NO | テーマ | 月日 | NO | テーマ | 月日 | NO | テーマ | 月日 | NO | テーマ | 月日 |
1511 | 復元力 | 6/28 | 1516 | できる人 | 7/3 | 1521 | なんとかなるさ | 7/9 | 1526 | 価値観 | 7/14 |
1512 | 人の評価 | 6/29 | 1517 | 親の思い | 7/4 | 1522 | 共通するもの | 7/10 | 1527 | 谷間への配慮 | 7/15 |
1513 | パスワーク | 6/30 | 1518 | 時流を読む | 7/5 | 1523 | 燃えるもの | 7/11 | 1528 | 岐路の判断 | 7/16 |
1514 | 清涼感 | 7/1 | 1519 | 前向いて | 7/7 | 1524 | 原因検索 | 7/12 | 1529 | 貞観政要 | 7/17 |
1515 | 去就 | 7/2 | 1520 | 意気阻喪 | 7/8 | 1525 | アジェンダ | 7/13 | 1530 | 同床異夢 | 7/18 |
1511:復元力
「今度の日曜日、お線香あげに行きたいので本堂を開けておいてくれますか?」という女性の方からの電話があった。 「大丈夫ですよ」と答えると「ありがとうございます。宜しくお願いします。」という丁寧な返事がかえってきた。 日曜日の約束の時間、午後1時に6人程で寺にやって来た。「お線香上げさせて下さい。」 そのうちの一人が「○○園の園長先生は来ましたか?」と尋ねてきた。まだ来ていないと伝えると少しガッカリした様子を見せ本堂の納骨棚に向かった。 お参りが終わって帰ろうとした時にお目当ての園長さんが急いでやってきた。私は良く知っている方で向こうから挨拶に来てくれた。 支障が無い程度に紹介しよう。私の寺にお骨を預かっているのは3人の子供たちの父親で一番上の子は頑張り屋で卒園後、国立大学に入り、2年生からは特待生で授業料免除、成績優秀、卒業後直ぐに国立武蔵野学園の養成所に入り、現在は静岡県にある自立支援施設で職員で頑張っているという。今日は父親の命日だった。 高校卒業まで3人兄弟は事情があって養護施設での生活を送った。そして父親が亡くなり、園長から頼まれ私の寺でお骨を預かっている。既に10年以上が経っている。 皆さん久しぶりに園長先生と会って、おしゃべりに花が咲いていた。園長さんが後で教えてくれた。 預けているお骨は自分の父親のが古いほうで他の方は違った名前になっており、多分お墓を作って埋葬してあるみたいだから、私達もお金を貯めて早くお父さんをお墓に入れてあげたいと話していたという。 今回は一番上の子が結婚し、まだ歩けない子供も一緒に連れて来ていた。その事も園長さんに報告したかったのだろう。暫く客殿でおしゃべりして帰っていった。 今までにもこの兄弟は良くお線香上げに寺を訪れている。父親のお骨の前にジュースやお菓子がいつも置かれていた。感心な子供たちと思っていた。詳しい事情は知らない。 私はなんだか知らないがとても嬉しくなった。勝手な想像をしてみた、若い頃には子供達は多分父親を憎んだに違いない。何故、親と一緒に生活出来ないのかと、私は敢えて園長さんに聞かなかったが母親はどうなっているのだろうか?多分、3人の子供たちにとって父親以上の存在ではないのかもしれない。結婚し子供をもうけ、その報告に来た。でも実母の事は兄弟から一言も話に出なかった。 家族の絆を一番大切にしたいという暗黙の了解を兄弟達から充分伺える。 本人達に関係の無い理由で親子離れ離れに生活することを余儀なくされている多くの子供たちがいます。素直に育って欲しいと願う気持ちは施設の職員誰しもが持っています。 でも全てでは無い。一生親を恨み続ける子供も実際にはいる。不条理な差別や扱われ方に心を閉ざし無言で抵抗する子供もいます。 しかし、そんな子供たちが何かの切っ掛けで変わることがある。多くは人との出会いによる。この兄弟は素直に育っている。鬱積した感情が強ければ強いほど、それを乗り切った時は大きく飛躍する。それは事業に成功するとか有名人になることを言っているのではない。内面的な心の動きにである。(復元力) 父親のお墓が出来るまでという約束でお預かりしている。なんか知らないがいつまでも本堂で預かっていたいような気持ちにふとなった。 *人間は、嘘をつく必要もない関係が一番安心できるんだわな。ありのまま・何も飾る必要もなく、そうありたいものである。 |
1512:人の評価
人の評価ほどいい加減なものは有りません。サッカー日本チームの岡田監督への評価が全く違ってきた。最近は岡田さんと親しくしている人もメデアに登場し、誉めたたえます。勝負の世界は勝ってナンボなんですね。確かにゲーム中の采配や試合前の選手を纏めていくことは大変な仕事です。それが勝敗次第で全てを変えてしまいます。 今回のワールドカップでの好カードで私が注目したのは英国とドイツの試合でした。因縁の対決で過去何度か対戦があっていずれも90分では決着がつかなかった。その試合でイングランドの2点目(同点)が幻のゴールとなった。VTRを見ればハッキリとゴールしていたものを審判は認めなかった。試合後の英国監督の敗戦の弁、もし得点が認められていれば後半の試合の展開は確実に変わっていたと。 様々な競技でハイテクを使った判定が取り入れられている。もし、サッカーに写真判定を導入したらどうなるか?サッカーは運動量が多く、流れを大事にする競技、微妙な判定を写真で行うとすれば試合を一時中断せざるをえない。 するとまた別の不満が出るだろう。人間の判断は人への評価と同じ完璧ではない。そこに面白味があると言えばそれも然もありなん。 スポーツの醍醐味は人間が行う所にあるとも言える。スポーツでの勝負に疑惑が生じるともう論外だ。相撲界を大きく揺るがしている野球賭博、協会としての方針が中々決められない。以前も八百長疑惑があって一騒動があったではないか。いま51の相撲部屋があるという、そして約1000人の相撲取りがいる。一連の不祥事で世間の眼は大変厳しい。この騒動の最中、名古屋場所を開くか否か?私は中止すべきだと思う。相撲道は土俵の上での真剣勝負、土俵は伝統を重んじ神聖なものである。塩で清めてから勝負に臨む、一部の人間のした事かもしれないが、神事である以上、思い切って場所を止めるべきだ。鎮めの時を置くべきだ。 業界の膿を出すという。果たしてこれも言うは易しだ。 中止することで関係者への影響が大きいという。もし、1から出直す覚悟があるのであれば、相撲協会が損害を補償すべきだと思う。当然、協会幹部の給与減額分も補償に廻すことが条件でしょう。 話は変わる。昨日ある写真集が届いた。筑波山と霞ヶ浦周辺のお寺を撮ったもの。88ケ寺を選び写真集にしたもので装丁も立派なものであった。私の所は49番目に紹介されている。様々な宗派の寺が選ばれていて、その寺の半分位しか私は知らない。 四国や西国などの札所は有名、今でも多くの参拝者をよんでいる。今回の88ケ寺がどのような基準で選ばれたのかは知らない。 数多い寺院の中で選ばれなかった寺も多い。目立つ寺もあればそうでない寺もある。私はどちらかと言えば静かにひっそりと建っている寺が好きだ。何か自分の人生とダブらせるものを感じる。 しかし、他人の眼はそうではない。アイツは目立ちがり屋でなんでも引き受けるという評価もあることは承知している。 その程度のことであるから風評に振り回されることは全く無い。今晩、パラグアイとの試合の結果次第でまた評価が変わりますよ。予想2対1で日本勝利。ガンバNIPPON! |
1513:パスワーク
