ここで言う大欲は利他、自分だけでなく乃至法界 平等利益 誰しもが等しく利する平和(密厳国土)を望むことだ(菩提心)。少欲知足での欲は 際限無く自分の利に拘ることを誡める。
  経済の豊かさへの妄執は信じがたいほどの格差を生み、略奪と競い合う軍事力の強化。この考えからは 何を目指しどこに向かっているのか判らない。当然 後先の議論ではない。一触即発 事が起こってからでは遅い。仏教では自利利他を説く。≪自未得度先度他≫(おのれ未だ渡らざる先に他を渡す)(涅槃経) その真逆の実態、相手を蹴落としてまで自分が先に渡るか? 尚も是とする価値観を堂々と恥じる事も無く公言憚らず、それが豊かさだと勘違う。当に物欲の虜と化し 大切なこころを置き忘れたツケがあらゆる場所に噴出していないだろうか?
 種田山頭火が行乞放浪し 各地で詠んだ全集がある。密かなブームとなっているそうである。俗名 種田正一。山口県の大地主の長男として生まれた彼が何故 放浪の道を選んだのか? 私は 今の日本の牽引者を自認する人たちに望みたい。どうしても種田家の凋落と日本が重なるからである。
 子の成長には親の影響は大きい。放蕩三昧の父親と彼が9歳の時に自死した母親、1940年(昭和15年) 山頭火は享年58歳、脳溢血によって一草庵で生涯を閉じた。その年は丁度 日独伊三国同盟を結んだ年にあたる。
★ 山頭火の晩年の日記に・・・・「無駄に無駄を重ねたような一生だった。それに酒をたえず注いで そこから句が生れたような一生だった」・・・・と記している。

3233:鈍行列車

 常磐線、昔あった準急という電車が無くなり 特別快速に変わった。勿論 各駅停車が一番多い 目的地によっては 時間のかからない電車(特別急行)に乗ることもある。宅配もいくつか種類に分かれ 早い程 割増料金がかかる。日本の郵便で誤配や届かなかった数はどの位あるだろうか?その事故を防ぐ為に別料金で書留がある。 留守であれば 再配達の希望時間を連絡すると 夜の8時ごろまでは 届けてくれる。これがなんと当たり前になっている。
 それにしたって 毎日届けてくれる郵便物で読まずに捨ててしまうものが 何と多い事か?発送する側はこれを無駄とは思わない。数うちゃーあたる?
 旅は道連れ世は情け・・・・これは お互い助け合い仲良くすること。相部屋雑魚寝を嫌い 個室でなければ旅行せず。いつ頃からこんな風になったのか?そうそう 時間が経つのが早すぎると話したら 誰かに それは感動が減ったからだと言われた。記憶力の低下もあろうが なるほど感動が減ったかな~? 思い浮かぶ事は 寝ているようで寝ていない 熟睡感は減っている。されど時間は止まらずだ。歩かずに車を使うのが当たり前、便利さを享受する代わりに体を動かさず不健康になった。
 そんな話を70前後の3人が久しぶりに夕食を共にし2時間半ばかり あっと言う間の時間と感じた。共通するのは 現役を引退したと言え 本心では何らかの形で社会と関わっていきたいという思い。先ずは 現役時代には時間がなく出来なかったこと。それとは別で昼 中学時代の同級生がやっているコーヒー店に行った。店を定年後始め7年が経つという。つい最近そのことを知ったので 3人つるんで 行ってみた。美味しい自家焙煎のコーヒーを御馳走になった。店主は やって見たかったことを実現でき声が弾んでいた。
 そして 昼も夜も話題に上がったのは 己の健康のこと、これは共通だった。そして 乗るなら鈍行列車。  境内のイチョウと紅葉の落葉は学園の作業班が来てあっという間に綺麗にしてくれた。Good Luck & Thank you!
 旅は道連れと四国遍路は同行二人 お大師様と一緒、世は情けは”お接待”、これがセットになって歩く巡礼の旅、さて 皆さんは 飛行機を使い できるだけ沢山の場所に行きたいと思うか それとも テクテクと自らの足で歩く旅をしたいか???
 テレビの人気番組で「山の中の一軒家」を訪ねる番組がある。グーグルで一軒屋を探し当て 取材する。番組にならずボツになるのも有るに違いない、運良く住人がいたとしても 大体が独り、それもお年寄り、多くが空き家になっているものが多いように感じる。 日本全国には約6063万戸の住宅があり そのうち約820万戸が空き家という。(2013年:総務省)。これが2033年には空き家が約2170万戸と2倍を超えるそうだ。人口減が止まらない今の日本で当然だと思うが その対策はいかに? 一番空き家率が高い県は山梨県で22%、因みに茨城県は住宅数で126万戸で全国13位、空き率は14.6%と然程高くない。
 実は 身近な例で お墓の数も減少がずっと続いている。墓じまいが増え 合葬墓地に変わりつつある。おそらく この流れを食い止める方法は無いだろう。
 大都市東京は近郊に住宅を建てる人が国内で断トツに多い。最近は 一戸建住宅より高層マンションが人気のようで 林立する高層ビルの多くが住宅用、特に東京湾周辺は 夜景を見れば一目瞭然 深夜でも煌々と灯りが点灯し香港かニューヨークのようだ。
 首相が議長となり22名の構成で『人生100年時代構想会議』が設置され一年が経った。既に9回の会議を開催しその中間報告が出る。その旗印は「人づくり革命」、 思うように行くでしょうか?
 当然 将来への危機感を持ったからだろうけれど 果たして改革が時代変化のスピードに追い付いていけるでしょうか? やってもやっても 不協和音を奏でるアンサンブルとならなければ良い。
 山頭火が述懐した≪無駄に無駄を重ねた≫専門会議とならぬよう 気配りをお願いしたいものである。それと 先ず ご自身を見直す これが大事かと。 
 午後5時前に辺りがスッカリ暗くなる。2018年も残り10日、昔を懐かしみ 明日はどうかと思いめぐらす。 もう書き始めて40年以上になる日記帖は整理もせず本棚に積んである。最近は特記することのメモ書きになった。それでも予定表と見比べ 夜毎にチェック。 無理せずにと自分に言い聞かせながら ・・・
 これは 性分かどうか、一か所に落ち着いていることが大の苦手、放浪癖か徘徊グセか。もう一つの拘りは 今こうやって寺のPCで書き連ねてきた”独り言” 見てくれる人がいるいないには頓着しない。己の精神安定剤。
 どうしても 内容が愚痴っぽくなってしまうのを歳の所為にして 好き勝手なことを懲りもせず続けている。
 昨夜BSで”小宮山宏三菱総研理事長と小林喜光経済同友会代表幹事に聞く”という番組を観た。二人は産学界の重鎮だけに 話される内容に説得力を感じた。戦後のモノづくり一辺倒の日本から これからは人への配慮を大切にする国づくりが望まれる。市場自由主義経済の中で益々格差が進むことをどのように受け入れていくか? 将来を考えることの難しさ、 どれぐらい先に照準を合わせるかによって優先順位が変わる。私には ヒトとの関わりを今までやってきた自負があるが 思いの通り何も進まないことも嫌というほど知らされた。番組の中で初めて知ったZ=a+bi・・・・・の数式。aはモノ、biは何か?
 GDPや戦争・テロという言葉が溢れる、その言葉を時には出し惜しみしながら 巧妙に仕組まれた得体知れずの便法、いつの間に現代人を蝕むトラウマになった。a=モノは この国が既にモノの飽和状態にあるという。食べられずに捨てられる食品。寝静まった街を煌々と照らす明かり。新車を注文してから納入されるまで半年~一年。一方で働き方改革をすすめながらそれが出来ない裏事情。
 誰かが勇気をもって この流れをストップできるか? 50%に満たない投票率が如実に示すのは半数に達しない支持での立法政策の限界であろう。biは 人間は物質的満足だけでは幸せを得られないという視点(哲学・倫理)とそれを実行にうつす覚悟。
 これを 軽視し怠ってきたツケを次世代が払うのは 容易な事ではない。 

3234:1日は24時間

 『カニバスツアーに行ってきた。良かったな~』鳥取県に羽合(はわい)温泉という処があることを私は知りませんでした。日本のハワイと宣伝しているそうで 日本海に面した風光明媚な温泉地。関西に住む友人が1泊2日で行ってきたとメールで知らせてくれた。
 日本海の夕日を露天風呂に入って・・・・いいな~。
 尚恵学園でも皆さん それぞれお楽しみの旅行がやっと一回りし 既に正月モードに変わった。そわそわ ワクワク 来る人合う人 誰彼構わず 正月家に帰ることを訴える。これもまた風物詩? 1日は24時間。
 今年もいろんな事がありました。あとでゆっくり日誌を読もう。文字裏にあるドラマ、悲劇あり喜劇あり。一コマ一コマが 皆が皆 一生懸命生きたアーカイブ。今年あった出来事でショックだったのは”公文書偽造”だった。それは記憶にない。知らない・・・・のオトボケから始まった。そしてデーター改ざんの判明、次々に出てきた不正の連鎖、何故 そんなことまでしてという理由は未だ明らかにならず。国幹や企業でのモラルの欠落は 今まで先人達が苦労して築いてきた内外での信用を一気に失った。これが人災の始まりだったと思う。寛容性にも限度あり。何らかの力が働いたかどうかは判らないがメデアはその矛先をスポーツ界に向けた。
 1日は24時間 一生は???。幼児が”お利口ね。”とご褒美を貰った時のあどけない笑顔、それはもう邪心がなく可愛いものである。大人が”おお 良くやった!”とご褒美に栄転昇進した時、周りは胡散臭いと感じながら黙秘権。
 このズレは 最大級の地殻変動で この先 どこまで震源が地表近くまで上がってくるかは判るまい。
 1日は24時間。この時間は誰にも隔てなく平等に与えられる。平成30年は日本で亡くなった人の数が136万人過去最高(厚労省)、生まれた子供は90万人平成に入って最低だった。単純計算でマイナス46万人である。 
 風雲急を告げるか?刻一刻、世界各地から送られてくるニュースは他国の事だと安穏としてはいられない。条約を反故にするなど簡単に行なわれるご時世だから、余程しっかりしなければ引き込まれてしまう。
 笑うもの泣くものが同居し、声高に己の実績を誇る。こうなると不満を抱くものは益々懐疑的となり、国内を纏めるのも容易な事ではない。保守主義は 従来からの伝統・習慣・制度・考え方などを尊重し、それを変えようとすることに反対する社会的・政治的な立場、方や○○ファーストは一国保護主義で自由貿易の弊害打破や移民受け入れ規制への流れが強まる。モノづくり日本が世界の両極に分かれる主張の中でどう振る舞うか難しい立場に立たされる。
 国連世界人口白書によれば 2015年で世界の人口は73億人だった。 推計の高低位で総人口の幅は大きくなるが100億人を超える可能性は大きいという。日本の人口減少は今後も止まらないとの予測にたち、いま出来る対策はそのスピードを少しでも遅くすること。
 だが 日本の議会制民主主義が上手く機能せず 本来の姿ではない現状では これら難題に対し国家として道を踏み外さずいけるかどうか どう考えても不安になる。
 最後は是非の判断を天にむかって大いなる存在(神や仏)に委ねるか! それには 我々一人ひとりが節度と常識を守るという条件が担保になる。不良債権を覆い隠し 取引するようなことじゃ~なく 誰にも判り易い方法で確たる根拠を示し説明する責任があるのではないか。

