源究53

 

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
616 穂含月 7/3 621 良寛さん 7/11 626 社会福祉法人 7/20
617 ビリーズフード? 7/5 622 山寺 7/13 627 内憂外患 7/21
618 今日何曜日? 7/6 623 ホタル袋 7/14 628 教育現場 7/23
619 つながり 7/8 624 Folk Songs 7/16 629 遠慮には 7/25
620 ありがたいこと 7/9 625 どこが問題? 7/18 630 閑話休題アラカルト 7/26
一字入魂

616:穂含月

7月は文月といい、稲の穂が実る月の意味で穂含月(ほふみづき)。月が変わるごとに古の人々はその時々の風情を文字に表した。7月だけでも蘭月・涼月・七夕月という別名をもつ。自然と一体となり、自然から得る恵に感謝し、またそれとは逆に様々な災いをもたらす悪霊を鎮める祭りが各地で行われた。
 少子化の中で、地域で行われた年中の祭事はその数を減らし、地域ぐるみという楽しみ型では無く、家族単位の旅行や趣味といった楽しみ型に変わった。季節を楽しむということよりも仕事が優先し、休みが取れる時期、お盆や正月に一斉に移動する。各地でみられる道路の大渋滞はこの生活パターンの変化と同時に起こってきた。
 一方、この流れに乗れない人達はただ家の中で我慢することやより身近な楽しみを見つけ出すことで代替えする。各地に出来た大型ショッピングセンターがその受け皿となり、趣味と実益を兼ねるのかどうか、パチンコ店が乱立する。
 必ずといって良いほど遊技施設の周囲にはサラ金のATMがあり、手軽に金を引き出す便利さ。
 汗水流して稼いだ金を生活費の残った分で小遣いにすれば良いが、そうは問屋が卸さない、高金利の借金により、痛い目にあった人が相当いる。
 私達のメンバーさんにも同様の苦渋をなめている方が結構いるのです。サラ金やら詐欺。
  入所施設解体を唱える人達の中に、実は現状の施設生活への批判がある。それは私自身が長い間思い悩んできたことだから決して否定はしない。だが貴方達が言うように上手くいきます????
 尚恵学園では家庭帰省できない利用者が毎年増えている。その数は50名になる。GHも含め、140名の入所利用者中で35%の方が全く家庭に帰れないのだ。8月の盆休みは今年短縮して5日間となった。その間に職員に休みを取ってもらったり、設備の補修を行うのだ。それが最近出来なくなっている。365日年中無休は創立からずっと続いている。もうすでに50年以上になった。
 最小限のスタッフの数で看護中心の日課にせざるを得ない、それでもスタッフは残留組のメンバーさんを外に連れ出して楽しみの場をつくっている。先ほどの解体論者と議論になると、彼らは自ら行動することなしに現状批判をするだけ。譲歩して認めることはしても決して賛同はできない。机上の空論。嘗ての養護学校も少しは考えて欲しい。今は特別支援教育校に名前を変えたようだが、今年の夏休みはなんと40日を越すと言うではないか!今、当園のレスパイト受け入れはパニック状態、利用申込が殺到する始末。マンツウマン対応をうたってきたものだからスタッフ確保が非情に厳しい。学校の先生達も大分お勉強が好きなようだが、40日間日中何もやることがなく過ごしている自校の生徒をどう考えているのでしょう?持ちつ持たれつの連携は是非とも必要でしょうよ。普通学校では休み中でもクラブ活動やら補修授業をやってくれてますよね。敢えて憎まれ口を言う。
 今、水田には稲がしっかりと根を張り、背丈を伸ばす。そして秋の収穫を待つのだ。この営みは周辺の水田で毎年繰り返されている。自然豊かな環境は我々が一番誇れること。もしもだ、市街地に生活をすることが地域で生活することだという狭い発想では、家族からの愛を受けられず、帰省日に他の仲間達が勇んで迎えの車に乗り込む姿を寮の陰からじっと見守る彼らの癒される場は更に過酷なものとなるだろう。
 日本人の心の中にインスタントに喜びを追い求め、次から次へ興味を変える。使い捨ての生活になんら疑問を感ぜず、便利さに価値観を於いた享楽的な生活。これこそ長続きは望めないことなのに、敢えてそれを認めようとしない。
 7月を穂含月と言った古の人々が今の日本をどう感じるか?その感性を育む力は自然との共生の中でしか養成できないと思う。


617:ビリーズフードキャンプ?

”廻せ 廻せ””キック キック・・・・・!””ビクトリー イエイ”
 皆さんご存知でしょう。今、大流行のビリーズ先生のエクササイズ、1週間のキャンプへようこそ。なんで?先生は51歳。小生この8月をもって57歳。筋骨たくましいビリー先生。一方、小生は鏡に向かって、やれキック、廻せとビデオに釘付けで見よう見まね。軽蔑の何者でもない周りの反応。唯一の理解者のハナ(猫)までがイスの上で寝そべっていたが、迷惑そうに今、寝返りうった。ちくしょう! 1セッション50分と聞いて、疲れてしまった。途中、太股は引きつり始め、腰の持病が悪化?の兆し。どう見ても画面に出てくるインストラクターのお嬢さんの腹筋の見事さとは別世界。”今日は止めた!”スタートから10分であった。
 ロデオボーイを真剣に考えていた矢先、畳1畳で充分というから、先生の弟子になろうと思って始めた。
 さて、人間は良い塩梅が必要だ。先日、夜、夏休みの受け入れについて担当者が10名集まって検討会を開催。
収拾がつかない状況になって、”今日は これまで”と私は席を立った。しかし、他の誰も終わろうとしない。話を続けている。
 ちくしょう、全く、猫も杓子も無視しやがって。
 私の周りはどういう訳か、精密検査しなければとか胃カメラという話が急に増えた。病院に行けば毎回知り合いと出会う始末。一体どうすれば良いのか。1週間のビリー先生のキャンプに入り、身も心も変身したい。
 昨夜のNHKの番組で医療ファンドの話があった。経営が難しくなった病院へ銀行から借金を引き受け、経営改善のコンサルタントを行う。どこかで聞いた話。確かに医業と経営の両立は一人の理事長には難しい時代になった。得意診療に特化すべきというファンド側の戦略に地域医療を目指し、総合診療を地道に行ってきた病院側の考えのギャップ。
 今の医療業界は医師や看護士の確保に汲々としている。診療報酬の見直しによって、手厚い病院ほど単価が高いのである。スタッフの引き抜きなど日常茶飯事。これも一つの市場原理か?
 これもNHKのラジオ番組だった。NPOでイラク支援を行っている人のこころの時代。湾岸戦争で使用された劣化ウラン弾による影響で白血病や奇形児の子供達に医療支援を行っている。そして、全く先が読めなくなっているイラクの内紛状況は地獄絵を見るようだという。今年、イラクに7年間勤務していた方のお葬式を頼まれた。その時の奥さんの話がダブる。
 私が入隊しようと思っているビリー先生は軍服姿、どうしてなのか?アメリカの軍隊でのトレーニングにも利用されているのかもしれない。さすれば、私も戦争に荷担しているのだろうか?
 円循環という論理、結局は自分自身に返ってくる。いま、何ができるか、そこに話は行き着くようだ。

