源究147

 

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
2451 軽挙妄動 6/9 2456 無駄の価値 6/14 2461 リセット 6/20 2466 潮時 6/27
2452 街の風景 6/10 2457 貴方が幸せなら 6/15 2462 基準値 6/21 2467 団体活動 6/28
2453 総会を終え 6/11 2458 根拠なき成功・・ 6/17 2463 現実直視 6/22 2468 狭間 6/30
2454 こうなれば 6/12 2459 the challenged 6/18 2464 病みあがり 6/25 2469 文月 7/1
2455 ああなる 6/13 2460 性分あれこれ 6/19 2465 高福祉? 6/26 2470 活力源 7/2

2451:軽挙妄動

ややもすると目新しい事に関心が移り過ぎて、本来の有るべき様を見失う。
 昨今の世相に、私はどうしてもそう感じてしまう。何か浮足立っている。こんな時だからこそジックリ腰を据え自らの身の振り様を練るべきだと思うが、周りの動きに左右され、結局は立つ位置さえ判らずに路頭に迷う。
 国の目指す方向が何か見通しの無い方角に向かって進んでいるように感じる。
 障害福祉だけに限ってみても確たる方向性が見出せない状況にある。
過去を振り返って、先人の残した数々の行跡に今こそ、光を当て、思いを馳せるべき時だと思う。
 福祉は世の浮沈に関係せず存在すべきものである。上手い言葉が見つからないが、今の状況は”なんでも有り”の様相だ。私は安倍内閣の景気対策3本の矢戦略を素直に受け取れない。忌々しき実体として景気が良くなれば、福祉に従事する人が更に減ると危惧する状況があって、現実にそのような囁きが聞こえ始めている。
 戦後凄まじい勢いで復興し、勝ち得た豊かさ(?)の裏に潜む闇の部分、その一番大きなものが格差拡大である。結果失ったものが”個の尊厳”ではないのか!本来の福祉の意義はここに在るべきところ福祉の世界でも格差が拡大している。福祉=安心と考えればより判り易い。
 依然として自死者の数が減らず、その対策に効力が見え無い。それらの人々に人生の落伍者という烙印を押し、それで周りが平気でいられるとすれば、この国は重篤だ。
 アベノミックスに浮かれて、景気回復の兆しをメデアが挙って取り上げる。しかし現実に起こっていることは、株価の乱高下、1日で500円上下する事をどう受け止めれば良いのか。
 ブータンに行って、つくづく感じた事は、日本人があまりにも世の趨勢に一喜一憂し、心身を擦り減らして生きていかなければならないのかという事だった。そこに”その人らしさ”が全く見えてこない。
 
 ブータンの最大の観光スポット、タクサン寺、3000bを喘ぎ喘ぎ登り、寺の伽藍が直ぐ間近に見えた時に、急激に下って沢に降り、また登る。垂直の岩壁にへばりついて建つ寺の入口の警備にあたる警察官が立っていた。
 良く見ると、彼は数珠を手に持ち経を唱えていた。
 瞬間、私は大きなショックを受けたのでした。こんな事って今の日本では有り得ない。
 自ら信仰して警備業務に付いている。たったそれだけの事だが訪れた人に共感を与える。これも苦労して寺に辿りついたから言えること、一方日本はあまりにも便利に成り過ぎ労無くして実を摂りすぎる。
 昨今の状況は安心を共有するなど眼中に無く、利己的で表向きの豊かさだけを追い求め、それを良しとする価値観だけが幅を利かす。
 労を減らすことが豊かさだと勘違いする国のシステムは本末転倒&軽挙妄動に直結するだけである。
 

2452:街の風景

東京近郊のある街を車で通った。普段は気づかずに通り過ぎてしまうのに、昨日は何故か目に留まる事が多かった。
 それは動物病院とパン屋さん。随分多い街だなと思った。両者に何か関係があるのかどうか良く判らない。今時どこへ行ってもコンビニがあるのは当たり前、別に珍しくもない。それが、昨日はどう言う訳か動物病院とパン屋が目に焼き付いてしまった。
 これは多くの家で犬や猫を飼っているからなのだろう。私の家もそうだ。血縁関係の無い2匹の猫が同居して、顔を合わせれば相手を威嚇する。お互い適度の距離を置いて怪我するまでは至らない。若い方のオス猫は、これでは満足しないのか外に出てはどこかでケンカして引っ掻きキズを作っている。まったく懲りないのである。
 それと私の住む神立にも実に多くのパン屋ができた。毎日、焼き立てのパンを食べるなんて昔では考えられない事でした。
 その逆の現象もある。ガソリンスタンドが急激に減っていると思いませんか?有ってもセルフサービスが殆どで車が増えた割に燃料消費量がどうなっているのか。
 斯様に街の風景が時代と共に変化しているわけです。
 さて、還暦を過ぎた頃から自分では気づかないのですが、どうも私の動作や考え方に老いを感じさせると言う。毎日、腰にシップを張るのが日課となり、何をやっても根気が続かない。それは充分自覚しているのでありまして、何も周囲から言われるまでの事ではありません。
 60を超えてからの生きざまは人により格差が広がる一方だと思っています。仕事を持っているいないも大いに関係するのでしょうが、何かに打ち込める人は老いを上手に利用していると感じます。
 実はそこなんですね。ターニングポイント!つまり自ら転換点をどう作るかということが肝心。
 ズルズル過ごしてしまうとあっと言う間に年を取ってしまいます。後悔したってダメ。
  一時、自分史を出す人が増えた時がありましたね。自分の生きた証を書き残したいという思いからでした。活字離れが進んできて新手の方法が出てきたのかどうか?多分、いずれにしたってそれを後で目を通すなんてことは他人様には望めない。 書庫の片隅に積んで置かれるのが関の山です。
 私はそんな無駄な事をやる考えはありませんね。むしろ格好つければ”生を生き切る”ってとこかな。
 仏教に多少関心のある方なら、良寛の生き様に憧れるのはご理解いただけると思うのですが、あの方は無為にズルズルと生きた訳ではありませんよ。各地を訪ね歩き、そこで出逢う人々との触れ合いを大切にした方です。あれだけの方なら奈良や京都の大寺でいくらでも向かい入れてくれたはず、それを拒否し市井の人を選んだ。
 ここに大いなる価値を感じます。自然に良寛と人々の触れ合う風景が浮かぶ。
 そうなんですよ。街の風景がそこで暮らす人達の生きざまを移す様になればしめたものってことかな。

2453:総会を終え

大体、この時期になると関係する団体の総会がほぼ終わる。お決まりの内容なのだが、自分が責任者になっているものは、終わるまで気分が重い。
 無事終わって、気分が晴れるかと言うとこれがそうじゃない。なんて言うのだろう?貧乏性?

