源究44top

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
485 新年にあたり 1/1 490 憤り&? 1/9
486 夢から覚めて 1/2 491 賀詞交歓会 1/10
487 箱根駅伝 1/4 492 職人かたぎ 1/11
488 歴史の重み 1/6 493 正月11日 1/12
489 不条理 1/8 494 人間の品格 1/13

485:新年にあたり

 2007新年明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いします。
昨年は、自分でも大いに反省することがありました。このコーナーに自分の正直な思いを書いていこうと考えいつの間にか480回ものテーマをランダムに書いてきました。後で読み返してみて、あまりにも批判的な内容が多かったという反省があります。誰でも批判されることを心から喜び人はいません。そのことを充分分かっていながらどうしてという自分への憤り。今年はそれじゃいけない。そう思ってこの文を書き始めました。どこまで続けることができますか?私の偽らざるメッセージということですが、読む人の事まで考える余裕は正直ありませんでした。昨年は榊莫山さんやピンクピクルスというグループを知ったことは私にとって大きかった。それは「お前何のために?」という自らへの問いかけでした。お陰様でアクセス回数も5万回を突破し、どなたが読んでくれたのか分かりませんがカウンターが上がる度に励みになり力が入ったことも事実です。私自身のテーマは一貫しています。それは「僧侶として何ができるのか!」という事です。知的障害のある方との付き合いが自分の時間の大半を占めている中で、彼らが今どう思っているのかということが分からなくなることが屡々あります。そのような時に道標になってくれるのが彼らです。世の中が今まで以上に殺伐とした時代になり、人間愛という大切なことを人々が忘れ去り、世界中の至る所で悲劇が繰り返されることはどうしても避けたい。こんなとてつもない事を考えながら、自らの足元を見つめて出来ることから行動に移していきたいと考えています。今年もどうぞ宜しくお付き合い頂けますように。年頭にあたり。

486:夢から覚めて

2日の朝、まだ夜が明けない内に電話の呼び出し音で起こされた。受話器を取ろうとした時に音が消えた。どこからの電話だったのか?いつもなら朝の5時には起き出しているのだが正月だったこともあり夢うつつで床の中にいた。学園からの電話なのか?一瞬そう思うのは長年の経験がそうさせる。大体夜中の電話で良いことはない。暫く待っていたらまた電話がなった。葬儀屋さんからの電話だった。お葬式が出来たという連絡で無礼を承知の上で寺に電話したという。相手も寝ぼけ声で多分病院からでも電話しているらしかった。仕事とはいえご苦労様だ。
 日本ぐらいかな正月に家族が集まり一緒に過ごすのは、だから各地で道路の渋滞が起こる。オーストラリアにいる娘から昨夜電話があった。向こうでは正月はなんてことないらしい。カウントダウンも期待はずれ、むしろクリスマスを盛大に行う。お国の事情はそれぞれだ。
 私の正月はテレビを見ても面白くない。騒がしいばかりの番組のオンパレード、国民的行事とかいう紅白歌合戦など全く見る気にならない。この期間唯一楽しみにしているのは箱根駅伝ぐらいかなー。今年は本命が無いらしいからハプニングが起こるかもしれない。以前は駅伝にも興味は無かった。それがいつの頃からか学生達が必死に自校のタスキをつなぐ姿に感動するようになった。様々な駅伝があるが箱根だけは別格で面白い。中学時代を思い出す。当時市内の5つの中学の対抗駅伝があった。陸上部が無かった我が中学は予選会もなく野球部が走れということで走った。学生数が一番少ない学校ということもあってか対抗試合になるといつもビリだった。御多分に漏れず駅伝も見事にビリだった。今から40年以上も前のことなのにその時の記憶がはっきりと思い出すのは不思議だ。感動は自らの体験とダブルことで倍加する。だから若い人達には多くのことを経験してもらいたい。そこから自らの人生を設計する力が育つものと思う。

