原究131

 

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
2131 言いまわし 5/15 2136 黙認 5/20 2141 許されるなら 5/26 2146 一段落 6/1
2132 先回り 5/16 2137 やる気 5/21 2142 回向 5/27 2147 テーマ 6/2
2133 1回切り 5/17 2138 壊れた 5/22 2143 イメージ 5/28 2148 文章表現 6/3
2134 通夜式 5/18 2139 人間喜劇 5/23 2144 Nothing about 5/29 2149 決断 6/4
2135 順応力 5/19 2140 過激発言 5/24 2145 有言実行 5/30 2150 自助・共助・公助 6/6

2131:言いまわし

言葉の綾といえば、言いまわしのこと。
 相手に自分の気持ちを伝える時に、もっとこうして言えば良かったと始終反省します。全て後の祭りになるのですが、世の中がここまで入り組んできて、何がどうなのか解りづらく、誤解が重なり、修復できない状況もあります。
 日本のスーパー業界の先駆者であるライフの鈴木会長の話を聞きました。茨城にはライフの店はありませんが、首都圏と大阪・神戸地域に270店舗以上あって、売上5000億円を越す業界のトップ企業です。
 立志伝中の人というには大変失礼で、現役で今も第一線で頑張っておられます。企業戦士というイメージは全くなく、温和な風貌で包容力がありなんでもござれという感じです。
 戦後、日本は34名の総理が替わった。ドイツとフランスは8人、英国は12人という話。殆どの日本の歴代の総理と親交を深めたという。34名全てが『良い人達』ですよと言う。
 その背景には、ご自身の戦争体験が深く関わっていて、戦死した仲間に申し訳ないという気持ちが経営の根本にある。
 最近の書店を覗くと、その殆どが後ろ向きで危機感を煽るようなものばかり、著者の殆どが戦後生まれ、これでは駄目だと断言する。話は昔を懐かしむ内容が多かったが、東京裁判の時に敗戦国日本を二度と経済や軍事面で台頭できなくなるようにすべきだという意見が大勢を占めたなかで吉田茂総理が毅然として日本の自主独立を譲らなかったという話。
 その吉田総理を一番に評価した。今の野田さんをどう見ますかという質問に歴代の総理で大平さんに似ているという。
話は良く聞くし、我慢強いと評価した。惜しむらくは、熟練した参謀がいないことだと言った。
 人の評価は千差万別、確かに34人もの総理が戦後65年の間に変わった日本は世界にその類を見ない。焦土と化した日本がここまで発展できた事は奇蹟に値する。何故できたのか!それは優秀な国民だからできたこと、後ろ向きな話ばかりするのじゃ無く、もっと自信を持って前向きになれと喝破した。
 還暦を迎える年代の5年前に生まれた人達から戦争の体験が無い。過去の歴史を変えることはできません。評価は別物。
 日本が今どのような状況に置かれているのかという評価がマチマチ、決定的な問題は、政策の是非以前にこれで行くという決断が出せない事。最早、消費税を10%にあげても仕方が無いと考える人が多いと思う。私自身もそうだ。不景気の今、消費が落ち込むという反対論者もいるが、世界135カ国で税率はもっとも低い部類に属する日本、今を生きる我々が借金を孫子の代に残すような事をやっている。
 無駄の削減は当然である、同時並行で行うべきだ。貴方は削減をどこまでやれば納得しますか?税金を上げてしまえば、もうその議論はしなくなるという危惧はおかしい。だってそうでしょう。一票は誰がもっているのでしょうね。我々国民ですよ。
 やるべき事は先ず無駄を省くことという人達よ。何か他人事に考えているとしか私には思えません。
 無駄と恩恵は一体ですよ。回り回って自分の利になっている事を忘れている。
 そこでだ。税の一体改革を思い切ってやりなさいよ。反対した議員は袂を分ければいいのです。それが大量に出るからとビクビクして先延ばしにすることは間違っています。
 民主党の先生達に言いたい。どっちを選ぶか自らの責任で判断しなさい。そして有権者の判断を受けるべき時ですよ。
 フランスだってギリシャだって日本と比にならない侵略の歴史を持っている。同一言語で単一民族の国など世界に目をやっても有りません。時代が確実に変わったのです。
 補助金でどうにか守られている産業、持続するのは難しいですね。既得権の死守と声を荒げてもできますか?
 
  あのですね。小性、この度、近くにオープンしたトレーニングジムに申し込みまして、初めて昨日行きました。するとどうでしょう結構広い建物ですが、凄い人数でした。聴きたく無くともお喋りが耳に入ります。「あのね!!!痩せないとね。去年の服、みんな着れなくなっちゃって・・・・」
 贅肉って無駄ですよね。

2132:先回り

先読みして手を打つのが得意な人がいる。
 情報の収集とその分析に長け、他より如何に先回りしていくか!一方、それとは全く逆に自らは動かず、周りの状況をじっと見ていて、オコボレ頂戴とばかりに真似するのが実に上手い人・・・・・。しかし、どんなもんでしょうね。
私自身の狭いプレイグランド、寺の住職と障害施設、殆どの時間がそこに割かれている。それを40年も続けてくると自然と視野狭窄となって良いアイデアが浮かばない、何を考えても堂々巡りで気がつくと元の場所に戻っている。
 昨日、友人と久しぶりに話をしました。定年で仕事を辞め、東奔西走実にフットワークが良いと感じた。活き活きとした感じで様々な思いを語ってくれた。
 そこで気づいたのだが、長いこと同じ仕事をしてくると共通するものがかなりあったということが分かる。
 今の福祉に携わる人達に、果たして止揚学園の福井達雨先生の話をして通じますかね?
 ・・・・・何故、止揚学園という名前にしたか、近所の人は、止揚(しようがない)子供と止揚(しようがない)職員が集まっている学園だと思っている。でも私達は止揚(しようがある)子供たちと止揚(しようがある)職員だと思っている。・・・・・・・・
 滋賀県にある知的障害者の施設ですね。滋賀県は私にとってずっと模範とする県です。糸賀先生・池田先生・田村先生・福井先生・・・皆さん、最早雲の上の存在です。琵琶湖という日本一の湖の周りには、有数の名刹寺院が幾つもあって、自然豊かでのんびりとした所。(*:しかし、県民は近江商人の逞しさも併せ持つ)業界切っての研修と言えばフォーラム in 滋賀であり、参加した事がある人は最初に度肝を抜かれるはずです。
 それも元を辿れば、良き先輩に恵まれたという事でしょう。他では真似できない先人の後光がさしている。
 暫く、滋賀県には行っていない。いつも本山(奈良長谷寺)に行く時に新幹線の車窓から眺めては当時を思い出す。
 人間の一生を長いと感じるか否か?充実した人生だったと黄泉への旅立ちの時に心から思えるか!
 障害福祉の歴史を辿れば、今のような形になったのは、戦後のことです。歴史ある施設といっても精々60年ちょっとである。誠に浅いのです。その中で制度を捏ねまわし、ああだこうだと騒いでいるのはチャンチャラおかしい。
 先輩達が見たらどう言っただろうか? 私の年齢になると、昔の方が良かったと思う事が実に多い。これから生きていく若い人達は大変だなーと思う。
 大きなお世話だと言われるかもしれないが、今、問題になっている原発をどうするかという事を考えるだけで容易に想像できる。面積日本第2位の湖は霞ヶ浦、フクシマ原発の影響が無いかと言えば嘘になる。魚の出荷自粛は既に行われているし、霞ヶ浦に繋がる大小河川の汚泥を調べれば結構高い数値が出るとか?もし、飲料水に不適合となれば、大変な問題となる。琵琶湖と霞ヶ浦の周辺環境は全く違う、レンコンの日本一を誇る産地だけに水質の比較をすれば直ぐに分かるはずだ。
 福井県にある原発の再稼働、地元町議会が圧倒的多数で再稼働容認の議決をした。これもまた拙速に出した結論だと言ったら叱られるだろうか。
 でもね、滋賀や京都、大阪だって万が一フクシマと同様の事故が起こればどうなるか?その事を後ろ向きな考えだと批判出来ますか?
 どうも、日本人には、市民運動とか体制批判を良しとしない深層心理(?)が働くようだ。これも戦後処理が充分でないという事だと思うのだ。昭和15年の大政翼賛会を経験した割には、この国をどうしたいのかというと確たる考えを持ちえない。
 骨抜きにされたのかどうか?
 原発をどうするか?という問題は、日本だからこそ明確な方針を世界に発信できることだと私は思うのです。昨日5月15日は沖縄にとっては記念すべき日である。
 あの場に鳩山さんが行って、県民に謝罪したと言う。米軍基地を国外か少なくとも県外にと総理現職の時に演説した張本人、自らの思いが先走ったとかいう弁解だった。
 それを鳩山さんのあの話があったから、沖縄県民が一つに纏まったとかいう評論家が出る始末。
 どこまで無責任な人を弁護すれば気が済むのか!煮えくりかえっている沖縄の人々と福島で避難をされている人々を決して少数派にしてはいけない。

