源究86

 

No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日
1231 麻薬汚染 8/9 1236 出入り 8/14 1241 肉声 8/19 1246 モヤモヤ感 8/25
1232 実地検査 8/10 1237 誕生日 8/15 1242 救いを何に 8/20 1247 情報過多症候群 8/26
1233 improvement 8/11 1238 宗教挽歌 8/16 1243 願い事 8/21 1248 この指とまれ 8/27
1234 勇気をもって 8/12 1239 脱しがらみ 8/17 1244 知足不辱 8/22 1249 行政の無駄 8/28
1235 祈り 8/13 1240 綾取り 8/18 1245 ナビ 8/24 1250 選挙後課題 8/29

1231:麻薬汚染

初夏の日光戦場ヶ原の写真である。いつものメール宅急便の中の一枚。
 ニュースで大騒ぎした有名女優の失踪騒動、昨夜自ら警察に出頭し、これでお子さんと本人の無事が確認できた。1週間程の間に様々な憶測が飛び交い、メデイアは最悪の状況を予測演出してきた。結果は誰もが予想もしなかった自らが麻薬を使用していたという嫌疑で逮捕状が出ている事が公になった。彼女はどのような思いで1週間を過ごしたのだろう。
 夫の行状は想像できる。当時としてはまだ珍しかった”できちゃった婚”で長男がいる。・・・・・
 戦後はヒロポンなどに手を付けて体を壊した人も多くいた。その後、手軽に手に入るシンナーなどに手を染める若者が増えた。
 それが最近は一般の人が自宅で大麻を栽培し、使用していたという事件が急に目立ち始めた。
大分昔の話になるがベトナム戦争当時、米兵が麻薬を使い、それが日本に伝わったという話をよく耳にした。当時は戦地でいつ襲われるかしらない死の恐怖と戦うために麻薬を使ったという。いまはそうじゃない。麻薬汚染の実態はネットを巧みに利用した販売や大麻草の種を売り買いし、自宅で栽培するという時代になった。
 サプリメントが大流行、手軽に栄養を補給するという触れ込みでコンビニでも手軽に購入できる。麻薬が見た目ではそのサプリメントと同じような色違いで錠剤になっている。罪の意識が無く、使用してしまう人も中にはいるのかもしれない。
 ただ一度経験してしまったら大変なことになる。むしろその事が後々様々な問題を起こしている。家族をも巻き込んでしまう悲劇が待っている。
 離婚し、立派に子育てしている人を私は多く知っている。ただ、日本ではまだまだ養育の負担が母親にかかってしまう。仕事を続けながら子育てを行うことのストレスは大変なもの、そこに魔の手が伸びることもあるだろう。
 先の女優の動機は、その辺にあるように思えてしようがない。華やかな表の顔と母親としての子育ての不安、・・・・
日本で少子化問題が叫ばれ始めてから、もう何十年もたつ。子育て支援の脆弱さに公的な手立ての充実を要求してきた。保育所の待機者が現在でも4万人を超している。やむを得ず認可外保育所を利用する人も多い。先日1歳半の子が深さ10センチという手洗いに誤って顔をつけ亡くなった事故があった。
 誰もが安心して暮らせる社会には残念ながらなっていない。老人や子供の問題は、関係者がいくら叫んでみても他人事、国の施策として取り上げられなければ何も変わらない。
 今の日本で一番欠けていることは、”お互い様”という想いである。「想」とは相手を心の上に置くと書く。
実態は、隣の○○ちゃんより成績で良くなければ後で貴方が困るのよと教え込む。そして自分より能力の劣っている者をみて安心する。このような子供の成長環境は良いはずがない。
 特に芸能界などで生き残りをかけた凄まじい戦い、人間の弱みを隠し通す。普通の人間ならば耐えられない。
何かがおかしい。
 今、私の周りは施餓鬼一色、毎日のようにどこかの寺で施餓鬼が行われている。施餓鬼布教が定番で布教師がここぞとばかりに自分の得意とする話をする。しかし、どうだろう。果たして聞く身になって考えると本当に言葉通りに頷いて聞けるだろうか?
「足る事を知る」という話をする一方で高級車に乗って駆け付ける僧侶。このアンバランスは個人の責任として片付けてしまって良いのでありましょうか?
 麻薬汚染の話から例のごとく脱線してしまった。麻薬に逃げ場所を求める社会が世界有数の経済大国?
いい加減にこの勲章は返上したほうが良い。

 

1232:実地検査(前後)

【前】Am6:00
 昨夜から雨が降り始めた。今も結構な量で降っている。今日は県の実地検査が9時からある。7人の監査官が来園予定。昨年は無かったので2年ぶり、まな板のコイという心境だ。別に疾しい事はやっていないから構わない。担当者も役目上、事細かに調べていくはずだ。施設は文章を整理するなど時間がない。なにしろデスクワークに時間が割けないのが現実である。それを書類で調査されるのだから、漏れは必ずある。その責任は結局、私にあることだけは自覚している。
 今日の雨が凶と出るか吉と出るか、サイコロを振る思いも無くはない。今更ドタバタしても仕様がないのだが、正直、昨日は朝から草刈りやってしまった。今日から16日までは一日も休みなく寺の行事が入っている。どうもこの時期に監査が入るのもどうかと思うが、敢えて日程の変更は申し入れしなかった。「*」小休止。
【後】Pm9:00
 実は今日は近くの寺の施餓鬼があった。でも監査に理事長がいないのも不味いと考え、代理に行ってもらった。
私もこの道に入って37年が経つ、全回監査には立ち会ってきたのでそれなりの重みを感じている。監査を受ける側のエチケットがあると先代から口酸っぱく言われた。整理整頓、それに指摘された事を直ぐに改善するということ。その事は後に続くものに伝えていかないと不味いと思う。
 私の記憶では初めてであった。今回8人の監査官からの講評で「指摘無し」。ホント??これは多少贔屓目にみて、7割合格という事だと理解した。
 監査官を見送った後、急に疲れがドット出た。7月末の施餓鬼からずっと掃除ばかりやっていたように思う。お陰さまで腰のキレが出てきたように思う。エンジン式草刈り機で芝生を刈っていると、いつの間にかゴルフのスイングをしている。多分ゴルフの上手い人は芝刈りも上手だろう。体重の移動がスムーズになるのは請負だ。
 さて、今日の監査には当方からは15名の職員が立ち会った。なにせ1年前の話だから、忘れてしまったことも多い。
書類を捜すのに一苦労、この膨大な資料がドンドン溜っていく。ケース記録などパソコンに入力してあるものをプリントアウトして保管する。無駄なように思うのだが仕方がない。
 とにかく、無事終わりました。スタッフの協力に心から感謝申し上げます。今晩からお盆モードに切り替えます。

