源究117

 

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
1851 夏が来れば 7/10 1856 なでしこ・J 7/15 1861 夢二夜 7/22 1866 実地検査 7/28
1852 ここだけの話 7/11 1857 学ぶ姿勢 7/16 1862 偶然にも 7/23 1867 一夜明け 7/29
1853 生命力 7/12 1858 ハリーポッター 7/17 1863 老境の入口 7/25 1868 Compliance 7/30
1854 障害福祉計画 7/13 1859 蓮の花 7/18 1864 高校野球 7/26 1869 自然の怒り 7/31
1855 霞ヶ浦 7/14 1860 7/21 1865 若い力に 7/27 1870 虚脱感 8/2

1851:夏が来れば

『夏が来れば思い出す  はるかな尾瀬 遠い空・・・』という「夏の思い出」は良く知られた曲である。江間章子作詞・中田喜直作曲。この曲の中に水芭蕉が出てくる。1番は「夢みて咲いている・・」2番では「夢みて匂っている・・・」という歌詞である。
 中田喜直という作曲家は、大正生まれで今も良く歌われる曲をたくさん作っている。「小さな秋みつけた」「雪の降るまちを」「めだかの学校」など数えきれない。音楽一家に生まれた彼も大正生まれの宿命で戦争に駆り出されフィリッピン戦線に参加、陸軍の特攻隊の要員として終戦を迎えた。そのような背景は余り知られていない。
 彼が亡くなって10年が経った。
さて、夏の思い出という歌を口ずさんでいたら、少々感傷的な気分になってしまった。昔歩いた尾瀬は、今でこそ道が整備され、湿原に咲く水芭蕉を傷めることはなくなった。この時期大勢の登山客が訪れているだろうと思うと無性に昔が懐かしくなった。
 水芭蕉が夢みて咲いている・・・・という歌詞も凄い。NHKの朝の連続番組『おひさま』が放映されている。丁度中田と同世代の主人公、戦争によって様々な宿命を背負わされた。若者は、敗戦後、生きて故郷に帰ることを大ぴらげには喜べなかった。友人や知人を戦地で亡くし、自分だけが生き残って帰還したことの罪悪感に苛まれた。そして、ご承知の如く、その年代の人達が原動力となって戦後復興を成し遂げたのである。
 ・・・はるかな尾瀬 遠い空・・・で終わるこの曲は、当に荒廃した日本の将来を夢見た若者たちの士気を鼓舞した。尾瀬を理想郷とし、未だ遠い存在だがいずれ私たちの手で実現したいという願いが籠っている。
 春夏秋冬、日本ほどハッキリした四季をもつ国はない。自然豊かでその地独特の植物が生い茂る。
 日本人が迷ったのは、自然は豊かだが、資源が乏しいということだ。石油獲得に血眼になり、いまレアーメタルという新たな鉱物を世界中捜し回っている。世界大戦に突入していった歴史は、当に海外に資源を求め続けた結果である。
 確かに映像を見る限り、首都東京の高層ビルが林立する姿は豊かさを感じさせるものだ。ただ、人工的な緑地が所々にあるだけで、とても自然の豊かさは感じられない。これで本当に良いのでしょうか?
 いま、日本人全てに問いかけられた最大の問題である。貴方たちは何を一体望んでいるのですか?
 便利になった交通手段を利用すれば数時間で豊かな自然を満喫することができる。これだって世界において珍しい国である。国内治安の良さと教育水準の高さ、これもまた誇れるものである。しかし、気になるとすれば”足るを知る”という観念の希薄化、それに反し格差を認め際限無い欲望を満たすことの価値観が肥大化していることである。
 夏が来れば思い出し、秋には小さな発見をする、そんな自然の妙を次の世代に残そうじゃありませんか。

 早朝にカブトムシを追いかけ、小さな虫籠に入れ、エサを与えて、それを欲しがる人にあげることをこの季節の喜びとしているNさんは・・・・・。先の江間さんの歌詞を借りれば、 霧の中に うかびくる やさしい影・・・そのものである。

1852:ここだけの話

梅雨が去年より12日も早く明けた。今年も猛暑になるようだ。昨日の気温は35度、ほぼ体温に近い日がここ数日続く。これでは体調に異変が起こるのも頷ける。昨日の法事は2件だけだった。皆さんかたい家で正装で来られ、蒸し暑い本堂で、上着を脱いでも構いませんよと言ったが誰も脱がなかった。こうなると私だって真剣だ。流れ出る汗をタオルで拭きながら一生懸命経を読んだ。
 実は今朝早く、昔からの檀家さんが寺にやって来た。何かに使ってくれとお金を持ってきた。その後、「実は親戚の法事を横浜でやって来たんだけど、驚いたね。そこの住職が静かで。サッサと音も無く歩いて、角々は90度で曲がる。凄いや」と言う。「そうですか」  「それからよ。住職が戒名の意味を書いた紙を家族に渡して説明する。あれ良いよな」その表情は明らかに私と比較している。「そうですか、私もやった方がいいですかね」「うだなー」
 それが言い終わると「それじゃー」と言って帰っていった。その檀家さんの周辺は、一番私の寺の檀家になった方が多い地域、その纏め役をやってくれている。その周辺の噂で、「かんのん寺の住職はお経が短くて、一番いいや」という事を聞いた。ここだけの話、これをどう理解すれば良いか、ちょと考えないと不味いな。
 自転車に乗って寺と施設を往復、夕方は緑のカーテン用に植えた朝顔とゴーヤの水遣りが私の仕事。その帰りだった。またもやNさんが、団扇と缶ビール2本ビニール袋に入れ対面から赤い顔して歩いてきた。
「よっ!Nさん ご機嫌だね」彼は真剣な眼差しで私に話があるという。「あのよ。俺を いつまで置いてくれるのよ?」と尋ねる。何????飲んだ勢いもあるのだが、返事如何では絡んでやろうかという目付。「いや、心配すんなよ。Nさんが良ければいつまでいたって良いんだから。」と言うと「そうか。うん。わかった。」と少し表情が和んだ。
 何か寮であったに違いない。
 GHのあじさいは皆さん酒を飲む。自分で買ってきて冷蔵庫にしまっておき、夜飲んでいる。
ビヤガーデンでも作って毎晩、飲んだらどうなるか?私はそれをやっても良いと思う。でも、職員の大半は反対だ。理事長は後まで面倒みないと。それを言われると何も言えなくなる。ここだけの話。
 生活に根を置かない机上の空論をいくら行っても駄目だ。国の示すアイデアは情報が偏っている。成功事例を元に作成された企画など、根付くはずがないじゃないか。現場の成功例など1%にも満たない。変化と停滞の繰り返し。
 ここ数日、物置の奥にしまってあったチェンソーと格闘している。エンジンがかからない。私の拙い知識を全て試すが、うんともすんとも言わないのだ。
 丸太でベンチを作ろうとしているのだが、肝心のチェンソーが動かない。
 そうなんですよ。今の制度作りでやっている事と全く同じなんだ。素晴らしいイメージは有るけどね。どうやるかが決まらない。ソリャーあれだけ回数を重ね、意見を出し合えば様々なアイデアが出ますよ。だけどね、どうなんでしょう。いくら部厚い報告書を出されても、実態に反映されなければ只の紙。言い過ぎでしょうか。いつまで待っていれば良いのやら。
 日本の仕組みがそれを可能にするようになっていませんから。数えきれない程の審議会があって、其々が単独で話し合いが成される仕組み。財源をどうするかという問題は別、だからその交渉に入った途端、ギャップの大きさに尻つぼみ、計画変更、先送りというお決まりのパターンです。新たな福祉制度なんだけれど、現実にいま起きていることをほって置いて議論したって意味がない。そう思うのでありんすよ。ここだけの話。

