源究123

  

NO テーマ  月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
1971 大阪の陣 11/29 1976 埋め合わせ 12/4 1981 背伸び 12/9 1986 檄書 12/15
1972 熟慮断行 11/30 1977 輾転反側 12/5 1982 生きる価値 12/10 1987 スキャット 12/16
1973 ギックリ腰 12/1 1978 銀杏 12/6 1983 懸命の地 12/11 1988 冷温停止 12/17
1974 不安定 12/2 1979 ライフ展 12/7 1984 忘年会 12/12 1989 親の願い 12/18
1975 宗教論 12/3 1980 労働の価値 12/8 1985 12/13 1990 本人の願い 12/19

1971:大阪の陣

大阪都構想という旗印に浮動票が集結、府知事と大阪市長のダブル選挙は予想以上の票差がついて終焉した。
 名古屋市長の河村さん、ここ暫くメデアに登場する事が無くなって何をしているのかと思っていたが、早速、今回の大阪の結果をコメントしていた。一方、東京都の石原さん、大御所的存在で最早盤石の体制で陣を張る。ご三方が口を揃えて訴えることは、国政への批判、いつまでも待ってなどいられず、自らが戦いに臨むとなった。
 地方から狼煙が上がったというには、三大都市の首長だから国も無視できない理由がある。地方の首長と政府の大きな違いは、外交や防衛という日本全体の決めごと。一様に訴えるのは、その重要案件に対しても政府の一貫性の無さと弱腰の姿勢への不満だ。
世界で発展が最も期待されているアジア、その中で目覚ましい変化をおさめている大都市、上海、ソウル、シンガポールなど・・・・・。大阪維新の会の代表と幹事長が学ぶべき視察先として選んだのがアジアのこの大都市だったという。
 
 停滞感漂う国政の中、これらの人々がカンフル剤となり、やる気があって優秀な人材を動員し、新たな動きとなりますか。
 一先に震災被災地の瓦礫処分の受け入れを決定した石原知事、この決断に追随する地方が出ない。私、個人的には受け入れるべきだと思う。同じ日本国で起こったこと、復興の優先順位で言えば、瓦礫が至る処に山積みされている中では、手が出せない。放射能汚染という事に余りにも敏感になっている割には、やっている事がその場しのぎ。
 除染ひとつとっても、園庭の表土を取り、新たな土を敷けば安全なのでしょうか?
やらないよりはまだ良いという事。しかし、このペースで除染を全て行うには、今後どれだけの年数がかかるのでしょう。
 国の容を変える事は絵パズルを完成する時と類似し、全体をイメージするとなかなかできません。それより合うピースを先に探し、徐々に全体を形作る事のほうが早く完成できる。膨大な量のピースを地方と考えると地方同士がその特徴を出し合い、実行に移しながら、連携を結ぶ。
 この方法でしか日本の再生ビジョンは描けないのではなかろうか。分業&複雑化した行政機能、そこに非効率な実態と無駄が蔓延る。その意味では私は大阪都構想に大賛成。何もしないで内部から変わろうとしても無理、そのことは現場担当者が一番分かっていること。何故しない?簡単です。自らが強靭なお堀と城壁で守られて来たからです。
 時代は大きく変わったのに城内で行われていることは太平の世と全く変わらないことをやってきた。そのツケが庶民の不満として噴出している。誰だって血を流す事は避けたい。その良き例が北アフリカで連鎖的に起こった市民による改革の嵐、あっという間に旧体制が崩された。日本だって例外ではない。ヨーロッパの情勢が瞬時に入手できる時代、それをグローバル化とかなんとか言葉はどうでも良いのだが、政府は日本の借金は国内で賄われているから安心だと火消しに躍起、その実態を明かそうとしない。
 日本のトップ企業の資本比率を見れば、そんな悠長な事は言っておれまい。先日、日本IBMに定年まで勤めた知人と話をした。彼が言うには”パナソニック”だって日本人社員の数はもう2〜3割で海外に拠点が移っている。オリンパスの経営実態を暴露したのはイギリス人の社長。
 ニッサンだってゴーンさんでしょう。国内の資金で賄われているという説明の底知れぬ危険性、それを追い打ちするような例のギャンブル会長の非常識。国内第三位の企業の経営体質があの様であった。持ち株を売れば借金は返せると手続きを踏まず電話一本で高額の金を振り込ませた。企業の社会的責任を問うのであれば、いくらオーナー企業と言っても、あの会長一族は保有する株を全て処分し株価の下落分を全ての株主に還元し、全ての要職から辞するべきでしょう。あそこまであか恥をかいてもその座に留まろうとするのだろうか?問答無用。
 斯様に日本の実態は基礎が大きく揺らいでいる。
 大地震の恐ろしさ以上にこの脆弱な日本の足元に根本のリスクが潜んでいる。
 

1972:熟慮断行

私の性分で、グズグズが嫌い、熟慮断行と言えば格好は良いが、イマイチ切れ味がよろしく無い。
 某団体の役員改選時、そろそろお暇をと思っていたが、形勢は不利、結局、優柔不断、為すがままになってしまった。周りからはなんやかんや言われたが結局は自分で決めること。暫く続けることになった。
 引き際が難しいと良く言われるが、私も全くの同感。ズルズルその場に居続け良いことなどない。不用の用となるには、それ相応の才能が肝心だ。
 まっいずれにしても引き受けた以上はやるだけの事はやる。そう決心したのである。
現代ほど気忙しく心許無い時を知らない。高々60年ちょっとの人生で何をか謂わんやと先輩に叱られるのが落ちだとは思う。もう直ぐ師走、暮れと新年の準備が待っている。平成23年は3月に起こった大震災一色で日本中が駆け巡ったように思う。それだけ被害が甚大だった。依然として復興の見通しがたたない被災地の人々を思うと心が締め付けられるようになる。
 原発に対し、世界中にメッセージを発信したのは事実、作られた安全神話が脆くも崩れ、一度事故が起こると一国だけに止まらず地球規模の問題に発展することをまたしても証明してしまった。
 福島原発の所長が職を辞するという話を知った時、直接現場の責任者としてその心労は計り知れないものだったはず。いち早く社長の座を捨て、どこかに雲隠れした人とは偉い違い。
 電力会社は最も公共性の高い企業、安全を図り安定した電力を供給する責任がある。それ故に国が経営に大きく関わって原発が国内に54基も稼働するに至ったのは国策として推進されたからである。
 今回、様々な場所で原発の是非について議論が交わされてきた。原発が厄介なのは、廃炉を決めてから何十年もの間、処理作業に要するということ。この見守りの費用だって膨大な金額だ。
 電力は、今この時に必要とする人達へ供給され利用されるもの、将来への備蓄は殆ど考えられていない。
 世界中の殆どの人々がその事は理解している。
 震災後、様々な事を考えた。電気の無駄がやたらと目に付くようになり、何故ここまでやる必要があるのだろうかと考えた。そして8カ月が過ぎ、街は再び昔の明るさに戻りつつある。
 利便性の飽くなき追求に赤信号、売り手は手を変え品を変え購買意欲を高め儲けようとする。買い手はより安く良いモノを求め品定め、その結果、どの家庭にも不用の物が溢れてしまった。整理術とかいう類の本が人気を博し、捨てなさい捨てなさいと尻叩き。これを異常と感じない生命体は、この地球上で人間だけ。70億人を突破した人口は、国連データによれば、1分間に137人が生まれていることになるという。1年間で見れば6千万人が亡くなって1億3千万人が産まれてくる計算だ。
 無駄を産む経済の発展を止めずに我武者羅に豊かさを追求する。それで地球が耐えられれば良いのだが、自然は悲鳴をあげている。その事実に真正面から対峙し、自らの生き様に反省を加えてみないか。
 タイでやっと終息の兆しがみえてきた洪水被害、これは外国の問題だからと安穏としてはいられまい。海はつながっている。原発の問題も同根である。
 私は反原発に賛成する。
 京都議定書の約束が風前の灯となっている。日本だけが守っても仕様が無いという意見が当時あったことを知っている。先ず日本からという一方の意見すら今は守れず、公言した目標数値にドンドン離れているではないか。
 

