源究NO14

(NO171〜 180 )

171 謹賀新年 1/1 176 感染症 2/11
172 約束守ったね 1/4 177 県の制度への不満 2/13
173 ああ・・シンド 1/22 178 もういいよといわれるまで 2/20
174 入所待機 1/28 179 便利&不便 2/23
175 おくる 2/6 180 何を支えとして生きるか 2/27

170:謹賀新年2005今年もよろしく

2005年明けましておめでとうございます。今年はどのような年になるのでしょうか?昨年は自然災害に世界中が見舞われ多くの人々の尊い生命が失われました。また一方では、イラク戦争という人為的な争いが相反する利害の絡みの中で解決の糸口が見えてこないのです。様々な人々がこの地球上に生きています。この豊な地球を一部の国の利害によって失ってはならないのです。地球の温暖化は環境破壊という人間が便利さを求めた代償として今大きな問題になっているのです。昨年の自然災害は少なからずその影響が出たものと思います。一人の力は大きな流れを変えるに充分とは言えません。しかし、ただ何もせずに見ていることだけで果たして良いのでしょうか?
 日本は先の大戦によって全てを失い、そこから這い上がって25年の後に大阪において万博を開催し、世界中に日本人の底力を見せ付けました。昨年、私は大阪の千里万博公園に行くことがありましたが、今は太陽の塔が当時の面影を残すのみで自然豊な跡地は大阪の人々の憩いの場になっていました。その後,つくばでの科学博覧会が開催され、今年の秋には、つくばエキスプレスが通じます。秋葉原からつくばまで45分という便利な街になります。
 私は知的障害者の福祉がどのようになればよいのかといつも考えています。昨年10月にグランドデザインというものが国から示されました。ここに至るまで関係者の方々の大きな努力があったものと思います。その中でうたわれていることは利用する側に立った制度の見直しです。従来はサービス提供者側からのシステムでした。年末にスウエーデンで活躍されている大滝さん(EKO代表)とご一緒する機会がありました。スウエーデンと日本を比べてのお話として・・・・・福祉制度を考える時に今一番必要なことは日本の文化に根ざした福祉の仕組みであり、外国を真似した制度は日本の風土に適合しないという。だから全てが中途半端になっている・・・・・ということでした。昔は地域で支えあう仕組みがありました。今それが跡形もなく無くなってしまったのです。
 日本人の福祉を税金で賄うのか、あるいはアメリカ的な考え方にたって、保険制度によって対応するのか、どうも良いとこだけを取り入れる従来の方法論は無理だということが分かってきました。つまりそこで言われた意味は、国民がどちらを自らの意思で選択するか!これにつきるという話でした。国民が自ら選んだ政治家によって決められたことに選んだ者の責任があるということです。投票率が低いことは選挙権があっても行使しない日本人が余りにも多いということです。私は尚恵学園の殆どの利用者に選挙に行ってもらいます。多分白紙で投票するでしょうから無効票になるのが多いと思うのですが投票率にはカウントされています。選ぶに値する政治家がいないという意見は日本人の国民レベルの低さを認めたことになりますよね。政治を託す人間を選挙民が育てることだと私は思っています。
また教育にしてもそうです。戦後の教育制度の中で日本人が大切に守ってきたことを簡単に諦めて放棄してしまった。これはとてつもなく大きな損失ですよ。若い教員が何を子供たちに教えるというのでしょうか?皆、自信がもてないのです。だから人間教育ではなくマニュアル教育になってしまったのです。
 2005年も同様の自然災害が各地で起こるような気がしてなりません。本当に一人一人が考えを直さなければ12月に起こったインドネシアでの津波による大災害が起こります。
 タイのプーケットは日本人が多く訪れるリゾートでした。格安で比較的短時間でいける場所として人気があったのです。私も、以前、ペナン島やパトナビーチなどを訪れたことがありました。その時にもし同様の津波が起こっていれば同じような被害を受けていたと思います。幸か不幸か時間と共に人間は忘れてしまいます。しかし、これらのことが毎年のように繰り返されるとしたら恐怖のみが残ることになりませんか?このような状況を子供たちに残して良いはずがありません。
 新年早々夢のない話になりましたが、現実を直視し、できることから先ず始めるということで歩んでいくつもりで新年を迎えました。今年もよろしくお願いいたします。(2005:元旦)

