源究192

  

 NO  テーマ  月日 NO  テーマ  月日   NO   テーマ    月日 NO  テーマ  月日 
 3351  祈り  12/28  3356  お裾分け 1/10   3361  利害関係者  1/25  3366  されども 2/11
 3352  希望  12/31  3357  もったいない 1/12   3362  問われていること?  1/28  3367  自己責任  2/14
 3353  謹賀新年  1/1 3358  望 1/16  3363  潔さ  1/31  3368  一人じゃない  2/16
 3354  見返り  1/4  3359  遠回り 1/19  3364  パンデミック 2/3  3369  プロローグ  2/20
 3355  ありがとう  1/8  3360  陽だまり 1/22  3365  祈りから 2/7  3370  冷静沈着  2/24

3351:祈り

 
・・令和初だるま・・ 

 令和になって 最初の年の瀬を迎える。初めがあって終わりがあり、そしてまた新たな初めを迎える。繰り返し続けられている事が、慣れっこになって なぜか新鮮味を感じなくなった。
 でも 生きているという実感は 大それたことではなく 些細なことによって気付くものだとつくづく思うようになった、平穏無事を祈り、争いを避ける。平凡に過ぎていく時間と何も無いことこそが 大切なことだと この歳にになってシミジミと感じている。進歩もヘッタクレもありゃ~せんよ。いい加減目を覚ましたらどうなんだ!幻聴か暴言か?
 一年を振り返れば 前半は波乱万丈でした、大袈裟かな~。病院生活を繰り返した。そこで先ず思ったことは 入院生活の不自由さ、一途にそこから 早く抜け出したい。こうしていれば良かったのにと悔やむことばかりが頭を過った。そして自分に向き合うのは 自分しかないことを 確信した。
 健康管理は 自分でやらねば、そう思うと毎日欠かさず血圧や体重のチェックを行う。自然にこうなったのには自分でも驚いた。ノートに結果を記し、体重は63キロ前後をキープ、薬は毎朝9錠、飲み忘れは無し。やればできるじゃないか! それと、住職として 檀務をこなせないことが如何に苦痛かを味わった。
 今は 学園のメンバーさんとの触れ合う時間で癒されています。それと 掃除、ゴミをみれば 処かまわず拾う、周囲がどう思っているかなんて気にならない。半分は あてつけ。
 言葉じゃないんだよ やらなにゃ~ダメ・・・・・。 これから先 何もせずにいるより できる事を見つけながら実際にやること・・・それが”いのり”に少しでも近づけば 本望だ。
 ☆ 上スナップ・・・おもちゃ班が全員で作った除夜の鐘で配る108個の令和だるま。
 
 伝統の手作りおもちゃ作業、開設してからもう30年以上の歴史がある。壊すこともなく大切に各自が自分の糸鋸に向かっている。先日 散歩を兼ねて 寺まで完成したダルマを全員で届けてくれた。 
 皆さんにとって 良い年でありますように・・・・。そんな祈りが込められている。108個 一つ一つ表情が違う、目は貰った人がつけるよう 同封されている。
 昨日の昼は 学園のOB会の集まり 蕎麦を食べながら 近況報告を行った。 みんながいたから今がある。それは 決して忘れまい。尚恵学園は人と人との触れ合いだ。喜怒哀楽が充満している。
 
 
 世間では正月休み10連休とか ・・・・・。不公平感が直ぐに浮かんできます。ハハ~ン 良いね。そりゃ~ お休みとれて でも 貴方たちばかりじゃ~無いんだよ。休みなく働いている人がいるから 世の中動いている。
正直 働き方改革なんて聞くと 腹が立つんだね。いまやらねばならぬ事は先送りして 自分たちは 一休み。いい気なもんだよ。分かりやすいように説明します。もう良いよ、何度同じことを聞けば良いのですか?他に言い方ないのかい。見なさい! 現実はどんどん分かりづらくなってくるじゃないか!
 止めておこう! 年の瀬だ。怒りをぐっと飲みこんで・・・と。一言だけ・・・上辺を繕うことに長けている人が 上司になると どうなるか 直に 分かりますよ。・・・・。
 
 住宅地のど真ん中にある雑木林 ・・・・約一町歩の広さ・・・ 昨日は北風が強く 実際の体感温度は かなり低かった。それでも午後のひと時、林の中に丸太でこしらえたベンチにお年寄りが二人 座っておしゃべりをしていました。何を話しているのかな~? この地域も宅地造成が急に目立つようになり、昔の面影がどんどん無くなっている。冬、雑木は葉を落とす。いくら掃いても 次々と。風にふかれて あっという間に落ち葉のジュウタン。それを 良いと思うか迷惑と思うか・・・ 人それぞれ。でも ナラやクヌギは いつもと何も変わらない。真夏、エアコンでの人工的な涼しさとは違う 自然の涼香を私たちにおくってくれる。隔てなく 誰にも公平に・・・・・
 
 

3352:希望

 最近、無意識に口ずさむ唄、『希望』は岸洋子さんが歌い 大ヒットした。その歌詞は ・・終わりのない旅・・・返事のない旅・・・私の旅は 今またはじまる・・・と3番まである唄のそれぞれの最後のことば。人生で 何が大切かを考えた時、それは希望かもしれないね。朝昇る太陽に一日の始まりを感じ、西に沈む夕日にまた明日東の空に太陽が昇ることを確信して眠るんだ。このことが当たり前と思っていたら 何かの理由でそういかなくなって 私たちは 初めて自分と差しで向き合うことになるのかもしれない。 誰かがそれを替わってくれない。どうして自分が・・・と 思い巡らしても返事がない。人生を旅と考え 時間の長短ではなく その中身が大切だと。。。。。思い知らされるのですね。
 臨死体験やら終活という言葉には どうも他人事という思いがあった。まだ先のことだろうぐらいに捉えている人が殆どかもしれません。
  あわてず・・あせらず・・あきらめず・・・この三つの言葉を患者さんにニコニコして語る医師を知っている。 それに対しクヨクヨせず 前向きに 一日一日を大切にいきようという患者、そこには 医師と患者という関係を超えた お互いの人生を認め合う ほのぼの感が生まれる。 
 
 
 この国から”仄々”(ほのぼの)という言葉が少なくなったように思う。何かに追い立てられるように 周りを気にし、溢れる情報に翻弄されて、皆が不安の中で精一杯生きているのです。これで”幸せですか?”と聴かれても、言葉が見つからないでしょうよね。 
 これも自己責任だといわれりゃ~ どうなんですか、ちょっと狂っているんじゃ~ありません???
 尚恵学園は冬休みに入りました。朝、私を見つけたIさんとNさんが珍しく 私の傍に来て話かけてきた。ハッキリしないのですが、言わんとすることは判っています。・・・・「カーカン?」・・・・。彼は 毎日 母親が来るだろう方角を見つめてすごしているんだもの。
 少々お堅い話になって恐縮です、いま 枕元に置いた本を読みながら寝るのが楽しみになりました。その本は『文明論之概略』という福沢諭吉著の現代語訳、今の時代 細切れに書かれた本は溢れんばかり、だから日本の在り方を世界の情勢から観て総じて論じる本を知らない。やっと たどり着いたのが福沢諭吉のこの本だった。美辞麗句は全くなく慢心もない、 自分の責任逃れの言い訳は皆無だから凄い。
 日本の核心を揺るがすような病巣があるとしたら、こういった明治の立役者とは真逆のリーダー達の自分勝手な言動を許す社会かもしれない・・・・・。
 
 
 ”平穏” この文字に凝縮された願いは 最早望めないのでしょうか? 未だ見ぬ姿ゆえに 誰も想像できないのかも知れません。 正月に家族が集まって 炬燵でりカルタ取りやら百人一首、このような団欒の場がいつの間に消えた。
 時代と共に形を変えた過ごし方も良いだろう。でも、何かしっくりしない。
 同時刻、地球上のどこかの国では 飢えに苦しむ人たちが 食料支援を待っている。SNS技術の進歩によって ライブで送られるそんな光景を 私たちは どう受け止めているでしょう。情報の遮断が 無意識のうちに行はれる。豪華客船での世界の旅が チャンネルボタンひとつで 映される。これが 現実とすれば おそらく 核兵器のボタンさえ 同様の感覚で押されてしまうことも十分想定できます。
  現代文明は何かと問われ、誰もがハッキリ答えることができない。想像と創造、読み方同じで意味が違うのを AI技術に託すことで 責任転嫁をはかる・・・・。こんな世に誰がした。
 どこの国とは言わないが、桜の花見会を税金を使って盛大に行うことに 疑問を感じないことに  嘗て首相をつとめ今年亡くなった元老の遺訓は ・・・日本人であることに自信をもて・・・・・だった。
 その言葉は意味深だが お褒めの言葉と受け止められては 如何なものか!
 

3353:謹賀新年

 明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。
 昨夜の除夜の鐘は 日中の温かさから一転し、寒さが身に沁みました。まったく宣伝もしないのに鐘撞きに来られる方が徐々に増えているように感じています。幸い 心配した風も強まることは無く 満天の星の下で令和になってからの初めての除夜の鐘を皆さんとご一緒に撞くことができました。
 除夜の鐘は日本各地で古くから行われてきた行事で 私たち誰もが生来持つという108の煩悩を鐘を撞くことで取り除き 平穏無事を願うものです。いつもだったら近くの工場団地から 何かの音が常に聞こえるこの地域も正月は特別で全く その音が聞こえず静寂の中、そして夜空に光る星が本当に鮮やかに輝いているのに感動しました。
 寒さにもかかわらず 来てくれた方々の中には、まだ一才にならないような赤ちゃん、家族連れ、恋人同士?、外国人の方もおりました・・・・。  是非とも皆さんが心に秘めた願い事が叶えられることを祈るのみです。
 皆さんへの細やかなプレゼント、今回は おもちゃ班が作ってくれたダルマが加わり、差し入れの甘酒、まんだら工房の釣り鐘クッキーや 暖められた飲み物が配られました。
 ご協力頂いた 皆様に 心より感謝申し上げます。
 