1973:ギックリ腰

”あっ” またやった。ジョイフル本田から注文した屋外テーブルが届き、その組み立てを始めた矢先で軽トラックより材料を降ろす時に激痛が走る。
 もう数えきれない程、経験した。なんでこんな時にまたと自分が情けなくなった。歯を食いしばり、一応組み立ては完成、パラソルを付けてOK.
 何日かは杖を持って動きます。
 まんだら工房の前に間伐材で作ったイスとテーブルが白アリにやられ、みすぼらしかった。そこで、新たにテーブルを付けようと数日前に購入したもの。
 いつも同じことを思う。歩けることがなんと素晴らしいことか。
 昨日は県庁である検討会議があって、午前中それに出席した。その時は何とも無かった。お決まりの検討会議で国が示した新たな仕組みを作るための話し合い。委員の顔ぶれはどこかで会った人達ばかりで特別自己紹介する必要はない。
 しかし、昨日の会議は何が切っ掛けかは知らないが議論百出、最初の口火は記憶では私が切ったように思うのだが、その後は意見を言う機会を失った。これだけ活発な意見が出されることも珍しい。委員各自が相当鬱積したものを持っている証?
 でも、これこそが本来の姿だ。ただ所管課は御苦労だ。何せいつものように障害福祉の議論は裾野が広く、立場によって様々な意見が出される。これを纏めて形にするという作業は大変だと思う。しかし、今のスタッフは優秀だと私はお世辞抜きで思っています。ここにこそ公僕の生きがいを感じてくれ!
 委員会等で意見が出ないのは、言ってもどうせできないという諦めがあるからで、何らかの期待があれば、いくらでも意見は持っている。ですから我が茨城でも他県からの新住民が多い地域ほど活発な実践が行われておりますでしょうよ。
 福祉の有り方が様々な分野で議論されていますが3.11の震災後、国民の意識は徐々に変わってきたと感じている。
 それは潜在する様々な問題が表に出始めてきたことが一因としてあげられよう。他人事として無視できない状況が現実に起こった。
 障害問題と老人問題はややもすれば別の次元で検討されてきたと考えます。障害に対する考え方が本人が持つ何らかの心身の障害を考える(医療モデル)というよりも、生活するのに不都合をきたす社会条件の改善(社会モデル)をはかるという視点に変わった。
 そこで問題になるのが自助と共助の関係、ギックリ腰は当に自助の範疇でありまして自己責任です。分かっていますって。日頃の運動や太り過ぎは自ら行わずして誰がしてくれますか。自慢じゃーありませんが、わたしゃーここ数年は体重はほぼ一定、夜な夜な歩いておりますから。周りは危ないから止めろとか言いますが、アマゾンで中古の双眼鏡まで買ってしまった。
何故ってか? 星を見ながら歩くんですよ。”あれが天の川でこっちがスバルとか”。
 他人の所為にするつもりはありませんけど無性に自分に腹がたつんです。視力の減退と高音域が聞こえないなどは我慢はできるが、腰痛は経験した人でなければわかりません。
 それと買ったばかりの双眼鏡が使えないのがどうにも。
 ・・・・急いては事を仕損じる。・・・・判ってるよ、言われなくとも。
 

1974:不安定

腰の痛みは変化なし。シップとコルセットそれに杖。7つ道具よろしく慣れたものである。
 自宅で少し休んでいようと思うのだが、電話や来客がこんな時に限って多く、心穏やかならず。
炬燵に入り、テレビでも観ようかと思ったら急に映らない。アンテナの設定をしてください。という文字が画面に出る。
 屋根に登れるわけがないだろうとテレビに向かって怒鳴ってしまった。イチイチ電話の場所に行くのが面倒で、電話子機を使おうとしたら壊れていた。
 踏んだり蹴ったりとムシャムシャし、誰かに当たってやろうかと猫を捜したが、相手が上手でどこかに雲隠れして姿無し。
 地団駄踏むにも踏めない悔しさ。
 こんな時は何をやっても駄目、周りに悪影響を及ぼすのみ。自分自身が雲隠れするべきなんだ。
 ついでにもう一つ。天気だってそうだ。1日で12度も気温が下がるなんて腰痛にはこたえる。
寒気日ごとに募る昨今となりました・・・・・・・云々。誰かに手紙でもと考えたが気がつけば本当に手紙を書く事が無くなった。
 悪循環とは斯様な事を云うのだろう。
 いつから始まったのかは分からない。でも日本の閉塞感と元気の無さは連鎖反応だと思う。これも駄目あれも駄目・・・皆が皆そう思えば自然とそうなってしまうでしょう。
 そんな時こそ、待てよ!いや、違うな。こんな風に考えてみたらどうかなと誰かが一言声掛けてくれれば変わるかもしれませんね。
 
 

1975:宗教論

おいそれと宗教を論じることなど出来ない。ただ、現実に乗り越えるに自分に力無しと感じた時、人は何かに縋り救いを求めようとするものだ。また、何が不幸かという事は別として予想もしていなかった事態に直面した時、先ず、何故自分がと思うはず。
 その理由を探し求めても思い当る節など見つからない。嫌だ嫌だと泣き喚くかじっと過ぎ去るのを耐え忍ぶか。
 いずれにしても生きていくということはそんな事である。
 そこで宗教がおもむろに登場し我々を身近に引き寄せる・・・・。だが、辞書のページを弄るようにした所で求める答えは見いだせない。坊主の私が言うのも可笑しなものだが宗教ってそんなものだと思います。今風に言えば打てば即出るデジタルでは無く、歩みを通じて徐々に確信に近づくものでしょう。私はいずれの宗教でも良いと思っている。その人にとって何らかの道標になるのであれば、どっちにしたって目的地は然程変わりは無いはずだ。
 何故、こんなことを考えるか、私の周囲にどうもそのように感じている人が急に増えたと思っている。震災がきっかけになった事もある。無視し他人事と思えない事態が目の前で起こった。それをずっと引きずっている。
 障害者の福祉を殊更に掲げることも何か変だと感じている。政府の肝煎りで検討がすすむ「総合福祉法」、その経過を見て何か変だとずっと感じている。故意にかどうかは知らないが、事業者を排除し当事者中心に組織された推進会議、その議事録をみると初期段階では我々事業所を目の敵にした意見が飛び交った。
 それが全てであるかのごとき議論は、先人の苦労(?)を蔑ろにした受け入れがたい内容だった。
 最終的にこれで良い方向付けができるのだろうか?一事が万事ではないはずだ。
国連の障害者権利条約では・・・『障害のあるすべての人による、全ての人権及び基本的自由の完全かつ平等な享有を促進し、保護し及び確保すること・・・・』という目的が定められている。享有とは生まれながらに持っているという意味である。日本は未だ批准はしていない。国内法の整備がその条件となり、虐待防止法などの法制化が急がれている。
 人件とは全ての人間を言う。何も障害者だけの問題ではない。一向に止む事のない血生臭い紛争、犠牲になった多くの人達の人権だってそうだ。それに国や東電の発表に対する不信感、片方で原子力技術の海外輸出を推進する。自らの国の原発をどうするかさえ決断できないのに、どうしてそのような判断ができるのか?
 いま福島で現実に起こっていることは、全ての人権を保護確保していることと言えるのでしょうか?
 豊かさ一辺倒の歪がこれ以上大きくなることなどお構いなく、理屈に合わないことを押し通す。
 昔の人は屋敷内に40年〜50年後に使えるようにと木を植えた。これが何を意味しているか自己本位の合理主義な人間にはその価値が判らない。
 こんな話もついでに紹介しよう。「もったいない」という日本語だが、他の外国語にはそれに当たる言葉が無いと言う。
 広辞苑には、@神仏などに不都合AありがたいBそのものの値打ちが生かされず無駄になるのが惜しいの意味が書かれている。
 Bの値打ちという言葉、障害者の人としての価値。これが本当に理解されていますか?
 糸賀先生が嘗て、障害者と接しながら「この子らこそ世の光」と語ったことをどう考えるか?
福祉を声高に叫ぶ人達の中に依然として「」と「」を逆に使って何も疑問を感じない人がいる。そして、原発への対応と全く同じでホンネとタテマエを使い分けする。これこそが制度以前の基本的な人間観(宗教論)だと私は思うのです。
 