487:箱根駅伝

箱根駅伝は順天堂大学が通算11回目の優勝で幕を閉じた。大分以前だが正月に東京に行った時、読売新聞本社周辺が大勢の人達で混雑していた。ちょうど駅伝が終わった時間で優勝したチームは胴上げで盛り上がっていた。一方シード落ちした大学は道端に座り込んで肩を落としぐったりしていた。駅伝の醍醐味は10人でタスキをつなぐこと、1人でもブレーキになれば瞬時に順位が変わる。選手は20歳前後の若者、彼らにとってのプレッシャーは想像できない。その重圧に耐え得る精神力と体力を日頃の練習でつけるのだから大変だ。箱根に出場する大学はどこも70名を越す部員がいるという。その中でエントリーされるのは10名、出られない仲間はサポートに廻る。毎年、ブレーキになってチームに迷惑を掛けたというOBがテレビにゲスト出演する。彼らはその時の事を思い出すのだろう、涙を流し一瞬声が詰まる。彼らはその時の口惜しさを決して忘れない。偉いと思うのは社会人になってからもマラソンを続ける人が多いということ。その時の口惜しさをバネにして社会にでてから生かしているのだ。
 駅伝が終われば私の正月もおしまい。さーて今年もやるか!正月から歩くのを続けている。昨日は天気も穏やかで大岩田の水郷公園まで行って周辺を一時間ばかり歩いた。大勢の子供連れの家族がタコあげなどをして遊んでいる。霞ヶ浦を疾走する遊覧ジェットの後をたくさんのカモメが追う。舟から餌付けしているからだ。公園にある風車がゆっくりとまわり、遠くに筑波山が見える。なんて素晴らしい景色なんだ。公園にはたくさんの車が停まっていたが、ほとんどが県外ナンバー、地元に住んでいても殆どここに来たことが無い人が多い。私も周辺を歩いたのは初めてだ。この自然豊かな地域を後代に引き継いでいくことは我々の責任だ。湖畔を歩いて気づくことがあった。それは夥しい数の猫がいるということ。殆どが捨てられた猫だという。でもみんな毛並みが良くて太っている。私の家の花子よりもずっと猫らしい。どうしてここで生きていけるのだろう?後で聞いて分かったのだが、餌をそーと置いていく人が結構いるらしい。家で飼えない事情がある人もいるだろうし、それでもこうやって優しく見守っている事を知り正月早々嬉しくなった。家に戻ると我が家の花子はふてぶてしく炬燵の布団にイビキをかいて寝ている。私が炬燵に入ろうとすると迷惑そうな顔をした。

488:歴史の重み

新年の顔合わせを本日行う。理事長が全職員の前で年頭の抱負を話すのです。紙コップに御酒を注ぎ形だけの乾杯をやる。今日は何を話そうかと直前まで纏まらず、手元にあった「風雪30年」という茨城県の施設紹介の冊子に目を通す。尚恵学園のページを読んでいたら今更可笑しいのだが新たな発見をした。尚恵学園は昭和31年の創設ということが頭にこびり付いていたものだからあまり真面目に読んでいなかった。実は実はそもそもの尚恵学園の起源が昭和7年に遡るということを発見したのである。そんなことは父は一言も言わなかった。父が観音寺の住職になって間もない頃だ(20代)。大正大学の研究生という立場にあった父は叔父の住職地の神立に移り住むようになった。当時、農家の若者は教育を受ける機会が少なく、地域の有志が講師になって農村塾『神立農友会』を創ることになった。この取組は当時、全国的に話題となり、映画化された。生徒だった方からその当時としては画期的なことだったと聞かされた。その塾生の中に知的障害を持っている方がいて、彼が塾での生活を通してみんなに支えられながら自立していくことになったという。これなど当に新法が狙っているそのものだ。その後戦争に入り、塾は自然消滅していったようである。私の両親は長男尚一を事故で失い気落ちしていたに違いない。そんな父も寺だけでは生活できないので戦後まもなく茨城県の職員となり、児童福祉司として県南地区の担当となった。母も教員となって生活の糧を得る、当時としては珍しい共働きであった。父は担当地区を廻る中で、在宅で何らすることもなく過ごしている知的障害者の人達と出会った。家族の希望も強かったようだが、なけなしの金で古材を購入し、園舎を建てた。これが「尚恵養護学園」の始まり、昭和31年である。当時、寺の住職が子供達を大勢連れてきては何かをやっているという奇異な目で見る人もいたと聞く。しかし、地域においては戦前の神立農友会という私塾の実践があったから、住職の考えを理解し、助けてくれる人も多く存在したようだ。季節の野菜をたくさんいただいたりして子供達の食費を浮かせるのに助かったと影で支え続けた母が話したことがある。社会福祉法人となる昭和45年までは補助金などなく、利用される家族が月謝として支払うお金と父が県から頂いた給料それにお寺からの収入の大半を学園に注ぎ込んでどうにか継続できた時代であった。今の時代はどうだろう?様々な事業所が県内にもある、居宅支援事業所は1000件になるぐらいあるそうだ。夢のような話である。しかし、その大半は福祉を採算ベースで考えるもの、儲からないと思えば直ぐに店終いして撤退する。尚恵学園はここだけは譲れない。補助金も何も無くて事業を続けてきた時代は「困っている人達がいれば損得関係無しで何かをやる」という歴史。これだけは絶対に譲れない。
 私は施設が必要でなくなる時代が来ればいつでも店終いしても良いと思っている。だが、それがいつになるか全く読めない。スタッフへ十分な給料も払えないし、園の設備も決して満足できるもので無いことは重々承知している。その事を考えると悶々として身の置き場所が無くなる。だが、採算が合わないからと言って必要とする人達がいるのに撤退することなどできない・・・・・そんな事を今日の顔合わせで職員の前で話をした。日本酒がちょと効きすぎたかもしれない。
 良く考えてみたら起源はもっと遡るような気がしてきた。つまり父は自分が2歳になる前に実の父を亡くし、両親の記憶が殆どない。その自分の体験が子供達と重なり、涙もろく、人を恋しがる性分は自分の生い立ちから自ずと身に付いた。85年の一生だった。今年私は57歳になる若輩である。へこたれてたまるか!!!