 昨夜は 3時間ほどウトウトした程度で、元旦は 寝ぼけ状態で過ごしてしまいました。
 昔とは違って 粋がって目標を掲げることも無くなって、自然体でやっていこうと思っています。でも性分は簡単に変わりませんね。ヒョンなことでスイッチが入ってしまい、熱くなる。まるで瞬間湯沸かし器!まあまあ~と 自分を宥めるが うまくいきません。
 その気持ちを 普段目が届かない所に向けたらどうかと すると 妙に気持ちがすーっと落ち着く感じを得た。例えば 天井のクモの巣とかエアコン室外機と壁の間・・・・とか 前であったら、≪ なぜ 綺麗にしないんだよ!≫と周りに文句の一つや二つが出ました。
 じゃ~ 自分でやりゃ~良いんだな。そう思って始めたが長続きはせず、敢え無く挫折した。
 その辺の良い塩梅が判らずに 悶々としていたら 妙な夢をみるようになっていた。 そしてスマホを利用することが浮かんだ。掃除した前後の写真を撮って 自分で比べた。ハッキリと違いが自分で分かった。
 すると 小さな満足感が顔出して自分で自分を慰めてくれることが判ったのです。・・・見てみろよ!綺麗になったじゃないか!・・・・元々目立たない場所だもの 気付くのは 無理なんだわな。この気持ちの変わり様に 少々戸惑いを感じた。
 謹賀新年・・・・・今年は どうも その辺を探ってみようかと 思っております。 変でしょうか? 思い当たる節はありませんでしょうかねえ~。(ex: 内憂外患)
 
 使い捨てに慣れてしまうと 不具合が増えるということを 今の日本が世界に先駆け証明していますよ。 じゃ~不具合の中身は どんなことって? 気障に言えば・・・外からは見えないように覆い隠そうとする”こころ”ですよ・・・。 知ってか知らずか どっちでも構わないけど 不具合を悪者にして 新たなものに代用させる、この構図は巧妙かつ厄介です。
 量販店で買い物し、故障したら ≪ 古い形式ですよね~。これ修理するより 新しいものを買った方が安い位ですよ≫ 店員のお決まり応対マニュアル 何かが欠落している。そして 不用(?)になったものの捨て場が 何処かしこも満杯。
 皆さん こうなることは 判っていたはずなのに まだ先のこと・・・と思っていた。
 銀行で預金したら 費用が掛かる、ゴミを捨てるのも同じ。時流で当たり前 仕様がないと誰もが思ってしまう。今までとは 明らかに違ってきた 世相とルール。 そのルールをも簡単に反故にするとは。内憂外患、心配事の大量生産、それの処理に四苦八苦。
 時流に乗ることを良しとしたツケ。それができる人が重用され賞賛に値するのが当然だとね。これだって 疑わしいもんだ。  社会全体が・・・・不都合なことは覆い隠そうとする”思想”が蔓延する。
 いまこそ発想の転換が不可欠といったところで 何をどうしたらよいのか分らない。私感だが四国遍路には時計廻りが順うち、その反対は逆うちで、どちらも 同じ信仰(同行二人)の道である。今の世は 経済第一、これは順うちしか認めない考え方。その弊害を隠蔽し 巧みに情報操作の悪行を重ねていると考える。
 日本の社会保障だってそうだろうよ、発想の転換なくして 良案無し。長寿を社会の負担とみるトラウマは明らかに人為的過ち。鶏が先か卵が先か 何もかも損得勘定では 正解はいつまでたっても望めない。
 乃至法界 平等利益。

3354:見返り

 菱川師宣の『見返り美人』は東京国立博物館に収蔵されているらしい。その見返りとは意味が違うが 結局 無関係な話ではないのです。凡そ300年前に描かれた浮世絵美人図と今はどう違うか?
 ま~流行は人の五感に敏感に反応するが 果たしていつまでそれが続くか判らない、時が過ぎれば見向きもされず 捨てられるもの多し。便利さと怠け癖、これも突き詰めれば大差無し。 鶏×卵論争の再燃。 結局 核心では無く どちらかと言えば焼却場に回される宿命が待つ。それでも良いと思う人はご自由にどうぞ。当代流行の経済第一主義は大事かもしれぬが 魔物になる恐れ大。だってそうでしょう 経済そのものは見返りが条件で成り立つものだからね。見なさいな!外交交渉だってど派手になってきた。見返りの多少によって合意できるかどうか決まる これは 経済ルールさながらの 大国・強国中心のやり方でしょうよ。従わなければ制裁か属国になれと・・・・。これは無謀極まりない考えと思いませんか? 今日の友は 明日の敵ってことを平気でやっている。
 仏教の教えには、無財の七施や無功徳というものがあります。 今時 流行らないと一蹴されるかもしれません。でも 本当にそうでしょうか? 日本語の中で 語感良い言葉・・・・ありがとう・おかげさま・もったいない等々・・・は、仏教・儒教の教えから生まれているのですね。
{裏をみせ表をみせて 散る紅葉} あの良寛がいたら今の世態を どう思うでしょうね。裏は絶対に見せないで 良い恰好する そんな人間ばかりになってですよ 相も変わらずにGDPなる印籠から逃れられない????
そうそう・・・無功徳という本来の意味は 功徳を積んでいると意識した瞬間に その功徳は消えているという意味なそうです。蛇足だけれど 意識過剰と見様見真似の功徳積みでは もう論外だわ。
 
 外国で長く生活する人の多くが 老いを感じる頃になると 自分のルーツに思いを馳せ、日本人としての確証を探し求めたくなると聴きました。逆に日本から一歩も出たことも無く 同じ場所に住み続けた人も大勢いますよ。
いずれにしたって自分自身と向き合い 節目を刻み これから先をどう生きたら良いか 新年を迎える正月の関門でしょうか、
  正月3日があっという間に過ぎた。何をしただろう? 唯一、『文明論之概略』現代語訳(福沢諭吉)を読み終えたことだ。第10章の「自国の独立」には、明治人として 日本が真に独立国家になるために 何を為すべきかを陳べている。独立にはその国の文明が大事という一貫した考えで・・・・≪まずは、日本の国と日本の人民が保たれてこそ、しかる後に文明を語ることが可能になる。(同:P389)と断言している。これは100年経過しても全く変わっていないことに気づくだろう。
 そして 現代の方が 福沢が描いた理想の姿から遠く離れてしまったかのような印象を受けるのですね。人の品行とか 公の使命とか もしそうであれば 何がそうさせてしまったのか この辺りを真剣に究明する必要があるのでは ないですか?
 先ず・・・隗より始めよ・・・。 ワンポイント チェック・・≪軽佻浮薄(けいちょうふはく)≫(同・P382) 
 
 毎月、境内を使って地域のボーイスカウトの集いが行われています。事始めだから 住職から一言挨拶をと頼まれた。一言で良いというものだから 本当に一言で終わろうと思っている。
 どこに片づけたか 催事用の看板が見当たらず 仕方がないので また新たに作った。前の看板は畳2畳分の大きさで重すぎて持ち運びに苦労した。でも 風で飛んでしまっては不味いだろうと、畳1畳半位まで縮小した。
 それだって墨で字を書くのに 看板の大きさに合う筆がない。・・・・・・。
 今年も相変わらず斯様なチグハグさが持ち味で参ります。そうだね実と虚の共存社会。 だから 我々はバランス感覚が求められる。主義主張はあくまで一方的 大義名分とは成り難し。新自由主義の行き過ぎた様相が最早コントロール不能と化したか!
 それと世界の動きが ドンドン読みづらくなっている、グローバルとかSNSと横文字ばかりが目立つ昨今 お調子者には 追い風かもしれぬが 想定外の暴風となって襲い掛かる、慌てても後の祭り、後に 裸の王様同士で慰めあうような風俗画が観光地の道端で安売りされることになりかねまい。

3355:ありがとう

 ありがとう・・・という言葉を皆さんどう使っていますか? 臨終、意識混濁の中 伝えたい言葉が有るとすれば 私は≪ありがとう≫と言いたい。
 実と虚、言葉で思いを伝えることの難しさを 何度も経験している人が多いと思う、昨今のSNSやAIロボットが進化し続ける有様は 実とは次元を異にし更に虚との境を見極める難しさを際立たせている。この境界の曖昧さ、その進行速度を遅くする術がない。それを薄々知りながら更に進化させ競い合う先端(?)企業、ゴール無き戦略、そして万が一軍事利用されても 現状の法律で裁くことはできない。斯様な無法環境が地球を覆っているのです。
 情報の信憑性を疑わなければならない社会は、実に不幸だ。誰も分からず 深刻な事態が この地球上で連鎖的に起こっている。一例として、やまゆり学園事件の犯人は 今も国の為に良いことをやったとの考えを変えていない。19人の重度の障害者を一瞬にして殺害、逮捕された時の犯人の嘲笑うような顔がTVで全国に何度も流された。そして 3月に審判が下される。あの事件が起こって3年が経過、話題に上ることは減った。
 今日の朝刊に気になる記事がありました。収監中の犯人と何回も面接を行ってきた重度障害者を子に持つ方の話が紹介されている、その中で 犯人はある国の大統領に共感し 犯行に至った旨の話をしている・・・と書かれている。
 実と虚の共存する社会で膨張するエゴイズム、彼らは”自由”を叫び、自戒もなく絶大な権力を持つとすれば 過去の過ちをまた起こすことになりかねない。これも個と社会の曖昧さが原因している。
 ”ありがとう”の言葉の本来の意味を まず リーダー達に学んでもらいたい。 ありがとうの言葉には 相手がある。 自分さえ良ければという思いとは相いれないものなはずだから。
 
 勝ち組×負け組という区別は 理解し難し。世界の資産家26人の合計資産は 地球上の30億人以上の貧しい人達の合計より大きいという。1:99もそうだ。1%の裕福な人たち、残りの99%が。。。
 この現実は 果たして人類が望んでいた姿なのでしょうか?勿論 違います。 何かが狂っているのです。一人の人間が4つの国のパスポートを持ち、プライベートジェットで 世界を飛び回る。いま この国で起こっていることが 自分達とは別世界の出来事のような感覚になる。異常なのか正常なのか?あえて 歴史家を出すまでも無く 日本の江戸時代は、徳川家15代続いた統治国家として世界に類をみないことを私たちは知っている。その昔に回帰することを望む人が果たして今 いるでしょうか? 慣れ程 恐ろしいことはない。
 ”ありがとう”の言葉のもつ仄々感、語源からすればもう一つの意味で”有り難し”があります。 最近 仄々感がどんどん小さくなるような気がして 改めて 言葉の持つ意味を考えては 如何でしょう!挨拶を交わすのが苦手な人が多くなった気がする。道ですり違った人同士が 目を反らし 歩く姿は 普通??? 大都会なら いざ知らず 私の住む田舎でさえ 挨拶が消えている。
仏教で説く身口意(しんくい)の三密の真ん中に置かれる口は”言葉”なのですね。

 
・・・・Kさんが 昨日自転車でビニール袋に丁寧に包んだものを 態々届けにきてくれた。 彼が住むグループホームの周りを綺麗にしてくれたので お礼にと 自分が畑でつくった白菜をもってきてくれたのです。彼は≪アリガトね!≫という一言だけ言って 直ぐ どこかに行ってしまった。・・・・・・・。
 

