源究109

 

No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日
1691 通年覚書 1/13 1696 根競べ 1/19 1701 今こそ 1/24 1706 アジア杯 1/31
1692 欣喜雀躍 1/14 1697 JAL再生 1/20 1702 虎の穴 1/26 1707 根回し 2/1
1693 談論風発 1/15 1698 驚き 1/21 1703 まっさら 1/27 1708 待てば・・ 2/2
1694 酔生夢死 1/17 1699 誉める 1/22 1704 恩返し 1/28 1709 名札 2/3
1695 学び合い 1/18 1700 環境破壊? 1/23 1705 1/29 1710 研修会 2/4

1691:通年覚書

1年を通して決められた催事があります。寺は正月から始まり、春秋の彼岸、お盆、そして除夜の鐘という流れで年間予定の中に組み込まれています。過去帳に記された亡き人々、江戸時代に寺請制度というものが全国津々浦々に広がり、400年以上たった現代においても菩提寺に於いて何よりも大切に保管されてきました。
 これも一種の覚書でしょう。世の中全てが1年を通して、あらかじめ想定された日程で進んでいくようになっています。しかし、どうでしょうか?最近はその変化が如実に現れてきました。全てが前倒し、中抜きという現象です。
 正直に白状しますと葬儀・法事がその先端を走っているのではないでしょうか。葬儀の時に初7日〜100ケ日まで済ませてしまう地域もあるようです。そうなると地下の帝王・閻魔様の出番が無くなってしまう。49日に裁定を下す間が無い。
 別に営業をしようとは思いませんが、これっていくらなんでもやり過ぎじゃーないの?
 あまり業界の事は謂わんほうが良いでしょう。そのようで。
 自称、政治評論家の私としましては、ここ数日の永田町の動きが気になってしょうがない。民主党の両院議員総会で何があったか?マスコミはほんの一部分しか取り上げない。そこで民主党のHPを開くと動画サービスで流されていた。
 時代は変わった。政治の透明性が重要視される中で、内輪もめの実況までもネット配信する。議員の皆さんも大変だ。
 これからの時代の政治家に要求される事は、先ず誰にでも良い顔はできないということだ。族議員が大手を振り威張っていた時代、政官癒着や業界汚職といった問題が暴露され社会の厳しい批判にあってきた。そこから出てきた政治主導、ここを履き違いている議員が多過ぎる。権限をチラつかせることがそうだと勘違い、やたらと官僚に向かって怖顔を作り、高圧的な態度、一方、有権者にはその逆で気持ち悪い位の低姿勢。このギャップはなんと説明するんだ。
 国会を開き、果たして審議ができるのか?何だか知らないが前振りでの条件闘争が目立つばかりで、一体あんたらは何でバッジをつけているのかと言いたい。いつまで政治とカネをやっていればいいんだよ。さっさと辞めてもらいなよ。大量離党したって構わないだろう。今の継ぎはぎだらけの政党よりよっぽどスッキリする。ここがどうしてわかんないのかな?
 ここでやっと地獄の閻魔様登場! 長らくお待たせしまして、さーどうぞ。
 裁定を下す。
 全ての国会議員は速やかにバッジを返上しなさい。そして選挙を行う。その条件の第1として議員を3割減らすこと。
判決理由)・・・ここまで国の借金を増やしてきて、その責任を誰一人として取ろうとしない。与野党関係なく全国会議員の連帯責任とする。次に、国民に一言。貴方達が本当に国のことを心配するのであれば、次の選挙には実名を記入して必ず投票を行う事。
 これしか、この国の再生の道はないと考える。以上。
  *日本では、昔は子供が嘘をついた時は『閻魔さまに舌を抜かれる』という教えがありました。今の大人たちは膨大な借金をその子供たちに残して、自分達の喜びを追い求めています。大人たちが今の子供たちに何が言えますか!!!

1692:欣喜雀躍

さーて、どうでしょう。最近、雀が小躍りしているかの如く大いに喜んだことがあったでしょうか?最初は、今日こそは明るく前向きに胸張ってと始める。でも、いつも終わり頃になると下を向くような憂い事ばっかり。理想が高いのか求め過ぎるのか、それとも何かに飢えているのか。いずれも思い当る節はありますね。こんなはずでは無かった。
 暮れから悔みが続く、これも少なからず影響しています。仕事と割り切ることもできませんし、体調もいまいちですから誰かさんみたいに萎えてしまう。誠に不謹慎とは思うのだけれど、今、一番元気があるのは永田町かもしれない。でもね、なんでも有りの様相でしょう。ルールもヘッタクレも無い。1年の間に自民党⇒新党⇒離党(入閣?)ってな具合ですからね。支持者は納得しているんですかね。それとも政権与党で有ればどうでも良いとでも。解らないね。読んだ事はないけれど、『民主党が日本経済を破壊する』とか言う本を書いたでしょう。その辺が我々凡人には理解できないんだわな。
 多分、自分が手伝って経済問題を解決してやるというおつもりかもしれない。それなら、今までによっとけよ!でしょう?
 その辺が判りかねる。そういう感じでこの国の舵取りが果たして上手くいくのでしょうか。大いに疑問を感じる処です。
 いずれにしても、エリートコースを歩んできたサラブレッドばかりでしょう。下々の事が解りますかね。本日改造内閣の発表があるようですから、この辺でやめときましょう。
 話は変わりますが、毎年、この時期になると自然生を送ってくれる方がおりまして、彼は茨城の山々を終末に歩きまわり、今年は100本掘ったと言っていた。ありがとうのお礼の前に「環境破壊だ!」と言ってしまった。1mを超える実に立派なもの、宅配で送られて来る。
 ここまで成長するには何年かかっているのだろう?地中深く根を伸ばしているから道具1本で折らずに掘り出す技術と体力には敬服する。社会福祉法人を立ち上げ大々的に事業を展開している実質オーナーであるが、決してトップには立たず親友に理事長を頼んで、週末は中古のバンで山に入る。
 彼と比べて私はなんということか情けない。多分、この誰にも言えぬヤッカミ感情をどこかにブッツケているんだ。
そう思うと私の方が余程環境破壊だ。
 理想を描く事は誰にもできる。しかし、それを形にして継続させるとなると1%もできないと思う。一人じゃできないし、何でもできるスーパーマンなんているはずが無い。多くの人の協力を得ながら少しずつ成し得る事。
 なんだ!解ってんじゃーねーかよ。そうさ、わかってる
 昔は、こんな状態に自分が陥った時に、素晴らしいアゾバイスをくれた方がいた。話しているとスーと気持ちが楽になる。不思議だった。いま、それが無い。
 自問自答を繰り返しても堂々巡り、市内循環バスでも有るまいし乗客一人いなくて運転している光景だ。
欣喜雀躍とは、雀の姿を例えとしている。クジラやゾウさんではない。そうそう、取るに足りないチッチャナ雀・・・・・・
 

