源究159

     

 NO  テーマ  月日 NO  テーマ  月日  NO   テーマ  月日 NO  テーマ  月日 
 2691 気分変えて 10/2   2696 自制 ・拘泥 10/16   2701 "a"の意義  10/27   2706 生き残り作戦  11/6 
 2692 ゆっくりのんびり  10/3   2697 しょうがない 10/20   2702 落雷被害  10/29   2707 気負わずに  11/7 
 2693 ベトナム  10/9   2698 言いたくなった  10/21   2703 個の尊厳  10/31   2708 立ち話  11/8 
 2694 国との比較  10/11   2699 言いたくないこと  10/23   2704 素人の経済観  11/2   2709 絆  11/10 
 2695 価値観  10/14   2700 言いたかったこと  10/25   2705 永平寺  11/4   2710 宿題  11/12 

2691:気分変えて

最近の私はどうしたことか文章が暗い、本来は違ったはずだった。天の声を聞いた。そんな風に世を果無み何になる!と。 そうか そうですよね。どこに目を向けるかでしょう。何か元気が出るような話ってあるはずですよ。
 そこで気分を変え、No:159は一つその方向で臨んでみます。見てて下さい。
 10月、秋です。土浦では全国花火大会が4日に開催されます。天気が心配です。去年は酷かったテレビ中継しましたが、音だけで空は雲が低く立ち込め何も見えない。あの時のTV解説者が、まさに暗かった。それも、なんと2時間のライブ放送だもの、誰が見ますかっていうの?その反省で今年は強行開催はせず、悪天時は順延することになった。
 その翌日、成田8時集合、3泊4日のベトナムの旅・・・・・。何それ?と言われてしまいますよね。いろいろ事情がありまして、参加することになった訳です。茨城県とベトナムの交流の一環です。最初は2泊の予定、ヒャー、何それ?私も驚いた。大阪に行くわけでないでしょうし、パスポートをようやく見つけ出国するのですからせめてもう1泊、実現しましたね。ですから3泊、それと機中1泊。
 イマイチ元気が出ません。病は気からとは良く言ったもの、そんな事を考えていたから罰が当たった。草刈していたら、例の”腰”がギックリ、もう後の祭りです。チクショウ なんでこうなるの?またもや天の声、『ざまーみろ、調子に乗ってるからだーよ。このバカ者めが』と。
 昨日から湿布を何度も張り替えていますので痒くなってきました。いいよ、そんな事いうなら宿舎でジッとしているから。
 友は友を呼ぶ。先月私の友人が定年後楽しみにしていたインド旅行、彼のことだから事前に準備を大分行っていたはずだ。高度3000メートルを超えるカシミール地方、天気は上々(?)着いた翌日から体調の異変が起こったという。オシッコが出ない。高山病に罹ったせいか、一晩苦しみぬき我慢、翌日現地ガイドさんと軍の医療施設へ飛び込んで、そこから街の病院へ転院、緊急手術、導尿カテーテルしなんとか排尿でき少しは楽になったそうだ。結局、あれだけ楽しみにしていたのに病院のベットで過ごすことに、それでも一緒に行ったツアーの人達と帰国便で合流できた、日本に帰ってきて病院で再手術・・・・・・。
 電話をしたら、元気のない声で、”ホント 困っちゃうよ、前立せん肥大だって、でも また行くように頑張るから”と、イイね 彼のこんな風な生き方、遊ぶという字で游ぶと言うのがあるのですが、まさにこれだわな。川の流れに身を任す。 気分を変えて さー出発。

2692:ゆっくりのんびり

昨晩のある小宴の場で確信したことがあった。それは、人は自分ではなかなか変えられないという事です。どんなに頑張っていても、満足できず、疑念を持って生きている。覚鑁は自らを省み「有相に住し、かえって輪廻生死の因となる」とみた。これぞ真理だと思いますよ。なれば焦らずもっと身を軽くしてと思うが、思えば思うほど深みに入っていく。
 今の日本の社会はおかしい。生を受け、尊き時間をより難しく複雑にし、何が大切かを意図的(あらゆる手練手管を使い)に判り辛くしている。これがハッキリ申して天邪鬼の感想です。本来、人間は生きるスピードを速くも遅くもできないと思う。だから それはもう大いなるもの任せ、ゆっくりのんびりと暮らしたいと思いませんか!何をそんなに遮二無二なって走り抜ける生き方を貴方は選ぶんでしょう。周囲の目ですかそれとも名誉のためなのでしょうか?
 昨日、私は通院しました。ぎっくり腰の治療にですが、。。。。。「住田さん ベトナムに行くんだって?へへ・・何しに行くんだよ。レントゲンでも撮るかと思ったがいいや面倒だから止めた、どれ ズボン下せ、一発注射だ」
 その時運悪く昨日いただいたコルセットを反対につけていたのを看護婦さんに見つけられ「なに やってんのよ 全く 院長と同じなんだから・・・」「だって教えてくんめーな」「・・・・・・」
 この診察室での一幕、さて、どちらが悪いのでしょうか? 大半の方は どっちでも構わないバカみたいと思いますよ。要は痛い腰を治すことが肝心。そんなことを今の福祉はやっていると思うのです。必要のないレントゲンに金を使うより、注射一発で良い訳ですよ。
 わかるかな・・?わかんねーだろうな。
 高齢を理由にすれば大半の病気は診断できますよ。だが高齢を治す治療はない。高齢の進行を遅くすること、まあ ゆっくりのんびり これが究極の処方箋 でしょう。
 お迎えが来たときは それはそれ・・・ね。 長い間、ご苦労様 わたしゃ・・これで良いと思うのでありんす。何か  文句でも あっかーってえんだ。