1233:Improvement

改善・進歩・向上という日本語は英語でなんというのだろう?ちょっと気になったものだから辞書を開く。すると「improvement]という字が出てきた。onを付けるとどこが改善になったかを示す。より強調するにはoverとあった。
昨夜はぐっすり眠れるかと思ったのが甘かった。昨日の光景がチラついて何度も目が覚めた。それは私自身が日頃から気にしていた事でもある。リスク対応として、ヒヤリハットや苦情受付、事故報告書を徹底しようと些細な事でも上げて欲しいと言ってきた。専用のファイルが見る見るうちに厚くなった。事象→報告→改善。これがどうしても満足できない。何をもって改善ができたか職員全体で共通認識を持つことが実に難しい。
 外部の人との対応一つにしてもだ、気の緩みがあって言動に注意を払わないと元の木阿弥となってしまう。監査官と雑談していた時、「防げる事故」と「どうしても起こってしまう事故」ってありますよねという話になった。それは昨年一人の利用者が亡くなった時の報告書を見ている時だった。
 正直な話、毎日が綱渡りの連続、ミスが無いかと問われれば否定などできない。ただ、故意に行ったミスは無いと断言できる。この想いが無かったら今時、この仕事はできない。それでも私の性分だろう、かなりいい加減な処があって、エイヤーどうにかなっぺー!で強引に突き進んでしまう。これが大きな失敗に結び付く。
 例えとして若干問題ありだが、私のゴルフのスタイルがそうだ。山に入ったボールを決して横に出さず、僅かな可能性を只管信じて強引突破。結果オーライは限りなくゼロに近い。それでもエイヤーとやってしまう。再度木に当たってOB。遠回りして安全にという事ができない。
 ま!考えようでは常に前向きという事になるかも?自戒が足りないのである。
監査終了後、車まで見送った時だった。マージャンが好きな人がいて、その方の元同僚と私はマージャンを良くやった。施設長会議で泊りの時は毎度同じメンバーが遅くまで卓を囲んだ。話が盛り上がってしまい、監査の疲れが一瞬忘れた。他の監査官が怪訝そうな顔をして私達を見るものだから「本日は仕事柄、御苦労さまでした。」と言って見送った。
 昔、親父に良く言われた事を思い出す。「遊びもしないと駄目だ」と言われた。自分では酒もたばこも賭けごとも一切しない親父だった。いま、この年になって昔一緒に遊んだ仲間が懐かしく大切に思えるようになっている。
 施設の利用者にとって、この昔を懐かしむ思い出が一体どうなっているのだろうか?
その辺を確かめるのは微妙だ。どうみても、今の実地検査の実態はその周辺のことが抜け落ちているように思える。日中一時預かりが時間いくらでどう請求したかなど、正直どうでも良い事、その後どうしたの?が肝心なのである。そこまで話が進まない。出口調査で終わってしまう。
 最初に戻す。improvment on (over)何々。 その何々がなんなんだが大切なんですね。
なかなか盆モードに切り替えがききませんので、エイ!このまま突入します。ファー。

 今日から2週間スタッフ(吉川)をインドネシアに派遣、筑波大教育開発国際協力研究センターの依頼を受けて、インドネシア教育大学のセミナーで実践報告をすることになりました。監査でそんな事一言も言いませんよ。余談ですが悪しからず。

1234:勇気を持って

私は器用なようで実に不器用ときている。
 この年齢になって、今更変えても仕様がない。昨日監査が終わって一段落、モードチェンジが上手くいかないので風呂に行ってきた。マッサージを受けるため、ミットサウナというのがあって、高温蒸気の中で塩を体中につけてジッと我慢するのが好きだ。最初一人で入っていたら、どこかで見た事がある人が後から入ってきた。湯気で良く見えないのだけれど、布袋様のような腹をしてタオルを頭にかけるいつもの姿で直ぐに分かった。
 外に出て少し椅子で休んでいると向こうから挨拶してきた。「火曜日はいつもここに来るんだ」という。この人は選挙が好きで以前私も通っていたスポーツジムの常連、自然と今回の選挙の話し、・・・・・・。
 これ以上は止めておく。
 ただ、二股かける団体に私は馴染めない。私はこうと決めた以上は決してぶれない。ずるいよな!有権者がこれだものご本人だって、その辺は十分承知しているはずだ。政権公約なるものを見ても良く分からない。似たような内容だし、掲げたから実現できるかどうかは別問題、結局はこの人を支援したいと思うか否かでしょう。
 こんなことを思っているといつも頭に浮かんでくるのは、例の石田礼助の言葉である。
『疎にして野だが卑にあらず』
 ここで私が注目するのは「野だが」という箇所、上に立つもので一番大切だと思うことである。
『ふまれても 根強く 生きよ道芝の やがて花咲く 春も来るべし』と謳った農政に生きた先人の生き方に通じる。自らが野に身を置く努力をしないものは頂けない。結局、誰かの良いように動くことになりかねない。その誰かが実は問題があって、天の声だかなんだか知らないが何を根拠にそう思っているのだろう七不思議の一つ。
 これ以上は止めておく。
昨日、職員から話があると言われた。それは某利用者を自宅に帰してはどうかという意見だった。彼女は拘りが人一倍強く、どうしても他のメンバーと馴染めない。何度も部屋がえをしてきた、私と会うたびに「私の家を作ってください」と訴える。
「どんな家がいいの?」と聞くと、翌日紙切れにエンピツで書いた13階建ての設計図?を持ってきた。「これ どこにつくるんだい?」と言うと「おもちゃ班のところが良いです」と言った。
 彼女はお母さんと一緒に住みたいという訴えを決して私には言ってこない。そこに彼女の精一杯のプライドが見える。いま35歳、そして在園歴20年の彼女の希望をどうにかして叶えてやりたい。
 大急ぎで改装図面をお願いしている。地域交流ホームを個室に作り替えるためである。お陰さまで交流ホームに代わる建物が別にできたので、やっと個室を作れる見通しができた。
 13階建てには程遠い。しかし、個室に移れば少しは落ち着いてくれるかもしれない。微かな期待である。
政治を志す人、全てに言いたい。
貴方達が耳を傾ける人達は野にいる人達だ。
貴方達が真に感謝される人達は霞が関や永田町には住んでいない。
貴方達が生涯を通じて行った行為は、自らが優劣をつけるのではなく、つけられるものである。
そこを勘違いしては困る。

1235:祈り

”盆に帰らないことを謝り”自分を生き切った亡き母を羨ましがる、その母に謝りたくて一人墓参りする。すぎもとまさと「吾亦紅」私の大好きな歌。ただ、その歌詞には一瞬ギクリとする。
”来月 離婚し、初めて 自分を生きると亡き母の墓前で告げる。そして 死ぬまで 俺 貴方の子供・・・・と唄う最後のフレーズだ。
 本日13日は盆迎え火、亡き先祖が自宅に帰るのでお供えを用意して供養する。昨日は寺で掃除をしていた。墓参りに来る人が結構いた。日本特有の盆帰省の時期である。尚恵学園では、40名以上の利用者さんが帰省することなく、普段より大分少なくなった寮で束の間の静けさを味わう。
 人生いろいろ、こうやって年をとる。時間だけが絶対、万国共通に流れていく。
 大正生まれの人が大分数を減らした。過去帳に記載されている戦死した人々の数は不変、この時期、20代でお国の為に命を捧げた多くの若者、彼らの祈りや願いはどうなったのだろう?どのような国になって欲しいと望み、母の想いを抱いて散っていったに違いない。
 悔いの無い人生などあるのだろうか?様々な出会いや出来事、知らず知らずの中に他人に多大な迷惑をかけ、実は生きている。その事を強く語る人が減った。余計なお世話でしょうという。今年の施餓鬼布教、少し変えてみたいと思っている。先日そのために電機店に行って小さなCDラジオを買った。「千の風にのって」と「吾亦紅」のCDを使って布教しようと思った。
 限られた時間で仏教の説話をいくら話しても耳に入らない。今年流行った歌、何故人々の心を動かしたか?そこに現代を生きる人たちの飢餓を感じる。
16日は盆送り火、京都五山の大文字、この灯りを目印に先祖がまた仏世界に戻っていく。また来年帰りたいと思うように私達は此岸の生活を守らねばなるまい。先祖があって今の自分がある。その事が今日ほど有耶無耶になった時代はない。
 そこに様々な葛藤をみる。
 私は15日が59歳の誕生日、良くもここまで生きてこれたという実感、沢山の知り合い友人が彼岸に渡った。向こうで私を呼んでいるように思うが、もう少し、こっちでやることがあると言っている。
 回向 三界万霊!

