源究149

  

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2491 実行力 7/29 2496 メールを読んで 8/3 2501 ほのぼの 8/10 2506 平平凡凡 8/18
2492 自然の猛威 7/30 2497 地域説明会 8/5 2502 盆休み 8/12 2507 三毒(さんどく) 8/19
2493 蓮華 7/31 2498 今を生きる 8/6 2503 ケジメ 8/13 2508 選択肢 8/20
2494 施餓鬼終え 8/1 2499 笑えよ± 8/7 2504 63歳 8/15 2509 言いたいね! 8/21
2495 魚の骨 8/2 2500 布教 8/9 2505 自己顕示 8/17 2510 札幌 8/24

2491:実行力

参議院選挙にて公約を実行する力が問われた。どんなに素晴らしい事を言っても実行されないのでは意味が無い。それは政党:政治家個人が能力が無かったことを示していることでもある。
世界の動きは日々変化している。血生臭い事件から微笑ましいニュースまで、この地球上で毎日繰り返されている有り様。
 何だか知らぬが、日本がてぬるく感じてしまう。他に追随を許さぬ借金の量、国が破綻し個人が繁栄すれば良いと言うのか!
 さて皆さん! お盆の季節になりましたよ。宗教を問わず、先祖を敬い、その菩提を念じる墓参りの風習は昔より行われてきた。墓前で手を併せ何を誓い、願えば良いというのだろう、日本各地でこれから8月にかけ行われます。
 昨日は各地でイベント(夏祭り&花火大会など)が計画されていましたが、生憎の悪天候で中止せざるをえなかったものもあったようです。
 突然の雷雨で尚恵学園に昨日、雷が落ちたようだとの報告を受けた。非常ベルが鳴りっぱなしになりとめられない。幸い怪我する人はいなかったようだが怖いと思いました。
 東京の水ガメのダム周辺は雨が降ったのでしょうか?貯水量が半分になり使用制限が出されたばかり、被害が出る程雨が降る場所もあれば、避けてしまって全く降らない場所もある。
 神立周辺は連日、雷雨が続き、ここにきてまとまった雨が降っています。畑の作物にとっては、これ以上ない恵みになった、今朝の畑をみたら作物が活き活きしていました。
 自然と上手く付き合っていくしかない、これが人間の生きる智慧となったことに間違いありません。
 だが、人間の奢りでしょうね、自然を思うように制御し、自分達の利になることばかり考えていないか。そこに鉄槌を打たれたのが、よもや忘れまい、3:11東日本大震災だった。それと福島原発事故、その対応に全力をあげているのだろうが、ミスが続いている。原発の再稼働の是非を国民投票で諮ったらどうなのだろう。そうするべきだと私は思う。
毎月最終の日曜日、観音寺・神宮寺に近所の奥さん達が掃除に来てくれる。有り難いことです。もうなんと20年も続く。
 何でもそうでしょうが、継続することが重要ですね。
 月1回でも全く違います。汚さなくなりますね。
  清掃業者に委託すれば、綺麗にしてくれるでしょう。でも、それはしたくない。
 綺麗にしたという喜びと汚さないようにしようという思いは、結果ではなく、自分がどう関わるかによる。原発だって同じでしょう。
 有言実行とか言うけれど、誰が何を言ったのかまで記憶している人は殆どいないんじゃないかな。あくまでも自分自身で心に留め置き、確認していくことしか無いはずだ。公と個人の責任をどう捉え、各自の権利と義務への問いかけがなされないという世界でも実に珍しい国だと思う。国是というのか国家理性というのか、もっと真剣に語り合う場が必要なんだな。

2492:自然の猛威

日本だけかと思ったが、決してそんな事では無かった。集中豪雨、短期間に膨大な量の雨が降る、河川から溢れ出た水が容赦なく住宅を襲う。日本で人的な被害が少ないのは、避難指示が出て早目に対応できるからである。
 それでも濁流が襲った住宅は見るも無残な状況となり、その後始末が大変だ。子供達は夏休みに入り、思い思いに時間を使って普段できなかった事をやれるはず、それがこの不安定な天気では、大分予定が狂ってしまったのではあるまいか。
 計画していた旅行だって現地に行って見たら雨ばっかりということもあるだろう。
 毎回、この時期が来ると頭から離れない事がある。尚恵学園の夏休みは8月11日から1週間、今回は何人が学園に残るのかな・・・・?
 一人一人の顔が浮かぶ。聞いた話だがドイツのGHでは夏休みが3週間あるという。それに普段から週末は家庭に帰省するともいう。なんとま・・違うことか!
 恐らく、帰れる所がある方がそうで、全く帰る場所が無い人は違うはずだ。
 お盆を迎える時に本堂に飾ってある尚恵学園を利用していた人の遺影を整理する。今年は2枚増えた。まだ1ケ月も経っていない方もいる。
 写真を見ているだけでその人との思い出が際限なく浮かんでくる。これは私だけの唯一の特権?若い時は写真をみて語りかけている自分がいた。「ごめんな!」という懺悔の言葉が先に出た。
 最近はそれが微妙に変わった。還暦を過ぎ、何人か知人友人も黄泉の国に渡った。「もう少し待っててくれよ。今に俺も行くからな・・・・」と懺悔の気持ちが薄れた。
 事業規模が大きくなった。スタッフの数も増えた。その逆もある。出来ない言い訳もその一つ、ハッキリ言えるのは、人間関係が随分昔とは変わった。
 変わった事を懐かしむのは、年老いた証だと言われたことがある。その通り。
 これからどう変わるか?これは不問に付すべきことなのか。
 尚恵学園にとって今年は先を考えるチャンス到来だと見る。老朽改築の順番が回ってきて、その計画を練っている。私は口を出さないことに決めた。これからやっていく人達が考えるべきだと思うからである。
 丁度、この仕事を始め40年が過ぎた。でもやるべき事は増えている。その殆どは足元の身近な事ばかりなり。
 

