源究125

 

NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日 NO テーマ 月日
2011 老働力 1/10 2016 何はともあれ 1/15 2021 人間の器 1/21 2026 敬天愛人 1/27
2012 長幼之序 1/11 2017 常在戦場 1/16 2022 欲得の渦 1/22 2027 孟母断機 1/28
2013 福祉の立場 1/12 2018 ・・・・・・ 1/17 2023 挑戦者 1/23 2028 海外流出 1/29
2014 葬儀事情 1/13 2019 俯瞰図 1/18 2024 初護摩 1/25 2029 シロアリ 1/30
2015 ピンポイント 1/14 2020 大寒 1/20 2025 20年・・・ 1/26 2030 感覚麻痺 1/31

2011:老働力

介護保険導入時期にマスコミに頻繁に登場し歯にきぬ着せぬ物言いで一時話題に上った樋口恵子女史、老人に対し”粗大ゴミ”とか”濡れ落ち葉”という多少癇に障るような言い回しが彼女の周囲に飛び交った。
 その女史も自らが79歳という老境に入り、大人しくなったと思いきや、今朝のNHK深夜便「明日へのことば」に登場した。今なお各地で講演活動をしているそうで、彼女が自著で推奨するHB(ハツラツ バーサン:溌剌 婆さん)を実践している。
 日本の社会保障の仕組みが大家族で夫が外で働き、妻が家事と育児を担うという当時の一般家庭を前提に考案されたものだった。今や社会構造が明らかに変わり、旧来の制度そのものが機能不全を起こしてしまった。
 我々の親の時代と比べ、寿命が倍増し(For 所得倍増)、これまた女史が名付け親のBB(貧乏:婆さん)が増え過ぎた今、長生きするなら老人としての責任を果たせと。そうして働力ならぬ働力、60歳定年から65歳へと世の中が変わってきた中で、70歳を過ぎてもHBでいるべきだと持論を繰り返す。
 日本の女性が家事を無償で長い期間実践してきた。その家事が今や重要な有償の労働となっている。これこそ介護保険制度が果たした功績(副産物)?食事や掃除という家事援助が当に嘗ては.家庭内で行われていたことであった。
【北欧が何故社会保障が進んだか?少ない人口で女性も貴重な労働力と成らざるを得なかった事が制度設計の基本にあった。】
 現実に日本では生活保護受給者がどんどん増えている。すでに200万人を越した。月6万円弱の基礎年金だけでは生活ができないし医療費の免除などが受けられる生保への加入者が増えたのも分かるような気がする。
 全人口の4割が65歳以上になるのは然程遠い話ではない。そうなった時に今の日本の仕組みが持つはずがない。既に破綻しかけている旧来の制度をどうするのか、一方で老人の生きがい対策として、年齢に関係なく、自立することが望まれている。
 障害者福祉でその国の達成度をはかる指標として所得補償がある。
 「働かざる者食うべからず」という日本人の観念は、働けるのにそれを怠っている者を言ったものである。誤解を恐れず言うと、ならば障害者は怠け者か?、この議論が封印されてこなかったか?老人施策でも同様の問題をみる。老人を若者の負担と考える見方は制度作りをする識者に多く見受けられる。
 これは教育や医療にまで影響する。延命治療の是非論、高額な医療費を抑制するためにどこまで治療を行うかという問題と同根だ。
 ただ、一概に決め付けができないのは、その隙間をぬって巧みに入り込んできている実態があること。生保受給者をターゲットにした強か者の動きが見え隠れする。
 今のままでいくと、日本が決して弱者に優しい国には成らず、一部富裕層だけの楽園になるのではないのかと危惧される。いつの時代いずこの国でも避けて通れない課題であった、結局はそのバランスをどう保つかの選択と国民の同意が重要になる。
その事を政治に期待し、実現してくれるまでの負担を覚悟した。今の政治は言葉巧みに出来ない言い訳を並び上げ誤魔化そうとしてきたではないか?
 国の政治に責任を負わせるのは本意ではない。自分は一生働き続ける覚悟である。それが樋口女史の言う”粗大ゴミ”に当たるのであれば、指弾されても構わない。自業自得でも自業自縛でも なんでも良いのだ。
 

2012:長幼之序

大分時が経ちました。『長幼之序』を振りかざし、メデアの前で良い格好した大臣は、今頃何をしてなさるか?
 これなど外面第一と考える人間の典型である。良く言えば自分なりの生き方なのかも知れぬが、政治家としての資質を疑う。あの場合、後で知事と二人きりになった時に言えば良いこと、たったそれだけのことなのだ。「陰徳を積む」
結局彼が何を行ったのかと言えば、就任後、失言で謝罪、早々に退場処分、これしか浮かばない。なんともお粗末な幕切れだった。
 昨日、通夜があって迎えのタクシーの運ちゃんといつものお喋り、初めてのタクシー会社だったので私が道案内をしながら斎場に向かった。 こんな話を聞いた。私が良く知っている病院の院長を良く乗せるという。『先生を知っているんですか?へー。院長先生は凄い人ですね。全く威張らないし、優しい先生ですよ。その点、隣の大病院の先生達、1/3は威張っていておっかねー。良い先生もいるんでしょうが、、ああ。。なっちゃうんですかね・・・・』
 この運ちゃん大病院で何か嫌な事があったのかもしれない。「そうですか」とだけ受け答えし、話題を変えた。
 立場によって人間が変わってはダメだという話。知識としていくら知っていても世の中は渡れないということ。
 新年早々だというのに風雲急を告げるような気配を感じます。
 先が読めないという状況は、随分長く続いている。時間はそれとは無関係にどんどん過ぎていく、これを客観視することは難しい。経済には全くの素人だが、ヨーロッパで今起こっていることは誰も予測できなかった事態なのだろうか?共通の通貨を作り、圏域でスムーズな経済活動を目論んだ割には、格差が埋まらず、勝ち負けがよりハッキリしてしまった。そして今、勝ち組までも国債評価が下がるという憂き目を見た。
 リーマンショックの影響が続いている。その最たるものが、アメリカ、金融の混乱を避けるために膨大な量の公金を市場に出した。その金が中小の企業や個人に流れない。一体どこに行ってしまったのか?金融界の中に溢れんばかりに集まっているという。ヘッジファンドがし掛けるマネーゲームは、最早、一国の総予算を優に超える程の金を1日で動かす。その利ザヤで稼ぐ総額は、常識を超えた額になっている。
 地球上で現に起こっているこの状況をストップさせることができない。富が一極に集中し、嘗てのハクスブルク家のような大富豪が生まれる勢いだ。19世紀後半の鉄血宰相の異名を持つビスマルクの再登場を願うほど、現代は単純ではない。
 歴史は繰り返されると言うが、所詮人間が考えることだからと達観するには、スピードと量が全く違う。
 核兵器廃絶を唱えながら、一方では原発の存在を黙認する。本当に豊かさを得るために核が必要なエネルギーなのか?豊かさの恩恵が一部のものに流れ、全体が挙って豊かになって幸せになれるか?
 いや!豊かさそのものが曖昧になった時代である。
 それを示す証拠はいくらでも見つけられる。要は決断するか否かの問題である。
 ソフトランデング(緩やかな離陸)をはかることも一理あり。しかし、時と場合による。例えば絶対というものが、この世に存在しないとすれば、万が一、隣国のトップが日本を向くミサイルの発射命令をだしたらどうなるか?
 国の防衛の最高責任者が「長幼の序」を持ち出し、客人の持て成しはこうこうしかじかと説教してなどいられまい。
 財務・防衛・外務という重要閣僚ほど、その資質が問われる。国内向けというよりも日本を代表する顔だからである。どう見ても現政権が覚束ないのは、そこに就いた人の交代が早すぎること。
 少なくとも国を導く人間は、子供たちに説明のできる人間であって欲しいものだ。
 