1976:埋め合わせ

オリンパスにおける損失隠しの波紋が広がっています。
埋め合わせという言葉には”償い”という意味があります。一般的には罪の償いなどと使用されますが、損失の埋め合わせとなると今回の損失隠しの実態が明るみになれば、全くの筋違いです。一体、この会社の社内倫理はどうなっているのか?
 いつの時点か判りませんが損失を埋め合わせようとしてドンドン深みにはまってしまったという事なのかしれません。
 同じ言葉で、お世話になった埋め合わせにご招待します・・・・という言い方もあります。本来の日本語はこちらの方で感謝とか恩に報いるという意味だと思います。
東京で開催中のモーターショー、エコと未来カー、各社が命運をかけ新車発表をしています。ニッサンが遅れを取り戻すべく、思い切ったエコカーを発表、そして、記者会見でCOOが新車製造を外国に移すと明言、1ドル70円台では採算が取れないという。これは合法的な認められる経営戦略。
 ただ、その裏では様々な動きがあると思います。果たして下請けが海外に展開できる余力があるかないか。
ニッサン程の企業になれば、網の目の如く関連会社や下請けがくっ付いていよう。親会社の方針に従うか否か。これは厳しい選択です。
 企業は、決して現状に甘んじる事はない。常に競争、技術の革新やニーズの調査を怠らない。
経営能力が試され、駄目だとなれば即左遷降格となる。国の有り方も本来ならば同じルールだと私は思う。取締役に名を連ねる重役が国政で言えば大臣か。
 またもや防衛大臣に対する問責決議案提出の動き、何度同じ事を繰り返せば良いのでしょう。担当局長の不謹慎発言に端を発し、またしても国会審議が本筋から離れようとしている。沖縄の人々に何のメリットも有りません。
 首を挿げ替えれば、怒りが収まるとでも思っているのでしょうか。その辺の安易な発想が今の国会に蔓延している。
 企業が為替変動に対応した生き残り戦略を必死に行っている中で、ぬるま湯に安穏とした政治家達よ、貴方達にこの国を思う使命感は無いのですか。またしても被災地の人々は蚊帳の外に置かれようとしています。
 南アフリカで開催中のCOPでフクシマの省エネ対策が世界の注目を浴びていると言う。地球規模での気候変動枠組を決める会議に範を示すことが出来るでしょうか。京都議定書がいまどうなっているのでしょうかね。
 あの時、どなただったか忘れたが世界に日本の達成目標を公言した総理、もう、記憶にも残らない。斯様に日本のトップの発言が軽く、実行性に乏しい事を証明してしまった。この罪を償う意味で、何を最優先にすべきかに疑う余地など無いはずなのに、またしても言った言わない、資質が無い・・・云々と。
 私は政治を志す人の償いとは、潔くバッジを外すことでしかないと思います。それをしない。否、許している国民に対して世界の目は向いている。
 そして、我が身を振り返り、社会福祉法人の有り方に外部の目を入れるべきだと思う。既得権益を守る事が目的化していないだろうか。
 持ちつ持たれつの関係は、時として脱線した事に気付かず、目標そのものを見失う恐れを充分に備えている。
 

1977:輾転反側(てんてんはんそく)

眠れず何度も寝返りをうつことを輾転反側と言う。
 腰の痛みも大分回復し、楽にはなったが、ここ数日、動かずじっとしていたものだからだろう、夜中に目が冴えてしまい寝付けない。気温が下がり夜の徘徊を中止した2匹のネコちゃんが蒲団の真ん中を占領し、その重さに耐えながらということもある。改めて「たかが猫されど猫」であると感心している。
 最近のアンケート調査で親外国度の結果が発表された。アメリカが好きかという設問で82%以上の人が親しみを持っていると回答。一方、中国に対しては前回に比べポイントは上がったものの30%に満たなかった。尖閣諸島の領有権の問題など中国との外交課題が山積しているし、中国の急速な経済発展に対する脅威もあると思う。
 アメリカへの好感度は、震災の時、真っ先にアメリカからの支援協力があったことなどがあるという。
 特に日本人は相手を信用する場合、平時ではなく緊急時にどう相手が対応したかをみる。私の周辺でこんな事が話題になった。研修生として農家に入っていた中国人が原発事故後、一先に帰国し困ったという話。方や同時期にドナルドキーン氏が終の住処として日本を選び、日本国籍を取ったというニュース。マスコミの意図的な編集が有ったとしても、困った時の周りの動きに敏感に日本人は反応する。
 NHKスペシャルドラマで『坂の上の雲』が始まった。時代は明治時代、封建の世から開放され外国の実状に触れ、登りつめれば「近代国家・列強」の仲間入りができると「坂の上に棚引く雲」に見立て戦争に突入する司馬遼太郎の代表作である。
 既にドラマ化が決定された後に震災が襲った。
 明治維新の三傑が誰だか知っていますか?西郷隆盛・大久保利通・それに木戸孝充で特に勲功があった三人。
当時、日本中が体制を一新し新たな時代を築こうとする共通の願いがあった。明治〜大正〜昭和と領土拡大へと高潮した戦略は獲たもの以上に尊い多くの人命を犠牲にした。そして疲弊した国の体力を復活させる間もなく、次から次に戦争の深みに入っていく。
 いま、外交課題の多くが、その当時からずっと引きずってきたものと言える。歴史をどの時点まで遡るかによって双方の言い分は違うのは当然だ。
 そして、戦後が既に65年続く。3世代同居の家は国内にどれだけあるのだろう?親が戦後生まれの家庭が大部分、戦争を体験した世代は、福祉の対象にされ、頗る立派なホームに入居することを当面の夢とする。
 その数がドンドン増えて、いま、国政の最重要案件となっている。社会保障と税制に関する書物は書店の棚に並びきれない程、消費税論議が国政を二分する問題か?
 私は賛否双方に目くらましにあっているように思えてしようがない。国民の大多数は5%から10%に上がっても、それが自分達の安心に跳ね返ってくるのであれば受け入れようと思っているのでは?。
 政治家が恐れることは、自席を失うか否か。国民が恐れるのは自分達の将来の安心が保てるか否か。
 ここに実は根本的な問題を孕んでいる。
 つまり、明治維新での大義、近代国家が有る意味で実現できた日本が大阪を代表する地方からの狼煙で論点となっている事との差。行政の不効率や無駄からの脱皮、それはそれとして肝心な事は、その次に何をどう描くかという事。
 その具体性に欠けてはいないだろうか?
 2年前に政権交代をした時、何かを変えてくれるという期待感があったはず。それが顔ぶれが変わっただけで多くの事が自民党政権時代と変わりがない。流行病が過ぎ去って元に戻った。
 重鎮として居座る議員が元々は自民党から出発した人間だもの、本質は変わらない。
 要は、その目くらましに冷静沈着に立ち向かう国民一人一人の覚悟が最も必要とされているわけだ。
 

