源究144

 

No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日 No テーマ 月日
2391 新生ニッポン 3/13 2396 安心 3/18 2401 原点回帰 3/27 2406 個の尊厳 4/2
2392 障害者支援法 3/14 2397 居場所 3/19 2402 仏作って魂・・ 3/28 2407 自問自答 4/4
2393 ある判決 3/15 2398 一服感 3/22 2403 万事段段 3/29 2408 合縁奇縁 4/5
2394 鶴と電気 3/16 2399 イノベーション 3/23 2404 年度末 3/30 2409 起死回生 4/6
2395 役員会 3/17 2400 従流志不変 3/25 2405 年度始め 4/1 2410 緊張・弛緩 4/7

2391:新生ニッポン

此の世を果無んでばかりはいられませんよ,,皆さん!鎌倉末期の兼好法師が著したと言われる『徒然草』の「つれずれ」の意味は、「やるべき事もなく、手もち無沙汰」を言うそうだ。何とも贅沢な(?)ご時世ですこと。
 ならば、やるべき事が山のようにあるとすれば、どうなんですかね。『枕草子』・『方丈記』と合わせ日本三大随筆に入れられた『徒然草』、いずれも古典類の書庫深くに入って日の目を見ない。精々、国文を学ぶ学生が卒論テーマにするくらい。
 その時代時代の風習、人情・出来事への思いを馳せるには絶好の歴史書である。当時は、パソコンなどの便利な道具は無く、墨と筆、和紙によって記録された。それだけだって価値があるのでしょうが、その価値を理解し語り継ごうとする力が無い。
 現代の特徴の一つに、気忙しくしている割には達成感や充実感が無いと言えまいか。
 ここである行政機関の事を取り上げたい。最近そこに対しちょっと首を傾げるようなことをいくつか経験した。その一つ、どこの教育委員会でも同じだと思うのだが、やたら遺跡指定をして、地図上にその位置を示している。私の住む神立台地は、いつの間にか隙間なくその指定地域とされていて、何をするにも教育委員会の届け出と立ち入り調査が必要となっている。このことをどうしてこうなったのか住民で理解している人はいない。説明会も無くいつの間に地図上に描かれた。建物を新たに建築する際に大変です。いろんな条件がついて、簡単に利用できない。
法律で1,000uを超える広さを開発しようとすると、なんと公的な関係機関に問い合わせするのにその数、17か所。これが実態なのです。
 確かに、縄文弥生の住居跡や生活道具類は当時を知る手立てにはなると思います。でも、それがどうなのよ?
 もっと違う視点が無いのかな?例えばですよ。遺跡を発掘して、展示室に並べることまでは良いですよ。でも、それをどう活用するかについては委員会の誰に尋ねても的確な回答は無し。倉庫の中に積み上げているだけでしょう。
 日本は何か事が起こると縦割り行政の問題が常に話題に上る。だが、一向にその改正の動きは見えない。やるべき事が増え過ぎて、どうでも良いような事に時間が取られ、今必要な事に力を集中させることができない。
 行政に一番大切なことは、何を止めて何をするかという決断です。多分、震災復興がなかなか進まないのもこの辺が原因になっているのではないですか。前任者のやったことを踏襲しているのが一番楽なんですね。
 鎌倉〜室町〜江戸〜明治〜大正〜昭和、そして平成。この日本の歴史で受け継がれてきたことは一体何なんだろう?
 歴史は繰り返される。東アジア周辺のキナ臭い動きを無視できない。今の日本人が果たしてこのままで良いと考えている人がどの位いるだろう。一方では新生ニッポンを感じさせる動きもある。
 もっと規制を緩め、アイデアを形にするチャンスを増やすべきだと私は思っている。
 このままでは我が福祉の現場とて全く同じ穴の狢と成り下がる。
 

2392:障害者総合支援法

国民の皆さんで「障害者総合支援法」がこの4月1日より施行されることを知っている方がどれ程いるでしょうか?
 内閣府の中に改革推進会議が設置され、官報などでその詳細な報告がなされていた訳ですが、恐らく、関係者すら覗いた人は殆どいないだろう。従来の法律を改正するだけで、今回変更しなければならなかった関係法令の数、正直驚きますよ。
 それでも委員の人達の努力の甲斐が有って、漸く施行されることになったのです。ご苦労様でした。
 ちょっと紹介しましょう。「地域社会における共生の実現に向けて新たな障害保健福祉施策を講ずるための関係法律の整備に関する法律」なんですよ正式な名称は。そして、可決成立した法律が(第1条)従来の「障害者自立支援法」を「障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律(障害者総合支援法)」となったのです。
 その同じ第1条に、「自立した」を止めて「基本的人権を享有する個人としての尊厳にふさわしい」という文言に変わった。ここがポイントだった。
 ここに至るまでに様々な論議を呼びました。でも肝心な事は出来あがった法律に血肉を付けどう生かすかですよ。
判っているんです。でも、人間の理解力は千変万化、作ったことで満足し足踏みしちゃー意味がなさないって事。
 特に我々最前線の現場にいる者にとっては、法律の趣旨云々など言っている余裕がない。きまりきった仕事を只管おこなうことでどうにか支えているのが実態です。
 だから、現場と法律をつくる人達の格差は相当の開きがあります。さらに、障害者に関係しない一般の人(?)との格差はもう無限大ですからね。
 何故、この格差が埋まらないのでしょうか?その事を取り上げた方がひょっとしたら法の目的に早く近づくかもしれない。
 如何なる文言を並べてもそれが実現されなければ何にもなりません。
 私はその事を、ずっと考えています。
 尚恵学園の基本理念として創立時から掲げているのが実は『共生』です。56年間それを目指し、今に至った。そして現実はどうか?自問自答の域から一歩も出られず、もがいている訳です。
 初代理事長が「共生」を何故掲げたかは、本人に直接尋ねたことは無かった。私の若い頃は、思い起しても楽しいことばかりしか浮かばない。今考えると笑われるかもしれぬ事が実は真剣だった。ガラス切り・根詰まりした排水管に竹棒を繋いで突貫工事・マキストーブを囲んでスルメ焼き・大部屋はなんと12人部屋だった。
 50人をたった一人の当直でした。・・・・・・・。
 実習生が来れば子供たちが寝静まった後、夜耽るまで話し合った。・・・・・・。
 
 それが、一変した。我々と家族の関係も然り、不満を言ったら大変だ。日本の教育現場と全く同様の関係が生まれている。
 新法によって何らかの変化が望めるでしょうか?それより心配するのは臨界点を超え、取り返しのつかない状況になってしまうのではないか、或いは支援する人が皆無という危機的状況になってしまうかもしれない。敢えて法律に「総合的」という名称を加えた狙いがそれをも想定しているか否かを注視したい。