3235:スピードダウン

 ”笑点”という長寿番組は昭和41年から半世紀以上続く、昨日は三遊亭と林家に3人ずつに分かれ いつもと違って30分間の大喜利 実に面白かった。出演者は 事前に打ち合わせを行って 本番になるのだろうか? 想定外の問答に抱腹絶倒した。商売とはいえ 客を笑わせる職業は大変だと思う。 ダジャレを連発し 笑いを取る芸人もいるが あまり感心しない。今 女性のプロの噺家が日本にどれ位いるか知っていますか?250万人に1人 というから全部で50人ぐらいです。
 面白い番組で動物の何気ない動きを映像にするのも流行した。その中で断トツは猫、世界中の猫をカメラにおさめたものは 癒される。我が家のミイは これぞという芸はない。ただ 高窓になっているサッシ戸を少し開けておけば そこを自由に出入りする。私が寝そべっていると大体上に上がってきて 顔スレスレまで自分の顔を近づけ喉をゴロゴロならす。彼は 充分 我が家での存在感を発揮してきた。 ゆっくりした時間の流れを感じる。
 癒されると言えば、お昼過ぎ、Kさんが寺の脇を通った。私に気付き 傍に来てワザワザ見せてくれたのは 買い物袋に入った新聞とパン、毎日近所のコンビニで買い物をする彼が、帰り道、おもむろに袋からパンを取り出し 私の目の前で食べ始めた。
 午後3時過ぎ 出掛けていたNさんのご帰還、 なんとなく後姿が寂しそう。車の窓を開け”Nさん”と声をかけた。日曜日は  どこで飲んでくるのか いつでもアルコールを飲み 千鳥足の上機嫌で帰って来るのが定番だが、今日は飲んだ様子は無かった。
 沢木耕太郎がJ-waveのクリスマス・スペシャル番組の中でノーベル医学賞を受賞した本庶佑先生のスピーチにあった、好奇心と無駄と運の3つの条件について語った。これは 今を生きる人達にとって説得力がある。
 NO:3232で触れた種田山頭火の晩年の日記・・「無駄に無駄を重ねたような一生だった。それに酒をたえず注いで そこから句が生れたような一生だった」・・・にどこか通じる。人間 器用な者ばかりではない。人付き合いが苦手とか上手く話ができないとボヤク人も多い。そんな中で一つの事を時間をかけ コツコツ取り組んでいる人もいる。映画『ガンジスに還る』の中で 「解脱の館」に行くことを告げる父ダヤと息子ラジーブの親子の葛藤を通して 幸福で安らかな死がどういうものかを問うている。
 母なる河ガンジスの畔バラナシは昔から 解脱を約束するヒンズーの聖地として荼毘にふす人が今も絶えない。
 ネット通販が益々盛んになった。そこに潜むリスク、当然それは注文する側には覚悟が必要だ。それと自己責任? 最近の銀行は 苦肉の策か 両替え手数料やらマイナス金利の預金募集、 これは消費者のメリットなど関係せず 自己防衛?何せ競争相手のコンビニは 時間構わず銀行業務を代行する。これも規制緩和策の一環でしょうか。
 案の定 私が恐れていた事が起こっている。急成長を果たした某介護サービス会社が最近になって会社更生法にかけ倒産した。預託金を流用し 実際に有るべき資金がなく 負債を収益で返済できない自転車操業。国は 数年前に 介護や福祉分野にもM&Aを奨め 大規模事業展開のメリットを公言したのです。金融機関は融資先が見つからず金余り対策として 安全な融資先を探し 相手側の実力以上の融資を持ちかけた。これは この国の 最大のリスクであることを 政官財学の中で 有識者を選別し 必死に押し隠そうとしたのである。見なさい! いま その時に自論を声高に唱えた人達は どこに行ったのでしょうか? 
 豪華な設備はホテル以上 風光明媚にして終身安心できるリゾート住宅とPR 入居者を八方手をつくし 募集する。これって 一寸先は闇、事業者側も 利用者側も 介護バブルの再来か。公助・共助・自助の議論はお蔵入り、それとも また持ち出すか??
 福祉の実態を明かせば 事業内容を細分化し複雑になり過ぎたと思っています。一人の人間が 何種類ものサービスから自分にあったものを選ぶ でも  イチイチその手続きをしなければならぬでしょう。何故 その人の幸福で安らかなる生活を保障するのに細切れの仕組みにするか?それよりも何よりも 誰がそのサービスを担うか その受け入れ態勢が覚束ない。
  専門性という裏に 隠された無駄、複雑過ぎて一見して判らないことが 自分がいざサービスを受ける身になって初めて理解する。減速するべきと思うな!過去から学ぶ姿勢が欠落してしまった危うさです。
 
  2018年も7日を残すだけとなりました。毎年実施している忘年会 先陣を切って2つの事業所がそれぞれ同じ市内のローブを会場に行われました。全員が参加できたことは 奇跡に近いことで 3時間に及ぶ宴は笑いが絶えないとても楽しい集いになりました。厚生園と成人寮 それぞれ90名を超える人数で市内のローブにおいて実施できました。

 歳の暮れ 少し風邪気味になったようです。 寝正月とならぬよう 注意しましょう。左の写真はメンバーとスタッフ それぞれ3人で合計6人の共演。初めは車イスのYさんが一人で唄うはずでした。するとSさんとNさんが自分からステージに上がりマイクを持ち一緒になって 唄い始めました。

 多少 賑やか過ぎる感もしましたが 皆の笑顔をみていて 感無量となりました。

3236:山河

 ♪ 人は皆 山河に生まれ 抱かれ挑(いど)み 人は皆 山河を信じ 和(なご)み愛す そして生命(いのち)をつなぎ 生命を刻む
     そして 終(つい)には 山河に還る・・・・・♪「山河」作詞:小椋 佳
 この唄は 何人かの異なる歌い手がうたった。それぞれに 趣があって 心に響く。
 小林秀雄と岡潔の対談を収めた『人間の建設』:新潮文庫があります。「によって人のを強制できない、これが民主主義の根本の思想だと思います。・・・・情が納得して、なるほどそうだとその人自身が動き出さなければ、前頭葉も働かない。だからブレーキが弱くて、自分を押さえたことにはならない。・・・」 ≪近代数学と情緒≫の部分で岡潔が語った。p130.
 知情意という人間の3つの心的要素の円満な発達は 知識や意志がどれだけ優れていても情緒(感情)での納得がなければ 全てが無にきする。数学者と批評家という異分野の巨匠が自由に語った交流の味わいは 何故か二人に共有する根本感情が流れているように思った。
 岡は現代をこのように観ている。  自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明と断じ西洋では自我と謂い仏教では小我である。実は無明は仏教でいう三惑の一で真理に暗い事である。知識や意志を尊重することを良しとしても、どれかに偏り過ぎていては円満な発達は難しい。・・・岡は語る≪いまの中学生は同級生を敵だとしか思えないと言うのです≫(p120)と 十五歳に達しない年齢で醜い生存競争の中に放たれる社会環境は異常だとも・・・・・。
 今の日本は経済発展を最優先し 数字をあげ 盛んに どうだ ここまで改善できたのは 自分達の実績だと言わんばかり、しかし、どれほどの人が それに付いていけず挫折感を味わったか?真の 国民と向き合うとは 本来 そういった人達と膝を交え 語り合うことから始めるべきではなかっただろうか?情は強制できないという考え方に通じる。 同じ事を行ってもそれが偽善と映るか否かは”情”の範疇です、信用できるか否かは意志の強さや知識の多さではないという事だと私は思う。
 そして 誰しもが終には山河に還っていくのである。
 平成の30年間を振り返ると 様々な出来事がありました。個人的に38歳~68歳の30年間は最も仕事がやれた時期だと思っています。それが良かったのか否かは正直判らない。
 小椋佳が詠んだ山河、自然豊かな日本で起こった多くの天災、これによって尊い生命を失い、努力して築いたものを一瞬にして失った方が数えきれない。被災された人々は絶望し どれ程の人生の悲哀を感じたことだろうか。それでも 時が経つにつれて 現実を受け入れ 前に進むよう背中を押される。それは 家族かもしれない。知情意の核心は情という証そのものである。
 ”カーカン くっと~ いいね” 正月まで一週間を切った或る日、園内を歩いていたら頭の上からNさんの声が聴こえた。明らかに私に向かって話しかけている声だった。”お母さんが 来る!良かったね”と私は応じた。 Nさんは母親の面会が途絶えて何年も経っている。1人っ子のNさんが尚恵学園に来てから もう長い時間が経った。父親は大分前に亡くなっている。お母さんは理髪店をしながら60歳を過ぎて車の免許を取った ”息子に会いに来るため必死になって免許証を取ったんだよ”と照れ笑いしながら言った・・・・・そのお母さんも今は介護施設に入居、何度かスッタフがNさんを連れて面会に行った。・・・・・いつもの”カーカン くっと~”の問いかけに 曖昧な返事しかできない後ろめたさ、私をじっと見つめる表情から彼は全て判っているんだよな~ お母さんが来れないということを、だから”カーカン くっと~ いいね”となった。自分で自分に言い聞かせている。
 ≪情が納得して、なるほどそうだとその人自身が動き出さなければ、前頭葉も働かない。だからブレーキが弱くて、自分を押さえたことにはならない。≫・・・ 
 今年一年は隠蔽・忖度・改ざん・詐欺・密約など・厭らしい言葉の渦に翻弄され 社会全体で何を大切に生きるかを見失っている。  世界の覇権国をねらう大国の争いは益々激化、軍事力の強化と最新鋭の武器開発、本心からこれを良しとするものはいないはずだが 流れを止めることはできない。日本が戦後73年経て、東京オリンピックの開催まで2年を切る、いま 東京はその準備で大童、その裏では着々と日本の防衛力強化を画策する。過去の歴史から何を学んだのか
 F35を100機購入するという。東海村にある原発だけの廃炉に要する費用は 概算で7700億円、これらの原資は税金で賄うと 囁く。
人間をなで慈しむ山河を無明の振舞で台無しにしてまで 更に何を望むというのだろうか! そのハッキリした答えを持てず 今さえ良ければと徒党を組み祝杯を挙げる。

3237:通奏低音

 ヨーロッパで16c末~18c前のバロック音楽の形態に「通奏低音」というものがある。楽譜には低音部が記され 奏者によって 和音を付けて演奏するというもの。オーケストラは様々な楽器により奏でられ全体が響き合って統一感とハーモニーが生れる。この時期は世界各地でそんなコンサートが開催される。
 人の間には 共有する根本の感情があると思う。それを探し求める努力がどうなのか? 今年一年を通じ世界で起こったさまざまな出来事には 色濃い一国主義の暗雲が低く覆っていると感じる。際限無き格差の拡大、これで満足という節度を感じない。仏教の立場からいうと 渇愛の如しで 五欲(財・色・飲食・名誉・睡眠)への限りない執着、そして理想と現実の乖離が手の施しようがない状況になっていると見えてしまうのは誤りか!特にマンダラの考え方は こういった世相において 立ち止まり 思考するのに 充分だと考えます。 両界曼荼羅で金剛界・胎蔵界を絵図で教えを説く。宇宙の中心に大日如来をすえ、宇宙の全てが円満具足する理想の姿を目指す支えとなろう。
 ラサ近郊のチベット仏教の寺院を訪問した時に 若い僧侶が数人で砂曼荼羅を作っていた。その時の光景は今もハッキリと覚えています。経を唱えながら 様々な色の砂を用いて地表にマンダラを描く。そして 完成したと同時に 全てを壊した。
 
 現実は 必要以上のモノを獲ても満足せず 更に 八方に手を尽くし、己の所有物を増やそうとする。まさに餓鬼世界だ。もしも 今 先進国や強国と言われる国の底流にこの類の「通奏低音」が流れているとしたら 晴れやかなる舞台で着飾った演奏者が奏でる演奏が 聴くに堪えない不協和音となるのではあるまいか。
 毎朝6時に撞かれる時の鐘、今 なった! 外気温はマイナス、真っ暗の中 もう何年続いているだろう? 懐中電灯の灯りを頼りに1人で歩いて来られる。2018年最後の朝6時の梵鐘を 半径2キロの人々は聴いている。
 父より聞いたことがある。寺の半鐘が戦時中に 供出され 昭和40年代になって寺に戻ってきた。現在の本堂の左隅に備えた。昭和の時代を語るその半鐘の辿った道は 寸での処で弾丸の材料にされずにすんだ・・・・。
 現在の天皇が平成31年4月30日に譲位し5月1日に改元される。天皇陛下は今年8月8日にビデオメッセージにより、在位30年の天皇時代を振り返った。お言葉で 特に私が印象に残ったのは、平成の時代 日本が戦争に巻き込まれる事無くすんだことを 声を震わせ語ったお姿でした。最近まで全国を隈なく訪れ 親しく語りかける 両陛下に 誰しもが目を潤ませ勇気を頂いたに違いない。譲位後の称号は天皇は「上皇」、皇后陛下は「上皇后」となる。
 歳の暮れになって 日本列島は強い寒波に襲われ、日本海側は大雪、 太平洋側は異常乾燥、北西の冷たい強風が吹き荒れ 体調を崩す方も多い。
 いよいよ 本格的な冬の到来!  古来から日本人は一年の四季折々の生活の在り方を見つけ 強かに生きてきた。それによって築いた文化遺産は人間の精神的生活に関わるものが多く 次世代の人々に受け継がれていって欲しいものである。 