1236:出入り

昨日、事務所で一人でいた。施設と寺が同敷地にあるから盆入りの昨日は塔婆を取りにくる人もあるだろうと思って午前中だけいることにした。
 園長室にいると思いもかけずOさんが入ってきた。彼女が来るのは珍しい。私の顔を見て、大きなアクビをした。
 何かを訴えている。
 寮は本当に静か、こんな日は年に何度もない。朝、何本かの電話があった。1日だけの帰省の確認だった。事情があって何日も連れて帰れない人、その人たちが1日だけ家に帰るのだ。お迎えのお姉さんが声掛けると、走るようにして車に乗り込んだ。
 一方、ショートステイをこの時期利用する方も増える。出入りが激しい。
それとちょっと気になる出来事があった。私の良く知っている施設で新型インフルエンザの感染がテレビで報道された。施設に電話を入れ、激励した。何せこれだけ出入りが多くなっている施設で感染症は水際で防ぐことなど不可能だ。時間の問題だろう。せめて世間の人達にお願いしたい事は、白い目で見ないで欲しいということである。包み隠さず我々は報告することになっている。
 それに盆の帰省ラッシュ、国内外を問わず人の大移動が始まった。流行の歯止めは出来っこない。
13日、知事選の告示日、この暑いのに御苦労さまである。月末の投票日まで約2週間県内全域を遊説される。今回候補者6人の乱立選挙、従来と全く様相が違う。やっとこれで関東地方の仲間入りができた。全国でも珍しい保守王国で、県内隅々までガッチリと組織化されていた。それが大きく揺らいでいる。今回、投票をしない人は県外に退去してもらわないと駄目だわな。
 県人口は300万にちょっと満たない。全国で11位の人口規模を有する県のトップを決める。
坊さんが選挙に関心を持つようになっては如何なものだろう?その自責の念は常に意識の中にある。しかし、今回だけは応援したい。多選を批判する人が、自分では何十年も議席を持ち続け引退しない。言う事を聞かない???一体誰の言う事を聞けというのでありましょう?この辺の自己矛盾をこの人はどう説明するのか。
私としては言いたい事は山ほどありますよ。でもね、感覚的に合わない人もいるということでしょう。
 それと天下り反対という世間の批判、これをどう考えているのか?これだって私の言いたい事の一つ、地元とか高校の同窓という理由での応援は私の性分が許さない。
 彼の公約に、障害者福祉の言葉がスッポリ抜け落ちている。多分彼の人生で障害を持つ人との接点は無かった。そう思わざるを得ない。
 それと有権者は何故、遠慮しているのだろう?多分、反対の狼煙をあげると後で不利になるという思いがあるのだろうか?
 私はそんなの関係ない。昭和30年代、補助もない人もいない時代を少なからず経験してきたという自負があるからだ。やるならやってみろよ。当人は怖がってそれこそ出来っこない。

1237:誕生日

早朝より耳を澄ますと蝉の声が聞こえる。短い一生を終える前に精一杯の声を張り上げる。何を叫んでいるのか解らない。あの小さな体から発する声は凄い。とてもじゃないが人間として生まれた私など恥ずかしい。
 昨日は新盆まわりが例年になく遅くまでかかってしまった。初めて訪れたお宅も多く、地図を見ながらそれでも分からない時は電話で道を伺いながらという事になった。車を止めて置く場所が無いお宅もあって、3年ほど前から運転を頼んだ。今年は倅を頼む。少しずつ教えていかないとという思いからだ。
 新盆の数は毎年40件前後、今年は多かった。正直、精霊棚に飾られた遺影を見て、思い出す。去年までいた人が亡くなって、残された遺族には様々な思い出がある。誕生日と合わせて命日もまたその人の持つ歴史、如何に生前、自らのキャンパスに絵を描いたのか、その人を知る人々が思い起こしながら語り合う。お盆はそんな情景が繰り広げられる。
 人間、年を取るにつれて昔を懐かしむ。これが不思議で小学生時代田んぼや雑木林で遊んだ記憶が鮮明に思い出す。これが原風景とかなんとかいうものだろうか? 終戦記念日の8月15日、これが私の生まれた日である。お盆の最中だから忘れようがない。なんだか知らないが誕生日と先祖供養がいつも重なっていた。この感覚はしっかり身についてしまった。それと昭和25年の記憶は残念ながら無い。1歳に満たない歳だもの当然だ。しかし、当時と比べると全てのものが随分様変わりしたものである。
 会社勤めならば定年をまじかに控えている年齢、そう考えると全力疾走で走り続けてきたという思いだ。私と同じ感慨にふける人も多分いるだろう。今更、生き方を変えるわけにもいかないし私の性分ではできそうもない。あーあ。出るは溜息ばかり、最近体の潤滑油が減ったのだろう、関節がスムーズに動かない。立ったり座ったりする度に「ヨッコイショ」とか「アラヨット」と声を出している。
 ま!59歳にもなって まだ迷いの中にいるというのは若いという事かもしれない。これからは様々な事が身の回りに起こるだろう。それら一つ一つの事を授かった試練と思い、拒否せず、受け入れて生きていこう。
 それが今の偽らざる私の心境である。
[ message from ten ]
 本当に有り難いメッセージが届いた。何気なく書かれた近況から推測することしかできないが、元気な様子で何よりだ。
俺も元気だ、心配するな!
 思い出は決して風化しない。むしろより鮮明に脳裏に浮かぶから不思議である。
朝、聞こえていた蝉の声は弱まる事もなく今も耳をつんざくように聞こえてくる。

1238:宗教挽歌

大文字の送り火で何を想う。真っ暗な山中に「大」という字を松明で燃やし、夜空を色取る。空に向かって炎がゆらゆらと消えていく姿を古の昔より、先祖が帰っていく様にダブらせる。
 なんと風流韻事な習わしなのだろう。
それが一変している。墓掃除代行業から今では墓参まで、そしてインターネットで墓地の映像を流し、自宅に居ながらにして墓参りができる。”直葬”も新たなお別れの形、それと在家僧侶の急増、葬儀社からの依頼で経を読み、その後は関わらない。これぞ”一期一会”の現代版。
 確かに今では住職の成り手がいないので無住の寺も地方に行けば増えている。守る檀家がいればまだしも荒れ放題になっている寺もあるようだ。僧侶を一般公募した宗派もあり、いよいよ宗教界も規制緩和の到来か、在家僧侶の通信教育もあるとか・・・・・私の知る範囲外で様々な状況が確実に進んでいる。
 そもそもここまで宗教が枝分かれし複雑になったのは、その大半が旧来の宗教に責任あり。内部告発ではないが、私が見ても目に余る言動が多すぎる。その内部から起こる猛反省がいま本当に必要だと思っている。だが、こんな事を言えば、村八分、冷たい視線を浴びることは必至。その覚悟は当然必要だ。
 宗教が政治に関わることには違和感を持っている。主義信条を枠にはめれば、当然それから食み出す人々の不満が出る。そのサジ加減は宗教家にはできない。どうしても単色系になってしまうからである。森の自然が教えていることだが、原生林として今も残っている場所は様々な植物が生い茂る。寧ろ人工的に杉などが植えられた山は、自然の変化に弱い。それと同じ原理である。 ならばどうある姿が理想なのだろう? 世界遺産になるような場所は、この地球上にも然程多くはない。今我々ができることは雑木林を残すことではないだろうか?クヌギやナラの林が激減した。それは丁度開発しやすい平地に雑木林はあるからだ。これを人間社会に例えれば共生社会になると私は思う。
共生とは障害者をも含めた社会という意味である。
 自然発生的に起こる山火事が森の若返りを保っているという話を聞いた。これこそが我々人間生活のモデルメカニズムであろう。贅沢や利便性はそのゆったりとした循環周期を壊した。その弊害が地球存亡の危機までに至ろうとしている。価値観の多様化は責任の所在を曖昧にしてきた。この歴史が続いている。
 日本人の特性、勤勉:誠実、がどうもリサイクルされなくなっている。波長の違いというのでは無い。私流の例で恐縮だが、葬儀後の身内の相続争い、これがリサイクル(再生利用)を駄目にしていると。さすがに葬儀での表だった争いは無いけれど、回忌法要の時などにその片鱗をみることがある。
 何せ遺産相続を法的に定めているから、権利を主張すれば当然、自分の分け前は手に入る。多い少ないを争うことなど別に恥ずかしいことでは無くなった。
 その姿を孫・子が見ていてどう思うかということまで気が回らない。いずれ自分が死んだ時に同じめに会うのは請負だ。
 ”挽歌”とは死者を哀悼する歌である。
何をもって我々は死者の恩に報いようとするのか?このことが社会保障の仕組みの礎となるべきである。ブータン国のGNH思想は、当にこの一点に回帰する制度なり。