2393:ある判決

「成年後見人が付くと選挙権を失う」この公職選挙法の規定が憲法違反にあたるという東京地裁の判決が14日に出ました。
 牛久市にお住まいの名児耶さんはダウン症の娘さんの成年後見人になって初めて選挙権が娘さんに無くなったことを知ったと聞いた。
 名児耶さんとは、いろんな場でお会いすることがあります。熱心に会議に参加され、良くご質問をされます。娘さんの匠さんに直接お会いしたことはないのですが、お父さんが隠さずにお話されるから想像はできました。温かいご家族だと直ぐに判ります。
 今、茨城県において障害者差別禁止法の条例化に向けた動きがあります。熱心にその手伝いをされているS氏、先日、喜んで私にワザワザ話しに来てくれた。「ヤッター。沢山集まってくれたよ。部屋が手狭で立っている人も出る始末だったんだ・・・」 満面喜びといった感じ、・・・・・・。条例化向けの会合があったその日だった。名児耶さん&S氏、皆さんお知り合い、どこかで繋がっている。当にネットワークである。
札幌。埼玉。京都の各地裁で同種の訴訟に果たして今回の東京地裁の判決が何らかの影響を与えるのだろうか?
 障害を持つ人達、その内誰一人として喜んで障害を持った人はいない。最大限に妥協して言えば、その人達に今までの日本はどう関わって良いのか分からずに今に至ったと私は思っている。尚恵学園の歩みを振り返ってもそうだ。最初、創設者は変わり者呼ばわれしたと聞いた。それから半生期も過ぎ、やっと軌道に乗りかかってきたと思ったら、社会福祉事業に対する疑いの視線、何か上手い事をやっている輩と後ろ指を指す。なんという国なのか! 貴方達はそれで本当に良いのですか?と問いたい。
 万が一、貴方のご家族に障害を持った人が生まれたらどうするのですか?
 こう考え始めるとどうしても糸賀一雄先生のあの言葉を思いだす。
 マスコミにだって責任は大いにある。昨日の夕方のニュース、東京地裁の違憲判決の放送の前後に、あの優良企業トヨタがボーナス満額回答したというニュースが流された。この時、私は違和感を感じた。
 差別禁止を片方で取り上げながら、不況に苦しむ産業界の異端児(一人勝ち)たる世界のトヨタ社長の晴れ姿を流すとは。
 マスコミには報道責任があると思うが理念を感じない。
 さて、今回の動きを見ていると少しづつ変化を感じます。
 それは、一言で言って”個人の尊厳”をどう認め合うかということです。
 自分は何もできないが、寄り添うことぐらい出来ます。と言ったのは誰だったか思い出せない。
 そうなんだよな!誰にでも、何か出来ることは有る筈です。
 それと、福祉を食い物にするような輩には容赦せず鉄拳制裁すべきなんだと思います。
  

2394:鶴と電気

若者に「貴方は鶴と電気を比べどちらが大切だと思いますか?」と質問したという。
 『ブータンと幸福論』の著者:本林靖久氏のNHKラジオ深夜便での話が実に面白かった。これには続きがあり、親と電気・友人と電気とどちらが大切だと思うかと質問したという。授業の中で学生たちに行った実際の話。最初は何を言っているのかポケーンとしていた学生達も自分の考えを話すようになったそうだ。
 その結果は、電気のほうが重要だと答えた者が多かったという。親よりも電気?と訝しがるが、人間は何れ亡くなる宿命、一方、電気が無い生活を経験したことの無い若者にとっては正直な思いなのかもしれぬ。
 実は、この話は以前にどこかで聞いたことがあった。ある村に電気を通すか否かの話が出て、住民たちに相談した結果、毎年飛来する鶴に電線は危険だということで電気を引く事は取り止めたという話だ。後にどこかの国の補助で地下ケーブルを張って電気の供給がされたそうだが、この時、本当にそんな処が今時あるのかと興味を持った。更に仏教国のブータンにはお墓が無いという。私は真言宗の僧侶である。今の日本の仏教でお墓&先祖供養が無いなど想像できない。本林氏の説によれば、ブータンでは輪廻転生を信じているからだという。日本人の多くが死んだら全て終わりと考える。だから生きている間に好きな事をやってしまえ!と、これが悔いの無い人生だと触れ込む輩もいる。しかし、これでは死への恐怖は尽きる事が無い。
 それと世界中から関心を集めているGNH(Gross National Happiness)「国民総幸福量」の考え方、全人口が70万に満たない小国で国民の殆どが今の生活を幸福と感じている。国家が取り入れたこの指標は、経済の発展を第1に考える某先進国にとっては気になる存在なのである。
 5月下旬に、以前からの念願であったブータンに行けることになりそうだ。
 先行きに誰もが不安を感じている社会が良いのか今が幸せと実感しながら生きていける社会が良いのか。誰だって理屈抜きに後者を選ぶ。
 時間がゆったりと流れる国ブータンでも昨今は携帯やインターネットが入って、若者は強い関心を示していると聞いた。
 決してブータンでは経済の発展を拒絶しているわけではなく、自然や昔からの伝統を大切にしながらそれと調和していく道を探るのだ。
 無駄の削減と国会の議論がお盛んな国、国民一人一人を見ても、食べずに破毀される食糧やほんの昔までは一本の鉛筆を短くなるまで使った子供達が家中に溢れる筆記用具を見て、使い捨てしてしまうのも頷ける。
  「鶴と電気」の話は、いずれ日本が経験するだろう様々な危機的事態に対する一つの指標になることは間違いない。
 追記)
   この4月からスタートする障害者総合支援法、これは決して単独に存在するものではあるまい。色めきだって騒ぎ立てる程のことは無いと私は思う。法の趣旨に大差は無いはずで、実は一人一人の問題なのだ。
 

2395:役員会

定例の法人3回目の役員会があった。年に1度は場所を替え、会議終了後に懇親会にする。25名集まって会議が出来る場所が見つからず、駅前のAホテルにて実施、今回は老朽改築という大きな議案を提案した。次年度の事業や予算と合わせ、役員全員の賛同を得て準備を進めることで終わった。その後は円卓を囲んでの懇親の場に、車で来る方もいるのでアルコールは控え目、でも、和気あいあいとした雰囲気の中で5つの円卓其々が話で盛り上がった。2時間の制限時間があっという間に過ぎた。
 今回で理事を退任されるY先生は82歳、もう一人T先生は88歳、花束を贈呈、先生からのご挨拶。38年間理事を引き受けたというY先生の弁で当時、私が学生だったという話には耳を疑った。後で考え了解、そうだ、坊さんになる為に大正大学に編入し通っていた時とダブる。
 殆ど休まずに役員会に出席してくれただけに尚恵学園の移り変わりを良くご存知、先生、ご推薦の新たな理事さんも気さくな人柄で直ぐに解けこんでくれた。
 尚恵学園の役員構成は6名の理事と13名の評議員、職業は様々、皆さんその道その道で確たる信念を持ち活躍されている人達だ。
 前向きと言うのか怖いもの知らずというのか、良く考えて見ると私が一番だらしが無く逆に激励される羽目になった。
 よーし やってやるか!
 飲めないビールを調子こんでのんだものだから、なかなか寝付かれず、頭が冴え渡り閉口した。
 一夜明け、別法人の役員会、3月30日まで続くなんとか会議、気分は偉く楽である。
 やらずにくよくよしたってなんの足しにもならぬ。やってみて失敗したって良いじゃない。独り事がまた増えた。
 そうそう、付け加えておこう。
 大学で人間の運動能力の研究をされているK先生が今回の建物整備で帰り際に一言。
 バリアーフリーもいいが、バリアーアリー(有り)も大切ですよと私に耳打ち。そうだわな。本当にそうだ。
 今の教育現場、知識を教えることはできるが、社会の常識、人間教育には責任無し。困難にぶち当たって人間の智慧は働くもの。そうじゃー有りませんかね。これが本来のリハビリテーション?
 