172:約束守ったね

彼との付き合いはどうも一進一退というものです。暮れに例のNさんが大子町に行ってくるけどいいかな?と私に言う。「どうしたの?」「親のお墓まいり、大子には姉ちゃんがいるんだ」「どこに泊まるんだい?」「わかんねー」実は4人だけの忘年会(No169)での話しだった。「いいよ、でもな、一人で帰ってこいよ」「うん 分かった」今までに自分から帰ってきたのは20回以上の外出で1回だけだった。今回も無理かな。それが3日の夜、彼は一人で帰ってきたのだった。4日の朝には観音寺の庭を一人で掃除していた。約束守ってくれたんだ!うれしいよ。彼と何か心が通じたような気になった。
今年の冬休みは1寮舎を外装工事している。法人全体で約2割の30名ぐらいが全く家には帰っていない。毎日のように出番の職員が彼らにサービスをする。今年私は元日より出勤した。彼らと顔を合わせるのが辛い。いつもの変わらない風景だ。いや、徐々に増えているなー。
 今、正直2名の方が無断で外出中、これはえらいことなんですよ。施設の責任を問われたらアウトだな。理事長の首はいつも洗っている。一人はGHの方、また東京で仕事を見つけて元気でやっているらしい。偶然東京ででくわした弟さんからの情報が入った。もう一人もGHの方、求職中の身、しかし、彼には無職を全く気にする様子はない。いつもと同じだ。GH(グループホーム)の住人は黙って出て行くことをあまり問題にしていない節がある。自由を満喫したら人間不自由は受け入れがたいというもの。いちいちどこどこに行ってくるなど面倒と彼らは思っているのかもしれない。責任上我々は捜す。しかし、見つからない。この繰り返しをもう何年も続けてきた。
 出るものは止めず、来るものは拒まず。これでいいのかな?彼らの生命力を信じるよりほかないのだ。(1月4日)

このページのトップへ

173:ああ・・シンド

平成17年の幕開けは本当に波乱含みだった。現在も進行形だ。つまり、全国的な流行をみているノロウイルス感染による急性胃腸炎の発症だった。広島県での特別老人ホームでの7名の死亡が発表されて、まさか尚恵学園において同じ感染症問題が起こるとは思ってもいなかった。以前から集団感染を心配していたのだが、今回は正月気分が全くなく、全職員総動員での対応に明け暮れた。今、やっと落ち着きこの文を書く気持ちになったのである。完全終結までにはいたっていないので、今、通勤寮やグループホームの利用者が通勤する職場との調整、それにパン工房マンダラの作業の見直し等、毎日のように打ち合わせを行っている。まさにすさまじい。いずれ、今回の経過は文章にまとめて見たいと考えている。入所型の施設における感染症の対応の問題点や今後注意しなければならないことなど。
幸い、発症した方は2日から3日で快復している。保健所の指導を受け、手洗い消毒を重点的におこなってきた効果がでているのかもしれない。ノロウイルスは法定伝染病ではない。家庭で発症しても届け出る義務はなく、特に行動を規制することもない。だが、施設や学校それに保育園など集団生活の場で発症した場合には地元の保健所に届け出る必要があるのだ。今年は正月の箱根駅伝での弁当から発症例がニュースになった。私は今回、2つの基本的な対応方針を決め、全職員に徹底させた。一つは絶対に隠さないこと。2つには保健所の指導に従うこと。この2点を最初から実施している。県の規定によりインフルエンザなどと同様に集団発症(概ね10人以上)があった場合には保健予防課へ連絡、その後県庁内の記者クラブに情報を流すことになっている。そのため殆どの新聞の地方版には尚恵学園でのノロウイルス発症か!という内容の記事が掲載された。今、落ち着いてきた中で、平常日課に戻すために職場や地域への説明や理解を得るのに苦労している。マスコミの力はすごい。
 今までに保健所の方や医療機関で話す中で様々な経験ができた。周囲の人々が皆さん誠意をもって対応してくれたことに深く感謝している。残念なことにどれほど注意していても様々な感染経路から今後も同様の伝染性の病気が入るかもしれない。今、地域移行とか施設のオープン化などの流れの中にあって明日は我が身と思って折られる施設関係者が正直殆どであろう。何しろ伝染病は物凄い数あることを今回知った。我々はいつまでも業務をストップさせているわけにはいかない。家族がどうしても家でみることができない人達を24時間預かる。だから、病気に罹っても家に帰せない利用者が殆どである。眠れぬ夜をこれからもすごすのか!否、これでは体が持たない。不幸にも感染症が入ってしまった場合は、隠さず、関係機関との協力体制をとりながら対処していくことしか方法はないのだ。いずれにしても今回の対応を次に生かすべく精一杯努力したいと考えている。色々な方々より心配や励ましの電話をいただいた、心より感謝申し上げます。

