源究133

 

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
2171 大衆迎合 6/29 2176 逃げるが勝ち 7/6 2181 何もないこと 7/11 2186 企画情報 7/18
2172 孤軍奮闘 6/30 2177 安易な人生・・ 7/7 2182 文明の宿命 7/12 2187 ひたすらに 7/20
2173 ダメージコントロール 7/1 2178 長じて範なり 7/8 2183 逃げるな! 7/13 2188 一生懸命 7/21
2174 三叉路 7/4 2179 単純に 7/9 2184 夏祭り 7/16 2189 小ちゃな花 7/22
2175 笑顔が一番 7/5 2180 潜在力 7/10 2185 定義変更? 7/17 2190 托す托され 7/23

2171:大衆迎合

日本人の精神風土の特徴を集団同調主義と言うには、少々戸惑いを感じる昨今の動き、自分だけが良ければ他は関係ないという価値観が蔓延していないだろうか?
 それと、情報量の多さと早さに対処できない現代人の宿命として、例外なく心身面での何らかの不調が出ている。
 だから、どうすれば良いのかが判らず、一時避難的な解消の手立てを無意識に捜し求めているのだ。これをいくらやっていても根本的な解決はできないと皆が判っている。期待・夢・希望は泡と化し、将来へのどうしようもない不安を重く背負ってトボトボと歩く・・・・・。
 そんな時、手っ取り早く悩まずにすむ方法は大衆迎合、何らかの理由を見つけ束の間の居場所を見つける。
 明らかなのは、大衆迎合と個人主義は水と油、反発することはあっても決して一致はしない。
 重い課題として、ここ10年来、毎年3万人を越す自死者が出ている事は異常事態だ、結果を早く出そうとしての焦りからなのか、それとも日本人そのものが体弱くして力微なりとなってしまったのか?
 どうも日本の高齢化が問題視され始めた事と関係があるように思えて仕様が無い。介護を避けて通れない問題として国が強調し過ぎることにも一因ある。
 長生きは本来、家族にとって喜ばれるべきことなのに、それを負担と考える。国のご都合主義が優先され、敬老の思想が無い。
 際限無きサービスはエスカレート、その結果、格差を生み、それを享受できる一部の人達にすればバラ色の老後が用意され満足だろうが、指を加え眺めることしか許されぬ多くの人々にとっては生き地獄となってしまう。
 社会保障の制度改革が長年議論を重ね、やっと国の容が見えてきたかと思ったら、なんとも与党内部から反対の意見が出て収拾がつかない。
 今もって決めるべき時に決めず、後廻しにしてきた責任を誰も取ろうとしない。そして、膨大な借金を積み上げている。
 今回の衆議院での見苦しい失態は、はっきり言って造反者への厳しい処分無くしては収拾しない。与党幹事長の言動に異議あり。既に政党の体をなしていない貴党に今更何を期待しろというのだろう?
 造反者は自ら受けるべき処分を潔く受けるべきだ。そして、本当に自らが覚悟を決め離党すべきである。それなくして、貴方達はこの先、どんな責任を果たそうと言うのですか!
 最早、どのような言い訳も大方の 国民の心を動かさない。私はそう思う。
我々国民も痛みを覚悟すべきである。節電も良いでしょう。増税も仕方なし。だってそうだろう。国民誰しもが何らかの恩恵を得てきた結果が今である。
 それを大衆迎合と言わず、何と言えば良いのだろうか。各自が自らの頭で考え行動することでしか方法はないでしょう。
 

2172:孤軍奮闘

総理官邸前での原発再稼働反対のデモ参加者の数は日増しに増え、止まる事をしらない。
 福島の壊れた原発の処理がこの先どうなるのか一向に知らされない。一部の報道によれば地下に貯まる放射能汚染水の濃度はとてつもなく高いと聞く。その処理の目鼻が付いているのかいないのか?
 その途上での再稼働は、どうしても納得できない。情報が錯綜し、いてもたっても居られない人達が官邸前に集合し、反対をしているのです。
 我が茨城も様々な動きが出ている。東海村に日本原電の原発があり、万が一フクシマと同様の事故が起これば、避難対象になる人の数は100万人規模になるという。
 再稼働は産業界からの要望が強いと聞く。停電になれば工場の操業ができず、工場を外国に移す外ない。それでは産業の空洞化が起こって今以上に経済の落ち込みが酷くなるという意見だ。
 でも、それが絶対かと言えば判らない。この一大事に国会では何をやっているのか!情けないやら悔しいやら。
 国の為、国民の為・・・この言葉に真実味を全く感じない。
 一方では東京・大阪・名古屋の首長が痺れを切らし、連合して国政に旗揚げする勢いだ。
 日本の政治が機能しなくなったのは、先ず総理の交代が政策の是非よりも、軽はずみな自らの失言や個人的な問題から変わっている。これで、国の重要政策が決めれるはずはない。
 議員は一人では何もできない、ミツバチのごとく、甘い汁を求めて徒党を組む。まーこの状況はいつまでも長く続くはずはない。
 議員一人一人が国民に説明責任を果たさず、他人の事を批判するだけ、これを延々と続けてきている。
 小沢さんに言いたい。貴方は14期も長く、国会に席を置く。今回の消費税改革に反対、それが国民の真意だと言う。
 それは貴方の役目ではない。反対する根拠が曖昧で、ただ反対としか映らないのは何故か。代案を示さず、自らが代表に選んだ野田さんをこけ下ろす。それは本意では無かったとでも言うのですか、民間企業なら、即解雇である。
 なにか、貴方の取り巻き連中もパッとしない。この人達で、本当にこの国を引っ張っていけるとでも思っているのでしょうか?
 孤軍奮闘と裸の王様。
 その違いは、大義の有無、個を最優先する人間が公人になるべきではないということだ。
 月曜日にどうするか決めるとか、もう決まっているのではないでしょうか!貴方の居場所は、最早、民主党にはないということを誰かがハッキリ伝えなければならない。
 この期に及んでも仲間をお探しのようですが、それは無理でしょう。清水の舞台から飛び降りるような事を進んでする人はいない。
 孤軍奮闘で、時代の変わり目に現れた武将のことが思い浮かぶ。、織田・豊臣・徳川と戦国の世に頂点を極めた権力者に最後まで忠誠を誓った家臣が守君を守るために最後は自らの命を捧げ散った。
 日本人の多くがそこに人としてのあるべき姿をみて、自らを律してきたのである。権力者とは、そのような人物にのみ与えられる称号だと私は思うのです・・・・・。