618:今日 何曜日?

「きょう なにようび?」先を歩いていたkさんが立ち止まって私に問いかける。最初何か起こったのかと思った。「今日、何曜日???」と尋ねているのだ。
 「あーそうか。今日ね、水曜日いや木曜日だね」と答える。Kさんの表情が強ばる。あれ違ったかなと時計を見て確認、字が小さくて良く分かんない。「Kさん。今日は 木曜日だよ」「・・・・・・」「違うの?」「・・・・・・・」
 「きょう 誕生日!」「あー・・・・・」「今日 たんじょーび」「そうかKさんの誕生日が今日だったの」「ウン」そう言ってまた歩いて行った。
 毎日、弁当を持ち、自動車部品の会社に働きに行っているHさん。お姉さんから母親の死を伝える連絡があった。
職員がHさんにその事を知らせた。「母ちゃん 死んだんですか?」と小さな声で聞き返したそうだ。彼は寮長に連れられて昨日、実家に帰った。母親は旦那さんを先に亡くされて一人で生活、Hさんの帰省を楽しみにしていたそうだが、一人で亡くなっているのを娘さんに発見され、検死を済ませてから、娘さんが学園に連絡してきたのだ。
 周りがなんと言おうが、ここには彼らの生活がある。働いている事を唯一の励みにしていたHさんは、今度、その報告をする人がいなくなった。
 「介護」とか「支援」といった言葉の是非を真剣に論じている。私はどっちでも構わない。それ以前に彼らの「生活」があると思う。とても立派な報告や研究をする方達、本当に心底からそれが言えるのかよ?お前さん達がどれだけ利用者さんの中に入っているんだ?どうも、福祉協会の在り方が、薄っぺらくなっているように思えて仕様がない。国会の先生?にへいこらしてさ、彼らが真剣に考えていると思っているのかよ。期限付きのお駄賃に一喜一憂する、可笑しいよな。
 今度の日曜日、大正12年創立の施設の元施設長のO先生の葬儀に参列する。私は、若い頃、先生から教えを受けた。その感謝の気持ちを込め、弔辞を読む。どれだけ、私の気持ちを表せるか分からない。下書きを何度も読み返すと、先生の笑った顔が浮かんで声が出なくなってしまう。お父様が始められた施設を一人娘の先生が守り続けてきた。通夜にも参列した。棺に納められた先生は、当に為すべきことは全て成し遂げた姿だった。88歳、本当にお疲れ様でした。そして、ありがとうございました。
 生活を支える人、支えられる人、それぞれの人生、何が尊くて何が大切か。今、そこが問われていると思う。

619:つながり

「人間」を潤したり、潰したりするものに関わりが重要なポイント。人付き合いの善し悪しではなく、本当に相手を尊敬し、相手の力になりたいと心底思うまでにはなかなか至らない。
 いま問題になっている引きこもりなど、特に若い人達に目立つ世の中は、どこか狂っている。先日、県の社会福祉審議会があった。私も障害者部会の委員として末席をけがしている。保健福祉部関係幹部職員から県の様々な施策について報告が為された。その時S委員長が「委員長として余り意見を言うのもなんですが」と前置きしてから、お役所的発想の問題点を指摘した。私は全く同感、密かにエールを送る。30名以上の委員の大半が頷いており、同じ意見ということが一目瞭然。
 要は、行政主導ではなく民間、現場の生の意見にもっと耳を傾けるべきだということを話された。当然と言えば当然なこと。
 福祉の流れは確実に市民に身近な市町村に金も事業も移っている、その要としての県の役割をどう果たすのか!様々な機会に声を大きくして私なりに訴えてきたことが当に委員長が述べられたこと。
 2日連続、S委員長とお付き合い頂いた。2日目は全く趣味のお付き合い。芝刈りであった。実はこの会は県の社会福祉協議会の会長を務めるS会長と知事の名前から取ったM&M会。今回が5回目。福祉業界の全種別のゴルフ愛好家に呼びかけスタートした。毎回、とても和やかなパーテイになり、至る所から笑え声がやまない。言い訳がましいが私は今年3回目の芝刈り。熱が冷めたというか、自分の力量に愛想をつかしたというか、いずれにしても回数は激減。
 今回結婚された知事の奥様もパーテイに駆けつけてくれた。とても気さくな方である。S会長からの挨拶、「実は昨日、審議会という勉強会をやりましてね。私はちょっと意見を述べたんですよ。もっともっと担当行政の方達とね、茨城の福祉をどうするか膝を交えてやらなければダメですよ」とね。知事さんも盛んに頷いていた。
 繋がりはどのようにしてうまれるのだろうか?私の経験だと、幼友達とかは別として、趣味や仕事を通じて関係が広がると思う。私が御両名とお近づきいただけるようになったきっかけはゴルフであった。ゴルフなんか贅沢な遊びはしないからと一蹴されてしまうこともある。しかし、今の時代決してそうじゃない。飯付きで3500円でプレイできるコースがいくらでもある。1日自然と一体になり、趣味を通して交流を深める。これが贅沢なのか?
 1日機械のまえに座り、タバコの煙ムンムンとした部屋で、ひたすら金の玉を打つのに浪費(本人達は決してそうは思わない)するのとどっちを選ぶかだわな。
 あまり、この点を強調するとパチプロの方から顰蹙を買う。今、施設職員の各県対抗のゴルフ大会も我々が言い出しっぺで始まった。私は審議会に出たので参加は出来なかったが、栃木で開催された大会に茨城から9名参加し、見事に総合優勝、グロスで1位から4位まで独占する完璧な勝利だと報告を受けた。
 また、言われることは間違いない。「茨城は遊びだとまとまるんだから、この遊び人」と。
かまわねーよ!悔しければやってみろとはっきり言ってやる。それが「つ。な。が。り」ゴタゴタ難しいこと言ったって、実際なにやってるかわかんねー。正々堂々、やるときはやる。そうは言っては見ても、只今、足腰が痛くて、顔は日焼けでひりひり。
 *最後に自分の性格でしょうね、因みに成績は47:38。(私の生き様そのもの。山有り谷あり、人世いろいろ)