先日、普段履いている靴の底が減ってしまい新しいモノを買った。いま、その靴は箱の中に入っている。勿体ない。履くにも捨てるにも・・・・・。それがなんと新しい靴を2足も買ってしまった。2足目は半額だという店員の言葉にのってしまったからである。
 この歳になれば足の大きさは変わらない。まっ良いか。
一事が万事こうなのだ。むしろ石橋を叩いて渡る位の慎重さがあれば大分私の人生も変わったかもしれぬ。総会を終え、そんな自問自答をしている。
 最近、私の周辺では、年齢に伴う様々な変化が出ている。その一番は健康に関すること。大切な方が健康を害し、心配だというものや自分自身がこの先どうなるかと思い悩んでいるなど。
 還暦を過ぎれば、当たり前の事なのかも知れぬ。いままでその心配が無かったことが不思議な位、確実に齢を重ね、自らの終幕をどう迎えるかと考えあぐねるものが多い。
 自分自身の周りを見回すと親しかった人の多くが黄泉に旅立ったのに気づく。あっちの方が大分賑やかなようだな。
人生の終焉をどう迎えれば良いのか?元気な時は真剣に考えたりはしなかった。逝くもの残るもの、いずれも多少の時間差を置きあちらに行くのは確実である。
 こう考えると多少は気持ちが落ち着くかもしれぬ。
所詮、この世は無常なり。それをそう考えないから悩みが増える。でも、逆にそれ故に私達は生きていけるのだ。もし、生死の日が予め決められ自分がそれを知っていたら、今以上にこの地球上で悲惨な争いが増えるに違いない。
 私の友人からメールがあった。母親が介護施設に入所している。素晴らしい設備、食事も定時に食べさせてもらうし、お風呂もそうだ。その彼が面会に行った時、母親の悲鳴(?)が聞こえるという。
 実際に聞こえるのか否か?
私も長いこと今の仕事を続けてきた。常に130名を超える人達を預かってきた。その方達の声がどれほど聞こえるだろう。
 これだ。総会を終えても気分が晴れないという理由がここにある。ingでしか、ありえない。
 

2454:こうなれば

昨日は久しぶりにNさんと一緒に草取りをした。観音寺にある『まんだら工房』周辺の草取り、今年は雨が異常に少ないからだろう、あまり草が伸びない。その代わり根っ子が固く、上手く抜けない。
 尚恵のメンバー達がすぐ傍を散歩(歩行訓練?)や作業に行くのに通る。私に元気に声をかけてくるのを聞いてホッとする。
 何人かと一緒に歩いてきたDさんがまんだらのIさんを見つけ、形相を変えながら近づいていった。どうした?
 Iさんの首を抱きかかえ何か必死に話しかけている。庭に草花を植える仕事を一緒にやることになった。
  Dさんは私に対しいつでも遠くから眺めているだけで今日Iさんに示したような事はしない。私が声をかけても頷く程度、自分から話しかけてくることは無い。だから、私の目の前で起こった彼の行動が驚きだった。Iさんに必死に何かを訴えている。
 Dさんの気持ちが痛いほど判っている。彼は言いたい事が山ほどあるんだ。
 Dさんからのシグナル、真剣に受け止めないとな。メンバーの皆さん実は同じなんですね。そのシグナルに此方側が気づくかどうか、そして・・・・・・・。
 最近、外回りの事ばっかりやっていて、本来の仕事を等閑にしているなという自戒の念で一杯。
 Dさんの訴えが聞こえないとなれば、私がこの仕事を続ける資格はない。
  決して諦めた訳ではないが、いつまで先延ばしするのか。いい加減に交代しないとな。今の日本ではこうなれば良いという絵が描けない。
 さてどうすれば良いのでしょうね。
 日本が今のまま進むとは誰も考えていない。またもやブータンという国が浮かぶ。人口が約70万人というと日本の人口の17分の1、幸福量(happiness)の増加を政策の中心におく。多分、日本人の多くがそんな小国と比較したって意味が無いと思うに違いない。
 ・・・・・・・・待ってくれ! 日本が今のまま進むとどうなると思うか。昭和10年代と同じ過ちを犯すのではないか!あれから70年以上が経った。
 最近の国のリーダー達の言動をみているとそんな不安を持つ。世代交代し戦争を知らないリーダーが殆ど。私には国の政策が無謀にさえ思えてしまう。個人の所得を今より150万増やすとの公約、この根拠が何なのか、要は国の政策に一貫性を感じないのが問題だ。10年を振り返っただけで公約不履行の山、目先を変え、目くらましに合いながら日本人は耐えている。
 伺いたい!原発事故の教訓をどう捉えているのか?立ち向かう気概と覚悟が欠如しているから曖昧模糊とした説明だけ、最早彼らに期待することは無いのか。
 

