源究138

 

No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日
2271 コミュニテイカフェ 10/26 2276 資料の山 11/2 2281 暗中の模索 11/8 2286 評価ゼロ 11/13
2272 パスワード 10/27 2277 常識判断 11/3 2282 強靭 11/9 2287 悩める人よ 11/14
2273 結果は如何に? 10/29 2278 元気度 11/4 2283 会員募集 11/10 2288 解散条件 11/15
2274 十人十色 10/30 2279 見究める 11/5 2284 気持ちを切り替え 11/11 2289 小淵沢 11/17
2275 入我我入 10/31 2280 郷土愛 11/6 2285 涙と笑い 11/12 2290 心配り 11/18

2271:コミュニテイカフェ

昭和40年代にいくらでも有った純喫茶、いつ頃からだろうパッタリ姿を街から消した。コーヒー130円、モンブラン100円で長くて2時間、平気で粘った。それでも何とも言われず、話に夢中になった。
 この頃は、チェーン店による立ち寄りサテンはあるが、私はどうも気にくわない。ゆっくり時間を過ごす雰囲気は皆無、地方都市は昔は賑わっていただろう目抜き通りも軒並みシャッターが下りている。車社会となって街を歩く人がドンドン減った。
 つくば市である方より薦められたコーヒー店に立ち寄る。お世辞にも綺麗な明るい店では無かったが、今風のコミュニテイカフェ、バリアフリーで自由さが店内に漂う。マスターも決して愛想が良いという感じではないが、読書会やコンサート、それと様々なジャンルの雑誌が無造作に置かれている。我々3人以外に後から来た女性客一人、マスターは客に関係なく、隅っこのテーブルに座り、豆の選別を始めた。
 決して綺麗な家具とは言えないテーブルとイスが無造作に並べられている。
 「寄合所」と言えば聞こえは良いが、それ程繁盛しているとも思えなかった。
 しかし、何気なく邪魔でない程度に店がある。本当はこんな場所が街の中にあればと多くの人が思っている。普段着で気を使わず立ち寄れる場所、・・・・・・・。
 実は、長年熟慮(?)してきた喫茶店をスタッフがどうしてもやりたいという。何度も潰れかけた企画だが、やってみたら良いだろうと許可した。そう言って見てから、正直どんな店になるのかイメージが湧かない。シャレた店は多い、でも何かが足りない。実はそんな店は捨てる程ある。
 コーヒーをこよなく愛する私としては、ある拘りがある。風通しの良さと気楽さ、それと日差しよけの木影があって屋外のテーブル。
 さりげないイベントがあって、自分が作ったものや不要になったモノを物々交換できるような交流の場。
 最初から採算度外の企画もどうかと思うが、それ以上の効果が図れれば良い。
  地域福祉とか言うのは簡単だ。イベントの時だけの交流ではなくて普段からの関わりがあるか!普段とは不断とも書く。不断の香をたくなどと使われる。要は絶えないこと、それには何を誰がどのようにという条件がある。役割が生まれ、喜びとなればvery good、決まり切った日課にはいつの間にか慣れが生まれ、先が見えなくなるものだ。
 これを施設病と教わったのは、あの純喫茶真っ盛りの頃だった。
 型にはまった会議をどれだけやれば満足するか?そんなたまり場が身近にあれば、会議の数も減るかもしれない。

2272:パスワード

コンピューター社会になって、利便性の裏にある様々な問題が浮き彫りになった。端的に言って、無機質で閉鎖的な感性の坩堝(るつぼ)社会、ちょっと無理した表現か?いずれにしてもだ、何かが可笑しいと思っても誰もが最早打つ手を見出せない。一切の利便性を拒否し、我が道を歩むと決意をしても、難しい時代に生きている。
 情報量の多さとその伝達のスピードが日進月歩で変わる今、自分を証明する方法はIDとかパスワードという英数字、これが実に厄介でどんな文字にしたのかを忘れてしまう。キャッシュカードやネット販売、さらに印鑑証明など様々なサービスを受けるのに不可欠な関所となっている。
 情報保護の為の手段なのは理解できても人間の記憶力の限界を超えた今の有り様は、このまま進むとどうなるのかと不安になる。
 最近は指紋や顔で本人認識をする機能もあって、どうなんでしょう。長年使っていたパソコンが壊れ、ネットで注文したパソコンが昨日届く。注文して2日目という早さに正直驚く。私の先生に初期設定を頼んだが、新しい機種らしく、顔で認識する機能があった。メールの設定で困ったのは自分で設定したパスワードが思い出せない。それと顔写真を眼鏡をかけてとるのがよいのかどうか迷った。いくら技術が進んでもその辺の認識はできるのだろうか?
 斯様に周囲の環境は凄まじい勢いで変化している。
 IPS細胞の発見で山中教授がノーベル賞を受賞、おめでとうございます。これで医療が画期的に変わるのでしょうね。壊れた細胞を再生すれば、車検と同じで部品交換して元通りに動くはず、しかし、長生きは人類の望みであっても、適度の入れ替えが無いと地球の生態系に問題が起こらないか。
 高齢化社会に”超”を付け、さらになんとネーミングするのだろうか。釈尊が生老病死に想いを馳せた時代は精々人生40年では無かったか。2000年以上の時間の経過があって、日本の平均寿命は2倍近くに伸びた。それだって老いて病に罹り、死を迎える流れに変わりなし。
 それとどうも見過ごせない事がある。最近、どこにいっても心の病に苦しんでいる人の話を耳にする。その為に仕事を止め引き籠ってしまう人達の数はドンドン増えている。
 仏教の教えの中心になるものは、”中道”つまり極端を避ける生き方である。それを中途半端と言えば否定的、良い塩梅と言うと納得される。
 言葉はどうでも構わない。
 それよりもっと根源的な事に目を向け、自分の生活を見直す事が重要だと私は思っている。
 現代風に言えば、購入時のマッサラの状態にリセットするのを薦めます。
 そして、先ず心を安定させましょう!
 いま、ご自分の周りのことで気になって仕様が無いことって沢山あると思います。それらは実態はなく、常住で無い。
  勇気と決断、これも実は全く同じなのですが、大きな違いは自分を証明するIDカードの役目を果たしてくれると思うんですよ。
 

2273:結果は如何に?