1978:銀杏

観音寺表門にたつ大銀杏、鮮やかな黄色の葉を枝いっぱい付け雲ひとつない青空を背景にこの時とばかりにその存在を誇っている。
 銀杏にとって今ほど肩身の狭い時代は無かったかもしれません。肉厚で燃えにくい葉で火災を防ぐと言われ、寺や神社には良く植えられた。嘗ては珍重された銀杏のまな板もその需要は殆ど無くなり、実がなれば熟して放つ臭気で迷惑がられ、葉を落とせば中々燃えない葉の処分に苦情が殺到。
 銀杏並木は黄色のトンネルとホンの一時期持て囃されるだけとなった。
 なんだか知らないが全く同じ道を辿る人生だと秋風索莫たる思いに耽る人もいるだろう。
 何百年という歳月、何一つ不満も言わず、与えられた地に風雨に耐え生き延びた銀杏に労わる言葉の一つでもかけないと。銀杏の気持ちを解することなど出来やしない。
 仏教で説く無や空が今の時代、人々の心にどう映るか。これこそが本来の僧侶としての眼目でそれをどう噛み砕いて行動するか!
 私は良く見境の無い自らの言動に主客転倒甚だしきものを感じ自責の念に駆られる。今に自分が何らかの役に立つ時がくると考えること自体が自惚れか。
 時間があれば、長く入院生活をしている友を見舞う。彼は私の声掛けに何一つ答えてくれず、ただ気持ち良さそうに目を閉じている。
 嘗ては誰しもが認める活動家で家業も自分の代で大きく伸ばした。それが想像すらしていなかった病に気付くのが遅かった。何も言わず、病室のベットの上に横たわる姿は、毎日見舞う家族にとって言葉で言いつくせない勇気を与えているのだ。
 人間は自然に逆らっては生きていけない。
 どれほど文明が進んだ世となっても所詮人間は酸素無くしては生きられない。自然を人間の手でコントロールしようと考えた事が間違いだ。
 共生とは人間社会だけのことを言うのではない。自然の営みの中で持ちつ持たれつの関係を築くことである。一方が勝利し他は敗北の苦渋を嘗めることは自然の理に適わない。経済活動も然り、表現などどうでも良いのだが、新自由主義経済とか言う選択は、答えは出ている。このまま進めば何が起こるか。
 ある人がモノの本に書いていた。世界中の紛争は宗教や人種で起こっているのではない。水や肥えた土地の争奪が元々の原因だと。人は宗教など信じなくても生きていけるが、水無くしては生きられない。
 ここの勘違いは実に大きい。
そして、”清貧”という言葉が意味していることは、まさにこの事を指している。
 現実の問題として、国会の審議を見ていて感じる事、彼らは本当に何が重要かを考えることを避けているとしか思えない。
 目先のどうでも良いことで何故、この期において論を張ろうとするのか!
 まだまだ時間がかかるようだ、それに耐えるだけの人物の登場を誰しもが待ち望んでいる。

 ・・・・ 黄色葉の 大木に 我が人生の 道しるべ・・・・・・・

1979:ライフ展

ご両親から聡子さんの画集が届いた。
 私にとって思い出多きお付き合いとなった。38歳という若さで突然旅立たれた聡子さん、彼女と私達のお付き合いは絵画教室に通って来られてからで丸9年(2000・4〜2009・9)になります。
 彼女の描いた膨大な枚数の絵をライフ展としてつくば美術館で開催し、その後ご両親や関係者の皆さんの希望で一冊の画集として完成したのである。
 展覧会には「大八木聡子ライフ展・・・・絵画にいやされて・・・」と書かれた看板が正面に置かれ、大変多くの来場者をみて5月31日〜6月5日で終わりました。その後直ぐに画集の制作にかかり、128ページにわたる見事な画集が完成したのです。
 中身を拝見して驚いた。娘さんの思い出が事細かに記されてあります。特に驚いたのは聡子さんと一緒にドライブスケッチをした91か所の場所が国土地理院の5万分の1地形図に番号を付け記入されていたことです。お父さんは著名な地滑りの研究者であった。
 私はこの仕事をやっていて様々な教えを受けています。特に親子の容です。それは子供さんの障害を知った後どのように受け止め一緒に歩んで行くかという事、本当に様々な姿を見てきました。親が我が子を思う気持ちと子が親を思う気持ちが一致しているとは限りません。言葉では言い尽くせない様々な葛藤があって、現実に正対することすら出来難い状況があります。
 当に闘いです。しかし、これだけは確信します。必ず通じ合う時が訪れるということ。その表現は様々です。
 どちらかが心を開くようになると関係が一挙に変わるような気がします。お互いが相手の存在に感謝する気持ちが芽生え、そこから有りの儘の相手を受け入れるようとします。何気ない言葉や笑顔に今までの苦労が一瞬にして消え、癒されていると感じ始めるのです。
 私は親の気持ちになることはできません。多くの方達とお付き合いさせていただいていますが、決して焦る必要は無いと思います。親子がお互いにその気持ちになるまで待っても良いと感じます。
 聡子さんのご両親のお気持ちは今どのようになっているのでしょう。多分、娘さんを先に見送った寂しさから一緒に歩んだ38年を懐かしみ、心の一番大切な場所に娘さんが今も笑っているという思いではないでしょうか。
 そんな気がしてなりません。
 人間の価値は、寿命の長短ではありません。その方が精いっぱい生きた証に価値を見出すべきです。
 聡子さんは若い時に学校でいじめにあったと伺いました。彼女は相手に対し仕返しするのを考えるのではなく、ご自身の心の中にとどめてきたのです。
 多分、彼女は今更そのことを言う気持ちは無いと思いますが、時系列に編集された画集からその辺の心の変遷を伺うことができます。そして、口癖のようにして話しておられたという『はげましてくれた』という言葉が全てを語ってくれています。
 誰だって順調な時ばかりではありません。寧ろ解決のめどさえ立たない逆境の時のほうが多いと思います。
 そんな時、一番嬉しいことはいつも傍に寄り添い受け止めてくれる人の存在だと思うのです。
 私達福祉職に携わる人間が果たしてそう出来るかと自問した時、残念ながら答えはNOだと思います。
  聡子さんは周りにいた多くの人々に何が大切かをキャンバスの上で語ってくれました。その事をなるべく多くの人達に知って頂きたいと思います。・・・トピックスへ。
 

1980:労働の価値

アダム・スミスやリカード・マルクスが唱えたという労働価値説、その内容に殆ど関心が無かった。大分昔の話で恐縮であるが、学生運動絶頂期に東京で生活した体験から、あの当時の若い人達のパワーは何故ああまでも高揚したのだろうか?とふと思った。アダム・スミスの【国富論】では、「世界の全ての富が最初に購買されたのは、金や銀によってではなく、労働によってである。」と述べている。俄か知識で突然何を持ち出すかと怪訝な顔をされるのが落ちだが、実は障害者福祉を突き詰めていくとその点(労働)にどうしても突き当たってしまうのだ。
 障害者の所得補償の議論だってそうだ。労働の価値をどう定義付ければ良いのか、その共通理解が無い中で感情論を綯い混ぜにした議論をいくら続けても受給者と租税負担者(国民)の真からの妥協は望めまい。
 これこそが、糸賀一雄氏が「福祉の思想」で訴えた”共感の社会”の構築であった。果たして昭和43年、講演中に54歳で心臓発作で亡くなった糸賀氏の熱き思いを、40年経過した今の日本でどれだけ実現できただろう。
 もしも労働の価値が獲得したいものを得ようとする時にそれを得るために投下する労苦や骨折りと定義付けると社会保障の有り方が大きく変わってしまう。さらに商品の価格を規定するものが、賃金や利潤や地代によってとなれば、全ての障害者の立場は限りなく弱くなる。公平性という施策は個の尊厳軽視という危険性をも内包する。
 今、日本が舵を切ろうとしている方向に危うさを感じます。特に私が関わる知的に障害をもつ人達の自らの意志をどう受け止めるかという事が曖昧だからである。彼らの意志を代弁する存在として家族と決め付けることは適当でない。
 戦後、ここまで入所型の施設が増え続けたことの理由がここにある。在宅の育成会と施設利用の家族会とのギクシャクした関係が続いた理由もここにある。
 成年後見制度を受けた障害者が選挙権を失うという理屈が何を意味している?いま新たな問題となっている。
 そして、障害者も地域生活を送るべきという方向が示され、入所定員の削減やそれに代わる様々な仕組みが作られてはきている。
 しかし。私はここに不安を感じている。全てが全て不完全であるからだ。
 果たして”共感の社会”が現実にこの日本に存在しているのか、依然として障害者への偏見は後を絶たず糸賀氏が描いた理想とする社会は、むしろ40年前より後退していると感じる。
 更に不安感を増長するのは、教育現場の実態である。知識最優先で差別化し、生きる智恵は自己責任と片付ける。
 精神鍛錬と言われた嘗ての心の教育は有って無きに等しく、権利の主張ばかりが目立つ世の中だ。
 この責任は誰にあると犯人捜しをしたとしても、その後どのようにすれば良いのかが全く示せない。
共通の目標を見失った国家の宿命だと断ずることは容易いが、これこそが机上の空論の域から脱っせまい。確かにGDPやGNPという数値は国家の位置を確認するには都合は良かった。・・・・が国民一人一人の満足度とは一体ではない。
 労働の価値を考えることが、物が巷に溢れ、廃棄物の処理に高額の経費がかかり、その原因が利便性の追求により起こった結果だと誰しもが認めながら、それに何ら手を下そうとしない今の日本人にとって、とてつもなく大きなテーマとなった。
  だいぶ小難しい内容になってしまいましたが、借金(国債)で経済を回す現状は、世代間の負担の公平性という問題であり決して無視できないものです。
 今の儘、為す術もなく手を拱いていれば、口先だけの公約に騙された国民と笑いものにされるだけである。
 