3238:2019年
明けましておめでとうございます

 土浦は快晴の元旦で明けました。おめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。大晦日は恒例の除夜の鐘 殊の外 寒さが身に沁みた。これを歳の所為にはしたくない。数えたら9枚着重ねし防寒に充分注意した。i否 つもりだった。だが 足のつま先と両手は途中から感覚が無くなるようになっていた。 例年に無く 大勢の皆さんが鐘撞きに来てくれた事に感謝。尋ねるわけにいかないから一人ひとりの願い事は判らない。再び「通奏低音」!新しい年は希望に満ちた年になれば良いですね!
新年早々・・・多少の遠慮を見せながら 例の如く これしか私に能がない。三密行と勝手に信じ既に全開モード。
”成長しなくても やっていける経済が望ましい!””借金で買った成長に意味がありますか?”(『欲望の資本主義』東洋経済新聞社:丸山俊一+NHK「欲望の資本主義」政策班)
 ・・・・やめられない、止まらない、欲望が欲望を生む世界。わたしたちはいつから こんな社会を生きているんだろう?・・・・・・副題として≪この星は欲望でつながっている≫
 正直に言うと表題をみて注文した。 年末にアマゾンで注文した三冊の本の中で最後に届いたものです。 中古本である。2017年4月発行。アダムスミスは間違っていたとの見出しで始まる2001年ノーベル経済学賞受賞のジョセフ・E・ステグリッツとの対談が一番目。
 じっくり正月三箇日の間に読むことにします。
 書店やメデアに目を向ければ 近年目立つのはグローバル資本主義や市場原理主義の問題点を糾弾する言説が溢れかえっています。注意しないと本のタイトルと中味の違うものがあり、手にしたものの途中で放り投げてしまうものも数多い。
 想定外の現象が起こっても 誰一人その責任を取ろうとしない今の社会システムの悪習が徐々にボデイブローに効いてきた。自説の間違いを認めるものは まだマシなほう、最初から言い訳を考えている輩も多いとみる。
  年頭にあたってだ 少しは自重しよう。すでに 私の気持ちは定まった。・・・己の身口意のズレを意識し 隠忍自重、その前に 身(おこない)と口(言っていること)と意(考えている事)の三密は業でなく 慢でなく 恐れでなく、生きた証として。
 正月2日目 暮とは打って変り穏やかな天気、気温は低いが風が無い、陽だまりで昼寝する我が家のミイも手持ち無沙汰の様子。私は暮れから少々風邪気味で外出は控え目にと思って新年を迎えたが 性分で いつまでジッとしてなどいられない、本堂の戸の開け閉めに歩くことから始まった。車ならば数分で行ける距離の2つの寺 遠回りして歩くとその日の気分で1時間にも20分にもなる。私と同類種はいるもので やはり 徘徊始めてる ワンちゃんのお供や 黙々歩行型と様々なり、声を掛ける間も無く先方から「おはようございます」と声を掛けられた。ふしぎだな~!新春はそれぞれに 何かが違う、気分は気まぐれというが やはり すれ違う人と人の ご挨拶 悪い気持ちではありません。
 聴く処によれば 全国名だたる観光地は人でゴッタ返し、外国人の多さは一段と激しさを増している。ワザワザ人ごみに行くのは望まない。ならば 読書三昧と心に決めたが 普段やらないことだから 三日坊主? 坊主はナマグサだけで充分と珍しく書き初めに手を出した!”謹賀新年”を太筆使って2枚書く。普段やらないことだから 出来栄えは 言うに及ばず・・・・・・。
 日々是好日と書くのは良いが 正直 自信なく、ならば お決まりの謹賀新年→慎み喜ぶ、新しき年とした。
 ・・・・詣うづる程のありさま、いかならんなど謹みおぢたるに平らかに詣で着きたるこそ いとめでたけれ・・・・枕草子115段   ★世間体や外聞ばかり気にしないで 我が道を歩み 平らかに人生をおくれれば これにこしたことはない。
 気が付けば もう元に戻れない闇の中を彷徨っているような思いになります。その原因として一先に浮かぶのは 市場経済民主主義で成長が必須条件だと信じる人達の口車に乗せられてしまったこと。経済が成長しないのは、これ以上成長する必要がないからと考えない人達。私は成長には節度が必要だと思うのだ。トップランナーを自認する人達は得体知れずの同調圧力(?)に屈っしてしまったのだろうか
 異端の経済思想家セドラチェックとの対話から 疑心がより確信に至った感がする。今はモノが有り余る生活を”当たり前”と感じている人が多い。そのような中で 消費意欲を更に高めることは至難の業。それを実証するのが長期間続くデフレ。モノづくり日本は優秀で精密な製品が売りだった。生産拠点を人件費の安い外国に移し、その差益で事業拡大を果たしてきた。しかし、その方法は最早過去のモノと化した? 工場進出を受け入れた国だって、日本にだけ収益をあげさせているのはオカシイと気付く。だから賃金アップは当然の帰結、すると もっと安価な労働力を求め生産拠点の移転を模索する。同じ手法で 思惑通りにできるのか?ならばモノづくりからサービス産業にシフトチェンジ、半世紀前ならばそれも出来たかも知れない。今やグローバル資本主義が行き渡り地球上を網の目のサービスで覆い尽くす巨大なネットワークが既にできあがっている。 そこへ新たに参入は難しい。藪蛇になりかねない。相変わらず内需拡大というが 周囲を見回せば疑問を感じない事がおかしい。新築アパートの林立と空き家の急増、入居者はどこの誰をターゲットにしているのでしょうか。これは ハッキリ言って国の政策誘導による処が大きい。農家に畑作をやめ借金してアパート経営を奨める、主は税金対策とGDP、これがどうして持続可能なものとなるのだろう。無明・小我の発想で諸にその場凌ぎ、大我には程遠い 近視眼的と言ってしまっては誤りか。まったく!、
 人は当たり前の生活が出来なくなって初めてその大切さを知る。例えば健康、病気になって始めて健康の大切さが身に沁みる。 心の病は社会的要因によって引き起こされるといわれる。判っていながらその対策は先延ばし、健康は代替えは効かないでしょう!最後は病と向き合っていかなければならないんだから。一晩寝れば変わっているということは有り得ない。
 果たして 今を生きる者に 貴方にとって何が大切かと問うてハッキリと答えられる人がどれほどいるだろう?  学校や熟で学ぶことではない、人生の半ばで沸々と湧いてくるもので それを我が事として普段より考え育んでいけるかに尽きるのです。
 明けましておめでとうは本来モノの本質を明らかにしておめでとうという言葉からきていると思う。
 

3239:ネコの目

 不図思った。おそらく猫の言い分もあるだろう? 夕方 ミイが4本足全てを真っ黒にして帰宅した。何やら 近くの蓮田の中で遊んできた様子だ、足についた泥はレンコン田の匂いだ。もしそうだとしたら 氷が解けない蓮田に入り一体何をしてきたのだろう? お湯で足の汚れを洗ってあげた。 その後 テレビの台にのぼり丁寧に長い時間ご執心、自分で舐めはじめた。
 ミイは 昔 泥ではなく前身を油まみれで帰宅したことがある。洗うに洗えない 近くのK先生に救いを求め、1日入院 翌日はバリカンで体全体の毛が刈られ 見るも無惨な姿でご帰還になったことがあった。それから 何度もK先生の手を煩わせる。全く 反省がないときた。
 暮に 寺の障子を全て張り替えた。今回は久しぶりに専門の業者に依頼した。K寺の本堂・客殿だけで障子の数が100枚だった。暮が近づくと毎年 障子の破れを継ぎ接ぎで隠してきたが さすがに限界を感じ 専門家に依頼した。ミイはその一部始終を離れた場所からジッとみていた。反省したのだろうか? 全て彼が手で破いたのだから ・・・・・。
 気のせいか 張り替え終わった後 暫くは 障子に手をかけるのはやめていた。それだって精々1週間 またもや 隙あらばと私の目を見ながら障子に爪で背伸び運動を  寸での処で制止する。
 猫の目から 人間様の行動はどう映っているだろう? ”今日 朝 食べたかな~?””携帯 どこに おいたっけ~?” ”鍵 落としちゃった~””・・・・・・   なんて 馬鹿なことを やってんだよ ボーっと生きてんじゃ~ねえよ!だろうな、
  それよりも 喰いきれぬ食べ物並べ 独り占め 際限無き欲の塊 どういつこいつも 何やってんだよ。かどうか?
 NHKBS午後9時 新年で唯一私が観たかった番組『2019 欲望の資本主義』を寝そべってみていると私の上でミイは小さく寝息をたて 寝てしまった。
 
 【後悔 先に立たず】・・・故事ことわざ辞典をみると沢山の類語がみつかる。【遠慮なければ近憂あり】もその一つ。本来の意味は・・・目先のことばかりに囚われ遠い将来のことを考えないと近いうちに心配事がおこる・・・・ということだ。
 ネコの喉鳴らしは 気分よく安心している状態と私達は考えてしまうが、本当は違うと思う。彼らは 私達人間を試しているんだよな。よく観察すると 半眼だったり 耳をアンテナのようにたてている。何か起これば 即 飛び出す準備態勢を保っている。それは本能として身に付けたもので忘れない。日本の猫は飼い慣らされ 環境の厳しい処の猫とは大分違うという。
 ネコからのメッセージ・・・ 俺たちは 腹八分目で我慢する。人間どもは 満足を知らず 浅ましきこと甚だしい。見ろよ!食べ過ぎて体を壊し 高額な医療費を支払い 己をさて置き 無駄遣いしていると不満をいう。
 ネコのホンネ・・・・・・・・・ 俺たちは ネズミを捕る必要も無く エアコンの効いた部屋で一日中 過ごしたいとは思わない。今は飼い主を慰め癒す為に 飼われているんだよな~。
SNSやAIの進化に夢中な社会は 本来の人間の能力を劣化することはあっても 決してプラスには働かない。彼らは その事を私達に教示している。 
 近憂の実例として 最先端の技術開発センター都市(シリコンバレー)では 近い将来 自家用車を運転すると罰せられるようになるという話を聴いた。その理由は”安全性” 人間の能力よりAIを駆使した自動運転のほうが信頼度が高いという理由。
 ネコからの警鐘・・・・≪お前ら!なんてばかなことをやってんじゃ~ね~よ・・・・≫・・・マインドコントロールができる人工装具・・・未だ端末を持ち歩いていますが、何かを操作できるようシナプスを、脳につなげるんです・・・・上掲:投資家スコット・スタンフォード:シェルパ・キャピタルCEO。
 AIの進化を止めることができないとすれば 果たしてこれから先に人工的な装具に善と悪の判断をどう課すか!大変な時代になった。 本を読んでいて正直眩暈(めまい)がした。何故 人間は神や仏を創造したか? 民族や宗教、主義信条で世界の平和を模索してきた過去に見切りをつけてしまうのは早計でないか!人間が自らの欲望を満たすため禁断の果実をかじってしまったと思えないだろうか。
 成長資本主義に酔っている間に 人間は途方もない事を 合理性・生産性・利便性という果実と引き換えに獲得しようとしていませんか?都合の悪いことをオフレコ(off the record)にして隠蔽し 一秒の何分の1という瞬時の遅疑逡巡で株価上下を競う、日替わりの株の変動はいつどこにいても知る事ができる。それが果たして人間の生業として正常な姿なのだろうか 恰も知識や経済という白黒のオセロゲームに興じている間に 飽くなき欲の虜になった自称勝利者たち 反省もなく 鬨(トキ)の声をあげている。
 新年早々の悔みが続いた。 通夜会場に向かう迎えのタクシーの中で僅かな時間を運転手さんと雑談、これが 実に為になる。彼らの情報は 現実を見ているから確かだ。プライベートの話は殆どしないが 何度か乗せて頂いた顔見知りだと、どちらからともなく話始め、丁度 良い頃合いに会場に着く。
 私と同じ歳の運転手さん、会社は運転手をずっと募集しているが 集まらないと嘆く、其れだけでなく その原因を自ら分析し 今の日本の実態を確かな眼で見ている。
 今日は 日中 気温が上がった。関東地方は正月から ずっと穏やかな天候に恵まれている。 雪で欠航便が出ている北海道のニュースをみて 茨城から新千歳の便も どうなったか 頭を過ぎった。
 享年97歳で1月1日に亡くなった今夜のほとけ様、斎場の真ん中に飾られた遺影を見て 思い出した。ご主人を41歳の若さで亡くした。61年前である。爾来3人の子を夢中で育てた。その時 今回の喪主は10歳だったという。
 世の中をどうのこうの言うのは簡単だ。だからといって 思い通りに成ることは殆ど無い。いくら不条理とか不確実と評しても 現実はそこに存在し 過去もまた 自分達が向き合って生きてきた道だ。
 後に残されたものも これから行く道、沢山のありがとうの言葉を語りかけて欲しい。
  通夜帰りのタクシーも同じ運転手さんだった。”明日 九州に行くんですよ””旅行ですか?””いや 三人目の孫が生まれたので女房と二人で””茨城空港からですか?””そうです”
  「遠くて大変ですね」「それも考えようで 普段一緒に中々行けないので旅気分」「子供さんは 将来 茨城に帰ってこないのですか?」「いや 帰ってくると言っています」  気のせいか 語気が少し強くなったと感じた。 