2396:安心

”安心立命”(あんじんりゅうめい)・・・心を安らかにし身を天命に任せ、どんなことがあっても動じないこと。儒教から出た語です。
 天命を全うする。結果的にはそれを受け入れざるを得ない訳ですが、それまでに迷う人が多いのです。私自身もそうです。
 仏教を信じる身として恥ずかしいのですが、私の場合は、やるべき事が判っていても出来ないでこの世とオサラバするのが残念だという意味です。
 彼岸に入り、昨日はお寺に来られる方が多くありました。私は水戸に用事があって留守にしましたが、帰宅すると直ぐに電話が入りました。「住職よ。いつ頃来てくれる?」という電話。あっ またしても。急ぎ衣に着替え自宅に向かいました。新たな仏壇の開眼、真言宗の仏壇は真ん中に大日如来をおさめ、両脇に弘法大師と不動明王を飾る。
 簡単にその説明をしてお暇する時にご夫妻で庭まで出て見送ってくれた。
 ギッシリ仏壇の中に位牌が並べてあり、この家の様子が直ぐに判った。息子さんのお嫁さんが同席していた。
 親から自分そして息子へ。この時間の流れ、だが、これが現実には難しい。後を継ぐ者がいなくなった家も増えている。
 これは安心ということより、”諦観”のほうかも知れない。真理を明らかにすること。そして、仕様が無いと思うのだ。
 それ以外に方法が浮かばない。
  先日、ある宴会があって、私のテーブルでは老後どうするかという話になった。どこか介護施設にでも入れて貰えばそれで私は良いと言う方がいた。でも、その方は年老いた自分の母親を北海道の介護施設から自分の家の近くのGHに戻したという。
 以前お世話になっていた施設は素晴らしく環境の良い所だったそうだが、遠方だった理由で自分が住んでいる近くに移ってもらったとのこと。そこで母親が一番変わったのは、活き活きとしてきたということだったそうだ。娘の近くに来れた安心かもねと話していた。
 訪問介護や医療が今後増えることだろう。病室で息を引き取るより、家族のいるところでと考えるのは当然だ。
 これが安心と結び付くかどうかは判らない。
 遺された者にとっての安心はまた違う。それは、先に逝ってしまった方への想いだ。大丈夫!安心して見守っていてくれ!
 この気持ちが私は一番だと思う。
  ”死”をもって全てが終わりという考えは、日本人に合わない。無理してそう仕向けている。
 いずれ自分も其方に行く訳だ。これも仏教で言う”諦観”の一つなのです。
 

2397:居場所

ある会合が有楽町であり、久しぶりに貿易センタービルにある本屋を覗いた。地方とは比べようが無い本の数、正直目移りしてしまう。2日前ネットで注文した本「ブータンと幸福論」本林靖久著はまだ届かない。早めに会場に来てしまったので時間つぶしで書店内をブラブラ、いつの間に手に取っていたのが「不幸な国の幸福論」加賀乙彦著だった、購入した。720円。
 ご存知のように加賀氏は精神科の医師だ。日本が病んでいる、それは何故なんだ?昭和40年代より吹聴される幸福社会は、脆くも崩れさろうとしている。経済最優先で奪われた「安心」と「つながり」:1/2がイライラしている:先進6カ国合計より多い公共事業費:国民一人あたり850万円の借金大国・・・・・
 死を思うことは、よく生きること・・・・・これら小タイトルが今の私にピッタリする。
 別に意識して求めた訳ではない。この2冊の中で言わんとする事は多分、感じ取ることができる2極座標の原点であると思った。
 何の疑いも無く幸福だと思っている人は周りを気にする必要はない。
 国の有識者会議で報告された南海トラフ巨大地震の経済損失が220兆円というニュースが飛び込んだ。相模湾〜高知沖まで続く南海活断層、これは2年前の東日本大地震の比にならない大きな被害を想定している。
 あくまでも推定の域は出ないといっても、そこに住む人達にとって内心穏やかで無い。
 震災後、何か変化がありましたか?ということが良く言われる。
 身近に被害が無かった人からすれば、時間と共に記憶が薄れる。昨日の会議で福島県の方が支援のお礼を兼ねてある調査の報告をした。
 それは、福祉現場での虐待実態調査、貴方の身近に虐待がありますか?という質問に2名の方が日常的に見受けると答えたという。全体の回答者数から見れば1%に満たない少数回答だが、その方はこの期に及んでまだゼロにならない現実を嘆いた。福島では2年経った現在も入所施設そのものが群馬県に避難している。
 放射能汚染と津波、現実に起こってしまった東北、我が茨城も震災の復興で今後どの位かかるか予定が経っていない。
 そのような中で今、議論されている事がどうなのか?
 6時半までに園に戻らなければならず、急いで会議場を後にした。
 上野で列車ダイヤの遅れを知った。強風によるものだった。