1693:談論風発

いろんな意見が活発に交わされることは良いことだ。ただ、こればっかりはその中身による。無益な議論をいくら行っても意味は無い。時と場合によるでしょう。決めごとは実践が伴って評価の対象となる。ingが多過ぎるのは好ましくは無い。立法機関はその中心にあるべきで、それを政治主導と言うのであれば解らない事もない。しかし、実態はそのレベルから相当懸け離れてしまった。言うは易しであろうか?否、これは政権与党だけの責任ではない。良く考えればわかること、前政権も然り、何度大臣の首を据え変えてきたことか、ここに国民は全く参加していない。これが日本が目指してきた議会制民主主義なのか?
 談論風発の実態を冷静に見れば、実に虚しい議論ではなかったか?問責決議に関しても失言や品格で行われることが多過ぎます。昨日の内閣改造のニュースをラジオで聴いた。「実務強力推進内閣」と命名したとか、フーム?
 国会中継だって自党内での騒ぎだって”甲論乙駁”そのもの、誰がその舵取りをするのか全く見えない。苦笑というよりも楽しんでいるように見えてしまう。
 非は非として指弾されることは当然だ。ただ、次に何をもってその穴埋めをするか?が分かりにくい。
 仏教の思想に『十界互具(じっかいごぐ)』というものがあります。十界は「四聖六凡」とも言って、迷いの世界・・・地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6つと、悟りの世界・・・声聞・縁覚・菩薩・仏の4つが実は一人の人間の中に存在していると考えるものです。輪廻転生という考え方は古代のインドだからこそ成り立った思想と私は思います。あれだけカースト制度がハッキリした状況では当然、善因善果来世には今よりも良い処に生まれたいと願う。
 現状がそうなっているとは言わないが、日本人は「国民総中流」とか言って豊かさに酔っていたある時期がありました。
 現世、今のままで良いと考えればどうでしょうか?輪廻を信じる人達がいますか?
 そして、日本が没落したというよりも他の国が勢いを持って発展してきた。それに慌てたという実態も否めないでしょう。
難しい課題は先に延ばし、責任をたらい回し、ああ言えばこう言う。この袋小路から抜け出せない。
 仏教は一神教とは違います。相手をも認めようとする。それは慈悲という言葉で表しているのですが、慈悲の意味は”抜苦与楽”です。日本人全てが豊かさに酔いしれていた。何が苦しみかという事を皆が皆考えようとせず、流されて生きてきた。豊かさというものが果たしてそういつまでも続くものではありません。それと並行して自ら命を絶つ人が毎年3万人を下らない。一日に100人近い人達です。
 一時期、経済至上主義が盛んに持ち上げられ、セレブとかいう人種が大道を闊歩、メデアがそれを追いかけいい気になった者がおりました。
 そのうち、人としての常識を疑うような言動が表になり、社会の厳しい目が向いた。こんな例、枚挙に遑が無い。伝統芸能の歌舞伎の世界の息子が絡む珍事、少し前の相撲界の事件など。また、司法の世界にすら信じられない実態があったことを暴かれた。これら全てとは言わないまでも日本人の奢りと緩みが起因していると私は思う。
 果たしてその者たちを罰することで問題解決となりうるか?そんな簡単なものではない。次なる者がまた同様の事件をしでかす可能性だってある。
 この辺の問題は多分、目先の対策では変われないものであろう。時間がかかるし、そもそも日本人一人一人がその気にならなければできないこと。私は先ず政治家に変わって欲しい。貴方たちは、なんの為に国政に送られているのかを自らに問い続けて欲しい。勇気と決断を先ず自ら行うことだ。民意に耳を貸さない民主主義など有り得ない。

1694:酔生夢死

4字熟語の第4弾目。漢字というものは実に奥が深い。音訓読みは勿論のこと、解字すると何と何の字が合わさってこういう意味を持つようになったということが分かる。お経はそれぞれの宗派により根本の経典が異なる。また漢音読みや呉音読みなど読み方によって趣が異なる。膨大な量のお経の意味など解るはずがない。これは私の場合だけかもしれません。ただインドから中国へ渡ってきた中で、その解釈も微妙に変化している。訓読みとなると漢字を日本流に直すわけだが、これだって現代人にはチンプンカンプン、、ありがたいありがたいという事ですませるのです。特に法事の席など。また、棒読みではなく節付けをするから、坊さんによっては朗朗として堂内いっぱいに響き渡る読経もあれば、調子パズレで聞くに堪えない経もある。小衲の場合は、いつも風邪気味という事になっている。”酔生夢死”という言葉は、二程全集という今から400年程昔の明の時代の語録にあるという。日本で言えば丁度江戸時代の初めごろ、いつの世にも何もせずグウタラで一生を終える輩はいたものだ。
 落語にもヨタロウ話があり、ご隠居さんとの絶妙な遣り取りが面白い。まーノンビリしていたんだわ。今時はその辺の懐具合は決して広くは無い。一億一心ではないが、前へ進め!で尻を叩かれるのが落ちだ。
 大体、大政翼賛会ではあるまいし、国民全てが同じ方向を向くという事自体が時世に合わない。江戸の時代と明らかに違う点は、当時の情報手段は瓦版、電話も無ければテレビもない。今は瞬時に流される時代。家の中だけでは無しに電車に乗れば車内のテロップでニュースが流れる。街の広場も同様だ。もっと便利なのは携帯での動画サービス・・・・・。
 私は別に困った時代になったとは考えていない。寧ろ積極的に情報を得て行くべきだと考える。ただ、受け手側の自分にその処理能力が求められる。
 いま、日本はどうかと言えば様々な評価がされている。しかし、江戸の時代と比較すれば一目瞭然、アンケートをとり江戸時代に戻りたい人がどれだけいるか?それと当時の人々が今の日本を想像し得ただろうか?
 東京全体からみて、北東側の発展は遅れ気味だった。それがスカイツイリーができることで一変した。浅草や千住が注目の的、観光ルートになっている。土浦は東京の北東部に位置する。やっと日差しが向いてきたという気持ちでいる。
 下町の良さは、お隣同志のつながり、お節介とも取れるが、困った時はお互い様の風習が今でも残っている。
 100年先の事は予測などできないが、数十年後、必ず日本は地方の時代になるはずだ。其々の特性をいかした産物や文化に価値を見出す時代。
 何も順位を決めて競争するばかりが能じゃない。この国のトップエリート達は常にプレッシャーを感じて生きているように思える。経済発展を第1に掲げ、走り続けている。もういい加減に休んだらと言いたい。思い半ばで過労死でもなれば、企業戦士とたたえられ、葬儀に弔辞の1本も読まれるかもしれない。
 そうじゃーねーだろう。折角この世に生まれたんだ。下町見物、江戸川遊覧、ハゼ釣り・・・と。この世も決して捨てたもんじゃーなかろうに。
 正直、酔生夢死などできる人間がいたらお目にかかりたい。何かあるよな、あるある。
♪ 腰に手ぬぐいぶらさげてーエ・・ 縁台で夕涼み・・・・・ときた。

1695:学び合い

ある企画を練っている。それは2月にドイツから横井さんが1カ月の予定で日本に来るという。今回は土浦に居を構えて遠出はしないというから、ウイクリーマンション(?)を予約する。
 前回はドイツでの障害者のグループホームの実態を話してもらった。印象に残ったのは、建物がとても綺麗で生活しやすいということ、それとホーム利用者が選択できるメニューの多さだった。なにせ32通りのメニューが用意されているということで、中身もスポーツから観劇、旅行、などなど多彩である。そこから自分のやりたいことを選ぶ。週末は大体帰省する。日本のGHの実態と各段の差である。
 どうも日本の仕組みは、形から入る傾向がありますね。後から変えればいいじゃないかという考え方かもしれない。私は何か違和感を持ってしまう。
 そこで、今回は若い職員とベテランの職員の2グループに分け、フリートーキングにしようと思う。その題材は『ネッカー川のほとり』という横井さん自著の本を使う。
 20年以上の障害を持つ我が子とのドイツでの生活、両親から自立してGHでの生活を自らが選んだミファエル君。
 それはいくらドイツの制度を学んでも正直、実感がわかない。
 それと生まれ育った家庭から息子さんが何故、GHという他人との生活を選んだのか?この辺の背景は正直良く分からない。
 私たちが実践の中で毎日繰り返すことの意義と見過ごされている何か大切なことがあるように感じる。
 そこを支援するスタッフに一緒に考えてもらいたい。
  ひょっとしたら、日本でも素晴らしい実践をおこなっている所もあるかもしれない。それは日本にいてもわからない。
要は地域と本当に違和感なく生活ができる環境だ。
 そこは、制度をいくらつくっても駄目で、地域に応じたそれぞれの実践を練り上げ育てて行くことでしかないだろう。
 まっ、自主研修の一つだが、ドイツに行きたくなるような職員が出てくれることを望んでいる。

