源究139

  

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
2291 乱戦 11/19 2296 霜月 11/25 2301 奢るな! 11/30 2306 擦ったもんだ 12/5
2292 変革の兆し 11/20 2297 こころ中 11/26 2302 党首討論・・ 12/1 2307 新旧交代 12/6
2293 評価 11/22 2298 バラ一花 11/27 2303 吾輩はネコ 12/2 2308 三方良し 12/7
2294 止まらず 11/23 2299 正夢 11/28 2304 負けるな! 12/3 2309 成道会 12/9
2295 1カ月 11/24 2300 仏教の考え 11/29 2305 先のこと 12/4 2310 優先順位 12/10

2291:乱戦

衆議院解散が決まり、俄かに慌しくなっている。私の住む地域は茨城6区、過去にこれだけ多くの候補者がたったという記憶が無い。新旧入り混じった顔ぶれは、果たして明確な公約の差が有るのでしょうか?政策に大差無く、何をしたいのかと言うことも読めない。政党の数だけは14と増えてはいるが、果たして選挙後、その中で幾つ残るかは解らない。
 いつものようにメデアだけがイロメキ立って、政治評論家は大忙し。騙されてはいけない。彼等は自分の言動に何ら責任は取らない。興味を煽ることにかけては頗る優秀な力を発揮はするかもしれぬが、ただそれだけのこと。
 実は今回の選挙では有権者が問われていると私は思う。半分に満たない投票率では、先進国(?)なる看板は外すべきだ。自分の国が一大事なのに無関心でいられる国民があるでしょうか。
 政党ではなく人物に託せと言うが、これが実に難しい。日頃の活動が見えない人ばかり、その判断をどうやってするか?

 少なくとも今回は痺れを切らして立候補を決意した方もいるだろう。”乱戦”は言わば無風に慣れ親しんだ有権者にとっては大変だ。結果予想は全くできない中で自分達の権利をどう活かすかが試される。
 黒船の時代では有るまいし、羅針盤も無く大海に船を漕ぎだす無謀は許せまい。ただ、誰が舵取りをしたとしても強風と高波は必至、大分昔の話になるが、遣唐使で大陸に渡った人達は当に生命かけ、運良く港に辿り付けば、その後がまた大変だ。
 今の日本の政治は、ここが大きく違うようだ。無事当選できたとしてそれで満足してしまう輩が多過ぎた。上陸してから自分が何をするかが重要なのに、精根使い果たし(?)、休息の為に多くの時間を浪費する。
 時は流れている。いずれまた選挙になって大慌て、これではな・・・・・!
 国民一人一人がこの期に及びどうすれば良いのでしょうね。無関心であってはならない事は確かでしょう。
 日本人に対する評価は様々、私が日頃から感じている事は、権利と義務の受け止め方なのですよ。権利は主張すれど義務を果たさない。そのような国が栄えた例は無い。
 福祉の事を突きつめて行くと必ず矛盾に突き当たる。つまり、理想の福祉像は描けないからなのです。個の尊厳とか言いますが、何をもってその基準とするかが決められない。
 生活保護の問題が言われています。支給額が多く(?)なり、就労意欲が出ないとみる。働くより保護を受けた方が収入が多くなるなら人間そっちを選びますな。保護費は全てが税金、この総額が確実に増加している。一方、勝ち組と称する者達がより精鋭化し、更に自らの富を増やそうと躍起だ。
 これはどこの国にも有り得る状況なのかも知れない。
 人間一人一人の価値観は違って当然?とのご意見にモノ申す。 それはある意味では平和ボケという生活習慣病なのかもしれぬ。
 乱戦で一つお願いがあるとすれば、候補者全員が一堂に会し、お互いの考えを公に示す場を設けて欲しい。それ無くして我々がどう判断するかは不可能だ。
 

2292:変革の兆し

民主党から離党者が続出、選挙を間近に控え、党の公認を受けるか否か今回程頭を悩ますことは無かったのではないでしょうか?日本には二大政党が馴染まないという人もいる。それにしてもだ、今の状況は異常である。空で政党名を全て言える人がいるでしょうか?
 次期選挙には立候補しないと明言したベテラン議員、いずれの皆さんも賞味期限切れです。これ以上国会に席をおいてもどうなのかご自分で判断されたならばご立派、でも、中にはシツコイ位にしがみ付く人もおいでになる。
 去り際を綺麗にという格言がありませんでしたかね。
 結局、このような事態を招くに至った最大の原因は我々国民に有ると言えましょう。日本の国全体を考えることより自分の利を優先した結果がこうだ。国や地方が借金漬けなことを知っていながら要求をし続ける。曲金無しに家を建てるようなことをしてきたのだ。
 さて、今の状況を憂いてばかりもいられまい、何かの変革の兆しが見えてこないのだろうか!
 今日明日と札幌に行ってきます。その目的は何かの切っ掛けを見つけるためです。総勢17名、障害者施設団体の役員達である。茨城県で2年後に開催する研修会を企画するのに、新しい実践を現地に行って視察してくることになった。
 2日前位から急に雪が降り始め、本格的な冬の到来かと札幌から何度も電話を頂いた。関東の人間には北海道の冬の厳しさが判るまいという心配り、確かに、茨城に住んでいて雪による被害など聞いたことが無い。
 正直、靴底の事までは気が回らなかった。転倒による事故が多いということで靴に装着する滑り止めの器具を用意してくれると言う。
 体験の無い事は、頭で理解していても体に付いていない。
 不況と言いながら東京はいつもと変わらない。その東京への通勤圏内にある土浦は朝晩、混み合う電車に乗って多くの人達が行き交う。デフレ不況と円高と言いながら一方では海外旅行が大流行、政治家は日銀が悪いと言ってはいるが、そうじゃないだろう。これは国民の誰しもが解っていることなんです。
 さて、本題に戻ります。切っ掛けが欲しいという理由ですが、それは社会福祉法人の将来のイメージが描け無いと言う事、方向が示されるまで指を銜えて待っていても仕様が無いということなのです。
 ハッキリ言って、制度に守られてきた業界だけに国が守りきれなくなった時、さあ・・どうしよう?という事なのです。
 世間には産めよ増やせよと事業拡大に何の不安も感ぜず直走る人もこの業界には多い。だが、その制度の箍が外された時どうでしょうか?
 真に必要なものであれば納税者も理解してくれますよ。しかし、今の日本の状況は現状を変えず更に上乗せを期待するような事をやっていないでしょうか。
 社会保障にかける予算は右肩上がり、その経費の捻出ができない、そして、その解決策が消費税のアップ。
 描かれたこの図式への賛否両論を聞いていると現場の意見が反映されていないと思う。もしもだ、利用したくてもできない人が多くいるのであれば、必要以上の豪華な設備など止めるべきなのです。その分受け入れ枠を増やした方が良いと私は考える。
 長期ローンで買った家が何らかの原因で壊れてしまい、住めなくなったのにローンだけが残った。今の日本の台所事情がそれと全く同じ様に思えて仕様が無い。
 