2493:蓮華

霞ヶ浦周辺の蓮田、ハスの生産日本一というだけあって見事である。青葉と対照的な蓮華は、今の季節が一番美しい。蕾から花を咲かせ、終わるとハスの実となる。
 どうして、泥田からこんなにも美しい花を咲かせるのでしょうね、仏教説話で良く使われる題材で何も語らないから余計説得力が増す。
 本日、私が住職をしている寺の施餓鬼会があります。昨日もあって、15人の坊さんが来てくれた。大分、若返ったと思ったが、なんてことはない、自分が年を取ったのだ。
 その時、こんな話を聞いた。「お通夜で話をするのが嫌で仕様がないのです・・・」まだ、若い坊さんで住職に代わって通夜に出る機会があるんだろうな。
 私も布教師の一人、全く同じ悩みを経験した。多分に此方側の問題でそれに気がついてから随分楽になったよと話をした。
 聞いてくれる人に感動してもらえるような話・・・・・・・ってな思いがどこかにあって、それが邪魔をする。
 若い頃、瀬戸内寂聴さんのテープを何度も何度も聞いた。彼女の師匠の今東光氏の話もしかり。
  結局、足元にも及ばない。決まっている、その人の生き様から出てくる一語一句に勝るものは無いからだ。
 坊さんを続けていて、いつでも不完全燃焼な自分を感じている。
  エイヤー!この際だから、もう少し私の胸中を吐露しましょうか。
 寺と福祉の仕事、これに対し、時には自分を慰めたり、逃げたりする処に考えていましたね。でも、これが甘かった!
 2足の草鞋を上手に使い分けなんかできるはずないじゃないか、とっとと顔でも洗って出直してこい。これが現実。
  つまり、どちらも中途半端なんだよな、片手間とまでは言いたくないが不足分をうまく繕うという疾しい(うしろめたさ)気持ちがあります。
 そこを大いなるものは見抜いていらっしゃる。これだーもんな。
 仏教に関心が無くても仏さんの顔や形に興味を持たれる方は多い。それって何故なんでしょうね。
 チベットなどに行くと恥ずかしくて目を逸らしたくなるような御姿の像がありますし、もう顔形が崩れてしまいどんな姿なのか分からないものも多くあります。
 これって何故なんですかね。古くなったから新しく作り変えれば良いというものでは無い。
 これだと思うんですよ。日本が近代化を遮二無二目指し頑張った。これを否定する人はいないでしょう。でもね、何か大切なものをお忘れになっていませんか????
 蓮華。ハスの花。
 

2494:施餓鬼終え

30日31日と2ケ寺の施餓鬼が終わりました。今年はいつに無く終わったと思ったら体が動けなくなってしまいました。体調が悪いというのではなく、力が抜けたという感覚?1時間ほど横になっていたら、元に戻りました。
 有り難いことに周りが良く手伝ってくれるので、起きだした頃には殆ど後片付けが終わっていました。
ああ・・これで25年度の施餓鬼が終わった。
 本来、この行事は餓鬼に施す意味があります。それがお盆の前後に行うものですから、先祖供養と一体になっています。
普段、墓参りをご無沙汰している人が多い訳ですから、それで良いと思います。
 ”施餓鬼過去帳の文”というものを施餓鬼壇に向かい住職が読みあげます。1年間に亡くなった霊を読み上げ、供養の真を捧げるわけです。
 昨日は約250軒の檀家の皆さんが参加してくれました。全体の4割位の数ですが、久しぶりに顔を合わせる方達もいるようで、あちこちで話がはずんでいたようです。
 大半の方は、一瞬思うはずです。ああ・・・こうやって一年が過ごせたんだ・・・・と。
 来年も元気で参加したい。そんな思いを新たにしたことと思いますね。
 私が住職になったのが昭和54年です。29歳の時でした。まだまだ34年と思うかもうそんなに経ったのかと思うのか??
 確実に時間が過ぎて行く中で多くの人が自分の死などに関心もなく生きている。大病を患ったり事故に遭遇した方は違います。1年過ぎるのを有り難いと思うはず。
 施餓鬼会の眼目とする点が実はここにありますよね。
 山口県で悲惨な事件が起こりました。生まれ育った地に戻った容疑者が次々に住人を殺害したのです。日本の各地にうまれている限界集落、65歳以上の住人が50%を超える地域で発生した事件です。
 これを特異な事件と言えない状況が今の日本にはあるのではないでしょうか?
政府が最優先に掲げる景気回復とどこでどう繋がるのでしょうね。
 昨日、こんな立ち話をしました。平日の為、施餓鬼に参加できなかったと夕方、塔婆を取りにきた方が話してくれました。父親を亡くし、今年新盆を迎える方です。
 その方の奥様はアジア出身の方、良く聞かれるそうです。
「どうして日本人はこんなに多く自殺するのかわからない・・・・」と。尋ねられても答えられないと話された。
 自死を選ぶ人は、個人の問題?自殺で亡くなる総数がずっと3万人を超えている。未遂者や身元不明人まで加えるとその数は膨大な数になると言われています。
 景気が回復するとその数が減少するのでしょうか。でも、そんな簡単なものではないと思う。
 そんな事を考えていたら動けなくなってしまったというのが本当の理由でした。
  願わくば この功徳を以て 普く一切に及ぼし 我らと衆生と 皆共に仏道を成ぜんことを・・・・・。
 

2495:魚の骨

昨夜食べた魚の骨が喉にささったようで違和感がある。毎年この時期に頂くもので沼津港にあがったもの、美味だからつい急いで食してしまい、こんな結果になったと思う。ご飯を丸のみすればと昔良く言われたことを思い出し、何度かやってみたが、どうも上手くいかない。本日、耳鼻咽喉科に行ってとって貰おうと決めた。
 喉で思い出したことがある。私は中学3年の時に扁桃腺の手術をした。それまで風邪を引くたびに高熱を出し寝込んだからで受験を控え、思い切って手術をした。その後、扁桃腺を腫らし熱が出ることも無くなって、風邪で寝込むことも殆ど無くなった。後2週間ほどで私は63歳の誕生日を迎える。大きな病気もせず、今までこれたのは、何が幸いしてのことか判らない。
 今年の施餓鬼も無事終へ、少しづつ後片づけをして、お盆を迎えよう。この定番の繰り返しが出来なくなった時は何かが身の周りに起こった時、そう思えば日々の生活に意味を感じる。
 いつの間にか日本で高齢化という字に対策や問題を付けるようになった。言葉を変えれば”長生き”することが問題だと読める。この分野で新手の商売が次から次にうまれ、一大産業となっている。昨日の新聞で長寿県の順番が紹介されていた。同じ日本で然程の差は無いのだが、これも何かに利用するのかも知れません。平均寿命の男女差で5歳以上あるのは変わらない。
 私個人としては、年を取れば食事の嗜好が変わるから、その辺の話題を提供してもらいたい。そのついでに”魚の骨”を喉に刺さってしまった場合の対処法も教えてくれれば猶のこと助かる。
 昨夜は一人で大騒ぎしていた。すると久しぶりに尚恵学園より電話!何かあったなと瞬時に思った。
 駆けつけてみると連絡網で呼び出された職員が何人も来ていた。
・・・・・・
 結果は大事にならずに済み良かった。
 世の中は、自分で注意していても想定外のことが起こるものです。
 痛い経験をして学ぶもの、その繰り返しが生きている証だとも言えますね。 ニャーオー・・・・・・・。