1696:根競べ

やってみせ 言って聞かせて させてみて 誉めてやらねば 人は動かじ。』とは山本五十六元帥の言葉。今の私の心中は穏やかではない。私の意が上手く通じていない。何か途方も無く難しいことを要求しているのだろうか?
 何気ない気配り&思いやりなど言うと抽象的で判りにくい。
 埃だらけの棚、壊れかけたテレビ台、部屋に無造作に置かれた車イス。もう何年も同じ場所に放置された古い家具・・・・
 そうじゃーねーだろう。窓に置かれた一輪ざし。テーブルクロスの上の花瓶。・・・・花瓶の水を取りかえる役目だって立派な仕事。ちょっとテレビでも見たくなるような寛ぎのコーナー。ちょっとの工夫で出来るだろうが!
 たまに見回るからかもしれない。目立ってしまう見たくない光景。ああ50年間・・このレベルなのか。
 何気ない気配り⇒和み⇒優しさ⇒喜びという構図は描けないのだろうか?尚恵学園の努力目標に、『創意・工夫・責任・真心』を掲げてここ数年は変えていない。正直、変えられない。合格点が出せないからだ。
目を転じれば、確かに誉めてやるべきこともある。私の心の狭さか、誉める前に腹がたつ。えーい面倒だ!自分でやってしまえ!と何度思った事か。いま施設の職員の資質が問われている。利用者の問題点を穿り出すことに長けている者や出来ない理由の棚卸が得意な者がいる。これでは駄目だ。利用者は何も変わらない。弁解を滔々とまくしたてられても何も進まない。この段階でストップして満足していないだろうか!
 我々の仕事は根競べである。直しても直してもまた壊される。何故壊すのかを一生懸命考える。これだけでは駄目なのだ。
先ず直すことだ。その優先順位に齟齬がある。これが施設の常識という非常識。それともっと不味いのは、壊されるという理由で目の前から除いてしまうこと。 破損⇒撤去⇒殺風景という消極的解決法。本当に物があるから壊すのか?
 本来、その鬩ぎ合いの中にこの仕事の醍醐味があるはずだ。未知への挑戦などと言う大袈裟なものではなく日頃の実践の繰り返しということだ。
 これこそがこの仕事のスタートライン、地域移行とかなんとか綺麗事ばっかりが氾濫している。現実はどうか?確かに成功事例もあるだろう。・・・・がそれが将来まで続くという保証は全くない。何か重大な問題が発生したときにどうサポートできるか!後手の対応すら用意していない状況も多々見受けられる・
 実に根気のいる仕事なり。
 守りに入って守りきれるような仕事でも無い。常にパイオニアたれ!私は世間の眼を気にし過ぎると良く言われている。
ならば言いたい。貴方たちは自分の眼が確かだと言う自信があるのかと。世間体とは”みえ”ではない。一般者の率直な目である。外聞を大事にする人間は福祉などに首を突っ込むことなどしません。遠メガネで見ているのが精一杯、その冷めた目と熱い情熱を合わせ持つ人間が福祉の人となるべきだ。
 損得計算で答えが出るような仕事を望む人間には、この仕事は向かない。ハッキリ言って置く。
 元帥の言葉を重く受け止めている。”誉める”事が自然体でできる人間の器は聞きかじりで得た知識では決してない。
慰めとも励ましとも 如何様に とるかは お前自身の心次第。
 

1697:JAL再生

昨日はJAL経営破綻から丁度1年目、京セラの稲盛氏が経営責任者として登場、誰しもが本当にできるのかという疑問をもったに違いない。しかし、1年が経ち、再生計画は順調に進んで当初の予想以上の成果(黒字1000億)をあげたという。昨日、稲盛氏が整備工場などを視察、社員をねぎらった。皆さんの努力と協力があって初めて実現可能だと。
 嘗ての夢の職業である客室乗務員(スチュアーデスとは今では言わないそうだ)も、機内の掃除を行っている。全てが無駄の削減という。しかし、忘れてならないのは、1万5千人というリストラされた社員の存在、上手く再就職されたものばかりではない。不当解雇ということで訴訟が行われているのも事実だ。
 JALは海外に行った時に誰しもが感じただろう。親近感と安心だ。それが経営悪化し、国の後支えだけではにっちもさっちもいかなくなり1年前に会社更生法を決断された。航空業界の競争の激化、格安料金の飛行機が世界中を飛び交う時代になって、当然の帰結か。もともと飛行機の利用者は、利便性とスピードと安全を求めた。
 何事も全く同じ。企業の生き残りというものは、事業が順調な時こそ備えるべきことがある。それは、人材への投資と組織の見直しだ。公益法人の見直しも同根である。危機意識が欠如し、タテマエだけを声高に訴えてもそれが許せる環境に無い。言って置くが人材への投資は、決して高額な給与や人数を増やす事をいっているのではない。
 昨日は市内の民間施設協議会の新年会があった。40名弱の集まりだが、参加者が大分若返ってきたと感じた。名前が解らない。半分以上は老人関係の施設である。社会福祉法人というシェルターに守られた時代は確実に変化している。多種多様な事業主体が参入、全く同じサービスを提供している。良く言われたのは、彼らは全てがお金だというセリフ、しかし、社会福祉法人は違うのか?介護保険という制度にのった事業に何も変わらない。
 多分、利用される人達からすれば、サービスの中身の問題で、株式会社であろうが社会福祉法人であろうが関係ない。 キャリアパスという仕組みが法人にも導入され、専門性や意欲への評価が徐々に取り入れられてはいる。しかし、この点だけを見れば、株式会社とは雲泥の差だ。サービスの質が変わらず、誰が責任を持って行うかを明示する株式会社、ローテーションで誰が担当か分かりにくい法人(?)と軍配がどっちに上がるかは自明の理。
 ここに危機感をもって、今からでも遅くは無い、人材教育と組織の見直しをできるか。
 制度がどのように変わろうが、この重要性は下がらない。
 JAL再生の取り組みの中で一番危惧されたことは、安全だ。充分な整備ができず、果たして従来通りの運航ができるのだろうか?マンネリ化した企業体質の中で安全運航が可能かと言えば、否である。トップの決断がここにあった。
 マンネリ化という現象は、いかなる業種にも起こり得る。一定の技法により反復慣用、型にはまって独創性と新鮮さが失われる。私は今の福祉に盲点があるとすれば、マニュアルの導入である。事細かなマニュアルを用意して、サービスの公平性をはかる。果たして本当に人間相手の仕事にマニュアルは馴染むのだろうか。
 read between the lines(行間を読む)という感性が私は重要だと思っている。相手が何を考えているのかどう感じたのか、言葉が話せない人達の何気ない仕草から読み取る。トヨタ方式の生産ラインは緻密な計算によって作られた。これと人間相手の仕事を一緒くたにして欲しくない。
 JAL再生から我々が学ぶことは実に多い。お客様の要望にいかに答えられるか!最前線での人と人の関わりに事業としての生命線があるからである。

1698:おどろき

昨日は恒例になった観光ホテルでの寮の新年会がありました。今回は珍しく、誰も体調を崩し、不参加になる方がおりません。正直、みんな随分歳をとったなー!という印象でした。円テーブルにスタッフとメンバー達が上手に分かれて座ります。 決してケバケバしい贅沢な宴ではありません。カラオケしてみんなでの食事会という感じですね。
 私のテーブルは、メンバーの中では優秀な人達を集めてくれた事が一目で解りました。隣に座った井波さん、大分太った。でもはじめの言葉を上手にできました。胸に付けたアップリケを私に誇らしげに見せてくれた。「かあちゃんの、かあちゃんの」お母さんからもらったのかもしれない。それから「かあちゃん死んじゃった」と言って、手を合わせた。思いだしました。彼女は土浦養護学校に学園から通った、もう30年以上前になります。それから彼女は私に向かって盛んに話しかけてくる。周りが騒々しくて良く聴きとれない。でもハッとした。「すずき さわこさん」「みゆき いわしたみゆきさん」「まつばとしえさん」・・・・次から次にでてくる名前、全てが既に亡くなった人達の名前でした。それも正確に覚えているのです。
 「そうだな、みんな死んじゃったね」と言うと「ウン」と頷いた。
 なんて事だろう。彼女はこんな事を考えていたんだ!その後、退職していった職員の名前も出てきた。
 多分、彼女は昔の思い出を懐かしんでいるんだ。お母さんが亡くなってから暫くはお父さんと一緒に自宅に帰省した。
 正月を家で過ごしてから学園に戻り、最初の催しが新年会、そのお父さんも体調を崩し、何年か前から家に帰ることもできなくなっている。
 一人一人に上手く語れないが大切な思いがある。それを大切にしまって、彼らは頑張っている。
先月の北海道の某施設長の話にあった。「私はどこで泣けばいいの?」という利用者の方からの訴え、泣く理由をいくら探しても、解決できることなどほんの少し、それよりも一人で泣ける場を用意すべきだと話された。その事が強烈に今も残る。
 また、その日の夜は団体の新年会が涸沼であった。その時にこんな話が出た。「今の若者にはハングリー精神がない・・・なんでも揃うし、何をしても食っていけるから。」皆さん70際歳を超えた人達だから、そう思うのも頷ける。
 子供たちを過保護に育てる親、反対に虐待も後を絶たない。結局、、親なき後は子供自身が自分で生きて行かなければならない。それが不安だという。
 施設は昔と様相が一変している。施設の歴史は、養護施設だと私は教わった。戦後の荒廃した日本で住む場所も食べ物も無い状況で一時非難のシェルターという役割を持った。取りあえず生命を守る事が急務であったから。
 いつまでも施設にいるのではなしに大きくなれば其々が社会に巣立っていく。その夢があった。
それが、高度経済成長という時を経験をした日本が昔では考えられない豪奢な設備の施設を全国各地に作った。
 ここまでは良い。しかし、それを関係者が自慢するようになった。・・・・・・???
 利用されている当人がそれを言うのであれば何も私は言えない。いま政府は社会保障制度の検討を始めている。でも何故か私には先が読めてしまう。それは地域や一般の人々が本当に施設やそこで利用される人達を仲間と考えているだろうか?という疑念。日本人にここがスッポリ脱落している。その端的な一つの例は、施設を作る際に地元の同意を取れという一札が入る。何故、そんな確約書が条件に入るのか?迷惑な存在だという根深い考えがそこにある。自分だけが良ければ良いと考える国民にいつからなってしまったのか!
 日本で施設が地域に溶け込むという事は至難の業、行事での交流などは全ての施設で行っています。これで地域と上手くいっていると勘違いしている関係者。GHでの様々な出来ごとなど、この国はまだまだ成熟はしていない。
 諦めてしまってよいのだろうか?それとも必要悪というレッテルを貼られながらやれば良いのだろうか!
もう何十年も前に亡くなった仲間の名前を間違いなく覚えている井波さんの言葉は限りなく重くのしかかる。
 