2013:福祉の立場

もう半世紀も前になるんだ、イギリスの福祉に関心があり、本で調べた事があった。”ゆりかご”から”墓場”までという人間の一生に関わる問題であることが10代そこそこの私にも朧げに理解できた。何故、そんな事を調べたのかと言えば、恐らく親に付けられた”福祉”という名前に関係あり。それまではあまり深くは考えていなかった。
 その名をぶら下げて還暦を迎えた、今もってその本義を解したとは言えない。ただ年を重ねる毎にズッシリと肩にかかる重さを感じる。このままでは親に合わせる顔が無い。
 自分に言い聞かせているのは、広範な福祉に余り手を広げ為さんな!ということ。産めよ増やせよのブームに乗って、力以上の事に手を出し、二進も三進もいかなくなることを恐れた。足るを知れ。己の力を知れ。人間一生の問題を精々人生80年の間に人間ができることには限界がある。ならば、自分は知的障害の人々に関わる事のみでやりたい、その事を父に尋ねたら父も同じ考えだと同意してくれた。ここが出発点である。
 福祉事業の成功はあっても福祉の成功は無い。
 あれから世の中が大分変わった。当時を支えてくれた人達は皆、彼岸に渡って今は亡し。多様な価値観が生まれ、従来の形に拘っていては時代に取り残される?と自問自答の繰り返し。
 勝ち負けの競争で、あれこれ迷って一生を終わるのが落ちだ。そんな例は今の世に捨てる程あるでしょう。
 福祉の事業の成功は規模の大きさや種別で量ることではない。私なりに考えたのは、法人を大きくするのではなしにグループ化をはかることだと。別法人で、何らかの関わりを保ちつつ、お互いが連携をはかる。これが日本型福祉の将来の容と観た。
 未だ、その第1段階を彷徨っているのだが、それでも確信めいたものを感じている。自戒することは、”我田引水”にならぬ事。運営者というよりも経営に長く携わると目に見える数字に満足し意識せずともそれを誇るようになりがちだ。これは末期症状である。夢に満足した時は、潔く身を引く時だと私は考える。
 何をもって事に当たるかという話だが私の場合は”共生”という法人の理念である。これが途方も無く遠大なテーマで、とてもじゃーないが入口を捜すだけで終わってしまいそうだ。一人の力の限界は他の協力を得ることでカバーするしかない。
 となれば、いま戦々恐々として制度改革の動向に騒いでいる様は誉められたことでは決してない。制度がどんな風になっても構わない。やるならやってみなよと冷めた視線を向けるだけ。
本当にできることと理想は違う。出来ることを突き詰めることが、我々の使命でしょう。
 それと画一化された理想など有りやしない
 経営あって使命無し。これでは持たない。少々意地悪に言えば、エピゴーネンというんだわな。
 この国が果たして障害を持つ人々にどのように関わっていくのか?関心は有るが、窮極的には国の問題ではなく一人一人の問題なのである。
人間は貪欲且つ強かである。とは言っても、所詮、人間は我が道を歩むことしかできやしない。
 これが福祉の環境であり立場なのである。

2014:葬儀事情

葬儀が続いた。1週間の間に隣同志で不幸があった。新年早々、このような話をすることを坊さんに免じてお許し願いたい。簡素化が進んだといっても、まだまだ古い習慣が残る地域はあるものです。
 私は、諸事万端が揃った斎場に出仕すれば良いのだから、別に苦労は無いのです。しかし、組内の人達は大変です。当家だって気は使う。この不況で勤めを4日も休んだら、机が無くなっているかもしれないご時世だ。
 前置きはこれ位にします。
 最近の葬儀事情であるが、急速に家族葬が増えている。身内の人達だけで葬儀を行い、後日ハガキで通知する。
 葬祭業の規制が緩まり、やたら目立つセレモニーホール。あまり知られてはいなが、カリスマ葬祭業なる成功者?がいて、その方は裸一貫何も無い処で始まった。今では年間6000件の葬儀を行うと言う。大中小有るだろうが、これは凄い。
 香料の御返しで、腐るものはない。だから、在庫で保管することも気にしない。誠に費用価格が良い。
 それと今時シャッターが下りていても誰も不思議に感じない唯一の商売である。
 葬祭業がメデアに取り上げられた最初は、確か大村昆さんと片平なぎささんが出演したテレビ番組、その後、本木雅弘さん主演の「おくりびと」、もう3年前になるがアカデミー賞を受賞しレッドカーペットを歩いた。また、最近テレビ番組で葬祭業を取り上げた新たなモノが登場するようだ。
 ”業”と言うからには、それに携わる人がいる。昔ならば、話題に上るような業界ではなく、目立たないことを良しとした。それが土浦は全国でも公営斎場周辺にもっとも多くセレモニーホールがある地域とのこと。斎場銀座が誇れる事かどうなのか?半径500メートル範囲に現在8か所もある。どうしてこうなっているのか分からない。
 私は今までに全てのホールで葬儀を行った。これが微妙に違う。私が読むお経は全てが同じ。なんか変だ。
 そこで新たな流れ、少人数によるお別れが増えたことで、その種のホールが出来ている。下手すると弔問客よりもスタッフのほうが多くなる。
 これは都市化に伴って変化してきたものである。隣近所の絆が薄れ、自然にそうなった。地方では葬列を組んで火葬に向かう。私はいつも先頭の車、ゆっくり走らないと離れてしまう。時々、道路脇に車を止め、葬列を組み直す。
 これが運ちゃんの腕? 得意満面で仕切る。なにせ亡くなった人が道に迷うから責任が重いのだ。
 しかし、東京ではこれは無理です。どう説明するのだろう。その流れが地方にも伝搬したわけである。
 商売と言うには抵抗があるかもしれんが葬祭業の基本は”御用聞き”、お客さんの希望を伺って、不都合が無きようにコージネートする。
 世の中が訴訟花盛り、でも葬儀で裁判になったことは耳にしない。亡くなった仏さんが目を覚まし怒り出すことは先ずない。 成仏できなかったら坊さんが悪いのだろうが、私の経験では仏さんからも遺族からも訴えられた事は嘗て一度も無い。
 商売で成功している人に共通するもの、それはお客さんのニーズに敏感な人。
 これは商売に限らず、政治家も同じ。御用聞きがいつの間に”殿様”になった。その後何が起こったか、政治離れ。
 結局、その状態が長く続き過ぎた。落選を恐れるばかり、綺麗事が横行し、有言不実行。保身第一主義は、どんどん陰に潜行し、有権者不在の選挙戦。
 ”無駄”アンタが一番という事さえ分からずに家来を引き連れ参勤交代。
 政治が本来の形に戻れば、この国は変わると思う。野田さんが本日、内閣改造を発表、また大臣の首の挿げ替え、お手並み拝見という事を言っている場合では無い。これがもう一つの日本の”争議事情”である。
 