日本チーム、、よーくがんばりました。胸を張って帰って来て下さい。PK戦まで持ち込んだ貴方達のピッチでの姿は日本中に勇気と感動を与えた。本当にお疲れさまでした。貴方達に奢りを微塵も感じなかった、あくまでも挑戦者たり続けたその下向きさに好感を持ちました。 そして、今朝のスペイン×ポルトガルは屈指の好カードという前評判通り、サッカーの真髄を堪能させてくれた。特に目立ったのはスペインの見事なパスワーク、成功率82%という確立でパスを回す。無駄な動きは無く運動量と質の高さは頭抜けている。 選手のポジションのバランスとパスを出す側の状況判断、次の展開を予測したプレーが随所に見られた。これが世界の頂点に君臨するスペインのサッカーだ。個人の技量があって出来る事ではあるが、自分が自分がという思いを感じないチームプレイの強さがあった、ポルトガルも屈指のチームだったが、スタープレイヤーのロナルドに頼り過ぎた感は否めない。できることならこのスペインと日本が戦う試合を見たかった。 日本チームの今回の飛躍の一因には、外国でプレーする選手が増えたことがある。彼らは様々な経験をし他人のせいにできない自らの責任の重さを知っている。だから黙々と努力し自分より優れたプレイヤーを駆け引きなしで認める。これこそスポーツスピリッツ。 例の如く私の我儘を許していただければ政治をその反面教師と見てしまう。政党政治って何?駆け引き・足の引っ張り合い、今の日本の状況を出来る限り冷静に見たとしても納得できないことばかり。参議院選挙に入ったにも関わらず盛り上がりを全く感じない。与党の元幹部が現執行部を有権者の面前で批判して良い気になっている。これを許す側も問題あり。少し黙っていてくれと言ったではないか菅さん、それがどうだ。あちこちで自らの仲間を批判して廻っている。これは見苦しい。不快度100%。 多分、このままでいけば民主党は分裂せざるをえない。彼らにその勇気が有るか無いかであるが。それだけの気骨をもっている人間がイマイチ少ない。むしろ自民党が細分裂した状況のほうを評価する。不満があるなら離党して言えよ。 彼らは自分の常識で世の中が動くと考えている。そこに状況判断の不味さと決断力の無さが見て取れる。 ワールドカップの余韻を楽しむどころか現実に目を向ければストレスの温床となる。この不完全燃焼はどうしたことか!当に日本全土梅雨の真っ最中、高い湿度で蒸し暑く、クーラー回しっぱなしで不健康な時間をすごす。 最近、少々疲れ気味。あい矛盾する自分が顔を出す。政治なんか無視しろよ!と盛んに嗾ける。他人のせいにする自分を認めたくない。 日本をサッカーグランドと見た場合?果たして状況を見て的確なパス回しをしているか?多分、ボールを全員で追い回し、空きスペースを作り過ぎている感じだわな。 そうそう・・・・。ゴールさえ見えずに蠢いている状況でしょうね。目標が定まらないから、相手の足を蹴ったり、審判の眼を盗んで肘鉄を食らわしている。レッドカードを貰っても退場しない。当に泥試合・・・・・・・ どうするニッポン!頑張れニッポン。 南アフリカに行ってみたい。ブラジルとスペインの試合が見れれば梅雨が明けるかもしれませんよ。南半球は冬だもんな。 |
1514:清涼感
爽やかさは演出してできるものではあるまい。何気ない内にその気分に浸るというもので琴線に触れると同じ類のものだろう。昔懐かしい場所を通ると急にその時の事を思い出し、自然と涙が溢れる、そんな経験ありませんか? 人の寿命は生まれ落ちた時に決まっているとか、これだって実は確たる証拠はない。自らの死から今を見つめる逆順の発想である。残されたものにとって死の悲しみを乗り越える為の便法? 自分の今をどう見るか?これが実に難しい。人間は人との関わりをゼロにすることはできないでしょう。すると相手と自分という対比が起こる。世の中の大半がこの関係で成り立っているといっても過言ではない。これが実にややこしいのは相手が変化するということ、どこの何時の相手か?こうなると何がなんだか分からない。 現実はこの曖昧な相手との格闘に心身共にすり減らして生きてしまう。 そこで仏教は”無”や”空”という観念を持ちだす。実体の無い常に変化するものに惑わされてはいけないと。坐禅を経験された方だと直ぐに分かっていただける。目を半眼に開いている。完全に眼を閉じることはしない。そして、止どめも無く浮かぶ雑念を否定しない。そこに止まらない拘らない。実際には否定の否定を繰り返す。静寂の中で座れば尚更だ。 そこに考えられた方法が呼吸を整えること。吸う吐くに集中して雑念を避ける。これだけの事ができない。 只管打座、只管座ること。つまり、繰り返し行う過程を大切にしている。もしも雑念を振り払う事に一瞬でも成功したとしても、次の瞬間にはドッと様様な思いが浮かんでくる。 毎日、座ることで何が得られるか?これに対し”何もない”と回答する。なーんだ、それじゃー意味ないじゃん!と考える者多し。 そこで逆質問、「お前は 何のために生きている?」と。一瞬、答えが出せない。座る意義を求めながら、自らの生きる事の意義を知らない。これが実態ではないだろうか。 そして人間の持つ尺度は相手や過去の自分との対比ではかる。豊かさや幸せは一定では無い。周りから言われて納得することでもない。 その点”清涼感”は本人自信の感情だ。誰がなんと言おうが・・・・ 禅問答のように分かりづらくなりました。反省反省。 それじゃ、エステや健康ジムを考えてみましょうか?これこそ今の時代を表すものはない。痩せる為のサプリや健康器具、何もこんなものにお金を使わずとも食べなければ太らない。これ一番の特効薬でしょう。それができない。立派なことを言っても所詮はこのレベルなんですよ。人間という生き物は。 それで納得されていれば別に構いませんがね。 それと油田の流出事故、以前として食い止められていないという。これはアメリカの問題だけじゃー無いよね。ハリケーンが襲来したら汚染が更に広がる。 核の拡散防止の問題しかり、全てが「何のために生きている?」かという全人類向けの問題提起&警鐘ですね。 そこで自分は何ができるか? そうね、先ず余計な物は食べないこと、それと”清涼感”、ここから始めています。 |
サッカー日本代表が帰国した。大変な歓迎を受け記者会見、当然、目立った活躍をした選手に質問が集中、代表に選ばれたが試合に出場できなかった選手にとっては複雑な思いだろう。これは仕方が無いことで自分を選ばなかった監督への不満を言うべきではない。 今後どのように身を処するか去就の関心が高まった。この大会が選手生活の節目になることは間違いない。ただ年齢や体調によって今後どうするかは皆違う。サッカーでは背番号10は特別、チームの核になるべき選手が付ける。今回は中村俊輔、何故か試合出場のチャンスがなかった。それも1試合だけ26分間だけ、彼の心境を察することはできない。 ただ、その他の選手の活躍の陰に埋もれてしまった感は否めない。決勝T常連組のフランスやイタリアが予選で姿を消した。この一因として若返りに失敗したことを挙げるメデイアも多かった。 勝負に勝つためには選手の起用が大きくものをいう。そして試合日程が混んでいるワールドカップでは個々人の体調と気力の持続をはかるのが難しい。結果が全てである競技だけに監督の責任も重くなる。岡田さんの今後の去就に興味がある。 事を為すためには責任が付きものである。期待が大きい程、失望も大きい。だから去る決心をする絶好のチャンスは自分が旬な時に辞めること。それが出来ないのも世の常だ。 私は株はやらない。此処に来て俄かに雲行きが怪しくなってきたようだ。景気の2番底を危惧するものもある。その要因は様々、複雑に絡み合って投資家の思惑につながる。株価の変動は強大な機関投資家の動きに左右される。だから素人が深入りすることは避けるべきでしょう。これも一つの判断である。 私が読んでいる地方紙に毎日のように市町村での事業仕分け記事が出ている。現政権が行って評判が良かった2番煎じ?ただ仕分けすることが目的化していて、その後どうしたかが見えてこない。結局、どこもかしこも財政状況を考えれば無駄を省くことが優先されて当然だ。しかし、庶民感覚とのズレが埋まらない。議員定数の減に言及し、実行に移した自治体が殆どない。この点に関するメデイアの集中報道を期待する。国政選挙の公約で強く訴えている政党は少ない。 この辺は相手の様子伺いで実現したくない本音が見えてしまう。 表と裏、本音とタテマエがここまであからさまになれば有権者の選択は実質ゼロに等しい。 大分前の話だが、某議会での議論、議員活動にはお金がかかる。これ以上経費を削られたら誰も議員になる人がいなくなると。その時思った、議員定数を減らす特効薬は先ず報酬を減らす事だと。それで割に合わないと思う議員は選挙に出なければ良い。これも去就の判断だ。 綺麗ごとをいくら並べても実行が伴わないならば去るべきなのだ。これはサッカーと全く変わらない常識。 それとチームがどれだけの選手を抱えられるかチームの財政状況と見比べるわけでしょう。金欠病にあるチームは高額選手を放出する。これは議員をどのくらい雇えるかという目安と大差ないことだ。 いずれ私も身を引くことを考える時期が来る。その時までに後ろ指さされず後の人達が困らないようにしないとまずいわな。 |
1516:できる人