1699:誉める

世の中、殺伐として、ささくれ立っていませんかね。これぞ末法の時代と言うんでしょうか。新年会が毎日続く、私は飲めないわりに話が好きときているから、様々な人の話を聞く絶好の機会となる。殆どが恒例となった集いだから、メンツはあまり変化なし。1年がたち、どう変わったか?他人の事を気にする程の余裕は無い。でも確実に変わっていることがある。それは自分が周りの人と比べ年長者のグループに入っているということ、若い人と接していると昔の自分を思いだす。
 勿体ないよ。もっとやりたい事をやれよ!と言いたくなる。そういう自分は結構好き勝手に生きてきた。周りに迷惑をかけっぱなし、自分の人生に悔いを感じる事は無し。出来ないことを責めても仕方があるまい。その人としての何か光ったものがあるはず、。。。。
 いつの間にか60年、振り返ると時間差を感ぜず瞬間の映像が浮かぶ。血と成り肉となったかは知らないが、全てが懐かしい事であることに間違いはなし。
 はたと思い当たった。世の中の全ての人達が非難とは逆に誉めることを一斉に始めたら何か変わるかも。人間は誉められると気分がよくなるようである。失敗しても・・・「良くやった。がんばったな!」と。同じ人生なら、気分良く過ごしたい。
 インフルエンザが今年も大流行の兆し、タミフルに耐性がある菌になるのだろうか?この追いかけっこは永久に続く。
 誉め言葉に抵抗力がつくとどうなるか?「本心じゃー無いくせに」と疑う。でも、どうだろう。嘘でも良いから言われたいという気持ちはどこかにあるものだ。
 私がその見本、誉められるとどこまでも木に登る。梯子が外されていてもお構いなし。そうやって生きてきた。
 これを名古屋流DNAと自認する。
 先日、さすがという経験をした。日本一の人気をもつ、国民宿舎が県北の鵜の岬にある、三カ月後の予約が一日で埋まるという。太平洋に面した立地条件もあるが、お持て成しの素晴らしさが人気の最大の理由だ。どうしてそうなったのかは総支配人の力だと伺った。
 その伝説の人といこいの村で偶然あった。一度、鵜の岬に泊りたいと話すと、彼は直ぐにメモをした。そしてキャンセルが出れば連絡しましょうと言ってくれた。いま、同系列のいこいの村の責任者も受け持つという。
 私は用事があって代行を頼んで泊まらず帰ることにした。10時を過ぎ身を切るような寒さにも拘わらず彼は玄関まで私を見送ってくれ、車が出るまで手を振っていた。
 毎年、同じ会場で行う新年会、確実に変わったのは、団体客で一杯だったこと。
連続31年もの長い間、日本1のホテルの座をしめている北陸和倉温泉の加賀屋、これもまたお持て成しが凄い。
 昨日、尚恵学園の職員の新年会で、口約束だが言ってしまった。加賀屋にでも泊って最高のサービスを学んで来てほしいと。
 何も知らない人からすれば、なんだよ、慰安旅行かよと思われる。
 言う人には言わせておけだ。福祉施設の職員が加賀屋から学ぶことは限りなく大きい。

1700:環境破壊?

説明責任と言えば、人とのトラブルが起こる最大の原因かもしれない。ただ、これが一方的な説明では相手が納得しない。相互の言い分が折り合った時点で打ち解けるものでしょう。第3者が絡んだりするとこれが複雑になって、言った言わないが始まる。
 組織の大小を問わず、その方程式は厄介だ。元々、尚恵学園は神宮寺の境内の一部を使って始められた。遠くからの景観は見事というか、桜の咲く時期は特に良かった、高台に建つ、寺の本堂の周りに木造の寮舎が遠慮して建っていた。景観を壊すというよりもおさまり具合が良かった。田んぼの畦に腰かけノンビリするには絶好のスポット、タンポポや土筆が生えていて、とても長閑な雰囲気があった。そうね、40年も前の話かね!
 いま、水田の埋め立て工事をしている。現況で竹が生い茂り、地目を田から山林に変更して法人が知り合いの地主さんから買い求めた。神立周辺はいつのころからか工業団地が出来、人が移り住むようになって、至る所で農地が宅地に変わった。それでも水田は最後まで残った。
 多分地域の人達は埋め立てを見ていて、また何か学園が始めるのか?という目で見ているかもしれない。
 耕作しなくなった農地はあっという間に荒れてしまう。竹が入り込んでしまうと始末が悪い。実際、中に入れない状況の竹林ばかり、できればもっと綺麗にすれば風通しも良く、風情があって素晴らしい環境になる。
 今回は、地主さんからの申し出があって学園が買い求めた。建物が建つ場所でも無く、これからどう利用するか。
 学園の利用者さんが高齢化がすすみ、遠くまで作業に出かけることが難しい。
 そこで、私が小さい頃、小ぶな釣りなどして遊んだ環境を思いだし、そんな寛げる空間を作りたいと思っている。公園という類ではなしに、余り人の手をいれないで自然を楽しむことができる場所。
 先ず遊歩道を整備、季節の花を植え、日向ぼっこできる。できればお茶を飲めるコーナー、足湯があれば最高だ。
 近所の子供やお年寄りが立ち寄ってくれる場所・・・・・。
 それに竹細工でもやれる作業小屋・・・・・
 地産地消という考え方はこれからのモデルになるでしょうね。苺ハウスや竹細工・・・何かの楽しみが無ければ人は集まらない。幸いイチゴ作りは地元にいくらでも教えてくれる方がいる。竹は孟宗から真竹までいくらでも揃えられる。
  イメージがドンドン膨らむ。いま、殆ど毎日出て歩いている生活だ。いずれ引退し、今度はゆっくり利用者さんと過ごしたい。
 昔のお寺のイメージは、こうだった。
 用が無くても立ち寄りたくなるような場所。これからは法事がなければ訪れない寺ではいけない。
 環境破壊ではなく、環境整備だろうと私自身は考えている。これも説明責任を果たしているわけでなく、例の如く独り善がりであります。/・・・≪真言教学の入我我入の私的解釈》