2015:ピンポイント

昨夜、最善・最強の内閣ができたと野田総理が胸を張った。
 そりゃー良かった。これで安心。
そんな事を思っている人はこの日本にはいませんね。与党内からさえ、防衛大臣になった方、ご婦人は泣く子も黙る超有名な先生、また、そのお父様は地元では神様的存在。「いやー大変だ。難しいな、大丈夫かな、身が重いな・・・」これはマイクを向けられた時、ご主人の花道に添えた女史のホンネ?
 逆に今の置かれた日本の状況がそれだけ大変だということを言いたかったのでしょう?そんなこと国民は既に言われずとも分かっていますよ。
永田町にいらっしゃるとそれを感じない? 最強の内閣でどれだけできるか、またしても国民はお手並み拝見を余儀なくされた。
 これはあくまでも概論です。ピンポイントで見れば、一生懸命がんばっておられる方はいらっしゃる。そんな方が表に出ない、これが問題なんですね。議員年数とか党への貢献度とか評価尺度があるようですが、それを打破しないと最善にはならぬと私は思う。
 適材適所の判断はマチマチ、政治は結果、社会保障と税の一体改革、段階的に消費税を10%に上げるという。政局の混乱を承知の上、その覚悟の程は?
 今の混乱は他の要因というよりも国内問題、例を挙げれば切りがない。既に忘れかけている「かんぽの宿」仏造って魂入れず。二束三文で売りに出され、投資した金額のどれだけ回収できたか?バブルの弊害を今もって引きずっているのです。湯水の如く金を使い、大盤振る舞いしたではないか、建物の豪華さを競い、その原資はといえば他人様の金。その責任を誰ひとり取らず、時代が変わったという弁解でいつの間にかその話題すら消え失せた。
 最近の報道で気になることは、警察や刑務所の緊張感の欠如、それと教育現場、これもまたピンポイントの評価であろうが、先生に求められるのは普通の人、これを聞いて何だって?と一瞬考えた。
 全てが全て上手くいくことは望めないし過去にそうあった例(ためし)も無い。これが娑婆世界の宿命か!
 私は将来をどうしても悲観的に見る癖がある。面白おかしく取り上げるメデアに自粛を望んでもスポンサーがつかないという。
 長寿番組”水戸黄門”の放送打ち切りが発表され、その存続を願う署名運動が水戸を中心に行われている。
 永田町の黄門様は今いずこ?すっかり顔を出さなくなって。
 一方、隣の韓国、時代劇制作に国の補助が出ていると聞いた。自国の歴史を子供たちに知らしめるために様々な優遇措置を取っている。ここに国の役割と姿勢の違いを感じるのです。今では高額な金を払って名画を買い集めるなどしないだろうが、鍵のかかった倉庫に眠らされるのが落ちで、子供たちの眼に届かない。どこが違うかといえば緊張感の有無、朝鮮半島ではまだ戦争が終わっていない、常に臨戦体勢が存在するという一語に尽きる。
 紛争を望む者は無し。平和を求め、国民の幸せを実現させることが政治の役目、それを消費税アップが最大の使命と公言してはばからない政府は如何なものか? その前にやるべき事があるでしょう。口すっぱく国民(?)は言って来たはずなのに目くらましにあってきた。
 私腹を肥やす公僕は罪に問われる。その例がまた問題になっています(経産省の元審議官)。
 ピンポイントの攻めの視点を持たずして、全体を変えることなど出来ないと今でも思っている。
 日本人のDNAに臭いモノに蓋をするという格言が今もいきている。
 

2016:何はともあれ

ともかくも無事に終わってホッとする。誰しもが経験することですが、そう思っている間もなく、またしても新たな壁が面前に立ちはだかります。これが人生さとか格好付けてみても内心穏やかである様なし。
 格言・金言なんでも良いのだけれど、見事に言い当てている言葉に出くわすものである。昨日は結婚式、小さい頃から良く知っている新郎だけに、よくぞでかした!とエールを送る。その親父と言葉を交わし、「これからが心配だよ」。これを聞いて他人事とは思えずに一瞬背中を走るものを感じた次第。
 こうやって新たな親子の縁がきずかれる。いつものことだが祝いの席に出た後は疲れが一気にでてくる。どうしてなんだろうね?
 今日は日曜日、法事が3件入っているし、ここは気持ちを入れ替えて坊さんモードにマイナーチェンジ。
 法事の後の5分話は何の下調べも無くて喋るから、祝い事の後など特に気を付けなければ失敗する。なんど苦渋を嘗めた事か心の広い檀家さんに感謝でいっぱいだ。
 トップダウンかボトムアップか?これを良く耳にするが、両方さ。本来はボトムアップが6で良し。トップは4で充分だ。
 さて四六時中考えていると夢か現実か判らぬ状況になりますね。その意味から言わせてもらえばトップが10でボトムがゼロ、それでは事が進むまい。
 新年早々、今年は悔みが続いていしまい、早くも6件目、まだ1月の中間でこうだから、この先どうなるかと心配だ。
 幸い体調はまあまあで、どうにか対処はできそうだが、いつまで持つかわからない。
 守備範囲には自ずと限界はあるものです。それを弁えず拡げてしまえば、相手の思うツボとなり、連戦連敗の憂き目を見る。事業はスポーツに通じる。昨年一番の良かった話題はなでしこJAPANの女子サッカー、同じことをやれるかと言えば誰しもが無理だろうと考える。
 しかし、そうじゃない、頂点を極めた事実があれば恐れることは何も無いと思うのだ。エベレストの登頂に成功した人達全てに言えることだが、頂上にいつまでも居続けることは考えない。所詮無理な話で、一時も早く下山を考える。
 それができた人が幸運で、下山途中で事故に遭い生命を落とした人もいる。
 いま日本人に望まれていることは、物心両面の大災害からの復活だ。これだけ悲惨な体験をした国は決して多くはない。ここから這い上がって世界に日本人の実力を見せてやれ。
 大半の人々が今回の災害によって自分達の生き方を考えたはず。これぞボトムアップ100%、暫くは混乱は避けられまいが、これに耐えられるリーダーを育てる責任もあるはずだ。
 旧態依然とした党利党略に国民は騙されまいし、司法の判断がどうのこうのではなく、その人の人と成りが問われるはず。
 ここを見誤れば、氷河期にも似た低迷の時代が続くのみ。
 何はともあれ日本人として”権利”と”責任”がどうあるべきか、各自の良識ある決断を見せる時である。
 

2017:常在戦場

内閣改造後、様々な憶測が飛び交う。ヨーロッパの国々の国債格付けが下がり、明日は我が身だという財務大臣発言。更に政治家向けの警鐘?か、常在戦場という言葉で幹事長が自党議員への引き締めと野党への牽制球。
 そして就任後一番気になる大臣が沖縄の米軍基地移転の勇み足発言といらぬ波立てを行う。何か全てが私には他人事に聞こえてしまう。野田さんも大変だ。
 予断を許さぬ状況は今に始まったことではないでしょう。一喜一憂、落ち着かない。
 現在、成人寮の内部改装工事をしている。全面改築の時期にはまだ至っていないから、部分補修で仕方がない。模様替えとスプリンクラー設置、利用者の方々が生活しながらの工事で業者も細心の注意をしてくれてはいるが、そろそろ利用者の皆さんも我慢の限界か?
 毎日のように工事の進捗を見に行っている。昭和54年に建築した建物で当時の苦労話を始めたら切りがない。土地の規制があって当初の図面を何度も書き換えて今の姿になった。最初は40名の定員でスタートし、県の指導で2年目に10名増員、土地の中央を横切る市道の廃止手続きに時間がかかり、建物の幅を大きく縮めざるを得なかった。それに食堂などは40名で考えたものだから手狭感は否めない。そんな中でスタッフは30年以上工夫しながら今に至った。何よりも利用者の方達に不便を感じさせてしまった。
 できれば個室で余裕のある建物に改築したい思いはあるのだが、いまそれが許される状況にない。
 そんな中で、昨日は家族会の役員会があった。私は出られず後でその報告を受け、様々な意見が出たという。
 どんどん意見を出して欲しい。遠慮していては何も変わらない。日頃からその事をお願いしてきた。
役目上、毎年のように新築になった施設の開所式にお邪魔し、いつの日にか見ていろよと決意を新たに痩せ我慢。
 設備もそうだが、今出来ることがあるはずだ。その提案をしなさいと盛んに職員の尻叩く、徐々にだが、その甲斐あって意識の変化も見えだした。正直全てが全てではない。何故か自ら発言しない者はいる。小さな組織であるが、100名近くの人間で自分の役割を認識し一丸となり、事に当たるということは言うは易いということに。
 でも決して私は諦めない。尚恵学園は全国に数ある社会福祉法人の中、特殊な背景があるかもしれない。今更言う事も無いのだが、神宮寺と観音寺という二つの寺の物心両面の全面的な支援を受けて今が有る。
 私の役割は、その3つの核の調整役、それともっとも大切に考えているのが、誰もが関われる風通しの良さをはかること。これも、徐々にだが良い方向に向いてきた。
 しつこいようだが、私の中に宗教への偏見は無い。その人が信じているものがベストだと思う、だから現実に様々な宗教を信じている人がいるのも確か。
 1宗1派に拘ると本来の姿と遠ざかる。そんな気持ちが私には幼児体験であるようだ。何か福祉と宗教に根っ子で共通するものをそこに見る。
 理想と実際の行動との乖離である。
 ただ福祉と宗教に求められるものは非常に近い。そのギャップを如何に少なくするかが我々実践の要である。
 その意味からしても”常在戦場”なる思いは、今に始まったことではないのである。
  党の責任ある立場の人間が”常在戦場”という言葉をだすこと事態、今までの日本の政治が如何にぬるま湯につかってきたかを証明します。貴方達は選挙に当選することがいつの間にか目的化し、次なる選挙まで一体何をするかという根本の問いに答えを持ち得なかった。数に頼ることが議会民主主義と勘違いし、自らの考えも出せない活動で何をもって有権者の思いに近づけますか?そこを良く考えて欲しい。
 