1981:背伸び

背伸びしてみる海峡を今日も汽笛が遠ざかる・・・・♪
 森進一の港町ブルースでしたね。ここ数日の冷え込みは、外出する時、襟元が寒く、マフラーが欲しい。私はタオルを首に巻きできるだけ外で動こうと奮闘。
 背伸びしてまで背比べしたのは、あれは10代前半までだったろうか。人より少しでも高く、そんな優越感を求めていたのだ。それが今、年1回行う健康診断の身長測定では腓返りでもしそうな位、目一杯足を伸ばす。体重測定では、その逆、余計な重みをかけないようにソッとのる。
 別に他人と比べている訳でなく、1年前の自分との比較。黄色が赤にならなければという気持ちからですね。
 今朝がた、一生懸命な自分を感じた。前もって言っておく、夢だった。
 トイレのドアに大きな穴が幾つもあいている。「あれをどうにかしなよ」と誰かに必死に説明している自分。
「直しても、また直ぐにあけられるよな・・・」という微かな声がした・・・・・・。「そうじゃーねーだろう。こうこうこうだから、そう思わないの?」。。熱心に説明しているんだが、肝心な「こうこうこうだから」ばかり言って、具体的な言葉が続かない。
 
 そのうち自分で自分が嫌になって目が覚めた。
 何でだろうね?思い当る節がある。昨日、震災復興に関する国会の委員会審議をテレビでやっていた。いつもと違い提案者とかいう委員が質問に答えていた、何を審議しているのか全く判らなかった。なんであの委員会をNHKはあの時間帯に放映したのだろう?今度はそっちのほうに疑問が向く。ちゃんとやってますよというPR?
お門違いもいい加減にしろよと自分を責めた。
 不確かな情報が流れすぎている。情報公開条例は情報の受け手側への配慮はない。出しっぱなしで後はご自由に。
 フクシマ原発の補償費用が大枠ですら掴み切れていない。1兆円を越す規模の公的支援が必要になるだろうという流言。東電を実質国有化する検討に入ったとか・・・・。業界は危機感を持っただろう。誰が考えても答えはもう出ているでしょうよ。原発の国有化しか選択肢は無い。これから先、いったい何年負担がかかると思っているんだか?
 その移行過程で電力会社の資産を全て国家に返納して、そこから再出発とはいきませんか。
 この道筋にドンドン遠ざかるもんだから、『こうこうこうだから』という意味不明な夢になったということ。
 スコットランドは2020年に全ての国内電力需要に再生可能エネルギーで賄うという具体的な方向を示したという。
島国ならでの波力や風力発電への研究投資を国家プロジェクトでやっている。
 ヨーロッパはさすがに対応が素早い。日本とヨーロッパ、歴史も違えば考え方も違う。個の尊重か和の重視か。日本を昔、大和の国と言った。大きな和(倭)の国を掲げてきたのは今に始まった事でない。
 だが、どうでしょう。福島原発以外に今どれだけ原発が有ると思っていますか?安全神話が崩れた事は自明の理。
 それに電力料金が原発だから安いという理屈は、1兆円でもまだ足りないという現実に起こった処理費用を考えればその筋書きは使えまい。
 私自身の反省も踏まえ、背伸びした結果、後後、良いことは何もない。
 電力の無駄、何もそれは発電能力の問題だけではない。むしろ高額な役員報酬や非効率な企業体質から生まれたもののほうが大きいと思うのです。
 私が友と背比べしていた頃、どこの雑木山や松林も綺麗だった。落ちた枝を掻き集め燃料に使った。あれから半世紀、今の変化のスピードは後戻りはご法度と皆が皆、異論を唱えることを忘れてしまった。
 

1982:生きる価値

竹田恒泰著:『日本はなぜ 世界でいちばん人気があるのか』PHP新書。
 書店でその題名が気になり、購入した。寝床で読むには丁度良いかなと思ったのだが、正直、半信半疑で一向に読み終わらない。だってそうでしょう。私が今の日本をどう観ているかといえば、自分の事は棚におき、永田町や霞が関への不満ばかり、正直、自分でも嫌気がさしている。
 野田さんも人柄は悪くないようだが、自ら「ドジョウ内閣」と称しスタート、100日を過ぎ、本当にドジョウに見えてきたから不思議だ。前任者の二人が余りにも素っ頓狂だったものだから、尻ぬぐい内閣という影の評判も多分、本人の耳に入っていたかもしれない。
 論語の「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」この意味をどのように解しておられるか?
 非常に危うい感じをもっている。自らの主体性を失って他に妥協を繰り返していませんか!
 私は今朝、初めて知ったのですが、シンガーソングライターの松田陽子さんという方、「明日の言葉」NHK深夜便に出演していた。
 彼女の話を聴き、生き地獄から這い上がったような強さと人への温かみを感じた。彼女の著作『生きているだけで価値がある』という本をたった今、アマゾンで注文した。
 DV、がん、離婚、鬱病と悩み抜いた人生で彼女が何を切っ掛けで生きる価値を掴んでいったか正直知りたくなった。
 その活動はUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)との関わりの中から徐々に生まれてきたという。
自分が幸せの絶頂からどんどん奈落の底に落ちていく中で、ある映画を観たのが切っ掛けとなった。若い時に世界中をリュックを背負って歩いた。その事を思い出したという。それはスリランカで路上で外国人に物乞いする子供たち、その多くが手足がない事に気づいた。それを友達に尋ねると、物乞いさせるのに手足が無いほうが恵んでくれるから親が我が子の手足を切断したんだと言われた。
 東京のど真ん中で鬱病で寝たきり状態でいた自分が蛇口を捻れば水が飲め、暖かい蒲団の中で眠て、病院で薬だって貰える。そんな自分を真正面から見つめながら、徐々に自分に何が出来るかを捜し始めたと述懐する。
 そうなんだよな。不平や不満は所詮、他人事。本当に自分が追い詰められた状況になったら、そんな事を言う余裕はないよな。
 被災地の皆さんの事を考えると言葉に気を付けようとします。例えば何気なく使ってしまう言葉で「お蔭様で大した被害も有りませんでした。」このお陰様だってそうだ。津波で両親を失った震災孤児の子供たちがそれをどう感じるか?
 放射能汚染で先祖から守り続けてきた田畑が使えなくなった農家の人達。福島の米が国の基準値を超えたという事で一斉に出荷停止、これを国が補償すれば済む話では無いはずだ。
 私自身の悩みなど、そのことと比べればとっても小さな事である。いつの間にか、私の頭の中は尚恵学園のことで一杯となり、日々繰り返される出来ごとに振り回されている。
 先日、尚恵学園で実習したという人が来て話しこんで行った。なんと40年前の話。
 自分の人生でその時の経験が大きかったと話していた。私が勤め始めた頃で、当時は割れたガラスを自分達でガラスを切りいれた。在庫のガラスが無い時はテープで貼った。
 彼は、アットホームの感じが良かったと言った。外見をつくろうこともせず、有りの儘の生活。自分達の実践を奢ったり宣伝したりせず、・・・・。
 それが当時の福祉の最前線だった。
 衣食足りずとも礼節を知っていた時代、今、私も古き良き時代を懐かしむ年齢になり、これから先の事に老婆心をめぐらす。
 いかような時代になろうとも、この世に生をうけた以上、生きる価値を見出して貰いたい。
 松田さんの本を読み終えたら、また書きます。それまでお待ち頂けますか。
 