1853:生命力

備長炭に使われるウバメガシは成長が遅く、それも北側斜面に育つものほど炭としては良いモノができると聞いた。そして、株から出た枝を全て切るのではなく、1本残す。これは継続して利用するための工夫である。
 日本人は先人の知恵を大切に守り、様々な文化を育ててきた歴史がある。それが何故か解らないが、最近の傾向は根こそぎ切ってしまい、それでも満足せず、根っ子を掘り起こしてしまうようなことまでやるようになってしまった。
 最後の1滴まで飲み干すようなことが平然と行われてきた。今さえ良ければ後の事は構わないという思いにどこか通じる。
 そんな事に関係なく自然の凄さは目に見えない地下で脈々として生きながらえているのだ。
 上の写真は、女子寮の廻りの犬走りが盛り上がって割れてしまった。段差があって歩くのに危険だし、作り変えることにした。暑さ10センチ程のコンクリートが捲れ上がってしまう位だから相当な力がかかった。職人さんが私を呼びに来た。みると驚いた。太さ30センチにもなる木の根っ子が犬走りの下をどこまでもはっていた。この所為で割れた事が分かった。周りにそれ程太い木はない。どこから伸びてきたのか分からない。根を取り除かないとまたコンクリートが割れるというので1日余計時間がかかったが根っ子を全て取り除いた。
 我々普段は目に見える所にしか気がまわらない。この建物は既に30年以上経っている。最初は細い根であったものが、ここまで太くなった。
 またこんな話を最近聞いたばかりだった。大地震により茨城や千葉で液状化という問題が発生した。
 その原因に共通するものがあるという。明治や江戸の古い地図を見ればそれが分かるというのだ。その昔、沼であった場所や湿地帯を造成した処が多い。急速な都市化の波によって、宅地化された。だから、住宅ローンが払い終わっていないとう方達が多い。住めるようになるために改修に相当な負担がかかる。建物を直したとしても地盤は治せない。
 通勤に便利という事で一戸建てを購入した人が殆ど、利便性の裏にこのような負担が覆いかぶさろうとは誰も思わなかった。
 今、尚恵学園が建っている土地は、私の記憶しているだけでも、斜面を利用した水田があった場所、常に上から湧き水が流れている。土手側にどのような暗きょう排水をしても、時間がたてば、どこからか水が沁み出てくる。
 斜面に建てたことで、冬の強い西風を避けることができ、春はいち早く東南からの日差しを受け、桜が見事に咲く。
 一長一短というのだろう。不便さはそれを覚悟すればどうにかなる。
 例年、この時期に植木屋さんが入る。伸び過ぎた枝を切り落とし、形良く仕上げる。木が古くなると病気や虫で往年の勢いが無くなったものがある。それを診断し、応急の処置をも行ってくれる。
 枝が枯れる一番の原因が根にあると聞いた。そして幹の内部の異常、それは土との相性もあるのだろうが、虫による事が結構多い。虫は自分の住処に木を選ぶ。樹液を栄養にし、快適な住処を作った。木はたまったもんじゃない。栄養分が枝にまで行きとどかない、それで枯れてしまった。
 斯様に身の廻りを見回すと”因果応報”、原因があって結果があることが見えてくる。
 

1854:障害福祉計画

障害者福祉法と障害者自立支援法を根拠とする計画策定が図られ、県や市町村には既に2本立てのものが存在する。これには数値目標が明記され、年次ごとに実績との照合がなされている。・・・・が、ここ数年は根拠法そのものの見直しが頻繁に行われ、現場は混乱している。制度にある文言の理解が充分ではなく、事業所や役所窓口に来られた利用者への説明も充分になされているだろうかという不安がある。
 現行のサービスは、申請・登録が条件であり、その中身の周知徹底というと覚束ない。利用者がサービスを選択するという原則に異を挟む者はいない。しかし、仕組みそのものが実態に即したものとなっていないから混乱が起こっている。その最たるものが”上限管理”というものであった。一人の障害者が様々なサービスを受けることが可能となったのだが、障害の程度に応じたサービスの量が決められた。自分の持ち点をどれだけ使い、後どの位残っているかを自分で管理する仕組み、これは評判が悪かった、いまその見直しがなされている。
 それと障害児の取り扱いに関しては複雑だった。障害者福祉法の中で大人と同じ取り扱いになっていた事への矛盾で、児童福祉法への再編入がはかられている。
 福祉の進んだ北欧などの今の実態はどうなっているのか詳しくは分からない。日本は制度作りで西欧を参考にしてやってきた。
 新しい公共という触れ込みは、おさまり処が悪い現行制度を日本独自の仕組みへの改編する動きと捉えた。新たに起こっているのは議論を重ねれば将来への展望が開けるのだろうかという疑問。
 計画実施には、当然その財源の裏付けが必要だ。常態化した借金財政の中で福祉だけが特例と成り得るのか!聖域ではなく、当たり前にという国民のコンセンサスは未だ日本には無い。
 どの県でも同様の現象が起こっている。それは、県内での地域格差が出ていること。その前兆は先ず介護事業にみられた。公的な負担をどこが行うかということで、事業所を多く持つ市町村ほどその負担の増加に悲鳴があがった。
 そこで苦肉の策として、1年間は住んでいたという条件付けの支給決定をする。すると、どうなったか?
 高齢者専用アパートなどが急増、そこに1年間住み、その市町村で介護サービスを受ける権利を取得するという新たな動きがでた。現行法で、それを止める手立てはない。となると市町村は対抗策として、事業所認定のハードルを高くして制限することになった。
 これだって国の示した地域生活優先の施策に便乗した想定内の動きであろう。
 ここで参考になるのは、ブータンという小国が国策として掲げているGNH(Gross Natinal Happiness)国民総幸福という概念である。「国民一人一人が満たされているか?」という尺度は、物の豊かさを基準にした日本の対極にある。
 私は今、一つの危惧をもっている。それは福祉を数値化することへの疑問である。
 例えば、施設利用の実数が多ければそれが良いのかという問題である。最近の入所施設の定員を減らす動きを、どう説明するのかという事に通じよう。
 究極の福祉は、特別なサービス事業所など無く、一人一人がそこでの生活に安心して満足できることである。
 これこそが長期展望に立つ、継続可能な国の有り方ではないだろうか。
 今年、地元仏教会でブータン視察を計画している。その団長になって欲しいとか言われたような気もする。
 俄かに起こった脱原発の動きの中で、今でも電気を拒否する国があるという事、それを無視するのでは無く、何がそうさせているのか知る努力は必要と思う。

1855:霞ヶ浦

梅雨が明けて茹だるような暑さに、一時の涼を求め、木陰に逃げると、待ってましたとばかりに蚊の猛攻を受ける。私は蚊取り線香の匂いが嫌いだ。どこから入ってくるのか分からないが毎晩、蚊が飛んできて足などを刺され痒さで目を覚ます。これだって私にとっては夏の夜の風物詩?。
 ところで、霞ヶ浦の透明度が今年は例年の2倍良くなったという。喜ぶべき現象なのだろうが、その原因が良く分からない。常陸川水門というものを作り、海水の流入を防ぎ、淡水の利用をはかったのがもう40年以上前、生態系が変わった。その後様々な工夫はされてはきたが、水の汚れは一向に止まらない。透明度といっても2メートル程度だから琵琶湖と比べれば雲泥の差、関東平野のど真ん中にある霞ヶ浦と周辺を奥深い山に囲まれている琵琶湖とは条件が違う。自然の浄化機能が霞ヶ浦には望めない。
今年の変化は3月に起こった大地震による影響かとも言われている。ゾウミジンコとかいう動物性プランクトンの異常発生により植物性プランクトンが食われ汚れが減ったという説、しかし、これは一時的なものでゾウミジンコが死んでその後は逆に水質が汚れるとも言われている。
 ゾウミジンコはワカサギの大好物、一時獲れなくなった霞ヶ浦名産が復活するかどうか。自然界の中では弱肉強食が形を変えて常に行われている。
 ”脱 原発依存”という方向に舵が切られるのだろうか?昨日6時から菅総理の記者会見があった。原稿を見ながらだったがそのような事を発言していた。しかし、どうだろう。インパクトを感じない。本当に実現できるのですか?という穿った見方にどうしてもなってしまう。
 大勢集まったマスコミ取材陣、彼らの質問には遠慮など無い。先の松本大臣の辞任時、総理は会見を開かなかった。自分の都合の良い時だけ記者会見はしないでくれと某新聞の記者が機先を制した、辞任の経緯について意見を求められたがその事に関して一言も説明はしなかった。
 国内だけでなく世界中で日本の政治に対する不信が深まっている。これだけ頻繁に重要ポストの大臣が変わる国は珍しい。次なる人は前任者にないセンセーショナルな考えを述べようとする。CO2排出削減目標もそうだろう。次の総理がそれをあっさりと訂正する始末。
 一昔前ならば、そうは言っても日本からの援助は欲しいからお付き合いはしてくれた。それが先細りになってきたから、ソッポを向かれる。信用性ががた落ちしている。
 霞ヶ浦の汚染もそうだ。一時的に改善がみられても、根源的な問題が解決されない限りまた繰り返される。
 南相馬の牛肉が放射能汚染になって既に出荷されてしまったものだから、大騒ぎになった。専門家がここぞとばかりにテレビに登場、牛肉を毎日200グラム食べて1年間でこれだけになりますよという説明をする。これだって非現実的な話、毎日200グラムのステーキを食べている人間っているのかよ。栄養過多で循環器系の病気が心配だ。
 安全か否か。ここまで神経質になるのが果たして良いのかどうか。全国知事会が秋田県で開催され、原発対策について意見交換がなされた。福島県知事のコメントがのっていた。その通りだ。現実に起こっている事への対応を必死で行っている知事とこれからどうしますかという県の知事とでは全く違う。
 脱原発を大きなウネリにするには、やはり市民一人一人の自覚と実践を待たないとできない。その意味で私は脱原発の是非を問う国民投票を行う事に賛成だ。解散は意味が無い。だってそうでしょう。政党公約の実態を嫌というほど知らされたのだから。
 