 *業界内部で議論されることが、果たして一般社会から真に受け入れられることなのか、実は既に明確な答えは出ている。

2398:一服感

園内に咲いた”しだれ桜”。神宮寺の本堂から携帯で撮ったものです。
 私は朝、本堂で経を読む。今日の無事を無意識に祈っている。今年の冬の寒さは例年になく厳しいものだった。立つ位置は、50年前と変わらない。でも大きく変わった。
 現実に起こる事に目を逸らす事はできない。関わる人間が増えればそれだけ想定外の事が起こる。正直な現在の心中は、逃げ出したくなることの方が多いかも知れぬ。
 しだれ桜は福島の三春より苗木を取り寄せ植えた。その根元に小さなお地蔵さんの石像がある。これもずっと変わっていない。
 桜の花をフィルターにして学園を見た時に素直な自分を感じる。桜の花を傘にした地蔵をみると微笑んでいるように見える。
 仏教の世界説では、本堂は須弥山となり、仏座、多くの仏たちが住む世界、そこから望む世界が此岸、つまり、生死を繰り返す迷いの世界。
 輪廻転生・流転輪廻、どちらも同じ意味だが、何故こうなるかと言えば、無明の惑いによると言う。無明(むみょう)って何さ?一切の迷妄・煩悩の根源。
 さて、これが実に厄介で、何せ「百八煩悩」とか「八万四千の煩悩」と言ってその数は半端じゃない。一般の人ならば、ここでギブアップ、白旗をあげる。
 今の日本の寺院に仏教は存在しないと喝破した某弁護士、・・・・。
 福祉とて同じかも知れぬ。所詮は煩悩多き人間の為せる業、ホンネとタテマエを上手く使い分け、自分の取り分はしっかり確保する。そして、言う事は”世の為、人の為”。
 福祉だってこの国の縮図でしかなく、園子温監督が『希望の国』で言わんとした事は、現実をパラドックスで映像表現しようとしたのだろうか? 
 ある友人とその事を語った。彼はメールでこう綴った。
・・・・主人公が、牛を殺し、妻を殺し、自殺し、家を燃やしたことです。
    「生きていれば、何とかなる」「愛があれば、大丈夫」というメッセージではなかったことがとても、残念でした。・・・・
 ・・・・死ぬことと、生きることどっちが大変なんだ・・・・と。

 釈尊入滅後の無仏の世界に登場する地蔵菩薩、・・・・その姿に私はホッとするのだ。質朴な姿で野に立つ菩薩、宝石を身に付け派手に着飾った姿ではない。宝珠と錫杖を持つだけ。
 日本人がもし迷い中でモガイテいるとすれば、それは、余りにも多くのモノを身に付けし過ぎて、その重さに自らが耐えられないからかもしれませんよ。
 失敗・・・良いんじゃないの。挫折・・・・恥ずかしくないよね。 その逆を生きる人など見つからないものね。

 

2399:イノベーション

日本の電気産業で世界的に知名度が高い東芝・パナソニック・日立・シャープ・・・、私は株はやらないが、最近の株価の上昇で東芝が他の企業を大きく引き離していると言う。
 なんでも業績に対して市場が反応している結果なそうだ。イノーベーションのジレンマという指摘、これは自社ブランドの製品の革新にばかり夢中になって、いつの間に新興の企業にお株を取られ衰退することを言うらしい。市場が何を求めているかに疎くなった末路だとか、新しい技術の発明をイノベーションというのではないこと位は判っているつもりだ。新しい発想が社会的に意義のある新たな価値を創造、そして自発的に人・組織・社会が大きく変化することを言う。
 知ったか振りは止めとこう。一般に言う処の福祉の世界がどうか?の福祉は狭義の福祉。障害福祉とか老人福祉の類だ。
 正村教授が10年以上前にどこかで講演した事を思い出す。福祉国家から福祉社会へを語った。何も社会的弱者の救済だけが福祉ではない。むしろ、大きな意味で社会全般の「安心」「幸せ」が今問われているのだ。
 共生社会や共同体に使われる”共”という字、使いようでは”共食い”となる。日本の至る所でそれを見かける。先ず目に付くのは、コンビニだ。幹線道路には数百メートル範囲内に幾つかの店が並ぶ。
 それから、美容室や歯科もそうだ。弱肉強食。本来は競争があってより良いサービスの向上が望めると考えた。 実態はそうなっていない。最早、サドンデス状態。質と量のアンバランスがそうさせている。
 これは民間レベルの話、公的な機関は、その意味では全く競争の原理が働かない。業務の一部を民間に委託はするが、肝心な権限は離さない。
 それと止めるべきか続けるべきかの仕分けができない。相も変わらず前年踏襲の業務に汗をかく。
 イノベーションという考え方は、公的機関ほど取り入れるべきなのだろう。ただ、残念なことに内部から革新のアイデアは出ない。それは配置転換が早く、本腰を入れる暇が無いからだ。社会福祉法人も同じ問題を孕む。人材の確保一つとってみても、求人票を出し待ちの構えでは、良き人材は集まらない。先日、某団体の役員会の席で有る方が語った。理学療法士が必要ならば法人が自ら育成しなければ無理だという。そこでは法人が独自に学費を援助し、資格を取らせていると。
 病院などでは、昔から行われている。それだって思うように行っていないがやらないよりマシだ。
 結局、日本全体のイノベーションは、どうしようも無くなるまで変わらないのかもしれない。このことが原理原則が無いと言われる所以である。それへの反発さえ無いとなれば、末路は決まったも同然だ。
 ・・・はかなかりける希望なるべし・・・・(発心集)
  

2400:従流志不変

「従流志不変」(流れに従うも志は変えず)。この言葉を社会福祉法人の努力目標に掲げている所がありました。
 なんでもサンヨー電気の取締役の井植氏が父親を亡くし事業に行き詰まった時に相談した臨済宗の高徳から聞かされた話という。
 多分、その出所は何かあるのだと思うのだが、ここではそこまでは調べない。悪しからず。
 それより、私自身は正直それを見た時に唖然とした。素直でない自分を感じたというのかも知れぬ。言葉の解釈は微妙だ。
流れに掉さすという言葉の本来の意味は、時流に乗るということだった。それが、いつの間に時流に逆らうという意に用いられてしまった。
 斯様に日本語の解釈は厄介である。字義の解説書を見ていると飽きない。それは確定的でないという意味である。
 昔々、私はフランス語の辞書と格闘した事があった。どこでどう間違ったか、仏文科に籍を置く羽目になったから、さあー困った。どこから手を出して良いのかサッパリ判らない。卒論にバルザックの「人間喜劇」を選んだ。これだって膨大な量の作品群、そこで茫然自失を味わった。なんでそれを選んだかは、単純明快、自分自身が「人間喜劇」だと思ったからである。
 何をどう纏めたかは全く記憶なし。口頭試問で担当教授に只管お願いした事だけが記憶に残る。
 まさに、”喜劇”を演じたわけである。
 さて、表題の”志”への疑問である。原理原則とまではいかないのかも知れぬが、言葉が非情に軽くなったと思っている。
 それに本来の意味を自分の良いように作り変えているのが目立つ。マニフェストでもアジェンダでも何でも構わない。それを聞いた者が本当に信じているかどうかのほうが重要である。
 幸か不幸か、それをチェックする方法が無いときた。
 福祉国家⇒福祉社会、先の正村氏の説によれば、福祉国家という成功事例は無いという。何故か?資源を使い果たし、環境を破壊し、膨大な借金を次の世代に負わせ、それでいて今が良ければ”幸せ”かという指摘だ。
 日本が今、何を目指そうとしているか残念だが巷に溢れる情報からは想像できない。GDPで世界第3位の地位に至った日本が今更何を求めるか!”豊かさ”か?
 それよりも良く考えなければなるまい。近現代的な”志”の闇の部分、それはほんの一部の人達の繁栄の陰で多くの人達が流す涙の量、自死者の数を上げるまでもない。この対策に本気に取り組もうとする意気込みを感じない。
 豊かさの裏でドンドン積み上がる負の遺産(原子力・借金・環境破壊など)、この問題を棚上げし、「従流志不変」もへったくれも無いだろう。日本全体が観客の無い「人間喜劇」ロングランの役者を演じている。
 