昨日、ある集まりの準備委員会合を行いました。15名程の人の構成で進めてきたのですが、正直、企画の大半は3名でああやこうだと話し合い準備したものです。
 手探りで不安一杯の企画なのですが、それぞれがその道では経験豊かで、結果はどうあろうとあまり気にしていない風で話し合いを重ねた。そして、その内容を説明し協力をお願いする為に集まって頂いた。要は、人との繋がりに重きを置いたものです。初対面の方もおり、どうかなと思いましたが、心配無用で話が盛り上がり、世の中は狭いと実感、あっという間に時間オーバー、小雨降る夜、其々が帰路を急いだ。
 昨夜は底冷えを感じるような気温で季節は確実に秋から冬に向かっていると感じた。
 私はいつも思う事なのですが、何かをやろうとすると途中で正直面倒だなーと思ってしまう。でも良く考えて見ると新たの事を経験することの素晴らしさ、それに人との出会いを通じて多くの事を学ばせて頂いているといつも感謝する。
 久しぶりにお会いした人とはお互い年を取ったと感じながらも、それぞれが精一杯生きているのが分かって元気を貰う。
 
 毎日ハプニングが起こる。宴が盛り上がった時に電話が入る。ある利用者さんがいなくなったという。生憎雨が降り出し、気温も大分下がっていた。集まれる人にだけ連絡し捜す様に指示、皆で捜した甲斐があり、公園近くの道で本人を発見、その連絡が40分程経ってから電話に入った。正直、覚悟をしたのだが、その一報を受けた時、何かに守られたと直感した。
 宴の参加者に気付かれないように閉めの挨拶をしてお開きとさせていただいた。
 開かれた施設とかバリアーフリーと一様に言われる事を鵜呑みにすることなどできない。万が一、無断で飛びだされ発見できなかったらどうなりますか!本当に紙一重でリスクを完全に無くすことなど不可能で、ここにこの仕事の本当の難しさがあるのだ。
 現場最前線には常に悲喜交々の動きがあります。何をもって喜びとするか?これが現代人が直面する最大の命題かもしれません。
 自分がされたく無い事は相手にするな、その逆に自分がこうしてもらいたいと思う事を相手にしなさい。何度も聞かされた話だが、そのままストレートに入らない。
 酔いが覚めるまでとテレビを付けた。NHKで実に良い番組をやっていた。メモした。
 熟練エンジニアの活用・「減点主義」でなく「加点主義」の企業風土・知を結集できるプロデューサーの存在・・・・・
 ライバルが良きパートナー・・・・・。
 企業の成功の良し悪しは、事業規模や収益と数字で表わされることがあるが、果たして我々福祉の是非は如何に?
 物忘れが多くなったことを嘆くより、メモに残せと言いたい。
 その一つにアフガニスタンの現状についての昨晩の情報。国民の7割が1日2ドルの収入しかないという。方や首都カブールのホテルは1泊200ドルが普通だと・・・・・・。この現実を我々がどう感じるか、そこが重要な気がする。
 

2274:十人十色

何かことを成そうとして話し合う時は精々十人が限界かもしれません。黙して語らずならば、何人集まっても構わないのだが、其々が多忙な身で、なお且つ手弁当となれば尚更でしょう。
 そして、その企画を継続させようとなれば、忍耐と明確な目的が必須条件だ。
 個人的には昔から秘かに目論んでいた事をやろうかと思っている。これは世代交代を意識しながらもこのまま終わって堪るかという意地である。
 その元手は心身ともに”達者”なこと、健康な体がなければ気力も萎える。何もせずにおれば衰えるのは確実、誰の責任でもなければ自分で注意しないとならない。少々周りに遠慮しながらスポーツジム通いを始め四カ月、腰痛も改善こそしないけれど日頃の活動に支障ない程度に維持できている。それとモヤモヤ感を洗い流すには実に良い。
 さて、十人十色とは当に明言なり。これが還暦を過ぎた者ばかりが十人集まると決まって昔の自慢話で花が咲く。聞いている者にとっては甚だ迷惑で殆ど耳に入らず素通りだ。
 ただ一様に今後の事になると急にトーンが落ち寡黙になるのはどうしたことか!
今更、福祉観と言う程の事ではないが、60代からの人達が元気な国ほど素晴らしいと思う。年金生活で老後をどう過ごせば良いか、多分、ハッキリした返事はもらえまい。年金+αを考えるべきだと思うのだ。それには働くことが一番だよね。
 振り返ってみれば、私にとっては50代〜60までが自棄に早かったように思える。無我夢中でやってきたからだとは思うのだが、最近、同級生の何人かが亡くなり彼等を見ていると遣り残したことが沢山あっただろうと思ってしまう。
 その思いを彼岸に渡ってからやるのも良いのだが、失敗経験なるものは此岸でやることに価値が有る。
そう思えば恐れ躊躇することは全くない。
 私がいることで周囲に迷惑と思えば話は別だが、せめて自分の事を自分でできる間は挑戦したほうが良い。ある人と話した事がある。
彼は俺の最後は病死でなくて戦死で良いと言った。これは闘病生活をされている人が聞けば腹がたつかもしれぬが、実はその人自身が大病と闘っているのだ。
 彼が言う戦死とは多分、あるハッキリとした目的に向かって挑戦し続けることなんだと思う。その途中で息絶えても満足だと。あわよくば誰かがその意を解し、後を引き継いでくれればという気持ちを持ちながら、。
 十人十色の話にもどすが、この真意にはそれぞれの役割をお互いに認めながらという期待を感じるのだ。減点主義では無くて加点主義という発想も同じで、現代はこれがあってこそ成業の見通しが立てられるんじゃないかと思うのだ。
 ♪ 人生 いろいろ 男も いろいろ・・・・・・
 

2275:入我我入(にゅうががにゅう)

真っ赤な帽子をかぶり、合掌していらっしゃるお地蔵様・・・・・・アナタ様は何を考えておられるのでしょうか。
 ある出来事が起こってから私はこの石仏に対する気持ちの変化を感じています。以前に紹介しましたが、強風で倒れた標木をこの小さな体でそれも頭で受け止めた。これは奇蹟だと思うのです。本堂落慶の時に立てた4人でやっと持てるような標木は根本の所から腐り始め、手で動かすと少しづつ揺れるのを知っていた。それが先日の台風の時に夜、倒れてしまったのです。
 それから1ケ月ほどが経ちました。
 その間、尚恵学園では様々な事が起こりました。体調を崩し緊急に入院した方、夜暗くなってから園を無断で出て行った方、・・・・・等々。枚挙に遑が無いのです。考えて見るとその殆どが予測できたことだったかも知れません。
 しかし、それでいて何故繰り返されるのか。それには一つの理由があります。分かり易く言えば、”バリアー”の話をすれば良いのかもしれません。
 閉鎖か開放か、利用者の自由を考えれば答えは明らかです。しかし、それは表裏一体でリスクが付くのです。押し問答をいくら繰り返しても、所詮は何がおこっても責任は逃れられない。
 我々が利用者の立場になって考えることは重要な使命です。
 その事を考えれば、正直、満足するような支援とは成り得ない。これが実態、福祉には、本人の思いをどれだけ組み入れられるかという視点があります。
 完璧は有り得ない事です。
 入我我入は真言密教の観法にあります。少々専門的になりますが、この意味は、如来の三密(身・口・意)が我に入り、我が三業(身・口・意)が如来に入る相互交流(加持)によって真理を会得するというものです。
 言葉を変え、如来を利用者と考えれば、何をいっているのかお判りいただけるでしょう。ただ、仏教でいう修行は、一生をかけて行うもの、言葉だけで理解したというものではない。身は実践、口は言葉、意は思い。
 更に砕いて言うと、”やっている事と言っている事と思っている事”を一致させないさいと言う事になります。
 どうでしょう!皆さん。どんどん自分から遠ざかっていきませんか!こりゃー俺には無理だと。
 そこなんですよ。我々、福祉を志すモノの立ち位置は、自慢話などもっての外、これこそ外道だと一喝されるべきなんですね。
 現実には、人間によって裁定(チェック)することは不可能です。
 何か大いなる存在が必要です。自分を正直に曝け出せる対象が条件になりましょう。不可思議な力、それを経験する。
 すると、次に何が起こるかという希望が湧いてくる。合掌。