2133:一回切り

弘法大師が高野山奥の院で入定、平家物語には「高野山に性身の大師入定しておはします」と記されている。入定とは禅定に入ること、死んではいないと解釈し、今でも高野山では毎食を運んでいるのです。
 誰だって死にたくは無い。できる事なら長生きしたい、そのように思うはず。だけれども何時かは死ぬことは判っているのです。これは人間に課せられた永遠の課題であります。死後の世界が有るのか無いのか?
 そんなもの誰も行った事が無いんだもの解らんでしょうとモノには書かれている。何かガッカリですよね。科学万能な時代になっても一向に自死を選んでしまう人が後を絶たないのはその辺に理由があるのかもしれません。
 V・フランクルは一貫して生きる意味を問い続けた。ナチ収容所という極限状態の環境でさえ、生きることへの執念を持ち続けた。 その言葉には説得力がある。
先の弘法大師は自らの人生を1回切りだと考えていただろうか?真言教学に説かれている祖師の教え、凡夫の私には到底理解できません。ただ、信じたい。
 僧侶になって、最後のお別れに立ち合う時、遺族は本当に様々な表情を見せます。泣きわめく人は少なくなったが、「ありがとう」とか「今度生まれてくる時は丈夫な体でね」とか声をかける人が結構多い。
 今度生まれてくるか否かは判りませんよなんて僧侶の私が横やりを入れたらセレモニーは台無しだ。
 そこで、最近私が確信に至ったのは、something(何か大いなるもの)が見ているということである。
 その証拠を見せろとか言われても出しようが無い。ただ、そう感じているのだ。どうです?皆さんも同調しますか?
 somethingはsomethingである。親だったり時として友人だったり、仏だったりする。
 対話までは残念ながら行かないのだが無言で見ていると感じる。
 現実的な話に戻ります。
 いま、2年後に茨城県で開催する研究大会の構想を練り始めた。福祉の仕事を始めて、40年になろうとする。そろそろお暇する時かと囁くsomethingがいる。しかし、現実に尻をまくって、アンタらがやればとは言えない雰囲気である。皆がやれというのであれば、逃げるつもりは無いからやってやる。
 成功するか否かの評価なんて構わない。自分のホンネで勝負してみたい。綺麗ごとで事無かれ主義の研修には辟易している。言葉巧みな人間は捨てる程いる。
 それを私の置き土産としてメッセージを送りたい。
 先ず第1段階として、何をテーマにするべきかを何人かの意見を伺うことにしよう。
  石原都知事への評価は様々である。BSフジでの番組で尖閣諸島を東京都が買うとの発言の本意を聞かれ、彼流の言葉で中国がどう思うかなどお構いなしに自論を述べた。不思議なもので、他の人ならば物議を醸すようなことを言っても石原さんが言うと然程問題とはならない。
 経団連の代表が中国訪問を行い、中国の外相との接見をキャンセルされた。先の日中韓代表協議の際にも野田さんが2者会談を拒否されたのと多分同じ理由だ。韓国と日本を明らかに差別している。
 外交の難しさだと思うが、黙って引き下がるのもどうかと思う。
メデア報道の情報からしか解らないから鵜呑みにはできまい。それに外交辞令は通じない世の中になった。その類の交渉術は日本人は大の苦手、石原さんが「小沢さんと組むのは絶対嫌だ」と言ったとか?もしそれが本当ならば、石原さんへの私の好感度は増しますね。ハッキリ物が言えない議員が多過ぎますからね。
 彼らは当選して一回きりだとは思わないのかね。こんな事をしていればということですがね。
 

2134:通夜式

昨日は、ちょっと忙しかった。施設関連の研究会の資料と睨めっこ、2年後に計画している関東大会への準備である。7年前につくば市で実施した時の資料が部厚いファイルに5冊、きちんと保管されていたのを事務局より2冊拝借、さてどう進めるかのイメージ作りを午前中一杯かかってやっていた。午後、予定外の来客があり、約束していた訪問を忘れてしまい後でお詫びの電話をした。
 夕方は通夜があった。地元の有志だから、大勢の弔問者があった。
 それから職場に戻り、あるPTの集まりに加わる。8時過ぎには終わって、3人で利右衛門で食事、そこには先ほどの通夜に列席した知り合いが大勢、忌中払いの真っただ中、結局、閉店間際に自宅に戻った。
 今日の仏さんには数々の思い出がある。地元神立を良くしたいという一念から議員になった。何期つとめたのかは良く知らないが、長い期間市議会で活躍された。声の大きな方だった。私の知る限り、引き際の良い方だった。多くの公職をスパッと辞め、私が最後に一緒に席を並べたのは、市の民生委員推薦委員会だけ、その委員長を長いこと引き受けていた。体調を崩され、それも辞め、何年たっただろう?
 神立駅周辺の再開発が遅れ、氏は忸怩たる思いでいたに違いない。それがやっと動き始めた矢先、享年87歳、既に逆修で生前戒名を寺からもらい墓には朱を入れた戒名が彫ってある。
 その意味では豪放磊落の面と緻密さを併せ持っていたのかもしれない。
 晩年は病気との闘いであったと聞く、地域にあって存在感の大きな人だったことは誰しもが認めている。

 古代インドのヒンドウー教社会で人間の一生を四期に分け、学生期・家住期・林住期・遊行期と言ったことは、何かで見たことがあると思います。平均寿命が延び、若干の時期のズレはあるだろうが、四住期というこの考え方は自分を見つめる際に目安になると思います。学び〜家庭を持ち〜働き〜晩年を静かに過ごす・・・実際にはこの通りには行きません。それぞれがそれぞれの生き様があるという事。ただ、過去を振り返るとその全てが一瞬の出来事であったことがわかる。
  これは某先生によると、脳には抑制機能があり、これが一番進化しているのが人間、知能は勿論、運動機能にも大きく影響しているという。徐徐にその機能が劣化し、所謂 ボケ症状が目立ってくるという。自然の成り行きだと言う事だ。
 だから社会生活を送る上で、何らかの支障が出始めた時には引き際を考えることが良いとなっている。
 こればっかりは本人が判断しにくいもので、その人の性分もあって、いつまでも留まろうと盛んに足掻く人もいる。でも取り巻く連中が一人また一人と去っていくから本人は解るはずなのだ。
 打ちあげ花火と同じで、周囲の眼が自分に向かなくなるとドカーンと一発打ちあげる。忘れた頃に顔を出し、今更なんだい?という冷めた視線にあって、退散する。随分とそのタイプの人間を見てきました。だから、自分はそうはなりたくないのです。
四住期で最も重要なのは、最後の遊行期だと思う。飛行機ならソフトランデング、安全に着陸するのが一番の操縦の難しさ、
 ちょっと話を変えたくなった。申し訳ないのだが、福祉の事である。
 入所施設が悪という考え方は燻り続けている。人権蹂躙とまで言う関係者は無くならない。ならば地域で生活すれば解決する問題ですか?と逆質問をぶっつけたい。名を捨て実を取るという選択は無いのでしょうか?
 古代インドの思想を勝手に解釈すれば、やっぱし、ソフトランデングで行くのが安全安心という事になるまいか!
 その議論は避けない、寧ろ、望むところである。
 