2401:原点回帰

久しぶりに映画を観る。相棒シリーズの『X-Day』というもの。映画館の大画面で観るのはテレビ画面とは偉く迫力が違い、臨場感を味わえる。
 内容はサイバー攻撃による金融の大混乱を狙ったもの、お隣の韓国や米国で現実的に起こっていることだから、他人事ではすまされない。カード社会になって現金を使わずとも欲しい物が簡単に手に入る便利な世の中、しかし、このシステムが一端壊れれば、際限の無い大混乱は必至、普段、残高など確認などしないから気が付いた時には後の祭り。
 安倍政権になって最優先の政策課題が財政再建でインフレターゲットなるものを設け、日銀幹部もその類の人を登用した。短期間に市場が反応し、株価上昇や円安になっている。多量の国債を発行し金をダブつかせ、投資意欲を高め、デフレからインフレに舵切りをという考えだ。
 ここで一番危惧されるのは、物価の上昇に合うだけの個人の収入が増えるかという問題。ここでもまた勝ち組と負け組の2極化が今まで以上に進まないかということ。
 聞くところによれば、緊急性のある介護問題、豪華な設備を売れ込む為に初期投資が嵩む、国はホテルコストなる利用料を認めた。結果どうなっているか、払える人が利用でき、そうでない人は常に入所待機ということが起こっている。これまた、ある処からの情報だが、3割近くの介護事業所が赤字という。そして、またもや4人部屋の必要性が起こっているとも。このバランスの悪さは、一貫性の無い国の政策に起因する。そのように私にはどうしても思えるのだ。
 これを悪用するモラル無き人達と福祉の公平性を必死に守ろうとする人との鬩ぎ合いが起こっている。
 国は事業種別を細分化することで説明責任を果たそうとする。優秀な人達の考える事は一見すると合理的で効果があると思える・・・・・・が。
 ただ、これは財源が無くなれば一溜まりもなく崩壊する。そして、社会的連帯が薄れた今、金でサービスを買う仕組みからは根本の解決策は見出せない。
 大きな政府or小さな政府を議論した時代があった。公助の枠を広げるか否か、正直言って今に至るまで中途半端、何れの方法を取ったとしても当時からいずれ持ちこたえることが出来なくなることは容易に予測できた。その折衷案として”共助”を付けたわけだが実態は言うまでもなく、絆や連帯感の欠如というどうしようもない問題に直面している。
 果たして、安倍政権が”誰しもが安心して生活できる国”に一歩でも近づくことができるのだろうか?
 私はどうしても否定的にみてしまう。
 沖縄の米軍基地の問題、隣国との領土問題、TPPへの参加という新たな外交課題にどう対処するか。
 一時の株価の上昇に浮かれている場合で無い事だけは国民の誰しもが判っている。

2402:仏作って魂入れず

苦労してやっと出来あがったと思いきや肝要な一事を欠くこと。・・・仏作って魂入れず・・・
 これをどう貴方は思いますか?
 99%出来たのだからOKだよ。後は次の人達に任せりゃー良いじゃないか!それだけのことよ。確かにこれも一理はあります。でも、これが連続し、何度も上塗りされた状況を考えてみませんか?春先の表層雪崩のような現象を考えてしまいます。
 あと4日経てば平成25年度、障害者総合支援法がスタートします。実は期待感以上に様々な問題が指摘されていることも関係者ならばご存知だと思います。
 この法律の元々の名称は『障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律』と長いんですね。でも、その前段があるんですよ。つまり、「地域社会における共生の実現に向けて新たな障害保健福祉施策を講ずるための関係法律の整備に関する法律(平成24年法律第51号)」これが24年6月20日に可決成立したので今が有る。
 その辺の事は私はどうでも良いのです。”魂”が有れば、名称なんてどうだって構わない。
 それに関わった人達の御苦労を思えば、あまり無責任なことは言えませんが、果たして検討委員の皆さんが充分納得されたものになっているのでしょうか?今後、見直しをされたり、実際にスタートさせるのが1年後という経過措置もありますね。
 ”共生の実現”一つ取り上げても、これって人類的な根源課題であることは誰だって判ることです。殊、障害福祉にだけ限った問題ではない。
 日本は様々な法律・制度が絡みあっていますから、一つの法律を新たに作るには関係する法律の改正を含め、膨大な時間と労力が必要になるのでしょう。
 いつの間にか、一体何の為の法律だったのかが分からなくなるような事も起こり得ますよね。
 いみじくも糸賀先生が言い得たこれこそが「社会の構造的な矛盾」なのでしょう。爾来、何十年が経ったのでありましょうか?
 ”仏作って魂入れず”って言う事なんですが、私は僧侶ですから、仏壇を新しくしたので、入魂をして貰いたいという要請があります。そんな時いつも思う事はその家にとって仏壇がどんな意味があるのだろうかという事なんです。
 家族が少なくなっていますから、3世代が同じ屋根の下で生活するという家は大分少なくなっているはず、昔良く言われたのは親が仏壇の前で手を合わせる姿を子や孫がどこからか見ていて、後後、その親の想いを理解するというものでした。
 昨日、お客さんが3人来られ、その中の一人が「般若心経」を唱えられると紹介された。同行してきた上司が「プロの前で唱えてみろ」とか言って大笑い、実はその方自身も両親の戒名を覚えていて毎朝、仏壇の前で手を合わせてから出勤していると話された。
 肝要な一事って、多分そんな日常的な些細な(?)事なんだと思う。