2276:資料の山

自家用車の後部座席にはいつも何らかの資料が置いてある。全てが会議などで貰った印刷物、正直、殆ど目を通さない。
昨日は、定例の東京での会議、資料ナンバーで19もあり、唖然とした。これを私だけでなく、仲間の連中にどう知らしめるかと思うと憂鬱、正直、知らせるべきか否かの判断だけで嫌になる。
 このような事が日本中で行われていると思うと大変なもの、最近はインターネットから必要な部分だけを自分で取りだすようになってはいるが、政省令や告示などは膨大な量でどこが必要なのかさえ判らない。
 また、政治の先行きが不透明だから、相変わらず、不確実な事が多過ぎる。条件付きの情報が多過ぎる。
2日間の会議とあっては当然泊りになる。水戸での会議と重なって、偉い遠回りで夜7時過ぎに東京に着く。夕食を兼ね、焼き鳥屋を見つけ先に来ていた事務局長と入った。浜松町近くということもあるが、3階建ての店は満席、さすが東京だと思った。
 「共生」とか「共有」と”共”という字がやたらと目立つ。これは現代の特徴の一つ、組織という場は、お互いが同じ目標に向かって何かを為すこと、書店の棚を見ればその種の本がズラリと並べてある。
 最近はハウツウものはなるべく買わないようにしている。結局は自分でどうやるかという事になってあまり参考にならないからだ。それよりも”数独”なる本を買う。またしても買ってしまった。これがレベルが20段階に別れていて段々難しくなる。簡単なモノは完成の目標時間が5分だというのだから、驚いた。私は上野から土浦までの乗車時間にやっと解けた。
 私の性分では何かに夢中になる。電車の中や寝床で読書より数独に変わった。これで判ったことがある。寝床でやると寝不足になる。当たり前だと言われたって構わない、何故かというと、必ず答えがあるものを自分の力で解く達成感だ。
 人間相手の仕事は言うに及ばず模範解答が無い世界。ああだこうだと堂々巡り、達成感を得ることより挫折感や無力感が多くなる。多分、それを補完するものが数独にあると思っている。中和剤である。
 大袈裟に言えば、人生論、・・・が確実に違うのは、問題そのものは誰かが作ったものという事だ。
人生は誰かが作ったものとは言い難く、敢えて言えば大いなるモノに登場して頂く事になる。
 もう一つ、私が中和剤として取り入れているのがジム通い、ちょっと混んでいるのが不満だが、私と同じ考えの人が集まっているのかと思うと我慢できる。その中で一人が気になっている。私より年が上だと思うが、ランニングマシンだけやっている。私が行った時には必ず来ているので、多分週6日は走っている。1回の使用時間が30分と決められているマシンでこの人は2回か3回走るのだ。ビッショリ汗をかいて、着替えてはまた走る。
 観察していると他の人と話したりは全くしない。ひたすら走る。実はこの方をどこかで以前見たことがある。どこかのジムだった。もう20年以上も前の話、となるとこの方は20年以上こうやって走っているのかもしれない。
 数独とランニングは別物だが、ひょっとしたらこの人にとっては中和剤なのかもしれない。余計なお世話だと思うから私も別に声をかけようとはしない。
 

2277:常識判断

私は時間がかかっても最終的には常識が勝利をおさめると信じている。
 例えば、善悪の区別、これは何を根拠に判断するかと言えば正直な処、決定的なものは無い。日本が法治国家の立場をとっても、果たして現実がそうなっているだろうかと思えば疑わしい。領海問題一つにしても双方の言い分には隔たりがありますしね。所詮、人間が考え出した規範だから背こうが守ろうが、無関係なものには大した話ではないからだ。
 斯様に断ずるには、聊か躊躇もありますが、世の中の有り様を見ていると決して的外れの独り善がりとも思えない。
 たった今、揺れを感じた。
 然程、強い揺れではないが、一瞬、3.11の6弱の大地震が脳裏に浮かぶ。あの時、日本人誰しもが何かを感じたに違いない。しかし、実際にどう変わったかと言えば良く判らないのではないでしょうか?
 被災地の人達に運が悪かったねという慰めは、禁句だろう。それよりもいかに復興への一歩が踏み出せるか国民全体の議論となり支援すべきなのだ。
 時々、東京に出るが外見上は全く前と変わらない。居酒屋によれば、楽しそうに酒を飲み交わす連中で満席。
 これをどうのこうの言うつもりはないのだが、このギャップをどうにかできないのかと訝ってしまう。
 常識と連帯は切り離せない。今風の流行語で言えば絆だが、これが弱まれば常識だって薄まるはずだ。
 私が最近感じていることは、数値化による是非の判断への疑問である。何らかのイベントや研修会を行う時にいつも問題になるのが参加者の数、中身が問われる前にいかに多くの参加者を集めるかが主眼となる。
 これを根本的に変えるには、相当な覚悟と勇気が必要だ。
 だが、違った視点でみると大事なことがそこに隠れていることに気付く。”無駄”というもう一つの社会的問題である。
 湯水の如く公金を浪費したツケが今どうなっているだろう?何十億円もかけて作った超豪華な建物を二束三文で売りに出した○○法人の後始末、最早メデアは取り上げず国民の関心も薄れた。これが常識なのか否か。
 結局は、今の状況は今を生きている我々の責任なのである。
 永田町では、またもや始った。政界の再編成とは上手く言ったものだが、実状はどうなんでしょうね。政界の常識が庶民の常識とここまで乖離した状況は過去にあっただろうか?
 震災復興担当大臣がまたもや替わった。法務大臣が1カ月もたずに替わる。これが常識と言わんばかりの態度にうんざりだ。
 果たして日本の選択肢にヨーロッパ型の高福祉高負担が馴染むのか?これすら明確な方向付けができない。
外部サービスの参入をし易くするのは大いに結構、しかし、危惧される事も多い。それは、我々の事業を圧迫するという理由ではなく、常識と連帯の確信の持てない社会に果たして上手く適合できるかという不安である。
 