2455:ああなる

。。。こうなれば ああなる。。。。。というような等式がありますかね。
 一か八か、こっちに賭けてみようか!というレベルの話はいくらでも聞きますよ。でも確信が持てない。結果、泣き寝入りって事になる。
 何を言いたいかと言いますとね。私の周りで起こること、それぞれですよ。一昔前なれば、神仏に祈って窮地を脱出と考えた人も沢山いました。
 今だっていると思いますね。何を隠そう、この私がそうですから。バカヤロー お前は当然だろうよ。坊主がそうでなくてどうすんの・・・・・・って叱責を受けますな。
 昨日の晩、セレモニーから電話、この時間に入るのは内容が決まっている。「・・・・さんが亡くなったんです。住職の都合を確認したくて電話しました。」 名前を聞いて一瞬戸惑う。「何故??」元気だった姿を見かけたばっかりだったのに。
 なんでも救急車で運ばれ、その後、亡くなったという。突然の出来事だった。
 少し私より年齢が上だが、小さい頃より良く知っている方、最近でも話をしたばっかり。近くに住んでいても本当の処は何も知らないことが多い。
 この世に喜んで黄泉の国への旅をする人はいない。もしかして、もう少し長生きできれば良い事もあるだろうと思うものだ。
 でも下された決定は簡単に変わらない。結局、受け入れざるを得ないことに、。。。。
 誰しもが自分が死んだら どうなるか?遺していく家族や今やっている仕事の事が気がかりだ。徐々に任せていっても、その心配は決してなくならない。
 良く、亡くなった人が出てくるという話、これって満更嘘ではない。こんな時、親父ならどうしただろうか?と私自身、数限りなく問うている。
 いくら問うても無言、分かっている。ここで諦めてしまってはダメだ。すると、おぼろげな記憶が徐々にハッキリと浮かんでくる。”行跡”とでも言えば良いのだろうか。
 言行一致って言葉が随分軽くなったと思う。
 いや違う。個の尊厳とか言っているが、言っている当人の”個”が自分で判らない。これは深刻な問題ですね。
 自ら確信が持てない事を相手にどう提供できるのでしょうね。
  介護施設で起こった事件、ある職員が勤め始めた1週間の間に4人のお年寄りを殺した。報道によれば、具合の悪くなった利用者を一番先に見つけることが、職場で認められる早道と考えたそうだ。そして自ら暴力で寝たきりのお年寄りを殺害。
 たった1週間の出来事、依願退職し、その後も他の事業所で介護職に就いていた。3年も前の出来事を何故いま警察が動いたのか?
 それよりも、何故、その職員がそんな風に考えたのかという事が理解できない。
 いま福祉の現場では、想像を絶するような状況があります。昨日、東京の某市の福祉事務所より電話。その内容は自閉症の方で自傷がひどく、受け入れてくれる施設が無い。尚恵でどうでしょうか?という問い合わせだった。
 あの東京でさえ、受け入れを拒否されるという国は決して世界に誇れる状況に無いという証。

2456:無駄の価値

逆説的な言辞で”無駄の価値”を考えた!
 昨日は水戸からの帰り道、株価下落の話をラジオで聞いた。なんと1日で800円下がった。結局、安倍政権になり、日銀の金融政策を変えた時点にもどったという。この間に最大で3,000円ほどの格差があった。問題はそれじゃーこれからどうなりますか?と尋ねられ、その解説者はハッキリとした考えを出せなかった。様々な可能性を述べるだけで確信が無い。
 株価は国内の投資家だけの問題ではなく海外の膨大な資金量を有するファンドが関わっているから然もありなん。
 昨日の会議でこんな話が持ち上がった。人材確保の問題を全員が深刻に議論、予定の時間を大幅に過ぎてしまう。
 今、県内で現実に起こっていることで、特養を新築したは良いけれどスタッフの確保が儘ならずオープンできない状況が出てきたという。保育所も同じ、保育士資格を取った卒業生が保育所に勤めない。待機児ゼロを目指すとか言っているが、需要があっても基準が満たせない!
 結局、日本の政策は場当たり式でその時々の声に靡くだけで根本的な改革ができない。これに尽きるとなった。
ならばEPAを活用し海外から働き手を連れてくるという考えはどうだろう。されど日本では上手くいかないとのこと。
 東南アジアから日本に来て看護師や介護福祉士の国家資格を取る人もいる。言葉のハードルが高く、英語圏とは雲泥の差だ。運良く日本の資格を取得した処で日本に残らず例えばカナダに行ってしまうとか。
 何しろカナダでは永住権を与え、家族まで呼び寄せると言う力の入れよう。これでは勝負にならぬ。これだって国の政策だ。 何故、門戸を開きながら様々な規制を課しているのか?業界からの圧力?それとも他に何があるの?
 これは我々だけの努力ではどうにもならないことです。
 結局、旧の木阿弥になるだけのこと。
 それを言うと改革には時間がかかるんだというお決まりの回答。本気で考えていない。
 それならば戦略を此方側で変えねばなるまい。発想の転換、沈思黙考、確信は無いが、その一つの取りかかりとしてどうかと、”無駄の価値”という視点を出してみた。
 自ら出来る事は何か?便利さにドップリ浸かり過ぎた事へ自らが反省し何らかの行動をすることではないか。棚からボタモチという例え、これは思いがけず幸運が巡ってくることを言う。それが、ある状態に身を長く置き過ぎた結果、「思いがけず」ではなく「当然」と考えるようになってしまったことに注目。
 この決定的証拠は、積もり積もった膨大な借金、1000兆円になるという、どの政権も決まり文句で財政再建とか言ってはいるが、痛みが伴うから及び腰、この借金で実は国民一人一人が何らかの恩恵を受けてきた。
 国内の個人預金が1,500,000,000,000,000円あるからまだ大丈夫??????。
 それを鵜呑みにするような人間は誰もいない。そうでしょう  皆さん。

2457:貴方が幸せなら・・・・

『貴方は幸せですか?』
 多くのブータンの人達がこんな風に答える。『あなたが幸せなら 私も幸せです』と。果たして我々が今、そのような考えを持ち得るか。決して儀礼的な挨拶言葉では無く。
 仕事に悩む人に・・・・『仕事は”人の為になるか”という視点で考えるといいでしょう。自分のことだけを基準に考えると、挫折や不満が訪れます」(王立ブータン大学ドルジ・テインレイ博士の談)
 この考えをブータンの多くの人が共有する。だから幸せだと言えるんだと思った。
 日本人は海外から、真面目で誠実な民族だという評価を貰っているのも確か、でも、それが徐々に崩れてきている。
 その根っ子にあるのは、自分のことだけを基準にする人が増え過ぎたという問題だ。だから見なさい。不満や挫折感が巷に蔓延していますね。
 仕事場でもそうです。あの人がもっとこうしてくれれば良いのに・・・・まったく。友達関係もそうでしょう。誰々が自分の事をこんな風に言っていた。何も知らないクセに。損得計算がどうしても働くのは、基準が違うからだ。
 日本人の多くが人を本心から信用しなくなったのかも知れません。いつも矢面に立たされる人は、決まって言っていることとやっている事が違うと思われている。大言壮語?
 逆に評判が良い人は、大体が寡黙な人できちんと役割を果たす人だ。
 ブータンという国は小国(九州程の面積。人口70万人)で、独立したのが1907年だという。やっと100年が経つ。それ以前、実は大変な時代を歩んできたのです。インドと中国の間に挟まりその影響を常に受けてきたという歴史。
 方や日本は島国、単一の民族国家、言葉もそうだ。領土問題は未解決で残ってはいるが、その事で国家そのものが無くなるという経験が無い。
 昔ならば小国たる日本が世界のトップレベルまで登り詰めるなど考えなかったはず、それがどこでこうなったか? その検証もされず、経済面だけでその地位を死守しようとしてきた。更に問題を大きくしているのは、価値観が違う人達が自分(会社)のことだけを基準に遮二無二働いてきたのです。
 そのツケが一気に出ているのが、現代の戸惑いの原因だと思っている。
 多様な価値観があることを良しとする考えがあり、明確な方策が出し難い。改革断行に必ず言われる”痛みを伴う”という言葉、それが誰で何を意味しているのかまで明言しない。一種の脅し、あるいは出来なかった時の言い訳に聞こえてしまう。
 ブータンでも人口の都市への流入や若者の就職難という問題があると聞いた。でもそれは日本の比ではない。
 言うなれば、我々は次の世代に何を語り継いでいくべきかという真剣な議論が一番必要で、その結果を我々一人一人が自らの役割として果たしていかなければなるまい。
 「貴方は幸せですか?」という質問、 本当は自分に問いかけるのが先なんですね。
  

