源究116

 

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1831 表参道 6/19 1836 トップの顔 6/24 1841 枇杷 6/29 1846 大臣の言動 7/5
1832 両極分化 6/20 1837 意欲減退 6/25 1842 猛暑予感 6/30 1847 長幼の序 7/6
1833 挑戦者たれ 6/21 1838 ちょっと長めに 6/26 1843 人の繋がり 7/1 1848 数奇な運命 7/7
1834 本当の無駄 6/22 1839 足跡 6/27 1844 見えない敵 7/2 1849 巨人どうした 7/8
1835 無駄肉 6/23 1840 稚拙な行為 6/28 1845 約束事 7/4 1850 自然体 7/9

1831:表参道

土曜日だった。3件の法事を済ませ、大急ぎで東京に向かった。表参道の南青山会館という場所でACE(Asia Community Service & Exchange)の総会が開かれた。中澤ご夫妻がマレーシアで行っている障害者支援の実践報告とその支援者達の交流の場、私はこの総会への出席は2回目だったと思う。本当は今年、茨城県で地方会を開く予定だった。それが3.11の大震災で茨城も少なからぬ被害を受け、予定会場にしていた国民宿舎は液状化で現在営業停止中、再開のメドがたっていない。そこで1年先送りすることになった。
 御夫妻の実践を様々な人達が支援していることが解った。総会後のテイパーテイで長野県からバスで来られた若者とお喋りした。彼はもう何度も現地を一人で訪れているという。ボルネオ・サワラクにも行ったと聞いた。テレビでしか見た事の無い”ロングハウス”も建て、様々な事業を行っている。昔の日本にあった”長屋”みたいなもので、住人が助け合う共同体が今でもあるという。
 障害者福祉に一方ならぬ情熱を燃やす御夫妻だからこそできること、日本はやっと”障害者虐待防止法”の形が見えてきたという報告を聞いた。なんとこれまでに6年の歳月がかかっている。
 どこかがおかしいんじゃーないのか?関心が薄いのかそれとも他に原因があるのか。日本は先進国の仲間入りを果たしてから、何を大切にするかという視点がズレてきたと思う。制度の福祉とは今では定型化した仕組みというマイナスの評価となっっている。むしろ、型にはまらず独自の実践を行うことが望まれている。
 昨日の総会で伊良皆 善子さんという方の講演があった。「童謡は愛と平和のメッセージ」と題する1時間ほど話だった。その中で北茨城出身の野口雨情の紹介があった。七つの子・青い目の人形など沢山の童謡を作った雨情の思いは特に子供たちへの解り易い言葉の中にうかがうことができると。雨情の代表作”七つの子”は、皆から嫌われモノのカラスが”かわいいかわいいと啼くんだよ”と語りかける。雨情は”童心”をうたった。この童心には三つの特徴があると言う。@国境が無いA格差が無いB和を教える・・・・・・これこそが日本が誇れる文化だと強調して話された。
 現実に目をやれば、領海問題などキナ臭く、生活の格差も大きくなるばかり、和を教えるべき政治家が自らの保身にばかり現をぬかしている。全く正反対の有様だ。
 これをどうすれば良いのであろうか?雨も降り始め、七時を過ぎたので途中で失礼して帰路につく。
 銀座線の表参道の駅は直ぐ近く、青山通りから一歩入れば、そこは高級住宅街、渋谷に近く、ファッションと若者の街。日本の豊かさのステータスシンボル?。これに憧れ、我武者羅に働き通した団塊世代前後の60代〜70代の人達が目立った集まり。何か自分達の出来なかった”夢”を中澤ご夫妻の生き様に見ているような妙な取り合わせに映った。
 まだ、3カ月しか経っていない震災、必ず復興出来ると信じるが、復興の容が重要ではないのか!今まで良かれと思ってきた事への真偽の検証と国民一人一人の自覚と果たすべく責任はどうあるべきか?
同規模の地震がこの大都会を襲ったら・・・・・・そう思うと一瞬のうちに都会を離れたくなった。

1832:両極分化

”楽思考”と”そうでない人”の両極分化が進んでいる。果たしてこの状況が良いのかどうか?答えは明らか、決して良い方向ではないと私は思うのだ。あまり知られていない事であるが、日本人の平均寿命で戦時中男性は23、8歳、女性は37歳だったという。それは戦地で300万人、内地で70万人の死亡者が出た異常事態でのこと、それが今では世界でも有数の長寿国になった日本は男女共に平均で80歳を優に超えた。
 社会保障を学べば必ず出てくる超高齢化社会と少子化、それとセットの財源の問題。社会保障費の国家財政の占める割合が高くなれば、経済を圧迫すると主張する学者も多い中で、日本は現実を直視し、いずれかの対応策を講じなければならない。公的な扶助に負う部分と自己責任による割合がどの程度で了解されるか?これは実に大きな問題で、当然、ある時期には国民投票に委ね、決着をつけねばならなかった。それが本来の二大政党制だったはず。それがどうだろう?未成熟というか一貫性が無いというのか政党色が墨絵の如くボヤケてしまった。これは日本にとり不幸である。裏切られた思いでいる。
 政治に対する関心も両極化してしまった。無関心層がこれほど多い国は先進国では珍しい。先の戦争を体験した世代が確実に減って、国を動かす人達も何を基準にしたら良いか迷っている。そういった状況がここ暫く続いてきたと私は思っている。
 新造語がやたら目立つ世の中も今の時代の特徴だ。例えば教育現場で良く聞かれる”モンスターペアレント”は学校などに自己中心で理不尽な要求をする親のことを言う。戦前戦後で大きく変わったことで教育の責任が家庭(親)から学校に移った。これは制度の問題では無い。”指導”と”暴力”の差が解らない教育者、限度を弁えないというのか、虐待にまでいたってしまう事例が増えた。
教育者としての威厳を持ちづらい時代になったと思う。
 話は変わる。最近寺を訪れる人が増えている。別に檀家さんではない。良く聴いてみると何かに救いを求めている人達である。庭に立つ石仏の前で一心に手を合わせ頭を下げている人を良く見かける。
 確実に日本人のこころに変化の兆しを感じている。それはこのままでは良くないと思っている人々が増えているということを裏付けている。
 一方、夜中にケタタマシイ爆音をたて、バイクで走り去るものもいる。誰が考えても寝静まった時間に騒音をたてるのは迷惑なことは分かっているはずなのに。これもまた両極分化の一例である。
 ”楽思考”とは、厄介な事に関わりたくないという考え方、モンスターペアレントや暴走族?へ不満はあっても何も言えない。言うとしっぺ返しされるのを恐れる。子供たちを社会で育てるという時代があった。社会教育のエキスパートが自治体にはいて、様々な実践活動を行っていた。その影が薄くなったように思う。
 都会には今でも子供会活動が残っているのか?これも形骸化され過去の遺物となった。
 両極分化を是認した経済の仕組み、そこで失ったものに”分かち合う文化”があると思っている。その代替策として登場してきたのが様々な社会保障の仕組みだった。
 しかし、公平性を考えれば支援の優先順位や量を決めることに時間ばかりかかる事は解りきったことだ。その端的な現象が今起こっている東北被災地への復興支援だ。窓口業務の多さに反比例して受益者の満足度が減っている。
 制度は本来、公平で迅速に事がなされる為につくられたもの、それが実態では制度が制度を縛ることになってしまう。
 この悪循環になんらかの手立てが必要だ。それは日本人が忘れかけてしまった文化で途上国の中に今でも大切に引き継がれているモノの中に有るような気がする。
 

1833:挑戦者たれ!