2278:元気度

企業会計の仕組みは良く解りません。家電御三家といわれたパナソニック・ソニー・シャープが3月期決算見込みで大幅な赤字になるという。H17より日本の会計基準で減損処理を行うように義務付けが為され、所謂一般に言われている簿価と比べ見込まれる赤字額が増えたという。
 日本の技術は世界に誇ると言われ、世界中に日本製品が広まったのは事実です。それが今、外国の新興企業の攻勢に防戦一方、いつの間にか揺るぎなかったトップの座を譲ることになっている。
 もしも、日本企業の技術で”元気度”を測定する機械を開発したら売れるだろうか?最初に自社の元気度を計る勇気が有るかどうか、企業向けから個人向け測定器とヒット商品にならんだろうか?
 根拠は曖昧だが、目に付くものの元気度を測定してみると、誰かが疫病神ではないのかと思う程、元気度が低い。総合評価で日本全体が過去の絶頂期からみれば下降線を直走る。
 多分、元気度の評価条件に身の軽さ(対応力&即戦力)と信頼度は不可欠でしょう。要するに身が重いというのは人間の体で言えば贅肉が付き過ぎたこと、必要以上に栄養を取り過ぎ、運動不足が原因だ。信頼度は健康度とイコール。
 夜の8時頃、街を通ると解ります。煌々と電気がついて人の気配を感じる建物、その代表格が学習塾、駅前周辺にあります。 前から気付いていましたが、名古屋駅には某予備校が昔から陣取っています。その代りに、デパートがどんどん郊外型ショッピングセンターに客を喰われ撤退しシャッターが下りている。
 (* 学習塾は初期投資が少ないというメリットがありますが、その手軽さ故に競争相手が増え過ぎ、少子化の影響下。)
 もの凄い勢いで増え続けたコンビニは、飽和状態となり店終いする所が増えている。予約しないと診て貰えなかった歯科も増え過ぎて、今時予約などしなくてもその日に診て貰えるようになりました。
 難しい国家試験を突破した弁護士でさえ、公的な相談センターなるものができて、繁盛している事務所はどうでしょう?
 日本は島国で、その文化の基底には共通するものが多く、風習や伝統行事が似通ったものが多い。
 それが明治維新後、外国との関係で変らざるをえなくなった。
 日本人の模倣する能力(器用さ)は世界でもトップクラス、これが今、逆に仇になっていないだろうか。特に技術やアイデアの独自性を競うことにかけては後進国かもしれません。
 流行に左右され、真似て起こしたものは、その大半が短期間で挫折していると思えるんです。
 それらは所詮、二番煎じ、只管諦めないという気力に欠けますね。外見は派手に振る舞って上手くいっているように見えますが、その中身となればどうでしょう。始めると同時に撤退を考えている?
 これが現世の実態か。
 仏教の立つ位置は、これを直視することから始めなさいという事です。そして、最終的には身ぐるみ全て脱ぎ捨てて彼岸に渡る、これが宿命だと言う。自棄に冷たいなと感じますか?
 良く考えれば解るんですがね。解っても実践できるか否か、これが”元気度”のバロメーターであることに間違いない。
うだ うだ。
 

2279:見究める

記憶力の減退を痛感している。今年62歳になってこれも年齢としては平均的な事なのかも知れません。先ず、人の名前が浮かばない。顔は解ってその方との関係も解るのだがなんと言う名前だったかが思い出せない。それが後でひょんな時に思い出す。こんな経験は誰にもあることでしょう。多分これをまだらボケとか言うのかも知れませんが、ちょっと酷くありませんか。
 それと漢字の度忘れ、これも確信が持てない字が増えた。
 憂いることは無い! その逆現象もあります。見究める能力は、年と共に強化されたように感じます。人を見る目とでもいうのでしょうか、相手の言動からこの人は何を考えているのかが分かるようになりました。
 専門的な事は解りませんが、能の機能で場所によりダメージの違いがあるんだと思う。それと経験の厚みの差もありましょう。
 人の話を聞いていると、定番の話を時間構わず長々と話される方がいる。その一方で機知に富んだ深みのある事を実に上手く話される方もいます。この違いは一体どこから来るのでしょうね。
 場に合わせた語りは、相手の反応に敏感でなければできません。その反応を確かめる能力、それが見究める力だと思っています。
 的確な状況判断がいま一番必要になっていると思います。

何故こんな事を考えるようになったかと言えば、知的にハンデイがある人達と接していると、相手を見究める能力の凄さを感じるからです。彼等の中には言葉が無い方もおります。字が書けない人も大勢います。でも違う面では我々がとても敵わない能力を持ち合せている。
 これが社会で必要とされる能力なのかどうかは別物で、人間対人間の関係から見れば大切な力だと私は思うのです。
 会えば必ず手真似で草刈りをしろと言ってくるKさん、3つの動作で私との対話ができるSさん、そして、思うようにならない事を地べたに大の字なって訴えるOさん・・・・・・・。
 彼等は何かを伝えたいとおもってそんな行動をしているのです。
 これは、受け止める側で、また始まったと思う人もおるだろうし、どうして?と考える人もいる。
 どうして?と思う事が大切なんですよ。見当外れの事があるかもしれない。そんな時、彼等はハッキリとNOの反応を示すからです。
 

2280:郷土愛

筑波山麓・・神郡・・・
肥沃で広大な関東平野の北東部に位置する郷土”茨城”、常陸の国として古くは万葉集に詠われた。耕作面積が広く、その潜在する豊かさ故に、茨城県人の齷齪せず大らかな県民性が生まれ、様々な統計で全国下位のランクを付けられても一向に気にしない。逆に言いたい奴には言わせておけばと動じない。だからかもしれない。全国を漫遊した水戸黄門が民放の長ランク番組の確たる位置を占めてきた。ノーテンキにも印籠がまだあると信じている?また、時代の変わり目に疾風の如く現れる水戸学の薫陶を受けた志士達・・・・・。
我が郷土”茨城”を語れば切りが無い。
 上記写真は昨日、久しぶりに訪れた筑波山麓の神郡から紅葉を待つ筑波山を撮ったもの。そこには昔からの生活が至る所に発見できた。
 田んぼの畦に寝転んで読書する心地よさ、車の往来は殆どなく、稲刈りを終えた田は静かに冬を待っている。私は出掛ける事が多い。殆どが車か電車を利用する。時間の調整や体を休める場所を都会で見つけるのが難しい。働く場が都会一極に集中し、長い通勤時間を超満員の電車に揺られる日々、週末は消耗した体力を取り戻すためにだけ使われ、家族の団欒などに気が回らない。
 そんな人達が実に多いと感じます。そして都会の近郊に広がる住宅地、いま、そこに新たな問題が生まれている。それは子供達が出て行って老夫婦だけが残った家が急増、街の有り様が変わった。
 それは精々40年〜50年という時間内に起こった事で、計画段階でこうなるだろうと言う想定が有ったのか無かったのか。
 社会保障の仕組み作りは、長期展望に立ってなされるべき、目先の対応に四苦八苦している今の状況は、何か大切な事を落とし忘れてきたからだ。
 それが何だろう?
 今からでも遅くはないのだろうか?優秀(?)な官僚や学者が智恵を絞って考えることは、所詮机上での絵パズルごっこ、人の体温を感じない施策は、不満が起これば一部改正を繰り返すだけとなる。
 このことが如何に無駄な事か、最近の障害福祉の動きだけみても確信する。
 私は、別に全てを国が賄えば良いとは思わない。一人一人の役割があってこそ共同体が芽生えると信じるからだ。
 自由という概念が一人歩きしている状況は長く放置しておくと弊害になる。義務は棚上げし権利を主張するものが増え過ぎる結果を生む。今の日本の病巣がそこにあると思ってしまう。(言って置くが障害者権利条約は例外中の例外だ)人間がこの世に生を受け、一つの役割を持って生きていく、老・病・死は決して時間の長短ではない。
 私が関わる狭い社会でさえ、様々な意見が混在する。人と人の関わりで、言動に矛盾を感じ、それを無意識に放置してきたツケが出た。
 その一つの原因を私はここに見る。”学ぶ”という事、日本の教育が当にそうだ。洩れなく聞いて覚える事が良しとされるような義務教育が長年なされてきた。そこに大きな欠陥をみる。体験無くして何が本当に身に付かると言うのか。自ら考える力、これには当然失敗が付き物、それを周りが箒で掃いて障害物をどかして何になる。
 促成栽培よろしく、短期決戦で結果オンリーの塾が盛っている。
 原発の事故が起こった。30年以上続けてきたシイタケ栽培、セシウム含量の基準オーバーの影響を受け、完全にストップ、。これに対して何の補償も無い。無節操に利便性と自由、さらに権利の主張が大手を振っている。この基準だって人間が考え出したもので絶対ではない訳ですよ。
 