2173:ダメージコントロール

河野太郎が何かのテレビ番組で「所詮いまの永田町のドタバタ騒ぎはダメージコントロールでしょう・・・」とか言っていた。妙にその言葉が頭に残り、何かにつけ出てきて少々困っている。
 あっこれも、そうだこれもだと。何も政治の世界だけの話ではない。ダメージを”苦”と考えれば、仏教の基本思想となる。
苦=思い通りにいかないこと。
 そうなんですね、何事も自分の思う通りにはいかないもの、それをどうにかしようとするから悩むのです。それを”煩悩”と言って我々の心身を煩わし悩ませる妄念だと談じる。108煩悩はご存知でしょうが、8万4千の煩悩というのも実は有るんです。
 これには驚きでしょうが、実はこれだけ多くの妄念(迷いの心)が有ると見込んでの事なのです。
 これですから今の現状を仕方なしと考えるのも一理あります。
 人間、自分に降りかかった災難には大騒ぎするものですが、そうでなければ無関心でいることが多いものです。
 8万以上もある妄念にイチイチ応えることなど不可能でしょう。そこで妄念が妄念により忘れさせてくれるという事が起こる。
だから生きていけるのです。
 ところで、この世で一番妄念が少ない人達っているんじゃー無いでしょうか? 知的に障害を持つ人達と接しているとなんて純真無垢な人達なんだと思う事ばかり、だから私たちは彼らから元気をもらったり慰めたりされるんじゃないのでしょうか。
 今の政治や原発問題、さらに景気・少子高齢化と彼らはどう考えているのだろうか?尚恵学園を利用されている人は障害程度の平均が5.5というから県内で1〜2位(?)に重い人達です。言葉を上手く使える人が少ない。一体彼らはどう思っているのか・・・・・これが私が40年かけずっと頭から離れないことだ。言葉を介さなくても何となく解ったような気になる時もありますが、これだって確信がもてない。
 さて、今日明日と駆け足で札幌に行く。その目的は入所施設を廃止し利用されていた人達を全て地域に戻された法人の責任者と会うためです。私の友人が面会を設定してくれ一緒に是非行こうという事になりました。
 事前の調べでその法人は親の会が母体でつくられたという事ぐらいは分かった。親の強い願いが形になった今の姿を自分の目で確かめたい。多分、親では無く本人達の願いですと言われるに違いない。
 昨日、水戸で施設を利用されている人の家族総会に出席した。会の立ち上げを手伝ったのでそれ以来ずっと関わってきた。最初の設立総会の時を良く覚えている。会員施設の8割以上の家族の代表が集まり、既に組織されている千葉県施設保護者連絡会の代表の話に熱心に耳を傾けた。
 あれから何年たっただろう?昨日の総会は、実に寂しいものだった。正直、関心が薄れたということが一番の理由でしょう。
 入所施設を利用されている人への条件が緩和され、誰でも継続利用が可能となったからです。目的が成就(?)したという事なんですね多分。
 それで、もう良いんですか?と私は言いたかったが、やめた。家族会の自主活動に変えた最初の総会だった。
 成年後見や虐待防止、これらの問題は、別に今に始まったことではない。今更なんでだと言いたいが、そんなものなんでしょうね。ここ3年間で与党のWTのメンバーは随分替わった。”障害者総合支援法”が来年4月から施行される。
 3年間の検討期間を置いた見切りスタートである。
 
 

2174:三叉路

茨城空港から札幌へ向かった。初めて利用する。実に便利になったもので家から車で30分で飛行場に着く、そこから1時間30分で札幌へ。チケットの購入もネットで簡単に買え、近所のコンビニで支払う。その時の番号を覚えていれば、飛行場でチケットが簡単に手に入る。
 下調べを殆どせずに向かったものだから、札幌(新千歳空港)から市街地までバスを利用した、それが1時間30分を要した。一番最後のホテルだったこともあって、都心部に入ってから途中やたらと停車するのには参った。JRを利用すれば40分なのに、それは知らなかった。結局、私を誘ってくれたSさんが岩手から先回りして着いていたので連絡すると、今から打ち合せをしようということになる。私はまだ夕食は取っていないのですすきのの居酒屋までタクシーで向かった。結局宿に戻り寝たのが1時を過ぎていた。
 今回の目的はGHとCHの全国大会に参加することと手稲この実の加藤寮長に会う事、北海道は常に障害者支援のトップリーダーの役目を果たす。入所を廃止し地域移行を全国に先駆け実践した。加藤寮長はその中心的人物で私は東京で一度お会いしただけだった。それが、なんとも申し訳ないことだったが、寮長自ら車で我々二人を案内してくれた。
 手稲この実にある記念館で説明を聴くと、まさに有言実行、明確な理念に基づく実践の数々をこの目で見る事ができた。夜9時半過ぎに訪問するなんて我々は非常識、迷惑この上ないことだったはずだが、行く場所行く場所で心良く迎えてくれた。感謝感謝。
 ワゴン車で移動する間、加藤氏から様々な話を伺った。一見野武士的風貌で近寄りがたい。飾り気の無い話が実に奥深く、自らの体験に基づいたものだからその一つ一つが心に残った。
 多分、この感動は久しぶりに私が経験するもので、昨今の朝令暮改の激しい状況にややもすれば道に迷いどっちに向かえば良いのか立ち止まることが多かった自分には、明確な道標となった。
 ただ、現実とこのギャップは相当のもの、簡単に「そうやります」とは約束はできない。
 実は、今回このようなにしていただいたのは、翌日の時間が充分取れない私への配慮だったことをSさんより聞いた。何とも頭が下がる。そして感謝の気持ちで溢れんばかり。
 北海道は若い時に何度か訪れた。山登りをやっていたのでその為に来たもので、観光は殆どしていない。
 今回も2泊で札幌滞在40時間、実にもったいない感じがあったのだが、茨城〜札幌便の都合と檀務を他のお寺さんに急遽頼んできたこともあり、トンボ返りすることになった。
 少し時間を頂き、お礼の手紙を書こうと思っている。
   日本人は模倣することは得意である。しかし、何かが足りない。自らが汗をかき、掴んだものと違うのは、”気概””いきじ”だ。私たちが掲げる「共生」という言葉、そこに魂を入れるには、生活を共にするということが無ければダメだ。
 その事を痛感し、頭をハンマーで叩かれた思いである。
 野武士と言われる所以は、命がけだと言う事、いつどこで野垂れ死にするかも知れぬが、自ら選んだ道という覚悟があるから悔いは残らない。
 その気骨に人間は圧倒され、魅力を感じ、手を差し伸べようとするものである
 
北海道庁舎 研修会
(850名参加)

2175:笑顔が一番

仏教では和顔愛語と言うのですが、和顔ってどんな顔?なごむとかやわらぐ顔だね。
愛語って何? そうね・・・やさしい言葉だって言うよ。なるほどね。  どうですか?貴方は毎日しかめっ面していませんか!棘のある言葉を撒き散らし・・・・・・ドンピシャリ、良く判りますね。  実は私もそうなんですね。
 悟ったような事を言いますが、実は実は和顔愛語って大変難しい。
 でも、意識して努力すれば、それにすこしは近づけるかな?
 でも、いかにも作り笑いっていうのも関心しませんね。良くありますよ。顔のバランスが崩れていて、ほほ笑みながら目がキツイとか、相手の目を見ないで捲し立てる人、これってどうかと思いますよね。
 じゃーやさしい言葉はどうでしょう、いやーこれまた難しい。
 不思議なんですが、政治家の皆さんって、下手ですね。相手を信じない職業なのでしょうか?選挙間近になるとやたらとニコニコして嫌な商売だ。心底から笑った顔じゃーないんだよ。直ぐ判る。
 まっ!他人の事はどうでも構わないですがね。世の中がどうも変な風向きになったんじゃーないでしょうか!
 先日、実は札幌で感じた事を。あの大通り公園で一人の若い女性が夢遊病?みたいに踊っているんです。音楽聞きながらなのかどうか知りません。本人は全く周りに無関心、公園のベンチに座っている人も時々目を向けては見ているんですが、別に彼女の事を話題にする様子もない。次の朝、その公園を通った時、今度は10名位の若者が踊ってた。それが全員金髪なんです。カツラを被っているんでしょうかね。私には異様に感じました。でも周りの人達は見向きもせず脇を通り過ぎて行く。
 なんか変だな・・・・どこがどうなっているのでしょう?彼らには周りはどうだって構わない。自分達が良ければOK?
 あの若者に”和顔愛語”なんて話したら、「何言ってんの?変なオジサン・・・・いやらしい」なんて言われるのが落ちでしょうか。どっちが変だってんだ!
 私があの子達の年齢の頃を思い出してみたんです。
 舞台は新宿西口地下・・・・ヘルメットと角棒を持ってアジ演説、私はそれを少し離れて見つめている。一瞬そんな光景が浮かんだ。
 あの頃は、ハッキリとした目的があって、若者たちは大衆の面前でデモったんですね。社会を変えようと叫んだ。
今はどうなんでしょう?目的なんか尋ねたら、またもや、「バカじゃない、叔父さん。関係ないじゃん。・・・・キモー・・・」とか言われ無視されます。
 でも、こんな風に言う人もいます。「金髪だってメヒカンだって良いよね。気持ちが優しい若者って沢山いるよ。」東北の被災地に行ってそんな若者と出会ったという。そして、彼らの笑顔が素晴らしかったと。
 ひょっとしたら、彼らがエネルギーを発散する場が無いのかもしれません。
 そうかもしれません。本当は理屈なんてどうだって良い。笑顔がある人って素敵です。周りを自然と元気にしますでしょう。
  笑顔が一番、職場でも家庭でも・・・・・・。
 
 

2176:逃げるが勝ち?