2693:ベトナム

     
 5日~9日(3泊5日)で茨城県のベトナム訪問団に参加、私は医療・福祉グループの中に入れて頂き、大変貴重な体験をさせていただきました。ハノイ市とホーチミン市2か所を過密なスケージュールでしたが訪れ、国家主席主催の夕食会や各政府機関の高官との意見交換など実に貴重な体験ができました。実質4日間でその間の自由時間はたったの2時間、分刻みの日程を見事にこなしてきました。その準備をされた事務局のご苦労は想像を絶するものがあったと思います。なにしろ知事を団長に県会議員・市町村長。経済界や各種団体代表合わせて100名を超す大人数が車4台とパトカー&白バイ先導で大渋滞の目抜き道路を車列を作って移動したのです。その間何回レセプションを開催したのか忘れてしまいましたが驚くような歓待を受けました。
 車で2時間ほどのナムデイン省の農村とハノイ市内で見かけた風景をカメラに収めました(上記)。ベトナムは国を2分する戦争から立ち上がり今、力強く復興発展をしています。通貨はドン(1,000ドンが5円)ですが、まだまだ経済的には多くの課題を抱える国です。
 一番心に残っているのは、最終日に訪問したチョーライ病院でした。入院定員が1800名で現在2500~3000名が常時入院している。なんと医師数は600人を超え1日の手術数が150で24室ある手術室をフル稼働しても追い付かない状況だと伺い、日本にいては全く想像も出来ない現実を見ました。
 今回の交流の主なる目的は先ず茨城県の得意とする農業(全国トップ)に関して作物の輸出や人や技術の交流などを勧めたいという目的がありました。農業をきっかけにして地元の企業や教育、医療・介護・福祉にまたがる多様な分野でのより良き互恵関係を築くことでした。地方自治体(県)が単独で相手国と交流を深める取り組みは日本では先駆的だと伺いました
 ベトナムは長い間フランスの支配を受け、街並みを見ると今でも西洋風の洒落た建物が目立ちます。それと食事が大変美味しい。ベトナムには親日家が非常に多く、東南アジアの中でも特異な国だと伺いました。
 私は障害者関係の代表で参加をしましたが、予想に反し期間中、街で障害者をあまり見かけることがありませんでした。政府に『労働傷病兵社会問題省』という機関があり、そこの副大臣との意見交換を行う機会がありました。
 実際に障害者の数や実態を伺う機会は今回ありませんでしたが、別の機会に是非調べてみたいと思います。ベトナム国民の平均年齢が日本とは比較にならぬ位、若いということ、9000万人の人口と日本の8割ほどの国土、ここに多くの可能性を感じました。社会主義国家体制を組んではいますが、その中に市場主義経済も導入、様々な変革を国が一体となり進めているのです。
 国と国の関係は歴史が示すまでもなく様々なことが起こっています。現に世界のどこかで紛争が絶えたためしがない。
 今回、私は急に参加できることになり、準備も充分ではなかった。出発3日前にぎっくり腰になり足手まといになってはとキャンセルしなければならないと思いましたがコルセットをつけ、痛み止めの薬を飲みながら皆さんに付いて回ることができホットしています。今回の全てが私にとってはとても良い勉強となりました。心より感謝しています。シンチャオ・・・・
 

2964:国との比較

 短期間の訪問で相手国を理解したかのごとく言う事はできません。今回、ベトナムに行ってそのことが良く分かった。私が25歳(1975年)の4月30日に南ベトナムのサイゴン陥落によって長年続いた植民地解放戦争は終結した。丁度私が東京に出た頃(1968年)、反戦運動は凄かった、ヘルメットを被りジグザク行進、新宿駅構内はマイクを持ち大声で訴える若者たちで溢れていた。私の友人にもその活動に自ら進んで参加した人もいた。私は参加できず、遠回しに眺めていた。「なぜ、住田はデモに参加しない。そんな奴とは付き合わない」とそれっきり口をきいてくれない人もいました。
 その連中も今60代半ばになり、もう職を辞し、ノンビリとした生活を送っているのではないかな。
”ベトナム”という国は戦後のベビーブームに生まれた者にとっては忘れることができない国名です。戦争で使われた枯葉剤などにより多くの障害者が生まれ、戦争が終わってもその影響は今も残っている。
 親日家が多いと言う理由も当時の日本が直接戦争に加わらなかったこと、それと若者が反戦と平和を必死に訴えた・・・・・そのことをベトナムの人達は良く知っている。
 時代は変わりました。今のハノイ市とホーチミン市(旧サイゴン)は共に大都市となっています。近代的な建物もドンドンできています。地下鉄や橋梁工事などが日本からの援助で進められていました。
 ベトナムの人達が私たちに示してくれる親しみは決して作り笑顔ではないと信じます。
 今のベトナムは若い人たちが職に付けずにいる方が多いと聞きました。彼らはとても真面目です。言葉の壁が無ければ日本の介護や医療・福祉の現場で働ける人も沢山いると思った。EPAなどで日本を希望する人は沢山いるようです。でも実際にはハードルが高くて限られた人しかその恩恵を受けることができないそうです。
 今も家族が先の戦争で犠牲になった人も多い。当時、日本がベトナム戦争で直接参戦せずにいたことは何故できたのでしょう?それは日本自らが敗戦を経験し不戦を誓ったからです。二度と同じ過ちを犯してはならないと、歯止めになった年代の方が歳をとり、戦争を知らない世代が大半となりました。私は最近、何か危ない雰囲気と言動が目立ち始めたように思っています。
 憲法解釈の議論を聞いていて本当にそうなのか!と訝る人が実際には多くいる。ホンネを言うと仲間外れにされることを恐れる政治を動かす人達。本当に貴方はそれで良いのですか?と問いたい。
 良くも悪くも私たちは自らの責任で生を全うするしかない。それが悔いの残るものか否か、それすら判らない人達も現に目の前にいます。将来を担う子供たちやこれから生まれてくるものにどう説明するのでしょう。
 少子化とか高齢化という言葉によって一緒くたに語られる直面する課題、しかし、その一面性を強調はするが、それだけでは決してないことを、特に我々それに関わる人間として肝に銘じなければならぬと確信した。
  

2695:価値観

 価値の判断は人それぞれですよね。でも、これは粗一致していると思う事ってあります。それって”平和”と”安心”でしょう。でもなー人間の相(さが)ってもんは、これがまた不可思議なんで、平和を求めながら、相手を敵と見立て殺傷する。これをどう説明するか?
 ベトナムと言う国は、知れば知るほど奥が深いと思いました。度重なる外国からの侵略の歴史、それは現代の日本人には理解できないと思います。なぜか?だってそうでしょう。美味いもの鱈腹食べて、綺麗なべべ着てそれが”しあわせ”って考えちゃう。そうなるためにもう手段を選ばず、他人はどうあれ、自分さえ良けりゃ良いじゃん。・・・・・・うーむ、天罰が落ちるな! そこまで、神も仏も寛大ではありませぬ。
 ここだけの話ですが、ベトナムの女性って太った人いなかった。実に綺麗だったなー。男性もそうだ。あの国にエステなんて言葉は無いんじゃないかな。ひょっとしたら高脂血症や糖尿病なんて病気は無いかもしれません。
 安心を獲るために薬飲んで、余計な肉を付けては必死に落とす。なんかバカみたい。そのうち年老いてしまって、やれ介護だなんだと騒ぎ立てる。これって本末転倒でしょうよ。福祉という名をこれにくっ付けるから妙なものとなっている。自己責任と社会保障がごちゃ混ぜ状態なんですね。多分、ここまで判り辛くなってしまっては整理がつかないと思うな!そこで終幕は”give up”(諦め)で一巻の終わり。
 智慧を働かせなよ。”平和”ってどうすればできるの?”安心”って どんなことよ。
 でも、今の日本にも微かな変化の兆しを感じます。
 ”農業”の大切さを再認識する動き、人間は食べ過ぎてはマズイが兵糧攻めにあったら万事休す。その食べ物を粗末にすれば罰があたる。お金設けて高級料理を食べて”しあわせ”って誰が教えたのよ。
 ”空”ってのは、実体が無いと観じること、それと”循環”(輪廻:サンサーラ)するということを知ること。
 それなのに実体の無いものを遮二無二追い求め、悪循環を繰り返す。ここなんですね。わっかります・・・・・か? あああ 面倒だ やめた!! 
   *余談ですが、ベトナムはブラジルに次ぐコーヒーの産出国なんですよ。
 

