源究182

  

 NO テーマ   月日 NO  テーマ  月日   NO  テーマ  月日  NO  テーマ  月日
 3151 輪廻転生  3/31  3156 素朴な疑問  4/16   3161  大型連休  5/1  3166 時流に   5/18
 3152 平成30年度  4/2   3157 ++++++  4/20   3162 繰り返し   5/5  3167 継続は・・・   5/23
 3153 こころばえ  4/6   3158 札幌の二日間  4/23  3163 止めようよ!   5/8  3168 善と悪   5/25
 3154 穀雨まだ  4/10  3159 政治の有るべき姿   4/26  3164 声のアーカイブ   5/11  3169 好感度   5/28
 3155 改革だ!   4/13  3160 自己責任   4/29  3165 光と影   5/15  3170 喜び   5/31


3151:輪廻転生

衆生が三界六道に迷い 生死を重ねとどまることの無いことを輪廻転生と言います。その迷いの原因は”煩悩”と説く。仏教はその対義語として”涅槃”を置く。涅槃は言うなれば仏教の理想の境地、煩悩を断じ絶対的な静寂に達した状態を謂う。涅槃寂静と菩提は同じ意味である。
 源氏物語の中に≪菩提と煩悩との隔たりなむ、この、人のよしあしきばかりの事は、かはりける・・・・≫という箇所が あります。常に変化するとよんでいる。
 中学の教科書で道徳が復活すると聞きました。今まで無かったの?知らなかった。 道徳は人のふみ行うべき道、人間社会の行為の善悪を判断する基準を教えるもの、法律や制度などのような強制力を伴わない、個人の内面的規範だから。老子の教えの”無欲恬淡(てんたん)”に通じる。要するに日本の教育が 知識偏重ばかりとなり それへの反省も無く 長い間続けて来た弊害だ。 勿論それだけとは言わないが 人の道に反する行為が急増した昨今の状況は決して無関係ではあるまい。法律の解釈は 裁判を見れば一目瞭然。原告被告双方に弁護士がつき 依頼者の利になるよう法解釈を競う。それは そもそもの人倫の道とは違う。
 ここで 話は変わる。
 二日前 つくば市の斎場で通夜があり、距離があってタクシーで30分以上がかかった。運転手さんが私以上に話し好き 「明日はどうなりますかね~」と私が口火を切ったからか ハンドル握りながらの 絶え間のなき自説を聴く羽目になった。
 「政治家が先生なんて言われるようになって この国はおかしくなったんだ。先生と呼ばれるのは医者と学校の先生だけで充分・・・・・」「景気が良いというけれど まったく違う。どこを見てそんな風に言っているのかサッパリだ。」 相当不満が貯まっている。
 タクシーの運転手に若い人のなり手がいない。拘束時間が長く 売り上げは低迷・・・・働き方改革???。そこで 一息ついた。    ”地方圏で20数年ぶりに地価が上がっているとのニュース それも0,04%上昇”と私が言ってしまったから それが援護射撃になった。もう 私が言葉を挿む余地が無い。結局30分運転手さんの自論が捲し立てられては少々食滞気味。

 「そりゃー 日本全体を見れば 景気の上向いたものもあるでしょう。それだけを並べては 堪ったもんじゃありませんやね。 ハイ 着きました。お疲れ様」 ドアーが開けられ 斎場の方に法衣カバンを渡してくれた。
 斎場に早く着き過ぎて 何する事も無く 仕方が無いので控室で独り考える。・・・・・さ~て 明日の証人喚問は どうなるか????・・・・・・  まさしく 輪廻の転生だ。独り納得したのであります。
 証人喚問を見ていて感じた事、世界の動きとは 全く次元を異にした状況が霞が関や永田町界隈では連日繰り広げられているということ、有事の際に果たして 国の中枢機関であるべき機能が働くのか 不安に思いました。一体なぜこのような事態になってしまったのか それとも これが従来からの実態なのか・・・・。恐らく 自分の職務に忠実に仕事をしている人が大半だと思うのだけれど 一度歯車が狂うと修復不能と成り易い。当事者の辞任や異動という便法は 職責を全うするには至らない。それによって 自らに向けられた攻撃の矛先が変えられと思ったら大きな間違い。
 結局 その人間の真の力が最後はものをいう。地位や経験とは別モノでしょう。大義を謂う前に 自ら成すべきことがあるということで この風潮が蔓延しているのかも知れない。エッヘン プイプイ。
  
 年度切り替えで どこでも人事異動が行われています。尚恵学園も5名の新たなスタッフを迎えます。期待と不安の中でのスタートとなりますが早く仕事に慣れて頂けることを願うばかりです。4つの事業所の管理者を全て廻して それぞれに新たな部署で頑張ってもらうことになります。それと併せ業務の中味も変わります。1年かけ 内部で在り方検討を重ねた結果であり 今年は地域の方にも参加をお願いし これからの尚恵学園の立ち位置を確認し 具現化して参ります。新旧の交代は 必ず迎えます。それを飛躍の糧にしたいものです。 それと ホームページをリニューアルすることにしました。拘りのHPから機能と利便性のHPへの変身です。
 私にとっては 複雑な思いですが できれば 残された年月を僧侶の道に専念し 仏教社会事業の実践論(?)なるものを纏めたいという思いがあります。
 本来の福祉は 全ての人々の平和と安心を図るもの それが究極の目標です。障害者福祉は 障害のある方だけの限定した分野ではなく 糸賀一雄氏が説いた 万民の福祉に誘う”世の光”であるべきと思います。
 幸い 私は思いを同じくする多くの先輩に恵まれ 今までご指導を受けることができました。頓首再拝&感謝です。 その方達の”ことば”を記録し遺したいという思いが強くあります。≪先哲遺訓録≫(仮称) 
 形あるものは時代により変化します。変わってはならない 内面的な拠所が現代人に最も必要ではないだろうかとの思いからです。
  

3152:平成30年度

 平成30年度 果たして どんな年になるでしょうか? 毎年 自分に問題を課し それを道標にしてやってきました。遍路です。途中 息切れし 方針変更も想定内ではありますが、最近の世界の動きは 凄いスピードで変化続けています。東アジアの中で日本が今後 どのような関係を他国と築いていくことになるのでしょうか? 外交は政治の責任が大きい。内憂外患 様々な難問を抱え 舵取りが難しい。このような状況にあってさえ 焦点のボケた議論が相も変わらず続いている。今まで鳴りを潜めていた自党内から不満がチラホラ 三つ巴の政局になるかも知れません。島国の島国たる所以か?
 何が真実かが 明らかにされない中で 新たな提案を ハイそうですかと鵜呑みにできますか?
確かに 科学の進歩は驚くばかり、AI技術の定義、「学習」「認識・理解」「予測・推論」「計画・最適化」という人間の知的な活動をコンピューターが行うとされる。そして 新たな価値の創造も可能になるとしたら 人間の出る幕はどうなのでしょう!観客席が定席となって 舞台に上がることが無くなる?これが 本来の目指す姿なのでしょうか? 
 数㎝の誤差で目的を攻撃 破壊できる先端兵器 これは本来 殺戮目的のために開発されたものなのでしょうか?どこかで 使用目的を変えた。 仏教で教える人間の智慧は 単なる知識や能力ではありません。その解釈は一貫しています。”まんだらの思想” それこそが 世界万民の願いであり、持続可能な筋書きであろうと思っています。
 相手を尊重することが無ければ 相手の気持ちを理解するなど到底できません。万物は流転し 無常である。ここに 経済第一とした上か下か 右か左かの西欧的直線思想にはない発想を入れるべきです。 「許す」「認める」という「共生」のまんだらの考え方です。私利私欲が働けば 自分の都合の良い情報しか受・発信せず 恣意的な解釈が蔓延る。つまり どちらが優れているかとか どちらが豊かなのかという視点で 差別化して己の立ち位置を見つけるという方法では もたないのです。これは 福祉とは何ぞや!という人間の永遠のテーマと無縁では無く 個人的に 私は この難題に 残りの人生をかけたいと思っている。悪しからず 遠からず ・・・(ナマグサの覚悟)   ★『曼荼羅の思想』鶴見和子:頼富本宏著。
   
 真心(まごころ)=赤心(せきしん)・・・・赤心を推して腹中に置く・・・・・ 偽りの無い心をもって相手に接する。 いかなる時代になろうが 人としての有るべき姿が問われる。
 嘘も方便という解釈は微妙 目的のためなら嘘も時には必要とか。ここでいう方便は仏教でupaya ウパーヤという梵語が元、真理に誘い入れるために仮に設けた教えという意味です。 言葉の意味は それを使う人により 受け手側は真逆の理解をするものです。
 つまり 言葉には行動が伴わなければならない。言行一致です。それは 本人にとって取るに足りない事であっても 人により全く違いますから 信用度にかかわる。
 私は 経典を読む時に 先に進めなくなることが何度もあります。般若心経に繰り返される「不」と「無」の一字です。これは仏教で悟りに至る登竜門で最初に暗記させられる。シロとクロや上下をハッキリさせることが良しとする西欧的な考え方との違いを感じます。「中」の存在を意識すること、中道 此れこそが今必要でないかと思っています。
 それには先ず自らが実践することだと教わった。交渉事には お互いの思惑がぶつかり なかなか妥協に至らないことが多い。その時に 赤心&真心が有るかないか これが重要になると教わりました。
 際限の無い技術の進化を追い求めることの 危うさは それをどう使うかです。完成した技術は その日から即使用が可能ですが 人間は赤子から成人に達するまで 相当な年月を要し 大人になったからと安心できない生き者でしょう。ですから 己の力で今があると思ったとしたら 既にそこから道を誤ったと思えと・・・・・・。その時の道標が 先人の教えとなると思いますが いかがでしょうか?
 夜7時から市内で法人の歓送迎会を実施、約80名のスタッフが集まってくれました。開始が遅いのは勤務の都合で仕方ない、会場は良く学園で利用させて貰っている所だから 気が楽、その所為か 最後は 何がどうなっているのか判らないくらい。社員全体の旅行が無くなって大分年数が経つ。年間を通じ 事業所は休み無く開いている。夜も昼も 張り付くスタッフは20名近くがこの時間帯も勤務している。おそらく 今後も変わらず年中無休の体制を組まざるを得まい。有難いというのかどうか 勿論 利用者さんの会食も多くなり、こちらは 気配りは違う。動き回る人 大声を上げる人、そして 車イスの方が増え マンツウマンで介助する。新人5名がどう感じたか この仕事の面白みを是非感じ取ってもらいたい。
 いつも 来る者去る者あり、正直 中には上手く溶け込めず中途で辞めていく人もいる。これは 仕方が無い。ただ 勤務の長短に関わらず 利用されている方々との出逢いと触れ合いを大切にして頂きたいといつも願っている。
 皆に心より感謝です。 

3153:こころばえ

 心延え(こころばえ)は 竹取物語や源氏物語・蜻蛉日記に使われ 妙なる心情を表わす日本語、思いやり、気だて、風情の意味が有る・・・そして 延えるというのは他に及ぼすことである。私はVR(仮想現実)やAR(拡張現実)なる新造の言語(?)にどうも違和感があり 一種の危うさを持っている。活字離れと日本語、本来の言葉の意味が曖昧となりながら情報だけが増え続けています。今では 多くの人が 四六時中スマホを持ち歩き、体の一部になったようなものだろう。膨大な量のデーターが 片手で持ち歩ける液晶デスプレイから簡単に入手できる。確実に人の思考回路に異変が生れている。 思いと行動の”あべこべ”感である。心と裏腹な世辞を言うではないが 一体 何を我々は信じて生きていけばよいのだろうか・・・・と。
 2012年の某政党の憲法改正草案にある。・・・・・「国民の責務」第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により保持されなければならない。国民はこれを濫用してはならず、自由及び権利には、責任及び義務が伴なうことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない・・・・・・・。
 なぜか 現行の条文にある「公共の福祉のために・・・」という文言が「公の秩序に反してはならない」と改めてある。実態を示すため より具体的な表現にしたのだろうが その時 考えた方々に尋ねたい。貴方達の”心延え”は どのように国民に及ぼされたでしょうか!そして 貴方自身はどう それを実践しているでしょうか!
 ”改竄!”までして 何を伝えたかったのでしょう?これぞ 特権の濫用というのでは なかったでしょうか?
 敢えて言わせて貰えば 責任は謝罪すれば良いという事では無い。これこそが”謝罪”の濫用とならんとも限らない。
 そこで 何が欠けているかと言えば ”心づかい”かもしれぬ・・・・・・そのほどの心延えはしも、ねんごろなるようなりけり・・・・(蜻蛉日記) とある。
 ねんごろ(懇ろ)・・・・ は、まごころでする様 心遣いの細やかさを表わす言葉 古くは万葉集の中に使われています。・・・・ねもころ(懇)に見まくほしけど・・・・・・と。俳諧やお茶が日本の文化だとすれば それは自然との共存がなければ 今まで伝わってくることは無かった。 詩や歌で思いを伝えることを侮り軽んずれば 心や気風が殺伐とし まごころや細やかな心遣いは失われていくでしょう。もしかして現代人は”豊かさ”と”便利さ”の代償として それを受け入れ 満足していませんか?
 今日は夏日を記録した。この陽気は どこか変だ。半袖で 高圧洗浄機を屋上に持ち上げ 汚れ落としに精を出す。普段 そこまでは 手が回らないから 簡単に汚れは落ちなかった。午後 桜の花が散り始め これもまた風情があって 暫し 体を休めていると、下から木魚を使ったリトミックの音と 往診してくれる歯科診療で 大騒ぎするメンバーの声が聞こえる。 尚恵学園の文化といえば大袈裟になるが よくもここまでやって来れたものかと・・・・・・そこで浮かんだ日本語が”ねんごろ(懇ろ)”だった。
 寺にもどり また草取りを始める。これはもう病気かもしれぬ。この季節は毎年 同じ症状を繰り返す。
 その時 携帯が鳴った。≪○○さんが 入院になります。≫ 急いで着替えて 病院に向かう。診療時間が過ぎ 誰もいない待合室に3人が座っていた。
 2月に頂いた桜の木が花を咲かせた。プロの技には敬服、その周りに芝を植えたのは私、どうも昨年から背後霊の如く芝にとり付かれ 毎日数か所の芝を見回るのが日課となる。メンバーさんに散水を頼んだが 案の定 裏側には水が廻らず 植えた芝が黄色に変わっている。ネットで芝の育て方を見て 芝用の肥料を撒いた。その後 多目に散水し 栄養分が行き渡る様にした。そしたら 夜間 久しぶりに雨が降った。なんとも チグハグなもので これも俄か職人のなせるワザ。
 近所の労働奉仕?に草刈り機を持ち込み参加、3人で行った土手掃除、何十年と放置し 伸び放題の篠は見るからに手強そう。平均年齢70越えには 結果は明らか? しかし、半日後 西側斜面は 見事にクリアー、そこで終了。枯れるのを待ち 尚恵学園で処分することで解散した。この周辺でも 昔は”結(ゆい)”という習慣がありました。鎌とカゴを持ちより田圃の畔や水路の掃除、無料奉仕だが 休憩中は当家の馳走に与かれた。そして 話に花が咲く。これが通常のコミュニケーション、携帯もなければ トラクターもない時代 先祖から学んだ智慧である。
 共助とは助け合うこと、その必要性が無くなれば どうなるか? 深刻なのは トラクターは有っても 耕作しない田畑が増えすぎた。この時期 エンジンを温めるのは 雑草予防の土起こし。これでは メーカーがいかにモデルチェンジに励んでも消費は伸びない、これ道理。
 矛盾を感じても それを どうするか?が判らない。税金対策で土地持ちは 世代の交代時期に 悩みだす。入居者の当てもなく 取りあえず ローンを組んでアパートの主になる。”借金の先延ばし”・・・・これと全く同じ事が 今の永田町~霞が関の昼だけの住人に起きている。
 貴方達が夜遅くまで残業し考えた制度や仕組みが 実は足を引っ張っていることを 認めない。 これが”改竄”の原点と 子供でも判ることを ・・・・・謙虚に学ぼうとする意志がない。 文科省 厚労省 財務省 そして今度は防衛省・・・・・飛び火を防ぐと口やかましく指示しても その当人たちが”ねんごろ”の意を解せないのでは 万策 無効となりませぬか!。
・・・・・”ねんごろ”を 寝るころと解し ホッカブリ・・・・・(字余り 蛮句)