3240:深海探査

 マリアナ海溝の最深部は10,911メートルというのが 現時点での定説、そこでの水圧は指先位の広さに1トンかかる。深海探査はその環境でどのような生物が生息できるのかが世界中の科学者の関心の的、何しろ世界最高峰エヴェレストがスッポリ沈んでしまう深さというのだから 凄い。テクノロジーの定義は「特定分野における知識の実用化」で「それによってもたらされる能力」(メリアム・ウエブスター辞書)とされる。現在 各国挙って 科学技術の開発に血眼になっている、その変化スピードは昔と比較にならぬ。 否、いま どの辺にあるかさえ誰も判らずに。
 9歳の女の子が囲碁五冠と対戦し引き分けた、プロ最年少の誕生とメデアは持ち上げる。超能力は どのようにして生まれるのか?昨夜の民放ラジオで全盲の大学生が教員に挑戦している姿が特集番組で流された。自分の夢の実現に果敢に挑戦する。法律改正で障害者雇用が 一定の従業員のいる事業所には義務化された。 その実態に誰も唖然としたが 批判だけしていても何も変わらないと大学2年生の彼女は共生社会の実現を流暢な英語によって訴えた。(平成30年12月30日:ニッポン放送報道スペシャル『My Dream』)
 世界が どこに向かって進んでいくのだろうか?永遠のテーマだ。AI技術の進歩によって どう変わるのか? テクノロジーのもたらす効力は予想はできまい。効用・ユーザビリテイ・安全性・・どれをとっても過ちを許されない。その箍をどう構築するか 残念だがその対応は後手後手になっている。人は経験から技術開発には害悪や危険を常にはらむ事を学んだはずだ、考えるのも人間 それをどう使うかも人間だ。いや違うな! 人間の能力の範囲内で行なわれている間は未だ良い、姿が見えない人力の及ばない何ものかに取って代わるのは時間の問題だという事を誰も否定できない。
 私が住んでいる地域一帯は6500年前の縄文時代の住居跡のど真中にある。半年を要した史跡調査が終わり 宅地造成がほぼ完成した。日本が大陸と繋がっていた時代 歩いて渡ってきた先人達 生きる為に必要な食べ物と水を求め やっと辿りついたこの地に 穴を掘り 定住した。悠久の昔より人間の三つの心的要素・知情意で どれが一番違うかと言えば ”知”の違いが突出しているという。そして 一番蔑ろに扱われてきたのが”情”(感情)で 芭蕉が・・・山は静にして性をやしなひ、水はうごいて情を癒す・・・と詠った。思いやりと癒しの心である。
 古くは12C前半 当時の世界人口の半数以上を統治したという大帝国、それはチンギス・ハンによってきずかれたモンゴル帝国、その後は時代を遡り 17C~から起こった大英帝国、その中心に巨大な力をもった人物がいた。7つの海を制覇できたのは航海術の進歩と強大な軍事力だった。歴史上で名が残る帝国の中に嘗ての日本も東南アジアから中国大陸にまたがる領土を保有した大日本帝国が並ぶ。昭和~平成は日本が敗戦から”不戦:平和”を全世界に宣し、それを守ってきた良き時代である。2020年の東京オリンピック開催、その前は昭和39年(1964)同じ東京で開催された 当時 私は中学生だった。半世紀以上前のことになる。
 近年、 グローバルやイノベーションとやたらと外国語が目立つ。日本語に訳せば「地球規模の」と「革新」か、大きなウネリとなって動いている。そして一国で何かを守ろうとしても不可能な時代となった。資本主義は経済の最優先が核となる。 くっ付いたり離れたり。後ろから軍事力で脅し、小国は徒党を組み大国と対峙するしかない。これは 昔と何も変わらない。人の間の問題だから 人間そのものは本質的に何も進歩せず今に至った証拠。
 人との間に人工頭脳を介在させる動きは 将来を考えると何が起こるか 誰も答えられない。核心なき革新が 一人歩き初めてしまった今 どうにもならない事を感じ始めている。200~300年前にイギリスが世界の覇権を目論んだ、それを可能にしたのは航海術の進歩と もう一つ 海底ケーブルの敷設だった。人の移動と情報の取得をスムーズにすることが条件。
GAFA(グーグル・アマゾン・フェースブック・アップル)を新たな独裁者と呼ぶ。企業の頭文字を並べた造語。いずれも膨大な量のデーターを持ち、世界を独占する事業は拡大の一途、データーがインフラとなった今 成功と華やかさの影に計り知れぬリスクが存在する。これを防ぐ手立てが見い出せない。
 利便性や成果主義の過度な追求は 一時の休息も儘ならず カゴに入ったリスが興じる回し車の如く人間が動き続ける。
 ☆ リス回し車は 健康維持の目的で使うのであれば 多少の効果は望める かもしれぬ。経済の豊かさを獲たことで ”労働”の本来の意味を見失うという副作用(合併症)に効く薬は作れない。
 
 「・・・・世界人口の最富裕層1%の総資産額が110兆ドルであり、世界の富の約半分を占めている・・・」(『正義とは何か』神島裕子著:中公新書P184)2014年のダボス会議の前に公表された数字である。労働の対価や価値を探ることと異次元の有様に茫然自失する。株価だって同じだろう 全体でどの位か判らないが 一部の巨大ファンド(投資家)によって操作される数字、更にGDPやGNI の数字の信憑性?世界中に今一日1ドルで生活する人口がどれほどいるか!
 要は”社会の公正と個人の幸福”をどう考えるかの一語に尽きる。
閑話休題
 ≪よっくらしょときたもんだ≫ 某病院で 会計を待つお婆ちゃん(多分)が私の丁度後ろのイスに座る時に発した。見渡せば 患者は高齢者ばかり、その中に混じった私も全く違和感なし。≪よっくらしょときたもんだ≫  ああ・・・診察がやっと終わった、疲れたな~という心中吐露だわな。呟きにしては どうも意味深で 老い人の社会の公正と個人の幸福の風刺とみた。こうやって 家のため 世のために働き続けたきたもんだどこが悪いときたもんだ
 
 近所に最近オープンしたドラッグストアー 買い物終って お会計、するとレジ操作が不慣れな店員さん 客の前で何度も何度も新型レジ機を開け閉めし、そのうち 機械が怒り出し、硬貨が床一面に散らかった。
 噂では消費税を10%にあげるという。この目論見は 賛否を問えば 仕方がねえときたもんだ。これが大勢かもしれません。だが 問題は 何が課税されどれが非課税か、さらに期限つきときたもんだ。これでは 全国津々浦々、レジが大混乱、 これだって 仕方がねえときたもんだ
 斯様に日本人は素晴らしい。お人好しで我慢する 多分 今回も お先にどうぞ!とじっと待つ。  じゃ~質問します!待つ時間は GDPに換算するのかしないのでしょうか?  これも風の噂だけれど銀行の ”利子”ってあるでしょう。預金している時間の長短によって利率が変わる。これが経済システムだ、
 この辺の説明をしてもらわないと 老い人には 判らんときたもんだ

3241:両天秤

 万が一を考え ふたまたをかける。選挙や取引でよく見かける両天秤を そんなものだと割り切れれば良いのだが私には どうもできない。いつだったか ”大人の付き合いだよ。相手だって想定内だから”と言われたことがある。全てが全て”商い”手法が許されるとしたら。日和見主義、天気を見ると同じになるんじゃないの?これを 大人の判断だというのであれば 子供の判断は 何なんだ? 子は親の姿をみて育つ、子が親になって判ること その辺を誤解している。 人生順風な時でなく逆風に遭って大変な時に酵母菌が醗酵するような大切な間が無くなった。
 日本の教育での課題は 実はそこにあると思う。動く歩道の義務教育が終わり 社会人となって 自らの足で歩く。小学6年、中学3年 掛け替えのない9年間 その後の高校・大学への7年もある、教育現場からは昔から問題提起が続けられてきた。
 道徳や倫理を学ぶ教科が片隅に追いやられ 知識偏重の流れが加速した。結果第一に偏り過ぎた学校生活を補完するのが課外活動であったはず それが 此処に来て随分様変わりしている。  これは教育基本法を出すまでも無く二俣なんかじゃない 、少子化と並行して複雑になる教育制度、現場は文科省の指導に沿って 編成替えに四苦八苦、だが 問題の本質は机上の作業では判るまい。今の最大の関心事は生徒募集 これは個々の問題か! 規制緩和と競争、この市場自由主義の二本柱は 当然のこととして教育にも導入された。今の社会に共通するのは適と過の判断ができないこと。一方で増やしながら片方で事業存続危機が起こっている。 最近 どうしたのだろうか 街づくりや地産地消、永住者への特典など地域活性化の矢は どうなったか?全国の好事例がどれほどあるのだろうか?そのデータはなぜか極端に少ない。決定打がないという証。方や 法制度の間を上手くかいくぐってベンチャー企業と持て囃すのもどうなのか、それが公正で持続可能なものかどうか誰にも判らない。
 グローバル化社会の落とし穴は”適”と”過”を見極めることが難しいこと、それは”欲望”をあらゆる方法をつかって刺激続けることを評価する社会だからかもしれぬ。
 皆(?)が選んだ自由は、有って無き様な法制度を永遠に創り続けるという宿運を止められない。単純な”誰の為 何の為”との問いに答えられない 現代人を蝕む病巣≪作っては、壊して。≫。私達は 何を求めているのだろう?SNSやAIに一斉に群がる構造はデーターをインフラと考えることとした。独禁法ギリギリで集めた情報を自分の都合の良いように出し入れし 暴走か成功、善か悪か それを見極め諭すものが 誰もいないことを良い事に、終わりのないゲームを始めたのである。
  