2018:・・・・・

人は多くの事を望みすぎているのでしょうか?
 自らを省みて、そう感じることが多々あります。ご冥福をお祈りしますという言葉には、重みがあります。追善・追福と此岸に残る人々が、死後の幸せを祈るのです。
 仏教やキリスト教の教えの究極の目的は、死後の安らぎであると思います。最愛の人を失った時の悲しみは、最大のもの。自らが不慮の禍に遭遇し、その時の苦しみはどうしようもない事をも知っています。
 いずれ自分がという不安は、誰しもが持っているのではないでしょうか。
 周囲の人々も、どんな言葉をかけて良いのか分からないのです。悲しみや苦しみを同じように感じる事は正直不可能だと思うからです。
 私が僧侶になって一番悩んだことがそこにあります。
 そして、・・・・・。
 釈迦の涅槃図というものがある事を知った時、何かを感じました。中央に北向きに寝かされた釈迦がいて、その周囲に嘆き悲しむ人々や動物が描かれています。それと対照的なのが穏やかなお顔の釈迦です。
 一切のモノが、無常・苦・無我であると説いた釈迦が自らの死:涅槃(菩提)をどう弟子達に示されたのか?一枚の絵がそれを表しています。
 涅槃という意味は死で煩悩を吹き消したという消極的な考え方ではなく、煩悩そのものが転化され、慈悲となって働くという積極的な解釈をとるのです。そこには智恵の働きが必要になります。智恵は教えられるものではなく、自らの体験からかち取るものだというのです。
 母親が幼子に乳を飲ませることが喜びとなるように、誰かの役になっているという実感が生きる力となると説いたのです。
 イエスの十字架がキリスト教の象徴であると同様に、自らの死が後に遺していく人々に生きる力と成りえるか?
その事が逝く者にとっては至高の願いでありましょう。
 そして、後に残る者がいずれ再会の時があることを確信し生きる覚悟をする。これが冥福を祈ることの本意であろうと思うのです。

2019:俯瞰図

著名な作家を評し、その特性は社会全体を俯瞰する巨大な視点と同時に、人間の精神の内部を精密に描き、その双方を鮮烈な形で対応させていく・・・・・云々とある。その作家こそ、私が挑戦し見事に打ち砕かれたオノレ・ド・バルザック、『人間喜劇』の著者である。
 俯瞰図(ふかんず)というものがあります。上から見下ろした図で、鳥瞰図に通じるものです。鳥が見たらどんな風に見れるか?
 バルザックが生きた19c前半には、宇宙を人工衛星は飛んではいない。あくまでも想像によるもので、深刻で根源的なテーマをすぐれて娯楽的に描いた。その作風に魅力を感じたのである。
 現代を俯瞰図で描くとすれば彼ならばどう表現しただろう。彼が足繁く通う社交界は当然様変わり、多分、魅力は感ぜず、好きな御馳走をたらふく食べて早々にお暇したに違いない。借金も豪放、食事も豪胆、好き勝手に生きた、その負債は晩年に結婚したポーランド貴族のハンス夫人の巨大な財産を食いつぶす結果となった。
 バルザックの魅力は何としても人生を心から楽しむ生き方にみてとれる。いかなる深刻な重苦しいテーマであっても彼によれば、薄笑いを浮かべてしまうのだ。彼には向日葵的な明るさを感じる。
 その後、私はバルザックほどの魅かれる作家と出会えていない。残念なのは、彼の壮大な試み『人間喜劇』が51年間という人生で完結させることはできずに中断せざるを得なかったことである。
 地球上に生きる人間の数は70億人という。グーグルにより地図検索をすれば、拡大縮小のクリック操作で簡単に自分の位置を見つけられる。航空写真は多少の時間差があって、リアルタイムの映像は無理なのだが、軍事利用の衛星写真ならば可能となった。
 人間一人一人をチッポケな存在と見るか個の尊厳という視点から侵すことができないものとみるか?
 だが、人間の今に至る歴史は、生命の尊厳を踏みにじるような悲惨な事象を繰り返してきたことを認めざるを得まい。
 大物と言われる政治家が勉強会とか言って多くの政治家を集め、何を血迷ったか危機を訴えた。またしてもこんな事をやって自分の力を鼓舞しようとするのか、そこに集まる政治家どもへ言いたい。貴方の眼は一体どこを向いているのかと。
 いつまでそんな事をやっていて良いんかい。権力者に擦り寄って内心穏やかならず、日本の政治の危機は、一人の総理の資質や能力の問題ではなく、議員一人一人の自覚の無さにあると確信する。
 これをみてバルザックならば何と言っただろうか?
 多分、小説の題材にするほどのものは何も無いと見向きもしないと私は思う。
 

2020:大寒

明日は、二十四節気の一、大寒に当たります。今日は関東地方にやっと恵みの雨が降りました。乾燥注意報の連続記録がどこまで伸びるのか気になり始めていた時だけに朝起きたら雨が降っていてホッとする思いでした。
 なんでもそうですが適度になって貰わないと支障をきたします。近年世界中で自然のバランスがうまく取れなくなっている。これが地球の歴史から見て周期的な変動範囲内ならば良いのですが、明らかに違っているように感じます。これは人間の力ではどうすることもできない。本当にそうなのでしょうか???
 私の周辺も今年は異常な感じがしています。年が明けて既に七件の悔みが連続してありました。かつてこんな新年を迎えた経験がありません。毎年、この時期は新年会などが入るので時間が重なってしまい、急に欠席するものも出てしまいます。
 昼食は大体、コンビニで買って移動中の車の中で食べる。これって胃にこたえますね。ムカムカして胃薬を飲みながらとなる。
 同じ思いをしている方も多いんじゃーないでしょうか。お互いにお身体を大切に。
 それと、ご都合主義というのでしょうかね。時々爆弾を落とさないと規律が乱れるように思っています。人間の出入りの少ない職場ほど、その傾向が出易いと思います。新しく入ってきた者が何を基準にするかというと先輩です。いずこにも、どうしようも無い人間はいるものです。何度言って聞かせても直ぐに忘れるタイプ、明らかに自分に甘く他人に厳しいタイプ、言う事は実に立派だが行動が伴わないタイプ。。。。釈迦10大弟子の一人周梨槃特「チューダ・パンタカ」の話を出すまでもないことですが、一芸に優れた所を見出して?
 私は時々爆発する。自分ではなるべく抑えてと思ってはいます。しかし、我慢の限界に達するんです。突発的に爆発するように思われているかもしれませんが、予兆はあるんです。今まで積み上げてきたもの。今回は大目にみようと何度かは我慢、・・・・これもいつまでも持たない。我慢ばかりしていると、結局、お互いに気持ちが離れていきますね。これが一番まずいと思う。
 そこで、ドーン!
 このやり方は決して誉められたものではない。釈迦がどうしようもないパンタカに一枚の布を渡し、掃除をさせたという物語。
 2500年の時が流れ、適度なバランスを保つことを非常に難しくしてしまった。それを感じます。
大寒を 肌で感じて 旅支度。 人生、何が起こるか分からない。その覚悟は、自分でやるしかないのである。
 