3154:穀雨・・まだ

 春を知らせるサクラの開花が 日本列島を北上し 各地では様々な催しが行われる。 それが どうだろう? 低気圧の通過と共に全国を強風が吹き荒れ アッと言う間に葉桜となってしまいました。次は”穀雨”、草木の芽吹きと併せ 各地では恵みの雨をまつ。すでに田起こしが始って 田畑に活気が戻っている。厄介なのは これから夏にかけ 雑草との格闘が始まること。雑草と決め付けるには 少し身勝手のようにも思うが あっという間に背丈が伸びて 根を抜くにも抜けなくなる。 ただ 農家は その雑草を上手く利用すると聞いた。雑草が土壌の乾燥を防ぐ役目を果たすという。特に果実農家にとっては大切で 機械化や除草剤が無かった時から受け継がれてきた智慧であると教わった。人に優しいとは草木にも言える事 これが手不足を理由に 見事に消えてしまった。定年後 野菜作りに精を出す人を多く知っている。神立周辺は家庭菜園が増えている。おかげ様で 私の家は新鮮な野菜を頂く機会が増え 助かっている。田舎暮らしの楽しさは、もしかして原始に戻ること? 生活体験と健康に大いに役立っているのは間違いない。
 方や 寺の周辺が急激に宅地開発が進んでいる。車でいかなければ買い物できない不便性は今は無い。近所に大型スーパーがまたできる。全国どこも同じなのだろうか? 結構な広さの駐車場を完備した薬局やスーパーができるわできる。これで経営が成り立つのだろうかと余計な心配をする。勝算のない戦いはしないだろうから それだけのニーズがあるのかも知れません。
 市場の自由化はこの国が奨めるもの 数日前 長い事お世話になったクリーニング店の主人が来て、「こんど 店を閉じることにしました。お世話になりました」と挨拶に来られた。親子二代続いた 老舗の店である。
 気のせいか 主人の表情に安堵感を感じた。
 大切に生地を傷めぬよう洗濯し届けてくれる。丹精に作った野菜のお裾分け いずれも”まごころ”を感じる気遣いで 無くしたくない 変わって欲しくないことである。
 
 ゲーテ(1749~1832)がライフワークとして書き続けた戯曲「ファースト」の中に≪人間は努力するかぎり 迷うものだ≫という名文がある。あまり知られていないのは最初に日本語に完訳したのは あの森鴎外である。「若きウェルテルの悩み」で20代で疾風の如くデビューした。今も私の机の壁にその言葉を貼っている。
 仏教では『人間は生きている限り 迷うものだ』と説く、そして それ自体に意味が有るということを教え諭す。 この世に生を受け その人らしく生き切ることを目標とすれば、これぞ まさしくライフワークとなる。勿論 何をやっても構わないということではなく そこにはルールがある。この世に過ちを犯さなかった者はいるだろうか? 
 バルザック(1799~1850)は近代リアリズム文学の最大の作家と評される。ゲーテと同じ19世紀にヨーロッパで活躍した。彼は「人間喜劇」の構想を持って、当時のフランス社会の多様な人間気質を人物再登場法という方法を用いて描いた。私の4年間の目論見は 見事に粉砕され 今もって その時の悔しさは忘れることができない。
 南方熊楠(1867~1941)は粘菌の研究で有名な方、出身地 和歌山に彼の記念館がある。私が興味があるのは 彼の事跡で「南方マンダラ」という発想である。極 身近なところにあって誰も関心を示さないものの中に実は大発見があるという。
 人工的なものでなく 自然の有りの儘の営みの中に全ての起源がある。この発見は 今の時代だからこそ重要性が増している。 これは曼荼羅の思想に通底する。その一つが流動性、人間が考える価値観も常に変化し止まらず。大宇宙にまで拡大させる視点(向上)と己自身の中にそれを見い出す視点(向下)。
 有難さ・・・・・この言葉の本来の意味を再認識すべきと思う。存在(有)が稀(難い)である。→ 故に 尊い。
 ★ 雨が降らなければ 人間は自らの力で雨を降らすことが可能と思うのでしょうか。これを大いなるものへの”冒涜”と知っていた?。
「 夢を夢みる」という日本語がある。夢の中で夢を見るということで極めてボンヤリではかないことをいう。夢の重層化?現実の方はどうかと言えば オカシナ事が目に付いてなりませんよ。  毎朝必ず出会うお二人さん、 ウヲーキングしている?、多分 ご夫婦?だと思うのだが20~30メートル離れて男性は2台のスマホをジッと見ながら先を歩き その後を女性が手を大きくふって歩いていく。恐らく 男性のほうはポケモンのゲームか何かをやっていると推測する。 危なくて仕様がない。幅は狭くても公道だ。あれで 車にぶっつけたりしたら 此方の責任? それと ワンちゃん連れてのウオーキング ? 何が変だと言えば 見ず知らずの見ず知らず的 処世術。”知らんプリ”の私の造語ですよ。お連れ様が寺の境内で粗相しても しらぬ顔 なんという 世の中になったものか?
  社会が”挨拶”がない大人の増殖炉と化した? こればっかりは そう簡単には治らない。
 農家の方が 周りに遠慮して農業をするようになった。これも可笑しくないですか? 苟も 先住民ですぞ~。
 『夢があるから 強くなる』は川渕三郎氏が良く使われる言葉だと言います。日本のサッカーをここまでした立役者の一人、今朝のラジオ深夜便で・・・パワハラやセクハラが問題になっているけど トシハラもありますよ。老いて引き際を考えないこともないが 自分を必要とする声があれば やるだけやるさ~・・・・と今も元気だ。
 此処で言う”夢”は 迷夢でなく 確たる信念をもったその人の生き様、そこに責任と生き甲斐が結びつけば 確かに人間は強くなる。

3155:改革だ!

 時代を読む。 世の中には 新しい事は全て良い事だという風潮があります。これは 経済第一主義の考えに准じた価値観とそれに向かって挑戦することが成功の秘訣だと。しかし、成功とはどんな事かとなれば???経済諮問会議なる有識者の集まり、庶民には程遠い存在? 一体何を話し合っているのか、 今問題になっている行政組織への疑義は同根だと私は思う。肝心な”何のため””誰のため”が判らずに 改革だ!と。 それは 兎角 自己満足に終わるものです。これが果たして持続可能なれば まだ良い この考え方には ダメで元々 もしダメならゼロから再チャレンジすれば良いと最初から想定内 ですから唐突にやめてしまうか方向転換、これでは堪ったもんじゃ~ありません。残念だがこの傾向がより強くなっている、
 この国で 引き籠りになった人が公表で60万人いるという。 この数が多いか少ないか。その予備軍の数を入れれば 計り知れぬとも言われます。投票率の低迷も投票拒否症候群(?)でしょう。一億総引き籠りとなれば 世界の笑いもの いくらなんでも 良かったとは言えんでしょう。何故か そうなってしまうタイプの人は 真面目でコツコツとやる方が多いらしい。その意味では 既にレッドラインは超えている。人生は そんな単純なものでは無い。独りひとり違う価値観を満足させる???独善的な考えででうまく行くはずはない。 臨機応変ならばよい。しかし それが 己の利の為となれば話は違う。上から目線で慢心の強い方は自らを省みるという力が弱いと見受ける。ですから 自分に不利な情報を隠蔽し 他人の所為にする。
 改革を行うのが自分の使命???まあ~ できるものなら やって見せて下さいな。
 閑話休題。
 サウジアラビア北部のネフト砂漠で約9万年前と推定される原生人類(ホモ・サピエンス)の手の指の化石がドイツの研究チームにより発見されたという。西暦2018年を生きる私達は 9万年前を想像できますか?改革だ! 価値の転換だ! とあまり騒がないほうが良いのではないでしょうか? だって そうでしょう!  我々は この地球に生まれた時から地球の恵みを誰もが享受してきた訳ですよ。己の力などたかが知れている。奢るな!
 世界の三大宗教の開祖ですら今から2500年前です。その辺の事情を鑑みて 自らの立ち位置を考えないとおかしなことになりかねません。
 目の前にある試練は 大いなるものからの贈り物、自分の力で今があると思うな! これは三大宗教に共通する核心ですがね。
  上に立つ人に望まれるのは いかに 多くの人との共感を持ち得たかということ。 ですから 簡単に 改革だ! などと言わんほうが よい。前任者の勲を全否定してまで・・・空しいよ。悲しいよ。  
 ≪隗より始めよ≫・・・中国の戦国時代 郭隗が燕の昭王に進言した故事。 今の日本の状況を戦国の世とみる方は少ないかもしれません。でも 日本が先進国と言われる国の中で 突出している数字があることをご存知でしょうか? それは1年間に起こる殺人事件の中で近親者が絡む事件の割合が最も多い国だということです。
 これは 異常です。 一方では”共生””思いやり”とかの言葉が自棄に目立つ。 何か この国で昔から大切にしてきたことが どんどん失われていると思いませんか、それも 親子、兄弟 親戚・・・・身近な処から。 誰しも 自分の胸に手を合わせれば 思いつくことはありますよ。それでも 常識というものはあった。(経済第1主義の考えは スクラップ&ビルド その常識さえ否定し排除する危うさを含む。) 日本の目指す方向が見えないと良く謂われます。その一番の理由は 生命の尊さへの 曖昧さではないかと思います。私は寺の住職と知的に障害がある人との生活に人生の殆どをかけてきました。知識偏重の日本の教育からは 正直 人への優しさは生まれないとの確信を持ちます。そして それを社会が見て見ぬ振りをしてきた訳です。今回 また 悲惨な事件が明るみになった。兵庫県三田市で障害のある子を自宅庭の檻の中に監禁していた、それも20年以上の年月を・・・・・・。首都 東京の外見の華々しさに比べ 日本国内の衰退と 目立たないが 沢山の悲劇が現に起こっている。これは 先進国の中で断トツの多さです。 
 もう一つ 国の財政状況が最悪、借金によりどうにか 廻す。それを専門家(?)なる人たちは 以前として認めない。いや違う、実態は 反対意見の方は有識者会議に選ばれない。実際 行われている事が国の為と言ってはいるが 本当にそうだろうか?
BS放送の中で有力(?)国会議員OBが放った言葉、≪もりかけなんかばかり食っているから 国民が皆 栄養失調になるんだ!かつ丼をたべにゃ~いかん。俺は そう総理に進言してるんだよ。≫ これが この国の ”まごころ”なんですよ。恥ずかしいと感じない、この種の人に国政を委ねてきたと思うと 悲しいです。民主主義の根幹が崩れようとしている今に至っても 永田町に長く身を置くと あのような発想しかできないのでしょうか? そして バッジを外せば 何を言ってもよいのですか ? 行政改革以前に私は立法府の改革が先だと思います。この税金○ろ○う!利権絡みの構造はより水面下で増殖している証ですよね。
 少なくとも 私が元気を毎日頂いているハンデイを背負いながら頑張って生きている人達から そんな言葉を聞いたことがない。≪母ちゃん 来るよ。待ってるもん・・・・≫(かあーカン くっとー)。同じ日  入院していたKさんが退院できる、グループホームで一緒に生活しているHさんが 普段あまり言葉を発しないが≪Kさん今日退院するよ。≫と知らせるとニッコリ笑って≪うん≫とハッキリと答えた。
  
 享年95歳のおばあちゃんの葬儀を終え 寺に戻り国会中継を見た。丁度 野党議員の質問に対し 前代未聞 なんと内閣秘書官からヤジが飛んだ。その人は総理へのアドバイスを行う役目で控えているらしい。本来なら質疑に答える総理の傍に行って耳打ちアドバイスする役柄、それが 後部席からヤジを発し自分が参戦してしまった。明らかに質問者に向けて ”違う”と断言した。・・・・ この状況がカットなしでNHKテレビで流された。多分、我慢の限界を超えてしまったのだろうか 不謹慎だが 人間味を私はその秘書官に感じたのです。場外乱闘さながら 速記を停めて!と叫ぶ野党理事、だが委員長は止めない。それだったら 秘書官のヤジも記録におこすのか?? 奇しくも 公文書管理の審議の委員会だった。 その辺のことは私には判らない。
 あの状況を見ていた国民が どう感じただろうか 少なくとも私は どうしようもない異常さを感じたのです。良くも悪しくも 今の混乱状況は 関係者の内部告発から端を発していると思うので 次々に新たな問題が表面化すると思う。どこにも 必ず良識を持って 職務を忠実に行っている方がいるもので、そのタイプの人は何故か上手く上司に使えることができない。往々にして。逆に本心を述べず 記憶はないというタイプが”できる人間”という評価がされる特殊社会
 ここまできては ”できない人間”の人達の奮起を期待するしかない。政治家にそのタイプの人間が果たしているか? 大いに疑問 先生と呼ばれれば気持ち良く、皆で渡れば怖くないタイプばっかり。肝心なことは 原点 誰のための仕事なのかという一点です。
 30年前に夫を亡くし その後 母親という役を忠実に行い 立派に子供を育てあげ 静かに夫のもとに逝った、その生き様を 今のトップリーダー達に私達が期待することは 無理なのでしょうか。 勿論 この意味の改革ならば大いに賛成ですよ。