2496:大いなる自然

何もしないのに自然にこうなりました・・・・・。外国語に斯様な言い回しは有るのでしょうか?
 日本語特有の表現ではないかと思います。これにはへりくだり譲る想いが込められ自分が関わったなのは些細な部分でしたよと言いたいのです。。
 あえて過去と現代の違いを考えてみれば、情報量の多さとスピードの速さ、これには格段の差があります。
 テレビやラジオ、各地に大雨を降らせ被害の状況が連日報道されている。方や九州南部や四国は平年を大きく下回る雨の量、水ガメの貯水量が底をつく状況だというではないか。エッ 本当なの?
 前線や気圧の関係でそうなっているそうだ。
 ただ、明らかなのは昔と比べ春夏秋冬の季節の特徴が少なくなっていること、それを亜熱帯化などと説明する予報士もいるが、現実に起こっていることは変えられない。
 河川の堤防が増水した水に耐えられず水害が起こる。緑豊かな大地と無数の河川は一体です。
 堤防をより高く築くことが果たして環境にとって良い事なのか否かという問題もあるでしょう。
  でも、これは国内の問題で、銃弾が飛び交いキナ臭いとか海外からの圧力で紛争が絶えない国とは別世界。
 アベノミクスへの評価もいろいろあるようですが、具体的な数字で示されると説得力は増します。輸出産業が軒並み好成績、自動車業界など破竹の勢い?
 この影響がいずれは末端にまで行き渡り、全体に上向きになるはずだという。一般住宅の新築が急増しているという話、これは景気の上向きとの関係はどうなんでしょうね。消費税のアップや税制上の優遇措置の期限が迫っているという理由で駆け込み発注ではないのかな。新築を検討している人の話を聞くと皆さんそんな感じです。
 でも、借金すれば負債ですものね。現金で一括払い出来る人がどれ程いるか、その数は分からない。
 それと、先行きへの不安は企業・個人いずれにもあります。ですから財布の紐は政府が思う程緩まないと思いますよ。
これも程度の問題でして、老子を敢えて出さずとも≪知足≫をどう考えるかということになりますよ。
 突然の事例で恐縮しますが、私が今使っている軽トラック、もう20年になる年代モノ、当然エアコンなどありませんがモノを運ぶ機能は充分持っている。
 軽トラックを仕事に使う方と比べてはどうかと思いますが、100キロで高速道路を走ろうとは思いませんよ。
 人間の叡智は便利な製品を次から次に生み出す。これをストップすることは、最早できまい。
どうですか?何か大切なことまで忘れてですね、高々80年の人生を全うするという有り様は!80年なんて言っても決して長い話ではありませんから。
 私は若くして亡くなった人に後ろめたさを感じます。日本人として生まれ緑豊かな国土で生きられる、この恩恵を無視はできません。

2496:メールを読んで

ドイツの横井さんより、メールが届きました。そこに添付されていた『未来へ向けて』という文章、これは彼がドイツに渡ってから27年欠かさず、彼が住むチュービンゲン市内の教会前広場で反戦の訴えをしてきた。その時に配る文章だというのです。
日本語の文章でしたが多分、奥様がドイツ語に訳したものも有るんだと思います。その時、必ず一人息子のミファエルさんも一緒とのことです。
 彼は今両親と離れ市内にあるグループホームで生活しています。私も2度程、そこを訪問し実際に同居している仲間たちと会ってきました。我々が日本で取り組んでいるGHとは、どこかが違う。それがどうしてなのか?
 それを考える一つのヒントになると思うことが今回の横井さんの文章の中に書かれていました。
・・・・・「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となっている」(バイゼッカー元大統領)・・・・・。
 この一文に全てが含まれるんではないかと思います。
8月6日午前8時15分広島に原爆が投下された。続いて9日に長崎です。この惨い経験をしたのは世界中で日本だけです。
 反戦運動や平和の式典は行われていますが、そのマスコミ報道も年々小さくなっているようです。
 方や戦後生まれの国のリーダー達は何をさておいても景気の回復だと主張し、GDPで更なる上昇を目指す。
 そんな状況の下、東日本大震災が襲い福島原発の事故が起こった。いま福島の強制避難区域がどうなっているか、恐らく関係者以外の記憶からは徐々に薄れてきているのではないでしょうか。汚染処理も見通しが立たない現実、それと問題の先送り。未来を生きる子供達に対し、あまりにも無責任ではないだろうか!
 横井さんの言わんとする「未来へ向けて」という表題がそれを指し示している。
 昨日テレビの某番組で同志社大学の浜教授が出演していた。彼女は日本がこれ以上豊かさを追い求めて何になるの・・・と語る。私も同感だ。モノが溢れかえる中で無駄とは思わず消費欲を駆り立てる。この実態を見ずしてGNP世界NO:3をとやかく言う人達に騙されてはならない。
 日本国民の何%が過去の出来事に目を開き、未来をどうしたいのかを考えているでしょう。その繋ぎになる現代を生きる我々の責任ではないかと思うのです。
 団塊の世代(1947〜49年生まれ)の人達が60代、私もその中に入る年齢になった。新宿騒乱などと言っても今の若い人たちには通じない。熱く燃えていた時代は遠くなり、いま自分達だけが良ければという価値観が大勢を占める?
 日本人がどこかに置き忘れてきた大切な心   それと
 「人間によって引き起こされた広島・長崎・福島の出来事を、被害者意識ばかりでなく、加害者意識を過去の歴史の中でしっかり見つめて行く事は日本では大切だ」という文章が強く残った。

2497:地域説明会

昨夜7時から成人寮の建て替え場所に予定している地域での説明会を開催しました。地元区長さんのお骨折りで全戸に説明会実施の知らせを回わして頂いた。果たして何人の方が来てくれるかと早目に会場に行って待ちました。
 地元の方で集まってくれた人数が10名でした。学園より5名、設計事務所より3名です。
 今回の話が県からあった時に建て替え場所の選定でいろいろと検討をしました。現在の場所には、スペースの関係でどうしても無理だと分かり、新たな場所を探し始めたのです。
 その後、準備委員会を置き検討会を定期的に行い、基本計画の大筋が決まった時点で地元への説明会となったわけです。
 対象地域は最近、新しく家が建ち始めています。それも若い家族が多く、子供さんも小さい方が多いと判りました。
 説明会ではいろんな質問や意見が出されました。その一つ一つが尤もなご意見ばかり、事業の必要性は判るけれどこれから近所に住む側の不安もあるという正直なご意見ばかりでした。
 中盤に差し掛かった頃、「説明会はこれ1回ですか?」という質問が出ました。私が一般的にはそのようになっていますと答えたら、それに対し不満(?)が参会者の方達から噴き出してしまいました。
 矢継ぎ早にいろんな意見が出され全てホンネの話だと感じました。今後、必要に応じ説明会を行うという事でどうにか収まったように思っています。
 結局、一方通行の話をいくらしてもダメだということで、漸くスタートラインに立ったという事を認識したのでした。
 建設予定地は県立高校(土浦湖北高校)のすぐ脇、県道に沿った一枚の畑地(約9,000u)、観音寺が代替地として40年程前に県から取得したものです。その土地を尚恵学園が借りることになるわけです。最近この地域には特養ホームが新しくできたり、土浦市内にある総合病院が引っ越ししてくるなど大きく様変わりすることが決まっています。
 これから事業完了までの約1年7カ月、地元の皆さんに可愛がられる施設づくりを全力でやらねばならないと考えます。
 それと併せ現在実施している事業の根本からの見直しと将来を見据えた新たな取り組みの検討に取りかかります。
 今回、痛感しているのは地元の理解を得ることには、先ず相手側のホンネをどう聞き出すかという事抜きに有り得ないということです。
 私自身、大いに反省しています。地元の人達、利用者、スタッフ、それと様々な関係者・・・等々、陰に陽に感謝の気持ちを持ち胸襟を開いてお付き合いできる関係を築くことの重要性を痛感しております。
 