174:入所待機

国は知的障害者の入所施設の整備はしないとこを発表し、その波紋が広がっている。茨城県だけでも現在福祉相談センターに入所希望で登録している方が相当数いる。入所の順番待ちということである。尚恵学園だけでも25名位の方が現在登録して待機している。一体いつになったら入れるのか。GHを5ヶ所整備して20名が地域生活している。その空いた分だけ受け入れてはいるが、一向に待機者数は減る兆しはない。そうなるとどうすればよいのだろうか?相談センターにて判定を行い、希望施設への登録指導をおこなっている。しかし、全くいつまで待てば入れるのか分からない。虚しいというよりは意味がないとさえ感じる。ショートステイやデイサービスで受けられる人数はたかが知れている。否、実は事業所側にも大きな悩みがあるのである。入所者の高齢化や重度化に伴い、医療の手立てが必要になっている方が増えている。付き添う体制が組めない人達。尚恵学園の場合は大半が一人で入院できる人ではない。家族の協力も得られない人達。一体どうすればよいのであろうか。県に尋ねても答えはない。
 知的障害者の場合は一番病院での看護が難しいと思う。だからといって病院にかけないわけにはいかない。
 困った困ったとばかり言っていられない。県でそのような場合のはっきりした受け入れの仕組みを早急に考えてもらいたい。

175:おくる

成人寮の利用者さんOさんが病院で亡くなった。55歳だった。彼は胃がんの手術を受けてから約5ヶ月入院していた。自分で食べれるようになり、退院の準備をしていた矢先に急変して4日になくなった。昨日今日と私は学園のスタッフと利用者の仲間たちと参列した。Oさんを見送る仲間たちは神妙に僧侶の読経中斎場の椅子に座っていた。焼香にはそれぞれが彼らなりの方法で手を合わせていた。彼らの背負った大きな大きな荷を誰が軽くしてくれるのだろうか?少なくとも我々は支えてであるべきである。今、福祉の現場はどうもその辺が狂ってきたと思えてならない。お金が最優先する時代になっている。このままでは良い筈がない。丁度7年前に愛知県の豊田市に息子さんの転居の関係で尚恵を退所していったOさん親子も参列していた。名古屋から土浦のホテルをとっての参列だった。7年ぶりの再会、彼は私のことを覚えていてくれた。今回亡くなったOさんとは育成会活動で一緒だったとのことだ。共通の悩みを持った人達の絆は固い。お互いに苦しいときは励ましながらやってきたからだ。いつもこのような時に浮かぶ言葉がある。自分が亡くなる前に障害の子を看取ってから自分は死にたいという言葉。また、実感した。私の寺に利用者の遺影が増えた。少なくても棺に寝かされたOさんの顔がとても穏やかに思えたのがせめてもの救いであった。