2281:暗中の模索

自らの人生に確信が有るか!暗闇の中を手さぐりで恐る恐る捜し求めるのが精々、調子に乗って欲を張れば偉いしっぺ返しを喰らうことになりましょう。
 控え目に生きさえすれば波風がたたず、穏やかに生きられると思いきやそうとも限らない。なんとも奇怪であります。
 現在の私のこころもちは正直申して、暗中模索という状態です。まっこれは誰しもが似たり寄ったりだから、別に同情を得ようとかは思わない。
 立つ位置とか視点という問題になると厄介になるが、何を考えどうしたいのかを確かめ合う必要性を諸に感じているのです。 ”個の尊厳”という事一つをとってみても多様な考えが交錯し、結論が出ない。これら全てが永遠の課題だと言ってしまってもスッキリしないのです。
 何をゴタゴタ言っているかと叱咤されるのが落ちだ。でも、アメリカの大統領選挙と比べ、日本の首相選びの間怠るさはどうしたものか!盛り上がりは比較にならず、あちらはなってしまえば4年間は続く。
 このじれったさにウンザリしている国民が殆どで決められない政治とか言っているが、最初から決めるつもりなんかないんじゃなかろうかね。
 いまさら政治家の資質を云々しても仕方が無い。こんな状況でここまで戦後復興が出来たのは奇蹟だ。そして60年以上が経った。
 人口の大半が戦争を知らない世代となり、糸の切れた凧の如く揺らいでいる。
 国政に期待できなければ地方政治にモノ申すより仕方がない。だが、日本はこれが問題なのですよ。
 大阪・名古屋・東京と名だたる大都市の首長が痺れを切らし動き始めた。さてどうなりますか?
 益々昏迷を深めるだけか、それとも期待の星となりますか。一般市民の盛り上がりは低く、模様眺めの様相を呈す。
  しかし、視点を変えれば日本の素晴らしが見えてくる。
 安全や自然の豊かさは申し分ないことは誰もが認めること、それに数字で示せば平均寿命は男女とも常に世界のトップクラス、長生きすれば老人が多くなるのは当然で、それをさも問題であるかのごとく宣伝するメデアもどうかと思う。
 いま、我々が出来る事は、不満を大声で叫ぶより、この国の素晴らしさを皆で確認し語り合う事なのかもしれません。
 本当にそう思います。
 

2282:強靭

強靭なる精神とか言われると私には無関係な世界、粘りっけなどなく簡単に挫折する。これを良く知っているから隠れ蓑を探し、言い訳を考える。図星でしょう。
 何かの交渉事、私が一番苦手な分野、いいや早く決めちゃえ やってダメなら 仕様が無い・・・・・・。
 多分、多くの人に迷惑をかけただろうと思っていますよ。せっかちな性分と大雑把、よくもここまで来たなと思うことばかり。
 アイツの言う事はコロコロ変わるとは余り言われたことはない。その逆で拘りが強い面がある。その点だけをとらえれば”粘りっこい”面もあるようだ。
 柳に雪折れ無しとは良く言ったもの、このしなやかさは柳の真骨頂、水気の多い処でも根腐れせず、成長が早い、昔から建築用材にはなれず、用途も限られてきた。
 その柳が人間様に例えられ、成る程と頷かせるとは、面白い。
 東日本大震災の前にニュージーランドで大きな地震があったことを覚えていますか。南島のクライストチャーチを直撃、市街地にある有名な大聖堂が崩壊した。その復旧がどれほど進んでいるのか分からないが、報道によると膨大な量の瓦礫処理で7割強が再利用されると言う。ニュージーランドには原発がない。その為放射能汚染がないので道路や港湾の埋め立てに利用するという。
 ニュージーランドの国の人口がどれくらいあるのか分かる人は少ない。調べて驚いた。なんと420万人、国全体でこれだけの数しか無い。なんと日本はその30倍、島国で自然豊かな国土は日本に良く似ている。だが、大きく違うのは人口数と自然との共存の考え方だ。
 隣に広大なオーストラリアがある。こちらは逆に広すぎて片隅に人間が住んでいるような感じ。
 1億2千万の人口は、国土の広さと比べ多過ぎるのかも知れない。格差が広がっていると言っても日本の状況はまだまだマシなのか?
 明日、ACE地方会をつくば市で行う。急いで準備したので見切り発車は否めない。本来ならばみんなに相談を持ちかけ計画すれば良かったのだろうが、正直、3人で殆ど準備した。
 ドイツやアフガニスタンの現状の報告から学生や教育現場の話、それと3人の言いたい放題セッションと短時間には語り尽くせないものばかり、丸1日ビッシリという内容で参加者もシンドイはずだ。それでも敢えて変更せずに決行する。当初の予想に反して参加者が予定を大幅に超え、イスの並べ方を変更した。閉めの交流会への出席者も2倍に膨らんで想定外。
 皆さん、何かを語りたいんだな。実はこの企画には裏があり、できれば次に繋がる礎になればという願いがある。
巷にはセミナーや催しが目白押し、こんな中で果たして来年また集いができるか否かは白紙である。できれば参加費無料で自由参加が望ましい。
 振り返って、私がこのコーナーで言いたい放題やって来れたのは何故だろう。この辺でギアチェンジしないとこの儘終わってしまうのではという一抹の不安もある。
 何でも良い。自分の思いを語り合う場が欲しい。これは多分多くの皆さんの共通の気持ちじゃないかな?
 地震や強風に耐えられのは鉄筋コンクリートじゃなく、柳の木だったことを思い起こしながら模索したい。