関わりたくない事って沢山あります。面倒だ!意味が無い!不愉快だ!・・・・・・・など
 これを果たして避ける事が出来ますでしょうか?答えは”NO"。逃げ切れたと思ったら、目の前に新たな問題が立ちはだかる。ギャフンだ。何でだ?と叫んでも、これ現実。 そこで人間は考えた。”理想郷””ユートピア”があると、それを人参にみたて遮二無二前を向いて走れと。
 ただし、これは長続きは無理でして、途中で挫折し、戦線離脱。そこで「俺のガンバリは 何だったのか?」と自問する。
 時が経ち、涼風を感じる季節になると、またもやモクリと胸騒ぐ。同じ失敗はしないと誓ってはみたものの、袋小路に入り込み、出口捜しに悪戦苦闘。
 時が経ち、老いを感じる齢になり、「俺の人生は 何だった?」とまたもや自問する。
 自問自答というからに、問えば答えが付いてくると考えるのは思慮不足、もともと答えの無い問題を解こうとするから迷うのだ。
 昨今、生きる意味が大きな問題となっている。何故だろう?
恐らく、日本人の多くが目標を見つけられないでいるのかもしれませんね。夢に描いたマイホーム、新聞のチラシには毎日、住宅メーカーの広告がある。あれを見て、このメーカーにと決める人が果たしてどれ程いるのか?大部分は目向きもされず、纏めて古紙集めに出される運命。
 斯様なことが多過ぎます。でも、問題とは感じない。(無関心)
 貴方はストレスの解消法を持っていますか?ハイと答えて、本当に解消になっているのかと不安になる。
 私はジム通いを始め、随分多くの人が集まるものだと感心する。数千人はいるだろう会員の中で毎日通ってくる人も沢山いる。その人達は、ジムに来ないとそれがストレスになるタイプ?
 同じ汗をかくなら、草刈りしたほうが良いだろう。荒れた畑は綺麗になるし、腰の運動にもなるはずだ。・・・・・が、仕事と聞いてそれがストレスになる人もいるのです。
 会員の顔触れは還暦を超えた人と子供が主体、エネルギーが有り余る初老の男女がマシンの上で必死になっている。
 これが理想社会の姿ですか?
 定年制という社会の取り決めは別に守らなくてもいいはずだ。労働は生きる力の源と誰しもが感じればスポーツジムは流行らない。これを国が政策に掲げれば、社会保障と税の一体改革に新風を吹き込むことになりませんかね。
 先日、北海道に行き、何ヵ所かの実践の場を見せていただいた。正直、私の頭は大混乱、・・・・・・。
 ”障害者が地域で有りの儘に生活を”入所施設を目の敵にした最近の政策誘導に反発できず、時が経ち関心が薄れるのをじっと待つ。実はもっと単純に考えるべきなんだ。
 一方、新党発足の動き、党名を『国民の生活が第1』とするらしい。
 これが、当にストレス解消の為のジムに行かないとストレスになるメカニズムと酷似する。
 要は、敢えて言うべき事じゃ無いという事ですよ。それが解らんのかね。
 ここで、本日のテーマである「逃げるが勝ち」を皆さん、どう考えますか?
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 出来ぬ事に汗水流す暇が有りゃー、他に為すべき事、ありゃーせんか!トコテンツクテンツッツ・・・。
 

2177:安易な人生・・・

『・・・・この人生を簡単に。そして安楽に過ごしていきたいというのか。だったら、常に群れてやまない人々の中に混じるがいい。
 そして、群衆と一緒につるんで、ついには自分というものを忘れ去って生きていくがいい。・・・・』
 これは「力への意志」ニーチェの一節である。
 生き方にはいろいろあって当然だ。それをとやかく言うのもどうかと思うが、殊、政治の世界はこれであっては不味い。
 日本の政党政治が機能しなくなっている。この原因を考えて見た。その最大の原因は政治を志す人達が、議席を得る事が目的となっていることだ。”何の為に”が薄すぎる。これは政治家を優遇し、特権を与え過ぎた結果である。公約を簡単に反故すると批判するもの自身が今までどんな事をやってきたと言うのか?国民の多くが胡散くさく思っている。
 国民を第1に考える党????当たり前な事を言うなよ!  寧ろ、アンタらは「自分の事を最優先する党」としたほうが良い。
 大衆迎合(ポピュリズム)をニーチェは”安易な人生”と酷評した。増税反対・脱原発・・今更なにをか言わんやである。これに反対する人はいない。それを立党のお題目とする。本当はそんな事で無くその代案を知りたいのに、それに関しては何も示さない。本来、自分が政党内にいた時に案を示し協力すべきなのに高みの見物で何もしなかった。
 増税せず無駄を省けばできると言ってきた時の幹事長は一体だれだったか?そして、その時の代表は誰だ?
 この両名が一番の責任者ではないのか!
 理解不能!
 有権者の目は厳しい。その事をいずれ判る時が必ずくる。
 
 大津市で起こった中学生の自殺の問題が明らかになった。イジメの形がどんどん変わっている。一昔前ならば陰湿さがあり表には出難かったものだったが、最近はメールや携帯を使って、ゲーム化している。
 「いまから俺は死ぬよ」とメールし飛び降りた。調査段階とは言え、自殺の練習をさせられ、担任もその事実を知っていたという。
 教育現場でいま起こっている事はたいへんな状況である。東京都の教育現場で管理者を希望する者が殆どいないという。そして管理職を返上する者も出る始末、責任ばかり多く、給料に還元されないならば校長にならぬほうが良いということか!
 その事を元教員の方と話したら、今は地方でもそうだと聞いた。
 現場教師の実態を垣間見た。事件や不祥事が起これば管理者が責任を問われる社会、これは民間企業では不思議なことではない。
 だが、何か原因があるだろう! 腑に落ちないのは、昨今の政治家の言動だ、政治家の責任の取り方はバッジを外し、下野すること。
 中枢にいる人間がその範を示すべきなのに、全く逆の現象が長く続いている。
 政治が数合わせゲームになっている。政党を渡り歩き、それを何とも感じない人達の気持ちが判らない。
 安易な人生の選択はその人の自己責任、だが、少なくとも公僕はそうではないはずだ。
  *学校の管理職で一番頭が痛いのは、父兄と議員だと言う。ここにも議員が登場する。
  権利を主張し責任を取らぬ人間に批判されるほど不愉快なことはないのである。
 