3156:素朴な疑問

 世の中が複雑になると”素朴さ”の価値が見直される。ナイーブ(素朴)な感性というのは 純真な感覚 美しいものを見て 美しいと思う感受性である。次々に明らかにされる事象が 従来の常識と相容れないものであれば どうなるか? 当然 ”混乱”が起こります。何が大切か それすらも判らなくなり 組織は秩序が乱れ 疑心暗鬼の坩堝と化し 様々な鬼が出現する。≪昨日の友は今日の仇≫ 人の離合や去就はあてにならない。逆に  ≪昨日の敵は今日の友≫も有り得るから世が乱れる。 この状況を変えるには 大幅な人の刷新が必須条件 今のままでは どんなに繕うとしても どこから綻びが起こるか判らない。生地そのものが弱っているオーダー服を着ているようなものです。今回の一連の騒動をみて痛感することは 表裏、暗躍、利害、責任 そして 権力とは 何か 我々国民が当に問われているのです。モノには耐用年数があるように 組織の存続にも 是非の見極めが肝心、それぞれの思いが錯綜し 何が正しいのか判らない状況は 最早 組織として非常事態である。
 こと 外交に携わる人には 当然のこととして冷静沈着な判断が望まれます。国の進むべく方向を見誤れば どのような悲劇を迎えるか この責任の重さに本当に 耐えられるか? それを託すに相応しい人間か否か?
 残念ながら 私は その判断材料を持ち合わせていない。 情報の信頼性や正統性の判断根拠が大きく揺らいでいる中で 他国との交渉をどうするか? 唯一さぐる方法は 歴史から学ぶしかない。三権分立の仕組みはあっても その中枢にある人たちが最早 大半が戦争を知らない世代である。
 だからこそ 三権の独立性を基本原理に置いて お互いにチェックする機能を持たせたはずだった。 公文書の管理や権力の集中は もっとも注意しなければならぬこと、 そういった 素朴な疑問に どう応えようとしているのでしょうか?
 
 ここまで混乱してしまったのは 関係する人が多すぎること、立法府も行政府もしかり。改革と言いながら 実は 無理に仕事を増やしている感がする。三権の力学がオカシクなり忖度なんて言葉が乱れ飛ぶ 国民の為なら良いだろうが 実態は?斯様な組織で職務に真面目にやればやるほど 矛盾が増える。これは そもそもの動機が間違っているわけ。傷を隠す為に上塗りを繰り返せば 元の素の状態が判らなくなる。時間が経てば 内部から腐食する。
 義務と権利、自由と我が儘、数の論理の信頼度、経済の表と裏、。。。。。。このバランスが崩れている状態が 今の日本の状況ではありませんか!
 六波羅蜜は仏教における基本的な修行法です。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六段階。ちょっと五つ目の禅定を説明しましょうか。禅は心を安定・統一させることで宗教的叡智(さとり)に達する行法と言われます。その方法は 単純を重んじる。静かな場所に座り 自分の吸う息と吐く息を数えることに集中する(数息観)。それによって 徐々に雑念が消え 素の自分と向き合い 何が大切かを自分が感じ取る。この単純さを現代人は軽んじてきた 態々 複雑に細分化し そこに付加価値を見出してきた。(利便性)&(豊かさ)・・・この新たな価値を入手するために 対価を払う。これは人間の欲望を駆り立てることで成り立つものです。欲に限度が無いことをいいことに ありとあらゆる方法を使って。 その中で 本来の価値 を見失い 意識せずに過ちを犯してしまう。
 残念ながら防ぐ方法が無いから この病は蔓延する。 どれだけの労力と時間をここに費やすか 寿命がどれだけ伸びたとしても その実は変わるどころか より不満と不安が増えることに成りかねない。
 その証拠を挙げれば切がありません。最たるものは 国の借金(負の遺産)、1000兆円という額を正確にイメージできない日本国民は悲劇です、経済をより豊かにして その財源を借金の返済に回すと説明。ここに至っても良く謂うよ。年間の借金額は前年比較では減少したかも でも トータルは毎年 増加の一途。
 現在の為替相場で1000兆円という額は 1万円を束ねた厚さが なんと 最新ジェットの直行便で12時間かかる距離と同じですよ 皆さん。恐らく それを 掴んでいる人は一億総人口の数%位なものではないでしょうか。
 現代人の宗教離れが起こっています。各地に葬祭業が沢山でき 熾烈な競争が行われている。
 宗教が政治と絡めば どうなるか? 日本の檀家制度は 江戸時代の国内統治の役割を果たしたと言われる。宗派の数がいまどの位あるだろうか? 人材不足で僧侶になる人を一般公募するところもある。 寺院を存続するため、様々な努力がされている。 住職となれば当然 寺を維持する責任は重い。それも 較差は大きい。 ある面で 寺院と社福には共通点があると思います。双方とも財産の私物化を禁じている。 だから 長年続いているとも考えられる。日本の社会保障は どっちつかずを相変わらず続けていると思う。自助か公助か共助かと 時と場合で使い分ける。
いずれ変わるからという不安が”終の安心”を阻んでいる。社会保障に要する財源問題、これは避けて通れぬものであるが どうも支持率への影響を気にするあまり 二の足を踏んではいないのか? その間 様々な動きが出て 福祉市場は 混乱している。
 68才を迎える今年 住職として 40年が経過、先日 本山から記念品が送られてきて気付いた。ああ~ そんなにたったのか? 伽藍や境内の整備 運が良かったのだろう 多くの人に助けられ 今までやってこれた。 これから先 どこまで出来るかは判らない。大風呂敷を広げるのは厳禁 我が信じる道をトボトボ歩むことしかない。社福とて 全く同じだと考えている。支え手が目立ってどうなるかとの自戒と併せ 利用されている受け手がどうなのか? 毎日 気にしている。 どうも 私の考えは 時代遅れになっているらしい。 決して そうではないと信じる。
 この拘りが 唯一 今の自分の支えとなっている  あくまでも 主観的な価値として。
 

3157:+++++

 厚顔無恥というのは このことか 兎に角 スッキリしない話が多すぎる。

 昨今の情報量の多さは尋常ではありません。一方では 殆どメデアに登場することがなくなったものも沢山あります。福島原発事故(2011/3・11)から7年が経過 国際原子力事象評価尺度で最悪のレベル7、その影響は計り知られず、今もってこの先の見通しがたたない。放射能汚染物質が貯まる一方で 事故を起こした原子炉は 今なお手の施しようがない。何故か国もメデアも報道を控え気味。
 驚きは 今回の事務方トップへのリークニュースである。  文章でコメントを出した。そこには国会で何が問題になっているか その自覚がなく 戯れごとだと謝罪した。 そして 現在 名誉棄損の訴えを検討中とか あの人は 自分の立場をどう考えているのか。 方や当事者は決められた予定だからと 米国に向かう。あちらで何を語ってくるのだろう? 
 改革は信頼関係があればこそ。その要の信頼が崩れた状況で やればやるほど 不信感が増し 改革は進まない。何か”奇跡”でも起こればとの期待か?それとも 強行突破 司法権力をバックに
 政治を私物化しているとしか 私には思えない。最新の世論調査結果 で政府に対する一番支持率の低かったのが なんとAではなくNだった。どうなったの?
 日本を愛する人は大勢いる。貴方達だけでは ありません。子供達よ健康に育って欲しい。この事は 家族全員の願い それを どう適えるか?少子化や高齢化を問題視するホンネの捻じれが 見え隠れする。 それを見極めどうするかが政治の責任 行政はそれを具体的に形にする。ここに 改竄や忖度が入る余地はない。
 公僕とは 英語で public servant 公衆に奉仕する者の意 ある特定の者に奉仕することではない。
 ★ はからずも 愚痴三昧 空しさだけが ゆききする!
 このまま進むと2極化が より進むと思う。関心か無関心。当事者たる 中央の政治は多極化、相変わらずくっ付いたり離れたりをやっている。これが偽らざる今のこの国の実態。制度の改革は遅々として進まず。利害が微妙 それが ホンネでしょう。 被害者は 国民 投票する根拠が判り辛い。これでは 恐らく 50%を大きく上回る投票率はいつになっても望めまい。
 今回のゴタゴタ騒ぎも 元凶は その辺りだろう位は誰も判っている。 ”自由”と”個人主義”という飴により 腑抜けにされている。勿論 これは 本来のあるべき姿では無い。自由は一定の前提条件が伴なって初めて成立するものだ。その条件が責任。それと個人主義は利己主義とは違う。社会や集団も個人の集まりと考えて 個の意義を認める態度。 この定義が怪しくなった状況が問題。責任の取り方一つでも謝罪すれば済むと安易に考えた、そういった人ばかりになれば 国の体を成さず乱れがおこる。当然の事です。あの人がああやっているなら 俺もやる・・・・・と。
 主権在民と言いながら 実態はどうか 。今こそ原点回帰! あまり 先を急ぎ過ぎていませんか。 充分な検証が成されず 時間と共に忘れ去られていく 重要案件 。何を伝え残すかさえ分からずに この世の春を謳歌する。
 なんとなく 平和な国という 暈しは 墨絵で充分。 ミソハギを盆花と呼ぶ この日本人の感性は AI技術に置き換えようと一生懸命な輩と共生できますか

 

3158:札幌二日間

 憂国の士 怒りを何にぶっつけたら よいか・・・・・。悶々としてばかりはいられない。 思いだけでなく実践が伴ない その人の生き方になって 初めて真価が発揮する。
 老害と言われようが うるさいと嫌われようが 気に留めず 我が信じる道をすすむ輩が集まり札幌での夕刻から始まった話し合いは 生涯を通じ大切にしてきたことを聴く場であった。予想通り 途中からドンドン話が広がった。皆さんが今も現役である。本日の主役で最年長のK氏には集まった3人が 普段から 何かがあれば連絡を取り合って教えを請うている。
 今の日本の話に向くのは予定内 その結論から言うと”生き方”が定まらず揺れ動いている者が多すぎるということ。 皆さんそれぞれが自らも認める”奇人変人”で 頑固一徹(?)、心中は穏やかでなくとも それを見せまいとすればするほど他に害を及ぼすという 厄介なタイプである。ただ それぞれに先達がいて その師の生き方に少しでも近づこうともがいている共通点がある。求道の人!その片隅にでも身を置かして頂きたくて 私は使い走りを買って出た。何せ平均すれば70代越え、私が最も若い。
 策に溺れるという事は一概に悪い事だとも言いきれない。その動機がどうなのかが重要で 最初から諦め何もしないより まだマシ。 良かれと思い やったものが 思い通りにならぬという経験は誰もしている。むしろ 上手くいったことの方が少ないはずである。
  今 やってみたいことがあります。それは 知的障害の方々との出会いによって ご自身の人生の転機を見出された先人の道を辿ってみたい。勿論 今の様な制度や法律が無かった時代である。 マグマの如き熱き思いに心動かされ 同じ願いを持つもの同志と共に生きた時代に遡ることです。既に これら多くの人は この世にいない。だが ここを押さえずして 障害福祉の本来のあるべき姿は描けないと感じるからです。経営能力や計算高さ この手法は根本的に合わない。言葉は同じでも 聴く人の心を動かすかどうか?  ”共生”なる言葉も全く同様。
 ≪寮長はいいよな~ 定年あるから 俺 精薄やめたいんだよな~≫ 半世紀近く前に聴いたこの言葉を 今も大切にするK氏 それを聞いて誰だったか≪寮長にはイデオロギーが無いんだよ、計算づくでなく 裸になって初めて その人の価値がでる。本人と向き合い 彼等から学んで 生き方で示せ だもの≫  そこなんだわな、 どんな素晴らしい制度や上手い説明ができたとしても どうなんでしょう? やればやるほど 本人と離れて行くとしたら 今の制度は どこかが間違っているってことになる。 その危うさは 何も 福祉の世界だけの事じゃなくて 様々な形で あらゆる処に現われてています。それは 何の為にという 要を掴む能力が弱くなったから・・・・?
 なにか大いなるものが見ている・・・・・・この感覚は自粛自戒には不可欠、また そこに導くに ありがとうという感謝の念(憶念)も。昨今は どうも深く心に刻んで忘れないなど関心が無いように思う。だってね~ バーチャル リアリテイという人間が考え出したもの・・・コンピューターで三次元空間を疑似体験する遊び(?) どう思う?昔よりありましたよ空想科学小説(SF)や絵画、 それがどんどん進化して 我々生身の人間を引っ張っていく この力は最早 人間のコントロールできる限度を超えた。仮想通貨なるものに全く同じ危うさを感じてしまう。この類のものに何故かペナルテイが追いつかない。無法化していませんか?
  このまま規制がされず進んでいくと 我々が未だ経験しなかった問題にぶち当たりますよ。 規制緩和策というのもいい加減にしないと、”なんでも有り”となります。 特権をもつ人の舌先三寸で決めてしまう事態は防げない。地域の活性化とか創生というスローガンに隠れる体質は 認可とチェックが同じ人間から始まるという組織上の矛盾からだ。それで 貴方達は何ができますか! 人間の力を万能とみる傾向とその逆という2極化は ある年代層から急に増える気がする。 経済第一を掲げた頃と 時代が大きく変わったが その考えはより強化されている。
 ”そんなことをやっていると お天道様がみている”と 駄々をこねる幼子に 親が注意し泣き止んだ。 そのあと ゆっくり判り易く言い聞かせた。この経験は 大切です! それが 消えた。 そして 一様に 数字の上下に現を抜かす、嘗て日本が経験していない妙な時代に突入した。その数字さえも改竄されていると つゆ知らず。
 豊かさという言葉には 全うな人間を貶(おとし)める麻薬性がある。
 閑話休題
 我が家のミイが夜中に外で大ゲンカ 左耳と右足に名誉(?)の負傷、足は自分で舐めて直すが、耳の付け根は それが出来ず 気が付いたら大きく腫れ 膿がたまっていた。昨日 朝一番でいつものK動物病院に通院し 抗生剤の注射をしてもらった。
 K先生の話 ” 顔を怪我するのは ミイちゃんが強いからなんですよ。春先は自分の縄張りに入ってくる猫から縄張りを守ろうとするんです。これ猫の本能ですから” 本人は 確かに 今までも様々な武勇伝を見せてくれた。大体が自ら負傷し しばらく大人しく家の中で過ごす。これを懲りもせず繰り返してきた。
 猫社会には おそらく 人間社会とは違い 頭の良し悪しという物差しはない。 そして本能の赴く儘、 だが ネズミを捕る能力は弱まった。何種類もの猫用の餌が店頭に並ぶ時代の副産物かも。
 ついでにもう一つ、今まで家から一度も出なかった飼い猫の?ちゃんが家出したとのことで スマホの写真を見せ、見かけたら連絡して欲しいと知人から頼まれた。幸い 翌日 自ら帰ってきたと電話があった。ニャ~お・・・
 私は こんな猫が限りなく好きなのであります  ハイ!
 天上無しの欲望は 人間社会だけでなく 自然界にも様々な変化を齎している、動/植物の生態が本来の有りの儘でなく 人間の思うように こねくり回す。 室内だけという限らてた空間に飼われるペッが、無外(?)されてはと GPS首輪ができるかも知れません。もう 出来ているかも。先日 山梨の方と一緒になり いろんな話をした。オボロゲな記憶を辿り 八ヶ岳や南アルプスの山並みを思い浮かべ ・・・・”今度リニア新幹線ができたら 何分位で甲府に行けますか?” と尋ねたら 「20分位でしょうか。誰も甲府なんかに降りませんよ」・・・・・・。
 世界最高齢117歳のおばあちゃんが亡くなったというニュース。鹿児島の喜界島で暮らしていた。1900年生まれ、19世紀最後の年になる。今は21世紀で 私がそこまで長生きするとしたら あと50年もある。
 明日どうなるか 誰も判らない。そんな中で生きて来たおばあちゃん、恐らく 風光明媚 気候温暖な島の環境で 淡々と生きてこられたと思いますね。
 生き辛さや荒んだこころで 長生きするとなれば 苦になる。 果たして 技術の進歩で それを穴埋めできるでしょうか? 進歩と退歩  豊かさと貧しさは表裏の関係でしょう。そう思いませんか?
  どんなに優秀な人間でも 原点は 幼き時にあると私は思います。後付けの人生評価が一方に偏した時代、そこには 様々な葛藤と矛盾があり 自分の判断で できぬ事が多い。その気付きに時間がかかる人とそうでない人がいる。それは 知識や能力では測れない その奥にある 人間本来の”慎ましさ”ではないだろうか。
 ★ 日本語の”おかげ様”は慎ましさから学ぶ その真逆にあたる”慢心”は 知らず知らず身につけるもの。こころが動かずして どのようなコトバによっても相手に伝えることはできませんよ。ワン ニャオ 
 