2498:今を生きる

”今を生きる”という言葉が巷で目立つのは決して良い時代では無いと思います。何故? 
だって、そんな事あたり前でしょうよ。今を生きないでいつ生きるのですか。そうは言っても、現実に報告されているだけでも年間3万人の自死者が出る日本の今の状況は異常事態としか言えない。茨城県で”いのちの電話”という相談コーナーを設け電話での対応を行っている。その効あってのことか昨年に比べ自死者の数が減っているとの新聞報道があった。でも真偽の程は定かでない。
 この世で万策尽きたと自決する人の気持ちを理解することが電話で話しただけで出来るのでしょうか。

昨日アマゾンで注文した本『ブータンで本当の幸せについて考えてみました。』が届いた。ブータンに関するもので木村・高橋両氏によって書かれた本です。国民(約70万人)の97%が今が幸せだと思っている国、実際に6月に訪れて垣間見た程度では、正直その確証は持てない。
 日本人夫婦でブータンに長年住み、農業指導を行った有名な方がいる(西岡京治さん夫妻1964年〜28年間)。あちらの水田を見た時、実に日本の田園風景と似ていると感じたのも何か関係があるのかも知れません。
 ブータンは仏教を国教に据えている世界でも唯一の国、あの国で信じられている教えは輪廻転生だと聞いた。
 いずれ生まれ変わるという信仰、それも6つの世界にこの世の生きざまによって決まると信じている。至る場所にいる犬もそうだ。先祖の生まれ変わりかも知れぬと思うから大切に扱うワケ。
 同じ仏教信者(?)の多い日本では、この輪廻転生をあまり強調しない。否、「生まれ変わるなんて信じられるかい!」ってな事になっていません?
 だからだと思う。この世で可能な限りお金を稼ぎ、好き放題に生きれれば悔いは無いと考える。自分に取って何が損で何が得になるかが基準??言って置きますがこれ全てでは決してありませんよ。
 でもね、そう感じてしまうような状況がより増幅しているように思えて仕様が無い。これって深刻ですよ。
 あのバブルの絶頂期、日本企業はどのように世界を叉に掛けたでしょうね。驚くような事を平気でやった。心底からの反省が無い。
 その時のツケをずっと払い続け今日に至った。
 
今を生きるという意味ですが、私はこんな風に考える。それも普段、何気ない処で感じるのです。知的に障害を持つ人達の生き方・・・彼等を本当に理解することは難しいですね。御本人の気持ちに我々は中々なれません。大部分はそこの段階で足踏みしている。一歩踏み出す勇気というのでしょうね。先人達が何も無い時代に熱き思いで始めた福祉の仕事、それがどうでしょう?上手くやろうとする事に関心が向き過ぎていませんか!

*余談・・・・・昨日、2回目の通院でファイバースコープで喉を見たら、前回見つからなかった魚の骨の頭が見えたという。それを見事に抜いて頂いた。なんと1p程のアジの骨が刺さっていた。医師から聞いた話、人間の体は異物が入るとそれを外に出そうとする力が働くそうです。今”幸せ”を感じています。

2499:笑えよ ±

ああ・・・どうぞどうぞ 笑うなら笑えよ!
 でもな 皆さん どうです?笑えるような話題がありますか。世の中変ですよ。どこかでボタンの掛け違い。
心底から笑えるような事って少ないね。自分さえ良ければいいやって考えるからかな・・・・。いやいや、そんな風に考えるのはお前だけだよってか。ウン、それならそれで良い。
 
 自問自答というゲームでして、例のツブヤキです。8月は10カ所のお寺で施餓鬼という行事があり、手伝いに伺います。ああ・・坊さんやっているな・・と、痛感。良く考えてみたら、普段は殆ど坊さんをやっていない。それがこの時期にだけ布教なんて頼まれるもんだから正直何を話なせば良いのか分からない。精々30分位の時間、落語ならばかなり長い話だろうが、こむずかしい話をしたって皆さん飽きてしまうし、結構悩むもんですよ。
 私が知る坊さんで話が実に上手な方は瀬戸内寂聴さん、聞く側と繋げる”糸”を感じます。バランス感覚と話題の豊富さ、見習って出来るものではありません。
 昨日はどんな日でしたでしょうか。そうですね広島原爆記念日、68年が経ちました。当時を知る人達が毎年減る中で慰霊碑の前で総理が誓いの言葉を述べる。戦争を知らない世代が多くなった今、何を誓いどうそれを実現するかが問題ですね。
 なんと68年間に総理が一体何人変わったことでしょう。ここ10年間でも正確に名前を言える人は少ないのではないか。
 ここなんですよ。世界で唯一の被爆国日本で国民を代表する総理が何を世界に発信するか。
 今朝のNHK明日への言葉は役者の米倉斉加年さんでした。担当デレクターは佐野先輩、役者と演出家と画家という米倉さんも79歳になったとか、子供の頃の戦争経験を語れる数少ない方である。
 戦争って一事で言うと何でしょうか?と問われ、一瞬間を置き語ったのが”破壊”以外の何物でもないという言葉だった。
 何かを生み出す為の破壊なんて有るのでしょうか?
 私達は、戦争の悲惨さをある程度まで判っているはずです。多くの人達は街頭で戦争反対を訴える中には正直入りづらいと思っている。
  でも、何かの間違いで日本が再び戦争に向かうようになったとしたら、自分さえ良ければ良いという考えではどうにもなりません。その抑止力を我々一人一人が持ち得るか。
 景気浮揚策を声高らかに叫ぶ人達にその点を問いたいのです。危うい足元でそんなに急いで本当に大丈夫ですか。
 