プライドを捨てる勇気、それ無くして心底から学び改めるという気にはなれぬ。尚恵学園も世代交代の時期に入った。つくづくその思いを強くしている。そうあらねばならぬ。私自身、様々な事を手掛けやってきたという自負がある。今思い起こせばその時々の思いつきや手探りでやったもの、頭の中でいくら考えていても行動に移さなければなんにもならない。
 時にはケンカ腰で居丈高に意識して振舞った。若いという事で許されたことも多かった。遮二無二新しい動きに反応し、取り入れようとした。
 こうやって40年を積み重ね、次の世代にどうにかしてバトンタッチをしたいと思っている。次の人達は自分達の想いでやれば良い。新たな挑戦者となれ!他に誇れるものなど高が知れている。重さ厚み・・・・そんなもの一陣の風で消えてなくなる。いま、本腰を入れ見直しを行っている。正直、各職員の温度差を感じる。これは承知の上、目指す方向に間違いが無ければ必ず一緒にやっていけると信じている。
 改革はぬるま湯に浸かっていてできるものではない。不謹慎かもしれないが、今がチャンスだと思っている。被災地の人達は必死に歯を食いしばって頑張っている。ほんの僅かな可能性に望みを託し一歩足を踏み出している。これは他所の国の話ではない現実の日本だ。日本人全てが心から復興を願っている。
 政治への厳しい批判の声、これだって今までノンビリし過ぎ問題の先送りをしてきたツケが一気に出てきたということ。
 だから心有る議員は何かをやらねばという思いだけが先行し右往左往しているのが実態。必ずや次世代のリーダーが出てくると信じる。矢面に立たされた菅さんも大変だ。しかし、影で動く大物?議員よりも余程マシだと私は思う。目にクマが出来、髪は乱れ、寝る時間も無く、動いているのは一目でわかる。
 この有事に、手のひらを変えるような動きをする者に私はどうしても許せない。我々有権者がこの処を良く見極めなければなるまい。
 フクシマという言葉が世界中に知れ渡っている。誰かが言っていた。福島やいわきのナンバーを見ると一瞬、運転手の顔をみると。福島の人々は明らかに犠牲者だ。福島県人気質とでもいうのだろうか、控え目でありながら強い心を持っている人が多い。耐えること、それと頑なな正義感を持つ友人を何人も知っている。
 隣接する茨城県北部の人達も同様の気質をもっている。県南地域に他県から移り住む人が増えているが、茨城をコケにはすれど、共助の精神に疎い、自己中心の価値観をもつ人が多いと私は感じている。
 ”お互い様”という言葉が通じない。
 これが私の偏見であれば良いのだが。
 私は福祉の仕事についた事に全く悔いはない。むしろ感謝している。その中で様々な人との出会いがあった。ご本人やその家族、職員、関係者・・・・・・・。
 いま日本の福祉先進の地域に行ってもそこで行われている実践は決して自ら誇るべきことではない。福祉とは体感することで、周りが自らの正当性を見せびらかすようなことであってはならない。
 日本の福祉が微妙な局面にある。社会保障という言葉が初めて使われるようになったのは1940年代前半(ビバレッジ報告)、福祉の先進国といっても人類の歴史からすれば未だ日が浅い。
 それよりももっと大切な事は何か。一方では脱原発の運動があり、片方では戦争への危機が一向に無くならない。
 この現実を直視すれば、福祉はパフォーマンスであってはならないと言う事と同根だ。
 宗教が正当性を図るために利用されてはならない。宗教は個々人が自らの安心を得るために信じることにこそ意義がある。それ以外のなにものでも有り得ない。
 復興は限りない一途な挑戦、ここで我々が見失ってしまった大切なものを掴み取るチャンス。

1834:本当の無駄

わかっちゃいるけど止められない。
 本当の無駄とは政治や官僚では無いと思う。マスコミに洗脳され、その辺を攻めていれば他は安泰、・・・・と考えているだけの話だ。
 日本の良き時代は一体いつ頃だったのであろう?江戸元禄の時代?
実際にその時代を生きた人間は誰もいない訳でしょうが。
 日本経済の仕組みにメスを入れ、思想改造ができますかと問いたい。大量生産大量消費、精密で優秀な製品を海外に輸出して外貨を稼ぐ。これは資源が無い日本の取るべくして取った戦略だった。ただ、これをいつまで続けられるかと言うと見通しは必ずしも明るくない。
 このまま行くと大量のゴミをつくり、その処分すら国内ではできないことになりやしないか。その最たるものが、使用済み核燃料、今回の事故で青森の六ケ所村の人々が最終処分地をどう判断するか。
再生可能エネルギー推進の法律を急に掲げ、物議を醸す菅総理、思いつきや気まぐれでは無いと思うがこの時期はどうも頂けない。
 さて、本当の無駄は何かということなんですが、国民一人一人が気付かずにいる身近な無駄。塵が積もれば山となる。巷に物が溢れてはいませんか?例えば寺に毎年送られてくる仏具店の部厚い本、10冊を超える。箪笥の奥に着る事もなくしまわれた衣類、使わなくなった電気製品や家具、下駄箱に入った靴やスリッパ、。。。。道路脇に捨てられた空き缶やペットボトル、ゴミ集積所の溢れんばかりの家庭ごみ・・・日本全体で1日に出るゴミの量は? これら全てを無駄とは言わないが、いま必要で無いから破棄されたものばかり。さらに日本の住宅事情も然り、30年で建て替える。これはヨーロッパには有り得ない。
 全てが資源が無いと言いながら作られては捨てられる。世界のどこかで今起こっている紛争はその資源に絡んでいるといっても良いのにだ。
 これら全てが”豊かな社会”というキャッチ・フレーズによって踊らされ思想改造された結果でしょう。
ならばお前はどうなんだ?何をどうしようとするんだよ。まっ焦らずにちょっと時間を下さいな!
国家の条件に、政治や経済は最重要課題、教育の場でそれらを教え学ぶ機会が設けられ、学生は前途を嘱望されて教育を受ける。よーく考えて見よう。その殆どが結果の良し悪しが問われるもの。
 物心両面から見ればどうなのか。教育が本来果たしてきた役割は物心のバランスを図ること、心を取り上げるカリキュラムが軽視?されていないだろうか?狭義の情緒教育というんじゃなくて、人間が生きるということの意味を一緒に考え育てる場が無い。こころは結果の良し悪しの物差しには適さない。取り扱いが微妙で厄介かもしれぬ。
 解り易く言えば”武士道”、これは親が子に教え、親の生きざまが手本となる道。そこには、”飾らず・質朴・おごらず・慎ましさ”という生き様があった。忠君愛国という言葉は死語になった。身命を惜しまず、何に忠義を尽くすか?
 この辺は戦後の教育でスッポリ抜け落ちた部門だろう。
 評価は様々だろうが、ライブドアーのH氏が収監され、その時に頭をモヒカン刈りにしていた、彼はそれで何を言いたいのか?刑務所では何もすることもないのでダイエットと心身のリセットをしたいと言った。
 時代の寵児と持て囃され、50億円以上の自社株の粉飾決算は、当時、社会問題となってメデアは挙って取り上げた。
豊かさを追い求める事が、結果として万人の為になれば良い。しかし、法により事の曲直を裁かれ実刑判決を受けた。
 同じ日本人として、一連の事件をどう感じるか?もしも、高等教育の場で何でも有り自由だという教えが罷り通り、第2第3のHを目指せというのであれば、今の教育現場は手遅れで重篤なものと私は思う。
 斯様な教育に金を使うことも、ある意味では”無駄”と言わざるをえまい。
 東電幹部の責任の取り方とH氏の罪の償い如何では、日本の将来に少なからぬ影響があると思う。いずれも無視するにはあまりにも子供たちへの悪影響が大き過ぎる。