1701:今こそ

卒業式に歌った『仰げば尊し』、いつ頃からでしょうか?文語調であるため分かりにくいということで『旅立ちの日に』とか最近では『さくら』などが歌われている。
 しかし、私達年代の者にとって、仰げば尊しが卒業式には定番であった。「我が師の恩」や「互いに睦し 日ごろの恩」そして「朝夕 馴れにし 学びの窓」と歌い進むと自然と涙が溢れたものである。そして「今こそ 分かれめ いざさらば」と歌いきる。この分かれめという歌詞だが「め」は「目」では無く、「む」の変形で「わかれよう」という意味である。
 今の日本の状況を無条件で喜んでいる者はいない。むしろ危機感が増すばかりで不平不満が充満している。何に対する不満か?どういう状況を不公平と感じているのか?
 師(お世話になった人)や睦し(親しくした仲間)への恩(感謝)が裏切られ、潰し合う。こんな状況が巷に溢れてしまった。そう感じている人が実に多くなった。何故?そして別れた後にもその恩を 「やよ 忘るな」と諭した。それが何時のころからか「あの時の恨みは 決して忘れない」という殺伐とした思い。
 何もここまで世を果敢なむ事もないだろう。私もそう思っている。でも目に触れる事の多くがそれを更に否定する有り様だ。
 同志社大学の浜さんが言っていた。このような日本人誰しもが閉塞した思いの中に長く止まり過ぎている。この先、どのようになって欲しいのか、分かり易く描いた地図が無い・・・と。
 そうなんだよな!これこそが政治の役目。期待しては裏切られ、これに当事者たちがどう責任を感じているのか!
 いま、解散総選挙が現実のものとしてチラついている。しかし、国民は同じ過ちを起こしてはならない。示された地図は棚の上に置かれ、GPSやら羅針盤を必死に見ながら停泊港も定まらず大波に揺れている。
 乗船客はどうか?世界一周の豪華客船よろしく、値段によって違うフロアーを今日はダンスで明日は演劇と楽しみにばかり現をぬかす。何か、日本が過去にあった豪華客船の沈没事件とダブる。
 いま、豊かさのカウンターパンチを受けている。富の格差や多様な価値観、そして自由を履き違えた権利の主張。
 先ほどの歌ではないが、『身を立て 名をあげ やよ 励めよ』!これを心底信じている人間が果たして何人いるのでしょうか?
 極端から極端に走る状況は決して人間の幸福に結び付かない。豊かさが一部の者に限定され、それでもなお自由を謳歌できるのでしょうか?
この事に気づいてはいるが、一歩足を踏み出さない。誰かがやってくれると今でも信じている。このノーテンキな人々よ。
構わない。貴方達がそれで良しとするならば。
 『忘るる 間ぞなき ゆく年月』だぞと言うのも馬鹿馬鹿しい。人生80年は決して長くは無い。

1702:虎の穴

山崎ハコのヒット曲に『望郷』というものがある。昔かけまわりちょうちょ捕りをして遊んだ故郷、・・・・・帰ろうかと思うが今はもうない・・・・。彼女がデビューした当時、中島みゆきと比べられ、個性的な声で歌う彼女の姿はあまり表には出ず、その素顔を私達は良く知らない。どちらかと言えば暗いイメージだが、そんなに頑張って生きなくても良いよと唄えかける。
 いま、毎朝、彼女のCDを聞く。理由は分からないのだが、妙に心が静まるから。
 タイガーマスク現象が騒がれる。ここにきてマスコミが挙って取り上げるから急に出てきたようにとられる。しかし、そうじゃない。今までもあったんだよな。自分から名を知らせるようなことではなく、控え目にね。何かが違う。これもまた今の時代を反映していることかもしれない。
 梶原一騎原作のタイガーマスクを知っている世代はどれくらいか?私はその前の世代だ、ただプロレス番組を必死に見た経験はあった。覆面レスラーが登場し、悪訳と正義の味方にわかれ反則などお構いなしに相手をやっつける。パフォーマンスがどんどんエスカレートし、その後は登場する際に音楽やライトが煌びやかになった。
 『虎の穴』とは悪役レスラーを養成する道場だ。一瞬閃いたことがある。国会の動きにダブった。実力者(?)と称する人が・・・塾なるものを作って若手を養成、初期の理念と実態が様変わり、そこにある共通点を感じてしまった。
 国の為と言いながら、実は実は自分の為に動く者達を養成する場。数の論理で勢力を誇示、何かがあると直ぐに纏まって対応策。そこには国をどうするかという話では無く、あいつをどう叩きのめすかを画策している。
 梶原だって何もそんな事は想定してはいない。孤児として育った主人公が、自分と同じような苦労をしないようにと世の悪と戦う。そこに若者は惹かれ、勇気を貰った。世直し不正への闘いだから。
 穿った見方かもしれない。今の政治を見ていて子どもたちが範とし、勇気を得るだろうか?見えない動きばかりが目立つ????なんでも有りで言い訳ばかり、自分達は2世3世で何不自由なく育った、その地盤でバッジを付けられたのに、どこで勘違いしたか、自分の力で国政に登ったと思ってしまう。これは先ず第1に苦言を呈するものを排除する器の小ささからだ。
 タイガーマスクなる現象が容はどうであれ、もっともっと広がってくれれば良いと思う。政治に期待しても駄目。自分達の出来ることからやろうという庶民の意志の表示とみる。これこそ、制度やマニュアルではできない助け合いのこころでしょう。
 先人が言っていたことを思い出した。制度が進むと”こころ”が消える。人間、当たり前だと思うと、有り難みを感じない。感謝する気持ちなどどこかに行ってしまい、権利だけを主張する。まさにその状況に日本がまっしぐらに進んでいる。
 これは我々自身も大いに反省しなければならない。要求をしつづけ、それに応えるだけのことをしているのかという自省が欠落していないか。
 老人介護の世界に私は疎い。心から親しみの気持がわかない。決して全てでは無い。しかし、同じ福祉に携わる者として、派手な生活や人が見て羨むような生活、これが事業所のトップに見る。自らをPRすることに長けてはいるが恩着せがましく、当然でステータスと勘違いしている。
 この辺から日本の福祉が変わった。人材が集まらないと良く嘆く。それだって現場と経営者の格差に責任があると私は見ていますよ。
 そのチェックが非常に甘い国が日本だ。制度上で何も間違いなく運営されていれば、指摘できない仕組みを作った。これでは、今後も御殿のような施設はできても、そこで働く人達の気分は晴れない。利用される人達だってそうだ。長く利用すれば自然と分かる。それがどうも公金を使った事業に顕著となっている。それと”先生”と言われる人達の周りに増殖している。
 もういいよ!福祉の業界にも「タイガーマスク」の登場が必要になったわけだから。
♪  ・・・・これからも又こんな日が
         いくつも来るんだ グッパイ  何度目かのグッパイ・・・・♪(山崎ハコ)

1703:まっさら

真っ新(まっさら)になる。『全てが新しくなるほうが楽だよね』「そうだな。あちこち直すところばかりあって大変だ」
 いま、作業棟の新築を行っているが、毎日私は工事現場を訪れ、設計士と話している。私の性分だと思うのだが、工事中の建物じゃなく、次なる構想を練っていて心ここにあらず。話を合わせるのも大変だと思うのだが、実際そうなんだから仕様が無い。そこで出た話、「住田さんは好きな事を随分やってきたんだから、悔いはないでしょう?」ってことも言われてしまった。「ウッ・・・」声が出なかった。
 自分では思いの半分も出来ていないと実は思っている。でもなーそこまで望むのはやり過ぎか!と私の影武者が横やりを入れる。
 思う事は自由だ。少欲知足 か 大欲不足。実はこの繰り返しってことを毎日行っているのです。決して堂々巡りではない。小乗か大乗かという仏教の展開は時代と共に様々な変遷をして今に至る。つまりですね、両方とも人間の心の中には存在するということでバランスを取っているわけですよ。影武者が天邪鬼ってことになるとヤヤコシイ。なにしろ仏教に登場する天邪鬼は仁王や四天王に踏みつけられているから悪者ってことになっている、この意味は簡単に言うと「慢心を捨て去り、身の程を知れ!」と言う事らしい。「慢に七慢あり」という。その一が「我慢」、これは日常よく使う耐え忍ぶという意味では無く、自我に執着することをいう。自分が自分がというタイプとか自分より優れているものに対し羨み妬むタイプだ。
 でも、正直誰しもこんな気持ちは持っているでしょう。そこで微妙な言い回しを日本語は使う。「感性」という言葉である。
英語で言えば、sensibilityだわな。センスだよ。つまり、感覚的にアイツは嫌な奴とかウマが合うって事になる。
 自己PRが好きな人を見かけると私は直感する。ああ・・・寂しい人なんだと。別に相手にしなければなんって事は無い。
 私なりの尺度が間違っているかもしれないが、宴席でそれが分かる。誰も酒を注ぎにいかず、一人寂しく自席にいるタイプ。人には流れがある。ちょと留まって話し込む場合と素通りしてしまう場合。
 最近の宴席はテーブルが多くなり、その辺の人の流れが大分変わったが、畳の上での宴席は今でもそれがある。
 私は心配をしている、最近の若者は、大広間での宴席を敬遠する。相部屋で蒲団を並べて寝るなんて事も駄目らしい。
個室でベット、早めに自室に戻り一人っきりの時間が持てることが好き。
*どちらかと言えば私も個室が良かった、先日は参った。手で顔を叩かれ、寝言で歌い始める方と同部屋、安眠など全く出来なかった。時と場合かな?
 自戒を込めて、「身の程を知れ」という言葉だが、私は調子ものの類、宴会が好きで話好き。幸い天は二物を与えず、酒がカラっきり駄目ときた、これで酒が強かったらどうだろう?
 「その器にあらず」も私が大事にしている箴言だ。
 人生60年も生きてくると様々な人との出会いがあった。大変無礼なことをして迷惑をかけたことも多い。もしも、全てをリセットとしてまっさらにできたら、どんなにか楽だろう。