3159:政治のあるべき姿

 ・・・巧詐不如拙誠(こうさはせっせいにしかず)・・・・・巧みに偽りでごまかす「巧詐」よりも、つたなくとも正直に誠意がある「拙誠」人物の方が信頼に足る。
 元防衛大臣が今のゴタゴタを評し 語ったという 師より学んだ政治を志す人間の有るべき姿か。 美辞麗句を惜しげもなく場所構わず得意気に・・・・・これは真逆の姿と私は受け取った。支持率が下がると外交問題を前面に出す、この同じ手法が 国民に通じるか? 政治を志す人達全てに言いたい。永田町界隈~夜の銀座通り 田舎者には異様に感じる。 お抱え運転手を高級車に待たせておいて 夜な夜な 宴席をハシゴする 「拙誠」の姿はみえない?
  見なさい! それに疑問さえ感じない議員ばかりとなれば 国会が烏合の衆と化してしまう? この状況でも 未だ寡黙に徹するとあらば ・・・・・ 気骨ある人物の登場を期待するのも虚しからずや。
 国民を愚弄するにも程がある。なぜ  こうなってしまったか 有権者一人ひとりの責任? それを 否定はしないが 彼等には 拙くても正直であって欲しい。
 
 己の徳を自画自賛することを強く戒める教えが仏教にある。 今年になって 文科省が「考え、議論する道徳」への転換に向け、「道徳教育アーカイブ」の設置を行ったでしょう そこにどう反映されているんだろうね? アーカイブとは 文章や記録の保存の意味だ。時あたかも公文書保存を議論している最中。 後先は知らぬが 教育現場だけでは 片手落ちではないだろうか。
 官庁や政治の中にこそ 必要だと思いますよ。 だって 何が善悪を判断する規範なのか 判らず終いじゃ~ないですか。道徳とは 法律のような外面的強制力を伴わない 個人の内面的なふみ行うべき原理です。これだって 言葉の一人歩きではないのか!
  幕末~開港(1859年)に登場した優れた人々の命を賭した覚悟は 誰の為 何のためがハッキリしていました。少なくとも 支持率に右往左往するなど 考えもしなかった方々である。 
 能々 考えた。横浜の開港から160年 明治~大正~昭和~平成 の時代を過ぎ 新たな年合に変わる。今になって 教育の内容を変えても どうなのだろう。教える教師が 戦後の教育を受けている。子供達の親も同じ。国を動かす人達も然り。
 この状況で小手先で短期間で変えることなど出来ない。 某大学の教授と話した。教育大学が前身の総合大学で 教授自ら そこの卒業生 そして 母校で教鞭をとっている。 「もう 元には戻れない」 と呟いた。
 砂上の楼閣&座上の空論とは 永続きしないモノ事、実現不可能な例え 無駄な議論を謂う。これを 盛んに隠蔽する体質が出来る、国を動かす 最大の責任は  政治 にある。何故 砂上&座上かは 国民の関心の無さと乖離具合。その根拠は投票率の低さ。
 カナダでG7外相会議が開催中、その中で最も低い日本の国選での投票率。 これは 国自体が堅固な土壌にない証。 卵が先かニワトリが先か このような議論は意味が無い。明らかに政治が先である、巨大な権限を付与され それへの充分な対価が税金により保障されている。我々 有権者は一票の権利、ならば格差拡大が理想の民主主義なのでしょうか?
 ほんの一握りかもしれない?高慢な役人を重用し 問題が起これば その任命責任はとらず切り捨てる。憲法改正は当然国民投票に付すべきだが 今もって誰のため何の為の改正かが私には掴めない。立法府にある者が 自らの襟を正すことなくして 何をかいわんや。
 数の論理を 逆手にとる智慧を 私達が持つべきなのだろう。そうでないと 彼らの思い通りにされて 踊らされ 気が付いた時にハシゴが無いことに・・・・・・。
  ★ 国内1389の健康保険組合の6割超が赤字、その中で23%が解散の恐れがあるという。本来の福祉が消えて行く。限られしパイを皆で奪い合うような状況は どのような経済理論を駆使しても 継続性は望めまい。 

3160:自己責任

 責任には 対社会的な刑事責任と対個人的な民事責任があると言われます。それぞれが職務を遂行する中で 人は過ちを犯すことがある。それが意図したものか どうか? ≪罪を謝し 咎(とが)を宥めらるる、王道の恵、無辺の情なり・・・≫(保元物語)
 王道の道とは、儒教で諭す 正しき政道。これと反対が覇道(はどう) 武力と権謀によるまつりごと。 史実によって世が乱れる理由は 両方混ぜこぜの道、ある者には限りない恵みを与え ある者には必要以上の咎を科す。これを無辺の情とは いわない・・・・・。
 一連の騒動において 双方の言い分を聞いていると 大義親を滅すとは程遠く 権力の座にあるものの高慢さと部下への責任転嫁が目に余る。人間の感情は 取るに足らない事と映ることもあるだろうし 逆に 我慢の限界を超えたと感じるものもある。いま 問われているのは何が真実か 違法でなければ何をしても良いというものではあるまい。日和見主義、 己の利になる人にへつらう人を上司にもった部下は堪ったもんじゃ~ない。人が信頼できるか否かの判断は 赤子が本能的に母親を求めるのと大差はないのではないだろうか?理屈ではない。輪廻転生  善因善果 悪因悪果。悪事千里を走るというように 悪い行いは 直ぐに世間に知れ渡る。当人には  その自覚がないのかも知れません。
 93歳で逝った 漫画家 水木しげるの娘さんの話を聴いた。父は寝る事と食べる事に拘りが強く12時間寝て12時間起きる主義。妖怪を愛し 妖怪を通じ 生きる事の大切さを説いた。戦地ラバウル島で左腕を失ったが 奇跡的に帰還し 様々な職業を転々とした後 漫画を描き通した。 その父親から教わったのが「上手い話に良い話はない」ということ。それは 死線を彷徨いながら沢山の死をみてきたからだろう。”お母さん!”と叫び 砲弾に倒れた若い兵士、こんな戦争を二度してはならぬという 一貫した生き様があったと振り返る。
 父の漫画は99%が実際にあったことで 1%だけ 創作があるという。 でなければ 誰も読んでくれないだろうと・・・・・実に 正直な人だった。
  
 昨日は 芝大門近くのホテルを会場にした会議に出席した、調子に乗って 交流会で飲んでしまったから 後の祭り。会場から浜松町の駅まで群馬の方と歩いた。息切れし 「お先にどうぞ!」とすすめたが 同方角だから一緒に行きましょうという。東京駅で私は常磐線に乗り換えた。ホームに出ると5分後に丁度特急が来る。急いで自販機で指定席を買って 乗り込んだ。車内アナウスで「上野の次の停車駅は水戸」「????水戸」 切符を見ると違う電車に乗った。土浦が停まる特急は30分後 大急ぎで上野で下りた。同じホームで上りと下りの列車が走る過密ダイヤ。常磐線が品川まで通じて 上野が始発の電車と品川発がありホームが違う。特急と普通でも違うから酩酊状態では 間違わないのが不思議。土浦に車を置いてタクシーで帰宅したのは10時近くとなった。ホームに何本か置き忘れ傘を見かけた。私は忘れなかった。 
 世間様はゴールデンウイークへ突入 私には 全く縁遠く 逆に用事が増える。そうそう 東京での会議は関東地区の施設関係者の集まり、県の代表を引き受け いつの間に12年が経った 気が付けば私が一番年上となった。何度 今年で辞めますと言ったことか それを他県の連中が心得ていて 全く信用しない。笑みを浮かべ 「住田は 好きでやっているから 止めないよ」と影の声。もうバカバカしくなり 謂わせておくが 決して良い気分ではない。 こんな事 好きで できるかっ ていうだよ。
  家に帰れば ” 自分が 引き受けたんでしょう! # お疲れさま。” で 終わった。
 排水のつまり・・・・・数日前 排水マスから水が溢れる。瞬間思った。”あっ また つまった” 予想的中  昔とった杵柄 真竹を切って割り それをパイプに通し詰まっているものを押し出す原始的な応急処置・・・・ だが 竹が1メートル以上入っていかない。仕方なく 今度は出口側から竹を入れる。 竹が短くて 届かない。帯に短しタスキに長し。見るに見かねたか 途中 職員が応援に来てくれた。パイプをスコップで掘り起し 1メートル先で90度に曲がって接続されていることが判明 これでは竹が入らないに決まっている。原因分かった!それから2時間 新たに長い真竹を切ってきて 入口と出口から押す。
 少しずつ流れるが パタリととまる。まだ 相当 詰まっている。
  手を怪我しながら 5時過ぎに 偶然 通じた。努力の甲斐があった。
  昔は何度も 排水が詰まった。 その度に男の職員皆で真っ黒になりながら 復旧工事を行なった。いまは 委託している業者が定期的に 見て回る。それでも 相変わらず あちこちで不具合が起こる。 建物や設備の管理が間に合わないのが実態、ここ暫くは 草刈のシーズン 昨日は女子職員がエンジン草刈り機で作業をしていた。頼もしく 感じた。
 日本人が 使い捨てに慣れてしまった。モノを大切に使うという意識が消えた。修理して 長く使うというより 修理代を考えると新しく買い替えるほうが良いと思うようになった。 その結果 壊れないようにするために普段から注意・工夫するという気持ちが薄れた。次々に出される新製品をみなさい、数年で その部品も手に入らない。これが 侵透してしまったニッポンの産業構造 職人堅気が消え 便利屋と化した。
それと同じなのは 福祉の考え 時代により コロコロ変わるものではない。最近 国が掲げる共生型サービスに一言 あのね~形から入ってもできませんよ。 モノを大切に長く使うということがあって 愛着を感じるもの それが簡単に使い捨てされる世の中で ”共生”をどう考えるか? 仏作って魂いれずを どれだけ続けるのでしょうか? 最悪 人間も使い捨て!これさえも 貴方達は自己責任と片付けてしまうつもりですか!
 この確認作業がスッポリと抜け落ちた。 行なったとしても 形だけ 十分な検証・反省もなく すまされることがあまりにも多すぎるように思います。何故でしょう? 要するに 急遽持ち上がった解散総選挙の噂も まったく同根と言えましょう。大義なく 計算高く 己の都合第一主義。国民不在なんですよ。
 数字ばかりを重視する今の状況を変えないと 大変なことになります。
  詰まったパイプをそのままにして 新たなパイプを繋ぎ 水を流すような そんな政治に オサラバしないと この国が 持たない。

3161:大型連休

 朝鮮半島での 南北問題 両首脳が板門店において握手、そのニュースが世界中に駆け回る。朝鮮戦争は1950年に起こった、丁度その年に私は生まれた。同じ民族が南北に分断され68年が流れた。 平和統合へ向け これから先 どのような展開がなされるか、米朝トップ会談に関心が移った。中国やロシアも当然隣国であるから深く関わってくるだろう。さて 日本はどうか?  何か蚊帳の外に置かれたという印象はある。 全く次元の異なる内容で国会が空転している。自浄作用か自然治癒力か どちらでも構わないが せめて 信用に値する正常な形になってもらわねば 外交交渉も足元を見られ 日本の要求を聞き入れてもらえまい。 外部からトヤカクいうより自らの力で汚れ(膿)を取り除くことが何故できない。もういい加減にしないと 世界&国民から相手にされなくなるだろう。
 大型連休は 日本独自のもので この時期に 道路の大渋滞覚悟で態々 遠出する民族も珍しい。普段できない家庭サービスや実家の農業を手伝うとか? 後者は ほんの一部じゃないかな~。私の地域も そのような家は数える程しかありません。もう田畑は他人に貸して自分達は耕作していない家ばかりになった。
 働き方改革の議論は どうなった? 審議半ばの重要(?)案件が目白押し 当然のこととして 先生方も休みに入った?  纏めて一気に決めてしまうのか!何か地に足がついていない感じがしてならない。
 大型だか小型だか知らないよ。でも 全く 私には蚊帳の外。おそらく同じ思いの人も多いと思うな! 福祉の現場 人手が足りないのに どうするの? 
 なによりも この国の危うさは 全てにおいて 複雑に成り過ぎてしまったことは否めない。  一貫性のない制度や仕組みが網の目の如く張りめぐされた。自縄自縛。 農政と税制 食料の自給率が上がらないどころか 元にもどれない? 農業と福祉をセットにした施策、省庁間の障壁を無くす? 農山漁村振興交付金を福祉に助成金を出す。これで 本当に1億2千万の国民の食糧確保ができますか? 最初から出来る事に限界があるのは承知の上。だから 根本の解決にはとてもとても
 今度は”異次元緩和”って言葉が出始めた これ 何? 日銀の金融政策だよ。前からあった! そう でしたか でも どうして 分かり辛くするんだろう~ね。
 そして 官邸主導の国家戦略特区 誰が考えるのか知らないが またヘンテコリンなコトバ 生活実感と縁遠い これで 判り易く誠意をもって説明できるんですか。これも 重要な公約ですよ 納税者への説明責任とか 我々は 常に 言われてますから耳にタコ?
  