1856:なでしこJapan!

ドイツで開催中の女子サッカーワールドカップで日本チームは決勝戦まで進んだ。18日の日本時間の早朝に世界ランク第1位のアメリカを相手に金メダルをかけ戦う。
 号外が出て街ゆく人を驚かせ、最近元気の出るニュースが全くなかった日本に喝をいれた。画面を通してしか分からないが、ここまで勝ち進むと日本チームの雰囲気は最高潮に達しているだろう。世界第4位に日本がランクされているのも正直知らなかった。いつの間にトップレベルまで達したのだろう。私も高校時代ヘボなサッカーをやっていたから自然と熱が入ってしまう。
 日本チームの強さはスピードと正確なパス回し、それとどこまでも食らいつくガッツだという。確かにピットに入った選手の動きは常に動いている。この体力は並ではない。今回の主力選手は海外のチームでプレーしているという。これも知らなかった。
 今回の躍進の要は沢選手と佐々木監督だともいう。沢は超有名で海外メデアもトップニュースで彼女を取り上げる。
佐々木監督は熱血漢、試合後のインタビューでいつも目を赤くして涙を浮かべながら、選手たちを称える。チーム力は個人プレーではなく、組織としてどう動くかという事。ベンチで控える選手、先発で出た時の活躍は目を見張る。どの采配も皆的中し、選手たちはそれに見事に応えた。ここまでテンションを保つのは大変だ。チームが一丸となっている。この扇の要が監督始めそれを支えるスタッフ。日本にはハッキリとした目標がある。さらに日本での大震災が選手たちのモチベーションを高める原動力にもなった。
 勇気を貰った人も沢山いたはず。苦節何十年、出れば負けの悔しさをバネに彼女たちは練習に励んだ。・・・・・・。

 こう考えていくとリーダーとは何ぞや!の答えが自然と出てくるような気がした。やる気を起こさせる抜擢(人事)、責任を他人の所為にせず、自分が取る覚悟。スポーツは勝ち負けがハッキリする。言い訳など通じない。前政権が悪いとか東電が悪いとか・・・・・・。そんな事、ここに至ってまだ言っている。国民はそれら全てを分かった上で貴方達に託し期待した。それが政党内での足の引っ張り合い、醜いの一言だ。スポーツには制限時間がある。政治にはそれが無い。スポーツでは実力の無いものは選ばれない。結果を出さなければ退場だ。スポーツの厳しさはルールの中での戦い。政治に明確なルールがない。目標が無い。議員バッジを付ける事が目標になっている政治家が多過ぎる。これが現今の政治低迷の最大の原因だ。なでしこJapanから学べ!
 政治家だってプロだ。結果が出せない者は去るべきだ。約束を果たせなかったものも同じ。それが2世3世親の作った地盤を背に選ばれて何ができるというのか!自分の実力で得た議席なら、それなりの評価ができる。
 その面では、ここ数年で何人の総理が変わったかは知らないが、唯一、菅さんだけが自分の努力で勝ち上がった。
だから廻りがなんと言おうがなかなか辞めない。その逆の人間は総理になったという実績だけで満足するから、土俵際に追いつめられた時、あっさりと辞めてしまう。元総理の肩書で満足した。
 私が菅さんを評価する唯一の理由がそれだけ。彼が学ばなかった事は全てなでしこJapanが証明した。
 脱原発依存を表明した。再生エネルギーも。マスコミは電力業界の闇の世界を何故か暴かない。ヨーロッパが何故、他国から電気を買う事ができるのか?それは陸続きという理由だけで無い。日本は送電事業が専売特許、自然エネルギーで発電した電気を送る手段がない。これが最大のネックだ。
 原発事故の東電の補償総額は会社を潰しても足りない額になるはずだ。そこに国が税金で補てんする。企業責任はどうなるのか?
 生き残った東電は、いずれまた今と同じ独占企業で天下り幹部の指定席となるだろう。これを許せますか。
 現在10社ほどある電力会社の役員でどの位の割合で天下り人事がなされているか公表すべきだ。癒着構造の温床が必ず有る。
 この抜本的な改革が果たして延命措置とか揶揄されている菅さんにできるかどうか?
 それとこの国が将来、安心して暮らせる国となるかどうかの試金石でもある。

1857:学ぶ姿勢

障害福祉と介護福祉の大きな違いは、其々の歴史の厚みと量の違いだと私は思う。当然、対象者の数が違うわけでサービス事業所の数は大きく異なる。それに合わせ様々な事業の主体が参入している。介護ビジネスはいま日本で最も元気のある業種となった。ピンからキリまでと言ったら叱られそうだが、現実はそうなっている。
 最前線の現場では熾烈な競争がある。複雑な仕組みとサービスの種類の多さは、障害福祉の比ではない。
 昨日、株式会社として障害福祉サポートを行っている代表の方に私共の政策委員会に来て頂き講演してもらった。
 正直な感想である。細部まで心を配ったサービスの実態を感じた。社会福祉法人という我々公益法人と一体どこが違うのか?税金の免除や補助金など恩恵がある社福とそれが全く無くて税を納めている民間会社。その代表を私は良く知っている。彼は某施設で長いこと施設職員を務めた。その後立ち上げた今の事業は5年間の歩みの中で確実に発展させている。寝る暇も無く、利用者の中に自ら飛び込んで行く、その姿勢を我々はややもすると忘れかけていないだろうか。
 せめて、学ぶ姿勢は持ちたいものだ。
 今後の福祉サービスはどうなっていくのだろう?様々な研修に顔を出し、国の方向性を探る。正直、どうなるのかは読めない。より混迷を深めるばかり。本来の社福の有り方と実態がズレていないか。
 社福の関係者にいま問われている事は、その1点である。
 守りに入った事業は、時流に疎くなる。明日どうなるか分からない状況は聖域など無くて、全ての業種に当てはまる時代となった。
 櫻井よし子さんの「日本の覚悟」というちょっと部厚い本を読んでいる。今の政治の躓きが良く解説されている。鋭い目線でズバリ指摘する彼女の識見に敬服する。気になる女性として同志社大学の浜さんもいる。ドイツで開催中のなでしこジャパンの大活躍も日本人女性。彼女達に共通するものは、目の鋭さ、ハイエナみたいに獲物を睨む動物的感覚がある。がんばれニッポン。世の男たちよ。どうした? あっ 俺も男だった。疲れ果てた男達よ。夢を持て!
 気骨稜々・・奮い立て。
 フーン、フニャー・・・ゴテン
 女性から学んでも良い。今や武士道精神などどこかに行ってしまった。武士の情けどころの話じゃー無い。藤沢周平の筆跡は慰めにはなるが、原動力には成りえない。
 平和なニッポンを望まぬ者はいない。・・・・が、これは実に微妙でシビア、戦後の日本は自衛(専守防衛)以外の軍備はせず、平和路線を世界に宣言し、今に至った。東アジアの状況は60年前とは大分変わっている。一触即発の国境問題は日本が周囲を海に囲まれる宿命でそれでいて断固たる対応がとれない。このもどかしさ。
 原発をどうするのか?このことだってどれだけ議論されてきたのかは分からない。
 ワザワザ会見発表までした脱原発依存を、総理が個人的意見だと修正した。なんとも歯痒い。
 新たな代表を選出すると粋がってみたところで、誰がいるのですか?
     *スウエーデンの人口は神奈川県より少し多い程度で国土は日本の1.2倍。女性の国会議員は全体の48%。
 