”アイツはできる!”と周囲に頷かせる人はいるものです。どんな人? 自分の意見に明確な根拠を持って、実行に移せる人だ。其の場しのぎで、口から出まかせを言うものもいる。斯様な人間は問題外。しかし、集団となるとどうも後者の類が多くなる。 ある方に言われた。「言いたい事」はだいぶあるようですが、「やりたい事」を聞くと口をつぐんでしまう・・・・。「できる事」を問えば答えられないそんな「考えない職員」であってほしくない・・・・・・と。 見事に言い当てられたと感心などしていられない。昔風の言い方をすればトップダウン&ボトムアップ???職種に関係なく老舗という所ではそこに関わる人間が「考えない人」に成り下がっている傾向がありやしないか? 事業の継続には、確たる方針と関わる人間の弛まぬ努力が不可欠・・云々。全くその通り。だが、それがどうすればできるの?悩み多いことだが避けてはなるまい。 不言実行・有言実行・不言不実行・有言不実行・・・言うは易し。願わくば不言実行の集団であればこれに越したることはなし。 また、冷静沈着な評価ができるか否や?感情で動き、好き嫌いで評価することが無いか。 私のささやかな経験談、月10本以上の会議に顔を出したことがある。ご多分に洩れず、会議の進行次第にそって話す内容まで書かれたペーパーを渡される。 ・・・・「意見なし」の場合・・・事務局案を提示し意見を問う・・・・・ これは実に妙な話、意見無しで意見を問う???? そこで出席者の人数にもよるが私が議長を行う会議は出席者の全てに意見を言ってもらうことにした。つまり、多くの会議が事務局の用意した流れで進む。前年度との比較でどうするか?抜本的に見直そうというような改正意見は出にくいようになっている。だからシャンシャンしゃん、1時間足らずの会合でも「長時間にわたり慎重なご審議誠にありがとうございました。」という進行ペーパーを読む。 これが実態となれば大なり小なり、変革は難しい。変革には困難が付き物、踏襲は手間暇がいらない。 尚恵学園もこの業界では老舗の分類になっている。だがここに大きな落とし穴がある。「考えない人間集団」 先輩が範を示し若手を育成できるか?ぬるま湯にどっぷり、疑問や提案が上がった時に「あっつそれね。前にやったけど駄目だった」などと「にべもしゃしゃりも納戸口」となっていないか?良ーく考えてみな。 これやっといてと頼まれた事を返事だけでやらずじまいとなっていませんか? 言いたくは無い、でも、誰が言うというのか! 有言不実行の人間の頭数がいくらいても世の中はまわらない。組織のトップの力量であってそれ以外の理屈は負け犬の遠吠えでしかないだろう。以上。本日はここまで。起立!礼。 |
1517:親の思い
昨日は施設を利用されている親達の会合に参加しました。土曜日ということで出席率がどうかと心配しましたが、やはり委任状が多い集まりとなりました。 この集まりは自立支援法の開始後、間を置かずに急いで組織されたもので、発足後3年余が経ちましたが、まだ全国で入会されていない県が半分ほどあります。茨城は関東地区では1年遅れで組織し、全国の協議会に即入会したのです。 この3年を振り返ると政治に翻弄され続けてきた感が強くあります。それに各県の温度差はかなり大きく、今もって組織の体をなしていない状況が見受けられます。一部の熱心な人達が膨大な情報を集め、それを交換しながら、団体としての要望を国にあげていこうとしています。しかし、実体は大変難しいようです。 それは茨城県の状況からみても分かります。総会での出席者が少ないように、どうしても様子伺いで誰かがやってくれるだろうという待ちの姿勢を強く感じています。茨城はそれでも他県にはない特色をもっているようです。それは育成会(在宅)や施設との関係が良く、共闘の条件が揃っていると言えます。妙にギクシャクした関係はありません。 障害福祉の中で特に知的障害の福祉を考える際に考慮しなければならないこと、それは誰の為の要望かということです。当人の本心、事業所の思惑、家族の事情など微妙に違うのです。これを纏めて一つの方向を出す事は、一部の人達の努力ではどうしても限界を感じます。 発信力を強めるためにより過激な行動をとってしまう。すると、一般の人達からは怪訝な顔で見られる。その繰り返しをやっています。 少数派の宿命とでも言うのでしょうか?ちょっと手を休めると埋もれてしまうのです。私は施設の立場でここ数年の動きを見ていて大きなウネリには成りづらいと感じています。所詮、他人事なのです。 国連障害者権利条約の批准にしても複雑に枝分かれした団体の意見を纏めることの難しさがあります。 いま、国は総合福祉法という括りの中で障害者福祉を考えていこうとしています。障害者差別法や虐待防止法など他法との絡みもあって成立までの作業量は膨大です。我々末端の現場は、部分的に流れてくる情報に一喜一憂、先が読めない状況に立たされています。声の大きな意見が通るということではない。それよりも先ず関係する人達の本心の話し合いがどう持てるかということが最優先されるべきだと思います。 |
1518:時流を読む
今日明日と東京での会議に出席する。全国から施設長が集まり、分科会に分かれ討議する。私が出たい分科会は決めている。果たして現状の認識以上の新たな展開が望めるか。情報社会が進み、いち早く流れを掴んでいたいという強迫観念、しかし、実状は1歩進んで2歩下がる。また、早めの情報を得たからといって正直どうってことはない。鼻先のニンジンを奪い合ってどうする。私のスタンスは終始一貫している。 今の世の中は、シンポジュームなどが多過ぎます。他より優位性を保つために刺激的で話題性の高い人を集めて討議する。でも正直確かな情報ではない。あくまでその方の得た知識の範囲。幾多あまたの一つである。そこを履き違える偉い失敗をする。 細胞分裂と同様に様々な組織に分離し、消えてはまた新たな形で生まれる。この繰り返しをしている。だからだろうか?先のことだけに目を奪われると肝心の足元が崩れる。このような不確実な時代にこそ、自分の立つ位置を揺ぎ無いものとするべきだ。 私の原点は仏教的社会事業、自利利他の実践行・・・・これで充分だと思っている。それを様々につくろい飾るものだから複雑になりすぎ焦点が暈ける。昨日テレビを見ていてあれっと思った事がある。普段、温厚で冷静なコメントをする藤原という東大教授が珍しく不愉快な表情で感情をむき出しに話した。各党首が一堂に会しそれぞれの政党の言い分を言い合う演出、どういうわけか菅さんは欠席、枝野幹事長が党を代表して答えた。その枝野氏への藤原先生の諌言。 要は今まで野党時代に貴方達が強調してきたことが政権を取ったことで変えるのかという事だった。 つまり、消費税云々の迷走、これに関しては民主・自民の言い分に大きな違いは無い。選挙中に税金を上げるとはどの政党も言いづらい。協議することは必要でしょうという苦渋の言い訳、しかし、野党はそこに噛みついた。貴方達が政権公約した無駄の除去はどうなった?財源の捻出は? 次のどこかの番組で河村名古屋市長の奮戦記、此方の方がよっぽど分かり易い。議会の透明度は雲泥の差、名古屋市議全員が議員定数削減と報酬半額に猛反対、1600万の議員報酬を800万にせい!と市長が議会に上程、3回否決された。果たして国会の場で具体的にその点に関してどこかの政党からか出されましたか? このホンネとタテマエを誰だって可笑しいと読み取る。国民目線という言葉が虚しく響く、そして選挙戦に入った。単なる数を取ることのためだけの公約ならばこれほど国民を愚弄したものはありません。 いま、私はアフガニスタンに関する資料を調べている。9日に24名が視察に来られる。私に何かを話せというメールが中田先生から届いた。NHKBSでアフガンの特集を放送する。間に合わない。 そこで私が考えたのは寺の本堂で受け入れようと思っている。アフガンにはバーミヤン仏教遺跡があり、残念だが過去の紛争で破壊されてしまった。 それと首都カブールで超豪華な建物の存在、その大半が軍人と官僚のものだという。そして、日本の援助による特別支援教育関係者の研修受け入れ。 ペシャワール会代表の中村哲医師の報告を聞けば、作っても作っても壊される。灌漑用水工事は砂漠化した大地に緑を蘇らせる。国民の望むこと、国がやらんとすること。 この辺の逆問い掛けをしようと私は目論んでいる。 |
1519:前向いて