1983:懸命の地

ナイスハートふれあいフェステバル
ナイスハートふれあいフェステバル2011”が今年は常陸太田市にあるパルテイホールで10日に開催されました。
 例年ですと水戸の県立文化センターがメイン会場となっていましたが、3月の震災の被害を受け、現在使用できません。
 全県から集まるには少々不便をきたすので参加者が相当減るのではないかと心配しましたが、それでも多くの方々が来てくれました。
 『懸命の地』という言葉をご存知でしょうか?江戸時代、幕府は生活の頼みとするために知行所(領地)を分け与えました。
それが一所懸命の地ということです。その事を考えてみました。
 フェステバルでは、定番の出しものがあります。私は客席で観たり、舞台のそでに廻って観たり、なるべく居場所を変えるようにしています。次の出番を待つ舞台の裏は一種の緊張感があって、凄い熱気を感じました。
 三障害が一緒になって実施するイベント、その中に地元で活躍している一般の人達も加わる。以前は正直、人数の動員があり、参加者を集めることに関心がいって、どうしても関係者だけの行事になっていました。その反省を踏まえ、本当に少しづつですが、新たな参加者も増えてきたように思います。
 上記のスナップは重度の身障者の人達の車イスでの発表、決して派手さは無いのですが、一人一人が一所懸命に自分の役割を演じていました。
 NHK大河ドラマ「江」も終わりました。浅井長政の三女として、戦国の混乱期に生きた一人の女性を通して国の統治の難しさを演じました。
 私達は歴史から学ぶことが一番大事だと思うのです。いつの世にあっても人は一所懸命生きてきました。今以上に江戸時代は身分がハッキリと分けられていて、権力を有した者のよしあしによって不満や争い事が大きく違いました。
 時代が移っています、茶の間の人気番組「水戸黄門」が終ると決まり、署名活動も行われています。諸国を漫遊し、世の不正を裁くというお決まりの結末、黄門様は副将軍という決して前面には出ない役回りに徹していた。そこにここまで長く続いた一番の理由がありました。
 当時の参勤交代という大名に課した義務、これは石高に応じて人数の定めがあり、外様と譜代の違いによっても差があったそうです。
 大名行列という華やかさの裏では年貢を納めねばならない庶民の苦しみがドラマの中心でした。
 歴史から学ぼう!
 いま、野田将軍が年貢を上げようと躍起になっていますわな。自らの身を削る政策も同時にやりますと公言憚らず、それが一向に容になっていませんよ。地方の殿様(首長)が狼煙をあげ、反乱を起こすとプレッシャー、何か風雲急を告げる予感がします。
 ここに至って、自称、平成の水戸黄門様はすっかり大人しくなってしまったではありませぬか。悪代官を演じる影の人物は、忘れた頃になると顔を出す。出さなくても良いのに、ゴマスリが多いからその気になってしまうのでしょう・・・・。
歴史から学ぼう!
 昨日の話題、元某銀行の支店長をやっていたと言う方と話をした。国の借金の話になって、ヨーロッパみたいに日本はならないのですかねと私が尋ねると、またしても日本の預金総額が1400兆円あるとか言う話に、もう何度も聞いた話だから話題を変えた。
 いつになれば一所懸命が報われる時代になるのでしょうね。
 

1984:忘年会

師走に入り、チラホラと夜間を飾るイルミネーションが光っています。節電騒ぎがあった所為かどことなく遠慮がちの処が多い気がします。
 今朝も茨城沖を震源にした地震がありました。暫く鳴りを潜めていた余振と思われる揺れも此処にきて、また毎日のように起きています。M9規模の巨大地震の後は数年不安定な期間があるとのことですから、油断せず治まるのを待つしかないようです。
 今晩、最初の忘年会を東京で行います。夜の6時からということなので帰りは遅くなることでしょう。東京はどうなんでしょうか?一時景気が戻りつつあると聞きましたが、3月から様々な事が起こりました。ヨーロッパの財政危機、各国が連携して救済策を考えているようですが、それぞれの思惑があって統一した方向が出せないようです。
 日本の国会も閉じ早々と冬休みに入ったようです。良いですね。羨ましいですね。これで本当に改革をする気持ちが有るんですかね?
 先日、こんな事がありました。
週末、Nさんが赤い顔して上機嫌で私の家に来ました。『ホレ!これやっから』とセーターを一枚私にくれました。どうしたのと尋ねると「水戸でキリスト教の人から貰ったんだ」と言うのです。最初、その意味が良く判らなかったのですが、それ以上尋ねる事はやめ、有り難く頂戴しました。
 水戸駅辺りで慰問の衣類を貰ってきたようです。見ると古着なのは一目瞭然ですが外国製みたいな洒落たセーターです。自分が着れば良いのにと思ったのですがNさんの気持ちを蔑ろにはできません。新年早々着させて頂くことにします。
 震災後、被災地救援の為に私の知っている人もボランテアで参加しています。一向に進まぬ復興、その中で厳しい冬を迎えました。先の見通しがあれば、頑張れると思うのですが、何かチグハグで誰を頼って良いのか分からないというのが正直な被災地の皆さんの声です。
 あれから9カ月が経ったのです。師走の12日、この時期に冬休みに入った先生達もどうかと思うのですが、ワザワザ東京まで出て忘年会とは、私も困ったものですね。
 でも、本日の集まりは被災地支援の事を相談しようという趣旨があるんです。
喉元過ぎればという事もあって、現地への支援は充分には程遠い感じだと思っています。決して派手な支援ではなく、出来ることで長く関わっていく事が良いだろうと思っています。
 先日のフェステバルの展示会場に東北の仲間が書いた作品や品物が飾ってありました。東北の施設の作ったものを販売するコーナーもあります。我々ができることは、そのような事の積み上げではないでしょうか。
 「もったいない」とか「有り難い」という言葉をもう一度一人一人が自分の事として考えることだろうと思います。
 日本はデフレがずっと続いています。その影響かもしれませんが、生産が間に合わないという某メーカーが地域にあるのですが、正規雇用の社員は増えておらず、相変わらず期間雇用の人達でまわしています。企業も先の見通しがたたないから、人材に投資できないのです。1年間の契約社員の皆さんは、身分の補償がありません。だからと言って公務員の枠も殆どないのですから、会社説明会に学生が殺到するのです。何らかの資格を取れば就職先に困らないという事は今はありません。
 一人勝ちだった医療業界、これだって翳りが見え始めています。一時期、病院勤めから自分で開業するお医者さんが多かったのですが、どうでしょう?飽和状態になっていませんか?歯科など凄い数で、病院を持たず外来治療専門の歯科医師も出ています。
 医師会のホンネは、余り医師が増えることは喜んではいないのではないでしょうか。競争が激しくなることを望まない。
弁護士だって同じ、斯様に専門職が日本は育たない土壌があるように思えてなりません。
 忘年会はその年の苦労を忘れ、新たな気持ちで新年を迎える宴です。新たな気持ちになれないならば、タダの愚痴のはけ口、その辺は心してかからないと余計苦労が増してしまいます。

1985:檄

6時から始まって3時間、あっと言う間に時間が過ぎた。総勢10名での集い、丸の内の地下にある中華店、年に1度の集まりは3人がキーパーソン、それぞれがゲストを連れてくる。
 いつものように関さんが方向性を示す。その内容は入所施設を廃止し、即地域移行すべし!何故に尚恵はグズグズしているのか、トップの責任大。これ以上、相手などしていられない、このままだとこの集いも自然消滅だ!  檄の連発。
 防戦一方と思いきや、ホンネの部分で皆さん不安を持っている。全てが全てうまくはいかない。やればやる程新たな問題が出てきます。車座になった狭い宴席を酒の勢いで場所をかえ、個々に話をしてみて、そう私は観じたのである。
 お開きになり、千代田線で北千住まで。そこで気がついた。コートを置き忘れた。後で取りにいくことを電話で知らせ、家路に着く。結局11時半を回っていた。
 いまや、我々の周囲は、いかに地域移行を進めるかである。
 今日もまた長野で関東地区の会議がある。テーマ「西駒郷の地域移行は、長野県の何を変えたか?」である。
 正直、私自身の気持ちの整理はまだ付いていない。ソフトランデングを目論んではいるのだが、昨夜の侍たちからすれば、言行不一致と叱咤されるのが落ちだ。行動に率先して動け!
 アア しんど。 時間が無い。中断して明日また続けます。ローカルから狼煙を上げろと言う事らしい。7:00AM