2696:自制拘泥

 スマホに替えますと言う方が私の周りに増えています。私は替えない。私みたいな性分の者には、スマホは危ない。拘りが強いから、のめり込んでネット依存症になるのは決まっている。これだって新手の現代病の一つじゃないか!どこの調査なのか定かでは無いが、いま、約400万人以上の人がネット依存症に罹っているという。そんなに少ない筈無いとは思うが、相当な数に上るのは間違いない。
 昨日の天声人語に元出雲市長の岩國さんの話が書かれてあった。彼は父親が早くなくなり家庭に余裕が無かったために新聞配達を志願し配った家を後で訪れて新聞を読ませてもらったそうだ。そして「おばあさんの新聞」という話が紹介されていた。
 尚恵学園の仲間で以前に紹介したKさんも毎日近くのコンビニに新聞を買いにいく。(No:2677))彼のためにと思うが店の方が一部売らずにとって置いてくれる。余りにも便利さを追い求める中で人の何気ない暖かさが見えなくなっている。
 昨日、こんな話があった。Oさんが近く行われる有名歌手のデイナーコンサートに行くことになったとか。なんと4万円もするとか、でも彼と会った時、珍しく自分から訴えてきた。そのことを私に知らせたかったのだと後でわかった。
 GHで生活を始めた方が大好きなインコを飼い始め、大切に育てていたが、死んでしまった。そのお葬式を仲間と一緒に行ったと聞いた。
 私はこの仕事を今まで続けてきて、自然と涙が出てしまうような話を沢山いただいた。でも、これってなんにも変ったことじゃないでしょう!と簡単に言われてしまう。
余りにもそれ以外の事が無情にも騒ぎ立てられるからだと思います。彼らは誰一人としてそんな事は望んでいません。
 それとマスコミに言いたいことがある。最近の事件の報道で気になっていることです。事件の加害者で障害を持っている事を触れすぎると感じます。世の中で起こる事件で障害者が罪を犯すことなどほんの一部なのに、何故、敢えてそのことに触れるのでしょうか?
 私はメデアの真実を伝える使命以前の問題だと思う。世の中が障害ある人たちを排除してきた過去をどう考えるか、このことを今の時代だからこそ伝えていかなければならないと思っています。
 一人の力には限界がありますが、共感してくれる人は沢山いると思います。『自制』と『拘泥』にそんな意味を感じるのです。
  

2697:しょうがない

『仕様がない』という言葉は2通りに使われますよ。他人に向けられる時と自分自身を言う時です。ちょっとやってみてくれませんかね。それに「しょうがねーよなー」&「しょうがない」微妙に違いますよ。
 ハッキリと断定する言い方ではなく、何かを含んだ言い回しなんですが、自分を慰めたり、相手に対し親しみを持っている時に間延びした言い方になる。
 方言で京都や奈良に行くと随分”茨城弁”とは違うと感じます。「あのな・・・そこのドンツキを右に廻ってなー・・・・そしたら判りますーから行ってみなはれ」 道を尋ねた時に店の方が教えてくれた。これって40年も前の事ですが、頭から妙に離れない。悠久の昔よりこの地域ではこんな言い方をされているのでしょうね。
 それがどうでしょう。今度はリニア中央新幹線が東京~大阪間にできることが決定した。想像できませんが時速500キロのスピードですよ。皆さん乗ってみたいですか?私は御免こうむりたい。旅の風情などあったもんじゃありませんやね。駅弁食べる暇もなく、なんでこんな風にするんかね。これも利便性・効率化・・・・・経済性・・・で片付ける? それよりも安全性は大丈夫なのかい。恐らく、これだって新興国に負けまいとする焦りで先行投資の類、なんでもかんでも競争し永遠に続けようと。これが日本の生きる道! 誰がそんなこと言った?
 人間の愚かさでしょうね。地域創生を今度は政策の目玉にしてますが、手法がどうも私には理解できないのです。大都市優先、一極集中、この流れをどう変えられるか?なんで判んないのかね。3年前にあれだけの大惨事を経験しても目が覚めない。人間が考え出したもので絶対安全というものは無いのをいい加減に認めなさいよ。
 私が変なのかどうか?でもね・・・丁度40年前ですよ。今の仕事を「しょうがない」とやることを決めたのは、そしたらどうです!それが生きがいになっちゃった。「箸でご飯を自分で食べられた・・・・凄い凄いよ。よくできたーマル」の世界です。それも何年もかかってやっと出来たことを皆で喜んだ。これ ホントに嬉しかったんだから。
 道をノンビリ歩いて寮に戻るM姉さん、私が声かけると誰だー?って顔をして寄ってくる。「元気?」と声かけると「ウン」とハッキリと答えて、その後「このばかー」と余計なことをいつも私に言うんです。これで私は凄く癒されます。
もう50年以上のお付き合いで時間は何にも替えられない。
 ”こころ清ければ 仏をみる”という文言があるんですが、何か下心があってはダメなんですってよ。何をやっても相手にすぐバレてしまいます。”こころ汚れて 仏見る”なんてことを いつまでやっているから へんてこな事になるんでしょうよ。
 これ白状しますけど 私自身にいつも言っていることです。・・・・・しょうがない・・・・。
 尚恵祭
 穏やかな天気に恵まれ、ノンビリとしたひと時をすごすことができました。学園始まって以来の出店に列ができた。石岡市から来て下さったソバ打ちの皆さん、ありがとう。多くのVSや準備された皆さんお疲れさん。家族と一緒に楽しんで本当に良かったね。
 ・・・・学園にお願いし、ちょど50年になるんだよ。一緒に唄を歌ったり・・・・そうか・・そんなになるんだね・・・Eちゃんの為にもお母さん長生きしなきゃーダメだ・・・・ほんと私はE子に生かされていると思ってます・・・ (立ち話)
 ㊟ 片隅に目をやれば、誰も来ない人が寂しそうにしています。悲喜交々、打たれ強くなった変わりに人の痛みが判る。そんなメンバーが年々増えています。凄いと思いませんか。

2698:言いたくなった①

 昨日から寺の火災報知器のリニューアル工事が始まった。25年以上経ち設備が古くなり、落雷が決定打となり、全面的にやり直すことになった。そんな訳で昨日は家にずっといてあのニュースばっかりを見る羽目に。内閣改造し女性の大臣誕生までは、思い通り?。それが同日に2人の閣僚が辞任した。就任1か月半、開いた口が閉じません。いま国会の会期中、重要政策が山積しているはずなのに、その審議はそっちのけ、与野党の攻防は、またもやへんてこりんな泥試合となりました。
 今時、あんな事が公選法で罷り通るとは思えないが、ご本人が知らなくてどうなる???全く可笑しな状況となりました。テレビの解説者も同情派と呆れ派が混在し、最早、つける薬が見当たらない。
 追及する方だって笑ってなどいられまい。自ら墓穴を掘ることになってはと早速、地元後援会に確認したかもしれません。
 永田町の議員会館に行って判った。あれではね、誰だって世間の常識に疎くなるって、都心のど真ん中に一室を設け、秘書を侍らし、先生先生  あんたら何様だと思っている。衆参合わせて一体何人がバッジをつけてます?
 『ジャパン クライシス』なる本が昨日届く。読み始めた所為も多少影響はあるかもしれません。でもな・・・誰を信じ、国のかじ取りを託せば良いのでしょう。
 あれだけ議員がいるんだから、もっと襟を正し、怒るものが出て良いはずなのに皆さん小利口になって、ひそひそ話でお茶濁す。
 ウチワの話、外国の人が知ったらどう思うかね?ウチワのようでウチワでない。そんじゃ なんて言うんだよ。内輪(うちわ)ばなしなんてシャレにもなりません。
  ≪ This Fan is like Fan,but quite different 、 you understand ? ≫ 
  あああああ 世も末だ。ああアアア  しっかりしろよ。
  チクショウ 全く 治りかけた腰痛が またもや 疼き始めてる。 踏んだり蹴ったりとはこのことか ”何!ほざく” 生臭坊主の捨て台詞 いい加減にしろと仏顔が鬼となる。
   *投票率 このままが 当落決定の境界線 上がるも 下がるも 運まかせ
      ○忌々しき身に侍れば、かくておはしますも いまいましうかたじけなく・・・・「源氏物語:桐壷」