2021:人間の器

個の尊厳をもっとも判り易く示した言葉をあげなさいと言われれば、即、糸賀一雄先生の『この子ら 世の光』を私はあげます。日本の社会保障の仕組みの弱点は、「を」と「に」が逆転していることだと私は観じます。救貧や慈善という言葉が常に社会保障の周囲には見え隠れしているように思います。
 ここに「情けを売る」という偽善的振舞をどうしても見てしまう。公表された2010年度の生活保護総額が3兆3000億円で12年度の予算額は3兆7000億に膨らむそうです。
 国の社会保障と税の一体改革の議論の中で自然増を含め、この経費をどう考えどう変えようとしているのでしょうか?
 所詮他人事、敢えて言えば自己責任と一刀両断される、まさかそんな冷たい仕打ちはされないでしょうね。。。
 社会の仕組みを変えることは大変な事だと思います。全てが根っ子の部分で繋がっているからです。一つを変えようとすると関係する様々な法令を変えないとならない。根比べというのでしょうか何年もかかってしまい、その内、話題にも上がらなくなる。
 実はこの埋もれてしまう事案が膨大な量になっています。財源の裏付けが為されなければできませんでしょう。
 人間の器について。
 この場合の器とは、才能とか器量を言うのですが、この測定の方法に問題を感じています。世の中の価値基準が曖昧になったことが最大の原因でしょうが、我が田に水を引く事にばかり関心が向く人間がトップに立てば世は乱れます。イザコザが絶えないでしょう。
 少々、問題的発言をここで。
 近年進んでいる宗教離れ、その一因として僧侶の頽廃があると私は思っています。
本来の仏教がいま充分機能していない。自らの徳を公言して憚らず、法事の場に、高級車で駆け付け、玄関正面に横付けして何とも感じない僧侶。本来、無一物であるべきところ、全く反対の事を恥じらいも無く行っている現実を無視できません。
 どのような立派な話をしても、それが悲しみに引き裂かれている遺族の慰みになるでしょうか?
 この実態を宗団としてどうするか?答えを見いだせないでいるジレンマ。
 迷っているのです。でも、釈迦は迷いなさいと言っています。迷う程、真実に近づくと。これこそが生きている証だと明言しているのです。
人間は弱い存在だと思ってよい。いくら強がりを言っても、不安と悲しみをどうすれば良いのか分からない。いくらかでもその迷いを減じる道を示さないと何のための宗教なのでしょうね。
 これは社会福祉が事業家と言われる人達に占領されてしまうのと同じで、宗教が本来のあるべき姿から離れ、似非宗教が蔓延することと問題は共通しているのです。
 ついでにもう一つ問題発言。
 福祉関係者の中で自己PRを得意とする人がいます。例えば、専門的な知識を自認し、何も得意になって言い放す必要は無いのですが、他の人の話を遮ってまで自論を展開する人。事業の成功を規模や建物の豪華さで誇る人。
 私はこのタイプの人間を信じません。何のための福祉なのか?そのような人間といくら酒を飲み交わしても平行線を辿るのみ。人を見究める事が大切、そんな人と付き合っている時間などありません。
 

2022:欲得の渦

仏教に学ぶ。
 釈尊の没後、56億7千万年後に弥勒菩薩が現れ、末法の世を救うという信仰があります。今を生きる私達にすれば、何とも気の長い話でこれでは駄目だーと諦めるのが落ちです。仏教の末法思想をどう読み取るか?実はこれがまた大変に複雑で難解ときています。弥勒菩薩の上生信仰と下生信仰など後の時代に様々な展開を人間が考え出したもの、最終的には個人が信じるか信じないかという事に尽きます。
 何を信じるのでしょうか?俗に言えば”困った時の神頼み”、窮地にある自分を救って欲しいという願いです。でも、簡単にはそうならない事を誰しもが知っている。ならば、どうすれば良いのですか?
 仏教の考え方で「上求菩提 下化衆生(じょうぐぼだい げけしゅじょう)」というものがあります。
ここに一つのヒントがあると私は思います。その前に「自利利他」の考え方を紹介して。大乗・小乗と区分しますと、自らの悟りを開くことを目指す「自利」仏教が小乗で、他の悟りも一緒に求める仏教を大乗と説明されています。
 でも、これは一面ですよね。誰が主体となるかと考えた時、自分がとなりますから、決め付けはできないでしょう。これを”無常”や”無我”という考え方で説明されると、正直何がなんだか分からない。これが私の実感です。
 実は仏教の歴史を見てみると、この分からない状態との闘いの歴史であったと思います。仏教が諸宗派に枝分かれしたのは、当に何を根拠に生きていくかという一っ点でした。ですから様々な解釈が成り立ち、余計仏教を難しくしてしまったように思います。その意味では釈尊の元の教えに戻る事が理解するに一番の近道だと思うのです。
 近年、日本中で言われ続けている絆(きずな)の問題ですが、薄れてしまったと皆が感じ始めているからですよね。この言葉が巷に溢れています。我利我利亡者という人間の醜さ、社会が昔には有っただろう互助のこころを軽視し、自由という魅力ある言葉を使って台無しにした。そう私は思っています。
 企業の社会貢献とかボランテアという言葉が目立つ世の中は決して良い姿では無いと思います。”陰徳”に反し、やって上げているという押し売りです。ここに見返りを期待する不自然さを感じます。
 そうなれば、最早、心からの信頼関係は築けない。そうじゃーありませんか?
学校教育現場も迷っています。単に知識を得るための場で良いのだろうか?
 その不具合が世の中に溢れだしていませんか。原発事故をどう考えるか!既に地震発生から300日が過ぎました。
 原発に関わる様々な公的機関の実態が明るみに出て、誰ひとりその責任を取った人が出ない。知識レベルでは超エリートの人達の言い分が国民も恩恵を受けてきたではないか!という。
 でも、いま明らかになった事は、恩恵を受けて来なかった将来の子供たちにその負担を負わせて良いのかという議論です。
 社会保障と負担の問題も突き詰めていくと全く同じ、豊かさと安心が一体で無いことを認め、それに変わる日本の国の容を作り出す。これが政治家の役目、そのことを避けて、何を議論しているのでしょうか?
 悲観的に見れば、日本の中枢が欲得の渦に巻き込まれ、自分さえ良ければという輩が多過ぎると思います。
今の日本にこそ、弥勒菩薩が早く下生され、算盤づくで打算的な連中に鉄杭を打ってもらいたい。同時に自分自身も大いに反省しなければならないと今感じています。

2023:挑戦者

16歳4カ月のオランダ人少女、ラウラ・デッカーさんがヨットで世界1周の快挙を果たしたというニュースが読売新聞で紹介されました。
 数週間前に地中海で豪華客船が座礁し、無惨にも横たわっている船体の画像が全世界に流された。16歳と言えば高校生の年齢、その少女が夢をかなえたくて途中で止めようとは思わなかったとコメントしている。一方の客船の船長は、海の掟に反し、自分は早々に避難ボートに乗り移って電話をしている。その内容が呆れてものが言えない。
 船の旅は、もっとも贅沢で豪華な旅です。至れり尽くせりで様々な催しが用意されているとか、近年は船がどんどん巨大化し数千人の乗客を乗せ世界の海を時間をかけて周遊する。なんとも羨ましい限りです。しかし、その船長が今回の事故で取った行動が明らかにされるにつれ、一番危険な旅ではないかと思ってしまった。
 一人で快挙を成し遂げた少女は自分の夢を適えたかった。一方の豪華客船の乗客は、一度は優雅な旅を経験したいという夢があったと思う。同じ夢でも大きく違います。
 少女には勇気を頂き、一方の乗客には正直何も感じません。これ正直な気持ちです。
 昨日、こんな事がありました。今年卒業予定の学生が就職の面接に来られました。私と話している中で、彼は社会の仕組みについて自論を一気に話してきました。今の日本社会の格差でマスコミはあまり報道をしないけれど、明らかに貧富の差があって、裕福な家庭に育った子供は英才教育を受け、有名大学に入って良い会社に就職できる。一方・・・・・・・。
 自分は後者に入る。学生時代にはずっとアルバイトをしながら、親の負担を軽減したいと考えてきた。奨学金も貰ったので社会人になって先ずその借りたお金を返そうと思っている・・・云々。
 世の中には、同じように頑張っている若者も多いはずです。
 でも、私は何か物足りなさを感じました。その事を1っ冊の本をあげることで伝えたかったのですが、果たして上手く通じたかどうか自信はない。
 人間の一生で幼児期から青年期までの体験は大きい、その中でも育った家庭環境が一番かもしれません。自分の置かれた立場をどうすることもできず、ただ、不満として感じながら生きてきた。そこに夢を描けと言われても正直無理なのかもしれません。
 人間は自分に正直に向き合うと弱気になるんじゃーないだろうか?できれば自分の安心できる場に閉じこもっていたい。
 その方と1時間位話していて、そんな印象を受けました。