2500:布教

施餓鬼布教を頼まれた。30分程お喋りするのだが、間際まで何を話すか決まらず、ブッツケ本番となった。場の雰囲気、暑さに皆さんがグッタリしている。これではこむずかしい話では駄目だ。そこでブータンの話にした。
 ブータン訪問はもう2カ月近く経ったので記憶が薄れてきたが、話始めたら不思議と思い出した。
 聴衆には私と同級生がいたり先輩がいた。なんとも恥ずかしい限りだが、それを紹介したら皆さんの表情が急に柔らかくなった。何が幸いするか判らないものです。
 帰る時、声をかけられた。なんとその方の奥さんが私をオンブして遊ばせてくれたという。私の母がお寺で裁縫を教えていた。そこに奥さんは通ってきていたらしく、赤ん坊だった私をオンブして遊んでくれたそうだ。その方はもう80歳になったとのこと、なんとまー奇遇な話である。
 もう60年も前のこと。ただ有り難く感謝の気持ちだけを伝えた。
 さてとブータンの話を少し、あちらではゆっくりと時間が流れていることを感じた。もしかしたら昔の日本もそうだったかもしれない。
 今は様々な問題を抱えているという。都市部と農村部の格差、インフラ整備が間に合わずゴミ処理が間にあわない等。確かに首都テンプーは街中が雑然としたものを感じた。最も有名な寺院に通じる山道にはゴミが結構落ちていた。
 若者の意識の変化も新たな問題、教育と医療は無料、小学校より学校では全て英語で授業を行う・・・・など日本には無い政策が取られているが。
 仏教的な価値観と経済的発展のバランスを保つことの難しさがより大きくなっている。
 当然、これらの事は予測されたことだろうが、様々な情報が自由に得る事ができる時代になって知ってしまった以上、猶の事、舵取りが難しくなっている。
 日本だって同じだね。様々な課題を抱えて良かれと思う事をすすめる訳でしょう。
  ただ、決定的に違うことがあると思っている。
 それは、日本では過去の反省を生かし切れていないこと。先ず、過去の戦争に対する反省とその周知の徹底が十分でない。義務教育でどんな風に教えているのだろうか?
 それと原発に対する国民の合意が諮られていない事も問題だ、何か全てが中途半端で不安材料を上げれば切りがない。
 盛んにいじめや暴力を問題視するけれど、本当は違うと思う。
 我々国民一人一人の責任が何かを教えるべきなんだな!それをもしかして諦めていませんか!
                     *参照「ブータンで本当の幸せについて考えてみました。」阪急コミュニケーションズ。
 

2501:ほのぼの

仄々という日本語、難しい字だと思う。「たそがれに仄々見つる花の夕顔」源氏物語≪夕顔≫が広辞苑を開くと事例として出ている。かすか、ほんのりという意味でしょう。
 日本人の感覚に実に良く似合う言葉だと思う。控え目で目立たずされど只管(ひたすら)に通じる。夕方鉢植えの花に水をやる情景が自然と浮かぶから不思議だ。
 昨日は長崎原爆記念日、アメリカ軍の投下目標は当初は北九州だったというが天候の関係で急遽長崎に変えられたという。68年前に実際に起こったこと沢山の方が犠牲となった。毎年、1年間の間に被爆者で亡くなった方の名前を公表し、記念碑に名を刻む。
 これは明らかに人災で戦争という国と国の争いにより犠牲になった多くの人達、その尊い生命を我々がどう次の世代に語り継いでいくかが問われているのだ。
 もうじきお盆である。先祖が眠る墓地に手を合わせ各自思い思いに祈る。その殆どが大それた願いなどでは無く、ささやかなモノではなかろうか。
 毎年の事だが、11日から尚恵学園の夏休みに入る。いつも座っている場所にいて私の姿を見つけると声をかけてくる。
「かあかん。。。。くっとー・・・・・・」(お母さんが迎えに来るよー)  1人っ子のNさんは今では母と自分の二人だけになった。
 そして。 窓からジッと私を見つめるOさんがいる。彼は話ができるのに無言だ。何が言いたいのか痛いほど私には分かる。
 夏休み期間中、帰れない方達の楽しみ企画が毎日用意されてはいるのだが。
私がどうしても頭から離れないのは彼らの目、懇願・切望・・・・が一杯含まれた冷めた透き通った目なのだ。
 この視線がある限り、我々福祉に関わる人間が目立ってはならぬ。自らを誇るなどもっての外。”ひたすらに”対峙する覚悟とモノ言う勇気を持つべきだ。
 無縁社会とか格差社会と言うのは簡単だ。それをどうするかが、この国のリーダー達には分からない。
 何故か?
 ハッキリ言って”他人事”なんだよな。
 

2502:盆休み

昨日は関東地方では今年一番の猛暑日となった。何せ山梨甲府市では40度を超す高温を記録、土浦も37度という人間の基礎体温よりも高くなった。最早こうなると何をやっても集中せず、ボーとして過ごすことになる。あの一番暑い最中に某寺院において施餓鬼会があった。風が殆どなく、湿度が高いのでサウナに入って読経するのと同じ、それをジッと聴いている人達も大変だ。
 それと昨日は尚恵学園の盆踊りが5時から予定されていた。天気予報では夜になっても30度以上気温があるという。メンバーさんたちの体調を一番先に心配した。利用者の皆さんは、其々が盆踊りの格好(浴衣・ジンベイ)をして成人寮のグランドに集合、徐々にお客さんも来られて例年通りに実施できた。
 日中、病院に搬送された数が県内でも多くいたという。盆踊りには土浦のアイドル、キララちゃんも特別出演、着ぐるみで中に入っている方も地獄だっただろう。NPO法人の「街づくり活性化土浦」と駅前花壇づくりで交流が持てるようになった、その関係で今回特別出演してくれた。石岡市のお囃子の皆さんも10年以上続けて参加してくれている。それに筑波大のVSさん達、それと暑い中をお越し下さった皆様に感謝感謝。
 少し予定を早めて終わったのが午後8時前、その時間帯ですら優に30度は超えていた。
 一般に13日から盆休みになる、週末(10日)から長期の休みを取る人も多いと思う。暑さ対策を充分しないと大変なことになる。
 来年は寮の建て替えでこの時期多忙を極めることになるだろう。現在地(成人寮)は事業の内容を日中活動や地域との交流スペースとして新しくスタートする。今後、連続して工事が行われる予定、法人が目指す地域に取って必要とされる事業所へ更なる進化が不可欠だ。
 全国では様々な取り組みをされている所があります。我々が学ぶ所は大いにある。
 「二兎を追う者は一兎をも得ず」という諺がある。これは初代理事長が伝えたかった事と理解している。
 一つの事すら満足にできない者があれこれと事業に手を出すべきではないという事だ。これは釈迦の弟子、十六羅漢の一人、周利槃特(パンタカ)の大悟からきている。障害福祉といっても多岐にわたる。幼児から高齢者までの障害それも知的にハンデイの有る人への支援に特化した事業所を目指す。
 理想を実現していく道のりは際限無しに続く。新法で何故「自立」という文言を止め「個々のニーズに対応した地域生活支援」にしたか?
 ここに視点を合わせ、活動をしていく事の重要性、それとその実現に不可欠な専門性と地域の協力・理解、こう考えると暑さなんかに負けておれませんな。
 盆休み 動かずジッと 過ごしたい・・・・・・・