    日本人の徳には 武士は食わねど高楊枝と清貧に安んずることを良しとした旨がある。それが政官財挙って経済ばかりを声高に言う割に自らに甘い体質、出口の見えない今の状況からいかに脱皮できるか、それにはその地位にある人達が先ず身を正し範を示すことを真剣に考えて欲しいのです。

2699:言いたくない事②

 昨日より急に気温が下がった。生憎雨も降っていて今から東京に出るには相当の覚悟が必要だ。
今更、元気の出るような話は聴けそうも無いと思うから余計、気が重くなる。
 昨日は、坊さんの会合があり、『持続可能な社会をつくるのに我々坊さんが何ができるか?』というテーマでお二人の方の話を伺った。このテーマは結論を出すことではなく、多分一緒に考えませんかという狙いだと思う。今の日本の置かれた状況を簡単に語ることはできない。そのことが皆さん判っているから、積極的に話に加わろうとはしない。私も実はそうだ。問題を判っていても現実に何をどうやるかは自分自身(個人)の責任で考えることしか無いのですよ。
 自分の細やかな経験からしてもそうだ。日本人は外国から良いとこ取りをする能力は高い。真似をして作ったものは、結局満足できるものになりません。それは いつになっても自らが考え作り出したものではないという後ろめたさを持つからだ。
 だから、この種の研修に参加したり本をいくら集めても、結論は『あなた自身はどうする!』という宿題を背負うことになりますね。
 それと人間の性で、自分には災厄が降りかからないだろうと思う節がある。だからでしょう、自分がその身になって初めて真剣に考えるようになるんですよ。今の時代、全てが複雑で多様な価値観が許されていますから、尚更でしょう。
 「持続可能な社会」という事に関して、実は答えは出ています。逆を考えれば良い、それは何らかの理由で社会(国)が破綻した時です、そのもっとも判りやすい例は国家の財政破綻です。勝ち組と負け組がハッキリする社会、これだって破綻に向かう道筋での一つの現象にすぎない。
2極分解云々と騒ぎ立てても、今の仕組みを続ければ当然そうなりますね。ならば社会主義国家を日本人が選ぶかというとその覚悟はない。そこなんでしょうよ、中途半端で出口が見いだせない原因は
 ここまで情報社会が進んでも情報を受け取る側の差は相当なものです。
 最近、様々な席で日本の借金の額について尋ねることにしてきました。例えば1兆円というお金をどんなイメージを持っているか、それが驚くなかれ、相当ズレている。
 一万円札を重ねどれだけの高さになると思いますか? この問いかけに、答えは様々、酷い人で人間の背の高さと答えた人がいました。99パーセントの人が小さく考えている。なんとその高さはエベレスト山(8848メートル)をはるかに超え、10キロの高さになります。さらに今の日本の国の借金総額の1000兆円はどうかと尋ねると、これはもう話にならない。スカイツリーの高さかなという方もいました。
 これは地球儀を出さないと説明できない。つまり、成田からロンドン(ヒースロー空港)までの距離より遠くなる。一万円札を重ねた距離ですからね。
 ここなんですよ。今の日本の抱える問題の異常さは、つまり借金を自分とは関係ないと思っている人が大半だから真剣に考えない、なんでも消費税でその借金を返すとなると35%に上げて100年続けても、それでも借金はゼロにならないで、どうにか財政破綻はせず、国としての体裁を保てるという試算があります。ハイパーインフレという言葉を聞いたことがあると思いますが、そうなったらという条件付きで、だがその実感が全くない。なんとも幸せな国民なこと、 これって政治家や専門家の人達はあまり言いたくない事なんですよね。臭いものに蓋をしろという諺もありますから。

2700:言いたかったこと③

さて 『ことば』の三段論法の結論、生を受けた以上、誰しもなにがしかの「ことば」は持っている。
 芭蕉は俳句の他に奥の細道や野ざらし紀行などを残し、号は「はせを」と自ら署しているが、別号もいくつもあることが判っている。伊賀上野に生まれたのが1644年、そして難波の旅舎に50歳で没した。その間に膨大な数の俳句と紀行文などを残している。日本は世界でも男女の平均寿命の高さは常にトップクラス。それが芭蕉の生きた時代では50歳まで生きたことが平均以上だった。・・・・「今日では、死は嫌忌するべきものでしかなく、「いかに死ぬか」というテーマに関心を持つ人はほとんどいない。真の健康とは、いつまでも死なない命ではなく、命の自然でのびやかなあり方である、」・・・・「自立社会への道」筧次郎著:P32
 先日の研修で求めた本に書かれてあった、近代の矛盾や錯誤を正すには示唆に富んだ著作だと私は思う。収奪された人々の視点から500年の近代史を問うたもので、何故か私は芭蕉の生きざまと重なり芭蕉が言いたかったことは何だったのかを探りたくなったのです。
 誰しも掛替えない命を授かりながらも、なんとなく生きている。果たしてそれが「自然でのびやかなあり方」と言えるものであろうか?「知足」という言葉がありますが、これは時代とは関係なく、道に迷った時の道標、そのように私は思っている。
 足るを知るとは「いい塩梅」を保つこと、それが出来にくい世の中になった。
 「死」を嫌忌するものとして考えるとしたら不幸な一生を宿命として持ち続けることになり、長寿社会を本心から喜べまい。それが誰しもホンネとしては自分の生きた証を残したいものである、 最近、お子さんのいない夫婦より相談を受けることが増えました。永代供養の墓地に自分は埋葬してもらうことができるかどうか、思い悩んだ末の相談だ。「大丈夫ですよ」と答えると一様にホットした表情を見せる。散骨や樹木葬という埋葬を選ぶ人もいるが、未だ少数派。それと墓石に家名でなく好きだった言葉を彫る人が増えた。
 これらは今後もっと多くなるのではないだろうか、
 私の友人が・・・・大切な思い出を生きる原動力として生きていきますと語った。思い出は誰しもにあり、それがその方の生きた証であって、生きる覚悟でもあると思います。
 私も関心事は、実はここにあって、今に至るまで一貫している。それはシツコイようだが、言葉を上手く使えない人たちの思いに触れそれを探ること、それが筧氏が農業を通して説く「近代の超克」の道標になることだと信じて疑わない。
  