1858:ハリー・ポッター

『ハリー・ポッターと死の秘宝』という映画を観た。シリーズもので今回の7巻目で完結した。猛暑続きで夕涼みでもしようとイオンシネマに入った。
 イギリスのJ.K.ローリングという無名の作家が書いたものでご存知の通り、大ヒット、作品は児童文学の類に入るそうだが、ファンタジックで3D映像の為か面白かった。ハリー役のダニエル・ラドクリフも最初から出演し、第1巻目当時と比べれば子どもらしさは消えていた。
 完結編ということもあり、どんな結末になるのか興味はあった。ハリーも結婚し、二人の子供を駅で列車に乗せ、見送るというシーンで終わった、・・・。この映画全編に共通する善と悪の対比、魔法という手法を用いて自分の意思どおりに世の中を動かそうとする。
 この作品が児童向け文学の類にいれられた所以は、人間の内面の不思議さを扱っているからだろう。誰しもが心の中に持つ善と悪の両面、妬み、憎悪、優越感・・・・などなど実体のないこころの動き。そして最後は善が勝つ。これで目出度しめでたし。本来、物語ならばその筋書きでOKだ。しかし、現実社会はそうなっていない。科学の進歩を目指すという表向き理由とは裏腹な殺戮兵器の開発など。
 この作品は、様々な反響を呼んだ。途中、既成の宗教からの猛反発もあった、ファンタジー小説の宿命か、どうしても教義に触れる場面が出る。その扱いが微妙。キリスト教やイスラム原理主義といった一神教から見れば、許容の範囲を超えているかもしれない。それが児童文学と言えば尚更の事。
 しかし、仏教的に見ればどうか?別にそんな事を思いながら観た訳ではないのだが、密教的教義に通じるものを感じた。それは人間の力ではどうする事もできない事、加持祈祷や呪術的な行為によって絶対なものに判断を委ねることが信仰という形で残った。
 この世の争いごとの根源に常に存在するエゴと排他性、宗教という形を借りた教えの中に、”生きる”という事の意味を探る。”死の秘宝”というタイトルは、人間が求め続ける”物質的な豊かさ”に対し、再考を促す意味を持たせた。宝=争いという図式、
 今、日本で現実に起こっている事態は、この判断を突き付けられていることだ。この映画の終盤でハリーが先生に尋ねる場面、(霧の立ち込めるキングズクロスの駅)・・列車の到着を待ち、それに乗るかどうか?の判断を”死”と”生”の二者択一に置き換える。誰しもが恐れる死は、一瞬にして起こるもの思い悩む事では無い・・・・それよりも”生き続ける”ことの方が大切。。。どちらを選択するかはお前自身で決める事。。。。そう言って先生は姿を消した。
正確な再現ではないが私はその場面をそう理解した。
 原発の問題とダブった。孫子の代を犠牲にし、今を生きる我々の利を得るためにこのまま続けていって良いものか?勇気をもって止めることの判断をしなければならない。核の恐ろしさは人間の力で制御できない。制御できないものが安全であるはずが無い。この選択は、一人一人が真剣に考え、決める事である。
            *俄か映画評論家にとっては、重いテーマであった。

1859:蓮の花

栃木・金澤氏より
蓮の花が咲きましたと写真を送ってくれた。
 大きな葉の間に頭をちょっとだけ出し咲く花はいつみても可憐で慎ましく、気持ちを和ませてくれる。この花は決して長くは咲かない。蕾から華弁を広げるまで然程の時間を要しない。
 今朝の話題はなでしこジャパンのサッカーワールドカップでの優勝で、正直私も早起きしてテレビを見ていたが、アメリカに点数を入れられた後、スイッチを消して寝てしまった。延長戦でも先手を取られ、その後追いついた。結果はPK戦、よもやの世界1の栄光を勝ち得た。選手たちの顔をなんと評して良いのか、蓮の花、ちょと違う。
 元気の無かった日本に大きな勇気を与えてくれた事に感謝。負けても勝っても試合後は相手を称え、共に喜ぶ姿は、これぞスポーツの真骨頂と思わずにいられない。
 選手たちが帰国する時、また大騒ぎとなるに違いない。体力・スピード・経験・・・全てがアメリカのほうが優位だった。もしかしたら勝利するかもしれないと僅かな可能性にかけた多くのサポーター。筋書きがあるとすれば、見事に筋書き通りに試合が流れた。
 PK戦にもつれ込めば日本が優位、俊敏で器用な選手が多いから。
 これからは日本でも女子サッカーが流行るだろう。
 スポーツの世界でも外国との交流が進む。お家芸である相撲や柔道は海外選手の台頭が目立つ、これも時代の流れだから仕様が無い。
 蓮の花が仏華と珍重されてきた理由はいくつかの説がある。泥中に美しい花を咲かせるというコントラスト、そこにモノの価値観を観るという教義にもなった。蓮は最も古い地球上の華、約1億4千年前からその存在が分かっている。
 人間の一生を人生80年とみても、1億年以上も前からあった蓮が、1年に一度だけそれも4日間位しか花を咲かさない。ここに何かを感じた。
 他に誇る事も無く、相手を貶す事もしない。これこそが仏の心と例えられてきたのも頷ける。
 
 

1860:夢

”いま、直ぐやめて帰ってくれ!””いやー駄目だ。俺は良く見てたんだから・・・・”
 50歳位の女性の方だ。小さな利用者を突き飛ばしている。それもコンクリートの上に、幼子は何度も何度もその女性に向かっていく。その都度、彼女は突き放す。・・・・・
「貴方は何と言う名前ですか?」相手の傍に走り寄り、私はここの理事長で貴方の今行っていた行為が許し難い・・云々。
 その女性は、自分は介護体験で実習に来ており、看護師の資格を持っているという。私が凄い剣幕で怒っているのをみて、何やら誰かに電話をしている。「旦那が、怒っているから今からここに来ると言っている」と。「ああ、結構です。直ぐ来るように言ってくれ」
 ここで目が覚めた。
 正夢か逆夢か???どうしてこんな夢を見たのだろう。思い当る節がある。
 某法人の理事長からメールを受けたばっかりだった。職員の体罰事件、その対応について相談を受けた。即レッドカードかイエローカードか?
 苦情処理やリスク対応、頭の中にゴチャゴチャに入ってくる。整理をする前に次なる事態。
 昨日は台風6号の影響で前から企画していたイベントを中止、そんな事も有ったからかもしれない。寝る前にいろいろ考えていたらそのまま寝てしまった。
 7月末は何かと行事が詰まっている。県の監査があり、なんと10人も来るという。そんな場所ないよと言いたいが受けざるを得ない。それと2ケ寺の施餓鬼、丁度一カ月前に往復はがきを800枚程出した。年に1度の恒例行事、塔婆の申し込みを返信はがきで受ける。やっと大体書き終えた。・・が、毎日のように電話で問い合わせ、その内容は、施餓鬼当日は何を着ていけば良いのでしょう?から、新盆はいつ、何時頃来てくれるのですか?まで。
 いつもこの時に思うこと、寺だけだったら良かったと。しかし、先住が始めた事だから、そう考えてやってきた。いつの間に、規模が大きくなって身動きができない。7月と8月だけではあるのだが、施設の方は365日、・・・。今年住職関係の公職は全て降ろさせていただいた。
 これだって体調が良ければどうって事が無かったが、還暦という節目から気持ちが萎えてきた。
 夢にはよりどころがある。
 15歳から日本代表に選ばれ、5度目のワールドカップで頂点を極めた澤選手、彼女の人柄と一途な思い、周囲の人達をも巻き込んでしまう力、奇蹟の勝利?そうじゃー無い。そうなるべくしてなった根拠がある。
 決勝戦、アメリカに先行され、2度追いついた。延長戦の同点ゴール、コーナーキックを蹴る前にキッカーと打ち合せしたという。そしてあの場面。ゴールポスト正面から走った、その場所にボールが蹴られ右足アウトサイドでボールの方向を変えた。相手の選手(ワインバック)の体に触れ、方向が変わり、ゴールになった。何百分の1秒、一つ一つの動作に執念を感じた。これこそが苦節何十年の重さ。彼女たちはいつまでも勝利の美酒に酔ってはいない。次なる目標に向かって再スタート。
 夢は実現できるものと泡の如く消えさるものがある。

