源究64

 

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
791 教育現場 2/28 796 ホイッスルブロアー 3/7 801 烏兎匆々 3/12 806 交通安全 3/18
792 万歩計 3/1 797 近況開陳 3/8 802 形見のことば 3/13 807 春彼岸 3/20
793 劣化社会 3/2 798 運動の妙 3/9 803 檀信徒研修 3/15 808 日陰の梨 3/22
794 あの世のうた 3/3 799 邂逅 3/10 804 秘め事 3/16 809 かまえなし 3/23
795 施策への反映 3/5 800 気骨&ロマン 3/11 805 許し&希望 3/17 810 正常と異常 3/24

791:教育現場

今年になって急に目立ち始めたことがあるので紹介しましょう。大学からの案内資料が急増したんです。学生募集や通信教育での資格取得の案内。それから担当の教員が来園する事が増えた。一様に話して行く事は、福祉系の大学(専門学校)への入学者の激減であった。学科の維持が困難になったという「困った報告」。今年も入試が終わり、その結果が予想通り深刻のようだ。経営者より言われているに違いない。学生集めに行って来いと。この事態は、実のところ学生が教員を評価する仕組みが取り入れられた頃から予測できたこと。学生から学校が選ばれている。
 私も某大学の役員になっている。経営戦略は常に数字とのにらめっこ。後戻りできない中でいかに実効性のある対策をとれるか。これは教員一人一人の努力で打開できるものではない。
 少子化という流れが止まらない中で限られたパイを取り合うわけだ。教育の場で攻めの戦略とはなんだろうか?AO試験などの学生取り込みは今常識となり、どこも同様の方法をとるから効果が薄い。それじゃーと中高一貫教育の体制を作りターゲット年齢をどんどん下げていく。
 グループ内の大学に進学させるというには規制がある。そうなると折角初期投資したにも拘わらず最終段階で学生が逃げていくことも起こりうる。
一方、新聞に茨城県の09,10年度の予算の歳入不足が800億(2年間)という記事があった。(茨城新聞)基金も無くなり、どこから金を工面するのだろう。我々の福祉への影響も言わずもがな。そうなるとどうしますかという話。県債の発行。しかし、これも支出の見直しと同時進行でやらないと膨張する一方になる。これは大変な問題でいつどうやって返済するかという見通しが必要。
 人件費の削減を相当行ったという内容も記事には書かれていた。
しかし、求職者の傾向を見ると不思議に思うことがある。若者が公務員への就職を希望する割合が鰻登り。これは一体何を意味しているか。倒産がない!安定を望む?高給?将来の保障?技術系でなければどこに配置になるかわからない、それでも殺到する。
 仕事の中身ではなく、やはり安定を求めているのだろう。けっして派手さのない職場であってもこの傾向は根強い。
これが私学の教員のポストになれば深刻だ。教壇に立つだけでなく、学生の募集にまで駆り出される事態が現に起こっている。供給過剰の傾向は自然淘汰され、いずれ収まるところに収まる。しかし、教員という職種は、実社会では潰しが効くとは言えない。営業に長けているかといえば?マーク。何か特殊な腕を持ち合わせているかといえば?。ハローワーク通いも考えないと。実はここが今の教育現場の最大の弱点だと思っている。教科中心主義で長く、本に書かれている内容を棒読み(?)で教えてきたツケ。実践での生きた経験を持ち合わせていないから。最近の学生は先ずそこに反応する。魅力の持てる実践経験が教師側に有るか無いか。
 その一番の矢面に立たされているのが、福祉系の教育現場である。3Kというマイナスイメージを払拭するだけのパワーと気力が持てるのか!今の日本社会を冷静にみて、先行き不安を抱かない人は皆無、それは今に不安というよりも将来の自分にだ。義務教育の年代はそれでも良い。そして就職し、家庭生活を送ることもまだ他国に比して選択肢は多い。だが、その後の人生を如何に過ごすか。平均寿命からみれば20年〜30年という定年後の人生に大いなる不安を持つ。
 それを支えるには福祉や医療だけではなく、国の施策として日本の文化や歴史に習った生き甲斐対策が必要だと思っている。その一翼を担うべき宗教の果たす役割も当然大きい。しかし、現実の宗教界には多くの問題を抱えている。その一人が生臭を自称する私だという例の円の法則で墓穴を掘る。黙っていれば良いのに懲りもせずにこんなコーナーに書いたりするからだーよ。
 いやー俺は逆だと思うな!もっともっと宗教家自身が表の舞台に出るべきじゃないだろうか。遠慮しているという事じゃーない。何か影に影に身を隠すように思えて仕様がない。一宗一派の問題ではない。

792:万歩計

万歩計をなくしてしまい、また新しいのを購入。これで実に5台目である。今度のは目立つ真っ赤のものにした。芝生で仰向けになり、空を見ているのが好きで、その時にポケットから落としてしまう。分かっているけれど繰り返す。月や星を見ていると自分がなんてちっぽけな存在なのかという思いになる。
 昨夜は14名ほどの集まりがあった。土浦で私が会場を手配した。気楽な仲間達だから3つの円卓はそれぞれ話で盛り上がった。2次会を居酒屋で、金曜日だったのでどこも一杯、それでもやっと店を見つけ2次会を11時過ぎまで。私は帰るつもりだったが結局はホテルに泊まった。
 今日の万歩計は2千歩ちょっと。ノルマの1/5であった。
今朝の新聞を覗くと、労働局の不正が載っていた。職員が失業手当を操作してちょろまかした。どこかで見たことがある労働局の局長が写真に大きくのっていた。やはりなー。私は労働局との話し合いに今年になって何度も出席するはめになる。障害者の雇用や工賃倍増などの会議。正直な感想を語る。どうも労働行政の人達には違和感を感じていた。障害者を一体彼等はどう思っているのかという入り口のところでの疑問。これが払拭できない。そして先日その会議は終わった。正直な話、私はこのような人と障害者の雇用を真剣に話す気持ちにどうしてもなれない。
 ハローワークの動きに対して、社会保険庁と全く同レベルの窓口対応を感じた。それに法務局もしかり。今、電子化が進み謄本などを短時間で取ることができる。そして昼休みも今は営業している。だが、私はここだって体質が変わらないとおもうよな。職員同士で余計な話をしながら事務をしている光景だ。先日印鑑証明を取りに行く。窓口の対応は早かった。しかし、コピー機から出てくるまで脇の職員と自分の子供の話を笑いながらしゃべっていた。これは銀行などの対応とは全くちがう。
 行政のモラル低下を議会でつつく、しかし、つつく議員の後ろ席に以前として居眠りこけている先生がいらっしゃる。次から次に露見する失態、長い年月、責任を逃れる術だけを一生懸命になっていた牙城(聖域)だ。もう嫌だ。ふざけんな!税金泥棒!
 指定管理制度一つにしても割りの良くない仕事を民間に委託し、仕事の内容に比して見入りの良い事業は決して放さない。
これはまずい。 まーそれを許す我々もどうかと思うがなー。「これがお人好し住田の限界点・・・」
 さて、土浦は最近、駅東口がホテルラッシュ、東横インというチェーンホテルが開業し、低価格で殴り込み。昔からのホテルはリニュアルしたり価格を抑えたり、パックプランなる様々な嗜好をこらして生き残りに必死である。
 価格を抑えることでその目減り分を、業界は人件費を抑えることで対処。ホテル代はチェックイン時に前払い、部屋内の利用はプリぺードカードを使い、フロントでの業務を簡素化させる。
 客への対応も当然、無駄口など話しているフロント係は皆無。
この違いは一体どこからきているのでしょうか?私は提案したい。官公庁の職員全員に万歩計を持たせるべきだと。
議会で取り上げるか否か????