2701:"a"の意義

He is a man of his word という意味なんですけれどね。貴方なら どんな事を感じますか?
 面倒ですからやめときましょうか。英訳では”言行一致”ということになるようです。例の私の拘りですが、「a man」という字に何らかのメッセージ(背後霊?)を感じるんですね。世の中がa でなく thoseと複数形になっていると思ってしまって、これぞ 民主主義だと議論を封印している。クダラナイ。あっそ、、それじゃバイバイで結構。
 問題が起こった時などの責任の取り方を例に上げれば判りやすいと思います。世の中、この類の言い訳が蔓延してしまった。私が今一番恐れるのは、ここです。昔から言行が一致していない者が、何を言ってもダメということになっている、美辞麗句を連ねて自己陶酔している人は捨てるほどいらっしゃるが その逆の人は実に少なくなった。否、その人達は 決して表に出ないのかもしれません。
 なぜ こんな風になっちゃたのだろうか?と。
 ”みんなで渡れば怖くない”と言われたのは過去のこと、今は横断歩道を青で渡っていても事故に遭う時代になりました。
 少子高齢化の議論、これも明らかに those になっている。寧ろ この国の適正な人口はどれくらいなのかという話が出ない。 それは多分、経済的豊かさという物差しでしか考えられないから。それでいて その思いも a ではなく those。 そういいながら 突き進めば富と貧の2極化が生まれるということを黙認し、夢&幻を追ってやまない。ここだけの話ですが、病気して薬を多く飲めば、回り回って国のGDPを上げるのに貢献するという構造・・・・・・知っていましたか。
 これ 曲解?
 私の拘りは 別に望んでこんな風になったものではありません。僧侶という役目で、多くの人々の終幕に立ち会い、そこで感じたことなのです。 最後は その人にとっても 遺族にとっても ” a ”(ご自身)なのです。
 これこそが 憲法で言う個の尊厳 というものではないのですか?
  ・・・・・・ウーム・・・・・。
 ♪ 油の海を泳いでいる 魚よ苦しいか 
                   砂漠の中を逃げて行く 子供は歌わない・・・・ 
                      よわいものいじめはよせよ 嘘つきは針千本 幼な児のほほえみはいい 欲ばりにみせたくない  ♪♪  ( 『愛したい 信じたい』 ブレッド&バター)
 

2702:落雷被害

 先月12日に観音寺に落雷、この時は夜中だった。火災報知器が鳴り、直ぐに雷が原因だと判ったが、ベルを止める方法が判らない。結局、全ての受信機の電源を切ってどうにか止めることができた。その工事が思っていたより大変でやっと終わる段階にきた。一昨日の夜8時頃だった、何の前触れもなく、2発の雷鳴、これは大分近いと思った。数分後、遅番職員から電話、厚生園に落雷し、火災報知器が鳴りっぱなしだと。『参ったー!』
 急いで向かうと、案の定、3か所の受信機から非常ベルが高鳴っている。これまた、落雷だと直ぐに分かった。
 被害の主なもの、火災報知器&スプリンクラー分電盤破損・電話不通・循環ポンプ断水・館内放送設備・大型洗濯機・利用者のテレビなどが使えなくなった。まだ午後9時ごろだったために、火災報知器の管理会社から来てくれた。それ以外は明日1番で対応するとの返事、結局、夜勤職員以外は帰ってもらい、念のために私が泊まった。
 なんという事か1か月半の間に落雷の直撃を2回受けた。天罰か?
 人に怪我が無くて不幸中の幸い、そう思って現実を受け止めよう。考えてみれば、今までにもいろんな経験をしてきた。私が勤め始めた頃(42年前)は火災報知機など無かった。思い出したくないが当時一番頭を痛めたのが排水管の詰まり直し、水田を借りて埋設したパイプが良く詰まった。掘り起こして竹をつないだ棒で両方から突っつく。なんとも今思えば原始的なことをやっていたことか。
 宿舎の窓ガラスなどは建て付けが悪く、開け閉めだけでガラスが割れ、その交換を自分たちで行った。
 そんな時、不思議とメンバー達は大人しくしていてくれた。判るんだよね。今は騒いじゃダメというのが、・・・・・。これは不思議と今でも変わらない。昨夜もそうだった。自分のテレビが壊れてうつらないOさんだけが、盛んに雷への文句を訴えていただけでその他は皆さん騒がずにいてくれた。
 雷に今のハイテク機器は弱い。弱電使用の基盤が先ずやられる。今回は全てがそこだった。考え方として、被害を最小限にする為の防御策。
 しかし、問題は変化する。効率化・利便性のため、お互いの機器を連動させている。例えば報知器と地元消防署、電話回線を使っての自動転送など多様な機能を持たせている。これが実に厄介で全てに影響してしまった。
 機能停止寸前に落雷一つでなるというのが、今回分かった。落雷防止装置もあると伺ったが、これだって確実ではない。安全装置のアース線から雷の高電圧を逆に引いてしまって故障する。この類のトラブルが多いと聞いた。
 人間が考案したもので絶対大丈夫というものはない。安全の為に設置したものが、本来の役目を果たさず、トラブルの元になる。
 今回、それを見越して火災保険に加入していたから、大部分の修理は保険対応できるという有難いお話も伺った。
 返す返す、人的被害が無かったことは本当に良かったと思います。神様仏様 貴方様は私たちを守って下さった。
 

2703:個の尊厳

 もういい加減にして 何度止めようかと思った独り言、すると不思議なものでどうしても書き残したいと思う事柄が浮かんでくるのです。
”個の尊厳”という問題に関して。これは法律を少し齧った人ならば直ぐに思い浮かぶ憲法の基本中の基本、多くの現行法の条文で謳っています。
 そうです丁度10年目になります。ある方の遺骨をお寺で預かった。それは利用されていたホームの施設長さんから頼まれたのでした。先日同じホームを利用されているその奥様が来られた。車イスで施設長と二人のスタッフが介添えで付いてきた。その方は年齢は90歳を超え、最近、ご主人の遺骨を私の寺に預けているのが気になっているのでご本人を連れて一度伺いたいとの電話をもらった。
 子供さんが無く全く身寄りがないという。ご本人は主人と同じお墓に埋葬してもらいたいとハッキリ仰った。多分、ホームではご主人の遺影を枕元に置き、元気だった頃の思い出を大切にしながら生活されているに違いない。
 
 日本は成熟社会という看板は下ろすべきと思います。今の世相をなんと言えばよいのだろうか。成熟という言葉の中には尊厳(基本的人権)を基に心の豊かさや生活の質の向上が守られているべきなのに、そうはなっていないものが多いように感じます。
 人間まんだら、これぞ究極の理想社会だと私は思っていますが残念ながらその図が描けない。多様な価値観を認め、その中でお互いが共に生きる社会を願ってもそれがどんどん遠のいて行くような感じさえします。
 現実には上辺だけの真似事で急ごしらい、空理空論花盛り、海図なき遠洋航海・・・だと言ったらば言い過ぎでしょうか、なんとなくそう感じてしまう。