1239:脱しがらみ

今朝のこころの時代で久しぶりに前山祭町町長の根本さんの話しを伺った。大分昔になったが私は源究63においてささやかなエールを送った。6期24年の町長在任中に成し遂げた様々な改革は確実に実績をあげ、次なる町長にバトンタッチ。
 福島弁丸出し、全く飾りっ気なし。ズーズー弁は通訳無しで私は理解でき、聞いていて何か爽やかな気分になってくる。議員定数を18人から10人に減らし、議員報酬も日額制、非常勤だから当然だとは言わない処が根本さんの人柄だ。年間330万円の議員給与は決して高いとは住民も考えていませんよと議員の心情をフォローする。これは議員自らが申し入れして実現したことへの彼流の配慮。町の図書館に全国から45万冊の本が寄せられた話し、それに町議会は使わなくなった学校の机、職員定数も減らし、住民サービスの低下はさせない工夫等・・・・・あげたら切りがない。
 残念なことは、この山祭町の成功事例を真似する処が出てこない。それは何故か?保身と自ら損する事を誰もしたくないからでしょうと不快感を吐露。俄かに持ちあがった道州制論議に苦言を呈する場面も、それは自ら率先垂範した行政トップの自信があるからだ。公約が形骸化してしまった今の政治に対する彼の批判は住民も半ば諦め、冷めた無関心層が以前として減らない状況が如実に物語る。
 さてと「柵」(しがらみ)という言葉の意味である。浮世の柵というようにせき止めるものまといつくものという意味を持つ。政治には柵が付き物、後援会などが当にそうだ。ただ、これも一つ間違うと命取りになる。いつまでもまといつかれるからだ。
 この常態化した仕組みが国から地方へと全く同じに存在する。仕方がないと思う反面とそれじゃー不味いでしょうという面がある。このバランス感覚が大切だと私は思っている。
昨日、利根町の寺で施餓鬼があった。2時からの布教を頼まれていたのだが、道路が混んで間に合わない。車の中から電話を入れ、滑りこんだのが5分過ぎ、そのまま本堂へ直行。持ち込んだCDラジカセをセットして2曲を先ずかけた。
 その間に今から話す内容を頭で整理、30分程度の話だから苦にならない。でもこの寺の施餓鬼は私にとっては特別、坊さんになって初めて人の前で布教をした寺だからである。その時、何を話したのか思い出せなかったが、多分20年以上前の話。すると急に体が強張ってしまった。副住職がタイミングよく冷たいお茶を用意してくれた。急いでそれを飲んで話し始める。
 用意したCDは1曲目が「千の風になって」2曲目は「吾亦紅」である。坊さんの説法?もいつも同じパターンだと飽きられる。そう思って自分なりには工夫したつもりだった。その結果は分からない。
 横道に逸れてしまったが、根本さんの人徳は何か?ホンネで付き合う姿から滲み出たものであろう。周囲の人々をハラハラさせるような言動も本人はいたって真面目で純粋だ。それと彼には悲壮感がない。「ダメ!あっそうダメね。うじゃーどうすっぺ!」式行政手腕、これが周囲の人に何か自分たちでできることはあんめーかと考えさせる。
 この気配りは凄い人だ。人柄というものは俄かにできるものではない。多分彼の生い立ちが背景にあるんだと想像できる。財界人でスズキ自動車の鈴木会長の人柄に相通じるものを感じる。
企業も行政もオリジナルな事業を展開する不可欠な条件として、有徳のトップとその良き理解者たるスタッフがタッグを組むことでありましょう。それと蛇足ながら申し上げますが、”脱しがらみ”ですかね。
 

1240:綾取り

糸が複雑に絡まってしまうと元に戻すのに大変苦労する。昔、江戸では綾取りと言い、京阪においては糸取と言った。糸を使った遊戯だが、今時そのような遊びに興ずる子供も少なくなった。
 夏休み子どもたちが徒党を組んでクヌギ林に集まる。目的はかぶと虫、それもここ数日はめっきり減った。外で遊べる子供たちはまだ健康的、むしろ家の中にずっと引きこもってなにやら高度なゲーム機に熱中するのは、あまり頂けない。
 私達が子供の頃、遊び道具が無かった。それでも何か見つけて玩具にしてしまう、それが工夫をする力の元となった。
 今、日本全体が閉塞感の中で将来の見通しが立たない状態にある。私など見栄を張って高級車を乗り回したいなど考えない。今一人満足しているのは、B4を廃車にしてプリウスに乗り換えたこと。運転が好きなほうではないのだが、いま、運転を楽しんでいる。給油する回数が半減した実感を持ちながら。
 これだって贅沢だと思っている。
 最近、急に周囲が慌ただしくなってきた。ここで一番”沈思黙考”、自分を見つめ何を選択するかを決める時だ。
 昨日、水戸で会議があった。3時から始まって8時頃までかかった。私は運転しないで乗せてもらって来たので飲めない酒を飲むはめに。帰りの高速ではウトウトしていつの間にか神立に到着、家に着いた途端、頭がズキズキ、眠ろうとしても眠れない。
 夜中の2時に風呂に入り、それから床に入るといつの間にか眠ってしまった。
後、3ケ寺の施餓鬼手伝いが残っている。既にモードチェンジし、選挙モードに切り替える。なんで選挙なの?自分がハイテンションになっているのが良く分かる。ここ数日の間に政治家に対する見方が若干変わってきた。それは、好きによってなんでこんな道に自ら足を入れるのだろうか!いやー全く、御苦労さま。敬意を感じているというのがホントの気持ち。
 ご本人は多分、皆さんそうだと思う。純粋に自らの信条を実現するために立候補しているのだ。その熱き想いを如何にすれば具現できるか! どの政党に身を置けば実現する可能性が高まるか!などなど。無所属での戦いも時流とはいえ不安が付きまとう
 結局、取り巻きに恵まれるか否かが成否に大きく影響、中にはどっちつかずで上手く立ち回る輩もいるからだ。
何も背伸びなどせず、寺の住職と施設の仕事をやっていれば、この辺の人間模様を見ることもなかったはず、巡りあわせというもので、幸か不幸か丁度3年前に施設協議会の代表になったから、さー大変。政治などには、殆ど関心がなく、投票さえすれば義務を果たしたと考えていたノンポリ組。
 会合に顔を出せば、至る所でヒソヒソ話、あっちがこうでこっちがああ、当に綾取りゲーム真っ盛り。今まで黙りこんでいた仲間が急に水を得た魚のごとく眼の色を変え、どこにあんな活力があったのか元気になる人も出る始末。
このような事がいま全国で行われていると思うと考えてしまう。いずれの地域も課題が山積、そこに敢えて足を踏み入れようとする人達、有権者一人一人が心から応援したいと思う人が多い地域程、課題解決に一番の近道になるのではないでしょうか?
 そんな風に自分が変わったのに、多少なりとも驚いています。
特に私みたいにマイナリテイの人達に関わる者が、黙っていては、なんにも変らない事を嫌になるほど経験したのであります。
 