793:劣化社会

【やばいぞ日本】という座談会(産経新聞)で気になった言葉。
宮家邦彦氏の弁、「私が印象的だったのは、ままごとで『お母さんの役のなり手がなく、子供たちはペット役をやりたがる』という記事です」これは既に日本の子供達の世代から変質が始まり、劣化がかなり深く進行していることを指摘したもの。
戦後日本人は国民一丸となって頑張り、豊かさを獲得した。しかし、そのあと一体どこに行ったらいいのか方向性を見失った。その彷徨いの中で次から次へ問題が起こる。その解決の糸口さえ見いだせないでいるのが現状だ。
縦軸の人間関係を軽視し、横軸の平等主義を賛美・選択し、その結果親子の関係や年配を敬う心がどこかに置き忘れてしまったのではないか。また競争社会の中で人間の関係がライバルや怨念といった相手への憎しみを強化してしまった。親子の殺戮など悲惨な事件が後を絶たず、蓄積した嫉妬や怨念が外に向かえば殺意となり、内に向かうと自殺を引き起こす。 外にも内にも向けることができない人間は行き場を失い鬱になる。この病的な社会現象が日々増長されている。
 今の日本の現状を見事に分析してみせた。
「退路絶つ」という言葉を政治家は良く使います。果たしてその言葉の本来の意味するところは、政治家を辞める覚悟をして事にあたる意味でしょう。それが社交辞令と化した陳腐さ、国民誰もが「ヘーそれじゃーやってみて下さい。言葉だけじゃないの!」と冷めた目でいる。
 別に防衛大臣の事を言っているのではない。与党も野党も皆政治を志す人間にだ。日曜討論の一こま、野党の議会運営責任者の弁が気になった。「政府は代案を示せと言うが、本来政府が示すべきもので筋が違う。それを言うなら政権を任せて欲しい・・・・」これってどう思います?これもまた国民の真意が掴めていない。政権を経験したことがないという不安を払拭するにはどうあるべきか、もう少し批判ばかりするのではなく方向性を見失った今の日本人に対する危機感が無さすぎますよ。
 特に国防など重要な問題に関しては、単に批判しあうだけではなく、築き上げる努力がなければいけないと思う。
そのピントのズレが一向に改善されていない。大臣の民間から採用があるのだから、野党から防衛大臣を選んでも良いんじゃないの?出来ない理由があるのでしょうか?殊、国の存続に関する事案ですよ。
 実は私の場合の事情も深刻です。それは尚恵学園の方向性である。理念ばかり先行しても実際にどうすれば実現可能となるのか?その最低の条件が危機感の共有・温度差を無くすことである。
 一番は人の問題、職員が一丸となって立ち向かう状況に早く体制固めをしなければいけない。来年度の研修に以前実施した法人独自の自主研修を計画した。年間を通じ1日〜5日間、研修内容は自由、経済的時間的な保障を行い、3月一杯の期限で常勤職員全員に研修希望を募ることとした。国の内外は問わない。この狙いは敢えて言うまでもない。法人の掲げた理念の実現である。創意・工夫・責任・真心の4本、今ひとつ満足したものとはなっていない。近年多すぎる位の研修の場は用意されているが、順番・義務的な参加では、どのような内容のある研修でも実行に移すまでにはいたらない。自主研修の金銭的な助成は1件につき10万円とした。海外の場合は不足分は自己負担、期間もオーバーすれば年休を利用する。
 唯一条件を出したのは、研修の目的と報告を徹底するということ。一年を通し何本の研修が出るかわからない。しかし、最後に報告集を作成し、年度の終わりに、全職員:家族会の前で発表を義務付ける。
 正直、手探りの状況である。だが、国の制度の不備や方向のぐらつきにいつまでも翻弄されているわけにはいかない。
 私も申請しようと考えている。それはドイツでのグループホームに実際に入寮して体験してくることである。
 

794:あの世のうた

丘灯至夫という作詞家を皆さん知っていますか?それ誰?
舟木一夫の高校三年生の作詞をした人ですよ。今朝のこころの時代に出演していたんです。これがまー福島弁丸出しのズーズー弁、担当デレクターが先輩の佐野さんでした。「あの世のうた」という詞を作ったという。ラジオだから正確性に欠けるから聞き違いだったら勘弁して下さい。でも小林亜星に曲を頼んであるから・・・・。まんざらジョークでは無いようだ。丘さんは大正6年、福島県の小野町に生まれたから92歳になる。小野町には丘灯至夫記念館もできた。名誉町民第1号。その歌が例の如くピーンと私の心を打ってしまったから、もうダメ。このページを書いている前に佐野さんにメールで正確な歌詞を教えて欲しいと打った。妙に頭に残ったのは・・・あの世から誰も戻ってこないからいいとこなんじゃーねーだろか・・・・という話だった。
 90歳のお年の重みもある。それに日本をこよなく愛した丘さんの言葉だから尚更だ。もし、その歌詞の全文が手に入れば
公開しますよ。
 それでだ。あの世が楽しかったらどうだんべー。(いつのまにか丘さんのズーズー弁がうつってしまった?)先に逝っちゃった人と又会えるとなればなー。この世でそんなに腹たててガツガツしてよー。生きたって仕様があんめー。
 それにこの世でクヨクヨしたってなー。あの世が楽しけりゃーそんで よかっぺーよなー。
 国の借金? かもうもんか!ドンドンお金印刷すればよかっぺー、紙代とインク代、大した事あんめー。
 日銀総裁が誰?そんなこと知ったこっちゃーねーよ。
そんな格好ばかり気にすっからよー。ダメなんだー。福田さんが漁船事故の家族に謝罪に行ったー!当然です。
 防衛大臣を罷免せよなんて野党の連中がツバ飛ばして粋がっていたけどよー。福田さんが行方不明の親子のお宅をお暇する時によ、家族の方が「石破さんが辞めるなんて言わないで、一生懸命がんばってやって下さいと伝えてください」と言ったそうじゃないですかー。これが本当の気持ちだよ。責任の取り方ってこうじゃーないの。俺はそう思うよ。だって辞めたほうがずーっと楽だし、この辺が野党のズレなんだよなー。何が大切かわかっちゃーねーんだよ。つっつくのは一番楽な役回り、だったらおめーがやれば、そのような時代がきた時によ。その時逃げないこっちゃー。
 実はそういう私も辞めたら楽だっぺーなー。あの世のうたねー。早く知りてー。♪♪

795:施策への反映

茨城県では88あった市町村を合併により44になっている。県の人口は297万人強で今年度は若干の減少を見ている。
昨日、障害者団体の会合があった。某団体への市町村からの助成金は年間5万円から100万円という市町村によって幅があるという。市町村窓口も大きな格差があり、県全体での福祉行政のレベルアップが今大きな課題になっている。県の役割も事業と金が市町村に直接入る仕組みになって、関わりが微妙になってしまった。
 知的・身体・精神の家族団体と事業所団体の連携の場を是非とも設けたいという私の提案、関係団体長の了解を得て、昨日某会合の後集まって話をした。ここで問題が有ることが判明、それぞれの団体が社団法人化し、事務局体制も出来ている。 ・・が事務局長が2年という決まりがあって3団体の内で2団体がこの3月で局長が変わるとのこと、出鼻を挫かれてしまった。私どもの局長は1年ずれており、もう1年ある。そこで風向きが急に我々の団体に向けられてしまった。
 さーていざ具体的な活動をとなるとむずかしい。障害者の団体は長い歴史があり、障害の種別事に組織化されてきた。枝分かれしてきたそれなりの理由もあってのことだから、今更まとめるなんて事はできない。だが現実はといえば、末端組織では3障害に明確に分けることにはなっていない。会員も複数の団体に加入していたり、表の看板とは違った障害で会員になっている実状がある。(未分化) 心身協は社団になるときに身体と知的を一本化し、種別の協議会も平行して行っている。
 今年、県で障害者の自立支援協議会を発足する。これは市町村協議会への指導や県全体の平準化を目指す目的があると伺った。一方、土浦市でも既に協議会を発足し、活動を開始した。中学校単位で組織化し、毎月実行部隊が会合をもち、行っている。
 具体的には在宅障害者を受け入れて作業などを行っているようだ。関係者だけの取組は今の流れに棹さすことに成りがち、一般の人に如何に浸透をはかるかが最大の課題である。市の福祉計画も立派なものができている。計画を実行に移し確認をする。この流れを具体的に築く狙いが自立支援協議会の役割だと認識している。
 そこで原点に話を戻す。地域ごとの実態把握ができていない。EX)団体の実態(数・活動内容など)予算(市町村助成金・自主財源)地域資源(事業所。実績)首長や議会の動きそれに市民参加の活動の現状・・・・・・
 現実は行政の窓口の体制も脆弱な市町村もあり、計画倒れになっている所が多いと推察する。否、計画を作成することが目的化され、実践までチェックがまわらないという悲鳴を良く聞く。
それに、少子高齢化という時代背景から生じる新たな問題への解決糸口を見いだせない。事業所に取っては人材確保、利用者団体に於いては自己負担の問題、それに市町村においては財源の捻出の問題。
 それぞれが問題の大きさの前で立ち往生している。
私はこの閉塞感をどうにか脱したいと考えている。それには議員を含めた勉強会(実態を掴むこと)を設けてはいかがなものか?利用者&事業者&行政&議員&市民  この組織の延長上に自立支援協議会があるべきと考えるがどうだろうか。