3356:お裾分け

  新自由主義の根幹たるトリクルダウンの考えは 現実には貧富の格差が収まらず、富が上から下に降りず格差が拡大する一方で その理論効果が失速した。それでも 実態を認めようとしないのは どうしたもんだろう? その言い訳を考えているのだろうか。
 オーストリアでは政権交代が起こって地球環境問題に熱心な”緑の党”が躍進、連合を組み新たな政権体制になった。一方 日本は 旧態依然として長期政権の変わる兆しはみえない。不安定な国際情勢だから長期政権を求めるとか 他よりはまだマシだという考えでは、砂上の楼閣で 不安定さを内包する。これじゃ~事なかれ政治からの脱皮は到底出来ず 世界から信用され無くなりましょう。 それと止まぬ不祥事をみて国民の大多数は うんざりしているんじゃ~ないですかね。彼らは何をもって安定(平和)かを真剣に議論してきたのだろうか、今は 責任逃れの坩堝と化しているように思えてしまう。ハッキリ言って 貴方たち政治家の議席確保の安定が第一になっているからだろう、問題外だ。
 国内生産だけで食料需要に対応できるのか できないならば その見通しを考えるのが貴方たちの責任だろう  こういった国民生活に直結する問題に対し本気度と覚悟が感じられないのは その場凌ぎで 逃げ腰の答弁が裏付ける。
 政治が変われないなら 自分たちが変わらなければ大変なことになる。その自覚は我々一人ひとりの決断にかかっている。
 〇〇ミックスなど意味不明の造語より 子どもや老人にも判りやすい政治をやるべきでその想像&創造力が乏しい。例えば”トリクルダウン”は”お裾分け”だわな・・・・・・・
 
 
 新しい年は珍しく穏やかな天気で始まった。しかし、長続きはしなかった。イランと米国の関係悪化、日産のゴーン元会長の海外逃亡、それとやまゆり園事件の裁判開始・・・・と同じ日に起こったこと 安閑と正月気分に浸ってなどいられない。
 一触即発の様相は世界中へ瞬時に伝搬した。益々 舵取りが難しい時代となった。
 自分にふりかかる火の粉を払い落す間もなく、状況は変化し、その対応に追われる。・・・・今を欲望の時代と断じ 情報テクノロジ-によって資本主義は崩壊すると主張するガブリエル。。。・・・・。まさに現実が証明している。
この混乱状態がいずれ収まって 平穏な世の中になるのだろうか?地球の歴史で 最大の危機を迎えていると言っても良いかもしれない。時間をかけ 築いてきたものが ある人間の登場によって瞬く間に崩れていく、その
様を見ているだけしかできない我々は それを選んだ責任を否応なく負わされる。あたかも 大雨で河川の堤を簡単に越える溢水のごとく 国境を簡単に超えてしまうミサイルとダブる。
 情報テクノロジーが どこまで進化しても 正確に相手に思いを伝えることはできまい。仏教は 2000年以上昔にそのことを予測し戒めている。分かりますか???
 それは 人間が生来持っている”欲望”の存在です。厄介なのは それが一定でなく常に変化している・・・無常。 考えてみれば 様々な主義・信条だって それ自体に何らかの欲望(業)が絡んでいる。
 難解な条例・取り決めより・・・・ありがとう・もったいない・お裾分け・・・・のほうが ずっと判りやすいし的外れはない。これを万国共通語にすれば 誤解は減ると思うが 馬鹿らしいと相手にされないと思う。・・・資本主義の終わりか?人間の終焉か?
答えは”わからない”。24時間内で大きく株価変動、それは実でなく欲塗れの思惑でなるのだから 判らないとしか言いようがないのです。

3357:もったいない

 父が住職していた寺から40年前に贈られた振り子時計は 正確な時を今まで刻んできた。それが半年ほど前に3本ある重り全てが上から下りなくなり、時が止まった。散々手を尽くし修理してくれる所をやっと見つけた。忙しいようで修理順番を2か月ほど待ち、更に修理にも同じ位かかるだろうといって時計本体から機械だけを外し持って行った。
 高さ2メートル以上もある時計には”謝恩”というラベルが貼ってあり、私の良き道標となってくれた。 どうしても また動いて欲しい。
その時計は振り子の重みによって時間を刻む あの東日本大震災の大揺れにも倒れず 動き続けた。時計の仕組みは実に単純、重りの重さだけが動力、まさに再生可能エネルギーとは このことだ。
 大量に生産し 大量に消費する、薄利多売、その当時は遮二無二働くことを善とした。大黒柱が外で働き それを家族皆で支えた。高度成長期には人件費の安い海外に挙って工場を移し、その利ザヤで事業拡大をはかる企業が多かった。使い捨てを当たり前とする風潮は、経済的に豊かになる道程で深く日本人の心に残った。モノへの感謝の気持ちが減るのと同時に人への感謝の念も薄れてしまった。それからずっと国は 収支を合わせるために国債を発行し続け 合計で1100兆円という天文学的な額にまでなってしまった。
 リーマンショック級の金融危機がなければ心配無しとの一部の忖度学者の後押しで、今もって変更せず巧みに借金を積み上げている。 返せるのかどうかも分からない状況を黙認してきたのではなかったか?
 リーマンブラザースという米国の一企業の破綻で起こった金融危機がリーマンショック、だが、それ以上の危機が連鎖的に起こる可能性は 当時と比べ格段に増している。
 
 私の住む茨城県、民間の県の魅力度調査で3年連続最下位という汚名を着せられている。何か イバラキに不満でもあるのかな? それを心から信じている県民なんかいませんよ。去年、茨城国体と全国障がい者スポーツ大会があった。全スポは台風の直撃を受け やむなく中止しとなったが、受け入れ準備は完璧にできていた。国体の為に新たに造った建物は無かった。巷では 様々な意見があったことは承知している。一方今年行われる東京オリンピックは全く逆だ、膨大な費用をかけ、殆どの競技会場は新たに造られた。その豪華さは 尋常ではない。そこには ”もったいないベエ~”と今ある建物を直し使おうという発想は無かったのか? 斬新な設計で実に見事な新国立競技場、さぞや満足でしょうね。だが どうでしょう? その後の維持費を考えると決して喜んでばかりはいられない。
 身の程を知れという先人の教えは禁句となり、将来の負担はどうにかできるという胸算用を優先する。この国が何かに浮かれていると謂われる所以だ、まるで根無し草のようで、外見は見事だが しっかりとした拠り所を持たない浮き草か、 先進技術立国ニッポン、GDP元世界第2位、いつまでもこの旗を降ろさず、・・・考えて見なさいよ、福沢翁の≪日本の国と人民が保たれてこそ、しかる後に文明を語ることが可能となる≫という戒めの言葉 を
思い出すべきだ。保たれるという日本語を どう解釈したらよいか、 後にそのことが正しかったのか否かを検証する資料(拠り所)を大事に保管しておくことではないのですか?この辺は子供にだって判る道理だと思うのです・・・・・がねえ!
 
 
 昨日 結果が出た台湾総統選挙は 投票率が74.9%だった。日本はトップを直接国民の投票では決めない。既に危険水域で選挙制度そのものが見直されてしかるべきと私は思っている。何せ やる選挙 センキョが低投票率で 一向に上向く兆しが見えない。恥ずかしくないのでしょうか? それでいて やっているのは 自画自賛が多すぎます。正確な民意を下に 立法府を立て直すには 枝葉の制度改革では無理、判っているはずです。ハッキリ言いますよ、貴方たちには、それを変える覚悟がない。逆に低い投票率を利用している節が見えてしまう。”もったいない”現実がここにある。膨大な費用をかけ 行う選挙は いつ行えば自分たちの利になるか それが最優先になり何の為にやるかが二の次に思えてしまう。
 そして 公約不履行になれば謝罪すれば 済むという風潮がいつの間に蔓延してしまった。 自ら公言したことを あまりにも安易に変えすぎる。この状況は深刻です。
 もったいないの二つの意味、モノを大事に使う事と無駄な出費を控える事。辞書を引かずとも小学生が知っている。
 ★日本の国政選挙推移・・・昭和33年(1958)には 77%あった投票率が 現在(2020)50%を割る。一貫して下降線を辿っている。(総務省資料より)

3358:望

 南半球は夏まっさかり オーストラリアやブラジルの森林火災は どうなったでしょう。日本は 今年、暖冬だという、茨城に住んでいると然程感じない。雪不足が深刻なスキー場は 軒並み営業を止めているとか、明らかに気候が昔とは変わってしまった。それを喜ぶモノあれば逆もある。自然を相手に成り立つ物事は常に不安が付きまとう。聴いた話、 気温1度下がると人間の免疫力は30%下がるとか。。。。抗生剤やワクチンの研究が進めば 耐性菌が新たにできて その攻防は永久に終わらない。菌の身になれば 生き延びるための必死の抵抗だろうが 人間は誰しもが健康への望みを放さない。
 情報社会は複雑な力が働く、それが今後ますます強まって 何を信じて良いのか判らい! ちょっと立ち止まって今を考えてみれば如何でしょう? 私たちが希望を実現する為もがき苦しむのは 2000年の時間差で考えてもそれ程違いは無いらしい。これもちょっと立ち止まって考えたら、当たり前と判るはず、縄文~弥生は はるか昔、だが地球の歴史からすれば それだって大きなタイムラグじゃ~ないだろう、問題は時間だけではなく自然界の事象で 急激に変化しているものは何かということだろう。
 最近 地震が多いように思う。どんなに地震の研究が進んでも完璧な予知はできません。地震そのものは 人間の能力の及ばぬことだから。予知はできても無くすことはできない。
 何度か大きな地震を経験しているからか、揺れと同時に その時の悪夢のような記憶が蘇る。人間が起こすもので最悪なのが戦争、昭和20年を境に二つに分かれ その記憶を辿れる人たちは確実に減った。
 私達は己の能力を過信してはならず 奢ることも良しとは言えまい。
望(のぞみ)・・・・余計な話かも知れぬが 事の重大さを考えても夫婦同伴で行くべきかどうか??? それはちょといただけない。花見と外交と同じ感覚とは思わぬが なぜか私にはそう映る。
 
 モラルハザードとは≪倫理の欠如≫という意味である。巧妙に考えられた詐欺事件やサーバー攻撃、SNSの急成長に伴い新手の問題の急増。情報技術が資本主義を潰すという警鐘は 経済活動だけの話ではなく全てに鳴り響く。嘗て 栄えた国や企業が トップの判断ミスにより没落、これが今、現実に起こっている。その最大の原因は信用の失墜で これは徐々に進行するから厄介だ。
 更に無視できないのはAI技術の最大のリスク、倫理をどうするかという問題だという。最後には 生かすも殺すも人の力に頼るしかない。その人間に倫理が無いということは 二重三重のモラルハザードとなる奇妙な論理。最初からそんなはずじゃ~なかったか、その選択が間違いかどうかの判断さえできなくなった??
 更にどんどん進めば 最終目標は 人間不用・不在のパラダイスではないのでしょうか? 本当に 悩み・苦しみのない幸福な世界、これだって仮想現実(VR)の罠 倫理も責任も無くどうにでもなると勘違う。私には その程度の理解しかできませんが 最早 後戻りはできまい。
 何故なんだ? そうだわな~ ! 行為のエネルギーそのものが”欲望”だからでしょうか。
 一国主義は 大欲にはならず、小欲そのもの、失うものが多すぎる割りに決して満足できない。
☆仏教で説く、小欲と少欲は日本語の音読みではどちらも・・・しょうよく・・・と同じだが意味は全く違う。 
 