2283:会員募集

日本では様々な団体があります。近年、福祉関係の事業所の数は急激に増えています。これは条件を低くした為です。
 実際には休眠団体も多いのですが、認可される数は今でも増え続けています。そこで既存の事業所は今までと同じように胡坐をかいていることが出来なくなりました。競争の真っただ中に置かれてしまったからです。
 確かに私は社会福祉法人も大いに反省しなければならないと思っています。特権を与えられ、それに見合うだけの貢献をしてきたか?
 以前として出来ない言い訳を並べ、周りの同情を買うような動きをしていないか?我々を見る社会の眼は確実に変わりました。大変厳しいもので、要求も高まっています。ただ、幸か不幸か事業の継続に充分足る利用者が存在する。だからですね、何も慌てて変えなくても暫くは様子をみようとなる。
 ここに見誤りがあって、あっと言う間に経営不振に陥ることって多いのです。今時、理念無き事業体が有るのだろうか?
 実は良く判りません。
 企業は常に市場の動きを注視しています。勝ち組負け組の裁定が容赦なく下り、株主への説明責任で経営陣は頭を痛める。経営が不振の企業は、幹部はその責任を取らされ、社員のリストラを強行し身を軽くして再生をきす。
 解雇される人の立場になれば、どうでしょう?不安一杯で再就職先を捜すことになります。果たして前より好条件の職場が見つかるでしょうか?
 雇用側からすれば中途から入ってくる社員を好条件で採用するなど殆ど無いでしょう。現に働いている社員以上に条件を良くすることはできません。
 ですから、いつの世も職場を転々とかえる人は満足できる職場が得られ難いのです。
 日本ではデフレがもう随分長く続いています。円高も大きな原因になっていることは確かですが、消費者の意識が確実に変わった。それは物が溢れていることの無駄にやっと気付いて、あるもので充分事足りると思うようになった。
 恐らく、景気が改善することは、ずっと先になるのではないでしょうか。
 反対に今がチャンスと思う事もできる。本当に必要なものにお金を使うという事を各自が考えることです。
 懐工合が悪くなって会員制で金を集め起業するのが難しくなっています。バブル前のゴルフの会員権、購入時によっては新築の一軒家が充分たつ位の金で購入した人も多かった。それがどうです。二足三文でも売れれば良い位で持っていたとしても会員の特権は殆ど無くなってしまった。
 実はこれだって供給過剰だったからです。ゴルフ場が至る処に出来てしまった。明らかに自然環境の破壊が起こった。
 そのしっぺ返しが会員券の暴落という形になって表れたのです。ブームの時に大金を使って購入したのは自己満足、それをいくら後悔しても後の祭り、ローンを組んで買った人は悲劇です。
 この失敗経験がその後その人にプラスに働くことがあるだろうか?上手い話には裏がある。解ったかな?その見究めと相応のお付き合いを自らの責任で行うことしか無いようです。

2284:気持ちを切り替え

 お疲れさまでした。お陰様でACE地方会を無事終わることができました。皆さんに心から感謝申し上げます。
 月並みの言い方になりますが、人との出会いはヒョンなことが切っ掛けになります。それは時間の長さとは別物で一瞬にして出逢った頃のことが浮かんで来るものです。交流会の会場は熱気を感じました。多少、重い内容の話もあって、参加者の皆さんが言いたかった事が一気に吹きだしたように思われました。
 少し疲れました。でも、また頭の中に次なる事が浮かんでくるのです。これって病気かもしれません。憂いや不満、それと不安が今の日本中を覆っているように感じます。実はこれって周期的な廻り合わせなのかもしれません。
 繁栄を良い事に何か大切なものを忘れてしまったと言われます。でも、誰に聞いてもどうすれば良いのかが解らない。
今回の企画で、私の正直な感想を言います。準備の段階で何度も会って話をしました。それにかけた時間とは無関係にアフガニスタンの現状の報告で全てが変わったように思います。
 日本の抱える問題と全く次元の異なるような実情を知らされ、参加者の眼が変わった。変わらなければ嘘だ。
 知らない事の恐ろしさ、知らなかった事を言い訳にすることはナンセンスです。それと、充分働ける人達が年金生活を最後の砦とする。これもまた贅沢な話です。
 今回の企画で2つのキーワードを感じました。
 ”笑顔”と”働く”と言う言葉です。
 日本人がひょっとしたら失いかけている”笑顔”、それも心底から笑えるような笑顔。さらに働くという事、どうですか?
 定年まで頑張ったんだから、ゆっくりしたいと思う気持ちは充分解ります。でも、何をして過ごすのですか?というと曖昧な答えしか持ちえない。
 無駄を省くとか意気込み、事業仕分けを行いましたよね。でも、何かピンとがずれたものになってしまった。これって何なんでしょうね。
 私は思いますよ。自分のことは棚に上げああだこうだと言うからで、一番無駄なのは自分の持ち時間を如何に悔い無く生きるかという話ですよ。
 アフガニスタンの平均寿命は男女とも現在44歳位だと知りました。なんと日本人はその2倍生きる訳です。そのことを我々がどう考えるかなんですよ。
 快適で高級な介護施設に入って老後を過ごす。これが幸せなんでしょうか?私はそれを望みません。できることなら自分で箸をつかって食事をし、働きながら最後を迎えたい。
 人間の窮極の願望が実はそこにあると思うのです。                  〈ACE地方会を終わって〉
 

2285:涙と笑い

人は一体誰に向かって自らを省みるのでしょう?本当は誰しもが自分自身と向き合っているのですが、その勇気が無いのです。ですから神や仏をおいて、自分の感情の起伏を宥めるんだと思います。
 ACE地方会が終え、一晩寝て考えた。それは”涙”と”笑い”でした。これって実は相対するものじゃない。
 何故、こんな事を考えるかといえば、自分自身を見れば直ぐに分かるんです。僧侶という職業は、いつの間にか亡くなった人との関わりが専売特許となっています。そこで見かける様々な涙、真の涙なのか否か大体解りますね。
 義理の親の葬儀で流すお嫁さんの涙、最愛の我が子を失った時の涙、・・・・・・。
逝ったものが、どうなるか?昔から仏教では地獄や極楽を説いてみせたのです。でも、私の知る限り、先人達のホンネは、逝った先の世界を語れない、語らないという事では無かったかと思っています。
 安心を得る便法としてならば頷けますが、自分が体験したことのないことを他人に伝えることは、相当の覚悟が必要です。
 そして、それへの評価は全く別物です。
 先の集いで、テイブレーク時にメンバー達のベル演奏を入れました。5人のメンバーでIさんが亡くなり1名だけが替わりましたが、彼女たちは実に20年以上グループ演奏をしています。
 今回、スタッフからこんな話がありました。「園長!○○さんに話してくれませんか。最近、演奏に行くのに腰が重くなって・・・」
 この話を聞いた時、思ったのです。彼女達が望んでいることは、違うんだ!と。
 この何気ない声(つぶやき)に、我々が耳を傾けてきたのだろうか?これも、今回の一つの気付きでした。
 何か人は時間に流されてしまうと感動が弱くなりますね。永遠に続く時間ではなく、限られた時間でのこと故に。
 もう一つ、Kさんという男性のメンバー。彼は尚恵学園の中で一先にGHへ移る人だと私は思っていました。でも、彼は頑なに(?)にGHへ移ることを拒み続けるのです。
 何故なんだろう?と思うのですが私には解らない。多分、彼の思いは我々に想像できない程の深いものが有るんだろうと思います。
 俺は、母ちゃんと一緒に住みたいんだ!かもしれない。となれば、いま我々がやろうとしている地域移行が薄ぺっらで形だけのものと思えてしまう。
 共生と自立、これは永遠のテーマ。でも、諦めて今のままで良いと思うんじゃなく、何か他の方法を考えるべきなんだと思う。
 涙と笑いは若さを保つ特効薬でしょうからね。最近、私の涙腺が緩みっぱなし、この是非はいかに?