796:ホイッスルブロアー

高校時代はサッカーに明け暮れた。ホイッスルブロアーはサッカー競技の審判笛を吹く人という意味だ。しかし、最近注目されている「内部告発者」という意味があるのもご存知でしょうか?城山と澤地の対談にその事が触れてあった。
個人情報保護法との絡みで、・・・・日本の社会には「もの言えば唇寒し」の感覚がまだ浸透しています。さらに裁判所や官庁など公的機関が情報を秘匿する絶好の口実としてこの法律が使われる・・・・・と。情報の隠蔽と公開は相矛盾するものではない。大義を通すのであれば、その目的は同じ。
 此岸の世は声を挙げない者にとって住みにくいのか。器用に変身できる者ばかりではない。成年後見や代弁者という役割は道を踏み誤れば犯罪となりうる。そして、内部の実態を世に暴露するホイッスルブロアーなる存在の是非は異論が多い事も知っている。
 厚生労働省や国土交通省の実態が何故今頃になって次から次に露見するのか?これは間違いなく内部からの告発である。
最近、寒気がした話があった。ある県の某法人が地元紙でやり玉にあがった。どうして情報が流れたのか!それは県の担当者からのたれ込み、それもたれ込んだ張本人の親は同じ福祉事業を行う法人の理事長であったという。許されることではない。
 福祉の業界にまでM&Aの波が押し寄せている。これに呼応して国は小規模法人の吸収合併を推進する方針を示した。俺には関係無いと無視するには穏やかではない。私は職員数300人以下の法人は小規模と思っている。茨城県には大規模法人などない。職員数2000人から3000人規模の法人が全国には存在するからだ。
 補助金頼みで自立していない社会福祉法人などマスコミの餌食になればたまったもんじゃない。事業所認定取り消しは,即退場のレッドカード。申し開きさえ許されず、観衆の冷たい視線を受けスタジアムを退散する以外に方法はない。
 そこで、我々法人として対抗する方法はどういうものがあるかと考えた。結論は「我が身をきれいに!」という事しかない。
 今週は1泊の研修が3回あったからメチャクチャ。違ったホテルの狭い部屋での寝心地は私には良くなかった。睡眠不足、朝は目が充血しショボショボ。しかし、会議に参加するにはそれなりの期待があった。障害者自立支援法の導入から始まった国とのバトル?、私は実際にその場にいないから真実は知らない。机を足蹴りした場面もあったとのこと、本当かいな?
まーいいや。しかし、どうも最近の関係者の真意は違ったところにあるように思ってしまった。それから抜本的な改正に関して、何度聞いたことか!でも肝心な点は霧の中でしょうよ。
 介護保険で報酬単価が下がった。そこで事業者の巻き返しが全国展開され、3年後の単価見直しとなる。実態が明らかになって報酬単価が下げられた。この経験が何を示しているのか?よーく考えてみな。
 そして、福祉に人材が集まらない状況が何を意味しているのか?よーく考えてみな。表と裏を使い分ける土壌は福祉に合わない。さも自分が先頭に立ち、討ち死に覚悟でがんばっていますーってか。
 よーく考えてみな。自分の足元からホイッスルブロアーが出ないとも限らない。
*危なくレッドカードを受ける事態がありました。東京での研修会場に緊急の携帯がなった。今、学園の裏山が燃えている。
Nさんが落ち葉を燃やしていて竹藪に火がまわった。消防車が3台、それにパトカー。学園は会議の日で全職員が出勤していた。運が良かった。消化器とバケツリレーで消防車が来る前に鎮火。
 現実に無為にすごす時間など無いはず。2日目は途中で研修会場を後にし、関係者に謝罪に行ってきた。地域からの反対が起こる可能性は理屈じゃーない。いくら福祉論を声高に訴えても駄目なものはダメ。これ現実です。

797:近況開陳

イエローカードを一枚もらった常態で過ごしています。もう一枚もらえば退場、そんな心境です。俺だって同じだよ!と言われますね。そう、どうして世の中がこう忙しくなってしまったのでしょう。考えられる原因の一つは,あまりにも便利さを求めすぎた結果から生じたものですね。
 一つの事に集中できない。重層的な生き方を余儀なくされている。一人の人間がそんな器用にできませんよ。それが一番の原因です。変なもので電車などに乗ると何かホットするんですね。昔とは全く逆、携帯から解放されているという安堵感?目的地まで身を任せるしかないという諦め?今日も法事と通夜の合間に東京に行きます。任せれば良いこととは思うのですが、これが私の性分、自分が立ち上げに関わった団体の役員会があるもんで、・・・また駅の駐車場で法衣からネクタイに着替えて出席する。背広に白足袋というイデタチには注意して。
 確かー2年前だったなー。こんなに用事が増えるなんて予想もしていなかった。煽てられて木に登り、引き受けてしまったのが運の尽き。それに時期が最悪でした、緊急の会議が続く続く、昨日の会議で熊本の施設長が月の大半を東京で過ごしているという話があった。執行部はそうだろうな。まだ私など良い方だ。だが寺の用事は予定が全くたたない。これだって考えようだ。誰か他の坊さんに頼めば良いのにと思うでしょう。これまた私の性分で許さない。だから今日みたいな車の中で着替えるハメになるのだ。経本忘れ数珠忘れ、知っているお経を何度も何度も繰り返す、こんじゃー仏様も浮かばれめー。だって葬儀10分で終わるわけにいかねーもん。そんな時に袈裟かけた同業の弔問者がいたりすれば内心火の車。
 昨日、団体の役員改選の理事会があった。誰か代わってくれないか!それが言い出せない雰囲気をモロに感じた。お前途中で逃げるンか!という視線。そりゃーそうだわな、今の混乱期にハイサヨナラというわけには如何わな。結局、あと2年やるハメになってしまった。
 そんな会議の中で、東京での全国代表者会議に出席した理事から部会の報告、その部会(児童)は大もめ。執行部批判!福祉協会を脱会すると言う不穏発言も飛び出す状況だったという。以前からあった火種が追い風を受けて勢いを増して燃えだしたわけ。
 いずれの団体もそうだ。執行部への批判は付き物。期待した通りにならないと不満が燻る。形を築く前に崩壊することも屡々。今日の会合は施設保護者連絡協議会(施保連)の関東地区会議。茨城は最後に組織化が漸くできた。それで全国の仲間入りまでこぎ着けた、何故今まで遅れたかその理由は???。だが施設側が大騒ぎしている割りには利用者の家族はノンビリ構えている。これが茨城の現状。多分「そんなこと言ったて施設から出されないよなー」という涼しい顔。またそんな団体作って忙しくなるだけだんべーだもんな。やんなっちゃうよなー。これって県民性???心中穏やかじゃないよ。勝手にしろーと放り投げたくなるでしょうーが。そこを抑えて抑えてと2年間耐えたんです。
 イエローカードは故意にもらうこともできる。そうすればどれだけ気が楽になるか。立つ鳥、後を濁さずに憧れる。
これ以上書くと愚痴三昧になるのでやーめた。
 昨日嬉しいことがありました。NHKの佐野デレクターよりこころの時代のダビングテープを送ってもらった。例の91歳の作詞家・丘灯至夫さんのこころの時代のテープ。「あの世の歌」の歌詞が知りたくてお願いしたら早速送ってくれた。
丘さんはひどい(?)ズーズー弁(福島弁)、それでもって元はNHKのアナウサーをやっていたという。公開生放送で出演者が入れ歯を無くし、スタッフや出演者総動員で捜し、火鉢の中に落ちていた入れ歯を捜し出し、本番にどうにか間に合った話、福島県人は頑固者でしょうというアンカーの質問に「会津は頑固者、でもわたしゃー中通りだかんな・・・」「いや、奥様が丘さんは頑固者ですよと言っていましたよ」と言えば、小さな声で「・・・女房がね、・・・そう言ってましたか・あーそう言ってましたかねー・・」と恥ずかしそうに受け応えた。
やれやれ人生ほのぼのと生きたいものでございますね皆さん!。以上近況の開陳でした。やりてーよ。 
 