2178:長じて範なり

30年来の知り合いがいます。この方は88歳を過ぎている。どこで知り合ったかというと健康ジムである。それも4か所目、最初の2つは、既に廃業してしまって何もない。偶然、高校の同窓生だということが分かって、声掛けるようになった。サウナが大好きでいつも達磨さんみたいに座っている。長年造園関係の会社の社長をしていたが、数年前に全て退き後任に任せたという。
 30年来の裸の付き合いだが、今でも歳をまったく感じない。豪放磊落という性格で大声で話す。先日もジムの更衣室でバッタリ顔を併せ、「もう おわったのけー」「ハイ。終わりました。いつも変わりませんね」「おらー。プールで30分歩き、後はサウナで汗かく。もう年だもんな・・・」「外は歩かないんですか?」「おっぱずかしくてよ。  歩かねーとよ。足が弱っからな。そんじゃ、また」
 これだけの会話。でも更衣室全体に聞こえる大声である。こうやって明るく元気に生きてきたんだ。
 26歳の年の差は、全く感じない。寧ろ私が負けている。
 坊さんという役目柄、亡くなった方やその家族とどうしても会う事が増える。通夜席で大声で話す坊さんもいない訳ではない。しかし、顰蹙を買う。だから、どうしたってこうなっちゃう。一種の職業病?
 老いを感じるのは、ちょっとした事が切っ掛け、88歳になっても尚お元気な方を見ると、日頃からの鍛錬だなと思う。
 病は気からと言われるのと同じ。だからといって無理をしろというのではない。私ぐらいの年齢になると持病の2つ3つを持っていて当然、腰痛との付き合いも大分長くなった。これは体重のコントロールと筋肉を付けることしか無いという。
 若い時なら腹筋100回は楽にできた。それが今30回で息切れとケイレン?だ。そこで3セットやることにする。
 それとストレッチ、大きな鏡の前でやると、なんとも不格好、自分では前屈していると思っているが、頭を下げているだけで体は真っ直ぐ。
 いずれ45度ぐらいの傾きになるよう頑張ってみよう。
 ジム通いを初めてもう直2カ月になる。まだまだ変化を感じないが”コムラ返り”をしなくなったのは確かだ。
 長じて範となる方は、弁え心がある人だ。それをどう身に付けたのかは、一朝一夕で掴んだものではない。長年の経験を元に自然と体得したもの。
 こんな人が多くなれば、世の中に不必要な争いごとは減ると思う。それに老人天国は、究極の福祉国家なのだから、訳の分からないことをスッタモンダする必要もなくなる。
 

2179:単純に

ここまで複雑になってしまった社会をどうにかしようとするのは至難の業です。一度ガラガラポンすれば良いのかも知れない。しかし、これは尚のこと難しい。
 昔綾取りゲームというものがありました。輪にしたヒモで遊ぶもので実に単純、ヒモ1本あれば良く、お金はまったくかからない。それがどうです!高価なゲームが次から次に登場し、画像や音で興味をひく、完璧に遊びが変わった。そして、遊びと現実との垣根が外され、犯罪がゲーム化し、当事者の罪の意識が欠如した。集団対個というイジメの構造は、一向に無くならなず、保身と責任逃れが目に余る
 私はやらないが、フェースブックという新手のネットツール、これだって考えて見ると厄介だ。自己申告で人との繋がりを公開し、第三者からみれば、相手の人脈(?)を知るには便利な情報となる。これを売りにするという発想は、従来なら考えもつかなかったはず、個人情報の保護か開示か、その一線を引く判断が微妙、・・・がビジネスとして成り立っている。
 世界中でベンチャービジネスが花盛り、無名の若者が突如として登場し巨万の富を得る。従来からの科学や医学の最先端分野は基礎研究から始まって、相当な費用と時間を費やして成果を出す。そこがスッポリ抜け落ちた成功事例。
 グローバル社会というものは、垣根を外した競争社会、勝ち負けを決めるには、ルールの下に行われるべきなどと考えるのは時代遅れ? 極、昨今の世界情勢で紛争が絶えない地域は、表向きは宗教や民族の争いを挙げてはいるが、実は強国による利権争奪が原因だ。
 いつも、そこで犠牲になるのは武器を持たない市民で子供たちや女性が逃げ惑う。汚職が蔓延り、格差が広がる。その国民がこれを望んで選んだわけでは無い。
 これから先、このような不条理が改善するのでしょうか?
 ”物を大切にしない人が無駄を省こう!”と声を大にしても心が動かない。これこそ単純明快な普通の人間の心理である。
 そして、その人が過去にどんな事をやってきたかが判断の基準となる。表向きは日本の為と言いながら、私利私欲に走り、権力の座にいすわった人。
 その人に”国民の生活を第1に”と今更言われても、それを鵜呑みにする人間はいまい。人は自ら歩んだ過去を消し去ることはできないのだ。
 この国が危ういと感じるのは、そういった人間が依然として国の中枢に君臨することを許す国民の心理である。
 その人と成りを一番知るのは長年身近にいた人間だ。本当にこの国の庶民の生活を第1にと言うのであれば、身近でずっと観てきた人達の勇気を期待する。
 これは司法や国会で違法か否かの決着をつけるものではなくて、人間としての生き方の許容範囲を下すものとなる。
 世の中が複雑になればなるほど、何が大切かが分かりづらくなる。
  単純に考えて、良く知る人がその事を公にするのが一番分かりやすいと私なら考える。
 

2180:潜在力

水戸で某研修会があった。午前中だけでお暇しようと考えてきたが、途中で抜けづらくなってしまい最後まで付き合った。
 施設で行う授産事業の活性化を狙うもので、コンサルを導入し、勉強しようという研修である。
 3名の専門家を迎え、シリーズで年度内何回か実施することになった。どこの施設でも生産活動を行って、そこから得た収入を利用者の方々に還元する。全国の平均工賃が毎年公表され我が茨城は正直恥ずかしい位置に甘んじている。
 これでは不味いということになり、県も一緒になって我々事業所とその対策に力を入れることになった。
 世の中の流れと福祉現場は大分開きがある。大企業が生き残る為にM&Aをどんどん推し進めている、何をもって世界の企業と勝負するか、必死の闘いをしている。
 福祉は公助・共助とか言われ、法律や制度によって保護されてきた。これがかえって仇になる時代ともなっている。
 業界内では、守旧派と改革派の鬩ぎ合いもあって、遅々とした変化である。ただ、何らかの切っ掛けがあれば一気に流れは変革の動きになると思っている。
 食品開発のプロの話、実は刺激になるというより、当たり前のことである。それが出来ていないのは何故なんだ?
 ここが問題。
 売れる製品の4条件・・・・・安全・安心・美味しい・健康に良い物・・・・・・  当然でしょう。
  この条件をクリアーさえすれば売れる商品ができると。そうだよな、本当だわ。
 基本として、原材料のチェックや製造過程でのハザード・リスク管理それと流通での課題。
 最終的に茨城のブランド製品を開発しようというもので、今後が楽しみでもあるし本当にできるだろうかと半信半疑。
 私は、ドップリ茨城に浸かってきたので、他県と比べわが県の特徴を正直掴み切れていない。外部の人の目から見て茨城はどう映るか尋ねて見た。
 利用可能な広大な土地と首都圏が近いというメリット、それと人柄が良いという。この最後の評価はお世辞半分としておこう。確かに茨城人は他を押しのけてまで自分がという人間は少ないようだ。これを謙譲の美徳というのであろうか?不勉強だが水戸学の精神?
 2番で何が悪いか!と誰かが言ったのを思い出した。1番と2番に拘ってもそれ程変わらないと言う気持ちが強いのだ。
 これが、何かをやる時に周りの様子伺いとなるのかもしれない。
 ・・・が、確信するのは茨城の持つ潜在力は凄いと思う。それを強いて誇らないのと宝の持ち腐れを気にしない県民性。
 不況になれば必ずその力を茨城は発揮すると信じている。歴史からみて、時代の変わり目には必ず茨城人が動いたことが証明されていますよね。
 潜在力というのは、何も県の問題だけではありません。人間一人一人もそうだ。
 視点を変えれば、逆の評価が成り立つわけで、江戸時代を見よ!天下の副将軍はどこの誰だっけ?それを言うからいつも笑われる。ならば良く考えてみなよ。”京”とか言うスーパーコンピューターがトップの座から世界第2位となった。その開発費の仕分けで近頃とんと顔を見せなくなった蓮舫大臣が『なんで2番で悪いんですか?』と切れた。
 私も同感です。なんで一番じゃなければいけないの? 運動会じゃ有るまいし、潜在力を残し、他に譲る。この余裕と言うか満足感というか凄いんだから。
  

