源究127

  

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
2051 謙虚 2/22 2056 楽観論 2/27 2061 記念事業 3/4 2066 寛容 3/9
2052 風化 2/23 2057 ほのぼのと 2/28 2062 出法事 3/5 2067 冷たい雨 3/10
2053 言うだけ番長 2/24 2058 生者必滅 2/29 2063 三寒四温 3/6 2068 1年 3/11
2054 欠席裁判 2/25 2059 目の輝き 3/2 2064 国会審議 3/7 2069 目を開けよう 3/13
2055 意見陳述 2/26 2060 組織論 3/3 2065 無用の用 3/8 2070 比較論 3/14

2051:謙虚

昨日は心身協主催の研修会が水戸でありました。内容は「虐待防止法」でした。定員を超える参加希望者が出て、正直驚いています。日本が国連の障害者権利条約を批准する方向で動いています。その為には様々な条件(国内法の改正など)をクリアしないとなりません。
 障害者への虐待防止法もその中の一つ、今年の10月1日より法律が施行されることになったから、さー大変!
 その条文の中に施設支援者等による虐待・・云々と明文化されています。医療や教育界から強い抵抗があったのも法律の定義の中に具体名を入れるか否かという事があったと聞いています。
しかし、障害があると言う事で様々な差別を受けている現状があります。
労働・教育・医療・政治など全てに渡り洗いざらい見直していこうというものですから大がかりになります。
 私は法律をどのように改正したとしても、結局は一人一人が障害者とどのように関わるかということに尽きると思います。
 例えばこのような話を聴きました。視覚に障害がある方が自分の住む街に音声信号を付けて欲しいと要望、それが実現できたのですが、一回だけ「青です」という音声が出るというもの。音が小さいので聴き逃してしまうと、次に青になるまで待つしかない。それを設置した地元の警察に話したところ、「音声を大きくすると近所の方に迷惑になる」という返事が返ってきたと怒っていました。深夜には音声が自動的に消える仕組みとのことで、それを聴いた時に、何の為の信号なのかと考えてしまいました。
 公共のサービス機関で近年、苦情や要望が多く大変だということは知っています。・・・・が、その辺の理解度ですから周知にはまだまだ時間を要するものと感じました。
 日本人には謙譲の美徳というものがあります。自己主張を控え大勢に迎合して上手くやっていくということ。
 しかし、福祉の分野では違うと思います。強弱に分類することは本意ではないのですが、社会的弱者と言われる人達にとって、自分達の意見をハッキリと言っていかないと周りの人々には気がつかないということがあります。
 茨城県内を見回してもどちらかと言えば新住民が多く住む地域にサービスの充実をみることができます。
 「また 始まった。うるさいな!」と思われても、言い続ける事が本当は重要なことだと私は思います。
 それは決して自分だけの為ではなく、多くの人々にとっても良き事になると思うからです。
 先ほどの音声信号のボリュームを上げることが、本当に近所の方にとって耳障りになるのでしょうか?
 日本型の障害者福祉が関係者以外に一般の人々に中々浸透していかない事の理由に障害そのものへの理解度が薄いということがあります。
 視覚や聴覚に障害がある人が地域で普通の暮らしをすることが如何に大変か、私自身、知的障害者の人達と40年以上付き合って参りましたが、いま国が薦める地域移行一つにしても正直、大きなリスクを感じています。
 ご本人はいつもと同じことをしていても、周りの人には何か異様に感じる。そんな経験を毎日のようにしています。
 そこで、今回の虐待防止法の中に本来彼らを養護すべき人や支援者をターゲットにしてペナルテイを課すという内容に聊か抵抗を感じています。そうじゃーねーだろうよという気持ちは持っています。ここに官僚的な発想をどうしても感じてしまいます。そんじゃーアンタはどうなんだい?と言ってやりたくなりますね。
 しかし、現実には不祥事や虐待の報道が減らない状況があり、関係者が先ず、その事を深く反省し謙虚に受け入れることから始めるべきだと今は思っています。

2052:風化

3.11が近づくにつれ様々な動きが見られます。昨日は突然の来客がありました。それは3月11日の午後2時46分にお寺の鐘をならして欲しいという要望でした。話を伺い、震災から時間が経つにつれ、その時の思いが徐々に風化してきていることに、自分達でできることは何かと考え、その一つに全国のお寺の梵鐘を一斉につくことを提案したということでした。私は直ぐに了解しました。
 時々、市の社協を通じ、災害ボランテアの募集チラシが送られてきます。職員で参加した方もおります。
 瓦礫の処分が一向にメドがたたず、(総量の5%程度処分済み)被災地では復興の次の段階に進めない状況が続いています。
 神奈川県や静岡の島田市が首長の判断で受け入れを表明しましたが、処分場所の了解を得ることが難しく、連日その報道が流されています。
 国として何か具体的な施策が打ち出せないのでしょうか?大阪の橋下市長の話が新聞で紹介されていました。「湾岸戦争の時にカネだけ出して日本は世界中の笑いものにされた。いつから恥ずかしい国になってしまったのか・・・」
 先ず隗より始めよ!では、多分いつまで待っても手を挙げる自治体は無いと思うのです。今の政府を見ていると何ともじれったい。決断とその覚悟を感じないのです。余りにも慎重姿勢で、野党の顔色伺いばかりが優先されています。自分達が政権を取っているという自覚がない。誰にも上手くいく話などあるはずがありません。何もしないことより、自分達の信じることを本気でやって欲しい。妥協ばかりの政治は結果として国を不幸にする。
 アメリカに原発事故発生後に政府内会議の議事録があり、新たな問題となっている。何故日本にその種の記録が無いのか?
 その中に事故発生後、フクシマから半径80キロ範囲にいるアメリカ人全てに避難指示をするかどうかという内容があったと聞く。その時に日本政府は何をやっていたか?事故の検証さえできず、国民に正確な情報が流せないで右往左往していたようだ。その後、どうなったでしょう、復興庁を設置すると言う決定もなんと1年経って漸く決まった。この遅さは一体何が原因しているのだろうか?茨城県にも事務所が置かれるという。果たして何人常駐するのか、何をどうするのか?
 復興財源の使途のチェックでもさせる為?
 脱原発の議論も噛み合っていない。代替エネルギーの確保が難しいという話は流れてくるが、それじゃーどうするのか!一貫性の無い議論が繰り返されている。どこを根拠に国民は1票を投ずれば良いのか!
 昨日の予算委員会、政府側の答弁で妙な2重構造が見えてきた。野党質問に対する政府答弁で党内で結論をだしてもらってから国会に提出しますという説明が気になった。党内と言えば民主党だろう。総理は民主党の代表だ。与党内の考えが一枚岩でないことを自ら暴露し、それを対応の遅れの言い訳に使うからどうしようもない。
 一方野党だってダラシが無い。脱原発や消費税をどうするか、賛成なのか反対なのか???国民に分かるような明確な議論ができない。当に永田町全てが自信をなくしている状況だ。ああ・・成熟社会ってこんなものか!
 時間が問題の深刻さを薄め、明確な方向付けができない。これを風化と言うのであれば、為すが儘に指を銜え待つ我々は、何をすれば良いか各自の責任で判断することしか残された道はない。
 為政者の劣化は、自分だけの利益を重んじる我利我利亡者に正当性を認め、結果として国力を弱める道を歩む。
 憂い坊主の夢物語と言うなら言え。
 *明日、自殺対策の坊さんの集まりに参加してきます。関心の有る方、連絡下さいよ。