2293:評価

人間の評価ほど曖昧なものは無いと思っています。それは、様々な前評判があり本当の相手の姿が見え難いということからだと思う。
 実は、これこそが先哲達が自らに問い続けてきたことでは無かったのか?
 20日〜21日と強行軍で札幌に総勢17名で押し掛け、今までに経験しなかった実践現場に対峙した。茫然自失、頭が真っ白、・・・これだって実際は日常の事業展開を大急ぎで垣間見たに過ぎない。正直、参加者達の多くが今の放心状態をリセットし、何らかのコメントを述べるには時間が必要だ。
 札幌この実会の加藤寮長を始め、我々の訪問に手助け頂いたスタッフの皆さんに心から感謝します。
 言葉や文章で語ることは簡単です。実践の伴わない話は所詮、戯言でしかない。加藤寮長の言葉には正直、深みを感じた。その一例を。
「○○ゴッコ」に過ぎないという言葉、確かに図星を指している。そして言い訳や自惚れを許さない殺気を感じた。
 私は今回の無謀(?)な日程で正直不安があった。今思うとそれに応じてくれたメンバー達に心から感謝し、各自が感じたどろう想いをそれぞれのこれからの実践に活かして貰いたい。
 我々が札幌の実践を真似ることはできない。また、○○ゴッコと叱咤されるに違いない。その是非はここで論じることではない。正直且つ真摯に自らを省み、自分達が出来る事から始めればそれで良いのでないか!
 多くの見学者が後を絶たないという。その理由を今回誰も感じたはず、原点に帰れ!これは私が人を介して初めて加藤寮長にお会いした時に共感した言葉だった。人との繋がりは決して時間の長短では無いことを実感している。
 有りの儘な生活とか言うが、果たして有りの儘の実践を堂々としかも謙虚に見せることができるか?
 上手くいっている話には嘘がある。これもまた心に刻まれた寮長の言葉。
 我々の仕事は本人と正面から向き合う事から学ぶ。これが原則だ。
 私達の年代は、物が無い時代を経験している。自然と何が大切なのかは教わった。しかし、福祉の先人達から見れば、生温いと言われてしまう。それは戦後の日本が上向きになった時代しか知らないからだ。
 体験がなく、言葉での理解しかない。ここで今更言うまでもないことだが、日本の状況は決して甘くは無い。どうにかなるだろうという他人任せの人が増え過ぎた事、それに権利と義務が大きくズレた時代。
 多くの大人達が憂いてはいるが、これから生きていく子供達に何を伝え残したいのか!
 福祉の現場にいる我々の使命も実はそこにあると私は思っている。社会福祉事業家が増え過ぎたというもう一つの加藤氏の言葉の真意は、
 本来、前面に出る人は御本人達であるべきはずなのに、経営者や運営者が目立ちすぎることを言っているに違いない。
 別に、今、確認する話ではないが、私自身に与えられた宿題と受け止め、今後ともご指導を宜しくお願いする次第であります。
:札幌市焼却炉で委託作業風景

:企業と連携した法人を訪問。

 

2294:止まらず

今日は、勤労感謝の日で祝日です。でも多くの人達は休まず働いている。何が勤労感謝なんだと言いたい人もいるでしょう。今ほど国全体で労働に対し感謝をするという事が薄れた時代は無いかも知れません。政治の世界では、今回の選挙で大分ベテラン議員が退くようだ。これは一つの明るい材料です。院政云々など最早、この国では死語になっている。悪あがきは止して下さいよ。
 こうしていても時間が流れている。1日1日がとても大切に感じるようになった。寝る暇も無くというのは真っ赤な嘘で、人間どこかで必ず休んでいる。パソコンの脇に置かれた本、『置かれた場所で咲きなさい』渡辺和子著。この本は多くの人に元気を与えてくれるだろう。渡辺さんが言うからであって、それを真似したモノならば、何の値打も無い。言葉と実践。
 これらは限りなく枝分かれし深みが有ればあるほど相手の心を動かす。実践=生き方。
 いま日本人への警鐘信号が有るとすれば、”生き方”かもしれませんね。特に永田町界隈では、その劣化が激しいようだ。
 言葉が生き方になっていない人が多過ぎます。何故なのか、その原因を捜そうなど全く関心がない。怒りで憤死するのが関の山。
 もっと足元に目をやらなければ! ”挨拶”ひとつ取って見ても個人差が激しい。”こんにちは””おはようございます””ありがとう”・・・・・この言葉が自然に出る人は心配ない。それが出来ない人がいる。引っ込み思案?自己中心?いずれにしたって人付き合いの最低条件が満たせない。
 今の教育現場で実に多くの教員が首を傾げている実態に、挨拶ができない生徒達がいるという。これは深刻な問題である。
 労働⇒????。労働は金銭を得る為のもの?仕事と趣味をハッキリと分ける人、以前このようなタイプが理想だと考える人が多くいた。
 いまもそうだろうか? 多分、このタイプは事業所側から見ればベルトコンベアーにしか思わない。使い捨ての部品と同じ。
 金属疲労でも起これば取り変えるだけ。労使間紛争は企業の成長期の産物でしょう。だって働く人への人件費が払えなければ解雇しかないでしょう。風邪症状でいえば予防のレベルなどでは無くて重篤な状況になっているのです。
 なぜって?ソニー、パナソニック・・・等々の日本の誇るべき大企業が投機的格付けに下げられた。創業者の井深さんや松下さんの書籍が書店に並んだ時代はどうなったのだろう。
 働き過ぎと言われ、ウサギとカメのウサギになってしまったから?うん、それも一理あるかもね。寧ろ、井の中の蛙になったんでしょうね。豊かさという自惚れに長く浸かってしまって、自分達の価値観が正しいと錯覚、そこから負の連鎖が始まった。
 原点に戻れ!と言っても言葉の一人歩き。どこが原点なのか解らない。
 結局は全ての事が自分自身に跳ね返ってくる。それを他人の所為にするなど具の骨頂なんだ。
 此岸は無常、これ真理なんですよ。
 