1835:無駄肉

最近のテレビ番組は、食べることor痩せることのどちらかが多い気がします。食べる事に関しては街並み紹介も併せ、地域の人気がある店など訪問しレポート、これだってその裏事情は??。それよりも理解に苦しむのは値段当て番組、最後に実際の金額と差が大きかった人が全員の料金を払う。あれって本当に自腹?これで番組になるんだわ。へえー楽な編集だ。
 一方痩せる番組は、大体太目の芸能人が期間を決めて減量挑戦する。これにもお決まりのコースがあって、「さーどうなりましたか?」とか司会者が言って煙幕?の中から不安げに姿をだす。「ヒャー驚き!すごい」とか騒いで、体重測定、ほぼ全員が目標ノルマを達成、涙なんかを流す人もいたりして・・・・。何がおもしろいのよ。
 これらの内容はあまり深くは追求しないほうが良い、でもなー震災後に流す内容では無いわな。余計な心配かな。
 ”贅肉”という無駄な肉、生活習慣が変わり、それで悩む人も身近に大勢いる。広辞苑をひくと、”栄養過剰・運動不足などのため必要以上についた肉”とある。
 肥満は万病の元?昨日の水戸での会議で私の脇の方が独り言。「どんどん増える医療費は、肥満が予防できれば随分下がるんだ・・・・。」確かに高血圧や糖尿、それに心臓病など肥満が原因で罹るものも多い。
 私など以前と比べれば運動量は減ったから、食べる量も減っている。嗜好が変わり、肉など食べたく無い。(私は坊主でした。これを最近は良く忘れます。)
 多分、ここ数年は年間を通じ、体重の上下は3キロ位で収まっている。これから8月の盆月までに大分スリムになるパターン。今が一番、無駄肉がくっついている時期のようだ。
 腰の切れは運動には大切、そのトレーニングが私の場合は草刈り。160ヤードを6番か5番・・・・・。常に意識して草刈りの幅を読む。これが楽しみでグラスバンカー脱出が上手になった。
 困る事はウルシにかぶれること!鎌を使って手で刈る時は、ウスシの木は避けることができる。でも草刈り機だと一気に切ってしまうから、2〜3日たって痒くなる。これが治りが悪く、蚊に刺される痒さとは違ってシツコイ。
 わかっちゃいるんだが、毎回、この洗礼を受ける。いまもなんとなくウルシのせいだと思われる痒みを感じている。
 昨日は34度近くまで気温が上がり、さすがに我が家の猫2匹は、ぐったり。私がかまうと直ぐに反応するのに、昨日は迷惑そうな顔をして私から離れ床にゴロンと寝転んで背を向ける。
 1歳を過ぎたミイちゃんが首輪を付けられた。最初の日に足で取ってしまいそれを蹴って遊んでいた。今日は首輪は取らない。結構似合っているので満足しているのかも。これが最近、無駄肉がついてきた。やっと1歳になったばかりだから将来が不安。年寄りのハナは、熱くなって毛が抜けて、何だか知らないが急に年寄りじみてきた。こっちはメタボの心配は全くなし。
 歳相応という事は認めたくない。本日は雨天なり。梅雨明けはまだ先のようだ。

1836:トップの顔

日本の経済界も大分様変わりしました。先ず第1に企業のトップの顔が見えなくなりました。小粒になったと言えば叱られるかもしれません。先人達の努力で企業名は世界に知られてはいますが、今のトップが分からない。これは何故なんでしょうね。
 経営陣がサラリーマン化したのも一因です。オーナー企業の良し悪しはありますが、今の時代、生命を賭す位の覚悟とトップリーダーとしての気概が問われます。殊、企業存続の危機に至った場合には、絶対に必要な条件でしょう。
 生き残り競争に勝つか負けるかは社員にとっては一大事、淘汰され働く場が消滅すれば元も子もない。
 日本企業の弱体化を示す一つの事例として、東電があると思う。日本人誰しもが東電の重役たちの給料を知って唖然とした。彼らは一体、今回の責任をどう取ろうとしただろう。既に社長は辞任を表明、会社を辞めたのか残務処理をおこなっているのかさえ分からない。「復旧に向け精いっぱい努力します。」と避難所廻りした直ぐ後にそのような発表をしたのである。これは企業の社会的責任を履き違えている最たる事例だ。このような社長の下で働く社員もお気の毒。東電の役員会の事情は分からないが社会貢献という言葉が流行し、自社の取り組みを盛んに宣伝していたではないのか。
 電力供給という事業は公的サービスの最も重要なもの、だからお役所との関係は深い。今後、会社としての東電はどうなってしまうのだろうか?現在の体質は長年かけ蓄積されてきたもの、それを良しとするか否かの判断すらできない。
 となると日本の経済は、単に節電や働くシフトの変更で対応できるものではない。今までも実は様々な節電の取り組みはあった。電気使用量がある一定線を超えた時に警告灯が点灯し注意を喚起するもの、尚恵学園でも取り入れた。何てことはない、節電は電気を使わないこと。それで充分生活できる。今回の地震時も停電になったから、庭で薪でご飯を炊いた。この時、時間になっても食事が出来てこない事の大変さを実感した。
 我々が当然と思って便利さを享受、その為に失った生活の智恵、思い出そうじゃありませんか。
 ”経済効果”という言葉も良く耳にします。その事でどれだけの経済的なプラスになるかという目安でしょうか。ですが、この数字の正当性には疑問がいつもつきまとう。そりゃーそうでしょう。何かを売り込む時に、メリットを言わずデメリットばかり言うものはいません。車が一人に一台の時代になりました。運転免許証を持っていない人が貴重な存在になった。当然燃費の良い車が喜ばれ、メーカーは一斉にその方向を向いた。他社に比べ、どれだけ低燃費で走れる車を作るか!
熾烈な競争を行っている。
 電気自動車開発も進み、世界中いたる処にその手の自動車が走っている。すると蓄電池に必要なレアーメタルという資源の価格が高騰、新たな課題にぶち当たる。再生可能エネルイギーの開発、国会で別の次元で問題になったが、だれだってそれを疑うものはいない。
 研究者は既にその開発に着手、不満があるとすれば国の財政的な支援が日本は少ないということ。国家プロジェクトとして政治判断すればできることなのに、今まで出し惜しみしてきた。
 トップの顔とは、平時には見えなくとも良い。組織の危機に直面した時に決断と組織を纏める力を発揮することだ。
 だがそれには条件があり、普段の言動と自らの責任の取り方を読み違えると事態はより深刻になり、手遅れになるというリスクだ。

1837:意欲減退

ここ数日間の暑さには、程々参りました。35度近くまで気温が上がると体調がおかしくなり、動こうとする意欲が減退します。人間以上に動物はストレートに反応し、我が家の2匹の猫の変化は、先ず日中の寝方に表れます。木陰に身を隠し、腹這いになって目一杯背伸びした姿で寝ています。外敵に対し全く無防備で時々、周りの物音に目だけ開けて反応します。「うるせーな。静かにしろよ・・・」といった具合です。
 それを飽きもせず観察している私もどうかと思うのです。
 熱中症で病院に運ばれた人が急に増えたとか、いよいよ夏本番となるのでしょう。そして今年は例年とは全く違います。節電、それも、15%削減ということ。実際は消費する電力総量が目で分かりませんから、全停電になったらどうしようという不安だけが付きまとう。それと、震災被災地の過酷な状況を想い、自粛ムードは更に高まります。
 何かをしようとする意欲が減退、ましてや前向きに改革しようなどという気持ちになることは大変です。歳と共に現状維持で満足しようと思うようになります。
 それは「元の生活に戻れればそれで良い」という福島の人達の悲鳴と重なって、複雑な心境になりました。
 人間は工夫しながら生きてきたと言えましょう。自然との共存が一番です、暑くなれば涼を求め、寒さには身にまとう服を重ねて体内の温度を一定に保とうとしてきました。その工夫がドンドンすすみ、自然と一緒にということよりも、エアコンなどで住む環境を調整して快適さを求めてきました。すると、人間の体は不思議なもので、自ら環境に適合しようとする力が弱まるのです。
 世の中の生業が全て、体内メカニズムの補完と調整で成り立っていると私は思うのであります。
 どちらかに偏り過ぎていれば、それを修正しようとする力が自然と働きます。これが自然治癒力。
 しかし、それが退化して単一化の方向にドンドン進んでいる。補完と調整の遣り取りの中から耐性のあるものだけが生き残る。
 具体的な例で説明しましょう。
 毎年ですが、この時期は雑草との格闘の日々で暇さえあれば庭に這いつくばっています。以前は除草剤というものを使ったことがありました。すると、どんなことが起こるか、2日ほどで一斉に枯れるのですが、その後からまた出てくる雑草が決まった種類しか出なくなる。(単一化)それからは除草剤を使うのを完全に止めました。
 そうしたら何種類もの草が出始めたのです。雑草と言うのはこちらが決めたもの、差別視でしょう。雑草は雑だとは思いません。そして苔が全面に生え始まった。苔は保水力があり、良く見ると蟻や名も知らない生き物が集まり、暑さの厳しい日には苔の中に身を隠し、じっとしている事が分かったのです。
 人工的なものには自ずと限界があります。次に人間はどんな事を考えたか?除草剤を例にあげると、より効力の強いものを作った。そこには”共生”という考えはなく、抹殺し、この世から消えされ!という敵視?
 使用すれば楽して目的は達成できたかもしれない。でも人間の体にだって決して無害ではなく、その毒性は地下水を通して体に入ってくる。
 今回の脱原発か否かの問題は、実は実は今をとるか将来を取るかという事、日本は世界で唯一の原爆を落とされた国です。
 もしも豊かさの追求という意欲の減退を将来への夢を残すということで代替が可能ならば、現世での不便を甘んじて受けようと私は思う。
 日本の原子力政策で一番の問題は、使用済み燃料の処理まで決めずに進められてきた事。確たる安全性を補償できない人達が”村”を形成、途方も無い給料を貰い、いざ自分の尻に火が付いたと思えば潔く(?)身を隠す。
 この実態を無視できるほど人間の許容力はないのですね。