2181:何もないこと・・・

1年8カ月、病室のベッドの上で過ごすことの重さ、8人部屋の定位置に彼は目を閉じ気持ち良さそうに寝息をたて横になっている。昨日、友人を誘い、二人で様子を見に行った。寝がえりも出来ず、同じ格好で寝ていることを思うとただただ頭が下がった。
 病院にいるだけで存在感が充分ある。後の事は心配するな!みんな良くやっているから、そう声掛ける他に言葉が見つからない。
 また夏の高校野球の地方予選の時期になった。もうあれから半世紀を過ぎた。中学時代彼とバッテリーを組み、毎日練習で遅く一緒に自転車で帰宅、試合があるといつも今日こそは必ず勝つとお互いに言い聞かせたが、結果はいつも負けた。
 その当時の思い出はハッキリと記憶に残る。
 一番強烈に残っている試合は、土浦市営グランドで土浦一中にコールド負けした試合だ。年に一度、市営グランドに今も行って野球を観る。それが今日だ。私のポジションはキャッチャー、良い思い出が無い。だからかも知れぬ市営グランドに行くと必ず外野席でみるようになった。
 何もないことがどれ程素晴らしいことなのかと感じるようになった。還暦を過ぎ、とうの昔に人生の折り返し点を通過、この後は儲けもの、齷齪などせず、のんびり過ごしたい。全てを誰かに任せ、引退したい。本気にそう思う。
 その想いは強まるばかり、こうやって頑張ることが後の人達に良いのか悪いのかも判らず、飽きもせずに腹たて汗かきやっている。
 なんとでも言うが良い。どうせ、いずれ何も言わないようになるんだから。
 今月の末に二ケ寺の施餓鬼がある。寺の最大の行事だ。だが、どうも気持ちがそっちに向かない。切り替えがきかないのだ。
 塔婆を書く気になれず、掛け軸も同様、箱から出そうとしない・・・・・・。
 
 今日は暑くなる前に植え木の剪定をやろうかと思っている。 多分、私の性分では外で何かをやっていたほうが合っているようだ。相棒のNさんが気の所為か私が軽トラックで行くと表情が変わる。
 何もないことが、こんなに素晴らしい事なんだと思うようになって、少し気持ちが楽になった。
 
 

2182:文明の宿命

文明をどう理解するかという事によるが、民主的で自由な社会=近代化社会、人権尊重とか機会均等などの原則が認められる社会。 しかし、世界中で現に起こっている状況は、今まで信じられてきた宗教・道徳・理性・・・の価値の崩壊で、その結果、人々が生きる意味と目標を見失った。富の格差拡大が広まり、生き辛い社会ともなっている。カジノ化した金融資本主義を止めることはできず、日毎に大きく変動する株価は、想像を遥かに超えた金が一握りの人達によって操作されている証拠だ。 
 人間が望んだ文明の進歩は常軌を逸したものとなっていないのだろうか?
 原発の問題一つを考えても、そうだ。フクシマの事故原因の検証が進まない中に、停止中の原発再稼働が行われた、これだって時間が経てば人々の関心が薄まっていくに違いない。
 憂い嘆くことばかりが増えて、一向に先が見えない。これを「文明」の宿命(NTT出版)と言うのか!
 現代人の傾向として、疑問を持たず流行を追い過ぎる。商売だってそうだ。儲かっているとみれば、誰もがそこに参入する。機会の均等は本来、競い合うことで安価で質の良い物が手に入るという事だった。それが長い経済低迷期においては、お互いが潰し合う熾烈な闘いとなっている。
 シャッターが下りた地方都市の目抜き通りは、週末でさえ、人がいないゴーストタウンと化した。向こう三軒両隣と言われた嘗ての親しさや賑わいは消え失せ、必要以上に駐車場が目立つ。
 現代の病みを象徴しているものは政治だ。「国民の生活が第1」と新党の名前が決まったようだ。
 この事が何を意味するか? 私は一連の動きを全く評価しない。今更、党名にまで掲げて大騒ぎするほどの意味があるのでしょうか。
誰もが異に唱えない決まり切った事を、何故に? 自分達が出来なかった責任を棚に上げ、惰眠を貪ってきた訳だから、実に奇怪な行動だ。
 言行不一致、契約不履行・・・・これがGNP世界2位を射止めた日本の現実。
 私は、時流に乗り遅れまいと右往左往する必要は無いと考える。むしろ、一歩も二歩も離れて我が信じる道を歩むべき時だ。
 便利さの具現された姿が都市? そこには様々な矛盾が内包する。それに気づきながら何ら手立てをせず、先送りしてきた結果である。
 新党立ちあげには具体的な政策があって然るべきなのに、曖昧模糊とした抽象論しか言えない。 
 これは政治家の質の低さを示す。烏合の衆でこの指とまれで集められた集団に果たして、失われた日本の道徳・理性・・・精神の価値を再構築できるでしょうか?
 ハッキリ言ってNOである。
 寧ろ、国民は貧乏くじを引く覚悟が必要だ。斯様な人達を持ちあげ自由に泳がせた現実、それを変えようとするのであれば相当な時間がかかり痛みが伴うという覚悟をすべきなのである。
 
 

2183:逃げるな!