176:感染症

今年の正月明け約1ヶ月はとても長く感じた。正月休みから利用者が帰ってきた頃より嘔吐や下痢をする利用者が毎日2,3人づつ出た。いつもの胃にくる風邪だろうと通院しながら様子を見ていた。正月から広島県での特別養護老人ホームでのノロウイルスによる感染がマスコミに騒がれていた。これは7人の入所老人が亡くなったから大きな問題になった。地元土浦の老人施設でも感染症が新聞に報道された。通院先のドクターがノロウイルスかもしれないと付き添った職員に話された。即座に私は県の障害福祉課に電話をさせる。1週間で20名ぐらいの症状を示す利用者職員があったからだ。地元の保健所に相談するよう支持を受け、さっそく土浦保健所へ連絡、午後になってから担当者2名が来園、状況を調査しにきてくれた。これが13日の話、15日に殆どの新聞の地方版に尚恵学園での感染症?という内容でのった。
 全職員を集め、検査の結果は出ていないが、保健所の指導にそってノロウイルス感染を前提に対応するむねを徹底させた。15日には前から予定していた法人役員会において私から状況の報告をおこなった。手洗い:嘔吐物の処理方法を指導どおりに実施、結果は約1ヶ月終息までようした。なぜか、実は尚恵学園には30名ほどの利用者が地域の事業所に通勤している。当然食品関係の職場もある。全ての事業所に説明し相手側の判断に任せた。約半数の職場で落ち着くまで待機してほしいという話になった。それから70名近い地域の障害者への連絡も同時におこなった。デイサービスやレスパイトの受け入れのストップである。状況を説明しそれでもどうしても受けて欲しいという方だけは受け入れることとした。パン工房も作業を中止した。そして、今、やっと2月7日から平常日課に戻った。その間、職員は本当にがんばってくれた。また、父兄の協力も嬉しかった。学園が大変だからしばらく家に連れて行って見ているよ。と言ったくれた父兄が何人もいた。正月休みから帰ってきて間もないのにである。
 今、私はようやくこの一連のことを書く気持ちになった。何故書くのか!これは最初に基本的な対応で話したこと。
@隠さないこと。AひるまないことB保健所の指導に従うこと。この3点を徹底した。結果として、私は今後同様の感染症が出る可能性は否定できないと思っている。尚恵学園のように年中外部との自由な交流があるので、どこから感染するかは防ぎようがない。これは宿命だ。むしろ、自然な流れだといえる。今回、学校や保育園などでも多くのノロウイルスによる感染者がでた。2、3日静養すれば普通の生活をしてもよい。つまり、幸いなことに快復が早い病気なのである。しかし、施設という特殊な生活の場ではそうはいかない。今、地域移行を推進している。むしろ、特別な扱いを払拭する生活の場になるべきである。リスクはいつの世も同じく存在する。地域の理解は、隠したりすることで必要以上の不安をあおる。正直に現状を話し、そのうえで地域の理解を得る努力が唯一の感染症対策だと思う。24日には寺の地蔵護摩があった。50名近い近所のご婦人が参拝に来てくれた。その場で正直に今回の事を話をした。みなさん私の話にうなづいて聞いていてくれた。
 今回は様々な方々に心配をかけてしまった。暖かい励ましもたくさんの方から頂いた。一人では何もできないことも痛感した。障害者福祉はこれから多くの課題が山積、やるべきことが無限大。せめて、自分たちができる範囲での誠意のあるサービス提供者であり続けたい。