1838:ちょっと長めに

想う所があり、深夜の2時を廻った時間に起きだしPCに向かっています。丁度3年前私も設立に関わり、施設保護者連絡協議会(施保連)という茨城県内の支部ができました。当時は自立支援法が悪評で、特に障害程度区分の結果如何によっては入所施設が利用できなくなるという事になってしまい、その危機感が高まり中央での決起集会やそれに連動する形で地方の動きが活発化した時でした。その後、ご存知のように、改正見直しがはかられ危機的状況からは脱することができました。初期の目的が達成されたのでした。そして、3年目が経ち、施保連の活動が大きな壁にぶち当たっています。昨日、役員会があり、私も出席しましたが10日後に予定する総会の出欠状況を知って唖然としました。委任状を入れても総会成立に至らないという有り様でした。
 これは、茨城だけの問題ではありません。全国的にこの会の活動が停滞しています。
 元来、会員の多くが入所型の施設でしたから、それ以外の施設の家族は元々積極的な関わりをしておらず、会の存在が周知徹底されていたとは言えません。それと中央の政治的な動きに疑問を呈する地方会もあり、中々一枚岩には成り切れていない事情がありました。当初の懸念が払拭できた安堵感と次なる具体的な目標が定まらないという事で、このままだと3年目にして自然消滅という形になるかもしれません。
 それと大震災の後遺症が少なからず影響していると思います。鳴り物入りでスタートした障害者総合福祉法の検討は進められていますが、影が薄くなってしまったように思います。それどころの話では無いというのが、正直なところかもしれません。
 復興支援にどれだけの予算がかかるか分からず、その財源の捻出すら決まっていない状況だからです。
 茨城県の被災状況が段々明らかになるにつれ、災害弱者と言われる障害者の問題は在宅障害者への対応が中心で、施設利用者の場合はそれ程大きくはなかったということが分かりました。寧ろ施設側の課題として地域においてどのような貢献ができるかという事が問われました。
 施保連の存在意義からすれば次元が違う問題に直面しているということです。もしも新たな目的が見出せなければ休会しても良いと正直考えます。
 全国の動きはそうであっても、折角茨城において組織した団体ですから、この際ホンネで会の存続の可否を論じて欲しいと私は思っています。個々の事業所内での取り組みには限界があり、茨城県という枠のなかで何かできないかという望みは、高根の花ということでしょうか。
 制度改革推進会議で検討されている内容をみると依然として入所施設不要論を唱える方が多いように思っています。とすると、また新たな提案が出ないとも限りませんよ。当事者からすれば、望んでいる姿なのかもしれません。ただし、本当にいま有る支援の実態で地域での生活が可能なのでしょうか?と私は言いたい。

 残念ながら、その改革推進会議において施設や施設利用者の家族会は委員になってはおりません。かろうじて下部組織の専門部会で55名の委員の中に名を連ねているという状況です。
 それから既存の社会福祉法人も尻に火が付いたという事に気がつかないとなりませんね。決して事業が専売特許ではないということ、規制緩和がなされ様々な運営主体による事業参入がもの凄い勢いで広まっているからです。既に茨城県内においても地域によっては競合が始まっています。安かろう悪かろうという時代は過去のこと、どれだけ利用者の立場にたったサービスが提供できるかという事が勝負の要になっているのです。ですから既得権を死守するような動きは、世間からは無視されるのが落ちです。
 それに今では様々な団体が組織され、会員になるメリットが問われています。今後益々その傾向は強まることと思います。
 そんな中で、最近の傾向は積極的に団体の活動に協力しようとする人が減っているということがあります。PTA活動や自治会活動などなるべく関わらず一歩引いて眺めている人間が増えています。誰かがやってくれるだろうとか自分だけ良ければ何も余計なことはしたくないと考える風潮、それと権利だけは主張する人々が増えました。ああ、、嘆かわしい。
 これは明らかに国策のミスマッチではないのかと思っています。このまま進んで行って果たして良いのかと誰しもが不安に思っていることも事実でしょう。自分達は良いけれど子どもの代になったら大変だと考えていませんか。
 都会と田舎の2極化がハッキリし過ぎてきた事も決して喜べません。ただ、残念なのは手を拱いているだけで具体的なウネリにならないことではないでしょうか。
 それにはスローガンとして、汗をかかない者は金を出せ!と掲げてはいかがか?それと共通する視点が必要だと私は思っています。
 その視座って何かな?今悩み苦しんでいる想いの中に大切なヒントがあるように思えるのですが、それが表になかなか出て来ない。
 少し、長くなりましたがやっと自分の気持ちが落ち着いてきましたので閉じます。Am4:15.
 

1839:足跡

人の生きた証、足跡はいつかは消えていくものです。子は親の後ろ姿を見て育つと言われます。
 老いや病によってこの世からおさらばしなければならないと感じた時、人間は先ず、もっと生きたいと思うはず。だから頑張れるんです。でも、その遺志に反し体力は衰え、心も萎えてくるものです。
 死をどう捉えるか?永遠のテーマ。いま日本は世界でも一番高齢化が進んだ国になりました。それは長生きできる国という見方も当然あります。でも、どうだろう?
 老いを迎え、うまく生きていくことが出来ているでしょうか?ホンネはどうなんだろう。
 若い人たちに迷惑をかけたくは無いと考える老人は非常に多いと。
 迷惑?負担?自立?自律?・・・・・・
 それと葬儀の形が確実に変わっています。家族葬や身近な人達だけで執り行いたいと思われています。
 事情があってそれが出来ない方も多くいますが後を継ぐ者の披露目の場という意味合いは薄れ、参列者の数も少なめになっています。私はこれで良いと思う。本当に故人の死を悼む者達が集まり、見送る形が自然です。
 それと一時、流行ったようですが「自分史」を書くということ。これも又、誰もができることではないと思います。
 ならば自分の足跡をどうやって残したいか?
 お手本の形は無いんじゃないでしょうか。
 ただ、これだけは言えると思う。遺族にとって故人が大切で掛け替えのない存在であったという事。これが生きた証でしょうね。心のどこかにいつも残っていて、寂しい時、苦しい時、思い出して笑顔でみていてくれる存在、これが人生終局の願いだと私は思うのです。
 昨日、そのような集まりに出て参りました。
 ありがとうと本心から言える、そんな付き合いが出来ればそれ以上望む事はこの世に存在しないと思うのです。
 【本日は短めに】

1840:稚拙な行為

稚拙という言葉の意味ですが、「子供じみて、へたなこと」をいう。菅総理が自民党参議院当選1期の浜田という議員を新たに作った復興省の政務官に任命、これに対し大嶋自民党副総裁がコメント、その中に一本釣りをするとはなんと稚拙な行為かと怒り心頭の弁を発した。それに与党の安住国対委員長までもが憮然として、「何も聞いていない。我々の努力を総理は分かっているのか?」とこれまた不満をマスコミの前でぶちまけた。
 最早、今の政府は死に体同然、救いようが無い事態にまで至ったのだろうか?正直、窮鼠猫を噛むが如く何でも有りの状況だ。これで本当に日本は大丈夫なの?一層その不安が強まった。与野党どちもどっちというのが私の偽らざる思いで、脱力感というのか虚しさというのか、このような人達を国政に送った自分達の甘さを痛感している。
 震災を切っ掛けに、出るわ出るわ、醜聞といがみ合い、ここまでシッチャカメッチャカの体を曝け出して良いものか。それだってどうだろう。冷静にみて、国政のトップを委ねる次なる総理候補者が見当たりますか?
 私は瞬時に想った。戦後処理を引きのばしてきたツケが今ここにきて出たと思う。税金と社会保障の議論だって、そうだ。真剣味が無い。いつだって先延ばし先延ばし。
 原発をどうするか?これも先延ばし。一体何故難しい問題を真剣に議論しないで慣れ合い政治をいつまでも続けているのか!もう我慢の限界に達してしまったんだよ。
 私はここ数年、フンズマリ状態、。。。。。。
 多分私だけじゃーないと思うよ。うじゃーどうするのさ?執行猶予じゃーないけどさ、もう一回娑婆で出直す機会を上げようよ。そしてさ!俺たちも政治に関心を持って、言う事は言おうじゃーないの。胡麻すりなんかいい加減にしてさ。ご機嫌取るから図に乗るんだよ。もっと厳しくみないとだめだよ!
大宅壮一氏が言っていたんだけどね。戦後、植民地化が残っているのは、教育現場と政治だって。教育は昭和40年代に大学の改革運動が勃発して、大分民主化が進んだけれども政治は未だ駄目だって。
 本当の政治改革ができていないんだよね。本来、政治家って御用聞きだと思うんだよな。それがいつの間にか偉くなっちゃて、君臨する王様みたいに思っちゃうんだから仕様が無い。
 嫌だ嫌だ!ああ・・ヤーダ。
 待てよ。坊さんもその気は有るんじゃなかろか。そうだ、世の中で”せんせい”と呼ばれる人種は全てそうかもね。反省しないと不味いな。
 