 私は今の仕事に関わってもう半世紀以上になるんですね。  それが どうして こんな風になっちゃったのか判らないんです。これは福祉だけじゃ~ない。 ニッポンの全てに観られる現象ですって。 私が天邪鬼なんでしょうかね。片意地張って 独り善がりなのかな~。 今は 事業名を書き切れないほど 長たらしい事業名が沢山並べられて 目くらましにあった様です。支援事業者がですよ。エート この事業は 何をどうするんだっけ~かな?と考えないと浮かばない。 これだもの 市町村の担当者に尋ねても 担当が違うからと 逃げられてしまう、違うね 良くわからないから 説明できないというのがホンネでしょう。
 可哀そう!ですよ。誰が? 勿論 サービスを利用したい人たちですよ。福祉って 本来 誰の為なのよ? 事業者の為かよ~?
 もっと 簡単明瞭にできないものでしょうか? 無理かな~ 無理だろうな。 年金だって そうなりますよ。 老後のために節約して貯めたは良いが ”貰えない”なんて事が起こらないという保証はありません。こうなっても 誰も責任とりませんから。頭を深々と下げるだけ、結局  自己責任でお終い。
 ゴチャゴチャ小さな字で書かれた約款なんか いちいち読んでいる人いますか 読まずに”同意する”にチェックする人が殆どですね。人生を損得で考えることを 仏教は戒めています。 それは 本筋からずれていくからです。
 ポシティブかネガティブかの議論 皆さん 本当は できれば ポシティブにですね 前向きにといきたい所でしょうが それが できます? たった一度の人生を肯定的に生きるんだぞ~ そうでしょうとも そう有りたいものです。 でも ポシティブにはこんな意味もありました。それは≪実証的≫ということです。
  自分達が経験した事実から証明されたことを大切にするという意味なんです。 それが 現実と真逆の仮想とか仮定の世界に慰めを見つけようと 現実と向き合い 直視しない。 いま その事が問われている訳ですよ。だって 明らかに腑に落ちないことをも 見て見ぬ振り 隠し通すことが流行ってしまったってことだと思う。ポシティブとか言っている人が実は 一番ネガティブなんてことに なるわけですわな。 大型連休 突入!さあ~草取り やっとー!これが 現実です。
 昨日 牛久大仏で 法事があった。寺から20キロ 車で休日だったこともあり 30分弱で着きました。広大な駐車場に車が一杯でした。墓参に来られた人達かと思ったら 違います 観光客で一杯だった。世界一の大きさの阿弥陀如来 立像です。空は快晴、暫く立ち止まり眺めていましたよ。すると 大仏さんの上を5分おき位に成田に向かう飛行機が低空で飛んでくる 。
 大型連休でどのフライトも満席でしょう、目を閉じていると 自分が その飛行機に乗っている気分になった。  海外生活が長い方がいて 牛久大仏にお墓を作った。その理由が飛行機から手を合わせることができるからでした。
 なるほどね~。随分 変わりましたね。
 ☆『皐月(さつき)』は この時期 田に早苗を植えることから「早苗月(さなえづき)」、また 良く雨が降ることから「五月雨月(さみだれづき)」から 後に皐月という字があてられたと言われます。
 

3162:繰り返し

 たった一度の人生だから 繰り返し 繰り返し 悩み苦しみながらでも 続けよう。それは 己と向き合っているからであり 自分捜しですよね。 尚恵学園の仲間に 同じことを何度も続けて大声をたてる方がいます。疲れないのかな~? 表情は決して悪くないのです。ひょっとしたら自分探しをしているのかもしれない。 彼らとの触れ合いを求めて集まった人達は 、繰り返し 繰り返し 諦めず 丁寧に そこに最大の価値があると気付く。 そして いつの間に その時間の愛おしさを身に付ける。 ここまで いけばしめたモノ。
  どんなウワベを美しく飾った言葉を連ねても 決して満足できないものは 意識されていない働き、誤魔化しでなく 奥の深い心的体験でしょうか。  この体験は誰しもが一度位は経験している。幼時期の体験 有りの儘の姿 親と子 兄弟 ・・・・身近な人との触れ合いの中にあったかもしれない。 年齢を重ねるうちに  余計な知識を獲て 欲望を膨らませる。繰り返し繰り返し 凝りもせず。
  
 今度 私は 旭川に於いて その辺りのことを探る良い機会を得る。重症心身障害の医療ケアーに全身全霊で 取り組んできたドクターを訪ねる。先生は現在 重症心身障害者施設の理事長をされている。
  そこには ”畢生(ひっせい)の仕事”を追い求める人の迫力がある。 私達は  人により感化され 自らを省みて 歩んでいく生きものなのでしょう。人の一生でそんな人との出会いが有るか無いかはとても大きい。
 密教で説く 入我我入(にゅうががにゅう) 身口意の三密行が 当にそれであろう。 しかし 現実社会で 確信をもって 言えるには 無理がある。身口意とは 行為と言葉と意志の三つの事である。これを一致させることにより安心が生まれるという。それがどうも難しいのは あまりにも多くの 怒りや傲りや愚かさがあって邪魔をするからだ。
 一つのことを生涯かけて 追い求め得た結論は 何にも替え難い その人の生きた証となりましょう。利便性や豊かさを求め続ける事は 際限がなく 自分さえ良ければという欲に悩み続ける。
  先ず 人の恩に気付くには 驕り高ぶり 勝ち誇った想いを鎮めることから始まる。 
   毎日 パン屋の仕事が終わって 近くのコンビニにスポーツ新聞を買いにいく K・Nさんから 教えられることは その辺のことですね。彼の仕事はパン作りでなく 皆が作ったパンの配達と庭の掃除、 それを淡々と繰り返し繰り返し。
 
 淡々と繰り返す無垢な姿は ”構えがない”ことに通じる。漢字に部首がある。「くにがまえ(口)」や「もんがまえ(門)」の類。中にどんな字をいれるか?国・・回など。門は聞・問・となる。文字の成り立ちを知るのは面白い。私の恩師が眠る墓石正面にある自筆『かまえなし』は 先生が最後に辿りついた境地だったのでしょうか?
 人間の素晴らしさは 智慧(?)を働かせ 様々な発見をしてきました。しかし、その発見は利用の仕方によっては 真逆の結果を生む、それを知りながら 止むことをしないのも人の性。自らの体験で大都会に住んでいると 人との触れ合いが減る。孤立し それを粉らい癒すため 悩んだ。 自然の中にいれば 植物や昆虫が教えてくれる。 見ず知らずの人にだって 挨拶をし、徐々に打ち解ける。そこに”構える”必要性が無い。
 安心≠便利性 東京の高速道路は3階構造だ、地下もどんどん深くなり道路や鉄道が複雑に張りめぐされている。 住まいは地上数十階の高層建物。駅が出来れば周辺に人が集まる。まさに 環境が蟻の巣・蜘蛛の巣化してしまった。
 巧妙かつ貪欲に仕組まれた現代病の苦循姑息にNOが言えないばかりか 更に加速する。
  いい加減にしないと 己の立ち位置さえ危うくする。 逆に 良い事だってあるでしょう? 地方にまでコンビニや大型店舗ができて どうなった? 需給のミスマッチ、 現政権が公約に掲げる物価目標2%の達成がいつの間にか消された。人間の考える発想に歪みがある証拠。
 日本社会の隅で 起こった刑務所の脱走事件 なんと 瀬戸内の小島に1000軒の空き家があり そこを転々と潜伏場所にしていたという。 地方にまでアパートの過剰供給が起こっている 住む人がいないのにたて続ける。それは借金をしなければ土地が守れないというヘンテコリンな国税の仕組み、一貫性の欠如? これだって この国を誰も責任を持たないということではないか! いつまでも繰り返して 良い筈はない。その場凌ぎの政策に 何も期待できないとという結論に達する。 これがハッキリしたということですね。須らくは 悪しからず 御了承の程・・・・・・謝罪会見 目白押し。
 周期的な五月雨が気温の上昇と相俟って 草木を元気にする。里山生活を楽しむ人が 草刈りの効果を語ってくれた。背丈の伸びた草をそのままにしておくと 背丈の低い草には十分な光があたらず 花を咲かさず終わってしまう、草を刈った後に可憐な花を咲かせる草を発見すると 無上の喜びを感じると。ベランダに時の花を飾ることも良いかもしれぬ、でも 本当は 地面に直に咲く花に囲まれる生活が最高でしょう。
 水路の土手の草刈りをした。足元に注意しないと 転んで怪我をする。所々に 可憐な花を咲かせる名も知れぬ草 刈ってしまうのが勿体無いので その部分を残した。田圃の畔 気になったのは茶色に変色した場所がある。これは除草剤を巻いたから、農家の方に尋ねると できれば除草剤は使いたくないと皆が謂う。
 作物の成長の助けになるものと害になるものを併用する。今の農業は食の安全という点から言えば どうなるか。
 物事の是非を決めるサジ加減 有機農業に拘る農家も皆無ではない。手間暇かける負担を惜しまず その生産できる条件は益々厳しくなって 続けることが難しい。世の中の仕組みが一様にマルチ化の方向へ、福祉サービスも多機能型、これと専門性が合致できれば良いが もしかすると質の向上は やればやるほど遠ざかるということになりかねない。この流れの原因さぐっても結論は出ず迷路の様。 ”働き方改革”の議論を聴いていて 直感したことが ある。検討する人自体が法案の主旨に あまり関係しない立場に身を置く人が多い これでは推して知るべし。
 実質的な中身のことでなく 議論が目的化してしまったようで此処にも危うさをみる。(法律の形骸化と混迷・・・・昔なれば これは我々が作った制度で誇りと責任を感じたものが 今は 知らぬ存ぜぬ 記憶にない・・・・・) 

3163:止めようよ!

問い・・・・一つだけ残して 他は止めようね・・・・・と謂われたら 貴方は 何を残しますか?
 店の前で駄々をこねる 幼子に親が そんな言葉をかけている場面を見かけたことが 何度もあります。これもあれも欲しい。手に持ったものは 自分のモノ 泣きじゃくって 座り込んで 誰が何と言っても 離さない。 そこに 口を挟むとすれば 大体 年寄りで「分かった。判った。爺ちゃんが買ってやるから もう 泣き止みな・・・」 これを どう思いますか?大体 NOと謂う方が多い筈、・・・・・。
 問題は こんな事ではない。 それを 見ていた 同じ年頃の子が どう感じるか? 自分は買ってもらえない。だって ・・・・だもの。  (・・・・・の見えない部分が大切ですよ。)
 日本人には その気配りがあった。自由という言葉の罪 これは 外交にも言えること。決め付けや力の行使、これを間違えば 取り返しがつかない事態になるかも分かりません。何故 自由の罪というか 自由を望まぬ人間はいないのに。
  最初に戻り 一つだけ残すと問われたら 貴方なら何というか 私は”命”だと思う。 自分の命と引き換えに 一体 何を望むか。 この議論は 本来 家庭教育から始まる。そして 学校や社会でも成されるべき、残念だが 戦後 日本は そこを 真剣に議論する場を作らずにきたと思う。 表向きは確かに 対外支援としてODAやNGOというものがあり 人道支援や開発援助を行っているが その中身が どうなっているのかとなれば 多くの国民は判らない。否 関心がないのかも知れません。どのように決められて どれだけの額が使われているか?
 公表されている数字は随分昔のものしか見つからなかった、2009年だから 内容は大分 今とは違うはず、それでも 日本は支援総額が対GNI比率では 世界の21位だとわかる。
 もっと 中身をオープンにしないから 議論さえ起こらない。 恐らく GNI比率で一位のスウエーデンならば 国民に明確に公表しているはずだ。そして 使い道に対し 国民を含めた議論が当然行なわれている。
  その辺が 曖昧な日本。 国民の生命を守るという大義に対し 何故か 水面下で話を進めすぎている。これでは 先人が勝ち得た”自由”さえも 間違った理解が罷り通ることになるはずです。
  