177:県の制度への不満

茨城県には障害者施策の一環として福祉相談センターというものがある。これは全国にも同様の機関があるのだが、どうもここで一つ問題がある。利用者が施設入所を選択するという仕組みは支援費制度の目玉であった。しかし、実態はどうかといえばどこの県でも利用者が選んですぐに利用できる施設などない。特に入所型の施設不足は際立っている。そもそも利用者数に比べて受け入れ施設の定員数が少ない。現在、茨城県で入所待ちの利用者が300名いるという。それを登録制にして情報を全く施設側に流さない。登録の順番で空きができたら入所させるという仕組み。それに、施設はどのような方が登録しているのか数だけはインターネットで分かるが登録しているケースの状況は全く知る術がない。これ自体ばかげている。本来の趣旨から逸脱しているのだ。このことを県の担当者特に判定業務に当たっている人が理解していない。否、真面目に自分の仕事はしているのだが、その意味を理解しようとしない。自分達の責任外のことと達観?している。このことは障害者に限ったことではないのだが、どうも知的障害者の場合、特に申請から判定そして利用というパイプが詰まっている。まったくスムーズに流れていない。それにだ、県の担当者が半分諦めているからどうしようもない。私の施設は全体で26名の入所希望の登録者がいる。一体いつまで待っていれば空きがでるのか!センターの話では入所の優先順位は配慮するという。しかし、どのような方が次の入所待ちの方か分からない。全くそのことを改善しようとしないのだ。何を一体危惧しているというのか?空きベットがないから、地域で生活をという取り組みもすすめてはいるのだが遅々としてすすまない。八方塞がりで、解決策がないというのが実態。
だからといって在宅支援のサービスが充分用意されているのかといえば全くこれがダメ。デイサービスやホームヘルパーの実績は全国でも最低。この辺をどうにかして欲しいと思う。尚恵は正直眼一杯努力していますよ。
 関係者が雁首そろえて困った、方法がないと頭を抱えている間に、悲劇がおこるかもしれない。私たちの声が小さいのかもしれない。

178:もういいよといわれるまで

先日大正大学の加藤精一先生をつくばにお呼びして講演会をおこなった。大学のときに授業で聞いた後は暫く先生の話は聞いていなかった。先生は例の如く早口で熱弁、とても内容が良かった。その時の私が共感したことを紹介しよう。
 我々真言宗の坊さんは弘法大師がもういいよというまで生きれば良いんだ・・・・・。まだ、こっちにくるのは早いと思われていればお迎えがこない。先生はタバコも酒も止めない。否、一時もタバコは離さない。お大師さんに任せてあるという。私は実はタバコは15年前にやめた。酒はもともとからっきし飲めない。
ま!優等生だ。しかし、人間の命は分からない。
 何故その時共感したのか。最近、私の身の回りに起こることがどうも手におえないことが多すぎると感じていたからだ。こりゃーちょっと背伸びしているな!と自分で言い聞かせ。喘ぎながらどうにか生きている?これがだ、何について喘いでいるかと言えば、尚恵学園の仕事。どうも利用者さん一人一人がとてつもなく大きく見える。私など足元にも及ばないと感じている。やることなすこと全てが大きいのだ。どうしてこのように感じるかだが、要は簡単。彼らは自分の世界をしっかりと持っているということ。私など正直どうかといえば、ある時は腹をたて、失望し、戦き、涙し、笑い、云々と全く支離滅裂。
そこへいくと彼らは悠々自適マイペースなのだ。どうしてあんなふうに振舞えるのかな?分からない。肝がすわっている。その時、弘法大師に身を任せればいいじゃないかという加藤先生の話。
 お前えな、良く聞けよ。そんな格好つけたって見る人はみてるよ。粋がってみせたって、できることしかできないじゃないの。それで良いだよ。それしかないよ。と言われた感じがした。正直ホットした。
 今、若者の引きこもりが多い。本人が一番つらいのは確かだ。毎日顔を合わせる家族もなんと言ってよいのか分からず、気兼ねして腫れ物に触るような毎日を送っている。どうしてなのか!と思う前に人間引きこもりたくなるのが自然じゃないの!という声がする。何が普通で何が異常か。今の世の中は正確な答えが見出せない。
引きこもる人が正常なのかもしれないな。否、少なくとも彼らは自分に正直に生きようとしているんだ。
 どうしてこのように考えるようになったのか?実は尚恵学園の3人の無断外出常習さんから教わったこと。
彼らはどのような説得をしても誓約書を書いてもらっても一向にふらっと出て行くことは止めない。その中の一人Nさん、昨夜も水戸駅交番から夜の7時に電話が入った。『また来ちゃったよ。本人がここにいるんだけどな、お酒のんで上機嫌だ。迎えにきてくれねーかっていってんだけどね」おまわりさんからの電話。一昔前には「あんたのところでは何をやってんだ!見ているのが仕事だろう」と大声で怒られた交番から。対応が大分変わった。むしろ、おまわりさんも実は根負けしたんだな。
これが良いとか悪いとかという話のレベルじゃないところに大きさを感じる。今日この頃。