620:ありがたいこと

昨日、岡野先生の本葬がありました。密葬で既に荼毘にされ、斎場には笑顔で元気な頃の遺影が飾られていました。
 案の定、私は追悼の言葉を述べる際に、目に涙がいっぱいになり、声が出なくなってしまいました。ほんの数分の間に様々な事が走馬燈の如く浮かんできたのです。60年以上、福祉の最前線で頑張ってこられた先生に私みたいな若輩者が何も言えないという正直な思いがありました。2年前に先にお亡くなりになった永井先生の娘さん夫妻にご挨拶いただき、より感慨深い思いになったのです。
 昭和20年代から30年代の先輩達のご苦労は筆舌に尽くしがたいものがあります。思い出スナップが斎場のスクリーンに映し出され、私の両親達が始めた当時のこととダブってしまい、軽はずみの慰めの言葉など言えない気持ちでした。
 今のこの福祉業界の有様を先輩達は実際どう感じておられるでしょう?
 葬儀が終わり、懐かしい先輩、倉持先生と食事をしました。中村先生は既に92歳、その片腕で県立施設を切り盛りされ、今は奥様と両先輩は悠々自適の生活を送っています。コロニーの基礎を作られた両先生は、どう思っているのでしょう?
 「人間は変わるものですよ。気をつけないとな。」倉持先生が私の車の中で話された言葉が今、妙に残っています。
一体何を言いたかったのだろうか?と。
 皆さんと別れ、家に戻ると玄関先に植木鉢が2つ置かれています。直ぐに分かりました、中村先生が置いていってくれたんだと。92歳の今も自宅脇の庭で好きな草花を育て、花が見頃になるころ必ず持って来て下さいます。私はいつも途中で枯らしてしまい、その事を充分知っている先生は、夜お礼の電話をすると「ダメになったら、また持っていくから」と言ってくれました。
 先日、某研修会に講師で来られた関西の先生、老人関係の施設を手広く行っているようで、年間歳入35億になって、今、施設長は皆に任せ、理事長職だけやっていると2次会の私のとなり席で話していた。
 これを聞いて、私とは違う人種だと直感、早めに退席させてもらった。
 日本人の感覚がどこから狂ってしまったのだろうか?私は敢えて聞こうとも思わなかったが、講師の先生の法人は日本で最初の社会福祉法人格を取ったところだという。創設者が今の後継者の姿を満面笑みを浮かべて見ているのならば話は別だ。事業費総額や職員数の多少にて評価される尺度は馴染まない。ここに気づかないと本末転倒しても一向に耳を貸せない状況になりやすい。
 岡野先生の笑みは、自分の達成感と、後に託す者への励ましの笑顔と私には取れた。

621:良寛さん

今日、今から1泊で山形県に行く。地域の坊さんの研修?。月山から湯殿山詣で、宿泊地は上ノ山温泉。正直な話、あまり気が進まない。
 NHKラジオのこころの時代、佐野デレクター担当で今度は良寛さんをやりますよと知らされていたので2日間拝聴する。
 佐野さんは以前にも紹介したが、私の大学時代のクラブの先輩、どこかで聞いたような名前だと思っていたら、やはりGWV時代の先輩だった。「良寛さんが教えてくれたもの」というテーマ、どのような展開になるのか興味があった。全国良寛会の常務理事の方が出演し、良寛の詩集や生き様を解説する。
 私が承知している良寛像は、「寺僧の堕落への痛罵と、自らは寺を持たず、破れ庵に居を構え、乞食の生活を独り行い子供達と手まりつきをする晩年の良寛である。貞心尼とのほのぼのとした触れあいも良寛の人間味を倍加する。難しい法は説かず、良寛がいるだけで場が和み、争い事がなくなる。そんな存在が良寛に対するイメージである」
 佐野さんは取材に行くまでに、ご自分で様々な資料を集めて読み、下調べを行う。どこまで良寛の本質に迫れるか!2日間の番組のお二人の遣り取りからそのご苦労が感じられた。
 1758年(宝暦8)に生まれ、1831年(天保2)に74歳で亡くなる。新潟の名主の長男として生まれ、後を継がずに出家した良寛は、彼の生き様から何を言わんとしたのだろう?これが番組のテーマであった。
 番組を終えるに当たり、松本さんが言われた事、・・・・・お金儲けや出世することに血眼になって生きることよりも、そのこだわりを捨てればもっとゆっくりと人生を楽しむことができるのに・・・・・・・。
 これが当に良寛が74年の人生を通して示された真理であろうし、現代の混沌とした人間模様から「生きることの価値」を見いだせる唯一の方法かもしれない。貞心尼との相合は、良寛70歳のときであった。余命4年弱、彼のこころに貞心尼がどう響いたのか、聞いてみたいような気もするが、それはそれ、私が彼岸に行った時にインタビューしようかと思う。