2135:順応力

高齢者介護の常識に逆行するある試みが取り上げられた。「バリアーフリー」では無くてバリアー「有り」だという。この発想はお年寄りのリハビリに障害を取り除くのではなく、敢えて障壁となるものを用意し、そこで本来持っている自立の機能を伸ばそうというものらしい。
 環境への順応力の研究も進んでいるようですが、同範疇に入るだろう「免疫力」や「抵抗力」、これもまた一定のルールから逸脱した新たな発想が望まれている。
 学問全てに通じる事かも知れぬが、あるテーマをより深く研究していくと相反するものとの対比にぶち当たるものだ。
 少々、心理学などを齧ってみると、それが良く判る。さらに突き詰めていくと宗教や哲学のジャンルにまで入り込んで絶対的なルールというよりも信じるか信じないかの二者択一に至る。
 「いい加減」とか「適当」というと人間の評価では低く見られ、遠ざけられる傾向があります。こんな言いまわしが有るのも事実だ。・・・・・アイツはいい加減な奴だから適当に付き合えば良いのさ・・・・・と。
 ハハーン。方や固物と言われる人間も敬遠されますね。拘りや自己主張の強い人間って付き合いづらいものだ。
 高齢者と障害者の支援で決定的に違う事が有るだろうか?幼児と青少年とはどうだろう?
 実は、無いと思うな。有るように勘違いするのは、制度や仕組みで区分けするからで、お年寄りの中に若者に負けない体力の持ち主はいくらでもいますでしょう。
 日本の福祉制度は、あまりにも細分化し複雑になっていると言えます。これは一体どうしてこうなったのか?多分、関係者は良かれと思いその仕組みが作られきたもののはず。
 だからでしょうね、自立とかノーマライゼーションという言葉が先行し一人歩きしている。何かの旗印を掲げないと不安になる症候群に皆が罹っている。資金が潤沢に廻った時代、そこに上手く入り込む輩は国のお墨付きを貰って、日本全土、縦横無尽に張り巡らされてしまった。
 私は、その当事者という自覚と共に、それで良かったのかという反省は常に持っている。決して今が良いとは思わないし、このままでは日本が持たない。
 だが、見誤ってはならない、危機感を煽る人達は全く無責任で薄っぺらな知識を売り歩く。
 社会保障と税の一体改革がどうも二番煎じに思えてしまう。この国がどうなれば良いのかという徹底した議論には程遠く、どうしても取りあえず的な中身となってしまう。継続審議していれば責任逃れができるってことですか。
 
 私が言わんとする事は、決して後ろ向きな事ではなく、寧ろその逆だと信じている。生活保護の受給者が過去最高の200万人を超えた。当然、これは税金が原資、一方、その負担の増はおっかなビックリ、顔色伺いですよね。
 なぜ明確な方針が出せないのか!本当に国を思う人がいないという一語に尽きます。言い過ぎですか?
 お前ならどうなんだ? 言わせて頂きましょう。定年制なんか撤廃しちゃえば良いと思っています。なんで年をとると年金で暮らさないとまずいのですか?
 だってそうでしょう。お年寄りには老後をゆっくり過ごして頂きたいという本心はこの国には無いと思う。姥捨て山とまでは行かないが、そう思える実態はありませんかね?
 果たしてコペルニクス的な転回ができますか?少子化という問題も実は作られたテーマですよ、産めよ増やせよと言った所で無理ですよ。戦後焼け野原からどうにか立ち直った日本人、あれから60年以上経って子育てのメリットって何もないでしょう。
だから大転換をして、人口が減少しても幸せに暮らせる国づくりを目指すべきだと思っている。
 税収が上がらないってか? 何言ってますか、誰だって身銭を切る事は嫌なんでしょう。シコタマ貯めて、預金残高を眺めている幸せって何なんだろうね?
 世間体をあまり気にしないこと。国を変えようとしたって簡単に変わらないと覚悟すること。
 さーて、どうする!!!!!
『止揚』(しよう)という言葉に何かヒントがあると思うのですが。
 

2136:黙認

昨日は一体何事かと思える事態が起こった。利根川水系でホルムアルデヒドが国の基準を超え、取水を止め、千葉県内の35万世帯が断水となった。この化学物質は接着剤や塗料に使われるもので、シックハウス症候群の原因とかで問題になっているもの。何故、飲料水に混入したのかは調査を待たねば解らない。各浄水場の水質検査から群馬県あたりの支流から流れ出たものだろうとの報道があった。
 何とも気になる事が立て続けに起こる。地震から始り、放射能、それと竜巻、今度は水質汚染である。これら全てが自分達の身の周りで起こっている。皮肉なことに、全てが肉眼では見えないものばかりときている。
 景気対策や社会保障の問題が騒がれている間に我々の生活を脅かす様々な事象が確実に増している。
 これらの問題を防ぐことはできないのか?黙認し騒ぎが収まるのをじっと我慢せよと言うのでしょうか!
 今年の夏の電気供給は原発の再稼働が無ければ不足、だから節電の協力をと全国でキャンペーンが行われている。
 本当に電力不足は起こるのか、昨年のように計画停電が実施されるのか?
 今まで当たり前と思って使って来た電気や飲み水がここにきて一気に不安材料となっている。
 これも、日本人の誰しもがいずれは起こるだろうと言う危惧は持っていたはずで、実際に起こってみて尻に火がついたと言うことだ。
 秀吉が毛利討伐に際し兵糧攻めをしたことは有名、なんだか日本中が得体の知れぬものから食料や水の補給を断たれていくように思えて仕様が無い。
 国は数値基準を定めながら、それを摂っても健康に即被害は無いという触れ込み、何かバカにしているように私には思えます。注意の喚起を狙ったというのであれば、その対応策をもっと本腰を入れてやるべきでしょう。
 確かに、リスクマネージメントとか苦情対策ということがあらゆる分野での関心事、これが現代の特徴でもある。
 サービス事が契約になり、便利さを金で買う時代の宿命だ。訴訟ごとが増え、その対策に企業は多額の保険をかけている。声大きものが得をし、泣き寝入りすると損をする。こんな時代に誰がした!
 何を隠そう、国民の一人一人がそれを選んだ結果である。安心を買うとなれば格差が生まれるのは当然で、恨めしく指を銜えて見ている人も増えてくる。
 まだ、分岐点には差し掛かっていないのでしょうか?どっちの道を進もうかと迷う市民を公約で口車に乗せたは良いが、約束の不履行が常態化、その責任は誰も取ろうとせず、次なる選挙の当落に無我夢中。国民のこのストレスは相当なもの、いつも思うのだが、日本人は辛抱強い希なる人種、決起せよとは言わないが黙認していることが果たして良い事なのか、ここいらで誰もが自らの頭で考える時ではないか。
 考えて行動に移す。P−D-C-A.....どこかで見覚えがある字列なり。
 確かに、目一杯アクセルを踏み走ってきた日本人が、やっとガソリンが無ければ走れないことに気がついて、スローライフの推奨や絆の大切さを訴え始めてきたのは事実でしょう。
 いずれ、時代の寵児とか持ちあげられた一部のセレブ達も今の夢のごとき生活が行き詰まることを経験するはずでありましょう。
 そんなにおテントウ様はお人好しでは無いと思うから。
 

2137:やる気

今日は金環日食が起こるという、この辺は雲っているから、どうだろう見えるかな!
 月が太陽と地球の間に入って太陽のはみ出した部分が環のように見えるというものだ。自然の不思議さは、人知の及ぶ所ではない。皆が楽しみにしていたのだから、雲よ晴れてやれよ。
 でも、人間は勝手だわな。そう思いませんか。
 ・・・・・最近、心境に変化をきたしまして、やる気が出て参りました。暇が有れば草取りと歩きまわる。それでは飽き足らず、スポーツジムに通う事にしました。
 何に刺激を受けたのかと考えて見ましたが、特別思い当る節はありません。強いて言えば、フランクルさんの本ですかね。
 以前に紹介したと思うのですが、『夜と霧』を書いたあの方です。枕元に2冊並べ、交互に読んでいるのですが、重い内容かと思いきや、実はそうじゃー無いんですね。人間の生きる意味とかいうから、難解な内容かと覚悟したのです、確かに人間の根源的なテーマですから、哲学や宗教の内容もありますが、具体的な例をあげ解説しているから解り易い。
 アウシュビッツでの収容体験、いつ自分がガス室送りになるかという恐怖と背中合わせの中で人間は生きる価値をどう見出すか?
 彼の言わんとする所はこうだ。「人生を自分がどう生きるか」と問う観点ではなく、「人生が何をわれわれから期待しているか」が問題だと言うのです。それは人生が各人に課する使命を責任を持って行っていくことが生きるの意味だと断言する。
 苦や絶望を人生が我々に課した使命というのだ。フランクルが極限の状況に置かれた中で、このような思いに至った所に意味がある。
 戦争は人間が犯した尤も野蛮で無意味な行為である、・・・・・が、何故そう解っていても止めようとしないのだろう?
 現代の最も焦眉のかつ根本の課題は、生きる意味の再発見だと言われる。
 周囲を見回せば直ぐに分かるでしょう。予告なしに襲ってくる自然の猛威に翻弄され続けています。情報が錯綜し、危機感を煽っている。その中で我々は生きた心地などせず、日々の雑務にその事を忘れ幸せ(?)を求めるべく足掻いているのだ。
 最近良く見かけるようになったスローライフという言葉の意味は、何故、そんなに遮二無二生きようとしているのかという警鐘だと思う。
 