1986:檄書

信州で考えた事。
もう40年も前になる。何度か長野にはキスリングを背負って訪れた。記憶に残るのは鹿島槍〜五竜岳の山行、日本のアルプスと言われ、多少山登りをした人間には憧れの地。本当に久しぶり、なんと便利になったことか、新幹線で東京から一時間三十分程で長野駅に着いた。
 知的障害関係で本大会を迎える一年前に行う会合だ。テーマ『ALWAYS オールウエイズ 現場主義〜その想いをかたちに〜』総勢268名(内150名が県外:情報交換会参加者157名)
 会場はメルパルク長野という郵政省関係の施設だった。長野県は昔から教育レベルの高い地域、県土の大半が山というが全国4位の広さがあるため可住地面積では愛知や千葉とほぼ同じ、内陸県で隣接する県が8県もある。我が茨城とは単純に比較はできないが、自然条件や県民気質は大分違う。
 今回の企画は良かった。その中でも、久しぶりに福岡寿氏の話しを伺えたのが良かった。
彼は相変わらず長野県の北信圏がホームグランド。シンポジストになるなどお手の物、彼独特の話し方で原稿無し、その場の雰囲気で話の内容を変える。これは豊富な実践と確たる信念があるからできること、俄か知識で弁舌爽やかな人間はこの業界には捨てる程(?)いるが、これでは足元を掬われるのが落ちだ。彼こそ現場主義をライフワークとしている数少ない人だと思っている。
 走り書きしたメモを見直した。地域移行とは信仰宗教みたいなもので、その時々のブームに乗ってはダメ。西駒郷は全国に先駆け地域移行の取り組みをやってきたが、正直まだ総括がされていない。簡単に信じてはいけないと考えている。福祉業界の人は、情報を一先に得てそれを自分のものにして得意になっていないだろうか?そのような人達が各地で”密貿易”をしてきたように思っている(「ははーン、これだな。」と思った。)さらに早口ながら熱がこもって、講演などでやたらとカタカナを使う人は、真から信用されない・・・云々。ああ、、益々魅力を感じてしまった。そうだ、その通り。日本人なら日本語使え!
 そう言いながらも彼は自分に正直だ。いつもビクビクしていると自分を曝け出す。持ち時間の最後に今までどのように思って現場に立ってきたかを話した。
・・・「聞こえてくるお一人お一人の願いを掴んで、何が自分達で出来るかを考えること」。それから、何よりも「本人達の力を本当に信じ後からついて行けば本人が答えをだすだろうと信じられるか!」という事ですと語った。
 これだけ伺って私は満足した。3次会までお付き合いし、部屋に戻った。いつものように眠いのだが眠れない。
 大会資料の表紙にメモしたものを何度も読み返していたらいつの間に寝てしまった。
 前項(No:1985)は非公式な集まり、どちらかと言えば、”密貿易”に反旗を翳し、ホンネとタテマエの世界を拒絶した人間たち。長野は一体どっち?自分と比べ、もしかしてショックを受けた人もいるかもしれない。でもそれをどう活かすかがその人の真価となる。
 地域移行が決してベストの選択ではない。決め付けは良くないし、時代の変化と同じく、進むべき方向を自らの足で探る事が大切だ。
帰りの新幹線から久しぶりの信州の山を見て、単独行で北鎌尾根で亡くなった畠中は、どんな想いで訪れたのかと想った。

1987:スキャット

『由紀さおり&ピンク マルテイニ「1969」』が世界各地で大人気、全米チャート1位となった。
彼女の歌「夜明けのスキャット」は初めて聞いた人には衝撃的だ。その曲が日本で流行ったのが今から42年も前、何故、今頃急に?それは、出会いである。ジャズ界の大御所の目に触れ、ジャズ風にアレンジされたコラボアルバムが大ヒットしたという。
 確かに最近の音楽は世の大人達にとって受け入れ難いもの。そこに由紀さんの透き通るような歌声と歌詞を伴わないスキャットがピッタンコ、アメリカ・カナダ・ヨーロッパ・シンガポール・・・あれよあれよと言う間に大ブレークした。
 ・・・・るーるーるるーる・・・パーパーパパぱーや・・・・・何とも不思議な歌。いつになったら歌詞が出てくるのかと思うと、やっと意味深な夜明けの情景が歌われる。
 あれから40年・・キミマロではないが由紀さんもお姉さんとのデユエットでテレビに登場、そのお姿は大分お歳をめしたように思った次第。出会い〜邂逅〜巡り会い 言葉は何でも良いのだが今の成り行きをご本人が一番驚いていることだろう。
 現実に戻りまして。
 上記の左スナップのMさん。人生の大部分は尚恵学園での生活、もう65歳になったかな?ホテルで行った忘年会、Mさんはなんでも出来る人だった。旅行に行けば意中の女性にお土産を必ず買って来た。それが今、食事も自分一人では難しい。カメラを向けると私の方に顔を向けてくれた。精いっぱいの笑顔を見せてくれたと思うがどことなく寂しさを感じてしまった。
 その日に同じGHで生活するNさんは独り黙々と落ち葉を集め火を燃やしていた。NさんはMさんと比べれば然程長い付き合いでは無いのだが、彼の人生も一言では語り尽くせない。彼は別のグループと忘年会があるはずだ。
 この二人に共通するものは何かと考える。それは遠慮深いということだろう。「俺はいいよ」といって自ら引くことを心得ている。それと家族想いの所は全く同じ。Mさんの弟の遺骨は尚恵学園の墓に納めてある。元気な頃、私が朝、本堂に行くと必ず彼は私の後に付いてきた。そして線香をあげたのだ。Nさんは今でも両親の眠る大子にある墓地に墓参りを行っている。彼はたった一人でそれを続けてきた。
 人間っていろいろだよね。スポットライトを浴びる人生もあれば、そんなことに全く無縁で生きてきた人もいる。
 最近、ブータンへの人気が急上昇。それとアフリカの東部にあるセシール諸島、新婚旅行先としては憧れの地である。しかし、ここには国のリーダーたる人々の確たる信念と国民の信頼があって出来あがった姿なのだ。
 セシールは国土の半分は自然の儘手を付けず残すことを決めた。開発を申請してくる外国の業者が後を絶たない中でその方針を頑なに守っている。それはホテルや観光施設をどんどん造っていったら、今の自然環境は壊れる。そうすればセシールの売りの部分が無くなって国が滅びることが判っているからだ。
 宿泊数を限定したホテル、それで成り立つ為に考えたのが、1泊100万もするという超豪華なリゾートホテル、それでも予約は常に一杯だという。そこで得たお金で医療や教育の無料政策をとっている。
 そこの大統領が言っていた。日本をどう思うか?との質問に、真っ先に答えたのが大震災に襲われながら必死に立ち上がろうとする日本人に敬意を表したいということ。そして日本は経済的に成功を収めた国だが、・・・・・。その後の言葉は聞けなかった。多分、自分達で考えてみればということだったと理解する。
 国政にスキャットは似合わない。確たる信念とそれを支える国民の信頼が有るか無いか?
ルールルールー ルールルールー・・・・・・・・・
 

1988:冷温停止

昨日、野田総理が福島原発事故の冷温停止状態(事故収束へのステップ2)を確認したと発表した。これを聞いた人々の反応は様々でこれからが大変で安心などまだまだ先の話という点では一致している。
 誰だってそうだ、特に放射能汚染の実態が明確にされない中で汚染量の数字だけが一人歩き、原発周辺だけかと思っていたら東京の世田谷などでも高い数値が出ている。
 事故を起こした原発を廃炉にするには少なくとも40年がかかるだろうという政府発表も腑に落ちない。私達は自分の眼でそれを確認できないではないか。
 ・・・・・・・
 今後も原発を巡る様々な動きが加速していくだろう。
加賀乙彦著:『不幸な国の幸福論』・・・・・経済は破綻し格差は拡大する一方、将来への希望を持つことが難しい日本にあって、「幸せ」は遠のくばかりと感じている人は多い。しかし、実は日本人は自ら不幸の種まきをし、幸福に背を向ける国民性を有しているのではないか・・・・・・
 パソコンやデジカメがどのような仕組みになっているのか考えた事もなく、まだ充分使えるのに新しくなった機種を買い求めている。斯様に万事が万事「考えない」ことが習慣化し、そのことが危ないと警鐘を鳴らす。それは何か問題が起こった時に普段からその遠因と近因を多角的、客観的に分析し、今の自分にできる対策は何かと考える習慣が無くなったことだと言う。
 確かに何かを変えようとする時に複雑に絡み合った毛糸のようで糸口を探しだすことすら至難の業。それは誰の責任でもない。日本全体が何かに浮かれ一抹の不安を感じながらそれを検証し行動に移してこなかったからである。今更どうすることもできないと人生を諦め挙句の果てに自死を選択する人が一向に減らない。
 多様な価値観で自由に議論が出来ることは良い事かもしれない。でも良く考えてみなよ。議論が空論になり、こじつけの議論を重ねるだけで将来への絵が描けず、具体的な方針が示せない!どのような理屈を付け説明したとしても雪だるま式に国の借金は増えるばかり、その問題解決の対策すら先送りを続けているのである。
 所詮、人間という生き物は罪多きものなのか?一向に反省をせず、誤魔化して生き延びようと考えていませんか?
 