798:運動の妙

物事を進めるにはそれなりの手順を踏まないとまずいことになる。昨日は大変な思いだった。午前中の法事を済ませ、駅駐車場で洋服に着替え、特急に飛び乗った。ホームの山菜ソバが熱くて閉口した。上野より地下鉄2回乗り換えて東日本橋(浅草線)土曜日のせいか浅草は人でゴッタ返し、会議の会場に少し遅れて到着。私の着くのを待っていてくれたのか?
 関東7県の施保連代表が集まっていた。早速会議に入り、各県の活動状況報告、千葉や神奈川は積極的に事業を行っていることが配られた機関誌より推察できた。さて、困った。茨城はどうにか執行部の組織化ができたばかり、正直に言おうと腹を決める。
 組織の在り方は、各県全く違った。施設保護者の協議会だから会長(責任者)の意気込みで活動内容が全く違うことが分かる。
栃木の方は、自棄に丁重に皆さんの活動の足手まといになるのではと心配した報告、長野は施設協会の中に事業所と保護者の2本立て、この体制を長く行っていて特に問題は無いとのこと。埼玉、群馬と報告が終わり、次ぎに茨城。
 用意した資料は執行部の名簿のみ、それを事務局Kより配り私が説明。やっと組織化ができ、全施連に加盟することができますと最初に報告すると、皆さんから拍手、想定していなかった。これに気を強くして実態を話す。「これからの活動は事業所や利用者団体の一方的な運動ではいけない、寧ろ共闘していくべきだ・・・・・」と持論を話す。「1年前と大分趣が変わってきませんか?障害区分が3以下でも希望すれば入所継続ができるという改正になってきたようですし、」頷く方も何人かいたように思う。しかし、逆に睨みつかれた人も若干いた。それも分かる。「当然だ。だが根本的な改正にはなっていないだろう!ここで手をゆるめては元の木阿弥になるだけだ・・・・」その意見は充分に理解できる。そうなんです。抜本的改革と称する報告書を見ても合格点にはほど遠いからである。
 15分ぐらい話しただろうか、通夜があるからと弁明して退席した。上野から4時半の特急で土浦に戻る。車の中で再度法衣に着替え、通夜会場に向かった。通夜開始15分前だった。
 さて、運動を展開する場合、どうしても執行部と動員される人達との温度差が出る。仕方がないことだが、障害福祉の歴史を見てみると、先輩達の努力は今の比ではない。何しろ既得権益を守るという事ではなく、何も無いところから築いてきた。
 昨日の会議は私だけだった。現役の施設長は、他は家族の皆さん。どうも立場の違いで今一番何が重要な課題なのかという点でズレを感じた。
 家族会の事は別として、事業所は人材の確保が最優先課題である。それは現行報酬単価を上げることで結果として人件費に廻せる金を増やすという流れ、ただ、単価改正は人材確保の条件の一つで全てではない。
 むしろ、国は適正な給与を支払っていないのではないのかという不信が大きいのでは。
 新年度になると国は法人の財政状況の調査に入るという。本当に赤字経営を余儀なくされている事業所もある。その一方では潤沢な資金で決算書の公表を躊躇している法人も皆無ではない。私の法人も入所型の施設が主体で51年目、これから10年以内に大規模修繕ではなく全面改築を行わなければならない。そのために出来る限りの基金積み立てを堂々と行っている。それがあるからダメだという国の指導がもしあるとすれば、直ぐにでも旗を永田町に向ける覚悟である。

799:邂逅

出会いと別れ。
 誰しも人生の中で多くの人との出会いを経験し、そして別れをも、その一つ一つの思い出が自らの人生ノートを彩ってくれる。「邂逅」私の好きな言葉。昨日また一人の老人との別れを経験、その方が丁度7年前に私の寺に突然訪れて自費出版された「双峰」なる立派な本を頂いた。そして本の中に自らペン書きしたものだろう。ご詠歌や和讃が便箋3枚に書かれ、自分が詠じたご詠歌をテープにして置いて行かれた。その方が83年の人生を閉じた。それも突然梗塞で倒れ、病院で翌日亡くなったのである。その本を改めて読んだ。4歳で水戸に移り住み、ご両親を立て続けに亡くされた。お二人とも三十代前半の若さであった、その後叔母さんに預けられ幼き二人の弟との生活。昭和二十二年現在地に開拓として入植、奥様との二人三脚の農業で生計をたてた。子供に恵まれなかったご夫婦は親戚から養子を迎え、老後は何も心配することもなく過ごせるはずだった。
 奥様が体調を悪くし、その介護を自ら行い、俳句や短歌それにハイキングなど多くの楽しみをもって元気に暮らしていた。
 あまりにも簡単に旅だっていかれた。その方らしい生き様、葬儀の前に弟子の方がご詠歌「追弔和讃」を唱えた。
***人のこの世は永くして、変わらぬ春と思いしに、はかなき夢となりにけり、
       あつき涙の真心を、みたまのまえに捧げつつ、 面影しのぶも悲しけれ、然はあれどもみ仏に、
           救われてゆく身にあれば、思いわずろうこともなく、永しえかけて安からん
         如来 大悲の恩徳を つつみとのうる ご詠歌に。*****

 人の命の儚さは 身近な人を失って感じる。しかし、最近の私は年を取ってきたからなのか、死んでその先のことを
 決して悲観的に思わなくなっている。この世をかりそめの地と思えば、何をクヨクヨする必要があるものか!あの世を
友との再会と考えれば、涙にくれる事もなし。
 それにはこの世での生き様に悔いを残さないことも大切、最近の若者を憂う人が多いように感じる。この世での人生はせいぜい長生きして八十年、その短い時を迷い続けて生きることはどんなものか!
 釈迦に説法ではない。福祉に生き甲斐を感じ、なんらかの足跡を残す人となれ!私の福祉の師である糸賀先生は54歳の若さで亡くなった。しかし、齢の長短ではない。先生の残された生き方、その思想が今も脈々として我々の心の中に生きているではないか。指導を受けた妹尾先生・池田先生へ感謝。
 昨今の政治絡みの遣り取りに辟易している。協会の執行部に物申す。目先の事に右往左往する生き様はみっともない。
会議に参加するごとに嫌な気持ちになるのは私一人であろうか? 執行部への影口、決して一枚岩ではないこと明らかなり。私はなんと言われようが我が道を進む。福祉論議を党利党略に利用されて良いのか!国地方全ての議員が同じ土俵で討議し築くべき事、その根本的な所がズレ始めている。抜本的改正は法律そのものの改正ではなく、事業者や利用者を含め、全ての国民の生き方への警鐘である。現在の協会執行部一人一人の努力は理解している。だが地に足を着けず何かに踊らされているように思えて仕方がない。貴方達にとって福祉の原点はなんですか?????

800:気骨&ロマン

現代をどう見るか?太平の世とは言い難し。されど捨てがたいわなー。巷には物が溢れんばかり、地方と都会の格差とは言っても飢え死にする事態にはなっていない。「静謐の世」という言葉は耳慣れないと思う、が・・・・先の大戦末期に片道だけの燃料を積み特攻隊として死を覚悟して飛び立つ若者がいた。見送る者達は抑えきれない涙を流し、静謐の世が訪れることを祈ったという。
 静謐とは世の中が穏やかに治まることを言う。嘗て日本の障害福祉を支えた先人は、今の我々に何を望むだろうか?
今の実態をどう思うか? その事を良く考えないと取り返しのつかない方向に足を踏み出してしまう。
契約制度に切り替えた意味が薄れている。利用者と事業者の対等の関係が保たれているか?否。
 私はもし本当の意味で対等なサービス関係を築くのであれば、費用は利用者個人の口座に入るべきであると考える。事務的な煩雑さを危惧して一括して事業所に入るシステムを取っている。まーこのような事を言ったならば業界の人に気が変になったのではないかと思われるかなー。
 だが、対等の関係には自らの意志でサービスを選択(買う)できる関係が条件でしょう。現実にはそうなっていないもんな。
私の法人のスタート時(昭和31年頃)、自由契約によって預かった利用者が何人かいました。費用の全額を家族が園に支払うものでした。当然家族は園に対して感心が高かった。その後自分が費用を出しているという感覚がない措置時代が余りにも長く続いた。そこに変革のメスを入れようとしたのが、今回の制度の改正であったと理解する。かつて制度ができたことで失ったものがあることは、関係者はあまり言わなかった。その中で一番大きなものは親子の絆。
 依然として社会的な認知がなされていないことの大きな原因がそこにある。家族会の訴える要望に利用者の負担金の軽減がある。確かに所得保障が充分でない中での現行負担額は重いと感じる。所得(年金額)が充分になされれば、決して今の食費の負担などは望外な金額ではなく、むしろ安い位だと思う。ホンネの部分は今の利用が出来なくなることへの不安。
 私が福祉の世界に飛び込んだ時代はロマンがあった。こうしたいという夢や憧れ。全国には魅力的な実践を行っている気骨ある先輩がおり、電話1本で見学に良く出かけた。快く受け入れてくれ、夜遅くまで話し込んだ。そこでは家族職員経営者という垣根がとっぱられた実践の姿があった。団体毎にどこの政党を押そうなどというチンケな行動は異端視された時代、国全体に訴えた。言うだけでなく行動が伴った。
 気骨ある人間とは、硬派で正義感が強く、愛情豊かで優しい。いつまでも少年の心を持ち続け、ちょっといたずら好きな人。これは当時そのような人間を育む土壌があったということだろう。
 皮肉たっぷりで言わせてもらえば、今の世は
 軟派で正義感が無く、自己中心的で冷たい、何か全てを分かっているかの如く振る舞い、紳士気取りをする人が増えていませんか?
 誰もが望む静謐の世は、まだ此岸の世界にはない。
これから福祉を支える若者に嘗ての気骨ある夢を語れる大人達の存在はどうした、実は制度を作るのも人間、それを実践で息を吹き込むのも人間という事を忘れていませんでしょうか?  エッヘン!!
 