2403:万事段段

朝の通勤時間帯で道路が混んでいた。信号で止まっていると私の前に左側から大型トラックが入りたそうにウインカーを点滅している。良く見るとドライバーは若い女性、即、笑顔でどうぞと合図した。すると、ニッコリ頭を下げて私の前に入った。
 トラック荷台の後ろに「万事段段」と書かれていた。長距離大型トラックを颯爽と運転するうら若い女性と万事段段という文字が気になった。本日水戸への出張の往路での話。
 万事段段という4字熟語があるのを初めて知った、万事が順をおってすすむとでも言う意味なのだろうか?
 そして、水戸での会議、4月1日からスタートする「障害者総合支援法」の事が話題になった。内閣府での制度改革推進会議の茨城版(?)とでも言える県の障害者プランを検討する集まりである。
 障害者総合支援法へ手厳しい意見が委員から出された。「自立支援法と殆ど変わらない内容で期待するものは何も無い」と。こう言われてしまえば事務局の立場は無くなる。いつもなら事務局提案にそれ程の意見が無かった集まりだが、今日は雲行きが明らかに違う。
 確かに4月1日からスタートするのに、準備整わずは否めない。目ぼしい新規の事業開始が1年遅れだったり、法そのものを3年後に見直すといった条件付き、ここでも国の自信の無さを感じてしまう。実は関係者からこんな話を聞いたことがある、当事者が構成メンバーの半数近くいて、それぞれの言い分を出し合ったから、”総花的(総合的?)な条文”にならざるを得なかったという。もし、法の中身を全てを4月から実施するとなれば、財源の裏付けが障害となって法そのものが機能しなくなると考えた。
 障害者総合支援法とは具体的に何をどうしたいのかと誰に伺ってもハッキリとした答えが返ってこない一番の理由がここにある。あてこすりで「財源が障害となる法律」とでも名称を変えれば納得できるかもしれない。
 今回の新法で難病が対象に入った。これで多くの難病に苦しむ人達が希望を持ったに違いない。だが、それ自体も実は様々な課題が未解決、対象となる難病の数だけでも130疾患あるというから、認定するだけでも膨大な事務量になるはず。
 当然、それにかかる医療費の試算はされているだろうが、公表はされていない。
 それと、もう一つ気になることがある。
 障害者虐待防止法、この法律の狙いは、養護者(家族)、事業所(施設)、就労先(会社)この3つを特定したもの、教育(学校)、医療(病院)に対してはそれぞれの事業所内での処理に任された。
 ここに私は矛盾を感じる。今更言いたくもないが、校内のイジメや暴力教師問題に関しては対象外なんですね。
 現実には障害者だけに限っても特別支援学校に通う子供たちがショートステイや放課後我々施設を利用しているんですね。これってどう説明します?
 立て割り行政の歪、縄張り争い、・・・・・・万事段段、ウーム、妙案は浮かばない。困ったものである。

2404:年度末

例年のことだが、3月末は特別で年度切り替えでドタバタ騒ぎ、急に道路工事が目だったり、人事異動やらなんやらと落ち着かない。それと、年度最後の役員会などこの時期に集中するから大変だ。
 尚恵学園でも4月採用者の研修を2日間に渡って行う。今回は13名と多くなったから、いつもとは様相が違う。
 皆さん、不安と期待で研修に参加、細かな内容の説明等もあってお気の毒にと思うが、最低限事前に知らせておくべき内容である。
 私の担当は尚恵学園の歴史、何か目新しい資料でもないかと本棚を探していたら、昭和35年の某新聞の記事が切り抜きで閉まってあった。それは初代理事長の事だった。写真もあって、理事長に頭をなでられ笑顔で写っていた人は今もGHにいるYさんだ。なんと52年前の話である。
 紹介されていた記事の内容を読んでみて、今とは雲泥の差、当時は何をやるにしても大変な時代だったことが分かる。
 それでも、利用者さんや職員の方達がとても良い表情で写っており、それは作って出来る事では無いから感心するばかり。
 当時は、知的に障害が有る人達の受け入れる場所は少なかった。勿論、要望はあったと思う。でも、やる人がいなかった。そんな時代である。
 それが50年という年月で大きく様変わり、事業所の正確な数さえ分からない程多くなった。事業開始が簡単にできるようになった事が一番の理由、それと景気に左右されないというメリットもあるのだろう。
 昔の人達にはきっと叱られるはずだが、事業所側で利用者を選ぶ時代、何をか謂わんやである。
 そして、こんな事をやっています。これだけ収入を得ていますと自己PRに熱心だ。

 この前の審議会での話、精神科の医師が施設での工賃倍増の事でこんな意見を述べた。
 「私はその事業の中身を良く知らないが、あまり数字のことばかり強調すると障害者にとってはストレスになって逆効果にならないのかな・・・?」作業療法とか遊戯療法という視点からは問題になって当然。
 この意見はある意味では正しい。否、その通り。
 我が茨城県は月平均の工賃支給額が全国平均に届かない。せめて平均まで伸ばしたいということで関係者が苦労してきた。
 私が言うのもどうかと思うが、平均に届くまでに精々月額で数千円増やせばOKなのですがね。多分、調査の方法を少し変えれば平均支給額は簡単に上がるはず。
 だって障害者の工賃は月額で、一人2万円に達していないのです。そのレベルの話が今全国の関係者の関心事、可笑しいと思いませんか?私が言うのも変だけど。
 この発想では、私は根本的にこの国の制度は変わらないと思っている。だってそうじゃないですか?違憲だとの判決が下り急に騒ぎ出したゼロ増5減とかいう話だけれど、あの人達が一体どれだけ給料を貰っているか知ってます?
 先進国でなんとトップなそうですね、彼らの1日の給料を我慢して貰えば、障害者への上乗せができ、全国の平均値が簡単に上がります。 その人達がああだこうだと高額な給与を貰って時間をかけ決めた制度! なんだかオカシイね。
 年度末の雑感でした。来年も新たな切り口で臨みますので。
 

2405:年度始め

さー25年度も今日からスタートだ!やる気満々、気力充実、体調万全・・・・・・あと何があるかな?
 人間は所詮、いい加減だなーと思うのは、心機一転とか言うが、そんなのは自分の気の持ち様でしかないのであります。
何も年度が変わるとか新年をむかえるとかで、簡単に変わる訳がない。本気で生きてきたかなんて事は自分しか分からない、その積み重ねが結局は生きたという証になるんじゃーありませぬか!
 今日、新年度恒例の職員勢揃いの中で新採用者への辞令の伝達を行う。その後、新たに我々の仲間入りした者への話をすることになっている。1時間が私の持ち時間、既に2日間ミッチリ研修を受けた連中だ。恐らく消化不良気味ではなかろうか。
 世の中は、去る者がいて来る者がいる。失ったものがあって得たものがある。それを自分はそうじゃないと勘違いしている者が結構いる。
 昔の方が良く言った。”損して元取れ”って事は、倍返しではない。丁度いい塩梅というもの。
この基準が薄れ、何が起こったか?実は、突き詰めると「人間不信」に行きつく。アイツは上手い事やってずるい。信用できない奴って事になる。
 振り返って思う事、それは、”福祉”という言葉が軽くなっているという実感だ。
 あくまでもこれは私感である。その理由の一つが、本当に必要な人に手が届かないという実態。最大のものは、福祉を金で買うという制度、この結果、どんどん格差が広がっている。(応分の負担ならば良し)
 世界中で今起こっている紛争は、この格差が限界を超えた場所で起こっている。腐敗・汚職・権力の集中・・・・これに政治や官僚、それに宗教が複雑に絡み合う構造が原因だと思っている。
 ユートピアってあるのかな?何せ”理想”絵が描けず、希望や夢を持ちえない人が沢山いるわけです。
 こんな事を考え始めると際限がなくなる。でしょう?
 だからですね。常に私が心がけている事、それは原点回帰なんですよ。内省といえば、暗くなるので、必ず何かあるはずだという僅かな期待感を持ちながらという事です。
 そうすれば、敢えて福祉とは?なんて思い煩うことがなくなると思っている。
 今年で63歳を迎える。その間、ずっと私は”福祉”という名前をぶら下げて生きてきた。もうこの辺で、その看板を下ろしたいという気持ちと否 違う! お前は改名でもしなければ無理だねという自分自身が同居する。
 まっ 仕様が無いか、いずれ改名(戒名)が付くんだから。
 *実は僧籍を持つ者は、僧名が戒名と決まっている。 こうなると最早、打つ手が無い。向こうに行った時に親父とお袋に問いただそうと思っている。