489:不条理

私の大阪の友人が正月のメールで源平合戦の舞台となった須磨浦から鉢伏山へ登り一の谷へ下りるコースを歩いてきたと知らせてきた。彼は歴史を愛し、その造詣も深く、平家物語に著された骨肉の争いの空しさや惨さに思いを馳せる。山頂で出会ったお年寄りの話を紹介してくれた。80代半ばのその老人は戦争でシベリアに抑留され、多くの戦友を失い、今、ひとり須磨の山上で亡き戦友に般若心経をとなえているという話しだった。源究を書いている時、必ずピンクピクルスのCDを聞く、丁度「1人の道」が聞こえている。・・・・父さん許して下さいな 母さん許して下さいね あなたにもらった ものなのに そんな生命を 僕の手で・・・・・円谷幸吉の叫びがピンクピクルスの綺麗なハーモニーの中から聞こえる。
そして「何のために・・・・」と短いフレーズの中で問い続ける。友人が紹介してくれた老人が年賀状に記してくれた3つの句の一つを紹介したい。
 愚に生きる 事を覚えて 去年今年(コゾコトシ)
国の為に極寒の地で戦って死んでいった多くの人達は、本当に日本の事を思って戦ったのだろうか。そう思わなければ救われない。そして、「1人の道」のこの部分と思いが交錯する。
 大きな夢は ただ一つ 五つの色の 五つの輪 日本のための メダルじゃない 走る力の 糧なんだ・・・・
マラソンで銅メダルを取った円谷がその後 もう走れないといって自殺した。
 今の時代、あの時代の人達の自らの利などかえりみず、必死に戦った執念と対比し安倍首相の「美しい日本」に著された現実と夢が果たして受け入れられるものなのか、その土台にあるはずの先人の叫びをどう受け止めるか?その肝心な点が見えてこない。戦争を肯定する人はいない、だからといって忘己利他の精神で戦った人達まで否定することはできない。 老人が語ったという言葉が耳から離れない。
 私にとっての戦後は一生続くと覚悟していますが、現在の荒みきった日本が残念でならない、死んでも死にきれない
ここまで言わせる我々はどうなのよ!これでいいのかよ!我々団塊の世代はそのような親の生き方を見て育った、そして今その団塊ジュニアの時代となっている。荒んでいると誰もが認めているが、いざ自分が何をどうして良いのかが分からない。私は今その真っ直中で右往左往している。

490:憤り&?