2024:初護摩

恒例の1泊行事を大洗で行い、朝早く土浦に戻った。昨夜降った雪の為に高速はチェーン規制、速度を控え目に安全運転、途中何度かスリップマークが点灯、道路が一部凍結している。
 同室者のイビキに悩まされ、睡眠不足もあって、頭が冴えない。神宮寺本尊・地蔵菩薩の初護摩は毎年1月24日に行っている。坊さん3人で小じんまりと行う行事だが、近隣の奥さん達が大勢集まってくれるから、止める訳にはいかない。
 火災報知機を短時間一部止めて行う護摩、煙を探知し、尚恵学園全体に非常ベルがなるのをおさえ行った。
 「神も仏もあるか?」という話から始めた。昨年と比べ誰もが一瞬にして過ぎ去った1年を思い起こすことすらできない。ただ、誰もが去年に続き、ここにいるということは、確実に毎分60〜70回心臓が自分の意志に無関係に鼓動していたからで、それが365日間とすれば、その回数はどれ程になるのかには関心が無い。
 1年の間には様々な出来事があったに違いない。日本中が驚いたのは3月11日大震災、それ以外で大切な人が亡くなったり体調を崩したり、仕事が上手くいかなくなったり・・・と嫌な事もあったろう。
 私は神も仏もあると思うです。それは自分の利になるばかりではないのは確か。むしろ自分をどこかで見ているという存在感覚。悩みや悲しさに苦しんでいる自分達をどこかで有りの儘に見つめている。そのような意味で神や仏はいると思っているのです。
 寺の行事を終え、衣から服に着替え、今度は常磐線で水戸に向かった。5時までに某団体の新年会に出席するため。神立駅に車を置き、電車で行く事にした。駅の改札口に貼り紙があって、人身事故のため60分の遅れという表示、
何か新年会に向かう自分にその貼り紙が重くのしかかる。日本で公式に発表される自殺者の数は毎年3万人を超す、実際はその数倍はあるだろうと言われている。生命を取り止めた人数のカウントをすればである。
 今朝、新聞でブータンへの旅行記事を見たばかりだった。自ら死を選ぶ人達の気持ちを察することはできないが現実の生活に満足していないことは確かだろう。
 仕事柄、私は何件かの自死者の葬儀を行ったことがある。異様な雰囲気があり、下手な話はできない。遺族の複雑な思い、それに本人のこと、この国にいつしかそのような悲しむべき事が無くなる日が訪れるだろうか?
 結局、人間それぞれが違う。寿命もマチマチ、果たして悔いの無い人生ってあるのだろうか?仏教の目的は解脱、煩悩からの解放である。108煩悩というが、決してそれらが別個に整然と一人の人間の中に存在するのではない。混在するのだ。
 一つの欲を消し去っても新たな欲が芽生える。だから際限無く繰り返される。そのターミナルが自分の死???
 そうとは思わない。生き切ってこそ、為し得ることだ。福祉はその事とアンチノミーではない。
 日本のトップリーダー達が強調する経済の発展に異議あり。果たして経済の豊かさが本当に最優先の課題なのか。これにはマヤカシがある。何をもって豊かさかという総括と検証がなされていないから!
 この構図は誰しもが気づいている事。変えようとする力学よりも我が道を歩むという傾向が強まっている。
 時計を逆戻し、大洗では好き勝手に大いに吠えた。自論か他論か関係なしに30人ばかり入れるスナックは貸し切りで至る所に話の輪ができて時間に無関係に弾む。
 この熱気を何かに向ければ必ず結果がでると確信する。茨城の県民性 or 文化?
・・・・ 初護摩の煙に託す 夢一輪・・・・・
 

2025:20年・・・・

”20年に15人”
 上の数字はなんだとお思いでしょうか? 堺屋太一氏の言葉を借りるまでもなく、想像はできますね。なんと過去20年で15名の総理大臣が変わったという日本の姿、私など半分も名前がでてきません。これを異常と言わずして何と言う。
 そして、この20年間にドンドン増えたのが国や地方の借金。その間様々な事がありました。無駄といえば、何と言ってもかんぽの館ですか?他人の金に甘い典型で豪奢な殿堂を至る所に造りましたね。それが今どうなっていますか?
 日本人は仏を造って魂入れずを懲りもせず長年続けてきたのだ。
 徳川幕府は慶長8年(1603年)から慶応4年(1868年)の265年間続いた日本史上、特異な長期体制、最後の15代将軍は水戸藩出身の徳川慶喜。それが平成の世になり20年という短い期間に野田総理は16人目です。
13分の1という期間に同じような数のトップが変わったことになる。これはもう、いかなる解説も通じない異常な事態。歴史を繙けば日本は近代になってから2度の敗戦をきしたという。江戸幕府の崩壊、第2次世界大戦の敗戦、そして今が第3の敗戦(堺屋氏)だと言う。
 第1、第2の敗戦の後日本は体制を大きく変え、敗戦以前に増した復興をなしとげ飛躍した。果たして今回はいかに?
 ただ、今の政治の動きをみていると関心事が目先のことばかり、将来を展望したコペルニクス的改革など到底望めない。それは硬直した仕組みを温存し人間だけが変わるからだと言う。
 私も全くの同感だ。ユーロ圏の問題が片付けば、次は日本、金利の上昇が起これば国の借金は利息返済さえ覚束ない。長年続くデフレがインフレ基調に変わった時、どうなるか?消費意欲の云々ではなく、物が買えない状況になるのではないだろうか?超インフレ時代の到来など題名にした書籍が急に書店に並び始めた。
 第1の敗戦の幕末〜明治維新。江戸幕府が起こったのは、戦乱の世を収束するという大義があって、庶民の後押しがあった。200年以上の鎖国政策により、国内は平和になれたが、その間に世界が変わった。外国の傀儡戦争を受けて大政奉還へ。
第2の敗戦は、世界の列強国に立ち向かい拡大路線を直走り、補給路を閉ざされ止むなく敗戦となった。現代は、より複雑である。国内問題だけではなく、世界を相手にした様々な課題に為す術が見つからず、内部崩壊寸前と評される。
ウーム。
 今の状況を打破するには、小手先だけの手法では刃が立たない。当然ソフトランデングなど望めない。何せ問題の先送りの結果、対応が後手後手になったのは万人周知の事実。その覚悟と勇気が今の政治にあるか!お手並み拝見では酷いだろうよ。
 日本が世界から相手にされない国になる。私はそれでも仕方がないと思います。所詮、他人事と考える人間が多過ぎますから、一度ギャフンとされないと目が覚めない。甘やかし過ぎだと思います。全てが全てではないのですが、あまりにもぬるま湯で素っ頓狂が常態化している。
 自らの意見を堂々と言えない政治家がその最たるもの、貴方は何の為に政治を志したのよ?まず、これが一番の改革。
次に公僕たる人達の大いなる自省を望む。最後に市民たる我々一人一人が権利と義務を再確認すること。
 外国に良い格好しなさんな!出来ない事は頭下げ、無理して金をばら撒く必要はない。それで孤立する?
 仕方がないでしょう。国を足元から立てなおすのが先ですよ。脆弱な土台に何を建ててもダメ。
 過去、20年は長いのか短いのか?
 そして、良い事も悪い事も大阪から始まった。そこでの動きがウネリとなり、日本の硬直した体制改革実現の試金石となりうるか!大いに期待し見守りたい。
 