2503:ケジメ

本日13日が迎え火ということでお盆が始った。そして16日に送り火をすることになるのだが、この頃15日に行っているところが増えた。それなりの理由があるのだろうが、盆中ゆっくりと家族で過ごすという事が少なくなったと思いませんか。
 多分、地方に行けば旧来からの祖先の霊を祀(まつ)る行事を続けている地域も有ると思いますが、都市部では大きく様変わりしています。
 1日早く12日より尚恵学園では夏休みに入りました。どうも年々帰省する方が減っているのは困ったものです。それぞれ帰れない理由があるようですが、本人にとってみれば辛いことなんですね。こちらとしても今回だけ我慢してねと言えない所が苦しい。
 これって一般の人々は殆ど分からないと思う。敢えてそれを声を大きくして話す事でもない!
 聞くところによれば、帰省できない人は入所させないという事業所もあるやに。我々としては、そこまではしていない。何せ50年も学園生活を送っている方もいらっしゃる。
 私はこの状況を決して良いとは思いませんよ。どうすれば良いのか頭を痛めます。
 人間誰しも自分の思う通りには生きられない。その一つと考えればどうかと思ったりしています。でもね・・・・・・。
 何を基準に考えるかという事だと思います。
 施設での生活を地域とは別と考える人が実際には多い中で支援スタッフも複雑です。
 逆に、今の日本で施設が無かったとしたらどうなりますか?この夏休み職員は交代で仕事をします。普段利用されていないけれど夏休みだから日中預かってもらいたいという人が増えるんです。
 そりゃーそうですよ。仕事を持っている親が殆ど、子供を家で見なければという事で長期に仕事の休みを取るなんてことは、この国で許されません。
 尚恵学園では、今、少し離れた場所に成人寮を新築する計画がある。先日、地元説明会を実施、いろんなご意見を伺った。
 基本的には、個室で8名を一つのグループとし全部で6グループの建物を建てる予定。私も大いに期待している。
 何せ従来の設備基準では1部屋4人というものであった。30年以上経てやっと個室化が一般化してきた。
  それに対し、なんで30年も4人部屋でやってきたのかと批判されても仕様が無い。
 また、こんな話も出ている。介護施設など完全個室を売りにする動きが一時期あり。その結果?でしょうね。個室が当然という事になった。それが、今、何でなのか?多床型を認めよという声が上がっているとか?
 判らんね・・・・全く。
 もしかして介護する側の問題だとしたら本末転倒じゃないのかい。
 斯様に考える人もおいでになると思いますが、これは実態を知らずに理想論を語る人だ。
 事業所が一番頭を痛めているのは優秀な介護スタッフをどうつかむかという問題なんですよ。
 結局、日本の福祉の最大の問題は、従事者の確保ということなんです。例えば、イギリス、もう40年も経ちますが、当時、
現場で働くスタッフの大半が植民地からの出稼ぎの人達だった。
 ならば、スウエーデンはどうなのよ?ってか。 良く言うよ。アンタね・・・消費税一体いくらだと思っているの(25%)?
 日本の皆さん!!!!ケジメ無き民族は、自ら墓穴を掘るということになりますぞ。
                            参考:「スウエーデンの税金は本当に高いのか」竹崎孜著
 

2504:63歳

本日、63歳になりました。いつの間にこんなに大きくなっちゃって。私自身は何も変わっていないと思っているのだが、周囲はそうは思っていない。ソリャーそうかも知れません。昨日、頂いたトウモロコシを齧ったら、前歯が折れた。いや、取れた。
 何しろもう何回治したか分からない。応急処置で治療し、また取れたら来て下さいと歯医者さんには言われている。
 今の歯を削って被せるにはまだ早い??? 私もそう思う。
 昔もそうだったが最近特に寝るのが早くなった。8時頃になるともうダメ、軽く横になって一眠りと思うのだが、そうはいかない。寝込んでしまい、挙句の果てには夜中に目が覚める。だから、ホレ!思索に耽る時間が充分だ。ああだこうだ、ああでも無いこうでも無い・・・・・・。
 いつだったか鎌倉円覚寺の長老がテレビで話していた。何も考えず只管座る。すると頭が軽くなって形が正三角形になり、座りが安定すると。
 考え事ばかりしていると頭デッカチで不安定、逆三角形そのもの・・・・。
 でもなー!考えるなっと言ったって考える事が多過ぎますね。これって病気でしょうか?
お盆は新盆の家だけを廻る。精霊棚の前で水施餓鬼を行う。飾られた写真を見ていると妙な気持になります。私が生前良く知っていた方から初めての人と様々ですが、そのお宅にとっては大切な人だった。
 いずれ誰しもが冥土に渡るのは間違いない。自らが精霊棚に飾られることを想像できますかね。まー無理だろうね。
 植木等のスーダラ節・・・「解かっちゃーいるけど やめられない」って事は沢山ありますよね。その植木さんも浄土宗の寺の生まれで坊さんの資格がありました。そして黄泉の世界で今頃、張り切って歌でも唄っておいでかも。
 ですから、私はこう考えるようにしています。考え込んでも深刻にならぬよう。むしろ楽しんで立ち向かえ。
 これって年寄りの冷や水と言うんでしたかね???
 全く違う! あっそう。

2505:自己顕示(欲)

”アンタは自己顕示欲が強い・・・”と言われた。それが誰からとは言わない。何を隠そう自分でも納得しているからである。
 恰好をつけて言えば、その根底には、私が知り得た多くの人達が引っ込み思案の私の尻を突っついているからと言いたい。だってそうでしょう。自ずとそうなりますって。17日で1週間の尚恵学園の夏休みは終わる。昔と比べたら帰省日数は半分になった。彼等全員が家族の迎えを待ちわびているんですよ。私が彼等を知ってから半世紀、長いかどうかは関係ない。でも、実に多くの経験をさせていただいた。正直、目いっぱい出来る事はやってきたと言いたい・・・・・が、否!!!そうじゃないね。
 彼らの家族への熱い思いをどれだけ理解しているかと言われれば答えは”NO"としか言えません。
このコーナーで何度そのことに触れたか分からない。今思えばそのことだけでここまで懲りもせず続けてきたと言えよう。
 ”名前が福祉  フクシだなんて ちゃんちゃら可笑しいよ。何言ってんのお前!良い子ぶっちゃってさ。俺たちの本当の気持ちを言ってくれよ。頼むからさ・・・・!”
 正直、この圧力を感じない時は無い。人が何と思うと構うこっちゃない。俺が感じたことを口に出して言えば良いじゃないか。
 その後押しを無視し、しなやかにとかやんわりと言った方が良いよと言ってくれる連中は沢山いる。私はターゲットは特定しない。時によっては家族に向かって不満を向ける。だから、口をきいてくれない親もいる。
 良いんだ良いんだよな○○さん。お父さん少しは感じているんだよ。だから顔を合わせ辛いのさ・・・・・。
 これを”自己顕示”と思われては正直立つ瀬が無い。
 今でもハッキリ覚えている。私がまだ小さかった頃、一人の女性が同居(?)していた。彼女は私の父と母を「父ちゃん・母ちゃん」と呼んだ。地元の中学に通い、その後、学園の仕事を手伝ってくれた。縁有って結婚し、お子さんをもうけ、今も家族と一緒に暮らしている。その彼女、毎年、寺の施餓鬼に手伝いに来てくれた。それが父が亡くなり母が寝込んだ頃からパタリと来なくなった。時々、息子さんと二人で街で見かけることもある。その息子さんに障害がある。でも、必死になって育てている。
 私にはそう思える。一度、その事を何気なく話したことがあった。すると彼女はハッキリと否定した。”必死???そんな気持ちなんか無いよ。当然なことでしょう”と言われた。
 その時返す言葉が見当たらなかった事をハッキリと記憶している。
  ・・・・盆明けて 早朝響く 鐘の音  ・・・・・・・いま朝の5時51分、定時の梵鐘の音ではない。少し、遠慮した音色がたった1回聞こえました。
 