 エイ!ヤッ!やる気を出すには体力が条件だと考えた。しかし、まだ始ったばかり、そこで見た光景が何か妙な感じ。
 ズラリと並ぶ運動器具に各々が真剣に取り組んでいる。器具にはそれぞれ体の部位が書かれ、その部分のトレーニングになるという意味。
 腰周りの強化のマシン、これは草刈り機と全く同じ動作、ランニングマシンは単調な運動を動くベルトの上で行うもの、前面の表示板にはIpadやテレビが見られる最新設備・・・・・・。至れり尽くせり
 節電が叫ばれているのに私は罪悪感を持ってしまった。自転車漕ぎ、そこには距離と消費カロリーが表示される。皆が皆、水分補給しながら汗をかいている。あれで発電したらどうなのか?
 体に付き過ぎた贅肉を消費するカロリーを発電量に転嫁できないのだろうか?今日はこれだけ貴方の努力が社会貢献いたしましたと。
 やる気には、疑問が付き物、結果を求め過ぎては続かない。  まだ2日目の挑戦である。
 
 金環日食が見事に見えました。有り難いことです。
 

2138:壊れた

作業道具を目一杯載せた私専用の軽トラは走行距離7万キロ、修理費が嵩むようになっている。タイヤは取り替えたばかりだしオイルの交換は定期的にやっているから快調です。
 昨日は道端の草が伸び過ぎて、前から気にはなっていた。午後から草刈り機を持ち出し、始めたは良いが、直ぐにエンジンが止まってしまった。いくらやってもダメ、この草刈り機は10年以上使っている。騙しだまし使ってきたが、今回はダメかも知れぬ。
 先日、電子レンジの修理を頼んだ。その時、同じメーカーのエアコンが使えないから見て欲しいと言ったら、直ぐに製造年月日を見て、首を傾げられ、それ以上話すのは止めにした。
 何だか知らないが日本製品は優秀だという割に少々古くなったモノには自棄に冷たい。メーカーの使え捨ての構造が抜けきれない。困ったものである。
 しかし、草刈り機もレンジもエアコンも贅沢品、多様な機能を付けようと進化を続けている。いずれもガソリンや電気が無ければ無用の長物で、昨今ではその資源の確保が危ういときた。
 燃料切れの機械程、邪魔なものは無く、全てが高額な品物だから、使えないと大変な無駄となる。燃料切れで草刈り機が動かないと販売店に文句を言っても変に見られるだけ。
 社会の仕組みが全てが全てこのようになってしまった。これを元に戻そうなど考える人も無し。
 政界に時の寵児として颯爽と登場した大阪市の橋下市長、彼の手法は今までに無かったタイプ、意図的なものかどうかは知らないが、従来の考えや組織を壊してから考えるという、かなり急進的な政治集団に思える。慢性的な病巣には漢方では無く外科手術が有効との思いだろう。
 彼の貢献度は高い。先ず、何がどう可笑しいのかを公にさせたという事である。人間誰しも自分の不利になることは本能的に避けようとします。御身が一番可愛いという事で、市や県、それに国がどうなろうと知ったこっちゃ無いと思っている。
 多勢の中には奇特な方がいるもので、自分はどうなろうと構わない。この国を救わないと・・・・・・全部は否定しません。
 結局、複雑になり過ぎた社会では、価値の判断は限りなく原点に戻るしか無いのかも。
 壊れた場合を想定し予備のモノを用意しておく、そうすれば問題なく草刈りだって昨日の中に終わったはず。
 しかし、今の日本が深刻なのは、その予備のモノまでが不具合だと心配になっている状況だ。年金問題だってそうです。自分達が現役を退き、収入が減った時の補完財の目的で始まった。持続可能な仕組みなど出来る筈がないのだが、国会では相当な時間を割き議論を重ねています。
 壊し屋を自ら認める、ある偉いお方に聞きたい。貴方様は壊した後、どう組み立て直そうとするのですか?その自説を表明する機会さえ奪われたという事なのでしょうか?
 要は、無くなったものに拘るより、新たな代替を探し出す事に精を出すことです。
 史実が証明するように、不自由を感じた時に新たな発見がされた。みんな、そうですよ。節電、やりましょう。
 丸亀市は団扇の生産では全国一、いまその需要が伸び、生産に追いつかない状況だと伺った。高価なリハビリ機など要らない。手を交互に団扇を使えば、立派な機能回復訓練だ。

*香川県丸亀市。大正初期に脇竹次郎という方が竹骨を作る機械を発明、それを一人占めにしないで、多くの人に広めたことで一大団扇の生産地となったという話。浴衣に団扇・・・日本の古き良き時代じゃーありませんか。
 

2139:人間喜劇

19cのフランスの作家、バルザックは私がどこでどう足を踏み誤ったか定かでないが、卒論テーマに選んでしまったフランス文壇の巨匠であります。
 『人間喜劇』という言葉に釘付けになり、一体、どんな喜劇なのかという興味が湧きました。調べてみて驚いた、なんとも壮大な構想で、19cの風俗、私生活、政治、哲学等・・・に体系化されたものでありました。残念ながら彼は50歳で亡くなり、その計画は完成されずに終わったのです。
 バルザックの作風は独特で、「人物再登場法」というものを駆使しており、脇役で登場させた人物を次の作品では主役に抜擢するという作品間に連続性を持たせるものです。
 何故、そのような事を思い浮かんだのかは良く知らないのですが、19cの社交界や田舎生活の有り様を写実的に書かれた作品から伺う事は充分可能です。ドストエフスキーやトルストイのロシア文学の先駆けだと言われます。
 日本にその類の作家が過去にいただろうか?どうも見当たらないような気がするんです。今の世の中を『喜劇』として著すには、それ相当の批判を覚悟せねばなりません。最近は危機を煽るものや成功者の自叙伝的なものならば、枚挙に遑なく書店で見つける事は容易であります。
 特に政治絡みのものは、薄ぺっらで取るに足りないものばかりだと思います。もし、バルザックならば政治家を主人公に書いたとしたらどのように書くでしょうね。詐欺師?これって言い過ぎでしょうよね。言葉巧みに大衆の眼を誤魔化して、自らは知らないの一点張りで責任を取らず、自分の利のみに関心がある人はいます。私は思うのですが、日本の政治を悪くしているのは総理経験者がズラリと居並ぶ国会ではないかと思うのです。いい加減に退いて貰いたいものです。
 私がバルザックに魅かれたもう一つの理由は、彼の風貌にあります。腹の突き出た体型と異常に立派な口髭、葉巻きとワインを常に離さず、豪放磊落に人生を楽しんだ好人物、どこか愛嬌があって憎めないのです。そこに魅力を感じた訳です。
 
 良寛・芭蕉・山頭火・・・・この漂泊の人達に現代人の多くが何かを求めています。一定の住処を持たず、全国を彷徨った。決して世捨て人などでは無く、訪れる場所に必ず喜んで一宿一飯を提供する信者がいる。それは難しい話を聞きたいからというのではなく、言葉を交わすことで満足する人達なんですね。
 選挙マジかになれば、地元に足を運び、俄かに手柄話を押し売りする今の政治家と偉い違いでしょう。
 そのモノ達が、国会と言う歓楽街さながらの不夜城に立てこもり、ああだこうだいくら議論しても、結果は明らか。
 これを『喜劇』というか『悲劇』というか?
 ご承知の如くフランスは大統領が変わりました。国民の審判が下ったということだろうと思います。一方、日本の政治はどうか?子供騙しみたいな事を一向に止めない。
 可笑しいと思いませんか?同じ政党内で代表者が党内の議員に合うのに人を介さないと実現できないという構図は、なんと説明するのですか?これはもう、政党の体をなさず、自らの勢力維持にのみ政治生命をかける地獄図そのものだと私には思えて仕様が無い。こんな『喜劇』は、今すぐに幕を下ろし、一座を解散すべきなのです。

2140:過激発言

閻魔様に叱られる・・・ 夢だった。 
 暫く無かった悔みが続いた。タクシーの送迎を受ける。以前、定年制なんか無くしちゃえーとか言ったような気がするんです。でもちょっとね。時と場合によるかな?通夜と葬儀の運転手さんは違った。でも共通するのはお二人とも相当なお歳、雨が降り薄暮の時間である。何も私からは言わなかったのに、目を擦り、顔を全面ガラスにぶつかる位まで近づけ、「こんな日が一番嫌なんですよ。見えにくくて、おっとアブね・・!」とか独りごと。そして翌日、時間になってもなかなかタクシーが来ない。遅れては不味いと思い斎場に電話した。すると「行き先を間違ったみたいで、直ぐにそちらに向かいますからお待ちくださーい」という返事。
 その運ちゃん、私が何も言わないのに、「お寺と学園じゃー大変だ。建物つくるのに国から貰うお金、なかなか大変でしょう・・・」とか喋り始った。「そうね。」と遅れた事はそっちのけでお臍が少々曲がり気味だった私は素っ気なく応じた。「私はね。実は大阪で福祉の仕事やっていたんですよ。」「へーそう」「その前が自衛隊です。全国区で飛び回り、なんでか知らんが土浦に棲みついて人生半分過ごしましてね。」「そうですか」「あとね私は人が混んでいる所がどうも嫌いでね」
 ・・・・少し、話が途絶えたので「大阪の市長さんどう思います?」と私から話し掛けて見た。「ありゃーえげつないですな!」
 それで二人の会話は止まった。
 大分、お歳をめされている方で、乗り古したタクシーのギアが上手く入らない。
 乗客が不安になるような事ってどうなんだろう??? 余計な事は言わん方が良いと判断。
 いつも感心するのだが、タクシードライバーは良く世間を見ている。実に様々な人がいて、短い時間だが私にとっては一種の清涼水になっている。
 Go back to the starting point はある4字熟語を英訳したものである。さて、何と言う字でしょうか?