久しぶりに東京フォーラムでの全国施設長会議、2日間にわたり盛り沢山の内容だった。いつもなら夜は茨城の施設長達と一緒に会食し情報交換?の機会を作った。でも今回はイマイチその気分にはなれず、友人と話すことにしたが電話をすると今回は内容が無いということで参加しなかったという。私は今回是非とも聞きたい分科会があったのだが彼にはそうではなかったようだ。何しろ彼の情報網は違う。結論の無い話をいくら聞いても無駄だという。結局、一人でホテルに入り、いつの間にか寝てしまった。 2日目は昔の友人とバッタリ会場入り口で会い、ずっと一緒に研修に参加した。お互い年を取ったもので40年にもなる前の話で盛り上がる。 昔を懐かしむ中で共通した思いは、今の若者の意欲の無さだった。自分から学ぼうとか新たな事をやろうとする気力を感じない。彼が言うにはそうなった主な原因は、先輩たる我々の責任だと言う。確かに制度の不備や自分達にとって利となる主張は声を大きくして騒ぎ立てる。しかし、やっていることがチグハグで、そこを若い人たちは良く見ているということだった。(一例:介護職の処遇向上補助金これを活用したか否か?調査してみると良い。) 菅先生や中村健二先生、妹尾先生は今はもういない。多分嘆いているだろうという。確かに当時は全国に名を馳せた先輩達が理論と実践を我々に惜しげもなく示してくれた。その一字一句聞き洩らすまいと必死にメモをした。それがどうだろう?利用者の福祉と言いながら何か素直に受けとれない違和感を感じてしまう。何故なんだろうね。自分が自分がという思いが強過ぎないか?それにあけっぴろげでない。秘密主義? 福祉の世界にも競争してレベルアップを図るという構図がいつの間にか定着してしまった。これはちょっと可笑しな方向に進んだなと感じる。誰もが安心して暮らせる世の中にしようという思いと合わない手法ではないだろうか?一人勝ちしてそれがなんだと言うのか!この点に関しての明確な回答は得ていない。 このような会議に出ると自らの事業の規模や充実した設備を誇る人はいくらでもいる。そう言いながらも人材確保が難しいと一様に嘆いている。矛盾していませんか?そして人材が集まらない事は世間のせいにする。昔は違いました。この人の下で学びたいという連中が自然と集まった。いま職場の定着はおろか就職を希望する者がいない。もし集まったとしても強い事を言えば直ぐに辞められてしまうと恐れる。これは相撲協会の弟子養成と同根だ。この変わり様は重症だ。時代の病理、人間の脆弱性と言える。 しかし後戻りはできないから前を向いて只管歩むしかない。我が業界に雄弁に話す能力は然程重要で無い。むしろ朴訥とした話し方であるが人間味溢れる人材が必要だ。人間味は実践からしか生まれない。知識ではなく智恵だ。 今回非常に気になったのは発言者から自棄に横文字が多く出る事だった。お前ら日本人だろ!知ったかぶりすんな!そう怒鳴りたくなった。 こんな報告もあった。いま行われている制度改革推進会議の中に知的障害の当事者代表でたった一人選ばれている北海道のTさんが、会議で話されている内容が自分には良く理解できないとこぼしたという。確かに限られた時間しか無いから早口で意見を言う人達が多い上に横文字を並べるものだから彼にとっては理解するのが大変だったと思う。そこで彼はイエローカードを持つことにしたという。今話されていることが上手く理解できない時はそのカードを上げることにしたという。彼はそれでも自分がカードをあげると話の流れが止まることを頻りにきにしているという。 このことが如実に示している。分かっていると決め込みその前提で話す人達が多い。これもバリアー(失礼横文字だった)の一つでしょう。気づかない壁です。業界専門用語(?)でなくとも一般の人達には到底理解することができない内容が話されているようだ。 制度の福祉を突き詰めて行くと複雑で分かりづらいものになる。これは多くの人の意見を取り込もうとするから当然予想できた事。この傾向は止まる事を知らずドンドン激しくなるでしょう。 今、 膨大な資料を読み解くだけで辟易する。新しい法律が作られるまでに果たして誰もが分かるようになるのだろうか?誰もがという言葉が重要だ。財源の壁は国民の同意が絶対条件、分かり易く皆さんが賛同しえるモノでないと実現は無理だ。 今回の当事者が制度作りに参画するということはとても良い事である。法制度の谷間を埋める試みも大切。しかし障害種別によってそれぞれの特性がある。それへのお互いの理解があって初めて同じ土俵にたてるものであり、まだ入り口の所でお互いが探り合っている段階かもしれない。 |
1520:意気阻喪
昨日は新しくできた特別養護老人ホームの開所式、私はそこの役員になっている。高級住宅街という触れ込みで開発された地域でゴルフ場のような街並みが整備され素晴らしい環境の一角に建設された。 ”意気阻喪”本来、喜ぶべきところ私の気持ちはくじけそうになり元気がない。これ私の偽らざる気持ちなり。 同じ福祉施設でどうしてここまで違うのか?全室個室でユニット型、敷地は然程広くは無いが2階建てで白壁に赤瓦、スペイン風の見事なものだった。 前庭からの眺めも良く利用される方達もさぞ満足することだろう。理事長と暫時雑談、「住田さんの所はたいへんだよな。壊しちゃうもんな」そうなんですよ。理事長は当園の嘱託医、健康診断には毎回来てくれる。我が尚恵の実状は百も承知、。 私は来賓で来られた県の方と話した、茨城県内に今年1年だけで今直ぐ施設入所を希望している方が1000人以上いると言う。50名の施設を毎年、幾つ新設しているのだろうか?現在特養だけで県内には170強有る。種々のサービス事業所を合わせれば1000か所以上あるという。今回オープンした施設規模仕様でモロモロの経費合算で約十億円???? 一体、どれだけの費用が積算されているのだろう? 一方、同じ社会福祉施設という分類で我々の知的障害施設、この実態はより深刻だ。私としては決して認めたくない所だが、障害施設で知的と精神は地域にとって歓迎できない施設となっている。これを偏見とか差別とか言うのは簡単だ。しかし、地域と喧嘩して開設した所は、ずっとその軋轢を引きずっている。何故か?どうして? この想いを一時も忘れたことがない。日本中が今後何十年かの間、増え続けるお年寄り、この受け皿としてハードソフト両面での経費負担ができるのでありましょうか?共倒れになりやしないか。 ある方と話をした。「どうです?入所の予約でもしたら」と冗談で言うと「・・・・」首を振った。その真意は分からない。でも私だっていくら立派な設備のホームであっても入所はしたくない。だってそうでしょう。私は良く出て歩いているからホテルを利用する。確かに豪華で快適なホテルがある。でもそこに泊るのは精々2日で充分だ。 今の日本の状況は公助と共助が曖昧模糊としています。未成熟というべきか。 できれば自分の住み慣れた家、地域で生を全うしたい。もし寝たきりになった時、果たしてそれが可能か?誰しもが自己選択以前の大きな不安がある。望んで可能な社会では無いからだ。 さて、ここで老人福祉論を述べるつもりはない。何故、福祉施設が種別によって格差が有るかという問題。これは理想論ではなく現実論として。尚恵学園を利用されている人達はどちらかと言えば障害の重い人達である。彼らは決して本意ではないのだが、奇声を発したり時に乱暴な行為をする。利用者同士の些細なトラブルは日常茶飯事、この梅雨時期は室内でばかり過ごしているとその状況が顕著になる。 モノを壊す人もいれば、自らを傷める行為もある。この人達が静かな住宅街の一角に居を構えることは現実に厳しい。これが実態だ。私は自分の無力を痛感する。もっと快適で自由な生活を利用者にしてもらいたい。切に願う。 実際は後手後手の対応で、それすら充分ではない。 先の東京でのシンポジュームで発言者の一人は身体障害の当事者で某団体の事務局長、彼の話を聞いていると理屈では頷けるが現実とのギャップを感じる。一例をあげよう。 ”自己決定”という捉え方、セルフマネージメントを彼は主張する。自分が望むサービスを自らが提案するという。しかし、障害の重い知的障害の人達が現実にそれが可能かどうか?そこで言われるのが”支援付き○○”という便法である。 支援者は一体誰がなるの?家族・施設職員・行政???その仕組みが老人介護と比べできていない日本。 ただ、いかがでしょうか?先人の血のにじむ努力があって今がある。一般の人びとの理解は以前として浅い。これが我々 関係者の努力のみで実現できるか? こんな事を考えているものだからだろう。晴れの席に一人蚊帳の外といった感じ。前途多難!課題山積!強気に弱気!攻めて駄目なら引いてみな!・・・・・意気軒昂なれば良いのだが立ちおおう気分は意気阻喪。表裏一体・一寸先は闇、これが人生!演歌の世界だ。♪ ♪。 |