2295:1カ月

夢物語は自由だ。1カ月位の旅がしたい。リュックを背負い宛ての無い旅である。昔から放浪癖があったから、そろそろ限界に達したのかもしれない。
 私の本務は何かと言われれば、真っ先に寺の住職と答える。とは言っても福祉の仕事に9割以上を割いている。自分では坊主と施設職員を一体と見ている勝手な人間だ。
 週末の午前中は坊さん、2〜3カ月先まで予定が埋まる。これは最低限の住職の勤め、出来なくなれば寺を出て行かなければならない宿命。
 若い頃は、亡くなった人を相手にして何になるんだ?と真剣に悩んだ。いろんな坊さんと会った。様々な檀務にも関わった。
 その有り様は30年間で大きく変わった。葬祭業者任せの葬儀は、坊さんは演じ手となる。予め打ち合わせた進行表にそっての役割を果たす。終われば控室に移され、再度出番を待つ。
 しかし、その後行う回忌法要は打ち合せなど無く、寺側の考えで如何様にでも進められる。限らた時間でのお付き合い、そこに様々な人間模様が見えてくる。
 遺族にとって、身内が亡くなるという現実を徐々に受け入れていく過程でもある。
 世間体や地位や財産がどれだけ、この世で重要なものなのか?死んでまで持って行けない事は重々承知していても、そこに拘り、新たな争いの火種となり恨み節の一つや二つ遺影に向かって言いたそうな遺族もいる。
 本当は自分自身の問題なのだが、死んでまでそう思われては故人も浮かばれまい。
 自由主義でいう個の尊厳は、この世に生まれた時から発生する。誰しもが何らかの役割を持って生まれるという所以がそこにある。
 超高齢化社会を問題と視て、痴呆老人の介護や高額な医療費を取り上げ過ぎていないだろうか。そこに何らかの意図を感じてしまうのだ。だからといって、どうしようもない現実に苦しむ人はいるだろう。そこで初めて社会の仕組みが必要に。
 定年制や年金の仕組みは、ある程度社会基盤が整った国の話である。それで幸せかと言えば?マーク。
 生きている人間は ・・ingである。尊厳と役割は表裏の関係、定年後は好きな事をやってと言う人は多い。でも、それが本当に出来ますか?
 お年寄りの満足度を調べたら果たしてどんな結果が出るでしょう?孫が生まれれば喜ぶ。これは万国共通のものでしょうね。これ位かも知れません。
 でも心配事も増えるわけですね。
 イスラエルとパレスチナの紛争にまたしても世界の目が向いています。我々は報道を通じて知るだけ、現地の状況は凄まじいものだと思います。戦争より平和を望むことに異を唱えるものがいる筈がない。
 日本に長く住んでいるとその辺の感覚が麻痺してしまう。
 自衛隊か軍隊か?今度の選挙の争点としたいのかよ自民党、安倍さんにモノ申す。貴方が総理をしていた時に、その事を訴えていましたか?今になって何故?
 責任与党でないからできる方言なのですか?NGOで海外支援できる財源が乏しくなり、大判振る舞いができないと見るや
急に強気に転ずる。このパターンを今の政党政治全てに感じてしまうのは私だけでしょうか。

2296:霜月

行く秋の紅葉に凋落を見て物事の寂を感じた。日本には世界に誇るべき自然と四季があり、その環境で育まれ勤勉で誠実な民となって歴史を重ねてきたのです。今に生きる我々は先人がつくった風俗や文化をもう一度見直してみることが必要だと思うのです。
 東日本大震災の記憶が薄れない間に、”豊かさ”って何?”幸せ”ってなに?・・・・・・・と。
 既に選挙戦に入った議員たちは、いかに国会の席を確保するかだけに関心があるように思えて仕様が無い。そして右に傾きすぎていないだろうか! 日本が再び軍事大国になることが本当に国民の望んでいることでしょうか?
 今、経済の発展という目標を見失い、何を争点として良いのか分からない。経済重視の検証もせず、闇雲に競争相手に勝つことだけに奔走してきたのではなかったか。
 使えきれない程の富を得て、毎日、それを眺めて過ごすのか。金融機関に貯まった膨大な金、それを川に例えれば、至る所に澱みができ、そこに住む魚たちが苦しんでいるように思えてしようがない。
 養殖で増え過ぎた魚を自然に還す、こんな事をやっていて生態系に何らかの影響が出ないのか。日本人は国の持つ自然の豊かさを人為的に自分達の満足の為に変えてきた。
 1億2千万の民をどうすれば満足させることができるかという視点ではなく、一握りの勝ち組と称する人間を必要以上に鼓舞し、それに続けとばかりにメデアも捲し立ててきたのではなかったか。
 昨日、何気なくテレビを見ていたら鳩山さんが出ていた。彼は自分の政治人生を振り返り、一番燃えたのは、さきがけを立ちあげる時だったと述懐した。日本にセレブという言葉は馴染まない。それはあくまでもその人個人の資産があるというだけで、社会にとって何の意味も成さないからだ。
 彼はやめ時を逸したと思う。一度辞めると公言した時に辞めるべきだった。それを引きとめる輩もいたのだろうが。
 政治家が劣化したと言われる所以は、真のリーダーの不在だ。保身や画策に長けたという人間は捨てる程いるが、纏める能力の無さ、それが顕著な実態だ、急に増殖した政党の数、彼等は国ということより自分を大切にする人達だ。
 我々庶民はそれに耐えている。それは結果的に有権者が問われ続けてきたからで、どうすれば良いかという術が見当たらないからでもある。
 いま『どの人に投票しますか?』と尋ねてみて、ハッキリと言える人がどの位いるだろうか?”覚悟といきじ”の無さでこのまま進めば行く処まで行かないと気付かないのかも知れません。
 蕉風俳句ではないが、閑寂を愛する心境など無縁な時代を世界第1という長寿の証を持って何になるというのか!
 

2297:こころ中

普段ならば見過ごしてしまうようなちょっとした相手の仕草や言葉に反応してしまう事ってありますよね。
 私の場合は自慢話やお世辞にはダメなんですね。世辞に賢い人っています。世渡りが上手というんですかね。見え透いた世辞など言うな!と一喝したいところ。でもそうはいかない。
 心の中は自分でも良く判らない。ですからね、実は悩むんです。
 さてと話は変わりますよ。実はひょうな事で私が住んでいる寺の周りには、昔むかし竪穴住居があったということが判明した。なんと今から約5000年前、縄文中期という。土浦市史にも出ているそうだが”神立平遺跡”、表土から1メートル掘れば住居跡や石器が出てくるという。
 1000年前の話は良く出ます。だって真言宗の開祖弘法大師は約1200年前、観音寺は約600年前に建ったという事は知っていた。それが5千年前というのだから、もう頭の中は停止状態、多分寺が建っている場所も掘れば何かが出てくるだろう。
 そんな上に自分が住んでいる。これって良いんでしょうか?
 その時代、海が近くまで来ていた事は知っていた。貝塚があって時々畑で貝殻を拾った。当時の人達の言葉はどうだったのかとか何を食べて生きていたんだ?平均寿命は何歳?家族は何人?・・・・・・・想像すると偉い事になった。
 そして、いつものように現実に目をやれば、なんとも次元の違うことに何故こうまで時間を浪費しているのかと訝る。
 デフレ経済からの脱皮?????言葉が一人歩き、良く聞いているとどっちの意見も大差ない。同じ日本に住み慣れ親しんだ環境に順応してきた人間にそれほどの差などあるはずがない。
 デフレと言って騒ぐ一方で着実に富を増やしている人もいるではないか。
 釈迦やキリストも2500年の実在の人物、それよりも遥か前に人類はこの地球のどこかで生活をしていた。私達はその事を無視し、知らぬ間に地球からの恩恵を蝕んできたわけですよ。
 自衛隊か軍隊か私は名前なんかどっちでも良いと考える。だってそうでしょう、議論を聴いていると双方の言い分に大差が無いもの。
それよりも戦争の悲惨さを教育の場で子供達にどう伝えるかが大切、そこの議論がサッパリ聞こえてこない。大人達で戦争の体験をした数が確実に減っている。今の政治家だって大半が戦後世代だ。
 万が一、最悪のケースで外国からの侵略を受けた時に今の議員の中で何人が前面にたって闘うか?その事を綱領にうたえば良いものを、変更有りきの規範などいくら作っても意味は無い。
 ここなんですよ。机上の空論とか言われてしまう理由がね。
 あくまでも勝手な想像ですが、支離滅裂になるでしょうね。この平時にあっても離合集散を止めない人達だ。これって危機的状況ですよ。
 何でこうなっちゃうのでしょうか?これは自由を履き違えてしまったからなんですね。つまり、自由には必ず責任が付き物でしょう。責任の取り方が解らない人が増えた事が最大の原因じゃなかろうか。
 縄文時代に書かれた綱領か人生論(?)でもあれば、今の法律以上のものでしょうね。
 