『原点回帰』です。初心に戻ることですかね。 
 悔みの席で必ず遺族から話される事は、故人との思い出、物ごころついた頃からの事が語れる人は関わりが深い人、親子の場合などが多い。でも、そうじゃないケースもあります。
 冠婚葬祭が随分様変わりしました。特に葬儀は、質素になっています。殆どの斎場では家族葬用のホールを持つようになりましたし、直葬という形をとり、病院や施設から直接火葬場に行って荼毘にふすことも増えています。
 そんな事を本日言いたかったんじゃ無かった。
 そうそう、橋下市長へのえげつないという話。評価は様々だということです。彼が船中八朔とか言って改革の先頭を切ったことは解っている。でも余談ですが名古屋の市長が全く影薄くなったかな?新たな手を考えているかも知れぬ。
 日本各地から狼煙が上がり、群雄割拠、戦国の世の再来か。
 でも、どうな姿を描いているんだろうかと気になりませんか?
 今の日本を成熟社会と見る見ないは別として、誰がやっても”消去法”を取らざるを得まい。それは痛みが伴うということです。
 それが嫌で批判覚悟で貧乏くじを引きたい人も無し。これでズルズル、気がつけばえらいこった。
 ちょっと耳にしたニュース、欧米の評価会社が日本の国債格付けを下げたとか。このまま行けばえらいこっちゃ。
 社会保障どころの話では無くなりますよ。
  少々控え目の過激発言というのもどうかと思うが、福祉関係者の皆さん!我が田に水を引く事ばかりに関心を向けている場合じゃーないんでは無いでしょうか!
 私はね、ホントに胸突き八丁にさしかかっていると思いますよ。
 過激発言=原点回帰。どうです?違いますか?  今度から自分の車で通夜に行こうかな・・・・・・・
 

2141:許されるなら

売れっ子の上方芸人の親族が生活保護を受給していたというニュースが連日賑わす。この事は日本のある実態を現している。つまり、常識が非常識と、またその逆も容易に起こる時代となった。
 気づかずに受給していたのかは分からない。いずれにしたってGDP世界3位を誇る国で、生保受給者が209万人というこの状況をどう捉えればよいのだろう。
 利便性を追求し過ぎると”働く”という意味が曖昧になる。手仕事がドンドン自動化し、それを良しとしてきた日本人が大いに反省すべき点ではないか!その最たるものは、自動掃除機なるもの。掃除機そのものが円形で壁にぶつかると方向を変え、タイマーが設定されていて時間が来れば止まる(*)。お隣のつくば市にはロボットを研究している国の機関があって介護ロボットやミニバイクなど商品化を進めている。
 人間の体はどのように科学が進んでも代替は効かない。それより使わない細胞(筋肉・神経など)は日に日に機能が低下するものである。
 円高差益で海外旅行が人気を博す、確かに1ドル360円時代を知る者にとっては価値が4倍以上に高くなった円は、頗る海外では有利に働く。しかし、為替は日々変動する。円が紙きれ同然になる可能性だって決してゼロではないはずだ。
 昨日、水戸である団体の役員会があって、自由な話し合いの場になってある方が、松野明美さん(元マラソン選手)の話を紹介した。彼女はご存知のようにダウン症のお子さんがいる。子育て奮戦記なる本も出しているが、生の講演も実に面白い。
 彼女が話す話は自らの体験を元にしたもの、だから聴くものの耳に抵抗なくスムーズに入る。何せ女子マラソンでの戦歴も一流でそれは彼女の凄まじい努力の賜物である。
 人として生まれた価値は、その人の外見では分からない。いつ、どこで、誰を親として生まれたかを変えることはできない。でも、その事に拘り、悩み苦しんでいる人も多い。松野さんのご家族は、その現実との闘いを逃げずにやったから今がある。
 人の内面をはかる事は他人にはできまい。心の病の治療を完璧にできるとは言えまい。変化し続ける事が常であるから。
 良く良く考えて見ると、人間の価値はそれと真正面から対峙する中からしか掴めない。
  嫌で嫌で仕様が無かった事、他人に知れる事を一番恐れた事・・・・・などなど。
 信仰は孤独であると誰かが言っていた。
 動物の中で人間が一番孤独を恐れると言える。自立をどう捉えるかという問題一つにしても様々な解釈があり、生まれて直ぐに立ち上がって自力歩行する動物もいるではないか。
 人の価値を探るに、一生という問題を避けて通れない。何しろ一生がどれ程の期間あるのか誰も解らない。これが人知を超えたどうし様も無い事。
 そこで哲学や宗教に縋り、自分の不安や孤独を癒そうと思うのだ。

 許されるのならば、漂泊の身に自分を置きたい。これはこの世で最高の贅沢だと思っている。無一物というものをどう解するか。何も持たずに旅をし金が要ればカードで現金に替えられるので心配は要らないと・・・・・・・。
 そうじゃないよね。本来無一物というものは、『一切の煩悩を離れた境地』だっぺよな。
  許されるなら、そんな世界で生きてみたいと思っている。

 (*)何を隠そう、我が家にもその掃除機がありまして、数日は使ったようですが、留守中に何かにぶつかって段差を踏み外し、動けなくなった。それ以来、物置の奥が居場所となっている。
 掃除機を使う前に 掃除をしないと使えない???一応、頂いたものとの弁解あり。

2142:回向(廻向)

ちょっと無理してみます。ご批判は覚悟の上で。
 回向(廻向)(えこう)という言葉について。
 この義は何か、廻転趣向とある。本来の仏教修行の有るべき姿と説く。善根功徳を廻らして一切衆生及び自己の菩提涅槃に向かわせるという意味なり。イヤー参ったな!何 言ってんの?
 要は全ての仏事の根本に置かれるという事ですよ。所謂、大乗仏教で言う処の根本原理。
坊さんが法事の時に「故人のご回向をさせていただきます」とか言いますが、これは亡くなった方の安心成仏を願うわけで、その諸願料がお布施と言う訳、昨今では「坊主に取られた」という解釈が蔓延ってしまった。実に嘆かわしい。
 布施という言葉も曖昧になった。本来の意味は、慈心をもって普く他に施与することですから、僧侶側から言う言葉なんですよね、じゃー坊さんに渡すのは何て言うんだい? まーそんな事はどうでも良いんですが、敢えて言いますれば”喜捨(きしゃ)”って言うんですね。なに!喜んで捨てるのかよって怒られそう。でも、そうなっているんだわな。
 あの・・・?貴方様は喜んで捨ててます?
 ・・・・が、最も肝心なのは、亡くなった方から我々に跳ね返ってくる功徳があると説く。往相回向・還相回向。大乗義章という解説書に解説されています。
 じゃー誰がという事になりますが、本来は行者と施主になりますよね。行者=僧侶という図式に少々?があると、これは何がなんだか解らない。実はここの所がつまっているから通りが悪い。
 仏教の福田思想というものをちょっと調べてみた経験からしますとね。本来の福祉というものは、回向という構図がピッタンコ。
 世の中に役に立っているという事は、日本人にとって表だって言う事を敬遠する傾向があります。陰徳とか言いまして、敢えて公言すべき事じゃーないよと控え目。
 ボランテアという言葉がスンナリと受け取れない理由はそこにある。むしろ、お互い様、困った時は助け合おうと言えば、そうだよなと抵抗感なく受け入れられる。
 昨日、尚恵学園の役員会を行いました。毎回、いろんな意見が出ます。議事録に纏めるのが大変なくらい。同じ資料を元に説明しても十人十色の受け止め方をされます。これホント。
 初代の時代と比べれば、今は随分変わった。福祉の予算も比較になりません。それをどう使うかが重要となっています。
 正直に言いますがいま経営をどうするか、一番難しいと思うのです。「私たち抜きに、私たちのことを決めないで」との問いかけにどう耳を傾けるかという事ですね。今回、新たな制度づくりがなされました。中身に関して様々な意見がありますが、良かった事は「質の変化」が見えてきたということが言われます。従来は障害者問題をそれぞれの当事者がバラバラに意見や要望を行って来た。それが同じテーブルで意見を交わすことでお互いの立場を理解し始めたという。これは実に大きい。
 問題は、当事者同士の共通理解が進んでも周りの人達の理解がどこまで出来たかと言うこと。
 何故でしょう?
 往相回向的だからではないのでしょうか?つまり、親はこの子らの為に、我々事業所は経営の為に!
こういった片側通行が依然として強いと思います。
 権利の主張が強まるというのは、この一方通行から来る。
 しかし、質の変化が現に起こり始めている。そこに上手く対応しないと、例の公的資金で全国に作られた超豪華な建物と同じ道を歩むことになりかねない。
 