1521:なんとかなるさ
雨になる前にと思って草刈り機で作業を始めた。明日、遠方からの客人を迎えるには私流のマナーとして気になっていた、そこに携帯電話が鳴った。「いま、どこにいるんだよ?」という。車はあるようだが留守のようだしというMから、裏で草と奮闘中というとやってきた。なんとSちゃんを車イスに乗せ押してきた。一瞬誰かと思った。それからミニ同窓会、Mは実に心の優しい男だ。Sちゃんの為に車イスを見つけてきてそれに乗せて寺までやってきた。居て良かった。 竹林があるから、蚊が多く、急いで蚊取り線香を私が持ってきた。何か飲むか?と言うと「コーヒー」というので冷蔵庫から冷えているものを適当に持ってきた。Sちゃんは同級生の中でも一番の働き者、手広く事業を行っている。 私にとっても同級生で一番長い付き合いだ。それが今、車イスの生活、最初なんと声掛けしてよいか分からず、一人では間が持てずMを誘って会いにいった。Mも同じ、必ず私に電話を入れてくる。 冗談を言ったり、なだめたり、励ましたり・・・・小1時間のミニ同窓会は夕方になったので閉じた。 「なんとかなるさ」と言おうと思ったが声には出なかった。 「なんとかなるさ」というのはNHK連続番組の「ゲゲゲの女房」の中で出た話。水木しげるの女房のドラマ。ご存知のように水木は戦争で片腕を失くし、終戦後漫画を描く、その貧乏生活が実に面白可笑しく演じられる。貧乏神が住みこんだという発想もユニークだしそれ以上に彼のお化けへの拘りがすごい。 最近、本人自身がテレビに出る事が増えた。先日の遠野での撮影は実に面白かった。民話か実話か分からない、そんな思いに彼を観ているとなる。 極貧生活に「なんとかなるさ」と楽天的、それを支える女房も女房、この二人三脚が今の世相に何かのヒントを与える。 苦境に立たされると大体人間はそこから早く逃げ出そうと焦る。家に住み着いた”貧乏神”みたいに自分から出て行ってもらうまで待つというわけにはいかない。 今の政治を見ていると何もかもがその場凌ぎで根本的な解決に結びつかない。余裕がないと言うのだろうか? 鶴見俊輔の「想い出袋」という本を読んでいる。その中に一つのヒントをみた。 いま日本中が右往左往している。でも少し大きな流れで考えてみなと彼は言う。黒船が浦賀沖に来た当時からすればどうか?長い鎖国で全く外の世界に疎かった小国で貧乏な国だった日本。それがあれよあれよという間に最初から勝ち目の無かった米国と戦争に突入。戦後の復興、この間の日本の歩みは他に類がない。 超高齢化という問題だって、長生きできるからだ。医療や教育が進んでいる揺ぎ無い証。 でもそれを問題と見る。これは日本人の心が狭いということ。年寄りが増えれば時間を充分もっている人が増えること。 それをどう活かすか?この発想が浮かばない。右向けば一斉に右を向く。 いま、尚恵学園ではスプリンクラー工事を行っている。なんと3度目である。以前設備した機能では駄目だという。そして莫大なお金を投資してスプリンクラーを付ける。前の設備でも一度も作動させた事が無い。 我々として危惧することは、もし設備を新たにしないで火災が起こった時の責任問題だけ。 制度と業界の癒着(?)構造がこんな所に見え隠れする。だからかもしれない。外観を豪勢にする福祉施設が増えた。 結局、利用者が自ら選ぶのでは無くて事業者が利用者を選ぶことになる。どのような立派な建物を作っても一夜の内に壊してしまうような利用者は利用を拒否されます。これを貴方はどう見ますか? 実は私の中に矛盾がある。今日はアフガニスタンから22名、当園を見学にくる。そのための草刈りを理事長自ら汗塗れでやっていたではないか! でもこれは別です。おもてなしのこころ!というものだから。 |
1522:共通するもの
アフガニスタンからの皆さん JICA事業22名 (7月9日) 写真 |
お国柄というものは実に複雑で難解である。俄か勉強で知ったかぶりはしないことだ。どういう訳か尚恵学園はJICAとの繋がりができた。最初は南米4カ国からのお客様、そしてアフガニスタン、今回で3回目である。22名を受け入れた。戸惑いが無いと言えばウソだ。職員は夜遅くまで紹介パネル作りをしてくれた。それと限られた時間でどのように案内するか工夫していた。そして久しぶりのハンドベル”プー”の演奏、みんなできる限りの歓迎をした。 遠方から来られたお客様に上手く通じただろうか?いつも同じ紹介しかできず、その事を責任者の中田先生に伝えた。 「ありのままで良いです」といつもの回答がメールで送られてきた。それと今回は仏教の話を私にして欲しいと添え書きしてあった。そう言われても困ってしまう。私は中東には行ったことはないが、宗教に関しては微妙であること位は分かっている。「構わない。時間をかけタップリと」後でそうかこれは先生特有の私に対する気配りだと後になって理解した。 それをまともに受けてしまう私のノーテンキぶりはどこかの誰かに似ている。 いつもは平服でお迎えしたが、今回は作務衣に袈裟とハイテンションを自認する。仏教をどうイスラムの人達に話をすれば良いか? 理解しやすい坐禅(真言宗では観法)を一緒にやってもらうことにした。どうぞ皆さんもと勧めたが実際に座ってくれたのが4〜5人、通訳の方が何故やらないと尋ねると「祈りか?」と言う。「違います。皆さんに禅を体験してもらいたい」と私が説明すると嫌な顔をして拒否された。理事長さんのお話の最初の躓き。堂内にはシラケ鳥が飛び始めた。 「チェンジだ!」ガラリ内容を変えた。・・・・・結果は言いません。英語が全く分からない人達という事を前もって聞いておくべきだった。私なりに英字で20ページの説明資料を作って配った。これもオジャン。 どんな人達がメンバー?アフガニスタン文部省の役人さん。大学の先生、それと現場の教員の皆さんだと知った。 多分、慰めでしょうが、つくば在住のアフガニスタン人の方が流暢な日本語で「個人的に今度来て良いでしょうか?娘も一緒に」ホッとした瞬間だった。その後予定通りの見学をされて帰っていかれた。次は大阪や京都に向かうと伺った。 国事情は外から見ていても分からない。2800万人の人口で多民族国家、宗教は大半がイスラム教、そのうちパシュツーン人が全体の4割を占める。民族同士のイザコザも絶えない。パキスタンとイランの間に挟まれ、近年、超大型の銅鉱床があることが分かっており、ずっと他国(大国)からの侵攻の歴史を重ねている。世界中で一番キナ臭い地域と言われる。 政治も日本の比では無い。そのような国で障害者への特別支援教育をどのように進めようとしているのか!2ヵ月足らずの日本での研修の一つに我々が関われることに喜びを感じてはいるが、そんな単純な事ではないことは承知している。先に紹介した中村哲先生の事を尋ねると皆さん知っていると言った。日本人の全てが先生みたいではない事も彼らは知っている。決して口には出さないが、経済の豊かさを傘に我が物顔で世界に手を広げる国民という警戒心が彼らにはあるだろう。 我々から見て宗教の怖さをテロや紛争と直結して考えがちである。しかし決してそうではない。彼らは宗教に安心を求めている。この世の安心だけではなく次の世での安らぎを、中村医師の本にその事が書かれていた。アフガンの99%の人達の願いは、家族と一緒に過ごせて3食を共に取れることであると。残りの1%の特権階級の人達が富を独占し贅沢な暮しをしている。 この大いなる矛盾が内包している。いつもそうだが外国の客人の表情が和む時があった。それは利用者さんと接する時、言葉などいらない通じ合うものがあるのだろう。アフガンでも障害を持つと言われる人達がいる。彼らが何か国の再生に大きな力になってくれるのではという気持ちになった。 |
1523:燃えるもの