622:山寺

山形県にある「山寺」は、丁度訪れた時は雨が降っており、湿度の高い中、階段を上るには寝不足の身にはきつかった。
 鬱蒼とした杉木立の中を登っていくと、途中に水子地蔵(上記写真)を沢山、従えた菩薩に気づいた。多分、名も語らぬ人々が入山する時に寺務所にて買い求めた身の丈10pにみたない、小さなお地蔵さんを供養にあげたに違いない。
 山寺は開創は古く、860年,今から1,150年前になる。比叡山の慈覚大師円仁が開いたとされる。宝珠山立石寺が正式名、奥の院まで続く1,015段の石段は良く整備されてはいるものの汗をかかずに登ることはできない。芭蕉の句当時の面影を今も残している山容は、当に絶景と言うものだった。
 寺の住職達の研修で参加した今回、翌日は東京に用事があり、別行動、かみのやま温泉から山形新幹線に乗って帰ってきた。山形には過去2回訪れている。20年ほど昔、通勤寮を建築する時に神崎先生と二人で天童まで来た。それ以前には学生時代の夏合宿、朝日連峰縦走に訪れた2回だけであった。山形市は日本で最高気温(40度)を記録したという四方が山に囲まれた盆地。その自然環境を上手く利用して、桃、さくらんぼ、梨、ブドウなど観光果樹園も沢山ある。8月には花笠音頭の祭りもあり、上ノ山の老舗旅館「古窯」は今の時期には珍しく多くの客があった。
 ただし残念なのは、ホテルの窓から望む山形蔵王の方向に地上40階建てのリゾートマンションが建てられており、場違いな感じをもった。
 東北の山懐深い、温泉には似ても似つかぬ近代的な建物、この辺の建築規制はあってしかるべしと思うのはよそ者の我が儘ではないはずだ。
 山形新幹線400系つばさは7両編成、福島当たりまでは在来線の線路を使用し、そのあと東北新幹線と合流、車輪幅を拡げて走るのだろうか?気のせいか福島を越えた頃より揺れが少なくなったように思った。中島隆信氏の書いた「お寺の経済学」を持参、数ページを読むと眠くなる。昨夜、同室の3名の鼾と歯ぎしりに殆ど眠れなかったせいで折角の貴重な時間があまり有効に使えなかったのは予定外。
 先ほどの話に戻るが、水子供養であれだけ見事に地蔵が並べられると何か異様な思いになる。高野山奥の院のピラミッド型に堆く積まれた水子地蔵は規模が大きく比ではない。いつの頃なのか慈母観音様の周りにお地蔵さんを造仏・安置し我が子を先に亡くした親の自責の思いを鎮めるのに全国的な広まりをみた。今回訪れたのは当に初夏の緑豊かな梅雨の時期、これが豪雪地だけに雪の降り積もった季節もまた違った趣があるだろう。静けさや 岩にしみ入る 蝉の声。
拙句・・・・ ” 山宿の 部屋にとどろく いびき声” 全く 風情も何もあったもんじゃない。これ現実!。
 羊が1匹  2匹・・・・。 
 

623:ホタル袋

私の限られた関わりの中であっても、様々な事が起こっている。偶然に起こったことで何かの因縁を感じることが結構ある。夕べ59歳で亡くなった方の通夜に伺った。元からの檀家さんではない。丁度、私は山形県の上ノ山に泊まっていた。寝付けずにいた夜中の11時半に枕元に置いた携帯が鳴った。葬儀屋からの知らせだった。明日の朝でも良いのにと思いながら同室の人に気兼ねしながら対応した。
 そして、夕べ斎場にてその遺族の奥さんと話していたら、亡くなったご主人が山形出身、奥さんも同じ山形(月山の麓)の出身であった。
 『今日生きて我 あり』作家 神坂次郎の話。戦争末期の沖縄、特攻隊の実話、名もなき人々の命の重さ。断片的であるが 強烈に残った話があった。明日250キロの爆弾を積んで飛び立つ青年が世話になったお店のおばちゃん(特攻隊の母:鳥浜トメさん)に「明日、飛び立ちます。でもまた帰ってきます。ホタルになって・・・・・」と言い残す。
 翌日、一匹のホタルがトメさんの家に飛んできて、暫く家の中を飛び回り北の方角に飛び去った。その事を実家のご両親に手紙で知らせた。初めて手紙を書いたというお母さんから「お墓にホタル袋を植えて待っています」という返事が来た。
 特攻隊の若者は見送る人々に皆 笑顔で接したという、神坂の何故笑顔でいられるのか?という疑問。そのことの回答は若者の書き記す日記から分かった。彼の筆の原点がそこにある。
 彼は言う、偉い人や有名になった人は信じない、名もない人の生き様にこそ真実がある。特に信心が有るわけではないが自分の作風は時間がものずごくかかるという。一字一字を写経する思いで書いていると胸中を吐露した。
 天下太平の世の中だからこそ、人間の本当の尊さが見え難くなった。親子関係にしてもそうだ。特攻を志願した息子の無事の帰還を願うことができない時代、郷里新潟の実家の墓地に両親がホタル袋を植えて待っていてくれているということを帰る燃料を積まずに飛び立った青年に知らせる術がない。特攻の生き残りである私が書かないといけないという神坂の魂の叫びは筆舌に尽し難い。
 今、朝の5時半を過ぎた。台風4号の影響だろうか雨が降り続いている。電話で前もって頼まれていたトウバを取りに来られた夫婦がいる。それぞれの事情がある。朝早くすみませんと深々と頭を下げられた。傘を持たずに自転車で来られた。
 気を止めないとなんでもなく過ぎてしまうことが実は結構多い。人生の浮き沈み、痛さを感じた者だけが、相手の痛みを感じることができる。それが真実だ。今、国政は月末の参議院選挙一色、マニフェストや演説を本当に実行してくれるのか多分誰も信じていない。議員自らが本当に国民の痛みを感じていないというのが真理。党利党略、政党政治の限界。選ぶ側にそれだけの材料の提示がない。さすればどこで判断しろと言うのか?
 安倍首相の言う再チャレンジがどうも政治家だけに活かされているように思えて仕様がない。不祥事を起こせばバッジを外すべき、これが立法に携わる者の基本中の基本、それが様々な手練手管を使って座り続ける。そこまでして議員に拘るのか!本物と言われぬ所以がそこに見えてくる。
 *「ホタル袋」・・・・6月に咲く。花の中にホタルを閉じこめると、その明かりが外へ透けて見えることから名付けられという。
 