2298:バラ一花

たった一輪のバラの花、寺の裏庭の片隅に咲いた。百万本のバラという歌を思いだす。加藤登紀子が唄って大ヒット、皆さんも何気なく口ずさんだこともあるでしょう。
 特に管理を良くしたということでないのに毎年、見事な花をつける。
 茨城県に県立のバラ園が八郷にある。今月、南から北に抜けるトンネルが開通、いつに無く多くの人がバラを観に訪れたと聞いている。
 バラの種類はかなり多い。花の大きさや色も様々、そして怪しい匂いを発する魅力的な(?)花だ。咲き誇るバラも見事だが、たった一輪しか咲いていないバラも凄い。
 バラの枝にはトゲがあり、知らずに触ると痛い目にあう。枝そのものは大したものではないが、根株が重要で、毎年必ず新しい枝を出し、見る人を楽しませる。
 バラみたいな人がいれば多分人気モノになるだろう。別に自分からどうのこうの言わずとも人が自然に寄って来て、観る人の心を癒してくれる。
 良く知らないがバラは外来種だと思う。地中海辺りの太陽がギラギラ輝き程良い海風に揺られる姿が最も似合う花。
 それとは全く趣が異なる花に”牡丹”がある。これが実は寺の表側にある。厄介な花と言えば大変失礼なのだが、気難しいというのかこの花を咲かせるのは大変だ。バラと比べ、牡丹は杉木立の苔むした場所が似あう花だ。強い日差しを好むというよりも水分の管理が微妙で株周りに藁などをすいて乾燥を避ける。
 花は見事なものだが、枝に合わない大輪を咲かせるものもある。
 
 我々も高浜虚子が説いた”花鳥諷詠”まで行かずとも自然と無心に向き合う時間を持った方が良い。実際は、これだって現実でただ気付かないだけの話だから。
 残念なのは、花鳥風月を楽しむ風流さが本来の形から大分様相を変えてしまったこと。お茶やお花と言った芸事が本来の有るべき姿から遠く離れたものとなり、茶道口の出入に通行手形が用となる。
 昨今、格差社会を問題にする声が大きくなっているが、”道”が付く社会には今も堂々と階級制度が存在する。
 このことの是非は、突き詰めていくと両極に別れ、二者択一のどっちを選ぶかの議論となる。
 結局は人為的な物事には、絶対という事は有り得ないという事なんですよ。
 別の言い方をすれば、今見事な花を咲かせたバラの枝を切って、花瓶に入れて楽しむか、それとも咲いている場所に自分で行って楽しむかの違い。(*)
 多分、花の気持ちを解することができたとして、花はどっちを選ぶかという事だと私は思うのです。
   ♪
     貧しい絵描きが女優に恋をして、百万本のバラで街中を埋め尽くしたいと・・・・
              女優は街を去り、絵描きはまた孤独な日々に戻る。何も無かったかのように・・・でも思い出だけは
               消える事は無かった・・・・・・・・♪・・・・・・♪
 

2299:正夢

望むと望まずとも、現実に起こる様々な出来ごとに真正面から立ち向かうことは相当の覚悟が用だ。それを忌避する最大のものは”慣れ”。変化無く今までのように物事がすめば、これこそが安泰だと勘違い、外圧を極端に嫌う。
 その反語が”夢”、実現可能か否か、いずれ見ていろ俺だって・・・・・という熱気(?)の欠如。
 この攻防が自分の内部で日々繰り返し起こっている。
 気は持ちようだと言う人がいる。その人だって決して楽観論者ではない。悩み抜いた結果、落とし処として自らに言い聞かせているんだ。正夢とか逆夢と言うのは自由、どっちにしたって現に自分に降りかかったものである。
 偽らざる心境として、他人の成功を心から喜べるかという問いかけに、貴方ならどう答えるか!
個から集団へ、著名な学者の書いた多くのハウツウ本が所狭しと並んでる。実学に元ずくものもあるが、大半が先学の所説を単に網羅したものである。
 巷に常識論が怪しくなって新たに登場したものに”マニュアル”がある。手引書と言えば解るものを、横文字なんかを使うから何様だと思ってしまう。なんて事はない。常識的な手法・取り扱い説明書なのである。
 今のように複雑な社会で人が生きて行くことは大変だ。実はこれだって今に始まった事では無い。作家の手を借りずとも歴史を類推解釈することはできましょう。そこに作られた英雄像は実際にそれを証明する根拠は薄い。
 ”原点回帰” これは変わりなく存在し続けてきたものが一体何かを捜し求めることだと考えます。
 弾けるような笑顔、屈託の無い笑い声・・・・・・・かつて確かにあっただろうこれらの光景が失いかけていないか?
 そう考えるといてもたってもいられない。
  土浦の街かどでVSによる折り紙教室があって、尚恵学園のメンバーが小グループで参加する。精々4〜5人が限度だが、作った兜を誇らしげに被って帰ってきた。あの笑顔をどう考えたら良いか。
 街の中にある触れ合いの場で様々な活動が成されている。やっている事は普段園内で行っていることと大差は無い。
 多分、違うとすれば”慣れ”の弊害が無いことだろうか。
 私は夢を生きる力と考える。
  ここで忘れてならないのは、今の福祉現場が支援者にとって夢多き職場と成り得るか否か・・・・。私の拙い経験から振り返ると、昔良く叩きこまれた福祉の先達者の生き様や福祉の心に耳を欹てた。
 これさえもマニュアルの一画に載せられる程、軽々に取り扱われる昨今の状況に吐き気さえ感じるのである。
 