我々が知らない世界で様々な事が起こっています。これだけ情報社会になった日本ですら私達の眼に入らない出来事がある。メデアの責任というよりも情報の受け手側の問題だと思います。自分に都合が悪い情報には耳を背ける。このような時代だからこそ人との繋がりが大切だと思う。でも、兎角自分に擦り寄る人達を周りに侍らせる傾向がありませんか? 今日は参議院選挙、全く燃えるものを感じません。各候補が訴えることに内容を感じません。公約を途中で何度変更しても罪悪感を感じなくなった政治は、末期の症状です。最初からできない事を掲げるからだ。その憤りが国民の中に充満していることすら彼らは分からない。情報音痴そのものです。 明日への言葉というNHK深夜便の番組を久しぶりに聞いた。カンボジアから日本に移り住み、自分の体験を本に書いた人が出演していた。その名は久郷ポンナレットさん、日本人と結婚し20歳と高校生の子供さんがいる。彼女の悲惨な体験はポルポト時代の虐殺、6人の家族が殺され、自分は10歳の時に日本に渡り、様々な事があって今は幸せな家族を持つにいたった。そして、今やっとその時の体験を平和の語り部として語る決心をし本を書いた。 早速、アマゾンにその本を注文、届くのを楽しみに待っている。 彼女の言葉に真実味を感じる。各地での講演活動で彼女は最初に「皆さん、生きるために命をかけたことがありますか?」という問いかけから話を始めるという。そして自分が今の日本で見えるものを語りかける。カンボジアは仏教徒の国、90%以上が仏教を熱心に信じている。争う事を最も嫌う仏教国に起こった30年程前のポルポト政権、これだって日本人には他国の出来事、大部分の人の記憶から消え始めている。 あまり将来を悲観することはどうかと思うが、今の日本は余りにも将来を軽視している、目先の事を追いかけすぎていませんか。そんな事を言うお前に何が出来るというのか? 自問自答しているだけで年を重ねてきた反省がある。 盆近くなると毎度のことだが、既にもういなくなった人達の顔が浮かんでくる。会わせる顔が無い。 せめて、自分だけでも納得できる生き方をしたい。様々な服を着こんでしまった自分はフットワークが極めて悪い。少しずつ身軽になる努力もしないとなるまいな。 そして、本心から燃えるものに専念すべきだ。 言うまでも無く、それはそこいらに有る思いつきなんていうもんじゃありませんぞ。今かかわっている事は次なる人間に任せ、身を軽くすればできる。 これぞ、自己責任・自己決定だ。根拠の無い心算だが後10年という時間が勝負かな。 |
1524:原因検索
ワールドカップ初優勝のスペインは凄かった。世界ランク2位という実力は確かなもので、延長戦で惜しくも敗けたがオランダも実力は互角、どちらが勝ってもおかしくは無かった。スペインのサッカーは新しい時代のサッカーで最先端をいくものだと言う。確かにパス回しが早く、相手にサッカーをさせない。ボール保有率が高く、相手に攻撃させない。逆襲に対しても守りが固く、なかなか相手に得点させない。またオランダとの大きな違いは反則の少なさ、これも他のチームと比べ突出していた。無理な動きはせずともボールのコントロールができる技術の高さだ。 南アフリカ大会も無事終わった。内容のある試合が多かった大会である。 一方、同じ夜半に参議院選挙の速報番組、此方は選挙前の予想と大差ない結果となった。民主党が大きく(10名)議席を減らし、その分、自民党とみんなの党が増やした。 選挙制度の関係で1人区での自民対民主の対立構造は避けられない。その中でみんなの党の大躍進が今回の選挙の大きな特徴だった。 全体の投票率はもっと高くなるのかと思ったが、前回とほぼ同じ58%に至らなかった。これは有権者の責任だ。二人区に二人候補者を出した民主党は結局、複数当選はできず小沢前幹事長の夢は果たせなかった。選挙前から中央からの強引な割り当てに対し地方では不満の声が燻り続けていた。 敗戦の原因を菅総理の消費税発言が大きかったという人がいるが、果たしてそうだろうか?一つの理由にはなるかもしれないが全てでは無い。むしろ鳩山・小沢の前執行部にNOを突き付けた有権者が菅政権になっても同様の判断をしたとみるべきだ。どうして政治家は誰かに責任をなすりつけ、自らの足元の反省は後回しにするのだろう。理解に苦しむ。これはサッカーというスポーツと決定的に違うところ、決勝Tの第1戦それもPK戦で日本は惜敗した。PKをミスした駒野の責任を問うものはいない。その違いが何故起こるのか? この辺の感情は政治への期待よりはサッカーの勝負の厳しさに大多数の国民が共感している証だ。 日本を代表しているという自覚の違いが決定的だとも言えよう。選挙結果に対し、民主党内部から執行部を批判するような議員が出る事は言語道断、当初心配した寄せ集め政党の綻びが出始めたか?日本をどうしたいのかという大義はどこかに置き忘れてしまって自らの利ばかり守ろうとする。 以上が私のまっさらな原因の検索であります。 近年、日本での訴訟問題に一つの傾向を感じます。明らかに相手に非がある場合はいざ知らず、恩を仇で返す事案が増えたように思う。教育や医療現場での訴訟に目立つ。その結果、保身を強め厄介な事は拒否する傾向がどうしても増える。 福祉現場もまったく同じ、苦情処理という事に振り回されすぎていないか?サービスの買い手と売り手に微妙なズレが生まれている。 この状況は避けられないものだろうか?家族の責任が社会の責任と置き換えられ、そこで家族の絆や信頼が失われている。相手の非には厳しく、自分に甘い日本人が確実に増殖している。 この問題の原因検索が実に厄介だから、皆さん避けて通ろうとしています。そうじゃありません?総合福祉法の制定以前の根本的な問題だ。 |
1525:アジェンダ
みんなの党の渡邊代表が盛んに”アジェンダ”という言葉を使う。マニフェストが流行したと思ったら、その言葉がイメージとして約束を守れないという代名詞と化してしまい、新たなロゴ?として掲げた。その意味は”政策課題”、確かに公約となれば公にした自党の約束だから、当然チェックされる。 政策課題:行動計画は意志の宣言だ。上手い事考えたものだ。政党名を『みんなの党』と実に分かり易い名前にしたかと思ったらアジェンダ?。一体何語だい。行政改革や議員改革を主なる課題と掲げ、経済優先の政策を図ると言う。巨大政党に自らがいて限界を感じて飛び出した連中だ。その分民意を良く解している。全く私と同じアジェンダだ。共感している国民も多いはず。しかし、これからどこまでやれるか真偽の程は定かでない。 世の中が多様化した価値観で進んでいる。事の良否を決めつけることが敬遠されている。これって自由を履き違えていませんか?先週の日曜日、ある方の1周忌法要があった。まだ若いのに突然亡くなった。40名程集まっただろうか、その中に何人かの子供がいた。皆さん「こんにちわ!」とはっきりと挨拶する。礼儀正しく好感がもてた。多分、親の躾だろう。それに亡くなった方は元々茨城の人間では無かったが会社の都合で移り住んだ。葬儀には多くの人が集まった事を思い出した。それは地域や友人達だった。新しい住宅街で子供たちの祭りを始め、世話役をすすんで行ったという。 その人柄が早かった死を多くの人達が悲しみ見送りに集まった。 人間は死によって全てが終わらない。その人の生き様や人柄が後々まで生きている。例え墓に埋葬されたとしても必ず残された人のどこかに生きている。それは正しくDNA+想い出がそうさせる。人との出会いや数々の思い出を糧に生き続けることができます。忘れてしまうようなものは大したことではない。鮮明に記憶されている事が有るはずです。 それを大切にすることでしょう。礼儀の正しい子供たち、これは普段の生活を通して自然と身に付いたもの。変わるものではない。 政治家に言いたい事がある。貴方は何をもって自らの立つ位置としていますか?全てが借り物のような綺麗ごと?これでは相手の心を動かすことなどできません。アジェンダ!マニフェスト!私はどちらでも構わない。名前も考えも分からない議員が多過ぎる。これこそ無駄である。議員数3割減、実行しろよな!先ず国会から範を示せ。 果たして今の日本の置かれた状況に心底危機感を持っている議員がいるか?私はいないと思っている。それより次の選挙に自分が当選できるか否か、最大で唯一の関心事ではないか。怒りを通り越して。。。うーーん。憤死寸前だ。 相撲界と同様に総理代行でも置けば? 有権者は良く見ていますよ。生活が掛かっているからです。仕事が順調であっても一寸先は闇です。 相も変わらず私はこのような事を書き続けています。いい加減にしろよ!ともう一人の自分が攻める。 でも何かが有るはずだ。そう思うと更に熱が入る。言わなきゃ分からんでしょう。やらにゃー仕様がないっす。 *昨夜通夜があった。タクシーがトヨタのSAI というハイブリッド、県内で第1号の車だという。プリウスの上位車だから私の車とはちょと違って豪華。燃費を尋ねる。「7キロぐらいかな?」「そんな事無いでしょう。私のは21キロ優に走りますよ」 「だって住職よ。今日もう7時間もたっているのに走った距離は40キロそこそこ、後は待機だもんな」 この不況のなかでタクシー会社は生き残りに必死、低燃費の車を導入しても利用する客がいない。この実態を見過ごすわけにはいきません。そこに来て消費税騒動?これって真意は分かりませんよ。でもね、国民の怒りは、お前ら自分のことを棚に上げ何言ってんだ!ということだわな。 |