2143:イメージ

上のスナップは友部サービスエリア(下り)を撮ったものです。
 これから何をイメージされますか?実は私が描いているある計画なのです。実現できるかどうかイマイチ盛り上がりに欠けている感じをもっている。”静”と”動”のコンセプト。ゆったりとした空間と全天候型の溜り場、施設から地域へという流れは、言うは易し。その実態を詳細に見て見なければその是非は論じられない。
 尚恵学園には2か所の入所支援施設があります。いずれも定員が50名。それを40名に減らしたいという目論見を持っていますが、これが一進一退。入所の空きができれば直ぐに希望者が出てくるという状況がずっと続いている。
 現行の制度では、短期利用で受け入れるということはできるのですが、自然と長期に利用される方が増えてしまう。
 ですから、住環境に変わりが無い。
 となれば、最後の決断は、事業所を現在地から完全に違う場所に移転させ新築すること。約60年間、1から始めた事業を一貫して現在地で行ってきました。平坦地というよりも、傾斜地を利用したもので、緊急時の避難や防災上、問題が無いとは言えない。ただ、違う場所に完全移転するとなれば、移転先の賛同を得ることが難しいと思っている。
 こんな話を聞いた。
 お隣の県では、地元への説明会の義務付けはあるそうだが、同意書を取り交わすまでは必要無いと。
それが絶対条件なら,これこそ差別に当たるという。なるほど。
 そして、こんな話まで、反対者と裁判をやれば事業所側が勝てるとも。なるほど。少し勇気を得た思いになった。
 福祉施設の建築を迷惑施設と考える国民は、如何なる国なのでしょうか?反対運動が起こって建築場所の変更を余儀なくされた話を今までに何度か聞いた。それでも強引に建築すれば、反対者との関係修復は難しくなるのは必至、それを避けるために計画断念という話も実際にはありました。
 障害施設を利用される方は何らかの体に不自由を持っている方、当然性格も違えば望みも違います。それが当たり前です。国に言いたい事がある。施設を建設する時に国も支援するべきじゃないだろうか?てっとり早く、反対する者には罰則を課すとか???
 この辺の思い切った制度改革がなされないと、人に優しい国作りはできません。そして国が目指す本当の意味の地域生活はできまい。
 昨日は笠松運動公園を主会場に第14回茨城県ゆうあいスポーツ大会が開催された。珍しく好天に恵まれ楽しい一時を送ることができた。
雨模様や寒い中で行うのと全く違う。参加者にゆとりを感じ、至る所に笑え声が聞こえた。
最初からこの集いには主題歌があって、歌のお姉さんとエレクトーン伴奏で参加者が唄う習わしだ。
おひさまといっしょに・・・・・・・みんなでうたおう おひさまといっしょに みんなげんきで  ラララララ おもいっきり・・・♪♪
 参加者の皆さんの笑顔は私たちに力を与える。
 この屈託の無い表情は、今の日本人が忘れてしまった何か大切なことを私たちに教えている。
・・・・・・ラララララ  おもいっきり おおきな声を だしあって・・・・♪♪ 
 雲一つ無い 青空の下

    県内各地から 大勢の仲間が集まった。


  ”
がんばっぺ 茨城” 今年こそは何か 元気が出る事が

          起こる予感を感じました。
  
 

2144:Nothing About Us Without Us

”私たち抜きに、私たちのことを決めないで!”が問いかけるものは何か?『手をつなぐ』5月号に掲載されている。
 私自身が今までして来た事が、その問いかけに反論するだけの資格を持ちえない。愕然とする思いだ。
今晩、つくば市で小宴が行われる。どんな話になるかは、やってみなければ分からない。でも、其々が自らの信じる事で必死に生きてきた初老の小父さん達である。
 今の世を憂いることは簡単だ。今晩私の声掛けに乗ってきた連中はそれで満足しない人達だと観ている。
 最近の日本人を私はこう思っている。例えの良し悪しは別として悪路と平坦な道の分岐点、どちらを選ぶ?となった時に、迷わず平坦な道を選んでいる。悪路を選んでしまって愚痴を言うのであればまだ分かるのに、平坦な道を選んでおきながら、地図も持たず道に迷って不満を言う、そんな連中が増えたと思っている。
 それでNothing about us without us なんて言うからチャンチャラ可笑しい。私はこの業界に関わって腑に落ちない事は何かと問われれば、ハッキリ言って何故障害者問題は一本化できないのか?という事だ。其々がバラバラに要求を突き付け、我が田に水を引く事だけが関心事、これでは何も変わらない。そう思うようになって、自分の立つ位置を意識して変えようと思った。 住田は何故あんな事に目くじらをたて騒ぎ立てるのかと陰口を何度聞いたことか!
 これも私的に言えば、予定通りの筋書き。日本人の多くが戦後、あの悲惨な体験に真っ向から対峙することを避けている。
 人間が一番恐れる事は”死”である。数百万という人々が戦争で亡くなった。これは現に日本で起こった事でしょう、国の為に尊い生命を捧げた人々の魂は浮かばれているのであろうか?
 主なる政治家や官僚が戦争を知らない世代となり、その人達がこの日本を動かしている。そして今の混乱、出口が見えず、其々が自らの地位・名誉を保つことに奔走している。そのように思えて仕様が無い。
 障害者を抜きに障害者の事を決めないでという声は障害者の必死の訴えでしょう。
 階段を登れずに困っている人を見かければ手をかすのが当然でしょう!
 だが、そうでは無くなった、この矛盾だらけの現実の社会は、障害の有無に関わらす生きやすい社会なのだろうか?
 昨日のテレビで生活保護の事に関して取り上げたものが多かった。生保を役所で受け取る日に近くのパチンコ屋は列が出来るという。これが全てでは無い事は分かっているのだが、現実に今起こっていることに目をそらすな!
 単眼的な視点ではなく複眼を持て!
 私は寺の坊主、もう1000人を優に超す葬儀をあげた。正直、記憶にハッキリと残っている数は少ない。
 如何なる慰め言葉も悲しみの深さに反比例、何も言えず早々に退席した悔みも多かった。何となく見えてきた事がある。
 それは既に黄泉の国に赴いた人々を身近に感じることで自らの死の怖さや悲しみが和らぐということかな。
 釈迦誕生仏の右手の指を一本上にあげている姿は何を意味するか。
  日本人は世界で希なる優秀な民である。それを否定するつもりは毛頭ないのだが、何が優秀なのかが曖昧になっているのは事実でしょうね。
 Nothing about you & me  without  you  &  me .。
  屁理屈かも知れません。でも us という語には 障害者の人達だけという意味合いを感じてしまう。共生を目指す社会には 自分達も同じという思いは欠かせない。
 

2145:有言実行

昨夜の小宴は、大変盛り上がりました。・・・・が、これからが大変だという思いに至った。やるしかない!
 9時過ぎに代行で帰宅、その運転手さんは、石巻で先の震災で津波に遭遇、自分は人生観が確実に変わったと話していた。後から思えば、あの時こうしていなかったら自分が確実に津波に流されていたと。テレビなどで繰り返し報道される画面に幾度となく恐怖で体が硬直したと話していました。
 自分がこうして代行の仕事が出来るのも不思議な位だ。そして感謝していると。
 丁度、帰る時間にもの凄い雷雨となる、あっという間に道路が冠水してしまいました。つくば市には先日竜巻があって、まだ住める状態で無い人が沢山います。身近に何が起こっても不思議ではない。その中で自分の生活を考えながら生きて行く。
 これって特別変わったことでは無いはずで、誰もがそうやって生きてきた。
 昨夜の話題に戻ります。入所施設を早く辞めたらと急かされた。この決断が出来ないのはアンタが悪いと。
図星でしょうね。言われずとも承知している。ならば、そうしなさいと念を押され、言葉を失った。私は現状に満足した事は無い。誰が悪いとは言わないが、元凶は自分自身だと思っている。様々な事が押し寄せ、正直、頭の中の整理がつかない。
 楽な道を選び過ぎているのだろうか?
2030年にどんなイメージを描けるか?という話になり、今のままではないだろう位は想像が付くがそれ以上の絵が描けない。
 有言実行どころか、言葉にならないのだ。
 兎に角、今私が出来る事は、真摯に課題に向かうことだと思っている。焦るな!といくら自分に言い聞かせても出来ない。
  昨日集まった連中は一人を除き、還暦を過ぎた人間、初老と言えば叱られそうだが、皆さんが何かをしたいと考えている。
 長年働いてきた疲れを感じ暫し休息してから、次に何をしようかと探っている。
 人間、三途の川を渡るのは宿命だ。それがいつ来るか分からない。計画通りに行かないから生きていけるということ。
  