1861:夢二夜

ムニャムニャ。。なんてこった夢の続きを観た。
 県庁近くの本屋に寄ったら「私の好きな岩波文庫100」というコーナーがあり、この中でどれだけ読んだか思い出していたら、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』という本を見つけた。裏の再版回数を見たら凄い、丸山真男の後書きには山本有三や鶴見俊介との繋がりも紹介されていた、即購入する。
 知る人ぞ知る、吉野は戦前戦後、一貫して独自のヒューマニズム論を展開、昭和を代表する進歩的知識人と言われた。
この本は、読み進んで直ぐに児童文学を読んでいるような思いになった。コペル君という主人公がビルの屋上から大都会の東京の雑踏の人間を見て、叔父さんに「人間は水の分子みたいなもの」と話しかける。
 これが吉野の戦後民主主義の思想の原点か!岩波書店の常務として新たな刊行物を手掛け、岩波を出版業界のトップにまで持ちあげた功績もある。私も大学の同級生に岩波の娘さんがいたので、岩波というと妙な感情が浮かぶ。それは正直に吐露すれば、彼女は常に学部のトップ、私はビリから1〜2番、。。。これがトラウマになった。
 今はどこで何をやっているか分からないが、私と常にビリを競ったKさんは、留年を何年もしている山男、常に真っ黒で部員の少なくなった山岳部を只管まもっていた。
 私の場合の夢は、最初は現実から始まる。そして筋書きの無いドラマのようにあっちこっちに飛び火する。
 昨日は水戸で2つ会合があって事務局に立ち寄った。岡本さんの偲ぶ会、出席者が予定した人数の3倍、80名になった。これは彼の人徳の賜物、61歳という年齢で逝った。発起人の一人として、彼の残した書きものでもあるかと捜したが県社協出版の「茨城の福祉」という年刊誌に書かれたものだけだった。
 偲ぶ会に出席される一人一人に彼の生き様が残っている。それで充分、彼の大切な家族や息子さんはそう思っているに違いない。
 世の中で自分を中心に考える人が増え過ぎた。人を支援する人間にそれが顕著になっている。権力闘争の中枢にいる人間ほど、形振り構わず保身に走る。
 自分の身を守って世の中が良くなるのだろうか?そんな事、お構いなし。都合が悪くなればダンマリを決め込み、闇の中で画策する。闇の帝王になって何がよいのだろう。それと同類の人間も多い。自分が座の中心にいないと不機嫌になるタイプ、頼まれもしないのに自分の徳を押し売りする。コペル君が最も嫌いな人間達。
 話を戻そう。トラウマになった背景には次が有る。
 私が2年生になった時だったと思う。山岳部で事故が起こった。厳冬期の剣岳で2名の部員が雪崩に遭った。うち1名が亡くなった。助かったもう一人を私は知っている。亡くなった部員の偲ぶ会を開いた、助かった彼はテントが雪に被って身動き出来なくなった時、咄嗟に腕時計のベルトの留め金でテントを破き、這い出して助かった。その後彼とは遭ってはいない。でも、その事故で亡くなった先輩を今も大切に思っているに違いない。
 邂逅という言葉、良き出会いは望んで適えられことではない。だからといって決して諦めることでもない。
『君たちはどう生きるか』この本は吉野が34歳になる前に書かれたと知った。

1862:偶然にも

時間が繋がっていると思った。昨日の夢の事を書いたからかな?偶然にも学生時代に一緒に山登りした下級生から電話があった。震災後の事を心配してくれて電話をかけてくれた。40年以上前になる。学生運動真っ盛りの東京で、駅の至る所でヘルメットを被り書きなぐりの看板を持って拡声機で良く聴きとれない音、このデモ行進を横目にキスリングを担いで夜行列車に乗った。私はノンポリ学生。懐かしい声を受話器より聞いていて当時の記憶が蘇る。
 そうだな!あの当時にもし今回のような大地震が起こったらどうなっただろう。若者は何かに飢えていた。旧来の殻を打ち破り、新たな社会を作ろうという熱気で満ちていた。
 時代の変わり目には、必ずといって良い、出口が見いだせず鬱積した集団のエネルギーがあった。
 それがどうだろう。他国の人達が見れば、日本人への賞讃とうつって、冷静で沈着な国民。私は手あたり次第に本を読む。ジャンルなど関係無く、乱読・速読、飛ばし読み。
 本から得る知識は時間差がある。一気に読み上げることなど殆どない。しかし、最近の傾向はメデア特にテレビやインターネットによってリアルタイムで情報が入る。五感を働かす必要もなく、目から吸収するから一目瞭然?。
 報道側のモラルも地に堕ちた、民放各社の特徴が無くなり、より刺激的な内容に画策する。携帯電話も複雑な機能を売りにして新たなモデルで競争激化。
 このままいくと、人間が自らの脳で考え、判断するという能力は退化するのは明らかだ。
 ギリシャの経済破綻が深刻でユーロ圏の国々が18兆円に上る融資を決めたとか、米国や中国への対抗手段としてヨーロッパが共通の通貨(ユーロ)をつくり、多国共同体で巻き返し。ギリシャは主なる外貨は観光による。そこが借金財政に陥ってユーロの貨幣価値を下げるかと危機状態。そこでドイツやフランスの勝ち組の大国が話し合いで支援を決めた。
 数字だけを見れば、そのギリシャよりもひどい借金財政に陥ったいるのが日本だ、GDP比率200%を超えた国の借金、世界で断トツの定位置確保。
 この実態をマスコミはあまり取り上げない。特にテレビが弱腰、新聞の経済面でいくら取り上げても活字離れが激しい日本人にとっては、上手く情報共有がなされない。
 与謝野大臣がBSに出て、なにやらその辺の事情を説明していたが、私は彼を信じない。政治家のモラルを感じない人間が、どのような立派な事をいっても、変わり身早く、自分の安住のポストを見つけるだけ。
 政治離れ、活字離れ・・・・不信と諦め。そこに覆いかぶさった原発事故は、直接目で確かめることが出来ない厄介なもの、だが確実に我々60を超えた人間より、幼子に悪影響を及ぼす。
 豊かさが究極の目的とは考えていないだろうが、決断を先延ばしする口実になっているのは確かだ
 弘法大師が三教指帰で「余も身を終ふるまでの口実に充てむ・・・・」と使った口実、相も変わらず政治の世界では、言った言わない、辞めろ辞めないと要が無い空虚な議論で終始する。
 日本人が覚悟を決めねばならない。それは特に大人達がである。
 障害者福祉の議論がこのままいけば砂上の楼閣。国が滅びれば元も子もないことは薄薄感じてはいるはずだ。
 