2053:言うだけ番長

報道の自由 or ペンの暴力??
 産経新聞が前原さんに対し、『言うだけは番長』という内容の記事を書き、それに対し記者会見で産経新聞の記者だけを拒否したという。どっちもどっちという感じかな。確かに文字面だけから判断すると前原氏の議員活動に「あれっ!」と思う事は何度かあった。八ツ場ダムの建設の是非についても、担当大臣の時と政調会長という今の立場で乖離が無いかと言えばどうなのか?彼が物事をハッキリ言うタイプの人間ということはなんとなく分かるが、周囲の状況が今は逆風になっていると思うのだ。彼の政治手法は野党時代と変わらない。ただ政権与党になり、最早二年以上が経ち、その間、常に重要ポストにいるから、自党内でも敵が多いと思う。その辺を大目に見て、気の毒のような気がしないでもない。
 日本人の特徴を無視できない。自らの考えをハッキリ言い過ぎる人間は反発を食う。
それを自分勝手に露天風呂型世渡り術と命名している。
 裸の付き合いを良しとする、自然の真っただ中でお湯に浸かって少々アルコールでも入れば、誰だって大言壮語か鼻歌でも歌いたくなる。
 そんな時、ニヤニヤしながら黙って聞いているタイプがいる、多分、それらの人達は話など聞いていない。
「何を言ってるんだかね??好きに話させておけよ」である。どっちが貴方のタイプでしょうか?
 これが国会にそのまま移った感じ、これは不味いな。今日ほど湯の温度と外気が大きく違うのは無いでしょう。
 私も自分では前原さんタイプの人間だと思っている。性分で黙っているとイライラしてくる。いろんな会合でマイクを私に渡せば何か喋ると思われている節がある。思う奴には思わせれば言いだけ。屁の河童。
 さてと、どうしても一言言いたい会合がある。物議を醸す程の内容ではないのだが、この会の委員になった三年前に一箱名刺を渡された。そして、三年間で配った名刺の枚数がなんと四枚。これを何と言えば良いのでしょう。一度その事を疑問に思って質問した事が有った。その時は取り上げては頂けず、仕様が無い新参者だから様子を見ましょうと言う事に。あれから三年が経ちました。だから本日は言いたい事を資料にして用意した。果たしてどうなることやら。
 そんなに粋がっても実際には何も変わらないと一笑に付されるかも知れぬ。
 四枚の名刺を誰にいつ配ったかを良く覚えている。こんな事でこの活動が世間に認知されるのですか?と私は言いたい訳。
 多分、私の性分は、「この会は意味が無い。」と中途退席するかも知れぬ。
 ぬるま湯に浸かっているのが一番楽で外部からの意見が入りづらければ内部から変わるしか無いでしょう。現状をどう認識しているか!
 雪崩の危険がある露天風呂に長湯は禁物という事である。
 いろいろあるわな。
言うだけは番長・・・・立派だよ。親分の顔色伺いばかりして陰でこそこそする奴より、ずっとマシだと思うな。
ガンバレ!マエハラだ。俺は好きだなアンタの事を。堂々と言えってーんだ。バッジ付けてんだろう?
 

2054:欠席裁判

・・・安易な人生を送りたいなら・・・
 この人生を簡単に、そして安楽に過ごしていきたいというのか。  だったら、常に群れてやまない人々の中に混じるがいい。 そして、いつも群衆と一緒につるんで、ついには自分というものを忘れ去って生きていくがいい。
                                                 ≪ニーチェの言葉 p42≫
      

 職業の所為にしてはならない。常に相手を疑ってかかる職業と相手を信じようとする職業がある、何か事を為そうとする時にそれらが二律背反に陥ったとして、その時の弁解に職責を持ち出す人間は、理性的というよりは、意図的か否かは別として本質を掴もうとしない人である。福祉の周辺で様々な動きが行われている。障害者虐待防止法が10月1日により施行される。性善説か性悪説か?孟子か荀子かの比ではなく、人としての行いに反する行為に厳粛に対処することに異議は無い。
 だが、そのことで根本の問題が解決できるでしょうか。それが何故起こってしまうのかという根本原因はあまり重視されていない。
 本来の福祉の目的は、寧ろその原因を改善することではなかったのか!
 最悪の場合、申し開きの機会も与えられず、一方的に悪の刻印を押される。裁判ならば被告側の弁護も認められ、その機会が保障されているではないのか。
 平成12年に国は福祉事業に於いて理想と現実の乖離を想定(?)し、各県に運営適正化委員会なる機関を課した。
 その実態は、性悪説を元にした仕組みだと感じている。ハッキリ言えばサービス事業者への不信感が根っ子にある。それを示す部分が設置要綱の中に見られる、苦情解決合議体の委員の選任に、我々サービス事業者は中立・公正な判断をおこなうのに適当でないということで外されている。「社援第1353号:平成12年6月7日」
 私に言わせれば、この制度そのものが設立当初から見切り発車的で設置の主旨が都道府県に充分周知されていたとは思っていない。
 その結果、各県によって委員構成や事業の内容に関して大きな差が出ている。取りあえず委員会を設置したというものもあって、スタートから既に11年が経っているにもかかわらず、予算が無いとか制度が変わっていないからという理由をあげ、旧態依然とした運営実態があることも否めない。
 苦情解決対策を関係者を入れない中で本当の実態を把握した上で適切な助言・勧告ができるのであろうか?欠席裁判宛らの検討が成されているのではないのかと危惧する。
 私自身、その委員会の末席に3年間座ってきたが、現実の現場で起こっている実態とかなり隔たりがあると感じ、私見を述べさせて頂いた。それをどう感じたのかは知らない。
 当然、私は事業者の委員枠で選ばれているのだから、自分の思いと合わせ同業者の代弁者でもある。たった一人という現実に限界を感じた。
 時代に則した活動内容が維持できるならば何も声を大きくして自論を述べる必要も無い。
 老婆心・目立ちがり屋・・・この際いかなる揶揄も甘んじて受けよう。
 出来ない理由をいくら並べられても新参者にはどうしようもない、せめて、それなりの工夫をする気概は持ちたいものである。
+* 『ニーチェの言葉』が若者に大いに読まれている。発刊2年で110万部を記録した。
 

2055:意見陳述

素人が下種の勘繰りと一喝せられぬとも限らない。前項で言い足りなかった点を記したい。
 刑事と民事の訴訟で被告人の意見陳述の機会に若干の違いがあるという。
運営適正化委員会が義務設置となった2000年(平成12年)は、日本の社会保障史の中で大きな変革があった年であった。丁度介護保険制度が始まった年にあたる。既に障害者プランや新エンゼルプランなどの法整備ができており、その内の本丸である老人介護の財源が保険によって賄われるという事になったのである。
 当時、様々な関係者が制度作りには参画、意見を述べる機会があった。その時に問題に出たのが、不正請求やサービス上でのトラブルをどう防ぐかという事だった。事業所に苦情解決委員会の設置を義務化、その中に第3者委員を選任し事業の透明化と公正さが図られた。
 私は障害福祉の事しか実は良く判らない。措置から契約という変更があり、障害者自立支援法から現在検討中の障害者総合福祉法(仮称)へ。この10年間に目まぐるしく変わった。何故変わったのでしょうか?
 制度や仕組みは完全ではないと言う事でしょう。どうしても法の対象とならない人達が出てきます。ですから新たな障害種別が出てきているでしょう。門戸を閉ざしてしまえば、現行の制度の範囲だけでやれば良いことになる。
 福祉の活力は、制度や法律では絶対に生まれません。寧ろ足枷になっている。世界中、この歴史を繰り返してきたわけですね。
 その時に最終的に残された力は、サービスを必要とする人々の声でした。
 今、日本は状況が大きく変わろうとしています。それは教育や福祉の現場を見れば直ぐに分かります。利用者(家族)と提供者(学校・施設)のバランスが崩れてしまった。利用者は権利を主張し、提供者を監視するようになってしまった。マスコミもそれを煽る傾向がありますね。
 上手く説明できていないと思うのでもう少し具体的事例をあげてみます。
 他害や自傷、奇声や破壊行為・・・等々、我々からすれば受け入れ困難なケースがたらい回しになる事になります。何故でしょう?判り切ったこと、受け入れ側にリスクが多いからですよ。でも、本当に支援を必要とする人って、実はその人達でしょう。 運営適正化委員会の目的には全くその事は触れられていません。可笑しいと思いませんか?だって本来の設置目的にそった適切な運営をはかる使命があるんでしょうよね。
 制度がそうなっているんだから仕様が無い。ここでストップしてしまい、意見陳述の機会すら無いのです。
 それじゃ、何の為の委員会ですか?と言いたくなります。当然、形骸化しますよね。だってそうでしょう。介護報酬の不正受給などは国保連の中にチェック機能が既にありますから別にここでやらずとも。
 百歩譲ってですね。関係機関が連携を密にして問題の解決に当たるという。これはごもっともな事です、それじゃ伺いたい、連絡会なるものが上手く機能しているんですか?
 厚労省のHPで制度改革推進会議の議事録を読んで見ますとね。当事者の意見が多種多様ですから、事務局は集約に苦労しています。
 どんな内容の法律が出来るのでしょうね。せめて、運適の委員なれば、その検討されている内容ぐらいは承知されていると思いますし、それがなければ脱皮できんでしょう。
 これが私の最終意見陳述であります。閉廷!