 
 …散切り頭を叩いてみれば○○○○の音がする♪・・・・・あまり聴かなくなったからな~ 〇にどんな字が入るか尋ねて 正解率はどのくらい? 何を馬鹿なことを言っていると相手にされないだろう。散切り頭の意味さえ分かるまい。『散髪脱刀令』なる法が出たのも知るや知らずや、鎖国から開国に変わろうとする明治初期のこと、知る者は言わず、言う者は知らず。
 いかなる時代でも 人間の望みには 共通するものがあったはず。ただ それを叶える方法が違ったのです。近現代を象徴するのは、それを良かれと信じて 遮二無二 競う、違法となれば強権を行使し 合法化させてしまう強引さ。
 それが許された時もあったかもしれません。でも・・・・・・!そのことに疑いが持たれているのが 今なのではないでしょうか 、そんな風に思っています。
上記で小欲には…自分さえ良ければ・・・・を付け、少欲には知足を付ければ どうでしょう。二語の違いをご自分で想像してみて下さい。
 つもりは 誤解の始まり これ ホント!
 

3359:遠回り

 昨日 Kさんの40歳の成人式を行いました。学園内は 風邪が流行し 全員で行うのは止めて 同じ年のスタッフと他に何人かで細やかなお茶パーテイ、でも Kさんの笑顔がとても良かった~
 独り一人の願いを叶えることが どういうことか それが皆の喜びとなれば 自然と笑顔になるでしょう。それには この人なら信じられると思う関係を如何に作れるかが大切ということを教えてくれたように思う。それは 遠回りだったとしても その時間は あっという間に縮まるのですね。
 
 また、その逆もあるんです。とても仲良しだった友達となにかのきっかけで犬猿の仲に、これは 思いが一方通行な時?  よく有る話です、
 冷静に考えれば、それは 相手からの見返りを望んだ時に起こるように思いますが如何でしょう?
 世の中は 損得によって動いています。損得には 限度がありません。 これでもか これでもか と金の亡者のごとく、そうならない為に”持ちつ持たれつ”お互いが存続するために 助け合い分け合うこと。
 現実は そこが本末転倒、願いを叶える為には”カネ(原資)”が必要としか思わない。だから なりふり構わず手段選ばずってことになるんだわ。
 皆さん それは言われなくても判っているんですよ、でも 思っているだけで 実行できない。
 東京から新宿に行く為、中央線か山手線、そのどっちに乗るかは 貴方次第。迷った時には遠回りのほうが安全確実ということもある。もう 50年も昔の私です。
 
 新築ラッシュです。寺から半径200メートル程の場所に今 新築中の注文住宅が6軒もあります。どうなっちゃうのでしょう?恐らく 永住するつもりは無いと思います。新旧住民のコミュニテイは いろんな事がありますね。これも時代の流れと考えて、うまくやっていかねばならんでしょうが
 農地がドンドン減って家が建つ、当然 農業が続けられなくなるのも然程先の事ではないでしょう。ただ 大雨の際 必ず起こる問題は水路が溢れてしまうこと、現在の建築基準法は ザル法?建物の基準には手墨が入っているが 水の最終処理までは 担当外。
 事が起こってから騒いでも遅いのに 何十年という長い間 改善できず放置されてきた。これは 遠回りとは言わず 無為無策。
 
 そこで 自分達が住む地域は 協力して 自主的に 街づくり・・・・・。さ~て これが 難しい。何故か知らねど 笛吹けど踊らない。誰も見ていなければ 何しても構わない。お天道様が見てるぞ!
 残念ながら お天道様なる言葉は私の辞書にありませんってか~。
 ここで 提案 年間祝日が多い日本ですから、その中で一日だけ 全国一斉に掃除の日としたらどうでしょう!参加は自由なんてことじゃなく 義務とする。そうすれば新たな発見があるかもしれませんよ。
 
 
 1956年 菅原都々子さんが唄って大ヒット・・・月がとっても青いから 遠回りして帰ろ♪・・・・。この曲の2番は≪月の雫に濡れながら・・・≫、3番は≪月もあんなに うるむから・・・≫で始まる、その昭和31年は 丁度 尚恵学園が産声を発した年でした。63年前となります。あの頃の夜空は 今とは違い 眩く光る満天の星が見えました。街灯など無い道を提灯ぶら下げて歩いたことを覚えています。勿論 防犯カメラなど有るはずが無かったです。
 車も無いし 歩くか自転車 そんな時代でしたね。
 それが どうでしょう。今 この国で食べ物が捨てられ量が年間約621万トン先進国でもダントツの食品ロス、この対策が遅れているのも事実です。昔なら食べ物を残すと親から叱られた。≪いただきます≫と手を合わす習慣も減っている。
 とすれば 月がうるんで見えるように 食べ物もうるんでいるだろうと考えるのは変でしょうか? 月明りを頼りに夜歩いたら 自然の恵みを感じることになりましょう。防犯カメラが無ければ安心して住めないのでは 一体何を目指して私達は努力したかが分からない。
 それが歩くどころの話じゃ~ありません。時速500キロの新幹線を走らせ何を望むのですか? 世界との競争に遅れてしまうからですか?想像と創造力を使ってよーく考えて見ましょうよ。
 ちょっと遠回りして歩きませんか?そうすれば 自分の体感時間と実際の時間のズレは減るかもしれないよ。

3360:陽だまり

 陽だまりに腰をおろし,うたた寝しているお年寄り、そんな風景が似合う季節となりました。予報では 今日の最高気温は13度、最近では珍しく温もりが感じられそうです。 気が付けば落葉樹の枝には もう殆ど葉が残っていません。木にとっては養生期間で 根から取る水分や栄養分を少な目にして 新芽を出すためにじっとしている。この自然の周期は 我々人間とは関わりなく 繰り返されてきた。
 思い通りにならないことを嘆き、苛立つのは 我々人間の専売特許、それを上手に制御してくれるのが 自然の力、日差しを遮り、北風をまともに受けないような 場所が陽だまり、思いとは別に体が先に察知する。
 私たちには それが必要なんですよね。思いでは無く 体が感じる温もりを。 そうすれば 安らぎは 身近にあることに気づく。
 二日間大学センター試験が全国で一斉に行われました。この制度も今年まで 来年から新たな制度になるらしい。昨日はいろんな事がありました。午後に父親の葬儀の打ち合わせに喪主のご長男が来られて 話を伺った。父親は15歳の時に 戦争に行くことを自分で決め、予科練への試験を受け合格した、その年が丁度終戦にあたった。その後、実直に真面目に仕事をして家族を守り 自らは 農業機材の普及を生涯の仕事としてきたと 教えてくれた。
 子が親を誇りに感じる家庭は 陽だまりになる。”持ちつ持たれつ”の関係が身近にあれば 考える前に体が覚える。
 ・・・ 木が育つように 私達にとっても同様に 温もりがくれた感謝の気持ちが良からぬ思いを和らげる。・・・・・
 
 
 週末に天気が崩れる、このパターンが最近は多いように感じます。冬、日本海側が雪で 太平洋側は乾燥という大気現象が変わりつつある。
 去年起きた台風の爪痕は今でも各地に残っている、屋根にはブルーシートがかけられ、土砂崩れの場所には黄赤の注意標識がずっと置かれている。世界中で騒がれている異常気象による災害は いつも 何処かで起こっている。 変化は徐々に起これば それへの対応も出来やすいだろうが限界はあります。中国で起こっている新型コロナウイルス感染は 拡大を止めることができるのだろうか? 人の交流が昔と比べ 格段に多くなり、防疫対策が出来ているのかどうか? それには正確な情報と周知が不可欠、特に 日本はオリンピックを間近に控えて、外国から沢山の人達が訪れることは明らかです。
 最悪の事態を考えて 予定を変更せざるを得なくなることも十分有りうるだろうが、 その判断は大変です。オリンピックの脱メダル化や競技内容の見直し、  薬物使用や開催国の膨張する財政負担など 多くの課題がある中で 譲れないオリンピックの目的は”平和の祭典”であること。
 世の中の変化が激しすぎて、何のため””誰のため”という核心がズレてしまいがちで、絶えず検証されないとならない。そうでないと 逸脱した宣伝や過度な利潤追求の場となり、 そのツケが 地球上のあらゆるものに伝染し負の遺産となりかねない。未来志向&一国主義&経済最優先etc、これだって リスクと表と裏の関係で 過激化し収拾がつかないことになる恐れはあり得ます。
 陽だまりをもAI技術やSNSで代替えできると思っているとしたら ・・・・・・それは ハッキリ言って人災だ。しかも誰も責任を取ることもなく 済ませてしまう。 その兆候は 既にこの国でも出てるかもしれません。
 
 生き物は 環境に順応する力がある。その強弱により 絶滅危惧種となるか生きながらえるかに差が生まれ、その中で 人間は 進化しつづけ今に至った。凄いな~と喜んでばかりえられない。
 【愛おしい】という日本語の意味を調べてみて判ったこと。①かわいらしい②かわいそう③困ったことの三つの意味がある。その原義から、他人に対しては①と②、自分に対しては③となるそうです。言葉は情報社会において大切だ、でも 正確な情報か否か、それも外国語を訳し伝えることだったらば 推して知るべし。不適切発言で社会的な制裁を受け苦汁を舐めるなんてことは、いくらでも起こりうる。
 ここまで複雑な社会になってしまえば 尚更です。これは 想定内のことだったのでしょうか? それとも 気付かずにこうなってしまった? ま~いいや、堂々巡りです。
 要は そんなことを言うつもりはありません。今時 時代遅れ(?)だと揶揄されても懲りもせずに言い続けているワケがここにあると私は思っている。
 これまた 日本語で言わせてもらえば・・・【つもり違い】・・・というものに同じかな。そうそう 良いと思っていたのに そうでは無かった。嫌な奴だと思っていたけど 実は素晴らしい人だった。・・・・と思い当たることはありませんか。
 これって 実は般若心経の教えにあるんですよ。【色不異空 空不異色  色即是空 空即是色 】。 般若心経にはサンスクリット訳と漢訳があります。関心のある方は『般若心経秘鍵』空海をどうぞ!
 