1241:肉声

太宰文学に見られる肉声! 生誕100年、津軽が生んだ文壇の奇才、魂の叫び!口述文学というか直接読者に語りかける彼の作風が現代において以前として多くの読者を引き付ける。この魅力は何か?彼の破天荒な生きざま、その中に見え隠れする人間味溢れる心情・葛藤・嗚咽・・・・・・
 文字離れが一気に進んだ現代に於いて、所謂、本人にとって古典?と呼ばれるには心外だと思われる幾人かの作家の作品が書店を色取る。
 文字を媒体とする職業で、作家と学者の大きな違いは、如何に自らの声(心の内面)を投影しうるかという事に尽きる。
 根強い支持を得る作家には、作家自身の生き様に読者がどこか共感する面を感じるからで、いま好評を博している作家それぞれに共通するものである。
 どちらかと言えば、自らが演出し、役者を演じる世界・・・・・・
それがどうも可笑しなことになってきたのは、媒介するものの変化である。多分、いま、部厚い辞書を拡大鏡を通してひこうとする人は激減したと思う。私自身も様々な辞書は持っているが殆ど本棚の中、手元に電子辞書を置き、ちょっとした疑問には重宝に利用している。それで満足できなければPCで検索すれば即座に膨大な情報が得られる。
 自宅に居ながらにして生活の糧を得る職業の代表格は物書きだった。彼らは昼夜逆転が常識で人が寝ている間に仕事する。そこが全く変わった。夜中ですら腹が減ればコンビニでなんでも買える。凄く便利な時代といえば、聞こえは良い。
 でも、私は現実にそのような時代の変化に殆ど関わりのない人達と付き合っている。知的障がいの人達の入所型の施設での生活実態は変わらない。
 毎日、利用者やスタッフの生の声が響き合う。それを騒音と感じるか安心と思うかの違いはある。
先の太宰治は奥さんに口述筆記をさせたという。まさに肉声をそのまま文字で射影する。打てば響く妙とでも言うとエロチックに思われるかもしれない。だが彼の作品の評価は実はそこにあると私は思う。
 生の声を如何に引き出すか! 政治や経済の評論家が線香花火のように瞬時に消えさる昨今、彼らは自らの言動に責任を取ることはしない職業、面白可笑しく解説すればナンボの世界。政治家がそれでは困る。国民の目線を掲げた政党にモノ申す。ならば貴方の視力はどうなのです?視野狭窄症に罹ってはいませんか?
実にヘンテコリンだと思うのは、そのような経済学者や政治家が書いた新刊本の直ぐ隣に太宰や漱石・小林多喜二の本が並ぶ。
 作家には生活の国家による保障はありません。本が売れないと印税が入らない。政治家には議員報酬という高額な賃金が支払われる。それが十分な額なのかどうかは知らない。国民の許容は、それでも我々の声を反映してくれるからという期待に対しての代償だと思うからある。
 その範囲を逸脱した人は、今回の選挙で国民の裁定を受け下野するだろう。

1242:救いを何に

人間は孤に徹することなどできやしない。常に何かに救いを求め彷徨っている。汝自身を愛すように隣人を愛せ。本当に斯様な生き方が出来るであろうか?太宰が『人間失格』の中で悩み苦しんだ自己矛盾。考えようによっては、あそこまで生きる価値を追い求める純真な?欲求は何故可能なのか。今でも彼の絶える事のない多くの愛読者はそこに自分を映し,つかの間の陶酔に我を忘れるのだ。
 私も恥ずかしながら若い時分、外国文学を学んだ。今思えば、現実から如何に遠ざかるか、その手段として全く違った言語圏の文学を選んだということである。能力の無さは如何ともし難く、早々に撤退を余儀なくされた。
 しかし、60歳にならんとする今もあの当時の夢を諦めてはいない。
 思索に耽ることと現実に起こっていることに正面から相対することがこれほど難しい事か。
性分とは困ったもので結局は巡り巡ってまた元の鞘におさまる。
 この世に絶対なものは、時間であると言った先人。この世とあの世を分け隔てる大きなモノがあると認めれば、大乗的佛教の教えに帰依し、自らを委ねきることが唯一の選択肢となろう。深浅の差を大目に見たとしても信仰心が芽生えるはずだ。
 現実に起こっている葛藤として、我が子を我々に委ねてしまう親を何人も知っている。そうじゃーないだろうといくら言っても受け入れようとしない。我々にその能力があるはずがない。否、救いを求められていると感じるのは自意識過剰なのか?
 夢で魘され、目覚めの悪い中で引きずってしまう。
先日(17日)緊急の全国会長会議があった。県で施設長会議を招集していた日とダブってしまい、已む無く欠席した。直ぐに事務局から当日配布した資料が送られてきた。
 その資料を見た瞬間、何か変化を感じた。
それは「福祉の人間観はどうあるべきか」と題する会長名での文章があった。明らかに従来からの戦略を変えている。
正直、今更どうなのよという私の想いはある。余りにもここ数年、枝葉の事で振り回され過ぎた。様々な運動を行った現執行部に誰しもが敬意を持っている。・・・・・がややもすると政争に翻弄され何を要求しているのかを見失う事も多々あったと思う。いま、政権が交代するかどうかの瀬戸際にあって、一方は抜本的見直し、方や廃止を公約でうたっている。
 こうなると自分たちの立つ位置を再確認しないと更に混乱する。その危機感の表れであろう。
 私はこのコーナーで一貫して訴えてきたのは、福祉の原点である。報酬単価や障害認定の在り方など事の本質ではない。
それは業界の我が田に水を引く旧来の手法と言えば言い過ぎか、四国には灌漑用の溜池が沢山掘られている。満濃池は空海が掘ったと言われている。空海は決して我が田に水を引くことを最優先にしていない。干ばつ時期に少なくなった水を我先に奪い合ってどうする!
 私は育成会と福祉協会のいがみ合いは単なる感情の縺れではないと見ている。当事者(本人)を差し置いて周りの利権争いだと感じる。
 ここを変えないとどのような法律を作ろうとも水漏れを防げない。福祉の人間観とは、取りも直さず障害者だけの問題ではない。人間が何に救いを求め、安心して暮らせる社会を築けるか、その基底にあるものが福祉である。