2056:楽観論

どうなんでしょうね?
このように考えること自体が楽観主義者ではないのでしょう。判っていますよ。それなりにはね。
コップに残った半分の水を、まだ半分も残っていると思うかもう半分しか残っていないと考えるか?「Glass Harf Empty
 or  Half Full?」これは有名なバーナード・ショーの格言でしたか?最善説とかプラス思考っていうものは、人間にとって想定可能な全ての世界を前提にしているとか。
 コップの水の話ですけれど、私などこうな風に考えちゃいますね。水道の蛇口を捻れば、直ぐ一杯になると思うか、それとも、大震災の時を思い起こし、停電と水道管破裂で断水になった時はどうなんでしょうとね。だから楽天主義では無いということになるのでしょうか?
 昨夜、BSで映画を見ました。1944年のイギリスで実際にあった事、実名で出ていました。ナチスの侵攻に対しイギリス国王が国民を鼓舞する演説、国王は吃音障害があって、どうしてもマイクを通して演説できない。ある医師が治療にあたり、徐々に症状が改善し、見事な演説をラジオを通じて行った。その演説の後、侍従の人々が「立派な演説でした。おめでとうございました・・・・」と拍手で迎えた。
 ?????。
 何でも有名な映画だったそうであるが、私には腑に落ちない。ナチスの侵攻に抗戦を決意、国民に戦争に突入せよとの演説だ。
おめでとうございました。という意味が、国王が吃音の障害を克服した事への喜びの意味なればわかるような気もするが、民にとっては凄惨な戦争への不安のほうが大きいはずだ。そう考えてしまいうとこの言葉に違和感を感じた。
 考え方や態度には周りの環境が大きく影響する。これは自明の理です。自分の事ならば、支障がないだろうからちょっとだけ振り返る。私の深層には、お寺に生まれたという事が大きく圧し掛かっています。昭和25年生まれですから、戦争が終わって5年が経っていました。今と比べれば、物は無かった時代。椎の実を拾ってきて、フライパンで焦げ味をつける。これが実に美味しかった。当然、コンビニなどないから、駄菓子屋で小銭を貰って欲しいモノを買う。ニッキの根を乾燥したものが売っていた。遊ぶものはメンコ(パー)かべーゴマ、なかなか買えないから大事に使った。
 それと寺には母から裁縫を学ぶ女性が多く来ていた。たまに悔みがあると”葬式饅頭”を貰ってくる父を楽しみに待った。
・・・・・・・・・。
 60年がいつの間に過ぎてしまい。いま周りの環境は激変した。福祉という世界も例外ではない・・・・。
 何かストレートには取れないものを感じている。また変な拘りを持っている。福祉を生業としている者達がセレブ(?)気取りになっていないか!高級車を乗り回し、なんとも感じない。世間様はそれをどう思っているかの視点の欠如。
 私が先の映画で「おめでとうございます。」との言葉掛けに感じたものに通じる。
 周囲のことは実はどうでも良いのだ。自分の足元を見ろ!これも私の深層心理。NO:2054で持ち出したニーチェの言葉がそれだ。
 人生は生きた年月の長短ではない。いかに自分らしく生を全うできたかに価値がある。そこにこそイズム(ism):主義が生まれ、生きた証となると信じている。
 たった今、地震の揺れを感じた。

2057:ほのぼのと

”コリャー ぶくし(福祉)・・・” 石屋さんに勤めるMさんが、私が車に乗るのを見つけ駆け寄ってきました。
これはいつもの彼の私に対する愛情(?)の表現、それも機嫌が良い時のご挨拶。
”なんだい今日は?”と尋ねると”きょうは お仕事 やすみ” ”さぼったんかい?” ”なんだと! 日曜に仕事 やったんだよだ・か・ら おやすみ”
 彼は今多忙だ。何しろ墓石屋さんに勤めているから震災後、毎日あっちこっちに走り回っている。
”忙しいんだろう。乗っていきなよ”と誘うと ”うじゃー 乗ってやっかな!”と言って助手席に乗る。
”どんな仕事してんの?””コーキンニュ””???””コーキンニュだよ””?????>??” 倒れた墓石のコーキングをやっているという。”クレーン・・””何をくれないのよ?””くれーんで持ちあげてな、そんでコーキンニュ。わかったかブクシ”
 頭を手で小突かれた。

 これ以上仕事の話はしない方が良いと判断。
すると”今年よ ジャイアンツゆうしょう・・な” 無理だなんて言ったら本気になって怒り始める。”Mさんは誰が好きなんだい?””はら””??””はら 監督だーよってんだ””試合にでないでしょうよ、選手で誰が好きなんだい?と聞いてんだよ””はら””これ以上、野球の話も辞めたほうが無難だと判断。

 彼はGHで生活している。休みなので昼飯を食べに学園に来たのだ。”あのね。Mさん今日仕事休みなこと連絡してあんの?””しんねーよ””うじゃーお昼ご飯用意出来ていないかもしれねーぞ”Mさんの顔色が変わった。
”いいんだよ。俺の分、食べても” ”ヨシ” 
 これだもの、仕事を続けているMさんは偉いんだよ。
 昼はみそラーメンだった。さすが彼の分も用意されていた。
 何か ほのぼのとした僅かな時間に感謝。
  ⇒    ⇒      ・・・・・・・             
 

2058:生者必滅

時の流れは一時も留まることを知らぬ。またしても悲しい別れと対峙せねばなりません。
 ”デカちゃん”あえて愛称で呼ぶことを許して欲しい。Mさんと呼んだ時とデカちゃんと呼んだ時、明らかに彼の表情に違いを感じました。昨日、午前9時47分、入院先の病院で息を引き取りました。週末に入院し4日目に体調が急変、病院から連絡があって駆け付けた時には、既に心肺停止だったと聞いた。
 65歳であった。彼は県西の施設から18歳の時に尚恵学園にやってきた。あれから何年が経つのだろう?半世紀に近い47年となります。私は彼の家族で先に亡くなった弟さんだけしか知らない。デカちゃんは何でもできる方で通勤寮が出来る切っ掛けになった人である。それは今から25年も前になる。今でこそ、国は就労自立を錦の御旗に掲げ、地域で働く事を推奨しているが、当時、施設の利用者が外で働くとは何事かと監査で注意された時代、・・・・。農業の専門家であった神埼先生と山形県の天童市まで行き、既に通勤寮があった施設を訪問した。宿で遅くまで二人で話し合った。国がダメと言うのなら、通勤寮をつくるしかないとの結論に達し、即、県と協議、白山通勤寮と尚恵通勤寮が初めて茨城に誕生した。デカちゃんはその一期生で、面倒見が良く、農業が大好きでいつも畑で神埼先生と一緒だった。そして、最初のGH、これだって家族の無いデカちゃんに安らげる場を用意してあげたいという神埼先生の熱い思いがあったからで、先生の自宅にWさんと二人で居候することになったのだ。
 尚恵学園は、56年目を迎える。その間、彼は47年間を一緒に歩んだ。学園の創立期は就学免除を余儀なくされた子供たちが県内各地からやってきた。園の教室で字を学んだ人も多くいる。今想い起こせば、作業場の中央に置かれた薪ストーブを囲み、ノートを出して自分の名前の練習を一生懸命していた光景が浮かぶ。
 あれから随分、尚恵学園も変わり、それをデカちゃんは何も言わず見つめてきた。彼には仄々とした思い出もある。旅先では、いつも密かに恋心を持つNさんへのお土産を買っていた。
 彼は親に買う事は出来なかった。彼が若い時に親は亡くなっているからである。
 世の中に不条理な事って溢れんばかりにあります。若くして病気に罹り、惜しまれて逝く人もいれば、生来の体の不具合を持って生まれた人。
 果たしてその人達にこの日本は優しい国となっているのでしょうか?正直、私には分かりません。
 今、神宮寺の客間に寝かされているデカちゃんの顔を見ると、静かで穏やかな顔をしています。
いつも、そのような場に立ち合う時、私は「ごめんな・・・」という思いが真っ先に浮かんできます。もし彼らに障害が無かったら私達との出会いも無かったはず、申し訳無いという気持ちが止めども無く出てくるのです。
 