624:Folk Songs

[神田川」 「なごり雪」 「いちご白書をもう一度」・・・・・・CD『フォーク黄金時代40』
かぐや姫やイルカそれにバンバンなどボリュームを目いっぱい大きくしてかけている。脇に施餓鬼の塔婆を置いてはいるがどうも筆を持つ気分になれないのだ。「あの素晴らしい愛をもう一度」なつかしいなー。加藤和彦は坊さんだったっけ?相方の北山修は精神科の医者だった。もう良いおじさんになっているだろう。
 これらの曲が流行した時は当に20代前半、全てが懐かしい。目白駅の周辺は大きく変わった。昼飯に野菜炒め定食を良く食べた中華料理やはもう無い。千歳橋にあった寿司やもないだろう。追い出しコンパや新入生歓迎会は必ずその寿司やの二階でやったっけ。飲めない酒を飲まされ、どうやって下宿に帰ったか分からないことも何度もあった。
 かぐや姫の歌う神田川は妙正寺川が早稲田通りから高田馬場の当たりで合流している。その当たりをトレーニングで良く走った。
 いつも世話になった喫茶店の田中屋、そこでコーヒーを飲み何時間も時間つぶし、お金が有ればエクレアを注文、その味は田舎者の自分には至福の思い出。
 学生運動が盛んに行われた時代、私はノンポリだった、友達が熱中し、集会などに誘われたりしたが断り続けた。でも、熱く語り合う彼らを羨ましくも思っていた。そんな東京での学生生活、もう大分昔のこととなってしまった。
 なぜ、このような思いに耽るのか?原因は自分では良く分かってる。いつもお盆が近づく七月二八日は忘れようとしても決して忘れることができない。
 いま、生きていれば今でも昔を思い出しながら話ができる親友の命日。
 多くの思い出をくれた仲間が徐々に減っていく。感傷的になってしまうのも仕方がないかなー。
 私はこのコーナーで正直な自分の気持ちを書こうと思った。ランダムに書き連ね624回になってしまった。でも実名を触れることには遠慮がある。それぞれの事情もあることだし。出来れば私は実名をそのまま書きたいのだ。それが真剣に生きた相手へのせめてもの私の償いの思い。全曲で20入っているCD、いま一五番目の「精霊流し」グレープの曲になっている。
 

625:どこが問題?

尚恵学園の中身を一言で説明することはできません。独り一人が全く異なった人間として彼らを見ると支援一つにしても際限の無い広がりがあるのです。しかし、現実には優先順位を決めて対応をするしかないのです、これが実情です。いま入院中のメンバーさんの見回りは毎日職員が病院へ様子伺いに行っています。2日前に無断外出してしまったHさんが昨晩12時ごろ帰寮したという。Nさんは「もうここにはいたくない」とスタッフとの約束を破り、水戸まで出かけ、酔っぱらって鉄道警察で保護されました。タクシーで水戸から帰ってくることがお決まりになってしまった事をスタッフが電車の回数券を購入して持たせるとか様々な対応を今までやってきたのです。
 それでもNさんは納得していない。案の定、酒を飲み、大暴れして警察からの電話。スタッフが迎えに行った。車の中で「尚恵にはいられない。落ち着けない。他の所を探して欲しい・・・・」と訴えたという。
 最大公約数的な今の制度の中、隙間を埋めるには限界を感じて今までやってきた。利用者さんの訴えを全て受け入れていければ良いのでしょうが、それが適えられない。
 Nさんの立場になって考えると、今の我々の存在が彼にとってどうなのか?彼にとって「落ち着ける生活の場」とは一体どんなものなのか?飲酒を唯一の楽しみにした生活が常態化した状況で我々を利用し始めた。頼れる家族が全くない人達、その人達の幸せをどう築いていけるか? そんな事できやしねーと言われてしまえばそれまで。
 彼は、私の住職する寺で草取りをやってもらっている。1時間ぐらい草取りしたかと思うともういない。干渉されることを嫌い、マイペースで彼がやれることを頼んできたつもりだ。それも限界か!
 そこで、一体どこが問題なのか?
 自分なりの考えは、Nさんにかなり同情的である。言ってはおくが、スタッフの対応がまずいと言っているわけではない。
 「仕様がない」という事。
 今までにやってこなかったことは何だろう?違うGHへの体験、あるいはアパート生活。待ったが効かない状況の中で、そのような目先の対応で本人が満足するだろうか!
 今朝の深夜便・・・・・・高校生の息子さんが遺書を残して亡くなった。その遺書には「車。海外旅行。お金・・・・・・・一体何を残してくれたのですか。私達が欲しいものは土の臭い、風、青い空・・・・」と書かれていたと父親から相談を受けた話。
 親が我が子にこうあるべきとかこうあって欲しいとあまりにも決めつけている。そして、今の日本人は「取りあえず」が多すぎるとも。
 取りあえず学校に行き、取りあえず就職して取りあえず結婚・・・・・。生き方そのものが「本気」ではなく、世の中で何が一番大切なのかが分からなくなっている事が自殺者3万人の大きな原因だと。生命という字には、@天命A使命B命令の3つの意味があるという。この世に何のために生まれたのか?この問いはもの凄く重い。その重みに潰されないように、励み支えになるもの、それが身近な家族や友の「祈り」「願い」だと。障害を持って生まれた子を持つ親たちが勇気をもって立ち上がった時代、私は先輩達からこの子らこそが人間の思いやりや優しさを我々に気づかせてくれる存在だと。それがいつの間にかサービスをお金で換算する時代になってしまった。当に先の高校生が自らの命を絶ってまで世の中に訴えていたことと同次元の問題である。
 