3361:利害関係者

 2020ダボス会議が始まった。日本にいると その情報は断片的にしか知り得ない。それでも 去年は「グロバリエーション4.0」で中心テーマは年々変容している。今年、グレタさんの演説に注目され、トランプ大統領に続いて演壇に立ち 堂々と訴えた。ダボス会議は「金持ちの集まり」という見方があったが そんな事を言っている場合じゃない。
ジェトロのトップニュースに掲載。今年の50周年を迎えた世界経済フォーラム(ダボス会議)は、今後の50年に向けて「ステークホルダーがつくる、持続可能で結束した世界」が統一のテーマだった、ステークホルダーの意味は「利害関係者」、地球上に生きる植物や動物も含め全てがこれから先も生きていける世界を討議する。 トランプ氏の演説は自らの選挙を意識した自画自賛が目立った、次に登壇したグレタさんの演説の際には席を外し、その会場にはいなかった・・・・・という。
 結束した世界を議論する場には 居場所が無かったのかもしれない。
 利害とは利となるものと害となるもの、その両方がある、勝者だけの主張ならば ステークホルダーとは言わない。蛇足だが英語の意味には「掛け金の保管人」という意味もあるとか?
     
 
 ・・・夫れ仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し。真如外に非ず、身を棄てて何くんか求めん。迷悟我に在れば、発心すれば 即ち到る。・・・・・(般若心経秘鍵:空海)
真言僧の末席を汚す自分は70年の人生を振り返り、今 無性に祖師空海の軌跡を辿りたくなった。空海について様々な解説書が書かれ 無作為に目を通してきたけれど いつもオブラートに包まれたような気がして核心が観えずもどかしさを味合った。正直 空海の著した原文を正確に理解するには 自信が無かった。 どっちつかずな態度だった。それでも 確信するものがある、それは空海の生き様、逃げずに現実と向き合った行動力の凄さである。
 迷いや悟りは自分自身の中にある、(迷悟我に在れば)。。。。という秘鍵の冒頭に掲げた空海の言葉。不平・不満の事由を他に負わせ、自ら何も為さずでは 何も変わらない。己に降りかかる火の粉を避けるためのみに大切な時間を無駄に費やすことに成りかねない・・・・・。
 方や 独りでは何もできないとの言い訳を常套句のように使うのは 自分自身だ。いいじゃないか 誰も居なくたって 貴方が信じていることをやりなさい。それが・・≪身を棄てて・・≫ということなのだろうと今は思うようになりました。
 少しでも良いので、近づきたい。☆ そこへの道筋は「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」・・・こころの底を知る手引き・・・空海参照。
  

3362:問われていること?

 現代社会で問われていることは 何だと考えますか?
それは 生き方ではないでしょうか。私たちは 気付かずに つもり違いをしています。自由と平等、個の尊厳、豊かさと利便性、さらに合理性やスピード・・・等々 挙げれば切りがない。これらに 人間の欲得が絡めば あるべき姿を見失っても増殖し続ける。誰しも平和を望まぬものはいないのです。それが どうして そうならないのでしょうか、人間だけに課せられた未来永劫の命題なのでしょうか!
  当に今 一人ひとりがどうするか その生き方が問われているのです。
 何故にここでとお思いでしょうが、 
今日、Mさんが30年以上もお世話になった石屋さんのご夫妻をお呼びして 細やかなお礼の食事会を行うことになっている。この話があってから、Mさんの様子が明らかに変わった。先日、スタッフと一緒にプレゼントを買ってきた。≪今日 茶碗を買ってきたんだ。専務にお礼にあげるんだ≫。彼は転んでケガをして退職した、その後 園の掃き掃除が仕事となり それはそれは完璧に行っている。≪おはよう! 元気?≫ いつもMさんから先に私たちに挨拶してくれる。≪こんど 母ちゃんも来るんだ。≫ 母親を迎えに行き、退職した慰労食事会に来てもらうことになっている。
 夜中、3時、利用者の方の異変を見つけた夜勤者より連絡 緊急病院へ通院し、いま、朝の7時、診察が終わり病院を出る所だと 寮長よりの電話を受けた
  尚恵学園 の日々の一コマです。

 ★津久井やまゆり園で起こった前代未聞の45人殺傷事件、その犯人Uに対する判決が3月16日におりる。
  これとは別に、責任を他に転嫁し、自省の念も口先だけ 巧妙な手口で真相を曖昧にすることに長けた人物が 上になれば どうなるか! まさか この世を実験場だとは謂わんでしょうが・・・。
 
 他人に厳しく、身内に甘い。お決まり文句が独歩する、言い訳か それとも他人事。個人の責任で片づけて済む話とそうでない事があるはずです。どうも この判断ができないようです。こうなると 誰しも身内になりたくて日参する、寺や神社に日参するのと訳が違う。それさえも 判らずに 一緒くたにされては 堪ったもんじゃ~ありません。
 世の中の気風が どうも そっちの方向に進んでいる気がしてならない。
 自画自賛を得意技とする輩には 己の軌跡を自分の良いように解釈するクセがあるようだ。できもしない事に手を出して 自分でも何が何だか分からない、そして夢から やっと目が覚めて 周りに誰も居なくなったことに唖然とする。
 こんな説話がありませんでしたかね。
 現実に向き合うことは そんなことじゃ~ありません。だからですよ 場違いのことをやってしまい、黙して語らず。このパターンが常態化する。これって常識だったはずでしょうが この国では。
 上に立つものは 範を示す。これも鉄則だった。
 問われていることは その伝統の基軸が揺れていること、もう いい加減にして○○第一主義は取り下げたら良い。あまりにも その弊害が大きくなり過ぎた。
 先代の遺訓&偉勲を守ると言いながら 自ら時の寵児となりたがる。大の大人のする手習いじゃ~あるまいに! ( 小生 ナマグサ坊主を返上しようと言いながら言行不一致 猛進中  悪しからず悪しからず・・・))
 
 個の尊厳VS共生社会・・・・両者を結ぶ回転軸は 一定ではあり得ない、縦ブレ横ブレが大きくて、目が回る。その最大の事由は 定義が無く、解釈がバラバラだからです。
 グローバル化は好むと好まざると 元には戻るまい。
 山深い渓流の水は澄んで そのまま飲める。そこで生きる生物は その環境に適応し命を繋いで今に至った。川の水は低きに流れ、大海に注ぐ。その間に水は汚れ、生態系も変化する。
 自然は 大雨を降らせ 普段の川の流れは一瞬にして濁流と化し 洗い浚い流してしまう。これは地球上の至る所で頻回に起こっている自然の猛威です。様々な警鐘が鳴らされてはいるが 一向にその対策が進まない。最大のステークホルダーが結束することを拒否し 我が道を進んでいる。それは もはや阿鼻地獄の様相を呈する。
 結局、個の尊厳と共生は、未来永劫付きまとう問題なのでしょうか、どうも近年は、人間の独り相撲の様相が強まり過ぎたように感じている。

3363:潔(いさぎよ)さ

 ジャスミン種のピカケの花言葉は『清浄無垢』です。人間の良い香りの花言葉は何でしょうね。潔さ? そうね そうだよね。辞書を引くと潔さの一番目に卑怯な点がなく未練がましいところがなく責任をとって身を引くという意味があります。それがどうでしょう? 引き際の悪さが近頃 急に目立つようになりましたね。責任を取る=責任を全うする?いつ頃からこんな気風になってしまったのでしょう。余程、居心地が良いのかどうか知らないが、おかしいんじゃ~ありません?
 往生際の悪さは、ハッキリ言えば引き際の決断力の無さです。
 憲法改正云々・・・・とは言っているが、私には その前に行うべきことが、この国にはあると思う。世界中で間接民主制を取る国は多い。この国民から選ばれた議員によりなされる仕組みが 日本は具合悪くなくなっていませんか? 一体有権者全体のどれだけの人数の代表になって選出されましたか?日本の投票率の低さはダントツです。 機械に例えれば 金属疲労の状態を長い間 放置してきた、その結果、精度への信頼度が限界にまで落ちている。唯一 数の論理だけが一人歩きしていませんか?
 もしかして 自分しかいないとでも思っているのだったら それこそ機能マヒしていることを自ら認めていることになる。潔く 後進に道を譲るべきと思うな! 
 いま 国会中です。NHKのみが限定的な実況中継をしているが 細切れの討議で 観ている側への分り辛さが 一向に改善されません。 旧態依然としています。丁寧な説明と言いますが どのようにすることが代表者としての責任を果たすことだと考えますか???。何故か知らねど任期を全うしたいというセリフを何度も聴くと時間が経てばホトボリが・・・・というように聞こえてしまうのです。
 
 福澤諭吉の『文明論之概略』:第4章一国の智徳に・・・・経済において「富の基は正直勉強倹約の三つだ」(前掲:P104)・・・と書かれています。
 単刀直入で実に判りやすいと思いませんか?諭吉は明治初期に既に明確な見通し(指標)を持っていた。 私は昨日の予算委員会で双方が何を言っているのかサッパリ理解できなかった。諭吉のいう惑溺(わくでき)の様態そのものだと思いました。経済第一を掲げるのは自由、だがその基本が何かが全く見えてこない。 地方と大都会の格差は改善していますか?明らかにNOです。それを示す資料は 廃棄処分か出し惜しむ。じゃ~勉強はどうでしょう。 御用学者に頼りすぎ ハッキリ言ってあの人達は最後まで責任を負わない。三つ目の倹約、国家財政は累積赤字を積み上げ、黒字化目標を毎年先送り・・・。 それをどうするかを考えるのが本来の役目でしょうが昨日の国会でのやり取り、花見の話で終始する。何かオカシイよな~。
 最早、審議すること自体が限界に達し かみ合わない。我々は 何を信じて良いのか? その影響は若者たちにまで広がっています。
 昨日の国会中継で相も変わらずニヤニヤした委員が目についた。即 そんな議員は退場すべきなんですよ。それが急に審議会場の雰囲気が変わったのです。その時の様子を私は明確に覚えている、野党議員から日本財団が行った18歳意識調査の結果が示された時だった。アジア・欧米9カ国で同時に実施された調査で自分の国の将来に希望を持っている人の割合では最も高い国で9割の若者が希望を持っていると答えた。だが 日本の18歳の若者で自分の国に希望が持てると答えた数がなんと最下位の1割(13%)としかいないという結果が紹介された時に場の雰囲気が明らかに変わった。
 雑談やニヤニヤ顔の議員がなくなり、皆が真剣な表情になったのです。だが問題は根深く その時だけで また以前の常態に戻ったのです。テレビが入っていることを承知の上だから 酷いとしか言えませんよ。有権者をどう見ているか、この辺だわな!
 