 少し時間が経てば、気持ちの整理が付くだろう。
大好きだった神埼先生や園長があっちで待っているからな!
 国が膨大な労力をつぎ込み、新たな制度を考えている。その最初に「個の尊厳」という言葉がある。
 私はその言葉に敏感に反応してしまう。どうしてなのか分からない。
 軽はずみに使われるべき言葉では無いことだけは確かだと思っています。

2059:目の輝き

6時から始まったデカちゃんのお通夜、本堂にはギッシリ仲間達が座っている。お経を始める前に私は今日のお別れの意味を皆に話した。その時の仲間達の目が光っていた。お喋りをせず、じっと私の顔を見つめていた。
 30分ほどの時間で全員が焼香を廻し、その間、殆ど話声が聞こえず静かに座っていた。
 その後、無言で私の手を握ってくる人、「6年間一緒に過ごしました」と話し掛けてくる人。遺影の前で手を合わせ、「どうぞ天国にいってください」と声をかける人、様々だった。
 また、一枚本堂に飾る写真が加わる。
 普段の生活での喧騒とは全く違った静まりかえったお堂と彼らの目の輝きは一体どうしたのだろう?
 上手く言葉で言えない人達だ。でも、私は充分に感じるものがあった。
 言葉巧みにできない約束を平気で言い自分を正当化しようとする人間より、どれほど真実味があるか。
 そう思うとこの仕事の重みをズッシリと感じてしまう。
 今日10時半よりお別れ会を本堂で行い、それから荼毘にふされる。

 3月1日、高知新聞(朝刊)の記事がメールで送られてきた。”自立支援法廃止見送り”と大きく書かれてあった。長妻元厚労相座長で進められてきた民主党の専門部会で政権公約で明記した自立支援法の廃止を実質見送る考えだ。
 あれだけ検討を重ねてきた総合福祉部会の提言が紙くずになるとは思わないが、現法の一部改正で凌ごうとする考えか。
 その記事によると、名称を『障害者総合福祉法(仮称)』を『障害者総合支援法』に改めるという。それと法律の理念に「共生社会の実現」を加えるというもの。
 障害程度区分の見直しは施行後3年をめどに検討するとされた。平成25年8月を施行期日としていたものが、平成25年4月に前倒しされるという。年度途中で変われば、事務手続きが煩雑で事業所とすれば年度切り替え時期が良いのは当たり前だ。
 制度改革に期待し、関係者の多くのエネルギーが投入された一連の取り組み、要は言葉をどのように使っても中身の問題であることは疑えない。
 福祉を支援と変えることの真意は何か?共生社会とはどのような状態を言っているのか? 曖昧な表現・実態無き理想論・・・・疑えば切りが無い。
 
 日本社会に今一番欠けているのは、一人一人の目の輝きではなかろうか。目は言葉よりその人の心を表わす。
何気ない仕草や顔の表情で察すること、これは言葉や数字で示すことができない世界である。
 私は人間を見る時に、言行が一致しない人間は避ける。此方側に余裕が無いと言われれば否定はしないが、逆にそのような人間と関わると自分自身がもぬけの殻となるように思ってしまう。
 ぬけがらが如何に多く集まれど、出来る事は何も無し。 

2060:組織論

土浦駅前の再開発ビルにあったイトーヨーカ堂が撤退を決め、その跡地利用の問題があがっている。それから新日鉄と住金が合併、10月より新たな会社としてスタート、10年程になるだろうか金融機関の再編で従来の名前では判らない店の看板が並んだ。東日本の被災地では会社そのものが跡かたも無くなってしまった数が数千社にのぼると言う。
 長引く不況や円高にギリギリまで頑張ってきた企業が存続を諦めるか合併で生き伸びるかの選択をせがまれる。
 福祉の業界もその影響を受け始めている。日本人の感情として福祉が内需拡大になるということを素直に受け入れない。長年の国の仕組みが輸出に頼る構造になってきた。それが新興国の発展で覚束ない状況になっている。
 誰しもが右肩上がりの経済成長は望めないと分かっていても、それに変わる方向が掴めない。
 それが成熟社会(?)の宿命か!
 俄かに現実味を帯びてきた消費税値上げ論議、先日行われた党首討論、密かに代表同士で事前打ち合わせが行われたかどうかの憶測が飛び交い、自党内からでさえ不満が燻る。
 政治の決定打にかける状況が10年来続く、手を挙げてはいつの間に引っ込める。この繰り返しを続けているのだ。為替レートが円安基調に、そして株価の上昇。何せトヨタは1円レートが変わるだけで300億円の差益が出るというのだから大変だ。
 空の便も様変わり、格安を売りにする航空会社がどんどん出現し、鉄道で行くよりも安くなった。船旅が一番豪華になったと思いきや、スピードと豪華さだけでなく値段がものを言う時代になっている。
 斯様に消費活動が様変わり、そこに乗り遅れないために企業はしのぎを削る。全く忙しい時代になったものである。
 この動きに順応できる人ばかりではなく、ご存知の如く心に病を持つ人も急増、皆が皆、浮足立ってしまうようで末恐ろしい。
 私が憂いていることを一つ上げるとすれば、最近は自分では行わず、他人にやらせて、そのオコボレを失敬する輩が増えた事。
 自然界のカラスにもおちる連中で、外見は立派な形(なり)をして、本性は決して出さない。
 これはどうも頂けない。組織を考えた時に、そういった人間が集まって一体何ができるのかと考えてしまうのだが、そのような人種は所属していないと不安だから、名前だけは列ねておく。
 人間の社会は損得勘定だけではすまされない。昔の商売人なれば、損して元取れだった。
 今は、損はしたくないが益はいただく。これが私の色眼鏡を通した現実世界である。
 文句があるなら、言ってみろ・・・・だ!
 