 5月も後1日を残すのみ、あっという間に時間だけが過ぎて行く。体力の減退は自分で良く判る。それでジム通いを始めたが、こんなにいるのかと思うぐらいジムに通ってくる人が大勢いる。本当は外を歩いたほうが良いに決まっている。自転車漕ぎも画面を見ながら運動するのも精々30分、結構な汗を掻き、ストレッチを行って風呂に入る。これがパターン化するかもしれぬ。
 また、今まで同様、飽きて止めてしまうかもしれない。
 地元に出来たジムだけに、毎回、知り合いと顔を合わせ社交の場となっている。気の所為か胴周りにいくらか変化の兆し、履けなくなったズボンが無駄にならなくなれば儲けもの。
 
 毎度のことだが、夜中に目が冴え、2時に起きだしてしまった。今頃、職場では夜勤者が多数、がんばってやっているのを思うと感謝の気持ちで一杯だ。
 

2146:一段落

周辺の田植えの終わった水田には水が一杯張られ、ここぞとばかりにカエルの合唱が鳴り響く。長閑で平和を感じます。
 5月に集中した総会&役員会、全てが終わった。最後は心身協の総会、会場が大き過ぎて、大切な内容を提案したつもりだが此方が想像した反応を感じ難かった。ホッとした次からまた様々な案件が頭の中を駆け巡る。逃げられないと覚悟はしているが、人間そんなに強いものではない。
 昨日の政府の発表で世界の平均寿命、女性はなんと26年間世界一で86歳を越す、男性は世界第4位、メダル獲得とまでは行かないが79歳を優に超えている。確かに、これは良い事なのだが、高齢化という現象と表裏をなす。
 限界集落とか言う新語が生まれ、それを見込んだ商売が出てきた。
 お隣の韓国には行った事はないが、聞くところによれば、活気があるという。日本と比べ人口は半分以下、首都ソウルにその5分の1が集中する。日本最後の空港で話題になった茨城空港は韓国便があったはず、それが震災後一時ストップしたのだが今は元に戻ったのか?
格安航空が世界の空を制覇するのも時間の問題でしょう。
 世の中は商売一つをとってみても新陳代謝を繰り返す。だが一番鈍いのが何を隠そう”先生”とか言われる人達の事業団体、守旧派と改革派、圧倒的に既得権を守る守旧派の割合が多い。だから変わらない。何かうま味があるのだろう。
 いま、考えている事は某研修会の企画、順番で当番が回ってくるもので、茨城で開催することになった。過去2回の茨城開催の資料を読んで唖然とした。その間に15年以上経つというのに、そこで語られたテーマに殆ど変化を感じない。
 可笑しいよな!何で? 多分、業界自体の体質だと思った。親方日の丸的主張は相も変わらず、その結果どうなったか?
 膨大な国の借金、可笑しいよな!どうして?
 私自身、長い事その世界で過ごしてきただけに、その責任と出口の見えない現状に腹立ちを感じます。
 このままズルズルいくとは思えない。さて、どうします。その辺の事を考え始めたら、居ても立っても居られず、遮二無二、メモを取っている。公共事業者の義務で財務状況をオープンにというルール、これってもう必要ないのですか?
 私は一貫している。堂々と公にすれば良い。それをどう活用するかが肝心だ。
 昭和20年〜30年代に福祉事業を起こした日本国中の大先輩達、出来る事なら直に聞いてみたい。良かったね。と太鼓判を押してくれる人は多分いないはず。
 私自身の正直な気持ち、それはもっと違う何か(理想)があるはずだという事。入所を止めGHに全て切り変えて、それでOK?
 建物を全て個室にして、それでOK?
 形から入ると怖いよね。人の評価ほど虚ろで不確かなものはない。
 一方で先人が拓いたものを継続させることが難しい世の中になっている。それは金銭絡みの不祥事で事業指定取り消しという処分、この箍は内部から弛む。余程、自らに厳しくしないといとも簡単にそして芋づる式に崩壊する。その類の例は捨てる程私は知っている。恐ろしい時代になったものである。
 世の中は次から次に課題が出てくるもの、だから地球上にこれだけの人類が増えたということだ。先が読めない。逆に先が読めたら、これほど人間が増えなかったはず。
 たった一度の人生と本当に信じている人が何人いるか?次なる世界に生まれ変わると言う願いは、当にその点を図星に示していることですよ。

2147:テーマ

『目立たず されど ひたすらに 』
 こんなテーマを頭に描いている。自分を実際以上に大きくみせようとする人間が増えていませんか?それに、「ひたすら世をむさぼる心のみ深く」(徒然草)我を忘れて生きている人達。生きる意味を問われても、ハッキリとした答えを持ちえず、何となく日々を送っている・・・・・・。
 余りにも流行を追い過ぎていないでしょうか?日本人には灼熱の太陽と騒がしい音楽は似合わない。せめて一時の清涼剤なら良いだろう。世界の潮流に乗り遅れない為に日本人らしさまで失い、何を遮二無二求めるのでしょうね。 豊かさですか?それとも世界一という勲章をもう一度掲げたいのですか?
 日本人の深層には、芝より苔を好み「善悪」より「陰陽」を受け入れる感性があると思うのです。急に何を持ちだしたかと訝る方もおいででしょう。ごもっともな事です。
 そもそも日本人は「二者択一」という決断が苦手な民だと言いたいのです。侘び寂だって同じ。油絵より墨の陰陽に何かを感じ取る国民です。幼き柳田国男が疎開先の寺(利根町徳満寺)にあった間引きの絵を見て民俗学を志したという話、私は何度もその絵を見ました。そこの地域は利根川の氾濫により苦しい生活を送らざるを得無かった家が多く、子供を育てる事が出来ずに間引いた。その絵には、母親が鬼の姿になっています。
 明治〜大正〜昭和〜平成という時代は、決して昔の話ではない。子供たちは年寄りから昔の話を聴き、心躍らせ自分の夢を育んだ。それがスッポリと欠けている。家庭において、どれ程の時間が家族同士の語らいに充てられているだろうか?
 遊ぶ暇なく、塾通い、助け合うという事より相手に勝つ事が最優先される。なんとも可哀そうな子供達よ!
 そして、大人達を見なさい。自分達の欲望を満たすために膨大な借金を次の世代に残そうとしている。
 年寄りを在宅で看ることが出来ない国が果たして福祉国家と言えるのでしょうか。
 現代を善悪の価値評価時代と言えないでしょうか!
 障害者問題の根底には、個の尊厳があります。今、そこの検証が必要になっています。私の知り得ない所で様々な取り組みが為されている。それは、あくまでも”点”でしかないと思う。線とならねばコミュニテイとはならない。
 そして、私は何か違和感を持つようになりました。『目立たず されど ひたすらに 』 これが日本人の本来の姿だと思うのですが周囲の評価を気にし過ぎている。
 先日の会合で受刑者の社会復帰の現状を伺った。累犯障害者の問題は、娑婆より刑務所のほうが人間的生活が送れるからという。寝床があって三食が必ず食べられ、そして何よりも安全であるという理由だ。県内の受刑者でなんと26回刑務所の出入を繰り返している人がいるという。100円の菓子を盗み、また刑務所に戻るそうだ。
 その意味では 柳田国男が生きた明治時代と何ら変わりない。否、違う。公助とか自助なんて言葉は本来関係ない。
 人間の価値を善悪ではかる事は危険だ。
 だから見なさい!言葉が軽くなり過ぎてしまった。何を支えとして生きて良いのかが曖昧になった時代は、やはり原点に戻ることしか無いのではないでしょうか。
  