2406:個の尊厳

新年度早々に坊さんの話が続く、悪しからず。2日続けての悔み、お一人は大正一ケタ生まれ、優に90歳を超えている。もう一人は40歳になったばかりのお母さん。
 先の大戦でフィリピンに従軍し、その後、中国で敗戦を迎えた。とても信仰心が強い方だったと孫が振り返る。その時、直ぐに浮かんだのは多くの戦友の死を見てきただけに自然と手を合わせる生き方になったんだと思った。
 もう一人の女性、通夜の席で私は遺族に何と言って良いのか正直言葉が見つからなかった。僧侶らしく相手を癒す言葉が出ないのにもどかしくなる。私の能力の限界だ。
 年老いた両親が娘の葬儀を出すことを悔んだ。今年、中学校に進んだ1人っ子の孫も同席。
 ・・・・・「寿命なんですかね・・・・がんばります」と孫を見ながら発した祖母の独言が聞こえた。
 尊厳死が言われ始めたのはいつ頃だったか、各地にホスピスが随分とできている。でも、日本の状況は大分違う。
宗教が入る隙が無い。大分昔、イギリスの病院で研修した時に、病院の中に牧師の常駐する部屋があった。
なんと40年も昔の話。日本人の精神文化の中に死を忌み嫌うということがある。でも、高齢化が猛スピードで進んで行くなかで単に慣習化された儀式が残ったと思う。
 基本的人権とか個の尊厳、何も目新しい言葉ではない。だが、やたら目立つ世の中になったと思いませんか?
 その一番の理由がモノをハッキリ言うようになったからではないだろうか。これは権利と義務に深く関わる問題なのだが、大きな国の容にまでは至らない。中途半端。
 この状況を過度期の混乱だと片付けようとする連中もいる。政治や行政に関する分野で良く耳にする。ハッキリ言って何も根拠の無い問題の先送りだ。過度期の意味は新旧の移り変わりの途中という事だ。
 新旧の実態を説明する事もなく、財源の問題だと議論を閉ざす。結果、1千兆円にならんとする天文学的借金を積み上げる。
 基本的人権も個の尊厳もあったもんじゃーない。全てが机上の空論ではないのか。国破れて山河ありなど感慨の言葉は望めない。
 ダメなら政権を交代すれば良い。政治家自身のホンネがそこにあるのだから打つ手なし。所詮、他人事の域は出ない。
  
 朝から雨交じりの荒れ模様の天気、納骨まで今日するかどうか迷っていた遺族に聞かれ、少し家に置いてあげたら良いよと四十九日に納骨するのを延ばした。
  

2407:自問自答

今更、何でしょうね?と言われるだろうが、”自問自答”の連続が生き様ってことかな。
 皆さんも 思い当る節があるでしょう。まさにこれが般若心経で謂わんとする「空観」で何となく判ったような気になる。物事全てが”因縁”よって成り立っていると説く。実体が有るかといえば、有るとも無いとも言えましょうという。
 何言っているのか判らないって事になり易い。それを譬えで説明するともしかするとそうかもという思いに至る。
 良く使われる例・・・・・ここに庵があるとする。これは草木を集めて作られる。その草木の元は種となり、種だけでは草木にならず、土や空気や水によって種から芽を出し草になる。これすなわち因縁だ。
 こう考えると”庵”そのものが有るようで無いと観じる。「十二因縁・四聖諦参考」
 これだって実は説明するほうが訳が分からなくなる。判ったような判らないような・・・・・これがまさに「空」なのだから仕様が無い。
 目に見えるものがこれだもの、”こころ”の問題になれば見えない世界だから尚更です。最近、可視化・・・云々との言葉が目立つ、本当に出来るんですかね。
 結局、自問自答しながら、ああでもないこうでもないと心を動かすだけですよ。
 私が気になっている事、実は、これとは違うのだ。仏教で言えば、釈尊の教えを弟子が後で書き残したものを経典として語り継ぐ、その重要な役目が僧侶、でも実はここが問題。日本の仏教だけをみても何故これほどまでに宗派が多いのだろう。
 般若心経を唱えない宗派も実はある。自宗で根本の経典があるからだという説明だ。その辺のことになると簡単に解決をみない。
 だが、他の宗教だって全く同じでしょう、一神教と言われる宗教だって枝分かれが凄い。
 そう考えていた時にブータンのGNHという話を聞いた。国民総幸福(GNH)という発想がいかにして生まれたのか?
 ちょっと調べただけでもブータンに関する書籍が相当出ている。何冊か取り寄せ読んでみたが、良く判らない。
 それならばという事で知り合いの坊さんに話をしたら、同じことを考えていたことが分かり計画してもらって、5月下旬に1週間ほどであるが行ける事になった。
 ブータンでさえ歴史を辿ると、様々な宗派が林立、時の権力者を巻き込んだ争いの時代があった。
 トキと電気の話ではないが、徐々にブータンにも文明の利器や民主的なルールが入っていると聞く。そこで直にブータンの子供達に接してみたくなった。
 西欧と肩を並べるまでに至った(?)日本が直面する問題を現代病とか文明病とかどこか他国の事のように評論する人達。
  アベノミックスと囃し立て、またもや道標の無い道を直走る。株価が上がり円安になる事が窮極の目的なのか?
 多分、ブータンの人々にその事をどう思うか聞いたとしたら、迷い無く答えるだろうと思う。
 「幸福ってそんな事じゃ無い。」輪廻転生を信じる人にとって、デリバテブやA&Mなんて別世界、寧ろ、現世で善行を積んで来世に今より少しでも良く生まれたいという願いとは相反するからだ。
 さて、どちらが賢いと思います?世の大人達よ。