 人は窮地に陥った時 何が正しいのか判断が出来なくなるものです。想定外の事がおこると パニックになる。それは 自分で修正できることと そうでない場合があります。これは 誰にだって起こりうることなんですね。そんな時に 何が大切かと考えました。
 ”原点”に戻る。原点が何だったのか判らないというのでは 仕様が無い。 その為にも 普段から 自らの原点を確認することを心がけることにした。私は寄り添う事が大切だと教わった。
 自分は  感情が激しい性分だと思っています。そのスイッチが入ってしまうのが 時と場合により違うのです。それでも 最も多感だった頃と比べると 大分 角が取れ 穏やかになってきたかもしれない。
 振り返ると 私は人に恵まれたとつくづく思っています。幸い話を聞いてくれる方がいました。仕事のこと人間関係のこと 押さえ切れない感情を ぶっつけられる存在です ・・・・・。そりゃ~ お前の思い過ごしだよ。もっと気楽に 考えたら。
 そんな 慰めごとではなく ただ 聴いてくれる存在。 言いたいことを言ってしまうと 我にかえることができました。  
 その 一番の存在が 尚恵学園のメンバー達だった。 時には 彼等自身が どうしようもなく興奮してしまうこともありました。それでも 時間が経てば いつもの笑顔になっている。これは キツイ話ですよ。凄いと思いますよ。
 何故なんだろうと 考えるのですが 答えは見つからない。それが ”寄り添う”第一歩と今は思うようになりました。

 バロネスで草刈り中に 携帯に連絡が入る。≪○○さんが 入院することになりました。今 SCUに入っています。≫電話の状況では 脳梗塞のようだ。生憎 連休のど真中、何日か前に体調の異変を感じ、かかりつけの病院へ通院し いつもの薬を止めて 水分補給に注意することで様子を見ようとなっていた。 大きな病院へ再通院した結果が入院で 家族に知らせ駆けつけてくれた家族と私も一緒に病室を訪れ 本人に面会した。右腕の麻痺が出ているが 言葉はいつもと変わらない。数本のチューブが繋がってベットに寝かされていた。案の定 じっとしていられず 起きようと何度もする。『コーヒー・・・パン・・・・腹減った・・・』 私には聞き取れない言葉だったが付き添ったスタッフが彼女の話を教えてくれる。 85歳になるという父親が 娘に声をかける。走馬灯の如く 学園に来た頃の彼女のことを思い出す。ご両親に連れられて園に帰ってくる時 なだめられ それを 渋々 受け入れた。 その時と 全く変わっていない。ただ いつも 話を聴いてくれた母親は もう大分前に亡くなっている。
 私は メンバー達の家族との関係が いつも頭から離れない。 親子別々の生活は 不条理?  そうかも知れない じゃ~ 我々 施設は何ができるの? 地域で生活するって どんなことよ? GHで生活すれば その事は完結するのでしょうか?地域で 仕事ができれば それは完結できるのでしょうか? 現在 36名の方がGHで生活 一人でアパート生活する方も増えている。
 敢えて 言いたくは無いが 世間には ごもっともな話をされる方がおります じゃ~貴方は 何ができますか? 見て見ぬ振り それとも できない言い訳? 矛盾を感じながら 向き合っていくこと この実学をこの国が蔑ろにしたツケは大きい。
 超高齢化への”こころ”の準備は 己自身のことだからです。
 ☆ 病室に駆け付けた職員の第一声 ≪ お父さん すみません。心配をかけてしまって≫ 父親の言葉 ≪すみません。いつも 迷惑をかけますが 宜しくお願いします≫ 
   
 人の能力の退化は 時間をかけ 徐々に進む。明かな事は 使わなくなった機能は 衰える。飛ばなくなった鳥や陸棲する魚、環境に順応するために 様々な変化をしてきたわけです。植物も同じです。
 認知症になった妻を支える夫 その奮戦記を1200日 ビデオに記録した実娘 そんなドキュメント番組がありました。 子供達を無我夢中で育てた母は、いま 自分がその子供や夫の世話になる身になって 死にたいと騒ぐ。何か切なくなって 自然に涙が流れた。
 恐らく 日本中で同じような 状況が繰り返し行われているのだろう。 
 人は いずれ 今までは出来た事も出来なくなることがあります。 そして 周りの人たちの支えが必要になる訳です。本当に社会ができるかといえば そんなあまいもんじゃ~無い。仕組みや制度は 完璧では有りえません。
 判り切った事です。
 
 昨日は 珍しくご自宅での法事に伺いました。亡くなった奥さんがお茶の先生をしていたお宅で その茶室は 今は戸閉になっている。 ご主人が お茶をやらないモノには全く意味がない。 守り切れないですよと笑っていた。法事の後席は 愚痴話で盛り上がった。
 諦めているのか どうか 焦点が定まらない話となり 早目にお暇してきた。
  人の評価は 実態がどのように伴なうか? 韓国の大統領の支持率が70%を超えたという。南北統合を掲げ 大統領に就任、まだ この先 どうなるか判らない中でも 指示率が急上昇! これは 国民の願いだからでしょうね。戦争の爪痕は 簡単には消えない。
 殺戮や侵略の史実を どう次世代に伝えていくか  正直 日本は その明確な筋道が無いと思っている。教育改革で、この4月から 全国一斉に”道徳”の授業が義務化された。今更なんだよとの思いは否めまい。その教育要領の中には” ウソをついてはならない”とハッキリとうたってある。
 今の日本人に必要なのは 謙虚さ だろう。 日本人の優秀な技術や勤勉さ これが経済の仕組みの中で機能しなくなるとすれば 最大の原因は 信頼の欠如。こればかりは 全てに通じること 判り切った話である。
  

3164:声のアーカイブ。

声のアーカイブ(保存)。
 2日間の旭川での体験は 私にとって 実に貴重で 感慨深いものとなりました。重症心身障児(害)施設の理事長さんにお話を伺う企画は 大分前から準備しやっと実現できました。 正直 やって良かったと思います。4人が押し掛けたという形になりました。第一日目、夕食を頂きながらの自由な雰囲気での話も気が付けば3時間が過ぎ、沢山の示唆に富んだ話が 方々から出て 際限も無く続くかと感じました。翌日は 施設にお邪魔して そこで4時間 途中 ボイスレコーダーの残り容量を気にするような心配をしました。 聴いてみたい方にはいずれ実現できるよう 何らかの方法を検討したいと思います。
 私は その日 最終便(20:15)で旭川空港から東京に独り戻りましたが、岡田理事長には態々  空港まで送って頂き 感激しました。いろいろ伺った中で 鮮烈に残ったことは、≪社会福祉をやる為には 人間観がなければなりません・・・・・≫という言葉でした。 今日 制度論や技術論ばかりが大勢となり これから福祉を目ざそうとする人達に 福祉の本質を語り学べる機会が少なくなったことを嘆かれた。不肖 私も全くの同感で 只管 耳を傾け聞き漏らさないようにするので精一杯でした。
 その為には 今 何ができるか? 今回の企画は その一助となればという思いがあって何人かで決めたことです。 これから可能な限り全国にいるであろう福祉実学の師を探し求めながら その声を残そうという目論見です。
 福祉の道は 特別の事では有りません。 誰にも深く関わる安心や喜びに通じることなのです。だから福祉の関係者だけの議論では無く 様々な人達の声のアーカイブになればとの思いがあります。
 実現不可能な壮大な計画か否かは 始めてみなければ 分かりません。 このまま 黙って見過ごすことに 多くの人達が我慢の限界に達していると思っています。これを切っ掛けに一歩踏み出せれば これ幸い。
  ☆
 ・・・・・『かつて社会福祉士が法定化されたとき、これを「ソーシャルワーカーに育成する」という意見があったというが、それは間もなく立ち消えた。もちろん、社会福祉士がそのままSWに移行するなど論外である。もし、SWを誕生させようとするならば、その前に国際的評価に耐えられるSWについて見識を積む必要がある。』・・・・・・『重症心身障害児(者)医療福祉の誕生・・・その歴史と論点』 P198. 岡田喜篤・蒔田明嗣 著: 医歯薬出版。
 ある方からメールが早速ありました。・・・・・ 私が いま この仕事を続けられているのは 恩師の最終講義のテープ、迷った時に聴くことで 挫けずにどうにかこうやって 続けていられます。。。。・・・・。
 言葉は コミュニケーションにとって大切なツールですね。でも それは絶対ではない。  言葉の通じない国で手真似 筆談 表情 あらゆる方法を使い 意志を伝える経験をされた方も多いと思います。私の最初の経験は24歳の時 恩師から紹介され 英国に施設研修に行った時でした。当時 アンカレッジ経由で18時間ぐらいかかってヒースロー空港に着いた。英国在住の知り合いの方が ホームステイ先まで 私を連れて行ってくれました。翌日から たった一人での生活が待っていました。研修先はクインメアリー病院、その中にある障害児施設でした。夜は 街の会話教室に通い 昼は SWの方が 日程を調整してくれて それに従いました。正直 今 振り返ると 準備不足だったと思います。3か月間という短い期間でした。
 ただ 45年前の英国の障害者福祉を垣間見る機会になり、 日本との違いを痛感した訳です。あれから 半世紀 私は 今の仕事を続けてきました。確かに 制度や技術は当時とは雲泥の差を感じています。これは 何も障害福祉に限ったことではなく、全てに言えることだろうと思います。そして競合の時代を迎えています。 助け合うというより 相手から奪い取れというような殺気さえ感じます。なぜ こうなってしまったのでしょうか? できれば それは 私だけの思い過ごしだと思いたい。
 昨晩 羽田からモノレールで東京駅まで すでに23時を過ぎていました。今は常磐線が品川まで乗り入れ 便利になりましたが スマホで何度もどこで乗り換えたら良いかを調べました。 思うようにならない。 山手線に乗って 車内のテロップに総武線で人身事故の為電車が遅れていることを知りました。あの時 山手線に影響が出ていたら 私は常磐線に乗れなかったでしょう。 他線が遅れているからといって待ってはくれません。その為に 運賃の払い戻しがあると言われればその通りです。冷たい雨が外は強まっていました。
 結果 私はAm1:00前にどうにか土浦駅に着くことができ 無時帰宅できました。
 スマホは便利です。・・・・が それは情報を得るためであり 私を自宅まで運んではくれません。 そこなんですね。社会保障の仕組みも、 制度と技術があれば それで解決できるでしょうか? 今回の旭川での話題の核心は それを見極めること、そして 何が今できることかの戦略を練ることであったと思っています。つまり 人 の問題です。やまゆり事件も当然 話題にあがりました。あの極悪卑劣な事件の後 何が変わっただろうか?確かに 防犯カメラの設置は義務化されました。ハッキリいって これだって”物”の考え方でしかありません。”心”の問題に対し 正直 手を拱いている。
 昔ほどでは無いかもしれないのですが 今もって 障害がある人たちに対する差別偏見は根強くあり、それが陰湿化しています。これらは 世界の悲惨な現実への対応で 後回しにされているかもしれない? そう考えるのも一理はあるでしょうが 根本の問題は違います。
 究極論を挙げれば このままでは この国どころか 地球が持たない所まで行ってしまいます。光と影は それをどう見るか そして 自分が 何をすれば良いかという 人としての生き方が問われているのです。
 光と影、特に治国の道においては 表と裏という視座に通じる。記憶と記録、証人に立ったあの方は ” 記録を付けた側と 記録を付けなかった側 記録を付けたほうが正しいとなったら それは違うと思います”と答えた。 前段を意識してか それとも苦し紛れの答弁か! その前段とは 一様に 『記録は処分し 今は有りませんので分からない。』 と言ってきたではないか!彼流の言い回しは『事実として 私の記憶のある限りは お会いしていません。』 そして 記憶が戻り 『会いました。それも3回ほど・・・・・・』 なんとま~ 簡単明瞭で呆れます! これで 霞が関界隈では通るんですね。前後の整合性は無きに等しい。

 仏教で説く八正道、③正語(正しい言葉)④正業(正しい行い)があります。これは 身口意の3密の具体的な生き方(行)を8段階で示し説いたもの。 
 正しい日本語かどうか? 事実として 私の記憶のある限りは・・・・・これを海外の記者が自国語でどう伝えたか? 日本語の婉曲表現で新造語? 誠心誠意(?)・一生懸命に答えるとあの方の考えでは こんな風になるようだ。 だからでしょうか 自分は事実を述べたのだから 聴く人がどう受け止めるかは 関知しないと言い切った。これで責任を果たしたと勘違う。私には傲りというのか不誠実に受け取れた。色即是空 空即是色???? まだ 此方の方が判り易い。
 この国の優秀な官僚の見本だとなれば それで良いのですか?と問いたい。貴方の哲学はなんですか?
  このような事が許されるとしたら 国を治めることなど できまい。優れた人物とは 知識が有る無しではない。自分に正直に生きたかどうか その事が問われるべきと私は思うが 誰も口を閉ざす。用がなければ 捨てられる これが公僕の宿命としたら 正直 可哀そうな気がしますがね。公務は本来 清貧をもって為されるものであったはずが いつの間に特権階級の座を得てしまったから おかしな事に。
 夜中の3時 米国の大統領は奥様同伴で北朝鮮から解放された3人を空港に出迎えた。その後 日本の総理のコメントがTVで流れた。 日米の連携を興奮気味に語った。これを聴いた日本の拉致家族はどう感じただろうか? 
 八正道の八番目は正定、正しい心の統一。 これは 段階を踏んで 最終的に到達できる境地である。

3165:光と影

 光と影、明と暗・・・・その間には 何かあるでしょうか? 横軸か縦軸か それとも 三次元で 世の中には 人間の能力では解明できないことが殆どではないでしょうか! それを判ったかの如く そして己の功績だと 誰も聴いていないのに 言いたがる人間がいる。
 身の毛立つ。 人間の育った環境は大きい。衣食住に何ら苦労せず育ったものに貧することがどう言う事なのかは判らない。判ったとしても 表面的 いずれ化けの皮が剥げてくる。
 肝心なのは その人がそれを認め 修正する術を持っているかどうかだ。むしろ 望むと望まざると ヨイショする者ばかりが取り巻き その人を担ぎあげるから ご本人は 何が大切かの判断が難しくなる。
  これは 組織存続の危機である。諫言立てする者を遠ざけ 己の非を認めないのは 人間の弱さと欲念。
 敢えて言わせて頂くが哲学に欠ける政策とはどんなものか? 認識・倫理・存在・・・・世界や人生の根本命題に対し 経験などから築きあげた揺るぎ無いもの。いつの世にも トップリーダーに望まれる姿は 弁解ではなく 潔さと覚悟。そこに その人自身の 人間性と人間力が加わって 信頼が生まれる。
 逆に それが崩れる原因に何があるか? 真実と嘘、言行不一致・・・・など 当に明と暗の格差拡大。公序良俗・・・公共の秩序と善良なる態度(生き様) これは トップが謝罪撤回を繰り返せば 負の連鎖 周囲も真似る。 
 時代の寵児と持ち上げられ 絶頂感を謳歌した時に 既に凋落が始っているという。他人の評価は 大半が勘違い。 人間の価値は そんな薄っぺらなものでは ない。
 ” ○○さん ダメでしょう そんな事したら 皆が嫌がっているでしょう!判った?” スタッフが ある方のことで 困り果て 言い聞かせている。 その 直ぐ後を 5人一緒にお喋りしながら散歩するグループが通り過ぎていく。私は 境内で草取りをしていた。観音寺の中をぬける道での出来事、同じような事が日常的に行なわれている。 今の日本は散歩を歩行訓練 お遊びを遊戯療法・・・・・そして 今日一日何をやったかその記録に多くの時間を費やす。
 訓練や療法と書けば なにかやっていると評価され、散歩や遊びと書けば本務からは外れたことと取られやすい。 麻雀をボケ防止 集団療法????? おかしな感じがしますよ。 同じ事をやっているのに 形を気にする。
 