2300:仏教の考え

仏教の根本思想をどう考えているか?と問われれば、”縁起”と”無我”と答える。これはブータンを訪れた五木寛之が当地の高僧に質問した時の答えでした。
 日本人の多くは仏教をなんだか良く判らない難しい教えと捉えている節がある。方やブータンは一人一人の幸せを求めることを「国是」とした類い希な独立国。
 離合集散に終始する今の日本政治、最大限に妥協して、無我なる故に仕方なしと見るか。我執を否定する所以は、執念することが”苦”となるからで、達観すればそのことすらも耐えねばなるまい。
 苦の本来の意味は、”思うようにはならない”ということ、さすれば、今の混沌として出口が見いだせない状況を凡夫たる我々にも受け入れる余地が有るのか。
 ただ先のブータンの高僧が今の日本で理解できないことの一つに”自死者”が非常に多いということをあげている。
ブータンと比べ、物が豊富で便利な日本で何故というのがその真意のようだ。
 隣国のチベットはご存知のように中国との間で政治的軋轢を抱えている。報道によると抗議の為に自死した僧侶が21人に及んだという。ブータンはインドと中国に挟まれた小国、それを脅威と感じるかそれとも共存し独自の道を歩み続けるか、ギリギリの選択から”国民の幸福”という目標を掲げ今に至っている。その事自体は他国の脅威とならぬ。
 ブータンとチベットに共通していたことは寺院が地域に溶け込み中心的役割を果たしてきたということだ。教育は勿論、様々な催しに寺院が深く関わってきた。それが微妙に変化したのである。
 日本の仏教はある時期から変わった。その最大の変容は檀家制度を取り入れたこと、乱世を終結し江戸幕府の登場に少なからず貢献した。その後幾多の変遷を経て、末寺住職の世襲化、そして寺院の格差が起こった。
 足元の宗教界を見渡せば、今日の乱立する政党の数など比較にならぬ。現実にその世界に身を置く私は、その事から抜け出せない。
 自分に妥協し続けることが”無我”の実践か?
 いつの時代においても、本質をどう観るかという談講は繰り返され、研鑽に勤しんだ。山川草木悉有仏性なる思想は、後の時代に起こったもので、その時々の時代要求に応じた苦肉の策ではなかったか。
 そう考えると今の仏教界は大きな転換期に有ると思う。本来ならば内部から変革の動きがあって然るべきなのに、大きなウネリとは成り得ていない。
 これは変化を好まないという人間の持つ本性なのかどうか知らない。しかし、世の全ての事が“(無常)常ならず”という仏教の視点は変わり様が無いのである。
    少々、理屈っぽくなりすぎましたか?こりゃーまた 失礼しました。
 

2301:奢るな!

得意になって言いふらす者よ、言葉を慎みなさい。何故、そうまでして自分を誇示したいのか?
 一度、貴方の周りを見回して見なさい。真に言の如く様態はなっているだろうか。
 これは、別に特定の人に向けて言うのではない。≪ニッポン≫という国にである。
 立法府を司る政治家は、選挙を控え、またもや出来もしない公約を懲りずに打ち出した。今朝の新聞に2011年度生保受給者206万人突破というニュースがあった。同じ紙面上に、電力料金値上げ、電力各社が挙って申請の記事。社員給与の一律20%?引き下げ、その額を聞いて、まだそんなに貰っているのか?と訝る人もいただろう。方や都知事選候補者のテレビ討論、別に職業云々するつもりはないが万年赤字を計上する都バスの乗務員の平均給与の額、渋滞に関係なく道路を走る客の乗っていないバス、これをどう理解すれば良いのでしょう。どこかが狂っているとしか思えません。
 公費という痛みを感じない支出は、慣れると恐ろしい。必要性の是非判断が出来なくなるからだ。
1000兆円という国の借金、さらに地方自治体も同様に借金財政で自転車操業。痛みを感じないから本気に改革しようとしない。
 その様態をどうみるか! そして、海外向けの顔はご存知の通り恵比寿顔。いい格好するんじゃーねーよな!
さてと、その逆は卑下?
 残念でした。『卑下も自慢の中』という事もありますからね。それは覚悟と責任の度合によるんですよ。
 こんな風に考えていると全く嫌になっちゃう。そんな時、そーと寄り添ってくれる人がいるんだ。彼等こそが真実を確かな目で見つめていると確信するのです。
 朝、いつも私に声をかけてくれるS.Tさん。「元気か?嫌になっちゃうよな。働かないものは食うべからず」そして彼は私に向かって”敬礼”をする。
 それが何を意味しているのか良く解らない。私が本堂に向かうと彼は付いてくる。そして、私の後から決まって焼香するのだ。
「デカちゃん 死んじゃったよな、可哀そうにな。どれ 線香でもあげてやっかな」と。
 彼は電車が大好き、どこで写したものか知らないが数枚の電車の写真を持っている。
 その彼が時々、私に自販機の飲み物を差し入れてくれるのである。「これ 飲め! 元気のないものには 明日は無い」と。
 
 いつも 寮の中から大声を張りあげている人が自棄に静か。そんな時はどこか具合でも悪いのかな?と気になる。
 底冷えするような日でも外に出て誰かを待っているNさんだってそうだ。「Nさん、寒いから中に入ったら・・・」と声をかけると彼は必ず「カアカン くっとー」(*母ちゃん 来るぞー)と答える。
 私にゴルフのスイングをするKさん。私の車にゴルフバックが入っていないことを知ってのことか、「俺もゴルフに連れていけ!」と要求する。私は幸せを感じる。このような人達と一緒にいられる事がなんとも貴重だ。
 毎日が日替わりメニュー、こんな世界が今あるなんて、救われますよ。ホント。
 年を取るにつれて、素直に喜べるようになった自分を今、感じています。
 

2302:党首討論・・・

12枚あったカレンダーが最後の1枚となりました。師走という言葉の響きは、人それぞれに違う意味にとられることかも知れませんが、私は慌しく落ち着かない感じを持ちます。
 年内に新たな政権が誕生すると言う。昨日行われた各政党の党首討論、なんと11名がズラリと並んだ。記者席からの質問も通り一遍の内容から個々への質問に変わった。その遣り取りを聞いていて、深みの無い表面的なものばかり、他とはここが違うという具体的な内容とはならなかった。党首達にとれば裁判の被告人たる心境ではなかったか。
 テレビの国会中継と同じく、庶民感覚と相当のズレがあることだけは理解した。
 これらの人達に国政を託して本当に大丈夫かと余計不安になったのであります。
 冷静にみて、今の日本が抱える問題が重層的で且つ複雑に入り込んでしまっている。自分達の主張を恥じらいも無く当然としている国民も然り、それがどれ程の事なのかという反省も無く、闇雲に要求を通そうとする。仏教でいう阿鼻地獄を彷彿するかの光景、これではまた剣樹・刀山・かく湯の苦しみを諸に受けるのではないだろうか????

 ニューヨークから車で3時間ほどいった山間部の広大な敷地に日本の禅寺があると言う。そこの老師の話です。
 9.11の後、多くの人が寺を訪れるようになったそうです。中には出家し修行に励む人もいる。これは、トップの座に君臨し続けたアメリカの病みの部分、豊かさと便利さを勝ち得たアメリカ国民が心の中にポッカリと空いた穴に気付いた、それをどうしようもできないと苦悶する。
 無差別テロの犠牲者の名前が記念碑となっている。それを見てどう感じるのでしょう?憎しみがより増した?
 否、多くの善意に満ちた人々はアメリカ自身が加害者としての歴史を刻んできた事を認め反省する。そして、この罪悪感に苛まれ、はけ口の見出せない怒り・慟哭を経験している。
 その禅寺の老師は5ドルと一体の仏像だけを持ってアメリカに渡り40年以上も当地で布教実践を行ってきた人、英語は勿論堪能で難解な仏教の教えを解り易く解説する。 3つの言葉で仏教を表わせば、どうなりますかという質問に老師はこう答えたという。
@I ´m  sorry
AThank  you
BI love you
 この簡単な3つの言葉、子供でさえ理解できる言葉
 そして、何故現代のアメリカの人達が仏教に関心を持つに至ったかという質問に、それは”修行”があるからだと語った。
 修行=実践=三密行(身・口・意)
 これ以上説明すれば、また難解だという誹りを受けよう。
 三密行だけは説明させて頂くと、身・口・意(やっている事・言っている事・思っている事)を一致させるという修行。
 今の政治の病みの部分が当にこれと一致するから妙である。
 