 

801:烏兎匆々

明け方、本当に久しぶりに”夢”をみた。これが自分でも説明がつかない。
 場面は坊さん達の宴会席。どこかの温泉にでも行ったようだ。トイレに立つ自分が妙な音に気づく。その音は停電中に鳴る電話のベルの音のようだ、しょうがねーなと電話を取る。「ちょっと、女将さんに変わりますからそのままで」と言われ待つ。すると女将らしき女性が電話口に。テンションの上がった調子で捲し立てる。「お宅さんで呼んだ人がお勘定がまだ払ってもらえないと怒っていますよ。東武ホテルでお頼みになったようですが、どうするんですエーエ!」(ここで東武ホテルという実名が出た。これが理解に苦しむ)・・・「私にはわかりませんね。誰かがコンパニオンさんでも呼んだんですか?」と尋ねる自分。
 「違いますよ。浪曲師です」ときた。「誰が浪曲師をよんだんだ!それも2次会にだ。良し、私が責任をもって犯人を捜しますよ」とその女将に答えて電話を切った。
 以上が久しぶりに私がみた”夢”だった。
『烏兎匆々』(うとそうそう)・・・・・歳月が慌ただしく過ぎ去ること。年を取ったからなのか?昔は良く夢に魘されて目を覚ましたもんだ。でもなー最近は全く無かったのよ。それが久しぶりの”夢”がこれだもんなー。
支離滅裂というか何がポイントで相手が何を要求しているのかがさっぱり分からない。これって迷走する障害者自立支援法と何か似ていない??そうか深層心理学的に言えば底の部分で確かに通じている。そうか正夢だ。
 昔、このコーナーで我が家の住人・猫のハナの事を紹介しましたよね。最近、少し気温が上がってきたので、布団の中に潜ってこなくなったんです。
そのかわりに私の枕を半分占領し始めた。寝返りするとハナが枕に頭を乗せうつ伏せで寝ている。そのハナが昨夜は3度出て行った。トイレらしい。回数を数えている私も私だ。烏兎匆々。確かにねー。若くて可愛いかったハナも歯が抜けて、昔の面影はない。夢の中でトイレに立つ私はハナの行動とここでダブル。なるほど。これで納得。烏兎匆々。
ハナは三毛猫です。野良ちゃん2世ですが、生粋の観音寺生まれ。

802:形見のことば

最近話題になった遺産何十億の現金を自宅のガレージの段ボールにしまって置いたという話。10億まではお金を数えたが疲れたので止めにしたという。開いた口が閉まらない。羨ましいというよりも日本中の誰しもが信じ難い出来事として受け取ったと思います。何しろ重さにすれば580キロとかいうんでしょう?
 それに東京お台場に最近出来上がった高層マンション最上階の値段が3億9千万円だって。壁一面がガラス張り、東京湾を居間から一望できるという売れ込み。私みたいな高所恐怖症には無理だわ。そんな心配は全く無いのだが一応言ってみたかった。
 そこでですよ。私が腑に落ちない事を白状しますが、施設を利用されている場合は障害年金などを施設で管理している場合が多いようです。それが不幸にも本人が亡くなったとしますね。お金をどうしようかという話が必ず持ち上がる。
 様々な人間模様が出るんですね。最近聞いた話です。お葬式を園で行って欲しいという家族の希望で仲間達で見送ったそうです。数日後、家族が遺品を整理に来られて施設から年金の通帳を渡されたという。その時は確か4人の施設長で雑談していたんです。「お世話になったから年金の半分を園の為に使って欲しいと渡された」それを聞いていた他の3人の施設長が開いた口が閉まらなかった。
 実はこれは微妙な話なんですが、双方に取って大きな意味があるんですよ。「全て家族で分けるから全額受け取る」場合と「お世話になった気持ちを園になんらかの形で残していく」
 私のホンネ、決して理事長が自分のポケットに入れるわけじゃない。そんなことやったら腕が後ろにまわる。そうじゃなくて一緒に生活した証として何らかの思いをお互い示しましょうよ。  これが日本では寄付の強要などとマスコミの格好の餌食になる。何も知らないくせにそんな事を記事にしなさんな!
 そして次なるホンネとすれば、「もしも家族が全ての預金を持ち帰るのであれば本人が生きている間に全てを彼の為に使ったほうがまし」という考えにまでなる。これをストップさせている大きな理由がもし将来何らかのお金が必要になった場合を考えて貯金して貯めておくというパターン。ならば「なんらかの金の必要」って何があるだろう?良く分からない。
 国は見直し作業の一環として、近い将来、全国の事業所の財務状況の調査を行うという。剰余金やら基金積立額を調べるのだ。
それをやるのであれば利用者が現に保有する預金のトータルを調査することですよ。日本人の島国根性は、利用する場合の自己負担を軽減するために本人口座の残高を多くしないという事を考える。何故堂々とできないのか?
これが腑に落ちない。障害者の所得保障の論議が一向に進まない一つの理由が双方の不信感なのです。
 まーどれだけの金額になるかは分からない。でも社保庁のムダ遣いからすれば微々たるものでしょうが。今の日本人の倫理観の低さは既に末期症状にある。
 子は親の形見の言葉を大切にするものです。知的に障害を持つ人にとっての形見の言葉が余りにも蔑ろにされていませんか!
形見の言葉を託す、これは家族にとって一番の役割だと私は思う。
彼等が精一杯生きた証を家族が認めなくて誰がしますか?事業所?違います。契約制度を導入した時に事業所側に義務化されなかった役割の一つ。小児科や産婦人科の医師不足と根本では通じている日本人の価値観です。
 リスクへの弱腰の態度は、至る所で問題を噴出させている。
 

803:檀信徒研修

昨日はつくば市のホテルを会場に檀信徒研修を実施。100名を超える参加者がありました。県南地区を担当する支所で約130ヶ寺があり、1年に1度だけそれぞれの寺の檀家さんを集め、研修会を開催しています。その担当に運悪く?なってしまったもので任期4年の最初の1年目ということでした。私の前任者の坊さんの70分ほどの講演、正直ゆっくりこの方の話を聞いたのは初めて、全国的に活躍されている。博識というか話術は場数を重ねているためか関心しました。
 その後の質問時間15分。これが鬼門でありまして、私とその坊さん二人への参加者の質問コーナー。まな板の鯉。
参加者の中には同業の坊さんもおり、何を答えるか興味津々といった感じ。
 質問の中に、鐘楼は何故有るのか?がま口みたいなものをなんでたたくのか?と言った質問がありました。講師の先生はお得意の分野、マイクを握って上手に回答されていました。脇で私も感心して、へーそうだったんですか!そんな事考えたこともねーな。
さぞ、質問者には心持たなく思われたに違いない。がま口ってなんだろうか?逆に尋ねたくなった次第。それは木魚だと判明。
 仏教豆知識なる本は書店の宗教コーナーには沢山並べてある。私はそのような本は全く興味なし。
どちらかと言えば本筋からはズレていると頑なに信じ込んでいる。仏教とは何か!そのような話になれば、私の得意とする領域になるのだが、如何せん設定が違いすぎた。
 次年度の研修を考えねばならない。
こちらは坊さん対象の研修である。ひとつ提案したものがある。葬儀屋さんの話を聞く会をやったらどうかと。
 決して商業ベースに我々が乗ることではない。寧ろ逆である。土浦には斎場銀座なる場所がある。あるはあるはパチンコ屋さんまで改装し、葬祭場に変身。当然、どこどこの斎場は後の請求が高いなどという噂が乱れ飛ぶ。
 だが、彼等の起業理念にある意味では我々坊さんも学ぶものがありやしないか?
 一般の人が何を求めているのか!という事に対して。坊さんよりも彼等のほうが真剣に研究しているように私には思える。
”そりゃー危険だ”とも言われた。”なぜ??”
 私は様々な研修会に顔を出す。参加する側が何を求めるか。福祉業界に関しては、@最新の制度や仕組みA市場の現状(ニーズ)Bどうすれば実現できるか。基本的にはこの3点セットが学べれば覗いてみたい。
 だが寺の世界は事情がちょっと違う。昔からの伝統を重んじる社会、儀式や経を自分で創作することは固く禁じられる。
市場のニーズにしても、葬儀と年回法事。信徒寺ならば教宣拡大の戦略があるのかもしれないが大半の寺は檀家によって成り立っている。すると葬儀を2回行う人はいないから、自ずと読めてしまうのです。
 坊さんと葬儀屋さんを並べると話がどう展開するかが読めない。インパクトあると思うんだが。”葬儀屋がやりすぎるぞー””布施が高すぎるぞー”というバトルになれば盛り上がるだろうな。これが危険だと言うのだ。最近の葬儀事情は必要以上に盛り上げ、行き過ぎがあるのではと感じることもあります!しかし、実はオプションにより、遺族が望んで取り入れているものなのである。この辺の坊さんと葬儀屋さんのミスマッチをシンポジューム形式で行ったらどうか?
 坊さん誰も参加しないかもしれない。かまわねーやってみっぺー。ダメだったら会長やめれば良い。
木魚をがま口と思う檀家の心理はいかに?布施は見返りを期待しない施しとのことです。だが、頂くほうは中身を期待してはいないだろうか。ウーム困った。