 傍証を固めるという言葉があります。間接的な証拠ですかね。 歩くのを嫌がる○さん 他にやりたいことがあったのか それとも 足が痛いのか 昨日 一緒になった○君とケンカ????  そこの所を上手く捉える力は どのようにして身に付けるのでしょうか。
  そこが重要な視点だと思うのです。
 朝 出勤すると 『カーカン』と声がし、Yさんだと直ぐに判った。いつも座っているベンチから 私を見つめている。『カーカン くっと~』 ともう一度。「ああ・・・大丈夫 来るよ」と返事する。 その 瞬間に私は罪悪感を感じた。彼の身内はたった一人母親だけ。
 今そのお母さんが入院していて もう 会いに来れないことを判っているのかもしれません。 先月? スタッフが彼を連れて母親が入院している病院へ面会にいきました。
 5月13日は 母の日である。
 
 毎週 月曜日の朝は5つの事業所の管理者が集まり打ち合わせを行っている、なるべく出席するようにしています。 利用者の人達の体調や行事 スタッフの動き 突発的な出来事は随時連絡を取り合っています。最近 予定外の事が増えているように思う。
 私は 2ケ寺の本堂で朝の勤行 必ず唱えるのが”懺悔ノ文”と”心経”。 用事があり出来ない時は 目を瞑って無言で行う。40年続けている。毎年増えている利用者の方達の遺影、・・・・・。いずれ私も その仲間入り それで 良い。
 先の事は未定! 予定通りに物事が進んだ試なし。
 昨日 庭で草取りをしていると 自転車を停め 石仏を見て回っている方に気付く、その方から声を掛けられた。スマホを出して 写真を見ながら この石碑はどこにあるかを尋ねられた。 それは古い本に書かれてあった23夜塔で 神宮寺と観音寺のモノがあった。なんでもその人は 今は西多摩郡の桧原村に住んでいて 自転車を担ぎ 本に出ている23夜供養塔を調べ歩いていると知った。
 素性を聞かなかったから判らない このスピード化の時代に自転車を担ぎ こうやって旅している方がいることに 驚いた。私は どの石塔が本に出ているものなのか 答えられず 何かあれば ここに連絡してくださいと名刺を渡した。
  ある時期、各地に点在していた石碑や石仏を纏めて寺や神社の片隅に積み置かれたもの。殆どの文字は 古く解読不能、 首が無い石仏も沢山ある 先住が境内の墓地に置き直したものである。
 石仏や石碑をみていると 歴史を感じる。中には彫られた時代が400年~500年昔というものもある。悠久の昔 何を願って造くられたものか? 恐らくは民間信仰が盛んな時代は泰平な時代では無かった。 道端にある石仏に 今も花を手向け手を合わせる人がいる。
 陰と陽の点描。 

3166:時流に

 鎌倉時代から行われていたという互助的な金融組合を”頼母子講といった。江戸初期の慶長の頃 十人組なる自治機関が各地に生れた、民間信仰として庚申講や二十三夜講、日本の歴史を辿ると様々な寄り合い組織(講)があった。それが いつの間にか消えて無くなる。
 その代役をする仕組みができたこと、民主主義国家の樹立、それを長年良しとしてきたが ここにきて暗雲がたちこめる。地方と中央の関係は どうあるべきか? 自国の利を最優先する保守保護主義の台頭、外国人の移民の受け入れ、国の安全保障・・・・・・。
 あげれば切が無い多様な課題に今の日本がどう立ち向かうか?  内閣の支持率は 一寸先は闇 何かと利用されることも有り得る。いつの世も国民の知り得る情報は限られたもの、勿論 戦後復興も内需だけでは今の繁栄は起こり得なかった。
 企業収益の増減は 経営陣にとって 最大の関心事、戦略の正否で短命に終わるかどうかが決まる。宿命として常に上に目標を定めひた走る。企業の競合と潰し合い。それは壮絶なもの モラルなど無きに等しい。
 今 公私のケジメが問われている 公の役割とは何か?小さな政府と言いながら 一向に実現できない。
 人間は欲との戦い。三権分立! お互いが牽制しバランスを保ち 権力の濫用を防ぎ 国民の権利と自由を保障するという制度なはず。これが上手く働いているか否か?その判断を下すのは 当然我々 国民の責任である。
  衆参の二院制、これも どうだろう  時代遅れと思うのだが 何故かこの改革議論は盛り上がらず。費用対効果はビジネス界だけのことではない。 立法府のコスト削減が一番優先されるべきと思うのです。果たして 国会にあれだけの人数が必要なのかどうか。
 その縮小策で 欠員が生じた時に補充しないルールにすればどうだろう。そうすれば 有権者も議員も少しは違った見方をするかもしれない。
  
 いい加減に嫌になる。その最大の原因は 肥大化し過ぎた情報量に対し 許容応力が限界になったからと思っている。何故 こんな風になってしまったのか 常磐道の友部サービスエリアは守谷から北に向かって最大の休憩所 コーヒーショップがあり 私はよく其処に立ち寄って一休み。 そこで 見かけた小型PCを盛んに打っている若者 正直 なんで ここでやらなきゃ~ならんのよと思う。本人は周りに関心なく夢中でキイをうつ。そこに 団体客が纏まって入店 急に騒がしくなった。それでも 止めずに打ち続けていた。
 サービスエリアは疲れを休める場所なはず それを コーナーを独占し お仕事?とは!  斯様な状況が 日本中どこでも見受けられる。世知辛い世の中になったと思う。働き方改革の法案が審議されるなか またもや データーミスが出た。全体の2割の調査結果に問題ありとのこと。 でもな~! 分かりますよ この種の調査が多すぎます。期限付きで報告し 記入マニュアルを見ながらチェックする。我々の福祉現場も全く同じ状況で 一方通行の実態調査~報告~改善 この負担が拡大の一途、苦労して提出したものが どう活用され その後どう保管されたのかは判らない。
 データーミスも意図的なものではないはずだが このことに 神経質に成り過ぎてしまった。
 手続きの簡素化や判り易さと真逆の状況がやればやるほど増えるのはオカシイよね。 益々細分化して 結果 全体像が見えなくなっている。これは現代の根源的な問題だ。
  貴方の気の休まるのは どんな時ですか?
 朝の6時   いま いつもの女性が合掌をしながら本堂の前で頭を下げられ 定時の鐘楼の鐘をついた。 
 お寺の裏の畑で遺跡発掘の調査が始まっている。大型重機によって1メートルほどの深さで直線に掘る。次に人の手で丁寧に土が取り除かれ 遺跡部分に白線で印をつける。素人目では どこがどうなっているのか判らない。生活の痕跡は土器などが出てくることで徐々に判るらしいが 何故調査が始まったかとなれば 宅地開発の前に現況を調べ記録に残すことが法律で決まっているらしい。聞く処によれば 縄文時代の住居跡らしいが 霞ヶ浦周辺の高台は遺跡ばっかりで 大昔霞ヶ浦が海だった時代 人間が住みついた場所だという。その上に自分達が住んでいるというのも妙な感じがする。
 縄文時代は 縄文土器を指標とする時代と書かれてある。紀元前1万年前後に始まり、前4世紀頃までで次の弥生時代と交代する。主に竪穴住居からなる集落を作って 採集・漁労・狩猟で生活し 農耕の存否には議論がある。
 この様に考えると今をどうのこうの言うのは妙なもので 確信が持てることは 人間が自然への畏敬の念を無くしてしまったことでしょう。便利さや豊かさの尺度による価値判断が主流となり、協働することが減って 自分本位の考えが中心 当然の帰結である。
 そして あの人がやっているから俺もというモラルなど度外視した価値観が許される。
 国連という組織 今もって大国の横暴さが目立つ。人間は同じ過ちを繰り返すのだろうか! 縄文びとの智慧と現代人を見比べて どっちがどっちと謂うのも憚るが 確かに ある面での能力は 劣化が相当進んだように思う 。

3167:継続は・・・

地域と上手くやっていくには 普段からのお付き合いが大事、頼み事がある時だけ 頭を下げお願いしても 無理。道路の拡幅も広くなれば 皆さんが喜ぶのに 先だってそれを言う人は中々出てこない。関係者の方の同意を得て役所に要望するのだが、各々の利害があり、纏まる場合とそうならない時があります。ここは・・・諦めず 焦らず 根気強くが肝要かと思い 動き始めている。
 事業もその時々の流行に乗って起こしたは良いが 状況が変わって中途で止めることは案外多い。 計画の甘さがあってのことだろうが、それなりの投資が伴なうことだから 失敗すれば元も子も失うことになりかねない。 その数は 年間に相当なものになるという。先祖から受け継いだ資産を守るために 借金して アパートを建て 土地を守る。20年~30年のローンを組むとなれば 完済するのは孫の代になるかもしれぬ。それだって順調にいってだから 途中入居者が減れば 計画の見直しは不可欠、こんな筈では無かったと悔やんでも仕方がない。
 物事は此方の思い通りに進むことなど殆どありません。相手があってのことだからです。その証拠に 全国に空き家が急増しているとか 取り壊すこともできずに放置されているモノも多い。
 将来への不安は 何故消えないのでしょう!  最大の不安材料は 国の借金、ヨイショがお得意の経済の専門家は 何ら心配する事はないと断言する。しかし 彼らは 謂うだけ謂って 結果に責任は負わない。世界で最大・最悪の借金国ニッポン 財政の健全化は素人でも判る 先送りばかりしているから不安になる。これは個人の借金となんら変わらない、負債と資産とのバランス、負債を減らすためには 収入を増やし支出を減らすことしかない。 奥の手? 金の価値を下げることで負担をへらすという手も有るらしい。特効薬はハイパーインフレ・・・あまり聞き慣れない言葉だが 戦中戦後の混乱期を見れば想像はつく、極端な物価の上昇で 金の価値を下げる裏ワザ。 これを果たして政府ができるかいなか、やれば 国の信用はガタ落ち日本の破綻が待っている。
 2%の物価上昇の目標を日銀は取り下げた。目立たず いつのまにか である。 一方では景気回復を宣伝するが 一向に借金は減らず 寧ろ毎年増えている。公約が実現出来なければ 責任をとって辞めると言った。 この言葉に偽りはないでしょうね!謝罪で無罪放免というのでは 我々国民を馬鹿にするにも程がある。
 社会福祉事業の歴史を学び直しています。それは 今から1400年前まで遡る。聖徳太子に深い関係がある。四箇院(敬田院・施薬院・療病院・悲田院)仏教社会福祉事業の原点、オール仏教で全国にどれ程の寺院が現在あるでしょう、時代と共に多くの宗派に分かれ幾多の変遷を経てきた。仏教が伝来し その教えが現在 どのように生きているだろうか。
  住職という立場で観れば自分自身で 腑に落ちないことが沢山あります。感謝と自省との葛藤である。与えらた五感を最大限に使って その人らしく生を全うできれば これ以上の生きた証はない! 私が 障害福祉に強く惹かれる最大の理由である。世の中の実態は際限の無い欲望に翻弄され 身を休めるための寄港地を見いだせず彷徨っている人が なんと多いことか!
 仏教社会事業の本質は有りの儘の人間とどう向き合うかということが根底となる。見栄や外見に囚われるのではなく 本来の安心を見つける手助けをすることと教わった。犯罪や過ちを犯してしまう人間に対しも その人の持っている感性や徳を認め 見放さず見守り続け 何か必要な時に手を差し伸べる。
 あくまでも 主人公は その人自身であり 支え手は 補助者であるべきと・・・・・。その基本は国連の障害者権利条約の基本の考え方に通底する。
 ≪障害は個人ではなく社会にある≫と≪われわれのことを我々抜きで勝手に決めるな!(Nothing about us without us!) ≫
 見守るという事は 寡黙に徹することとは違う。必要な時に必要な自分の思いを述べること 自らの責任として これなくして 物事は始まらない。そんな思いが より強まったというのが 正直な処です。 
 風の便りで 中学時代の同級生が亡くなったという事を知りました。彼を同窓会で1~2回顔を見かけた位で その時 羽振りが良かったことを思い出す。店を複数もって社員を使って仕事は順調だと話していた。
 その後 彼が築いた会社がどうなったか? 知る術もない。
 日大のアメフト部の問題が大きく報道されている。今後 真相が明らかにされるか否かは不明、日本ではまだ アメフト部がある大学の数は決して多くは無い。勿論団体競技だから、結果如何では共同責任、スポーツが好きで憧れの大学に入り 練習に明け暮れた部員は 今 どんな気持ちになっているか? もし 試合に出ることだけが目標だったら それを決める監督の存在は絶対である。 今回も 部員の監督に対する”忖度” が働いたのだろうか。 スポーツマンシップは 正々堂々と公明に勝負を争うことだ。 それと併せスポーツには 様々な誘惑が付きまとう。シゴキや賭博、贈収賄、反則・・・・・だからルールがある。
 その辺の判断が曖昧となっている。日本そのものが 不確実な渦の中にスッポリ入ってしまった様に思います。常識か非常識か???問題が起こった時、当事者が その職を辞すれば良しとする傾向が拡がっている。
 危険行為を行った部員が 今 どうしているか?  孤立していないだろうか?  重症を負った相手チームの選手の様子もそれ以上に気になる。彼等は同じスポーツを愛した仲間ではないか!
 溜まりたまった”膿(うみ)”を全て出すことに全力を挙げたいと釈明した方が 責任の取り方として どうなのか その事が問われている事を 蛇足にしか感じていない節がある。 そういった人がトップに居座れば 組織は乱れる。これには決まったルールは無く、憶測の世界である。
 それに寛大な国が 果たして 道を誤らず正しい判断ができるのかどうか、進退の決断を先延ばしし満身創痍で身を引くことが その人にとってどうなのかより問題は別にある。 これも人間教育で 知識偏重し過ぎた弊害であると思います。

3168:善と悪

  本堂の障子
私がやりました。


反省? 
 