 前から気になっていたことです、墓地の片隅に長い間、お参りに来る人もなく、篠やツルで覆われ藪になって外から何も見えなくなった墓があります。昨日、思い切って 掃除を始めた。冬の今の時期が作業が一番やりやすい。徐々に篠を草刈り機やチェンソー、鎌、剪定ばさみ・・・・軽トラックに常時載せてある道具を使って取り除き、やっと半分ほどまで見通しがきくまでになり、午後から始めた作業をやめた。
 案の定、墓は朽ち果てた木の墓標、半分崩れ落ちた土台、その上に 小さなお地蔵さんの石像がたっていた。朧げな記憶を辿る、その石像は長男を早く亡くされた父親がたてたものだった。勿論 ご両親も既に亡くなり、それ以来連絡が途絶えた。
 仮定の話をしても仕様がない。先ずは 綺麗にして、永代供養としておさめようと考えている。
 人は誰しも歳をとり、いずれ死を迎える。その時 誰もなく 荼毘にふされ、お骨を寺に預けている人が増えています。せめて 自分が生きた証を遺したいと思うのは頷けます。
 無常であっても 無情 ではない。人間として何がもっとも大切なことなのでしょうか?事業に成功し膨大な財をつくった人でしょうか?国中に名を馳せた人でしょうか?
 私は 奢ることもなく、偽らず正直に生きた人に心惹かれます。
 

3364:パンデミック

 新型コロナウイルスの感染が拡大の一途、WHOが非常事態宣言をした。その発生元は人口1100万人という中国の武漢市、大都市である。瞬く間に感染者は世界に広がり、いずれの国もその対応に全力を挙げている。どこのメデアも連日大きく取り上げ、日に日に不安が増している。こうなることも 有り得るとの想定はあったはずだが 現実起こってしまうと 情報が錯雑し、混乱してしまう。盛んに冷静な対応を呼び掛けてはいるが 相手が見えない敵だけに難しい。
 万病に効く薬はない。ノロウイルスやインフルエンザは毎年繰り返され、予防薬があるから 感染しても重篤にならないような対応ができるようになってきた。今回は新型だからワクチンもなく、罹患者からとったウイルスでワクチンの開発に着手したところ、完成して実用化できるのは早くて今夏になるとか・・・・・・。人口が1000万人規模の大都市が外部との交流を遮断、これだって完ぺきではないから、感染拡大を止めることは困難だ。
 予防接種は 毒性の少ない病原菌を体に接種させ、抗原を付けるもの、免疫力の弱った人や他に病気を持つ人には効果は一様ではなく 注意するよう呼び掛けている。
 パニックにならないよう慎重な対応が必要なことは判ります、だが情報の隠蔽や混乱を増長するような行為、上からの報道への圧力はしてもらいたくはない。
 利便性や効率化を求め過ぎた事や貧富の格差拡大と 今回の事態の関連性はどうなのだろう。自然との共存もしかり、もし ウイルスの発生源が動物だとしたら、動物に責任を課すということになってしまうのか?
 それで 済む話ではない、いま現実に起こっていることから何を学ぶか???・・・・・・・。
 
 深夜2時ごろ 枕元に置く携帯から地震警報が鳴った。昔から茨城は地震が多く、またか~という思いがある。でも 東日本大震災の後、それが変わった。もしかしたら あの時の揺れになるのか! 県南は震度6強という今までに経験した事が無い強い揺れだった、 その記憶が薄れた頃に 自然は必ずといって良いほど我々に警鐘をならす、残念だが対応策で完璧なことはできまい。地震予知は過去のデーターと地殻の動きで予測する。地震国の日本はそのデーターは豊富だが、地震を前もって止めることはできません。
 災害は、できれば起こらない方が良いに決まっている。今回のように ウイルス感染と重なれば 想定を超える混乱になるのは必至。
 いつの間に人間は私利私欲を貪欲に満たそうとする生き物と化してしまった??? 自然まで 自分達の思うようになると勘違い、その環境が悪化したことさえ 認めようとせず、その言い訳は 他がやっているから・・・・
 やられればやり返す・・・今もってこのような因循姑息な理屈が罷り通っているのだ。
 人間の体は 環境により進化してきたとも言えましょうが、退化してきたことも忘れてなるまい。
 文明の進化と人間の安心(望み)との関連性は どうなのでしょうね。近代化を目指す 明治初期に諭吉が経済の三つの基本(正直勉強倹約)を置いたことは 先見性があったと言えます。日本が範にすべき西欧に自ら渡り学ぶ そして 日本が進むべき方向を見通す、その時、既に他がやっているから・・やられればやり返すという考えでは国が持たないことを確信していたのではないでしょうか。
 100年の歳月が経ち、日本は初期の目標は成し遂げることができたかもしれない。しかし、倹約に関してだけみても 大量生産大量消費に慣れてしまい 無駄を無駄と感じなくなる、そんな気風が出来上がった。
 
 臨機応変と因循姑息の違いは 何か? それは ”変わるべきこと”と”変えてはならぬこと”の捉え方にある。因循姑息は旧習を改めず その場凌ぎなこと、臨機応変は 状況の変化に応じ、適切な処置を行う事。
 変わるべきことが何か? 変わってはならぬ事は何か? どうも 昨今の動き、例えば教育を考えてみても 頷けませんか! その何か?を学ぶことも教えることも姿を消しつつあるのではないか、すごいスピードで知識偏重の場となっていないでしょうか?
 個の尊厳を叫ぶ割に、社会は そうならず、誰かがやっているから自分もやってよいと思ってしまう。本来の個は そこにありません。
 逆に なんでもありの状態を自由だと履き違えている節もある。
 けじめという日本語・・・・善悪のけじめ・公私のけじめ・師弟のけじめという風に使われた。これが根本から危うい。大人たちが それをどう考えているのか????
 国の比較評価を信じる信じないは個人の自由かもしれませんが、どうも その評価はいずれをとっても日本人には 厳しくなっていると私は感じます。
 昨日、薬局でマスクを買おうとしたら 売り切れで変えなかった。
 変えてならぬこと・・・尚恵学園では 全員の検温を毎日行っています。そこで 体調の変化を知るのです ・・・・ 当たり前のことを当たり前に続けていくことの意義・・・マスク着用が出来ない方も大勢います。それを言い訳にしたくない。

3365:祈りから

 世界で今なにが起こっているのか?  連日配信されてくるニュースに身が引き締まる思いになります。私が知る半世紀前であれば 情報が伝わるまでに時間があった。人の動きも 今は昼夜を問わず飛行機が飛ぶ時代となり、その動きを止めようとしても無理なことは誰もが判っている。WHOの非常事態宣言があり、各国の動きも慌ただしくなっている。いずれにしたって後手後手の対応には変わりない。『ステークホルダーがつくる、持続可能で結束した世界』はダボス会議のメーンテーマだった、これはこの先50年に向けた目標、だが現実には 新型コロナウイルス感染拡大を防ぐために 今をどうするかという待った無しの状況になっている。このことで結束した世界の意味がどう変わるか?
 急激に増えている一国主義の考え方に突き付けられた難題である。
 古代人は太陽や月に祈りをささげることで持続可能な生活を願った。そこには 奢りや妬みはなく 自分だけが良ければ良いとの考えも無かった。
 それと同時に自然から受ける恵に感謝することを大切にしてきた。それをも忘れてしまった現代人は 見栄を張り 他に優越感を得るために あらゆる策を弄して己の望みを果たすことに現を抜かす。
  そして 反省する謙虚さは 豊かさや便利さというコトバによりいつの間にか覆い隠されてしまったように思います。
 私たちは まず、祈りから始めないとなるまい。貴方自身が信じるもので良いのです。チベット仏教に今も残っているカイラーサ聖地巡礼、生活に最低限必要なものを持って五体投地しながら何年もかけて旅をする。 
 
 
 田畑や山林は 手を抜けば荒れ果てる。こうなることを知りながら有効な手立てをこの国はやってこなかった。そして 生活の糧を得る為、多くの人々が都市に集中した。
オリンピックの受け入れ準備も終盤、最近完成した体育館は一つの競技種目に使われる、なんと建設費が300億円、東京都は 湯水のごとく、税金を使っている。方や地方は 台風災害の復旧も儘ならず、‥‥。 せめて このような建物が 後々 負の遺産とならぬことを祈るのみ。
 大都市の弱みは 武漢市でのウイルス感染で判る。日本でも同じことが起こる可能性は大きい。
 そしてオリンピックに海外から来日する人々をなるべく近くの飛行場で受け入れる為に、新たな飛行ルートを増やした。なんと 高度300メートル東京タワーの直ぐ近くを離着陸時に飛行する。まさに一昔前の香港国際空港を彷彿させる。
 利便性を求めることに際限なし。今更の感は否めないが 付随するリスクも増えるのみ。
 私の住む土浦は 丁度 成田空港に着陸する飛行ルートに当たっている。これだって数千メートルの高度はとっている。夕方の混雑時は約2分間隔で飛んでくる。
 もしかして、これも 祈るしかないのだろうか? 東京上空のど真ん中で万が一事故が起これば、。。。。。。起こらないという確証はないのだから 
 利害関係が複雑化して 昔あった首都移転構想は 影薄くなってしまった。
  今回の東京オリンピックで 日本が世界におくるメッセージは何でしたか?
 『スポーツには世界と未来を変える力がある』という大会ビジョン、それと3つの基本コンセプト その一つに『未来への継承』というものがあります。何を継承するかは 具体的に明示はされてはいない。
 
 生きがいを見つけ それをライフワークに出来たら、人生悔いなし。ただ それにも困難は付き物、もうダメ!と逃げ出す人もいるだろう。次に 新たな生きがいを見つけれれば良いだろうが。
 仏教で説く求不得苦は 求めても得ることができない苦しみ、その苦しみの原因は 他にあるのではなく 自分自身の中にあるという。そして、”欲”がそうさせる・・・・云々。欲は我々が生きてる間 ついてくる。何せ”生”そのものが欲だから。欲は生きるエネルギーとの見方もあり、ただ そこには条件があり”大欲”ということになるという。
 苦を緩衝するものが祈りになる、これは世界宗教全てにあてはまる事でしょう。
 元来 人間は孤独な存在、 様々な因縁により迷いが生まれ、 自分の立ち位置を探し彷徨うのですね。今の世界の状況は、自然との共存ではなく、自然の営みをも自分たちの力でどうにかしようとしているように思えてしまう。
 それも性急に、かつ 自分本位にです。糸は適度の緩みが無いと切れやすい。人間も極度の緊張のなかでは参ってしまいます。先人の教えを蔑ろにしたツケは 瞬時に蔓延し 自己増殖を続ける。その最大のものは、経済最優先、節度なく追い求め、信義にもとる言動は ”豊かさ”という得体知れずの幻影により核心を見失う
 ≪かあかん くっとー!≫ 昨日のYさんは どことなく 元気が無かった。 彼の発するコトバは 彼にとって いつも大欲となっているように思えるのです。
★ 自然とはおのずから存在し、この世界を秩序立てているもの。人為によりその秩序が乱されれば、人間と対立する存在となる。(大辞林)