 人工(AI)頭脳をどう活用すれば”幸せ”に繋げられるか? 恐らく”幸せ”の意味 そのものに確信がもてない現代社会だから難しい。慈善か偽善か そして判断を司直の手に委ねることにさえ疑義があるとしたら これは三権分立・民主主義崩壊の兆し、絶好調?のフロントランナー達はよもやその判断までをもAIに委ね自らの責任を回避する気ではあるまい!
 最初は小さな亀裂だった。それを見過ごしてきた怠慢が 大きな災害にまで発展する。社会の基盤が 忖度や改ざん、得体知らずの闇の力などにより、かろうじて態が保たれているとしたら 一気に崩壊する危険度は極限に達する。
・・・・万物流転だけが唯一の実在性…明らかになった世界の実相がいわゆる「永遠の回帰」である。これは もはや思想でなく、ニヒリズムの徹底の果てに体証せられた表象の極限である。・・・世界は生成消滅するところの「無」(Nichts)である。・・・(『東西思想の根底にあるもの』玉城康四郎著。P186 講談社)
ニーチェは実存主義哲学の雄 名言に・・【生きることは苦しむことである、くじけずに生き残ることは、 その苦しみに何らかの意味を見い出すことである。】・・・・・がある。ニヒリズム(虚無主義)、この言葉に拒否反応を示す人は多い。
しかし、仏教の説く四苦八苦や八正道、それと三法印の考えに見事に通底する。それは 苦しみの本質の意味をどう理解するかである。
 宗教・倫理・哲学などは時代により移り変わるものもあるが 核心は不変、”我々は何を求め、どのように生きるか”への永劫の追求である。世界は自然科学の発展とともに科学的合理主義を受け入れ今に至った。その間に社会の様々な矛盾に目が向けられ その課題解決への挑戦をしてきた訳である。
 現代社会での最大のリスクは 豊かさの盲信と自壊、それと自由・平等と平和へのボタンの掛け違いでしょう、これを慧眼をもって 諸行無常と永遠の回帰と見定め生きて行くのには 気短で自己本位な今の社会では 何処に掉さすかさえ 見当がつかない。
 何しろ 水の流れをも 人為的に変えてしまうようなことを 平気でやってしまうのだから 。 
 人間が自然を思うようにできると考えたならば 広大な宇宙で唯一生物が生きることが可能な星・地球に対し冒涜者たる人間は自壊を免れまい。『欲望の資本主義2』が手元に届いた。その副題は「闇の力が目覚める時」作っては、壊して。
 人間は 万能ではありえない。現在90代になる人達がこの日本には どれ程いるだろうか? 老後を遠慮しながら 片隅で生きている人も恐らく沢山いると思う。新年を迎えてまだ10日 既に3件の葬儀があった。享年96才・97才そして63才の人達が旅立っていった。遺族のお話を伺い それぞれが山あり谷ありの人生を送った。90代の方は先の大戦を心に刻印し 二度と同じ過ちを犯してはならないと家族に語っていたという。
 政界中で起こっている人災や天災、これは明らかに我々に対する警鐘であろう。天災に関して防災でなく 減災の重要性の話を聴いた。災害を防ぐことより起こる事を想定し 犠牲者を数万人から百名そして数名と減じる対策が重要で それが結果的に防災に繋がると力説した。もし この時に 首都直下型の大地震や南海沖大地震が起こったとしたら その被害は誰もわからない。密かに起こらないで欲しいと祈るだけ。人災に関しては 責任を明確にすること それなくして減災はあり得ない。
 経済の動向も実態が少しずつ明らかにされてきた。不動産の動きや大型店舗の売り上げ、さらにタクシー業界の人達への調査で 明らかに経済が停滞・下降しているとの結果がでた。これを日銀は足踏み状態だと発表している。
 景気の実態は 数字ばかりに関心があって現場をみない自称専門家や富裕層には判らない。彼らがどこを向いて話しているか疑問だから。実際に消費者と向き合っている人達の実感のほうがより正しいに決まっている。
 それを認めたがらない理由は 長年かけて築き上げた牙城で おいそれと譲りたくないという小我である。
 GH生活を行っているKさんが正月帰省中に体調を崩し、入院した。若い頃 彼は他所の人の車の上にのり 飛び跳ねたり 公園の池に飛び込んだり それはそれはヤンチャものだった。彼との付き合いも長くなった。両親が一度として迎えに来なかったことはない。職員へお母さんから電話があったという。Kが病院で付き添いしていた母親に 家に帰っていいよと話したと驚いていたと・・・・・・・・。
 私は 救われた思いになる瞬間です。Kさんにとって 限られたご両親との時間を 独占したい気持ちが有るだろうが 親を気遣う気持ちを こんな風に言えるとは 有識者や専門家の人達に聴いてもらいたい気分だ! おそらく 無視されるだろう、貴方達は 正直そうやって 牙城を守ってきたわけでしょうから・・・・ 
 

3242:捨てたもんじゃ~ねエ~

 老いて愚痴の闇に身を屈め 堪えるなど想定に無かった、気が付けば 二人称の自分を観てハッとする。そこで初夢は終わった。そうか そうだよなと 目覚めた自分が慰める。
 今から45年前になる。某施設で1年間実習でお世話になったことがあった。私が配属された寮には15名程の方が生活していた 職員の方は全て医療職(医師・看護師)だった。そこでみた光景は 確と刻印され 一人ひとりの顔と名前が今も忘れずにいる。私が尚恵学園以外で初めて知った施設だった。そこでは指導や支援という言葉でなく 治療という言葉が使われた。当時全国で 此処だけが国立の児童施設、雲の上のような存在だった。
  外見でなく 内面は 何一つ変わらない。共苦共生という言葉がある。いま それが より身近に感じる。ニーチェの言葉で 生きることは苦しむこと、くじけずに生き残るためには その苦しみに何らかの意味を見い出すことだというものがある。共生という言葉にある内部矛盾、近年自棄に目立つ格差の拡大は その最たる表象と言えまいか! 当時、愛着障害は幼児期の親子関係に起因すると教わった。虐待は自分の子供の時の体験が根底にあって 同じことを我が子にしてしまうという。それは真理か? そうじゃないと私は思って今まで彼等と向き合ってきた。そこで思ったのは時計の針を逆戻しはできないということだった。核家族が進み 親子関係が希薄になった、それは 弱き者が身を寄せ安心を得る場の減少だ
 人間の関わりの変容は先ず身近な家から始まり世相に反映する。
 方や ひたひたと迫ってくる甘い誘惑、欲望・・・ 何かの切っ掛けで弾け攻撃に転じる。あいも変わらずにマスコミで謝罪会見の連鎖、深々と頭は下げるが 一向に減らない。
   覚鑁(1095~1144)の遺した密厳院発露懺悔の文は900年の時間の隔てを全く感じさせない。その言葉に出逢えたことを 私は感謝しなければなるまい。  覚鑁の言葉一つ一つが GPSやナビには代替えできない 道標。  
 共生に私が拘る理由は 初代が今の仕事を始める際に 掲げた努力目標だからである。時間は公平に流れ、老いを感じ 振り返ることが増えた。世の中の不条理を数えたら切が無い。己が核心と思っていたことが 独りでは何もできないことを繰り返し思い知らされた。
 人間は死んだ後はどこに行くんですか? と我が子を先に失った父親から聞かれた。この子たちの幸せってなんなんでしょうね? 幼い我が子を連れて園に相談に来られた母親が涙顔で訴えた。
 ”共生”と”共苦” これは矛盾でなく真理かもしれぬ。生をうけ 誰もその宿運と向き合い生きている そこに喜びや悲しみの感情が生れ 記憶の中に積み重ねる 。それから 避けることは できるようで出来ない。70年近く生きてくると オボロゲな記憶が多い。その中でも刻印されたように 決して忘れられぬ出来事は その人の生涯の宝だと思う。
 人生 捨てたもんじゃ~ないよ。事業に成功したり 巨万の富を得たことが 唯一の幸せとは思えない。その証は 山ほどあるじゃないか! それよりも 誰しもが持って生れた宝がある。貴方が それに気付いているか否かは判りませんよ。
  
 十六羅漢の一人、周利槃特(しゅり・はんどく)はパーリ語でチューラ・パンタカ、どうして 愚かと言われた彼が羅漢にまでなったのか 仏教を理解する上で大切な逸話となっています。釈迦に弟子入りし どうしても経文を覚えることもできす精舎から出なければならない状況になった。それを知った釈迦は彼に一枚の布を与え 皆の履物を払浄させた。彼は一心にその役目を果たしそれによって落とすべき汚れは、貪・瞋・痴という心の汚れだと悟って 全ての煩悩を滅し、阿羅漢果をえたという。
 今の社会の脆さの一つに 働くという意味が曖昧となり 成果が第一でそこに至る過程には重きが置かれないことがあると思います。パンタカが夢中で皆の履物を綺麗にする姿を思い浮かべて見て下さい。二千年前のインド社会です。 人が汚した草履を自ら進んで綺麗にしてやろうとするものはその当時であってもいただろうか。それと彼は 釈迦の16人の弟子に自分が成れるとは考えてもいなかっただろう。今日の真逆の様態に このままでは どうなることやら。『欲望の資本主義2』を読み終えた。表紙に・・・・作っては、壊して。私たちは何を求めて働いているのか?と書かれてある。
 改めて  部屋の周りを見回すと、ベタベタ壁に貼った紙片・・・・・『人間は努力するかぎり 迷うものだ』(ゲーテ)。『永遠なるものものを求めて永遠に努力する人を菩薩という』(好胤)に目がとまる。気休めかも知れない。
 問題になっている格差社会は労働の対価と労働そのものへの差別化が根底にある。 私たちはそれを修正もせず 寧ろ是認し受け入れて来た、益々巨大化する経済第一の流儀がやりたい放題。急激に進む自然環境の悪化を無関係とは言えまい。 毎年 地球のどこかで大規模災害が起こっている。  その対応に 多くの国が賛同し協定書を作った。”作っては、壊して” 図星だ! 自国第一主義を主張し 脱会を決める。道徳規範を失った状況下では 何が起こっても手立て無し。我流に固執することで 裸の王様に 個人を超えた力への畏敬の念を封印し 想像力を発揮することを使命と考える。次に来るであろう事を 承知の上で自ら見世物を演じているのかどうかは判らない。パンタカの悟りと どこがどう違うのか?破戒か破壊????
 

3243:回遊魚

 ブリ・カツオ・ニシンは季節的に一定の経路に沿って移動する。日本の漁業を支えてきた回遊魚の異変が騒がれる、自然環境の変化、漁獲量の急増、様々な原因があると言われる。日本国内の人間の流れも このまま大都市への人口集中が止まらないとしたら どうなるか? 資本主義はまさに成功ゆえに、システムを支える社会制度が揺らぎ、崩壊を迫られる宿命を孕むとの予測、”作っては、壊して”は皮肉をふくめたレトリックだ。
 破壊と創造、この言葉の意味はどうにでもなる。原発の再稼働を加速すべしと経済団体の長が語った それをメデアは遠慮ぎみに流した。実際に電力供給に対する日本の方針は どっちつかずを守っている。
 太陽光発電の電力買い取り価格は 下落の一途、しかし、手が入らない広大な山林や作物が作られず荒れた田畑を持ち続ける事ができない地主側の言い分は 安価であっても手放すことを選ぶ。 
 現代資本主義に対し「創造的であれ!さもなくば 死だ!」この奇矯なコーエンの言葉(欲望の資本主義2)をどう受け止めれば良いのだろう! 恐らく 大半の人達は自分には直接関係ないと思うのではないでしょうか? 特に 日本人はその気は強いと思う。
 またしても 権利と義務という言葉が顔を出す。自ら汗してまで やらなくても誰かがやってくれる、こんな環境で育ち それに慣れ親しんだ者は 当然 そう考えるだろうな。 これは 組織論を敢えて出さずとも 最も小さな組織である家族とは何か!に思いを馳せれば直ぐに判るはず。
 親の葬儀の席で相続争いをしている場面を何度か見てしまった。見たくて見たのではない 僧侶という職業柄 望まぬとも目の当たりにした。これは 例外的であろうと願いたい。
 社会の一部である家族の崩壊が先か 国家という大きな組織が先か! 勿論 家族だと私は思う。自らの足元を見ず 権利を主張することが・・・・・ 回遊魚の動きが変わる力学が世界の大きな潮流の変化とどこかで繋がっている。
 そこに焦点を合わせないと 常にピンボケの画像しか撮れない。
 (余談だが 「欲望の資本主義」パート1とパート2を読んで般若心経を読んでいるような気持ちになった。)
 有・無、や断・常など対立した世界観、仏教はそこに中道という宗教的立場を説いた。般若心経はたった300字程の経典だが 大乗仏教の真髄が網羅されている。その蘊奥は空性であり、事物は全てが縁起によって成り立ち、永遠不変の固定的な実態は無いと観る。(色即是空)
 中道への回帰、 世界が成長なしには先がないとの呪文から抜け出せないでいる姿を目の当たりにして 確信する。 同様に軍事力の増強は自衛の為に必要か どこもかしこも 外からの脅威に晒され冷静さを失っている。
 これ位の武器は最低限持つべきだ!という人達に質問したい。軍事増強は時代と共に変わるのか? 世界のどこにいても安心は得られないとしたら 何かが根本的に間違っている。 その時々の友好国と手をくみ天上無しの軍事力増強に舵をきるつもりか!
 ガンジス川にあるヒンズー教の聖地アラーハーバード(旧名:プラヤーグ)では世界最大の宗教行事と言われる信者1億人が集まるクンブーメーラ(巡礼)が行われている。各地から集まった人々がガンジス川で沐浴し汚れを落とす。
 ケニアで自爆テロ 外国人が多く利用する高級ホテル内で起こった、その場所は首都ナイロビの中心地である。
 己に課した使命感、良し悪しを確かめもせず 強行、この暴走が許されてしまうのは 当に無法社会。多く持つモノは必要としている人に分け与える、これが仏教でいう中道への回帰と私は理解する。極端に走ることを誡めたのは 先ず己を律することが肝心 法華経の中に卑下慢と増上慢を説く章がある。卑下しながら自惚れることや充分に力がないのに 自棄に自信が強いものの譬え言。
 昨今 口車にのせられ 道を誤る例は 数限りなし。トップに最も必要な力は 知識とか富とか雄弁さではない 端的に言えば天命に対する”誠実さ”と”謙虚さ” それと”慧眼”である。回遊魚は 言われなくとも身に付け全うする。この地球に生かされているとの天命を知るからで 人間はそのことを忘れ易い、それ故に聖地巡礼で汚れを落とす。
 ブリ・カツオ・ニシンは人間を襲い命をも奪おうとしただろうか? 
 人間は 生きる為に 他の尊いいのちをいただき 生きるエネルギーにして 命を繋いでしてきた訳だ。暖衣飽食を 当然のことと考え、もはや 後戻りはできまい。さらに 思い付きの理由で 己の満足を満たす呪文を唱え続ける。
 現代人の多くが立ち止まって 考えることが苦手である。自転する地球は、そんな人間にも休息を与える為、夜と昼を作った。グローバル化は それさえも金儲けに利用する欲望の結果。夜 地球の裏側は昼である。人間が考えだした株は瞬時のキイ操作で利益をはかるゲームと言ったら間違いか?・・・・。 自分達の望みを適えるためには 先立つモノが必要だからと !その指標として GDPなる数字を考える。そろそろ それ自体に疑問を感じ始めているかもしれない。  自分達の望みを果たすために 軍事力をさらに増強しなければならないと言っていることと同根だ。目的を果たす為 手段は選ばず。智慧より知識を偏重した有識者には 残念だが 妙案は浮かばない。
 知識と智慧の違いを仏教はどう説明しているだろうか?
 智慧は六波羅密の第6、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧と迷いから悟りの世界へ至る行と捉える。方や 知識は善知識という言葉が示すように 使い方次第では悪にも善にもなるとみる。
 経済の豊かさは絶対ではない。それは 持つ者と持たざる者の格差が生れ、勝者になりたいが為に知識重視を是とする。 そこに 持戒や忍辱がスッポリと抜け落ちている”自由主義””資本主義”という似非理想郷を考えた。
 私は共産主義や社会主義を標榜しているものではない。寧ろ”人間主義” こんな風に言うと一笑にふされるのも判っている。
 ☆知的に障害のある子たちは皆 知識でなく 智慧がある。穢れ無く 研ぎ澄まされた智慧、彼らが世を照らす光となれば 人は立ち止まり 自らを顧みることをするかもしれない。☆