2506:平平凡凡

人間どこかに良く思われたいという気持ちがあるものだ。だから”おべんちゃら”を言う人に極めてガードが甘くなる。その逆に手厳しいことを容赦なく言ってくる人を自然と避けようとしてしまう。
 だからですよ。釈迦が悟りを得た後に自分を極限に向かわせ自らと対峙した。2000年が経ち、その間に多くの僧が出て、枝別れはしましたが、その基本に在るのはお釈迦様の教えです。良く考えれば何もこれは坊さんに限ったことではない訳ですよ。誰にも起こる事だし、普段の何気ない生活が当にそうなんですね。「三毒」(*)
 私自身の極めて狭い生活領域でさえ、どうも関係が上手く行っていないなと感じる事はあります。例えばそれが尚恵学園を利用されているご本人であったり、その家族であったりと、相手は様々ですが、此方に非が有ったと思う時は真摯に受け止め改善すべきなのです。「三善根」
 これを怠れば事業目的とドンドン遊離していきます。これは、もう判り切った方程式なんですね。
 振り返って、もう40年が経ちますが当時秩父学園の妹尾正園長から直々に指導を受けた≪新生≫という言葉を思い出します。これは建物を新しくするとか新たな事業を始めるとかという意味では無く変わるべきものと変わってはならない事を常に意識し軌道修正することだと理解しました。先生は熱心なクリスチャンでしたが、仏教と通じる話だとその時思いました。
 今ある非を認め、それを変えようとする態度(行動)で示せという言葉だと解する。
 昭和40年代後半、全国に唯一あった国立秩父学園は、これからを担う人達の養成機関という重要な役目を担っていた。全国から集まった若い人達が一年間の寮生活を共にし学んでいた。今思えば妹尾先生は当時既に国立施設としての秩父学園の存在意義に真剣に取り組んでいたのです。
 そりゃーそうですね。あの当時、先生の思いとは全く次元の異なる闘争(労働争議)が他からの支援を受けて盛んに園内で行われていたのですからね。社会福祉法人が今、当に自らの役割を問い正す時だと思っている。それが何なのか?明確な答えを持ち得ないでいないでしょうか。
 何も起こらなければそれで良いなどと考えている経営者はまさかいないとは思う。誰かの苦言を待つのではなく、自らが覚悟を持ち新生に向かって踏み出すべきなのです。
 平平凡凡・・・・きわめて平凡な様を言う。だが、長いことぬるま湯につかった人間は何が平凡なのかという判断さえ出来ないって事知っています?
 (*)三毒・・・貧・瞋・痴(トン・ジン・チ)・・・貪欲と怒りと愚痴。善根を毒する三種の煩悩を言う。

2507:三毒(さんどく)

盆月ですからね。少々仏教の話を続けます。
 前項に触れましたが、三毒(さんどく)という意味ですが、これは仏教に於いて克服されるべき最も根本的な煩悩 を言います。先ず、貪(とん)ですが貪欲から来ています。必要以上に求める心(むさぼり)です。次に、瞋(しん)ですが瞋恚(しんい)怒りの心を意味します。そして、三番目が痴(ち)で愚癡、これは真理に対して無知の心、おろかを意味します。
 ここで触れねばならぬ事は、三番目の癡の解釈ですが「愚痴をこぼす」という意味より、根源的な人間のおろかさを言うとなっています。
 でも、分かり易い言い回しが良いに決まっていますから、これ以上は触れません。
 自分自身に振り返って考えて見ると、見事に出来ていない。当に三毒に塗れて生きているという状態です。
 ここまでなら良とか不可とか言う基準があるのでしょうか?いろんな仏教解説書を見て見ると三毒に対する様々な説明があります。三車火宅の例なども、代表的なものと言えます。
 私が気になるのは、貪です。必要以上に求める心。つまり、現状の日本の姿を思えば誰しもが判ると思いますね。
 巷に溢れかえるモノ物もの・・・・・・。それで満足せず、更に手に入れる為にお金を書き集めようとする。国だってそうでしょう。
今の国の本当の懐具合をあかさず、大盤振る舞いして良い格好したがるトップリーダー、一方では財政再建を謳い文句に再登場し、デフレ基調から漸く抜け出せると触れ回す。何かこの国は寄港先が分からずに大海に漕ぎだした船に思えて仕様がない。
 これは根本的な問題共有が無いと言えまいか、アッチがダメならコッチに向かえ式航海では皆が疲弊してしまいます。
 こんな事を思う自分が三毒の愚痴を犯している。結局は自分に跳ね返ってくるんですね。
 そんな時、ハッと気付かせてくれる人達がいます。もう、数え切れない程紹介してきましたから、またかーと思う方もいらっしゃる。そんなの屁の河童。
 そうなんですよ、知的に障害があると言われる人達、彼らこそ三毒を克服していると思いますよ。必要以上の要求などしません。怒ってもその後許せる度量の広さ。
 リーダーになる人は、彼等から”こころ”を学ぶべきだと思いますね。でないと常に騙し合う人間の坩堝に身を置くことになり、おろかにも彷徨うだけの生き様を晒すだけとなりにけり。
 