3366:されども

 確かな情報あればこそ。昔もありました世間を攪乱するためにデマを流す者、有事になればなるほど際立ち 不安を煽る。されども 今の時代は 明らかに違う。情報の量、スピード、範囲の広さは比較にならぬ。以前であれば 知らずに済んだことでも 容易に耳に入るから その影響は計り知れぬ。・・・『成熟と喪失』・・・
 成熟が原因となって喪失という結果に至る。ここでも微妙な時間差が混乱を更に増長させ、事実を知らせたくないという力による隠蔽や嘘に繋がる。
 豪華客船による世界一周の旅、一度は体験したいと思う人もいるはずだ。それが 今回の新型コロナウイルス騒動により 先の読めない不自由な生活を余儀なくされている。横浜港に接岸しながら 船から出られない人達が4000人、更に長引けば どうなるのか? 昨夜の安倍首相の会見で 次なる大型クルーズ船の入港を拒否するとなった。米中の貿易摩擦が続く中で 新たな問題は地球規模で相手が見えない問題へと拡大している。
 皮肉にも 新型というコトバには 現代人が遮二無二追い求めてきた経済の力学と通底するものがある。この追いかけっこは未来永劫に続くものかもしれない、良く考えないと大事をも失うことになることを肝に銘することだ。
厄介なのは 外堀を埋め、長く権力を保つという先哲の教えを 何か問題が起きると持ち出し 使いたがる傾向が強まることである。
 
 
 最近サプライチェーンという言葉を良く耳にする。日本語では”供給連鎖”、原料の調達から在庫の管理・販売・消費までの物流システムのこと、効率化や合理化をはかることで 企業の業績を高めるという。今もって その進化は続けているが・・・過度な利便性に?マーク、宅配やらコンビニの業界で見直しの気運
 それより今の最大の関心事は 感染症の拡大連鎖をどう食い止めるか、初期対応や水際対策の重要性が叫ばれる中で 見えない相手なので どこをどうすれば良いのか分からない。人知の及ばない局面に至ったのか?人の交流を止めれば経済が成り立たぬジレンマ、従来の発想の転換期?かどうか、現況はまさに負の連鎖の様相を呈している。
 多くの人が 人込みを避け、外出を避けるようになれば その影響は計り知れないことになります。今騒がれている寄港地が無い船旅は 考えて見れば 外との交流を閉ざした都市と通じ合う処があるかもしれぬ?
様々な情報と流言に惑わされるなと言っても難しい。ただ 確信して言えることは 世界が結束して現実と向き合うこと、これしか無いと思います。ここに至っても損得勘定が働くとなればもうダメ!地球末期の世となりますね。
 
 私たちは 同じ過ちを繰り返す。あの時こうだったからという思いは時間と共に忘れさられ 反省も無く自戒も薄れる。特に 現代社会には それを行う時間的余裕が無い、だから心のゆとりだって萎えてくる。例えばですよ 四国遍路も 時間との勝負だから、今時 40日という長期の休みを遍路のために許す職場があるだろうか? 車を使い大急ぎで88箇所を巡る、そんな遍路旅が起こります。
 寿命が延びたって、それを単純に喜べぬ現実は 先ず私達が自ら考え答えを出さないとならなくなった。おそらく 今回のクルーズ船での旅もそこを売りにしたもので老夫婦で乗船した人たちも多いと思う。今回の問題を特例とせず 万が一起こった場合の対応策を充分考えておかねばなるまい。
 科学が進歩すると全く同じ、病原菌だって進化することは明らかです、そう考えると”まんだら”の考えは万物に息を吹き込むように思うのですね。
 

3367:自己責任

 私たちは 今どんな時代に生きているのでしょう? 自分たちで作ったルールをいとも簡単に、それも恣意的に変えてしまって。思い通りにならないと知らんぷり、・・・。
 私は お寺の周辺を徘徊するのを日課にしています。捨てられたゴミ、誰が捨てたか知らないが、只管 拾うようにしています。昨日は 境内裏に古くなった冷蔵庫が捨ててあった。
 通りすがりに捨てたというものでないことは一目瞭然、大きすぎて袋に入れて集積所に置くこともできない、まったく腹が立つ。その時、浮かんだのは なんと国会審議のある場面、資料破棄して既にない、記憶にない、彼らは同じ言葉を何度使えば気が済むのか・・・・。国営放送で全国一斉に流れた、日本の最高決議機関でのライブ放送であった。これが 社会にどう伝染するかの調査は無い。また、する気もない。ゴミのポイ捨ては 傍にゴミ集積所があるのにだから悪質だ!面皮が厚いのもいい加減にしろ!と言いたい。
 両者が同じとは言いません。彼らは自分のお金で買った食べ物や飲み物、方や 先生方は税金からの高額な日当をもらいながらですよね! 明らかにその認識がない。アカデミー受賞の『パラサイト』の日本版か?選ばれた人間の責任の取り方はバッジをはずすこと、何故か知らねど、しがみ付いても職責を果たしたいと白を切る。時間が経てば ホトボリも冷めるとでも???。ハッキリ言おう、アンタじゃ~なくてもできる人はいますよ。
 倫理観の欠如は 下から上ではなく 上から下に伝染する、そして 食い止める術無く増殖するのだ。これは多くの史実が証明しています。
 もう先進国という看板を下げた方が良い。他にいないから & 人間性は信用できないとまで言われ 座にしがみ付く。ああ~あ!ここまで劣化したかと思うと 悲しくなるではないか!
 
 映画『パラサイト』が上映されれば 是非観たい。世界の潮流は 明らかに貧富の二極化となっている。繁栄・豊かさの表と裏の関係、しかし、問題なのは見える部分ではなく、見えない所です。
・・・盲目であることは悲しいことです。けれど、目が見えるのに見ようとしないのは、もっと悲しい事です・・・・
・・・人の苦しみをやわらげてあげられる限り 生きている意味がある・・・・これは ヘレンケラーの言葉です。 
 彼女は数々の名言を残しています。私たちに 今必要なものは 溢れるモノや権力でしょうか?
 必要なことは、”気づき” ですよね。今時 個の尊厳を否定する人はいないでしょう。でも それには条件をつけるべきでしょう。それは何か?
 見える部分でなく 見えない所  この価値こそ ヘレンケラーが私たちに伝えたかったことだと思いますが 如何でしょう。
 
 オーストラリアで大雨、壊滅的な火災が鎮火したという。自然は我々に対し、手加減はしない。荒れ狂う嵐は 人間が長年かけ築いたものを一瞬にして壊してしまう。今回のように 人力で消火しようとしても乾燥しきった台地で広範囲に燃えれば 火の勢いを止めることはできない。だから 今回の大雨はオーストラリアの人々にとって恵みの雨になったかもしれません。地球上では 様々な事が毎日起こっている。今日ほど自然との共生が難しくなった時はないのでは?だって 環境破壊の原因を判っていながら それをしない。なんという驕りだろうか!人間は勝手だ。自然の許容力にも限界がある。
 細やかなことだけれども、私は 毎日篠藪(ヤブ)との格闘をしている。長年放置したツケは 草刈り機の刃をコマ目に替えないと作業が進まない。今日は久しぶりの雨だ、少しづつ春に近づく時期、もうすぐ草木は芽を出しはじめるから 今やらないと元の木阿弥となる。
 自然から学ぶことは多い。我々の心身の劣化の原因は 自然を鑑賞の対象とはするが 自らその環境を守ることをしなくなった事ではないか、新型コロナウイルス騒ぎもそうだ。抗生剤を多く使用すれば体の免疫力は弱まる。ウイルスも生き延びようと必死に自らを変えてくるのですよ。こんな事は素人でも判ること。
 豊かさという幻影に目が眩んだ結果だろうが、自己責任ばかりが増えてくる。それをお金で解決できるという錯覚は酷い、二重三重の過ちを犯しても未だ気付かないのだろうか。 

3368:一人じゃない

 国連によると世界の人口(2019年)は77億人と言われています。1位は中国、14億人に届く所まできていて、2位がインド、13億3千万人、日本は1億2600万人で順位は11位です。
 これが30年後、世界の人口は97億人と約20億人増えると予想されています。通信速度が5Gの時代になれば 光回線を遥かに超える通信能力となります。企業は すでに その準備を進めて軸足を変え始めています。けれども 益々競争が激化し、国境の無い時代となり 人間の交流も大きく変わることは避けられない。
・・・・・が、それで どうなるの? 幸せ?満足? 争いは減るの? そして その先は どうなるのよ?  どんどん疑問が増えてきませんか。歩みが速すぎて いちいちそれを確認できない状況下で 果たして 冷静に現実に起こっていることに向き合っていけますか?有限の寿命を生かされているという考えは どこかに行ってしまった。
 仏教の考えからすれば 噛み合わないのです。単純に考えて 仏教が起こってから約2500年が経過して 私たちはその眼目たる苦をどれだけ減らすことになったでしょうか。寧ろ 真逆の事態になっているように思ってしまう。その警鐘は ずっと鳴り続けてきたのに、真剣に取り上げては来なかった。
 もう遅いかもしれない、けれど その教えから学ぶことの大事に気づくべきと私は考えます、それは”円相(えんそう)”というものです。墨で紙に丸を書いただけのものに、メッセージがあるという。
 円は始まりも終わりも無く角に引っかかることもない働きを象徴し、観る側にその判断を任せています。そして捕らわれない心で執着からの解放された心が大事ということに気付くかどうか????。
 ハッキリ言って、近現代になってから私たちは何かに執着し過ぎていないでしょうか? 77億分の1と考えるか、宇宙分の1と観じるか。。。(まんだら観)
 