1243:願い事

茨城が変わるか!
 寺の住職でお経を読むのが苦手ときた、その罪滅ぼしと心に決めたある思い。正直申せばこんな事。どうして彼らは知的に障害を持って生れてきたのだろう?誰がそれを願ったか?小さい頃から身近に彼らを見て育ち、違和感無しに付き合えた。
 そして、今、私はある決意をもって臨んでいる。
経を読むのが坊主の本分か?他宗ではあれど、「住寺より諸僧とともに坐禅するを本分の事とせり」(正法眼蔵)
これが一体何を意味しているのであるか?諸僧=県民と読み替えてみてはどうだろう。
 一部の権力者によって県政が仕切られてきた特異な県”茨城”。この常態は今の時代にそぐわない。少なからずその実態に関わったものであれば疑問をもったであろうことなのに。8月30日は、県民の勇気が試される。
 天の声に何かを恐れ、心を閉ざしてしまった人々よ。貴方はそれで良いのですか?
一方は確固?たる組織を総動員して選挙に臨み、方やその運動体をそっくり奪われた手作り集団の戦い。茨城が次なる時代に一歩足を踏みこむには、どうしても通らねばならぬ道なのです。
 この機会を無くして未来無し。県民の皆さんよ、従前の神棚を畏敬の念をもって崇め奉る道を選ぶのか?
私は手作り集団を支援する。何一つ、天の声を恐れることもないからだ。柵など全くなし。心情から言って組織を選ぶより人間を選びたい。そう思いませんか?
 天の声が一番恐れていることは、なんでしょう?それは我が築いてきた牙城が脆くも崩れさること、それ以外に私は考えられません。どのような理屈をこねても矛盾が多すぎる。「多選」という言葉を辞書を引かなくても小学生でも分かること、15と5はどっちが多いのでしょうか?それに天下りがこれだけ世の反発をかっている時代に、敢えて強行突破しようとする人達の心が読めない。
 私は旅が好きである。ただツアー旅行は好まない。辞書片手に一人旅。どこの国に行っても優しい親切な人との出会いがあった。その人達との付き合いは今でもある。お世話になった恩に報いるのは人の道、決して言いふらすことではないけれど、陰でコソコソするもので無し。
 選挙の度に悩むこと。重度の知的障害の方たちは投票という形で自ら権利を行使することができない。彼らの願い事はどこにある?
 今、壁にはってある親父の写真をみた。「いかっぺー お前の好きなようにやってみろ!」との許しを得た。残り10日、・・・。地元土浦に風が吹くか。へっぴり腰の腰ぬけめ!

1244:知足不辱

「足るを知る者は 辱められず」(老子)
 ほどほどの処で満足するが良いと言っているのではない。むしろ欲望を棄て、足るを知って,真の満足のために生きなさいと言っていると理解すべきであろう。
 他人や社会をよく知る者は、知者。自分自身を正しく知る者は賢者。賢者は知者に勝る。他人に打ち勝つ者は、力があるというだけで、自分自身に勝つことのできるものは、真の強者だ。
 いま、あらゆる処でこのまま進んでいって良いのだろうか?という反省が起こっている。この地球上で様々な人種が住み、宗教や政治の違いによる争いごとが絶えたことがない。結局、誰しもが道半ばにして自らの生命を閉じる。
 自分自身を正しく知るという事ほど実に厄介なものはない。情報が交錯し、心を平安に保つことなどできやしないと諦め、ヤケクソで生きている人達が実に多い。この一番の原因が、余りにも外との比較に翻弄され自らを見ようとしないからだ。本来、外に向けられるべきではなく内なるものに大事があると観る。
 そうは言ってもだ。書店に行けば膨大な書籍、目移りして、買い求め読もうとまではいかない。むしろ情報を遮断し、脳に空きスペースをつくるべきなのだ。暖衣飽食、これは体自身を弱める。
 そこで、何をどうすればという道筋だが、お前の考えを言ってみよと自問する。
 それを言う前に、実は、本日、ある法事が寺である。
両親と一人娘、先月、その父親が若くして亡くなった。納骨もまだ、どうするのかは聞いていない。一人娘さんが実は知的に重度の障害をもっている。葬儀の時は彼女を学園で預かった。お父さんとの最後のお別れは前日までに十分しましたからというお母さんの言葉に「分かりました」と言うことしかできなかった。
 葬儀が終わって娘を迎えに来られた時、「これから寂しくなりますが、娘がいるからがんばります」と話された。その時、こんな話もされた。「お墓をどうしようか迷っています。娘に守ってもらう訳にもいかないので・・・・」
 実はこのような事例を多く知っている。
私はこのように話している。「大丈夫ですよ、お寺が守りますから」本来、寺は死後の安心を守るべきところ、住職は、そのお手伝いをさせていただく身である。
 高額な布施を要求し、遺族の不安を結果として煽ってはいないだろうか?何を根拠に左様な金額を要求できるのでしょう?
 人間は平穏無事に生きられません。常に変化し、谷あり山ありです。平和な時でさえ、いつまでこれが続くのか不安となります。これが此岸の有り様、彼岸に渡ればその苦しみからの解放が待っている。これでしょう。本来の宗教の教えの本意とは。
 此ちら側で悩み苦しむ人たちの多くは、何かに救いを求めている。これは国の施策としてどれだけ社会保障の仕組みを充実させても全てを救うことはできない。分かり切ったことである。
 形から入り個々の満足度より総量で推し量る今の制度が常に不安定なのは、ここに原因がある。人間の価値観は永遠のテーマなり。
忙しい一日、でも久方ぶりに充実した日となった。
 

1245:ナビ

朝の中に見舞いに行こうと思いつき車で出かけた。プリウスの燃費は確かに良い。24〜25キロは楽にクリアーしている。まだ、乗り慣れていないのでナビで病院まで行く事にし、目的地を設定、常磐高速から外環とスムーズに、だがいつもと違う指示をする。予定していた大分前のインターで降りろという。うるさいのでそれに従うことにしたが、一瞬遅かった。指示するインターを通り越してしまった、するとナビも混乱したのだろう。黙りこんでしまった。暫くすると復旧、次の出口を指している。「さすが新型、頭が良い」と感心してしまう。そこまで言うのなら指示に従うべー。次のインターで降りた、しかし、変だ。目的地と反対方向に行けと指示。疑問に思ったがもう一度だけ信用しよう。すると、今度は工業団地に入れという。道を四角に廻れ!????  
 なんと、先ほど降りたインター出口の反対側入口に誘導されてしまった。やはりな。所詮機械だわなー。戻れないのでそのまま高速に乗って、一つ手前のジャンクションまで逆戻り。実はここでもミスを犯した。出口で降りてはいけないのに降りてしまった。ジャンクションは他の高速道へ乗り換える為の場所。
 一般道路に降りたら、またナビが黙り込んだ。
慣れない事はしないこと。一つ勉強になりました。それに日曜日でした高速料金、このような場合はどうなるのでしょうか? ちょっと細かいことですが気になったものですから。
 それとは別に妙な事に気付きました。
日曜日は皆さん、ご存じのように政治番組が多いわけですが、ラジオで聞いた事ありますか?私はいつもテレビで観ていたのですが、今回は車の中でラジオで聞いていたのです。道を間違え多少イライラ気味だったことが一因であったとは思うのですが、各政党の言っている事が皆同じに聞こえるんです。顔が見えず、誰が話しているのか想像しながらですから余計だったかもしれません。
 特に公約にうたった政策に対する財源の問題についての部分では何が何だか分からなくなってしまって、さっき、ナビが混乱したのとダブるんですね。ナビが政治家、聞き手が運転する私。堂々巡りというんでしょうかね。同じ場所をグルグル廻されて結局元の道を逆走させられ、料金だけはバッチリ取られた。
これって変ですね。可笑しいですね。腹が立ちますね・・・・・・
 それと大事なことを一つ。
 公職選挙法というものの話。私は今まで全く関心がなかった法律。ちょっと調べたんですよ。そしたら何をやっても法に抵触するんじゃないでしょうか。ですからね、立候補される方は、近い将来は選挙カーを黙って走らせることになりますね。
 それと膨大な量のポスターですが、あれも禁止になると印刷屋さんが大変ですから、一応沢山作りますけどね、配れないという事になりますよ、きっと。事前運動とか戸別訪問の禁止だって、どうなんでしょうね。悪質な違反はいけませんがね、この人をよろしくと言うのもダメ?もとれ!後援会によろしくと言えばOK?素人の私があの法律を読むとどうしてもそのように取れるわけですよ。
 変ですね。可笑しいですね。 呆れてひっくり返りますね・・・・・・これが世界に名だたる法事国家 JAPAN・・・なのである。