2026:敬天愛人

”敬天愛人”とは天を敬い人を愛すること。これぞ水戸学の精神である。吉田松陰や西郷隆盛への思想に通じ、近年では京セラの稲盛会長の経営哲学書などで目にされることも多い。
 ”愛民”と同じ考え方である。これが政ごとの基本であることに異を唱えるものはいない。幕末、水戸藩は大いに揺れた。天狗党などの過激派は尊王攘夷を決行すべく挙兵、後の維新の三傑との関係でその存在を知らしめた。
 平成の世になり、風雲急を告げるとは大行か?三月に石原都知事新党結成のニュース、亀井氏や平沼氏など嘗ての自民党の長老が画策し、所謂、保守系議員の結束を図るとか、これは表向きで狙いは橋下氏の大阪や名古屋との連携である。
 多分、言行一致儘ならぬ今の政権に愛想を尽かし、彼ら流の憂国の情が腰を持ち上げた。今後、どのようになるかは不透明、またもや小沢氏がこれに絡む事態になれば、訳の判らぬ政争が激化することは間違いなし。
 庶民はこの動きを指を銜えて見ていることしかできないのか!それは決して無い。ここにきてまで自らの権利を放棄するような日本人であったとしたら本当にこの国はお終いだ。
 見究める力を信じたい。
 敬天愛人の天をどう考えるか?環境破壊や原発事故、格差の拡大、自殺者問題、・・・・・課題を挙げれば切りがない。しかし、これら全てが今を生きる我々が作ってきたものである。個人主義や自由主義、紆余曲折の歴史を重ね、我々が選んできた生き方だ。その限界を直視し、それぞれが何ができるかを問われている。
 一人の人間の力には限界がある。だからこそ結束しウネリとなることが重要だ。政治の動きでやっと地方から小さな芽が出始めている。何かを変えようとすれば守旧派なる反対者は必ずいます。これもバランスの問題で、確実に守旧派なる人々は利益を享受した勝ち組だ。貧乏くじを引かされた多くの人達の不満が果たして一枚岩となって一方の運動体となりうるか。
 国会が始まり消費税議論を聞いていて感じたこと。自民も民主も全くズルイ。実施時期を先延ばしにするから公約違反でないというのもマヤカシだ。即解散を叫ぶ野党だって、それじゃー自分達が政権をとれば消費税はどうするつもりかの言及は避ける。
 議論そのものが上滑り、しっかりと腰を据えた審議に程遠く、依然として誹謗中傷の泥仕合。言っている事が抽象的で非常に分かりづらく視点が完全にズレている。
 今の政治に期待できないとすれば新たな動きに票は流れる。これが常識である。
 日本人はある意味で賢い。世も世ならば幕末の時代の再来だってあり得る話し、そこを穏便に改革の時を待つ。
 一番、真っ当な意見をもっているのが国民だ。
 政治不信を起こした責任は、自覚なき人間を担ぎあげた人達の責任。神輿に乗る人の選択を間違い、一生懸命担いだり草鞋を作る人達がいたからこうなった。
 それが草鞋をつくる材料も無くなって、やっと神輿に乗った人間の本性に気付き始めたわけである。
 金属疲労を見過ごしていくら立派な建物を作っても倒壊を免れることはできません。
 

2027:孟母断機

これから望まれる人間はどのようなタイプ?知識から入るのではなしに、自ら実際に汗をかき、恥を知って得た処世術を弁えたもの。
 特に情報を得る手段が多様になり、その量も膨大で、現実には見究める目が無ければゲーム感覚で到底自分のモノにすることなどできません。
 昨日、私が師と仰ぐ”先生”を訪ね、奥様の手料理を御馳走になり、長い時間お邪魔させていただいた。この方は独学で生きてきた私の知る希な人である。
 何気ない話をしながらも、蘊蓄を感じる。先の戦争を通じ、確信を持っているのは、日本人は骨抜きにされたと言い切る。
 資源の無い国が生き伸びるためには補給路を断たれれば自滅する。それと教育、戦後65年が経ち、世代の交代を繰り返す中で気骨のない人間ばかりになって今が有る。それが当にアメリカの思う壺、ジワリジワリと効いてきたと話された。
 私が今日の国会中継をどう思いますか?と尋ねると、一刀両断、「こんな馬鹿もの、俺にだってできる」と不愉快な顔をされ、それ以上何も話さなくなった。
 その後、自分の若い時分からの付き合い人の遍歴を語ってくれた。聞き及ぶところの知識だが、青年時代、師は戦争に反対でどうすれば阻止できるか悩んだという。
 その戦中戦後の記憶は実に鮮明で、私は人に恵まれたと言う。時々、お邪魔して断片的な事は伺っていたが、住井すえさんとの交流や仕事上で知り合った先人の名を懐かしそうに話された。
 昭和の時代に日本の教護院や重心施設・知的障害施設の礎をつくられた著名な方達との交流もあって、自分は何だか知らないがその方達から可愛がられたと懐かしむ。
 私はこの方の前だと自分が素直になる。否、格好を付けても見透かされていると感じるのだ。
 日本が自ら育て保ってきた文化をなおざりにしていると話すと、何を言っているのかと怪訝な顔、「実はブームに乗って手を広げるとどうなんでしょうね」
「身の程を知らないと全てが崩壊するね」と。それに今の福祉の実態を訝しむ。ブームに乗り、いい気になっていると。
 4時間位、話しをしただろうか?今回は本は借りないでお邪魔した。
”孟母断機”(もうぼだんき)という4字熟語。
 これは孟子の母が我が子を戒めた言葉である。教育現場の問題は、根を育てず幹を太らせようとしていること。あまりにもスピードと効率を優先すると骨抜きの人間が生まれる。
 そのような人間がいくら集まっても大した事はできず、寧ろ組織としては弊害となる。それを切る勇断もできず、信頼関係のない皮一枚の繋がりで一緒に仕事を行っても無駄。
 その最たる見本が今の政治だと。
 老人対策の大きな歪み、それは老人を負の対象とみること。どのような豪奢な建物を用意されても、どうでしょうか?
 事業者が老人を選ぶ時代、裕福な老人を最優先する。これが人倫の大道ですか。
 澄み切った夜空を見ながら帰路に付く車の中で師の言葉を思い出す。
 骨抜きになった日本人、それは堂々と大路を歩けない人間が増えたということを突いた言葉だと思った。