626:社会福祉法人

本来の福祉事業はいかにあるべきか!
 さいたま市での関ブロに参加した。当初、参加者が集まらず、埼玉の矢部会長より何度か電話をいただく。最近お決まりの参加動員かと同情する。今回の研修会は決して派手さはない。しかし、企画の妙を感じた。決して押し売り的な企画ではなく、自然体で参加できる雰囲気、これは一体なにからきているのだろうか?茨城県から61名の参加があった。全体では600名強の参加者だと矢部さんから伺った。まあまあかな!私は特に参加を呼びかけはしていない。特に良かった点がいくつかあった。基調講演の岡田喜篤先生の話は2時間、正直まとまった先生の話を聞いたのは初めて、先生の福祉分野での活躍は関係者なら誰しも知っていること。私が先生の名を知るようになったのは、国立秩父学園の園長につかれた時からだ。私は34年前の秩父学園に1年間お世話になった。その時の園長は既に亡くなっている妹尾先生、養成所には中澤さんがいた。中澤さんとは今でもメールで遣り取りはしているが、厚労省を辞めてマレーシアに移って障害者福祉の実践活動している。
 妹尾先生の推薦でイギリスでの研修もさせて頂いた。当時ドルが360円の時代、4ヶ月であったがホームステイを経験し、私のめちゃくちゃな英語でもなんとか生活できるものだと思った。
 この先生達は、皆さん熱心なクリスチャンである。それから研修2日目の日本社会事業大学の田島先生のユーモア溢れるそれでいて本質を的確に突いた話はとても良かった。彼は浜松の聖隷事業団での実践家、私の先輩が同法人の経営する子羊学園に勤務されていたのでよく知っている。現在、関連法人の利用者総数9000名で年間収入900億という想像を絶する法人である。(因みに日本での大規模法人は聖隷と済生会の二つだという。)その創設者である長谷川保先生は伝説の人、結核患者の人を受け入れてバッラク造りの建物から始まった。そして、国会議員を連続7期つとめられ、私財を持つことは決してしなかった。生涯を法人内に建てた質素な家での生活を通したのだ。
 先生も熱心なクリスチャン。
田島さんが言っていた、彼もまた老人介護を大規模に実施(利用者総数2400名)する聖隷関連の法人の理事長職を兼務する。何と法人の借金が190億だと話された。その彼が「もう一度原点にもどろうよ!」と話された。その言葉に参加者のどれだけ多くの人が勇気をもらったことか、少なくとも私はこの言葉を聞いて参加したことに満足できた。福祉関係者は、利用者の問題を強調し過ぎる傾向があると指摘された。本当に私もそう思う。何らかの支援を要する人が本来の利用者(役割)のはずだ。○「今、全国には社会福祉法人が18000カ所あるという。介護事業に関すれば、既に民間事業者(会社等)のほうがサービス量が社会福祉法人事業所より多いという現状。当然、法人の見直しが検討されている。」
 それから、長谷川保先生の生き方は今の政治家や福祉事業家が見習うべきことだ。運転手つきの黒光の車に乗ることがステータスシンボルだと思っている輩はなんとちっぽけなんだ。綺麗なことを言ってみても結局は自己目的化している。
 私は午前の部の途中で会場を退席した。水戸での審議会に出席するため。高速新都市入口から1時間半で水戸までつく。運転しながら考えた。今日の話は私にとって高嶺の花か!  いくら小さな実践であっても譲れない理念は持っている。お前なりのやり方でいいじゃないか・・・・と自問自答。眠くなったので守谷サービスに立ち寄り、早めの昼食。
 帰ろうとしたら、声を掛けられた。「住田さん。びっくりですよ」と。大学時代のサークルの1年下のKさんだった。10年ぶり。
「私は来年、今の仕事をやめます。やりたいことがあるし」「なに?NPOとか?」「そうですね。地域の中でやりたいことがあるんですよね」彼は葛飾生まれの下町育ち、寅さんみたいな風貌で人なつっこい人だ。「それじゃまた!」と言って別れた。
 自然体が一番。無理しなさんな、肩肘そんなに張って。福祉なんて言ったって当たり前のことでしょうが。そう言われたように思った。

627:内憂外患

「内憂有るに非ずんば、必ず外患有り」とは誠に当を得た言葉。
 中に心配事やもめ事があれば、周りにも問題が絶えないということ。どうも昨年からこの状態が続く。更に悪いことには解決を見いだせないまま次なる課題が現れるものだから重層的になっている。「梅雨の晴れ間に 枝落とし 上が綺麗で 下ボウボウ」拙句。
 参議院選挙真っ直中、私の周りには全くその動きが見えない。両院の在り方もちょっとおかしいのでは。所詮むりなんだよな。ポスターやら名刺に膨大な金がかかるという。そりゃーそうだろう。比例区など範囲が広すぎるもの。
 今回の選挙は「年金問題」だという。前回の衆議院選挙は「郵政民営化」。気を付けないといけない。
 その影響をモロに受けていまったのが我々だったんだから。その大段幕の陰に隠れてしまった障害者自立支援法、出口が見えない大混乱がまだ続いている。何が危険かといえば、旗印だけが強調され、もっと大切なことが曖昧にされてしまうこと。
 私は選挙をやったことがない。しかし、誰しもが感心があるテーマに絞る戦略が一番やり易いのだろう。
 この時期、私はめちゃくちゃ忙しいんです。毎年3キロ痩せます。住職と理事長、どっちが主なのか分からない生活を長年続けている。変な意地があって、施餓鬼のトウバなどはヒトに頼まず、自分で書く。葬儀などの檀務も余程の事が無ければ自分が行く。他のお寺さんへの施餓鬼手伝いが12ヶ寺。でも、それが出来なくなった時は住職名は返上するべきだと考えている。
昨年からは福祉関連の出張が増えちゃってね。1日に3つも会議がある時もありました、会議のハシゴ。
 近場だけなら良いのだが関東全域での会合が増えた。往復に時間がかかる。(先月、八王子での会議、充分京都に行ける時間がかかった)。なんど辞めようかと思ったが、まだ1年たっただけだぞー。例の影武者の私が凄みを見せる。始末が悪い。
 今、花火の音がした。外は相当強い雨。地域の夏祭りがある。小学生が地域に数人となってしまったが、今まで続けてきた祭りをやろうと決定、大人が山車を引っ張って町内を歩くだけにしたという。
 これもどうかと思う。学校が夏休みになり、その週の土曜日がお決まりだった。我々が子供の頃、夏祭りが楽しみだった。子供達だけで一軒一軒御輿を担いでまわり、なにがしかの祝い金をもらう。祭りの最終段階になると年長者がお金を数え、我々にも小遣いが渡される。当時で100円ぐらいだったと思う。その配当金が自分で稼いだお金だという思いから堂々と使えた。だから暑い日中でも声がかれるばかりに大声で練り歩いた。最近はその姿が大分変わり、親たちがついて回るようになった。(ありがたいことに毎年、尚恵を訪れてくれる。表紙写真)
 水戸学の教えに「継往開来」(けいおうかいらい)というものがあると聞いた。その意味は「過去のものを継続し、それを発展させながら将来を開拓していく」こと。
 昔の良きものを、将来の子供達のためにいかに残していくか!これが政治や行政の一番の役目だと思う。
 昨今の永田町、閣僚の発言に対する誹謗中傷?が多すぎないか。政治家もそうだがマスコミもどうかしている。自らの足元を省みず、視聴率アップにのみ関心があり、話題性のあることばかりを追っている。講演先で何かミスでも起こすんじゃないかと先回りしてテープを起こす。失言&謝罪オンパレード。平和の大ボケ。なんとも低レベルの話が後を絶たない。
私が今のラジオ・テレビで唯一お奨めな番組はNHKラジオの『こころの時代』だけ。しかし、これは朝の4時から放送されるので一般向けでない。どうでしょう!一度聴いてみては。
 私など口が軽く失言が日常茶飯事だから、一発だわ。「その心配は全く不要です。」だと。  ハイ、そうでした。
さーて今日もやっかー!トウバ書き。(トップスナップ
 *追記・・・・先日、買い物ついでに市営球場へ。地元常総と霞ヶ浦の夏の予選。久しぶりに熱いものを感じました。