179:便利&不便

早朝、関東地区を襲った震度5弱の地震、特に土浦は最も揺れが大きかった。震源地は水海道市周辺、南関東の断層がある所謂地震の巣であった。幸いにも被害は少なかった。しかし、朝、理事長室を開けてみたら驚いた。床一面にガラスが散乱していた。落ち着いて周りを見回すと、壁にかけてあった額が殆ど落ちていた。掃除機を取り出してガラスを丁寧に拾った。
机の上においてあったパソコンにも額が割れ落ちたのだろうたくさんのガラスがキーボードに落ちている。手で拾うのは面倒と咄嗟に考えてなんとはなしに掃除機でキーボードの上のガラスを吸い取ろうとした。あっという間にキーボードの何枚かのキーをも吸い上げてしまった。後で分かったのだが簡単にキーは付いている。もちろん掃除機の吸圧に耐えられるようなものではない。結局は修理に出すはめになった。幸いデーターには問題が無かった。もし、額がPCを直撃したら私の今までの苦労は一瞬にして消えた。ほっとした。
 地震災害が各地で起こっている。今朝のニュースでもイランでマグニチュード6.4の地震があったという。死者が相当でているようだ。今回の土浦での地震規模も同じくらいのマグニチュードだった。耐震構造が日本は良いので被害は少なかったといえる。しかし、地震の瞬間は逃げられるものではないというのがはっきりした。朝の5時前である。私が直ぐにとった行動はテレビをかけたこと。土浦の状況を市役所に勤める私の高校の同級生(総務課長)のD君がNHKのアナウサーへの対応をしていた。丁度土浦では災害の非難訓練をやったばかりということで、その対応も落ち着いてとても分かりやすかった。今度あったらほめてやろう。
 今、便利さの中でそのことを当然のことと思って生活している。スイッチ一つで電気がつき、いくら遠距離でもいついかなる時にでも電話で話すことができる。また、IT機器の利用は事業所はもちろんのこと各家庭においても利用が広まっている。
 予期せぬ事態での冷静な判断は日頃から注意していてもいざとなるとこれは大変難しい。便利性というものは、多分人間だけが追い求めてきたものであろう。動物や植物には関係のないことである。自然の流れにしたがう生き様は今の人間にはできない生き方になっている。便利性と背中合わせに不便性がある。また、環境破壊などの弊害が裏に起きている。
 確かに今まで書類を県庁に届けるのに半日かかって水戸まで届けた。しかし、今はメールにより事前に書類を送り検閲してもらうことができる。県庁まで何度も往復する手間は省けた。これに慣れてしまうといざ、何らかの理由でできなくなったときにその反動がすごい。保険に保険をかけるような事態がおこる。つまり、私は自宅にもPCを2台おいてある。勤務先のPCが故障したときに自宅のPCでメールや書類作りができるようになっている。自宅との距離も離れていないが、これは非常に面倒なこと。
 今の世は予期せぬ事態に対して自らの責任で守るということが常識。例えば三宅島への帰島もそうだ。住民が自己責任で火山ガスから身を守る条件で帰ることが許される。
 今回の地震で直ぐに私は各寮への電話確認とGHの見回りを実施した。恐ろしいというか利用者の人達は大半が地震の揺れに関係なく寝ていた。対応マニュアルでは対応できない世界がここにある。