2061:記念事業

様々な事業所で行われる記念式典は、震災後、控え目で手作りのものに様変わりしています。開設からの歩みを検証し、更なる発展を自他ともに明らかにせんがために行うものです。
 尚恵学園は控え目どころか、ここ暫くは鳴りを潜め、内部だけのささやかなものにしています。
 最近、新たな事業が起こっている。その一つは、廃棄される前の食品を福祉事業所などに無料で届けてくるもの。基準外の野菜等、店に並ぶ前に処分される。その量たるや半端な数ではないそうです。さらに賞味期限ギリギリの物や、荷崩れなどで製品にならないものも含めると今、日本中に膨大な量の勿体ないことが起こっているのです。
 NPO法人などを立ちあげて、無駄を省く手助けをする人達が現れた。
 多分、皆さんの家庭の中を見れば、頂きものや一度も封を切ったことのないものが倉庫やタンスの中にしまってあることでしょう。陽の目を見ないそれらの品々が泣いています。
 これをおかしいと誰もが感じているのは間違いないこと。でも、誰もそれをどうにかしようとはしなかった。
 昨日、水戸に用事があったので、ある方の墓参りに行ってきました。有名なお寺で境内にはギッシリ墓地があって、目指すお墓がなかなか見つかりませんでした。電話で尋ね、検討を付けてやっと見つけることができました。
 海が良く見えるとても環境の良い場所にお墓がありました。
 仏教では愛別離苦と良く言います。愛する方といずれは別れなければならないという宿命です。いくら周りで慰め言葉をかけても結局は当人がそれを乗り越えねばならないこと、せめて我々遺された者が出来る事は、静かに見守っていくことぐらいです。
 私は記念式典なるものは、自分自身に行えば良いと考えます。自らの歩みを反省し、今をどう生きて、この先どうありたいと常に更新すれば良いのです。
 世の中で行われる様々なお付き合い、これだって殆どが無駄なこと、ですからそれに踊らされることも実態以上に自分をつくろう事も無い。そう思うようになりました。
 我が田に水を引けば、隣の田んぼとのイザコザが起こる。昔から水利に関わるトラブルは絶えたことがない。
 水そのものは、一切関知せず、只管低き場所に流れていくだけ。
 障害者福祉もいよいよ新たな制度に向けて扉が開かれるようです。でも、扉の先はどうなっているのか実際は判らない。
 そりゃーそうでしょう。人と人の関係は、どのような制度になろうが、基本的にはお互いの信頼関係、そこまでは法律は面倒見ません。
 信頼関係をどう築くか、これが永遠のテーマなわけです。ご機嫌とりやゴマスリは一時の清涼剤になるかもしれませんが、自分の考えをハッキリ言えない関係は長続きするものではありません。
 人はハッキリ意見を言って何を恐れるか?それは相手から嫌な人間だと思われること。
 よく考えて見れば、それは何の根拠もない、思い過ごしなのですがね。
  *昨日、法人内の研修報告会が有りました。自らの思いを他人に説明すること、これが大変なことを知ってもらいたい。
   利用者の方々との基本がそこにある。
 

2062:出法事

最近の法事は寺で行うのが9割程、ご自宅に伺って仏壇の前で行うことはメッキリ減りました。正直、私の方は大いに助かります。昨日は寺での法事の後、2件程檀家さん宅へお邪魔した。時間がずれ込んで、少々お冠。
 親戚の長老が「おらー住職、ダメだーよー。友達みんな死んじゃって、もう2〜3人になっちゃってよ。どっこらしょ。」と話し掛けながら私の直ぐ傍に胡坐をかく。「そうですね。この前Kさんも亡くなって、寂しいこって・・・・遅くなってすみません。じゃー始めます」  ここまでは良かった。
 私がお経を読み始めると。すぐ脇に座る、ご長老が何やら独り言。  「うだなー。檀家増えちゃって・・・・」最初は小さな声だったので正直何を言っているのか良く聞き取れない。でも止めない。そのうち私のほうが気になり始めた。  「うだよな・・。檀家増えちゃって・・・・金ばっかり溜まっちゃって・・・・・使えめーよな。 ダメだダメだ。使う事も考えねーと・・・・・」これが一向に止まない。隣に座る人に同意を求める始末。
 他の家族の人達も私のお経より長老の話に耳が向く。  「ああ・・・もう。帰りたくなっちゃったなー!」と言ってしまった。
 すると、「悪かった悪かった。続けてくろ・・や」」
 正直、お寺はお金は貯めりません。いま密かに考えている旧本堂の改築、一体いくらかかると思うのですか!!このご時世で寄付なんかもらえんでしょうが・・・・。
 次の檀家さん宅へ。豪華な家で夫婦二人だけ。仏間に通されると、壁に”南無大師遍照金剛”の掛け軸、両脇に曼陀羅(タンカ)それに四国遍路満願の掛け軸・・・・・。一瞬、なんじゃーこれ!と思った。タンカは大分高価なものらしく、画商から購入したと解説つき。
 「そんじゃ・・始めましょうかね」「ハイ 住職 よろしく」 仏壇の前に置かれた金襴の赤座布団、ふっくらし過ぎでよろけそうになった。見ると畳も新しい。
 寺離れが巷では良く耳にする。この原因はお寺側にあると私は思っています。インスタント法事が常態化、説法と言えば、あまりにも立派な話ばかり、駐車場を覗くと高級車がズラリ・・・・・。これってどう思います?
 でもね。自分に言い聞かせているんですよ。福祉事業だって昔と全く違ってしまいました。世間様の評判だって。
お金が絡むから、ホンネとタテマエの世界になったということでしょうか。これでは不味い。そう思うのです。
 社会保障が進んだ国は、事業者が栄えることではありません。そのズレは大きい。ならばどうしますか?って事です。
 私たちならこうしますという答えを持ちえない。何故か、国がマニュアルなど事細かに用意するものだから、皆が皆、同じになってしまった。そこで、考え出されたのが、器を競うこと。・・・・・で、どうなったか!
 働く人の養成まで手が回らない。これが日本の福祉の実態ではないでしょうか。こりゃー根深いですぞ。
 もしも、TPPで外国資本の事業参入が認められれば、一溜まりもありません。
 どうして出法事の話がこうなっちゃうのですかね。相当、根深いわけですよ。嗚呼・・・疲れたわ。
 

2063:三寒四温

弥生三月、啓蟄も過ぎ、いよいよ春の訪れを肌で感じる季節になりました。三寒四温とは7日周期で寒い日が3日、その後温かい日が4日続くと言う。これは中国北東部や朝鮮半島で言われた事らしく、日本ではあまりハッキリしないという。
 それでも、雨の後の地面を見ると何かが動き始める気配は感じます。
 そのような中、まだまだ雪国では大変な生活を送っておられる。そして今年はそれに輪をかけるように放射能汚染の被害が忍びよってくるのです。今朝の新聞に書かれていました。福島県の30年後の人口は今の半分になるのではという記事でした。これをどう受け止めれば良いのでしょうか?日本人全てが我が事として考えなければなりません。
 茨城県でも昨日、知事がもしも東海原発で同様の事故が起これば、半径30キロ圏内で避難しなければならない人口が凡そ100万人、県内にあるバス約7000台を総動員しても避難しきれないという事を議会で答弁していました。
 茨城は3月に入り、震度4以上の地震が頻発しています。地殻の断層が縦横に走っている地域、その話を聴いて背筋が寒くなりました。
 さらに福井県においても原発近くに新たに断層があることが分かったという。
 多分、日本中どこを探しても断層がない場所は見つからないのではないでしょうか? 安全な原子力技術の発展に力を注ぐことも、実は現存する54基の原発を安全に維持するために不可欠なことだという。
 脱原発は今すぐに実現できることではない。これは誰しもが分かっています。ならばどうするか?今に至ってもその議論に盛り上がりを欠いていると思わざるを得ません。
 アジアが今後、世界の牽引役になることは間違いないと思います。中国やインドの人口は懸念材料を挙げれば事かきません。食糧・エネルギー・保健衛生、それに格差の問題とどれをとっても大変な課題です。
 日本のアジアにおける地位は確実に変わるでしょう。その時に何を優先して存在し続けるか!
 日本は世界でも有数の森林率が高い国です。そして豊富な飲料水、島国のため水産資源や高品質の作物に恵まれた国。
 男女の寿命が世界で常にトップの座にあることが何を意味するか!
 当然の帰結として高齢化社会になったわけで、それを負担と考えること自体が妙な感じがします。
 定年を60歳と何故決めたのでしょう?尚恵学園は最初から65歳でした。その後も働く意欲の有る方には続けて頂いています。
 制度で文句を言われる筋合いのものではないだろう。生きがいをもって老後を遅れるほど幸せはないはず、しかし、残念ですが、日本にはその道筋がひかれていません。
 今を生きる人には、後人に負の遺産を残した責任があると思う。ならば、この辺で覚悟を決めてはどうでしょうか?
 いずれ日本は人口が減少し、ある程度の所でまた安定期に入ると思います。その人口が今よりどの位減るか。
 消費税論議が国会ではお盛んになってきました。与党も俄かに異議を唱える連中が内部から出てきて、またもや政界再編なる噂が出る始末、一体この国は誰の為の政治をやろうとしてるんだろう。
 どうしたって議員の保身の為と思えてしまいます。隠れてコソコソなど話し合っていないで、堂々と表で議論しなさいよ。
  ここにきて円安傾向が出ています。対ドルで1円変われば300億円の損失になるという会社はどこでしたかね?
あの時と比べれば今1ドル82円前後です。この利益はどうなるのですか?黙して語らず。これもニッポンというお国の為。
 三寒四温はいつになったら庶民が実感できることやら、・・・・・・。月間天気予報から・・・・・。