1704:恩返し

ツルの恩返しという民話があります。これは鶴が罠にかかりそれを助けてくれた翁にその恩を返すという寓話。それから恩を仇で返すという遺恨話もあり、いろいろです。これを我が事として考えてみましょう。思い当ることはありませんかね? 障害福祉の流れは確実に地域生活へ向かって進められています。当然と言えば当然です。将来の不安に入所型施設を今を担保にして駆け込み利用する実態も否めない。このことを誰も批判はできません。
 先日、ある方の受け入れについて、神奈川から私共の施設に来られました。何故、地元で受け入れができないのか?という問題を突き付けられています。1対1の対応ができる施設は茨城にはありません。その実態を見たいというので法人全体を見学していきました。多分、横浜とのギャップを有りの儘に見て行かれたものと思います。その後、出身の市において両親を交え調整会議を行ったようです。私はその経緯を文章で報告を受けました。正直、地団駄を踏む思いです。
 受け入れたいができない。どうにか工夫して受けられないか???横浜市は全国でもトップの支援体制を市単独の補助もあってできています。設備は勿論ですが、スタッフの人数が全く違います。
 それともう1件、あれはもう30年近く前になるでしょうか、熱心な養護学校の先生がおられました。いま、その息子さんをSSで受け入れています。既にお世話になった先生は亡くなられ、お母さんと二人暮らしをしていた息子さん、そのお母さんが骨折して入院になったので緊急で受け入れたのです。
 今まで大事に育てられたのでしょう。随所にそのことが伺えます。でも、突然の入院で母親と別れて生活することを上手く受け入れができない。最近、ご本人の体調が思わしくない。様々な理由で我々を利用される方がおられます。ご本人が納得して利用しているかと言えば、そのような方は少ないでしょう。
 日本の仕組みをどうするか、政府は社会保障全体の有り方をその財源問題を含めて検討に入っています。
 老人介護をも含め、私は現状に違和感を持っています。事業所の設備にかける膨大な費用をもっと違うものに使えないかという事です。担い手である支援者の数を増やすとか育成にかける仕組みづくりとか。そして、遣り甲斐のある職業へ一歩踏み出す。
 我々は法人の努力目標として4つあげています。創意・工夫・責任・真心。どれ一つをとってみても大変です。責任という事では、最初のケースの一番の躊躇する理由です。責任を持って受け入れられないという現状。
 話は変わります、最近私の住む街にはワンルームマンションが急に増えました。大体は企業が纏めて押さえているようです。体一つで来てもらって期間限定で働いてもらう人達の住居。インターネットも常時接続、テレビ、洗濯機・・・使い放題で定額料金、夜、部屋の明かりがついているのは半分程度、それでも空き部屋は無いという。これは一時的な生活の場だから良いのでしょう。でも一生その生活をするとなれば考えてしまいますし使わない部屋があるという無駄が見えます。
 日本の仕組みの問題は、継続性が無いということだと思います。年齢やその他の条件で断続的な制度が多過ぎます。
何故かな・・・?幼保一元化の問題を考えれば直ぐに分かります。既得権が優先し、いま必要とする形になかなかできない。業種ごとの団体が改革を進める最大のアキレス腱となっている。そして行政の縦割りと共存関係になっている。行政改革が進まない理由も実は枝分かれした関係者の利害があるからです。これを政治主導で変えようとした。しかし、長年の政党政治に甘味を得ている人達が細分化をやめない。この改革の足枷が政党助成金。
 政治も行政も企業もそのもたれ構造で今までやってきた。それがにっちもさっちも行かなくなってきたんでしょう。
 目先の付焼き刃的な改革ではもうどうしようもない。日本の国債の格下げも当然の成り行き、トータルで1000兆円になる国債がその返済計画もままならぬ状況に嫌気がさされたという事である。
 無駄は自らの足元から・・・・。既得権を守る以外にどんな創意工夫があるか?それが今、内外から厳しく要求されている。
 

1705:道

昨夜の宴席で”相撲道”の話が出た。人生75年、その方は昔齧った相撲が自分の生き方になっていると語った。「押しの一手だよ。脇をしめ、腰を低くして、今、失敗している人は金と女だ」と、自らコップに酒を注ぎながら一方的に話しかけてきた。
 日本には伝統的な”道”がある。それぞれが頂点を目指していくには、修練を要する。全ての伝統芸は、底辺がしっかりしているからで、年功だけではなく、技を高めることで頂点への道が開けている。分かり易いといえば分かり易い。しかし、実際はドロドロとした見えない処があるのも事実。それを認めないモノには最初から価値がない。それで良いのかも。

 ♪ この道は長いけど 歩きながらゆこう 石っころだらけでも 歌いながらゆこう・・・♪

この歌は、永遠の美女・吉永小百合さんが歌った『勇気あるもの』、茨城出身の吉田正が作曲、大ヒットしたものである。
自然と口ずさむことが多くなった。まさに人生を有りの儘に歌った私の好きな曲の一つ。ingを勇気を持って、挫けそうになったときに鼓舞する。一度の人生だと。迷う事はない ingでゆこうということだ。
 道程には様々な誘惑があって、目移りする。歩き続けるうちには休息も必要となろう。
 日本人の気骨が問題になっている。観客になって評論家になっていないだろうかという事だと私は思っている
。相撲界を揺るがした不祥事が少し鎮静化したように思えるが、客足は確実に減った。地方興行も同じ、ただ、地元出身の力士には自然と熱が入る。彼らこそ土俵での勝負が全て、幕内に入って満足してしまう力士もおれば、常に上を目指す者もいる。相撲界が一番、今の日本の実状を良く示していると思う。3役に果たして何人の日本人がいるのか?国際化したと言えば聞こえは良いが、もう少し日本人力士の奮闘を望む。
 私は相撲を直に観戦したことはない。土俵の上の中継だけでなく、支度部屋の様子をテレビで中継すればもっと面白くなると思う。出番を待つ時間、徐々に気分を高め、集中する。勝負が終わって土俵を下がる。そして次の取り組みに気持ちを切り替える。
 道の全てに通じると思うのだが、表舞台よりも裏の見えない部分が重要だろう。慢心を避け、直向きに、勝負に負けても決して他人の所為にはしない。
 何かその反面教師が多くなり過ぎてしまったように感じる。そこにプロの真髄を見る。
 国が彷徨い続けている。国会を国技館と見れば一目瞭然。政治家のプロ意識とは何なのか?真面目に討議することより誹謗中傷、相手をこけにして終いには大笑い。自棄に大人しいと思えば居眠りしている。これで本当に日本の舵取りができますか!
 アンタ達が示す”道”はどこに通じているのですか?破滅?それとも売国か?そんな気持ちにどうしてもなってしまいます。先ほどの押しの人生を語った方がいみじくも言い得た事はこうだ。
 所詮、他人事なんだよ。自分の事は自分で守らんと。俺は農業だと思う。絶対に日本は食べるものも無くなる時がくる。その時、慌ててもだめだ。自分の食べるものは自分でつくる。これしかない。
 妙にその人とウマが合う。このままだと日本人はバチがあたる。先祖が丹精込めて開墾した農地を荒らし、容が良くて珍しいものを高額な金を出して買っている。そこに慢心を感じる。
 私は大分先の事だと思っていたが、そうじゃない、今からその覚悟で足元を固める必要性が強まった。

 ♪ しあわせは 何処にある 探しながら ゆこう 果てしない旅だけど 笑いながら ゆこう
      ・・・・・・・・・明日の楽しさを 語るとき このくちびるに 勇気が 湧いてくる 湧いてくる ♪。

1706:アジア杯

アジアサッカーの頂点を決めるアジア杯は劇的な日本の勝利に終わった。場所は18年前に”ドーハの悲劇”と言われ、ワールドカップアメリカ大会の出場権をかけたイラクとの試合、1点リードをしていた日本がロスタイムに痛恨の同点ゴールを入れられ、ワールドカップに出場できなかった。その同じドーハで行われた今回の大会は、決して楽な闘いでは無く、展開いかんによっては予選敗退で終わった可能性も充分あった。主力選手の怪我、それに各国の選手もヨーロッパや南米で皆プロで活躍、レベルの格差は殆ど無い、でも終わってみれば日本チームの結束と試合ごとにチーム力が高まり素晴らしいゲームをやってくれた。
 控え選手の活躍が見事あたったというのもザッケローニ監督の力であった。就任して間もない期間で、これだけのチームを作り上げた、日本中が彼を監督に迎え誇りに感じている。あの信頼関係はどうしてできたのか?