2408:合縁奇縁

人と人との巡り合わせは不思議なものですね。どこでどう知り合ったかなど関係無い。長いお付き合いが出来ること、これは双方に認め合う関係があるからだ。
 逆に立場や仕事上の付き合い、これは殆どがその時だけの期限付き、たまにはその後も付き合うこともあるのだが、それは希なケースです。
 4月のこの時期は新任の挨拶回りで大変な方もいらっしゃる。これは日本だけの習慣なのか?
 仏教的に言えば”因縁”で説明がつく。中でも十二因縁が有名で、衆生の苦の原因を順に説明したものだ。
無明〜老死までの12項、初期の仏教の教説だという。これが後の代になって、前世・現世・来世の三世の輪廻の因果関係に繋がっている。(十二縁起)
 そして吉凶の前兆で縁起が良いとか悪いとかと言われるようになった次第。最近はITブームにあやかって占いゲームまであるそうだ。
 神社仏閣に昔からあったおみくじ、その売れ行きはどうなのだろうか?
昨日、NHKテレビで障害者総合支援法の話をやっていた。何が目玉でどう変わるかという大学の先生の解説。
 実に後味が悪かった。難病へのサービスが法律の中でハッキリうたわれる。これだけ聞けば、エポックメーキング?
 でもよくよく聞いていたら、案の定、三年間の経過措置、見直し条件で条文化されたと説明。本当にできるのかどうか全く先行き不透明。最近、斯様な法律が多過ぎませんか。記憶が薄れたが三党合意した????は一体何だっけ。
 その種の最悪のケースが沖縄基地問題、知事や市長が挙って反対する中で政府の要人がどうにか了解を得ようと通っている。
 その辺の国としての一貫性の無さ、実はこの手法が今の永田町に蔓延している。気骨ある政治家が出ない。
 いつも言うようだが議員の定数削減すらできず、自分の利になることばかり念頭にあるようだ。
 国民不在がここまでくると、最早、末法の世。
 阿鼻(あび)地獄を信じるか否か、いや、阿鼻とは何かも知らない人が多過ぎる。

2409:起死回生

経済の法則はあるのだろうが、ここにきて期待と不安がゴチャ混ぜになっていませんか?株価上下に一喜一憂、その変動と取扱い量が多ければ多いほど儲かるのは、証券会社ってこと位は私にも理解できる。でも怖いね!昨日は一時期500円以上1日で株が上がった。終値では100円台に収まったようだが最近の株の乱高下の幅が尋常でない。
 市場に出回る貨幣を2倍にするって話だが、これが本当に皆にいき渡るのでしょうか。また、どこかにうず高く積み上げられるようなことにならないか!
 浮かれた話題には必ずその裏がある。紙幣をドンドン印刷すれば国の借金が嵩む。実はこの押し問答をずっと我々は聞かされ今に至った。私は不思議でならないのは、今もってNGOなる名目で海外に膨大な資金援助をやっている。これが経済大国(?)の使命だと言うのでしょう。
 それと国会審議の最中に今でも時折、笑い声が聞こえる。これは与野党関係なくである。それも原発や基地問題という深刻な課題を討議している委員会での席。この良心の麻痺症状は相当重篤である。
 多分、事務所を東京に置き、秘書を侍らせ、運転手付きの高級車を乗り回し、夜は高級店での宴会ハシゴとこの実態を無視すべきでは無いと考えている。果たしてこれを否定できる議員がどれだけいるか。行動で示しなさいよ。
 永田町界隈に夜な夜な出没する責任逃れと問題の先送り症候群の病因である。正直、手の施し様が無い。文句が有れば行動で示しなさいよ。
 この前、テレビの某番組で中国と韓国と日本のそれぞれの国の人達の言いたい放題が流された。
 中国の格差の話が出た時に、我が国は5000年(?)の歴史があり、ずっと権力者と庶民との軋轢があって今に至っているから、格差が有るのを否定はしない。ただ、十三億人を超える国民を纏めるには、それなりの強権統治が不可欠なんだと力説していた。
 その時に思った事、国内だけの問題で済んでいる時代なら良いでしょう、だが環境の破壊や軍事力を背景にした脅しやらが強まる一方ではその理屈は通じない。
 北朝鮮の動きも微妙、東アジアの将来を思うと不安な要因ばかりが目に付く。
 そこにきて、国政を預かる人達の平和ボケ、最後は米国へ泣きつくのか。 戦後もうじき70年にならんとするにも関わらず一向にこの構図が変わらない。
 そして次世代に何を伝え遺して行くかという明確なメッセージが出せない。これは今を生きる我々の責任だ。
 起死回生・・・・何かないのか。憂いてばかりはいられない。
 

2410:緊張・弛緩

日本全土に暴風警報が出るという台風並みに発達した低気圧が予報通りに各地に被害をもたらし過ぎ去った。
 突風・雨・雷と瞬時に変わる天候に為すすべもなく過ごす。それも家族を見送る成田飛行場で目の前で着陸を諦めた飛行機が再度上昇していく場面を何度も見た。出発と着陸が同じ滑走路を使っているから離陸を待つ飛行機が10機以上並んだ。
 私は見送る立場だが今から出国する人達は内心穏やかではないはずだ。どことなく緊張感が周りに覆う。
 パイロットはあらゆる事態を想定した訓練は行っているのだろうが、凄い緊張感だろう。
 緊張と弛緩は、人間の感情の状態を言う。一方にばかり偏した状況は消耗が激しく長続きしない。上手くバランスが取れる人は良いが苦手なタイプは必ずいるものだ。
 職業を選ぶ際にとっても大事な事なのだが、果たして緊張の伴わない職業などあるのだろうか?
 近年よく言われる事に職業人としての基本的モラルの欠如がある。周りでちょっと注意しただけで辞めてしまうなど、首を傾げてしまう例が結構ある。
 職場での互いの信頼関係はどうやって築かれるのだろうね。どうもこの辺のことが脆弱になったように感じる。言いたい事も言えない上司、先輩から教えをこう気持ちを失った後輩。それでいて立派な目標だけは掲げている。
 これでは自ずと職場の雰囲気は悪くなる。
 これは、多分の日本のあらゆる職場に見られる傾向ではないかな?それと”弛緩”を上手く絡める方法が下手になっている。 気の合った人との飲み会はあっても職場全体で行う機会は減ったと思う。畳の大部屋で枕を並べ夜遅くまで酒を飲みながら話すなんて姿は皆無(?)、仕事時間の会議がその分多くなり、何を優先するかが分からない。
 それと、提案はするが最後まで責任を持って事にあたるタイプの人間が減った。
 確信できることだが、飛行機のパイロットは乗客の生命を預かっている。些細なミスでも大きな事故に繋がる場合もある。
 一方緊張感が無い職場も有る。責任のなすり合いとか知らぬ振りが許される。
 このギャップは相当大きい。それに、最も重要な事だが、今の仕事を喜んでやっているか否か?
 他に仕事が見つからないからという理由では、何をしても適度の緊張・弛緩は味わえない。
  これも、言い方を変えると責任と義務の話に通じる。対比すると自分を省みやすくなるというのも本当だわな。