昨夜、気心が合った仲間9人とささやかな(?)新年会を行ったのです。それはそれは2時間半あまりの時間が大変短く感じる程の盛り上がりでして、どうしてこんなに笑い声が絶え間なく聞こえたのでしょう。それでも1対1で話が弾むとお互いに涙を目に潤ませて熱弁をふるうそんな集いが昨晩あったのです。そこの店は土浦では老舗であり、戦時中には吉田茂総理や山本五十六大将も訪れたという由緒ある店でした。正月だからいいかということでちょっと無理してしまった。
 宴が酣になった頃、女将さんが屏風をわざわざ持ってきて見せてくれた。土浦は霞ヶ浦航空隊があって、当時は予科練の学生が全国から集められた、その屏風には昭和19年5月に出陣するという学生が最後の宴をこの店で行った時に全員で走り書きしたものでした。裸の絵を描いたものや感謝とか回天とか逆さ文字で書かれたものがありました。その中に「馬鹿」とだけ書かれたものが下の方にあった。馬鹿騒ぎしていた連中が皆静まりかえってしまった。明日はどこに派遣され戦場に散るかもしれない20歳そこそこの若者がそれぞれの思いを記していたのを見せられたからだ。「馬鹿」という言葉は一体どんな気持ちだったのだろうか?という話になった。多分、戦争は負けるに決まっていると誰もが感じているのに拒むことができない憤り?それから自分達を育ててくれた親への感謝、日本の為にと自らに言い聞かせ、友とも激しい遣り取りがあったに違いない。そんな仲間と最後の1夜をここで酒を飲み交わしたのだろう。63年前のことだ。9人の仲間の中に別格で今年91歳になる中村先生がいた。先生は満州にて戦時中をすごされ、丁度屏風に逆さ文字で書かれた昭和19年5月に赤紙招集になったとポツリと話された。今は豊か過ぎるんだ。あの当時は食べるものなどなんにも無かったし、招集先の宮古島は爆撃を受けて悲惨な状況だったとも。歴史を辿ると様々なことが分かってくる。
 昨日は成人式、例の如く各地で大騒ぎがあったようだ。時代が違えば彼らが戦場に行く年代なのだ。
 折しも今日は水戸で??会という賀詞交歓会がある。初めてだが役目だというので覗いてこようと思っている。

491:賀詞交歓会

この半年は様々な事を経験させていただき深く感謝しております。恒例の正月の賀詞交歓会への出席、県内の有志が一同に会して正月の挨拶をかわす。正直「賀詞交換会」だと思っていたのですが、そうじゃないんですね!「交換」ではなくて『交歓』なんですわね。私の性分でしょうね三省堂の国語辞典でさっそく調べたんですよ。そこには【ふだん余り交際の無い人達が集まって、打ち解けた雰囲気を作って楽しむこと】と書いてありました。実態はというとですね、「ふだん良く交際の有る人達が集まって、打ち解けた雰囲気を作って楽しむこと」後段は当に一部の方には正解、しかし、私など初めての者は「打ち解けない雰囲気の中で苦労すること」でありました。でも役目だから仕様がない、1時間半ばかりの時間の中で充分観察することができました。一つ驚いたのは全国の議員さんの代表が集まって国への陳情をされたそうですがね、それが議員の身分明確化(保障)だということを述べられたんですね。前の方におられた一部の人達からは確かに拍手があったようですが、私を含め大多数の方が「アリャリャー」と腰砕け、これって実態?また、これを見過ごす我々も正直だらしがないわな。
 皆さん「怒れ」と「黙れ」は対句なんですよ?ここで一句
 新春に 確かにめでたい 鏡割り  (字余りでした。また叱られるわな多分。構うもんか俺は坊主だ。弘法大師がついているわい)

492:職人かたぎ

『仏縁ですわな』とある方から言われました。それは素晴らしい言葉だとつくづく感じます。だってそうでしょうが。本当に身近にいてもいつもすれ違いという事だってあるし、たった一度しか会っていなくても旧知の仲だったように思う事もありますからね。そんな事を考えて正月を過ごしていたら『3.5坪』にかける職人気質というものに出会うチャンスがあったのです。茶室を伝統の技法で建築している所に連れていかれちゃってね、当に声が出なくなる現場の風景を垣い間見ることになったんです。この異様な雰囲気はどこらくるのか分からない。九州から単身修行で神奈川の棟梁の元で働いている若い職人さんの姿を見ました。アパートを現場の近くに借りて工事をするそうで、頼まれれば全国どこにでも行くとのこと、今時、珍しいと思ったのです。たかが3.5坪されど3.5坪。少しは茶の事は囓ったのですが、利休の侘びの世界は若かった時には性分に合わず、五十の半ばを過ぎた今、興味が出てきたようです(他人事)。大量生産の部材を使っての建物が主流、確かにローコストの条件をクリアするには仕方がない。太さ五センチほどの曲がった柱を山の中を歩き回って捜す世界は別次元。正月だなーと感じたのは、先日の馬鹿騒ぎの集まりで集合写真を撮ろうと床の間を背に整列、女将が「この床柱は・・・」と二股に別れた柱を「女性を表しているそうなですよ」と一言余計な説明をしたものだから、「アレーそうか」と柱に頬ずりした大馬鹿もの。これまた問題外の別次元。
 職人かたぎ、今大変な話題になっている「国家の品格」(藤原著)昨日やっと手に入った。どの世界にもこれだけは譲れないと意固地になって拘る者がいるものだ。これだって私は「気質」だと思う。均一化された世の中ほど面白みはない。個性的であれ。周りの評価を気にしすぎる世の中になった。その最たるものが政治や官僚の世界だから始末が悪い。そこに早く気づかないと手遅れになりますよと坊主としての脅しをこれからやっていこうかな!「仏縁ですわな」