2303:吾輩はネコ

昨日は今年一番の冷え込みとなりました。日中天気が目まぐるしく変わった。朝、雨が降り、急に晴れたと思ったらまた降り始めた。県北の大子では初雪があったという、夕方、気温がグッと下がり底冷え。午前中法事が2件、午後は施設の役員会と気忙しい1日だった。
 我が家にはネコが2匹いる。二匹は縁もゆかりも無い。同居を始め3年?今では若いほうのミイちゃんの成長が著しい。メタボ気味である。一方の花ちゃんは、10数年いるから、お婆ちゃん?。イザコザが耐えたことが無いのだが、不思議と誰もいない時は仲良く寝ていたりする。
 最近、さすがに夜冷え込むようになり、夜遊びも大分控え目となった。この2匹を良く観察していると実に面白い。
 土浦の花火ではないが、場所取りをする。蒲団の上に先に陣取ったほうが勝ち。
 それがここ数日の寒さでルール違反、ミイの方が、強引に私の蒲団の中に入ってくるようになった。息苦しいからか、頭だけを出し、腕枕、しのび込むが早いか強烈な喉鳴らし、一体なんだと思っているんだ!
 迷惑そうな素振りを見せた途端、彼は私の顎の処目がけて噛む。これが結構痛い。
 それから私の鼻息を迷惑そうにするのだ。足の上には花が寝て、腕枕でミイが寝る。
 ”吾輩はネコである”

  私はネコ育てを間違ったのかもしれない 食事はパックに入ったネコ食がお決まり、これが味が気にくわないのか全く見向きもしないものがあるのに気が付いた。
 昔のネコは人間様の食事のあまり物で充分だった。メタボのネコもいなかった。いま、ネズミも見かけない。だから大半の飼いネコは太り気味、暇さえ有れば・・・・否、暇ばかりだから寝てばかり。
 これではな!イヌと比べ飼い主からすれば散歩に連れ出す心配はない。自由気ままに徘徊しているからだ。
 この様子を見ていると、私の悪い癖がまたもや出てきます。
・・・・永田町界隈では・・・・・・云々。。。。。と。
 まてよ、都会のネコはどうしているんだろうか?全く想像できない。
  ネコは今の日本をどう観ているのだろう? 今度、機会があったら聞いてみようと思う。
 

2304:負けるな!

佳子さん作
最近ある思いが高まっています。それは何か世間の”陰湿性”というものを感じるのです。
 我々、福祉に関わる者への警鐘と言うのであれば、堂々と言えば良いモノを、実名を避け、不正・不満を暴く・・・・・内部告発とか訴訟。私の性分からして無性に腹がたつ。そんな事をして一体何が改善できると言うのですかと問いたい。
 堂々と議論すれば良いモノを・・・・・・。
 出来る事と出来ない事、これはどうしても起こります。だってそうでしょう。”個”を考えれば誰だって解るはず。一人一人の違いを認めながら、最終的にどうそれに応えるかですものね。
 敢えて逆質問、こんな風に言いたい。「貴方の意見は解りました。ならば貴方はどうしますか」と。
 一番難しい事、実は自分自身の考えの如く生き切ることですよ。言うは易しという事が直ぐに分かるはずです。
 哲学や宗教の最大の使命(?)がそこにあるからで、実は正解は無いと思っています。
 昨日、恒例の地蔵市という催しが利根町の寺であり、助法に伺いました。そこで法話を頼まれるのです。護摩供の前に話をさせていただく。5間四方ほどのお堂に集まった沢山の人々、最初に尋ねた。「今日が初めてという人は手をあげてくれますか?」と。すると1名だけ手を上げたのです。でも4人連れでした。まだ首が据わらない赤ちゃんを抱いた奥さんとお祖母ちゃんが一緒でした。
 その他は常連の人達で前の席に陣取り、護摩を待つ。
 普段着ている服や財布、それと手提げ、子供・・・・を護摩の煙に触れさせる。護摩木には自分の願いを書き、それを焚きあげる。この行事は数百年続くそうです。
 最後は”大いなるもの”に託す。そして、来年また来ようと思うのです。
 でも、来年どうなるかは誰も解りません。いま、こうやっていられることが実は有り難い事、そんな話をいつもしながら、自分自身はどうなのか?と思うのです。
 今年も多くの友人知人が三途の河を渡っていきました。遺された人達に寂しさや不安をおいてです。
 でも大丈夫、遺された人達は必ず立ち直ります。そして、先に逝った人への感謝が自然と湧くものですよ。
 私が”陰湿性”と言った意味を違う角度から観て見ましょう。
 自分ができない事を相手にそれ以上望んでも無理だということなんです。
 私が一度として忘れたことが無い言葉、それは父の言葉で『どんな事をしたって我々は親にはなれない。』という言葉でした。つまり、期待に全て応えることなど不可能だと自覚していたのです。私もそう思っています。だから、堂々と面と向かって言って欲しい訳ですね。
 父の言葉の真意は、父自身が実の親の顔を知らずに育ったという事からきていると思います。
 だから、いかにも福祉をやっていると誇るような輩を信じなかった。自分を反省し高望みは捨てた。
 その生き様が今頃になって解ってきました。
 

2305:先のこと

明日何が起こるかさえ解らないのに、3年後?10年後?
 なにがしの事業の先々の計画、聞こえは良い。しかし、物事には順序というものが有るでしょう。いま、私が言われていることの一つに、尚恵学園の中長期の計画を示せという事だ。
 計画には実行性がなければ意味は無い。兎角、絵に描いた餅が多過ぎないか。不言実行なる垂れ幕も時折見かけるが、目標を共有し、そこに向かって皆で頑張る。これも一理ありますよ。
 でもね、人間相手の仕事ではどうかな・・・?私の知人で塾の経営に成功した人がいて、県内洩れなく塾を開いている。それも駅前の一等地、彼等のスローガンは実に解り易い。有名大学○名合格・・・・・。数字で表わせる業界は結果が全て。
 同じ、人間を対象にする我々福祉はこれとは全く次元を異にする。
 福祉には多様性が求められる。例えば某介護施設で、利用者の平均寿命90歳目標と掲げたら可笑しくないですか。
 それと我々の障害関係は、老人や児童と比にならぬ位、年齢や障害種別が複雑ときている。
 陰で言われていることで、上手くいっている話には偽りがあるということ。それは、利用者を事業所側が選んで実績をあげているに過ぎないという意見だ。
 長年、障害だけに取り組んできたからかもしれないが、その考えに私は同感だ。
 何せ、一人が加わっただけで今までの環境が一変する。奇声・自傷・他害・破壊・・・・・・何故、こんな行動をするのか?と考えても原因が掴めない。さぞかし、ご本人も辛かろう。
 業界用語で”強度行動障害”、これが果たしてどう福祉と結び付くのだろうか? 
 診断名を付けることは簡単だ。だが、その人達をどうすれば良いのかまでは責任を持たない。
  また、違った視点もある。それは”有りの儘”に受け入れるという。完全受容の考え方。
 それに昨今の地域で生活をという流れ、間に挟まって日々途方に暮れている。  日本でもモデル地域の実践例が紹介されている。
 実に厄介で、どうすれば可能かと立ち尽くすだけ。