『最大多数の最大幸福』 19世紀のイギリスで起こった功利主義の原理とし提唱したのがベンサム、彼は「正しい行い」とは「効用」を最大化するあらゆるものと考えた。何不自由ない裕福な家庭に育ち 社会の幸福は個人の幸福の総てを足し合わせたものと考えた。当時と比べて21世紀の今 それがどう受け止められているか、ベンサムの生きた時代は イギリスの国力は世界の工場と言われた。 圧倒的な海軍力によって 世界各地に植民地を増やす 繁栄と安泰の時代を築いた。一方その裏の庶民の生活は著しく過酷であったという。個人と社会、 公正さなどが問われた。(ビクトリア朝期)
 『善と悪』の議論は どこで行われるべきか イギリスと日本の国会の違いにどうしても目が向く、ユーロからの離脱を決めたイギリス、勿論そこに至るまでには国内を二分する激しい議論があった。国の在り方にとって大きな影響を及ぼす決定に国民がどう関わるかが 問われる。誰が見ても日本の現状で 国民に充分に周知されているとは思えない。それを承知で 強引に決めてしまう。貴方達が重要な事案と言うのであればその根拠を示す責任があり、決するならば議会や行政の信頼性が問われる。 この時とばかり 次々に出てくる疑惑の山 現状は対応に四苦八苦、焦りと驕りが交錯する中、真相は国民不在の状況で焦点がボケている。
 日本語表現の難しさがある。≪乱れ≫とか≪何でもあり≫と言わず≪多様性≫と謂えば どうだろう。これを先人は上手く使ってきた。それだって その人への信頼があったからである。
  働き方改革法の成立が最大の懸案という報道を聴いて違和感を持った、そうじゃ~無かったんじゃない? 政権公約は。いつの間に こんな風になったんだか ・・・・・。
 ★ 憲法改正? 財政健全化? はどうなった。優先順位が違うんじゃ~ありませんか。
 いずれの法人も決算期を迎え 忙しい。我々の現場は 一時の休みもなく 動いている。働く環境を良くすることを願わないものは無し。AI技術やロボットの導入、確かに今までとは違う便利さはある。だが それはあくまでも補完的なもので 全て人の仕事を代替するものとはなりません。
  老いと共に今まで出来たことができなくなる。必要か必要でないか、この価値の判断だって難しい。どこの家にも鉛筆やボールペンがあるだろう。某福祉団体の運営財源として 学校の協力を得て生徒に鉛筆を買ってもらう取り組みがある。それが年毎に減少の一途、それに代わる方法が中々見つからない。物が有り余る時代、モノを大切に使うという価値観が薄れる。便利さの為に使い捨て、用が無くなれば捨てられる。恐ろしいのは 人に対してもそれが伝染すること?
 倫理学という学問は ソクラテスに始まる。社会にあって 共存する為の規範や原理を考える学問。大別し永遠に不変なものと、歴史的にみて発展変化するものに分かれるという。 それと併せ ”道徳” 自分がどう生きるかという永遠の課題、その人の行為が許容の範囲なのかどうか 司直の手に委ねるまでもなく 善か悪かは いつの世においても 大切な指標となってきた。
 
 昨日は 3つの会議が水戸でありました。朝8時前に家を出て 夕の6時近くに帰宅した。昔ならば 疲れより  充実感が勝った。いつ頃からか それが変わった。半分 逃げ腰で 早く そこから離れたいという気持ちがホンネ。葛藤と焦燥感はダブルパンチ。
 「上手く生きたい」と「よく生きたい」との分かれ目。それは端的に謂えば「いい人生でしたね」と納得できる一人称での生き様に他ならない。
 厚労省が進める様々な施策、叡智を結集し入念に検討を重ねたものが制度になり 我々がその実行部隊となって最前線での事業を行う。一例として「意志決定支援」というご本人の望んでいることを引き出す支援があります。これは 本人の希望にそったサービスが受けられているか否か、この流れは措置→契約という制度の動きと国連の障害者権利条約に連動した。
 しかし、世の中は 理想と現実の間に様々な課題(障害)が立ちはだかって 思うように進まない。 もし、いま騒がれている問題が担当者の一人の意志によってなされたものというのが真実か、それを信じる者は誰一人ない。上司の指示に忠実に職務を遂行した者が責任を負わされる その方々の呻吟は鳴き声に聞こえる。国会での騒動と学生スポーツの問題は ○○至上主義とかいう偏重社会の産物で源は同じと感じる。
スナップ解説
 我が家のミイ・・・・ 謹慎中 。彼の本心は・・・・”人間どもは 嘘も方便とか 言っちゃって 全く ふざけんニャ~だ!”

3169:好感度

   2018.5.27

第20回ゆうあいスポーツ


 信頼度 or 好感度。 いずれもその確かな根拠と言われると 言葉につまる。好き嫌いは 人それぞれ! 如実知見なる仏教語 これは”そのま知見する”こと。智見とも書く。智慧でみるとは どんなこと?
 次々に浮かぶ疑問、でも 好感が持てるという人間には それなりの徳があると思います。
 場を和ませてくれる人に共通するもの、それは相手の立場になって振る舞うことが出来る人、決して自徳を讃ずることをしない、でも 自分の思いはハッキリと謂い その言葉に責任を持つ。こうありたいものである。真言宗の中興の祖という覚鑁の懺悔ノ文に書かれてあります。真言の僧侶の心構えである。世が乱れ 何を心の支えにしたらよいかが見つからない時こそ この文を読みなさいと教えられました。これが今 日課となっている。
 流行に飛び付くタイプとそうでないタイプがある。私は 明らかに後者である。古いものに何故か魅かれる。寺の裏で 今遺跡の発掘調査を行っている。いつでも見に来て下さいと言われていた。丁度 調査の責任者がいて 私を丁寧に案内してくれた。5500年前の住居跡、縄文中期である。土器が土から顔を出している、説明ではこの場所は倉庫があった処だという。何故判るのか尋ねると 関東ローム層の土の色と違う色(黒色)の処が柱やカマド跡だと教えてくれた。そこから100m程離れた場所が住居区という。寺の下も掘れば遺跡が出るかと尋ねると”勿論でますね”と答えた。地球の歴史からみれば まだ最近(?)のことになる。ここで どんな生活がなされていたのだろう?益々 興味を持った。
 米朝首脳会議が中止になったというニュースを聴いた。数時間前にトランプ大統領から出された会談中止の書簡がネットで紹介された。中米二大国の思惑が交錯し、駆け引きは今後益々激しさを増すことだろう。そこで日本がどんな立場に置かれているか?
 今の状況は 外交の手詰まり感が否めない。日本の役割を果たすとロシアに飛んだ首相、一体何を話し合ってくるのか?交渉事には 国民からの全幅の信頼があってこそ それが どうも暗雲が厚く垂れ込めている。 その辺の状況は世界に筒抜け 足元を見られていないだろうか。 交渉事はその人への期待と信頼があって 上手く進むもの 蚊帳の外という話は そこを突いているのは明らか その見極めができないのでは話にならない。
 
 連日 出て歩いている。少々 心が乱れイラだっています。これは 恐らく日本人の多くが同じような気持ちではないでしょうか! 昨夜、仲間がレストランを始め そこのオープンパーテイに参加した。フランス料理店 なにもかも驚いた。
 久しぶりに そこの法人の理事長と会い 昔話に花が咲く。 話題に出てくる人は共通している。お互いに世話になった今はなき大先輩たち。あの頃は お互いがホンネで話をし 困った時には 助け合う関係があった。それも当たり前に。そんな話をしながら 2時間があっという間に過ぎた。
 去年 私の友人が始めた蕎麦屋の経営者が変わった。人気があって お客も多く 順調に経営されていると思っていた。それが店を手放す、理由を聞くと自分の体が持たないという理由だった。
 6号国道沿いに 店開きして50年になるレストランがある。そこのマスターはもう幾つになっただろうか 今も毎日 店に出ているそうだ。私の父が良く食べにいったので 尚恵学園でも何度も利用した。地元に愛されている店に共通することは どんなことだろう。
 全てに言える事で人任せでは 難しいのかもしれない。更に 老舗のクリーニング店が店を閉め ご夫婦で挨拶に来られた。全国津々浦々 戸閉やテナント募集の貼り紙が目立つ、これが実態だ。余程 条件が揃わないと続けるのが難しい。
 中には 成功する例もあるのだろうが ライバル相手が多すぎる。これでは先行きの不安はなくならない。  その点 お寺は何故 長く続いているのかと思う。勿論 各寺も努力しているが 住職の責任は 甚大。それと 檀家の力も大きい。開創600年の寺歴。
 現在の心境は 今からが 大変だということです。先ず 四国88カ所を歩き 自分を見つめ直す時間を作りたい。そして 焦らず ゆっくりと・・・・・・・。 
 好天の下で 恒例のゆうあいスポーツ大会が行われました(上スナップ)。会場のあちこちで ”笑顔”に出逢った。自然と此方も笑顔になる。今回が20回目、壇上の歌のお姉さん、最初からで皆勤賞だと聞いた。私も同じく全会参加している。最初は20年前だから 若かった。来年は茨城国体と全国障害者スポーツ大会が笠松を中心に県内各地を会場に開催される。20年前と比べ 競技場やその周辺が整備され 綺麗になった。茨城県のメイン会場は派手さは無いが 緑が多く閑静な事と交通便が良いこと。全国からお客様をお迎えする準備も着々と進められ 徐々に盛り上がりを見せている。
 こういったイベントでいつも感じることだが 参加して良かったと思うのは 人との触れあいが一番 茨城は 恐らくその心配はない。 アピールは苦手だが いざ本番になれば 纏まって客人を迎え入れることは心得ている。
 那珂インターから高速にのり土浦まで30分で着く。実に便利になりました。

3170:喜び

 昨日のゆうあいスポーツ大会で いろんな人と久しぶりに逢うことができました。お互いに近況報告から始まり 困りごと悩み相談? この時期 現場を抱える人達は何処も同じような悩みを抱えている。 一緒に長年やってきた方が退職したとの話を聴いた。帰路  電話してみたら 元気な声で電話に出た。今なにやっているんだよ? 毎日 畑仕事をやって 結構忙しくやっているよ。 気のせいか スッカリ仕事のプレッシャーは無くなって 声が弾んでいる印象を持った。今度 仲間と一緒に集まらないかといったら 「いつでも 暇だから 声をかけてくださいよ」と 喜んでいる感じだった。
 細やかな喜びが 一番、 最近の私は どうも その辺がおかしくなっている。人間の感情は 誰の中にも 喜怒哀楽が住んでいる。これが 怒喜楽哀の並び順ではない。屁理屈かもしれぬ。喜びと楽しみで怒りや哀しみを包む・・・・ここに意義を感じるのです。
 
 事務所のトイレを改修しました。丁度 築40年を経過した、今時 こんなトイレを使っている所はありませんよ! と言わてしまい 急遽 今風に変えた。10日間の工事期間 壁に穴をあける ドリルの騒音にもめげず 出来上がる。ついでに いらなくなったものを処分、結局 殆んどが 消えた。 毎日 工事の方に纏わりつき 「なに やってんの?」の質問攻めをしたYさん 最初の中は 工事の方も丁寧に応じていたようだが さすがに根負けしたようだった。Sさんのトイレ詣でが始った。順番にいろんな人を連れてきて トイレを見せて大騒ぎ。これも 漸く一段落、やっと静かになった。 こんなに喜ぶものかと 正直驚いた。
 少し離れた場所に法人所有の山があり、またしても「ゴミが捨てられている」との通報あり。大きなビニール袋に入れられた布団が五袋 職員がトラックで取りにいき 回収してきた。 残念だが 人への迷惑を何とも思わなくなった証だ。役所に相談すると 荒らしている土地に捨てられるようですよ。で終わり。
 御身最優先だから 保身や忖度 嘘?が 堂々と恥じらいも無く 常態化した。それでいて 掲げたアドバルーンは共生型社会とは これ如何に?  信頼を失った組織を正常な形に戻すことに誠心誠意努力することで 責任を果たしたい・・・・・・・???? 常套句もいい加減にしなさい。 貴方が辞めることが一番だとどうして判らない?
 じゃ~伺いますよ、日本語の”誠心誠意”って どんな意味? たった6畳程のトイレが新しくなったYさんやSさんの喜びを  貴方達に理解できますか! 血税の価値の意味を解さず 大盤振る舞い 己の地位や身の安全をはかることが 一番で 何を信じろと謂うのでしょう。   相も変わらず 国会審議のTVで見かける 先生方 ニヤニヤしていますね。真剣みが欠落しているんだよな~ Sさん・Yさん だって そう思うだろう。
 
   軽トラックにゴミを回収  
 おそらく 今のまま進むと 日本中 防犯カメラで監視するようになるかも知れぬ。これを異常と感じない人達が 考える妙案(?)は 人の優しさや信頼の感情を失い 殺伐とした社会の中で 貴方の責任で生計を立てることを奨める?これを ”働き方改革法”の中身と誤解 時間とお金を使い 永田町界隈の 堅牢な城内で 行っている。言い過ぎですか?間違いですか? もういい加減にしなさいよ。そんな事をやるより土台が腐っている。見なさい! この国の10年先が全く読めない。これが実態であろう。 教育改革 然り。 道徳の授業で何を子供達に教えるつもりですか? もう この国は 後戻りできないのかも知れない。行く所までいって そこで 総懺悔・・・・。
 モノを大切にするという教えが死語になった。それは使い捨てと溢れるモノの量。信頼性の欠如。それは 明らかに 大人たちの責任だ。 卵が先かニワトリが先か? これが その後遺症である。
 ★ 世界に誇る経済大国 長寿国ニッポン 浮かれている場合じゃない。超高齢化社会と自ら言う。これは 長生きが罪と 暗に言っているようなモノ。格差の拡大はこれから先 今以上に大きくなる。それは 勝者の論理、メデアも挙って 勝者を取り上げPR。 これで 共生社会が可能なれば 良いですよ!
 喜びは そんなものではないと私は思うのです。