628:教育現場

 前に約束していた養成学校の関係者が事前挨拶に来られた。県内の保育士の養成校が順番に当番になり、事業所との実習調整を行うのだ。私の施設でも年間、かなり多くの実習生を受け入れる。4〜5年前から、どうも実習に来る学生の気質が変わったように思っていた。10日間ほどの実習期間が持たずに途中で挫折してしまう学生が必ずいるのだ。それも精神的なものからきていると思われる。(症状は発熱:嘔吐:落ち込みなど)本日来られた学校は地元、私の性分で遠慮なしに言うものだから、相手も気を許したのか教育現場での悩みを話してくれた。今の教育現場は学生と同時に父兄の教育も必要なそうだ。ヘー呆れてしまった。実習でテクニックや知識を学ぶこと以前の問題が大きくなった。どちらかと言えば施設よりもお寺で研修のほうが良いかもしれない。
 生活とか一般常識というものだ。学校の立場では、少子化の中で、如何に定員を満たし中途脱落者を出さずに卒業させるかが一番の関心事、片や我々事業者としては言うまでもなく、いかに優秀な人材を集めるかということ。お互いのニーズに微妙な違いがある。現場で一番困っている事はドタキャンや1ヶ月持たないで離職するものへの対策である。世の中が景気が良くなると当然、給与の良い企業が人気があって、福祉現場は太刀打ちできない。(賃金格差)それに福祉現場でのあまり良くない情報(コムスン)が氾濫しているから尚更だ。今の時代、7月にスーツを着てリクルート活動をしている学生は大学3年生だというのだ。青田刈りではなく苗代刈りが実態。もう4年生は大体就職が決まってしまったという。福祉現場は欠員が生じてから求人活動するから、毎年2月か3月、これでは勝負にならない。
 また、文科省が打ち出した、「ゆとり教育」の影響がモロに出ているという。自分の関心のある科目だけを取れば良いという学生が増えた。その流れにニートやフリーターの若者が増えた一因があるのではないだろうか?
 いずれにしても今一番注意しなければならない事は、「人件費加重倒産より人員不足によって事業継続が出来なくなる事態(倒産)」だ。
 これは、実に難しい。自前で養成学校を持っているような大規模法人(聖隷事業団)ならば話は別、日本には他にあるのかなー?
 そこで、経営者のポリシーと能力が試されることになるわけだ。病院経営も同じ。総合診療を行っている病院で専門医の確保ができない事態が出ている。大学病院が自分の所に抱え込んでしまい、研修医などを廻さなくなってしまった。これも医療制度の変更によるところが実は大きい。
 一番安定しているのは、個人の開業医(ホームドクター)である。医師は一人、薬剤師、医療事務。看護士数名の規模が良いというのだ。必ず休診日をとる。用事が出来ればピンチヒッターを頼む。だから勤務医をやめ開業する医師が非常に多くなった。身近にそんな医師を何人も知っている。お医者さんにはそういう選択肢もある、我々福祉事業所はそうは行かないんですね。施設長。事務。支援員数名では動かない。特に私どものように入所利用者だけで地域生活者を含め140名もいる施設では、尚更です。当直を夜勤にしなければ新体系の事業に移行できないということもここの部分がネックになっている。
 どうも福祉現場をしらない人達が制度設計するものだから、いたるところに綻びが出てしまった。これが福祉現場
 * 佐藤優氏の「国家の罠」という本を読み始めた。実際に現場(外務省)にいて、内情を知り尽くしている人が書いているからインパクトが大きく結構面白い。結局、許認可権を握って頭脳明晰?な連中ー官僚ーに一撃食わせるには現場を熟知している者から内部実態を赤裸々に告発すること、これが一番。憎まれようが恨まれようが・・・・・・でも誰もやりたくない。 
 