2286:評価ゼロ

人の評価ほどいい加減なものは無い。それは相手に対し正面から批判する人は少なく、特に日本人の国民性&美徳からして斯様な人間は毛嫌いされる。とは言っても影でコソコソ言う人が実に増えました。
 今の時代ではどうなのか? その根拠はいくらでもある。ゴマスリや持ちあげカバン持ち・・・そして肝心な時に知らぬ顔。これが日本人の美徳か? 泣けてくるね。寂しいね。
 週刊朝日という雑誌の社長が某記事の責任をとって辞任した、私などにはこの真相は解らない。正直興味もない。メデアの暴走か或いは言論の自由か?
 その日あまり大きく報道されなかった事があった。それは某大物(?)政治家の裁判結果、ここ最近はテレビや紙上に出ることがメッキリ減った。この真相も解らない。
 一つの視点として、世の中の関心が薄れることを一番恐れる人達でしょうよ、その内容の如何を問わず、一連のドタバタを自分の利にしようとするのではなかろうか!
 私は寧ろ世の中には目立たずひたすらに頑張っている人達にこそライトをあてるべきだと思いますよ。
 誠に残念なんですがね、メデアは目向きもしない。否、違う、そのような人達は脚光を浴びたいなど望まず多分拒否するでしょうね。これ私の確信です。
 昨日、炬燵に入り数独を一人でやりながら国会中継を見ていた。
 なんとまーお粗末な攻防だこと。予算委員会という看板に偽り有り、そこにはカメラを意識したパフォーマンス、野党も同罪、彼らはどうにかして解散を野田さんの口から言わせようと躍起になり、質問も大臣の任命責任なるトンチンカンな事を繰り返す。何これ?予算とどう関係するのよ。危機感を全く感じない人達だ。
 数独ならば完成した時の喜びはある。しかし、相も変わらずこの国会審議だ!正直全ての議員に辞めて貰いたい。これこそ税金の無駄だ。多分、議員達は地元に帰れば非難轟々、只管頭をさげ言い訳に四苦八苦だろう。
 国民のレベルの政治しかできないという明言、ここなんですよ、落とし所は。
 政治家は事務方の責任とする。これだってお門違いでしょう。大臣って何なの?事務方のトップであるわけよ。事務次官云々、ちゃんちゃら可笑しいね。ダイジン様・・・貴方が一番偉い。その自覚がない。自らの能力不足を仕組みの所為にする。この構造は今に始まったことではない。それを放っておいた国民が悪い。数字は定かではありませんが、民主党政権になり、大臣就任者が3年で62名とか?なにせ9名も替わった大臣ポストがあるという。事務方に私は同情するね。
 この円循環は結局廻り廻って自分にかえってくる。
 評価を気にする人は、いずれにしたって評価はゼロに向かうのですよ。古くは仏教書を開かずとも、教えがあった。無功徳という三字。簡単に言うと自らの引き際を間違えるなという事にも通じるんですが解らないでしょうね
。ああ・・・踊るおーどうなーら 東京音頭 ヨイヨイ。

2287:悩める人よ

真剣に自分に向き合えば誰しもが多くの悩み事を持ちますね。逆に、評価や外見を気にしている人にとって、一番怖いのが有りの儘の自分を見る事です。
 その事は先人が自らの体験を通じて説いている。器用で話術に長けている人は気を付けたほうが良い。
 世の中で上手く行った話を良く耳にしますよ。それは薄っぺらで見る人が見れば直ぐに解る事、そんなに自分を認めて貰いたいのですか?
 私はね・・・、ここん処が判らないですね。
 仏さんは、生きていることが”苦”と言った。うじゃー死んじゃおうか!それって誰もが簡単にできんでしょう。だから悩むんですよ。いずれ死ぬんだから急がんでも良いでしょう。
 至って単純明快なんだな。
 仏教の修行で一般的に良く知られているのは、”坐禅”でしょうか。これを体験した方なら解って貰えると思うんです。
 そう簡単に無の境地なんかになれませんよ。静かな処で只管座っていたら逆に雑念・妄念ばかりが頭に浮かぶ。これを追い払おうとすればするほど新たな雑念が生まれます。
 私は、これが普通で、坐禅で悟れるなんて言う話は異次元だと思っています。ただ凡夫の我々でも一つのヒントを感じる事ができますよね。
 坐禅は先ず呼吸を整えることから始めます。真言宗の観法も同じです。これって実は雑念を無くす為に行っているのではないと思うのです。
 生きているということが”苦”と言った釈尊、苦の意味は「思うようにならない事」という解釈です。先ず呼吸から入るのは心臓の鼓動を聞いて、ああ・・生きていると。  これって普段の生活では実は感じないでしょうよ。
 急性心不全とかで突然亡くなる方もおります。その瞬間、ご本人は今心臓が止まるという実感があるでしょうか?
 心臓の鼓動。これって自分の意思で動いているのでしょうか?
 坐禅を通して何を観じるかは、私は今、生きているということだと思うのです。師家に言わせれば間違っているかもしれません。
 自分が幸せ絶頂な時に坐禅を組もうなど誰も思わない。何か悩み事があるとか迷いを感じた時でしょう。
 ですから迷いなんていうものは特別の事じゃ無く、当たり前なんだと知る、これしか無いと思うな。
  人の生き様は十人十色、それを比べてどうなりますか。根本的な事は何も変わらないし、こればかりやっていると自分捜しは遠のくばかり。
 