2064:国会審議

予算委員会の中継を観ていました。迫力に欠けるというのが正直な印象でした。何故でしょうか?全体的に決定打に欠ける内容で攻める側も応える側もです。その中で2つの事が記憶に残っています。一つ目は自民党の小泉進次郎議員の質問、要点を得た質問と落ち着いた態度、30歳そこそこの彼と比べ他の議員がなんと迫力が無いのか!
 2つ目は、以前から気が付いていた事ですが、議員席の末席に腕組みして毎回座っている、渡部恒三氏、今年で80歳になるという。さすが存在感があると思いました。議員の引退も囁かれている中で、百戦錬磨の数少ない議員です。そして出身地が福島県会津ですから、尚更なのでしょう。政治の役割をどう果たそうとするのか、残念ながら質問に立つことはしませんが”福島弁”のホンネの遣り取りを私は望んでいる。
 消費税をどうするか?このテーマが今国会の踏み絵となるのでしょうか? 党内融和を掲げ、総理となった野田さんの正念場(?)、政治生命をかけるとか不退転の覚悟・・・等、正直、どっちでも構わない。要は言ったことはやってくれよ。それなくして我々は何を根拠に票を投じることができるのでしょう。
 与野党関係ない。気概と覚悟を持って臨む人を私は選びたい。民主党に言いたい事、何をアンタ達は怖がっているのですか?自民党に言いたい事、解散に追い込む、今のままでアンタ達は政権奪回できるのですか?
 3.11から有権者の意識は変わった。他人事と考えていた人達がそうでは無いと感じ始めている。
 元気の出る話とかマニフェストで実行できたことをもっと強く発信したほうが良いと言う発言が有った。心理作戦に転じたのですか?
 実態を掴むことから政治は始まる。この基本をどうも良く理解されていない議員が多い。何も議員だけではありませんよ。
 国民全体に関わる事ですからね。中には日本に見切りを付け、海外移住を考える人も出てきたとか、去る者は拒まず、どうぞご自由に。そんな貴方が夢に描くような理想郷などありませんから。
 障害者問題に長く関わってきますと、どうしても世の中をながし眼でみるようになる気がしています。被害妄想まではいかないのですが、ここ数年の動きを見てきて、期待を持たされた割には、元の鞘に収まるような状況があって、踊らされた割には、どこがどう変わったの?
 先日、水戸で育成会の役員会がありました。その前に運営適正化委員会があって、今言わないと機会を失うと思い、少々強めに私見を述べさせていただいた。
 結論から言えば、福祉は立ち止まっていては、退行するという事です。何も打ち上げ花火を推しているのではありません。実態をどう変えていくか、このエネルギーが無くなればいずれ消えさる運命、会議も事業もです。
 会議で何も意見が出ないものほど内容が伴わない。意見百出でも次に繋ぐ課題を上手に整理するコージネート役がいなければダメ。
 こう考えると私自身の足元も決して堅固ではなく、外圧に弱いと痛感する。
 昔読んだ本にこのようなものがあった。森林的思考と砂漠的思考に大別し、前者は下から空を見上がるもので”調和”を大切にし、後者は鳥の目線、上から下を見渡すというものだと。そして”決断”を重要視する。
 一神教とか多神教との比較もあるが、現実の日本が置かれている状況は、”決断”することではないだろうか!
 

2065:無用の用

”無用の用”なる意味は、何の役にもたたぬと思われているものにも実は捨てがたいものがあると言う事だ。最近、気持ちに安定を欠き、荘老思想本などを読む気持ちに至らず、目先の事にばかり追われているからそのような先哲の言葉に清風を感じる。
 これは不味いな!勝ち負けを決めるスポーツなどで組織力とか全員野球など良く耳にするが、プロの世界は熾烈なレギュラー争いがあります。今朝の4大新聞全てになでしこジャパンの準優勝の記事があった。ドイツに3−4で惜敗。しかし、世界ランク1位のアメリカに1−0で勝利した後だから、確実に日本チームの実力を証明した。先のワールドカップは神がかりという評価が付いた。今回は準決勝から澤が体調不良で出場しなかったにもかかわらず、見事な戦いを演じた。
 若返りが上手く行っているのだろう。
 アルガルベ杯は女子サッカーの3大大会の一つ、ポルトガルで開催されるもので、最多優勝はアメリカで、昨年がドイツが優勝した。アジアでは中国が常連で過去2回の優勝がある。ワールドカップ程の観客は無く、どちらかと言えば派手さも無い。だが、今回2位になったことは選手にとっても大きな自信とオリンピックでの目標ができたはず。
 どうしてもサッカーのことになると夢中になってしまうのだが、佐々木監督のコメントがまた実に良い。常に前向きな話で選手起用が的確、交代した選手がピッチでそれなりの結果を出す。チームが盛り上がるはずだ。
 日本も若返りをはかっている。代表選手に15歳の方がいた。決勝戦で見せた悔し涙は彼女の今後の選手生活に大きな力になるはずだ。
 勝負の世界は、白黒がハッキリしていて判り易い。でも、日常の諸事全般に関しては、曖昧で靄っている。
 職場に於いて”無用の用”をどう考えたら良いのだろう?新旧の入れ替わりは必然で事業の存続に欠かせない。老害という事も無視できない。先輩が良き範を示せば、組織は活性化する。その逆は最悪。私の立場では、小さな職場だが、現在100名を越す人達が一緒に働く。一言で言えば、給料分は働け!という事だ。これって言い過ぎだろうか。
 たしか処遇に満足している人間はいない。これはどのような職場にも言える事。ただ、与えられた事だけをやっていればそれで良いのか!それで事業が存続できるとでも考えているのか!否、それすらも手を抜いているものだっている。
 その辺の判断になると、直感では無理、日頃の言動に目配せし判断するしかない。
 福祉の業界での重要な視点、それは”公平性”。その反対の言葉はなんでしょう?”私意”である。
 いつものように国会の例を出させていただくが、これが実に明快なのだ。〈反面教師〉
 お国の為にと言いながら私欲を貪っている人達の巣だわな。言葉のマヤカシは枚挙に遑無し。あの時はそうだった。〈今は立場と状況が変わった〉という弁明を何度聞いたか。それを民主主義だと言うのでしょうか!デモクラシーとはギリシャ語で
demokratia、demos(人民)とkratia(権力)で人民が権力を有し、その権力を自ら行使することを言う。これ常識!
 今の日本の政治は、老害が蔓延し、ほんの一部の人間に権力が集中、それを良しとする。そこに人民の影は限りなく薄い。
 明治〜昭和の時代、少なくともそれぞれの分野に誰しもが認める人が存在した。『疎にして野だが卑にあらず』。公儀というか世間の作法があり、大義というなすべき道があった。今、それが全くと言って良いほど見えない。秘め事のように、陰でコソコソ隠密行動。
 ハッキリ”NO”と言えば良いのに、それすらできない。本当に無用なものは、潔く去るべきで、優先順位からすれば、それこそが最優先の課題なのである。以上、敬って白す。
*”寛容と秩序”について、次回すこし考えてみたい。