 

2458:根拠なき成功

・・・・根拠なき成功への確信・・・・
 良く考えてみると上の表現は???何か語呂合わせのように取れませんか?
 実は数日前、あの浅野史郎教授の話を身近で伺う機会がありまして、久しぶりに元気な姿を拝見し、早口の講演を聞いたのです。それはACEの総会の席でした。その時浅野さんから「根拠なき成功への確信」という言葉が出てきました。ご存知のように彼は大変な病気に罹り、現在も治療中、今ではトレードマークとなっている帽子と大きめなマスクの出で立ち、パワーポイントを使っての実に分かり易い話でした。治療の方法が未だ良く判っていない難治性の白血病、それとの闘いを根拠なき成功への確信という言葉で表現したのでした。実に言葉巧みで笑いが絶えない。一方的な話ではなく、聴衆を巻き込み核心をつく。まさに天才だと思いましたね。”足下に泉あり”という話もありました。
 総会の会場はいつもの南青山会館という処、地下鉄の表参道で降り、徒歩で5分ほどの便利な場所。あの辺りは街並みが違うという印象を持ちますね。歩いている人達もなんだか知らないが垢ぬけして田舎者には場違いな感じ。
 東京もいろいろ、下町からセレブの集まる処とあります。
 私には上野周辺がピッタンコ、更に言えば常磐線で利根川を渡れば申し分ない。水を得た魚となり。これも実は”根拠なき確信”なのかもしれません。
 さて、今回はこの為にわざわざ来られた北海道のお二人とACEの代表者中澤さんと話すことになっていた。今年、ACE地方会を北海道でやろうということになり、そのことで私もお呼びがかかったのでした。去年の11月つくば市で実施したのがきっかけでその後何回か連絡を取り合ってきました。
 浅野・中澤コンビはご存知の方もいると思うのですが、日本に障害者のグループホーム制度を作った厚労省の責任者です。当時は全国各地で様々な動きが活発に行われていた。北海道はその先端を走っていた訳で、今回はそのグループホームが当時描いたものと現実がどうなっているかを検証してみようという事になりそうですよ。興味ありませんか?
 私は提案しましたね。是非ともどこかの温泉で泊まり込みでやりましょうよ。浴衣を着て膝を交えながらって事になりますかどうか。
 電気もなく携帯も通じないボルネオの奥地で”トイボートプロジェクト”をスタートしたACEの現地報告を聞いて、いかに自分達がぬるま湯に浸かっているかを痛感しました。
 いま、福祉の業界はおかしな方向に進んでいるような危惧を感じています。ソロバン片手に事業を広げようとする人達、既得権を死守し、言っていることとやっている事が大違い、当人達はその矛盾を市場原理だと公言しいい気になっていませんでしょうか。
 浅野氏が語った”根拠なき成功への確信”をどう読み取るか、何か笑えない話となりましたよ。≪ACE総会6・15にて≫

2459:The challenged

The challenged・・・・新しい米語で障害者を言う。実は、かなり以前から使われてきたものである。
 何故、今頃というのか正直にお話致しますと、先日の浅野さんの講演で彼が唯一板書した4文字が、”竹中ナミ”という人の名前でした。そしてこの言葉「The challenged」の話をした。私も彼女の事は多少は知っていた。娘さんが障害者で米国を中心に活動している音楽家(?)。日本でもNHK経営委員など様々な要職をこなす。
 「障害者を納税者にする日本」を提唱、その活動のもとになる考え方が「The challenged」・・・・神様から苦難を与えられ「これを跳ね返してごらん」と挑戦を受けている人達と捉える。その挑戦は一人ではできない。「戦い」を意識する。勝ち得た後の達成感や誇り&喜びに意義を見出す。
 私達が知らない世界で様々な事が起こっている。一度知ってしまったあと、どうするか?最初は真似ごとのようでも徐々に仲間を増やし形にしていけば良いと思っている。
 そこに自然と熱気が生まれ、その活動が周りを取り組んでいく。
 現実に目を向けますかね。日本中、全ての市町村においても障害者の区分認定を行っています。調査して出た結果の正当性を審査するもので、実態はどうなっているでしょうね。恐らく、106項目の調査項目や医師の意見書をもとに区分を引き上げるか現状で良いか検討しているんです。
 残念ながら、この限られた話しあいの中で”The challenged”という考えを持ちだす余地は殆ど無い。
 何のために障害区分を決めるのか!多分、事務局ですらその意味を理解している人はいない。制度がこうなっているからと答えるのが関の山。
 当事者が全く知らない場で自分の事が決められるのです。
*「for the challenged」から「by the challenged」という発想の転換は皆無。*
 私も最初からその認定委員になっていて、大いなる矛盾を痛感し今に至る。
 4月から、高次機能障害の方も時々出てくるようになった。法律が変わったからである。
  私が憂いているのは、そんな事ではない。福祉の現場で「挑戦」という文字が風前の灯と化していないか。
 その原因は様々、教育の現場でも全く同じ、挑戦=リスクと考えればどうでしょうか。個人の権利を尊ぶことに全く不満は無いのです。でもね、やたらと訴訟が多くなったと思いませんか。致命傷となった特異なケースもありましょうが、それは希な事例でしょう。警察の民事不介入というのだってケースバイケースだと思うのだが伝家の宝刀みたいになって手を出しにくくなったみたいです。
   実はここにこの国の抱える大きな問題が見てとれます。ハッキリ言えば義務と権利が曖昧になった。
 忘れない中に、ブータンでは国の「幸福度」を増やす施策と国民が望んでいることが粗一致している。
 そこなんだよ。どうしてそれが出来ないんだよ。ああああああ・・・・・。
  結論!大いなるものへの信仰心が無い国は、いずれこうなるという”鏡”。誰かの責任じゃない。あなたご自身の問題だ。
 