 昨日、県庁で第14回ゆうあいピック長崎大会(障害者)の茨城県選手団の結団式がありました。終了後、選手団は茨城空港から福岡に飛ぶ。県の代表として紹介された選手達の凛としたユニホーム姿を見て、涙が出ました。選手代表が誇りを胸に明日からの競技で全力を尽くしますと誓った。会場に集まった人達全員が選手団に心からの拍手を贈った。
 人としての尊厳とは、尊くおごそかで、おかしがたいこと。それは未来永劫にわたり、全力で守らねばならない至高の願いです。
 コマ送りみたいな文章で恐縮しています。低流ではつながっていると私は思って・・・・・
 
  「あした 水戸に行ってくる」 久しぶりに一緒に庭の掃除をしていた相棒のNさんが突然私に話しかけてきた。明日は土曜日、飲み友達に会いに行くそうだ。
    以前だったら 彼はそんな話は自分から言わなかった。本当は友達なんかいないのかも知れない。一瞬そんな思いを持った。

2704:素人の経済観

 昨日 メデアは一斉に日銀総裁の金融緩和決定の会見を流した。委員5対4での薄氷のサプライズ決定ということもあろうが、経済の先の見通し程予測は難しい、ある意味では覚悟の決断だと評価する専門家もいた。
 この一連の動きを私達はどう受け止めれば良いのだろう。何か別世界の出来事のようで様子眺めするしか方法がない。以前から国会中継はほんの一部だけをNHKが放送している、だから重要な政策決定などは我々が知る術がない、そして言われるままに決定されたことを受け入れるしかない。せめて重要政策を決める審議などは実況放送すべきだと私は思う。みる見ないはこちら側の責任でそこまでは要求しない。
 先週の国会中継は、正直ガッカリした。相も変わらず政治とカネに関する攻防に終始、あの方達は国民がどう思っているかを知らないようだ。この国がどうなるかという重要な岐路に立っているという危機感を感じない。その後突然(?)、日銀による10兆円の金融緩和決定の発表、判り易く言えばお金を今より更に10兆円も増刷し市場に出すということ。せめて反対意見にどのようなものがあったのか位は知らせるべきと私は思う。廻り回って国民に最後は降りかかる。(10兆円それは一万円を重ね100キロの厚さになる、貨幣価値に実感がなく、デノミの恐れは?)
 素人が何を言うかと一喝されるかもしれない。しかし、納税者への説明責任は果たすべきではないでしょうか!
 情報の出し惜しみ、一気に発表すると社会不安になるとでも考えたのでしょうか?。

 不安定な先行きを見過ごす訳には参りません。今、施設の老朽改築中、巷では社福の持つ内部留保金が問題になっている。社会福祉法人の在り方検討会も回数を重ね最近その報告書が出された。
 私などがどうのこうの騒いでも国策としての流れを変えることはできません。尚恵学園は事業を開始し、58年が経つ。その間に必死に積立をしてきた蓄えを一気に今回の工事で吐き出す。勿論借金を勧める方もいたが、最初から私はそれは考えなかった。経営責任者として、負債は後継者に残すべきでなく夢を残せというのが先代の教え、自分の身の丈にあった経営をすれば良いと常に言い聞かされてきた。先行きどうなるかわからない今の時代に20年~30年の長期ローンを組み、嵩んだ工事費を毎年返済することができるのだろうか?これは素人判断かもしれないが、正直言って今の日本では10年先すら何を根拠にしたら良いか不透明。
 介護事業は産めよ増やせと破竹の勢い、豪奢な設備を売りにして入居者を募集、それと一緒くたにされてしまった。年金基金130兆円がいまどうなっているか?利息を稼ぐために専門家がやってることが今後20年、果たして想定通りに上手く進むという保証はない。一方、先の報告書で社福には地域貢献を義務付けるとか????何言っているんだか、私たちがやってきたことは最初から地域貢献では無かったか!
  (お暇な老人を集め施設で麻雀をやってもらう事を社会貢献だと言った方がいた。ホントかよ、この温度差は相当なもの???)
 福祉事業の経営者それと制度の仕組みを考える人達に今一番必要なのは納税者の思いを感じるセンスと行動力だと強く感じている。
 

2705:永平寺

 「これっ・・・・・」と袋を渡された。Nさんが水戸に遊びに行った帰り、どこかで買ってきたものらしい。袋の中身を見て驚いた。『永平寺』というNHKスペシャルのDVD。「何 どうしたのこれ お土産?」 「ウン」と答え私にくれた。参ったな・・・いいよそんなに気をつかわなくて。そのDVDは昨夜自分で観た後、私にくれた。2枚セットで「104歳の禅師」と「修行の四季」。もっと真面目に坊さんやれというNさんの命令だと受け止めるべきか。
 その後すぐだった、Kさんが私の車のトランクを見て、両手を盛んに振る。プリウスはトランクが外から良く見えるから、まさにその隙を突かれた。実を言うと6日に地域の芝刈りに誘われ、練習しようとトランクに道具を載せておいた。Kさんの命令は「俺も連れていけ」というスイングの格好だった。「今にな・・な」と言ったが、何度も同じ手はきかない。
 二人の評価は単刀直入。草刈やれとか飲みにつれて行けとか・・・・・
 今回は永平寺のDVD 多分 水戸駅近くの道端で買ってきたものだわ。大分前に彼は金剛杖をくれたこともある。100円で買ってきたと得意満面。この時も夜な夜な歩いている暇があるなら、遍路にでも行って来いという意味にとった。
 まったく 。万事がそうなんだ。私の弱みを良く見ているよ。
 昨夜そのビデオをみた。若い雲水の修行を一年を通し取材したものだった。アアアアアア 俺にも あんな時があった・・・かもしれない。いつの間に歳ばかり取って、自分の事はさて置いて、周りへの不満ばかり、まったくどうしようもない。イイイイイ・・・・落ち込んだ。
 ウウウウウ・・・・
 いま、国は事業所への第3者評価を義務化しようとしている。どうなんだい?1日ぐらい施設に来て本当に分かるんかい?え えっ どうなんだい?
 私は 本当にそう思っているんだ。制度をいくら変えたってダメ、本気だったらあんたら雲水になれよ。1年でも2年でもここで生活してみたらどうですか、その後の評価でしたら仕方あんめー。
 小生、問題の根本はここにあると思うのであります。綺麗ごとを並べ、自らは関わらない。これで世の中うまくいけば苦労はありません。 福祉とは自らの問題、実践して初めて理解できることばっかりだ。
   ホレ ホレ 何黙ってんの・・・Nさん&Kさん 言ってやれ。 ウーン だめよ ダメダメって あのコンビなんて言ったかな 白い顔とヘンテコリンな女性2人組 エレキ・・・?
 