2066:寛容

気が付いてみたら、随分と自分が相手に不寛容(?)になっているんじゃーないかと思ったのです。世の中の不条理という自分なりの一定の標的(まと)は持っているのですがね。これだって、・・・・・『寛容とは何であるか。それは人類の持ち分である。われわれはすべて弱さと過ちからつくりあげられているのだ。われわれの愚行を互いに許し合おう、これが自然の第1の掟である。・・・・なぜならば、われわれはみな脆弱で無定見であり、不安定と誤謬に陥り易いからである・・・』云々(*)。
 寛容は語源的には、「耐える」「我慢する」の意味があった。それも無条件に相手を受け入れるというよりも、自分の機軸にあったものだけを許すとね。
 だからその時代背景によって若干の違いは仕方が無い。かつてのヨーロッパ社会で起こった宗教改革には相対する信仰の問題があって、紛争が絶えず、その平和的な共存を目して寛容・許容する態度が求められた。そのように理解して先ず間違いはないのです。
 ちょっと小難しい話題で恐縮ですが、寛容な心でお付き合い下され。今の時代を見つめた時に、果たして多くの人々がどのように感じているのでしょうか?これが重要ですね。
 私の場合、先のヴォルテールの『哲学辞典』(*)を持ち出さなくとも、危機感が強いのです。明らかに公序良俗に反すると思われる事象が溢れ、社会的弱者と言われる人々がどんどん片隅に追いやられてしまう。
 その端的な例をあげれば、障害者虐待防止法、これはもう間もなく全国一斉に施行されるはずです。この設立の経過に関しては他の識者のブログを参考にして頂こう。
 私が洩れ聞いた所によれば、病院や学校には虐待の通報義務が外されている事の是非論で時間が食ったという話ですがそれだけでは無いはずです。養護者や施設の虐待の通報義務は明記されているのに、不公平で無いのかな?
 いずれにしたって弱者救済の為ならば、法の目的そのものを否定するものはいないでしょう。ただ、施行期限の10月までに全国全ての市町村に虐待防止センターを設置、県には権利擁護センターなるものを置く事になっている。間に合うかどうか、そっちが気になります。
 児童虐待や高齢者虐待への法制化に遅れ、やっと障害者への法整備ができる段階となったと喜んで良いものかどうか。何せ我々現場は今でさえ、様々な仕組みがあって全く整理が付いていないのに、更に新たな義務が課せられようとしている訳で手放しでは喜べません。
 障害者自立支援事業?地域包括支援センター?運営適正化事業?就労・生活支援センター?・・・・・・・。対象者は同じでそれを支える仕組みが乱立状態。
 これが公序良俗の法律行為に抵触しないといいのですが。
 後手後手の対応には無理があるということなんでしょうね。
 そして、結局はそれに関係する人達は、自分達の事業が世間に認知されていないと嘆く。不満を言えば冷ややかな視線を向けられるだけだから、黙して語らず、これが本日の私が一番言いたかった”寛容”。大分遠回りした説明になりました。
 でも、本当に狭い障害者に関する環境がこのように複雑で難解な実態になっていることを判ってもらいたいのであります。
 これを”寛容”の徳目としてじっと我慢しろというのは、どうなんでしょうね。そりゃー私の見識など脆弱で無定見そのものですから、アイツがまたほざいているという誹りは免れんでしょう。
 寛容と秩序。ニワトリが先か卵が先か???。机上の空論とならん為にも、不寛容が用なのだと思いますね。
 
坐禅草

2067:冷たい雨

昨日から冷たい雨が止むことなく降り続いています。明日で忌まわしい大震災から丁度1年が経とうとしています。
そんな時、栃木のKさんがまたご自分で撮った”ザゼンソウ”の写真をメールで送ってくれました。
 確実に草木は土の中で息づいています。何年かかろうとも日本人は必ずこの危機的状況から脱け出し、元気を取り戻すと私は信じます。こうやって歴史を積み上げてきた民ですから。
 昨日でしたか日本国籍を取得したドナルドキーンさんが紙上に意見を述べておられました。大震災の時、外から見ていた自分は日本人が団結して復興にあたっている姿を素晴らしいと思った。けれど、今日本に移り住んで、大都会は夜中も煌々と明かりが灯され、オーバーな宣伝広告が街の至る所に見える。・・・・・
 89歳になって日本に永住する決心をされたキーン氏、これほど日本を愛する方がいるでしょうか?
巷では、日本を捨て海外移住を真剣に考える人達もいるとか、世の中いろいろという事でしょう。
 話は変わりますが、OECD(経済開発協力機構)というものをご存知でしょうが、現在は30カ国が加盟し、パリに本部を置き、700名以上のスタッフを抱えている機関です。所謂、先進国という括りに入るであろう国が、地球規模の持続可能な開発などを支援協力しようとするもの。その中で”貧困率”をみると日本はなんと下位にあると言われています。
 少し前までは国民総中流とか言って自画自賛していたではないか!いつの間に世界全体からみてこのようになってしまったのでしょう。
 いずれにしても”ザゼンソウ”はそんな事お構いなしに芽を出し、葉をひろげるわけですね。自分の姿を誰かに見てもらいたいとか考えず、只管、我が道を歩む。こんな生き方ができたら、世の中が変わるでしょうかね。
 多分、冷たい雨を喜んでいるんだろうな。
 夜中に茨城北部を震源とした地震がまた起こりました。高萩市では震度5弱という。土浦は震度3。
震災後震度1以上の地震はなんと7000回以上起こっている。
 

2068:1年

2012年3月11日AM:7:37・・・・・
 昨日までの冷たい雨があがり、静かな日曜日の朝です。今日1日、国内の至る所で1年前に起こった大震災で犠牲になられた人達への慰霊の集いが開かれます。豊山派でも仏教青年会がある企画を行うとのことです。私は自坊であの時間「2時46分」に梵鐘を突くことにします。

PM:3:03・・・・・・・
 果たして全国の寺院の鐘楼が今日どれだけ打ち鳴らされたことでしょうか。私達は正直言って、あれだけの被害を受け、未だに苦しんでいる多くの人達のことを忘れています。誰だったか忘れましたが、これを”意識の風化”と言っていました。
 何もかも一瞬にして変わってしまった被災地の人達と比べ、多くの日本の人達は記憶も薄れ、日々の事で精一杯というのが実状だと思います。
 今朝のラジオで新井満さんの散文詩『希望の木』というものが読まれました。陸前高田にあった7万本(樹齢200年以上)といわれる松林がたった1本を遺し、全てが津波に浚われた。いま最後の一本まで塩害により枯れてしまった。しかし、人間は賢い。接ぎ木をした5本の新たな木が遺され、その木からまた新たな新芽が出ているそうです。
 朝からテレビは震災1年の特別番組を放送しています。現在も避難生活を送っている人達の悲痛な叫び、私達はどのような言葉をかけてよいのか正直迷います。必ずや復興できると信じ、希望を持って生きていく事、これだけは決して間違いない事だと思います。