3244:絶滅危惧種

 野生生物がなんらかの原因により種が絶滅寸前になることを絶滅危惧種と言います。地球の歴史でその事象は数え切れないほどあると言われています。原因の第一は生息環境の変化によることです。日本では環境省が調査し、定期的にレッドリストを公表しています。
 婉曲に言って こういう見方が果たして受け入れられるかどうか? ”勤労統計調査問題”が俄かに浮上した。初めて知ったのですが、統計法というものがあり、その60条の第2項に違反する・・・云々と。昨日、野党合同のヒアリングがユーチューブで流されていました。総務省、厚労省、内閣府、それに日銀など、左手にズラリと並んだ行政側、対面席には各野党の議員、これは国営放送で時々流される国会中継とは全く違った、ある面では臨場感があり、素人目にも 判り易かった。
 正直 今の国会中継は いつも中途半端、割り当てられた時間内の質疑は 見ている側には実に不親切の極みである。  それなのになんで そんな中継を観ているの?というお叱りを貰っている・・・・・・
 このぬるま湯感が国民に蔓延してしまった? 結局 誰も責任を取らない問われない、巷に情報が溢れかえっている割には 肝心な国政の中味を知る機会が異常にすくない。
 穿った見方をすれば 今回のユーチューブのような生の中継は 困る人達がいるのだろう! またもや厚労省を震源とする疑惑は 専門委員会の委員長(元日銀副総裁)が問題に気付いたことが切っ掛けだった。もし それが無かったら 恐らく そのまま事務局案通り承認されたに違いない。
 アベノミックスは”3本の矢”を政権公約として掲げ長期政権となっている。時々流される実態を示す数字、私には正直 違和感があった。好事例を選んで”現実にここまでになった!”という説明、メデアもその片棒を担ぐ?
 昨日の新聞で大学新卒者の90%近くが内定したという記事があった。働き手がここまで減っている時に ”当たり前”だと思うのはオカシイのだろうか? 果たしてその辺の皮膚(?)感覚は どっちが変なの・・・・・
 今回 一先に官房長官は統計法違反という言葉を使い遺憾の意を表す。いつになくご自身の感情を出したように思う。これが誠なれば今までの説明の根拠そのものが自壊したのである。前例に倣って 担当者を更迭する幕引きですますつもりなのでしょうか?文科省・財務省・総務省・厚労省等々・・・・その生息環境は 昔のような公僕魂を発揮できるようなものでは無く絶滅の危惧種を増産する土壌と化したのでしょうか!卑下慢&増上慢、改革は末端から始めるのではない。真のレッドリストによって国民の判断に託す、この民主主義の原点が霞が関や永田町のどこかの倉庫奥に片付けられてしまった。彼等に共通するのは 最も危うい事は外からの攻撃より 内部崩壊だということが判らない。
 『毎月勤労統計調査』に関しては厚労省のホームページを開くと出てきます。≪本調査の重要性を十分ご理解いただき、調査にご回答いただきますようお願いいたします。≫そして、ご丁寧に赤字で≪国の調査名をかたって不正に情報を収集する「かたり調査」にご注意下さい≫と念押ししています。調査についてクリックすると概要説明に入れる。そこには 調査の目的・沿革・根拠法令・対象・方法など細かな説明があります。また厚労省のホームページに戻ると1月11日に政策統括官付で報道関係者宛にPDF形式で全数調査を一部抽出調査で行っていたことについて 省内調査により現段階で判った事がかかれてあります。
 ウーム!!!!! 一体 これを 謝罪すれば済む話だと考えているのでしょうか? 日本でなければ 国を揺るがすような大変な事態になったことでしょう。恐らく国債の下落は勿論 株価の下落にまで発展する????
 いったいどれ位の数の調査を全省合せると実施しているのでしょうか? それを どう活用しているのでしょうか。そもそも 何の為に誰を対象に行っているのでしょうか?
 障害者雇用率調査がそうだった。末端事業所をどうのこうの言う資格が果たしてあるのでしょうか? 今回のことも想像はできます。それで良いのですか!オカシイよな。
 形骸化している専門委員会・有資格者会議・第三者委員会、 これを本来の形に戻すべきと思いますが、もし それができないのであれば 答えは言わずともお判りでしょう。
 ご不明の方は 総務省統計局のHPで「かたり調査」にご注意を!を確認してください。
 厚労省よ しっかりせい!
 私は毎年2月に貴方達から出される膨大な量のPDF資料 『障害福祉サービス等報酬改定』に 先ず目を通す。障害保健施策の動向の説明を何度となく聞くが理解することは正直難しい。報酬改定の行政手続きは検討チームを編成し そこで作られたものだ。日本の社会保障費がずっと右肩上がり 最も予算規模が大きい厚労省は 業務が多岐に亘っており 予算獲得の苦労は突出して大きい。全省あげての熾烈な戦い、国会承認を得てやっと年度版が作られるのです。
 公僕の宿命は 辞令一つで動き 担当業務を責任を持ってやり遂げること。貴方達はエリート官僚だから、これが出来て当たり前、同情したい気もあるが貴方達だってプライドもあるだろう。 恐らく同僚との出世競争が激しく そんな事は謂っておれない。これが彼らのホンネかもしれません。今回の問題もいつ誰が担当だった時なのか 定かにされない。 運悪く 自分が担当の時に問題が判明。立ち飲みヤケ酒の量も増えるだろう?
 こんな時 任せろ 全て私が責任をとる! これが大臣だった時もある。それが 風向きが変わった。 こんな時 俺に任命責任がある 全て私が責任をとる! これが総理といわれた時もある。
 それが 随分変わった。行政庁のトップと言いながら 肝心な処は部下任せ! 
 おそらく 霞が関や永田町界隈に立ち込める疑心暗鬼は この辺に原因があるのではないのか。それがどうも今までになく強すぎるのではあるまいか?あるまいか?
 右壁に掛けてある赤根老師から頂戴した色紙”平常心”が今にも落ちそうになっているのに 気付いた。 朝6時の梵鐘の音が今 丁度なった。 偶然か必然か それとも ・・・・・・。

3245:神様はどこに

大きいオバアチャンの49日法要が本堂で行われた。≪神様は どこにいるんですか?≫幼稚園に通っているという男の子が法事が終わって帰る時に尋ねてきた。92才で亡くなったオバアチャンの曾孫さんにあたる。皆さんが本堂から出て行ったのを待っていたようだった。 お母さんに≪和尚さんに自分で きいてみたら 良いよ≫と言われた。 
 いつも法事の後に短い話をする。その話を真剣に聴いていた。お母さんが孫だから 今時珍しい4世代、お父さんに抱っこした幼い妹さんが一緒だった。
 私が小さな頃、よく大人の人に≪そんなことをやっていると お天道様が見てるから止めなさい≫と言われた記憶がある。 お天道様がどこにいて どんな人かまでは判らない。でも なにか怖い存在なのは判った。
 近所の子たちと暗くなるまで良く遊んだものだ。年上の子が ガキ大将 年下の子は その家来として 役目を課せられた。途中 仲間外れになった子は 泣きながら家に帰ってしまった。でも 翌日 一緒になって学校に通った。
 昨日は大学のセンター試験が全国を会場にして行われた。これは いつ頃からだろうか 当たり前の光景となっている。時は流れる。
 子供にとって 神様 お天道様 ガキ大将 いずれも 一目置いた存在だった。不思議なもので 自分が大人になってからも 忘れず頭に残っている。 
  法律や制度をどんなに作っても それを生かすのは 幼い時に体験したことが判断のもとになるというのは頷ける。 
 ・・・・・勝利を手にするまで歩き続けるだけです。歩き続ける限り敗北はありません。が、悲壮感はありません。仕事は楽しみ、成るようになると思えば成る。・・・・・・
 新年の挨拶メールに書いてあった。同じ仕事をしている知り合いで 彼のフットワークの良さと前向きな考えに敬服している。今も 週末は母親の介護に山梨に帰っているのだろうか?
 ≪神様は どこにいるんですか?≫ 仏様でも同じ、それが我が子であったりおばあちゃんだったり その人により違っても良いんだよな。
 中には どこかで狂った人もいる。お金や名誉を神・仏と勘違い、産めよ増やせよ、手段を選ばず。これしか信用できず 生きてきた。
 お札の肖像は何度か変わる。現在のお札は 樋口一葉・野口英世・福沢諭吉それともう一人、お馴染みでは無いかもしれないが 紫式部、2千円札である。 繊細な肖像画により 偽造防止をはかっているとか。自ずと福沢諭吉先生に親しみを感じる人が多いのでは?
 月並みの答えは 神様は貴方の気持ちの中にいて 信じることだと思いますね。
 世界の男性最高年齢の野中正造さんが北海道足寄町の自宅で113歳で20日未明に亡くなった。穏やかな最後だったという。ご冥福をお祈り致します。
 
 パソコンから流れる音楽を聴きながらの 独言を続けています。癒しの音楽で共通するのは 思考を邪魔しないもの、日本の曲で歌詞にハットすることもある。 急いでメモにとどめて後で 全体の歌詞を調べる。
 俳句もそうだ。一茶や芭蕉、良寛・・・・詠み人の人間の厚味を感じるのは その人の生き様とダブる時、感動を感じます。
 時代は今と比較にならぬ 旅の移動手段も自らの足で歩く、だから悠久の時の流れを感じる句が多い。多分 人間のDNAの中には それがセットされていて 現世での時間を最長でも100年位としてあるのではないだろうか? 考えれば判ること、老いを迎え 食べる量も減り、行動する力も減退する。だから、どんなに贅沢しようが 必要なものは 大差ない。 それを 欲深く 貯め込むだけ貯めて、それでも満足しない。科学の進歩も然り、地上戦でなく 宇宙を舞台とした武器の開発、その解釈は難しい。
 仏教者で思い浮かぶのは行基や良寛、今生きていたら どう思うだろう? 来世には 時間の差が無いとすれば 私たちが彼岸に渡った時に行基や良寛と共に生きる(?)ことになる、それを夢物語だと一笑に伏すことも良いだろう。
 先に逝った人達の願いに耳を閉ざしたことにならないだろうか?
 私は9歳で亡くなった兄と会うことを楽しみにしている。
 信じる信じないは貴方の勝手、 だが 最近の状況は 異常だと思っている。極論すれば 国家という態をなしていない。 人倫の道、人としてこう有るべき、この箍が外れている。それも トップランナーとして範を示すべき人達に三密(身口意)の乖離が目立つ。見せ掛け 繕い 先延ばし・・・・・
 これは 回数の多い少ないではない?   寧ろ 相手にとって組み易しとみられることもあるのでは。結論は 自らに厳しくできるかどうか その覚悟なのだろうが その類の諫言立てに どう向き合っているのか、否、箴言が 誰の為なのか 理解していないのかも知れません。否、周囲の誰もが言わなくなっているのかも知れない。 神様は どこにいるんですか?