629:遠 慮

成人寮で建築中のホームが大分出来上がってきた。全個室の5部屋でグランド南面に建つ。私が進捗状況を見に行くと必ず3〜4名の利用者さんがフェンス越しに作業風景を見ている。私が声を掛けると恥ずかしそうにその場から離れる方や右腕を顎の下で折り曲げて、「寝る」手真似をする人、ニヤニヤして近づいて来る人、それぞれの反応が違う。
 贔屓目にみて、皆さんそれぞれが新しいホームへの入居を望んでいるようにとれる。間違いない。厚生園の利用者さんにとっても当然の関心事、指さして向こうに移りたいと訴える直訴型の方がいる。「Nさんは成人寮に行きたいの?」と言うと「ウン」とはっきり答える。私の記憶では、Nさんは小学校入学前から尚恵を利用されている。もう40歳に近づいている。彼は自分がもっと大きくなったら成人寮に行っても良いか?と手真似で訴えてきた。実際、体験してもらうと1日で戻ってきてしまうこともあった。でも長すぎるよな。
 これは利用者さん誰もが抱いていることなのだろう。そのように私は思う事にした。任侠ものでは無いのだろうが、一宿一飯の遠慮を感じるのだ。なんと殊勝な心がけなんだろう。彼らは家族にも社会にも遠慮して・・・・・
 寮生活でやっかいなのは、他の人との相性である。これはどこの世界でも有りうること。せめて個室に自分の空間をもってもらいたい。それが私の願い。毎年、5人分を増築しても20年ぐらいかかってしまう計算。これでは空手形だ。スタッフが理事長話があるんですと言ってきた。なんだよ?「お金がある人には個人負担をもっと戴くことはできませんか?病院だって個室料金が取られるんですから」と。私の性分か、思い切れない自分がいる。お金は実は年金の貯まったもの。元は税金である。当然の権利かもしれないがそれぞれの事情があるのだ。
 その辺の事を一番理解しているのはフェンス越しに毎日同じ場所から見つめている彼らかもしれない。
 昨日、緊急に各福祉団体の責任者が集まった。この時期集まるのだから直感、選挙がらみ。福祉といっても種別により、事情は様々。
 昨日はある線で意見が集約。大体このような内容だ。・・・・・・国は医療法人に特老ホーム経営を認める動きがある。これは長期療養型病院の閉鎖を念頭に置いた対応処置で現在利用者の受け皿確保という大義であろう。しかし、これには裏事情があって、次の流れとして福祉法人への課税になるから、阻止すべきだ。老人に導入が決まれば他の社会福祉法人にも雪崩現象でそうなるはずだ。今や種別毎の局地戦ではなくオール福祉法人で戦いに望むべき・・・・・・
 どうもお金の計算が後付でやってきた私としては、皆さんの熱気に違和感を感じてしまった。今週だったかな?経営コンサルタントと約束したのは。「貴方は理事長、失格ですね」と言われるかもしれない。
 5つの「合い」ってあるの知ってます?
 @助け合いA慰め合いB・・・・・C語り合いそれにD向かい合い。Bを思い出せないのですが、これが実はくせ者
奪い合い&憎み合い&殺し合いってかよー。世も末だ。(市場原理の競争社会は言葉を変えれば全く同じ。格差社会や強者だけが生き残る結果になり、ここに仏教でいう中道の再認識が今必要だと思うのであります)
 昔は夢を語らう場があったではないですか!目を覚まそうよ。福祉の世界でも、老人の一人勝ちであったんですよね。

630:閑話休題・・アラカルト・・

@高校野球
 正直に言います。昨日水戸での会議が3時からありましてね。高速道路でいつも行きますから、水戸市民球場の脇を通るのです。昨日は生憎?夏の大会の準決勝がありましてね。よーし雨降るな!これが最初から見るつもりでしたんです。3時の会議なのにやけに早く出かけたと誰も言わない。知らないんだわな!
 正直に白状します。毎年、準決勝はほとんど観戦に来ています。はい。
1試合目は私学同志、前評判通りの投手戦、16Kを取った常磐大付属が1:0で幸勝した。2試合目、これが見たかった。地元土浦の常総学院が出る。試合開始前のノックが好きだ。例年のことだが常総のシートノックは別格、どうしてあんなに続けてノックができるのか。これが春夏全国優勝をした伝統校の証。1回の裏だった。1番バッターがレフトライナーで倒れる。2番がライトへの場外ホームラン。この回、打者12人で7点。バックネット裏の記者席の通路に割り込んで観戦。ここが中学時代の記憶が辿れる唯一の場所。・・・・・あれは中学2年の時だった、相手は3年生チームで県大会で準優勝した土浦一中。こっちは2年だけのチームで立ち向かった。私はキャッチャー、結果はボロ負け。ベンチ裏での観客の話が聞こえてしまう。「ほーれ、またエラー」「あのバカ何やってんだー」「どこに目がついてんだーよ。このヘタクソ」・・・マスクで見えないが涙が止まらなかった。この悔しさは決して忘れない。
 さてと二回になる前に球場を後にした。見てられない。しかし、結果は気になる。茨城放送1197Kにラジオを合わせ、ヤマダ電機の駐車場で時間つぶし。そしたら相手校が反撃、二点差まで追い上げる。     失敗したなー。見てれば良かった。だが後の祭り。会議は一時間で終わった。どうも出席した委員の方がソワソワ、それにどこか日焼けしている。「どうなったですかね?今日常総ですよね?」と私が声掛けてみた。「○さん、今から行けば間に合うよ。また行くのかー」と隣同志で話している。なーんだ。似た者同士だわな。よく球場で顔合わせなかったもんだよ。それぞれ団体の責任者、束の間の休息は必要なんだわ。そうなんだわ。
 因みに今日の会議は一体何をやったのでしょう。   常総が8回にまた底力を発揮、11:5で決勝進出。.
JOSO  チャカチャ 常総。バンザーイ。
A虫取り
 観音寺の雑木山は神立では貴重になっています。7月になれば例年、暗くなってから懐中電灯と虫かごを持った親子連れがどこからともなく出現。昨夜だった。お決まりのWalkingで側を通りかかりましたら、「いた。いたよ、お父さん」「どれ?おーいたいた」 「でも メスのカブトだよ」「どうする?」「逃がしてやる!カブトいなくなっちゃうとこまるもん」  と小さな声で話している親子。
 これってどう思います?
 周辺の宅地開発は、以前として止むことをしらない。武蔵野の雑木林とまでは行かないが。
 そこで 拙句  
      ヒソヒソと 交わす言葉に 夏の夜は 親子の 触れあい 虫の役
  ● 夏が過ぎると毎年カブトムシの放生供養をお寺で頼まれます。これって坊さんの役。