 久しぶりにスカットするニュース、若い人達のスポーツでの活躍が目立っている。活躍の場をどんどん海外に求め、武者修行よろしく単身で踏みこんでいく。今やなんでもそうだ、日本だけの限られた社会で解決できる問題はない。グローバル化と一言で言われてしまうには、そんな単純なものではない。
 経済学者だったか政治学者だったか知らないが、「これこそ日本の歩むモデルになる」と偉く評価していた。私の従弟にIBMに入ったものがおり、先日久しぶりに会って話をした。もう35年にもなるから、それ相応の立場にいるようだ。小さい頃、よく土浦に来て虫や竹の子を掘って遊んだ間柄、 最近の彼の仕事はプロジェクトで動くと言っていた。どんな?IBMのコンピューターを入れたお客さん(企業)に1カ月〜3カ月位入る。富山に行ったり全国を飛び回る。当然海外もありだ。豊洲にある本社には、殆ど行かないで仕事をする。
 そのプロジェクトも金額を聞いて驚いた。その責任者として動いている。
 私と一つ違いだから、定年後どうするのか?聞くのも野暮と思って聞かなかった。スカイツリーが良く見える自宅のベランダで立ち話、「福ちゃんの仕事は定年がないんだな・・・」これをどう解するか。
 その日は土曜日、平井大橋から土浦まで高速で1時間で帰ってきた。
 今後、益々日本は海外との関係が重要になる。そんな時、またしても、審議拒否とか言って国会が異常事態、どうした日本、恥ずかしいぞ!最近、国会議員の顔を見ると避けて通りたくなった。よく何かの会合で壇上で紹介される先生達、そんなのに来なくて良いから、真面目に審議しろよ。
 チュニジアから口火を切った政権批判は、瞬く間に広がってエジプトが酷い状況だ。あれだって1国の内政事情と言う事ではない、大国が絡み、その利権闘争だ。いつの時代にも同様の争いごとが絶えない。国と国の争いは何が緩衝材と成り得るか?
 今回のアジア杯で対オーストラリア戦で決勝ゴールを入れた李忠成は4年前に日本国籍を取った在日韓国人、彼が日本代表として優勝の立役者ヒーローとなった事は、我々日本人にとっての多くの教えをもらった事に間違いは無い。

1707:根回し

植栽で根回しというものが如何に大切か?根の周りを大きめに土を掘り、崩れないように縄で縛り、その状態で新たに移す場所に植える。当然、時期や水の管理は重要だが、木の成長に欠かせない根っ子が長年かけて土に馴染み栄養を吸収してきただけに、根を丸裸にしては駄目にしてしまう。これは常識だ。
 ”根回し”という比喩的な表現、これもまた、何か事をなす場合に実現しやすいように、あらかじめ周囲の各方面に話を付けて置くこと。同類の意味を持つ”画策”とは違って、陰湿性はない。人事管理は組織としての成否に大きな影響を及ぼす、だが定型の方法は有り得ない。つまり、常に変化し一定では無いのが人間という生き物だから、こんなはずじゃー無かったとかこの人間をなぜ登用しなかったと言う反省は常に起こる。
 今回のアジア杯での日本チームは優勝という結果で全てがプラス評価になった。監督の采配に対し、選手各々が期待に応えた。代表選手になって試合に出場できないものもいる、鹿嶋アントラーズの岩政が言っていたこと。先のワールドカップに選ばれたが、彼は一度も試合に出る機会がなかったという。その悔しさを噛みしめ、彼は考えたという。自分の役目は何なのか?彼はバックの要、身長が190センチに近く長身でゴール前の攻めに対し、空中戦にはメッポウ強かった。
 その自分の特徴を今回のアジア杯では充分発揮した。
 これは、数ある評価要因の一つ。選手各自が自分の役割を認識して、控えであっても常に集中し出番を待った。
今回、各試合でヒーローが変わったが、決して彼らは自分が自分がという慢心は無かった。謙虚かつ冷静であった。そして、次なる目標に向かって気を引き締める。
 暫くは、日本中が勝利の感動の余韻にひたることだろう。一方目を転じ、国内の政治を見ると、予算審議ひとつとっても、ピントのズレを感じてしまう。正直、上塗りを繰り返しているとしか私には映らない。土台が腐っているのに、表面を繕うとしても直ぐに剥げ落ちる。
 予算審議を拒否した野党への反発もあった。しかし、どうだろう?何か腑に落ちない。今まで相当の時間を割いてきた政治とカネの決着、冤罪という問題が新たに持ち上がり、国民の願いとは別次元で司法の場で白黒つけるという。
 政治家としてのモラルはないのか?民主党に私が一番不満なのは、自らの党内の問題をひた隠し、世論を隠れ蓑にして本質を曖昧にしていることだ。どれほど実力があるのか知らないが、何故ホンネを言えないのか。
『疎にして野だが卑にあらず』これは石田禮助の生き様だ。明治人間の気骨というのか、私は城山三郎の筆からしか知らない伝説の人だが、三井物産〜日本国有鉄道総裁という要職をこなした。”卑”という意味は、行いや態度が下品であること「いやし」と捉えれば、彼はきっぱりと卑にあらずと否定する。これは私利私欲に走らないということだ。
 政治とカネの問題は、実は司法の場で潔白を証明するとかしないとかの次元では無い。公人としての生きざまの問題なのだ。権力を振りかざし、身を隠したり、急にインタネット番組に出演するなど、全く国民の目線と噛み合わない。
 折角、民主党に期待した人達が、喉元に刺さった魚の骨みたいなものを取りたくて苛立っている。
 時間がかかるのかもしれない。しかし、菅さんが野党の抱き込みをやればやる程、もっと足元をしっかりしろよという見方が強まる。その決断ができないのであれば、・・・・・・粋がれば粋がる程、自らの首をしめることになるだろう。
 結局は有権者の問題になるのだが、まだまだ日本全体が他人事、人任せの人間が多過ぎることは不幸だ。