180:を支えとして生きるか!

このページのトップへ

ここにきてお葬式が続いた。5日間連続だった。最高齢者は97歳、若い方で69歳。毎日、通夜葬儀、初七日と続けてお経を唱えることになると、ま!大変だわ。折からインフルエンザが流行しているから風邪をひかないように充分に注意した。それぞれの人には生き様があり、異なった背景がある。これは当然のことだ。しかし、旅立っていかれた人達は晩年何を支えとして生きていたのだろうか?今朝のNHKラジオのこころの時代には京都の托鉢者石川洋さんの放送が流れていた。久しぶりに枕もとのノートにメモを取った。人間はどれだけ種子をまくことができるか!晩年は今まで受けた恩を返していくこと、それから次に続くものに何を残せるか?まだ返しきっていないと思うか否か。
 今、西武グループの株取引の問題が話題にのっている。私は株のことは良くは分からないが、堤康次郎という衆議院議長までやったことがある人が今の西武コンチェルンを築いた。鉄道、デパート、ホテル、ゴルフ場等等、グループの総資産は相当なもの、堤家は華麗なる一族と言われた。しかし、会社を私物化したという点については今の時代どうも内部からのほころびが出始めてきた。グループを複雑にして資産を分散し、相続していくという考え方は戦後の成長期には珍しくは無かった。
先ほどの石川さんが話しておられたことであるが、托鉢を通じてお金を集め、カンボジアに学校を21もたてたという話。日本人が戦争を通して様々な国(特にアジア)でおこなってきたことが新たな問題としておきている。拉致問題しかり、慰安婦問題、占領下で表面化しなかった様々な出来事。今、戦争を知っている世代が少なくなってきた。97歳で亡くなった方は戦前ビルマの日本語学校で教鞭をとっていたという。戦後60年がたつが以前として燻りつづけている。3日目の通夜の場で戦争中、潜水艦にのっていた方が私の脇に座って話していた、目の前には息子さん二人がいたが、また親父の戦争の話が始まったといわんばかりに顔を背けた。自分は病気で下船していて偶然命拾いしたという話だった。他の乗組員は皆船と共に沈んだという。これは戦争を経験しなかった者にとっては何か空想のような話、しかし、現実なのだ。戦争と言う悲惨な出来事が空想化されている今の世の中には様々な新たな問題が起こってきている。如何したらよいの?と誰もが困っているが誰一人としてこうすれば良いんだよとは言わない。
私は人間何を支えに生きていけば良いのかを本当に今考えていくべきだと思っている。子供たちも大人たちも。一緒になってである。そのような話をする場が皆無に等しい。これではいけない。寺の過去帳を開くと昭和17年ごろから20年にかけて多くの戦死者の戒名が載っている。皆若くして戦地にて命を落とした。今それらの人々が忘れ去られてきている。33年忌を迎える人達は昭和47年に亡くなった人だ。戦後27年たっている。
 豊かさの裏に隠れ、大切なものを見失っている今の日本人の心に共感できるなんらかの支えを見出していくべきだ。それなくして政治の場での空理空論、汚職、理由なき犯罪などなど・・・・・何も根本から解決しない。末法の世とはよくいったものでこれは第3者的な立場で達観するしろものではないはずだ。