2460:性分あれこれ

性分に損得があるのだろうか? 生まれつき持って生れた性質は如何ともし難い。自分では意識しなくても時折顔を出し、後で後悔するなんて事は良くある話です。
 それじゃー私の性分はと思い巡らしして、これが厄介で確信は持てない、良く言われているからこうかも知れない程度だ。
 それに損得を付けてまでワザワザ品定めする事もなかろうに、多分に自分への言い訳がましく思えてしまう。
 これで誰にでも好かれる性分はあるんでしょうかね。もし有ったとしても全て物事が上手く行くという保証はない。
 精神医学上、さまざまな心の分析がなされ、分類や統計ができあがっているようだが、古くは多血質とか胆汁質などという型に分け研究がされていた。(ヒポクラテス)
 多血質って、どんな人? 楽観的で活動的なのは良いが気が移りやすいタイプ。
 胆汁質って、どんな人? なんでも情動的反応が速く強いタイプなそうだ。これって言って置きますけど絶対的ではない。
 大分昔からこのような研究がされていたと言う事は、それなりの意味が有ったのでしょう。
 昨日、ある旅行の反省会があった。1週間一緒に旅をした連中が集まり、その時の写真の交換を行ったのです。
 その時、感想を皆さんが述べ合いました。お世辞半分と考えても皆さん実に楽しかったと一様に語っている。私もそう思っていた。でも どうでしょう。皆さんの前でツマラナイ旅でしたとは言える方ってそうはいません。
 思いかえせば、実に個性的な人達が集まった旅で、朝晩の食事の時間にはあちこちで笑い声が聞こえた。
  そうそう、ブータンに行った時の反省会です。
 妙なのは皆さんの話で何しに行ったのかなという点が共通していたこと。あえて言えば、あちらの文化に触れた旅。
  ジワリジワリ思い出してくる、降り続く雨の中を何度も滑りながら登ったタクシン寺に話が集中した。
 楽と苦は人生に付き物、楽しかった事はあまり記憶に残らず、苦しんだ事のほうが後後懐かしく思い出す。。
  旅から現実にもどり、続けざまに様々な出来事が身近に起こっている。知らぬ振りもできないし、持って生れた胆汁質の性分で上手く行くのもあれば、より問題が大きくなるものもある。
 悩み多き者達へ。悩む事は 生きていればこそ。そうは言ってもだ。本心は悩む事はなるべく避けたいものである。
 

2461:リセット

昨日は私の良く知っていた方の葬儀を行った。小さい時から知っていて私の2級先輩にあたる。中学校で野球をやっていた。
 15年前に大きな病気を患い、その後不自由な体を懸命に使いながら仕事をされていた。
 参列された多くの友人は、その方の生き様を良く知っている。地域でも存在感が大きかった方である。
私の年齢になれば、当然、定年の話題がいつもあがる。一般的には60歳定年制が多いと思うが、最近は再雇用で65歳まで延長して働く人も増えた。年金制度の絡みや充分働ける体力を持っていれば尚更だ。
 第2の人生へのリセットなんて言われた事があった。大体そこで言われたのは無我夢中で働き続けたから、少し無理しない働き方で年金がもらえればその時に完全にリタイアーするというものだった。
 その思い通りになるとは限らず、途中で病に倒れたり、何らかの想定外の出来事が起こり悔しがる人もいる。
 昨日は、懐かしい方が立ち寄った。我々との繋がりは20年に及ぶとか、法人の会計システムを最初からお願いした会社の方。千葉県の某市から車で片道2時間半をかけ良く通ってきて、会計を見てくれた。
 私より1歳若いというのを昨日分かった。キッパリと仕事を辞めることにしたという挨拶にみえた。二人で話をしていたが、突然嗚咽されたのには驚いた。何か感じるものがあったのかも知れぬ。
 事務所のスタッフ全員が彼の人間性を良く知っていて信頼し、彼も楽しそうに仕事をしていた。
 四国の遍路でもやってみなよと勧めた。当然、歩きでね。
 つくづくと彼が語ったのは、最近の福祉業界の様変わりだった。企業経営的考えをする法人が増えたこと、ハッキリ言わなかったが、それで本当に良いのかな!という意味に取れた。
 今後は必ずや単価引き下げの時代になるだろうし、その時、どう動くか?それは目前に迫っていると。
 国が行おうとしている経済対策、様々な情報が流れ、示される数字が日毎に大きく変動する。
 今のままでいくと更に格差が拡大するように思えて仕様が無い。多くの国民がそれを容認するか否か?
 政党色が曖昧になって各政党が掲げるマニフェストも途中修正が常識となった。だから何を根拠に国民は選べば良いのかが実に困難な時代となった。
 不確実性という言葉で全てが括られ、責任の所在がハッキリしなくなった。
 各自で出来る事は、無駄を省き、質素な生活と小さな喜びで満足しましょうという事になる。

2462:基準値

モラル・スタンダードという言葉がありますが、道徳的基準という意味なそうです。しかし、良く使われる割にはその基準がどの程度のものかハッキリしない。豊かさや幸福度を測る基準だって同じ、それらは人間が定めたものだから絶対的なものではない。
 前項で福祉経営の企業化という流れに関して、事業規模(予算総額や事業種類それと従事者数)で比較するのが手っとり早い。だが、福祉の場合は一概にそうとも言えない。個々の満足度の問題だからである。
 帝国データーバンクで検索すると企業倒産が今でも相当数あることが分かる。
 企業経営という視点で福祉を考えた時に、一体この先どうなるか?統合は勿論、何らかの理由で事業廃止という状況は考えられよう。政府は規制緩和を一層進めて行くそうだ。となれば、福祉そのものがなんでも有りの状況になるのは時間の問題だろう。従業員数万人という企業が倒産する時代と言われる。それと同じ基準で福祉が考えられるとしたら堪ったもんじゃない。保育を考えてもお分かりだと思うが待機者ゼロという掛け声の裏で、どれ程多くの保育所が定員に満たないで苦労しているか。
 規制緩和の動きと景気の動向に対し貴方の法人はどう対処しますか?と問われ、いま明確な回答ができる社福法人がどれだけあるでしょう。
 事業の専門性やモラル・スタンダードという視点からみても、なんとも危ういと思わざるを得ない。曖昧な対応や責任遁れ、できない言い訳が多過ぎませんかね。もっと深刻なのは社福のトップの意識に問題を感じる。私自身の不具を認めてのこと。
 ”お客さん”は簡単に離れます。ここよりあっちが良さそうだと思えば直ぐですよ。
 例えとして現場でパソコンに向かっている時間の長さ、当然と思うかオカシイと考えるか?
 何のための記録なのかを分かっていてのことならまだしも、先輩がやっているからとかいう理由で行われている場合が多いんじゃないだろうかね。
 記録を残すことは必要、でもそれをどう活用するか?その確認はされていない。
 もっと言えば、同じ過ちを繰り返したり、問題の共有ができていない。
  福祉現場を預かる立場で何が大切かということを考えた。利用される方の身になってという事、言うは易しだ。
 良かれと思ってやっていたことが実は大きなお世話だったり、ご本人の意思に反していたなんてことは結構あります。これがお金が絡むと余計複雑になる。特に今の仕組みは事業所の丸抱えではなく、基準外のサービスには本人の負担金が発生する。
 その辺のトラブルは今後益々増えるだろう。
 基準外????それって何を根拠にした基準なの?????道徳????
なにか未踏峰をのぼるような思いだ。
 