1863:老境の入口

どんな時に老いを感じますか?
 昔なら簡単に出来た事が息切れしながらやっとできたとか、体の関節が痛むとか、知らずに「ヨッコイショ」とか言って立ち上がったり物忘れが目立ってきた等・・・・・・。でも一番感じるのは身近な人の死に出逢った時ではないだろうか。自分の年齢と比べ、然程離れていない人の場合には、より深刻になります。明日は我が身だなどと言ってはいるが、心底そのように思っている人間はいません。自分が病の床について、徐々に現実を受け入れる段になって、身辺を整理し始めるものです。
 その時になって悔いても遅いのだから、出来得るならば老境の入口からの人生を自ら描いてみてはどうだろう?
 これには個人差があり、何歳を節目にするかという決まりはありません。自分が老を感じた時がその時ではないでしょうか。
 また、老いは忌み嫌うものではないと思います。NHK深夜便で天野祐吉が隠居大学というコーナーを持っている。その時々のゲストとの対談を公開で行っているのですがコラムニストとして有名な天野には、背伸びした生き方を感じない。今朝の山田太一とのトークで「私は旅はあまり好きではない」と言っていた。また、「気心の知れた人とお茶を飲みながらお喋りするのが最高の幸せだ」とも。在り来たりの身近な事に喜びを感じる人間は本物でしょうね。
 日本中、至る所に旅行会社の商品CMを見かけます。国内外を問わず格安なものが多く、本当にこれで行けるのと思ってしまうものが多い。でも、私はパック旅行は好きでない。折角自分の時間を楽しむのに、見ず知らずの人達と一緒に決められたコースを見て歩いて何が面白いのだろう。いま、密かに計画を立てている。当然、団体旅行ではない。行き当たりバッタリのものだ。
 これまた昔の事で恐縮ですが、山歩きの計画もそうだ。山行に何日かけるかにより、どのルートを歩くか決める。それには地図に記されたコースと時間から割り出すもので、私の場合は、下山してからどこかに温泉が無いかが最大の関心事、この心境は当に”隠居”の暇つぶし。それが今はスケジュールに追われる毎日を送っている。それも大した用事でも無いのは確かだ。これが終われば次はどうだ?とか手帳を眺めている自分が情けない。
 何か得体の知れぬ大きなモノに、老境の入口の所で押し戻されているような気分になります。
 たった今、PCに向かっていたら、なんとまたもや東北地方を震源にした強い地震があった。震度5弱というから相当な揺れである。ラジオからは速報で各地の震度が知らされている。津波の心配は無いという、沿岸地域の人達の心配は4か月以上たった今でも尽きません。今回も3.11の余震だという。
 福島原発事故の復旧がレベル1をクリアーしたという発表が先日行われた。それを信じた人は誰もいない。その辺の意識のズレは地殻の変動と連動して修復ができていない。
 今朝の地震だってそうだ。震源が宮城県南部の沖合、福島原発に近く、また何らかの不都合が起きれば、最初からのやり直しだって起こり得る。核は人間の英知をいくら結集しても制御できない。
 地元紙に茨城の東海第2原発の再稼働について議員さんにアンケートした結果が掲載されていた。6割の議員が再稼働に前向きだという。
 本当????今回の地震による被害でストップした東海第2原発、噂ではあと40センチ津波が高かったら福島と同じ事態になっていたかもしれないという。もし、そうなったら東京まで避難区域になることだって起こり得る。
 永田町や霞が関の住人がその時どう考えるか?よもや全員がどこかに引っ越ししてしまうことはないでしょうね。
 当然、私の住む土浦は即避難しなければならないでしょう。これもまた、老境の入口で通行手形がもらえない一つの理由かもしれません。

1864:高校野球

夏の甲子園地方予選が真っ盛り、茨城県もベスト4が昨日で決まった。いずれの高校も常に上位を占めてきた常連校でレベルの違いは殆ど無い。最近は茨城代表が甲子園に出ても勝てない。何故なんだろう。超高校級の目玉になる選手がいないというのも特徴だ。全国制覇を何回か経験した常総学院の木内監督は、全国に名が知られている。もう80歳を過ぎ、今年でユニフォームを脱ぐと宣言、監督は私の高校の先輩で甲子園での勝利回数は定かではないが全国でもベスト3に入ると思う。
 自分の孫よりも若い子どもたちを相も変わらず檄を飛ばしベンチで采配を振るっている。彼の野球人生悔いなしでしょう。
 昨日も友人と長電話、「日本はどうなっちゃうのかね。去りゆく私達は構わんけど子供たちが可哀そう・・・・・」
 それに、別の会合で「どうして他人の悪口ばかりいう人間が増えたんかなー。自分は立派だと勘違いしてんじゃーねーのかな」という話題になった。それと原発事故補償を難しくしているのは公平性の問題。原発建設を承諾した地元の人達の中でも高額の補償金を貰った人とそうでない人がいると言うこと。
 皆が皆、今を憂いている。
 ちょっと気になるニュースを耳にした。北欧のノルウエーで起こった乱射事件、死者90名を超す、前代未聞の悲惨な結末、その犯人が捕まった。あれがアメリカだったら、警察に犯人は射殺されただろう。その犯人の弁護士からのコメント。
 犯人は反イスラムで極右組織にかかわっていたのかどうか?彼は理想とする国が「日本か韓国」だと言っているそうだ。そして、尊敬する人の中に菅さんの何代か前の自民党の総理をあげたという。
 外からの評価は自国内にいては分からない。その話しの真意は定かではない。確かに銃による犯罪は少ないし、外国からの移民も決して多い国では無い。
 今回の震災で暴動にならないのは日本人の誇って良い点かもしれない。不満は既に限界に達っしているだろうに、被災地の人々は耐えている。僅かだが復興の兆しさえ見えてきたではないか。これって本当に凄いと思う。
 孫正義さんが、この度の震災で100億円を寄付した事は知られている。それに再生可能エネルギー推進の先頭に立ち、脱原発を訴えていることも。その彼がテレビで経団連会長のコメントへ箴言?した。
 ベトナムへの原発プラント発注が決まり、今回の政府の対応如何では日本の信用に関わる問題だと言ったことへ反論した。
 使用済み燃料の処理方法も分からず、安心だと言って外国に日本の原発技術を売り込むのは大いなる疑問だ。それこそ日本の信用を落とすことではないか!原発プラント部門を持つ企業は日本では大手3社ほど、その辺の実態を国民には良く知られていない。
 孫さんの言っている事は実に分かり易い。どうして彼に同調する経営者が増えないのだろうか?自社の数字ばかりを気にして保身に汲々としている。責任が後後自分に振りかからないような事への関心は頗る高い。
 こうやってツケ回しをしてきた結果が国の借金漬けである。これまた昨日の話で余計な事だと思うのだが紹介します。
 某独立行政法人の団体がワザワザ私に話をしたいというので水戸まで出て行った。なんと言う事はない。震災復旧に低利の貸し付けをしますから茨城の実態を教えて欲しいという。今更何を言うと言いたかった。貸した金で利息を貰い、それで成り立つ団体にしては、お役所的で上から目線の如何にも「してあげている式」であったではないか。いま、民間の金融機関が頭を下げながら事業所を訪問している時代、それを自分達は水戸に行くのでそこに来て欲しいというのはどうなのか?まだまだ親方日の丸の企業体質は残っていると直感した。
 その辺の思いを言ったつもりだが、話は噛み合わず、私はこの4月から今のポストについたので昔の事は分かりませんと一言。
 この団体に国の税金をどれほど投入しているのか?この情報公開がまず先でしょうね。余計な事ですが。
 