2706:生き残り作戦

 アメリカの選挙結果は、野党共和党が上下両院で過半数を占めた。そのニュースは全世界へ同時に発信され様々な憶測が飛び交っている。日本とは大分違う選挙戦、その最たるものは白黒ハッキリするという点にあるが今後の先行きはより不透明になったという意見が大勢を占める。一方、ユーロ圏は較差が拡大、最近の東西両陣営の駆け引きが強まって様々な動きが出始めている。
 いずれにせよ、過去にも統合分裂を繰り返し、今の形になったわけだからこれから先も想定外の展開が出ることは間違いないだろう。”生き残り”という視点で今の状況を眺めるといろんな事が浮かびます。先ず人間に寿命があるという事。これは誰がそう決めたのか? もし人間が死なないとなれば、既に地球は消滅していたかも知れません。途轍もない独裁者が出現し、思いのままに振る舞って、今どころの問題ではなくなりますよ。そこを精々長生きできて100歳と定めた。ですから、うまく出来ている。現実世界で完璧・絶対というものはあり得ない。だってそうでしょう。宇宙の歴史は何十億年か知りませんが、人間が精々生きて100年とすれば、もう問題にならないわけです。
 それが忌々しき問題が次から次に起こり、嘆き・苦しみ・終いには殺戮まで起こす事態になす術を見いだせない。
 人間の社会は本来白黒ハッキリすべきではない。否、出来ません。仏教の教えで”中道”というものがありますが、これしか残された選択肢は無いんじゃないかと思います。
 もっと簡単に説明するために一つの例を挙げます。法律を巡っていろんな事がありますね。一つの事件に対し、被告原告にそれぞれ弁護士が付いて、法の解釈で勝ち負けを争う、これって金魚鉢の中で金魚が餌を取り合っているのを外から眺めているような感じに取れるんです。
 金魚同志はそれは生きるために必死ですから、追い掛け回る。でもこれは餌が一つだからそうなるんでもっと餌をあげればお互い満足し相手を攻撃しようとしない。金魚は生きていくために餌を奪おうとします、でも相手が気に食わないとか地位とか名誉なんかは関係ない、ここが人間様とは違いますね。それに金魚に必要な餌の量は決まっていますから、どこかに貯めこんで隠しておこうなんてしません。
 人間はどうか、これでもかこれでもかと欲張って奪い取ろうとしますよ。わかっちゃいるけど止められないという歌ではないが、判っているんだったら止めれば良い訳ですよね。
 生き残るためには、ほどほどが良いわけで必要以上に貯めこんで良い事ありませんよ。
 

2707:気負わずに

 休みをもらい、地域のイベントに参加、なんてことありませんゴルフです。結果46:46で22名参加の中で4位、満足です。それよりも心配していた腰は大丈夫だった。これでまたギックリ腰になったら   想像するだけで恐ろしい。久しぶりに中学時代の同級生と一緒にラウンド、それが良かった。気負わずノンビリとプレーできた。他は昔から良く知っている人が半分と新しく移り住んだ人が半分。「住職よ。遊んでばっかりだっぺー。」と打とうとした時に大声で声がかかった。ヒソヒソ話が良く聞こえる。「住職? あの人だれ?」「・・・・・」「アアア  判ったあの人か」 なんて言われても仕様がありません。そうなんだから逃げも隠れもしませんよ。
 台風の影響もなく、穏やかな天気で日焼けまでした。神立から車で20分ほどの近いゴルフ場だったこともあってよかった・・・・な。何しろ私が若いほうだから、結果は言うまでもない。この人たちは昨年までソフトボールのチーム仲間が大半、腰を曲げながら必死にピッチャーをつとめた方も今回参加した。なにしろ50年以上の付き合い仲間だから気心は熟知、今時珍しいと思う。新旧住民がソフトボールを通じて知り合い、それが体に無理なく出来るゴルフに替わった。
 尚恵学園とお寺は一体だと思っていた方が今も支えてくれている。今回もその事を強く感じました。それは最初からこの地で続けてこれたからで、今度、菅谷町の方に一つの事業所が移る。私が今気になっているのは、我々が今度は新住民、仲間に入れさせていただく立場になる。上手く地域の方々に受け容れてもらえるだろうか?
 正直思うのは、まだまだ我々の施設を諸手をあげて迎えいれてくれる状況に日本はなっていない。もう後戻りできないのだから やるしかない。
 気負わず 自然体で。
  ゴルフというスポーツは実に奥深い。自分のいい加減さが結果に出る。それと性格も。私の場合、メンバーがOBをたたくと諸に喜んでしまう。自分がたたくと思いっきり悔しがる。喜怒哀楽は私の性分だから そのまんま。
 昔はこんなもんじゃなかった。それを年齢の所為にしたり、ゴルフ場の所為にする人がいる。私はそれはしない。結局、無理すると必ずミスを犯す。結果を纏めようとすれば気負わないこと。一つのショットに思い出を作るなら結果は求めない事。それが鉄則。
 
 

2708:立ち話

 田舎暮らしで生きる活力を取り戻しませんか! 別に地域創生などと大それたことではありません。私の住む地域は畑がまだ至る所にあって、散歩するにはあつらえむきな場所です。最近、畑を借りて見よう見まねで野菜作りや花を作る方が増えています。道具をいちいち持ってくるのは面倒なのでしょう、自分でシートで小屋まで作ってしまう方もいらっしゃる。できた野菜を売る積りは無いようで、物々交換や自慢話で花が咲く、上手くできた人に作り方を教わって自然に交流も深まるようです。農家は畑を荒らしてしまうよりタダで貸し、作物を作ってもらったほうが余程良い。荒らしてしまうとどこか体の具合が悪いのかもしれないと噂が一人歩き。また近所に○○サロンと洒落た溜まり場があって、農作業の後カラオケしたりお菓子を作りたいお年寄りが自然と集まる。これは田舎だからできること、若者が都市に集まるなら年寄は田舎に集まれ!これを地域創生の旗印にすれば良いのに、頭が固いのかな偉い人達はその発想がない。工場誘致して働く場を作るとか道路作って人を呼べと
。。。。いつまで同じことを考えるのですかね。それではいつになっても間に合わんでしょう。何せ子供が少ないんだから、子供は一人前になるには何年かかりますか?
医療費の問題だってそうです。お年寄りだけじゃない、若者も薬に頼るようになってこれから先どうなるの。でも「葉っぱビジネス」で有名になった徳島、なんと葉っぱを集めて年収1000万のお婆ちゃんが誕生、あの方たちは医療費なんてかからないと思います。毎日、山を歩き回って元気だもの。年金などあてにせず税金を納めるお年寄りを総理官邸で表彰すればいいんだよ。
 余談ですが、徳島県は県の魅力度順位で昨年は43位だった県、我が茨城県は2年連続でビリ。魅力度の結果に対しての評価は様々、従来の尺度では今後もこの座は譲れないかもしれない。でも視座を変えれば、最先端の県だともいえますまいか、私はそれを信じてます。何せ県民はビリだって全く気にしない、「そんなの 好きに言わせておけ」だもの。それをノーテンキと言った方がいる。
 皆さん若者の身になってみなよ。俺たちが増え続けるお年寄りの面倒をみるとなれば、誰しも限界を感じ尻込みしますよ。慈善家が人倫の道をいくら説いたって限度があります。それと労基法だかなんだか知らないが、定年制を廃止した企業を表彰すれば良い。働ける人が堂々と働ける社会が地域創生の源。『働く』という字をよく見てください。人偏に動くと書く。寝たきりじゃないことですよ。良いじゃないですか。介護度を数値化してなんになる。どうも日本人は数に異常な程の関心があります。
そんな発想だから再生エネルギー問題がなかなかうまくいかないでしょう。太陽光を補助金まで出して推進し、今度はその電気を買わないと、その矛盾を感じない。何のためのエネルギー対策なんだよ、まったく。
車。定期車検をやっていれば今の車は20万キロでも30万キロでも走ります。人間だって同じ、それをお年寄りに優しい街づくりなんて看板掲げるから、結局年寄がお邪魔虫に成り下がる。これこそ人権蹂躙です。
 日本が今いろんな面で綻びが見え始めている一番の理由は、固い頭で発想が古いことにあると思う。収入があると年金が減らされるという制度はマズイ。そしたら働きませんよ。人間は必要とされるから頑張れるものではないでしょうか。
 あっそうだ、魅力度の話ですが、非常時に強い県という尺度(視点)に変えたら、順位は完全に逆転しますよ。その時には大様な我が茨城は必ずやベスト3になりますとも。
    『水戸学には「大日本史」徳川光圀編纂あり』
 