804:秘め事

秘めて人に知らせない事柄。奥行かしという言葉が源氏物語に出てくる。「あはれにおぼつかなく思しわたる事の筋を聞ゆれば、いと奥行かしけれど、、、」この奥行かしとは、もっと知りたい、聞きたい、見たいという意味である。人には知られたく無いことがある。するとそれを知りたいと思う者が現れる。不可思議なことである。
 今朝のこころの時代を途中からしか聞いていない。後藤さんというカトリック教会の神父さんが出演していた。彼はカンボジアに学校を作る活動を行っている。新聞か何かで見たことがあったが、それが後藤さんなのか否かははっきりしない。
 私の知り合いにもネパールに小学校を作る活動をしている人がいる。地道に世界で活躍している日本人が捜せばいるものだ。
ちょっと気になる話を聞いた。後藤さんは新潟のお寺の生まれだという。それが何故カトリックの神父になられたのか非常に興味がある。明日は今日の続き、必ず最初からラジオ深夜便を聞こう。
 それから仏教とキリスト教の実践方法の微妙な違いを述べたい。あくまでも私論である。
仏教は先ず難解であるという先入観を持たれやすい。教典が漢字で書かれていること。仏教用語が奥が深く、言葉から受け取れるイメージが具体性に欠ける。不立文字などと言われても何がなんだか分からない。
 教えをより分かり易くするという努力が足りない。実は江戸時代からの檀家制度という既得権の存在によって、お寺(住職)が守られてきた実態がある。だが嘗ては強固であったその牙城も崩壊しつつある。
 一方キリスト教に関しては、聖書に書かれている具体的事例を元に教えを説く。難解な言葉は少ない。正確には分からないが世界で何カ国語に翻訳されているだろうか。残念ながら仏教の経典はそこまでインターナショナルではない。
 教育や福祉の領域に宗教の果たす役割は大きい。ミッション系の学校に入れば自ずと宗教教育を受ける。その教えを若いときに受けた経験はその人の人生に大きな影響を及ぼす。
 日本では宗教に触れ合う機会は結構あると思う。お祭りや縁日、年中行事であるお盆など。しかし、それは宗教色が極端に薄められた形。広くて浅い。巣鴨の地蔵さんなど年配の方達には人気のあるスポット、だが、これだって東京のほんの一部の信仰だ。
 日本の仏教は多くの宗派に別れそれぞれが本山を持って縦の関係を保つ。オール仏教(全日仏)などの横の組織も存在するが、実践活動になると各宗派の活動の域を出ない。それで布教活動はとなれば末寺のそれぞれの住職に任されているということ。私はもう15年以上になるだろうか布教師会活動を行ってきた。力不足を痛感している。
 醒めた目でみれば、政治家が少なくなって政治屋が増えたという批判を、坊さんにそのまま返される。本当の坊さんがいなくなり、葬儀屋坊主が増えた。本当の坊さんというイメージが現代ほど描きづらい社会はかつて無かったと思う。その矢面に立たされている自分に”秘め事”などと風流なことを言っている余裕はない。
 尻に火がついて火傷寸前。仏教は伝統を重んじる。そのことに何の疑問もない。だが、今の人々が一体何を仏教に求めているのか、それは伝統の殻からはみ出してしまう事ではなく、これこそが何百年と大切に守るられてきた宗教家としての実践徳目なはずだ。もっと仏教を知りたいという人達に如何に応えていくか!ですね。以上取り留めなく。

805:許し&希望

いま丁度朝の5時です。こころの時代を聞き終わり、その感動が覚めやらぬ前に書き留めておこうと思った。寺に生まれ、神父として今に至る後藤さんの飾らぬお話に私は衝撃を覚えました。やはり、その大きな切っ掛けになった出来事は戦争であった。実母と弟2人と妹を夜中の空襲で一夜にして失った経験は、当時16歳の少年には耐え難い悲しみと許し得ぬ怒りとして深く心に刻み込まれた。『宗教は何にもならない!』と思ったという。寺の住職であるお父さんへの報復とまで言い切った後藤さんのキリスト教洗礼への決意、私自身の事を振り返るならば、誤解覚悟で言わせて貰えれば戦争という罪深い媒体は介在しなかった。一瞬にして不特定多数の人々の生命を奪う戦争は、加害者が被害者にそして被害者が加害者となって繰り返されてきた。悲しみを報復という形で。
 その流れをくい止める唯一の方法は”許し”だと言う。78歳になった後藤さんが今でも亡きお父さまを報復の相手として思い続けているとは考えられない。彼の少年期の実体験がカンボジア戦争孤児の里子受け入れへと駆り立てた。14名の里子を今までに受け入れた。また、カンボジアの仏教僧侶からの「学校を建設する支援をお願いしたい」という申し出にNPOの代表として、寄付金集めに奔走する日々、今15校目の建設を計画進行中だという。そこに仏教やキリスト教という垣根は無い。NGOという多額な金を援助するやり方を依然として国は行っている。その事への検証と反省がない。
 最初始めた頃は、カンボジアの難民を里子として受け入れてあげているという奢った気持ちがどこかに有りましたと話す後藤さんはなんと正直な人なのか、今は里子の子供達から多くのものを学ばさせて頂いていますと語る。
 ポルポト派の残虐な戦争行為、どこまで明らかにされているかは知らない。しかし、来日してその時の体験を講演されたカンボジアの女性作家の言葉を紹介しよう、「地獄のような生活から貴方が生き延びられてきたものは何によってですか?」という質問に「希望です」とはっきり答えたという。
 強制的に言論統制され情報遮断されている国は、今でも世界の中には存在する。教育を受ける機会が用意され、何が大切かを自分達で考える社会が当たり前と思っている今の日本人には想像しえない。逆にその事への価値が見えなくなった。
 飽食で病的に肥えた人々は、健康のためといって様々な高額商品に浪費する。これが国が目指す豊かな社会なのか!
政治の世界で繰り広げられている事は、政党などに関係なく、全く無益な議論としか思えない。(私は全く政党に興味はない。これぞと思う政治家を捜し求めて今日まできたひねくれ者。)定番の日曜日午前中、マスコミ各社がゲストを迎えての特集番組、ニヤニヤしながら話す出演者には真実味と誠意を感じない、当然聞く側に”希望”を抱かせるようなものではない。いたずらに不安を煽り、自慢げに話すコメンテーターと時の人となった政治家は各社をハシゴして持論をしゃべりまくる。これもまた一向に結果責任を負わない空論である。
 ああー世も末だ。気骨ある政治家を捜すのに一体どのような術があるのだろうか。国の形を変えるには国民それぞれが自らの事として真剣に考え行動するしかない。わかっちゃいるけど止められない。この国をどうしたいのか!それすら見えてこない。林住期に入り、隠遁した生活を迎えるには、未だやり残した事が山ほどある。
 国の有り様は、弱き者に優しい社会であるべき、なぜならば強き者には、国からの手立てなどなくても自分の器で生きていけるではないか。政治が強き者の周囲にたむろし媚びを売る状況が強まれば強まるほど、世の中が荒れ、人として生きる道を逸脱する社会は続く。
 こんな事ばかり書いていて 非常に空しい。ばかものだと自分を思います。