2508:選択肢

世情に果たして正答が有るや否や?
 変な日本語と思う方もいらっしゃるはずです。それは当然でしょうね。そもそも世の中の有り様はこれこれだと断定できるものではなく違って当たり前なんですからね。「福祉」という言葉がその良い例です。全てを網羅し何をもって福祉と言うかという基準が実はない。
 障害者福祉とか老人福祉と言いますが、突き詰めると可笑しな言い回しです。本来は人間福祉なんでしょうよね。要はその人自身の人生そのもの、他を真似して本当に満足できるかといえば、そんな簡単なものではない。
良く分かっているはずです。ですから如何なる優秀なリーダーであっても多様な評価が生まれる。
 そこで言われるのが選択肢、つまり個人の責任で誰を何を選ぶかという事になるわけです。福祉サービスにいうサービスの中身ですが、人と人の関わりですから千差万別、一様ではない。そして時代により微妙に変化する。
 個人の違いの最たるものは、寿命だと言えましょう。長生きできる方もおれば志半ばにして若くして亡くなる方もいらっしゃる。
 日本の抱える病みの部分は、自死者が一向に減らないこと。寿命とは言えないはずで、何故?と言う疑問が常に付きまとう。これも三毒にいう痴にあたるんでしょうか。
 さて、世情の正答という愚問に話を戻しましょう。スマホという便利な通信手段、この種の技術はどこまで進歩するのですかね?若者の多くがスマホが無いと人との繋がりが無くなるという不安を持つとの調査報告がある。
 ブータンでも同様の問題があることを聞いてきたばかり、これをどう理解すれば良いのでしょうね。利便性とは裏腹に何か新種のウイルスに浸食されている感じは否めません。頑なにその類の文明の利器を拒んでいる方もいらっしゃいますが、いつまで避けられることですかね。
 そこで、再認識して頂きたいのでありますが、仏教で言う”中道”の考え方。お互い対立矛盾する二つの極端に偏らない実践や認識。
 釈尊は、ご存知の如く、長年の厳しい苦行の末に、どのような厳しい苦行によっても悟りは得られないということで苦行を捨てる。そして中道の教えを説いた。
 我々は、その教えを自分に都合の良いように解釈していないだろうか?いや、苦楽中道の教えによって、楽に楽にという偏った理解。楽=利便性とあえて考えるとどうでしょうね。
 結局、私達が寿命を生き切るという事を考えると自然とそこに近づいていくような気になりますから不思議です。
 

2509:言いたいね!

黙っていれば良いものを性分でしょうかね。言いたいね!エイヤー 言ってしまえ。
 昨日は何とも落ち着かない1日でした。正午からの鹿嶋市のお寺での施餓鬼の助法で伺った。この寺は私の祖父が住職をしていた寺だから行かない訳には行かない。法要が終わって即土浦に戻り、東京へ。本当は行くつもりはなかったが、これも仕様がないと諦めた。場所はいつも使っている浜松町の貿易センタービルだと早とじり、言ってみると35Fが無いと分かった。同類はどこにもいるものですな。山梨のYさんがウロウロしている所にはち合わせ、ここじゃないってことになり、タクシーで霞が関会館、そうだったか成る程。年中、この種の勘違いはしでかしているから平気。ある方の祝賀会、茨城から何人来ているかと思ったら他に2人来ていた。時間を見計らって途中で退席、今度はスーパーひたちで急いで戻った。9時過ぎに無事帰還。
 何せ明日の朝は早い。札幌に行く予定が前からあった。それも早い便を取ったので朝の6時前の電車に乗る予定。
 茨城空港からの便が1便減って不便になっていたから羽田にした。仕様がない。
 札幌もあるお願いをしている方と最終打ち合せ、2泊3日という勿体ないような旅となる。
 まだ、助法に行かねばならぬ寺の施餓鬼が残っているから、その間をぬっての思いつき。
ま・・・なんと言えば良いのでしょうか?あまり調子に乗っていませんか?
 そうそう、何か疲れたなーと思ったのは昨日は朝の5時から土手の草刈りをやったんだ。もうその時間にはレンコンを掘っている顔見知りの農家のご夫婦がいた。猛暑の中、なんと朝9時前にひと段落つけてしまうと伺った。
 私なんかまだまだ甘いなと自己反省。
 

2510:札幌

急に札幌に行って来ることになりました。茨城空港からの札幌便もあるのですが、1日1便となってしまって札幌に夕方着き、茨城に午前中に戻る便しかなくなり、時間のロスを考えると羽田から行かざるを得ない。それがこの時期観光シーズン真っ只中で殆どの便が満席状態であった。
 新千歳空港は全国からの定期便が飛んでおり、北の表玄関で実に便利、それと最近は国際便も増え海外からの観光客が実に多いのには驚いた。外国の人達が観光バスを連ねて観光地にやってくる。その人達を出迎える地元の対応も実に手慣れており見事です。
 私はお盆が終わり、息抜きを兼ね人と会うために敢えてこの混雑する時期にやってきた。その用事も無事済ませ、ついでに観光しようと思ってはいたのだが、これが甘かった。何せ主な観光ルートは大変な人でごった返し、レンタカーを借りて2日間、支笏湖周辺の山沿いを選び、主な観光地は避けた。
 
 北海道は大都市札幌を離れると至る所に開拓時代を彷彿させる風景が今でも残っている。現在の札幌の人口は約190万(北海道全体では540万)と都市への人口集中の傾向が顕著、面積も本州に次ぐ広さがある。(世界の島でアイルランドに次ぐ21位の広さを持つ)、冬の厳しさは関東に長く住んでいる我々には想像もできない。開拓魂という中に協力し助け合うという関係が根づいている。それは冬の厳しい自然環境の中で生き抜く生活の知恵だと思う。
 生きるための様々な工夫がされているから面白い。
 お目当ての方と一緒にご飯を食べながら話をした。障害福祉とか老人福祉なんて何で分ける必要があるんだ!人間福祉で行けば良いじゃないか・・・・・! 納得納得。
 日本人は世界でもある意味では稀有な人種だろう。基本的に真面目で几帳面、楽天的というよりも慎重派の人が多い。
 だからだろうな、国が定めた様々な制度の枝分かれが凄い。行政改革で省庁の再編は為されきているが、末端に行けばまだまだ複雑な仕組みが残っている。制度や条例を細かく細かくしています。
 近代化が進んだ建物設備・・・・これは一目瞭然ですあまりにも豪華に成り過ぎて私にはちょっと違和感を感じる最近の傾向。それでいて、福祉に従事する人達の気持ちは如何に??
 遣り甲斐を感じ、前向きに仕事を考える人が増えているでしょうか? 社会はその辺の事情を正直に映し出しますよ。
 福祉国家といわれる北欧との最大の違いは、ここなんですよ。専門性に裏付けされたプライドの有無。
 福祉を支える仕組みがいくら作られても、支え合う心が無ければ実があがらない。
 これは福祉の現場だから求められる種のものではなく、何の職種に於いても望まれる基本的な人間の態度なのだ。
簡単に言えば、観光のリピーターをどう増やすかという御苦労と同じ。
 また来て見たいと本当に思うか否か。
 福祉に関わる人達よ!!!制度の中で長いことぬるま湯に浸かってはいないだろうか?本当の変革は、自分達が切羽詰まらないと起こらない。
 それへの仕掛けも実はある所では検討がなされヒタヒタと迫ってきている事ご存知でしたか?
 企業の生き残りM&Aと福祉の再編は異次元ではないってことですかね。・・・・・。