2028:海外流出

企業もスポーツ界も海外流出が顕著になった。野球から始まり、サッカーなど日本を代表する選手がドンドン海外のチームに移籍、この流れは暫くは止まらないだろう。企業も東南アジアを始め南アメリカなどの国々に進出、新たな問題と直面している。解説は必要無いと思うが安い労働力や為替変動への対応で流出が加速した。海外では優秀な製品が出来ないのではという心配は日本人が技術指導し全ての機械を持ち込むから格差は減少し、消費者は企業名は気にするが生産地までは気にならなくなっている。一方のスポーツ界、自分の力を本場で試したいという思いが一番、それに活躍している選手の高額な報酬に魅力を感じて流出。
 これをグローバル化と言うのだろうか。地球規模の観点に立つというのは聞こえが良いが、環境汚染などは一向に進まずチグハグさは払拭できない。
 その最たるものが放射能汚染、野田さんが年末に復旧レベルが?段階を終息宣言し、物議を醸したが、その後心配事が出るわ出るわ、私の住む土浦もいつの間にか除染地域?に入ったようで市では対策室を設けて今後除染を実施するという。
 新たに福島浪江町の石材を使って放射能レベルが高いという問題が明るみに出て不安が全国に散らばった。その材料を使った新築家屋をどうするのか?その補償は東電がするのか否か、最悪のシナリオは泣き寝入りするしかないのだろうか!
 この期に及んでも政府は原発技術の海外輸出を推進し、既に契約を締結した国もある。
アメリカではマイクロソフトのビルゲイツが安全な原発の研究に協力するというニュースが入った。果たして安全という言葉が有るのか無いのか、検証されずに曖昧にされている。
 一方、国内の動き、消費税の議論だが、表と裏の事情が顔を出す。議員は次の選挙にどう有利に働くかに最も関心が強く2枚舌を巧みに(?)使う、言い訳ばかりが横行し日和見を決め込んで最早、政党色は無きに等しい。
 こんな日本に見切りを付けて海外に新天地を求め飛びだす人も増えるかも知れません。ただ、言える事は生き物は例外なしに帰巣本能を持っている。終の住処を外国と決するには相当の壁がある。
 堺屋氏が3番目の敗戦と評した今の日本を冷静に見た時に、世界でも他からの民族が入らず一国の統治でこれだけ長期に続く国は無い、島国という特殊性は有るにしてもそれが為し得た日本が私は大好きだ。
 近代に入り世界の動きに翻弄され右往左往している姿は否めない。経済の豊かさという目くらましにあって、地に足が付かない人が増えてしまった。国土の広さや資源の量を比べれば、世界には大国が存在する。そこと対等な勝負をしようとするから無理が出る。そんなに走り続ける体力が有るはずも無く、言葉や数字のマジックに騙されて自省することを避けてきた。今こそ本当の意味での日本の進むべき方向を皆で探る時だろう。この世に幸福を願わない人間はいない。
 ”幸福”とはどんな事を言うの?と問われると即答できない国民は、ある意味では不幸である。子供たちの目の輝きや心の純粋さを失ってはなるまい。
 果たして迷っている大人達の敷いたレール上を走らせて良いのだろうか?
 子供たちの自主性に任せるべきで、それが出来るようにすることが教育の使命だ。
 いま、我々大人達が行っている事は、子供たちがレールを敷きたいと思ってもどの方向にレールを伸ばしたらよいのか判らないような事を強いている。
 

2029:シロアリ

ドジョウとかシロアリとか場違いの攻防がお盛んになりました。これは国会の中での話????
 橋下大阪市長へのラブコールが水面下で急に起こっている。代表質問で言った言わないの水かけ論は毎度のことなれど、ドジョウに関しては自ら言い始めたことでなかったでしょうか?
 今、地方からの改革の先頭に立とうとする橋下さん、メデアの関心が名古屋から大阪に移り、本丸の国会は解散含みの政局で一段と混迷、そこに突如シロアリが登場したのです。
 シロアリは嫌われモノ、床下に入りこんで土台の木材を食い散らかし、建物の耐久力を弱めてしまう。
 橋下市長に擦り寄る者どもをシロアリに例えた野田総理の発言、みんなの党の渡邉代表がそれを自分達の事を言ったとご立腹。
 シロアリはモノの本によると、真社会性の生物という。それは不妊階級があって、独自の階級社会を築いているという。
 生殖虫は羽がある。ツガイで飛んで行って床下などで猛烈に繁殖し、悪さをする。働きアリと兵隊アリには眼がないという。
眼が何故ないのかは七不思議、自分の役目は只管生殖アリの為に尽くすことを使命と思っている。多分、その事に疑問も感ぜず造反して親分アリの転覆を謀るなど考えもしない。ここがちょっと人間社会と違うかも。
 シロアリも自然界の生態系では有用な役目もあるそうで、セルロースを分解する働きをもつ。分解してどうなのかという専門的な事は知らないが、どうもシロアリは好き嫌いがハッキリしていて見向きもしないものが多過ぎるそうで精々1%程度の貢献しかしていないそうだ。過半数の賛同を得れば大したものだが、そんな事は関係なし。
 その辺の事を充分理解した上で格調ある国会内でのシロアリ攻防なのかどうか?
 あまり関心しないのだが、自らをドジョウと名付け、颯爽と登場したまでは良かったが、そう言われると近頃本当にドジョウに見えてきた。最近、ちょっとお疲れのドジョウという印象は否めない。
 シロアリ??ね。なんだかそんな風に言われると全てが当てはまる永田町、バッジは付けたが眼の無い議員が多過ぎませんか?寡黙に徹するのはよろしいのですが、それは保身の為?それとも誰かが怖いの?
 それに堂々と表で活躍すればよいものをヒソヒソと隠れ家で密談するもんだからシロアリとピッタンコ。
あれはソマリアだったでしょうかね、砂漠に作る巨大な蟻塚、なんだか気味が悪い存在だ。
 どうでも良いのだが、擬態語や擬音語を使うのを競うのではなしに政策(アジェンダ)で勝負してくれませんかね。
 今の状況は、全てが全て行き詰っているように思えて仕様がありません。こんな時だからこそ実績で勝負できる人物に票が集まるのは至極当然のことだと思います。
 それと我々庶民も知らなかったではすみません、今こそそれなりの覚悟を持つことが大切です。

2030:感覚麻痺

今年の寒さは近年にない記録的なものとなっている。特に日本海側の東北から北海道にかけ大雪をもたらしている。日本全体を見て関東平野だけが乾燥し、気温が低く、乾いた寒風が吹きすさび風邪などで体調を崩す人も多い。昨日は尚恵学園で何ヵ所かの水道管の破裂騒ぎがあった。簡単な修理は自分達で行う。
 今日で1月が終わり、何となく慌しく流されて過ぎた。新年会への出席をいつもより自粛し、早々にお暇してきた。総じて活気がなく、遠慮がちの集いが多かった。一番の原因は、先の見通しがつかないこと、国の存在そのものに不安を感じているからだ。
 2日間、衆参の代表質問があった。事前に質問内容を知らせてあるからだろう一方通行の差し障りの無い回答に終始した。
 専門委員会に移れば多少の論戦は期待できるのだろうが、私自身は強い関心があると言うよりも冷めてしまっている。
 感覚麻痺状態。
 国会審議に刺激が無いというのか心が動かないのだ。足元を見渡せば課題山積、正直どこから手を出して良いのか判らない。
 時代が便利になった事は理解できるが、その反面ネット社会のモラル無き侵攻に為す術が見つからない。インターネットを始めた頃、迷惑メールに閉口した。1日に何十本という得体の知れぬメールが送られてくる。自動的に迷惑ファイルに入るようになってはいるが、相手は毎日差出人名を変えて送るから、仕分けができない。嫌ならばインターネットを止める他ない。
 自民党参議院の某議員のHPにポルノ動画が侵入したとか、これは新手の妨害である。ただ、この先生に誰しもが不快感をもっていたのではないだろうか?テレビ放送を意識しているのかどうかは知らないが、大声でヤジを飛ばし、聞いている者には迷惑千万、どうにかして欲しいと前々から思ってはいた。
 居眠りや談笑している先生もいただけないが、不必要なヤジも顰蹙を買うだけ。被災地の人達がどう感じるかその感覚が双方に麻痺している。
 斯様に私には腹がたつ事が有り過ぎる。議会制度の是非を問う前に議員一人一人の品性を疑う。
 結局、収まるところは他をトヤカク言うよりも自分の事をしっかりしようと思ってしまう。これで良いのだが、なんだか知らないが座りごこちが悪い。どうしてだろう?
 山田風太郎というユニークな作家を紹介した番組があった。NHKアーカイブスである。
 彼は膨大な量の日誌を残している。その中で昭和40年代の高度成長期前後の記述が実に面白い。敗戦によって大部分の国土が焦土とかし、復興を国民一丸となって突き進む。そんな日本を一歩引いて見つめている。彼の予測が今、現実に証明されているから凄い。
 彼は自ら戒名を作った。・・・・風々院風々風々居士・・・・・・。八王子にある墓地に眠っている。
 欲得に翻弄され自分を見失う時代にこそ、風太郎のごとき視点を持ち、次なる時代への各自の責任を果たしていく覚悟が一番必要だと私は感じている。感覚麻痺を自作自演できる人間は凄い。凡人は言われて気づかず、そんな輩が大部分だから。