1246:モヤモヤ感

昨日、何十年ぶりにある方と会った。親父さんは福祉業界では相当の大物、既に亡くなって息子さんが継いでいる。広大な敷地を全て社会福祉法人に寄付し、残ったのは自宅のみ、その2代目は体調が優れず、最初私を見ると「どなた?」というような顔をした。「住田ですよ」というと了解されたようで笑顔で迎えてくれた。
 彼はもう70歳に近い年齢だと思う。息子さんを先に亡くし、自分の後を継ぐ者はいないと言った。息子さんの通夜に列席したのは大分昔になった。その時の焦燥しきった様子がはっきりと思い出せる。それでも彼が立派なのは、古くなった建物を全て新しくして、「福祉さん、アンタの親父と私の親父がいつも言ってたよな。施設は法人のもの、個人の物は何も無くて良いってな。2代目がやる仕事は立派な職員(後継者)を育てることだよ」ってな。一瞬、その方の親父さんの風貌が脳裏を走った。
 彼は外部から施設長を呼び、その人に後を任せようと何度も試み、悉く裏切られたと言う。彼のお目に適わなかった。
 足を引きずるようにしながら立ち話で早々にお暇する私を見送ってくれた。
さーどうだ?「お前さんは・・・・?」と聞かれる前に失礼したものだから、帰りの車の中でモヤモヤした気持ちになってしまった。
 創立50年、重いわな。利用者が何人、彼岸に渡ったか!最近、どうも変だと思っていたが、その人たちが夢に出てくるんですよ。何か言いたそうな感じ、それが何を言っているのか聞き取れない。
 チカラ足りず、家族の期待に応えられなかった人達。退所したもの亡くなった者。その人たちが向こうで集まって何やらヒソヒソ話。これ夢の中身。
 いやー冷や汗かきますよ。
確かに施設は”人”を如何に育てるかが大切だ。人を見守るという仕事は、相手をどう見るかで決まる。手のかかる人、厄介な人、可哀そうな人、・・・・・そのように考える者はいずれも失格。何故か?それはこの仕事を長く続ける場合にどこかで致命傷になって出てくるからだ。
 ならばどうすれば良いのでしょうか。それこそが糸賀イズム。この教えがドンドン薄れていくように思えて仕様がない。
昨日訪問した施設の先代理事長の考えは基底部では通じ合っている。
社会福祉法人の見直し論議の中で、どうもはっきりしない処が実はここにある。福祉の私物化という考えには馴染まない。
それと、法人の責任者の言動に異議あり。ひねくれ者の私の考えは、理事長は清貧に徹すべしである。職員は構わない。
 言うは易しというご批判は覚悟の上、されど、今の状況で施設は決して長く続かない。モヤモヤ感というよりももがき苦しむ事に。
 可能性が高まる政権交代、彼らの危機感と我々現場の危機意識は全く次元が違う。彼らは当選することが最大の関心事、その後どうするかは二の次三の次。「石にしがみついても今度だけは当選したい」。良く言ったものだ。呆れるよ。
 選挙の度に貴方はそう言って来た。石にしがみつく経験をしたことも無いくせに。その辺が見え見え。
そういう人達に国の将来を託すのかと思うとモヤモヤ感は通り越し怒りである。爆発寸前、有珠山だ!そんな人を大将に担ぎ、応援しようとする連中に無性に腹が立つ。二代目のおぼっちゃまを何度国政に送っても駄目ですわ。
 文句があるならかかってきやがれ!わたしゃー一人で籠城して抵抗すっから。
 

1247:情報過多症候群

世の中全体が一つの感染症に罹っている。それを”情報過多症候群”という。小生が命名。
日々絶えまなく膨大な量の情報が流れている。現代人は自ら望んで情報社会を築き、挙句の果てその嵐の中で身動きできず右往左往。もしもだ、この流れを意図的に遮断し、情報を限りなくゼロに近づけてみよ!今度は不安に襲われる。
これがシンドロームと命名した理由である。テレビ放送だけをみても一体有料放送はいくつあるのだろうか?地デジTVに変えた時、入会の案内が沢山あった。スポーツが好きな私は興味があった、申し込み方法で混乱していたのが逆に良かった。申し込んだとしても観る時間が無いからだ。直ぐ止めた。
 情報という言葉が氾濫している。情報公開・情報流出・情報操作・・・・・・昨日、地震情報でミスがあって気象庁の担当者が謝罪していた。つまり、情報の発信源は全て人間、その大半が自動的に機械で送られる。そこにミスが出るのは当然だ。
 どこまで人間は技術進歩を目指すのか?既に人間の認知能力を超えている。多様なメデイアの出現は、人間の記憶力を減退させる。キーを打てば瞬時に答えが出るからで、経過が無くて結果がある。
 いつ頃からだろう。車の修理だって故障個所を見つけその部分だけを直すことよりも部品総取り換えになった。小さなキズでも高額になるのはその理由。その究極の選択が臓器移植法、天寿という概念が根底から崩れた。
 この辺で人間サイズの情報量に皆が満足しないと大変な事になりやしないか。安住の場を探し求めながら不安になる社会は決して良くない。
 今回もちょっと気になる事がありました。
昨日私は施設の合同キャンプに顔を出した。200名以上の参加者があって、1泊で行う。事前準備が大変で、担当スタッフのご苦労を考えると陣中見舞いに行かざるを得なかった。
 参加を急に取りやめた施設があった。その理由は新型インフルエンザ。ただ大きな違いがある。
 *感染恐れのある行事には参加しないとキャンセルした施設、その日の朝、検温して熱がある参加者が見つかり、もしも感染症にかかっていると迷惑をかけるとまずいと判断し取りやめた施設。
 同じ止めた施設でも私には大きな違いが見えてくる。
難しい時代になった事は確実。
 自分たちだけが良ければ良いという発想は私には馴染まない。これは日本だけの問題では無いのかもしれません。
良くも悪くも肝が座っている人間はドンドン減っている。
  清くひとへに座りたる心は、 あまたの事にかかはりても 気を散らす事なし
こう願いたいものである。
 「携帯の充電やったかな・・・?」 ああ・・・駄目だコリャ!

1248:この指とまれ

久しぶりに何ヵ所かの施設を訪れる。雰囲気がそれぞれ違って面白かった。
『悩み多き者よ この指とまれ』と言ったら、先ず施設長が一先にとまるだろうと確信したのである。
その姿を利用者達は「何やってんの?」とポケーンと眺める構図。これはまずい。どうしてこうなっちゃたのか?本来、意欲満々、語り尽くせない程の夢を抱き、前途洋洋、恐れるものは何もない。
 思い返せば私の20代は当にそうだった。メンバーさんといる事が楽しくて仕様がなく次から次にアイデアが浮かび様々な試みをしたっけな。あれから30年!時代は変わった。
 施設長と話していると殆どが愚痴、誰にも言えない悩みを抱え、ただただ只管に職場に通う。前途に不安を感じながら今日一日が無事終わりますようにと祈る、とは言っても主体的にどうしたら良いのか思いつかない。
 もしもこれが福祉現場の実態であったならば、日本の将来は暗い。・・・・・・前項の情報に関して、ここ数年、研修会がやたらと増えた。それも受講料が高額になっている。内容は将来を読むと言いながら不安を煽るものばかり、上塗りを重ねるだけで一向に光が見えてこない。
『今の仕事誰かに譲って、どこかに行きたい者 この指とまれ』 ハーイ 。『みんな投げ捨てて ・・・・』 ハイハイ
 これはちょっと不味いでしょうか。禁句?
猫の餌を買いに行き、隣の書店で何気なく手に取った本、その題名は「人は死ぬから 生きられる」 脳科学と禅の真剣勝負という解説つき。盆の疲れを取るには、難しい内容など必要ない、けれども例によって買ってしまった。
 魑魅魍魎(ちみもうりょう)がうじゃうじゃいる世界、昔の人々は絵に描かれものから想像し、教えを請い救いを求めた。
 自殺者が一向に減らない日本、武士道という精神文化にあって切腹は平安末期以後から武士が自尽する風習としてあったという。人は必ず死ぬ。だから生きられる。分かったような分からないような話。
 死への恐怖がどうなのか?
昨日、某施設長と話していて、ガラスを頭で割って緊急入院された利用者の話が出た。似たようなケースはどこの施設でもある。でも どうして怪我するのが分かっていて頭をガラスにぶちつけるのか!
 これが大いなるナゾ。10人の人にガラスを割ってみなさいと言って、果たして無防備の頭で直に割ろうとする人が何人いるだろう?
 また一方では、自分の事は傷つけず、周囲の人に害を及ぼす人もいる。これが一番困ったもので、我々の役目としては周囲への被害を最優先して防ぐべきである。
 そこで生臭坊主の詭弁を許していただき、「死にたいもの この指とまれ」と言ったらどうだろう。「なんでまー。縁起が悪い、離れて離れて」という事になるまいか!
 そりゃーそうだわ。小生、どこかに行きたい者とは言ったが、人生に幕を下ろすとは言わなかった。アフリカには行ったことありませんし、アマゾンも観てみたい。だから生きられるんじゃないでしょうかね。月並派で申し訳ございません。