 実は、稚拙という言葉の意味だけど、子供じみて下手だけど、素朴で純粋という相反する意味も有るんですね。
こうなるともう仏教哲学、空即是色の世界を理解できるか否かです。
 これを一言で言えばですね、決め付けは不味いという意味かな。大勢いる政治家の中にも必ず素晴らしい人がいるだろうという期待かな。これすら失ったら、もうどうしようもないわな。
 

1841:枇杷

この時期、庭にある枇杷の木にたわわに実がなっている。枇杷はバラ科というのは知らなかった。毎年の事だが丁度実が熟し食べ頃になるとどこからか鳥が飛んできて食べてしまう。高所にあるから取ることができず、成されるまま。でも、今年は背丈が低い枇杷の木になった実を数を減らした。すると、見事な実になった。売られているものとなんら遜色はない。果実は黄橙色で食用になる。葉は薬用、材は木刀などになる。捨てる処がない。
 ただ、果物としてはいかがなものか?実の大きさに比べ、種が大きく、果肉は僅か、腹を満たすにはちょっと無理だ。
 種が大きく固いこともあり、地面に落ちた後、何もしなくても次の年に芽を出す。
 寺の境内にある木で、これまた始末に苦労するものがある。それが銀杏である。別名、鴨脚樹とか公孫樹という。
 雌雄異株で実がなる木が困りもの、ご存知の通り、熟すると異臭を放つし皮膚に触れれば被れる。でも焼いた実は美味で、実に香ばしい。材はまな板に使われる。緻密で美しいから加工がしやすい。
 何故、困るかというと、銀杏の葉の処分である。肉厚で水分を多く含んでいるから腐らない燃えない。
この木も繁殖力が凄い。枝を切って丸裸にしても翌年には芽を出し、あっという間に枝が密集する。
 植物には何の責任もなかろう。此方の都合だから。
 尚恵学園で一番古くなった寮舎の外壁塗装がやっと昨日終わり、足場が外された。そこで少し遅くはなったが本日、緑のカーテンをつくることにした。既に朝顔やゴーヤは鉢に入れ大きくなっている。今年は各部署ごとに緑のカーテンの出来栄えを競うことにした。私が担当する事務所が条件は一番悪い。何せ2階だから日照りと水の管理が大変だ。昨年作って上手くいかず難しさを実感。
 職員が一生懸命?作っていた緑のカーテン、今市販されているプラッチックの骨組みを使っている。私は竹でやろうと思う。その材料は廻りにいくらでもある。再生可能資源だ。
 銀杏や枇杷は何もしなくても自然に発芽し成長する。緑のカーテンは違う、鉢に植えたものだから何もしなければ直ぐに枯れてしまう。
 どうも人工的なものは、全てがそうだ。常に注意し手をかけないと失敗する。
 エネルギー問題で政局が混乱している。原発は人工的エネルギーの最たるもの、そして失敗が許されない。絶対安全という保証はない。だから常に細心の注意が必要だったんでしょう。昨日、東電の株主総会があった。一連の不始末を役員は謝罪はしたが、事故の改善の兆しは依然として見えてこない。なんどか原発事故を起こした東電の経営体質か、国策企業のいつものパターン自らの非を認めながらもどこか他人の所為にする。
 たまったもんじゃーないのは、いま被害にあって避難されている人々だ。脱原発を定款に掲げることを一部の株主が署名を携え提案したが、圧倒的大差で否決された。
 もしも東電が同じミスをまた起こしたら、会社の存続はありえるのか?この判断が曖昧だと私には思える。
 政局がゴチャゴチャになっている。民主党の議員総会で「退陣の花道は自分でつくるもんじゃーない」と批判したH氏、あんただってどうなんだよ!と思えてしまうこのジレンマ、民主党自体がメルトダウンをしている。水素爆発を避けるために窒素の注入を始めたという。でもね。フクシマには一体いくつの原子炉が有るんだよ。6つだよね。

1842:猛暑予感

朝の6時に竹山に入り、手頃な竹を6本ほど軽トラックに積み運ぶ。既にその時間でも30度近くになっていたかもしれない。溢れるような汗をかいた。緑のカーテンを作る。2階のベランダを利用して鉢を置き、屋上から網をぶら下げる。これが思ったほど簡単には行かず、何しろ太陽の照り返しがもの凄い。ここに鉢を置いては、直ぐ枯れてしまう。そこでヨシズを下にひき、その上に鉢を置くことにした。相棒のNさんの弱点を発見。彼は高所恐怖症だった。
 今年も猛暑の予感がする。節電必至の夏場にうまく緑のカーテンがささやかな涼となってくれるかどうか。
やらないよりは良いだろう!ニュースでは立山アルペンルートが開通したとか、下界とは約20度も気温が違うというのだから堪らない。雪が道路脇に積み上げられ別世界、訪れる人も多いだろう。
 私は今日で4日連続の水戸出張、罹災証明を貰うと高速料金が無料となる、ただ水戸から北に下りるか乗るかの条件がある。早速私も罹災証明をもらうかな?聞くところによれば出口が大変混雑しているとか。私はいつも友部から北関東にまわり、茨城東インターで下りる。県庁が一番近いのに、ここでは無料にはならないと言う。インターが茨城町にあるからだ。
 行政割とはこんなこと、福島の原発避難区割りだって同様のルールだ。
 昨日は佐賀の検査停止中の玄海原発の再稼働が決まったとか、知事も地元町長も海江田大臣の説得に了解したようだ。国が全面的に責任を負うというのが決め手となった。???????。ホント。フクシマの現状を見ていて国が全面的に保障するってどんなことよ。何かチグハグだよな。
 復旧作業も一進一退、汚染水の浄化装置もトラブル続き、それに新たな建屋で覆うというのも臨時的な処置でしょう?
 抜本的では全く無い。これが全面的に責任を負うことなの?
嘆いてばかりじゃーいけないよね。そう思うよ。昨日気が付いたんだけれども、若い女性でこのむし暑いのにマスクをしている人を良く見かけた。風邪でも引いたかな?そうじゃなくて内部被爆への予防対応かもしれない。茨城もこの先どうなるのだろう。不安が無いと言えば嘘になる。
 それと節電、本当に実現できるの?こまめに電気を消し、エアコンも極力使わないようにはしています。しかし、利用者の方はそうはいきません。熱中症になってしまう。設定温度をいつもよりは高めにして使用は始めている。
 嘆きついでだ。なんとかという韓流スターが日本にやって来た。飛行場に集まる女性の群れ、片手にカメラ、目が潤んでいる。それに応えて投げキッス。キャーとか言って大騒ぎ。それからKARAだかなんだか知らないが、日本に出たり入ったり、あれって日本人?
 いい加減にしろ!お前ら・・・大和撫子じゃーねーのかよ。お国の一大事という時にアホカ!お前ら。
 これをグローバル社会と申しまして、多文化共生時代に入ったと言う事になります。ああ 嘆かわしい。
一つ。日本人たるもの、礼を重んじ、みだりに公然では騒ぐことを慎むべし。
一つ。日本女性は、控え目に、且つ、淑やかな振舞を本とすべし。
一つ。日本の政治に関わる者は、自らの言動に責任を持ち、・・・・・・・・・
やーめた。何か虚しくなって参りました。
  ああ。。。。あああ。。。。。あーだ。まったく。