3246:情緒

 ”今の文明を救うキーワードは情緒”と謂ったのは数学者の岡潔、東西思想の比較で 喜怒哀楽の感情に目をむける。西洋文明は 次から次に刺激を求めることを「進歩」だと称し、文明の目標にしているところに危うさがあると警鐘を鳴らし続けた。仏教や東洋思想は それを「幻の世界」だとした。
 日本人は四季を大切にし 自然との共生を守ってきた数少ない民族である。そこに日本人の情緒・文化の特異性をみる。
 幻の世界を追い求めても実体がないとすれば 人間は過去から学び今を生きる糧 さらには未来に託すべく拠所としてどんなことを見い出そうとするのか その危うさの一つとして、より強い刺激を求めてしまうこと。 その一例として天上無き格差拡大に成す術がない社会像が見えてしまう。まんだらの考え方は まさに その点を現代人に警鐘し教示していると思っています。異なる色砂で曼荼羅をつくる、完成すると 直ぐに壊してしまう。今もチベット寺院では修行のひとつとして毎日行われている。今 創造と破壊を理解しようとすると 最初からやらなければ良いと考えてしまう。人間がこの世に生まれ いずれ 死を迎える。これが宿命だとすれば 生まれてこないほうが良いと思うのとどう違う? 赤ん坊が生まれ 周囲は喜び おめでとうの言葉をかける。それは古来からずっと途絶える事なく続いてきた。 人生に 誰しもが夢を抱き 今よりも少しでも良く生きたいと願うのは当然だし 過去や将来を考えず この瞬間を楽しめば良いとする刹那主義も行き過ぎてはどうなのか!
 仏教は 人間の持つ性を心得ていて盛んにそこを誡める。苦からの解脱への道として判り易く 指標を示してきた。
 今日の危うさを 敢えて言うならば「際限無き欲望」を小我によって満たそうとしていることだ。一国主義は その典型で 誰の為何の為かに核心がない。そのことを東洋人は敏感に察するはずだった。
 神様はどこにいるんですか?とのあどけない質問に”貴方自身の心の中にいるんだよね”としか今は言えない。
 
 ・・・・≪多くの人は 人には心があるということを忘れてしまったように見えます。教育もこんな事を続けているとどうなのだろうというような教え方を変えようとしません。≫・・・・岡潔著『情緒と創造』 
 『心』は人間の永遠の課題である、 頭での理解優先ではなく こころに訴えるような雰囲気、情緒(知意)にもっと目を向けるべきだと諭す。SNSやAIロボットが最も苦手とする情とどう向き合うか、そしてトップランナーたちはVRという仮想現実に現を抜かしている。
 臨終の際に 人は目の前に起こることを頭で理解し処することができるだろうか?  老いて人は昔の事をハッキリと思い出すというが それが我々に何を教えているかです ”情緒”は 楽しかったこと 悔しかったこと悲しかった事のアーカイブ(?)。
 私が 尚恵学園の仲間たちから教わった最大のものは 理屈抜き後付け無しの有りの儘の生き様です。一言で言って素朴な心を持ち続けられる強さだと言えます。恐れ多く 羨ましくもあり、自分と対峙させ どこがどう違うかを考え続けています。仏教の教えに 知識と智慧の違いを陳べた処が多い。 全てがその一点に集約されているのかも知れない。
 智慧は・・・・道理や真理にそくし、正しく認識判断できる力で不変、 知識は知っている事で変わりうる、ここで言う情緒は智慧により近い概念。
 科学の進歩 が果たしてどうなのか その是非を見定めることは 人間が行うしかない その覚悟と責任を誰が負うか見えてこない。そこが 核心がないという根拠である。
 
 誰も自分の身近に起こった事に 向き合っていかなければならない。当然だと思っていたことが できなくなったり その逆 思ってもいなかったことが できたり。
  自分が実際に体験して判ること、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、は他人には判らない。これをどうにかしようとしても難しい。
  時間が解決(?)してくれると思いたい。失ったものと得たもの、誰しも差し引けば大差はないと言う。”空”や”無”が我々に教えてくれること、それは 自分を生きていれば いずれ見えてくると、それを信じたい。
  

3247:生きる

 小我 と 自分を生きる
上記の言葉をどう解釈すれば良いでしょうか?  仏教の二つの流れ 大乗と小乗の違いを論じるのは難しい。元を辿れば一本の道、日本は大乗の教えが大陸から伝わり今に至った。小我に対する大我、 ”自分中心で自分さえ良ければというものが小我(自利)”それに対し”大我は利他・見返りを期待しない愛” と教わる。それには素直には取れない自分がいる。 大小いずれも自分を生きることには差がなく 仏教の仏教たる所以を私はここにみるからです。約900年前に遡る。 覚鑁(かくばん)が残した教えにそのヒントがあると思っています。
 こころ清ければ仏をみる・・・・・・と。一人ひとりが人生をどう生きたら良いかを覚鑁は実践躬行し教示した。周囲の汚れ多き者たちへ 真に解脱を求めるのであればこうしなさいと諭す。結果 高野山の最高位、座主の座を追われ根来に移った。新義真言宗の開祖である。
 覚鑁が残した文章で密厳院発露懺悔ノ文、そこにある一字一句が今世の僧籍にある者への諫言となっているのは確かだ。
  数か月前電話があった。88才になる御婆ちゃんからでした。”よろしく頼みますね”というもの、正直 その時 何を頼まれたのか理解せず、”大丈夫だから心配しないで”と答えたと記憶する。昨夜、その御婆ちゃんの通夜があった。
 お孫さんのご主人が喪主、御婆ちゃんのお子さんは40代・50代で皆 先に逝ってしまった。介護施設は一度も利用せず 自宅で孫家族5人との同居を通した。共働きする孫夫婦、その留守を守ったのが御婆ちゃんだった。晩年、その曾孫たちが 身の周りの世話をした。御婆ちゃんが亡くなり毎日泣いて過ごした一番小さな曾孫は小学5年生、
 両親の代わりに子供達に寄り添って家を守ってきた、言葉じゃなくて生きる姿が最後は物を言うとの証。その役目を充分に果たし明日は我が子たちの眠る墓に自分が加わることになる。
 『・・・冬枯れの野に大根畑を見れば、あそこに生命があるとすぐわかる。生命が生命を認識するのである。こうした人にはまた、真善美の実在することもわかる。しかし、物質主義者には決してわからない。・・・・』(岡 潔著:「春風夏雨」)
 憂国のエッセイスト 岡潔の魅力、それは、日本人としてのアイデンテイテイが希薄化するなかで、先生の熱き思いが、時代を超えて憂国の士の心を勇気づけると評される。
 今 日本は冬枯れの真っ只中 畑を良くみると大根やネギが育ち収穫を待っている。その姿を其の儘、人間にうつして、本当の人間の価値はこうだと説いた。岡の言う物質主義者とは まさに現代人を陥(おとしい)れる幻影を遮二無二追い続ける者たちを指す。
 人として一番大切なことは、他人の情、とりわけ、その悲しみがわかることですと岡は謂っている。そして、これら 全てを『情緒』と語る。
家族とは何か? 果たして 今 自信をもって断言できる人がどれ位いるだろうか?
 私が恐れるのは 世界中がSNSやAI開発に血眼になっているなかで 視座を変えれば 飢えや病で明日の生命さえ判らない人達が沢山いるということです。人の悲しみを観て見ぬ振りし素通りする。こんな時代にあっても 依然として物質主義者を偽り 幻の豊かさを追うの止めない。憂いなく 逆に 自らを誇るようなリーダーによって導かれる社会とはいかなるものか?
・・・・『人と人との間にはよく情が通じ、人と自然の間にもよく情が通じます。これが日本人です」・・・岡潔の珠玉の言葉である。
 人と自然の間に情が通じますと考える岡潔、「多変数複素函数論」(たへんすうふくそかんすうろん)、人間の業でない難問を解明した世界的に有名な数学者、寝ている時以外は数学を考えていたという逸話、その生き方は 知る人ぞ知る、もう二度とこんな人は出ないといわれる。岡の書き残した数々の文章、今の時代に一度は読む価値があると奨められ・・・・そして 虜になった。奈良公園近くの白毫寺に岡家代々の墓には俗名:岡潔『春雨院梅花石風居士』は眠っている。
 岡には純粋日本人という不定冠詞がつく。その岡からみて同様の冠詞をつけるとすれば”芥川龍之介”だという。正直 難解、瞬時に厚表紙で活字印刷本が浮かんできた。
 本を読まず 情報量だけが増え続ける今の時代、それは過去のことだと廃棄してしまって良いのだろうか?文章書きもネットで得たものを継ぎ接ぎし 文章の体裁をとりつくろう。だから 文章から その人の生き様が浮かばない。だから心に刻まれないものが多すぎる。
 昔のことだけれど ≪おれは 田夫野人だから・・・・≫と口癖のように言っていた親父のことを思い出す。昔の日本人は 自ら誇ることは控え目にする事を是とする人が多かった。いつの頃からか知らないが、真逆の振舞を何の恥じらいも無く・・・・・・。
 控え目には 相手を敬う気持ちや誠意を感じる。 その生き方は 小学生位で身に着けるものだと岡は言っている。
 仏教では 身三口四意三という教えがある。
 

3248:まやかし物

 ゲーム感覚の統計不正問題、国会が始まり、与野党攻防でどこまで真偽が解明できるだろうか? 例の如く 後味の悪い結末で閉じる可能性は大。戦後70年が経ち先進国の仲間入りした割に 政治への不信感は払拭されない。ハッキリいって今の政治が期待できないからだ。政治家がそれを理解しているか否か、おそらく今回も保身と問題先送りに終始する国会になる可能性は大きい。この国の政治が今もって成熟できない最大の原因は 議会政治が体を成していないこと。烏合の衆の一党独裁党対多数野党の構図 近年これがより強まった。世界でも稀なる国である。 野党で旗頭として期待された人物が どうしたことか 一強政党に鞍替えするとか これなど 今の政治を実に判り易く示している!
 辞書を見ると まやかし物とは 誤魔化しと同じ。
 テレビでは『笑点』 ラジオでは「ラジオ深夜便」 笑点は53年間続く民放の長寿番組、NHKラジオ深夜便は365日毎日6時間休み無く続けられている唯一のラジオ番組。私はこの二つしか今は興味がなくなった。
 単行本『みんな忘れた』の著者で98才現役の画家、野見山暁治氏のインタビューが2日連続で早朝4時からラジオ深夜便であった。 構えた処が無く 淡々と好きな絵を描き続けてきた画家の生き様は最近の私の荒んだ気持ちを癒してくれた。それと”かまえなし”を私に教えてくれた飛田保一氏、先生も病気で両足を切断した後も 全く 生き様に変化を感じなかった記憶に残る恩師でした。享年92才 観音寺境内の墓地に眠っている。
 背伸びせず 自らを誇ることもなく 正直に生きた人だと思っている。
 自分が老境に近づいた所為か 記憶に残る先人を懐かしく思い出すことが増えた。 ”まやかし物”と”本物”を見極めることがほんの少しだけ判ってきたのでは・・・・・と思っていると
”自惚れだ まだまだ”との叱責が聴こえてくる。
 
 ゲーム感覚の弊害はコモンセンス(常識)、つまりは理解力・判断力・思慮分別、この一般人が持っているべき知識がドンドン失われていることに現われる。  あらゆる手段を講じ、自分を守ろうとする保身。 立場を弁えず 自己本位の遣り方で、・・・・・。
 昨日 昼間 国会中継があった。午後からテレビをかけた。10分程で消した。あれで一体何が判るのだろうか もっと国民に判る見えるやり方が考え付かないのだろうか? これだけSNSが騒がれている割に 旧態依然として 質問する側もそれに答える側も、儀式・形骸化している。いくら 立派なことをいったって どうせ言行不一致、期待もできず どれだけ多くの税金をこのために使っているのか? この延長線上に今回のゲーム感覚の統計不正問題があると私は思っている。
  その証を言いましょう。今回の某議員の動き 国会が始まった日に在ろうことか今までの政敵だった党に鞍替えするというもの。何を考えているのか?今までの主張はどうするつもりか?それを受け入れる側も受けいれる方だ。政治をゲーム感覚で演じられては 我々有権者は堪ったもんじゃない。
 こういった事が日常的に許される国が平和で自由なニッポンなのでしょうか?1560年(永禄3)桶狭間で織田信長と今川義元の戦いがあった。大が破れ小が勝った戦である。
 ・・・・・渇しても盗泉の水を飲まず・・・・・・ 政治を志す者にはこれ位の覚悟を持って欲しいのだが 無いものねだりかも知れません。
 ”まやかし物”が”本物”を演じようとすると 必ず辻褄が合わなくなります。みて下さい!今の状況を。 問題が起こると即 犯人捜し、その人間を更迭すれば正常化できると錯覚している。この方法は やればやる程、真綿で己の首を絞めることになる。案の定 連鎖を断ち切るどころか 次々に問題が明るみになっています。 こんなこと 赤子でも判るようなものを 周りにお友達と忖度人間ばかり侍らせれば こうなるのは当然です。 私は 今の永田町や霞が関が 疑心暗鬼の坩堝に見えて仕様がない。そこで上演される出し物はからくりが筒抜けで監督も主役も同一人物、テープの逆回しじゃ~あるまいし、口癖のごとく”・・○本の矢”を自作自演する。もう観客はマバラで それも皆顔見知り。そうです、よく見かける支持率、あの数字だって怪しいものだ 。
 世界は宇宙兵器の時代になろうとしている。この国を任された方は 相も変わらず”矢”を放すという どういう感覚なのだろうか?彼流の経済最優先策の有効な兵器だということなのでしょうか? だが どうでしょうか 誰が撃ち手となり どこに向かって矢を放そうとするのか? 後方支援をどこのだれがするのか? この辺が実に判りにくい。どうにでも解釈できるレトリック(巧言)に思えてしまうのは ひねくれ者の私だけなのでしょうか? 
 我田引水・・・・(英訳 四字壁) Is not thinking of others, be or you can act say as good convenience to myself. And convenient way to take care that their own. From meaning that draws the only water to their rice fields.