 まんだらは、宇宙観・世界観そして悟りの境地をあらわしていると言います。その表現方法として様々なものがあり、日本密教が取り入れたものに両界曼荼羅(胎蔵界・金剛界)があります、私の住職しているお寺の本堂にその図絵が飾られています。
 チベット仏教寺院で今も修される”砂曼荼羅”は 色砂により曼荼羅を作る行法で完成すると 全てを壊してしまうというものです。一般の人達には なかなか理解できないものかも知れません。自らの財を増やし死守しようとする考え方、個と個の関係だけでなく国と国の間にも現実に起こっています。資本家が労働者から剰余価値を取得するという経済の考えは当にそのことです。良く考えて見ましょう! 経済の豊かさは”搾取”により成り立つことだと感じませんか、剰余価値を公平に分配するということは理想かもしれないが現実的でないことも判っています。こういった齟齬が起こる原因が人間が持つ”欲得”によることも薄々は感じている。
 私がラサでみた光景は 文明と歴史との共存葛藤の姿だったように思います。当然、自らの利の為に砂で曼荼羅を作れば、壊したくはない。それも分る気がしますが、現代社会はこれが一方に偏してしまった。ここに問題があると思います。
 個の尊厳とは 一人一人の命の尊さです。私利私欲を満たすことを正当化することではありません。情報化社会の最大のリスクは歪曲した情報をも 一瞬に広がってしまうこと、。同様に 平和利用という核の開発にも言えることです。使う側の意思で悪用に使われることも有り得るからです。これを防ぐ手段が有りますか?
 中国を発端とする新型コロナウイルス感染の先が見えない中で、米国では今シーズンのインフルエンザの罹患者が2200万人にのぼり、死亡者数が現在1万2千人という過去最悪の事態になっているという。このことが 日本人のどれだけの人が知っているでしょうか?
 正直、私自身は最近になって初めて知りました。
 
 
 人間の価値を損得計算で行うとしたら、社会的弱者は住む場所をも失うことになりかねません。もし それが正当化されたならば 誰しもがそう成る可能性を持つことに気づかなければなるまい。
 世界の人口の将来の予測で 30年後には全体で現在より20億人増加するというものです(77億人)。方や日本のように少子化が止まらない国もある。一体 どうしてこんな風になるのでしょうか? 
 多くの人達が”つもり違い”してきた。本当は、それに気付いて修正すれば良いのかもしれません。実態は 逆ですね。より速く、より多く・・・もっともっと、呪縛のように・・・・・・。
大潮の日、川の流れが逆流するという自然の現象は、何故起こるかの原因が判っている。起こる日と時間を正確に予測でき、それを観光の目玉にしている所もある位です。おそらくは 有史以前の昔からあったことでしょうが 原因がわからなかった時代には 人間は恐れを感じ、大いなるものに祈った。
 人為によって自然を変えてしまうのは 罪でしょうか?
 仏教では そのことをどのように説いているのか? 五蘊盛苦(ごうんじょうく)という言葉にヒントがあると思います。四苦八苦の8番目の苦で色・受・想・行・識の五蘊に執着し過ぎることから生まれる苦しみという。欲得に執着すると際限なく求めることになりますよと戒める。
 世界宗教の解釈はそれぞれでしょうが、原因判らずに起こる事への恐怖は同じでしょう。
 

3369:プロローグ

適当な言葉が見つからないので”プロローグ”といわせてもらいます。物事の発端と言うには、どこに焦点を当てれば良いか難しい状況に直面しています。しかし、こうなるであろうことは判っていたはず、それがいつ・どこで・どのように起こるかは判らなかった。 世の中がここまで複雑になれば、原因を探し出しピンポイントで攻撃しやっつけることは困難です。このような大事な時に決まって憶測やデマが横行して、不安を煽る。自分で守れと言われても何を信じて良いのか正直判らない。
 現代人は陸・海・空と様々な移動手段を手に入れたものの、一度、歯車が狂えば負の連鎖が加速し、それを止めることもできない。大型クルーズ船による旅は、時間とカネに余裕があれば誰も一度は体験したい憧れの企画、現在世界に何隻の大型船があって動いているのか知りませんが、外からの侵入を防ぐには良いかもしれない。だが今回の場合のように 船の中で発生した時には多くの問題があることが判った。
 初期対応の遅れが取り沙汰されている、だからといって どうすれば良かったのか具体的な方法は判らない。いま言えることは 感染の速度をなるべく遅くし、現在の利用可能な能力で最大限の対応策を講じることだと言われています。
 それとウイルス感染で大切なことは 一人ひとりが持っている免疫力を高めることだとも判っている。
 
 時間がゆっくり流れていると感じることが随分減ったように感じます。1週間が過ぎるのが速いのに唖然とする、地球上で公平に与えられる時間は個の寿命というもので分けられる。果たして本当にそうでしょうか?老いを感じる時は、今までできたことが難しくなった時? それとも自分が生きた証を確かめたくなって? この拙文を恥じらいも無く書き続けている部屋は 所かまわず貼られたメモで一杯になっている。忘れない為にメモ書きしたものである。
 昨日は良く晴れた日だった。でも北風が強く寒かった。久しぶりに 園庭芝生の草取りを相棒のMさんとNさんの3人で行った。作業しながら普段と変わらない日課を身近で眺めていたら、40年以上昔に時間が逆戻りした。朝 お決まりのラジオ体操を皆でやる。メンバーも当時と変わらない人が半分位? でも明らかに変わっている。そりゃ~そうだろう、あれから40年歳を取ったんだからね。
 私の傍にきて話しかけてきたN子さん。最初 何を言っているのか判らず、何度も聴きなおす・・・・『4日 どようび・・・Yくん 死んじゃった。どこにいったの?・・・・』・・・と囁くような声で尋ねてきたのだった。ハットする。傍にいたスタッフに『Yくん 亡くなったのは 去年のいつだったかな~?』と尋ねると彼女もハッキリ覚えていなかった。 思い出して、寺の記録を開いてみた。 驚いた。5月4日の土曜日と書いてあった。
 
 そうだったな~。氷を買いにいき、水枕に入れ、熱のある子の頭をコマ目に冷やした。お医者さんに通院し、処方される解熱剤はアスピリン、それを飲むと汗をかき、熱は下がるがまた上がる。その薬を飲むと決まって胃がやられた。それでも 何日か経つと 寝ていられず走り周る子供たち。当時は大部屋があり8人ぐらいの子たちが寝ていた。部屋の仕切りはガラス戸、暖房は大型の石油ストーブだった。だから 感染するのは避けられず、皆が離床できるまで戦争のような毎日を送った。・・・・・・・・。これは私の20代の頃の園生活の記憶です。
 それが 個室になり、病院の対応も随分変わった。来年には成人寮の平均年齢が60歳になる。
 やまゆり園の裁判について お二人の方と電話とメールのやり取りをしました。メデアも国民も、福祉業界も、なぜこの程度の関心なのでしょうか?そして 福祉人としての私に 施設の有り様をきちんと問わなくてよいのですか?管理と福祉について 議論されないまま風化されるままで良いのですか?と指摘を受けた。
 この国は 何か大切な事を忘れていると・・・・・。この共有できる考えに立ち どう自分がその事と向き合うか、その意味で”プロローグ”なのだと確信している。 
 

3370:冷静沈着

 世界中に流れる情報は新型コロナウイルスによる感染ニュースで一杯、まさに誰かが語った”滅入ってしまう”有様だ、いつになったらこの騒ぎが終息に向かうのか。私達はこの現実としっかりと向き合わないとならない。必死に救援活動している人たち、もしかしたら自分が感染していないかと不安な人たちへ、新型ウイルスは容赦ない攻撃(?)をしかける。
 ここ100年は産めよ増やせよ・・・・を万国共有の価値として受け入れてきた、最近の状況はその価値観を見直し自然からの警鐘だと認めねばなるまい。 地球温暖化や環境汚染に反省も無く、自分たちの意のままに自然を利用しようとしてきた。ここに至ってはどうすれば新たな価値へ転換できるのかを地球規模で考えないと大変なことになる。
 先哲は、助けを求めている人たちに 無償の愛を差し伸べよ!と諭した。 お金を介在させた仕組みを考えたが どうもうまく伝わらない。その最大の原因は、人間の持つ我が儘が邪魔をするからだ。本来の有るべき姿は後付けで、経済を最優先に叫び続けるリーダー達が勢いを増している。気が付けば私達はその幻影の呪縛に苦しめられていないでしょうか。権力者は自分への負の情報を阻止、座の安泰を守ることが最大の関心事と化している?幸か不幸か自然は人間を決して差別しない。格差拡大を能力の差として、度を越えた欲望に現を抜かしている間に自然の逞しさを目の当たりにして茫然自失し、立ち尽くす羽目になった。今回のウイルス感染の猛威も決してそれら動きと無関係ではなく、自然の恵みに感謝し自然と共生するという昔人が大切にした掟を軽視した結果、自然から途方もない償いを求められているのです。
 ☆ 今シーズン、米国全土で2600万人のインフルエンザ罹患者があり、既に亡くなった人が1万4千人というニュースは 日本では殆ど流れない。
 
 今日は2020/02/22ある。2が5つ並んだ、その日に春一番が吹く偶然ではない。ただ、それに気づくかどうか、気づいて何を思うかですね?昨日 悔やみが出来たと寺に来られた方がいます。2月20日に亡くなったお母さんは93年前の同日に生まれた。誕生日が命日となった。昭和一ケタ生まれの方が大分少なくなっている、この方々は悲惨な戦争を経験している。当時は 兄弟が多く、家族の中で誰かが戦争で亡くなっているという話は沢山聴いてきた。
 今を生きる人達に 語り継ぐべきこと それは戦争を二度と起こしてはならぬこと。その教えを 日本は教育の場で充分にやってきただろうか?
 久しぶりに ラジオ深夜便「明日へのことば」で感動するお話を聴いた。NPO法人『テラ・ルネッサンス』理事の鬼丸さんの話でした。・・・自分達の活動は微力だけれど無力ではない。”ない”ことが糊しろになり互いに力を合わせる活動になる・・・・ハッとした。諦めて何もしない人が多い中で、同じ志をもって集まった若者が今できることは何かと知恵を出し合い嘗て紛争地であった国(アフリカ・ミャンマーなど)で平和活動を行っている・・。
 その一方で世界では 平和とは真逆の出来事が次から次に起こっている。
取るに足りない事かもしれないが 諦めず偽らず積み上げていく地道な努力こそが基底になると思います。
 
 我が家の台所にあったのは ネギ、細く少々萎れぎみ、外皮を取るのも慎重に、・・・・・。農業を実習先にしているM君、彼は 自分たちが畑で作った作物や苗木を持ち帰って我々に分けてくれる。『捨てられっちまうから もったいねえ~べエ~』と言う真っ黒に日焼けした顔は怒りとも苦笑いともとれる。
 私たちは いつの間にか”もったいない”という言葉を忘れてしまったように思います。感謝という言葉には モノを大切にするということが付き物、そうでないと 言葉とは裏腹なことが多くなるはずです。M君は頑な処があり、確かに世渡りはヘタかもしれないが、喜んだ時の顔は格別なんだわな・・・・。大分前の話だけれど、彼が桃の苗木を10本ほど私にくれたことがあった。『お寺の桃・・どうした?花咲いたな~』 他の苗と比べて成長が思わしくなく処分される苗木を親方からもらって持ち帰ったものでした。
 昨日春一番が吹き、その桃も蕾をつけた。