大津で起こった中学2年生の自殺事件、警察が学校に家宅捜査に入った。いじめが原因と認めなかった学校側や市教育委員会への批判の声が膨らんだ。
 教育現場には何か事が起こると隠ぺいする体質が有るのではないか。生徒達からの情報が報道されると実態と関係者の認識の乖離が頗る大きいことが分かる。
 以前あった校内暴力や学級崩壊という問題は鳴りを潜め、一見落ち着きを取り戻したかのように見えるが、殊、いじめ問題に関しては、相変わらず形を変えながら存在している。
 事もあろうに今年の4月に愛知県の某中学校で「自殺に追い込む会」というものが作られ、「死ね」などというイジメが日常的にあったという報道があった。
 世の中を見廻しても相変わらず、鉄道を使った自死事件が後を絶たない。
 日本の上空に暗雲が立ち込め、不吉な予感がする。これは日本特有の問題なのだろうか!追い打ちをかけるような自然災害がまた九州を中心に起こっている。自然がキバをむき怒っている。
 死を選んだ人が悪いんじゃない。本人の変調に気づき、身近にいる家族は必死になって最悪の事態を避けようとしたはずである。
 現に当事者となって世間様の冷たさや優しさを知った人も多いと思う。
私は”逃げるな!”と言いたい。現実に起こったことに目を背けず何が本当の原因だったのかを掴んで欲しい。
 根本的な解決策は見つからないと思う。
 いま学校の現場で起こっていることはどんなこと?。私は教員をしていた友人を多く知っている。一様に言われる事は、父兄と教育委員会や議員への対応で頭を痛めていると。
 教師と生徒という関係に外野の者が入り過ぎているんじゃないだろうか。ここで直ぐ浮かんだのが、10月から開始する虐待防止法、教育や福祉の現場での教師や支援員による虐待防止対策である。権利擁護が国連で叫ばれ、世界の共通するテーマとなっている。
 何か事がおこると当事者へのパッシング凄い。当事者同士での問題の解決ができない構図がある。一度マスコミで騒がれると管理者の評価は急落し、将来への希望が断たれるとか。どこの世界にも嫌われ者はいるもので、問題発言や権利の主張ばかりする者は敬遠され、そのような人が自然と集められる特殊な職場が出来上がるという。
 思い出すのは、つくば研究学園都市ができた頃、最初に公立の校長になった先生を知っている。その方は、学校に何も期待していませんからと父兄会の席でハッキリと言われたと嘆いた。確かに博士号を親にもつ子供達が多く通う学校では、当初ノイローゼになる教員が多く出たという。教師の出身校を品定めする親がいた。
 これを誰の責任だと言う事は避けよう。・・・が、人としての生き方を学ぶという教育の基底が崩壊していないか!
 親は子の幸せを願う。これを疑うものではない。・・・・が、幸せって何なの?という事が果てしなく不透明になってしまった。
 中学生で自殺に追い込む会なる発想が一体どこから生れるのか!
 教育現場に立つ人達よ”逃げるな!”と応援したい気持ちでいっぱいだ。

2184:夏祭り

日本各地で夏祭りの季節になりました。京都の祇園祭が丁度開催されています。山車や囃子の音が私が住む神立においても聞こえます。この時期に祭が集中するのは,江戸時代のころ農家の仕事が一段落し、その疲れから病に罹るのをさける意味と亡くなった人への鎮魂の為に始められたものが多いようです。
 今年の東北三大祭りはどうでしょうか?仙台・盛岡・秋田それぞれが特徴があって多くの人達で賑わいます。あれから1年半が経とうとしているのに、未だ行方が分からない多くの人々、その遺族の祭に寄せる思いは様々です。
 私は今ある企画を考えています。11月に行う予定で準備中、テーマだけは決まりました。
 希望の持てる共生社会の実現!・・・・ひたすらに 何が幸せかを 求め続けて・・・・
 実は、昨年行う予定を震災の為に1年遅らせたのです。もう少し具体的になったらお知らせできると思っています。
 誰しもが分かっているのに言いだし難いこと、それは将来への不安です。働く若者が減って老人が増えることは、決まった事です。それに対し、具体的な妙案を示せない。原発をどうするかの決断が出ない。
 確実に分かっているのは、化石燃料は今のままでは枯渇するということでしょう。代替エネルギーの研究が遅々として進まない。
 斯様に将来を見越した課題は、何一つ楽観できる状況に無いわけです。本来の政治家の使命もご覧の通りです、一体アンタ達は何をやっているのか!という怒りしかおぼえません。反対することで有権者の関心を掴もうとするのでは、余りにもレベルが低い。
 説明責任を果たしていないと国民は言いますが、私達だって果たして耳を傾けてきたでしょうか?最早、諦めだけが蔓延し、関心が無い人達。NHKの調査で初めて無党派層が50%を超えたという。
 このまま進んでいって良いものか。
 日曜の朝のNHKの討論番組で宇野常寛という若者が、居並ぶ人達に混じって堂々と自論を述べていました。ノンポリの代表と卑下しながら、彼の独特の言い回しで語られる内容が実に分かりやすかったのです。
 評論家は無責任です。彼らはメデアを通じ、自論を盛んに述べてきました。だれもその責任を取ろうとしない。
 日本中、様々なセミナーの真っ盛り。でも、どれをとっても消化不良で後味の悪いものばかりではないでしょうか。何故でしょうね。 
 言葉が実践に先行し過ぎているからだと思いますよ。言うは易しです。言った事に何の責任も取らなくてすむ人達がどこかで得た知識を受け売りし高い参加費で全国から人集めをするのです。
 同じ人集めでも”祭”とは偉い違いを感じます。これは参加しての満足感の違いです。この違いが実は今の日本の最大の盲点ではないかと最近考えるようになりました。流行を追うばかりに、何故自分がこれを選んだのかという自覚が薄弱なんです。
 窮極的には、生き方の問題になるわけでしょう。現代の特徴を膨大な情報量の中、そこに有った自由と平等の社会に何とも感じなく人々が右往左往していると言ったらどうですか。
更に言うと何と比べどうなのかという判断の根拠が欠如している社会です。
 自分達の都合の良いように作られた規範を時代がこんなに変わっているのに旧態依然として存在し続けている。
 祭りが終わればまた来年があるということを疑う人はいない。それは、先祖に対しての敬いの気持ちと自らの責任の自覚、敢えて言わせてもらうと個々人の切実な願いなのです。
 

2185:定義変更?

松田聖子ちゃんに刺激を受けましてね。2度咲き3度咲き、良いんじゃーねーの!行け行けドンドンだ。
 あっという間ですね。後1カ月経つと62歳、還暦過ぎたら一段とスピードが早まって、世の初老(?)達よ、濡れ落ち葉とか窓際とか言われて良いんですか!【奈良時代、初老は40歳〜というの知っていました???】
 昨日、テレビに野田さんが出演して、全国から参加された人達と意見交換をしていました。いま政府が行おうとしている事を説明し理解を求めるためでしょう。NHKでは局内の解説員が円卓でテーマ別に自論を展開。いずれも先が読めない、不安を上塗りするような内容になりました。
 でも、もっと議論したほうが良い。自分達に跳ね返ってくる事ですからね。私自身も大いに反省しましてね。国や行政が悪いとか言っていても何にも変わりませんでしょう。ならば、自らの足元からと考えまして、もうエンジン全開です。
 良いんだ。誰も相手にしてくれなくとも、動いていりゃー、その中、変わりものが出てきて、意気投合、一緒にやろうとかそんな淡い期待を持ちながらいこうと。

 今のまま進むと、例えは良く無いけれど、誰しもが死刑台に向かう日を待つ心境になりますよ。借金漬け、デフレ、エネルギー問題、少子高齢化、領土問題、防衛、政治改革、・・・TPP・・・。どれ一つとってみても大変な問題ですよ。これが先送りされて澱みになり、大雨降れば一気に流れ出る危険性を孕む。これは閉塞感とは違う。その逆で日本だけの問題で起こっているものは殆ど無いといっても良いのです。
 だからですよね、決められる政府とか言って、なんとかしてよ!という事になる。
 
 話が変わって申し訳ないのですが、先ず手始めにと考えた事は、体を鍛えようと言う事、2か月目に入りますね。ジム通い。
 最初は興味本位でした。でも、皆さんを観ていると凄いんですね。以前どこかで見たことがある人なんですがね。年は私より少し上かな?この人、マシンの上で走っているんですが、必ず2回着替えて、また走っている。その間に一度風呂に入り、また走る。周りを見回すと、子供と初老の人達が多い。このパワーが勿体ないと思った。マシンだけでも相当あります。あれを電気エネルギーに変え蓄電したらどうだろう?再生可能エネルギーとか社会貢献になりませんかね。
 これって私のどうしようもない性分でして、素直に物事を観ない。何かに結び付けるクセがある。
 だって、皆さんの中に、結構後ろめたさを感じながらジム通いしている人多いんですよ。やる事ねーから、パチンコばかりやってても不健康だしな・・・という話良く聞きます。
 再生エネルギーの究極版は、自分がエネルギーを発電する事、要は自ら元気を出すことですよ。
 そう考えれば、世の中、少しは明るくなりません?
 本日、予報では35度近くになるという。さーて、火燃やしやっかなーと。
 