2463:現実直視

好き勝手な言動には、当然その代償がつく。他人様の評価など屁の河童と強がっても、そんなタイプに限って自棄に気にするものだ。
 評判の良し悪し程度ならば、自業自得と覚悟の上だろうが、最近の状況はそんな単純な事ではなさそうだ。
 僧侶という職業に対し、どうも負のイメージが多過ぎると私は感じている。
具体的な事で説明しようかな。”駆け込み寺”という問題について、果たして実態はどうなっているか?
 今の日本の寺院で、その役割を果たしている所がどれ程ありますかね・・・・・・・。単一の寺でやれる事には限界がある。ならば宗派でどうかと言えば、正直疑問がある。
 本来の寺の役割って何だ?その話題さえ出難い状況があるのではないか。
 それから、福祉という問題、私は知的障害のある人との付き合いが40年になった。様々な現実と対峙している。いつも痛感するのは、一人では何も出来ないということ。それと親代わりにはなれないということ。この二つのことを頭に叩きこむ。
 だから、利用される方やそのご家族から不満やお叱りをもらった時いつも地団駄を踏んできた。彼らに責任はない。好きで障害を持つ人が世の中にいるはずがないじゃないか。
 施設が全てを賄う事は不可能、それを言ったら言い訳など聞きたく無いと言われるのが落ちだ。
その辺の事情は、全く変わっていないしより強まった。国が豊かになればなるほど問題が大きくなるようだ。
 その端的な例で景気が良くなれば福祉に従事する人が減るという懸念がある。こんな囁きが聞こえてくる今の日本の制度は未成熟だと言わざるを得ない。
 生活保護受給者が全国で210万人を超えたというニュースがあった。全国の社会福祉法人が生活困窮者に対し社会貢献事業として何らかの手を差し伸べよという提案があったばかり。正直、私は違和感をもった。
 生保の不正受給の実態が暴露され、大きな問題となっていることは承知している。そもそも社会福祉法人そのものは社会貢献が主たる目的であるはずで、敢えてアピールするのはどうかと思う。
 それよりも、受給者が減るどころか増え続けている現実をどうするのかが見えてこない。
国は受給条件を厳しくする考えだ。
 こうなると本来支援が必要な人にまで影響が出るのではないかと心配になる。
 人生、楽しい事に越したことは無い。それが一時的なものであれ、徹底的に検証してみる必要をいま強く感じている。
 

2464:病みあがり

2〜3日、どうも体の具合が良くないなと感じていたが、案の定、熱が出てきて節々が痛く。1日中横になって過ごした。長引くと不味いと考え、早目に通院し薬を頂いてきた。いつも私が通う先輩の医院、すると今日はいなくて、なんと娘さんが診てくれた。いつまでも若いと思っているかもしれないが、やはり先生もな・・・・!
 余計な話はしないで帰って来た。途中、ドラッグストアーに立ち寄り、体温計を購入した。
 ここんとこ暫く熱など出した事は無かった。風邪の原因に思い当る節がある。悔みが続き市営の斎場で続けて2件葬儀を行った。これが前から気になっていたのだが、住職の控室のエアコンが丁度私の頭に諸にかかる。全館集中のエアコンで部屋にスイッチが無い、なんと送風口にはガムテープが貼ってあって風をふさいでいるがそれが剥がれてしまっていた。
 暑かったり寒かったり雨に濡れたりでとうとう風邪を引いた。寝ていたらまたもや2件悔みができたと電話、それを聞いたら余計熱っぽくなった感じ。
 いつまでも若いと思うなよ!と言われた気がする。
 風邪位だとバカにしなさんな。
 自覚症状で大体分かる。節々の痛みが消え楽になった。平熱に戻った。
  でも声が??????。お経がヨーデル見たいになってしまうかも。
 少し位の熱ならなんて事は無い。でも声が出無いと坊さんとしてはどうなんだろう。
ふと思いだした。
 私の知っている坊さんで喉の手術をして声が出無くなった方がいらっした。でも、檀務は亡くなるまで続けられていたのです。
 喉の所に器具を当ててスピーカーから声を出し経を読んだ。
 ・・・・・・・・・・。   (*そのお坊さんは戦争で従軍し、頭に銃創の跡があった。)

2465:高福祉?