 まーこんな事を言っている自分自身がとても恥ずかしいという思いは有りますがね。 仏様は全てお見通し。
 生臭説法これ如何に。

2288:解散条件

昨日の党首会談で野田総理が16日の衆議院解散を条件付きで公言した。切羽詰まった状況でこの期を逃しては解散発表の場が無いと判断したようだ。一斉にメデアはテロップで総理の発言を流す。街では号外が出る騒ぎ。
 しかし、有権者は冷めている。このギャップは一体どんな意味を持つのだろう? 国会の動きを見ていれば誰だって解る事、何度同じことを繰り返せば気が済むのか。一方日本がGDPで世界2位の座を奪われた中国は2期10年を続けた書記長の交代があった。同じ東アジアの中核国の政治の格差、韓国も近く大統領選挙を控えている。韓国だって少なくとも4年間はトップを変えずケジメを付ける。
 日本の頻繁な交代劇はケジメではなく、陣取りゲーム感覚。
 衆議院定数削減を条件に解散するという。その後様々な動きが見え隠れ、党利党略というよりもいかに自分に有利になるかという事しかない。
 この騒ぎは世界の動きとはかけ離れた状況で、何の疑問も持たない全ての議員に有権者は匙を投げた。その反応が昨日のドタバタ騒ぎの裏の実態である。
 トコトンまで行かないと変わらない体質は政治だけではなく、日本全体の仕組みに蔓延していること。今状況の結末をどう見るかは正直確信が持てない。
 私が関わる宗教(仏教)と福祉を見廻すとかなりズレを感じる。一言では言えないが、自らの立つ位置がぐらついている。これは誰の責任でもなく、自らが見つけなければならないことです。
 この歳(62)まで生きてくると出会いや別れを多く経験した。不思議なもので常に問いかけているのは既にあの世に渡った人ばかり。「あなたならどう思うよ?」
 昨日の党首討論で野田さんが語った小学校時代の親父との遣り取りが妙に心に残った。
 多分、彼はいつも自分に問いかけてきたはずである。つまり、何故自分が政治を志したのか、その原点に幾度となく立ち帰り、今回の決断(?)をしたと私は推測する。
 少なくとも2代3代目の議員よりは明確な自らの意思があると信じる。
 消費税アップを国民にお願いする条件に政治家自らも痛みを引き受けるという約束、果たして彼の思惑通りにいくかどうか?
 まだまだ有権者自身が主体的に選挙に関わるまでにこの国は至っていない。これは視点を変えれば怠け者の政治家にとっては絶好の環境だったはず、結局、有権者(国民)自身が変わらなければ何も変わらないといういつでも同じ結論になってしまう。
 

2289:小淵沢

2日間の関東代表者会議が山梨県の八ヶ岳山麓にてありました。茨城県からは各種別の代表が総勢15名参加してくれました。土浦から山梨に行くには不便です。どちらも新幹線が無いから遠回りして電車を3回乗り継ぎやっと着きます。
 そこでの内容は触れません。
 私は小淵沢駅には40年以上前に何度か来ています。山登りの出発点として、一番の思い出はやはり二人で甲斐駒ケ岳から登り始め静岡県の光岳まで南アルプス全山縦走、テントを入れた約40キロのザックを後輩には負けて堪るかと喘ぎながら登った思い出です。その後何度か小淵沢には来ています。八ヶ岳を一人で歩きました。その山々が今回ハッキリと見えたのです。
 甲斐大泉という駅は小淵沢から小海線で2駅目、これがまー何とものんびりしたものでワンマンカー、駅には女性の方が一人いるだけ、さてタクシーでもと思ったが全くなし、店も無いような駅前、振り返ると南八ヶ岳の赤岳が良く見える。
 10分以上歩いて会議の会場につきました。恐らく山麓を利用した別荘地帯として開発された場所なのです。
 さて、2日目は東京に用事があり、朝会議に出ずに一人で帰ることにしました。小淵沢の駅に着くと、千葉県のSさんがやはり早めに帰るといって来ていました。駅ホームで特急を待っている間、話が弾み、ホームに入ってきた特急に何の確認もせず乗りこみました。
 すると何とそれが東京とは逆方向の電車、ほぼ同時刻に小淵沢に着く上下の特急が有ったのです。知らなかった!
結局長野方面に向かう電車で最初の駅で途中下車(?)上りの電車を待つことに。
 しかし、その駅は上りの特急が停まらないときた。ああああああ。そこでまた小淵沢に戻り、次なる特急を待つ羽目に。
 結局優に1時間以上のタイムロス、事は考え様でSさんとは良く顔を合わせてはいましたが、お互いにあまり話すことは無かった。それができたのは逆に良かったと思いました。
 東京の会場には受付時間内には間に合わなかったのですが、後ろの席にどうにか座ることはできました。
 なんとも慌しい2日間でした。温泉付きのホテルなのに風呂に一度も入らず、2日目の会場がどこなのか解らずに来てしまった。
このチグハグさは誰の所為でも無い。
 そうそう、1日目の会議で≪本人の意思決定をどう支援するか≫というテーマが話された。
 自分自身がこのザマで、どうして他人様の意思決定のサポートがきますか?って言うんだよ。
 ・・・・・雪かぶる 連なる山々 懐かしむ
                 その一時の 思い出多き 我が青春・・・・・・
                        * 62歳 初老などとは言わせない*
 

2290:心配り

私は最近、こんな事に無性に喜びを感じるようになりました。
 昨日、時間が有ったのでジムに行ったのです。帰る時、外は雨、傘が無かったのでどうしようかと思ったのです。そしたらね、入口の処にレンタルカサと書かれたビニール傘が何本も置かれていました。自由にどうぞなんです。
 前から感心していたのですが、ここのスタッフが笑顔で必ず挨拶する訳ですよ。スポーツジムの運営を全国規模で展開する会社だけにさすがだと何時も思います。
 そこなんですね。私共が本来気付かないといけない処はね。
 人がいないとか時間が無いとか。。。。。無い無いばかり。そう言って変われば良いですよ。でも変わらんでしょう。
ならば工夫しないとダメなんだわな。
 特にネット販売の業界は熾烈な競争をしています。注文を受けてから翌日配送なんてのはこの業界の常識になっていますし、服なんか試着して30日以内ならば無料で引き取るという熱の入れよう。
 他店と同じようなサービスでは生き残れないという理由からです。
 こんな話を先日ある処でやりましてね。福祉の業界も”風”を感じながら経営しないと不味いでしょうという。
 何かどこかの経営研究会で聞いてきた話の請け売りみたいなんです。
その時、ちょっと待てよ!と瞬間思った。この人の風は違うぞ。 言っている事とやっている事が違う。多分、信用の持てない人間の話は、どのような内容であったとしてもセキュリテイが働くんですよ。私は決して靡かない。
 上手くは説明できないのですが、風という字は1字を付けると風評という字になります。これが結構、役にたつんですね。
 まっ 言わせて置けば!という事でしょうね。
 私は”風を感じる”ではなく”風を読む”だと思うんですよ。同じこと?世の中には良いとこ取りする輩は捨てる程います。でもその末路は、悲惨なもの、だってそうでしょうよ。身近にいる人ほどそれが判るからです。
 福祉には良いとこ取りの手法は馴染まない。全くその逆なんだから。多分、福祉系と称する学校でそんな話をする教師はいないのかも知れません。
 戦後、67年が経ち、日本人の心で大きく変わったなーと思う事の一つに、福祉の世界に儲け話が堂々と語られるようになった事です。表向きとホンネを上手に使い分けてです。
 でも、昔を知る人がいる間は、そのメッキは簡単に見破られるものです。どんな言い訳を聞いても、聞けば聞くほどメッキが剥がれ落ちる。
 これは福祉というものが本来、そんな宿運を担っているからなんですよ。