1865:若い力に

10日間ほど入った植木屋さんが昨日で終わった。お茶の時間になるべく一緒にいるようにしている。話が好きで色々な話をしながらお茶にする。昨日は自分が体力が無くなり、来年からは他の植木屋を頼んで欲しいと言われた。もう何十年と親父の代からお願いしてきた方だけにちょっと寂しい思いがした。
 いずれ自分だって現役を退く時が来る。不思議なもので現役で働いている時には早く誰かに後を譲りたいと思うのだが、いざ自分が出来なくなると一抹の寂しさを感じるものである。
 自分の廻りを見回すと何だか知らないが秋風が吹き始めている。特に今年はそれが一気に来るような気配だ。
 お盆が近づいた。例年の事だがこの時期、檀家より電話が良くかかってくる。今年は何回忌になりますかとか、供養を忘れていたので心配になったとか・・・・皆さんこの時期に先祖と向き合うのだ。私はいつでも心配ありませんよ。次にすれば良いんですよと答える。先祖は思い出してもらうだけで本当は喜んでいる。
 それと自分自身を振り返る良い機会だ。昨年は元気でいたのに今年は亡くなってもういない人、体調を崩し、病院生活をしている人、仕事をリタイアして、家の廻りの雑事に汗を流す人など。
 時間は関係なく流れていく。年齢的にたるんだ肉を筋肉にすることはできまい。せめて現状維持に心がけることが精いっぱい。ただ、不必要な肉を体に付けておくのはどうかと思う。それは食事に気を配ればある程度は防げるだろう。
この辺の調整は絶対に必要だ。
 ところが尚恵のメンバー達は凄い。並んでいつもの散歩、その姿はお相撲さんの土俵入り。胴周り1メートル超えなど当たり前、まさに威風堂々と歩いている。
寧ろ、スタッフの方がキュウリみたいに痩せていて心持たない。
 これで元気出せ!とか言ったって無理だわな。
いま、朝の6時を少し回ったところ、何か音がすると思ったら雨が降ってきた。恵みの雨とはこの事か、境内は木々が生い茂り、昼間でも暗い。これも檀家さんが持ってきて植えたからで、そう簡単に移動することもできない。思い入れがあるからだ。多分、これを喜んでいるのは”蚊”ぐらいのものだろう。私はもう免疫ができており、刺された時は痒いのだが痕は残らない。ここ数日、我が家のミイちゃんは夜遊びが激しく家の中に入らない。寝姿は目一杯に体を伸ばし、完全無防備状態で寝そべっている。毛が抜け変えるまでにはなっていないが、暑くて参っている様子。猫は蚊に刺されないのだろうか。
 それから新たな発見をしたのだが、足とか手の指先を蚊に刺された時の痒さは格別だ。神経を通って頭にまでくる。
 一度体験されることをお勧めしたい。
 若い力に望みを託し、仄々と喜び噛みしめ秋を待つ・・・・・・そのような心境になっています。明日は監査です。
 ♪  甲斐の山々 陽に映えてわれ出陣にうれいなし・・・・♪♪
 

1866:実地検査

”ドカーン!”たった1発のもの凄い雷鳴が轟いた、ちょうど実地検査の公表前だった。
一人減ったが総勢9名で県の監査があった。事前資料を作る段階でミスを犯してしまい迷惑をかけた。朝の9時から夕方5時までビッシリ監査を受けた。あっちこっちからお呼びがかかって説明者する側も大変、パニック?状況になりかかった、最初から最後まで私は部屋の片隅に座ってじっと様子を見ていた。いっその事、自分が説明しようかと思ったが今回は我慢した。私の掌に字を書いておいた。不邪見・不妄語という自戒の誓いだ。職員も15名程立ち合って代わる代わる説明した。
みんな一生懸命、涙を浮かべながら説明したスタッフがいたと後で監査官より聞いて、なんだか嬉しくなった。
 ミスは後で直せば良いが不正をしてはいけないと口うるさく普段から言って来た。監査には立ち会わなかった職員も準備に気持ち良く協力し頑張った。
 全責任は私にあると腹を決めれば、冷静になれる。
 明後日から2ケ寺続けの施餓鬼がある。寺の恒例行事では最大のもの、少し監査時期をずらして貰おうかと思ったが、この時期やるのも逆に良いかなと考え変更願いは出さなかった。
 ここ数年、障害者関係の法律や制度が毎年変わり、その都度、事務量が増え、煩雑になった。そこにきて2年ほど監査を受けていなかったから尚更だ。諸規定や規則の変更を忘れていたことが結構あった。指摘を受けて逆に良かった。全て直ぐに直せる内容だから。
 監査の視点が随分変わった気がする。利用者との契約を重視している。重要事項の事前説明や苦情処理・リスク対応である。
 これは継続するもので、気を緩めるとトラブルにつながる。契約制度になって当然と言えば当然だし、様々な事業主体が参入してきたから、尚更だ。
 話は変わる。ドル安が進んでいる。アメリカ議会が決めた国債発行の上限額を超えようとしている。予算成立が出来ず債務不履行になれば全世界が金融危機に陥る。オバマ大統領が公約した社会保障制度の充実で費用が嵩んできたことも一因だ。しかし、本当はアフガンやイラクへの膨大な軍事費が最大の原因、前政権の積み残し。一方、日本はもっと深刻だ。国債発行の上限を決めていない。国会の判断でいかようにもできる。そして震災復興への多額な出費、税金で賄うには相当強いリーダーシップがなければ国民の同意は得られない。このような中での社会保障費の捻出、最早、打ち出の小槌は効かない。福祉事業、だれが考えても厳しい時代になった。
 その自覚を職員全てで共有できるか。
 監査は手段である。目的は、必要とされるサービスをいかに提供できるか。この一言が重要なのである。
雨が本降りになってきた。

1867:一夜明け

今朝も雨が降っている。今年の天気は異常だ。北と南の高気圧の間に関東・東北地方が入り、居座る前線を刺激し、大雨を降らせている。
 さてと一夜が明け心静かに昨日の指摘事項を紙に書き出してみた。全て納得、そして現在の体制の弱点が見えてきた。チェック機能や情報の共有が課題、全てを一気に変えることはできない。できる所から改善し、その変化を皆で確認する地道な実践。最も問題なのは、理事長の私という事がわかった。
 できれば毎年、実地検査をしてもらいたい。県内に事業所が増え過ぎてそれが困難となり2年に1度か3年に1度の監査、これが気の緩みに繋がる。
否 法人独自に第3者評価を受けることを考えるべきかもしれない。
 一夜が明け、私は頭を切り替えた。寺院モードに。施餓鬼の準備。これは私にとっては懺悔である。
内省と感謝。坊さんらしい事は何もせず、住職(寺に住むこと)が唯一、留守居役でしかなかった。それすらいい加減で2匹の猫に留守を任せて出て歩く。
 今年は新盆が多い。
 「haw to solve it」という本があるそうだ。和訳本があってアマゾンで探したが売り切れ。中古品でも良いから手に入れたい。数学は数字による言語だと言う事をしっていましたか?一瞬、なんで?と信じ難い。いまカルチャーセンターで中高年の数学教室が密かにブームだとか。難しい課題を前にして、幾通りもの解決策(答え)を考える。一つの問題解決に10日もかける。そして、その解決パターンとして、できるだけ単純化した手法がベストの答えという事を突きとめることに嵌まってしまうそうだ。
 これは絵パズルをできるだけ早く完成する手法にどこか共通する。また、制度や仕組みが複雑になり過ぎた昨今の状況に立ち向かうには原点回帰が一番という考えにも通じる。
 言葉で理解を共有することは至難の業、伝える側の主観で微妙に内容が変わる。その点、数学は別、数字という絶対の言葉で表す。感情の入る隙がない。
 私なりの問題を考えた。
 【問題1】人間の幸せとは何か?
 ≪回答≫・・・・・・・・・。
 【問題2】君たちはどう生きるか?
 ≪回答≫・・・・・・吉野源三郎著を読んだが良く分からない。(No:1861
 禅問答ではないが、言葉の定義が曖昧になった昨今では一生考えても納得いく答えは見いだせない。とするならばどうしよう。数学的手法で考えないようにするか、単純な一点に絞るか。そのどちらかの方法しかない。
 