2186:企画情報

何か目標が定まるとフットワークが良くなります。
 悶々として時間を過ごすなら、貴重な時間を有効に使うべきだ。だが、どのように使ったら良いかが分からない。考えること自体がもだえ苦しむ原因となるという悪循環を起こしやすい。
 身ぐるみ脱いで身軽になれれば最高なのは分かっていても世の中そうは上手くいかないもの。気兼ねや心配することばかり増えて、自分で自分を縛ってしまう。
 自分の能力以上に良く見せたいとかいう欲がでるから始末が悪い。失敗を次に活かせとか言ってもできる事なら望んで失敗はしたくない。
 いま、ある企画を練っている。別に自分が望んで引き受けたものでは無いのだが、成り行きでなってしまった。
 一人で考えるより何人かで一緒に知恵を出し合ったほうが断然良い。このことを実感している。
 今日は今から出かけるので時間がない。取り急ぎ、情報第1弾として公開します。不完全なものと前置きし、もしもご覧になって関心が有る方がいたら当方にご連絡下され。企画第1弾
人間百人十色とは良く言ったもの、何かを一緒に行う時に、自己主張が強過ぎると纏まるものも纏まらない。
 大いに議論はすれども結論が出ない。それをどこで妥協するかと言えば、線引きが難しい。日本の状況が当にその状態だ。 くっ付いたり離れたり、自棄に忙しい。解散時期をいつ頃かと戦々恐々するも誰と組むかが最大の関心事。
 それ以外は完全に後付け、この混乱は暫くは続くしかないだろう。自由には義務が伴う。時間をかければ良いと言う事でもないはずだ。
 そもそも日本には民主主義が有るのでしょうか。形だけはそれらしく取りつくろってはいるが、実態は散々たる有り様だ。
 見なさいな!無党派層が半数を超え、投票率が半数に至らない。これが議会制民主主義ですか。理想だけは高いが我が事しか考えない人間が多過ぎる。その結果世の中は当然乱れる。
 一部の人の頑張りのお零れ頂戴は依然として強いんじゃーないだろうか。
 始末が悪いのは、頑張っている人達を指して、「アイツは好きだからな」と嘲笑う。
 大津市で起こった中学生のイジメ事件、学校の管理者や市教育委員会の釈明を聴いていて、誰しもが変に思ったに違いない。
 何かおかしいぞ!一人の生命が亡くなっているという事の重大さに、あの冷めた対応はなんなんだ。教育者って、実はそんなものだったの? 保身というのか出世第一主義というのか、どうしてもそんな風に見えてしまうのです。そして熱きものを感じない。
 使命感なんて言えば笑われるかもしれません、これは深刻だと思いますよ。
 先日、反原発の決起集会が東京でありました。主催者発表(17万人)と警察の発表(7万5千人)に十万人以上の差があった。
 60年・70年安保を知っている世代にとってみれば、大分様変わりしたと映るかもしれない。
 この動きが凋んでしまうのか否かは分からない。中東や北アフリカで起こった改革の連鎖とは一緒にできないが、どうでしょうね。日本の場合、何を目指すのかがハッキリしていない。反対した後、どうするのかという事について明確な絵が描けない。
 文明の宿命か多様性の昏迷か、言葉なんかどうでも良いのだが、全てが根っ子の部分で繋がっているのは確かだとは思える。
 

2187:ひたすらに

多様な時代に生きなければならなくなった。世の中には”不器用な”人は沢山いる。周りの評価やノルマを気にしながら必死に頑張っている。しかし、人間はそれ程強い生きモノではない。そんな環境の中では体に変調をきたし、自分で自分をコントロールできなくなる。
 これを現代特有の“病”とかいって騒ぎ立てるから尚更目立ってしまう。
私の今の関心事は”ひたすらに”ということです。何故、あの人はあんなに一生懸命なれるんだろう。あれまでしなくたって良いのにね。・・・・・・。
 実は、ひたすらになれる事があるって素晴らしい事でしょう。
 その類の人をみていると何か共通するものがありそうなんです。
 それが何かを突き詰めていくと心動かされる事にぶつかる。宿運だ!と一言で片づけてしまうのもどうかと思うのだが、例えば幼児体験って歳を重ねるごとにハッキリとしてくるものです。親子の関係、自分はどんな親から生まれたのか?なんて考え始めるとこれが一生のテーマとなる。自分は親の顔を知らずに育ったと言う人を何人か知っている。
 これって、大変な事です。
 でも、これこそが物事全ての”ルーツ”だと思いますよ。
魚や鳥には帰巣本能という能力があり、特に伝書鳩などが良い例で飛翔能力や帰巣本能が優秀で1000q離れた所から巣に戻る。どうやって戻れるんだろうか?何故そうまでして戻ろうとするのか鳩に聞いてみたいような気がします。
 方や人間は、智恵を働かし、今や車のナビは一般化しています。目的地を設定すれば地図で道案内してくれるという便利物、
タクシーにもそれが付けられているのが増えたようです。この場合は運転する人の能力にあまり関係がない、でも機械ですから故障が付き物、いつ壊れるか分からない。現代人の精神的不安定さは便利さを享受しながら、本心からそれを信じられずに生きているということだと思います。”葛藤”が生じる。(*:禅宗では葛藤を文字言語と同義に使う。公案。)
 実はエネルギー問題だってそうでしょう。何やかんだと言ってみても結局は自分達が得てしまった便利さを失って良いのか悪いのかの選択です。
 これって今に始まったことではないかもしれない。ですから、短期間でどっちを選ぶかを決めることなんて出来っこ無いと思いますよ。
 仏教は文字や言語で迷わされてはならないと説く。マニフェストは当にそれだ。文字言語には元来矛盾が付き物で、だから葛藤が生まれるんだ。決まり切ったことなんです。
 なんだか知りませんが、”生活を第一に”とかいう、旗印を掲げ新党が生まれましたが、昨日の予算委員会の議論を聴いていて、何が何だかサッパリ分からなくなりました。質問者自身が分からなくなっている感じがした。彼らこそ、言葉を弄ぶ張本人、ひたすらさなど微塵も無く病的な感じさえ受けました。
 ひたすらには自らの責任を知っているものに与えられる称号です。