2148:文章表現

私の文章は判りづらいという批判を受けてしまいました。何を言っているのか判らない。盛り沢山で焦点が定まらないと・・・・・。
 その通りだと私も思うのです。多分これはそうなるように意識して書いているからだと思うのです。どのような文章が良いのでしょうか?
 私の考えでは、所々で澱みを持つ文章が理想なのです。立ち止まり、前後の繋がりでこれは一体何を言わんとしているのか?と考える。
 根詰まりで酸素不足を起こし根腐れになる寸前で微かな光が射し込む。こんな文章が好きなんです。可笑しいでしょうか?
 五感を全て使って考える文章が最高だと思うからです。
 だってそうですよね。仏教関連の書物って、どんでん返しの連続ですから、読む側に考えて貰う。これが究極の文章だと思うのです。色即是空 空即是色!
 文章中にバリアーをなるべく残すべきだと思うのです。教育の世界を見て見ると、余りにも周囲が勉強ができる環境を整え過ぎています。
 知識は豊かになれるでしょうが、実践に応用できない人間を育成してしまう。ハウス栽培を教育に導入して良い結果は望めませんよ。
 一事が万事、利便性という金の卵により、仕組みができてしまった。これに反省を加えず今後も続けていくのでしょうか?
無理ですよ。それより、私は危険だと思う。手段を選ばず、結果だけで評価される社会になりますね。
 こんな恐ろしい社会を想像します。今の日本で一番危惧されるのは、負担をなるべく軽くして実を得たいと考える人間が多すぎることです。
 税と社会保障の議論が当にそうなっていませんか。国会議員一人一人のホンネがどうなのか?決して彼らは明言しません。様子伺いをずっとやっている。 情勢がどう変わっても言い訳と開き直りができるかだけに関心があるのです。
 これでは、いくら徒党を組み、数を多くしても良い結果は出ないでしょう。
 国会の遣り取りを見ていると、今の教育現場の状況と全く同じです。如何に当選することができるかが最大の関心事で、それを損なうものは極力遠ざける。
 大阪の動きも変な状況になってきていませんか?原発の再稼働を含め、政権を潰すとか言ってみたり、それを否定したり、これも全て有権者の反応を見る手法なのでしょうか?
 橋下市長独特の文章表現だとすれば、読者たる我々は、行間を読む力を付けないと大変なことになるかもしれない。
 

2149:決断

野田総理が小沢さんと会談、仲立ちに興石幹事長が・・・・・・・。
 この異常な状況をなんと説明するのか!同じ政党の中で斯様な壁があることを公にして何の得になるのでしょうね。取り上げるマスコミが悪いと批判をする関係者。
 大部分の国民は袂を分けろと言う意見だ。一部の取り巻き連中が、必要な人間だと祭上げるから、この様である。
ハッキリNOと言えるか野田さん。小沢さんの言い分は終始一貫していると言う人がいるが、チャンチャラ可笑しい。彼ほど身の振り方を変えてきた政治家を知らない。本当に彼を信じ、どこまでも付いて行くという人間はそうすれば良い。しかし、彼の顔色を伺ってばかりいる政治家に何ができる。
 多分、いま二股三股で誰と組むかを画策しているはずだ。
 もう、いい加減にしてくれよ。民主党の皆さん。党内で議論を尽くしたと貴方達は仰りますが、肝心な小沢さんとホンネで語り合いましたか!
 今回ばかりは、小沢さんも今までの手法は使えまい。(嘗ての自民党の派閥政治で表に出なかった面が民主党では筒抜け)何せ、彼の参謀でこれぞと思える人間が付いていないではないのか。裸の王様ならまだ救われようが、援軍も無く、何か気の毒な気もしないではない。
 野党も同罪だ。本日、閣僚の入れ替えがあるという。問責の二人の他に数人。兎に角、大臣が良く変わるよな。関係する行政もご苦労様です。
 鎌倉時代の随筆に徒然草があります。吉田兼好が著した。
・・・・『ひたすら世をむさぼる心のみ深く・・・・・』というカ所がありますが。いつの時代も同じだと言う事でしょうか?
 権力に媚び、自らの欲を満たそうとする貪欲さ。仏教ではその貪欲を、三毒・十悪の一つとしてあげ、忌み嫌ってきた。
 上に立つ人間が、その類だと当然世の中が乱れ、弱きものがその犠牲となる。
 最近100歳で亡くなった映画監督の新藤兼人さん、99歳の時にインタビューされた映像が流された。目を患い、車イスに乗って1時間30分もの長い時間語った。
 彼は32歳で招集を受け、軍隊に入る。同期が100人いたが、結局94名が戦死6名だけが残った。戦地に誰を送るかは上官のくじ引きで決まった。
 自分は生き残り、生き続けることに悩み、その思いを映画作りに托した。「地をはうようにして映画作りをした」という新藤は、最後の映画と言われた「一枚のハガキ」を完成させた。彼こそが終始一貫したプロの生き様ではないだろうか?
 戦争の惨さの語り部、数々の自作のシナリオを通じ、世の中に訴え続けた。
 彼の語った言葉で印象的だったものがある。「日本人は強い。どのような苦難に遭ってもそれを乗り越える力がある」と。
 これから先の日本を尋ねられた時の一節であった。彼の10代の原風景がそう言わせている。
 新藤の言葉は澄んでいる。彼の人生は、ひたすら自分の信じる道を歩み続けた100年であった。
 後に続くものに勇気と力を与える生きざまだったことに間違いはない。
 

2150:自助・共助・公助

東京で会議があり、夜集まった仲間(26名)で情報交換会ということになって、西新宿まで向かった。都庁近くのビルの49階で食事をしながらショーを見ると言う企画、2時間半があっという間に過ぎた。
 昔を思い出した。昭和44年当時の風景は、今の新宿駅西口にはない。旧水道局の空き地だった処に都庁が建っている。
高層ビルが林立し、40年という時の流れを感じた。
 お開きになり地下鉄銀座駅近くの宿までタクシーで戻った。客待ちのタクシーがズラリと並ぶ。東京は凄い街だと思った。
 ・・・・・・・いま、朝の4時半過ぎ、揺れを感じた。ラジオの速報で千葉県東沖が震源でM6.3だという。外国でこの規模の地震が起これば建物倒壊があるだろう。でも、感覚が麻痺している。これは3.11から東日本に住む人間に共通することである。
 昨夜、泊ったホテルは小奇麗だったが、部屋は狭く、いざ何かが起こればどう自分の身を守ってよいのか判らない。
 アルコールが入った自分は判断力に欠け、非常口すら分からない。・・・・・・
 東京が凄いというのは、恐ろしいという意味である。自助・共助・公助と防災マニュアルを自治体毎に作成してはいるが、果たして現実に地震などが起こった際にそれが有効に働くのであろうか?大いに疑問だ。
 それと昨日、どこの港だったか知らないが、イワシが大量に上がったという。それが全て死んだイワシ、何かの異変を感じ、逃げ惑って浅瀬に集まり、酸欠を起こしたのかもしれぬ。
 それを聞いて人間だって同じ運命になるかもしれぬと思った。
 また、こんな体験をした。地下鉄で上野に戻る時、改札口にいた駅員に銀座線か日比谷線かどっちが便利か尋ねた。その駅員の対応にカチンときた。なんでそんな事を聞くのかという無愛想な態度、分からないから尋ねるのに、まだまだ、東京にはその種の人間が多い。ついでだから昨夜だってそうだ。最初に乗ろうとしたタクシーから乗車拒否された。幸い次のタクシーが乗せてくれたから良かったものを、「どうして断られたのかな?」と聞いてみたら、「銀座方面は道が混んでいるからですかね」という。
 ここに、大都会の根深い”病巣”を見る。一極集中の一人勝ちが長く、サービス業であっても客を選ぶという奢りを見る。
東京でいちいち腹立てていたら生きていけまい。愉快と不愉快が同居している東京。
 まだ、私が知る40年前の東京には、余裕があった。人を蹴落としてまで自分の利を貪る人間は少なかったと思う。
 その東京のど真ん中、永田町のドタバタ騒ぎも頷ける感じがする。自分を守ることに必死だ。自助ばかりに関心が向き、極端に共助への思いが薄れた社会。そして、そのツケを公助という税金に課した。この構図が一夜の東京で直感できる。実に忌まわしき事態ではないか。
 福祉の視点から見るとこれが一目瞭然、潤沢な金をバラマキ、補助してあげる的な感覚を持つものが今もいるし、その逆に当然、受けるべきだと主張する人間も増えた。
 これは決して範とはならぬ。
 残念だが日本人が忘れてしまった共助のこころは大都会では、どうやっても無理でしょう。
 今こそ、地方が力を付ける時だ。東京と同じように福祉をやろうとすれば墓穴を掘る。
 地方には、我々をみている人達がいるということ。普段の振舞いかんでは、味方にも敵にもなりうる。
 これこそが正常な社会だと私は感じている。