3月12日 夜開けて
 昨日はテレビを観ていて多くの人々が涙を流したことと思います。1年前突然襲われた出来事、この地震で1万9000人余人々が死亡或いは行方不明となっています。まだその傷が癒されず、この先どうして良いか分からない人々、画面を通してしかその実態が分からない我々は、正直、成す術もなく、1年が過ぎたのです。
 1夜明け、何も変わらずいつもの生活が始まる、被災地の人々は働きたくとも働く場が無く、住む場所さえ無い。仮設住宅は1年後には出ていかなければならないという。子を思う親は何処も同じです。放射能で体に悪い影響が出るのではないか、その時になって悔みたく無いから、福島を出ることにしたという親子。
 政府は多分必死になって復興に努力していると思います。でも、何かが違う。こう感じてしまうのは何故なのでしょうか?
 被災地の皆さんが口を揃えて訴えたのは、もっと早くという事と将来どうなるのかを示して欲しいという事でした。
 いつまでも我慢していろと言うのですか!
 東日本大震災は、世界に例の無い3重の被害をもたらした。M9という大地震、それと20メートルを超す津波、更に追い打ちをかける原発事故、それも4基もの原発が一度に。
 「これは戦争だ」と言った閣僚がいたと言います。地震直後現地を訪れた人にとってみれば、当に眼の前の光景がそう映ったのでしょう。
 朝日新聞の紙上に、第2次世界大戦で戦争に加担した宗教界の記事がありました。寄付を集め戦闘機を寄贈した・・・・云々。
 全日仏が脱原発を宣言したという。それは、特定の方達の犠牲の上にたち、自らの幸せを願うことに加担できないというものでした。政府は停止中の原発の再稼働を念頭にいれ、その準備を進めている。
 それとは別次元で、東京直下型地震の危機を訴える。震度7クラスの地震が起こる確率を数年後という京都大学の発表。
政府の試算でその被害総額が時価で112兆円とか・・・・・・・。
 これを文明の宿命と言うのはどうなのか。日本は素晴らしい国です。それを疑うものではない。・・・・が、世界でも有数の地震多発地帯なのです。政治家は他党の公約を批判はします。だからと言って地震が起こらなくなることは絶対にない。それに絶対安全な原発も無いことを。。。。。。
 

2069:目を開けよう

よーく、目を開けてみませんか!知らぬ存ぜぬで良かった時、果たして今に至ってもそうでしょうか?
 3月11日に何があったのか? 津波で犠牲になった人達の中に、職務に忠実なばかりに自らの命を落とされた方の新聞報道がありました。さぞ、無念であったものと思います。その人達の思いを遺された我々がどう受け止め、今後にその経験を活かせるか!大変重い宿題が残りました。
 近年、見て見ぬ振りをすることが多過ぎないでしょうか!個の尊厳ということで、明らかにおかしなことをしている人に何も言えなくなった日本人、特に子供たちへ。もし、注意でもしたら親が怒鳴りこんできたり、逆恨みされることを心配する世の中、どこかオカシイよね。 教育を学校や塾に丸投げし、親子の会話さえ成り立たない家族が増えています。権利の主張はするけれど、何が義務なのかに無関心、これで住みよい社会が築けるのでしょうか。
 障害福祉に関わっていると、その辺の事情が手に取るように分かります。このまま進むと今以上に格差が出ると思います。
 縦割り行政の歪は一向に改善をみせていない。子が成長する段階の教育は大切です。特別支援学校が全国津々浦々に建てられました。我々福祉の側からみれば、生徒と教師の数は手厚くなっていて、羨ましい限りです。しかし、卒業後の受け皿が無い。有っても充分ではありません。
 卒業後の時間のほうが遥かに長いことなど誰だって分かることなのに。
 橋下大阪市長が教育改革を宣言し、奮闘しています。大阪の実態は良くしらないが、歪があることは確か、大部分の市民は、その事に疎い。関係無いとは思わないだろうが、目くじらをたてる事も無し。そして長い時間が過ぎてきた。
 官は民間に任せる分野を思い切って渡さないとダメだ。電力業界はもっと酷い。ピラミッド型に組織された企業群、孫請けよりもっと底辺に関わる人々、一方ではほんの一握りの経営陣が大変な権力を持ち、”村”を作っている。その牙城は幾重にも守られ簡単には崩せない。
 この改革は、教育改革より難しいと私は思う。教育は家族や地域が代われる事があるからまだ良い。その点、電力は独占。地域区分がはっきりしていて相互乗り入れなど不可能だ。安定的な電力供給という大義が大きな勢力を長期に温存させている。
 言うがまま成すがまま。
 これには相当強い政治のリーダーシップと国民の後押しが不可欠。ここで妨げるものは、政治とカネ、有力議員の抱き込みと献金攻勢、結局、日本の現状は長年積み上げられた諸々の利害関係から成り立っている。
 芋づる式の複雑な絡みを根気強く辿るしか方法はない。
 既得権を死守しようとするものと改革しようとするものとの綱引きで、これだって同じ土俵で相撲を取るようなもので、今の時代には合わない。
権利と義務。仏教の解釈によれば『自末得度先渡他』であって、3:11の時、若い女の先生が子供たちを安全な場所に避難させてから、自分が学校に戻り津波の被害に合った。当にその事。
 地位や見栄など関係なく、只管、自らの職務に忠実な人達がこの日本にはまだ沢山いると信じます。
 誠に忸怩たる思いは某大物政治家が法廷で闘争している一連の言動との格差、何が真実かというよりも、政治の使命をどう考えるかで、その意味では彼の最後の政治生命をかけたギリギリの足掻きであると私は思っている。
 

2070:比較論

心の内を覗くことは、いかに難しいか。相手の立場に立つことなんて本当は出来ない。人間は常に他人と一定の間を置き、観察、比較し、そして心を動揺する。嫉妬、羨望、・・・欺瞞、不信・・・不平・怒り・・・・・。
 この感情は時としてプラスに働くこともある。負けず嫌い・向上心・・・・:勤勉・精進・・・・。
 動物は外界の敵に抗して、様々な自衛手段を考えた。本能的に危険を察する能力は人間の比ではない。猫や犬を観ていると気付くことがある。自分で食べ物を捜す能力は弱まった。それが先日、我が家のミイちゃんが何かを銜えてやってきた。良くみると小ネズミ、多分、彼なりに得意満面、「どうだ」と言わんばかりに見せにきたのである。・・・が、それを食する勇気(?)は無い。私の前にネズミを放り投げ、いつものエサの入った茶碗に向かった。
 それが、福島原発周辺の緊急避難地域で飼われていた牛が野生化して1年経っても生きていたという。車の通らぬ国道を牛が堂々と歩いている。
 3:11の惨禍は、1年経てもまだハッキリとした復興の兆しが見出せない。それだけ大変な事態である証とも言える。
 ある街は住民が3つの市に集団避難し、行政機能が寸断され、極めて不便な状況にあるという。日本人の我慢強さは一体どこからきているのだろう!国が何かをしてくれるだろうという期待とその逆の不安が入り混じる。
 これからが正念場、紆余曲折・一触即発、 慎重かつ大胆な指導力が不可欠だ。
 人は先が読め無いと不安を増す。果たして国がこれで行くという明確な方針を示せるか!時間ばかりが過ぎて一向に改善されない状況は、気力を萎えさせるだけである。
 確かに誰が舵取り役になっても大変なことは判っている。今の日本は、過去の経験から学ぶという手法が使えない。だからと言って外国に範とするような具体的な手本(国体)も持ちえない。
 様々な議論は成されるが、その中で何を取るかという選択ができないでいる。
 情報が溢れ、其々が主張はすれども何かが足りない。何が不足しているのかと考えると”時間”だと私は思っている。試行錯誤する時間、世界に類の無い惨禍を受け止め、人間の英知を集めても尚、寄せ付けない惨状と対峙する時間。
 それを宿命と捉え、責任のなすり合いではなく、乗り超えなければなるまい。
 これらは現に今を生きる我々の責任であり、優先順位を考えるならば、誰しもが自らの足元を見つめ直す実行性が問われている。
 誰かが言っていた。経済の発展を測る尺度はエネルギーの消費量と合致すると。果たしてこれが本当なのか?
 人間は本能的に健康体(幸福)を求めるものです。日本人の何割が糖尿病予備軍となっているかを考えただけでもその背景が見えてくる。糖尿病の予防はカロリー制限を主眼におく。食事やストレスなど生活習慣に気配りし、暴飲暴食は絶対だめ。摂取量を調整し健康を保つ。
 経済の発展を示す数値は、幸福度とは一体でない。
 日本の描いてきた国の容が、身の丈に合わずメタボ状態であったのではないかという反省は、残念だが今の日本のリーダー達にとっては禁句。
 しかし、どうなのか!良くて現状維持、それだって難しい状況があるのではないでしょうか!