1868:Compliance

コンプライアンス(Compliance)という言葉を最近よく耳にします。
 昨日もありました。中部電力が何年か前の原発シンポジューム開催時、原子力保安院より”やらせ”の口頭要求があったとの記者会見発表がありました。その時、中部電力側はコンプライアンスにより、その申し出を断ったという内容の話です。この場合のコンプライアンスという意味は多分”企業の法令遵守”ということでしょう。
 今更何ですか?社会的な規範を守ることが当然要求される公共の事業ですよ。火の粉が飛んでくる前に先手を打った?
 まっいいや。そこで本来のコンプライアンスの意味ですが、@要求・命令への承諾・追従。A物のひずみと応力の比を表す物質定数。弾性率の逆数。というものがあるようです。
 ここで問題になっているのは@番目の意味でしょうが、言葉だけからすれば、命令に反した電力側はコンプライアンスを無視したという風にも取れます。ですからね、実態は良く分からない。口頭での申し出というのも可笑しなもの、証拠を出せと言われれば後出しするのでしょうか?
 今回の脱原発か減原発かという議論の中で、やはり組織の問題が根本にありますよ。経産省の下部組織に原子力保安院があるという事事態おかしなものです。何故、今日まで放置されたのでしょうね。持ちつ持たれず構造でしょう。 でも、これは政権交代によって表面化してきた事、国民は関心も無かったし実態など大半の人が知らなかった。関心があったのは原子力村の住民だけだった。
 この持たれ構造はそれ以外に沢山あります。一概に全て悪いとは申しませんが、ここまで旧来の有り方に不信感が高まると黙認できないでしょう。
 その最たる国がお隣の中国でしょうか、新幹線の事故が起こった時、世界中の人々が唖然とした事に事故車両を直ぐに埋めてしまったこと。これは日本では考えられない。また、遺族への補償費だって、あんなに早く密室で決められては手が出ない。
 これなど世界中で現に起こっている矛盾のほんの一部です。いちいち目くじらたてていたら体が持たない。・・・・・・。でも、本当にこれで良いの?という視座は持つべきだと思うのです。
 その上で平和とか幸せを考えないと画塀に帰すことになるわけです。
 仏教では、名もない花に仏心を見ようとします。人間はある面では賢いのかもしれません。ああ言えばこう言うという議論をしますからね。その時の判断の基準が、実はコンプライアンスという言葉の中に有ると思うのです。A番目の意味の物質の歪ですが、これを数値化するとミクロ以上の世界までいきます。現代の科学はどこまでも頂点を求め続ける宿命があって、何もそこまでしなくてもというブレーキは掛けにくい。
 そして、膨大な予算がその為に投じられてきた。人間が考えることには元々限界があります。しかし、それを認めたがらないという感情(欲)が邪魔をする。
 欲という代物は厄介です。際限が無いからです。消しても消しても出てきます。そして、当事者が何のためにという本来の意味が分からない迷路から一歩も出られなくなるんです。おお 怖・・・。
 

1869:自然の怒り

自然が怒っている。
 韓国での大雨被害がニュースで流れ、1日遅れでその雨雲が日本に到達、日本一の大河信濃川流域に大きな被害をもたらしている。いくつもある支流の5か所の合流点近くで堤防が決壊甚大な被害となった。
 信濃川は新潟市の真ん中を流れて日本海に出る。新潟港あたりは川幅は200メートル位だろうか普段でも水量が多く、整備された堤防があるには有るが河川沿いに住宅がギッシリ立ち並び、海抜ゼロメートル、一旦堤防がきれたら大変な事態になる。
 自然の猛威、半年も経たない内に日本は地震・津波・大雨という大災害に直面している。先の東日本大震災への復興対策も決まらない内にまたもや水害への復興が上乗せする。
 一方、原発絡みのドロドロした内幕、小出しに明らかになるその実態は驚きと憤りで臨界に達した。世の常として商売の駆け引きは付き物である、しかし現代は常軌を逸したやり方で生命尊重への軽視が甚だしい。無関係な人々も巻き込み、当事者同士の問題ではなく、責任の所在そのものが不透明になってしまった。
 良い意味での独立独歩ならばいざ知らず、自分の利益最優先の魂胆がミエミエ、そして偶然に勝ち組になった人間の横暴な振る舞い。日本の経済界はグローバル化される世界の流れに遅れを取らないようにベンチャー企業を推奨、そこで突然出現したHなどはその最たる人間で時代の寵児としてメデアも挙って持ち上げた。その彼も最高裁の結審でいま服役中。彼の言動に大義を全く感ぜず、見ていて実に嘆かわしく訝しい。これが日本が待ち望んだ将来の救世主だったのか?その清算がまだされていない。
 法律を犯さなければ何をしても良いのか!忌まわしい事件が多過ぎる。そこにきて波状をなす自然災害、その一番の犠牲者が真面目にコツコツと働いてきた人達とは、なんと惨いことを自然はするのか。
 否、我々人間が先ず反省すべきだろう。
 私自身福祉に携わる人間として、内心忸怩たる思いでいる。制度を作るための様々な運動が果たして本当にそれを必要としている人達の為になっているのかどうか?
 ホンネとタテマエを上手く使い分け、制度の甘味を巧妙に利用する術は昔に比べれば格段の差、・・・・・。
 日本人の智恵は、本来そのような便法に使われるべきものではない。
 何か変だと思う事の一つに、PR上手な人達への私の思いがある。福祉業界が競争原理を取り入れ、質の向上に役立つと考えた。しかし、福祉の本質はそもそもその考え方には馴染まない。
 一般論として企業は、事業の規模拡大を評価の基準にする、だが福祉は事業の規模とイコールにはならない。
 その特性を弁えず、声高に要求を通そうとすればする程、自己矛盾に陥り墓穴を掘る結果になる。
 福祉は一つの事業所の成功で解決できる代物では無いからで国の容を支える一つの役目を果たすだけである事を忘れてはいけない。
 また、福祉には完結はありえず、その意味では自然と同じ流れにあるとも言える。

1870:虚脱感

気力が萎えて、虚脱状態である。原因を探れば、思い当る節が無いでも無い。
 この辺でギアチェンジ、一度ニュートラルにしてエンジンを休ませようか。葉月になったが今年は去年と比べ、気温が低い。体には楽だが、かえって心配になった。自分の寺の施餓鬼は無事終わり、これからは他寺の助法に出かける。今年は用意した塔婆が全て無くなった。多くの人達が先祖への供養を思いたった。これは3.11に少なからず影響を受けたのだろう。人力ではどうしようもない自然の力、それと人間が考案した核、平和利用と言いながらも結果として生命への危機を齎した。
 多分、関東地方に住む全ての人間に調査をしてみたら、幼児・赤子は別として関東地方に原発が有るとは知らない人間がかなりいるはずだ。実は茨城に2発ある。それも日本で一番歴史の古い出力110万キロワットの東海第2原発、それと大洗にある高速増殖炉”常陽”である。実は実はここに5.4メートルの津波が押し寄せた、あと70センチ津波が高かった場合・・・・・・?
先月、地元紙に掲載された県議会議員への調査で6割強の議員が再稼働推進という報道があった。3.11の後、二基とも現在、停止中。
 万が一という緊急事態が既の事、一歩間違えばフクシマ以上の大騒ぎになっていたはずである。
 昨日、ある集いがあって多くの人達と話す機会があった。高萩市で牛を飼っている人と話した。セシウム汚染で出荷停止になった東北3県、県境を接する茨城も既に価格が暴落、どうすることもできないと話していた。
 私の住む地域、周りに水田や蓮田が広がる日本有数の穀倉地、これだって分からない。丹精込めて米を作り、いざ収穫の時点になって放射能基準オーバーと出たら、一体どうなるのだろう。農家の人達は不安の中で過ごしている。
 それに、この問題は今年1年で解決できることではないはずだ。
 まだまだこの辺は良いのかもしれない。福島会津の方が言っていた。今年、会津を訪れる修学旅行の学校は前年の1%にしかならないという。100校来たのが1校しか来ない。これをも東電は補償するのだろうか。
 本来の政治の有り方が大きく揺れている。政府の重要ポストにいる人間が個人的見解を言い過ぎないか。これが混乱の元。個人的意見ならば何を言っても構わないと勘違い。公人が何たるかを弁えない。我々は何を信じれば良いのだろう。紐が切れた風船と揶揄され、苦渋に満ちた顔でカメラに登場する。もういい加減にしてくれ!
宮城県庁で粋がった元大臣は地元に戻り入院中とか????。これもまた子供達への悪影響は計り知れない。
 菅総理が退陣すれば復興が進むとか言っているが、全くのウソっぱちだ。この期に及んでも我田引水にばかり奔走。自らの足元を見ない。相当危ういはずだ。
 この予兆は確かにあった。小泉さんが自民党をぶっ潰すと言いながら総理になった。これだって理屈に合わない。
 潰した後は、アンタらがやれば・・・・私から言えば無責任の極み。
 選挙制度や公務員改革、社会保障と税制、原発依存か自然エネルギーか。国家財政の非常事態の中、一向に解決策が示せない。課題ばかりが増殖し国会が原子炉に見えてきた。如何なる方法を講じても根本的な解決に至らず。怒り狂った核燃料が盛んに熱を出し続ける様である。
 そこで冷静にと言われてもだ。いつまでも我慢してなどいられまい。
ああああ ぶれる。 隠れる。 逃げる。これが国会競技の三段跳び、最早、この国は国際競技に出場する資格は無い。
 夏の甲子園、各県の代表が決まったこの時期に困ったものである。