806:交通安全

実演講習 講義研修(真剣!)
年度末になって慌ただしい日々を送っております。自分で言うのも可笑しいもので、誰もそんな事言ってくれないものですから。(これは、長らくご無沙汰しております知人・友人への偽らざる私の気持ち)今の状態を続けていけば、間違いなく「ひねくれ者」になることでしょう。世の体制に真っ向から立ち向かう気力は無く、影でこちょこちょしている自分を情けなく惨めに思う。加島や城山の晩年の作品に慰められ、流行への変化を嫌う。アウトサイダーと言えば聞こえが良いが、決して誇れるような思想を持ち合わせている訳でもない。そうなると行き着く先は「ひねくれ者」。
 だが、実はそうでもないと気が付いたんですね。
世の中からじゃま者(?)扱いされ、虐げられた人の多くは、真剣に自分を生きようとするからだと分かった。その殆どの人達は自らの意志で追いつめられたわけではなく、世の仕組みが彼等を受け入れない土壌があったから。そう考えれば、今の日本人の若い者から年寄りまでが陥っている閉塞感不安感を解きほぐす何らかのヒントが見つかるのではないだろうか?
 今年度は事故が目立つ年になった。私なりの分析はこうだ。
 言ってみれば仮免許の状態で地域での生活を進めた結果で、通勤途中での自転車での事故や職場での怪我が増えた。
 相手が車であっても、自転車側に過失があると言われ、メンバーの一人は2度同じような事故に遭遇、松葉杖での生活を余儀なくされた。非正規従業員の多い中で、彼等は喜んで残業を行った。法人の他の施設でのノロ騒ぎをモロに受け、職場を休まざるを得なかった。。。。。。等等。決して彼等を受け入れてくれた会社が悪いのではなく世の中の目が彼等を受け入れるだけの度量がないからだ。彼等の地域生活には、どうしても仮免許の状態で経験してもらうことが必要、そこで起こるであろうリスクへ関係者がどう立ち向かうか!
 関心するのは、彼等はそれでも働きに出たいと待っている。その姿を今年ほど私の目に多く入った年はない。
 土浦警察署にお願いし、自転車のマナー講習(上記)を昨日行った。22名のメンバー(就労組)がビデオを真剣に見、そのあとグランドでのマナー講習を受けたのだ。結局は自ら事故を起こさない、もらわないには、繰り返し彼等に伝えていくより方法はない。
 制度の福祉を追い求める限界が今年ほど明確になった年も無かった。その一番の問題が、人材確保の問題である。これは今の制度上ではどうしようもない。事業所の努力に頼るだけ。
新体系で見過ごされ易い一つのワナが、基準の人員配置である。事業所としては当然、より単価の高いランクの指定を取りたいもの、だがそこで待っているのは基準に満たない人の配置、これが判明すれば最高で30%の返還(減収)ペナルテイを受ける仕組み。
 離職率が高い事業所においては、いつ、その緊急事態になるか気が気でない。人材派遣会社から良き人材が廻れば良いのですが、さーてどうですか。
これも冷静に考えれば当然の行政処分なんですね。何故ならば故意に人手がいないのに誤魔化す、とんでもない経営者がいるからだ。まーイタチごっこだわな。だがどうでしょう?法令の遵守といっても、福祉の場合は法令そのものが最低基準によって設定されている。むしろ、基準をせめて一般レベルにまで上げて事業所間の競争を計るべきなのである。いくら言っても騒いでも今の政治屋さんには分からない。関心が薄い。
 どう考えても腑に落ちない福祉予算への厳しい査定に対し、予算の潤沢な部署(国交省や社保庁)での実態は論外だ。
 それに又明らかにされたことで、社保庁の職員の8割が加盟するという労組での専任組合委員の給与問題、何と7億円もの大金を返還するんだとか、どこにそんな金があるんでしょうかね?執行委員長が辞職した。それで今度は真面目に仕事に就くということ?甘いー。その金の出所も国会で追及して欲しい。多分やりませんよ。底辺の部分でどうも繋がっているという噂もあるんですね。行政改革って何も天下りの問題だけじゃーない組織全体の膿を出すべきなんだよ。
政治の世界で鬩ぎ合いは多いにしてもらいたいものだ。だが、その政党をおす団体や族議員の実態が暴露されては、迫力が落ちるのも当然の帰結なり。これの格好の隠れ蓑が制度という事を知っていますかってーんだよ。まったく。
 こう考えるとですね。皆さんどうですかね?「ひねくれ者党」でも旗揚げしてですよ。世の不正と闘いませんか、なにしろこれ以上おっこちてもですよ、恐い者ありませんから、イケイケドンドン。ひねくれ者に政治献金してくれる人はいないけど、いいじゃーないですか、秘書なんて自分でやりゃー良いんだ。経費かける程、秘書の皆さんがんばってるのけー。今度皆さんの働き振りの情報開示ですよ。おらー偉くねーからよ。名刺は自分でパソコンで作って、衣は自分でたたみ、お経も自分で読んで、トウバ書くの忘れてよー檀家さんに誤って、それから・・ウーントなんでも自分でやってんだー。経費ゼロ悪いか!それでお布施安くすればみんな喜んでんだーわ。(むしゃくしゃしてこの部分追加)
誰もこの指にとまる人はいないでしょうがね。わたしゃー持って生まれた性分と自慢じゃーないけど生臭坊主、いざとなれば托鉢でも喰っていけますケン。南無大師遍照金剛ーだ。
 

807:春彼岸

春分の日を境に花の便りが全国各地から届く。しかし、今年の春分の日は全国的に雨となった。私の住む地域は田畑が広がる長閑な場所、枝を落としこじんまりとした梅の花が満開、甘い香りをはなっている。
 日銀総裁問題や株の乱高下、新聞紙上を毎日賑やかせるニュースには何一つとして心を和ませるものはない。音の世界で言えば不協和音、メロデイにならず雑音としてしか耳に入らない。
 17日の彼岸入りから2件ほど葬儀が続いた。26歳と88歳、この別れに立ち会うのも心身を消耗する。彼岸に入り唯でさえ法事が続く中で、日程を変更してもらいながら檀務をこなす。
 たった今、定例の主任会議を6時半から1時間ほど行って帰宅、12名が理事長室に入ると息苦しくもなる、各担当部署の報告が終わって最後に私が話す。日本知的から今日届いた資料を説明。なんでこんなに忙しく変更するのだろうか?
 どこか狂っているとしか思えない。情報が一人歩きし、知らされない者、資料に目を通さない者など構っておれないというように流れていく。
 国の変更が、末端まで行き渡る前に、また変更がされる。変更、微調整、変更。こんなことを懲りずに続けてきた。いい加減にしろよ。当に日銀総裁の人事案件が提出されては否定され続ける国会の状況と全く同じ、国民の目線になどほど遠い。
 膨大な印刷物から何が要望であって、どれが決定事項なのか見ていてもさっぱり分からない。
 日本だけではない。チベットでの暴動?、大分以前に訪れたラサの街が荒れている。世界遺産のポタラ宮殿から見下ろすラサの街は桃源郷を思わせた。訪れた時期は、丁度、桃の花が咲き乱れ仏教信仰が根付く落ちついた街だった。その地が流血騒ぎとなっている。これもまた政治が絡んだ人間の争いごと。一体人間は政治に何を望むのであろうか。
ダライラマが声明を出した。チベット人が暴力を止めなければ自分が下りると。
 身近な事に気をもむ 今朝、某会社からGHのTさんが会社に出勤していないと電話が入る。さーて寝坊でもしているのか。彼女に持たせてある携帯を呼んでも出ない。以前、彼女の身におこった事件を誰もが思い出す。直ぐに出られる職員が4名、探しに出かけようとしていた。
 まもなく先に出かけた職員から見つかったという電話、彼女は横断歩道を渡れないというのが分かった。バスが行ってしまったから多分慌てたと思う。右側の道路をズーと歩いていったという。普通ならば携帯で学園に電話をすることができるのにパニックになって携帯を持っているのを忘れた。すみませんでしたーで終わり。ヨーし。
 また先日行った自転車のマナー講習、講習のあったその晩、私が車で暗い夜道を通ると危なく接触事故を起こしそうになった。対向してきたのは無灯火自転車のSさん。昼間喜んで講習に参加していたのに、もう忘れてしまったのだろうか!彼等は不可思議だ。確かに昼間はライトはつけない。でも夜は? 変な駆け引き無しだから。有るものは有る、無いものは無い世界
 久しぶりの雨で喜ぶ人は花粉症
   生憎の雨と嘆く人・・・・・・墓前供養の私なり。
  以上、これら全ての事が此岸の世界での有り様でございます。彼岸中日。
 