上げ膳据え膳、全てが用意され何も自分でしなくても良い状況を望む方がいるでしょうか?
 そんな事は有り得ないと無視されるのが落ちでしょう。万が一有ったとしたらと再び問われたらどうします?・・・・イタチゴッコ。
 こんな非現実的な話が最近多くなり過ぎたと思います。情報操作というのは要注意、世論を一定の方向に導くことなんて簡単なそうじゃありませんか。日本のメデア間では、暗黙(?)の約束事が取り交わされているのでしょうかね。ニュース番組など、どこのチャンネルでも同じ時間帯に同じ内容を流しています。それと昼時のワイド番組も似たりよったりでしょう。
だから自分はNHKしか見ないなんて人が出るんですね。それと最近テレビでプロ野球中継が減ったと思いませんか?
 視聴率が低いんでしょうかね。それともスポンサーがつかない。     どうでも構わないけど実態は解りません。
 日本人がセッカチになった事は間違いないでしょう。2時間もかけて野球放送を観る価値が薄れた。それよりスポーツニュースで結果を見れば良いって事です。
 私の場合は、野球に興味が無くなったというのが正直なところ、精々見るとすれば高校野球ぐらいとなった。今年も夏の甲子園の地方予選が始ります、毎年1回は必ず球場に行っています。遮二無二ボールを追いかける姿に心動かされますね。
 何よりもスタンドと選手が一体になっているのが良い。
 熱は無いのですが考えがまとまらない。これって薬のせいですかね。体調は大分良くなりました。今から水戸に行きます。
 10時の会議に出て、午後1時の葬儀に間に合うか? 間に合わせないとマズイ。友部のサービスエリアで衣に着替え、直行します。
 つくづく考えますね。万が一何かがあったらどうするのよ!   葬儀に坊さんが来ないなんて事になったら・・・・・・・。
 懲りもせず綱渡り見たいなことをやっています。
 そうでした。高福祉って何でしょう?でしたね。
  フーム。せめて言える事は”安心”なんでしょうが、日々目まぐるしく変わりますからね。
 諸行無常 是生滅法 生滅滅為 寂滅為楽 ・・・・・・『涅槃経』
 

2466:潮時

状況判断をどうのこうの言うつもりはないのですが、これって生きている限り避けれれない事ですよね。ただ、その方の立場や権限が周りにどう影響を及ぼすかは、それぞれ違います。
 人間って昔から、同じような事をやってきた訳でこれからも変わらないはずですよ。
 昨日、つくづく思ったことがあります。複数人が集まれば、意見も様々出て、中々終わらない。全く意見を出さない方もいますが、この方達は一体どう感じているのか疑ってしまう。
 確かに全員が全員好き勝手な事を言い始めれば収拾は尽きませんね。
 見事にズバリとご自分の考えを述べる方もいます。でも、その人が何ができるかと言うと判らない。
・・・・・・。
 今日は午前中より東京で会議あり。10時からの会議に出るには朝が忙しい。できれば早く帰ってきたいところだがどうなることか!
 7月にはお寺の施餓鬼があるから、その準備が大変だ。例年のことだが、切羽詰まらないと動き始めない悪い癖。
毎年、お盆を境に体重が2〜3キロ落ちる。
 昨日、母親の葬儀の連絡に来られた方と話をした。父親を早く亡くし、母親が1人っ子の自分を働きながら育ててくれた。
 88歳の母に曾孫を見せられ本当に良かったと涙を浮かべながら話された。介護施設に入ることもなく自宅で一緒に生活でき、最後1週間程病院に世話になっただけとのこと。
 坊さんをやっていて、気持ちが和む一瞬だ。
 誰にでも”潮時”はあるはずだと思っている。それをどう迎えるかはそれぞれ。ただ言える事は、その人が精一杯生きてきたかどうか、最後はそれが決め手になると私は思う。
 

2467:団体活動

 社会福祉協議会に関しては、社会福祉法に基づきすべての都道府県・市町村に設置され、地域住民や社会福祉関係者の参加により、地域の福祉推進の中核としての役割を担い、さまざまな活動を行っている非営利の民間組織ということです。
 これらの社協の中央組織として全国社会福祉協議会がある。
 沿革をみると「中央慈善協会」1908年(明治41年)の設立が最初となっている。既に100年以上が経過し、事業の内容も多岐にわたり、日本の社会福祉全体の中枢となっている。
 関係する機関も数え切れないほどあって国への予算要望時など、各種団体入り乱れての予算獲得の主戦場の体を示す。
 国の膨大な社会保障費の相当の割合に絡んでいることは間違いない。
 その歴史に暗雲が立ち込めたか否か?現政権の”聖域なき構造改革”に様々な憶測が乱れ飛ぶ。
 障害福祉の分野でも、その動きに戦々恐々している状況がある。将来、どうなるのか?という見通しが立たない中で現実の問題に対応しなければならない状況だ。袋小路に迷い込んだようにさえ感じる。
 それは、ハッキリとした方向を国が示せていないことに起因すると私は思っている。
 社協の目的に明示される”非営利の民間組織”という言葉が曖昧にさえ感じる。実際に行われていることが果たしてそうなっているのかどうかという疑問。福祉現場の最前線では、様々な事業主体が入り乱れ現に競い合っているではないか!
 その現実を知りながら理想論をいつまで掲げているのかという批判は強まるばかりである。
 これは正直どうしようもないことだ。既存の社会福祉法人が自らの立つ位置に確信がもてない今の状況で内部だけの叡智を結集し新たな役割とサービス体系が果たして作れるのだろうか???
 後手後手の対応策しか浮かばないのではないでしょうかね。何しろ同じ民間でも株式会社とはスピード感が全く違う。
 妙な逆転現象が起こっている。
 それはサービスの提供者側が右往左往して既得権と保身に汲々としている。そして相も変わらず”お友達集団”化。
 あちらこちらからヘラヘラする笑い声が絶えない会議をいつまで続ければ良いのか!
 非営利の民間組織という幻影の名酒に酔い、気がつけば着ぐるみはがされ野原に放り出される・・・・・云々。
  ハッ・・・・・・・・・・、うとうとしてしまったところ丁度土浦駅に電車が着いた。危なく乗り過ごす所だった。
 

2468:狭間

法や制度の狭間を潜り抜け、上手い事を考える輩はいらっしゃるものです。所詮、人間が考えた決めごとですから絶対ということは有り得ません。世の中にあるイザコザや争いごとの発端は些細な感情の縺れによることが多いものです。
 体面やプライドはさして重要ではないが最近は趣が少々変わったかもしれない。なんとまー大事件にまで発展することもあって、火種は身近にいくらでもある。
 いつも話に出すので恐縮ですが、権利と義務の関係程厄介な事は無い。これも一般常識というものが曖昧になったからだ。
 こんな話を伺った。賠償保険というものがあるが、そこまでこじれ無くても済むことを断固として自分側の過失を認めない。すると保険による賠償金の支払いができずに調停にまで行ってしまうケースが増えているとか。こうなると、なんの為に保険をかけるのかが判らない。
 裁判所にて判決が出てしまえば、判例になりその後はこれが基準となる。人間の価値は金銭で計れない。逸失利益とかなんとか保険金算定の方法が有るそうだが、昔から障害者の場合は微妙な問題となってきた。
 ここにきて俄かに医療や福祉・教育の現場で様々な事例の報告がされている。確実に賠償額は増加の一途を辿っている。
 リスクへの予防線を張り過ぎると逆に何のために行っているのかが判らなくなる。先の事は誰も判らない。
 私自身は只管、大いなるモノに祈ることにしている。何卒、無事に1日が終わりますように・・・・・・・。
 多分、仏さまの言い分も有るでしょう。お前は頼むことばっかりでやることもしない。そんな事言わないで大目に見て下さいよ。
  保険業界である種の言い伝えがあると聞いた。
 施設でチリ一つ無く見事に綺麗になっている処で大きな事故が起こる確率が高いという不思議。
  何?????。うーむ そうか。なるほど。・・・・・・・・。
 結局、どこに目を向けているかってことかな。