1708:待てば海路の日和あり

”待てば海路の日和あり”  じっと待っていればいつかチャンスが巡ってくる・・・・そうね、昔から人はそうやって苦しみを耐えてきたんだよな。英語で言うと Eberything comes to him who waits.類語に”果報は寝て待て”ていうものもあるよね。
 そこなんだよな悩む所は、尚恵学園の仲間たちを見ていていつも思うこと。彼らは本当に待っているんだよな。待っていてeberythingがやってきたかね?教えてくれよ!
 不思議なんだけれど、どんなに障害が重くたって本能的に分かるんだよね。家族会が近づくとね気分が高まり、いつもと違った行動をする。急にお喋りになったり、動きがおおくなったり、それぞれだ。でもな、待ち人が来ても、また直ぐに別れる。これを何年も続けているんだ。私たちは、それを脇で見ていて正直つらい。だってそうでしょう。彼らはじっと我慢して待っているんだから。
 そこで思う事。私たちが目指す方向って何?分かるんだけれども掴めない。自立とか共生という言葉で言うのは簡単だ。そこで智恵を出し合って考えた。GHとかケアーホーム、名前なんてどうだっていいんだ。小人数で地域で住む。これもな正直に言うとね。施設よりまだマシかという選択、でもリスクは大きいね。手薄な支援で一体何が出来るって言うんだい。中途半端なんだよね。
 よく、福祉関係者って言うのは利用される人の気持ちを自分達が良いように代弁します。働いている姿は生き生きとして凄いとかね。でもね、働くだけが人生か?って言うんだよ。
 自省を込めて思うんだ。仕事に合格点をもらうとなるとね殆どの人が一生修練ってことになるんだよな。
 余裕というのか遊びというのかそれが2の次になってしまう。
 職員を見ていると、一生懸命な人ほど自分の周りに高い壁を作っているね。そして深刻に悩む。なかなか遊びの関係が築けない。怠け者とは違う。一緒に楽しめる関係っていうのかな。
 いよいよインフルエンザの到来か!職員で何人か出てきた。もう時間の問題だろう。これは毎年この時期に繰り返していること。折角できた流れがまた寸断される。予定が末定となる。
 確かに日常の生活はそれ自体に大した意義を持たなくとも時間は過ぎ、なるようになるしかない。悔いの無い人生ってあるんだろうか?利用者の皆さん、その家族、スタッフ。。。。彼らが一様に願っていることって何だろう?「安心」?
 昨日は衆議院の予算審議がテレビ放映されていた。政府側がどうも押され気味だったと思う。質問もいろんな人が入れ替わったからごった煮のようだった。あれで一歩前進するのだろうか。自公政権の末期から今に至るまで、取りあえず式の対応が増え過ぎたと感じる。言葉では抜本改正とか言うけれど、いつの間にか一部改正となっている。
 有権者の票の動きに過敏になり過ぎていませんか?国民目線を掲げる事は決して間違っていません。でもね、できもしない事を約束するから言い訳に苦労することに。じわりじわりボデイブローが効いてきた。目の前のニンジンを語るのは得意だけれど痛みを説明することが逃げ腰、昔のことをどうのこうのいくら言っても駄目だよな。責任を果たすということは今をどうするかということ。それが揺らいでいるからね。
 これで待てば海路の日和が来るのかね?船を出す穏やかな天気になるのかね?
 でも日本丸の一番の問題は、実を言うと天気じゃー無いんだよね。目的の港が見つからない事だというんだから話にならん。
 私は経済学には素人だけど、常識で解るんだ。議員誰もが経済最優先を唱える。それで何が変わった?安心が得られた?違うでしょう、競争や格差が増えたという現実にぶち当たったわけですよ。昨日のテレビ中継だけで判断するのもどうかと思うけど、あれではあまり期待できないね。与党も野党も緊張感がまだまだ無いもの。外野の議員の表情で解る。ヘラヘラまだしてる。あれなら、夜でも審議すりゃー良いんだ。勿体ないよ。その抜本改正を誰も提言しない。

1709:名札

道でKさんとすれ違った。その時、彼は小さな紙切れを私に見せた。よく見ると『作山』と書かれた名札だった。そして自分の手で腰のあたりを指差す。どこで見つけてきたのだろう。名前が書かれている小さな四角の紙。
 瞬間、頭をよぎる。そうだっけな、作山さんが腰の骨折で今、入院しているんだ。Kさんと作山さんは寮は違う。あまり接点はないのだがどこかで情報を得たのだろう。Kさんは言葉がない。だが、本当に周りの出来事を良くみている。
 彼と私の会話(?)はいつも草刈りの仕草、これは私に伸びてしまった草を草刈り機で刈りなさいと言ってくるのだ。「やるから、心配すんなよ」と言うと「フウーーン」とか言ってしかめっ面される。これを通訳してみると「ウーン いつだってそうなんだ、刈る刈るといってやったことねーだろう!」と怒っているのである。でも私が草刈りをしているのを見つけると
寄ってきて「フン」とか言ってニヤリ。多分これも「やれやれ、やっと始めたか、いま すぎ飽きるからな」という意味のようである。
 名札の話だが、彼はその動作をする時に寂しそうな顔をした。
 集団生活のマイナス面が最近強調され過ぎていると思う。でもどうでしょうね。人間一人では生きていけないし、仲間がいるから元気や勇気をもらうって事あるよね。好き嫌いは当然あるでしょう。だからと言って集団を最初から認めない風潮もどうかと思う。
 いま思い出した。今年の新年会に私の隣になった、Iさんが私に話しかけてきた。一本一本指を折りながら、名前を挙げた。その時もビックリした。彼女があげる名前は全てが既に亡くなった仲間の名だった。
 普段、何気なく暮らしている人達が一緒に過ごした仲間をあれだけ正確に心に留めているなんて凄いよね。
 最近の福祉の流れがどうも一方に偏り過ぎていると思う。制度や予算獲得に血眼になって、当事者がどこかに置かれている感じ、審議会などだってそうだ。自分が自分がと言う人間が多過ぎる。多分彼らはどこかに当事者の意見を代弁しているという思いはあるのだろうが、意見を言ったからといってその責任を問われる事はない。言いっぱなしなんだなや。
 さて、菅さんどうするんだい。大分、野党に妥協している答弁が目立つんだけれども、イラ菅で攻めの議論をしている時のほうが溌剌していたね。いま、何か総理の席にいても落ち着かない感じに見えますね。
 私はお気の毒に思っている。”敵は本能寺”ではないけれど、身内への気配りもしながらだものな。戦後の様々な仕組みが”金属疲労”状態になっているんだよな。目に見える傷をいくら応急処置していても、やがて大きな破壊に至るって感じかな。官が大きくなり過ぎた事が一番の問題、制度や仕組みを変えることは、実は官の仕事量を増やす特効薬、だからどうです。やればやる程面倒で複雑な事になるってことばっかりだ。
 もう少し、簡単明瞭にできないものかね。
 日本は人口が多過ぎると思う。だからと言って東と西に分けるなんて発想はありませんよ。まっこのまま行く事は無いだろう。多分、日本の信用度、国力への評価は今以上に下がると思う。それでいつそれを深刻に国民が感じるかって問題だ。今は感じていない者が多過ぎる。どうにかなるさという冷めた目だ。
 でも、いざ落ち始めた時に慌てても駄目だわな。そこで生き残る連中は、第1次産業の生産者だと思う。特に農業。
 食べるものを自分で確保する。これが一番強いわけ。いまからでも遅くない。籠城覚悟でやるしかあんめー。
 

1710:研修会

今月20日(日)に法人と家族会共催の研修会を開催します。ゲストにドイツ在住の横井秀治氏を迎え、ドイツでの障害福祉の事情を私との対談という形で行うことにした。彼には昨年、職員研修でドイツでのグループホームの話をしていただいた。今回は第2弾ということで特にテーマを定めず、私が質問をし、それに自由に答えていただく形にした。
 息子さんとの生活は一言では語り尽くせない。彼自身、言葉のハンデイは25年ドイツに住んでも今もあるという。その中で息子さんがいたからこそ今の自分があると断言する。障害者を特別視するのではなく、人間として自立はどうあるべきか?そして私共法人が掲げる”共生”の意味・・・・など。限られた時間だが家族や職員の前で対談する。
 この企画の狙いは、『一緒に考える』という事である。お互いが言いたい事も言えない関係で良い仕事はできない。疑問を感じたら解決する努力は不可欠だ。日本人に蔓延した、他人任せ、責任逃れという流れをいつまでも放置できない。
 それだって人の所為にしていることだ!という私への批判は覚悟の上、何かアクションを起こさないと流されてしまうという不安を恥ずかしくも無く曝け出したい。
 最終的には国の明確な方向付けが必要だ。ただそれまで指をくわえ待つということでは如何なものか!
 国が駄目なら県、それが駄目なら市・・・・それすら駄目だったら尚恵学園と家族で足を踏み出すことしか無いじゃないか。
 職員一人一人に私は問い続ける。貴方たちは何をどうしたいの?と。家族の一人一人に問いたい。皆さんは我が子にどうあって欲しいんですか?勿論、先ず第1番目に利用者達は一体何を望んでいるのだろう?
 腹の中を曝け出して一緒に考える。これが肝心要、そして、恐ろしくも限りなく続く問いかけである。
 できることならば地域の人々と一緒に考え歩むことができれば最高だ。しかし、現実はまだまだ壁がある。我々も遠慮があるし、地域の人達の関心もどうだろう。ただ有り難いことに、温かな視線を感じている。これだって55年の歴史あればこそ。
 背伸びしたって駄目だ。一歩一歩ゆっくりと。
 
チラシ
研修会・・・・・・ドイツで考えた事・・・
              横井秀治氏と理事長の対談

日時:2月20日(日)午前10時〜12時
場所:尚恵学園 コスモス 参加:家族・職員・その他自由