2306:擦ったもんだ

やれやれ困ったもんですね。擦ったもんだのあげく、いま何が起こっていますか。保革伯仲どころの話ではなく、何が何だかサッパリ解らない。何せ”言っていることと遣っていること”が違う人種の坩堝、どのような美辞麗句を並べても心は動きません。
 選挙後、彼等はどのような動きを見せるか、こっちの方が大方の人達は予測がつくはずです。議論をどこまでやれば気が済むのでありましょうや。
 正直、失笑やヤジが止まない審議でいくら時間をかけてもダメですよ。真剣味を感じない。バッジを付けると人が変わる。特権意識と自分の実力の板挟みとなり、外見を繕うことに躍起になる。
 この状況は暫く続くはずだ。少なくとも、それを変える動きは有権者が目を覚まさないとできない。これが本日の結論!

 16日以降、どうぞご覧下さい。
 原子力村が問題になりました。でもこの類の”村”はいくらでも有りますよ。自らの利になることには熱心だが、他の利に関しては無頓着。これで国が栄えるならば世界の七不思議です。
 でも、それをどうすれば変えられるか?答えを見いだせないジレンマ、結局、根負けして戦線離脱を余儀なくされる。
 となりますと、どうしましょう?
 歴史を辿れば、統治者を替える時には流血争いが必ずあったものです。その都度、庶民は右往左往した。御承知の如く、日本は二度の世界大戦を経験し、無条件降伏という惨敗を喫した。憲法改正の議論は、当に戦後処理の継続、それと原発云々、そして経済対策とTPP参加の是非・・・・・。
 しかし、どうでしょうね? 確実に世界の流れは大きく変わっていますよ。いくら島国と言ったって直行便が世界の大都市に一日何便も飛んでいる。
 政治などとは別次元で経済界は動いている。かつて三菱重工と日立がある部門で合体するなど誰が予想したでしょうか?
 熾烈な闘いを行ってきたライバル企業、最早、世界を相手にしなければ存続が危ぶまれる時代で過去の常識など構っておれないとの判断だろう。
 農業の問題も複雑だ。米作り農家を沢山知っている。その殆どが今、大規模専業農家に生産を委託している現状である。
 この現実を是とするか否か。農業従事者とのツメができているのか否か。
 その辺の決断がいつも先延ばしにされている。
 

2307:新旧交代

今回の選挙で唯一評価が持てること、それは政界に長く身を置いた長老(?)達が自ら引退を決めた事です。政治はバッジを付けていてナンボの世界、元とか前では全く違います。名前と政党がどうにか一致できた当選回数の多い人達よ、ご苦労様でした。もう良いから後は任せてゆっくりしてください。
 だってそうでしょう、選挙の時だけ地元に戻って御用聞きではね、ダメなんだよ。中には今回は当選できないと察知して、有終の美を飾ろうと決断した人もいたでしょう。
 マスコミに注文有り。競馬の予想屋じゃあるまいし、選挙も終わっていないのにあっちが伸びてこっちが激減、数当て競争なんかやらなくて良いんだよ。
 それより、私は落選した人をもっと取り上げるべきだと思うな。落ちた後、彼等はどんな活動を続けたか?こちらの方がずっと意味が有るはずです。次回再挑戦しようと思っている人は必ず地元に張り付いてコマ目に動いていますから。その点、比例区で看板候補者はダメだね。落選しても自分の所為じゃ無いと思っている。
 どの業界でも新旧交代は付き物、それが比較的緩いのは寺かもしれない。何せ長老とかいって特別扱いされるんだから。多分仏様により近づいたという風に思われるのだろう。
 業界同士の競争が最も少ない。上手く住み分けが出来ている。でも最近では葬祭業者との関係が微妙、相手は必死だ、法令を上手に利用し、事業拡大を画策します。宗派なんか関係ない。
 そうなんです。人間は必ず死ぬんです。
 私は仏教の一部しか解らない。それでも格差が広がっています。檀家数やその他もろもろ。でもね、一番難しいのは坊さんをどう育てるかということなんです。
 私が坊さんになったのは、今から35年前、葬儀や法事は大半が自宅で行われました。それが今、葬儀の95%以上が斎場です。便利さを求める時流に上手く便乗した。当家も余計な気遣いもしなくて良いので自然と斎場を選ぶようになった。
 すると”お寺”の役割はどうなるか?先ず、坊さんには時間が有ります。だから”待つ”態勢とでも言うのでしょうか、悔みや法事を只管待つ。
 中には、寺以外に何か他の仕事をやっている坊さんもいます。ただ、どっちが本業か解らなくなってしまうケースもありまして、そうなると檀家さんからの評判が悪くなる。
 チベットやブータンの坊さんは偉く忙しいらしい。修行が厳しいのと托鉢を毎日行って自分達が食べるものを集めねばならないからだ。
 ここが日本の坊さんと大きく違う点だ。
 今時、托鉢でその日暮らししているような坊さんを私は知らない。この国で斯様な坊さんは”コジキ坊主”といわれるのが落ちだ。
 ここだけの話、私の苦い体験で、この事と坊主クソ儲けという両面のトラウマ、これを一生持ち続けると思いますよ。
 人間の新旧交代はいつの時代にも起こります。でも、変わって欲しく無い事まで変わってしまっては、どうなのでしょう!
 その辺の判断は我々一人一人に任されているのかもしれませんね。
 