1843:人の繋がり

今日から7月です。本当に時間が経つのが早い。私の年間カレンダーは7・8月が一つの節目であることに間違いは無い。施餓鬼やお盆、いよいよ間近になってきた。これもいざ始ってしまえばどうといったことも無い。ただ、それまでの準備が結構大変なのだ。
 今週はやたら水戸に行く事が多く、今日で連続4日目、高速を使うから1時間足らずで行けるのだが、この暑さの中での運転は体にこたえる。それにいつの間にか色々な役目を引き受けてしまった。自業自得だわな。
 これから暫くは寺を最優先にせざるをえない。
 それと人との繋がりは実に面白い。人それぞれ性格も違えば考えている事も違う。ある日、突然、その関係が途切れたらどうなるか、清々するかな。多分私の性分では落ち着かなくなるのだろう。どこかに旅に出ようかと考えるが実現はしない。優柔不断だわな。
 昨夜は7人ほどで集まった。山好きな方が多かったせいで、昔山に良く登った時のことを思いだした。卒業後、ピタリ登山とは縁が切れた。
 私の友人に山で亡くなったものがおり、その事も山を辞めた一つの理由。山の怖さを知っているといえば格好は良い。
 単なる勇気が萎えただけ。
 盛夏まっさかり、海山の恋しい季節になった。
 

1844:見えない敵

人情の機微がわからない無骨者を”木仏、金仏、石仏”と言います、ハート to ハートと言いますれば、これはもう腹を割った話し合いですから、損得抜きになります。どうも人間って動物は徒然草ではありませんが”もののあはれも知らずなりゆくなん浅ましき”と実に情けない。もう救われないもので、分かっちゃーいますが止められませんってー言う事もある。
 ここが実は機微という其々が抱える事情でして、この辺の事は現実の生活では量り知れない。漱石の「こころ」なんて小説を読んでみますと、ハッとする場面に出くわし、コリャー不味いんじゃーねーのかよと思ってしまう。
 かと思えば、太宰の「晩年」なる短編集を飛ばし読み、時代が違うというんじゃーないけど、男女の綾と言うもんは、実に入り組んだもんで、筋道通りには進みませんと納得する。
 私が若かりし時代は進学を理工系か文科系と大きく2つに分けていた。私の場合は理工系に進む程の脳味噌もなく、大雑把でいい加減さがあり、文科系に進んだ。そこで更に色分けされ、当時としては落ちこぼれ?組と言われても反発できない仏文科を選んだ。入学して直ぐに場違いを実感、一浪して再挑戦するのも面倒と4年間籍だけ置いて、授業には出ず、試験だけは最低ラインでどうにかパス、しかし、廻り道をしたとは未だ嘗て思ったことはない。いい加減というのか順応力があるというのか、自分なりの居場所をみつけた。
 そこで唯一学んだのが、それ”人情の機微”とかいうもの、やたら涙脆くなり、感情を抑えることもできない。煽てりゃ木に登るを地で行く人生を一途に進む。どうしてなのか分からないが、読書欲は全く衰えず、読む本読む本に赤線を引き、それをノートにメモをする。それでも満足せずに机の周りに貼り紙、さらに満足しないのでトイレにまで。
 いま貼ってあるメモは「疎にして野だが卑にあらず」石田禮助の言葉。更に「人間は努力する限り 迷うものだ」ゲーテ。これには自分を正当化し、慰めようとする意図を否定せず。
 だからだろう。映画を見て涙を流す人間などをみると、もうそれだけで充分 ハート to ハート。更に眠気だけが出てしまう詰らぬ会議などで、何を勘違いしたのか急に大声をたて廻りの顰蹙を買う人にも共感する。
 世の中が波風立たず、無事に何事も進んだとすれば、地球上の多くの人間は心身共に退行し、滅びるだろう。仏心に退屈なし。
 見えない敵と見える味方、見える敵あれば見えない味方がいる。これだからこそ、人間は退屈せずへこたれないと発起する。
 日本がいま大ピンチ。でも本心よりそう感じている人は然程多くは無い。所詮他人事、自らに火炎がおよばなければ、見せ掛けを繕いはしても、一歩を踏み出そうとしないものだ。
 

1845:約束事

先日私の携帯に電話があった。「住職さんですか?あのーお線香をあげに行きたいので今度の日曜日に本堂を開けておいてくれますか」という。その日は午後でも大丈夫だと伝えておいたが、急に水戸まで行く用事ができてしまい、急遽午前中にしてもらった。
 彼女はまだ20歳代、お父さんのお骨を本堂で預かっている。「あの・・・お墓の見積もりを取るにはどうすれば良いのですか?」「お寺ではできないから、自分達で石屋さんに見に行き、そこで気にいったものを頼むんだよ」「そうですか。わかりました。」2度目の電話でそんな私との会話があった。
 あまり詳しくは紹介できない。彼女には弟がいる。二人とも事情があって、小学校に入るまえから児童養護施設で生活した。そこの園長さんを良く知っていたので、10年程前になるだろうか、父親のお骨を頼まれて預かっている。その時に園長さんから「○よ。これから頑張ってな。働いてお父さんのお墓を作ってあげるんだからね」と言われていたのをハッキリと私は覚えている。それから感心な事に毎年、お線香をあげにくるようになった。納骨堂の前には並びきれない程の缶コーヒーがいつも置いてある。
 午前中に遠くに住んでいるという弟に連絡を取り約束の時間より少し早めにやってきた。今回は小さな子どもが2人増えていた。多分、弟の子供だろう。他の法事が終わるまでその子たちは廊下を走り廻りながら待っていた。
 どのような事情が有ったのかは私は聞いていなかったので分からない。でもこの兄弟はお骨になった父親に約束したのだろう。いつもそれを気にかけていて報告をしに来るようだ。
 その兄弟が帰る前に私は水戸に向かった。震災被災者に水戸以北の高速料金が無料となってから水戸インターの出口が大混雑、通勤等に利用する人が増えたからだ。昨日は日曜日、それほどの混雑は無かった。
 さて、昨日の会合には少々問題を感じている。発足当初から段どり全てを我々が行った。そして3年が経ち、どうしても自主運営には至らない。アンタ任せのぶら下がり、これは今の福祉の実態である。誰かがやってくれるだろうという思いが強く、自らは汗をかくことはしないで権利だけを主張する。
 先人達の御苦労があって、今に至った事を私は知っている。戦後のどん底から這いつくばって頑張った証しが今にある。
 それに甘んじている。私は、「皆さんの為の集まりなんだ。その必要がないならば、止めにしませんか!」と言いたくて喉元でどうにか止まっている。
 一部の人達が頑張っているだけ。その他大勢は高見の見物で出来あがった頃にそのオコボレを貰いに降りてくる。
 何か荒涼とした砂漠で繰り広げられている情景と同じに思える。これじゃー駄目だ。
 先に紹介した兄妹、自分達がお世話になった施設や父親への不満を私は聞いたことがない。弟は2人の子供を育てながら、姉と約束した父親のお墓を作ろうと考えている。彼らは不自由を経験している。自らの責めではなかったはず。その体験を自分の子供たちにはさせたくないと必死に頑張っている。約束を励みにしている。
 今の仕組みの弱点は、本来サービスを受けるべき人達とサービスを提供する人達との明確な意思が確認できないことにある。そしてより複雑にしているのが、家族支援。福祉における公平性という理念は、取り違えると結果として差別化に至る。
     祈り無き 事の良し悪し 測る物差し ・・・・・・。
 