493:正月11日

新年を迎え今日まで私の日程は100メートル競走だ。暮れには例のノロ騒ぎで職場では大変だった、間に冬の家庭帰省があって小休止、幸い大事にはならずに済んだ。これなどスタッフの努力のたまもの。でもそれだけでは終わらなかった1月になって今日までの10日間に葬儀が四件、新年会が連続四件、さすがに乾杯の席では言えなかったが衣を車に乗せて早めに抜け出した。更に、ドイツからの先輩も昨日徳島に着いたと電話が入った。大阪の友人が一緒に京都で会おうかという。「うん」賛成。そして、埼玉の福祉仲間からは10ページに及ぶ資料がメール転送されてきて、その感想を聞かれている。たった今感想第1弾として送ったところ。
話題を変えまして、実は昨日、急にパソコン教室に入った。それも1時間だけのコース、この1ヶ月前からどこでどうなったかアクセスカウンターが起動しなくなっていた。原因はなんだと本を調べてHTMソースを開いてみてもチンプンカンプン、そこでプロに相談しようと思いつき1時間だけの生徒になった次第、そしたら原因を分かりやすく説明してくれた。さすがもち屋はもち屋だ。今何か気になっていた腫れ物が一つだけ取れた感じがしている。
 良く考えてみたら今年はイノシシ年だ。猪突猛進こりゃーブレーキかけないと偉いことになる。今日はこの辺で止めておこう。

494:人間の品格

”国家の品格”に対抗して”人間の品格”というテーマで私見を述べます。偉いこっちゃー。なんて事はない”国家”も”人間”も同じ事よ。だが敢えてこんな風に考えている。日本人全てが下品なのでしょうか?そうじゃないよ。選挙が有れば必ず選挙違反で逮捕者が出る。この構造は一向に変わらないのは何故なのでしょうか?投票率が以前として低迷しているのは(特に若者にとって)選挙に期待が持てないという諦めからきていると私は思っています。投票しないと罪になり収監されるお隣の国もやりすぎかなと思うが、余りにも投票する人が少ないのは恥ずかしい。
 私はこの一点についてどうも納得できない。それがため尚恵学園では選挙にはなるべく参加するようにしてきた。参加という言葉を敢えて使用したのは、大半が白紙で無効票になるからだ。それでも自分の意志で参加し投票率を上げるには貢献しているのだ。投票所に行くメンバー(利用者)さんを見ていると皆さん意気揚々と喜んでいる。彼らはお金を要求することなど無いし、もしも100万分の1の確率でお金を持ってくる方がいても彼らは受け取らない。メンバーの1人Kさんが昨日の新聞を指さしてもの凄い形相をしている。殺人事件の被害者の写真を指さして悲しんでいるのだ。全く彼は言葉を発しないが、繊細な感情を持っていて、自分が気にくわないと頑として首を振らない。選挙に違反が付き物なのは受け取る側がいるからだと私は思っている。選挙にお金がかかりすぎるからそれを取り返そうとする。一向にこの体質が変わらない。先の”国家の品格”の著者によれば先進国と言われる国は全て荒廃していると、その論拠がこの辺にあるようだ。
 人間の欲望は際限が無いという。科学や医療分野で発展することは良いとしても、名誉や金が絡むと厄介になる。驕る平家は久しからずではないが同じ失敗を何故繰り返す。司法による警鐘だけでは防げない。
 だってそうでしょう!3面記事にのるような警察の実態が連日、新聞紙上を賑やかしていますものね。藤原氏が言う武士道精神の復活は、もしかしたら先のKさんのような頑として首を振らない気骨の再生に期待することだろうなー。そうだ!彼が選挙に出れば良いんだよ。そしたら金もかからないし誰も読まない面倒なマニフェストもいらない。