2709:絆

 馬の脚にからめて縛るヒモを絆(きずな)という。本来の意味は、人間関係で自由を束縛する義理人情を言うそうだ。某新聞に≪ダウン症の子を授かって 悩み戸惑い 深まった家族の絆≫という記事があった。その中に使われている絆という字は、辞書にある束縛の意味ではない。日本語の持つ複雑&多義性は時として予測できない方向にすすみ、その言葉を見過ごしてしまう人もおれば、人生観そのものを激変させるような影響をもたらす場合もある。多分、言葉そのものは、後付けで自分の体験によりその意味が人により微妙に異なるからだと思う。
 身近な例で、経典を読んだとき、同じ言葉が何回も繰り返し出てくることがありますが、その言葉の使われた場面により、微妙に意味が変化すると感じている。般若心経に出てくる”空”という一字、この言葉は仏教で説く摂理全体を理解することにつながるという。
 絆という字を束縛と取るか否か?その意味の分かれ目となる理由は一体どのようなことが考えられるでしょう。
 実は 分かれ目では無く、混在している情態だと思うのです。障害を持つ子の家族と今まで何度も話をする機会がありました。そこで感じたことで共通するものがある。それは皆さんが悩み戸惑い苦しみ抜いて今もいるということ、周囲の無理解や自責の念によって苛まれ生きてきたという現実、・・・・手をつなぐ育成会という団体があります。一人で悩むのではなく、同じ境遇にある親たちが我が子のためと立ち上がって組織した。明後日、その全国大会が松江で開催される。
 その種の研究大会において必ずセットされるお決まりの行政説明、私はそこに”こころ”を感じない。法律や仕組みを短時間に説明しなければならない担当者に同情はするが、どれだけ丁寧に話されてもそれによって元気や夢を貰う事はない。
 最近、この類の研修が異常に多くなった。それは毎年法律を改正しているからで、仕組みを考える人達と利用される人達との間に深い溝を感じてしまう。制度の一部改正を聞いていると、そこにばかり気が行ってしまい、制度全体が見えなくなる。その結果、何のための制度なのかという核心がぼやけてしまう。
 意地悪な見方をすれば、目先を変えることで、根本の問題に触れることを意図的に避けていると思ってしまう。だからなのでしょうか、飽きもせず、斯様な拙文を書き続けている。

 たった今、朝の6時の梵鐘がなった。毎日、まず庭の六地蔵, 次に本堂の前で深々と頭を下げ手を合わせるご婦人が1回だけ遠慮気味に撞く鐘である。
 

2710:宿題

 養老孟司さんの「自分の壁」という本を一気に読み終えた。彼は4歳の時に父親が亡くなり、臨終の際に周囲から「さよなら」を言いなさいと促されたが言えなかった。そのことがその後「人と挨拶をかわすことが苦手な性格」になったと自己分析、そして、その因果関係を40歳の時通勤途中の地下鉄のホームで気付き地下鉄の中で大泣きし、その時に初めて「自分の中で父がなくなった」と告白している。この話をしり、彼の書く本が身近に感じました。
 宿題(因果関係より)って何だろうと考えます。学生の頃の宿題は誰しも歓迎はしないと思う。でも人間誰しも自分自身に与えられた宿題を自ら考える時がくると思っています。それが早いか遅いかは関係ない。
 自分は最近ゴロゴロしている時が多いように思っている。勿論、横になって寝てしまている訳ではない。自分では頭の中を整理(?)している状態なのだが周囲からは寝ているようだと思われる。昼間からゴロゴロしていて何だと!
 拘りとか性分というものは、自らの責任でそうなったんじゃないないだろうかと思います。他人の悪口を直ぐに言うタイプ、愚図愚図していてハッキリ物がいえないタイプ、どうもあの人といると暗い気分になるとか、そのまた逆の人。・・・・・・あげれば切がない。養老さんが自著(上記P.61))の中で、仏教の「縁」の考え方のことを書かれていた。何か思う所があるのだろうが、そこではサラッと触れただけでした。
 まあ 私も縁についてはいろいろ考えることがありますが、それが完成したという経験が未だ一度もない。死ぬまで無理だわな。
 いま気になっていることがあります。どうしてもある問題(?)が変えられない利用者の方がおられて、良く職員の中で話題(ケース検討)にあがる。その方は自分が行っていることが決して良い事ではないと自覚しているのに止めない。だから余計問題だとなるようだ。
 立って考えるとそんな風に、それが寝て考えると、違った見方をすることがよくある。・・・・今まで育ってきた環境、親兄弟親戚・・・成功・失敗・・・喜び・悔しさ・・・・涙・笑い・・・・・と因果関係が際限なく広がる。そして相手の事よりこちら側に矛先が変わるようになるんですね。何故なのか判らない。養老さんは解剖学の権威、その辺の事を一度伺いたいな、多分、あの方の性分では「断定的な」事は仰らないと思う。
 教育者と言われる人で、皆さん何人の方の名前を挙げることができますか?不思議なもので私の場合は小学生の頃にお世話になった先生が先ず思い浮かぶ。その後は名前さえ思い出せない。小学1年で担任になってくれたT先生、先生は若くして亡くなった。先生のお宅に友達と遊びに行った時の事を今もハッキリ覚えている。何を教えてもらったかではなくて、我々と良く遊んでくれたという記憶(縁)である。
 思い出って後から考えて段々膨らむものなんですよ。
 宗教の事を考えてみましょう。何らかの宗教を信じるということ、これって最初は殆どの皆さんがボンヤリとですね。それが段々深く信じるようになる人、そこで止まってしまう人、更には転々と宗教を変える人、更に踏み込んで宗教なんて何でも構わないと言う人。
 私自身がそうですから、寺に生まれたから坊さんになった。これを宿命?だとは考えません、だって寺を継がない人だって沢山おります。多分、私は本心からお寺が嫌ではなかったと思うのです。そして縁というものでしょうか自然と仏教が身近に感じるようになってきました。これはきっと多くの方の最後に関わらせて頂いたからだと思っています。