2188:一生懸命

一所懸命が転じて一生懸命となったことをご存知でしたか?
 賜った一か所の領地を生命にかけて生活の頼むとすることからきた言葉のようです。渡辺和子女史の「置かれた場所で咲きなさい」に通じる文言です。
 何事にも真剣に取り組む人がいますが、いつの頃からでしょうか、その事を誹謗する心無いものが出てきました。ゆとり とか 余裕といった言葉を教育にも取り入れて、自由の中で個の能力を育てるとか。私は言葉よりもっと大切な事があるでしょうと言いたい。平野文科相が大津市で起こったイジメの問題について、教育委員会制度について問題があれば見直す必要性有りと述べた。
 隠ぺい体質というものは依然からありました。それと人事に関しても、どうやって決められているのか分かりづらい。
 本当の教育者は、子供たちの中に入って一緒に汗をかける人、そんな教師の一生懸命さに子供達は信頼を持ち心を開くのではないでしょうか。困った時に相談し真剣に聞いてくれる先生が身近にいたら、どんなに良いでしょう。
 最近、公立学校での小中高一貫教育なる試みが出てきました。私学では昔から行われてきましたが、ここで重要な事は何のために一貫教育を取り入れるかという事ですね。
 青田刈りとか抱え込みだと批判し、本来の目的とズレた現実も実際には有るようです。
 でも、学校が悪いとだけは言えない。根本には家族です。親が一生懸命な姿を見せれば、子供達は必ず気づくはずです。
 どうして両親が頑張っているんだろうと。そこに絆が生まれ、自ずと良い方向に向かう。
 世の中には様々な事情で家族が無い人がいるのも事実です。
 視点を変えます。5年前の日経平均株価がどのくらいだったかご存知でしょうか?私は株はやりませんが、某評論家の話です。
なんと18,000円あったんですね。今、8,000円台を上下しているわけですから当時と比べて半分以下になっているんです。
 たった5年前の話ですよ。
 当然、家庭の収入だって減っています。ワーキングプアーとか言う言葉好きになれませんが、実態がそうなっている。
するとどうでしょうね。家族の余裕って無くなりますよ。隣は何をして儲けているのか知らないが自棄に景気が良いようだ。
 これって素直に喜べませんから、不満となる。全てとは言いませんが、イジメの深層にはこの辺の事情が絡んでいることは否定できないと思います。
 今の政権がどんな国を目指そうとしているのか、正直分かりません。余りにも御用聞きに成り過ぎたんじゃーないだろうか?自分の懐具合を考えず、人気取りに走りまわっている。  何しろ90年当時は平均株価が40,000円だったんですから話になりません。今より5倍も高かった。もしも、その時の標準までサービスを求められたら、いくら国債を発行したって足りるわけがありません。
 このことの説明が為されず、増税反対&賛成の議論ばかり行っています。いろいろ言う人はいます。もう政権担当能力が無いから解散すべきだと、それなら、過去に1年で交代してきた総理をどう説明するのでしょう。次になる方が本当に能力があって、この人に国の舵取りを托すと思える人物が出てきますでしょうか?完全にNOです。
 野田さんでやれば良いのですよ。私はそう思うな。反対の為の反対では次なる絵が描けないでしょう。分かり切った話です。
 それよりも、有権者がもっと一生懸命国のことを考えねばどうしようもない。ぶら下がりや高見の見物が多過ぎます。
 だったらどうしろというのかですよね。分かり切った事じゃないですか、一生懸命しかないでござんしょ。一生は自分の一生なんだから、それが嫌ならどっか他の国に行けば良いんだわな。そんな国有りませんよ。そう思いませんかね。
 おらー決めたんだ。ちっちゃな花で良いからよ、置かれた場所でどうにか咲きてーなってよ。

2189:小ちゃな花

嫁ぐ妹に味噌汁の作り方を書いて行け・・・・・・・・と唄った南こうせつの「妹よ」。昨日BSTVで吉幾三と一緒に出ていた。好きな歌手をあげろと言われれば、私は真っ先にこの二人、自ら作詞作曲するから彼らの心情が見えてくる。
 南にも吉にも実は妹がいないという。ここで笑いを取る。二人とも曲の合間に入れるトークが実に上手い。場数を多く踏んだこともあるだろうが、お客の心掴む能力が高いんだな。
 妹よの歌詞で、結婚が上手くいかなかったらいつでも帰って来なさいと伝える兄の心境はいかに?
 嫁に出す親ならここでグッとする。心が動くんだな。
昔昔の話である。少々山登りをやっていた当時、岩と岩の間に小さな花が咲いているのを見て感動した。
「野に咲く一輪の花に ほとけの心ぞやしる」 自分が作った句だと今でも思ってはいるが、そうじゃー無いかもしれない。
それはどうでもよいことなんだ。
 花は別に綺麗だと思われる為に花を咲かせているんじゃー無い。ウーム・・・・ならば、お前、仏さんの気持ち分かるかい?それと、花の気持ちもな?
 何かに行き詰るといつもこの句が浮かんできた。実は今でもそうなんです。
 日本人が一番劣化したこころだと思っている、一代で事業に成功し、その事を周囲が挙って持ち上げるから本人は自分は偉いんだと錯覚する。
 世の中には、上ばかりみてチャンスを伺う輩はいるもので、巧みにゴマをすって何か上手い汁を頂戴しようと画策する。
 一方、それを頑なに拒否しつづける人もいる。
 高山植物をよく観察すると分かるんですね。地表に出ている部分はほんの少しだけ、そりゃーそうでしょう。気象条件が厳しい場所だ。けれども、根は深くはっている。だから来年も同じ場所に花を咲かせることができるんです。
 これを自分自身の生きる手掛かりとできるか否か。
 今からはここが要だと私は思います。逆境に強い人が生き残れる時代となったとすれば、これしか無いでしょうね。
 一時的には運が味方し、順調に行くかもしれません。でも、人生の評価を生〜死という時間内ではかるとすれば、大差など無く、寧ろ下に根を張ることを旨とした人に軍配が上がると思っています。
 その根拠は?
 だってそうでしょう。2代目3代目を見れば分かるでしょう。経済界にも政治の世界にも捨てる程いますわな。親の遺徳(産)を食い潰してまだ足りない人間どもが。これこそ、仏教でいう六道の下の世界ですわな。
 一方、頼れる遺産など全くなくても、生き方を子に残した人がいます。このほうがこれからの時代大切なものだと思っています。{六道輪廻の真髄}
 子供がいらっしゃらない人はどうなんだい?
 必ずや貴方の遺された生き様を有り難く思う方が後世に現れると思います。もし誰もいなくても、その時はその時で良いでしょうが。*寺の過去帳にその記載はありません。余計な話ですが・・・・・。
 

2190:托す托され

不肖の息子だけれど宜しく頼む・・・・・いとしい子ゆえに親は子を托すのである。
 そう言われ子は素直に聞く耳を持てないのが普通だ。失ってみて初めて感じる親の偉大さ、これはどうしようもない現実態。托す者托される者,生き死にの狭間で人は多くの事を学ぶ。それをどう受け止め、活かすかは当人の識見だ。
 冷たいようだが、世の中は忘れ去られて行くことが大半で逆にそれだからこそ托された者の可能性が増すのだろう。
 また、皆から惜しまれて一人の人間が有りたっけの力を出し切って逝った。彼の生命力の凄さには想像を遥かに超えるものを感じた。もう良いからゆっくりしなよ!と声をかけようとしてもそれを頑なに拒む何かがあった。
 毎日家族が病院に付き添い、彼は入院からずっと同じベットの上でひたすら眠っていた。声かけても反応をしなくなってどの位経っただろうかと尋ねるともう1年以上になるかもしれないと言う。 
 自分では寝がえりさえ出来ず、天井を向き静かに目を閉じる。見舞いに行った時、微かに聞こえる寝息にホッとする思いになった。
数々の思い出はこれからも多くの人達に感謝と元気を与えるに違いない。
 こうやっているだけで、家族にとってどれだけの支えとなっていたことか・・・。彼は生き切るということで最後の役目を果たした。

 私は正直、声を出して経を読むことができないかもしれない。生まれた日が2週間の違い。彼が兄貴分でいつも先達を勤めてくれた。決して自分が上に立とうとなど考えず、控え目に相手をたてた。
 この歳になると多くの人との別れを経験し、いずれ自分も逝く身だという思いが強まる。
 黄泉の世界も満更でもない気がするが、せめて私が出来ることは先に逝った人達に顔向けできるよう残された時間を生きることしかない。
 既にボールは投げられ、私がしっかりミットで受け止める番になった。
 後、10日で62回目の誕生日をむかえるはずだった友に感謝と哀悼の意を伝えたい。