1526:価値観
今年の梅雨は全国で記録的な大雨となっている。それも短時間に集中して降る亜熱帯型の気候に近づいている。河川や下水は急激な雨水の増加に対応できず、溢れだし、更には土砂崩れ被害が起きている。 梅雨明けが17日頃だというのだが、待ち遠しい。一方ではこの雨を喜んでいるものもある。畑の作物達だ。また、雑草も元気モリモリ、バロネスを使って綺麗にした墓地があっという間に草ぼうぼう。刈った草が栄養となるから、尚更だ。 人の評価程当てにならない。最近の施設実習生をみていると個性的な人間が目立つ。これで大丈夫かなと心配になる学生もいる。宿舎の電気はつけっぱなし、玄関に靴は裏返しにぬいておく。「あのね。昼間は電気を消しておこうよな。」と時々私が見回って注意すると「ハイ」と素直な返事をして直ぐに電気を消す。 この素直さとやっていることのバランズが悪い。以前は利用者への接し方を学ぶことが実習の狙いであった。それがいつ頃からだろうか実習生そのものの生活指導が主になった。 彼らを送り出す学校の苦労を感じる。涙ぐましい努力だ。しかし、実は面白い傾向があるということを担当の職員から聞いた。卒業して社会人としてどうかなと思える学生で利用者さんとの関わりでハッとするような人がいると言う。支援者というよりも仲間感覚で接するんですね。次元が同じというか壁が無いというか。利用者さんの表情が違うんですね。 ついでに最近あった話。行事の一つで小グループ旅行がある。最近、福島の磐梯熱海に行った職員が気が付いたというある利用者さんの変化、彼を連れて行くのはどうかという心配があったようだが、宿泊したホテルはグレードの高いホテル、宴会を行って気づいたという。学園では不満ばかりを独り言で言い続け、食事もすすまない彼が一言も言わず食事を平らげ、ニコニコしていたという。帰ってきてからもその状態が続いているというのだ。 何があったんだろうか?分からない。 私は、そのような話を聞くと嬉しくなる。大体が滑った転んだの報告ばかり、これじゃー面白くねーだろうよ。もっと視点を変えてみろよとばかり言っているがそれすらも嫌になっている。 相手を変えようとするには自分が変わらないとできないと良く先輩から言われた。最初の実習生の話は、敢えて自分が変わらなくてもそのままで通じ合う関係だ。ウーム。できない事だ。ありのままって事かな。 競争社会を煽るようなハウツウ本が書店に並ぶ。いつの間にか新興国や発展途上国など勝手にランク付けし、いい気になっている日本。このバチあたり目が。だってそうだろう。頭脳明晰な人もいるでしょう。顔かたちが良い人だっていますね。でもね、皆それぞれ違って当然でしょう。義務教育だってそうだ、本来は個性を伸ばすことに力点が置かれるべきなんでしょうがエリート教育を是としていませんか?格差を認めず差別している。これって変でしょう。 それと問題とされている引きこもりだってそうでしょう。彼らは好きで引きこもっているんじゃない。そうしていることで必死に闘っている。その視点を持つべきなんですね。 旅行に行って変わったという彼は今までの彼の人生で温泉ホテルに泊った経験が無いんじゃないかな? それとちょっと気になる実習生、彼らだって今まで赤点は何度も貰ったが安心や自信を学ぶ経験がないんだと思う。 障害福祉の要諦は実はこの辺にあると私は考えるんです。 なんら疑問に思わなかった価値観を見直す実践場としての存在です。人間は不自由を感じないと気づかない。失ってみてその大切さを思い知る。これって全てが後手後手の対応だ。他人事として関心が無かったことが突如として自分の身に降りかかり慌てる。そのパターンが実に多いね。 地球は全ての人類に平等に存在する。誰だっけかな、そう言ったのは?それをエゴ丸出しで勝った負けたのと喚き散らす。今必要なのは本来の価値観を誰しもが見極めること、その事が要でしょう。そして、気づいたら勇気をもって実践に移していくその生き方だわな! |
1527:谷間への配慮
法制度の網にかからず曖昧な事態が起こることは避けられまい。司法の場で裁判員制度を導入したが果たして上手く機能しているのだろうか。所詮人間が人間を判断する事、絶対だと言う事は有り得ない。小沢さんの資金管理団体への検察審査会の記事が出ていた。初めて知ったのだが、11人の審査委員のうち5人が8月1日で入れ替わるという。1次審査で起訴相当を全員一致で決めた。7月中に審査を始めることを先延ばしにした。新たな委員が選ばれ2回目の結果が出るのは9月の民主党代表選の後になるという。ここに何がしかの意図を感じてしまうのは私だけであろうか? それはそれとして、私共にとって無視できない事が起こった。障害者の選挙権行使に関するものだ。 今回の参議院選挙の期日前投票で我々の仲間の山梨県にある某施設の施設長が特定の候補者の名前を書いたメモを利用者に手渡し投票用紙に書くように指導した疑いで逮捕された。その後、栃木県で知的障害者を多く雇用している会社の社長が同様の容疑で逮捕された。 日本知的協会からは会長・人権倫理委員会長連名で7月9日付けで注意を促す文章がメールで届いた。正直言って、過去には同じ類の投票行為が皆無であったということは無かったと思う。私の法人は、その事を恐れ、投票所に行くが殆どが白紙投票、中には自分の名前を書いて得意になっている方もいるようだ。 今回、立て続けに警察が動いたことに何かあるのだろうか?これまた私の穿った見方である。国連の障害者権利条約の批准を目指すという。細部の見当がどこまで進んだのか分からない。選挙権行使の具体的な指針なるものが示されるのであろうか? 自己決定・自己選択に対する考え方と障害者差別をどう定めるか、障害の状況によってかなり違う。 選挙に関しては微妙だ。明らかに特定の団体が指示を表明している政党への投票とどう違うのか? 障害者権利条約29条にこう書かれている。 「強迫を受けることなく秘密投票により投票する権利・・・・・を保障する」と。 障害者の権利を声高に訴える一方で人間としての基本的な権利を曖昧に表記している。これが実態である。事業所の管理者の責任ということにせざるを得ないのか。 上記の2件の事件は、実体を明らかにし今後、我々が取るべき方向を示してもらいたい。 “谷間”という意味は、差別用語ではなく、どっちつかずの状況に置かれていることをいう。人間が人間を判断することの難しさに大きく影響される。その判断の決定を誰がするか?障害程度区分そのものが憲法違反という主張と重なる。 更に犯罪加害者への精神判定も微妙だ。我々は過去ずっとこの問題を引きずってきている。ありのままに地域で暮らすという議論の中で、受け手側の地域の実体がそうなっているのか。此処の事業所だけの努力で済まされる問題では無い。我々が対象としている人達は犯罪被害者になる率が圧倒的に高かった。そのような社会から彼らを守るためにできた経緯もある。それがどうだろう?社会から隔離させ、利用者の人権を認めず、利権を得ている悪徳業者ということを公にしているものさえある。 親の権利と義務が曖昧になった時代、自らの判断で生きて行くことが難しい人達がいる。この現実とどう立ち向かうか?他人事として遠メガネで高見の見物することが安全で楽なことは間違いない。 私は思う。谷間にどれだけ多くの人びとが自ら降りていくか?その国家の将来を予測する一番の目安である。 なんて言ったかな?ドイツの水族館のタコちゃん?判定は如何に・・・・・ |
1528:岐路の判断