1249:行政の無駄

抜き差しならぬ状況があります。実は昨日、市の障害者福祉計画策定委員会がありました。敢えて疑問をぶっつけるまではしなかったのでしたが、事務局から説明があったので理解したのです。それは当に行政の無駄の象徴。
 つまり、同じような計画を国は2つ要求しているのです。一つは障害者福祉法によるところの「障害者計画」、それとは別建てで自立支援法による「障害者福祉計画」です。多分、私は2本の計画に関係していましたので、正直、どっちがどっちという混乱があります。『*土浦市は事務局からこの疑問を提案された、この事は重要ですね。』
 これは一体何が原因なのでしょうか?簡単です。法律策定の担当部署が違うからですね。それぞれが範とする仕組みは旧来からの踏襲でしかない。策定には膨大な時間と労力経費がかかる。
 これが普通市町村レベルでは担当者が疑問に感じない。異動によって最後までは関わらないからです。この二つの計画は、殆ど対象と内容は同じ、期間のズレがあり、整合性を持ちながら計画を作るという説明。一体何をもって整合性か?
 それに必ずと言って良いのでありますがプロの業者がいて、大体市町村はその業者に計画を委託している。これがまた?マーク。
お決まりのアンケート調査は、一般の人の計画に対する認知度は限りなくゼロに近いと出る。いかに周知させるかという話になると機能停止してしまう。それも頷けるのは彼らは計画作成のプロだが現場の経験はない。国が示すマニュアルに沿って作業を進めるだけである。
 計画そのものが重複するムダは一般の市民までは理解されない。するとどうなるか。計画が立派な冊子となり、本棚に仕舞い込まれるだけだ。
 私は今までに様々な計画に関わってきた。正直、疲れた。計画には目標を数値で表すのが一般的。しかし、その進行チェックとなると曖昧になる。計画はあくまでも予測を元に作られる。障害者施策の目まぐるしい変更の中で将来の予測ができないという実に困った状況があるのだ。
 前の車のナビはデーターが古い。そのためか良く地図上で道の無い処を走っている。ナビを頼る私も混乱するがナビ自体が困っている。これと似た状況だ。
 選挙戦の終盤、私は期日前投票を昨日行った。行政の無駄を省くといずれの政党も公約で上げている。果たしてできますかね。いま国会議員定数がどれだけいるか分かりますか?なんと722名、その内訳は衆議院480(小300:比例180)参議院242(選146:比例96)
 この削減をマニフェストの片隅に上げている。これが実態ホンネということですよ。国会にかかる経費っていくらだか知っていますか?やめとこう。
 つまり、自らが議員数削減に率先してあたるという決意がない。
だから、どうですか行政が複雑になるばかり、面倒な手続きばかり増えちゃって。これって根の部分では繋がっているんだから。
これだけは確かだ。陳情をする団体はあります。それって議会制民主主義では当然ですわな。しかし、定員削減を陳情する人はいないわな。相手が聞く耳もたないもの。
 さて、30日国民はどのような判断をするのでしょうか。
 

1250:選挙後課題

果たして日本も”チェンジ”政権交代ができるだろうか。
 大方の予想は民主党の圧勝である。ただ、選挙というものはあくまでも投票が終了するまではなんとも言えない。周囲ではどのような事も言えよう。仮に政権交代が実現した時に、与党として政策を実行に移す場合にクリアーしなければならない条件が山積している。その一番は財源、次に官僚との関係をどう持つのかだろう、更に重要施策として国の容である防衛問題、世界の中で日本はどのような役割を担うのか等など。
 全てではないが、今回の選挙で長く自民党を支持していた人で自民党に票を入れないという数が増えたという。これは一度下野して苦労を直に感じてもらいたいという親心と老害に嫌気をさし世代交代を願うという両面があると言われている。私も同感だ。
 だが、どうでしょうか?もしも自民党が野党になって次の選挙までに体制を組み直すことが果たしてできるのだろうか?
誰かが言っていた、「凡庸の団結」に期待するしかないと、要は今の自民党に”復元力”がどれだけ蓄えていれるかという事。90年代に大敗した時には残った議員に錚々たる人物がいた。その当時と大分状況に違いがある。
 暫く混沌とした政治が続くのであろうか。強力なリーダーシップを持ち、国民がそれに期待するという構図がイマイチ弱い。結局は国民一人一人が自国の政治に関心を持ち、その責任を負うことから再スタートするのが近道だ。
 自分は何もしないで利益だけはちゃんと戴くという輩が多すぎる。その人達に限って、ああだこうだと不満を並べる。
この状況が戦後55年体制の置き土産、与党も野党もぬるま湯に長く浸かり過ぎた結果だ。世界の動きがこれだけ急速に変化している中で従来の既得権益政治をやってきた。
 ここで出来上がった癒着構造(動脈硬化)を変えるには相当の覚悟と時間がかかるだろう。実績と責任能力を判断材料にと訴える党首の声も虚ろに感じてしまう。まだまだ政治の盛り上がりは少ない。冷めた目というのともちょっと違う。寧ろ諦めに近い感情かもしれない。賞味期限切れの政治家が地方にもどって必死に訴える姿は滑稽にさえ感じる。貴方は次に何をやるというのですか・・・・と逆に問いたい。答えは無いに決まっている。
 実は政治だけの問題ではない。
それは今までの座を守ろうとするからである。世界第2位の経済大国?守り続けて幸福になりましたか。
 いま必要なことは、今を守る事に血眼になるのでは無しに本当に必要なものってなんだろうか(国是)という基本に戻ることである。
 新型インフルエンザの大流行が俄かに現実味を帯びている。これを防ぐ事は至難のわざである。しかし、冷静に考えてみよう。今の日本人は防げる病気で命を縮めている患者が多すぎる。生活習慣病と言われるところの疾病だ。ある意味では贅沢病とか利便性の副作用と言われるもの。必要以上の栄養を体に身につけてしまった事で起こるメタボ、これなど貯蓄率世界1を誇ることと同根かもしれない。
 有り余った贅肉をそり落とすためにお金を払ってジム通い。これで経済が回っているかと思うと実に妙な話。
天罰が落ちるのは当然でしょうね。
選挙後の課題を想うとまたしても憂鬱になってしまう。考えないわけにもいかないし、皆さんどうしますかね?