1846:大臣の言動

メデアへの恫喝とも受け取れてしまう遣り取りが流された。それも復興担当大臣になったばかりのM氏。宮城県知事に対するどのような思いがあったのかは分からないが、画面を見る限りでは知事に対し高圧的で命令口調、不快感だけが残った。それから裏が無いと言えばその通りかもしれないが、詰めかけているメデアに対し、これは全てオフレコだから流した社には後が無いという主旨の発言。そんな脅しを真に受けるマスコミなどいるはずないだろう。後に謝罪のコメントをしていたが、それをも人を馬鹿にしたような言い方だった。いま震災復興の最前線では何が起こっても不思議ではない、それを充分知りながら避難者や被災者の気持ちを逆撫でするような言動は絶対にあってはならない。謝罪のコメントで俺は九州人だから・・・・云々。これまた誤解を生む。九州人を馬鹿にした言い方だ。だってそうだろう。もしも私が何かをしでかし謝罪することになった時、「私は茨城人だから・・・」という言い方をしたら、廻りから顰蹙を買うだけだ。それが分からない。
 彼が議員として何に全力投球して今まで活動してきたかは知らないが、彼への不満攻撃でまたもや国会が機能停止にでもなれば、最早、日本の政治は世界からの笑われ者となり救いようがない。
 その自覚が一人一人の議員が持ち合せているのか。ここまで評判を悪くした責任は全ての議員にある。
 大臣のイスに威厳があって当然、それ故、そこに在る人には慎重な振舞が求められる。その席に座った途端、人間が変わるような状況は政治が陳腐化した証拠。
 この辺で止めにしておこう。こんな事ばかり言っていると自分自身が虚しくなるから。
 いま、私の頭の中はやりたい事が一杯。未整理で何から手を付けてよいか分からない。先週終わったと思っていた草取りは既に新たな草で覆われた。今月末にある施設の監査準備も最終チェックはまだ当分は先。幾つかのプロジェクトも各々がやっているようだが、具体的な方向が見えてこない。塔婆書きと掛け軸、檀家への通信たよりも手がつけられず、ドイツへ行く手筈もキップが取れないでストップ。。。。。。。
 冷静になって自分を見つめ直す事が重要、分かっている。分かっているんだよ。
 過去を振り返れば返る程、やるべき事が見えてくる。これは一体どうしたことか?焦っているのかもしれません。
 ここ10日間は確かに忙しかった。7日間は水戸に出た。様々な人と会い、日替わりの会議に出席、私の机にうず高く積まれたその時々の書類を昨日整理して感じた。果たしてこれだけの書類を後で見直すことってあるのだろうかと。毎年毎年同じことを繰り返し、決まり事だから仕様がない。事の優先順位からすれば、どうのこうの言う程のことはない。
 今、頭の中にある人から言われた言葉が未消化で残っている。それを”託された”と思うかどうか。
 いま、日本人に一番必要な事は何だろう?”祈り”だと思っっている。既成の宗教を言っているのではない。キリスト教であろうが仏教であろうが新興宗教であろうが構わない。何か共通の祈りである。
 その共有がはかられて始めて様々な課題の解決への道が開かれる。
 宗教に対し私は決して排他的な思いは持ち合わせていません。その人が信じているものを大切にすべきだと思っています。”平和への祈り”これは何も広島や長崎の人々だけのものではありません。
 生きていく事の大切さ、最後の力を振り絞るかのように涙を流し逝ってしまった人達、その人達の祈りは・・・・決して自分だけが救われたいと思う祈りでは無かった。

1847:長幼の序

仏教に身・口・意の三密行というものがあります。これは分かり易く言えば、やっている事・言っている事・思っている事この三つを一致させていく行いを言うんです。
 さてと、前章に続くお付き合いで恐縮ですが、「長幼の序」を弁えなさいという前大臣の知事への叱責は、多分、孟子の『五倫』の教えからとったものでしょう。多分ですよ。
 となるとですね、五つの倫(道)とは何ぞや?と気になりませんか。君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信ということになりますわな。つまり中国儒教の教えであります。
長幼の序とは今更説明も必要ないでしょが、要は長じているものは幼い者を慈しみ、幼い者は長じた者を尊敬するという意味であります。??????今の政治がやっている事は、本末転倒していないのか!と言いたくなるのであります。
 同じ政党内で権力争い、日和見でかけたハシゴはいとも簡単に外される。たまったもんじゃーありませんぜ。
 そのような方達が権力の座を射止めたから、ホレ見なさい。急変するわけですよ。ソリャー今までは温厚で弱き者達の味方という評判が高かった。そんな事知る術はありませんやね。一般の市民には、どこの誰だか分からねー人が急にマスコミが騒ぎたてる地位に登った、だからのぼせちゃう。どこに行くにしても殿様行列、だから1分2分遅れたからといって、ワザワザ学の有る処を見せんでも良いでしょう。人間がちっちゃいよ。あの時・・「知事さん。毎日御苦労さまですね。我々もできるだけ応援しますから一緒にがんばりましょう!」と何故に言えなかったのでしょう。これは仏教で言いますれば自戒の念が無いということになりますか。
 人間には表と裏の顔があります。ストッパーが効かなくなると、時と場所を構わず両方がでてしまう。私なりの解釈をすれば、この前の放言騒ぎはその辺のレベルですよ。だから言い訳のピントずれが甚だしい。自民も民主も大嫌いとか言っちゃって、そんなら議員辞めなさいよと言いたいよね。
 あの時には実は前段の話があったそうですね。岩手県を訪れた時の様子がテレビに流された。知事や県の幹部が玄関で彼をお出迎え、その時彼は何をしたと思いますか、サッカーボールを知事に向け蹴ったんですね。知事は意識したかどうか知りませんがボールを上手くキャッチできなかった。君臣の義どころの話じゃありません。
 あれを見て、どんな考えをもった大臣かと私は疑いましたね。だってそうでしょう。被災地に視察した担当大臣が事も有ろうにサッカーボールを蹴って出迎えてくれた人達に御挨拶ですよ。これが彼のいう長幼の序ならば、余りにも五倫を曲解していませんか。まっ辞めた人をどうのこうのいうのは時間の無駄。
 ただ私が許せない言葉を発したんですよ彼は。それは「疎にして野だが卑にあらず」と自分を評したんです。石田禮助に大変失礼だと思いませんか。スケールが全く違うんだから。
 なんという事か、彼は自分の発した言葉に責任を持たない最たる人間だ。そう思ったのでした。
 ところで、どうなんです。どっちもどっちですよね。私も言葉は決して綺麗なほうではありませんが、テレビに出てくる政治家さん達をみると、皆が皆、タヌキに見えてしまう。夜になると目を光らせ巣穴から顔を出し、キョロキョロ、様子を伺って、不味いと思えば姿を消す。末期現象というのでしょうか?ルールなど無視した反則行為が横行しています。
 それに我慢している我々庶民もどうなんですかね。慈しみや尊敬という言葉が死語になりかけています。
 大変申し訳無い事ですが、この蒸し暑い日中に節電ということで汗をかきながら、一生懸命働いている利用者さん達を見ると自然と頭が下がりますもんね。そして元気を頂きますよ。めげずに頑張ろうとね。
 何も古典をわざわざ出さなくとも身近にいくらでもそんな事例はありますよ。殿様行脚では分かりません。お忍びで行ったらよかったのに。

1848:数奇な運命

本日は七夕である。織姫と彦星の伝説を今流に考えると天の川や七夕飾りがまた違った趣を醸し出す。この時期に降る雨を「催涙雨」という。二人が天の川を隔て別れて生活しなければならなくなった事から二人が流す涙に例えて語り継がれてきた。元々、働きものの二人が一緒になることで怠けた生活をするようになった事への戒めとでもいうのか。
 大人が子供たちに星空や七夕飾りを見ながら語り聞かせ、ささやかな願い事を短冊に書いて笹に吊り下げた。以前、土浦の七夕も有名で多くの人々が楽しんだ。今、その行事は秋の河童祭へと変わってしまった。
 人間は地位を得たり、急に豊かになったりすれば、意識せずとも心に変化を齎すものだ。そして、自らへの評価が見えなくなる。
 何事も長期に継続できた人達に共通するものとして、その人間の生き方があるように思う。
 大体は富饒を望み、貧乏を厭い離れようとするもので、その事が自らの足元を弱め短命となる一因である。ならばどのように処するべきなのか、先人の示された通り、清貧を甘んじることだと思う。甘んじるとは受け入れ楽しむことである。私欲を避け行いを清くする。そして自ら汗をかく。斯様な生活をされている方には無理が無く隙がでない。
 七夕の伝説を出さずとも人は望みを実現してしまった時、大切なものを忘れる。大切なことって何だろうとさえ思わすに。自分一人だけがその害を被るのであれば良いが、往々にして周りへの影響が大きい。
 公僕=public seravant。政治家然り、公務員も当然。そして我々福祉に携わる人間も同じだ。
 servantという英語の意味に、奉仕者とか役にたつものと言う意味がある。サービスとは本来そこに本義があるべきだ。 それをどこで勘違いするのか?上から目線でみるようになってしまう。
 病院で”患者様”という敬語が使われるようになった時、私は違和感を覚えた。それは病院は病気で困っている人達を救ってくれる有り難い場所というイメージがあったからで、急にどうなったの?という気持ちを持ったのである。
 施設現場はその辺の変容がゆっくりしている。閉鎖的で壁が高い。だから、実態が知らされず長年それが許されてきた。
 これもまた、サービスとは何かという原点への問い掛けで、”介護”とか”支援”というロゴを変えることが目的とされることではない。
 いずれもserveすることに違いないのだから。それよりも我々が真剣に考えなければならない事は別にある。
 社会福祉法人でなければ、本当に今のサービスが出来ないのだろうか?公益法人は様々な恩恵を受けている。
その事を真摯に考えねばならない。震災後、サービスの公益性という価値・観念が従来とおりでいるだろうか?
 それは、障害者や高齢者という限定された対象者だけでなく、全ての人への支援となった。これこそがpublic servantの本義、当然、今のままで社会福祉法人という形態が存続するとは考えにくい。
 一つの尺度として、社会福祉法人経営者への一般の人々の視線が変わった。然程昔の話でもないのに、批判的な視線が多い。
 上手いことやっている。金儲けが上手い。税金でやっていて社長気分とは許せない・・・・・など。これこそ清貧とは相反する経営者の振舞に対する世間様の目である。これが長期に許されるほど日本の実態は甘くない。
 数奇な運命とは、境遇の変化が激しいことを言う。
 数奇、スキ・辟愛之義也・・・・・
 

1849:巨人どうした?