2308:三方良し

知る人ぞ知る、『三方良し』とは近江商人の心得を言ったものである。日本三大商人と言えば、大阪、伊勢そして近江商人のことを言った。何せ日本の名だたる企業が近江と関係しているのです。
 その三方良しとは、「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の3つ、持ちつ持たれつお客様は神様ですのルーツでしょうか。
 いま形振り構わず、利益至上主義の経営者を諌め、自己顕示や見返りを期待するような振舞を嫌った。言うならば「陰徳善事」そのものを大事とみた。
 近江と言えば今、俄かに脚光を浴びる滋賀県知事、どうなんでしょうね。選挙後、袂を分けるようなことにならねばよろしいのですが、比例区の名簿提出、制限時間ギリギリでセーフのドタバタ騒ぎ。
 それよりも、脱原発だけで他の政策の擦り合わせは今からですか?不安ですね。心配ですね。万が一にも政権を取るようなことになって、一体誰に重要閣僚を託すのでしょう。神輿(みこし)になったまでは良かったが、担ぎ手がどうなんでしょう。
 されど、誰かに国の舵取りはしてもらわないとなりません。国民も少し時間を与える余裕も必要かと思います。政治家を育てるなんていえば、問題発言となりますかどうか、でも、あまりにもコロコロ変わるのもいい加減に止めにしないと世間良しとは絶対になりません。
 議員になる事は相当上手味があるんですかね?政策なんて後出しで良いなんて本末転倒でしょうよ。
 昨日、水戸である会議がありましてね。トンボ返りだったのですが、”福祉事業”も随分様変わり致しました。帰りの車の中で
いろいろ考えましたが、福祉でさえも利益至上主義を正論化する世の中になりました。
 仰っていることはご立派ですが、時々ホンネが出ますから、聞けたもんじゃありません。
いずれ、その類のものは自然淘汰されるものと思いますが、売り手側が強過ぎる商売は、長続きしません。なんと言ったって福祉事業の歴史なんて精々50年ですから、産声をあげたばかりです。それをいかにも遣っていますなんて言うもんだから世間から顰蹙を買うことに。私が老婆心ながら危ぶむのはですね、次の世代を引き継ぐものが、世間様の評判をマトモニ受け止めないという状況なんですよ。
 竹の子のように次から次に新規参入する事業所の数の多さ、打ち止めはないのでしょうか?
 これで、本当に必要な人がサービスを受けられないという。なんじゃこれ。
 我々福祉に関わる人間がいま真価を問われているのです。どうだ!解ったか!
 

2309:成道会

仏教の主な行事といえば、涅槃会(2月15日)・誕生会(4月8日)そして成道会(12月8日)があります。昨日は釈尊が悟りをお開きになった成道会(12月8日)でした。
 釈尊の簡単な紹介では、紀元前5世紀にネパールのルンビニーで生まれ、29歳で出家、35歳で悟りを開き、80歳で入滅、この三日を特に仏教では大切にしています。
 私達は、この世に生を受け、各々が違った人生を歩んでいます。凡夫たる私達は果たして釈迦が35歳で悟ったという経験を少しでも持ちえるでしょうか?
 何故、釈尊が出家したかという説話は沢山あります。でも、凄いことは、既に2500年という時間を経て今に至っているという事でしょう。私は寺に生まれたという縁があって35年前に僧侶になりました。正直、迷うことばかりです。さも悟ったような話はできません。自分が恥ずかしいというのが一番ですが、それ以上に釈迦の悩みと比べ如何に小さなものなのかが解るからです。 釈尊の弟子の中で有名なのが十大弟子です。それぞれに徳があって釈尊の教えを伝え広めた人達です。
 さて今年も後、20日余を残すのみとなりました。
 世界中に様々な宗教が存在します。そこに共通するものが自らの生を深く見つめ、どのように人生を全うするのかを問うものです。
 若くして亡くなる人も多くいます。誰一人として病に罹って苦しむことを望む人はいないと思います。現実には多くの人達が病気と闘っています。周りで支える人達も同じ気持ちです。
 家族って何だろう?その事を一番考えさせられる時が最愛の人を失った時だと言われています。悲しさ・寂しさ・悔しさ・・・様々な思いが駆け巡る中で共に暮らした思い出は必ず、後に遺された人達の生きる支えになるはずです。
 私達は自分の感情を抑えることが出来なくなることを度々経験します。そんな時は思い切り、泣けば良いと思うのです。
 私は若い頃、良く言われた事があります。男のクセに直ぐに涙を流すんじゃーないと。泣き虫だったようです。
 今になって感じることなのですが涙を流すことが理解できるのです。
私は両親にはどうしても敵いません。
 父と一緒に小さい子供さんを亡くされた葬儀に出たことがありました。本来ならば導師である父が先にお経を唱え、それに私が後からついて読むのが普通です。それが、全く父のお経の声が聞こえないのです。顔を覗いたら涙を流し泣いていました。
 両親は9歳の長男を亡くしていたんです。私の兄でした。それに父は自分が1歳3カ月の時に実の父親を亡くしています。
 顔を知らないで叔父さんに育てられた。
 相手の気持ちになることは本当に難しい。自らも体験があればこそ初めて共感できるのではないでしょうか。
 尚恵学園が掲げている『共生』これは創設時から一貫したものです。
 共に生きる・・・・・・なんと重い言葉でしょうか。そして、後に続く人達にどう伝え遺していくものかと悩まずにはおれません。
 

2310:優先順位

街にはクリスマスのイルミネーションが色鮮やかに輝いている。日本の場合、特に宗教色があるわけでもなく年間行事の一つという捉え方。暮れ押し迫って何となく気忙しく、1年の出来事を思い浮かべながら新年を迎えようとするのです。
 今年の冬は途中で天気予報の変更があって、例年になく気温が低いという。最近のニュースで連日、北海道や北日本の大荒れ天気の様子が流されている。
 毎年の事とはいえ、冬を迎える準備で何を先にすべきかが決まっている。
 優先順位という言葉をよく耳にする。特に選挙に突入して各政党が自分達の主張を訴える。経済対策・行政改革・エネルギー問題・TPP・復興対策・・・・・・。それって全て重要政策でしょうが。言うは易し、騙されちゃーいけませんよ。
 言うだけ言って後は知らんぷりでしょう。良いよな、責任取らないもんな。
 こんな風で一体誰を信じれば良いのですか?日曜日のNHK,朝の9時から政党代表勢揃いの番組がありました。テレビで参加した代表が2名、それにしても多過ぎます。同じ質問が一回りするのに時間がかかり過ぎ、一体どこの政党の主張なのか途中で解らなくなった。この状態で果たして国民は誰に投票するのかを決められるのでしょうか。多分、各代表その人達でさえ他との違いが解らないんじゃないでしょうか。
ウーム・・・・・
 昨日、頼まれた塔婆を墓地にたてに行った。途中、椎の実が沢山落ちている場所を通る。瞬間、タイムスリップ、小学生の頃の記憶がハッキリと浮かんだ。
 椎の実をポケット一杯になるまで拾い、それを家に持ち帰って、フライパンで煎って食べた。次々に浮かぶのは、ニッキの根っ子、それとベーゴマ・・・・・・遥か50年前の事をハッキリ覚えている。
 暗くなるまでドロンコになって遊んだ。実に懐かしく、その場に立ちすくむ、周囲を見回すとその頃と何も変わっていない。
 ただ、不気味な位、人気が全く感じない。
 あの頃は、ノロウイルスなんて言葉を聞いた事は無かった。変なモノを食べたから腹を壊したと言われ、正露丸でも飲んで置けと言われるのが落ちだ。
 それが今はどうだ!新聞にまで報道される時代なのです。全てが変わってしまった。
 そして、良く変わったのかと言えばそうじゃない。便利になった反面、何かが起これば大騒ぎ、不平不満が殺到し、大混乱で収拾つかず。
 人口減少を問題にする人達よ。私は違うと思うな。日本の大都市を見れば直ぐわかる、全てが人為的なものばかりですよ。
自然の入る余地さえありません。このままじゃ、どんな事をやっても人間の満足は生まれません。一つでも少子化OK,経済発展ストップを主張する政党が何故出ないのでしょうね。
 要するに人間が均一化してしまった。そこに”個の尊厳”なんて持ち出すものだから、いつまでたっても現実との乖離が縮まらん。