生の営みには別れ道が付き物、さーてどっちに行こうか迷う。しかし、便宜上なもので選択によって決定的な白黒の違いが生まれるわけでもない。医学界で脚光を浴びる再生医療(ip細胞)は当に自分の細胞からある特殊な培養液で万能な細胞を作ってしまうという。将来の医療に画期的な進展が期待されている。 これと同様で人間の考え作ったものは、常に関係性を持ちながら枝分かれしてきたものが殆どではないか。私から見て良心的な与党の議員が言っていた。「今の日本は国難の状況であり、財政状況は危機的状態だ。与野党関係無く事に当たるべきだ。」今更何をである。これが議員の使命だろう。これ以外に無いでしょう。 でも、これだって何か他人事に聞こえてしまう。今まで何度同じ事を聞いてきたことか。GDPに占める国債発行割合や借金の総額、国の危難をいくら叫んでもその対応策が出ない。出せないのか? 国民に判断させるというのは情報を出し惜しみして都合の良い情報ばかり流して、「これで どうだ!」というかなり乱暴な手法を取ってきた。 最近、目立つ報道は中国や韓国の日本を訪れる観光客、確かに老舗の高級デパートでブランド品を買い求める姿もあるが、全てでは無い。むしろカップ麺や化粧品を買っていく人もかなりの数いるという。この状況はお互い様でしょう。嘗て日本人観光客が団体を組んで海外旅行をした状況も似たりよったり。しかし、外国のメデアはニュースで興味本位で取り上げるような事はしない。それは何故か? 自分たちがそれを望んでした結果ではないのかという事だ。外貨を得る為の様々なPRが功を奏して大挙して押しかけた。別にその事を面白可笑しく取り上げる事が変だ。そんな捉え方をしているのではないでしょうか。 確かに日本人は勤勉で優秀な人が多い。物を作れば素晴らしい製品を次から次に考えだし、世界のトップレベルまでのし上がった。でも物つくりの宿命として、時と共に類似品が出回る。あっという間に追いつかれる。その良い例がIT関連のメーカーで今や韓国にトップの座を譲ったこと。白熱球を日本で最初に作った東芝はその生産を中止し低消費電力のLED電球に切り替えた。その技術がテレビに応用され薄型テレビのシェアーは急拡大しているという。日新月歩の世界、その企業のトップ判断が雌雄を決する。これもまた事実だ。 グローバル化した時代の特徴として、一人勝ちを許さない構造がある。純粋な日本資本の企業がいまあるのだろうか?上場企業の殆どが外資を受け入れ、その資金で経営がされている。 税や通貨レートで自国の優位性を保つことは、長期にわたるものは許されまい。先日、本屋をのぞいていたら「1億 総中流社会・・」とかいう題名の本があった。今やそれを疑い無く認める日本人はいない。格差が広がり、それによって引き起こされる様々な社会現象(病理)が後を絶たない。 心配事や憂うことが増えた結果だろうか、うつ病に罹る人が急増している。 これだって誰しも気分の上下はありますよね。そこを強調するから変になるんじゃないでしょうか。 それとデータで確実な事がありますね。長寿国であること。これは先進国でもトップの座にある。これをどうみるか? 超高齢化社会への対応として様々な論議があります。公私負担の割合は永遠の課題でしょう。でも、長生きをしたいというのは人間の共通する願いでもあるわけだ。 長年望んできたモノを手にしたら、そうでもなかったというのでは、虫が良過ぎる話だわな! |
1529:貞観政要
もう20年も前になるかもしれないある方から頂いた本である。唐の太宗が重臣と交わした政治問答を後の世に編集されたもので西暦626〜649(在位)に当たる。君子の統治力、政治の要として徳川家康や明治天皇が講義させたという。私が頂いたものは呉兢編纂の守谷洋訳の本で読みやすい。何度も読み返した。特に創業と守成いずれが困難かという部分は赤線で何度も引いた。それから諌言の大切さ、何故君子が臣下の裏切りにあって生命をおとすのか史実を元に解説する等。今の時代に全く通じる具体的な話が随所に出てくる。長い中国の歴史で約23年間も君子の座にいて国を統治した例は少ない。その要因は何か! 太宗ですら夜眠れず悩んでいる箇所がある。 ・・・『太宗謂侍臣曰、朕毎夜恒思百姓間事、或至夜半不寝・・・・・』そして寝床の屏風に地方長官(家臣)の名を書いて起き伏しのたびにそれを見ていたという。 これは人材の登用の要の第3章にある。今風に言えば知らないふりをしていても家臣の言動に目を光らせているということだ。良き人材を招致する極意も面白い。これなど現代の福祉職場の人材確保に当に通じること。更に同族経営における後継者の育成に関しても示唆に富んだ箇所がある。 つまり師傅(しふ)の選定が重要でどのような守役を付けるかによってどうにでもなってしまうとある。 1400年もの間、読み継がれてきたものの価値は時代が変わっても決して弱まるものではなく、寧ろ情報が蔓延してしまった今の時代こそ、要を知るには最適な書物である。 ちょっと気になることがある。小泉政権時代に堀江・村上・木村と言えば既成に囚われない新しい経済理論と実践を通じ一世を風靡した3人だ。理論に基づくベンチャー企業、桁違いの金を動かす。それがどうだろう。最近、木村が銀行法違反容疑で逮捕された。3人とも金融の寵児?と持て囃された。その結果3人とも司直の手に裁かれる憂き目にあう。 この3人に共通するものは何か? 頭の回転の良さと制度のカラクリを熟知しているという強み、これをフル活用して頂点を目指した。・・・が奢りと自惚れが目に余った。結果、部下の造反にあう。そして逮捕された時に彼らは自らの責任は否定し部下がやったことだと白を切る。 なんだか他にもこのような方がいましたね。なんでもそうでしょうがトップに立つ人は、時代に関係なく大義と徳を備えていなければなるまい。それと潔い退路。ここに私は日本人の持つ武士道精神の真骨頂をみる。ゴマスリ人間を周りに侍らせ殿様気分、これほど醜い姿はありません。 一般の日本人には、彼ら以上に正義を重んじる良心はあります。ですからね、いずれその裁きを受けることになるはずだ。 それと彼らが本当に恐れるのは司直ではなく内部の人間だ。彼らがいつ反旗を翻すかわからない。夜もよちよち眠れんでしょう。太宗の不眠と全く違う。自らの保身のために眠れない人間はその事によって身を滅ぼす。 桃太郎の話 知ってますよね! |
1530:同床異夢
私は福祉や寺という社会しか知らない。同じ仕事をしていても人はそれぞれ違った考えを持つ。これは仕方が無い事であろう。それから贅沢と言えばそうかもしれない。私は広大な敷地(寺境内)で木々が生い茂る中で生活をしている。いま植木屋さんが入っている。10日以上かかる大仕事、余計な枝を落とした木を見ているとこれから本格的な暑さに向かいホッとしているかに思える。 私と木々は同床異夢?この時期は草との格闘、やってもやっても間に合わず、手伝ってくれる人達がいるから、どうにか寺の体裁を保っている。よく自分で手入れしていた植木をお寺に寄付したいという方がいる。自分では手に負えなくなったというのが正直なところ、でも有り難く頂戴してきたからやたらと植木が増えてしまった。 昨日は来客があり、土浦で唯一つ残った料亭?で食事をした。昼の時間帯にしては満室だった。法事の後の清宴に利用する人が増えているとのこと。玄関は水打ちされ、忙しそうに客の迎え入れをしている。当然といえばそうなのだが庭木の手入れは行き届き、部屋から見える坪庭も見事。ここの主人は5代目とかで、本当は本屋さんをやりたかったという話を女将から聞いた。 いま、本屋さんだったら大変だ。家業を継いでいて良かったねというと料亭もこの不況で大変とのこと。何しろ10軒以上あった店で此処だけが残った。120年の歴史だと言う。 帰る時、玄関で履物を出してくれた方が6代目だという。 新しい発想で店を切り盛りしている。今度、霞ヶ浦に浮かべた屋形船をどうですかと勧められた。 尚恵学園の毎年の目標に『創意・工夫・責任・真心』を掲げている。どれ一つが欠けても問題あり。遅くなったが10月に新体系に移す為の準備をしている。今日は家族会で今後の動きについて説明することになっている。20日から横浜で行われる関東ブロックの研修に大勢の職員の参加希望が出た。1日だけ私も出ることになった。 新たな作業所を年度内に建てる。その起案を現場に任せた。歩みは遅々としているが何か主体的に関わることで感じるモノがあるはずだ。 7月と8月は寺の仕事がどうしても多くなる。檀家の皆さんはありがたい。今朝早く今年最後の梅だといって段ボールに入れた梅を持ってきてくれた。それと大きなスイカを仏様に上げて欲しいと墓掃除の前に届けてくれた方もいる。 住職になって良かったと思う瞬間である。 数日前に尚恵学園に空きがあるかという神奈川の施設から問い合わせがあったという。何しろ400名の待機者がいるとのこと。どうするつもりなのか? 斯様に自分の周辺は目まぐるしく廻っている。同床異夢というより、そうせざるを得ないというのが正直なところである。 |