2469:文月

今日から7月です。梅雨明け宣言も南から段々なされる事でしょうが、雲の合間より時々日が射すと何もしなくても汗が出てくるようになりましたね。皆さん!健康に充分注意して下さい。
 私は、あまりにも外回りに時間を割き過ぎたと反省しています。毎日のように出歩いて殆ど尚恵の中にいたことが無かった。
 その間、様々な状況の変化がありましたね。
 メールや携帯という便利なものがありますから、その場にいなくてもどうにかなる?でもね、これでは記憶に残らないことが増える一方、それでボケとか言われると血圧は上がりますわな。
 毎年ですが、文月になれば、頭の切り替えをします。坊さんモードへスイッチON。外回りを減らし、盆の準備や施餓鬼に向け、やるべき事が決まっている。塔婆の注文を受け、書きあげる。掛け軸・寺のお掃除・・・・それと他寺への手伝いが続く。
 もう何十年も同じことをやっていますから、自分の健康バロメーターを知るのに都合が良い。
 少なく見ても若い時分と比べ活動量は1/3位?に減っただろう。遮二無二というのが減った。
 普段は寺の仕事を極力減らし、施設の仕事に専念、こうやって来た事が良いのか悪いのか。そうせざるを得無かった。
 年齢の所為かもしれません。友人・知人の多くが亡くなり、寂しい想いをしている。法事の席などで良く話に出す故人とご自分との接点、そこから何を感じ、どうそれを活かすか・・・云々。
 勿論、断定的な事は言えません。自分ならこうしたいと話すように心掛ける。
 さて、今から紹介する事はご本人達の許しはもらっていない。年に1回、兄弟が寺に集まって父親に線香をあげにくる。昨日が父親の命日、前もって相談があると電話を受けていたので待っていた。3人がそれぞれ結婚をして、子供も増えた。

 彼等は事情があって子供時代、某養護施設で育った。3人が一緒の生活を施設で送り、卒園してから相手を見つけ結婚、前の名を継ぐ者がいなくなった。それで兄弟と話し合い、父親のお骨をどうするかという話し合いを寺ですることになったようだ。昨日はそこの園長先生も来てくれた。
 私は傍で聞いていたが、一番上のお姉さんが話の中心、他は口数も少なく、どうして良いのか判らない様子。
 お姉さんの膝の上には10カ月になるという長男が座っている。
「自分に子供ができて、お父さんの事を考えるようになったんだ。旦那は自分の実家の墓に埋葬しても良いと言ってくれるけど、北海道だもんな。お前たちが墓参りに来れなくなってしまう・・・・・」「・・・・・・・」
  *無言の時間に、一体何が起こっているのか。園長先生が語る。「お前たちは、乱暴者でどうしようもなかったんだから、お父さんが亡くなった時、お父さんの持ちモノの中に園からのハガキがあってそれで園に警察から連絡があったから知らせることができたんだよ」
 
 世の中には様々事情で自分達の思うような生活ができない人がいるものです。そして、その基準に定めが無く、知らずに大人に成れる人が大半だ。
 父親の命日を覚えていて必ず兄弟で集まる人達が今時どの位いるでしょう。
 私の頭のスイッチは、彼らによって強く押されたように思ってしまった。

 

2470:活力源

今の世で何が必要かと考えてみました。すると直ぐに頭に浮かんだ言葉が≪活力・生命力≫というものでした。
 ようするに自分自身に活力が無いからか、それとも鬱積した何かが爆発寸前なのか?現代人のある特徴として、情報量が周りに多過ぎるために誰しもが自分自身を掴み切れないというものがあるようだ。他と比べたじろぎ、苛立つ。
 世の中にモノが溢れ、無い物がない時代に生きていてそうなのだ。自ら汗して得たという経験が乏しいから、手放すことに抵抗感がない。
 これは何も物に対してだけではない。寧ろ深刻なのは、生き方にまで侵されてしまっていることだ。
 その一つ、職業に対する考え方に顕著に現れていると私は思っている。
 特に人と接する仕事に様々な現象が出ていると聞く。心に病を持つものの増加、これは一体どうしたことなのか?
 多分、直ぐに結果が出る職業でないからかもしれない。時間の長さ、評価の難しさなどモノ作りとは違った達成観が必要な職場、だから見なさい。中途で挫折し、仕事を辞める人は後を絶たない。
 このまま行くとどうなるか?
 国に期待しても、実効性のある施策は期待できまい、ならば、自分達でやるしか無いだろう。そう思うと、膨大な課題が湧きあがる。
ヒャー 助けてくれ・・・。
 考えあぐねた時、自分を落ち着かせるのは、どこか知らない国に行き、浜辺に寝そべってボンヤリしている自分を想像する事だ。
 現実にそんな夢物語がある訳が無いと思っている。
 だが待てよ。”天国””極楽浄土”と言われる楽園が当にそれではないか。宗教を信じる信じないは個人の問題、もし、国が決めた宗教ならば、私の知るのはブータンしか無い。
 ブータンですら(?)、輪廻転生を信じ、今度生まれ変わる時には今より良く生まれたいと願う。どうしたら、それができるかという道筋が語られる。
 少なくとも私の信じる仏教では、現世を四苦八苦と捉え、そこからどう解脱するかを説くものだ。
 だから、生きて行くことが決して安楽だとは言っていない。むしろ苦が有ればこそ楽が有る。
  いま懸念があるとすれば、日本が現世での豊かさを最優先に考える方向に進んでいると感じる事だ。これは必ずや格差が生まれ、欲望と羨望の世界と化する。
 簡単な二字を敢えてここに示そう。≪知足≫。
  これ無くして、真の活力は生まれない。*知足は、いまの自分をどう観るかによって決まるという、それを不満と感じるか満足と感じるか。他の所為にしている間は決して、その境地に至れない*