9日より夏の高校野球の地方予選が始まる。茨城は地震被害で使えない球場もあって例年とは多少違う予選になるようだ。先日、お悔やみがあった家で高校3年生になるお孫さんが野球をやっていて最後の年だから練習に出かけたと聞いた。葬儀当日は真っ黒に日焼けしたその子が棺の前で大粒の涙を流していた。
 彼はお爺ちゃん子、最後の勇姿を見せたかった。多分、悔いのない試合ができると思う。
 最近、全くプロ野球には興味が無くなった。根っからの巨人ファンだが、今年の戦いぶりは最低だ。攻守共に駄目、新旧の切り替えが上手くいかない。原監督の采配も切れがなく、試合終盤になると逆転されるような気になって、それが見事に的中する。勝負事は勝ってナンボの世界、兜の緒を締めよ所の話ではなく、何しろ勝てないのだからファンは苛立っている。だから私はテレビを見ない。
 昔は野球は巨人とか言って憧れのチーム、スター選手を集め、観客もいつも満員、華々しいゲームにはファンは満足して帰路についた。多分、来年は執行部も大幅に入れ替わるだろう。だがどうかな、今の巨人を誰が指揮しても勝てないと思う。
勝負に勝とうとする貪欲な闘志を選手たちに全く感じない。これはセパ交流戦で証明された。セリーグが全く勝てない。主戦投手の力の差が歴然としている。日本のプロ野球は二番煎じ?松井が大リーグに行った時にそれを感じた。
 プロ野球がサッカーにお株を奪われて、もう暫くになる。私が高校に入った時、その高校の硬式野球部は9人の部員を集めるのに苦労するぐらい落ちぶれていた。嘗ては甲子園に出場した伝統を持つ高校なのに、当時を見る影もなくなっていた。
 此処だけの話、私は中学で野球をやっていた。キャッチャーである。あまり勝った思い出はないが、自分としては充実した部活動だった。そこで高校の硬式野球部より入部の誘いがあった。全く野球をする気になれず、断ってサッカー部に入った。創部2年目で、3年生はいなかった。3年間サッカーに熱中、今の高校サッカーと比べれば雲泥の差、フォーメーションなどいい加減でキーパーを除き10名でボールを追いかけ、全員がゴールを狙った。マグレだったと思うが県南予選で勝ち進み、県大会に出場してしまった、第1試合目に当たったのが、天下に名声轟く、水戸商業。国体で全国3位?になった程の強豪だ。
 結果は惨敗、10対0、サッカーにコールド負けは無いが、全くボールに触れることができなかった。上には上がある。どうしてこんなに差があるんだ。悔しいというより情けなくなった。
 昨日の参議院国会中継をテレビでみていた。自民党議員の追求に海江田大臣は声を詰まらせ、その時が来れば責任をとると答えた。前席に座る菅総理は表情一つ変えない。原発再稼働の判断でチグハグな政府対応を突かれた。
 今の菅総理の心中を推し量ることができない。質問に答える風貌に全く活力を感ぜず心ここに有らずの答弁が多い。誰を信じて良いのか分からないのだろう。NHKで国会生中継している同じ時間に民放で民主党の議員がゲスト出演して総理の悪口を臆面も無くやっている。これではなー。巨人どころのレベルではなく、緊急入院必至の重症だ。
 いまこそ冷静な目が必要だ。政府の末期症状ではない。国の政治全体が末期現象、批判はすれど、それに代わる妙案が出せない。
 票読みをする議員ばかりが増えた結果で、数の論理を前面に出し過ぎた所為で気骨ある人間が減った。
 昨日ある人と電話で話をした。暑気払いでもやりますか?と言うと、酒好きのその方は、飲む気にもならないと言っていた。不平不満の聴き役になるからだと。爽快に飲める雰囲気ではなく、後に虚しさだけが残ると言った。
 本来、坊さんが聴き役になれば良いのにな・・・・。
 

1850:自然体

柔道でいう自然体は、どこからみても隙が無い。それを意識しているレベルではいけないようだ。
 ・・・・屋根上に 芽を出す草の 土ぶくろ・・・・・
 もう直、震災後4カ月になります。崩れた屋根瓦を応急に処置したビニールシートが至る処に見かけます。何か異様な風景とも思います。シートが風で飛ばされるのを防ぐために、いくつもの土嚢が屋根に載せられています。もう120日以上も経つのですから、そこから草が生えています。
 今回の地震で日本人誰もが自然の脅威を感じたはずです。人間の力で自然を制圧しようなどもっての外、共存することすら難しい事が分かった。
 果たして今回の未曽有の災害で私たちは一体何を学びどうすれば良いかと考えたでしょう。1億2千万人という日本の人口は、世界の人口約70億人(2010年国連推計)の60分の1にあたります。これは決して少数ではありません。世界中が日本の復興に関心をもって見つめています。
 国政における混乱、誰しもがどうにかできないのかと訝っています。日本という国の中で、一方では復旧が儘ならぬ状況下で途方にくれている地域があるかと思えば、被害に遭わなかった地域では、震災前と同様に何ら外見では変わらぬ営みが繰り広げられています。嘗て日本は戦争で壊滅的打撃を受けました。原爆投下といういかなる理由をも許せない悲劇は、今も広島の原爆ドームを残すことにより、代々語り継がれていくことでありましょう。
 私のように戦後1ケタ生まれの団塊世代は、学生運動や労使闘争という姿を見て育ちました。工場には幾つもの旗がなびき、賃金闘争など真っ盛りの時代です。活動の中心にいた人達は思想的に偏りがあると冷たい視線をあびた時代でもあったのです。
 それは戦後の荒れ果てた国土をどうにか人間らしく生活できるようにしたいという誰しもが望んだ共通する思いがあったのです。
 それが、今回の震災と大きく違う点であります。実際に被災し、苦しんでいる人達は東北3県や茨城、千葉の一部の地域です。東京以南の地域には正直、被害が及んだとは思えないのです。
 この差はどうしようも無いことなのでしょうか?もし、そうであるならば今回と同規模の地震と津波、それと原発事故という多重災害が日本全土に起こらなければ理解できないことになります。
 私は、そうじゃないと思うのです。じゃーどうすれば良いか? 一人一人がいまできること。生活での無駄を避け、自分達ができることは先ず自分達が行う。権利を主張することはその後にしたらどうでしょう。権利の主張の矛先は、日本の場合は大体が政治家に向けられます。そこに利権構造が生まれる。その体質をこの際、オサラバしないといけないのではないでしょうか。
 政治家も国の財政状況を隠しだてすることなく国民の前に曝け出すべきなのです。自らも歳費を削り、必要以上の政治家はいらないと認めるべきです。
 エネルギー問題にしてもそうです。どっちつかずの議論ばかりを行っているように思えてなりません。
 いつ頃からでしょう?日本人が和を大切にする国民という評価とは裏腹に自らの利益のみに群れる集団に成り下がった。多くの著名な先人が日本の将来を憂い書き残しています。いま直ぐに日本が崩壊することは無いかもしれません。
 しかし、現実を直視することをいつまでも避けていれば、必ずや日本は取り返しのつかない国になるように思います。
  *増え続ける社会保障費・・・医療費一つを考えても、その主な原因として生活習慣病があるとすれば、いま一人一人が出来る事は自ずと分かるはずではないでしょうか。