 原子力は人間の力で制御できないことを証明した。一方、その開発研究を諦めてしまって良いのかという意見もある。技術革新はしなければなるまい。世界中に建設された原発の数、その危険性をできるだけ減らすために。
 だが、世界の人口は既に70億人を超えた。果たしてこの地球が許容しうる人間の数はどれ程なのだろう。人類の歴史からみて我々の一生は瞬時のこと、この積み上げがあって今がある。
 一人の人間の力は微々たるものだが一人一人にとって掛け替えのない人生だ。そこに”幸せ”を掴みたいという願いは誰しもが共通に持っている。”幸せ”そのものに個人差はあるが、日本に於いては憲法で認められた当然の権利。
 そこで言う本来の福祉とは、判り易く誰もが使えて身近にあるものである。それがどうだろう?膨大な量の文章を虫めがねを使って丹念に探しもとめ、やっと見つけたと喜んだら、その付則が更に複雑ときている。結局、誰もが使い勝手の良い制度にはなっていない。
 いまこそ、立ち止まって考える勇気を持たねばなるまい。福岡氏がブームに乗ることの危険性を指摘したその本意はそこにあるとみた。
 
 

1989:親の願い

施設保護者連絡協議会の茨城県内の意見交換会が昨日、水戸でありました。
 松井会長の今までの経過説明と今日課題になっていることをパワーポイントを使って説明がありました。膨大な資料を自分なりに纏め、これからこの協議会をどうしますか?という提案で締めくくった。
 お土産としてCDに焼いた資料を参加施設全部に持って行ってもらうという配慮。
 ただ、会員数に対し、参加者が半分以下という現状、PR不足という事もあろうが、ハッキリ言って任せっきりという体質から抜け出ない!
 施設にオンブに抱っこ、入所できたということで目的を達した如く安心してしまった。
 その事を私は会議の場で話した。心乱される人もいただろう。実際そうなんだから私はどう思われても構わない。その後の意見の中に「知らない」とか「伝えられていない」というものがあった。
 何をかいわんやである。
 障害福祉が足踏み状態で活気が出ない。反対はするが、建設的な意見や行動となると様子伺い。そして、最後は”親の願い”という天下の宝刀を抜くんだよ。
 そうなんだね。これって我々事業者の責任も大きいと思うよ。
私は長野で研修してきたばかりだから、その辺の実態との乖離を諸に感じた。世間様は親の願い⇒本人の願いにギアチェンジしているのにまだ浸透はしていない。
 事業所の責任として、親と施設の蜜月時代が長く続いた。そして、同じ障害を持つ在宅の子の親達はその中に入れず、抱え込んだ実態。”脱施設”とか”施設解体”という意見は今でこそ鳴りを潜めたが、本心としては、依然として持っている。
全国施設保護者連絡協議会に加入している都道府県は24団体、政令都市を含めずともやっと半分でしかない、県によって様々で、育成会と一緒に活動している県もあるが、その場合、入所施設の家族会は正直肩身の狭い思いでいるというのが現実だ。
 この構造をどうにか打破しないと今法制化にむけ検討されてきた、本人の願い:利用者本位の仕組みには成り得ない。
 虐待防止法の中身を見ると支援者による障害者虐待が明示されている、支援者の範疇には施設職員や家族も入るのです。
 権利擁護センターなどに相談に上る権利侵害の件数は一向に減少していないと言われます。成年後見制度の導入が遅々として進まない理由、それとその制度の不備、利用すると本人に選挙権が無くなる等の新たな問題が持ち上がっている。
 しかし、どうでしょう? 黙っていては何も変わりませんよ。親の願いと言っても、ご本人のホンネはどうでしょう?
 そこなんですね。いま巷で騒がれている中身は。茨城の県民性と言っちゃー駄目ダメ。
 やろうよ。言おうよ。動こうよ。
   ある施設長の願いです。

1990:本人の願い

 本人たちの願いってどんなものでしょうか?
以前紹介しましたドイツのグループホームは、オプションのメニューが32通りありました。果たして今法制化の作業真最中の障害者総合福祉法の中でそのような求めに充分応えられる仕組みができるでしょうか。
 そして障害の種類別の縦割り状態の改善がなされるでしょうか?せめて定義付けや利用の際に判りづらく複雑にならないことを望みます。
 それと理念先行で実行段階で財源不足という二の舞を演ずることにはならないでしょうね。
 地域生活という言葉に危惧を誰しもが感じています。何故でしょうか。今の日本は障害者を有りの儘に受け入れる社会になっていますでしょうか。”絆”とか”共生社会”と敢えて言わねばならない現状が何を意味しているか。
 そして、GHやCHの実態はどうでしょう?住人となった人達にとって継続可能な住処になっているでしょうか?
 定額の報酬に更に加算された助成金で運営されている一部裕福な市町村による成功(?)事例を、こうあるべきだと押しつけてはいないでしょうか?
 今でも障害者施設を新たに建設するとなれば地元の同意を取るように指導されます。
 有りの儘に地域で生活することを法律で保証するのであれば、反対する人達に罰則を課すべきではないでしょうか。反対する人達には何のペナルテイを課さず、支援する者たちへの罰則だけを定めた法律では納得できません。
 何度でも言いますが、仏造って魂入れずとなりません?
  現行の仕組みでGHなどに移行しますと、身体的不具合で生活が難しくなった時、果たして今のGHの支援体制で利用の継続が可能かという疑問があります。そうなった時に本体の施設に戻れる可能性が有るか?正直、施設はその時の事を考えて空きベットを用意しておく施設ばかりでは無いと思います。
 ならばGHで対応できる姿にすべきでしょう。制度上はホームヘルパーの受け入れを可能にしましたが、入院まで二四時間付きそう事ができますか?
 その辺になると制度は口を閉ざします。
安心を誰しもが願います。それは親でも施設でも本人でも全く同じだと思っています。
 制度改革推進会議の議論の中で、親の願い⇒本人の願いに変えようという了解事項が出来あがったと聞きました。
これを知った時に腹立たしく思った人もいたと思います。我々事業所から見ても積み上げてきたものを全面否定されたような虚しさを感じました。そんなこと言うならアンタが自分でやればと何度思ったことか。
 自分達の落ち度を隠すつもりは毛頭ありません。満足など一度だってしたことがありません。
 ならばお金が有る人、手のかからない人だけを集め、これが理想のサービスだと言えば良いのでしょうか!そうじゃー無いはずだ。少なくとも50年〜60年前に何も無い処から始めた多くの先人達の思いは違いました。
 残念ですが、いつの世にも生活を上手くできない人は存在します。例えが日本は果たして老人天国になっているでしょうか?
 仏教に『恩に報いるものは煩悩を洗われて其の身を清く保ち、一河の流れに同じ水を汲みたるともがらは、幽明界を隔つといえど等しく御仏の光に会う・・・・』という文言があります。
 この国は高齢者の恩に報いるような容になっているでしょうか?そして格差の無い誰しもが等しく安心ある営みができる社会となっているでしょうか?
 福祉と言う言葉が実体のない風前の灯になるような気がしてなりません。仏教で言わんとする恩に報いることを金で売り買いする国へ舵取りした国に問題アリ。其処には最早、共助や共生という考え共有する素地はない。
 彼らを見くびってはならない。そう私は思います。