3249:信義則

 信義則は信義誠実の原則の略称、私法上、権利行使や義務履行に対し、社会生活を営むものとして、信頼を裏切らないよう誠意をもって行動するという法理。私が半世紀前に学んだ日本の政治、少々くたびれているかもしれない。日本はイギリスの議員内閣制を取り入れ、衆参二院を置く。大統領を直接選挙で選ぶフランスやロシアとは違って議員が選ぶ日本の仕組み。この是非が何度も論じられてきたが、果たして これを変えることができるか?  近年、事が起これば国民へ丁寧な説明を続け理解を得るよう努力すると。丁寧&誠意は常套句、既に説得力はない。この国の政治が世界の動きに上手く対応できていない状況は深刻だ。国会議員を選ぶ選挙でさえ 50%に満たない投票率で慢性化している、これで 国民の信託を得ていると思っているのだろうか?この感覚ギャップは相当酷い。こうなった最大の原因は 有権者の政治への不信感である。 ”どうせ こうだ”という諦め感と”もう沢山だ”という厭きれ現象、だから 無関心増加という負の連鎖は止まらない、その結果が低迷する投票率とみるべきだ。本気でこれを改正しようとしない議員、いや それを利用しようとさえ考えているように思える。それでいて 憲法改正か、この優先順位のミスマッチは政治だけでない、その歪は行政・司法にまで広がり始めている。
 国民投票で行うというが やった処で どれだけの人達が投票に参加するだろうか? 
 この責任は 大半が政治に携わる人間にあると私は思っている。貴方達が信義則をもって やっていれば 少なくとも データー改ざんや不正、揉み消しがここまで拡がることは無かった。 一から学び直すか それとも バッジを返上して貰いたいものである。
・・・・後の世を渡す橋とぞ 思ひしに  世渡る僧となるぞ悲しき  まことの求道者となり給へ!・・・・源信の母が我が子を戒めた言葉です。(この親ありて この子ありである)
 
 各種スポーツや文化活動での若手の活躍は国内に大いなる感動をうんだ。本人達の努力は勿論 周りの人達の支援も凄い。公然と 確実に好成績を挙げる人達こそが真の実力者だ。それと比べ なんとも情けないのは 不正や改ざんまでして 自分の実績を公言する人達だ。 今日から国会は予算審議が始まるそうである。実の無い議論をいくらしても 大勢は変わるまい。上記の源信の母が我が子への箴言で「世渡る僧となるぞ悲しき」ここをどう解釈するかです。
 引き際が大切という事と同じ、いつまでも その地位に留まることは 「まことの求道者」ではない。苦しむ多くの人々がいて 自分は世渡り上手に成り下がる我が子を戒めたのである。
 この子ありて この親あり ⇔ この親ありて この子あり。この違いは 判りますか? それと信義や大義の違いが判りますか? 通底するのは 出来た時 自ら誇らず できなかった時 言い訳せず。 時が訪れた事を悟り さりげなく 静かに身を引く これこそが 日本人が大切にしてきた人倫の道であったと思います。勿論 この範を示せる人こそが真のトップと成り得る訳ですね。
 数字のマジック?違う!綾取りゲームだ。縦と横の糸を上手に編み込んで 様々な模様をつくる伝統手織り技術、それは精緻な元になる図面があって初めて 誰が織っても同じものが織り上がる。昔は職人の手によって、今はコンピューター操作の機械が織りすすむ。不都合が出来れば機械が故障したと言い訳ができる。
 デフレ脱却、景気回復、GDP、・・・・挙げれば切がない。実態経済の根拠をどうみるか? 膨大な量のバラツキあるデーターをどう組み合わせ分析するか、統計による信憑性判断の基礎である、データーの改ざんと計算方法まで変えてしまうとすれば 年次毎の変化を比較することさえできなくなる。
 意図したごまかしや恣意的な解釈が無くとも統計で示される数字には当然幅がある。2008年に起こったリーマンショックは世界規模の金融危機を引き起こした。その後の低成長時代が続き、アベノミクスは安倍のエコノミクスの合成語、誰が提案したかどうか知らないが、そこからの脱却を首相肝いりの最優先政策とした、ここにきて長期政権の弊害?か 解決の糸口さえ判らない問題が続出。政府は必至にその流れを変えようとするが後手後手・・・・・・根拠となるデーターの不正が彼方此方から出始める異常さ。担当者の更迭と出世、残念だが関心事がそのことに移った?
 結局 我々国民は蚊帳の外 騒がれている事がどういうことなのかさえ判らない。
 織り機は縦糸と横糸を見間違えると どこからか判らずに解けてしまい布地としては用を成さない。 信義則をルール(図面)と思えば判り易い。なんでも有りのゲームは 試合としてあり得ず、勝ち負けの判定はできないということになる。

3250:正義とは?

 昨夜 お世話になった住職の大僧正昇任祝賀の会が管内寺院8割以上の住職が集まり行われた。
 その晩から 2回目を読み始めた『正義とは何か』(神島裕子著)、そのまえがきには・・・・私たちが生きているのは、ニーチェ的な意味で、「神」が死んだ時代です。この時代の正義論は、社会に生きる個人の自由とそれを支える権利を祝福するものとなっています。あわせて、正義の言わば公共的使用の困難を示唆したいと思います・・・・と書かれてあった。
  10歳になる我が娘への虐待を繰り返し,死なせた容疑で両親が逮捕された。女児が 周りに訴え続けた悲痛な叫び声を 真剣に受け止めなかった大人たちが頭を下げた。その同じ時間に 国営放送では午前午後と国会のLIVE中継、執拗な野党の追及に繰り返された管理責任と不適切発言に対して謝罪と遺憾の意を示した。ハッキリ言ってそれは”こころの無い謝罪”だった。 直接自分達が関わったことではないという思いが漏れてくる。 閉会後の残り僅かな放送時間に写されたTV画面から容易に推察できる。審議中盛んにカメラを意識した遣り取り 終って、ホッとしたのも判るが その裏表の変わり身に審議の本気度を疑った。
 自由と権利と義務の解釈がややもすれば自己本位となり混迷が深まる それが現代の象徴か?サンデル教授のベストセラーとなった『これからの『正義』の話をしよう』の出版から10年になる。ブームが去り そこで問われた問題は より深刻化し 不安を増長させている。
 人の命の重さは 様々な統計数値を駆使しても測れまい。≪勝ち組になって市井の人々の日常と無縁の生活を送るか、リスクを最小限に抑えた「為さない・持たない」生活を送るかではないでしょうか≫(前掲)という選択肢?
 この国には基幹統計と言われるものが55あるという。そして今回明らかになっただけでもその4割強に不正があったというものだった。この異常な事態を 気が付かなかったとは言えまい。そこに見え隠れする組織の危うさ 本気に取り上げようとしない危機感の欠落は 結局「平和」とは無縁、それどころか過去の過ちさえも許してしまうようで 恐ろしさを感じてしまった。 
 過去の過ちの最大なものは戦争、それを語れる世代が現在の政界には殆ど姿を消した。確かに国際法に則してその責任を果たしてきたかも知れぬ。ただ 過ちを犯したことは歴然としている、その核心をこの国は次の世代に真剣に教示してきただろうか?誤解を恐れず言えば、朝鮮半島は今もその戦争の解決に至らず 二つに分断されている。その間 一方の当事国の日本は民主主義を選び自由と平等を後ろ盾として世界に羽ばたき 復興を果たし 豊かさを獲た。時間は地球上どこにいても平等に過ぎて行く。先人達の努力があってこその繁栄、それを測る指標を 様々な統計調査から得られたデーターに頼った。
 自由と権利それと忘れてはならぬ事として”義務”があってこそ民主主義は成り立つ。今問われている事は 蔑ろにされてきたその”義務”である。公僕魂が脆弱し 勢いづくのが御都合主義、そこに一連の問題の病巣があるとみるべきかも知れぬ。恐らく不正を不正と感ぜず引き継がれてきたのではなかろうか? 自分達が考えつくった法制度(ex:障害者雇用法)の意味さえ分からず 日夜、繁多な業務に従事する。これを根本的に見直し二度と同じ過ちを犯さないように努力すると弁ずる。これは台本通りの常套句。そして更に複雑な制度や取り決めを作るつもりなのだろうか? この実態を見せつけられ 戦争をも同じ手法でやられるのではという不安と不信が多くの国民の根底にあるのです。
 夜中に熱を出した幼児を夫婦が寝ずに看病したり 障害をもつ子を必死に守り 当たり前のことをさせてあげたいと願う。そこには損得の勘定は無い。 私は そんな人達との触れ合いを大切にしてきた。それは自分にとっても良き指標となるから・・・・

 ★ 議事録には載っていないかもしれない。政府側の何方かが発した一言 この言葉が妙に残った。≪貴方のような高慢な考え・・・・≫という質問相手に発した言葉。今の国政の情調はこれだ。議事録には載せないかもしれない。国民はその情報がない、テレビカメラが僅かに写した様子から真相を掴むしか方法がないのです。 余計な事だが高慢なの意味は・・・思い上がって人をあなどること。(広辞苑)
 正義を公共的(おおやけ)に使うことが難しい時代という著者が 過去から現代に至るイズムの変化を検証し示唆したいことは 一読しただけでは理解できない。主義信条はどちらかに偏より過ぎると 必ず反対側は反発の勢いを増す。過去の米ソの冷戦時代、今は米国と中国の経済・軍事の覇権争い、収まる見通しがない。 どちら側に付くか、その選択を間違えば 奈落の底が待っている?またしても史実が証明する事実を隠蔽&破棄してしまうのだろうか?2度あることは3度あり。
 国会審議を野党の統計不正問題ばかりと批判する人たちに言いたい。おそらく ”他に代わる人がいないから”という現状維持派だろうが 国政だって企業経営に通底する。 M&Aで急成長した企業が舵取りを誤り本業を危うくする事態に至って慌てても 元の状態に戻せるか? 組織には 健全な反対派が不可欠だという事である。評論家なら良いだろう 自論を一転しても他への影響は少ないのだから。
 もう忘れてしまったのでしょうか?山一や北海道拓銀の破綻、その後 数えたら切が無いほど 経営の舵取りミスで消えた企業はある。国家も同じだ。民主主義の崩壊を内心喜んでいる人達、国政に蔓延していないか!一強独裁を長く続ければ やりたい放題と成りやすい。 企業は破綻すれば従業員は路頭に迷うがその影響は限定的だ。国家はそうは成るまい。影響は無限大に拡がるのだ。”他に代わる人がいないから”という続投支持がもっとも多い調査結果は 異常事態だ。
 その結果、水面下の駆け引きが多くなる。これは 完全に国民目線ではないことの証だ、斯様に御都合主義が蔓延れば あれだけ拒んでいた参考人の招聘が一夜にして変わっても違和感を感じないようである。
自然に口ずさむ歌は・・・だんご三兄弟・・・・弟想いの 長男 兄さん想いの 三男 自分がいちばん 次男 次男 だんご三兄弟・・・・ジャン ジャン♪