808:日陰の梨

皆さん!日陰の梨って知ってますか?
 形が整っているが中身が伴わない例えであります。思い当たる節は有りませんでしょうか?
茨城で特に私が住む地域は梨の特産地であります。今、梨生産者はこれからの忙しくなる時期を迎え、その準備に大わらわ。
収穫時期になれば観光農園となって大型バスが横付けする梨園も多くあります。さて、私風のこじつけでありますが、日本の制度がどうも”日陰の梨”になっているのではないだろうか! 体裁は整っていますがねー、どうもその中身となると食べてみてガッカリという事になっていないでしょうかと。形が悪くて商品にならなくても美味しいほうがまだ良いのでは。千葉産の落花生に小粒で形が不揃いのものが実に味が濃くて美味いのがありました。{はねだし物}値段も半値以下です。
 梨の気持ちになってみましょう。美味しいと喜ばれたいですよ。なんだこの味は!見た目と大違いだ!とは言われたくないと思うのであります。
 障害者福祉の原点は、実はここに隠れていると私は思っています。またお叱りを受けるかもしれない。
 もう少し説明をします。私達の対象となる障害を持っている人達の個性は凄いんですね。まったく一人一人異なる。そして、顔形も違います。見るからにどこか不自由だと分かる方達です。その人達と付き合っていますと、多くの人がおっしゃることがあります。「実は、彼等から多くの勇気をいただき、学ばさせて頂いております。」ここに福祉の醍醐味があるんですよ。
 残念ながら最近では、その経験をしないで去っていく職員が多いと考えられます。ここまで福祉事業が数の上で増えた理由の一つに、自分なりの施設をやってみたいと考えた若者?がいたからです。現状の処遇に満足している人はいないかも知れません。それは自分が施設をやってみて初めて分かることです。もし、先行きどうなるか分からない現状の中で、収入の全てを使い切ったらどんな事になるでしょうか。園債を発行できますか?それとも上場して資金を集められますか?
 私の経営上での視点は、基本財産の最低で1/2は基金として持っているべきだと考えています。これはあくまで最低線で、多いほど良い。今の時代、先行投資するというよりは、将来の為に基金として保有すべきだと思うのであります。
 施設整備費に対する助成金は確実に減額してきます。それに反して設備基準は右肩上がり、この格差が実に大きく自己負担が増加するのです。公益法人の見直し論議が何を狙っていることなのか、考えれば誰でも分かることです。
 しかし、節約しすぎるとこれまた問題がでます。良い塩梅という舵取りが実に難しいのであります。それと、今後更に深刻になるものは良き人材の確保です。
 この問題は大変複雑です。例えば素晴らしい設備の病院を建てても専門医や医療スタッフが集まらずオープンできない所結構増えています。設備への投資を無理すれば、経営を圧迫し、その分人件費へ廻せなくなる。この悪循環から抜け出せない。
 一方、患者さんがひっきりなしに来られて大変繁盛している病院も存在します。学ぶべき所が随所に見られます。一度入院でもしてみれば分かります。
 ここですよ。肝心なポイントは。日陰の梨も実は自分が口にすれば分かること。リピートのお客さんを増やすには、何を望んでくるのかというアンテナを伸ばせということです。ここで注意、デジタルよりアナログ回線、もっと良いのは有線ですね。
 過程が重用ということであります。右往左往するより、ジックリ腰を据える。あまり形に拘らないで我が道を歩め!
 

809:かまえなし

裸になれ!とか身を軽くしなさい!など。そう言いながら、様々な事を抱え込む。これは一体どういうものなのか?
一難去ってまた一難。昨日、某施設での役員会、協議事項が多く、2時間半ほどかかった。役員の皆さんはとても熱心である。利用者の家族が役員として半数以上入っている。私どもとは大分違う。確かに関心することが多かったのだが、果たしてこれだけの内容を持続させるには大変だろうと感じた。就業規則などもかなりきめ細かに見直しされ、人事評価も行うという。
 これは経営と運営を上手く機能させるために考えたことであろうが、実態に即して本当に必要なことなのか?
こうやって事業所はより複雑になっていく。
 客観的に人の活動を評価:数値化することは至難の業。日々の活動は、休むことなく様々な問題が押し寄せてくる。これは規模の大小にも多少は関係しているかもしれない。
 21日の総会で2期目の会長を引き受けた。別に確かめたことではないが、もう2年やったから良いよと思っている会員もいるだろう。しかし、今の時期に自分から手を挙げる人もいない。”住田には引退してもらい、私がやります。”と言う人が出てくれないかという期待を密かにもっていた。
 自分の足元すら充分満足にできない私が団体の責任者にいることは恥ずかしい。全国会長会議が急に25日に入った。
 そこに集まるほとんどの人が今でも辞めたいと話す。確かに各県の事情は異なる。誰一人として満足しているものはいないのは確かだ。
 大きな流れに棹さすことは相当なエネルギーを消耗する。むしろ流れに身を任せたほうがずっと楽である。
”かまえなし”と”日和見主義”。これとて自分一人の事であるならばどっちでも構わない。
 バリアーフリーとかなんとか言ったところで、現実はまったくそうなっていない。利用される方が自由に出入りできることで、また新たな問題も起こってくる。
 裸の王様ではないのだが、南の島でスツポンポンで過ごせたらよかっぺーな。

810:正常と異常

土浦市荒川沖駅で起こった無差別殺人の犯人は、数日前に同じ市内で起こった殺傷事件と同一犯人であった。犯人は24歳、自分の部屋でゲームに熱中する無職の男性、第一の犯行後、警察に「捕まえることができますか」という電話を掛けたという。それに昨日の犯行では、「私がやりました」という電話を警察にかけ、「誰でも良かった。誰かを殺したかった・・・・」と自白。
 何か似たような事件が増えているように感じる。しかし、犯行の動機が不可解、繋がらない、ゲーム感覚、犯罪への冷めた目。
 何が正常でどこが異常なのか?理解する糸口が見いだせない。私的な事で申し訳ないが、被害にあった若者と犯人と同年配の子を持つから、衝撃が大きい。
 娘に「かわいそう。こんな時、被害にあった家族になんて言うの・・・・?」と僧侶としてどう遺族への言葉かけをするか聞かれた。
 犯人の家族や親戚は今どのような気持ちでいるだろうか、その事を思うと居ても立ってもいられない。
多分、このような事件が起こると警察はまず、犯人の精神鑑定を行う。以前、医師と犯人の面接記録が本になって秘密漏洩の罪で医師だけが逮捕されたという事件があった。(今、係争中である)
 何らかの精神障害を認められると刑が免れる。これが非常に大きな問題となっているのはご承知であろう。一方、犯罪被害者への様々な支援を行う法律が平成16年に制定された。「犯罪被害者等基本法」
 報道の責任も大きい。・・・障害という記事を読んだ一般の人々には、障害=犯罪者という短絡的な印象を持たせ易い。その事で計り知れない多くの人々が苦しんでいる。報道者はそこまでは責任をとらない。報道の自由と倫理。
 我々、障害者と関わる者にとって無視できない事件だ。多分、一方的に批判する方達は、身近に障害を持つ人が居ないからかもしれない。明日は我が身という腫れ物に触れるように日々暮らしている人達を私は多く知っている。何事も無いようにと毎日祈る。
 人間はどうしても先の事が気になる。その最たるものは、自分の死期。できれば長生きをして、いままで出来なかった様々な事を経験したいと思う。つまり、連続性が遮断されることへの恐怖と不安。
 死後の世界をどのように信じられるか、宗教の大きな役割である。確実な事は、誰にも死は起こるということ。その死を自分が納得して受け入れられる状況が望ましい。
 延命処置の是非論、死刑反対の運動など生命に対する根本的な問いかけである。
 しかし、現実にはそれ以前の問題が大きい。
 何が正常かという事一つを捉えても、社保庁や国交省の一連の問題に対して、誰も責任をとらない体質、政治家がいなくなり、金権に絡み集票第一主義になった政治屋ばかり、その人達が先生先生と煽てられ、しっかりと既得権益を放さない頭脳明晰:優秀な官僚の筋書き政治。これが本当の民主主義国家なんでしょうよ。
 正常と異常を判断する側に物差しが無くなった社会は、当に羅針盤を失った大型船。
 私自身このような事ばかり独り言、空しいなー。しかし、諦めない。
 障害をどう捉えるか・・・・・この事を追い求めていく。実は、障害がある事が不幸と思われる世の中が逆に異常だと確信するからだ。それは私の根本にあるもので誰がなんと言おうが変わらない。つまり、この世に生を受けた者、誰しもが経験する『死』と全く同次元で『障害』を持つからである。